全87件 (87件中 51-87件目)
今夜は中秋の名月。 新しいコンパクトデジカメ。使い慣れていないので、露出を落とす方法が分からない。月の模様が写らない明る過ぎる月となりましたが、取り巻きの群雲の表情で誤魔化すこととしました。(中秋の名月)(同上)(同上)(同上)(同上)(同上)名月を 見つつ一首と われ思へど 言の葉隠す 雲の出で来て (言い訳家持)ということで、今宵は「歌」もなく月の船行く中秋の空、写真のみと致します。
2015.09.27
コメント(16)
7月4日の記事に記載していますが、左目の後発白内障の手術は7月3日に受けました。今度は右目が同じ状況となり、本日その手術を受けました。 <参考>墓参・小雨の花散歩 2015.7.4. 次は左目 2014.2.10. 退院決定 2014.2.11. まあ、手術と言っても大袈裟なものではなく、水晶体を収納している袋に生じた濁りをレーザー光線を照射して除去(つまり、濁っている袋の真ん中部分だけ除去)するに過ぎないもので、パチッ、パチッと何回かレーザー光線を照射されて終わりというものです。 詳しくは、下記<参考>をご参照下さい。小生が下手な説明をするまでもなく、お医者さんが解説して居られます。 <参考>後発白内障 要は、白内障の手術(眼球内の水晶体を人工のプラスチック製の水晶体に入れ替える手術)を受けた後に、水晶体が収まっていた袋部分に何らかの原因で濁りが生じて、白内障と同じように物がみえにくくなる病気である。 濁った自身の水晶体は人工水晶体に取り替えられているが、水晶体を収める袋までは取り替えはできない。患者自身の袋があるから、人工水晶体を固定して眼球内に収めることが可能になるのである。この袋がなければ、人工水晶体を患者の眼球内に取り付け、固定して置くことが不可能という訳である。レンズの方が人工の物になっても、それを覆っている袋の膜は患者自身の組織の一部であるから、濁り・曇りなどの病変が生じることもあるという次第。で、レンズの中心部に近い部分の袋を破いて穴の開いた状態にするという訳である。 半透明の網か薄い膜が掛かったように見えているのが、レーザーをパチッと当てられた部分から、何処かへ吹き飛んで消えて、その部分がすっきりと見えるようになる。パチッと当てられるごとに網目部分が消えて行くというか、袋の穴が大きくなってスッキリ見える部分の面積が広がって行くのがよく分かって、その旨をお医者さんに告げると、「へぇ~分かりますか。」と感心したと言うか感じ入ったような風に仰っていました。 目の奥を覗く、と言うのは「人の心の内を読む」比喩で使われたりもするが、この場合、医者は、目の奥ではなく、目の入口近くの水晶体収納袋を見て居るに過ぎないのであるから、小生の「感じ」や「心」までは当然には見えないのでありますな(笑)。それにしても、このケースでの医者と小生とは面白い対置関係である。相互に顔を突き合わせて、眼科検診用の器具を間に挟んで、至近の距離で、医者は膜を外側から、小生はそれを内側から眺めているのですな。医者は光の当たる側から、小生は逆光でそれを見ているのである。 ここまで書いて来て、眼球の中のレンズ(水晶体)の膜を見ている小生は、レンズを通さずにそれを見ていることになる。物は目で見ると言うが、この場合、レンズは「見る側」ではなく「見られる側」。してみれば、網膜の黄斑細胞の方から脳の中の視覚中枢に至るまでの部分のことを目と言うべきであるのかも。眼球の水晶体は眼鏡のレンズと変わらず、水晶体の袋は眼鏡フレームに過ぎないということになる。もし、これらも目と言うなら眼鏡も亦「目」と言わなくてはならないことになるのではないか。 とまあ、でたら「目」なことを思ったり、考えたりしているうちに「手術」は終了。手術前に瞳孔が開きっぱなしになる目薬を点されたので、その効果が消えるまでの暫くの間は、右目の視力が回復したのかどうか心もとない心地でしたが、今はスッキリ、ハッキリになっています。 ただ、右目だけで物を見ると水平に引かれた直線などはゆるやかに波打って、少し歪んで見える。乱視かと思ったが、乱視は縦線と横線で二重に見える部分があったり、無かったりする症状。加齢黄斑変性は縦横の格子模様が中心部で盛り上がるような感じで歪んで見える症状。その何れでもないようだが、網膜の何らかの変状であり、眼鏡で矯正できるものではないそうな。 今の処、右目だけのことで、脳の補正作用も働いて、両目で物を見ている限り、殆ど違和感もなく、日常生活に何の支障もないから、放置して置きましょう。 と言うことで、後発白内障では掲載できる関連写真もありませぬ。花園ラグビー場の写真でも掲載して置くこととします。 少し古い写真です。2014年11月19日撮影のものです。現在のラグビー場はまだこのようには色づいてはいません。(花園ラグビー場) 次の写真も2014年10月18日撮影の古い写真です。 何やら実を付けていますが、名前が不明ということで、ブログに掲載せぬままに放置してきた写真です。名前ご存じの方が居られましたらご教示賜れば幸甚に存じます。(名前不詳)どさくさに まぎれ示すは もみつ葉の 青き実の木の 名をぞ知らむと (無知麻呂)(同上)<追記>これはサルスベリでした。小万知さんから教えて戴きましたが、 言われてみれば確かにそのようです。(2015.9.20.)
2015.09.18
コメント(16)
本日は友人から相談があるということで彼と昼食を共にする。 相談内容は相続に関することでした。 現役の頃、企業法務を担当していたこともあって、今でも時々法律問題の絡む相談を受けることがある。弁護士ではないのだから、法律事務や法律相談を業として行えば弁護士法違反ということになるが、友人や肉親から相談を受け、アドバイスすることは「業」ではないから、違法にはならない。より専門的なことは弁護士などの知り合いも多いので、そちらをご紹介することとしている。 今回の相談は、相続に関連することで、小生のやって来た「企業法務」から言えば、余り関係のない分野であるのだが、一応話を聞いてみた。 伯父が多額の借金を残したまま死亡し、その妻や子供(彼から見れば伯母、従兄弟姉妹)が相続放棄をしたのであろう。債権者の銀行から彼に対して相続人としてその相続分に応じて借金を弁済するようにという内容証明郵便が届いたというもの。 法定相続人が相続放棄をすると、その相続人は当初からいなかったものとみなされるので、次の順位の法定相続人に対して相続が開始することとなる。 彼の場合は、被相続人である伯父の死によって発生した相続がその配偶者(妻)、子供が相続放棄をしたため、その伯父の兄弟姉妹である彼の母が相続人とされ、その母が相続開始前に(つまり。伯父の死亡前に)既に死亡していたので、代襲相続の制度によって、その子供である彼及び彼の兄弟姉妹も相続人になってしまった、というものである。 被相続人の妻子が弁済する気もなく放棄した借金を彼が弁済しなければならないという道理もなく、被相続人たる伯父の住所地を管轄する家庭裁判所に出向き相続放棄の申述の手続きをすればよいだけのことであるので、当該裁判所に出向いてその手続きについて相談するようにアドバイスして、本件は終わりでした。 これに関して感じたことが二三あるので、それを記述すると、 1.親族が借金だけを残して死亡した場合は、その妻子が相続を放棄す ることが普通だろうから、思わぬ形で、自身が相続人となることも ある、ということを認識して置かなければならないということ。 2.この場合、相続開始を知った時(妻子の相続放棄という事実を知っ た時)から3か月以内に相続放棄の手続きをしなければならないと いうこと。 3.従って、相続放棄をする場合は、他の親族にも影響が生じるので、 立場を変えれば、そのような影響を受ける親族にはその旨の通知を し、相続放棄の手続きを取って貰うよう予め告げて置くことが必要 だろう。(友人の場合はそのようなことは一切知らされていなかっ たようである。) 4.債権者たる銀行であるが、このようなケースで他の親族にまで弁済 請求の内容証明郵便を送り付けるのは、無神経というか、金貸しの 倫理として如何なものか、ということである。相続人にはマイナス 財産(借金)しかなく、妻子も相続放棄したのであるから、その結 果相続人となった他の親族に請求しても、彼らも相続放棄をするだ けのことで、弁済される筈もないこと。にも拘わらず、コケオドシ のような内容証明郵便を送り付けるというのは一流銀行のすること ではないだろう、ということでありました。 因みに、その銀行は三菱東京UFJ銀行某支店である。その友人も同 銀行に口座を有して取引をしているようだが、いきなりのこの通知 催告に対して立腹、取引を止めると言っていました。 銀行側にも会計上の貸し倒れ処理をするには、こういった催告請求 をしたという実績を残すことが必要と言う事情があるのかも知れな いが、それは自分の事情、それなら、一言事前に相手にその旨を告 げて置くのが礼儀だろう。 催告によって相続開始の事実を知ったその親族が相続放棄の手続き を3か月以内にすることをうっかり忘れ、相続放棄できなくなるこ ともあるかと考えてのものであるなら、極めて悪質で下司なことで あると言わねばならない。(注)法定相続人とその順位 相続は次の順位で生じる。 配偶者は常に相続人となる。 第1順位 子供(子供が既に亡くなっている時は、孫) 第2順位 父母(父母両方が既に亡くなっている時は、祖父母) 第3順位 兄弟姉妹(既になくなっている兄弟姉妹がある時は、その子供、つまり 甥・姪) 代襲相続 被相続人が死亡し、相続が発生する前に相続人が死亡していたり、相続欠格 事由に該当している場合に、その子供や孫が代りに相続人となる制度。 本日は世捨て人ヤカモチらしからぬ話題でありましたが、こういうことも時にあって、ヤカモチも俗世間に暫し連れ戻されることがたまにはあるということであります。 まあ、皆さまもご親戚に多額の借金をしている御仁が居られる場合は、このようなことにも巻き込まれることがありますので、どうぞご注意を。(のらや・石切店) 本日の昼食場所は上の写真の「のらや」。 昼食後、友人と別れて、この「のらや」さんの「珈琲わらび餠」を手土産に智麻呂邸を訪問。暫し閑談。新作絵画3点を仕入れて参りました(笑)。
2015.06.14
コメント(12)
毎月初旬に行っている墓参。昨日の墓参は夕刻の墓参となりました。 墓参の度にご紹介している、途中にあるお寺の門前の言葉でありますが、この日のそれはこの人のものでありました。往く道は 精進にして 忍びて終わり 悔いなし -高倉健悔いなしと 言へば悔いなし 道草の ごとに散りゆく この身ひとつも (偐家持)(タンポポの絮) 墓参を済ませて西の空を見やると、落日が沈もうとしている処でした。 「落陽は慈愛の色の金の色・・」とか (注)正しくは「落陽は、慈愛の色の 金のいろ」です。 「やがても蜜柑色の夕日、欄干にこぼれたり」とかの (注)正しくは「やがても密柑の如き夕陽、欄干にこぼれたり」です。 中原中也の詩の断片が思い浮かんで来るのでもありました。(大阪夕照)今日ひと日 無事にありたり 金色の 夕日落ちゆく 見らくしよしも (偐家持) 音もなく日は沈んで行く。 はい、すっかり沈んでしまいました。(コマツヨイグサ) 墓の近くには月見草が咲いていましたが、日がすっかり沈んで、坂道を下り、振り返ると東の空には月がぽっかり出ているのでありました。 「月がぽっかり出ましたら 船を浮かべて遊びませう」 (注)正しくは「ポッカリ月が出ましたら、舟を浮べて出掛けませう。」です。 これも中也の詩の一節ですが、偐家持なれば「月がぽっかり出ましたら、銀輪駆けて帰りませう」でしょうか。(返り見すれば月のぼり来ぬ)西の野に 赤き夕日の 落つ見えて 返り見すれば 月のぼり来ぬ (偐人麻呂)(本歌)東(ひむかし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへりみすれば 月西渡(かたぶ)きぬ (柿本人麻呂 万葉集巻1-48) 上の如き馬鹿歌を口づさみながら家路を辿りました(笑)。 昨日の墓参の日記でありました。(脚注)上記(注)は5月4日の追記です。偐万葉的にはどうでもよいことなれど、 中也さんに失礼になってもいけませんので、訂正注記して置きます。 なお。上記「密柑」は本来「蜜柑」ですが、中也さんご自身が間違って 表記されたようで、中也全集でも「密柑」のママとなっています。
2015.05.03
コメント(8)
