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今日から彼岸の入り。 彼岸とは、秋(春)分とその前後3日、合計7日間のことを言う。ということで今日から彼岸に入ったということになる。 わが家から南東の方向1.5kmの処に往生院という寺がある。古来、そこから眺めると彼岸の日には四天王寺の五重塔の上に日が沈む、と言われて来た。それで、銀輪散歩のついでに往生院まで行って、日没の位置を見届けて来ようということに致しました。 四天王寺の五重塔が何処にあるのかは往生院からはよくは分からないのであるが、日本一高いという阿倍野ハルカスが出現したお陰で方向は見定め易くなりました。阿倍野ハルカスと通天閣は見える。その少し右位が四天王寺だと思われるので、古来からの言い伝えはほぼ事実と言ってよさそうですな。(阿倍野ハルカス夕照)(同上2) 正確に五重塔の上であるのかどうかは分からないが、通天閣の少し右側に日は沈もうとしているから、四天王寺の辺りに沈むのは間違いなさそう。コンパクトカメラでは四天王寺らしきものが写らないので、「多分」と言うほかありませぬが・・。(同上3)(同上4)(同上5)(同上6)(同上7)(同上8)(同上9)(同上10) はい、日没です。午後5時位に往生院に着きましたので、日没まで付近をウロウロ。お陰で蚊にかなり喰われました。 <参考>往生院は当ブログでは次の記事に登場しています。 1.墓参・往生院など廻りつつ 2012.12.29. 2.銀輪散歩・往生院から玉祖神社へ 2010.11.27. 夕照・銀輪散歩 2008.12.15. 3.岩滝山往生院六萬寺のホームページ 今日から、お彼岸ということで、彼岸花も外せないですな。本日見掛けた彼岸花をアップして置きます。 (彼岸花)路のべの いちしの花の いちしろく 人皆知りぬ わが恋妻は (万葉集巻11-2480)(注)いちし=壱師。彼岸花のこと。ギシギシ、ダイオウ、イタドリ、クサイ チゴ、エゴノキなどの異説もある。(同上)(同上)(同上) 次はお彼岸と関係ありませんがニラの花です。 「赤い花」の彼岸花を掲載したので、「白い花」もバランス上、掲載すべきかと、偶々見掛けたニラの花を撮りました。(ニラ)伎波都久(きはつく)の 岡の茎韮(くくみら) 我摘めど 籠(こ)にも満たなふ 夫(せな)と摘まさね (万葉集巻14-3444)(注)伎波都久=地名。常陸国真壁郡という説もあるが所在不明。 茎韮=くくみら。茎の韮のこと。 満たなふ=いっぱいにならない。(同上)
2013.09.20
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台風一過の今日の銀輪散歩。久々に大和川まで走って来ました。 各地に大雨を降らせた今回の台風18号は各地に浸水その他の被害を生じさせたようですが、被災された皆さまには心よりお見舞い申し上げます。 こちらでも、大和川が一時氾濫危険水位に接近し、小生の携帯にも八尾市からの避難準備情報エリアメールが入るなどがありましたが、その後水位が下がり氾濫の危険はなくなったようで、何ということもなく過ぎました。 もっとも、小生宅は生駒山系の山裾の高い位置にあるので、大和川が氾濫しても浸水することはありえないのではありますが・・。 さて、銀輪散歩。先ず、花園中央公園に立ち寄り、此処を起点に恩智川沿いの道を上流へと走ることに。何度となく走っている、小生にとっては銀輪散歩定番の道であります。(花園中央公園) 花園中央公園は遊水池として設置された公園でもあるので、大雨の後などはこのように、その大半が池となってしまう。 上の写真正面奥を右から左へと公園に接する形で恩智川が流れている。公園側の堤防が山側のそれより低くなっていて、増水してその高さを越えて水が流れるようになると、公園へと水が入ってくるようになっている。左側の建物の下の緑色の水門の開閉によっても、水の調整はできるようになっている。(通常時の公園の状態)(同上) 日頃は市民の散歩姿が見られる遊歩道や芝生の広場も全て水面下になっている。(同上) 恩智川の上流に、もう一つ同じ様な遊水池公園がある。これも大きな池に変貌していました.(写真下)(池島・福万寺の遊水池公園) 弥生橋の東西に広がる遊水池公園。上は西側の公園。手前が恩智川でその向こうが福万寺公園。野球のグラウンドやテニスコートがあったかと思うが、全て水面下になっている。 下は橋の東側の公園で池島公園。これも水没して大きな池となっている。(同上) 花園中央公園から40~50分ばかり走ると大和川に着く。 台風の後とあって、増水、川原が消え、川幅が広くなっている。(大和川自転車道)(大和川の土手に植えられている花) 吾輩は「花」である。名前は未だヤカモチには知られていない。地に這へば鬱陶しい。風に向かへば揺さぶられる。などと言っているかどうかは知らぬが、自転車道に沿って沢山の花を咲かせ、台風の名残の風に吹かれては盛んに花穂を揺らせている。<追記> 調べると、この花の名はツルボ(蔓穂)であることが分かりました。 蔓穂・四季の花300(同上)(大和川と石川の合流点)(通常時の合流点の状態) 高橋虫麻呂の長歌「しなでる 片足羽川(かたしはがは)の さ丹(に)塗りの 大橋の上ゆ 紅(くれなゐ)の・・(略)」(万葉集巻9-1742)に歌われている片足羽川は、この大和川のことであるとも、石川のことであるとも言われているが、その両川がここで合流している。(国豊橋へと向かう自転車道も水没) 上流へと向かうが予想通り自転車道は水没。 写真奥の近鉄大阪線の鉄橋もいつになく低く見える。 引き返して、下流の新大和橋(人道橋)を渡って石川沿いに出る。(石川。奥に二上山が見えている。)(同上) 石川自転車道も水面下。元々、今日は此処を走る心算で来たのではなく、水没してしまっている自転車道を見に来たのでもあれば、「これでいいのだ。」なのであります。(石川自転車道も水の中) 引き返して再び新大和橋を渡って、大和川を少し下流まで行ってみる。新大和橋の下流側にはJR柏原駅(関西本線)と近鉄道明寺駅(近鉄南大阪線)とを結ぶ近鉄道明寺線の鉄橋がある。その鉄橋を北に渡って直ぐの処にあるのが柏原南口駅。この線の周辺は銀輪散歩でよく走るが、この線の電車にはまだ乗ったことがない。(近鉄道明寺線・柏原南口駅)<参考>近鉄道明寺線・Wikipedia 近鉄道明寺線を越えて少し下流へ行った辺りでは川は波立ち、砕け、日頃見慣れている穏やかな大和川とは異なる、荒々しい「たぎち流れる」顔を見せてくれていました。(大和川の濁流。奥に見えている小山は応神天皇陵古墳。)(同上)(同上) たぎち流れる大和川。上流には二上山が見え、その右側には葛城山、金剛山が見えている。 山川も よりて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも (柿本人麻呂 万葉集巻1-39) これは、持統天皇の吉野行幸に随行した人麻呂が吉野で詠んだ歌でもあれば、ここで取り上げるのはお門違いというものではあるが、「たぎつ」で思い浮かぶのはこの歌でしょうか。二上の 山は見が欲し 恋ひ来れば 大和川はも たぎちぞ流る (偐家持)(同上)(同上)
2013.09.16
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昨日は偐山頭火さんから、八尾市・柏原市に関連する万葉歌を教えて欲しいとのメールと景郎女さんから或る短歌の文語表現の部分についてのご質問メールがあり、その対応で夜更かしとなりましたが、本日は天気もよし、青雲会囲碁サークルの例会に出掛けることとしました。 メールと言えば、先日或る友人から届いたメールには次のような歌が添えられていました。ぬか漬の 茄子の歯ざはり 今朝をふと つめたくおぼゆ 秋来たるらし (相馬御風) 相馬御風と言えば、2010年11月に直江津~糸魚川間を銀輪散歩した折にその旧宅を訪問しているので、とても懐かしい気がしました。 <参考>糸魚川散策・相馬御風 2010.11.21. 茄子の漬物の冷たさに秋を感じた御風。なかなかいい歌です。まあ、ヤカモチの朝食はトーストですから、こういう歌は作れない(笑)。雲のさま 何とはなけど 手弱女の 吐息に似たる 秋来たるらし (偐家持)(今日の空) 茄子の漬物も空の雲も「秋」を告げてはいるが、自転車(MTB)で走るヤカモチには、未だ夏の暑さ。会場の淀屋橋付近に着く頃には汗びっしょりになっていました。 本日の碁は、大学同期の黒◎君と1局、先輩の新◎氏と2局お手合わせ致しましたが、いづれも勝って3戦全勝。まあ、こういう日もたまにはある。 さて、本日も途中道草の銀輪散歩でありましたので、それをご紹介して置きます。 本日はいつもの中央大通り(国道308号線)ではなく、暗越奈良街道(大阪枚岡奈良線)を西へと走りました。以前、偐山頭火氏との銀輪散歩で偶然に発見した契沖さんの墓のある寺、妙法寺を訪ねるためのコース取りである。 今里大橋を渡った先の大今里交差点で旧奈良街道へと入るが、その入口に古い道標がありました。(道標)(道標の説明碑) 上の道標から200mほど西に入った処の辻を右に入ると熊野神社と妙法寺がある。辻に「契沖史蹟」の表示が出ている。何年か前に偐山頭火氏とは西から奈良街道をやって来て、この表示を見付けて妙法寺に立ち寄ったのでありました。(熊野神社・妙法寺への道) (左:旧奈良街道・東方向、大今里4丁目付近、右:同・西方向)(熊野神社)(同上・拝殿)(同上・本殿)(同上・本殿) 健人会メンバーの只麻呂氏が当ブログについて「神社の由来などを丹念に書いて戴いているが、最近は読むのがしんどい。」と仰っていましたが、小生も書くのが「しんどい」ので、省略です(笑)。 熊野神社の北隣に妙法寺はある。(妙法寺・山門)(同上・本堂) 本堂脇に数基の墓があり、「契沖墓所」と表示されている。 ネットで調べると、或る方の記事では、妙法寺のは供養塔であり、墓は旧圓珠庵(鎌八幡)に在るとされているが、コチラの寺では、此処が墓であるとしているようです。前回は小生の早とちりかと思いましたが、ちゃんと契沖の墓と表示されていたのであれば、早とちりという訳ではなかったのですな。(契沖墓所) 右から、奥にかけて契沖墓、契沖の師墓、契沖の母墓、契沖の兄墓と並んでいる。 (契沖供養塔) (契沖の兄、如水の墓) (契沖の母の墓) (契沖の師、手定和尚の墓) 契沖さんのことは万葉集の注釈書「万葉代匠記」の作者という程度の知識しかなく、その生涯のことなどは存じ上げませんので、下手な説明は止めて置きます。下記をご参照下さい。 寺の境内で出会った男性。本堂裏へと通じる扉の鍵を持って居られて奥の方へと入って行かれたので、寺の関係者の方かと思い、「契沖さんはこの寺のご住職をして居られたのですか?」と質問しましたが、「いえ、違います。墓があるだけです。」との答え。予期せぬ答えであったので、会話は打ち切り。暫くすると、自転車に乗って去って行かれたので檀家の方か何かであったのでしょう。下の<参考>には妙法寺の住持分となったと記載されている。 本堂では現在のご住職が朝のお勤めか何かをして居られましたが、待っている訳にも行かず、疑問残しつつ、立ち去りました。 <参考>契沖・Wikipedia(旧奈良街道の面影を残す民家)(暗越奈良街道の碑と古い道標)(同上)(同上) 奈良街道の起点、高麗橋の写真で締め括りと致します。(高麗橋)(同上・南側から。上は阪神高速環状線)
