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朝が早かったので、身内だけになると急に緊張がほぐれる。いつもは夢の中の時間帯なので椅子に座ってぼんやりしているといつの間にかうとうとしていた。「食事の用意が出来ましたので、皆さんどうぞ」とM前次長が部屋に入ってきてハッと目覚めた。他の人も寝ていたようだ。社員食堂へは一番乗りだった。アルミのお盆の上に、丼に入ったごはん、味噌汁、生卵、味付け海苔、漬物と梅干しが並んでいる。テーブルの上には瓶詰めのエノキの佃煮が置かれてあり、これは自由に食べてもかまわない。大きなヤカンからお茶を注いで食べ始める。シンプルな朝食メニューだが美味しい。tetywestがたまに食べてもいつも同じメニューだから、味噌汁の具が多少変わることがあっても、基本的に年中同じなのだろう。朝が早い会社なのでここで朝食を食べている社員も多いことだろう。毎日食べるものだから変に凝ることなくシンプルな方がいいのかもしれない。これこそ日本人の朝食の原点だ。戦後この伝統的な日本人の朝食が次第に欧米の朝食メニューに変わっていったことにはtetywestは一抹の寂しさを覚える。そう言いながら自分では今年の夏までは25年間パンとコーヒーと卵が基本の朝食を続けていた。しかし他の家族は基本的に伝統的な朝食だったので、tetywestの朝食は自分で用意するのが習慣になっている。今は朝フルに変わったが、それでも伝統的朝食からは遠ざかったままだ。伝統的朝食ではビタミンA・Cなどが不足するだろうというのは、あまり詳しくないtetywestにもわかる。しかしここは青果会社なので、社員はセリの前にいやと言うほど果物を食べている。朝フルを最初に実践していたのは青果会社の社員かもしれない。食事が終わって会議室に戻ると、コーヒーを運んできてくれた。朝のいれたてコーヒーにはいつも幸せを感じてしまう。M前次長が今日のセリ結果を印刷して持ってきてくれた。ミカンは等級と階級で下のように分類されて箱詰めされる。 秀 優 良3L 1200 1100 10002L 2200 1550 1100L 2300 1700 1400M 2000 1900 1400S 1650 1500 13502S 1550 1400 1250平均単価は1箱1702円だった。今年の傾向として良いものと悪いものの差が少ない。こうなったのは去年からだった。それまで市場側も「良いものを作れば必ず高く売れる」と言っていたのだが、もうそんなことは誰も言わない。I泉課長が挨拶に来た。今から販促レディのK本さんと一緒にセイユーの試食販売に行くと言うことだった。卸売会社は産地から集まった品物をセリにかけて手数料を頂戴して成り立っている。従って販売金額を伸ばさないと経営が危うくなくなる。ここ数年卸売り会社の販売額は全国的に減少の一途をたどっていて、東果大阪も今年度は赤字決算だった。価格安で日本の農業生産額が減少したことと、市場を経由しない商社を通した輸入農産物の比率が次第に増えていることが主な原因だといわれている。「市場と農家は運命共同体だ」という話は市場でよく聴かされる。しかし、もっと日本の農産物が減った時、市場は農家と共に滅亡するかというと、どっこいそんなことはない。そうなったら韓国から、中国から、東南アジアから、はたまた南米から農産物を仕入れるルートを開発するだろう。実際に東果大阪でもM常務を中心にしてそういうプロジェクトが進行中なのだ。ともあれ卸売会社の社員はいろいろと忙しい。tetywestは昨夜二次会の後真っ直ぐホテルに帰ったのだが、産地の数名と販促レディ、M前次長、I泉課長たちはM次長の父上の店に焼肉を食べに行ったそうだ。そうなれば当然午前様だし、市場の社員は4時には出勤しなくてはならないだろうから、昨夜はほとんど寝ていないことになる。産地の接待も大変なのだ。
2002年11月30日
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会議室で休憩していると、M常務が挨拶にみえた。手には今年の会社の販売実績をコンピュータから打ち出した資料を持っている。常務ともなると一つの品目の一つの産地だけ見ているわけにもいかない。東果大阪は蔬菜部と果実部に分かれているが、今は蔬菜が高い。11月1日から昨日までの累計データを見ると、蔬菜の平均単価はkg当たり202円で、果実は194円だった。さらに果実の中でミカンは176円だった。11月中に今まで入荷した早生ミカンについてもう少し詳しく見てみると、 数量 単価熊本県 389t 183円愛媛県 247t 171円和歌山県 180t 175円香川県 113t 175円佐賀県 45t 162円長崎県 28t 162円広島県 24t 166円大阪府 3t 87円で、tetywestの産地はちょうど平均単価の辺りのランクになっている。熊本県が高いといっても、この価格差ではどの産地もミカン農家は厳しい。特に九州の産地は大阪までの運賃がtetywestの産地より高いだろう。その分農家の手取りは少なくなるのだ。常務の話では、「市場なんてところは、一番こういうことが遅れてるんですけど、今では日々の売り立てにしたって全部ペーパーレスですよ。おかげでこういう資料も自分でパソコンから引っ張り出してこなくちゃならない。」と言うことだった。最近の企業におけるITの進歩はすごい。1995年にtetywestがUSAに行ったとき、日本ではまだまだコンピュータが普及し始めたところだった。USAではホテルでのチェックインや両替のとき、またレンタカーを借りるときもコンピュータ端末で処理しているのを見て大変驚いたものだが、今では日本でも全くあたりまえの光景になってしまった。「これからは無登録農薬問題がらみで、産地も栽培履歴の管理にコンピュータを導入しなくてはいけなくなるでしょうね」と常務の話が展開していった。tetywestはすかさず、三豊みかん営農支援システムの操作マニュアルを鞄から取り出して、「うちの産地では、もうコンピュータを取り入れてます。栽培履歴だけではなく、園地ごとの栽培品種、樹齢、土質、方位、標高などのデータを元に園地台帳を作っています。それに光センサー選果機からの糖度・酸度・出荷量・等階級点などのデータを5年間蓄積します。更にそれを、たとえば糖度差によって色分けして地図上に表示できるようにして、営農指導によってより美味しいミカンができる栽培管理ができるようなシステムを作っていて、これがその操作マニュアルです」と、しっかり産地のPRをした。しかし、この操作マニュアルは、ここでM常務にPRするために持ってきたものではない。新幹線の中ででも目を通して欲しいと、昨日出発前に営農課長から渡されたものだった。したがってtetywestも実際の操作はまだやったことが無い。tetywestの説明を聞いていた常務は、「そのソフト、売ったらどうやねん?」さすが大阪の商売人だ。「このソフトの基本になっているのは園地の地番で、それは市町村が著作権を持っているんですよ。固定資産税の課税に使うためです。このソフトを作った会社は航空写真と実測でそのデータを作って管理している会社です。三豊共選では、各市町村に許可を取ってそれを使わせてもらってますから、どこの会社でも出来る仕事じゃないんです。それに、つい最近納入されたばかりですから、これからソフト会社と検討しながらより使いやすいものに仕上げていく予定なんです。」常務は笑いながら、「どっこの産地にも一人はおるねん、あんたみたいな人が」と笑うと、今から三重で会議があるのでこれで失礼しますと会議室を去っていった。
2002年11月29日
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11月19日。朝4時15分にベッドの枕元にセットされた目覚し時計が鳴った。昨夜は11時過ぎに意識がなくなっていたので睡眠時間は5時間だったが、起き出してシャワーを浴びて髭を剃ったら気分がしゃんとした。5時10分前にロビーに下りると部会長はもう待っていた。集合時間の5時には5人全員が揃い、予約してあったタクシーに乗って東部市場へ向かう。外はまっ暗だ。5時10分に東部市場へ到着する。場内は朝の買出しに来た小売のトラックでごった返している。こんなに早朝から仕事をしている人達もいるのだ。一番奥の果実売り場へ着くとちょうどミカンのセリが始まったところだった。関東では、相対取り引きといって値段が先に決まり品物は市場を経由せずにスーパーの配送センターへ送られるという形の流通が主体なのだが、関西はセリが主体で値段が決まる。したがって、市場には各産地からのミカンが全部集まっている。熊本、佐賀、広島、愛媛、和歌山、そして香川からのミカンもある。それぞれの産地の段ボール箱がパレットの上に積み上げられている場内は、赤あり白あり、黄色あり茶色ありとモザイク模様を織りなしている。今の季節に市場に入荷している果物は、ミカン、リンゴ、カキがメインで、イチゴは少し出遅れているようだ。tetywestの産地のミカン箱(白も黒もマル曽です)場内の一角にセリ場がある。高さ1メートル、幅2メートル、長さが30メートルくらいのコンクリート製のプラットフォームの上には野球のスタンドのような階段状のベンチが4・5段設けられていて、一番手前には鉄製のフェンスがある。仲卸はこのベンチに座って値段をセリ人に知らせるのだ。セリ風景(仲卸)フェンスから3メートル離れた所に、演説台のようなセリ台が全部で5つある。それぞれのセリ台で扱う品目は決まっていて、果実が2ヶ所、野菜が3ヶ所のようだ。ミカンのセリは一番手前のセリ台で行われる。セリ台の正面には30人くらいの仲卸が店番号のプレートをつけた帽子をかぶって待ち構えている。セリ人はセリ台の上に立って、独特のダミ声で値段を競っていく。ミカンのセリ台には最初M前次長が立ち、tetywestたちの産地のミカンをセリ終わったところで別の人と交代する。仲卸のスタンドとセリ台の間には箱に入ったミカンのサンプルがレールの上を移動してくるようになっている。セリ人が値段を決めているミカンは、ちょうど仲卸の正面に見下ろせるようになっている。セリ風景(サンプルとセリ台)しかし、プロの仲卸がミカンの荷姿だけを見て値段を決めるはずはない。毎朝、それぞれの産地の階級・等級ごとのサンプルが1箱ずつ試食用に開けられる。仲卸はセリが始まる前にそれぞれの産地のミカンを食べ比べて味を吟味するのだ。サンプルの周りにはミカンの皮が散乱している。つまり、市場では毎朝全国のミカン産地が味や外観のコンテストをやっているのだ。tetywestたちもそれぞれのサンプルを試食してみた。最初に食べた広島ミカンは、色が赤く皮も薄かったが、酸が高かった。和歌山は糖も酸も低いぼけたような味だった。愛媛は糖が高く、酸も適度にあって美味しかった。しかし、その後で食べたtetywestの産地のミカンは愛媛よりもう少しだけ酸が低かった。試食した中では最高の味だったのでとても気分が良かった。熊本はもうセリ台の前に移動していたので試食することが出来なかった。セリには瞬間芸術のようなところがある。仲卸は出来るだけ安く買いたいし、セリ人はできるだけ高く売りたいわけだが、どこまでも値段を吊り上げていけばそのうち誰も手を上げなくなりセリ自体が間延びしてしまう。セリ人には落札のタイミングを瞬時に見極める勘と経験が要求されるのだ。毎日顔を合わせている仲卸とセリ人の間には阿吽の呼吸が存在するのだろうが、たまにしかセリを見ないtetywestにはその辺りのことはわからない。次々とミカンの値段が決まっていき、セリ終わったサンプルはレールの終点で回収されていく。5時10分に始まったセリは5時35分には全部終了した。大阪のミカンの値段はたった25分で決まってしまうわけだ。セリが終わると、仲卸はそれぞれの産地の段ボール箱が積まれている場所で自分が落札したミカンを引き取る。場内には丸い運転台の電気自動車が走りまわって、一挙に活気があふれる。M前次長の案内で、二階にある事務所に入り、会議室で休憩する。
2002年11月28日