昨日の祇園界隈散歩で建仁寺を通り抜けたことは既に記しましたが、その折に撮影した茶碑の写真などは未掲載でありましたので、本日はこれを記事にしてみます。 建仁寺と言うと臨済宗建仁寺派の大本山。臨済宗と言えば栄西。この寺はその栄西が建仁2年(1202年)に開山した寺である。 <参考> 建仁寺・Wikipedia 栄西は臨済宗の開祖であると共に、禅茶の祖でもある。 それを顕彰する碑が建仁寺境内にありました。碑の背後には茶畑もある。(建仁寺・茶碑) 栄西は永治元年(1141年)吉備津神社の権禰宜・賀陽貞遠の子として誕生。中国(南宋)に留学、禅を学び帰国、わが国に禅を伝えるが、同時に持ち帰ったのはお茶。 「喫茶養生記」を著し、茶の効用を説き、その普及に努める。珈琲党のヤカモチであるが、銀輪の水分補給はお茶に依ることが多いので、まあ、敬意を表して置こうと考えての写真撮影でありました。 <参考> 栄西・Wikipedia(同・副碑) この茶碑も背後の茶畑も、この栄西の遺徳を顕彰してのものであるという訳です。 茶畑の方は、「栄西禅師茶の旅訪中団」が、栄西修行地の中国浙江省の國清寺より持ち帰った茶の種から育てて植樹し、「平成の茶苑」としたものだそうな。(平成の茶苑の碑)(同上) その茶苑の南隣には栄西の入定塔がある。 栄西は建保3年(1215年)、74歳でここ建仁寺で没している。命日は6月5日。この日には、この茶畑で摘んだ茶葉を石臼で挽いた抹茶がお供えされるとのこと。(建仁寺・栄西入定塔)もろこしの 梢もさびし 日の本の ははその紅葉 ちりやしぬらん (栄西 続古今集) (注)ははそ=クヌギやコナラなど団栗のなる木の総称。
2015.02.18
コメント(6)
先回のナナ万葉の会で谷〇さんだったかに頂戴した「亀崎敏郎水彩画展」の案内ハガキに従って、これを拝見し、ついでに祇園界隈をそぞろ歩きして参りました。(京都・南座) 今回は自転車ではなく、電車&ウォークでした。京阪電車祇園四条駅から地上に上がると目の前に南座。 会場は八坂神社へ行く途中の道路左側にある「ギャラリー祇園小舎」。なかなかいい雰囲気の情趣ある風景画。作品を撮影するのは駄目でしょうから、入口の絵と案内ハガキの写真でご勘弁願います。作品例は下記参考でご覧下さい。 亀崎氏のことは全く存じ上げませんでしたが、名古屋で活動して居られて、京都ではこれが初めてだと仰っていました。 <参考>亀崎敏郎・観光スケッチ協会 (亀崎敏郎水彩画展) ギャラリー祇園小舎を出て、八坂神社に向かう。何処と言って立ち回り先を考えていなかったので、何となく足が八坂さんへと向かったという次第。 (八坂神社) 神社の前には中国人観光客の団体さん。着物姿の若い日本人女性(彼女たちも亦、観光旅行者であるのだろうが)との写真撮影に興じていました。 八坂神社から円山公園へ抜ける。ここは人影もまばら。ひと巡りして、再び八坂神社の門前に戻った処で、崇徳上皇の廟所が弥栄会館の近くだかにあると、ふろう閑人氏がブログでご紹介されていたことを思い出す。ついでだから行ってみようと心当たりの方向に歩き出す。 (祇園の路地) いい雰囲気の路地が目に入ると立ち入ってみたりしつつ弥栄会館付近を歩いてみたが見当たらない。建仁寺まで来てしまう。(建仁寺) 建仁寺を通り抜け、清水坂に向かう。清水坂には大勢の観光客。京扇子など、買い求める気は更にもないが、美しい色彩を楽しみつつ、観光客の群れに交じってそぞろ歩き。清水寺の階段前で引き返し、二年坂(二寧坂)に入る。(京扇子)(二寧坂) 坂を下った突き当りが高台寺。高台寺から護国神社への坂が「維新の道」と名付けられている。丘の上には龍馬や桂小五郎などの墓があるが、以前立ち寄っているので、護国神社まで坂を上ってトイレをお借りしたものの、墓には参らず、引き返す。坂を下って来ると、翠紅館跡という案内表示板。(翠紅館跡) (説明板は写真をクリックして拡大画面でお読み下さい。)(護国神社) 高台寺の山門から少し下った処に広大なお屋敷をレストランとカフェなどに転用した店(名前は忘れた)があったので、此処で珈琲休憩することに。 広い庭には寒桜が咲き始めていました。(寒桜) 東大路通りに出て北へ。再び、弥栄会館の南側から建仁寺へと至る道を西に入り、何気なく辻を右に入ったら崇徳上皇の廟所がありました。弥栄会館の西側と間違って記憶していたようで、その東側にあったのでした。探している時は見つからず、探すのを諦めたら向うから現れる。人生も亦かくの如きに非ずや、であります(笑)。崇徳天皇廟所、とある。崇徳院の歌はと言えば、小倉百人一首の「瀬をはやみ」が先ず思い浮かびますな。落語にもなっている有名過ぎる歌。(崇徳上皇廟所)瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われてもすゑに あはむとぞおもふ (崇徳院)崇徳廟 道不確かに 迷へるも 諦めてのち あへるものかな (諦徳院) 祇園新橋まで足をのばし、大和橋から川端通りに出て、祇園四条駅へ。白川には鴨がいましたが、鴨川に鴨がいたかどうかは見ないまま地下の駅へと入ってしまいました。まあ、鴨川に鴨がいない訳がないですな。 何とも、とりとめもないというか脈絡のない日記と相成りました。銀輪を欠くと日記も調子が出ないようであります(笑)。徒歩歩。
2015.02.17
コメント(7)
本日は昼前に墓参。その足で少し銀輪散歩して昼食は外食となりました。 墓への坂道の取っ掛かりに咲いていたのは蝋梅。梅もちらほら咲きとなっていますが、「匂ふが如く今盛りなり」となるのはまだ先のようです。(蝋梅)(同上) 蝋梅の香り仄かに漂う坂道を上って行くといつものお寺の門前。(今日の言葉) 今日の門前の言葉は「人生やり直しはできないが、見直すことはできる」というものでした。この門前の言葉は毎月貼り替えられるようですから「今日の言葉」と言うよりも「今月の言葉」と言うのが正確なのであるが、例外を除けば、小生は月に1回しかこの前を通ることはないので、「今日の言葉」でもいいという次第。で、前回の言葉はと言うと「悩むというのはもっとも人間らしい尊い姿である」というものでありましたから、何やら悩んだ結果、「やり直しはできないが、見直すことはできる」という結論を得たような「流れ」になっている気も。この流れで行くと「見直したらそれを踏まえた一歩を踏み出さなければならない」というようなことになりそうな。 しかし、そういうのを「人生をやり直す」と一般的には言うのでは、などと本質を外れた処で「言葉遊び」をしてしまう浅薄なヤカモチには「馬の耳に念仏」にて、度し難きことに御座候と、お寺さんも匙を投げることでしょう。 寺から少し行くとテニス倶楽部がある。その傍らに薪の山。何に使うのでしょう。最近は薪ストーブなども見かけず、このような薪の積まれた姿を見ることはとんと無くなったので目を引きました。(薪の山) 薪の山の後ろはテニスコートです。 更に坂道を上って行くと池がある。 その池の畔に、年末に墓参した折に蕾を付けていた薔薇が一輪、花を咲かせていました。と言っても年末に見た蕾は既に咲き散ったと見えて跡形もなく、別の部位に花を咲かせていたのでした。花は昔の花ならなくに、であります。(バラが咲いて)昨年末の蕾の写真はコチラの記事に。 墓参の後少し銀輪散歩して昼食に立ち寄った店(近鉄東大阪線吉田駅前)にあった絵というか書というか、「言葉遊び」が面白かったので撮ってみました。(駄洒落の絵・菜の花) この花 菜の花 何の花 (同上・筍) (同上・レンコン) 風の子 たけのこ 元気な子 雪やこんこん あられや れんこん こういう他愛もない言葉遊びはヤカモチ好みであります。 店を出て、恩智川方向に戻る。水走のテニス倶楽部。こちらのテニス倶楽部は市の上水道の貯水場建物の屋上がテニスコートになっている。その貯水場施設のコンクリート壁面に描かれたトライ君と遭遇。トライ君というのは(多分)東大阪市のゆるキャラマスコットの名称。花園ラグビー場に因むキャラである。 <参考>トライ君は何度か当ブログに登場しています。 ゆるキャラと囲碁銀輪と 2011.1.5.(トライ君) トライ君大挙して渡来 こちらは大挙してという程でもありませんが、お地蔵さんの合掌です。六地蔵と思いきや一人欠員。五地蔵ですな。前に見習いが一人居りますからこれも含めれば何とか六地蔵。この写真は今日のものではなく、かなり以前に撮ったものです。 まあ、墓参の記事の締めですから、「合掌」ということで。また、昼食後ということで、ご馳走さま(五地蔵さま)ということでもあります。(合掌)
2015.02.08
コメント(8)
1297歳になりました。と言っても今日のことではなく、昨日のことであります。 本家大伴家持さんは養老2年(718年)の生まれ。何月何日の生まれかは分からないのであるが、昔は生まれた時が1歳で年が改まると2歳と数えるからそれで不都合はなかったのですね。12月31日に生まれたら翌日には2歳。生後2日にして2歳であった訳ですね。それはさて置き、死亡した日は記録があり延暦4年(785年)8月28日(現在の暦だと10月5日)であることが分っている。 彼の死の1ヶ月後9月23日に起こった藤原種継暗殺事件の首謀者とされて、墓を暴かれ官籍抹消、息子永主ら一族が隠岐に流されるという処分を受けている。これについては延暦25年(806年)になって、病床の桓武天皇が赦免の勅を出し、つまり21年後になって漸く名誉を回復している。 ということで、本家の家持は68歳(満年齢では67~68歳)で死亡しているのであるが、にせ家持の方には「死」というものがあるような無いような曖昧模糊たることにて候へば、その後も偐家持となりて生き続け、昨日遂に1297歳の超々々々後期高齢者いや末期高齢者、いやいや無期高齢者と相成り候て、偐万葉田舎家持歌集なんぞという紛らわしい歌集だか何だか判然とせぬものを世に流布せしめるという狼藉無礼傍若無人の振舞を続けて居りまするが、総じて老いの繰り言、寝言、戯言にて是あれば、笑止千万、無視黙殺、捨て置き賜れば幸甚に存じ上げ候也。 さて、漸く、明日31日の「ナナ万葉の会」と明後日「若草読書会」の講義資料が完成致しました。共にテーマは大伴家持が父親・大伴旅人。 ナナのそれは「わが園に梅の花散る」というサブ・タイトルにて天平2年(730年)正月13日の大宰府での観梅の宴の歌を中心に、若草のそれは「あは雪のほどろほどろに降りしけば」というタイトルにて、同じく天平2年頃の作と言われる讃酒歌を中心に、それぞれの歌を鑑賞するということと致します。 「賢しら」は「酔ひ泣き」にも劣りたることと言へる旅人の歌を取り上げるのであれば、「賢しき」事言ふよりも「酒しき」事言ふべしとは思へど、下戸家持、如何なることと相成ります事やら(笑)。酒呑み偐山頭火さんの手助け、口助けをお願い申し上げますかな。 一昨日だったか cafe de nana のママさん・小〇さんから、「今回のテーマは何ですか」との問い合わせあり、「わが園に梅の花散る」だと申し上げたら、「散ってしまうのですか?」という愉快な反応。梅の花 まだ咲かなくに 散るとてか ナナの郎女 百代のごとし (河内旅人)(本歌)梅の花 散らくはいづく しかすがに この城の山に 雪は降りつつ (大伴百代 万葉集巻5-823)(大宰府政庁跡 中門跡から北を望む。 奥の山の左端の峰が大城山)
2015.01.30
コメント(16)
本日は今年最後の墓参。 墓参の後、朝の銀輪散歩。 昨日の雨で濡れた朝の道をMTBで墓へ。(墓地) 年末に墓に参り、花を入れ替え、墓もお正月の準備。これが小生の御用納めという次第。毎年のことであるが、かくして今年もこともなく暮れてゆくようであります。 昨夜来の雨で道はしっとり濡れて、風もなく冬にしては寒くもないおだやかな朝。 道の辺の薔薇が小さな蕾を付けていました。元旦に咲こうというのでもあるか。夜来の雨の名残か、水滴が花に寄り添ってもいました。(雨露に濡れてふふめりときじくの薔薇) 朝露によごれて涼し瓜の土とは芭蕉の句であるが、これに倣えば、 朝露にふふみて赤し薔薇の花 (筆蕪蕉)でしょうか。 朝露と来ればの夏の季語にて、今の季節にはそぐわないのであるが、この句が思い浮かんだのだから仕方がない。冬に咲くバラも「ときじく」であるが、小生の頭脳と感性も亦「ときじく」のようであります(笑)。 俳句は難しいので短歌もどきを1首したため候。おだやかに わが年も暮れ 朝露に 濡れてやふふむ ときじくの薔薇 (偐家持) (注)ふふむ=含(ふふ)む。「ふふむ」は「つぼむ」と同義にて、蕾の状態にあ ることを言う。 ときじくの=永遠の、時期外れの。ここでは「季節外れの」の意。 (同上) 今年も今日を入れてアト3日。残り少なくなりました。当ブログも大晦日にもう一つ定番の年末ご挨拶記事を書いて今年の締めと致します。 ではでは、どちら様もよいお正月をお迎え下さいませ。
2014.12.29
コメント(14)