2013.09.14
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国道がアーケード商店街になっている処がある。 ブロ友の英坊3氏は富山県高岡市の珍百景をご紹介されているが、わが街の東大阪市にも珍しいものがあるので、ご紹介しておきましょう。珍百景とは少し違いますが・・(笑)。 近鉄瓢箪山駅の北側と南側に延びているアーケード商店街。実はれっきとした国道(170号線)なのである。 駅の北側にあるのが瓢箪山中央商店街(通称:サンロード瓢箪山)で、南側にあるのがイナリ前商店街(通称:ジンジャモール瓢箪山)。 この道は高野山へと通じる東高野街道という道であった。近鉄奈良線がこの道と交差して敷設され、大正3年(1914年)にその交差する場所に瓢箪山駅が設置された。以後、この駅を中心として街道に沿って南北に商店街が形成されることになる。 また、旧外環(旧外環状線)道路の整備が進められるが、その路線は東高野街道と平行したり、一部重なったりしたものとなる。瓢箪山駅周辺は、旧外環と東高野街道とが重なる形で路線整備が進められた。 昭和36年(1961年)に商店街に手動で開閉する簡易式アーケードが設置される。この道(旧外環)は昭和40年代にバイパスとして新国道170号線(外環状線)が出来るまでは、この地域の南北を結ぶ唯一の幹線道路であり、路線バスも走っていたことも相俟って、車両の通行制限は無理。アーケード設置後もそのまま、車両の通行が制限されることはなかった。かくてアーケード商店街の中を路線バスが走るという珍風景も現出したのであった。 昭和38年(1963年)になって、この道は国道170号線に指定されることになる。日本初の国道商店街の誕生となったのである。 国道にアーケードを掛けたのではなく、アーケードを掛けた商店街の道が国道になったのである。順序が逆だったらこういうことにはならなかったことでしょうね。 新しい国道、170号線(外環状線)が完成して、路線バスは、瓢箪山駅南側からこの新170号線・外環状道路に迂回して走り、今はアーケードの下をバスが走るという妙な光景は見られない。そして、午前7時から午後8時までは車両の通行は禁止となり、歩行者天国となっている。最近は、自転車に乗っての通行も禁止となっている。 <参考>国道170号線・Wikipedia(サンロード瓢箪山・北詰め) <参考>瓢箪山中央商店街(通称「サンロード瓢箪山」) イナリ前商店街(通称「ジンジャモール瓢箪山」) 上の写真は商店街の北端の出入口。ここで左側からの東高野街道と国道170号線(旧)とが合流してアーケードの下へと続いている。(同上・自転車に乗っての通行禁止の標識)(同上南詰め・瓢箪山駅前) 上の写真と下の写真は同じ位置から撮ったもので、上は北を向いて撮影、下は南を向いて撮影したものです。 まあ、この道が国道だと言われても「?」でしょうね。(瓢箪山駅前踏切・右側が瓢箪山駅)(ジンジャモール瓢箪山北詰め・瓢箪山駅前)(ジンジャモール瓢箪山南詰め) 上の写真の右手に見えている鳥居は瓢箪山稲荷神社の鳥居です。江戸時代は稲荷神社の門前町として栄えたようです。 今は暗渠になっていますが、道の右側には小川(水路)が流れていて、鳥居の下には石橋が残っています。橋は秀吉に因んで太閤橋と呼ばれています。 <参考>太閤橋に関しては下記の記事にて説明しています。 石切・額田・瓢箪山近隣散歩(下)2010.05.04. 余談ですが、国道上のアーケード商店街というのは、もう一つ長崎市内にもあるようです。 <参考>浜町アーケード・Wikipedia(国道324号)付録1:せのぶらin瓢箪山前編 付録2:せのぶらin瓢箪山後編1 付録3:せのぶらin瓢箪山後編2
2013.08.29
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<承前> 昨日の記事は芭蕉の句で終りましたが、その句「菊の香にくらがり登る節句かな」はひょっとすると下のような棚田の風景を眺めながら、道の辺や畔に咲く菊の花を見つつの句であったかも知れません。 この棚田風景は犬養万葉歌碑から少し坂を下った処での写真です。(峠の棚田) 芭蕉は元禄7年(1694年)9月9日、重陽の節句の日に奈良から暗峠越えで大坂に入りますが、彼はこの後、病に臥し亡くなりますから、この暗越えが言わば最後の旅となるという次第。 この時に奈良で作っている彼の句で菊を詠んだものに、下記の句があります。 菊の香や な良には 古き仏達 (笈日記・杉風宛書簡) 菊の香や ならは幾代の 男ぶり (杉風宛書簡) 菊に出て な良と難波は 宵月夜 (笈日記) 梅が「花の兄」と呼ばれるのに対し、菊は一年の最後に咲く花という意味で「花の弟」とも呼ばれる。 しかし、今は未だ6月。兄は去り、弟は未だ姿を現さず、道の辺に見掛けたるは、古代中国四大美女の一人、西施ならぬ合歓の花でありました。(合歓) 合歓の花は万葉にも登場するが、芭蕉の次の一句は有名。象潟や 雨に西施が ねぶの花 (奥の細道)(同上)吾妹子が 形見の合歓木は 花のみに 咲きてけだしく 実にならじかも (大伴家持 万葉集巻8-1463) 美女・西施は生きたまま皮袋に入れられて長江に遺棄されるというむごい最後を迎えているが、合歓の花も柄の付いたまま、未だ凋みもしない花が地面に落ちているのをよく見掛ける。鳥がついばむのか、風や雨で花の柄が折れるのか。 花は何やらなまめかしいものを感じさせるが、実の方は、マメ科の木にてもあれば、何ともむさくるしく実用的とでも形容するしかない形姿である。大伴家持さんに申し上げたきことは、実になってもどうかという花もありますよ、ということですかな(笑)。(藤尾町阿弥陀如来立像) ラッキーガーデンへの分岐道から少し下った処に石仏がある。(同上)(同上説明板) 坂を下り切ると龍田川、そして近鉄南生駒駅である。振り返ると越えて来た生駒山が遠くに見えている。防人歌を真似て詠むなら、龍田川 うち出でて見れば 神さぶる 生駒高嶺に 雲ぞたなびく (偐家持)でありますかな。(龍田川と生駒山)(同上)(近鉄生駒線・南生駒駅)(南生駒駅南側の踏切。道は国道308号線である。) 暗峠奈良街道(国道308号線)は、大阪側の登り口から矢田丘陵を越えるまでは、概ねこのような、対向車とのすれ違いにも支障をきたす細い道であり、国道という名に誤魔化されてはいけないのである。 この踏切の一つ北側の踏切を渡った処にある造り酒屋・菊司醸造さんの前に阿波野青畝の句碑がありました。この酒屋さん(駒井家)と青畝とは親戚だと副碑に記載されている。句碑は昭和59年9月9日建立とある。ここでも重陽の節句(菊の節句)でありますな。(阿波野青畝句碑)和を以って 貴ぶために 菊の酒 (青畝)(矢田丘陵) 大阪側から奈良へ行くには、生駒山を越えて、更に矢田丘陵を越えなくてはならない。しかし、この日のヤカモチは不調・注意散漫、大瀬中学の先の南生駒変電所の前で左折して矢田丘陵に向かわなければならないのに、何か他のことを考えてもいたか、既に矢田丘陵を越えたような錯覚があって、そのまま直進して坂を下ってしまいました。気が付けば萩の台の団地の中。何のことはない、折角上った坂であったのに、再び龍田川のレベルまで下りて来てしまったという次第。再度下って来た道を引き返し国道308号線の処まで戻り矢田丘陵へと向かったのであるが、時刻を見ると既に3時45分。これでは、奈良まで行って引き返していると、暗峠まで戻って来る頃には「くらがり」になっているやも知れぬ。という訳で、奈良は次の機会にと諦めて引返すことにした次第。(紫陽花) 行きにはパスした大瀬中学の校門前の万葉歌碑を見て行くことにする。 これも犬養先生揮毫の歌碑である。 歌はまたしても前ページで取り上げた秦間満の歌でありました。(大瀬中学校前の犬養万葉歌碑。背後の山は生駒山。)由布佐礼婆 比具良之伎奈久 伊故麻山 古延弖曽安我久流 伊毛我目乎保里夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山 越えてぞ吾が来る 妹が目を欲り (秦間満 万葉集巻15-3589)(同上) 復路は、往路と逆。奈良側からが上りとなり、大阪側が下りとなる。 奈良側の上りでも漕ぐのを諦めて途中から押して上っていると、後からMTBの青年が自転車に乗ったままやって来た。「頑張るねえ。」と声を掛けると笑顔で「まあ、歩いているのと変らない速度ですけどね。」と彼。確かに小生が少し早足で上ると彼の方が後ろになるという具合だから、これはもう自転車乗りの「意地」で乗っている、というようなものだが、その意地を通せる処が素晴らしい(笑)。 そんな彼に携帯電話の着信。彼が通話している間に小生はどんどん先へ。 途中にプラムが熟れ始めている木や小さな実をつけているザクロの木などを写真に撮りながら進む。 暗峠の喫茶店「友遊由」にてコーヒーブレイクしようとしたら、漸く彼が追い付いて来た。彼はそのまま峠の方へ。大阪へと帰って行ったのでしょう。 小生も20分ばかり喫茶店で時間を過ごした後、峠から一気に大阪側への下り坂を駆け下りました。(プラム)(ザクロ)(紫陽花) 締め括りの花は、やはりこの時期は紫陽花ですかな。 上のプラム、ザクロ、アジサイは全て暗峠への奈良側の上り坂で見掛けたもの。ではこれにて直越えの道銀輪散歩完結です。今回もお付き合い下さり有難うございました。
2013.06.30