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そのうちにJA香川県大阪事務所のIさんもやって来て宴席に加わった。この季節は市場回りに出かける部会が多いのか、Iさんは今まで同じ「がんこ」で催されていた三木支部(だったと思う)イチゴ部会の宴席に出席していたのだそうだ。そちらの宴席は少し早めにお開きになったらしく、我々の宴席が終わった時に、ちょうど東果大阪のI泉課長も生産者を見送って合流した。これで生産者3人+販促レディ、仲卸2人、市場担当2人、JA職員3人の11人が揃ったわけだ。時間は8時半とまだ宵の口なので、この後全員で2次会に繰り出すことになっている。3台のタクシーに分乗して「千日前」という所へ移動する。天王寺からは北へ向かっているようだ。運転手に「ここでいいですか?」と降ろされたところはアーケードのある繁華街だった。歩道は人人人・・・で溢れている。車道にはずら~っとタクシーが客待ちをしている。赤や黄色のネオンが輝き、店の照明は昼かと紛うほど煌々としている。tetywestは田舎に住んでいるので、こんなに大勢の人間を見ることは祭り以外では滅多にない。月曜日だというのにこの人出には驚かされる。大阪では毎晩祭りが行われているようなものだ。観音寺の街など、夜8時を過ぎれば誰も歩いている人を見かけないほど寂れている。最近は携帯電話が普及したおかげで、このような繁華街でも迷子にならずに他の人と合流できるようになった。今回もその方法で再び11人が集合した。もっともtetywestは未だに携帯電話は持っていないのだが・・・。tetywest達が降りた場所は目的地からかなり西の方に行き過ぎていたようで、他のメンーバーはとっくに集まっていた。メインストリートから直角に南へ向かう道路を歩いて行くと両側には赤い灯、青い灯が瞬いている。その中でもひときわ目立つピンクと緑に色が変わる大きなネオンサインがある。その名もズバリ「ミス大阪」!tetywestたちはこの店に入ったのだが、ここではあまり詳しく書かないほうがいいだろう。しかし、それではどんな所なのか曖昧模糊としているので「鳥よし」のHPにあった文章を掲載しておこう。【ミス大阪】鳥よし本店の右となりに、アルサロの元祖、グランドラウンジ ミス大阪がある。店内はシアター形式の舞台と二階桟敷式のボックス席になっており、常駐200名以上のレディがお客様の相手をする。昔は、大型ラウンジ店をキャバレー、比較的小さいラウンジをバーやクラブ、サロンと言っていたが、そのサロンのホステスを、新鮮なアルバイトの女性に任せて、お客様に楽しんでもらおうと言う発想で、大阪で始められ、全国に広まったのが゛アルサロ"である。いわばアルサロは、大阪が元祖の店の形態である。その点、庶民的な料金になっており、安心して夜の大阪を楽しめる。●交通南海、近鉄、地下鉄 難波駅から北東へすぐ近くにあり、千日前通りカテプリ(旧プランタン)の一筋東を南下してすぐ左手にある。tetywestの隣に座った女性は、トラ模様の超ミニスカートをはいた30歳くらいの女性で住吉神社の近くに住んでいるそうだ。tetywestは大阪の地理には疎いのでどの辺だか想像がつかないのだが、「・・・ねん」という語尾は大阪を感じさせてくれた。小学校4年生と6歳の子供がいるというので、これ幸いと「ダイエットに朝フル」と「おやつにミカン」の話をまくし立てるtetywestだった。販売促進もJA果樹部会役員の大切な仕事なのだ。消費者には少しでもたくさんのミカンを食べてもらいたい。(※ちょっと違うような気もするけど・・・汗)彼女も「今日は、すっかりミカンの勉強させてもろたわ。ミカン博士になったような気がする」とおっしゃっていたので、「ミカンのファン1人ゲット!」なのだ。たぶん・・・ホテルに帰り着いたのは10時半だった。TVのニュースで「株価が最安値を更新しました」と言っているのを聴きながら、そのままベッドに倒れ込んで寝てしまった。
2002年11月27日
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宴会の席に話を戻そう。1時間ほど経ったとき販促レディのK本さんがやって来て宴席が一挙に華やかになった。販促レディとはtetywestの産地の「マル曽(そ)」ミカンをスーパーや果物専門店で店頭販売するキャンペーン・ガールのことだ。4年前、高松中央青果から県内のスーパーでミカンの販売促進をやって欲しいという要請があった。JA果樹部会では、そういう目的のために専属の販売促進レディを募集しようということになり、面接試験の結果4人の販促レディが誕生したのだ。しかし、彼女たちはミカンについての知識は全くなかった。採用後ミカンの知識を身につけるために勉強会を開いてはいたが、お客さんからどんな質問をされるかわからない。そこで、店頭キャンペーンには販促レディ2人とJA果樹部会の役員1人がセットで出かけることになり、tetywestも何度か参加した。K本さんはそのとき以来ずっと「マル曽」の販促レディをやっている。初年度は4人だった販促レディだが、予算の関係で2年目には2人になった。しかし、販促レディはスーパーに大好評で、初年度県内だけだった活動範囲も2年目には大阪にも広がった。大阪での販促は12月だったのでJA果樹部会の役員は収穫で忙しくて行くことができなかった。K本さんは農家の作業を経験したいとtetywestの家のミカンの収穫を手伝いに来て、販促レディだけで大阪での販促をこなし、結果は上々だった。3年目になると、もう一人の販促レディの勤務態度が真面目でなかったためにJA果樹部会はその女性をクビにした。その代わりK本さんに一緒に仕事をして気の合う交代要員を探してもらうことになった。しかし、結局適当な人が見つからなかったので、去年はK本さん一人で全部のキャンペーンをこなした。県内と大阪で11月~12月に合計13回の販促活動だった。しかし、K本さんは今年の6月から大阪に引っ越してしまった。そこで新たに県内担当の販促レディを募集し、K本さんには関西での販売促進キャンペーンを一手にお願いすることになった。この方が大阪までの交通費がかからないので同じ予算で多くの販促活動ができる。JA果樹部会にとってはかえって好都合だった。明日からも3日間連続でセイユーと大丸で試食販売キャンペーンをやることになっている。そのうち話題は東京でのミカン祭りのことになった。11月3日に神宮軟式野球場で行われたミカン祭りには、全国7県のミカン産地が参加した。「よ~いドン」で一斉に同じ量のミカンを同じ値段で売り始める。それぞれの県を代表する産地のミカンを試食してもらいながら市価より2~3割安い値段で販売するのだが、産地側からすればどこの県のミカンに人気があるかが当然気になる。そんな中で香川県は、愛媛、佐賀に続いて3番目に完売したのだが、これは近年まれに見る快挙だった。香川県のミカンは「マル曽」だったし、売り子のおばちゃんとしてtetywestの家内も参加したのだ。K本さんはその結果を知っていて、23日に行われる大阪城公園でのミカン祭りにも参加することになっている。大阪のミカン祭りでは愛媛と和歌山が毎年断然人気がある。K本さんは、悪くて3位、あわよくば和歌山を抜いて2位になるんだと意気込んでいた。(※昨夜結果を確認したところ、熊本に次いで4位だったそうです。目論見通りにはならなかったですが、それでも大健闘です)
2002年11月26日
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実は、今回の市場回りはtetywestにとって最初から気が重かった。今年のミカンの生産量は農水省の発表では115万トンだが、夏以降の全国的な旱魃の影響で実際はもっと少ないだろう。もしミカンの階級が1階級小さくなれば、同じ個数のミカンでも重さは20%減少する。そういう計算をすれば今年のミカンの生産量は100万トンを下回ることになるだろう。そうなると需要と供給のバランスで価格が決まる自由市場経済下においては農家は当然高価格を期待する。tetywestも過去の実績から今年の市場価格は200円を下回ることはないだろうと予想していた。しかし、予想は見事に裏切られてミカンの市場価格は170円前後を低迷している。しかも生産量が少ないはずのミカンなのに、10月中に市場出荷されている量は去年とほぼ同じなのだ。それに加えて、巷ではリストラ、失業、賃金カットと不景気の嵐が吹き荒れている。消費者も安くなければミカンを買わないのだろう。今後の唯一の望みは、今年のミカンが全国どこの産地も美味しいことだ。もし1個食べて美味しければ、すぐにもう1個欲しくなる。そうすれば単純に消費量は2倍になる。ところが、11月の下旬ともなればスーパーはお歳暮商品の価格設定を仲卸と交渉する時期なのだ。ここでいったん価格が決まってしまえば、たとえそれ以後ミカンの値段が高くなっても仲卸は契約した価格でミカンをスーパーに納めなくてはならない。そうすると仲卸にしてみればミカンの値段が上がれば上がるほど利益が少なくなることになる。それどころかもっとミカンの価格が高騰すれば逆に損をすることになるのだ。そんな流通システムでは仲卸もミカンを高く買うはずがない。今170円という実績から考えると、年内はどんなに高く見積もっても市場価格は200円がやっとだろう。市場手数料7%と市場までの運賃、ダンボール箱代、JAの手数料、共選場の選果経費が200円からどんどん差し引かれ、農家の手取りは130円になってしまう。市場価格が170円の場合は市場手数料が2円安くなるだけなので、農家手取りは102円にしかならない。このミカンをスーパーは398円で売っているのだ。それも120円以上の利益を取りながら・・・どう考えてもミカン農家は割に合わない。そんな状況の中で仲卸に「よろしくお願いします」と頭を下げても、その効果はほとんど期待できないだろう。ただtetywestの産地の7月~10月の降水量は今年も全国で一番少なかった。そのために今年のミカンの品質は過去最高に仕上がっている。品質調査でも平均糖度11.8度は過去20年間で2番目に良い結果だった。観音寺駅で営農課長から品質調査の資料を渡されたときtetywestは少しだけ気分が楽になった。何も武器を持たずに敵陣に乗り込むくらい嫌なことはない。(※仲卸の方、気を悪くしないでね。「敵陣」はたとえ話です。ホントはあなた達が頼りですから・・・笑)
2002年11月25日
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新大阪から天王寺までは地下鉄で移動して、東映ホテルにちょうど5時30分に到着した。JA果樹部会で大阪へ来るときはこのホテル以外泊まった事がない。交通の便が良いのと、東部市場から近いからだろう。今回は605号室と低い階だなあと思って部屋に入ったら、セミ・ダブルベッドが二つ並んでいた。いつものシングルの部屋より広くて快適そうだが、どうせ寝るだけなのでちょっともったいない気がした。ベッドの上に荷物を置いてすぐにロビーへ集合する。今日は宿泊客が少ないのでツインルームはホテルのサービスなのだそうだ。ロビーでは東果大阪のM前次長が待っていた。JR天王寺駅構内を歩いて地下街に入り「あべのルシアス」の15階にある「がんこ」へ案内される。掘りこたつ式お座敷なのはゆっくりくつろげてありがたい。次長としばらく雑談をしていると仲卸の二人がやってきて宴会となった。まずはJA果樹部会長の挨拶がある。今年の夏から秋にかけては平年の半分の雨量しかなく、ミカンの品質は最高の状態に仕上がっていること。11月15日の品質調査では、平均糖度が11.8度、酸度が1.34%だったこと。早生では前年の80%、晩生は60%の収量が予想されているので、高値販売を期待していること。今後は酸高に注意しながら販売していくので、仲卸によろしくお願いしますとの挨拶だった。続いて仲卸のE・P・フルーツのN野さんの挨拶だった。現在、ミカンの価格は産地が期待するほど高くはない。特に小売では高い価格では売れなくなっている。スーパーが398円の売価設定をすれば、仲卸の納入価格は270円だ。仲卸はネット詰をしてスーパーに納入するが、その際の腐敗や傷果のロスが出るコストも負担しなければならないので決して楽ではない。しかし今年の御地のミカンには期待していますとの事だった。続いて果樹部副部会長の発声でビールでの乾杯となる。40年間ミカンを栽培してきたが、今年ほど美味しいミカンができたのは初めてだ。今年のミカンが高値で販売できることを祈念して乾杯。その後は料理が運ばれてきた。ところがいざ日記を書く段になってみると、何を食べたのかさっぱり思い出せない。鍋だったのか懐石だったのかさえ忘れている。tetywestには時々こんなことが起こる。食事よりも神経を集中しなければならないことが同時進行した場合、食事の内容は記憶からすっぽりと抜け落ちてしまうのだ。ビールは最初の一口だけで後はウーロン茶だったのは覚えているのだが・・・宴会に東果大阪の仲卸が同席したのは今回が初めてだった。E・P・フルーツのN野さんとは店で何度か会っているのだが、ゆっくり話をした事はない。「E・P」とは「エターナル・プログレス(eternal progress)」の略だと教えてもらった程度だった。泉州屋のK玉さんは初対面だった。今回の市場回りでは、産地の情報を直接仲卸に伝えるために食事に同席してもらったのだ。tetywestは宴会の席で正面に座っていたN野さんを相手にして、去年のミカンの値段では農家は1年間タダ働きだったこと。秋の気温が9月、10月は平年より1度高く、11月になって3度低く推移したことが、ミカンの減酸や着色に理想的だったこと。9月~11月の雨量が104mmと平年の半分しかなかったが、乾燥がいかに糖度をあげるための手段として効果が高いかということ。もはや産地間競争の時代ではなく、日本中のミカン農家が同じように将来に不安を持っている等の話題を一生懸命しゃべっていた。