本日もこれと言ってブログに書くほどの事は何とてもないのであるが、いつまでも「昼間の忘年会」をトップ記事にして置くのも如何なものかと更新であります(笑)。 本日は年1回の成人病(今は生活習慣病と呼ぶようだが)検診の日。大阪駅前の大阪中央病院へ。ヤカモチ的には自転車で行く「近隣散歩」の域内であるのだが、朝食抜き、朝9時から、とあっては、銀輪散歩のついでにという訳にも参らず、電車で。(大阪中央病院) 人の死亡率は100%。遅かれ早かれ人は死すべきものにてあれば、病を早期に発見して命を幾許か長らえることに如何ほどの意味があるのか、という気もしないでもない1296歳のヤカモチでありますが、生活習慣病検診も亦一つの生活習慣ともなって居りますれば、そのならいに従い検診を受けて参りました(笑)。 検診が全て終了したのが10時40分。 朝食抜きなので、病院の向かいの毎日新聞社ビル1階の喫茶店で遅い朝食とも早い昼食ともつかぬ食事をとるのが、これも習慣となっている。今回も同様にその喫茶店へ。 以前はOrionという名であった店がOxygenという名に変り、店内の様子も変っていました。店の人に聞くと今年の6月からこのように変ったとのこと。囲碁例会の際にこの前を自転車で走ることもあるので、店の出入り口が少し変ったことは夙に気付いていましたが、店名や内部の設営が変っていることは今回初めて知りました。 店に入って携帯電話を見ると、大学同期の八〇君からの着信と留守電。折り返し彼に電話を入れて暫し雑談。 彼から電話の入った経緯は以下の通り。 昨日、年賀状の印刷、宛名印刷などを済ませましたが、その際に昨年中に戴いた転居通知などのハガキを参照して、住所録の修正を行いました。それらのハガキの中に八〇君からの暑中見舞い兼取締役相談役退任挨拶状が入っていて、それに記載されているメールアドレスを携帯に登録しようとして、操作ミス。彼の携帯に電話発信をしてしまった次第。直ぐに気が付き電話を切りましたが、彼の方に着信記録は残ってしまう。 で、彼は(同君は東京在住)小生が東京に出て来てでもいるのかと電話をしてくれたのでありました。とんだ操作ミスで彼には迷惑を掛けたことになったが、久々に声が聞け近況を知ることを得たのは愉快なことでありました(笑)。こういうミス、みなさんはされたことありませんか。まあ、友人で良かったですが、相手によっては・・冷や汗ものになりますな。
2014.12.19
コメント(6)
本日は、月例の墓参。 月例の墓参は毎月上旬の土日の何れかと決めているが、今月は本日7日となりました。今年も残り僅かとなりましたが、年末28~30日頃に、もう一度、今年最後の墓参をして、新年を迎えることとなります。 墓へは結構な勾配の坂道を上って行きます。所々にこのような昔ながらの佇まいの家があるのもいい。(墓地への道A )(同上B) 上の写真Bの家の西隣の家の庭先に、下のような実が生っていました。見た瞬間は何の実だろうと思いましたが、バラの実であることに思い到りました。バラも種類が多く、このバラの実は棘がビッシリ。何と言うバラであるかまでは小生には分かる筈もないことである。(何の実?) 蝋梅も辛夷も蕾が少し膨らんで、早くも春の備えをしている風。よく見ると気の早い蝋梅の花が一輪、二輪、既に咲いているものもある。 上の写真Bの家の向かい側がお寺である。その門前に貼り出された言葉は、今日はこんなのでありました。(今日の言葉) 悩むことは、本人にとっては「辛いこと」「苦しいこと」であるのでしょうが、それは、思索を深め、感性を磨き、心を成長させる営みでもあれば、それを「負」ととらえず「尊いこと」と思いなすだけでも、悩みの幾分かは軽減されるというものでしょうな。悩み事は解決するに越したことはないが、解決しなくても、悩むことによってなにがしかのものを人はそこから得ている、ということでもある。 ホモ・サピエンスはホモ・クーラースでもある(笑)。(墓地) 墓地の南側の藪の向こうには東大阪市立郷土博物館がある。前はよく通るがもう長らく中に入ったことがない。 娘が小学1年生だった頃の夏休み、大阪南港からフェリーで九州へ向かったことがあったが、夕刻の出航まで時間があるので、長居公園にある大阪市立自然史博物館に立ち寄った。そこには恐竜やナウマン象の骨格復元標本などが展示されていたが、彼女にはそれが印象に残ったようで、夏休みの宿題の絵日記のその日の日記に、家族と郷土博物館に行って恐竜の骨を見ました、というようなことを書いた。彼女にとっては「博物館」は全て「キョウドハクブツカン」であったのですな。まあ、小学1年生には「キョウド(郷土)」の意味は分かるものではなく、博物館という言葉の意味も正しくは理解できていない。よって、何やら色んな物が展示してある建物は「キョウドハクブツカン」と言うのだと思っていたのでしょう。小6の兄に笑われて彼女は「キョウド・ハクブツカン」だと言うことを知り、このような展示用建物は「ハクブツカン」というのだということを学んだという次第。(墓地からの眺め) 墓地からの眺めはいつもの通り。近鉄電車が瓢箪山駅を出て東花園駅へと向かっているのが見えます。線路の左に見えているのは恩智川。恩智川は写真の左方向から流れて来て、東花園駅前で直角に東(こちら)方向に向きを変え、瓢箪山駅の西側でまた直角に向きを変えて北方向(右側)へと流れています。
2014.12.07
コメント(6)
本日も墓参の日記になりました。と言っても本日は月例の我が家のお墓参りであります。いつもの道中にあるお寺の門前に掲示の言葉から始めましょう。選ばず 嫌わず 見捨てず ―竹中智秀― これは「摂取不捨」という弥陀の本願の働きを説明した親鸞の言葉を言い替えた言葉ですな。我々は、自身の欲するままに選択し、自身の意に染まぬものはこれを捨て、という「取捨選択」の生き方をしているが、阿弥陀様はそんな我々をも見捨てず我々を救済すべくいつも傍に寄り添っていて下さるのだ、という「弥陀の本願」を説明する言葉としてよく使われる言葉。 歎異抄は高校一年生の時に「歎異抄入門」という文庫本を下校時に立ち寄った八尾の商店街の本屋さんで見つけて読んだのが最初。その時店番をしていたお婆さんから「若いのにこんな本を読むなんて感心や。」と言われたことを記憶している(笑)。<参考>歎異抄第1章 「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり、と信じて念仏申 さんと思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけたまうなり。 弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とするべし。」(皿池の諸仏) 墓参の後、墓地を歩いていると「皿池之諸仏」という石碑が目につきました。皿池というのは、自宅から小学校への通学路の道脇にあった大きな溜池であったが、今は埋め立てられて中学校の敷地になっている。その埋め立て工事の際に堤防にあったものや池の底から発見されたものを此処に祀っているのであろう。埋め立てられたのは30年以上も昔のことであるから、これも30年以上も前から此処にあったのだろうか。今まで気が付かなかったとは迂闊家持とは言え、迂闊過ぎます。見ても見えず。「選ばず」ではなく「選んで」生きている吾輩は選んだ物しか見えていないという訳であります。 <追記>上の「一文字墓」というのが気になり「相撲取り」の名前ではないかと 調べてみたら、果たしてその通りでありました。我が家の墓の近くにも 江戸時代のものと思われる「森ヶ谷墓」というのもある。これも何やら 力士のそれのように思われるが、こちらは今の処よくは分からない。 「鴻池の村相撲と力士・三笠山」(阪神タイガースの帽子を被った石仏) そして、次に「選んだ」吾輩の目に入ったのはこんな可愛らしい石仏。墓石の傍らに墓石に寄り添うようにして建てられているから、このお墓の持ち主が個人的に設置されたものであるのでしょう。高さ数十センチの小さな石仏(石像)である。その小さな頭にぴったり合ったサイズの野球帽を被っている。これはこのお墓のお家の方がこの石仏のために誂えたものに違いない。何か悲しい話がこの石仏設置の背景には潜んでいるのでは、と想像されたりも。 それはそれとして、この石仏も先頃の日本シリーズでは阪神タイガースを応援したのではないでしょうか。その応援と言うか、祈りも空しく阪神日本一の夢は潰え去りましたが。(里の秋) 墓地の裏は直ぐに山。墓地そのものが山の西斜面に存在するのであるから、里の境界がこの墓地ということとなるのでしょう。少しばかりの畑があってその先は山頂へと広がる雑木林である。 紅葉(黄葉)は未だ左程には進んで居らず、柿の実が秋らしい佇まいを見せている。 帰途は少しばかりしぐれましたが、傘を必要とするほどの降りではありませんでした。 とりとめもない、墓参に関連しての散歩のお話でした。
2014.11.02
コメント(11)
本日は墓参。小生のブログについては、ブロ友のウーテイス氏からは「近場の神社や墓ばかりですね。」と揶揄されたばかりでありますが、懲りずにまた、その墓であります(笑)。墓参りの記事など誰も読みたいとは思わないでしょうから、そろそろこのような記事もお終いにすべきなのかも知れませんが、日記というものは他人様に読んで戴くために書くのではないという、本来の意味から言えば、ブログと雖もそのような配慮は無用なのかも知れませぬ(笑)。 ということで、本日は墓参の記事であります。 で、これは何でしょう。何やら抽象画にも見える。 これは、ただの石です。お墓の一角に置かれていた石です。全体の形は下の写真でご覧下さい。ただの石も墓場に置かれていると、その奇妙な紋様と相俟って何か意味があるのでは、と思えて来る。いや、小生が知らぬだけで、何らかの意味があって置かれているものであるのかも知れません。中央上部に人工的と思しき穴が穿たれている。 墓参の際の定番行動。今日の言葉です。途中にある浄土真宗のお寺の門前に掲示されていた、今月(今日)の言葉はこれでした。(今日の言葉) 上の写真を撮って、カメラをウェストポーチに仕舞おうとした時にシャッターが下りる音がしましたが、帰宅して調べてみると、下のような写真が撮れていました。(偶然に撮れていた写真) 今日の言葉通り、「人生に無駄なことは何一つありません」ということですから、この写真も没にはせず、ブログに利用することと致しました。 写っている道は、写真手前側にある坂道と写真奥突き当りにある坂道をつなぐ道で、奥が南方向になります。この地点まで坂道を上って来て、この寺の前でこの道に入り、奥の坂道を更に上る、というのが墓参の時の通常のコースとなります。 今日は自転車(MTB)でやって来ましたので、この横に入る平坦な連絡路はペダルを漕ぎ疲れた脚には丁度良い休息になります。この後更に厳しい急坂道が待ち構えています。自転車での墓参りでは、最後の処で、いつもそうですが、ネを上げて自転車を降りて押して上がることになるのですが、今日もそうでした。 ハアハアと息を喘がせて我が家の墓の前に到着。花を入れ替え、線香を立てて、と決まりきった手順の墓参りが終わり、今日は墓地の一番上の方から東大阪市郷土博物館の方へ抜ける道を通って帰ることとしました。 墓地は山裾の西斜面に広がっている。わが家の墓はその中間位の高さの位置にある。最も高い位置に近い場所に観音菩薩の石像がある。今まで気が付かなかったが「河内観音菩薩」という名前が付けられているのでした。(河内観音菩薩) 観音像の前の石碑には「人の世は夢見つ消し露の里」という句が刻まれている。「消し」は「けし」では6文字で字足らずになってしまうから「消えし」と読むのでしょうな。今日の墓参の出だしの言葉が「人生に無駄なことは何一つありません」と前向きであったのに、結びともいえるコチラの言葉が「夢見つ消えし露の里」というのは何やら皮肉なことであります(笑)。しかし、「夢見つ消えし・・」の方がしっくり身に添い心に馴染むようでもあるのは、年の所為ですかな。(行基が奉納したと伝えられる五輪塔) 観音像の傍らには、行基が奉納したと言い伝えられている五輪塔がありましたが、これも今日初めて気が付きました。(ムギワラトンボ) 正確な知識かどうか定かではないが、ムギワラトンボというのはメスで、オスはシオカラトンボだったかと。同じ種類のトンボとは思えない風体の両者である。 墓地から郷土博物館へ抜ける道は草の生い茂る径にて自転車は押して行くしかない。ヌスビトハギが、咲きか散るらむ、という風情でそこかしこに。 萩にススキと来るとお月見ですな。今年の中秋の名月は明後日、8日とのこと。今年の十五夜は「あきらけくこそ」となるのでしょうか。ぬすびとの 萩も月見の 今宵かな (筆蕪蕉)(ヌスビトハギ) 中秋の名月というのは、旧暦8月15日の月のことで、十五夜とか芋名月とも呼ばれる。もう一つの名月は旧暦9月13日の十三夜の月。こちらは豆名月とか栗名月と呼ばれる。名月とはこの二つの月のみの呼称にて、その他の明るく輝く月は「明月」と呼ぶべきこととなる。 「仲秋の名月」という表現も時に見掛けるが、これは誤用。「仲秋」とは秋の旧暦7,8,9月の中間の月である8月という月を意味する言葉。8月15日は秋の真ん中の日なので中秋。即ち「中秋」は15日という日を意味している。 旧暦8月を仲秋と呼ぶのと同様、旧暦2月が仲春、同5月が仲夏、同11月が仲冬である。墓参の日記がお月見の日記になってしまいました。
2014.09.06
コメント(10)