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長らくブログの更新を怠っていましたが(と言っても5日間サボっただけですが)、本日は近隣銀輪散歩のテーマでアップすることとします。 久し振りに、山に向かい、くらがり峠を越えて南生駒までの往復の行程。矢田丘陵を越えて奈良までの心算でしたが、途中で左折すべき処を直進してしまい、萩の台の方に下ってしまったので、意気消沈、奈良を諦めて引き返すこととしました。往路も復路も急峻な坂道を上ることとなる山越えの道にて、距離の割にはハードなコース(勿論、急坂は押して上るしかないのでありますが・・)。 このコースは2010年9月16日などに走ったコースと途中までは一緒なので、重複する写真などは省略しました。それぞれの散歩の記事を併せご参照戴くと分かり易いかと存じます。 <参考> 1.暗峠を越えて 2010.9.16. 2.暗峠を越えて(余録) 2010.9.17. 3.暗(くらがり)峠 2009.1.29. 辿る道は国道308号線(暗峠奈良街道)である。枚岡神社の北側から枚岡公園南入口・椋ヶ根橋、豊浦橋などを経て暗峠へと急坂の道を行く。 くらがり峠越えのこの道は平城京と難波・河内を結ぶ最短の道にて、万葉人は「直越えの道」と呼んだ道である。直超(ただこえ)の この道にして おし照るや 難波(なには)の海と 名づけけらしも (神社忌寸老麻呂(かむこそのいみきおゆまろ) 万葉集巻6-977) 先ず、遣新羅使人、秦間満の万葉歌碑と芭蕉の句碑にご挨拶して行くこととする。これらの碑のことは、上記<参考>の「3.暗(くらがり)峠」にも掲載されていますので、ご参照下さい。(歴史の道の碑) この碑の裏面に秦間満の下記歌が記されている。夕されば ひぐらし来鳴く 伊故麻山 越えてぞ吾が来る 妹が目を欲り (万葉集巻15-3589) はしまろ氏は難波津から新羅へと出掛ける前に、大和に居る妻か恋人に逢うために、夕方この道を上って行ったのですな。 小生もそういう状況なら、この急坂も何のそのであるが、そんな女性がこの山の向こうで待ってくれているのでもなければ、ただ、はあはあと息喘がせての苦しいだけの急登である(笑)。 ひぐらしは勿論鳴いていない。その季節ではない。代りにホトトギスが鳴いていました。この方が家持的でよろしい(笑)。(歌碑) そして、すぐ近くに芭蕉の句碑もある。 芭蕉さんは、奈良側から大阪へとこの道を下って来たのですな。(芭蕉句碑) 菊の香に くらがり登る 節句かな 奈良県側からやって来たのなら、この位置では「くらがり登る」ではなく「くらがり下る」でありますから、この句は奈良県側の上り坂の何処かで作ったものと考えるべきでしょうな。 漕いで上るのを諦めて、自転車を押して歩きながら後を振りかえると、男性がMTBを押して上って来るのが目に入った。 彼は、加納地区に在住で、暗峠を奈良側へ少し下った処に住む友人を訪ねるのだと言う。前後になったり、並んだりしながら、峠まで一緒に行く。 語らう内に、彼も小生も同じ年齢であることが分かり、親近感が増す。仕事を止めて未だ2年とのこと。小生は丸7年、8年目に入っているから、隠退生活では、小生の方が5年先輩になる。 仕事を卒業した際に息子さんが自転車(MTB)をプレゼントしてくれたのだそうな。ウォーク歴は古いが自転車は未だ2年そこそこで、大阪城公園や鶴見緑地など銀輪散歩しているが、それ程遠方へは行っていない、とのことであったので、「先輩」として、あれこれのサイクリング・コースをご紹介しながらの「山登り」でありました。(弘法の水と笠塔婆)(同上)(笠塔婆)(同上説明板) 昔、未だ母が若かった頃、近所の奥さん達と一緒に毎朝早起きして、ここまで水を汲みに来ていました。水が美味しいということもあったのでしょうが、彼女の健康法の一つでもあったのでしょう。 しかし、この水も今は飲料には適さなくなってしまったようで、汲みに来る人もいない。 暗峠に到着。ここで、同行のMTB君と別れ、南生駒へと、今度は急坂を一気に下って行く。爽快であるが、ブレーキ掛け続けないとスピードが出過ぎてしまって、少し危険。(峠にある喫茶店「友遊由」から見る南生駒方面) この喫茶店はこれまで何回か利用しているが、この写真は帰途に立ち寄って撮ったものです。帰途、此処まで帰って来た時はもう午後5時半になっていたので、店仕舞をされている処でしたが、声を掛けると、ホットコーヒーはもう無理だがアイスコーヒーならOKだと仰るので、暫し休憩させて戴いたもの。本当は苦いホットコーヒーが飲みたい気分であったのですが・・。(犬養万葉歌碑) そして、犬養万葉歌碑です。 この碑も紹介済みですが再掲載して置きます。 この写真も帰途に撮ったものです。 <参考> 犬養万葉歌碑を訪ねて山越え 2009.8.21.難波津(なにはと)を 漕ぎ出て見れば 神(かむ)さぶる 生駒高嶺に 雲そたなびく (大田部三成(おほたべのみなり) 万葉集巻20-4380)(同上)(くらがり峠碑) 犬養万葉歌碑の近くにある碑ですが、芭蕉に因んだもののよう。大阪側の登り口にあった「菊の香にくらがり登る節句かな」の句碑は此処にあるのが相応しいという気がしますが、こちらには句が刻まれてはいません。 文字数制限一杯です。続きは明日とします。(つづく)
2013.06.29
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<承前> 今日は先日(12日)の銀輪散歩の続きと昨日(14日)の銀輪散歩の合作記事であります。 昨日の記事で野田恵美須神社の境内にあった「野田藤」の鉢植えの写真をご紹介いたしましたが、今日はその「野田藤」についての話から始めることとします。(恵美須神社前の道標) 表通りから一歩中に入ると、古い道標や民家の佇まいが昔の町並の雰囲気を偲ばせる玉川4丁目界隈であります。(玉川4丁目付近の民家) この辺りは、昔は淀川の河口部にて、難波八十島と呼ばれていた海辺の地域。漁業が盛んであったことが恵比須神社があることでも偲ばせるが、その海辺の砂州に根付いた藤が松の木などに絡まって繁茂していたようで、野田藤として有名になる。「吉野の桜、野田の藤、高尾の紅葉」と並び称されたという。 いつの頃よりかこの地域は藤原氏の所領となったよう。春日神社が置かれたのも、そういうことであったのですな。鎌倉時代初期の太政大臣西園寺公経が宝剣を奉納したりなどとこの地の春日神社は広大な敷地を備えて隆盛を誇ったようであるが、今は、町角の片隅の小さな祠として「春日神社」「白藤大神」「影藤大神」を残すのみ。 西園寺公経と言えば、百人一首の96番目の歌「花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり」の歌が思い起こされるが、この人の「野田藤」の歌に次のようなのがある。難波かた 野田の細江を 見渡せば 藤波かかる 花のうきはし(春日神社・野田の藤跡) 玉川コミュニティセンターと新なにわ筋(阪神高速道神戸線)を挟んで向かい側に影藤社、白藤社があり、白藤社から一歩奥に入った処に春日神社と表示の小さな祠があり、其処に「野田の藤跡」と刻された碑が建っている。 戦前まではこの地の春日神社境内に藤の古木が残っていたそうだが、太平洋戦争の空襲で焼失。市街化の進展もあって野田藤は絶滅に瀕していたという。これに危機感を持った人々を中心に野田藤を守護・復活させようとの取組が始まり、野田藤を福島区の花に指定すると共に、行政や地元の方々のご努力によって、野田藤はこの地域各所で着実に甦りつつあるという。あちらこちらに藤棚や藤の鉢植えが見られるのは、そういう地元の皆さんによる「野田藤」再生への取り組みであるのですな。尊い営みであります。 因みに、野田の藤を「ノダフジ」と命名したのは、植物学者として有名な、あの牧野富太郎博士だそうです。(野田の藤跡碑)(戦前の春日神社) 上の説明にある「エスポワール藤」の角の藤棚が下の写真です。(野田藤再生の地道な努力)(白藤大神・白藤社) 堂島川の一番川下の橋が船津橋、その一つ上流、新なにわ筋が通る処に架かっているのが上船津橋、その一つ上のあみだ池筋が通る処の橋が堂島大橋。 その堂島大橋北詰にあるのが下福島公園。この公園の一角に藤庵の庭が再現されている。(藤庵の庭) 藤庵というのは、この地にあった藤家の屋敷のことで、文禄3年(1594年)に秀吉がこの地の藤見物を兼ねて茶会を開いた場所ということであるが、詳しいことは下記の「のだふじの会」のホームページをご参照下さい。 <参考>のだふじの会ホームページ 同上・野田藤の歴史 同上・豊臣秀吉のフジ見物(同上) ここまでは12日の銀輪散歩の写真による記事でした。 以下は、14日の銀輪散歩の写真によるもの。 船津橋まで来たのだから、中之島の頭かお尻かは存じませんが、その先っぽを見て置こうと(笑)。(中之島西側尖端・船津橋側から) これが島の最西端。 上は北側から見たもの。下は南側から見たもの。(同上・端建蔵橋側から)(安治川右岸から中之島尖端を見る。) 奥に見える白い高層ビルは中之島センタービル(NCB)。 小生が未だ若かった頃、このビルに長らく職場があったので、この付近は懐かしい。しかし、中之島の先端(末端)をそれと意識して覗き見るなんてことはありませなんだ(笑)。 因みに、中之島センタービルを我々は中之島尖端ビルと呼んでいたような気もする。 で、最西端を見たからには最東端も見て置こうと、猛暑の中、土佐堀通りを東へとひた走る。(中之島東側尖端・天神橋上から) 最東端の方がスマートですな。 どうやら、中之島は上流に向かって進もうとしている風に見える。 見上げると伊丹空港に着陸しようとしている飛行機。(伊丹空港への着陸体制にある飛行機) 話は戻りますが、中之島の西端の湊橋(新なにわ筋が土佐堀川に架かる橋)の南詰にこんな碑がありました。 副碑を見ると2年前の建立。ブロ友のテラケン氏は宮本輝の大ファン。副碑の氏名に同氏の名があったら面白いと思うが本名を知らないのだから話にならない(笑)。(小説「泥の河」舞台の地碑)(同上・副碑) もう字数制限です。以下は淀屋橋近くでのもの。 趣旨は碑文をお読み下さい。(淀屋の屋敷跡)(淀屋の碑)(同上・碑文)(大坂市長・林市蔵の像)(同上・碑文) -完-
2013.06.15
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<承前> 12日の安治川銀輪散歩、安治川から六軒家川水門へ、の続きですから、今日の記事も12日のことであります。 大阪中央卸売市場の前の道を北に行くと大阪環状線野田駅と地下鉄千日前線玉川駅である。戦国時代にはこの辺りには野田城があったと言われている。織田信長と対立抗争を繰り広げた三好三人衆軍が築城したものである。 織田軍に攻められ苦境にあった野田城の三好三人衆軍であったが、元亀元年(1570年)9月12日、石山本願寺第11世門主・顕如が門徒衆に檄を飛ばし、三好側に立って参戦することを表明、14日には本願寺軍が信長軍に攻撃を仕掛けた。これによって、戦況が一変し、信長は軍を撤退させる。以後、石山合戦と呼ばれる石山本願寺と信長との抗争の幕明けとなった事件である。しかし、それも束の間のことにて、結局は信長の再度の攻撃によって天正4年(1576年)に落城する。信長の手に落ちた野田城は、その後の信長による石山本願寺攻略の重要拠点となっている。 その野田城がこの付近にあったというのである。玉川4丁目交差点付近と極楽寺という寺の門前とに野田城跡の碑が建てられているので、それを見て行くこととする。 <参考>石山合戦・Wikipedia 野田城・福島城の戦い(地下鉄玉川駅付近。後は大阪環状線。) (野田城跡碑・地下鉄玉川2番出口前) (野田城跡碑・極楽寺前)(極楽寺)(同上・本堂)(二十一人討死墓) 極楽寺境内には「二十一人討死墓」がある。実はこの写真は本日(14日)に撮影のものである。12日に撮り忘れたので、本日再度MTBで出掛けて来ました。しかし、今日は寺の門が閉まっていて境内に入れない。 裏の勝手口というか、ご住職さんのお住まいの玄関口というか、そちらに回って、呼び鈴を押して、事情をお話すると、寺のお譲さんか若奥さんと思しき若い女性の方が出て来て下さって、どうぞとご案内戴き、撮影することができました。 墓碑が真新しいので、お尋ねすると、以前のが古くなったので、最近に作り替えたのだと仰る。以前の古い碑は鐘楼の後ろに置いてあると教えて下さったので、それも撮影させて戴いた。(古い墓碑) この野田21人衆の話は、上の野田城での合戦よりも少し古い話になる。 