ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン& オペラとクラシックコンサート通いのblog

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2021年10月10日
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カテゴリ: オペラ
新国立劇場 14:00〜
 4階右手

 ロッシーニ:チェネレントラ

 ドン・ラミーロ:ルネ・バルベラ
 ダンディーニ:上江隼人
 ドン・マニフィコ:アレッサンドロ・コルベッリ
 アンジェリーナ:脇園彩
 アリドーロ:ガブリエーレ・サゴーナ
 クロリンダ:高橋董子
 ティースベ:齋藤純子
 新国立劇場合唱団
 東京フィルハーモニー交響楽団
 指揮:城谷正博
 演出:粟國淳

 今シーズンの開幕公演が新演出で「チェネレントラ」とは、なかなかに気合の入ったことで、といったところで期待して参りました。思えば、今年4月に夜啼きうぐいすとイオランタのダブルビルを観てから、色々あって結局来れてませんでしたから。藤原の清教徒もすっ飛ばしてしまったので、オペラは半年振りくらいですかね。

 チェネレントラは結構観ているつもりで、実はあまり観てないのに改めて気付きました。それでも観ている印象が強いのは、12年前のカサロヴァとシラグーザの出た、ポネル演出の舞台の印象が強いからだろうと。
 ​ https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/200906070000/
 ​ https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/200906120000/
 加えて、その前には、藤原歌劇団で結構スタイリッシュな舞台のチェネレントラを観た覚えがあります。確認したら、2005年だったらしいです。このブログ始める前ですね。
 加えて、チェネレントラは録音や映像で見聞きしているので、というのもあります。他のオペラもそうだけれども、この曲の場合はベルガンサのやバルトリのや、印象深いいい録音に映像が揃ってますので、実演を観ている回数に比して印象は深い、というのはあります。

 緊急事態宣言も明けてるということで、ほぼ満員のお客さん。まぁ、いい悪いはあるけれど、賑やかしいのはそれなりにいいことではあるのかな。

 で、公演はというと.......ちょっとねぇ。

 結論から言うと、ドン・ラミーロ役のルネ・バルベラ、この人アメリカ生まれらしいですが、彼の一人勝ちと言ったところでしょうか。あとはちょっと。と言うより、はっきり言って彼に救われたというのが実情かなと。他は、まぁ、全滅とまでは言わないけれど。
 バルベラは2幕のアリアもこなして、アンコールまでやらかして、これはまぁ良かった。全体に概ね安定してましたし。最初から、ああ、こいつだけちょっと違うな、という感じの声でしたからね。まぁ、それはいいんだ。
 問題はそれ以外。
 アンジェリーナ即ち外題役の脇園彩は、まぁ、悪い歌手ではないのでしょう。悪い歌唱ではなかったとは思います。ただ.......ピンで歌ってる時はいいんですけれどね。或いは静かに二重唱くらいで歌ってる時は。でも、重唱に入ってオケが鳴り出すと、馬群に沈むんですよね。いい声だと思いますよ。でも、少なくとも今日聞いている限りでは、埋もれないだけのものがない。「華」とでもいうのでしょうか。いや、この人に「華」がないと言ってるのではありません。ただ、舞台上でなるほどと思わせるだけの存在感を持つ、という意味で、歌に欲しい「華」が、ね.....
 言うまでもなくグルベローヴァみたいな人はもとより、そこまで言わずとも、そういう華を持った歌を歌える人は居たし、今だって居ると思います。日本人だって、今回クロリンダを歌った高橋董子なんかはそういう歌手だったし、そこが好きだったのですよ。今でもファンですけれども。まぁ、しかし、なにしろクロリンダだからねぇ....それでも、クロリンダなんかと重唱になって馬群に沈むのでは......
 アレッサンドロ・コルベッリは、名高くはあるけれど、でも、正直、いいとは思いませんでした。他も、「ああ、この人はいいな」と思った人は、正直言って......
 必要以上に点を辛くしているつもりはないんですけれどね。でもねぇ。これはいいなぁ、と思った瞬間が本当になかったのですよ。

 演出。ある意味、こちらの方が問題かも知れません。
 一言で言うと、何をしたいのか、本当に分からなかった。舞台として成立してない、と言っていいのかも。よくないタイプの現代的演出、と言っていいと思います。何がよくないかというと、必然性が感じられない。そして、その必然性がないにも関わらず現代化した理由が、多分、作品への信頼の欠如に依る気がするのです。

