仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2010.10.26
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カテゴリ: 雑感
このニュースで、NHKの報道の仕方が気になった。耳かき店従業員と祖母の殺害事件だが、検察が死刑を求刑、弁護側はそれは「重すぎる」と主張、裁判員たちは判決に向けて「重い」判断を迫られる、とアナウンサーは語る。(カギ括弧は当ジャーナルで付した。)

まず表面的な言葉の問題だが、これではまるで裁判員が死刑を決定すべしと応援していると受け取られかねない。NHKは誘導する意図などないのだろうけれど、せめて「重い判断を迫られる」は避けて欲しい。

「極刑にすべきかどうか判断するという重要な立場に直面した裁判員たち」と報じたいつもりなのだろうが、そもそも、何故にそこまでして裁判員をクローズアップしなければならないのか。もちろんNHKだけではない。もともと殺人事件の解明という大衆の好奇心を誘うテーマである以上に、裁判員制度がスタートして、いつあなたも我が身ですよ、というシチュエーションが一般受けするに違いないと、報道側にとっては魅力的なのだろうか。

裁判員にいちいちインタビューすることは明らかに行き過ぎだと思う。裁判員の心理的負担や制度そのものの課題などを解説したいのならば、個別の事件とは一歩も二歩も引いて、客観的に報道すべきだ。なのに、そんな報道をあまり聞かない。魅力的な報道なら同時性が大切なのだろう。

それと、例によって被害者遺族による被告人に極刑を、というコメントを付け加える。これは本当に再考すべきだと思う。大衆心理をかき立て国民的意見を誘導しかねないことで、結果的に公正な裁判を歪めることになりかねない。いや、事実をそのまま報道しているじゃないか、とマスコミは言うかも知れないが、それなら加害者の事情も報道すべきが公正なはずだ。むしろ、公正を期することができないのだから、判決直前に遺族の感情をクローズアップするようなことは自制すべきでないのか。

かつては新聞はもとより、テレビ報道もそんなにイエローでなかったと思うのだが、うがって言えば、裁判員制度という大衆への架け橋を手に入れて、大衆迎合的なマスコミの本性が解き放たれてしまい、理性を見失ったのだろう、とも思える。

同じ状況が、臓器移植法改正後の、臓器を追いかけるパパラッチだと思う。TVマスコミにとっては、臓器を提供する側の家族の声がどうしても欲しい。悩みや決断など、主語となる像を見せたいのだ。しかし、そんなことは移植医療にとって全く本質でない。もちろん、医療側はドナーに対して敬意を払い丁寧な対応を行っているはずだが、臓器移植はレシピエントをどう救っていくかの医療であり、そのための法改正であったのだ。

ドナー家族の悩み、制度や体制の不備など、それはそれで当然報道して欲しい。大事なことだ。しかし、それは「主語」を抜いてこそ客観的で価値のある報道になるはずなのだが、どうしてそうならないのだろうか。


裁判員裁判、死刑制度の当否、臓器移植、さらにこれらを巡る報道のあり方などについて、少しく意見はあるのだけれども、整理する時間がない。





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最終更新日  2010.10.26 04:31:21
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