仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2012.09.29
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現在は「名字」と「名前」で表記する。これを「姓名」ともよぶが、もともと「姓」と「名字」は別物である。

1 姓

は5世紀末ころ天皇が自身に従う豪族に与えた「姓(かばね)」が始まり。朝廷における世襲の職業や地位、家柄を表すもので約30種類が存在する。

(具体例)
世襲の職業に → 連(むらじ)、造(みやつこ)
有力豪族に → 臣(おみ)、君(きみ)
官名が姓に → 国造(くにのみやつこ)、薬師、宿禰(すくね)


姓は朝廷が各氏族や個人に与えた位を表すもので、天武13年(684)には「八色(やくさ)の姓」が制定され再編整理された。その目的は序列を表すことにあった。しかし奈良時代以降はほとんどが「朝臣」となり形骸化して意味のないものとなってしまう。

2 氏

同じ格付けがすべて「連」と呼ばれるため、区別として姓の頭に親族集団や血筋を示す (うじ)を付けて呼ぶようになった。氏は居住地名や朝廷における職業名に由来するものが多い。皇族の身分を失う際に与える場合も。

(具体例)
地名由来 → 蘇我、出雲
職業由来 → 物部、犬養、秦
天皇から賜る → 藤原、源、平、橘


かくして「物部(もののべ)連(むらじ)」や「平(たいら)朝臣(あそん)」と呼んで個々の区別を付けた。これが 氏姓 である。氏姓は最初天皇に従う者が名乗り、広がって7世紀末には庶民にも氏姓が与えられるようになった。

大化の改新では、豪族の氏姓を登録させ戸籍を作成した。戸籍調査は庶民に対しても行われ、その際に庶民にも氏姓が与えられた。ただし、支配階級との区別のため庶民用の氏姓を付けたという。庶民は氏姓を好まず使わない人も多かったようだ。

よく「源平藤橘」と並べられるが、歴史に登場する順は、藤原、橘、源、平である。他にも氏を与えられた豪族がいる中でこれらを特別扱いするのは、強大な権力を誇ったことともに、その氏の広がりが名字の誕生につながっているから。平安末期にはこの4氏を名乗る者がほとんどの状態となり、名字の登場を促したのである。

3 名字

平安時代も末になると出自を同じくする者が各地に増え、例えば平安以降「朝臣」を多くの豪族が名乗ったため同じ氏姓ばかりが増えた。

そこで氏を更に区別する必要から、個人を特定するものとして、在地領主が居住地や官職に由来する名称を名乗りだした。例えば領地の地名をとり、「何処何処の太郎」と呼び、やがて自らそれを名乗るようになるのである。代表的な例が平安末期武蔵国を拠点とした武士団「武蔵七党」とされる。横山党(主な名字は横山、海老名、愛甲、大串など)、猪股党(猪股、人見、甘糟、岡部)、野与党(鬼窪、西脇、柏崎)、村山党(大井、宮寺、金子、山口)、西党(由井、平山、小川)、児玉党(児玉、本庄、塩屋、小幡)、丹党(加治、勅使河原、安保)。各党は数十余の家で構成され、互いの領地に干渉しないことを確認していたが、自領を示すために地名を名乗りあったと言われ、最初に名字にあたる呼称を用いた事例とされている。

これが次第に広がり、14世紀頃に家を継承する名称として定着したのが 名字 である。そして、フルネームとして「家」を表す 名字 と「出自」を表す 氏姓 の両方を使って表す方式ができた。
(具体例) 織田( 名字 )上総介(官名)平( )朝臣( )信長

源頼朝は、自分と主従関係を結んだ武士の領地を保障し、これら御家人の特権として家紋と名字を与えた。名字をもって御家人と下級武士を区別したのである。名字はすでに平安末より武士領主に使われており、地方に基盤を持つ彼らは、領主権の主張も込めて、領地名に由来する通称を用いた。頼朝はこれを公式な名字付与で統制しようとしたのだが、西国などでは勝手に通称を名乗るなど、幕府の思惑は外れ、名字が広がることとなった。鎌倉幕府は惣領制で惣領に一族を統括させたが、室町時代になり庶子分家の小領主が増えると彼らは領地内の農民に名字を与えて味方に付けようとする。名字を武士の特権としたい幕府は名字禁止令を出すが効果はなかった。