天文2年(1533年)8月9日野田村に布教に訪れた本願寺第10世門主証如上人は、近江の佐々木(六角)定頼の手勢に襲われるのであるが、野田村の門徒衆が証如上人を守護して戦い、証如上人を小船で泉州方面へと脱出させる。この時の戦いで野田の門徒衆21人が戦死する。極楽寺は21人衆墓所に建てられた道場が始まりという。本願寺が東西に分裂した際には野田衆は東本願寺に属し、延宝4年(1674年)に極楽寺という現寺号を称するようになったとのこと。享保2年(1717年)から御坊同様の扱いを受け、野田御坊とも呼ばれる。(証如上人御旧跡と刻まれた灯籠・極楽寺前) 極楽寺から北へ100m程の処にある玉川コミュニティセンターの庭には二十一人討死碑がある。(二十一人討死碑)(同上) こちらの碑は1940年建立であるから、それほど古くもないのであるが、裏面は半分剥離していて、判読不能である。(同上・裏面) 近くに円満寺という寺があり、この寺の門前にも証如上人御由緒と刻まれた灯籠が建っている。 こちらの寺も21人衆の菩提を弔うために建てられた寺で、証如上人より教圓という名を与えられた久左衛門という人物が建てた寺と書いてあるものと、西本願寺派の門徒により享保2年(1717年)に建てられたと書いてあるものもありで、その真偽のほどは小生知る由もない。何れにせよ、こちらは西本願寺派の寺であるが、先程の極楽寺から見て北東の位置にある。 東本願寺の極楽寺が西寄りに、西本願寺の円満寺が東寄りにある、というのも面白いし、寺号も極楽に円満であるから「対立・分裂」とは縁遠い感じで面白いですな。(円満寺)(同上)(証如上人旧跡碑など)(野田村21人討死御由緒)(野田御書・拡大) 円満寺の西側に恵美須神社があったので立ち寄る。(恵美須神社)(同上)(同上)(野田藤再生計画) 境内の奥に野田藤の再生のための鉢植えが並んでいました。 野田藤については、ページ改めることとします。 どうやら制限文字数のようです。(つづく)
2013.06.14
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<承前> 昨日(12日)の安治川銀輪散歩の続きです。 安治川水門・弁天埠頭から安治川トンネルまで引き返します。安治川隧道(安治川トンネル)は安治川の川底のトンネル。階段またはエレベーターで川底の地下トンネルに降りて対岸に渡れるようになっている。歩行者と自転車専用のトンネルである。 このトンネルを利用するのは、2006年12月23日に友人の偐山頭火さんと渡船廻り銀輪散歩をして以来だから6年半ぶりのこととなる。(安治川トンネル・南側出入り口) 上の写真は、左岸(南側)のエレベーター乗降口。 下の写真は、そのエレベーターで地下に降りて、私達左岸側の者が地下通路に出た後、右岸側からやって来た人達がエレベーターに乗り込んでいる処。結構利用者があります。(同上・地階) 地下通路は冷んやりして気持ちがいい。エレベーターでご一緒になったおばあちゃんと「ここは涼しくていいですね。」などと話ながら歩く。「この辺も随分変りましたね。」とおばあちゃん。「そうですね。」と言ったものの、ヤカモチにはどう変ったのかは勿論分からない。 まあ、行きずりの会話というものは、これでいいのである。話の流れに合せることが第一。でないと事情や訳を説明しなければならなくなり、話の流れを阻害してしまう野暮になる(笑)。(地下通路) 地下通路を歩いていて思い出したのが新潟の海底トンネル。いつ其処(底の洒落ではありません)を走ったかと調べてみたら、2009年9月のことでありました。 <参考>佐渡銀輪行余聞 2009.9.24. 新潟のそれは、車も走る海底トンネルで、長さ、規模の大きさは比べるべくもないのだが、ヒンヤリした空気の感覚でその日の記憶が甦りました。あそこは自転車で走り抜けましたから、此処のように自転車を押して歩かなくてもよいことになっていたのですな。(同上・北側出入口)(同上) 安治川右岸に渡り、川沿いに下流へと走る。1km弱で道は行き止まりとなり、右に曲がると六軒家川に架かる春日出橋。(春日出橋) 橋から六軒家川上流を見ると、ユニバーサルシティ駅に行くJRゆめ咲線(桜島線)の鉄橋が見えている。(春日出橋から六軒家川上流を望む。) 六軒家川は安治川の北側を流れている川で、春日出橋の直ぐ下にある六軒家川水門の先で安治川に合流する。 春日出橋を渡り、六軒家川が合流した安治川右岸を下流へと凡そ2.5km走るとユニバーサルスタジオ・ジャパン(USJ)であるが、今回は其処まで足を延ばしている余裕は無さそうである。(六軒家川水門) 安治川右岸の道に戻り、上流へと引き返す。大阪環状線の鉄橋付近で南方向を見やると高層マンション。何やらキングコングの映画を思い出させる眺めでもある(笑)。(大阪環状線安治川鉄橋付近)(安治川トンネル付近) 上の写真の、安治川トンネルの上に架かる鉄橋は阪神電車と近鉄が相互乗り入れしている阪神西大阪線が通っている。左に行くと西九条、千島、伝法などを経て尼崎へと続き、右に行くと近鉄難波に繋がっている。 安治川トンネルから1kmほど上流に行くと中央卸売市場である。(大坂市中央卸売市場・市場棟)(大阪市中央卸売市場入口) 市場の表に回ってみると上の写真のような眺め。何処から撮影したかと言うと船津橋の北詰。同じ場所でカメラを橋の方に向けると下の写真のような眺め。 船津橋は堂島川に架かる中之島の先っぽに渡る橋。 写真右奥のアーチは端建蔵橋(はたてくらはし)でこれは土佐堀川に架かっている。つまり、土佐堀川と堂島川がこの両橋の繋がった地点で合流しているのであり、合流と同時に南へと流れる木津川と南西へと流れる安治川に分流する。このような場合、何処からが、堂島川、土佐堀川、木津川、安治川なのか、考え出すと頭が混乱するのであるが、船津橋を含み船津橋から上流が堂島川。橋を含まず橋から下流が安治川ということですかな。 その区分に従えば、中央卸売市場は安治川の「最上流」の右岸にあることになる。(船津橋) さて、この後、地下鉄玉川駅近くを少々散策するのですが、それは次回のこととし、本日はここまでとします。(つづく)
2013.06.13
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本日は囲碁例会。台風がそれたお陰で青空。MTBで銀輪散歩をと朝8時過ぎに家を出る。 今回の目的地は安治川水門。尻無川水門、木津川水門は先日廻ったので、これでアーチ型三水門走破ということになります。 その前に、囲碁例会のことを記して置きます。本日は福◎氏と平◎氏と小生の3名だけの出席。暑さの所為か皆さんご欠席。で、小生は銀輪疲れで集中力を欠いたか、ポカが多くて福◎氏にも平◎氏にも大きく負けて0勝2敗。これで、今年に入ってからの成績は9勝18敗。不調が続く(笑)。 さて、銀輪散歩の方です。前2回は千日前通りから大正橋というコースでしたが、安治川は少し北になるので、中央大通りから本町通りに入り、木津川橋を渡って、直進、安治川に出て、左岸を下流へと向かう、というコースを取りました。 上町筋、谷町筋、松屋町筋、堺筋、御堂筋を越えて、ひたすら西へ。(信濃橋交差点) 四ツ橋筋を越え、なにわ筋、あみだ池筋を越えて新なにわ筋へ。(靭本町3丁目交差点) 新なにわ筋も越えて、直進。木津川を渡る。木津川橋である。(木津川橋の碑)(木津川橋) 木津川橋から上流を見ると、正面に昭和橋。この橋の向こうは土佐堀川で、中之島がそこでオシマイ。中之島の北側を流れている堂島川と合流すると共に、コチラ側・木津川(南へと流れる)とアチラ側・安治川(南西へと流れる)とに分流する。(木津川橋から昭和橋を望む。) 写真正面の高層ビルは、左二つはマンション。右の白いビルが中之島センタービル。関西電力や関経連などが入っている。 木津川橋を渡り、直進すると、直ぐに安治川(左岸)にぶつかる。川沿いに下流へと走る。 程なく、大きな石碑のある三叉路に出る。国津橋である。 河村瑞賢の碑と古川跡の碑が建っている。 詳細は、下の説明板や碑文をお読み戴くとして、要するに、安治川は河村瑞賢によって江戸時代に開削された新川であったのですな。 (河村瑞賢紀功碑) (同・裏面)(同副碑・碑文全訳)(同上・説明板)(古川跡碑)(同上・碑文) 河村瑞賢の碑から500mほど下流に安治川トンネル(安治川隧道)がある。安治川水門を見た後、引き返して来てこのトンネルを使って対岸に渡るので、今は省略。更に600mほど行くと大阪環状線の鉄橋がある。 (大阪環状線・安治川鉄橋・上流側から)(同上・下流側から)(安治川・上流を望む。)(同上・下流を望む。) 安治川の堤防に近づき、下流を覗き見ると水門のアーチが国道43号線・安治川大橋の向こうに見えていた。水門まで、あと600m位である。 その安治川大橋の下から見た水門が下の写真である。(安治川水門)(同上) 安治川水門のアーチの色は赤。尻無川水門のそれが青で、木津川水門のが緑。色を変えているのは川を遡上する船が川を間違えないようにするための工夫でしょうな。(同上)(同上) (木津川水門) (尻無川水門)<参考>「青雲会囲碁・木津川水門など銀輪散歩」 「囲碁例会・大正橋から尻無川銀輪散歩」 水門からさらに先へ、弁天埠頭港緑地公園で少し休憩してから、引き返すこととしました。 途中やり過ごした安治川トンネルを潜って、対岸に出て、ついでに六軒屋川の水門も見て置こうという次第。こちらはアーチ型ではなく普通のスタイルの水門です。(弁天埠頭・関西汽船乗り場) しかし、本日はここまで、続きは明日とします。(つづく)
2013.06.12
