仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2012.11.10
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カテゴリ: 宮城
1 3有力紙と河北新報

明治30年正月一力健治郎が 河北新報 を創立した当時、仙台には3つの有力な新聞があった。

○  奥羽日々新聞 (須田平左衛門、怡土信吉、友部鉄軒の流れをくむ)
○  東北毎日新聞 (松田常吉)
○  仙台新聞 (沢来太郎)

沢来太郎 は栗原郡沢辺の出身。臥牛と号し僊台(せんだい)新聞を創刊。原抱一庵、佐藤東華らを記者に抱えた。31年10月に廃刊し11月黒沢十太経営の明治新聞が創刊されたがあまり振るわなかった。沢はこの後衆議院議員を5回。仙台米穀取引所理事長、産馬組合長、政友会宮城支部長。

松田常吉 は牡鹿郡渡波生まれ。魚の行商から刻苦勉学し維新後戸長に推され、明治11年県会議員。改進党に属したが、第1回衆議院選(登米桃生牡鹿)で遠藤温に敗れ、補欠選挙では改進党の首藤陸三をおし、犬養毅、尾崎行雄が応援に来たが、佐藤運宜に1票差で負けた。松田と首藤は改進党の機関誌仙台新聞をゆずりうけ、東北毎日新聞と改名して是々非々を旗印とした。野村古梅、富沢大一郎、桜田孝治郎など健筆青年を集め、日清戦争で紙面を増し奥羽日々新聞を圧するに至る。明治36年東北毎日の社長松田常吉は61歳で没す。

奥羽日々は仙台藩士 須田平左衛門 が明治6年に創業した東北新聞が前身。東北新聞は、仙台新聞、仙台日々新聞と次々改題され、主筆に福岡の人 怡土 (いど) 信吉 を迎えて日刊となり、当時台頭した自由民政思想をひろめた。明治11年5月に三面記事で某商家の嫁を揶揄したので仙台日々は訴えられ、社長は出張中と偽って出頭しなかったことから投獄されて自殺。須田の没後は怡土が社長兼主筆。漢詩人国分青崖、斎藤美雄(桐陰)、高瀬真之助(真郷)ら文筆家を集め社業大いに発展、福島、山形にも支局を置いたので、明治16年 陸羽日々新聞 と改題した。怡土は明治18年警視総監三島通庸から求められ、新聞の検閲係として内務官僚となり36年東京で53歳で没す。明治19年に元水戸藩士の 友部鉄軒 が編輯長に迎えられる。友部は明治14年天皇巡幸の歳に松平県令にたのまれて奉呈分を作り有名になった人物だが、編輯長として自ら筆をとり東北文化高揚に努め、記事正確の評から奥羽日々は東北一の新聞となった。日清戦争で紙面は多くなったが東北毎日新聞の回に立つに至った。従軍記者2人を派遣して郷土兵の活躍を報じたのが東北毎日の読者を増やした原因だったらしい。明治30年原敬が大阪毎日新聞の社長に就任。原と旧知である陸羽日々の主筆友部鉄幹(おだずま注:ママ)は招かれて大阪に去る。

一力健治郎 は仙台大町の小間物屋に生まれ一力家の養子となり、第二高等中学校(旧制二高の前身)に入学。明治24年書店を開業、市会議員、植林会社社長、県会議員などを経て、明治30年35歳で名誉職を辞して河北新報の経営にあたる。旧制二高の土井晩翠、佐々醒雪、東北学院の島崎藤村、藤沢幾之輔などが筆をとって親しまれた。一力は藤沢幾之輔と行動を共にした元改新党員であったが、新聞創刊にあたって党を離れたと聞く。