室町時代になると武士の間では後継ぎだけが名字を継ぎ、庶子は別の名を名乗らせた。無用な家督争いを避けるためである。しかし足利家8代義政の家督争いが応仁の乱に発展したように、幕府の衰退の一方で農民の台頭により名字も農民にまで広まった。村落を治める小領主は、力をつけて寄合の合議で自営自立の体制を設けた領地内の農民を味方につけるため、自分の名字を与えるなどの懐柔策をとったからである。

秀吉は兵農分離を打ち出し、刀狩り、人掃令など、農民からの成り上がりが生まれない社会をめざした。家康はこれを受けて、武士のみを名字帯刀御免(江戸時代の表記は「苗字帯刀御免」)の対象として、農民から名字を取り上げる。それまで多くの庶民が名乗るようになっていた名字を公式に名乗ることは禁じられ、その代わりに、基本的に自由とされた家紋が社会に根を下ろしていくことになる。

4 明治の改革

このようにもともと名字と姓は異なるものであるが、現代はともに「家」を表す名字を意味する言葉として用いられている。

明治政府は明治3年(1870)平民苗字許可令を布告。しかし多くの人はすぐには名字を名乗らなかった。実は許可令の背景には税制と兵制の確立のために戸籍整備が急務だったことがあり、政府は明治4年に戸籍法を発布して翌年実施(壬申戸籍。調査結果3311万人)、名字の登録を促した。実名と通称の併記は禁じられ、名字の勝手な変更も認められなくなった。現在の「 名字 プラス 名前 」の形が公式になったのもこのときである。同居する家族が別々の名字を名乗るなど混乱があったが、以前名字なしとしている者が多かったため、政府は明治8年に平民苗字必称義務令を発布し、祖先の苗字が不明の場合は新たに設けるべしとし、名字の公称許可から公称義務化を明示した。

なお、そもそも「家」の概念誕生には結婚形態の変化がある。古代日本は夫が妻を訪ねる通い婚が普通であった。夫婦は同居せず子は母方集団で育てられる。平安末以降、嫁取り婚が一般的になり夫婦と子どもは同居するようになる。その結果、父子で代々財産や地位を継承することとなり父親を長とする「家」の概念が生まれたのである。

5 氏、姓、名字(再整理)

姓で区別できずに氏をつけて(氏姓)、さらに区別のために名字を使うようになったことから、戦国時代には次のようなフルネームとなった。

徳川(= 名字 )右大臣(=官位)源(= )朝臣(= )家康(=名前(実名))

さすがにすべてを呼称はせず、また名前を呼ぶのは失礼にあたるため官位や通称で呼び合った。

(1) 名字
家の名。直系血族を表す。出自を同じくする者が各地に増え、「氏」を区別する必要から、在地領主が居住地や官職に由来する名称を名乗ったことに始まる。
(2)官位
身分や家格を表す位。幕府や朝廷の任命で取得し、武士の序列や権威づけに使われた。戦乱期は勝手に自称したが、徳川幕府は公式に官位名を整備。これで互いを呼び合った。
(3)
親族集団や血筋を表す。地名、職業に由来、また、天皇から賜った。
(4)
朝廷が各氏族や個人に与えた。奈良・平安のころは「朝臣」がほとんどとなり形骸化。平安中期に名字が多用されるようになると、姓を称するのは次第に廃れた。
(5)名前(実名)
元服の際に付ける。名乗(なのり)とも。父親等の一字を用いることが多い。通常は口にせず、通称(源九郎など)や字(あざな。元服の際に本人の好みで付けられる呼称)で呼んだ。通称は、官位を持たない人が使った呼称で、生まれ順(太郎、三郎)や、何之助、何之介など官職風の呼び名を用いた。


(網本光悦『決定版知れば知るほど面白い!家紋と名字』西東社、2012年3月 による。)

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最終更新日  2012.09.29 10:43:51
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