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<承前> 昨日の「青雲会囲碁・木津川水門など銀輪散歩」の続きです。 新なにわ筋の下には地下鉄千日前線が走っている。長堀通りと交差する手前が西長堀駅。交差点を左折、西へ。直ぐの処に土佐稲荷神社がある。境内の南側・西側は土佐公園になっている。 MTBで走りながら、昼食の店を探していたのだが、なかなか見つからない。それで、見掛けたお弁当屋さんで「お弁当」を購入。この土佐公園で「お弁当タイム」にしようと考えた次第。木陰の石に腰掛けて、「優雅な」昼食であります(笑)。 折角なので、土佐稲荷神社にご挨拶して行く。(土佐稲荷神社) 下の神社略記にある通り、大阪城築城の際に運ばれて来た石の中に霊験只ならぬものがあり、これをこの地に置いて祀ったのが、この神社の起源であるらしい。航海安全の神として広く信仰を集めたよう。 その後、土佐藩の蔵屋敷がこの地に置かれ、伏見稲荷から分霊を受けて祀るようになったことから土佐稲荷神社と呼ばれるようになる。 三菱の創業者岩崎弥太郎はこの地で事業を起こし、この土佐稲荷を篤く敬い、事業繁栄の守護神とした、とされる。(土佐稲荷神社略記) <参考> 土佐稲荷神社ホームページ 土佐稲荷というと、随分の昔に堺事件のことを書いた本で登場したのが記憶にある。書棚のあちこちを探してみたが、その本は見当たらない。何処かの奥に入ってしまっているのであろう。 堺事件というのは、慶応4年(1868年)2月15日夕刻、堺港から無許可上陸したフランス水兵とこれを阻止しようとした土佐藩士との間に生じた刃傷事件。水兵11名が死傷。 フランス側は賠償と関係した土佐藩士20名の切腹を要求。新政府はこれを呑み、土佐藩士20名の切腹を命じる。 土佐藩邸に蟄居謹慎させられていた関与の藩士は29名であったが、20名という命令であったので、彼らはこの土佐稲荷神社の前で籤を引いて切腹する者20名を決めたという。 切腹は堺市堺区材木町東4丁にある妙国寺にて日仏立会人の面前で行われたが、フランス側立会人がその凄絶な様に堪え切れず、12人目の切腹が行われる前にその中止を求めた、という。 <参考> 妙国寺・Wikipedia(拝殿)(本殿)(東側は道路を挟んでマンション)(西側も道路を挟んでマンション)(神馬) お稲荷さんの使いは狐であるのに、何故か境内には馬です。 廃藩置県で、土佐藩邸の土地建物は岩崎家の所有地となり、岩崎弥太郎はその一画に居を構えたよう。周囲は今はマンションが林立している。そのような地の一つに「岩崎家旧邸跡」の碑が建てられていたようだが、今は土佐稲荷神社の境内地に移設されている。(岩崎家旧邸跡碑)(同上副碑)(兵庫谷源次郎歌碑) 「千代までも くちぬ命と この石を まつる願いは 神もまもらん」と刻まれた歌碑にて、作者で歌碑建立者は兵庫谷源次郎という人物。その曾孫なる人物による副碑によって、その由来などが知れるのであるが、ご両名共にここにて初めてお目にかかるお名前にてあれば、ふむふむ、であります。(同上副碑) 拝殿の西側、奥には其角の句碑がある。 こちらは、芭蕉の門弟の一人。どなたもご存じのお名前ですな。 裏面を見ると嘉永4年3月建立とある。 <参考> 宝井其角・Wikipedia(其角句碑)明星や 桜定めぬ 山かつら 江戸時代から土佐稲荷は桜の名所として親しまれていたらしい。 現在も桜の木が沢山あって、花見が楽しまれているよう。 しかし、近頃のお花見衆はマナーがよくないのか、土佐公園内の随所に「火気・宴会禁止」の立て札が立っている。どうやら筵を延べて飲食しながらの宴会スタイルのお花見は此処では禁止されているようである。(句碑裏面)(同上) ひとしきり土佐神社境内を歩き回った後、新なにわ筋からなにわ筋に移り、靭公園を横切って四ツ橋筋に出て、暫く北に走った後、御堂筋に移り、淀屋橋、大江橋を渡り、裁判所の前の庭に駐輪。囲碁例会の会場となっている青雲会交流センターへ。 丁度入口前で藤◎氏と出会い、一緒に会場へ。こんなことで、小生の最初の対局相手は藤◎氏となった次第。会場の部屋に入ると既に数名の方が来て居られてそれぞれに対局が始まっていました。
2013.06.09
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昨日(16日)は、暫くご無沙汰の柏原市方面へ銀輪散歩して参りました。 掲載写真が多くなりましたので、説明文も極力省略し、現地説明板の写真でそれに代えさせて戴きます。写真をクリックして拡大サイズでお読み下さいませ。 (注)写真を1回クリックするとフォト蔵の写真ページに移行します。 それをもう一度クリックすると、写真サイズが選択出来るペー ジに変ります。(片山神社) 大阪府柏原市は大和と河内を結ぶ龍田道の河内側の地。そんな地理的条件もあって、河内国分寺を始め多くの寺があったのでしょう。 此処、片山神社も片山廃寺跡とされ、古くは大寺の建つ地であったのでしょうな。神社裏の薬師堂がその名残りをとどめている。(片山薬師堂)(同上)(片山廃寺跡説明板)(天理教北阪分教会) 今回の散歩は随分以前に偐山頭火さんから戴いた「柏原市ウォーキングマップ」によっていますが、そのパンフレットにあったのが、この教会。玉手山丘陵の登り口にある。(同上説明板) 教会から丘陵の高みに上って行くと、玉手山古墳群があり、この辺りは大坂夏の陣で戦場となった地であり、それに因む碑などがある。(大坂夏の陣供養碑)(同上、背後のお墓の在る小山が玉手山2号墳)(大坂夏の陣と小松山の戦い)(玉手山1号墳) 1号墳の登り口は何やら工事中で通行出来ず、登頂を諦めました。(同上説明板)(玉手山3号墳説明板) 3号墳は老人福祉センターの玄関口が登り口。登ってみましたが、ベンチの他は何もなし(笑)。まあ、それが普通ですが。(玉手山3号墳頂上部) 更に坂道を上ると玉手山公園。かつては近鉄が経営する玉手山遊園であったが、今は柏原市が管理する市民公園となっている。自転車は乗り入れ禁止なので、門前に駐輪し、徒歩で行く。一茶の句碑と後藤又兵衛之碑を撮影するのが目的。(玉手山公園案内図、クリックして拡大サイズでお読み下さい。)(小林一茶句碑) 一茶は今から218年前に玉手山を訪れているのですな。 初蝉や 人松陰を したふ比(ころ) 雲折々 適(まさ)に青菜見ゆ 玉手山(同上副碑)「寺は道明寺と云ふ。わづかに行けば玉手山、尾張公の荼毘処あり。龍眼肉の木ありて、此の界隈の景地也。艮の方にかつらぎ山見由る。折から遊山人処々につどふ。下山して遠望。雲折々適に青菜見ゆ玉手山」(小林一茶「西国紀行」)(同上説明板)(玉手山古墳出土石室・石棺)(後藤又兵衛の碑) 後藤又兵衛は、大坂夏の陣・小松山の戦いで徳川方大軍の前に重傷を負い、吉村武右衛門の介錯で自刃する。二人の供養碑が公園内に建っている。(同上)(吉村武右衛門の碑)(大坂夏の陣供養塔)(大坂夏の陣・小松山の戦い説明板)(後藤又兵衛しだれ桜)(春日神社) 玉手山と近鉄線を挟んで東側にある丘陵地にあるのが春日神社。ここも田辺廃寺跡とされる。 大伴家持とも交流があり、自らもすぐれた歌を万葉集にのこす田辺福麻呂を思い出すが、その田辺氏の一族の寺であったのだろう。(同上・拝殿)(田辺廃寺跡説明板)(同上) 近くには、こんな稲荷神社もありました。伏見稲荷の千本鳥居には及ぶべくもありませぬが、十本鳥居以上ではある。(初吉稲荷神社)
2013.05.17
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本日は智麻呂邸にお邪魔して参りましたが、その前に、近隣桜めぐりの銀輪散歩をして参りました。何処も桜が満開。明日は雨が降るとの予報であるので、今日がお花見には最高の日のようであります。 4月7日に若草読書会のお花見を予定していますが、あと8日、満開のこれらの花がどれだけ散り残っていてくれるものやら・・。 ということで、本日のブログ記事は若草読書会の皆さまへの、今日の「花園公園便り」も兼ねて居ります(笑)。 花園公園に行く前に、山裾を北に走り、パンドラの丘の桜なども見て参りましたので、タイトルは「桜めぐり」と致しました。何処もお花見の方々で賑って居りました。(枚岡公園進入道路沿いの桜並木) 枚岡公園は2009年4月5日に若草読書会でお花見をした場所。 <参考>若草読書会のお花見 2009.4.9. これが若草読書会での初めてのお花見でありましたが、翌年からは場所を花園中央公園の桜広場に変更していますから、最初にして最後となった枚岡公園での花見でした。公園は、この桜並木の坂を上り切った山裾の高みにあります。(額田公園の桜) 近鉄額田駅と石切駅との中間にある小さな公園。ここも桜が美しい。更に北へと走り、石切駅を越えて日下新池へ。(パンドラの丘の桜) 此処は、パンドラの丘。先月の20日の記事でご紹介して居りますので、その名の由来については、同記事をご参照下さい。 <参考>パンドラの丘 2013.2,20.(同上) パンドラの丘に立ち寄ったついでに、大龍禅寺境内の桜も見て行く。大龍禅寺の写真は下記の日記にも登場しています。 <参考>わが待つ秋の近づくらしも 2010.7.27.(大龍禅寺の桜)(同上) そして、神武天皇聖蹟盾津顕彰碑のある公園の桜です。ここは、先日、小万知さんとの銀輪散策で訪ねた場所でもありますが、その時は桜もユキヤナギも咲いていませんでしたが、今日は花満開で、随分と雰囲気が、駄洒落ではありませんが、「華やいで」いました(笑)。 <参考>草香江の入江のはちす花はちす 2013.3.5.(神武天皇盾津顕彰碑と桜) ここまで足を延ばしたついでと、智麻呂さんが週に1回お世話になっている、福寿苑にご挨拶して行く。と言っても「ヤカモチ流挨拶」にて、門前で写真に撮るというだけのことであるのですが(笑)。(福寿苑)(同上) さて、花園中央公園へと向かう。 恩智川と国道(中央大通り)が交差する付近にある、アケビの木が花を咲かせていました。 このアケビ、昨年の4月18日の銀輪散歩の時に花に気付いたのでありましたが、今年はアケビの花も桜同様に開花が早まったようであります。(アケビの花) <参考>花逍遥・アケビの花ほか 2012.4.22.(同上) そして、花園中央公園の桜広場です。 ご覧のように、満開。そして多勢のお花見の人々。(花園中央公園の桜)(同上) はてさて、4月7日の花の様は「いかにかあるらむ」でありますが、まあ、兼好法師殿も下記のように仰って居られますれば、散りたる後の様、散り残りて僅かばかり咲きたる様にこそ、あはれなる風情はあらめ、ということと致しまするかな(笑)。もっとも兼好流だと花見にわざわざ出掛けることもなく、居ながらにして思い描けば十分ということになってしまいますが。『花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情(なさけ)ふかし。咲きぬべきほどの梢(こずゑ)、散りしをれたる庭などこそ見どころおほけれ。歌の詞書(ことばがき)にも、「花見に罷(まか)りけるに、はやく散り過ぎにければ」とも、「さはることありて罷らで」なども書けるは、「花を見て」といへるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊に頑なる人ぞ、「この枝かの枝散りにけり。今は見所なし」などはいふめる。(中略)すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いと頼もしう、をかしけれ。よき人は、偏にすける樣にも見えず、興ずる樣もなほざりなり。片田舎の人こそ、色濃くよろづはもて興ずれ。花のもとには、ねぢより立ちより、あからめもせずまもりて、酒飮み、連歌して、はては大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手・足さしひたして、雪にはおりたちて跡つけなど、萬の物、よそながら見る事なし。』(徒然草第137段)(同上)(同上)(同上) 若草読書会の皆さま、本日天気晴朗にして花満開なるも、七日に至りて散り残れるの幾許なりやは存じ上げ申さざる事にて候。わが花見 八日は過ぎじ 桜花 散らずあり待て わが行くまでは (偐家持)
2013.03.30