眼鏡が壊れました。 この2月に白内障の手術をしたことは当ブログを以前からご覧になっていらっしゃるお方はご存知かと思いますが、その折に人工レンズ(水晶体)の焦点距離をどうするかと医者にきかれて、30cm程度に合わせて戴くようお願いしました。読書とかパソコンを打ったり、字を書いたりが眼鏡なしで行えるようにというもの。自転車に乗ったりで遠方の視力を必要とする場合は眼鏡で補正するということにしました。 普通は遠方の視力を確保し、読書など近い距離は眼鏡でという選択をされるらしい。小生は中学時代から近視になり、眼鏡を掛けたり、外したりをしているうちに度が進み、20代後半頃からは常時眼鏡を掛けるようになりました。家持が満25歳というと天平15年(743年)ですから、まあ、その頃から寝る時以外はずっと眼鏡を掛けてという生活スタイルでありました。ということで、これまでのスタイルを踏襲しようとしたという次第(笑)。 小生の近視はかなりの強度にて、裸眼で物がはっきり見える距離、つまり水晶体の焦点距離は数cmといった処か。従って、これまで使っていた眼鏡は度が強過ぎて使えない。眼鏡を作り変えないといけないことになります。 ところで、ヤカモチもよる年波にて老眼が進み、普通に掛けている眼鏡では読書がし辛くなってきて、少し度を落とした眼鏡を作り、読書などの場合はそれを掛けるようにしていました。(遠近両用の眼鏡も作りましたが、どうもそれは使い勝手が悪く目が却って疲れるようでもあり、「近」には使わず「遠」専用で使い、「近」はこの度の緩い眼鏡を使用していました。)で、この読書用の眼鏡が幸いしました。 白内障手術後の眼で遠距離を見る時は、この眼鏡が丁度合うようなのでした。新しい眼鏡は何れ作るとして、暫くはこの眼鏡で間に合うか、と眼鏡の新調を先延ばしにして来ました。しかし、この眼鏡も随分昔に作ったものなので、くたびれていたのでしょう。一昨々日(28日)の夜に掛けた瞬間ハラリと下に落ちました。一瞬何事が起ったか呑み込めなかったのですが、足元には二つに割れた眼鏡が落ちていました。目から鱗ではなく、眼鏡が割れ落ちたのでありました(笑)。見ると左右のレンズ枠を連結する溶接部分がパックリ断裂していました。(且つては読書用であった度の軽い眼鏡) 上の写真は、外れた部分を重ね合わせて、見かけ上は壊れる前に近い状態にして撮影したもので、実際には、下の写真のように壊れています。(左右の眼鏡枠の連結部分が断裂しました。)(足元に落ちた状態はこんな風でもあったでしょうか。) もう十二分に働いた。これが寿命です。という感じで眼鏡君は往生を遂げましたが、人もこんな風に或る日突然音もなくハラリという感じで死にたきものにて御座候(笑)。いやいや、眼鏡君、長きにわたりお世話になりました。ゆっくりお休み下さいませ。 で、一昨日(29日)、瓢箪山駅前の眼鏡店に行って眼鏡を新調。今日(31日)出来上がって来たのが、この眼鏡です。(新しい眼鏡) 眼鏡なしでは、銀輪散歩も遠出は無理でしたが、これでもう大丈夫です(笑)。 今日で8月も終わり、明日から9月。待ちにし秋の9月なりけり。
2014.08.31
コメント(10)
愛用のコンパクト・デジカメがダウンしました。バッテリーの寿命が来たようで、十分に充電している筈なのに、1~2枚撮影すると、ピピピーと音がして「電池の残量がありません。」という文字が画面に表示され、暗転・シャットダウンしてしまいます。 かなり前からたまにこのような事が起こっていたのですが、バッテリーをいったん外して入れ直すと元に復していました。ところが、3日前から突如、「レンズを初期化しています。」という表示が出て、ピントが合わなくなる、などの現象が生ずるようになった他、頻繁に「電池残量がありません。」という表示も出るようになって、撮影しようとするとシャットダウンしてしまうという次第。 もう6~7年も使っていますから、バッテリーのみならずカメラも寿命なんでしょう。同じ機種のものは今は販売されていないらしい。同じメーカーのカメラの方がパソコンへの取り込みや編集のための再設定の必要もなく便宜だろうと、電気店で探しましたが、このメーカーの機種入れ替えの時期に当たっているとかで、3月末頃にならないとコンパクトカメラの新機種は入荷しないとのこと。止むなく同じメーカーの一眼レフ・カメラを購入することにしました。 主人たる小生が眼のレンズを入れ替えたので、カメラの方もそれに合せて「入れ替えてよ」と横着を言い出したようであります。是非に及ばずですな。 ブログ写真を撮るだけなので、余計な機能などは不要。軽量・コンパクトなのが一番なのですが、ないものは仕方がない。なるべく小さめの嵩張らないものなら一眼レフ機種でもよかろうと、取り敢えず購入致しました。 (春はまだ光のみなり冬木立) この写真は、一昨々日(18日)に花園中央公園で撮影したもの。何という木かは知らないのだが、枝が複雑に枝別れして、まるで毛細血管のような様相を呈しているのが面白い。 「乱れて今朝はものをこそ思へ」という歌が思い浮かんだりもしましたが、寝乱れた黒髪はかくにしもあるか・・であります。しかし、ちと乱れ過ぎですかな(笑)。 この日は冷たい風が吹き、冬の寒さでありました。手袋をしていても銀輪のハンドルを握る手がジンジンと痛くなるようでもありました。されば木々たちも未だ冬眠。咲き出した梅も、トムソーヤではなく、寒そうや。そらそうや、と閑人ヤカモチ。木立らは 春立ちぬれど 吹く風の まだ冬なりと い寐てやあらむ (偐家持) どうやら、木立は朝から夕方までずっと、ただ寝乱れ眠りを貪っていただけにて、ものは思っても居らなかったようでありました。されば、寒くもありて、色気も何もあったものではないと言うべきか(笑)。 そして、花園ラグビー場の上の空には雲の峰が・・。その峰の向こうに輝いて見えるは西方浄土のそれやらん・・ランボーでもなくば、どれひとつ念仏でもあげることとしようか、でありました。(雲) 上の3枚は従来のカメラで撮ったもの。下の2枚は新しいカメラで昨日(20日)試し撮りしてみたもの。新しいカメラの操作、撮影の仕方やメニューなどの詳細は未だよく理解できていませんので、追々に慣れて行くしかありません。(花園中央公園北出入り口付近)(花園中央公園・北出入り口付近から南方向を望む。) 花園中央公園の水際には葦が群生している。鴨や鳰や鷺が見られることもあるのだが、この日は姿無し。寒き夕べと葦原と来れば、浮かぶのはこの歌。葦辺ゆく 鴨の羽交(はがひ)に 霜ふりて 寒き夕(ゆふべ)は 大和し思ほゆ (志貴皇子 万葉集巻1-64) この歌は、慶雲3年(706年)、文武天皇の難波宮行幸に従駕した、志貴皇子が大和のことを思って詠んだ歌である。大和にのこして来た妻のことなども思われての歌であろう。道綱のおっかさんの歌「なげきつつひとりぬる夜のあくるまは・・」なんぞよりは、ずっと清澄で美しい、気品のある歌である(笑)。 高円山の麓にある白毫寺は志貴皇子の別荘のあった場所であるが、この寺は、高校生であった頃に訪ねて以来、何度となく訪ねている小生お気に入りの寺の一つでもある。 デジ亀の話で始まったブログ記事が鴨の歌で終るということで、何とも脈絡も、取りとめも無い記事となりましたが、お赦しいただくこととして、今日はこれにて。 今月に入ってからは一日の休みもなく、毎日、記事の更新が続いています。先月31日から始まり、これで22日連続更新。多分自己新記録ではないでしょうか。我ながら「あっぱれ」でありますが、銀輪からは「われをこそ22日連続で乗るべきにて、喝。」と言われそうです(笑)。
2014.02.21
コメント(6)
8日間の「健康的な入院生活」から追放されて、元の木阿弥の「不健康な日常生活」に本日無事復帰致しました。 昨日は、図らずも輪友の偐山頭火氏から陣中見舞いを戴きました。熱い珈琲を魔法瓶に入れ、苺大福を添えての陣中見舞いでありました。小阪から石切・水走まで自転車(MTB)でのご来駕、いや、ご来輪ですかな。その後、若草の智麻呂邸を訪ねるとのことで、暫しマイ・ルームにて歓談。退院後の銀輪行のことなども話題に上りましたが、これは本日の退院に際しての今後の注意事項や通院のことなどをよく確認してからのこととなるので、いつ頃から普段通りに走れるや否やによること、また、彼自身が俗世間の仕事から未だ足を洗い切れない往生際の悪さを生きる身にて、日程の調整が上手く行くか否かも分からぬことなど、不確定要素の多々なれば、曖昧模糊のままに置くの外なく、でありました。 彼が去るのと入れ替わりに、母や妹や姪や家内がうち揃っての来場。今度は、「のらやの手作りわらびもち」なる珈琲入りの蕨餅による陣中見舞いでありました。 珈琲好き家持ということで、偐山頭火さんも妹達も珈琲絡みの陣中見舞いでありました(笑)。それにしてもコーヒーゼリーは夙に存じ上げ候ひしもコーヒーわらび餅とは、初めて。まあ、いける。背水の 陣にしなけれ 水走(みづはい)の 陣なるわれに 輪(りん)の背子来(こ)し (偐家持)かたかごの 花より珈琲 含(ふふ)みたる わらび餅かと 姪もち来たる (偐家持)(のらやの手作りわらびもち) さて、病院の名は曖昧なままにして置くつもりにてありたれど、既にしてたれかれとなく知られたりければ、その名を明らかにせむとて・・(石切生喜病院)(同上)(同上)(同上6階休憩室<デイルーム>)(鬼虎川遺跡説明板) この病院のある地を中心とする一帯は弥生時代の一大集落があったとのことで、鬼虎川遺跡と呼ばれているそうな。 この病院建設に当たって大規模な発掘調査が行われたとのことで、このような説明文の付された大型の発掘状況写真パネルが院内に掲示されていました。邪馬台国は此処、水走の地にあったという説を打ち立てましょうかね(笑)。 このパネルは外来・一般病棟の2階に掲示されているのだが、入院病棟と一般病棟は2階で連結廊下で結ばれているため、われわれ入院患者が診察を受けに一般病棟へと向かう際には、このパネルの前を通ることとなる。そんなことで、たまたまそれと気付いたもの。(写真をクリックして拡大写真でご覧戴くと読み易いかと思いますので、興味ある方はどうぞ。)(梅・入院病棟東側通路) 徘徊家持、病院内を隈なく歩きました。殆ど誰も通らない病棟の片隅にも、ひっそりと紅梅が咲き匂っているのでありました。(同上) 一期一会の梅の花に送られての退院ですかな。梅の花 はしきと見れど また来むと 言ふ人ぞなき 病庭の隅 (偐家持) これにて、ヤカモチ入院始末記全5巻めでたく完結と相成りました。 どちら様もブログの上にてのご丁重懇篤なるお見舞い、まことに忝く、心より御礼申し上げ奉りまする。
2014.02.12
コメント(12)
左目の覆いを取って戴きました。手術直後のそれは遮光不透明にて外界が見えないので片目生活となり、ちょっと鬱陶しいのであるが、翌日午前中にはもう、それを外して透明プラスティックのものに変えてくれる。 「手術後カッペをしますので絶対にはずさないでください。」と手渡された注意書きにはありましたが、この覆いがカッペである。 しかし、カッペがKappeというドイツ語であることに気が付くのに少し時間が掛かる。キャップという英語なら日本語にもなっているから、そういうことはないだろう。どうしてキャップという言葉を使わないのでしょう。 まあ、カードをカルテと言うのが医学の世界だから、そちら世界ではそれでいいとしても、カッペはカルテほどには一般化していないのだから、患者向けにはキャップを使う方が分かりやすかっぺ、と思いますがね、田舎っぺの田舎家持としては。 さて、そのカッぺであるが、これを取り外す瞬間が何とも素晴らしい瞬間なのである。始めに光ありき、または、世界は光と共にありき、などと言いたくなるような瞬間なのである。溢れる光と鮮やかな世界がそこに現出する。それは殆ど過剰なまでに鮮やかな世界なのである。 その鮮明さはまた視神経に過剰な刺戟をもたらしているのではないかとも思ったりもしている。その結果、どうも脳の方でこれを補正するようなのである。 と言うのは、6日に手術した右目のカッぺを翌日7日に外した時も同様な鮮やかさを感じたのであるが、その右目と今日の左目を比べると明らかに左目の方が色が鮮やかと言うかコントラストが鮮明なのである。これは右目が過剰な刺戟を回避するための補正を行った結果であり、やがて左目もそのように補正されて、現在の右目程度の鮮明度に落ち着くのだろうと推測される。 こういうのは馴化(順化)というのですかね。環境に適応するために生物が自らを変えることを馴化と言うが、過剰な光刺戟に対して感じ方の方を変化させるというのも、この能力と同じ性質のものであるように思われる。 生まれたての目は、今、必死に馴化しているのですな。このことによって、最初のあの感動的なまでの鮮やかさというのは、徐々に薄れて、ほどほどなものになる・・という次第。美女は3日で飽きる、ブスは3日で慣れる、というような言葉は品性に欠けるものにてヤカモチの好まぬ処なれど、この馴化というものの一面を言い得ている言葉ではある。 何であれ、当たり前になって行くというこの馴化というものは、個人にとっても人類全体にとっても、或る面で救いとなる一方、不幸や不満や諸々の悪しきことを招来する下地ともなるものなのではある。 など、思いつつ、わが病室とも明日12日でお別れである。 お世話になった先生や看護婦さんや配膳や掃除などお世話下さった皆さんに感謝しつつ、めでたく退院と致しまする。 では、病室君、あと一晩よろしくお願い申し上げまする(笑)(わが病室:マイン・クランケン・ツィマーと呼ばねばならんのか?)