2 その他の新聞の興廃

なお、これより先には仙台に種々の新聞が興廃し、またこの後も数多く生まれては消えた。

明治10年代には仙台童蒙新聞、宮城日報、東北新報、東北毎日、(旧)河北新報(一力とは別人の経営)、東北自由新聞など。20年代には、東北朝日、仙台日報、東華新聞、河北旬報、東北日報、実業絵入新聞、仙台商業日報、僊台新聞、仙台毎日などがあったが、30年までつづいたものは少ない。

明治29年にできた仙台毎日新聞は34年仙台週刊新聞となり、やがて夕刊平民となり、35年廃刊。この頃、五城日々、五城新聞などもあった。

日露戦争の従軍記事は読者を増し、挿絵が写真に替わる。戦後、河北新報と奥羽毎日が仙台の二大新聞となるが、河北は大阪毎日、大阪朝日と共に日本の三大地方新聞と自称していた。

明治41年、仙台日日新聞が創刊された。創始者は初等教育の元老で政友会の小原保固で、その子の保が経営にあたった。大正4年には県会議長まで務めた小野平一郎が東華新聞を発刊。

3 大正以降

大正初年は新聞攻撃で桂内閣が倒れ、次の大隈内閣が新聞人に勲章を授与するなど、自由主義と新聞の伸張期であった。このためか各地で新聞が発刊。

石巻では小牛田から鉄道が通じるころで、湊生まれの小川清により東北日報ができた。河北新報から古活字と印刷機を譲り受けて始めたと石巻市史はいうが、石巻の商況振るわず休刊し、大正2年 石巻日日新聞 と改題して再刊。大正4年には佐藤露紅らとの共同経営となり、第一次大戦後の好況期に社勢を伸張。この間、石巻には日刊宮城という新聞もあった。

仙南では、明治42年角田に笹森倉吉の 仙南新聞 があった。大正8年に仙南新聞を引き継いで大河原に仙南論評という小型新聞が発刊。11年には岩沼に庄司重太の名亘新聞、白石に大岡直人の東北タイムスができた。この3社は合同して11年5月に 仙南日々新聞 となった。仙南の農業振興、郷土文化の培養、商工振興を掲げ、以来20年間続刊された。庄司猛太郎が編輯発行印刷を担当し、蔵王登山、マラソン、青年雄弁大会、仙南振興会設立などにも努力。庄司一郎はよく筆をとり代議士にもなった。

仙台では大正14年松浦天外を社主とする東北事業日報、昭和3年創刊の井上啓次の大仙台などもできたが、第一次大戦後の不況のためか紙数はたやすくは伸びなかったようだ。

大正11年小野平一郎(70歳)、12年小原保(43)、昭和4年小原保固(70)、一力健治郎(67)が没すると、各社とも後継者により経営が続けられたが、発行部数は河北新報が断然頭角を抜いていた。満州事変、日華事変から戦争長期化で物資不足による統制傾向によってやがて一県一新聞だけ継続を認める政府方針が発表され、昭和15年に実施される。石巻日日の例では、昭和15年以来廃刊の交渉を受けたが敢えて続刊。しかし紙の配給を止められ涙をのんで15年10月末に8684号を最後に何の補償もなく廃刊。仙南日日新聞も昭和17年1月で廃刊。1月25日7010号には「本県に於ては、一昨年仙台日日、東北産業、石巻日日、仙台朝日等八新聞は廃刊せられ終んぬ。然るに本社丈は用紙配給の漸減の苦痛と戦い乍ら先輩同業河北と僅々二社のみとなり、健斗したが、新聞統制令の公布あり、又一面県を通じて政府の要請もあり、権益の一切を国家に奉還し、大東亜戦争の要請に応え一月末を以て廃刊に決せり」とある。

かくして河北新報のみが県内の一紙として残る。戦災により廃刊を余儀なくされた新聞社の旧社屋も大方焼失。河北新報社屋は辛うじて焼失を免れ、空襲の翌日から小型新聞を配布した。

■佐々久『近代みやぎの歩み』宝文堂、1979年





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最終更新日  2012.11.10 18:45:27
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