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本日は大学同窓会・青雲会の囲碁サークルの例会の日。 昨年の9月8日以来なので、実に久々の出席でした。出席者は13名。盛会でありました。小生は初戦の岩◎氏には勝ったものの、その後、藤◎氏に1敗、玉◎氏に2敗でトータル1勝3敗。振いませんでした(笑)。 お天気もよしで、会場のある北区堂島の裁判所の裏まで、いつもの通り、銀輪散歩を兼ねて、自宅からMTB(マウンテンバイク)で出掛けました。 途中、大阪城公園を通り抜けましたが、陽気に誘われてか多くの人影があり、いかにも長閑な春の休日といった雰囲気でありました。(大阪城公園・噴水広場)(大阪城) 大阪城公園を出て、天満橋で大川を渡り、大阪天満宮へ。 大阪天満宮では「盆梅まつり」の開催中であるが、それを狙ってのものではなく、境内にある神武天皇聖蹟難波之碕顕彰碑を写真に撮るのが目的でありました。今月5日に神武天皇聖蹟盾津顕彰碑を、翌6日には同孔舎衛坂顕彰碑を訪ねたので、この際、難波之碕顕彰碑もご紹介して置こうと考えた次第。 <参考>神武天皇聖蹟盾津顕彰碑はコチラからどうぞ。 神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑はコチラからどうぞ。(神武天皇聖蹟難波碕顕彰碑) (同・裏面) 神武天皇聖蹟顕彰碑は大阪府内には4基ある。残りの1基は泉南市男里の天神の森公園内にあるのだが、これは自宅からはかなりの距離なので、ちょっと銀輪でという訳にも行かない。何れチャンスがあれば、と思います。 さて、今回の難波之碕顕彰碑であるが、これは瀬戸内海をやって来た神武一行が、先ずこの難波之碕に至り、ここから河内の盾津へと進んだことが日本書紀に記されて居り、その難波之碕がこの付近だと言うので建てられているものである。まあ、神武東征は作り話だと言ってしまえば、身も蓋もないことになるのであるが、それは暫く横に置くことと致しましょう(笑)。 参考までに下記に日本書紀のその部分の記述を転載して置くこととします。 「戊午年(つちのえうまのとし)の春二月(きさらぎ)の丁酉(ひのとのとり)の朔(ついたち)丁未(ひのとのひつじのひ)に、皇師(みいくさ)遂に東(ひむがし)にゆく。舳艫(ともへ)相接(つ)げり。方(まさ)に難波碕(なにはのみさき)に到るときに、奔(はや)き潮(なみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会ひぬ。因りて、名(なづ)けて浪速国(なみはやのくに)とす。亦浪花(なみはな)と曰(い)ふ。今、難波(なには)と謂ふは訛(よこなま)れるなり。」(日本書紀・神武天皇即位前紀 戊午年二月の条)(徳島のイメージキャラクター「トクシー」) 天満宮の境内はとても賑っていました。 それもその筈、徳島の観光PRに、ゆるキャラのトクシーちゃんと観光大使のお譲さんと阿波踊り保存会の方々が来て居られて、そのパフォーマンスが始まろうとしているのでありました。(同上)(トクシーと観光大使のお譲さん) では、本場の阿波踊りをご覧下さい。 未だ桜の花も開花しないと言うのに、早や何やら「夏」の雰囲気ですな。天神さんもビックリですかね。「何をしてくれるのだ。ゆっくり梅花も楽しめないではないか。」と言って居られたかどうかは存じませぬが、神社側が招待したのでもあれば、道真公との折り合いは付いた上でのことであるのでしょう。 まあ、ヤカモチとしてはいいものを見させて戴きました(笑)。(徳島の皆さんの「阿波踊り」)(同上)(同上)(同上)<参考>カテゴリー「近隣散歩」の他の記事はコチラからご覧戴けます。
2013.03.09
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本日は囲碁例会の日でありましたが、都合により欠席。 それで、午後2時過ぎから銀輪散歩に出掛けましたが、何処と言ってアテもなかったので、昨日、小万知さんと訪ねた神武天皇聖蹟盾津顕彰碑との関連で、もう一つの顕彰碑・孔舎衛坂顕彰碑を訪ねてみることとした。 随分昔に訪ねたことがあるっきりで記憶もぼんやりしているのであるが、大龍禅寺不動院の先の山上を目指す。(大龍禅寺不動院) 日下不動尊とある。坂の下にある大龍禅寺の奥の院ですかね。ここまでは自転車(MTB)で来れる。この先を少し登ると舗装がなくなり、細い険しい山道となる。(同上) MTBをチェーンロックで立ち木に括りつけて、徒歩で行く。(道の辺の滝) 途中に滝などもあって、少しはホッとしたりもするのであるが、険しい山道である。 (大岩滝)(左:神武天皇顕彰碑への道、右:日下直越の道) やがて分れ道。左が神武天皇顕彰碑への道。右が直越の道である。地元の人は「ただ越え」ではなく「じき越え」と言っているらしい。万葉の「直越え」の道は、この道のほか暗峠越えの道や石切の辻子谷の道など諸説あるよう。(参考)直越えの この道にして おし照るや 難波の海と 名づけけらしも (神社忌寸老麻呂 巻6-977)(五瀬命負傷地の碑) 山をほぼ登り切った処で右が五瀬命負傷地の碑への道、左が神武天皇顕彰碑への道。先ず、神武天皇の兄である五瀬命の碑の方を訪ねることにした。(同上) 碑には「厄山、五瀬命御負傷の地と言ひ伝へらる」とあるが、日本書紀には孔舎衛坂の何処とも記してはいないのだから、何でこんな山中に建てたものやら(笑)。 五瀬命は神武さんの兄であるが、この日下での戦いで流れ矢に当り、その傷がもとで亡くなってしまう。 次は神武天皇顕彰碑。(神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑) (同上、右:裏面) 碑の裏面や下の説明板で明らかですから説明の必要もないでしょう。参考までに、日本書紀の該当部分の記事を転載して置きます。(参考)「三月(やよひ)の丁卯(ひのとのう)の朔(ついたち)丙子(ひのえねのひ)に、遡流而上(かはよりさかのぼ)りて、径(ただ)に河内国(かふちのくに)の草香邑(くさかのむら)の青雲(あをくも)の白肩之津(しらかたのつ)に至ります。夏四月(うづき)の丙申(ひのえさる)の朔(ついたち)甲辰(きのえたつのひ)に、皇師(みいくさ)兵(つはもの)を勒(ととの)へて、歩(かち)より竜田に趣(おもぶ)く。而(しかう)して其の路(みち)狭(さ)く嶮(さが)しくして、人並(な)み行くこと得ず。乃(すなは)ち還(かへ)りて更に東(ひむがしのかた)胆駒山(いこまやま)を踰(こ)えて、中洲(うちつくに)に入らむと欲(おもほ)す。時に長随彦(ながすねびこ)聞きて曰はく『夫(そ)れ、天神(あまつかみ)の子等(みこたち)の来ます所以(ゆゑ)は、必ず我が国を奪はむとならむ』といひて、則(すなは)ち尽(ふつく)に属(したが)へる兵(いくさ)を起して、徼(さいぎ)りて、孔舎衛坂(くさゑのさか)にして、与(とも)に会ひ戦ふ。流矢(いたやぐし)有りて、五瀬命(いつせのみこと)の肱脛(ひぢはぎ)に中(あた)れり。皇師(みいくさ)進み戦ふこと能(あた)はず。」(日本書紀 神武天皇即位前紀 戊午年の条)(同上・説明板) 下山後はMTBで一気に外環状線道路まで走り下る。 外環状道路に出て南へ。水走交差点の少し手前で東に入り、中石切公園に立ち寄って行くこととした。(市立石切運動広場・中石切公園) 此処は、かつては陸軍刑務所であった処。その後「河内少年院」となり、それが取り壊されて、今は、公園と市民運動場になっている。 先日、太宰治の小説「パンドラの匣」の舞台となった地をご紹介したが、此処は、野間宏の小説「真空地帯」に登場する「石切刑務所」の跡地である。若い頃は野間宏もよく読んだ作家の一人であるが、参考までに「真空地帯」の書き出しの部分を下に転載して置きます。(参考)「木谷上等兵が二年の刑を終って陸軍刑務所から自分の中隊にかえってきたとき、部隊の様子は彼が部隊本部経理室の使役兵として勤務中に逮捕され憲兵につれられて師団司令部軍法会議に向ったときとは全く変ってしまっていた。(中略)朝はやく石切の刑務所から護送自動車で送られて木谷一等兵が刑務所看守と共に控室で釈放時間をまっているとき・・・」(野間宏「真空地帯」より)(同上) 上の写真の右側が市民運動場、左側が中石切公園である。公園の方では子供たちが野球をしていましたが、何故か「サッカー、野球禁止」の看板が掲示してあるのでした(笑)。サッカー・野球は運動場の方でしなさい、と言うことなんでしょうが、申し込み手続きなどがあって、子供たちが集まって野球でもしようか・・というニーズには運動場は応えられないようですな。(同上)
2013.03.06
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本日午前11時頃に恒郎女さんより電話があり、「今、小万知さんが来て下さっているので、よかったら来ませんか?」とのこと。 小万知さんは、自宅庭のミモザを手折り、ロウバイや福寿草などの花の写真をご持参で智麻呂邸をご訪問下さったよう。そして、もう一つの目的は、当ブログの2月20日の記事(「パンドラの丘」)に興味を持たれて、それを訪ねてみようと言うことであったらしい。ご本人は、当該ブログ記事を印刷し、付近の地図を片手にひとりバス&徒歩で廻るつもりでいらしたよう。しかし、その話をお聞きになった恒郎女さんが、「それなら、私の電動自転車を貸すからそれで回ることとし、偐家持さんに案内して貰えばいい。」と小生に電話をされたという次第。 そんな企みがあるとは露知らぬヤカモチ。飛んで火に入る「春の虫」でありました(笑)。 と、言うことで、本日の記事は添乗員ヤカモチ先生の日下案内記であります。既に過去の記事で掲載済みの写真は当該記事をご参照戴くこととして省略させて戴きました。 コースは次の通り。 智麻呂邸→妙徳寺→旧生駒トンネル→日下新池・パンドラの丘→ 大龍禅寺→旧河澄家→古事記歌謡歌碑→日下貝塚碑→孔舎衙小学校 →神武天皇聖蹟盾津顕彰碑→加納緑地→智麻呂邸 1.妙徳寺(寺の写真は2010.5.3.「石切・額田・瓢箪山近隣散歩(上)」に掲載して居ります。)寺の境内には白梅が咲き匂っていました。(白梅-妙徳寺境内)(同上) そして、これは小万知さんが目聡く見付けられたのでありましたが、梅の木の根方には立派な福寿草。(フクジュソウ)(同上)2.旧生駒トンネル(旧生駒トンネルの写真は、2010.3.31.「銀輪花遍路」、2012.5.29.「石切神社上之宮」に掲載されています。)3.日下新池・パンドラの丘(日下新池の写真は、2010.3.31.「銀輪花遍路」、2013.2.20.「パンドラの丘」に掲載されています。)4.大龍禅寺(大龍禅寺の写真は、2010.7.27.「わが待つ秋の近づくらしも」に掲載されています。)5.旧河澄家(旧河澄家の写真は、2013.2.22.「旧河澄家-ゆきずりのわが小板橋」に掲載されています。)(旧河澄家座敷)6.古事記歌謡歌碑(歌碑の写真は、上記の「旧河澄家-ゆきずりのわが小板橋」に掲載されています。)この歌碑の建立者は井上正治氏。同氏は、小万知さんが通って居られた孔舎衙小学校の校長先生であったお方とか。7.日下貝塚之碑(日下貝塚之碑の写真は、上記の「旧河澄家-ゆきずりのわが小板橋」に掲載されています。)日下貝塚之碑の隣のJAの駐車場に、日下貝塚之詩碑なるものがありますが、上記の2月22日の日記では掲載していませんでしたので、茲に掲載させて戴きます。(日下貝塚之詩碑) (同上)8.孔舎衙小学校孔舎衙小学校は小万知さんが通われた小学校。思い出の学校であるが、校舎は建て替えられていて、往時を偲べるものは何とてもないようでありました。この小学校の校歌の歌詞には、上の「日下江の蓮」が出て来るのでありますな。(孔舎衙小学校校歌)(孔舎衙小学校)(同上)上の校歌は正面の建物に掲げられてあるのをズームアップ撮影したものです。9.神武天皇聖蹟盾津顕彰碑小学校が記憶に残る景色をとどめてはいない、ということで、昔のままに残る神武天皇顕彰碑へご案内する。子供の頃は、此処で遊んだりもされたとお聞きして居りましたので。小学校卒業式の日に友達みんなでこの碑の前で記念写真を撮ったとのことで、懐かしそうにされて居られました。(神武天皇聖蹟盾津顕彰碑) この碑が建てられた時には、生駒山が背後に見えていたのであろうが、今は住宅が建て込んでしまって、見えない。 神武天皇曰く「眺望権の侵害である。」 さぞ、心外なこととお察し申し上げまする。(同上裏面)(注)神武天皇聖蹟顕彰碑は、皇紀2600年(昭和15年、1940年)に、 文部省指揮の下、神武天皇に所縁の地である、全国19ヶ所に建立 された顕彰碑である。 大阪府には4基建立されているが、うち2基が此処日下の地に建て られている。(他に、奈良県7元、和歌山県4基、岡山県、広島県、 大分県、福岡県各1基)(同上全景) これにて予定見学コース終了。引き返すこととし、恩智川に出て、加納緑地から花園中央公園まで恩智川沿いを走り、智麻呂邸に帰還。智麻呂・恒郎女ご夫妻と談笑。そして、お寿司をご馳走になりましたですな(笑)。どうもご馳走さまでした。 以上、ヤカモチ添乗員日記でありました。