2014.02.11
コメント(10)
6日の右目に続いて、今日10日は左目の手術の日。 手術は午前11時から。この手術が終われば、わが「快適入院生活」も終焉を迎えることになる。と言っても明日11日は建国記念日にて、祝休日の退院は出来ないということで、1日延びて12日の退院となる。 入院したのが5日だから、今日は入院6日目。入院も今日を含めてアト3日を残すだけ。 されば、折角のことゆゑ、入院の記念にもと、当病院よりの眺めなど撮影しつつ、以って記事になどしてみむとて。 先ず、病棟からの東西南北の眺めです。(東方向の眺め・6階病室から) これは、わが病室からの眺め。(西方向の眺め・8階展望ホールから) これは、8階展望ホールからの眺め。こちらサイドは病院のすぐ前を恩智川が流れている。小生が常々銀輪で走る道である。(南方向の眺め) これは6階の廊下南端の非常口からの眺め。南方向は、南端の病室から以外は、この非常口扉越しにしか外は見えない。(北方向の眺め) これは6階休憩室からの眺め。各階の休憩室・食堂などは北側に配置されているので、北方向の景色は南方向のそれと違って容易に何処からでも撮影できる。 小生の病室は6階なので、行動するのは、この階と1階のロビー、屋外の喫煙所、そして8階の展望ホール位でしょうか。 8階展望ホールは写真家はどなたであるのか確認していませんが、美しい四季折々の風景写真パネルなども掲示されていて、なかなかいい空間になっている。テラスに出る扉はロックされていて、出られないのが少し残念。(8階展望ホール)(同上) 上は夜の佇まい。下は昼間の雰囲気です。(同上) そして、愛用の喫煙所。 入院スモーカーたちの社交場でもある(笑)。ただ、この季節は寒いので、社交も煙草1本を吸い終わるまでの数分という短い交流にならざるを得ない。(喫煙所) 喫煙所近くの梅の木。 昨日の記事に掲載の梅の花は、この木のものでした。 次の山茶花も同様です。(喫煙所近くにある梅の木)(同上・山茶花) (入院病棟と月) 喫煙所へは正面玄関を出入りしなくてはならないのであるが、出入り可能なのは午後8時まで。従って、午後8時以降は禁煙するしかないこととなる。 昨日の午後4時半頃、喫煙所から玄関へ回る途中で見上げると東の空に月が出ていました。左が欠けていますから上弦の月。ほぼ半月でしょうか。弓張月ですな。 入院中の小生の行動範囲は上の通りなのだが、一昨夜こんなことがありました。夜中0時半頃に目が醒めて、喉の渇きを覚える。冷蔵庫には飲み物がない。病室を出て同じ階の休憩室にある自動販売機でお茶を買おうとしたら、休憩室の扉が閉まっていて開かない。通りかかった看護婦さんが5階か7階の休憩室なら開いていると教えて下さった。1階まで下りる必要がないと階段で5階に向かう。ペットボトルのお茶をゲット。 ここまでは良かったのだが、5階に下りていることを忘れて6階のつもりで自分の病室へと向かう。ドアを開けると真っ暗。照明は付けたまま出た筈、部屋を間違ったかと外に出て確かめるが部屋の位置は小生のそれの位置。再び入ろうとすると、カーテンの向こうから「部屋を間違っていませんか。」という女性の声。それでようやく部屋を間違った(いや、正確には、部屋ではなく、階を間違った)ことに気付く。「失礼しました。」と慌てて外へ。 手術で目がよく見えるようになっても、肝心の脳の方がこれでは何にもならない。変だと思わずに入ってしまって、もしその部屋の女性が熟睡していて小生に気付かず、小生も亦真っ暗の中で彼女に気付かずにベッドに転がり込んでいたりしたら、そして、その瞬間に彼女が目覚め、キャーッとか騒ぎ立てたとしたら、これはもうとんでもないことになっていた可能性がありました。濡れ衣というのは、事実が無いのに疑われることですが、今回の小生のそれは外形的には事実を伴っていて、無いのは故意という主観的要素だけ。この場合「故意でない」ことを証明するのはかなり難しいような気もしますから、部屋の女性が起きていて下さったのは幸運なことでした(笑)。 5階を6階だと誤解していましたの「弁解」では洒落にもならぬ。 一つ階段を上って自分の部屋に戻ると、やはり照明は付いていました。真夜中の階段話は怪談よりも「怖い」、と言うか、要注意です。また、「ゴカイ」という陥穽にはくれぐれにもご注意ということですな。自分も他者も誤解するものである、ということを忘れてはいけない。どうぞ皆さまも「ゴカイ」には特にお気をお付け遊ばされますように。まあ、碁会所なんかは問題ありませぬが(笑)。(10日午前4時10分) そして、まだ明けやらぬ朝の窓外の眺め。 これは今日の朝の眺め。朝と言っても日の出にはまだ時間もあって夜景と変る処なしである。入院生活の一日は上のような景色で始まり、上のような景色で終るという次第。<追記>左目の手術も無事完了。今回は右目の時と違ってやや痛みがある。さて、手術を済ませて帰ってきたら、英坊さんからアベノハルカスは見えるかとのコメントを戴いていました。それで昼食後8階展望ホールで確かめて来ました。やや南寄りに見えていましたので、その写真を追加で掲載します。(アベノハルカスも見えています。) ついでに、7階休憩所も。各階とも同じ感じですが、7階のそれだけ8階と吹き抜けになっているので上からの撮影が可能です。(7階休憩所・8階展望ホールから) もう一つ、ついでに恩智川も。(恩智川) 花園中央公園は、画面左(即ち上流)に恩智川を行くとあり、右(下流)に行くと大東市になります。 高速道路は阪神高速13号東大阪線。中央大通り(国道308号)の上を走り、阪奈トンネルで奈良へとつながっている。小生が囲碁例会で梅田に向かう時は、この下を自転車で画面奥のビル街の方へと走っているのである。
2014.02.10
コメント(14)
1月31日の蝶麻呂君との銀輪散歩で立ち寄った緑ヶ丘公園の梅林はまだ蕾も固く、咲いている花は一つとてなかったのでありますが、こちらの病院の庭では梅が咲きましたから、今頃はかの梅林も馥郁たる梅の香に満ち満ちていることであるでしょう。 入院病棟の西側の庭に梅や山茶花の花が咲いている。 病室が6階なので庭に出るのは少し面倒。されど、喫煙場所がその一角にあるので、厭わずに通っています(笑)。それにエレベーターではなく階段を使って上り下りして居りますので運動不足も解消。因みに病室から喫煙所まで階段を使うと往復で約600歩。煙草1本吸うと600歩を歩くことになる。煙草を吸う度に身体が鍛えられるという寸法。これって健康に良いのか、悪いのか(笑)。 それはさて置き、今日は梅の花の記事です。 大伴旅人が大宰府で観梅の宴を開いたのは天平2年正月13日(730年2月8日)であるから(この宴での歌は、下記参考1.参照)、昨日8日にこの記事をアップすれば丁度よかったのですが、生駒山に先を越されて一日遅れとなりました。(病院の庭の梅)病棟の 庭に咲きたる 梅の花 春のさやぎを 何とてや告ぐ (偐家持)(同上) 梅に因んで1首作ってみましたが、面倒なので、過去の記事に掲載した偐家持作の梅の歌で代用することにしましょう。作った本人も忘れているのだから、読者諸氏もそれと気付く人はいないでしょう。ブログページ右欄のキーワードサーチで検索してみて出て来たものを少しばかり掲載して置きましょう。人みなは 春は桜と いふなれど まず咲く梅を 春とや言はむ (梅郎女)冬ごもり 春さりくれば 梅の花 見せばや妹に 今しぞ咲ける (偐家持) 朝鳥の 声のとよみて 白梅の 花は咲きたり 一輪二輪 (偐家持)くれなゐと 真白にぞ咲く 梅の花 春の競(きほ)ひの 見らくしよしも (偐家持)(同上)(同上)(同上)<参考>梅の万葉歌を掲載している過去の記事 1. 梅の花咲き始めにけり枚岡の・・ 2013.2.21. 2. 囲碁と梅と水仙 2011.2.9. 3. 枚岡梅林 2010.2.22. 4. 枚岡梅林、花園中央公園 2009.2.21. 5. 第26回智麻呂絵画展 2009.2.15. 芭蕉の梅の句を掲載している過去の記事 6. 墓参・梅と水仙 2013.3.2. そして、山茶花。白梅に続いて山茶花も白。 白い花が並びました。 上の梅では過去の歌を引っ張り出しての「手抜き」手法を採用しましたが、山茶花についても、この手を使わせて戴きましょう。 山茶花だけに、「手抜き」とは言わず、昔の歌で「お茶を濁す」と言うのでしょうな。わが屋前(には)に 咲ける山茶花 春立てば 咲けど葉陰に はにかむらしも (偐家持)春立てば 椿とも見む 山茶花の 八重にし咲くの 見らくしよしも (偐家持)今はもや 泣けと降るらし 夕寒の 山茶花時雨 間なくしあれば (偐家持)楚(しもと)踏む み山の奥の 山茶花の 咲ける静寂(しじま)に もみぢ葉散れる (偐家持)鶴見野も 山茶花梅雨(さざんかつゆ)と なるやらむ ポプラのほつ枝 暗き雲あり (偐家持)さざんかの さんざか咲いて 北風の 曲がり小道も いささかぬくし (垣根曲麻呂(かきねのまがりまろ))山頭火 茶化して見れば 山茶花に (筆蕪蕉)山茶花に 似て非なるかな 山頭火 (筆蕪蕉) 山茶花が「さざんか」なら、山頭火もいずれ「さとんか」か。(サザンカ・白) 白い花ばかりでは彩りと華やぎに欠ける。 赤い花も添えましょう。(サザンカ・赤)(サザンカ・赤)
2014.02.09
コメント(8)
白内障も病気と言えば病気なのだが、ヤカモチの「病気」の範疇には入っていないので、入院などという大袈裟なことになっているのが何とも奇妙な感覚にて、場違いのわれにしあるや・・など思いつつブログなどアップしてみむとて。さればとて、銀輪家持なれば銀輪なきは筆なきがごと、すべもなければ病棟の窓にし見ゆる生駒山などを・・。 通常は、入院にてあれば「病床に・・」となるのでしょうが、本人は病気とは思っていないのだから、病床というのはしっくり来ない。さりとて入院はしているのだから入院病棟にいることには違いない、ということで折り合いを付けたのが、上のタイトル「・・・病棟に」であります(笑)。病棟に 見つつもをらむ 生駒山 何とてなすの こともなきわれ (偐家持)(病室から生駒山を望む。) これは入院した2月5日に、病室から生駒山を撮影したもの。病室は東に面しているので常に生駒山とご対面である。 下は、翌6日の早朝の生駒山である。(生駒山の夜明け) 生駒山の登場する万葉歌は6首ある。それぞれについてこれまでに何処かのページに掲載していると思うが、その全部をまとめての掲載はしていないかも知れないので、ここで掲載して置くこととします。・・・露霜の 秋去り来れば 射駒(いこま)山 飛火(とぶひ)が岳(をか)に 萩の枝(え)を しがらみ散らし さ雄鹿は 妻呼びとよむ 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし・・・(万葉集巻6-1047)妹がりと 馬に鞍置きて 射駒(いこま)山 うち越え来れば もみち散りつつ (同巻10-2201)君があたり 見つつもをらむ 生駒山 雲なたなびき 雨はふるとも (同巻12-3032)夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山 越えてぞ吾(あ)が来る 妹が目を欲り (秦間満(はたのはしまろ) 同巻15-3589)妹にあはず あらば術(すべ)なみ 石根(いはね)ふむ 生駒の山を 越えてぞ吾(あ)が来る (同巻15-3590)難波津(なにはと)を 漕ぎ出(で)て見れば 神(かみ)さぶる 生駒高嶺(いこまたかね)に 雲そたなびく (大田部三成(おほたべのみなり) 同巻20-4380) 万葉人にとって生駒山は、恋人を思う山であったり、越えてぞ妻や恋人に逢いに行く山であったり、遠く故郷を偲ぶ山であったりしたのだが、今の偐家持にとっては、朝夕に見つつもあらむ生駒山であり、見るほかに何とてもなき生駒山である(笑)。(同上) 春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎはの少しあかりてむらさきだちたる雲の細くたなびきたる・・でしたでしょうか。朝の生駒山の景も枕草子の景さながらに6日7日は明けて行ったのでありますが・・。(同上) 昨夜から雪が降り始め、翌朝には一面の銀世界と期待したのですが、起きての今朝の景色はご覧の通り、屋根にいささか白きもの降り積みたるのみにて、道路などは濡れているばかり。既に雨にと変わりたれば、更に積もることもこれなきかと・・。(2月8日の朝、雪の降れるに・・)な隠しそ 言ふに雪雲 烏滸なるや 今朝は隠しつ 生駒の山を (隠家持) など言っているうちに、山の稜線が次第にくっきりして来て、生駒山山頂部分のみが雲の中という状態にまでなっていますから、ようやく雲も反省し始めたと見える(笑)。 病院の庭にも出てみたれど、はだれの雪の消え残りたるが少しばかりあるのみ。白内障の手術も右目ばかりなれどひとまずは終りて、ものみなさやかに見えたれば、すももの花に見間違えることもなければ、白い山茶花が散ったのかなどと、とぼけたことを言ったりもしないのである。
