仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2016.05.02
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カテゴリ: 仙台
従来言われる経緯は(貞山公治家記録)、天正18年(1590)4月5日、会津黒川城内の母義姫の館で、小田原の陣立ちの祝いに招かれた政宗が、母の用意した膳に箸を付けたところたちまち腹痛、急ぎ自分の館で投薬を受けて一名を取り留めた。政宗は、母が弟小次郎に家を継がせようとしたこと、背後に母の実家最上家の陰謀があることを感じ取り、7日に小次郎と傳役の小原縫殿助を手打ちにする。不憫だが母を手にかけるわけにはいかないためである。その晩、義姫は兄である山形城主最上義光のもとに逃げる。

母や最上家の陰謀説に対して、政宗が弟擁立派を一掃するために仕組んだ一人芝居との説もある(海音寺潮五郎)。

17年前〔おだずま注:出典の下記2014年の文献の表現のまま〕に、貞山公治家記録の誤りを正す決定的な史料が発見された。岩出山の虎哉和尚が京都にいた政宗大叔父の大有和尚に当てた文禄3年(1594)11月27日の手紙(仙台市博物館保管)。虎哉は、義姫が同月4日夜に岩出山城を出て最上氏のもと出奔したと伝えている。天正18年4月7日夜とされた従来説が否定されたのである。

母は事件後も4年間、政宗とともに米沢を経て岩出山と、一緒に生活したことが明らかになった。この間、母子は音信を交わしている。文禄2年に朝鮮の陣中から母に宛てた手紙も含まれる。

このことから、貞山公治家記録の他の部分も疑う必要がある。母が毒を盛ったとするなら、その後の音信も理解に苦しむ。小次郎を殺害したのも本当か疑問がわく。正史として母と最上の関わりを強く印象づける作為ではなかったか。

小次郎の生存説がある。

東京都あきる野市横沢の真言宗金色山吉祥院大悲願寺には、元和8年(1622)8月21日付けで政宗が13代住職海誉上人に当てた書状(白萩文書)が伝えられている。政宗が以前訪問した際に印象を受けた白萩の株分けを所望したものである。

ところで海誉上人の弟子で後に15代住職となる法印秀雄(しゅうゆう)がいるが、寺の記録では政宗の弟とされており、政宗が寺を訪れたのも弟に会うためだったと伝えられる。白萩文書の包み紙には、秀雄が輝宗の末子で政宗の弟、幼名鶴若と称したと記されている。24代住職如環の書という。

寺に伝わる金色山過去帳(東京都指定文化財)には、秀雄の没した寛永19年7月26日の条に、俗生は伊達大膳大夫輝宗の二男、陸奥守政宗の舎弟なり、とある。さらに過去帳には、政宗が没したとき、住職であった秀雄が兄の回向を執り行ったと記されている。直後に、秀雄は大悲願寺を去って中野の真言宗宝仙寺に移り、第14代住職を務める。

秀雄については伊達家の系図や記録にはいっさい出てこない。輝宗の異腹の落胤とする説(五日市町史)もあるが、大悲願寺の過去帳のように小次郎の可能性があるのでないか。貞山公治家記録の記述は見直しが必要であり、もし政宗が小次郎を殺していたなら、その後の母との間の情愛あふれる手紙のやり取りは理解に苦しむ。

小次郎殺害は、政宗と母義姫の共謀による偽装と考えられる〔おだずま注:出典文献の佐藤氏の見解〕。もちろん、母による政宗毒殺未遂も存在しない。当時、政宗には実子がまだなく(秀宗誕生は翌年)、命を懸けた小田原参陣を前に、血統を絶やしかねない弟殺害は考えにくい。手打ちにしたことにして密かに逃し、小原縫殿助に託したと考えられないか。

とすると、なぜ事件から4年後に母は岩出山から山形に出奔したのか。また、小次郎処分をめぐって政宗と母の間で、どう話し合われたのか。

最上氏に逃げ帰った母が、最上家の改易にともない仙台に身を寄せることとなり、政宗と再会するのは28年後の元和8年(1622)である。

貞山公治家記録の付録の中に、毒殺未遂事件の直後に政宗が茂庭綱元に事件の経緯を知らせる手紙があり、政宗は、毒を盛ったのは母と思われ、背後に弟を擁立する勢力があり、弟に罪はないが家内が二分するおそれがあるため、やむを得ず弟を手討ちにしたこと、母の命に別状ないよう願うこと、このようなことは自分の口から言えないのでそなたが斟酌して良いと思うことは世間へくどき広めてほしいとしている。

この手紙を見る限りでは、母は自分が悪者になることを了解していたと考える他はない。世間にくどき広めよとの政宗の意向は、政宗が岩出山城を留守に京都や朝鮮に行っている間に徐々に噂となって広まったと考えられる。伊達成実の成実記にも噂が家臣に広まったことを窺わせる記述がある。

覚悟したとはいえ、日々大きくなる周囲の疑惑に耐えきれなくなって母は逃げ帰ったのでないか。あるいは、山形に逃げることが噂を自ら肯定する最良の方法と考えたかも知れない。

28年ぶりに仙台で再会した2人の心中はどうか。当時の贈答歌から想像すると、母の返歌には、政宗の母としての誇りも感じられる。仙台に移った9か月後、元和9年7月16日に母は76歳で亡くなる。

■佐藤憲一『伊達政宗謎解き散歩』(KADOKAWA新人物文庫、2014年)を読んで記しました。

■関連する過去の記事
再び政宗毒殺未遂事件を考える (07年10月12日)
政宗毒殺未遂事件を考える (07年6月28日)





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最終更新日  2016.05.02 08:16:28
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