2002年11月24日
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岡山には定刻の3時57分に到着し、新幹線「のぞみ」に乗り換えて大阪へ向かう。実はtetywest、「のぞみ」に乗るのは今度が2回目だった。初めて乗ったのは「のぞみ」が走り始めた年で、春休みの家族旅行でディズニーランドへ行ったときだった。普通は大阪まで行くのに料金の高い「のぞみ」は使わない。今回なぜ「のぞみ」を使ったのかというと、5時半までに天王寺のホテルにチェックインするためだった。「ひかり」を使った場合、岡山で20分の待ち時間が出来る。そうすると四国を走る特急は1時間に1本しかないので、観音寺の出発を1時間早めなければならないのだ。例年だと市場回りは早生ミカンの出荷が始まったばかりの11月上旬に行われることが多い。ミカンの本格的な収穫を間近に控えている今頃の1時間は「のぞみ」の上乗せ料金よりも貴重だと言うことだろう。JRを利用するたびに感心させられるのだが、運行時間が実に正確だ。それにちゃんとプラットホームに表示された乗車位置ドアが開くように列車が停まる。tetywestは中国の蘇州で、駅員に指示された場所に並んで待っていたら乗降口がちょうど真中になるように列車が停まって、後ろに並んでいた人たちと乗降口争奪戦をして以来、JRの素晴らしさと日本人の乗降マナーの良さを再認識している。tetywestたちが乗ったのは、列車の一番先頭がカモノハシを連想させるような700系車両だった。走り始めると確かに「ひかり」より速い。しかし、ジーッというモーターの音(だと思う)が結構大きなボリュームで絶えず聞こえるのが気になった。とは言え、岡山-大阪間を44分で走ってしまうのだから、あっという間に新大阪に到着した。※市場回りから帰って、連夜の会議です。今夜(22日)は議論が白熱して、帰ってきたのは11時半でした。事務処理を片付けて、この日記を書いて、風呂に入ると午前1時半。これ以上起きていると明日の体力が続かないのでもう寝ます。なんだか中途半端な日記になってしまったなぁ・・・・
2002年11月23日
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11月18日。tetywestは観音寺発午後2時54分の特急「しおかぜ」の自由席に座って岡山に向かっている。メンバーはJA香川県観音寺支部果樹部会長、副部会長、営農課長、販売課長との合計5名。毎年恒例になっている大阪・東京の卸売市場での状況視察と、これから本格的な出荷が始まるミカンの販売をお願いするためだ。恒例とは言っても今年は昨年までとやり方が大きく変わっている。市場回りに行く人数が半分になったのだ。tetywestの所属するJA香川県観音寺支部果樹部会(という長ったらしい正式名称のため、以後はJA果樹部会と書くことにする)はミカンをJAに出荷してしている農家の組織だ。農家が出荷したミカンは三豊(みとよ)共同選果場で選別され、箱詰めされて「マル曽(そ)」というブランドで市場に出荷される。実際のロゴは○の中に曽という字が入っている。これはtetywestの住んでいる仁尾町曽保(そお)地区の「曽」に由来して名づけられたものだ。しかし、この三豊(みとよ)共同選果場は「マル曽(そ)」のミカンだけを選果しているのではない。他に「ホウナン」「みとよ」という2つの果樹部会組織のミカンも一緒に選果しているのだ。なぜこのようなややこしい組織なのかということを説明し始めると、いつまで経っても先へ進めなくなる恐れがあるのでごく簡単に言ってしまえば、海岸線のミカンと山間部のミカンを区別するためなのだ。tetywestの産地では、かつて昭和41年に三豊(みとよ)共同選果場が出来たとき、1市9町で栽培された全部のミカンを一緒に混ぜて箱詰めをして市場の評価を著しく低下させたという苦い経験がある。海岸線のミカンと山間部のミカンとでは酸の減り方が違うために、どうしても山間部のミカンが酸っぱく感じられるのだ。1箱の中に入っているミカンの味のバラツキを出来るだけ無くするためには気象条件の違うミカンを別のブランドとして区別することが必要だった。そのために、翌昭和42年には山間部を1課、海岸線を2課として別々に選果・箱詰めを始めた。しかし、それでも箱の中の品質のバラツキはまだまだ大きかったために、昭和47年のミカン大暴落を契機にして、昭和48年に2課を「マル曽」と「2課」にさらに細かく分けることになった。この体制は昭和55年まで8年間続いたが、時代の要請はもっと厳しい品質管理を余儀なくされ、昭和56年からは三豊(みとよ)共同選果場は一つの選果場で6つのJAがそれぞれ独自に選果・箱詰めをする寄り合い所帯になった。当時、観音寺農協と呼ばれていたtetywestたちの部会は、その中でも山間部のミカンと海岸線のミカンを区別するために「マル観」と「マル曽」という2つのブランドを持つことになる。平成12年、三豊(みとよ)共同選果場への光センサー選果機の導入によってミカンの品質は1個1個デジタルで計測できるようになった。選果の効率化のために、この時点でブランドを統一しようという動きがJAの上層部にはあったようだ。しかし糖度は区別できても、酸度を区別することは現在の技術レベルではまだまだ難しいという理由で、農家はブランドを一つにすることに反対した。そういう訳で、現在三豊(みとよ)共同選果場では、JAと生産者が納得できる最大公約数である3つのブランドでの出荷を行っている。tetywestの所属する「マル曽」は、観音寺支部、豊中支部、詫間支部のミカンを選果・箱詰めしているのだが、90%以上は観音寺支部のミカンなので「マル曽」部会=JA香川県観音寺支部果樹部会という組織形態になっていて、その役員は9名で構成されている。閑話休題、それまでJA果樹部会の役員全員で行っていた市場回りの人数が半分になったのは去年のミカンの安値が大きく影響している。市場回りと言っても交通費や宿泊費、それに仲卸の接待費にかかる経費はバカにならない。費用対効果を考えれば、それほど大人数で行く必要はないのではないかという意見はかなり以前からあった。しかし、なんだかんだと反対意見もあって結局毎年同じように役員全員での市場回りが繰り返されていたのだ。過去の慣例を変えるにはよっぽどのショック療法が必要なようだ。
2002年11月22日
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《編集後記》◆春から夏にかけて妻が私を「お父さん」と呼ぶ度に「お父さんは今おらん」と抵抗し続けた結果、どうにかまだ名前で呼んでもらっています。ちなみに私は妻をローマ字のファーストネイムで呼びます。 (Y・T)◆「親孝行したい時に親はなし」本当かいなと思ってしまう。今の親は結構長生きするし、子供の方にもそんな思いやりはない。よって現代の諺、核家族を反映して「親孝行してほしいのに子がいない」 (吉田恥骨)◆金サンが賂五千両を懐に入れて、罰金2両の沙汰でチョン。手前で作った法ならば厳罰を課す訳はないわな!桜吹雪の金さんが裁いていたなら、いかなる事となったやら。 (Y・Y)◆人間の交感神経は攻撃的であり、「さあ、やるぞ」という時に刺激され、心拍数や血圧を上昇させ、また便秘性になると言われている。女性には便秘が多いようだ。女性の方が粘り強く攻撃的かもしれない。周りを見渡すと、又、うなづける。 (YYガヤガヤ)◆家出をして1ヶ月ぶりにわが家に帰ってみると、地獄の編集が待っていたのだ。懐かしい筈の日本語も、今では嘔吐を感じるほどなのです。発行遅れてスンマセン。次号からはもっと地味にやります。 (T・尾てい骨)☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 「ルーヂャ」とはエスペラント語で「赤い」を意味します。これは私達の住む仁尾町の「曽保」という地名が「赤い」という意味であることからきています。辺境の小さな農村の個性や伝統を再認識しつつ、常に地球規模での広いパースペクティヴで思考してゆきたいというスタッフの意志が「ルーヂャ」という言葉に込められています。本誌は年2回、春と秋に発行します。世紀末農民倶楽部のミーティングは毎月21日の夜7時30分頃からJA曽保出張所で行っています。1992年11月21日発行通巻第2号 92 秋企画・編集/世紀末農民倶楽部
2002年11月21日
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【表紙のことば】 チコ・マグダレーナ未ダニ、足ノ裏カラ眼球ノ奥マデ、トテモ新シイ色ヲミセテイルノハ、今朝食ベタ玄米ナノデス。・・・ワタクシハ、オ四国山ノオ地蔵様ニアイサツヲシナガラ、一日ノ労働ノタメニ、山ノ蜜柑畑ニ出カケテ来タノデアリマシタ。ソレニシテモ、コンナ自然ノ風景ガ何千年モ前カラ流レ続ケテイルナンテ、信ジラレルカイ。アマリニモ寛大ナ風景ノ中デイルト、誰デモ、日常ニ堕落シテシマウノダ。見ヨ、コノ古キモノノ新鮮サヲ。ソレニシテモ、イッタイ、弱イ者ニ唾ヲ吐キ、イッパイ飲ンデ有頂天ニナリ、見栄ヲ張リタイ奴バカリジャナイカ。マッタク、奴ラノハラワタハ、金ヲ払ッテ注ギ出シタ精液ノヨウニ、ドコマデモ腐ッテイル。ソレニシテモ、白イ人ノ学問ガパンクシテ、政治屋共モパンクシテ、ヤマ師ノ教エガ流行リダシ、マルデ皆幽霊ミタイニ浮カンデイル。コンクリートヤアスファルトノ上ニ浮カブノハモウ止ソウ。ココニ想ウ者アレバ、イツデモ蜂起ノ風ハ吹ク。昨日ト同ジ風景ダッテ、実は昨日ト全ク違ウノダ。クソマミレノ足元ヲ見ヨウデハナイカ。ワタクシタチハ決シテ浮カンデハイナイトイウコトヲ。微生物ノウゴメク泥ニ腹這イニナッテ、カンパラーノ達ガコウ叫ブ「辺境ノ世紀末ニ爆発セヨ」 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ルーヂャノ寄稿者、愛読者、ドウモアリガトウ。第2号発刊に際し、様々な方面から様々な意見が寄稿されたことに、スタッフ一同心から感謝しています。特筆すべきは、13人の執筆者のうち7人が女性(うち一人は♂+[くっつけてね])であるということ、町外県外からの寄稿も少なくないということです。今後ともお互いに発展できるように交流してゆきたいと思っています。
2002年11月20日
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18日から20日まで大阪・東京の市場回りに行ってました。これを書いているのは20日の夜9時半ですが、先ほど帰ってきました。いや~不景気の嵐は日本中を吹き荒れているようで、ミカンの売れ行きももう一つパッとしないようです。「ルーヂャ第2号」も明日で終了なので、次は今回の旅行のことでも書きましょうか・・・だいぶ長期間手抜き日記になってましたから(笑)そんなわけで、明日から平常モードに戻ります。いよいよ早生ミカンの収穫開始です!!