2014.02.08
コメント(9)
今日は節分、明日は立春。 いよよ春にしなるにやあらむ・・ですが、昨日までの暖かさは去って、今週は再び厳しい寒さが戻って来るとか。どちら様もおん身お大切に。 良寛さんの歌にこんなのがあります。なにとなく 心さやぎて いねられず あしたは春の はじめとおもへば (良寛) この歌は立春の前日の歌ですから、今日の歌に相応しい歌でもあります。昔の人の感覚では立春が1年の始まりであったのですから、今日の我々の大晦日の感覚に近いと言うべきか。 さて、立春の前日は節分。冬と春との境目の日。「鬼は外~」の豆まき、年齢の数だけの豆を喰う。恵方巻にかぶりつく。人それぞれに今日の日を過ごされるのであるでしょうが、満年齢1296歳のヤカモチにとっての難関は何と言っても豆を喰うことであります。まあ、昔は数え年で年齢を数えていましたから、1297個も豆を食べなくてはならないということになる。 鬼(邪気)を払い、火で炒った豆は福豆となる。それを食することは、その豆の「福」を身内に取り込み、この1年も健康で幸せにありますようにと願う行為、儀式ということになる。であれば、胡麻ではやはり誤魔化せないのでありますな(笑)。 大豆には悪玉コレステロールを低下させる効用が顕著にあるとのことなので、もう長生きを願う年齢にはあらねど、生きている限りは健康にてありたきものと、ヤカモチも人並みにやはり大豆を食うのであります。 さて、昨日(2月2日)は月例の墓参をして参りましたが、その折に通る寺の門前に掲示されていた言葉は次のようなもの。(今日の言葉) 鬼は内にぞある。或いは、鬼を作り出すのはわが心なりけり、でありますかな。鬼と神は裏腹の関係。内なる鬼を神にぞ変へむと豆をまくべし、豆を食ふべし、なのであります。(ロウバイ)朝の雨 止みぬる道は 蝋梅の かほりほのかに 流れ来るかも (偐家持) 上の写真は2日の墓参の道の辺に咲いていたものですが、友人・蝶麻呂氏との1月31日の銀輪散歩で立ち寄った緑ヶ丘公園の梅林でも咲き匂っていました。梅は春告げの花と称されるが、今や蝋梅がひと足早くそれを告げる花となっているようで、その所為かあらぬか、近頃の梅は春を告げられてから咲くという、春告げられ花、になり下がってもいるような(笑)。 明後日から、白内障の手術のため暫し入院します。通常、白内障の手術は通院のみで済ませるようだが、小生の病院は入院して貰うことになっていると言う。是非に及ばずで、止むなく5日から12日まで入院です。銀輪散歩もお休みとなりますが、個室なのでパソコンを持ち込み、掲載遅れとなっている宝塚・伊丹銀輪散歩の道中記でもアップ致しますれば、ブログの方は開店営業中であります(笑)。
2014.02.03
コメント(18)
クリスマスはイエス・キリストの誕生日ということですが・・。 聖書にはキリストが何月何日に生れたという記述は一切ない。 <参考>クリスマス・Wikipedia キリストの降誕・Wikipedia 西暦元年に生まれたというのも、ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスが「ルカによる福音書」第3章の記述から、ローマ皇帝ティベリウス在位15年(ローマ建設紀元754年)にイエスは30歳であったものとして推定したものだそうな。 <参考>ディオニュシウス・エクシグウス・Wikipedia しかし、マタイによる福音書では、イエスはヘロデ王の代に生れたとされており、ヘロデはローマ建設紀元750年に没しているから矛盾する。 マタイによる福音書によるならばイエスが生まれたのは西暦元年ではなく、紀元前4年以前でなければならないことになります。 また、生れた日についても、12月25日の他に、1月6日、2月2日、3月25日、4月2日、4月19日、5月20日、9月11日、11月8日、11月17日など諸説があり、邪馬台国論争と似た状況です。 <参考>ルカによる福音書第3章 「皇帝テベリオ在位の第15年・・・イエスが宣教を始められ たのは、年およそ30歳の時であって・・」 マタイによる福音書第2章 「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れに なったとき・・」 さて、古代メソポタミアでは冬至の前後12日間を新年の祭として祝っていた。冬至のこの期間はカオスに住む怪物が出て来るので、暗く寒くなる。そしてバビロニアの最高神マルドゥクがこの怪物と戦い打ち負かすことによって、明るさと温かさが回復すると考えたのです。 <参考>マルドゥク・Wikipedia また、古代ローマでは冬至の祭として農耕神サトゥルヌスを祀る祭が行われていた。これは飲めや歌えやのお祭りでしたが、夜中ロウソクの灯を灯したのも太陽神を呼び戻すためのもの。このロウソクと小さな人形をプレゼントし合うということから始まって、色々なプレゼント交換の習慣が広がったとされる。クリスマスプレゼントの起源ですかな。 太陽神を呼び戻すためのドンチャン騒ぎもアマテラスの岩戸隠れのそれと共通していて面白い。 <参考>サートゥルヌス・Wikipedia(ゴヤ「我が子を食らうサトゥルヌス」) ということで、クリスマスが12月25日となったのは、このような古代農耕民の多神教の祭と習合した結果でありました。 宗教というものは民間に広く浸透すれば自然に習合して行くもの。こういう習合という現象は組織的宗教にとっては自身の組織のアイデンティティの危機という側面も有することとなる。これに対して危機感を感じて純化しようとする動きが生じるのも自然の成り行き。これと組織的権力を持った側が反対の勢力を排除するための論理とが結び付いたのが「異端」という排除の論理ということになりますかな。 それはさて置き、そもそもクリスマスというものがキリスト教と異宗教の習俗と習合して生まれているものでありますから、宗教的な厳密性を求めないわが国に於いて、クリスマスが習俗として広まり定着したのは、極々当然のことと言うべきでしょうか。
2013.12.25
コメント(7)
9月になりました。 本日は、NHKの囲碁を観た後、雨も上ったので、智麻呂邸を訪問、新作の絵5点をゲットして参りました。手許の絵2点と合せて7点の絵が揃いましたが、もう2~3点増えてから智麻呂絵画展と致しますので、智麻呂絵画ファンの皆さまは今暫くお待ち下さいませ(笑)。 本日は偐山頭火氏も智麻呂邸に来て居られたようだが、小生がお伺いした時にはもうお帰りになった後、入れ違いでありました。 帰宅後、月例の墓参に。朝のうちは雨でもあったので、遅い墓参となりました。道すがらの寺の門前の掲示板の言葉は、今日はこのようなものでありました。(今日の言葉) 仲野良俊氏がいかなるお方かは存じ上げないが仏教指導者のお一人であるのでしょう。墓参の都度、目にしていた寺の門前に掲示の言葉であるが、出典は真宗大谷派大阪教区の「銀杏通信」の「今月の言葉」からのものであることが、最近になって、ネット検索の結果、それと分かりました。 人間は一生を通して、誰になるものでもない、自分になるのだ。 「お前は一体何をして来たのだ」と吹き来る風に言われようと、自分は自分。自分でしかないのであってみれば、まあ、この道を行くのほかありませんですかな。(向日葵) 先日(8月27日)の日記に掲載した睡蓮の花や向日葵の花の写真を印刷に打ち出して欲しいという要望を智麻呂氏から戴きました。絵の題材にされるのでしょう。そんなことも思い起こされたので、墓参の道の辺の咲いていた向日葵の花を写真に撮ってみました。 こちらは、ひと際大きい花で重たげに少し俯いて咲いているのを下から見上げるようにして撮影しました。ヒマワリは「向日」の「葵」と書きますが、ここまで花が大きくなると、日に向かうよりも俯き加減になるのも止むを得ない。恰も9月になってもこんなにノー天気に咲いていてゴメンナサイ、と言っているようでもあるか。もしそうなら、この向日葵さんにも上の言葉を贈りましょうか。まあ、人も花もある時期からは自分の顔に責任を待たなくてはならないのであります(笑)。 本日の墓参でお見かけした花は少し「時じく」の感もなきにしあらずの向日葵の花でありました。
2013.09.01
コメント(10)
本日は墓参。クマゼミのせわしなく鳴く中を生駒山麓の高みにある先祖代々墓に参ってまいりました。先祖代々墓と言っても小生の曽祖父が建てたものにてあれば、そんなに古いものではありませぬ。 大伴家持の曽祖父は大伴長徳。別名、大伴馬飼(馬養)とも言う。大化5年(649年)には右大臣になっている。長徳の弟の馬来田や吹負は壬申の乱で活躍するが、長徳は651年に亡くなって居り、壬申の乱の当時は息子の安麻呂(家持の祖父)の時代。家持は718年生まれであるから、曽祖父は勿論、祖父の安麻呂(714年没)の顔も知らない。そもそも家持は父旅人が54才の時の子供であるから、仕方がない。 偐家持の曽祖父は梅吉。偐家持が生まれる前に既に故人であった。曽祖母はノブ。彼女は偐家持が3~4才の頃まで存命であったのでぼんやりと記憶にある。(カンナ) 墓への道の辺にカンナが咲いていました。 小生が子供の頃、裏庭の片隅にカンナが咲いていたのを記憶している。 それででもあるか、小生にとって夏の花と言えばカンナである。 墓は山麓の高みにあるので、大阪平野が一望である。 日本一高いビル、アベノ・ハルカスが見えている。 下の写真では分かり難いかも知れませんが、左寄り遠くに、ひと際高いビルが写っている。それがハルカスである。今日は空気が澄んでいるのかよく見通せる。 大阪城も見える。下の写真では、中央やや右寄り奥にOBPのビルに囲まれるようにして大阪城が写っています。まあ、クリックして、フォト蔵写真の拡大版(元画像)で見ないとそれとは分りませんが(笑)。(墓所から大阪市街遠望) アベノ・ハルカスの直ぐ近くに四天王寺がある。わが家の墓所から南へ数百メートル行った処にある往生院からは、古来、春分・秋分の日には太陽が四天王寺の五重塔の上に沈むのが見えるとされている。 おそらく我が家の墓から見てもそのように見えるのだろうと思うが、まだ確かめたことがない。高いビルが建ち四天王寺の五重塔そのものが、よくは見えなくなっているが、ハルカスが出来たので、その場所がひと目で見てとれるようになった。 今度秋分の日に、ハルカスに沈む夕日でも写真に撮ってみることとしましょうかね。