2013.03.05
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本日も日下周辺の銀輪散歩でありました。 一昨日(20日)に立ち寄ったパンドラの丘から北西に500mほど坂を下った処に在るのが旧河澄家である。河澄家は、南北朝時代の日下連河澄与市大戸清正にまで溯る旧家にて、江戸時代には代々日下村の庄屋を務めたという家柄だそうな。1998年に河澄家から寄贈を受けた東大阪市が市指定文化財として整備保存を続けていたが、2011年5月より一般に公開されることとなったもの。 与謝野晶子らと共に活躍した明星派の歌人、石上露子の母親の杉山ナミは、この河澄家19代当主、河澄雄次郎の娘であったのでした。このことを知ったのも、先日の田◎氏から頂戴したパンフレットの記載からでありましたので、この処の記事は同氏のお陰とも言うべきものであります(笑)。 石上露子(本名、杉山タカ)については以前富田林市寺内町を銀輪散歩した際に記事にしていますので、その関連で言うと今回の銀輪散歩は露子の母方の祖父母の家への訪問ということになります。 <参考>富田林寺内町 2008年7月9日《中央公論新社》松本和男評伝石上露子〈中古〉 「ゆふちどり」ゆきずりのわが小板橋しらしらとひと枝のうばらいづこより流れか寄りし。君まつと踏みし夕にいひしらず沁みて匂ひき。今はとて思ひ痛みて君が名も夢も捨てむとなげきつつ夕わたれば、あゝうばら、あともとどめず、小板橋ひとりゆらめく。(「明星」1907年12月号収載)(旧河澄家入口)(旧河澄家主屋)(土間からクチノマ<左>、ダイドコ<右>を望む。)(土間)(配置見取り図)(棲鶴楼) 主屋西側に付随して建てられた数寄屋風書院造りの建物で、棲鶴楼と呼ばれている。現在の建物は天保6年(1835年)の改築であるが、前身の建物は慶安年間(1648年~1651年)に大坂西町奉行の曽我丹波守古佑(ひさすけ)が隠居するために作らせたと伝えられている。 寛政10年(1798年)日下村に隠棲していた上田秋成(雨月物語の作者)は河澄家15代当主と親交があり、河内、摂津の文人、歌人、俳人が多く此処棲鶴楼に集い、文芸サロンの如き様相を呈していたそうな。(同上)(棲鶴楼から裏庭、蔵を望む)(庭)(日下のかや) 庭園にあるカヤの巨木は樹齢500年、「日下のかや」と名付けられて、東大阪市の天然記念物に指定されている。(庭のカヤの巨木)<参考>旧河澄家 開館時間:午前9時30分~午後4時30分 休 館 日 :月曜日(祝日の場合はその翌日) 祝日の翌日・年末年始 見学無料 電話・FAX 072-981-1640(西隣の祠)(古事記歌碑)日下江(くさかえ)の 入り江の蓮(はちす) 花蓮(はなはちす) 身の盛り人 羨(とも)しきろかも (日下の入り江に咲いている蓮の花のように、今が一生の盛り の若い人が羨ましいことです。) この歌碑は、旧河澄家から西へ坂道を少し下った処にある。 古事記の雄略記に出て来る引田部赤猪子の歌である。 以前にもこの歌に関連する話は掲載したので、詳細は下記の参考記事をご参照戴くこととし、説明は省略させて戴きます。 <参考>銀輪万葉・藤井寺界隈(続) 2009.11.23.(日下公園近くの梅) 更に下って行き、少し南に入ると、日下公園の下に紅梅が咲き匂っていました。日下公園は以前に「鯨が泳ぎよる」公園としてご紹介済みです(笑)。 <参考>「♪潮吹く魚が泳ぎよる~」 2009.5.1. 更に下り、東高野街道に出る一つ手前の道に日下貝塚の碑がある。大森貝塚ほどではないが、日下貝塚も結構有名な貝塚なのである。この碑の裏の路地を行った処にあるが、今日は立ち寄らずです。 何やら後頭部の偏頭痛が酷くなって来ました。もう限界。記事はここまでとします(笑)。(日下貝塚の碑)
2013.02.22
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本日は、銀輪散歩の途中パンドラの丘に立ち寄って参りました。 パンドラとはギリシャ神話に登場する「パンドラの箱」のあの「パンドラ」のことである。 プロメテウスが天界から火を盗み人間に与えたことを怒ったゼウスは人間に災いをもたらすため「女性」を作るよう神々に命じる。泥から作られた女性パンドーラには様々な能力が与えられる(男を苦悩させる魅力もその一つ)。最後に絶対に開けてはならないという箱を持たせて、人間世界へと彼女は送り出され、プロメテウスの弟のエピメテウスと結婚し子供をもうける。或る日、好奇心から、彼女は箱を開けてしまう。すると、箱からは病苦、嫉妬、貪欲、猜疑、憎悪、悲嘆、飢餓、犯罪などあらゆる災いが飛び出すが、最後に残ったのがエルピス(希望)であった。 「パンドラの匣」は、太宰治の小説であるが、これは、太宰治のファンであった木村庄助という青年の病床日記が底本で、彼の遺言により日記の寄贈を受けた太宰がこれを小説に仕立てたのである。 この木村庄助が療養していたのが、生駒山西麓の東大阪市日下町の日下新池畔にあった「孔舎衙健康道場」という結核療養施設で、昭和12年~17年秋頃まで、運営されていたとのこと。木村庄助はこの道場で健康を回復し退院するのであるが、後に病気が再発、病苦から22歳2カ月の若さで服毒自殺している。(日下新池)(同上) 小説では、下記のように書かれていて、東大阪市日下町を思わせる記述はなく、何処か他の架空の土地になっている。「きょうはお約束どおり、僕のいまいるこの健康道場の様子をお知らせしましょう。E市からバスに乗って約一時間、小梅橋というところで降りて、そこから他のバスに乗りかえるのだが、でも、その小梅橋からはもう道場までいくらも無いんだ。乗りかえのバスを待っているより、歩いたほうが早い。ほんの十丁くらいのものなのだ。道場へ来る人は、たいていそこからもう歩いてしまう。つまり、小梅橋から、山々を右手に見ながらアスファルトの県道を南へ約十丁ほど行くと、山裾に石の小さい門があって、そこから松並木が山腹までつづき、その松並木の尽きるあたりに、二棟の建物の屋根が見える。それがいま、僕の世話になっている「健康道場」と称するまことに風変りな結核療養所なのだ。」 【送料無料】パンドラの匣 〔 太宰治 ] 価格:1050円(税込、送料込) この場所が「パンドラの匣」の「健康道場」のあった場所だということを発見されたのは京都在住の医師で太宰治研究家でもある、浅田高明氏とのこと。<参考>大正時代の日下遊園地-日常旅行日記-木村庄助・Wikipedia 「河内文化のおもちゃ箱」掲載文 -「太宰治『パンドラの匣』の舞台は孔舎衙健康道場だった」- この発見を機に、現在は、この日下新池畔の丘を「パンドラの丘」と名付けて、地元の方々によって毎年2月に植樹会が行われている。(パンドラの丘)(同上)(パンドラの丘植樹参加者募集ポスター) 小生がこの「パンドラの丘」という名を知ったのは、先月28日の健人会の新年会(2013年1月29日の日記参照)で神戸市ご在住の田◎氏から頂戴した「まんぽけい(No.145)2013年1月号 文学・歴史ウォーク(90)」というパンフレットからでありました。地元にいながら「パンドラの丘」のことを神戸の方から教えて戴くとは、まだまだ精進が足りませんですな。 この日下新池の畔にはヒトモトススキの碑が建っています。(ヒトモトススキの碑<但し、写真は2012年5月撮影のもの。>) ヒトモトススキは海岸べりに生えるススキ科の植物で、この付近まで海であったことを示す証拠として、東大阪市の天然記念物に指定されているが、近頃は余り見掛けない。 パンドラの丘を歩いていると「弁天堂160m」という小さな標識。矢印の示す方向に行ってみることに。細い九十九折の山道を登って行く。(弁天堂) 由緒などは知らぬが、小さなお堂が山中にひっそりとありました。日下新池には何度も来ているが、この弁天堂は多分初対面だと思う。(同上)(同上)
2013.02.20
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今日を含めて今年もあと3日。押し詰まって参りました。 明日が雨の予報なので、毎年30日に行っている墓参を一日早めて、本日済ませることに。 年末とあって、墓参の人影もいつもよりは多い。今日はMTBでやって来たので、墓への長い急な坂道では、息も絶え絶え。最後の急坂では自転車を降りて押して上ることに。(墓地の最上部からの眺め) 墓参の後、MTBで山裾を南へ銀輪散歩。 このコースは東西には道が整備されているが、南北の道は迷路のような路地をジグザグに進むしかない道にて、何度来てもよくは分からないままに、方向だけを頼りに、その都度違った道を南へと辿ることになる。(極楽寺付近) 上の写真(左)の石段を上って行くと、楠木正行、正時兄弟の碑があるが、今日はパス。 <参考>正行・正時の碑は、夕照・銀輪散歩 2008.12.15.参照。(楠木正行終焉所碑・霊光院) 二本松古墳へと向かう途中に迷い込んだ道の辺で「小楠公終焉所」と刻まれた石碑に出会う。 <参考>二本松古墳は、近隣銀輪散歩、山麓の道をゆく 2011.8.25. をご参照下さい。 由緒などは分からぬが背後には小さな御堂(霊光院)が建っている。楠木正行を祀っているのであろう。 これも何かのご縁と、正行所縁の往生院まで足を延ばすこととする。(往生院) 往生院は以前にも記事に取り上げているので重複する写真は省略します。下記1.の記事をご参照下さい。また、往生院の説明は、上の写真で足りているでしょうから、これも省略です。もっと詳しくお知りになりたい方は下記2.をご参照下さい。 <参考>1.銀輪散歩・往生院から玉祖神社へ 2010.11.27. 夕照・銀輪散歩 2008.12.15. 2.岩滝山往生院六萬寺 ここも、墓参の人が多い。墓苑があるのである。駐車場には沢山の車が。小生もMTBを駐車場の片隅に停めて、墓苑に入ってみる。(往生院墓苑・六地蔵)(墓苑休憩所の窓から)(奥の院) 墓苑の一番奥の高みに「奥の院」との扁額のある御堂が建っている。 そこから西を望むと大阪平野が一望である。下の写真の左上隅に遠く写っているのが日本一の高さとなった「あべのハルカス」(工事中)のビルである。ほぼ、同じ位置に四天王寺の五重塔があるのだが、これは写っていませんかな。往生院からは彼岸には太陽は四天王寺の五重塔に沈むと言われて来たが、今後は「ハルカス」のビルに沈むということになるのでしょうな。(奥の院からの眺め) 以下は、一般の者には立ち入り禁止区域となっているらしく、お寺の方から、注意されてそれと知り、退散しましたが、撮ってしまった写真は別に問題もないでしょうから掲載して置きます。(指月堂)(岩滝山遺跡出土庭園復元石組)(同上)