2002年11月19日
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【エッセイ】(後半)ケネディといえば、ケネディの熱狂的な支持者の一人だったガルブレイズのことを思わずにいられない。「豊かな社会」や「不確実性の時代」の著者で、ノーベル経済学賞を受けた経済学者として知られるガルブレイズだが、アメリカ大統領選挙史上最も僅差となったケネディvsニクソンの大統領選挙では、民主党リベラルとしてケネディを支持し、ケネディ政権下ではインド大使を務めている。ガルブレイズ著作集の中で紹介されているインド大使時代の様子や、ケネディ大統領に宛てたガルブレイズの手紙を読んでいると、ガルブレイズは自ら望んでインドに行ったのではなく、体裁よくインド大使に祭り上げられ政権中枢から遠ざけられていることがうかがえる。それでも「親愛なる大統領閣下」で始まるケネディへの手紙の中で、心ここにあらずといった感じで、本国の政策運営についてあーすればいい、こーすればいいと進言しているガルブレイズにはとても人間的な親しみを感じたものだ。裏返せば、ガルブレイズにとってケネディはそれだけ革新的で魅力的な人間だったのだろう。しかし何より社会の秩序を維持していくことが自分たちの利益につながると考えている人たちにとっては、ケネディはじゃまな存在に映ったのかもしれない。そんなことを思いながら映画を観ていると、ケネディのあんな札が軍部や政権中枢部にまで及ぶクーデターだったのだという説にもなんとなくうなずけた。そのことを誰かに話してみたくなったが、私の横には私のカバンが置いてあり、その横には女性のバッグが置いてあり、その向こうに座っている女性とは、今同じ映画を観ていても全く接点がない。OLなのか水商売の人なのか、外見からはわからないが、平日の午後こうして映画を観ているのだから出勤前のクラブの女性なのだと思う。今夜は「J・F・K」を観たことを誘い水にして60年代を振り返って、青臭い話をしても文句の出ない地位や立場にたどりついた人たちの話にうなづいてみせるのかもしれない。大概の人は年をとるにつれて、自分の好みをそのまま他人にぶつけて、カチンと当たって共鳴するようなことは本当にまれにしかないことに気がつき、自分の心は小さくたたみ込んで何処かにしまい込んで暮らすようになる。あるいは外見からはとてもそんなふうに幼くは見えないけれど、もしかするとケビン・コスナーの熱狂的なファンなのかもしれない。ケビン・コスナーの出る映画は全部観ていて、スクリーンにケビン・コスナーが映っていればそれで満足で、もし喫茶店でお茶でも飲んだらケビン・コスナーがどんなにすばらしいかを延々としゃべりだすかもしれない。そう思うと、今度は、昔はよかった、昔はよかったと言いたげなケビン・コスナー共々、少々うっとうしく見えてきた。結局ケネディがなぜ暗殺されたのかはよくわからなかった。ほとんど表に出てこない、私の全く知らない、アメリカ社会の中の問題が背景にいあったのかもしれない。映画が終わると早めに席を立った。人の流れにのって通路を歩いた。たまに入ったパチンコ屋で、結局玉はなくなってしまったけれど、多少の疲労感とそれなりの満足感を感じながら店を出るような気分だった。外に出ると雨は上がっていてまだ明るかった。あっちこっちに人が分かれていく中で立ち止まって、さてこれからどうしょう、お腹もすいたし、何か食べようかと思っていると、二人の女性の後姿が目に入った。しかしそれがさっきまで横に座っていた髪の長い、スカートの短い、足の細い女性かどうか、私には判別できなかった。東京から家に帰ってしばらくすると、TVで東京でロック歌手の尾崎豊が死んだことが報じられた。
2002年11月18日
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【エッセイ】(前半)新宿で「J・F・K」を観た 観音寺市 いむたん一人で知らない街に行き、ぽっかりと空いた時間を埋めようと思ったとき、私には映画館より外に行き場所がない。公園でベンチに腰掛けて、ぼんやりと木立の緑や池の水鳥をながめていることも悪くはないが、それも天気しだいで、肌寒い早朝ではじっと座っていることは苦痛だし、日中雨でも降り出せばもうダメである。新宿ではまさにそんな状況の中にいた。雨の中を、傘をさしてもしだいに濡れてくるカバンやズボンを気にしながら、昼間からソープに誘うポン引きの兄ちゃんを「マリオンは何処かなあ?」などとボケ倒して振り切る。何館かある映画館の上映作品と上映時間を一通り見て回った後、ちょうど上映時間を半分くらい過ぎたあたりの「J・F・K」を観ることにして映画の券を買った。もっと軽い映画を観たい気分だったが、これというものが見当たらなかった。喫茶店やレストランに入るととても緊張するのに、映画館の中に入ったとたんホッとしている自分。自動販売機でカップのコーヒーを買い、上映中は左側の通路より中に入ってくださいという案内にしたがって、横の通路の前のほうのドアから映写室の中に入った。平日の午後で三割くらいの入りで、端の方の区画はポツンポツンと人が座っていた。余り前では見づらいのでニ・三列後ろの左端に座った。「J・F・K」が30年前に暗殺されたアメリカ大統領のことで、その暗殺を巡っては不可解なことが多く、真実は闇の中ということや、1960年代の当時の社会情勢は米ソの激しい対立の続いた時代で、アメリカがベトナム戦争の泥沼に入り込もうとして時期で、国内では黒人の公民権運動が大きな盛り上がりを見せ、ケネディの連邦政府が南部州政府に対して黒人の立場を代弁する形になっていたことなど、なんとなくわかっていたので、途中から観てもそれほど違和感はなかった。しかし映画の中味より、でっかいスクリーンや大きくて柔らかい音声、ゆったりと座れるシートなどに気持ちがいき、都会ではまだまだ映画は割安でいい娯楽なんだと実感した。スクリーンの上では、ケビン・コスナー演じる検事?がケネディは複数の犯人によって組織的に暗殺されたことを明らかにしていく。人間は社会的な立場と社会の状況に従って生きなければならず、たとえ大統領であろうとそれを逸脱すれば社会から排除されてしまうのかもしれない。検死の時の頭を撃ち抜かれたケネディの姿はとても残酷な現実のようで、もう一度確かめてみたいような気持ちになった。罪を犯した者が公正に裁かれることは公正な社会を維持していくことにつながるのかもしれないが、ケネディの暗殺に荷担したと見られる人物の裁判の評決の結果にはあまり興味をもてなかった。映画が終わって休憩に入った。もう一度はじめから観るつもりでいた。正面のやや前に寄ったあたりの区画が指定席になっているようで、館内放送で一度観た人は他の席に移るように促していた。室内が暗くなって上映が始まろうかという頃になって、髪の長い、スカートの短い、足の細い二人の女性が横に来て列の中に入るようなので、通路へ避けようとしたが、立ち上がったところで入ってきたので反る感じで二人を通した。二つ席を空けて二人は座って、それぞれバッグをシートに置いた。再び上映が始まると、それまで気に止めていなかったのに、字幕スーパーがスクリーンの下側に出たり右側に出たりすることに気付いた。室内の左端に座っている私はスクリーンをかなり斜めに見ているので、スクリーンの右側に出たスーパーを読もうとすると、さっきの女性一人が足を組んで座っているのがどうしても目にはいる。と、自分にいい訳している。スーツ姿の年配の男性が途中から入ってきて前の方に座るが、しばらくすると外に出ていく。私と同じようにぽっかりと空いた時間を埋めるためにたまには映画でもと思ったのだろうか。しかしその人はたまに入ってみたパチンコ屋でニ度三度とあっという間に玉がなくなってしまい、きまり悪さだけを感じながら店を出て行くときのような気分かもしれない。それから。また入ってきた別の男が通路を上がってきて私の横で立ち止まった。私の隣には私のカバンが置いてあり、その横には女性のバッグが置いてあり、その横には髪の長い、スカートの短い、足の細い女性が足を組んで座っている。私は固まってじっとしていて、無理に入らなくても他に空いた席はたくさんあるだろうと思っていた。知らない人間が隣合せに座るほど館内は混んでいない。その男が横に立っていた時間は結構長く感じられた。五十歩百歩の自分を意識しながら、五十歩と百歩はとても違うと、また自分にいい訳している。男がどこかに行ってしまい、ホッとしながらふと思った。私は、中に座っている二人の女性にとって、変なおじさんに煩わされずに、くつろいで映画を鑑賞するために横のシートに置いてあるのかもしれないバッグと同じ役割を、結構喜んで買って出ているバカなのじゃないかと。そう思うと、さびしい気持ちになり沈み込む。
2002年11月17日
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【連載】曽保みかん百年史(第1回の2) 松山から二人が帰った次の日の十二日まず組合費として一人十円ずつ集めることになった。九平はん、貴一郎はん、隆明さん、平二さん、文明さん、良弘はん、義正はん、茂さん、精一つぁん、小曽の正義っさん、快秋さん、彰亮はん、松造はんの十三人が参加する事になって、名前は七宝山にちなんで「七宝果実出荷組合」と決まった。選果機は「彩六会」と同じ久米村の仙波式を二台注文した。それが観音寺の港へ着いたのが十一月十六日で、そこからは猫車で運んで来た。共撰場を建てる場所は平二さんが出してくれて、作っとった麦畑をまだ芽が出たばっかりのころに地均ししてそこに建てる事になった。今はレモンが植わっとる出張所の上の畑んとこよ。大工は岡田はんに頼んだ。十一月二十一日に建前をして、その時にレッテルやスタンプ、組合長印、箱を打つ釘や縄も買うた。実際にやり始めると細かい事がわからんようになって、二十三日に文明さん、平二さんがもう一度伊予へ行って聞いてきた。二十六日には箱も五千注文して、共撰場は大急ぎで造ったのでトタン屋根やったけど十二月に入ると何とか選果が出来るようになった。 記念すべき初出荷は大阪の木津(後の大阪中央市場)で、十二月六日(火)のせりやった。その時は観音寺から船でミカンと一緒に義正はん、良弘はんが行って、売り込みの相談をしてきた。大阪へ出荷するようになると、今まで二十銭を割っていたミカンが地場相場より手取で一貫目当たり四~五銭高になって、出荷組合を作った事はまず成功やった。常雇は箱打ちに音吉つぁん、これがほんまに箱打ちの名人で、他の男衆(おとこし)の倍は打ちょったの。それに女衆(おなごし)が三~四人箱詰めに来よった。年が明けて旧正月に十一円五十銭もはりこんで、組合の前で記念写真を撮ったのが今も残っとる。義正はんが抱いとるのが、義富さんじゃが。雇い人の給料やミカン代金の計算などの組合の事務は隆明さんが事務員を兼ねとった。出荷組合が販売をほぼ終了した三月十三日、新たに栄はん、丈太郎はん、僖光つぁん、広江の兵太郎はん、兵治郎はん、泰良はん、為利っさん、正義っさん、庄太郎はん、利秋さん、猪和太はん、義規さんの十二人が組合に入り、総勢二十五人になった。その年のミカンが一段落すると、共撰場が狭すぎるので奥へ増築する事になり、大工の古市つぁんに頼んで、今度は瓦屋根で建てる事になった。三月十五日に建前で出来たのが五月三日、はじめからの組合建設費用は二千百二十九円十六銭になった。県と郡の農会が八日に竣工検査にきて三十日に奨励金を七百九十円くれた。 それでも、二十五人で二百五十円と県の補助金を合わせても千円ちょっとしか集まっとらんのに後の千円はどしたんぞと言うのかい?なかなか鋭い質問じゃが、足りないのは義正はんが立て替えて、後で売上金のほうから払うていったんよ。さすがは多吉つぁんの跡取りじゃわ。資金の心配をせんでも良かったというのは当時としては恵まれとったと思うのう。 またなんで県が奨励金をくれたかと言うと、ちょうど昭和八年に県は果樹の集団生産奨励計画をたてたんよ。いわゆる第三次果樹増植計画で、海岸線、島諸部の安山岩、花崗岩にはミカン、防風林に枇杷を植えなさいちゅう事を決めて、はじめて集団化や専業経営規模を目標にすることが打ち出されてのう。県農会では新しく青果物販売処理要項を作って、青果物出荷組合の結成、共撰場の設置を力をいれて進めようとした、その第一号が「七宝果実出荷組合」やった訳よ。昭和九年には県下で三十一の青果物出荷組合が出来とるきん、どれくらい力が入っとったか分かるやろ。県も曽保の出荷組合がうまいこと行ったんで、それを見て計画を作ったんとちがうんかいな。そろそろ夜も更けてきて、おらも眠とうなってきたきん、今回はこの辺まででやめとくわ。またいつぞにひょこっと出てくるかも分からんけど、それまでご機嫌よう。《お願い》この「狸」さんはかなりのご高齢で、記憶力も落ちています。この文章を読まれた方で、「事実と違う」とか、「こんな事もあった」とかお気づきの事がありましたらtetywestまでお知らせください。できるだけ詳しい、正確な昔話を「狸」さんに思い出してもらいたいと思っています。みなさんのご協力をお願いいたします。