2013.08.03
コメント(8)
本日は朝のうちに墓参。 墓への坂道を少し上った処の寺の前で、幼馴染のトモちゃんと出会う。彼女もお母様とお墓参りであったようで、その帰りでありました。ムラで小生と同じ学齢の子供は男子が小生を含めて5人、女子も5人いたかと思うが、その内の1人である。小生は「ケンちゃん」と呼ばれていたが、ムラには同学年で1人、一学年上級に1人と3人の「ケンちゃん」が居たので、それぞれ「◎◎のケンちゃん」と上に姓を付けて区別されていた。いくつになっても幼馴染みは◎◎ちゃんである。トモちゃんのお父様と小生の父が同学年で父親同士も同級生であったことなども思い出しました。(睡蓮) お墓への最後の坂道に差し掛かる処に池がある。その池には睡蓮が花を咲かせていました。池はその西側のお家のご所有だと思われるが、このお家の庭先はいつも季節の花が咲いていて、墓参の行き帰りに目を和ませてくれる。そのお家の西側のお庭(つまり池とは反対側の庭)には、信楽焼の狸が東方向(つまり生駒山地の方向)を向いて立っている。まるで、朝日を仰ぎ見ているようでもあったので、1枚その横顔を撮ってみることにしました。われかくて 今日もありなむ な煩ひそ 明日は明日なり 日はまた昇る (狸麻呂) (タヌキ) さて、トモちゃんと出会ったお寺の門前には、いつもの通り「今日の言葉」が掲示されていました。(今日の言葉) 本日の言葉は安田理深氏の言葉。 同氏の名は小生は勿論存じ上げないので、Wikipediaで調べて置きました。下記をご参照下さい。 <参考> 安田理深・Wikipedia 明日のために今日を犠牲にしてはいけない。今日なすべきは今日なすべきであり、今日を精一杯に生きれば自ずから明日はひらける、ということでありましょうか。 「あすのことを思いわずらうな。あすのことはあす自身が思いわずらうであろう。」(マタイによる福音書第6章34節)という聖書の言葉や「昨日またかくてありけり、今日もまたかくてありなむ、この命なにを齷齪明日をのみ思ひ煩ふ」という藤村の詩の一節を連想したりもしましたが、このような言葉は前後の文脈やその言葉の置かれた状況、この言葉を受け止める側の人間の心の在り様などとの関係で「或る意味」を持ったものとなるのであれば、一見逆のことを言っているようにも見える「明日のために今日を耐えよ」という言葉とも左程の違いはないとも言えますかな。 上の狸さんも下の柘榴くんも、そんなことは先刻ご承知にて、今日を今日として生きているのであります。人間だけがあれこれと七面倒臭いことを思い煩い、悩み、物事を分かりにくくしているようでもあります。(ザクロ) この寺の前の空き地には、早くも柘榴が実を付けていました。 草木は、「私」が存在する前にそうであったように、今日の営みを黙々とこなし、「私」が存在しなくなった後も、変ることなくその営みを続けて行くのでありましょう。
2013.07.06
コメント(8)
本日は墓参。雨が降る前にと思っていたのですが、出掛ける頃にはパラパラ、しとしと、と雨が降り始めて、雨の中の墓参となりました。(菜の花) 墓地は生駒山西麓の高みにあるのだが、その墓地の中にクスノキの大木がある。先月の墓参は3月2日であったが、その時には咲いていなかった菜の花が、そのクスノキの根方に咲いているのでありました。 菜の花には雨が似合う。吾子(あこ)眠る 坂の上(へ)の墓 手向(たむ)けばや 雨に濡れつつ 菜の花咲ける (偐家持)(同上) 菜の花越しに眺める大阪平野も雨に煙っている。 夜には嵐になるらしい。(一本の草にも) 墓への坂道の途中に寺がある。門前に毎回なにがしかの言葉が掲示されているのであるが、今日は上のような言葉。藤原鉄乗師の言葉でありました。この方の歌に次のようなのがある。葉は落ちて はたかとなれる へうたんの かほに雨ふる 秋のあさかな (藤原鉄乗) 歌の意味は別として、語調を真似て、今朝の墓参を歌にすれば、花ちらす 雨の降りそむ 坂の上(へ)の 墓にしまゐる 春のあさかな (偐家持)でありますかな。思ほえば 逝きにし人も わが生くる かぎりは胸に 生きてぞあれる (偐家持) でありますれば、時にわれわれは先に逝きたる人を思い出してあげなくてはならないのでありますな。 墓というものはそのためにある。 小生の墓参はそのようなものとしてあるのだけれど、思い出さなければならない人が増えて行くというのは寂しいことでもあります。
2013.04.06
コメント(8)
今夜はクリスマス・イヴ。 どうぞ皆さま、よいクリスマスをお迎え下さいませ。 教会から離れて久しくなり、クリスマス礼拝にもご無沙汰しているが、手許の聖書を開いてみると、新訳聖書の「ルカによる福音書」の第2勝の1~21節にしるしを付けて「'68Weinacht」という小生の筆跡の落書きがしてあるのに気が付きました。 多分1968年のクリスマス礼拝でこの部分を読んだのであろう。当時は我が師の智麻呂氏は牧師をされていて、この聖書の部分を取り上げてクリスマス礼拝の説教をされたのではないかと思われます。大昔のことゆえ、勿論、説教の内容などは記憶の彼方にであるが、このようにして古い記憶の断片が甦って来るというのも悪いものではない。 その頃、天下の人を戸籍に著(つ)かすべき詔令(みことのり)カイザル・アウグ ストより出づ。この戸籍登録は、クレニオ、シリヤの總督たりし 時に行はれし初(はじめ)のものなり。さて人みな戸籍に著かんとて、 各自(おのおの)その故郷(ふるさと)に歸る。ヨセフもダビデの家系(いへすぢ)また血統(ちすぢ)なれば、 既に孕(はら)める許嫁(いひなづけ)の妻マリヤとともに、戸籍に著かんとて、ガリ ラヤの町ナザレを出でてユダヤに上(のぼ)り、ダビデの町ベツレヘム といふ處(ところ)に到(いた)りぬ。此處に居るほどに、マリヤ月満ちて、初子(うひご) を生み之を布に包みて馬槽(うまぶね)に臥(ふ)させたり。旅舎(はたごや)にをる處なかり し故なり。 この地に野宿して夜、群を守りをる牧者(ひつじかひ)ありしが、主の使その 傍(かたは)らに立ち、主の栄光その周囲(まはり)を照らしたれば、甚(いた)く懼(おそ)る。 御使(みつかひ)かれらに言ふ「懼るな。視よ、この民、一般に及ぶべき、 大(おほい)なる歓喜(よろこび)の音信(おとづれ)を我なんぢらに告ぐ、今日ダビデの町にて 汝らの為に救主(すくひぬし)うまれ給へり。これ主キリストなり。なんぢら 布にて包まれ、馬槽(うまぶね)に臥しをる嬰兒(みどりご)を見ん、是その徴(しるし)なり」 忽(たちま)ちあまたの天の軍勢、御使(みつかひ)に加はり、神を賛美して言ふ、 「いと高き處には栄光、神にあれ。地には平和、主の悦び給ふ 人にあれ」御使等(みつかひたち)さりて天に往きしとき、牧者(ひつじかひ)たがひに語る「い ざ、ベツレヘムにいたり、主の示し給ひし起(おこ)れる事を見ん」乃(すなは)ち 急ぎ往きて、マリヤとヨセフと、馬槽(うまぶね)に臥したる嬰兒(みどりご)とに尋ねあ ふ。既に見て、この子につき御使(みつかひ)の語りしことを告げたれば、聞 く者はみな牧者(ひつじかひ)の語りしことを怪しみたり。而(しか)してマリヤは凡(すべ)て 此等(これら)のことを心に留めて思ひ囘(まは)せり、牧者(ひつじかひ)は御使(みつかひ)の語りしごと く凡(すべ)ての事を見聞(みきき)せしによりて神を崇め、かつ賛美しつつ歸れ り。 八日みちて幼兒(をさなご)に割禮を施(ほどこ)すべき日となりたれば、未(いま)だ胎内 に宿らぬ先に御使(みつかひ)の名づけし如く、その名をイエスと名づけた り。 (新約聖書・ルカ傳第2章第1~21節) イエス・キリストの誕生は左のごとし。その母マリヤ、ヨセフと 許嫁(いひなづけ)したるのみにて、未だ偕(とも)にならざりしに、聖霊によりて 孕(みごも)り、その孕(みごも)りたること顕(あらは)れたり。夫ヨセフは正しき人にして 之(これ)を公然(おほやけ)にするを好まず、私(ひそか)に離縁せんと思ふ。斯(かく)て、これら の事を思ひ囘(めぐ)らしをるとき、視よ、主の使(つかひ)、夢に現れて言ふ 「ダビデの子ヨセフよ、妻マリヤを納(い)るる事を恐るな。その胎(はら)に 宿る者は聖霊によるなり。かれ子を生まん、汝(なんぢ)その名をイエス と名づくべし。己(おの)が民をその罪より救(すく)ひ給ふ故なり」すべて此の 事の起りしは、預言者によりて主の云ひ給ひし言(ことば)の成就せん 為なり。曰(いは)く「視よ、處女(をとめ)みごもりて子を生まん。その名はイン マヌエルと稱(とな)へられん」之(これ)を釋(と)けば、神われらと偕(とも)に在(いま)すとい ふ意(こころ)なり。ヨセフ寐(ねむり)より起き、主の使の命ぜし如くして妻を納(い)れ たり。されど子の生るるまでは、相知る事なかりき。斯(かく)てその子 をイエスと名づけたり。(新約聖書・マタイ傳第1章第18~25節)(c.s.ルイス「悪魔の手紙」) この年であったか、教会のクリスマス・パーティで、C.S.ルイスの「悪魔の手紙(the screwtape letters)」という小説から着想を得て、悪魔の裁判所に於いて牧師を裁判にかけるという寸劇をやったことがありましたが、お年寄りの信者さん達の中には「不謹慎、悪ふざけ」と眉を顰めた方もかなり居られたらしい。 この小説はキリスト教徒でなくてもなかなかに示唆に富んだ内容で面白く読めるのではないかと思います(この本は行方不明にはなって居らず、書棚の片隅に今もありました)。悪魔のスクリューテープが新米悪魔で甥のワームウッドに宛てて書いた書簡で構成されている小説で、神の立場からの善悪、価値基準とは裏返しの悪魔の立場からの善悪、価値基準で論が展開されていて、思わずニヤリとしてしまう場面が多々あったかと。しかし、これも大昔に読んだ本にて、詳しい内容は殆ど記憶の外であります(笑)。 <追記> Xmasらしい雰囲気に欠けるページ仕立てとなっていましたので、その後に、小万知さん、景郎女さんがお届け下さった若草メールに添付されていました写真を掲載させて戴きます。(小万知さんから) (イルミネーションとキャンドル)(景郎女さんから)(野の花文庫の子供たちと作ったクリスマス折り紙作品)(押し絵のサンタさん 和郎女さんの作品とのこと)
2012.12.24
コメント(4)
本日、先ほど修理センターから電話があり、明日午前中にパソコンが修理を終えて帰って来るようです。予想より早いご帰還です。早速、明日午後には新しい記事をアップ致しますので、よろしくお願い申し上げます(笑)。復帰第1号の記事は、枚岡神社の蹴鞠の話題にさせて頂きます。
2012.01.19
コメント(4)
本日パソコンが故障し、画面の立ち上げも不能となり、ブログ更新が出来なくなりました。明日修理に出しますが、修理完了までブログをお休みさせて頂きます。この文章も携帯電話で管理画面を開いて記入しています。一日も早い復帰ができますように祈りつつ、暫しのお別れであります(笑)。
