仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2023.04.06
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カテゴリ: 東北
中央の視点による東北開発が具体的にどう進んだのか。

三度目になるが、岩本先生の著作から。
■岩本由輝『東北開発120年』人間科学叢書22、刀水書房、1994年
■関連する過去の記事(岩本由輝著作)
中央からの視点だった東北開発 (2023年04月02日)(岩本由輝)
東北という呼称の初現 ー 「東北」の形成 (2023年03月26日)(岩本由輝)
■関連する過去の記事(東北後進論)
白河以北一山百文の意味の変化 (2023年04月04日)
明治政府の焼き付けた東北後進論 (2013年8月19日)
「二束三文」と東北 (2012年8月11日)
「白河以北一山百文」の由来と河北新報 (07年8月7日)
■関連する過去の記事(三島通庸、野蒜、安積疏水。ほかにも記事ありそうですが。)
土木県令三島通庸と市立病院済生館 (2013年1月6日)
野蒜築港跡を考える (2015年5月18日)
安積疎水を考える (06年12月19日)


1 三島通庸(みちつね)の土木県政
1786年(明治9)8月初代山形県令となった三島通庸は、県政の主眼は道路とばかり、新道の開鑿や旧道改修に乗り出す。伝統的に西廻り海運と最上川で大阪との経済的つながりの深かった山形県を、首都東京と仙台に結び付けることを策したもので、中央集権的強権政策の一環であったが、このとき、自動車交通以前の山形県の基本的な道路体系ができあがる。
1878年7月イザベラ・バードは、すでに現高畠町津久茂から新庄までの立派な道路(国道13号の原型)ができていたことを証言している(日本奥地紀行)。
三島の最初の着手は、76年11月起工の栗子新道。東京に至る最短コースとして2つの隧道を掘る難工事で80年10月竣工。同年12月には新庄から秋田県に至る道路にもつながる。81年には第二回奥羽巡幸が行われたが、9月22日秋田県境まで出迎えた三島は面目躍如。天皇が福島に向かう10月に3日に開通式が行われた万世大路は栗子新道への取付道路だった。
山形仙台間は、笹谷、二口、関山のいずれも難工事の3路線が検討されたが、78年起工の野蒜港に最短距離の関山峠越えが適当と判断され、80年関山隧道の掘鑿を伴う関山新道工事が始まり、82年6月完成。
ところで三島の土木県政は強権発動で地元民の意見や不満を顧慮しなかったから、多くの人の怨嗟の的となったことは否定できない。福島県令に転じた三島は福島事件で鬼県令の悪名を呈するが、山形県でも関山新道の費用徴収をめぐって反対運動が組織された。しかし、山形県の場合、自由民権派の開明社の機関紙「山形新聞」も好意的で、また、三島には県内各地から留任要請が出された。

2 野蒜築港
大久保利通の東北開発構想は、1878年5月の大久保暗殺後
体化、11月に工事着工。最も重要な港口の工事は79年7月に始められ、内務省土木局長石井省一郎を監督に、早川智寛(のち仙台市長)が築港主任。技術を面を担当したのはファン・ドールンを主任に数名のオランダ人。
工事は順調だったようで、82年(明治15)10月第一期工事落成式が挙行。第二期工事は、外洋の波浪を防ぐため宮古島(ママ)の東端に防波堤を築いて吃水7mの大型船碇泊を可能にすること、宮古島(ママ)と野蒜の間の連絡路建設、などであった。かし、84年(明治17)秋の台風で内港東側導流堤が流失。85年内務卿山縣有朋が再建判断の調査を行わせたが、結果は否で、68万3千円を投じた野蒜港は放棄、もとの寒村に戻った。
失敗の原因は、場所の選定や設計の誤りが指摘され、また、松方緊縮財政が最大の理由と言われるが、台風以前の74年1月の「野蒜市街地計画方之義ニ付伺」にあるように、(大略)借地出願の者少ないなど地元の理解は進まず、建築家屋も転売の動きなど慨歎の至りであり、米価金融閉塞状況だとはいえ、こうした状況が主原因である。
地域の経済進展や後背地との関連が顧慮されることの少なかった野蒜港の維持発展は、台風被害がなくても困難だっただろう。当時の巨大プロジェクトの早産的悲劇をみる思いがする。

3 安積疏水の明暗
安積開墾は3つの段階と3つの地域に分けて進められた。
(1)1873年(明治6)、福島県の手で始められた旧二本松藩士の入植による、大槻原南部
(2)74年、郡山で富商たちが結成した開成社の出資で進められた大槻原中北部
(3)78年から政府事業として展開された五百戸移住による、対面原から広谷原にかけての開墾
このうち、主流は第3のもので、78年から82年にかけて旧久留米藩士141戸を筆頭に、旧高知藩士105戸、旧鳥取藩士69戸、旧二本松藩士56戸、旧会津藩士30戸、旧棚倉藩士28戸、旧松山藩士18戸、旧米沢藩士13戸、旧岡山藩士5戸、計465戸約2500人が入植。士族授産である。
この3つの開墾を推進したのが、旧米沢藩士で県官を務めた中条政恒である。孫が中条(のちの宮本)百合子。
安積開墾の最大の難点は水に乏しいこと。そのため立案されたのが大久保利通の建議による猪苗代湖疏水の開鑿である。設計はドールンとするのが定説だが、実態は助言だけで、内務省勧農局御雇の山田寅吉が設計主任として詳細な設計書を提出している。なお、山田の配下で実測設計活躍した新渡戸七郎は、三本木原開墾を推進した盛岡藩士新渡戸伝の孫で、稲造の長兄。
79年(明治12)10月起業式が行われた安積疏水は、数十の隧道、樋を架する大工事だが、82年10月延長52kmの幹線水路と78kmの分水路が完成、通水式を行った。83年残された工事が全部終了。安積、安達、岩瀬3郡に潅漑し水不足解消に貢献している。
ところで、1905年(明治38)、法制局参事官柳田国男は、安積開墾の帰趨について記すに、(大略)最初各地の藩士をまねたいた時は保護が厚かったが、保護が止むとたちまち衰微し始め、郡山地元民に売却するなどして町に移住したり、元の土地で小作するなどの状況。
士族授産の帰結が、少数地主の形成と、貧しき人の群れの創出であったことを伝えている。





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最終更新日  2023.04.06 09:09:18
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