2002年11月16日
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【連載】曽保みかん百年史(第1回の1)出荷組合誕生の巻 オリンピックが二つもあって、天皇陛下の中国ご訪問が決定されて、カンボジアも平和部隊が派遣されて、平成四年も結構いろんなことが起こんりょるけど、ここ曽保地区でもかつてないほどミカンの実が樹にひばりついとって、みんな摘果に精だっしょらい。バブル崩壊とかで株の値段も安うなってこの先景気が心配やが、これは前にもどこかでみた風景ではないかいな?おお、そういえばちょうど六〇年前の昭和七年も景気の悪い時代やった。東北の方では食うものがのうて娘を売りに出したちゅう話を聞いたことがあったが、犬養首相は暗殺されるし、満州ではラストエンペラーの薄儀を担ぎだしてくるし、暗い話が多かった中でロサンゼルスオリンピックでの水泳の活躍などが明るい話題やったかのう。 突然こんなことを言い始めたおまえは誰かと言いたいのやろ?おらはのう、日枝神社の裏にもう長いこと住んどる狸よ。今話題の金さん銀さんよりもうちょっと長いこと生きとるかいのう。ここらの景色も昔とはだいぶ変わって住みにくうはなって来たが、この前の戦争からこっちは世の中がまるで変わってしもうて、昔のことを言い伝える事も少のうなったんで、ここらでおらの昔話でも聞いてもらおうかいなと思うて出てきたわけよ。 時は昭和七年十月の末、ミカンの値段はどんどん下がってついに二〇銭を割り込む事になった。当時のミカンの相場ちゅんが「米一升、ミカン一貫目」といわれて、四〇~五〇銭やったかいのう。それが十七~十八銭になり、オニ(皮の厚いミカン)やビリ(小玉)は八~十銭、ギリ(最も小玉)は五銭になった。たとえ話になるがここに金の茶釜があって、仮に百円の値打ちがあったとせんかい。しかし買い手がなかったら相場はつかん。ようやく買い手がついて仕方無しに安く売ってもそれが相場というもんよ。当時のミカンはそんな茶釜やったんよのう。それでも他の物も同じ割合で安うなって、その調子で経済がクルクル回って行けばなんとかなるんやろけど、まったく回らんようになってしもた。これではとても食うていけんわいな。仁尾町でも何とかせなと失業対策(しったい)の土木事業を始めたのもこの年やった。 そこで十一月のはじめ当時の「大作り」連中がオトメはんきの二階へ寄って、「何とかせないかん。」と相談をした。義正はん、平二さん、文明さん、良弘はん、精一つぁん、貴一郎はん、快秋さん、九平はんやがおったかいのう。快秋さんが「伊予の方では二~三年前から共同でミカンを出荷しよるげな。ほんで大阪で高うに売りょるげな。」と言うので、「ほんだらまずそれを実際に見て来んか。」ということになった。 十一月十一日(金)朝、義正はんと良弘はんが伊予の松山の駅へ降りた。どこへ行ったらいいか当てもなく大通りを歩いていくと、六~七百メートルほど行ったところに「伊予果物同業組合」という看板がかかっている。「とにかく此処へ入らんか」と、ガラス戸を開けると、中には五十~六十歳くらいの人がおった。その人はちょっと中風気味で片手が不自由なようやった。「私らは讃岐でミカンを作っとんやけど、伊予では共同でミカンを出荷しよると聞いて来たんやけど。」「そらあよう此処へ来なさった。確かに数年前から共同出荷をはじめてなかなか良い成績を挙げよらい。あんたらは運がいいぞね。何なりと教えてあげらい。」と言うような調子で出荷方法や共同計算の仕方などを教わった。おまけに駅の方へ二~三百メートル引き返したところにある「彩六会」を紹介してくれた。ここは六人でミカンの共同出荷をしている組織で、選果場には伊予ミカンのレッテルを貼った木箱が積み上げられ、仙波式の選果機でミカンをより分けていた。実際の共同出荷方式を見て、「なるほど、これならわしらにも出来る。」と感じた二人は伊予果物同業組合のおっさんにお礼を言って、帰ってきた。この中風のおっさんが、岩田千太郎と言う人やったと良弘はんは言うんやが、愛媛の方の本には当時の伊予果物同業組合長は岩田鷹太郎となっとるので、ちょっと疑問が残っとる。まあそんなわけで、帰ってみんなに話をすると「共同出荷をせんか」と言う事になってさっそく準備にとりかかった。
2002年11月15日
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【アメリカ合州国研修報告】(第6回)とにかく、アメリカは広大であった。我々が7日間かけ、飛び、走り抜いた距離は想像を絶するが、今アメリカの地図を開いてみると一州の5分の1も見ていないのだ。この広大な土地と安い労働力、そして莫大な資本投下による農業生産は強大である。日本とは全ての面で逆だ。ただ将来的には、柑橘の生産は逓減傾向にあるという。つまり、資本投下の回収に時間がかかるので、新たな投資(融資)が難しくなっている等の理由からだ。さて、日本のみかん産業だが。ミセス中川が云っていたが、キロあたり500円以上もするみかんの相場は日本にしかない価格形態だ。だとすれば、日本の市場では、アメリカ的経営よりも品質に重点を置いた日本的経営の方がマーケティングしやすいことになる。とにかく、国際競争力をつけるための日本農業の努力として、生産性の向上、経費の削減と言われるが、全てに於いてアメリカの水準に達することは不可能である。逆に、アメリカ人にオレンジの袋掛けを作れといっても不可能だろう。安易な生産経費の削減より、経費(手間)を思いっきり掛け、より高級品を生産し、付加価値の高い商材として流通さすことが、輸入自由化に対抗する手段と考える。日本の市場形態、消費システムは、これに十分答えてくれるハズである。しかし、これらのことも、日本のすべてのみかん産地に当てはまることではない。価格の二極化がすすめば、やはり最後には適地が残るだろう。そして生産者の熱心さが、より重要となってくるだろう。自由化こそ、仁尾のみかんが、全国のトップレベルのレールに乗るチャンスと確信する。終わりに、ひとつだけ敢えて言いたいことがある。カリフォルニアのオレンジジュースは、とにかく美味しいことだ。そして、安い値段で、どこででも飲めることだ。ポンジュースを尻目に、今、またカリフォルニアのオレンジジュースを飲みたいと考える自分の気持ちが恐ろしい。(アメリカ合州国研修報告は1990年9月にみかん作りの若者(?)数名が米国を訪れた際の記録です)
2002年11月14日
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【アメリカ合州国研修報告】(第5回)9月7日、モーニングコールが8時にかかる。今日はハードスケジュールだ。午前中、国境の街ティファナ(メキシコ領)へ入り、午後ラスベガスへ飛ぶ。サンディエゴから27km南へ突っ走るとメキシコだ。ティファナへ入るのは遊園地へ入るより簡単だった。ノーチェックで回転扉の通用門を抜けるだけだ。72時間以内の滞在ならば入国手続きはいらないとの事。一歩内に入ると異様だった。風の匂いが違い、こう云った暮らしがまだあるのかといった光景だ。家屋も非常にみすぼらしく、掘立小屋の様な家もある。衣服も粗末で何か汚れがしみついているようだ。メキシコ人にジロジロと見られながらバスに乗り込む。このバスが又すごい。ボデーには銃弾の跡があり、割れた窓ガラスはテープで補修してあり、クーラーは当然効かない。15分も走るとティファナの繁華街だ。バスを降り、ショッピング。世界の高級ブランドの山だ。全てがイミテーションである。値札の3割から5割は値切っても良いと事前に教えられていた。こういうショッピングは最高におもしろい。メンバー全員が思い思いに買物をしたが、中には値札の2割まで下げて買った物(者)もあった。革・銀製品が有名。1ドルが2500ペソのレートだ。通りを歩けば、何人もの商売人が手にいっぱいアクセサリーを下げ、口説きながらついて来る。中には子供連れの者もいる。しかし悲壮感は無く、親子の笑顔が非常に明るいのが救いだった。昼食をティファナで一番最高とされるレストランで取る。K市の駅前食堂に毛がはえた程度である。テキーラとライム果汁をミキシングした酒を飲む。日本ではライムは高級だが、メキシコではレモンの代わりに多用するらしい。パンはアメリカより固いが美味しかった。12時過ぎ、再び国境へ出た(戻った)。途中、山並みの光景に驚く。メキシコ領は家屋が国境線までいっぱいだが、アメリカ側はハゲ山で家は全然無い。検閲は黙ってパスポートを見せるだけだった。ただメキシコ人には時間をかけていた。傍らで待たされている者も何人かいた。アメリカ側へ入った途端、200メートル位先の有刺鉄線のある塀で、警官がメキシコ人を追いかけていた。すぐに捕まり、日本の護送車の様な車で連れ去る。毎日多くのメキシコ人が塀を乗り越えて来るそうだ。10数人が一度に乗り越えてくると、警官も手に合わず何人かはアメリカへ逃げ込んでしまうそうだ。捕まっても、罰金もなく強制送還するだけと聞いて驚く。この辺にアメリカのズルがしこさを感じた。特にカリフォルニア・アリゾナ辺りの底辺の労働層はメキシコ人であり、彼らが貴重な労働力になっているようだ。不法労働者を含めたメキシコ人がいなければ、サンキストの農園も絶対に成り立たないと確信する。アメリカで1日働けば、メキシコの10日分に相当するようだ。(それも州の最低賃金に近い労働で)(この日の午後、私達一行はラスベガスに飛び、翌日グランドキャニオンを見学。ロス・アンジェルスで2泊した後、大阪に向けて帰路についた。)
2002年11月13日
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【アメリカ合州国研修報告】(第4回)カリフォルニア柑橘とその周辺を見て(観光編) 中野スジ吉9月6日、まだ陽が高いうちに、サンディエゴのホテルにはいる。Bクラスのホテルだがきれいだった。帰国後、ガイドブックで調べると、ホテルのランクには、L・A・B・Cがある。サンディエゴと明日のラスベガスのホテルがBランクであった。前回に、ロスのホテルを三流と書いたが、我々が泊まったホテルのすぐ近くにCクラスのホテルがあり、その外観を比べる限り、D以下と帰国後納得した。ホテルからの眺めは云うことなし。眼下には大きな入り江が広がり、海は青く帆船が浮かび、カモメが飛ぶ。海軍の基地があるため、大型艦船が停泊している。ホテルの前に海上レストランがあったのでビールを飲みながら軽い食事をした。その後、有名なシーワールドへ出かけた。シャチのショーである。が、入場時間が少し過ぎていたため、チケットが買えない。大月氏が、事務所まで行って黒人の女性と交渉してくれたが、返事はノーであった。時間には厳格だ。仕方なく、散歩で時間つぶしをする。入り江沿いに遊歩道が延々と続く。みやげ物屋を覗いたり、外人のネエチャンに声を掛け一緒にカメラに収まる。(身振り手振りで、なぜか意志が通じる。)大月氏の注意だが、ホテル内外で下着姿はダメ。しかし、海水パンツをはいておれば、上半身ハダカはOKとの事。この辺りの国民性の違いは、我々にはピンとこない。女性も身に着けているものは小さく、少ない。これはたいへん結構!!!!!N君は、すでにアメリカ人になりきっていたのか下着のパンツ(トランクス)で歩いていた。二日後のロスでもトランクスだったと思うので、彼は丸2日、パンツでカリフォルニアを歩いたことになる。ホテルでの夕食は、シーフードであった。飲み物は、ワイン(白とロゼ)、ビール(味が濃いと云うのでメキシコもの)にする。これだけ注文するにも結構時間を費やす。ボーイを呼ぶにも「オーイ、こら」である。幸いにも、これで来てくれる。フルーツは、まずまずである。デザートのケーキは、種類は多いが甘すぎる。もちろん、メニューを指さしての注文である。コーヒーは、つぎつぎと減ったらボーイが入れてくれる。「ノーサンキュー」と云うまで入れてくれる。有難いことだ。