2012.01.12
コメント(14)
週刊江戸という週刊誌がある。 今朝、本誌の第42号(2010年11月16日号)が自宅へ郵送されて来た。 すっかり忘れていたことですが、先月のことだったか、同誌の編集部の方からメールを頂戴したということがありました。内容は、本ブログに掲載の熊沢蕃山碑の写真を使わせて欲しいというものでありました。使って減るものでもなければ、小生に異存のある筈もなく承諾の旨の返信をしたのであるが、その写真掲載誌がお礼状と共に送られて来たのでありました。 小生のブログ掲載の写真がこのような形でもお役に立てたのは、嬉しいことであります(笑)。 という訳で、「週刊江戸」(発行人 小河原和世、編集人 クロス中山慶子、発行所 〒104-0045東京都中央区築地4-7-5 株式会社デアゴスティーニ・ジャパン)の宣伝も兼ねて、少しご紹介。かく言うヤカモチもこの週刊誌の存在を知ったのは今回のことによってであります。(週刊江戸第42号の表紙) 第42号の目次は下記の通り。 読み解き江戸時代1714年 絵島追放劇の裏に潜む政争と人間模様 街道を行く 成田山参詣 (東海道42)桑名宿 三都&町物語 米をひく水車を回した、渋谷川 国宝の天守を望む城下町、松本 日本全国「藩」事情 京、大坂の要衝に、文芸・芸術の花開く「郡山」 もっと知りたい郡山藩 暮らし大全 江戸のベストセラー 庶民の甘味、お団子 子供の健やかな成長を祈る、七五三 偉人・奇人列伝 「名所江戸百景」今昔 さて、本ブログ掲載写真の登場するページは、上の「もっと知りたい郡山藩」の処です。(掲載記事) <参考>週刊江戸の詳細はコチラからどうぞ。 本ブログの元写真の記事はコチラからどうぞ。
2010.11.26
コメント(8)
また、秋の祭の時期となりました。 今月14~15日は枚岡神社(河内之国一之宮)の秋郷祭である。各地区から太鼓台が神社に繰り出すのであるが、今はその練習の時期とあって、太鼓を打つ音があちこちでしている。 父の従弟に当たる方の奥様がお亡くなりになり、昨夜はお通夜、今日は告別式でありましたが、昨夕、通夜に向かう途中、商店街を通ると、リハーサルでしょうか、この地区の太鼓台が練り歩いていました。(河内太鼓台)<参考>枚岡神社秋郷祭2009 (2009年10月16日)
2010.10.11
コメント(7)
今日は長崎原爆の日。 広島の日と共に僕らが心にとめておくべき日。 1945.8.6.08.15. 1945.8.9.11.02. この一瞬に吹き飛び、焼かれ、打ち砕かれた人達の 幾万の痛み、苦しみ、無念、恨み、悲しみ。 その悲惨さ、むごたらしさに僕らが想像力をもって 向き合うべき日。 そして、また・・・・。 静かな怒りと深い悲しみと他への優しさをもって ふたたび歩き始めるべき日。 合掌。(昨夕の花園中央公園の夕映え)
2009.08.09
コメント(6)
本日は大学の同窓会の会長事務の引き継ぎということで、新会長のM弁護士の事務所を訪ね、会長職務についての説明と引き継ぎに向けての打ち合わせを済ませて来た。小生も来月一杯で漸くお役ご免となる訳でやれやれである。これで鹿の住む都の辰巳に庵を構えてもよい身の上となりますな(笑)。 大阪駅への帰りの道すがらに「お初天神」こと「露天神社」の前を通ったので、境内を通り抜けることにした。そしたら、お初と徳兵衛の像があったので、写真に収めて来ました(下掲)。 お初・徳兵衛は言わずと知れた「曽根崎心中」の主人公の男女である。高校の教科書だったと記憶するが、近松門左衛門の「曽根崎心中」の道行きの部分が掲載されていて、その流れるような語調のよさに魅せられたことを思い出す。一時は「・・残るひとつが今生の・・」などと暗記して口誦したりしていたものだが、今はもう切れ切れになって思い出せない。 ところで、「心中」というと、男女の情死のことを意味するが、元々は「心中立て」といって人との約束を守り通すことを意味していた。だから、国語辞典でも(1)男女が互いの愛情の変らないことを示すため、一緒に自殺すること。情死。また、深い関係にある、または同情している者が一緒に死ぬこと(一家心中)。(2)他人に義理を立てること。(3)相愛の男女が誓紙を書いたり、指を切ったりして、愛情の変らないことを示すこと。とある通りである。<岩波国語辞典より> 大河ドラマの上杉謙信の「義」ではないけれど、近頃は「ギ」は「ギ」でも「偽」のほうがまかり通るから、「心中」の意味も上の(1)の意味以外は死に絶えたようで、辞書に辛うじて生き残っているばかりでありますな。(お初・徳兵衛)今日は節分。明日は立春。いよいよ春ですな。 春立つを 待ちて今宵は 若草の 歌会始め 文庫に入りぬ (偐家持)偐山頭火さんから、河内温泉大学図書館に「若草歌会始め」の歌が収蔵公開された旨のメールがありましたのでお知らせしておきます。
2009.02.03
コメント(4)
あけましておめでとうございます。 新しい年が、皆さまにとって、幸多き良き年でありますよう、心よりお祈り申し上げます。 本年も相変りませず偐万葉田舎家持歌集をご愛読下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。 2009年 元旦 あらたしき 年のはじめに 豊の年 しるすとならし 雪の降れるは (葛井連諸会 巻17-3925)
2009.01.01
コメント(6)
明日5月5日は五節句のひとつ、端午の節句。 五節句とは、人日(じんじつ、1月7日)、上巳(じょうし、3月3日)、端午(たんご、5月5日)、七夕(しちせき、7月7日)、重陽(ちょうよう、9月9日)である。 3月3日上巳(じょうし、じょうみ)の節句(桃の節句)が女の子の節句とするのに対して、5月5日端午の節句(菖蒲の節句)は男の子の節句とされるのは、ご承知の通りであるが、もともとは端午の節句も女の節句であったとか。 これは、友人の話の受け売りであるが、豊作を願う女性たちの行事「五月忌(さつきいみ)」に、中国から伝わった風習が結びついて成立したものとのことである。 この辺の話は、七夕もそんな風に中国から伝わった牽牛・織女伝説によって変容を受けているが、これと似ているから、うなづける話である。 旧暦の五月と言えば、梅雨の時期。湿気と腐敗の季節。食中毒にもなりやすい季節。昔の日本人は、これを邪気のなせる業と感じたのでしょうな。この邪気を祓うため、軒に菖蒲やヨモギを挿した。菖蒲やヨモギには邪気を払う霊力があると信じられていた。 平安時代には、女性たちは菖蒲を「かんざし」のように髪に挿す「菖蒲兜」で身を飾ったとのことである。 江戸時代になると、「ショウブ」の音が「尚武」、「勝負」に通じるところから、武士たちは、この日には、合戦に使用する「旗指し物」を戸口に立てるようになる。かくて、江戸時代には、端午の節句は男の子の節句となるのである。 一方、町人たちは、武士の「旗指し物」に対抗して、「鯉のぼり」を立てるようになる。当初の鯉のぼりは「ま鯉」だけであったそうな。明治になって、「ひ鯉」が付け加わるようになり、「子鯉」は昭和になってからとのこと。 唱歌「鯉のぼり」の歌詞にあるように、お父さん鯉とお母さん鯉と僕ちゃん鯉が気持ち良さそうに空を泳いでいるのである。 こうなるともう、「鯉のぼり」は、幸せなマイホームのイメージで、尚武とか、勝負のイメージとは結び付かない。 百年後の端午の節句は「家庭団欒の節句」になっているかも。いや、その家庭すらが危ういものとなりかかっているとなると、はてさて、百年後はいかなることにやあらん。 (再掲載参考写真)
2008.05.04
コメント(0)
本日は午後からお墓参りである。二日が幼くして死んだ娘の命日である。その日以来二日に、その日が都合悪しき場合はその前後の日に、お墓参りするというのがヤカモチの三十年来のスタイルである。1976年4月2日に生まれ同年9月2日に死亡しているから、わずか6か月の命であった。 生まれた時から心室中隔欠損といって、心臓の左心室と右心室との壁に穴が空いていて動脈の血と静脈の血がその穴を通じて混ざってしまうという病気であった。予定日より一か月近く早く生まれたので保育器に入れられていたが、ひと月ほどしても退院できず、発育も遅れているみたいなので、医者に尋ねると、心臓に雑音があるという。それなら、すぐに専門医の診察、検査をすべきであると主張して、ようやくに病院も動き出し、北野病院へ移送。果して北野病院での診断は、前記の重度の心室中隔欠損という診断。そのまま、完全看護の集中治療室に入院。そこで体力の回復を図り、当該欠損部の穴を塞ぐ手術を早期に行うというのが治療方針であった。 7月になって、手術を行うという県立尼崎病院に転院し、妻が付きっきりで泊まり込みの世話をすることになった。 9月2日手術。朝から夕方まで数時間に及ぶ手術。5時位になって終了し、担当医から「うまくゆきました。」との話。喜びと安心とでようやく朝から何も食べていないことに気付いた私達は、娘が手術室から出て来るのはもう少し先のことになるという医者の話で、食事を済ませることに。 しかし、食事から帰って来た私達を待っていたのは残酷な知らせであった。容体が急変し、娘は心停止の状態に陥っていたのだった。導かれて部屋に入ると医者が懸命に蘇生術を施している処であった。何か時間が止まってしまって世界がスローモーションで動いているような、目の前で展開している現実と自分の関係がよく理解できないような、自分が自分でなくなって、別の自分がもう一人いて、彼が冷静にこの事態を受け止めているのが感じられる、そんな妙な気分だった。どれ位時間が経ったのだろう。医者が息を切らせ、額に汗して空しく行っているその行為がもはや蘇生のためのものではなく、私達が、もういいですよ、と諦める気持ちになるために必要な儀式であることに、ようやく私は気づいた。そして、私は彼が待っていたであろう「もう十分です。」という言葉を口にしていたのだった。 生きている間は常に酸欠状態の苦しそうな表情、チアノーゼ症状を示していた娘であったが、死顔はうっすら笑みを浮かべて柔らかな幼児の寝顔になっているのだった。ゆえなく背負わされた理不尽な重荷をやっと降ろすことができたとでもいうのだろうか。その顔は正しく天使の顔だった。ようやく私に激しい悲しみが襲って来た。 生まれて以来、一度も家に帰らぬ病院暮らし、いつも溺れているような苦しい状態。6か月の、苦痛のみの短過ぎる彼女の人生とは一体何であったのか。せめても彼女のことを忘れないでいてやること、それしか彼女がこの世界に生きた(あれが生きたということであるなら)ことの証がないではないか。 それが、ヤカモチの墓参りである。それは、最後にくれた彼女の、あの天使の微笑みへの「感謝」でもあろうか。
2008.03.02
コメント(2)
やっと勝ちましたなぁ。今宵の巨人戦も疲るる試合にてありけり。もっとすんなり勝って欲しいものなれど、まぁ勝てば如何にてもよろしかろう。とにもかくにも、阪神タイガース、四苦八苦にて巨人に連勝。首位がっちりキープでござる。2位の中日もヤクルトに負けたれば、中日、巨人とのゲーム差再び1.5に拡がりたりて、嬉しきことなり。どうやら優勝も見えてまいりましたかな?明日も勝ちてあらば、まず間違いなきことかと。ヤカモチは当然に関西人ゆゑタイガースのファンにてぞありける。さて、虫飼の重麻呂殿も今宵は盛り上がって居られますかな?
2007.09.18
コメント(0)
全87件 (87件中 51-87件目)