 舞台を映画業界にして、王子即ち映画スター、ということになってるようです。まぁ、その辺はまだいい。ただ、後でプログラムを読んでも、「映画界」に行く必然性が分からない。昔の、ポネルの演出にせよ藤原の演出にせよ、貧乏貴族の家と王子の宮殿という設定は変えていません。それを敢えて変えながら、どうも、その理由は、「魔力」という言い方をしているものの、要はそのまんまでは飲み込めなかったから、という気がするのですね。はっきり書いてないけれど。
 飲み込めないから書き換える。演出家としてはそれもありなのかも知れません。しかしそれならそれで、ストーリーが飲み込めないのか、というと、どうもそうではない。で、舞台設定だけ変えた。この時点で私はもうかなりアレなんですけれども。
 でも、本当に問題なのは、その演出の結果がとっ散らかってることなんですね。一番の問題は、舞台が映画スタジオのようになっているのだけれど、今舞台上で演じられている場面を、撮影したりしてなかったりするんですね。この、「舞台で演じられていることを映画/芝居にする」というのは、要はその舞台そのものをメタ化する効果が出てしまうので、劇薬である訳です。はっきり言って迂闊に使うと危険。で、実に見事に迂闊に使ってしまうんですよ。その結果、我々は舞台上で行われていることが「芝居」なのか「現実」なのか分からなくなる。しかも、どうみても、「分からなくなる」ことを目的にしているようには見えないんですよ。個人的には、この時点で、演出として破綻していると思います。
 もう一つ、初めの方で気になって以後もうどうしようもなく演出に入れなくなった原因があります。一幕で、ひとしきり騒ぎの後で、使用人の身をやつした王子がアンジェリーナと出会う場面。アンジェリーナは驚いて持っていた器を落として割ってしまう。問題はその後の動き。ちょっとくどいけれど説明します。
 舞台は撮影スタジオの見立てなのか、ともあれ、割と物のない状態で、ただ、如何にも「移動式のセットの書割」みたいな感じで、大きな扉が置かれています。但し、書割みたいなものなので、その両脇は素通しの「扉だけの扉」なんですね。で、舞台奥からこちらに向かってこの扉を通ってアンジェリーナが出て来て、王子と出っくわしてびっくりして器を取り落とす。器は割れる。アンジェリーナはやり取りしながら器を片付けて、扉の向こうに持って行く。多分それを扉の陰にでも置く。その後、アンジェリーナは、扉をもう一度こちらに入って来るべきです。舞台の常識として、その書割の「扉だけの扉」を通るという行為を通して、それを扉と見立てるなら、扉を通ってこちらに来るべき。ところが、アンジェリーナはそうせずに、この「扉」の脇を通ってこちらに来てしまう。
 これは、「扉」の見立てを否定している訳です。先述した通り、舞台上で撮影したり(しなかったり)しているので、既に、この舞台はメタ化仕掛かっていて、不安定なんですね。そこで、わざわざ芝居の約束事を見せながら、それを壊してみせる。そのつもりがなくても、見立てを壊した時点で、かなり危うい訳です。ところがそこに何も必然性がない。折角見立てを作って壊して見せたのに、意味がない。後にも続かない。はっきり言って、見る側にとっては、特にある程度舞台を見慣れている人間なら尚の事、物凄く引っ掛かるんですね。
 もうね、ツッコミどころ満載でキリがないのでこれ以上列挙しませんが、かなり不用意な演出です。だけれど、一番引っ掛かるのは、それで何か言いたいことがあるのかというと、全然感じられないんですよね。思いつきでただ中途半端に映画界に置いてみました、というだけ。それに格別の意味があるでなし、それによって何かが付加された訳でも整理された訳でもなんでもない。
 ポネルの演出の方が断然優れてます。演出の良い悪いではなく、舞台としてちゃんと出来ているかどうかのレベルで、舞台が成立してないんだもの。比べるのが失礼というもの。

 オケは、まぁいいんですけれど、問題は、チェンバロ。あれはフォルテピアノではなくてチェンバロだったと思うのですが。ええと、ロッシーニあたりのオペラですと、まだレチタティーヴォの間や、ソロなり重唱なりの歌の後は、鍵盤楽器で伴奏して進めますね。そのチェンバロ演奏なのだけれども、いや、ひどいとかいうのではないのですけれども、要所要所で細かく「誰もが知ってる曲」を入れるんですね。「セヴィリヤの理髪師」だったり、ゴールドベルク変奏曲のアリアだったり、二幕の嵐の後のところではベートーヴェンの「田園」の第5楽章のフレーズだったり。なんで不用意にそういうもの入れちゃうかな。
 「知ってる曲」がそういうところにヒョイっと入ってくると、まぁ、喜ぶんでしょうね、お客は。モーツァルトがドン・ジョヴァンニの地獄落ち直前の食事の音楽でフィガロの「もう飛ぶまいぞこの蝶々」を入れたような。でも、あれは、その当時作曲者自身が入れたからある意味洒落ている訳で。なんかねぇ、安っぽいんですよ。こういうの。外国人が日本に来て「コニーチワァ!」みたいな感じで日本語喋ってみせる的な安っぽさ。

 そう。今日の公演、全般に言って、「安っぽい」「雑」なんですよ。決してそういうつもりではないのかも知れません。ただ、申し訳ないけれど、あと一歩の詰めがどうしても甘い。埋没しないもう一歩前に出る歌唱、お客にどう見えるか考えて、どうしてこうするのか考え抜いた舞台、不用意に知ってるフレーズを並べない即興演奏、そういうところをきちんと詰めることをしないと。やり切ってないんですよね。こちら側から見ると。出来ないのは仕方ないんだけれど、やろうとしてない感じ。それが安っぽく見えてしまう。
 申し訳ないけれど、劣化しているな、と感じました。なんでこうなっちゃったんだろう?という。

 12年前に観たチェネレントラが恐ろしく卓越したものであったとは言わないのだけれども、少なくともそこには、アラはあってもそういう意味での「安っぽさ」は感じたことはあまりなかったと思います。今でも頑張ってるところはあるとは思うのだけれど、そういう雑さ、安っぽさをそのままにして安住してる感があるのかな。いいじゃん、これで。こんなもんだろう?考えたり、煮詰めたりするの、面倒だし。そんな感じ。
 この10年くらいで、特に震災以降、考えルことをやめて、安住することで済ませてきたものって色々あると思うんですよね。それはもう社会の問題みたいなことになってしまう気はするんだけれど、「雑さ」「安っぽさ」の依って来たるところ、それをそのままスルーしてしまう、というのが、劣化を招いて来たのだとは思うし、いい加減「それはダメなんだ」って言わないとダメなんじゃないかな。やっぱりそうでないと、そこに未来は無いですよ。





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最終更新日  2021年10月28日 12時06分21秒
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