2002年11月12日
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【連載エッセイ】誰が為に金は成る(第2回) 平 民永人はなぜ旅をするのか?そこには異文化とのふれ合いがあるからだ。日常の生活は感覚を摩滅させる。騒音は感じなくなり、悪臭は感じなくなり、隣にいる家内までも感じなくなる。人が自分の文化を意識するのは、異なった文化との接触による。近ごろ海外旅行が大流行なのも、もはや日本の中で異文化に接触するチャンスが少なくなってしまったからではないだろうか。日本の町並みはどこへ行っても余りかわりばえのしないものになってしまったようだ。そこにくらす人の考え方も似たり寄ったりで、子供をいい学校に進学させ、いい会社にいれてやるのが親の務めと、子供を塾に追い立てる。連休、お盆、正月には民族の大移動をやっている。毎日食べる食事までが、季節感のないマニュアル通りの献立である。旅は人間本来の感性、日常に埋もれて摩滅させられた感性を再び呼び覚ましてくれる。旅でふれ合う文化は日常とかけ離れているほどすばらしいと感じ、満足の度合いも大きくなる。立場を反対にして訪れる側から迎える側にたってみれば、これは相手にいかに大きなカルチャーショックを与えるかと言う事になる。それは食べ物でもいいし、風景でもいい。「仁尾へ旅行したとき、ヒラメを食った。」「あの白い砂浜は印象的だった。」どうも弱い気もするが、こんな事なのだろう。「鮫と遊んだ」とか「モノレールで山のてっぺんへ登った」くらいのインパクトがあった方がおもしろいと思う。もっといいのはそこに住む人間の生き方である。吉津峠と大滝に「仁尾の町民の食べる野菜は全て自給か産直です。」「後継者は必ず町内に留まっています。」というような看板でも立っていたらそれこそカルチャーショックの最たるものだろう。人口の八割が都会、準都会に住んでいる現在、田舎は希少価値の時代になった。田舎はそれをもっと認識すべきである。日本の文化の特徴をあえて一言で表現するならば、「人並」の文化だといえる。自分の状態を認識するために、まず右を見て次に左を見て同じか、少し自分が良ければまず安心する。不幸にも?少し悪ければたいへん不安になり、同じになろうと努力する。日本の国民がみんなそうやって右見て左見て、不安になって努力したので日本は世界でも有数の経済大国になりましたとさ。しかし、今からは人と違ったことが価値がある時代になる。社会が成熟してくると人はアイデンティティーつまり「人とは違う」ことを要求し始める。「ひと味違った」というようなコピーや「本物指向」の傾向はそのいちばん初期の特徴といえるだろう。次第にそれは全体の傾向となり、社会生活や家庭生活に広く浸透していくことになる。学校の評価方式も、入学試験の方法も、そして最終的に何が人生の幸福なのかということも今世紀末までの間に変わってしまうだろう。もうそろそろ右見て左見てはやめませんか?
2002年11月11日
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ウィンディ・ヒル やらねばいため相撲が終わり、バルセロナオリンピックそして高校野球、海だ山だの真っ最中、ひっそりとひっそりと迎える終戦記念日。半世紀が経ち路傍の石仏の様にすっかり風化してしまった。この2・3日、テレビでは思い出したように戦争をテーマとしたドラマがバラエティ番組の間にお義理の様に流される。そんなドラマを見る度にある疑問に突き当たる。我々日本人が戦争を考えるときには被害者として考えることが多いのではないでしょうか。学徒動員しかり、空襲・学童疎開しかり、沖縄本土決戦・特攻隊しかり、広島・長崎原爆しかり、親子・兄弟・夫婦の死別を鬼畜米英による被害者として考え語りマスコミも報道していることの多さに気付きます。はたして日本人は被害者だったのでしょうか。そういう世界の常識からかけ離れた甘えた被害者意識に「ちょっと待ちなさい」と起こってきたのが従軍慰安婦であり、兵補であり南北朝鮮・中国への謝罪と補償の問題でしょう。戦後40年経った今でも戦争の傷の癒えない人達が日本にもいるように、日本人によってじゅうりんされたアジアの国々にはもっともっと沢山悪夢にうなされ続けている人々のいることに、戦争を知らない世代も同じ日本人の犯した罪として心の底から反省し、補償もしていかなければならないと感じます。「戦争は知らない」と居直るのではなく、知る努力、知ったことを多くの人と語り合い、戦争の愚かしさ、空しさ、惨めさを認識し、不戦の決意を信念として持つことが同じ過ちを二度と繰り返さない唯一の道であると信じます。恥を知らない国民は必ず滅びます。国の意志は独裁者や政治家や軍部が決するのではありません。国民の気持ち、雰囲気を巧みに利用し誘導する人達によって決するのです。つまりはじめに私達の気持ちの持ちようありきなのです。差別、恐れ、欲から戦争ははじまります。一度はじまれば坂を転がる石のように回り続け、壁にぶち当たらない限り人の力などでは止まりません。それ以上の巨大な暴力以外に止める術はありません。親兄弟、子供・友人を失い、無惨にも焼けただれ砕け散った故郷の山河が戦争の空しさを語っても決して戻ることはありません。被害者として戦争を語るうちは、詫びる気持ちがないから、どうしても再戦の危険な可能性を残すのです。「金は貰ってないし私は辞める気はない」彼は報道陣をにらみ強気にしゃべった。その3日後、数々の事実を前に金銭の授受と職を辞することを肩を落とし放心した様な顔でしゃべった。越後の知事さんのことである。しかし私には彼が反省している様には見えなかった。彼の顔が「なぜ悪い、俺だけじゃない、運が悪いだけさ」と語る。こんなシーンを今まで何度も見せられた。その度に失望し怒り、政治の世界の暗黒面に憂うつになる。政治にかぎらず経済・スポーツ・芸能、大人を取り巻くあらゆる分野に暗黒面を見る最近、世の親たちは子の成長に、成長して入っていくであろう社会に不安をおぼえているだろう。「清く、正しく、美しく育ってほしい」と願う大人たちの社会は、恥を忘れた不節操の世界になってしまっている、嘘をついても平然とし、何の恥ずかしさも感じない社会だ。最高学府を卒業してエリートコースを歩んだ人達がこの惨状である。世の教育パパママたちよ、貴方達の信ずる学歴尊重社会は金という悪魔に魅入られた虚無の世界なのです。神をも恐れぬ傲然とした彼らの姿が、貴方達の望んだ子どもの未来なのですか?野を渡る風よ季節を運び大地に稔りをもたらす風よ人間の愚かさをあきらめることなく太陽の子供達を健やかに育みたまえ未来に生きる子供と豊かな自然こそ私達に残された唯一の望み
2002年11月10日
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二人で摘果 愛媛県吉田町 F岡M彦もうすぐ、10回目の結婚記念日がやってくる。9才を頭に、三人の娘の父親である。一番下は、4才。今年から、保育園に行くようになり、妻の手もあくようになったので、母と妻が家事と農作業を交替する事になった。今年の摘果(果実の間引き作業、温州ミカンの場合7月下旬から9月上旬にかけて行う)から、妻も本格的に農作業に加わるようになった。妻は今までの9年間は育児と家事に専念していて、家のみかん山の場所さえわからないような状態であった。ましてや農作業については、想像するまでもないだろう。私はこれまで父母と三人でやっていた作業を、父と妻との三人でやることとなったのである。母と妻が入れ替わっただけだし、作業能率が上がったというわけでもないのだが、何かが違う!父が留守の時など、二人だけでやっていると、はっきりわかってくる。他の職業に、他人の目を気にすることなく、夫婦二人で楽しみながらできる仕事があるだろうか?3Kの代表と言われている農業ではあるけれど、妻と二人で楽しみながらやれば、捨てたものでもないと思う。但し、楽しみながらできない作業も結構多いのだ。そんな楽しみながらできない作業をどうするかが、問題である。良い事ばかりの仕事はないと思うので、少しでも楽しみながらできる作業を多くすることが私のこれからの目標である。私たちは、子どもたちの将来の事について、家にいる時や山で仕事をしながら話す事がある。妻は子どもたちに、農業ではなく、何か別の安定した職業についてほしいと考えている。それに対し、私は、三人の子どもたちに、できれば一人は家を継いで農業をやってもらい、二人は農家に嫁いで欲しいと思っている。そのためには、すべての職業を平等に見ることのできる目と知識を教えたうえに、農業の良さを自分の態度で子どもたちに見せることだと思う。妻にも同様で、これから農業をやりながら農家の良さや農業の良さを知ってもらい、子どもたちにも農業をやってもらいたいと願うようになって欲しい。そのためには、自分自身が勉強し、新しい農業を目指すとともに、違う角度からみている妻の考えにも、耳を傾ける気持ちを持つことだと思う。同志会の役をしているので、新婚、未婚の農業後継者と話すことが多くある。そこで感じることは、女性に対する考え方や態度に偏見があるということである。特に、独身者は、それゆえに嫁さんがもらえない。妻帯者の中にも結構いる。俗に、釣った魚にエサはいらないとよく言う人がいるが、それでは楽しい家庭生活を過ごすこともできない。しかし、考えようによっては、ほんの少しのことで、簡単にできると私は思う。一つは、うそをつかないこと。そして、もう一つは、年に3回プレゼントをすることだ。3回とは、誕生日、結婚記念日、クリスマスである。品物や金額はどうでもいいが、誕生日に真紅のバラの花束というのはどうだろう!私は10年間、一度も欠かしたことがないつもりだ。色々な役職で、年中家に居ることが少なく妻に迷惑をかけてはいるが、おかげで楽しい日々を過ごしている。難しそうで、やってみれば意外と簡単なことですよ、皆さん。試してみて下さい。最後に、この原稿は、妻の手により、校正され清書され、いざ香川へ向かってポストに!!※編集室よりF岡さんは南予果樹研究同志会の会長を務めていらっしゃいます。去る7月に、私たち農民倶楽部のメンバーが視察研修のため吉田町を訪れた際にいろいろとお世話をして頂きました。F岡さん、どうもありがとうございました。
2002年11月09日
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【直撃インタビュー】(2) ①今まで自分が女性差別(蔑視)を受けた出来事等は?あっるよ~。忘れもせんけど、あの忌々しい「ゴルフ事件!」。本コースをまわりよったら後ろのグループのおっさんが、「女の子がはいっとんは遅いんやけん、打ったら走るとか、クラブを常に2・3本持ってまわれ!」これどう思う?ひどかろ?あれって、私の前のコースの人が遅かったんよ、本当は。②日常生活あるいは日本社会の中でこれは差別だなと思うことは?ある程度年齢が上になったら、上司が「まだ、結婚せんの?」(いらんお世話よ)年をとっても働きやすい状態にしてほしいわい。③会社での灰皿、お茶汲み、掃除については?今まで気がつかんかったけど、それはあるかも知れんね。④フェミニストについてどう思うか?別に悪い気はせん。改善の余地はあるし、してくれればいずれは考えが変わってくるんじゃない?⑤何故、差別が起こるのか、そしてその解決策はあると思うか?ゴルフに戻るけど、見た目で判断すな!私がもし男やったらあんなこと言うたと思う?自分たちが何ができるかと言えばわからんけど、見た目で判断せずに状況判断してほしいわい。 《某薬品会社勤務》 ①今まで自分が女性差別(蔑視)を受けた出来事等は?実は私、昔から思てた事があんねんね。亥の子さんよ!お金払っとんのにやらしてもらえんやろ。腹立つ~甲子園も出れんし、神様行事も女はあかんしね。建前の餅まきの時、私、女やから屋根に上がらしてくれんかったん覚えてるよ。何がけがれてるんやねん、女の人から生まれてくるのに男の人もけがれてるやんか!③会社での灰皿、お茶汲み、掃除については?仕事はほとんど女の職場やからそういう問題はないね。強いて言えば給料の面。④フェミニストについてどう思うか?偏見すぎると思う。エイズのポスターでコンドームのまん中に女性がいたと、それを見て女性差別してるっていうのは、なんでもかんでもこじつけていように思うし、表現の自由がなくなってしまうん、ちがうかな。⑤何故、差別が起こるのか、そしてその解決策はあると思うか?ピンとけーへん。 《病院事務共稼ぎ主婦C》 ①今まで自分が女性差別(蔑視)を受けた出来事等は?差別という感じのことはないと思う。どうしてかというとすぐに思いだせんけん。②日常生活あるいは日本社会の中でこれは差別だなと思うことは?別にない。③会社での灰皿、お茶汲み、掃除については?みんながしてきとるけん、するもんやと思とった。すんなりと疑問も抱かすにしていた。女やけん私がすると思う。どうして女やけん?社会の風習かな。家ではせんけど。女の人が大切な仕事をまかされてないというのもあるんかな。④フェミニストについてどう思うか?良いことやと思う。その人たちなるに自分のことだけじゃなく、そういうことができない人のことも考えて運動してくれるから。⑤何故、差別が起こるのか、そしてその解決策はあると思うか?難しい。 《現在無職》②日常生活あるいは日本社会の中でこれは差別だなと思うことは?仕事でもあると思うけど、男性と同等の仕事をせんと、そういうことを声を大にして言う権利はないと思う。だって、ドブ掃除するけん作業服着てやって下さい言うてもそこで断ったら、その時点で権利を放棄しとることにならないか。④フェミニストについてどう思うか?そのような運動をしている人は、往々にしてそういう所があるような気がしてならない。女ということを隠れ蓑にして、大きなことを言っても、そういう所を見ている私は信頼できない。 《公務員》先日、会社でMixとCombineの違いがちょっとした話題になりましたが、それは今回のテーマである「女性差別」を考える上でも大切なことではないでしょうか。今の男性と女性は将にCombine(結合する)で性差を感じずにはいられません。女性と男性をMix(混じる)し、ひとりの人間として相手を見つめ始めたとき、性差別だけでなく、あらゆる差別を考え、直視すれば、新たな出発点になるのではないでしょうか。そして、きっと何か見つかるはず・・・
2002年11月08日
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【直撃インタビュー】(1)きっと何か見つかるはず・・・ 今治市 ルーヂャの一愛読者今回のテーマ「女性差別」について、当事者のいろんな意見を聞いてみようと、身近な人達に直撃インタビューを試みました。このような問題を考える上で、女性自身が問題意識として認識しているのでしょうか。人数が少ないわりには、なかなかどうしていろんな意見が出たのではないかと思います。以下、報告します。質問事項 ①今まで自分が女性差別(蔑視)を受けた出来事等は?②日常生活あるいは日本社会の中でこれは差別だなと思うことは?③会社での灰皿、お茶汲み、掃除については?④フェミニストについてどう思うか?⑤何故、差別が起こるのか、そしてその解決策はあると思うか? ①今まで自分が女性差別(蔑視)を受けた出来事等は?日常的にあります。町内会などでも、決議事項等は男性がこないと困るという雰囲気があります。女性同士の会話の中でもそういうことはよくでます。②日常生活あるいは日本社会の中でこれは差別だなと思うことは?例えば学校などでPTA会長は男性であるというのは習慣としてあります。文学作品や映画でも、母性愛や娼婦的なやさしさを求める作品は多いが、知的な輝く女性がでてくる作品は少ないと思います。⑤何故、差別が起こるのか、そしてその解決策はあると思うか?偏見や因習的な根強い歴史があります。社会的にヒューマニストを自認する男性であっても、家では別ということがよくあります。今の時代は家でも国際的な視野でもフェミニストでなければ本当の人道主義者ではありえない。そのことを男性たちにわかってもらうためには、社会的な教育が必要だろうと思います。そのことは男性にとっても女性にとっても必要です。女性ももっと明確なポリシーを持ち示す能力を培うべきであるし、そのことによって主体性を持つことができると思います。 《共稼ぎ主婦A》 ①今まで自分が女性差別(蔑視)を受けた出来事等は?ないことはないけど、強いて言えば、私と同年代の男性は役職になってますね。②日常生活あるいは日本社会の中でこれは差別だなと思うことは?仕事の面では、出張、研修は男性が優先だし、女性は庶務の仕事が多いですね。私の家庭ではないけど、飲みに行って帰ったとき「女のくせに遅い」と言ったり、「子どもの世話はまず母親だ」と言ったり。③会社での灰皿、お茶汲み、掃除については?暗黙の了解みたいなのがある。今の課は女性が多いからそうでもないけど、少ない課だと忙しいときなんかは腹がたつね。⑤何故、差別が起こるのか、そしてその解決策はあると思うか?教育の問題もあるし、根が深いからねぇ、自分も知らんうちにそういうことをしよるかも知れんしね。結局は弱い人が犠牲になっているような気がします。女性自身の主張をきっちりしていくのが必要だけど、男が敵だという気持ちもどうかと思います。意識の面だけでなく雇用形態の面でも変えていかなくては。男より女、自分より弱いものをおいて優越感に浸る(弱いものを支配する)というものをなくさないと、目を向けないとダメ。(秩序というものは必要です)世の中にはいろんな差別があって根本的なものは同じだと思うので、女性差別だけ切り離しては考えられないです。 《共稼ぎ主婦B》 ①今まで自分が女性差別(蔑視)を受けた出来事等は?あんまりない。②日常生活あるいは日本社会の中でこれは差別だなと思うことは?日本は絶対にあると思う。田舎の方が保守的だし現実にある。それを人がどう受け止めるかの問題。③会社での灰皿、お茶汲み、掃除については?仕事として割り切ってやっている。雇用形態が臨時職員というものだから、そうしていかんと不満だらけになってやっていけない。自分の能力とかも考えるし、今の状況は変わらないから、楽しいように考えるしかしょーがない。④フェミニストについてどう思うか?ポリシーを持っていて、いろんな考え方もあるし、別によいと思う。⑤何故、差別が起こるのか、そしてその解決策はあると思うか?手っ取り早いのは男性の意識を変えてもらう。世の中の仕組みを変えるか、そういう運動をしている人達に頑張ってもらったら。自分ではタッチしない。自分というものを確立するために今は必死だから。 《契約社員》
2002年11月07日
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四十路のひとりごと 仁尾町 マダム・コンプレインちょっと聞きたいと思いよったんやけどなあ、御主人、夜や休みの日、どうやって過ごっしょる?私いつも思うんやけど、昼間同じように働いて、それからご飯のかまえ、後片付、子供の世話やら何やら、女は寝るまでゆっくりする間もないのに、男いうたらテレビの前に腰据えて「おい、メシはまだか。」ご飯がすむとソフトやバレー、はたまた「一杯」のお楽しみにいそいそお出かけ。休みは休みで、それの24時間版。その上、行き届かんことがあると「あれしとけよ、これしとけよ」ちょっと、ええ加減にしてくれる?なんでこんなに不公平やのん?あのな、男は休日があるかもわからんけど女の用事は「積んでは崩すサイの河原」、365日、年中無休なんやで。男は仕事のことだけ言よったらそれで通るかもしれんけど、女はそうはいかんのやわ。何とて守備範囲が広いのやから。なんぼヤクルトの飯田が駿足でもレフトの端からライトの端まで守れいうたら、そら、息も切れるし、エラーもするわな。炊事、洗濯、掃除に育児、家計のやりくり、親類近所のおつきあい、PTAに子供会・・・ああしんど。せめて、人が忙しい時くらい、ちょっと手助け・・・いや、そこまで言わん。自分のことくらい自分でしてな、人使わんと。文珍さんの話にもあったやろ、濡れ落ち葉や粗大ゴミの話。女に頼りきらんと、ちょっとは自立して欲しいわ。「わしが稼いで女子どもを養ってやっとんのに」・・・ひと時代前の話せんといてよ。家事をしてくれる人がおるきんこそ仕事に専念できるんやろ?お金に換算して請求書出そか?・・・とまでは言わんけど、「女は男の従属物、使って当たり前」みたいなものの考え方はもう捨てんと、そのうち息子や妻から自分が捨てられるかも知れんわなあ。自分も一人の人間、ほんなら女房も一人の人間。もっと尊重してもええんと違う?いちいち口に出したりせんでもええから心の中ではちゃんと認めてよ。女のしんどさ、忙しさ、そして強さも。(今日、排水口に詰まったゴミをてで取りながら思った。子どもを産むときの痛さと、おむつのうんち触ったことを思ったら、少々のことは何でもないわな、と)男やきん、女やきん、という言葉で縛らんと、あぐらをかかんと、お互いの垣根を取り払うて、お互いを思いやりながら自立していけたら、女の社会参加ももっと活発に出来るのに。なに?おたくのダンナは何でも自分でするし、おむつも替えてくれるって?ウーム!(エッ!スゴイ!ウラヤマシイ!)なんや、ほんなら今まで言うたことは私一人の愚痴かいな、アホラシ。(以上、オバサンのぼやきが、よそ事と思える女性の一人でも多からんことを祈りつつ、四十路のひとりごと、オワリ。)
2002年11月06日
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わたしもひとこと 仁尾町 田舎を住みよくしたい主婦結婚して十三年経ちました。海にも山にも恵まれて静かな良い環境には不満はないのですが、戦後廃止されたはずの家族制度が、いまだにまかり通っているのには驚かされます。たとえば、結婚を例に取ってみると、何のためにあるのか分からないのが結納。そして結婚後は夫の姓を名乗るのが当然で、おまけに夫の家族と同居したとたんに、私の宗教や支持政党まで家族と同じとみなされてしまう。まったく「此処は何処?私は誰?」の世界です。同居生活がはじまると、夫の家のことは負担するのが当然で、実家のことは遠慮をしなければいけなくなり、また女の子しか生まれなかったら肩身の狭い思いをするハメに陥ってしまいます。今となっては、形式とはいえ、結婚するときに戦前の遺物のような結納から結婚式までの儀式をしたことを後悔しています。今から結婚するあなた、人生の二度目の出発点である結婚を「しきたり」に従うのではなく、今の法律にある「個人の尊厳」や「両性の本質的な平等」に従ってじっくりと二人で話し合ってはいかがでしょう。「しきたり」はなかなか根強いものですが、これがある限り女性の立場は変わらないでしょう。たとえ道路が整備されても、家がきれいになっても「しきたり」がまかり通っている土地には魅力はありません。結納のことや家と家との結婚式ではない結婚という意識がひとりひとりに根付いたとき、「農家で、長男で、三世代同居も悪くはない。これこそ味わいのある人生が待っている」と思ってくれる人が案外出てくるかもしれません。
2002年11月05日
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女だから、面白い 観音寺市 荻田奈津美「まるまる太った女の赤ちゃんですよ」助産婦さんはにっこり笑ってねぎらいの言葉をかけてくれました。「女の子は優しくてええな」「最初は女の子の方が病気もせんし育て易くていいわ」「一姫二太郎、次は男の子やなあ」この世に生を受けて、女の子は優しくて丈夫と相場がつくようです。ところが男子誕生となるとどうでしょう。「おめでとう、後継ぎが出来ました」「まず男で安心、後はどっちでもいいし」「やった!でかした!」きっとこんな会話が飛び交わされることと思います。何か違うなあと思いながら、まあいいか、とにかく大役を果たしたのだから大きな顔をしておこう。家族は「母子共に元気で何より、男の子でも女の子でもどっちでもいい」と言いながら残念とも満足ともいえる表情で、もう気持ちは赤ちゃんの方へ移っている。私も今まで10ヶ月一人じめにしていたのでそろそろ一挙公開とまいりましょう。今度は赤ちゃんの品定めである。これがまた楽しい光景です。夫側の親類が集まると、目は兄弟の誰かに似ているとか、口元は母の里の誰かとか、私の知らない名前が出てくる。なんとも身びいきで身勝手な赤ちゃん評もほほえましく面白い。そして妻側の親類が集まっても、さっきと同様自分側の親族の名前を挙げている。今度は知った人ばかりです。次の日、助産婦さんが回診に来て「まあ、可愛くなって、目元はお母さん、口元はお父さん似やなあ、両方のええところをもろうて将来が楽しみなこと」と心得た言葉を家族に伝え一件落着。・・・・・娘の成長を見守る家族の姿を、特に女性の役割について、日々の生活の中で今一度問うてみようと思います。最近は生活様式が多様化し、夫の単身赴任ましては妻の単身赴任まで登場して、家族構成はますます複雑になり核家族が増えている現状です。「ニューファミリー」とか「ピーターパン家族」なるものが出現し、本来の二世帯、三世帯家族が少なくなり貴重な存在になっています。また同居していても家族内別居のような形をとっている家族もあるようです。他人同士が縁あって共に生活するのだからスムーズにいくはずがありません。いろいろと目に見えないルールが必要です。それは短期間に出来るものではないと思います。お互いを思う気持ち、ここまでは許されるがこれからはいけないとか、自然に時間をかけて軌道修正しながらそれぞれの家庭の法則が出来るのではないでしょうか。基本は相手を好きになることです。それが最も簡単で、最も難しい方法だと思います。でも家族という既成事実がある以上、その中でいかに色づけていくか、その人の器量と才覚なのです。制約があるから張合いがある。女性が家庭の中でなくてはならない存在なのも、その中でたくましく生きているからです。最近は共働きの家族が多くなり、女性は仕事で疲れ、家に帰れば家事が待っている。「女は損だ」とぼやいている人が多い。しかしグチを言っても解決にはなりません。頭を切り換え家事を楽しんでやってみよう。家庭内には女性の役割がいっぱいあります。とにかく体を動かしてみると、今まで気がつかなかったことがいろいろ見えてきます。その中で私はあえて「家庭の花」になりたい。花を添えると言うように主役を引き立てる脇役です。また常に社会の動きを察知し現状を把握しなくてはならない。ここ一番と言うときには前に出られる心意気を持ちたいものです。ブッシュ大統領が倒れたときのバーバラ夫人のあの堂々としたユーモアたっぷりのスピーチを思い出します。女性の役割の素晴らしさを見せてくれた一場面でした。家庭の花は結構忙しい。床の間に美しく咲いている時間がないのではなかろうか。ある時は労働者、ある時は教育者、ある時は評論家、そして旅館の女将もやってのける。それがまた世の中の縮図をみているようで楽しい。主人に言わせれば「ただの宴会好き」と軽くあしらわれる。わが家にスイスの友達が滞在していた時、彼女からお客様を迎える時のノウハウを教わった。私はすっかり気に入り実行しています。それはホスト役は毒味と称して先に試食、試飲しておくこと(わが家のお客様ゴメンナサイ)。すると気分も清々してゆったりする。こちらが楽しいとお客様も楽しい。身勝手な解釈だが妙に説得力がある。とにかく一度の人生でいろいろな役が演じられるのは、女性ならではの醍醐味です。でも時には家庭の花も家族の冷たい仕打ちに人知れず涙していることも忘れないでほしい。女は花、男は大地、土地が肥えていれば花は美しく咲き(化学肥料であれば肥満の花)、やがて実をつけるでしょう。娘よ、いつまでも優しく丈夫でいてほしい。そしてまるまる太った女の赤ちゃんが生まれたら、きっとこう言うでしょう「女だから、面白いのよ」と。
2002年11月04日
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差別について 高知市 M・Y10年前、離婚がきっかけで、東京から姉の嫁ぎ先である高知市へ来て、知り合った二度目の結婚相手は農家の長男。土佐山村という山奥に住む義父母と今だに一度も同居せずにきたのは、やはり私の胸内に偏見とは言えない家父長制の臭いの強い生活への反発があるからだ。「いごっそう」、「ハチキン」といわれる土佐気質独特の血を色濃くついだ主人は「俺は酒も煙草もやらんで真面目」といいつつ、両親に農作業を任せて姿をくらますのが必殺技。未入籍時代に妊娠し、東京での初婚時に心臓病で1歳半の我が子を亡くし丸5年で離婚した経験上、中絶は絶対嫌という気持ちが、かなりのためらいを残しつつも結婚を決めさせる原動力となった。しかしその矢先、相手の両親の思惑からトラブルが生じ、今の主人は自分だけ勝手に悩み3年間もどこかへ雲隠れ。かくしてお腹の子は世にいう私生児として誕生。正式には非嫡出子。役所へ出生届を出しにいって驚いたのは、母方の戸籍のみの子は男女の性別無しのただの「子」、両親の戸籍が揃っていれば長男、長女。思わず唖然としてしまった。それまで深く考えたこともなかったこんな戸籍制度が、かなり深い差別の芽を生む温床とは気づかずにいた。住井すえの「橋のない川」、井上光晴の「地の群れ」等の著作を読んで、差別とは何の根拠もいわれもないところから生じていると教えられてはいたが、自分の出産でそれを目の当たりにみた思いがした。後に佐藤正明氏の著作から、日本のような戸籍制度は世界でも非常に少数であるということを知り、これは長男が家督を継ぐための家父長制の名残に違いないと思った。私のような女性の立場から言わせてもらえば(高知風に)「家がなんぼのもんじゃ!」だ。近頃は女性の立場が強くなったようによく言われるが、実感としてちっともそんな風には思えない。義父母との電話のやりとりにしても「(息子が)苦労かけよるんけど、まあ、女が辛抱できたら家は廃れんから。」の一点張り。希望のみえる苦労は爽快だが、毎日の暮らしを凌ぐだけの苦労には全く意味が見えない。このところ頓に消費生活に嫌気がさしてきて、我が手でしたこともない農業ながらしてみたい気持ちがフツフツと胸奥に湧いてきているが、それに水をさすのが義父母との余りの価値観の違い。私のできる範囲で仕事もするが、幼い子供たちや家族の日常に支障を来たすまいとすれば家事にもかなりの時間が取られる。たまには落ち着いて読書もしたい。365日殆ど家族と違う時間帯に食事をして、土曜、日曜もない1年間の時間の使い方をしている農家の人達をみていると、フッと「母子家庭でいこか」と半分本気で考えてしまう。世に言う農村の嫁不足。これも経済問題(確かに低所得の面もある)や、その労働内容を女性が嫌っているように喧伝されるが、それが本当の原因ではないように思う。既成概念をポマードで塗りたて、ガチガチにして、見直そうという姿勢の全くない生活の中に、ワザワザ嫁に行く気にはなれないからではないだろうか。土佐山村でもほとんどの嫁さんは車で市内へ勤めに出る。私にはその気持ちが分かりすぎるほどだ。良い農業をするには良い農家の家族の関係と良い農村社会の関係がなければ成り立たない。大人と子供、親と子、夫と妻、同性と異性、どんな人間関係にも被害者と加害者が生じないように、実際の生活の中に映し、少しでも改善できるよう努力したい。
2002年11月03日
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シンプルな間柄 観音寺市 ミスター・マリー好きなのはロック。部屋中ロックで満たして、冷たいカンパリソーダを飲むのだ。この時、ボクは今この空間こそが、世界中で一番ススんでいるハイな状態だと思う。なぜなら、ここには男も女もいないから。ボクという一人の人間がいるだけだ。音声を消したテレビは、あいもかわらず擦りきれたラヴストーリー。「トレンドな」・・・という言葉が流行るわりに、社会は少しも新しくない。社会ほど変わらないものはない。化石の森みたいだ。なぜなら、今の「ワンパターン化された男と女の役割」を演じさせられている社会においては、何をしても「トレンド」だなんて言えない。もう、いいかげんに♂と♀を解放してくれないかなあ。♂と♀の存在は種族保存のため。♂と♀の違いは精子と卵子。♂と♀はただそれだけのシンプルな間柄。(シンプル・イズ・ベストだからほんとうにいいのかもね。)ボクのきらいで陳腐な言葉に「男と女の間には暗くて深い河がある」。いつ聞いてもアホらしくて、ゆううつになる。男と女の間にはなにもありはしない。あるとしたら、国家という社会から与えられた「役割としての演技者」だ。偶然による性別で、♂やから♂をやれとか、♀やから♀をやれとか、プレッシャーをかけんといて欲しいなあ。「男と女の間には暗くて深い河がある」と思い込まされるのは、もうやめよう。あるとしたら性交。その暗くて深い河のSEXにおいて、女はやりたくない時でもやらなければならない状態にある。いや追い込まれている。自分自身の大切な身体を、何故その気もないときに侵略されなければならないのか。何故、それをレイプだと言えないのか。ボクは男と女の関係は、♀が性の決定権を持つことから始まると思う。時代はいま、黄色い点滅信号のままだ。男たちも現状のままではおかしいと気づいているはずだ。そして女たちも、テレビや雑誌というメディアを通して、男たちのSEXに都合のいいように洗脳されていることに気づいて欲しい。好きなのはロック。部屋中ロックで満たして、冷たいカンパリソーダを飲むのだ。女が人生で「本当の選択肢、本当の自由、本当の幸福、本当の快楽」を持つことが出来る時代が来るとき、ボクは「男と女のシンプルな間柄」を自然に受け入れることが出来るだろう。
2002年11月02日
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【特集 ジェンダー パッショネイト】一番風呂 仁尾町 みみずのたわごとお風呂に入る順番は、お宅ではどうなっていますか。私の家では、もちろん父からです。ある時期、そんな順番なぞどうでもいいではないか、早く入りたい者から入ればいいと思い、日によっては私が一番に入っていました。まもなく、直接父からではなく、母から次のような言葉が投げられました。「お父さんおこっとるで。女のはいったあとはきたないと。」「でも、お母さんもはいることあるやない。」「お母さんはもう女やないから、別や。」「・・・・・。」おお、そうであったのか。私はきたないのか。生理中であろうとなかろうと、女はきたないというのか。そうか、わかったぞ。それにしても、直接言わないでお母さんに言わせるなんて、その方がきたないじゃないか。お母さんもお母さんだ。同じ女でありながら、平気で私に伝えるなんて。よけいなエネルギーは使いたくないので、その日以来、私は父母のあとでしか入りません。本当は誰が一番に入ったっていいようなものです。むしろ、一番風呂は体に良くないというのに、父は知ってか知らずか、毎日、わが家族のために体に悪い一番風呂に喜んで入ってくれています。
2002年11月01日
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