2012.12.29
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友人の偐山頭火氏撮影の写真がNHK大阪放送局主催の「あなたの“ええトコ”in大阪」アトリウム写真展に入選したということは、既に17日の日記でご紹介申し上げて居りますが、本日は銀輪散歩も兼ねて、NHK大阪まで行って、写真展を見て参りました。まあ、ちゃんと見て置かないと彼に叱られますからネ(笑)。 <参考>ラグビー神社など銀輪散歩 2012.12.17.(写真展 証拠写真ですな。)(NHK大阪) 写真展は上のNHK大阪の建物の1階アトリウムで行われていました。囲碁の例会で梅田まで行く時は、毎度この建物の前を自転車で通っているのであるが、建物内に入るのは久し振りのことでありました。 NHKの前は難波宮跡である。既に当ブログでも何度かその写真は掲載しているかと思いますが、目の前なので、久し振りに立ち寄ってみました。(難波宮跡) 乙巳の変(大化の改新)の後、孝徳天皇は都を難波に遷す。難波長柄豊崎宮である。 <参考> 「冬十二月(しはす)乙未(きのとのひつじ)の朔(ついたち)癸卯(みづのとうのひ)に、天皇、都を難波長柄豊碕(なにはのながらのとよさき)に 遷す。」(日本書紀・孝徳紀大化元年十二月の条) 大化の改新と呼ばれる革新政治は、孝徳天皇と甥で皇太子の中大兄皇子を中心として、この難波宮で執り行われたのであろうが、白雉3年(652年)9月に宮殿が漸く完成するものの、両者の間に亀裂、軋轢が生じるようになっていたのか、都を大和・飛鳥に戻そうとする中大兄とそれを許さない孝徳とが対立し、(傀儡であることをよしとしなかった孝徳を孤立させるための中大兄の策略とするが)翌年には中大兄は大臣以下官人を引き連れて飛鳥に帰ってしまう。皇后の間人皇女(中大兄の同母妹)も一緒に飛鳥へと去ってしまう。無念の孝徳天皇が間人皇后に送った歌がこれ。鉗(かなぎ)着(つ)け 吾が飼ふ駒は 引出(ひきで)せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか (日本書紀・孝徳天皇白雉4年の条)<(逃げないようにと)鉗木をつけて私が飼っていた馬は(どうしたのだろう。)、厩から引き出しもせず大事にして私が飼っていた馬を、どうして他人が見たのだろう。> 白雉5年(654年)10月10日に孝徳天皇は無念のうちに難波宮にて崩御する。彼の死によってその息子の有間皇子の悲劇的な運命も亦、決まったのであった。 天武天皇の時代になって、難波が再び都となる。天武12年(683年)に天武天皇は複都制の詔を発し、飛鳥と並んで難波が都となる。 以上を前期難波宮という。(大極殿跡) 聖武天皇の時代になって、神亀3年(726年)、藤原宇合が知造難波宮事に任命され、平城京の副都としての難波宮の造営が始まる。そして、天平15年(744年)には難波に遷都するのであるが、翌年1月1日には紫香楽宮に遷ってしまう。 以上を後期難波宮という。 この後期難波宮を詠った藤原宇合の歌がこれ。難波宮造営責任者として、見事に完成した難波宮を自画自賛している歌でありますかな。昔こそ 難波(なには)田舎(いなか)と 言はれけめ 今は都引(みやこひ)き 都びにけり (万葉集巻3-312) 難波宮は海辺の近くであった。NHK大阪の先から西へと下り坂になっている。万葉の頃はすぐ近くまで海が迫っていたのであろう。 そんな情景を彷彿とさせる歌が田辺福麻呂の次の歌である。あり通ふ 難波の宮は 海近み 海人娘子(あまをとめ)らが 乗れる船見ゆ (田辺福麻呂歌集 万葉集巻6-1063)潮干(ふ)れば 葦辺に騒ぐ 白鶴(しらたづ)の 妻呼ぶ声は 宮もとどろに (同 万葉集巻6-1064)<関連記事> 難波宮跡の写真などが掲載されている当ブログの他の記事 大槻能楽堂自主公演能 2009.6.6. 囲碁例会・比賣許曾神社 2012.2.8.(歩兵第8聯隊跡碑) 難波宮跡公園の一角に「歩兵第八聯隊跡」の碑がありました。 碑の左後に写っているのが小生のMTBである。碑の巨大さがお分かり戴けるよう敢えてツーショットとしました。背後の建物は国立大阪病院です。 碑の趣旨は下の副碑をお読み下さい。難波宮跡には万葉の痕跡と共に先の戦争の記憶も刻まれていました。(同上) 帰宅したのは5時少し前。自宅に近づく頃、生駒山は傾いた夕日に照らされて輝いている風でもありました。山の端には白い月がポッカリ浮かんでいるのでありました。(生駒山の上にはポッカリと白い月。午後4時半の月であります。)
2012.12.26
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年賀状投函のついでに、暫し生駒山麓の道を南へ銀輪散歩。八尾市に入り、八尾市歴史資料館の先の坂道を上ってみた。この道は高安山への登山コースの長い坂道である。もう限界という処まで上った処でストップ。殆ど息が切れそう(笑)。変速ギアで調節しながらであるが、それでも最後は立ち漕ぎしないと上れない急な坂道となり、長く立ち漕ぎを続けていると、息も絶え絶えとなる。天の助けか、そこで携帯に電話が入る。友人からの電話であった。 ストップしてしまうと、もう先を上る気力も失せて、坂道を下ることとする。もっとも、もう少し行けば、立石越えの山道となり、自転車では無理な道となるのであるから、何処で引き返すかの違いはあれ、引き返す他はないのである。下りは一気だ。大阪平野の眺望を楽しみながらの一気の下りは、爽快。 今日の銀輪散歩も何と言ってテーマもありませんので、「師走の空」ということにしてみました。 (師走の空・服部川八幡神社境内<大阪府八尾市>) <参考>服部川八幡神社関連記事 2008.05.11.桐の花散りにけるかな(同上)ほつ枝吹く 風にも冬の 影あらむ 晴れたる空に 雲の惑へる (偐家持)旬日に 年も極(は)つれば 今更に あれやこれやの ことの思はる (偐家持)(師走の空・心合寺山古墳にて) すっかり葉を落とした木々のほつ枝を風が吹き渡って行きます。 晴れたる空の明るさも、冬のそれにて何やらもの寂しさが漂う。 もう10日余りで、今年も終ると思えば、何事もなさず今年も空しく暮れて行くのであるかという気分になりますが、そんなことを思わせるのも亦「師走の空」というものであるのでしょう。(同上) 背後の山は生駒山系の山地。写真には入っていないが、画面の外、ずっと右に行くと高安山、信貴山である。高安山は天智天皇の時代の「高安の城」の、あの高安山である。「高安山に照る月を長瀬の川に映すとき・・」というのは小生の高校の校歌の一節であるが、思えば「高安山に照る月」を実際に見た記憶がない。勿論、長瀬川に映る月影も見た記憶がない(笑)。(心合寺山古墳) 高安山の麓から少し北に戻って、東大阪市域に入る手前が樂音寺地区であるが、ここに5世紀前半の築造と見られる、全長約160メートルの巨大な前方後円墳がある。心合寺山(しおんじやま)古墳である。 誰の墓かは定かではないが、この地域を支配していた氏族の首長の墓だろうと言われている。何度となく銀輪散歩では立ち寄っているが、今回も此処で暫し休憩。 <参考>心合寺山古墳関連記事 2010.11.27.銀輪散歩・往生院から玉祖神社へ 2010.04.02.銀輪花遍路(その2) 2009.08.22.秋の気配 2008.05.11.桐の花散りにけるかな(同上) 堀端の遊歩道沿いに植えられているユキヤナギが美しく紅葉して、暮れかかる時にしありて風は寒くあれど、道の色ほの温かくもあるかな、であります(笑)。夕暮れて 今かと妹を 待つ道に なほしぞ赤く 雪柳燃ゆ (偐家持)(心合寺山古墳と雪柳のもみぢ葉)
2012.12.19
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本日は午後から銀輪散歩。 花園中央公園・花園ラグビー場から吉田春日神社に立ち寄り、花園駅前で近鉄奈良線を南に渡り直進。玉串川沿いを走り、山本駅前で近鉄大阪線を渡り、更に南へ、玉串川と長瀬川の分流点に出て、長瀬川沿いに走り、安堂駅前で大和川べりの柏原市役所に到着。そこでひと息入れてから帰途に。帰途は恩智川沿いのいつもの道を走る。 途中から雨がパラつき出す。 雨宿りを兼ねて、喫茶nanaで珈琲ブレイク。 日暮れ前に帰宅。帰宅すると偐山頭火氏から封書が届いていて開封すると、「NHK大阪放送局/アトリウムイベント」の「あなたの"えぇトコ"in大阪」アトリウム写真展のページを打ち出したペーパーが同封されていました。 同氏の写真がこの写真展で入選(ご本人は「入選」というようなものではない、と仰っていますが)したらしく、「偐山頭火」の名と共に同氏撮影の「あべのハルカスと四天王寺五重塔の写真」が掲載されていました。今月28日まで、NHK大阪放送局のアトリウムで展示されているとのこと。 入選おめでとうございます。 この場をお借りしてお祝い申し上げます(笑)。(偐山頭火氏の写真・NHK大阪放送局ホームページより転載) さて、本日、立ち寄った吉田春日神社であるが、先日のNHKの番組でラグビー神社として紹介されていたので、立ち寄ってみたものでありますれば、これも亦NHK絡みなのであります(笑)。(吉田春日神社) 東大阪市の花園と言えば花園ラグビー場である。間もなく全国高校ラグビーフットボール大会が、ここで繰り広げられるが、高校生ラガーマン達の憧れの地でもある。 この吉田春日神社は、その花園ラグビー場の西数百メートルの処にあり、大きな木製のラグビーボールが奉納されていて、別名「ラグビー神社」と言うのだそうな。 この神社の近くはしょっちゅう自転車で走っているのであるが、周辺は入り組んだ路地になっていて、メインの通りからは外れているので、NHKの番組を見るまで、小生はこの神社の存在に全く気付かないで来ました。(同上)(同上。拝殿の左側に見えているのが木のラグビーボール)(木製の巨大ラグビーボール)(同上) 神社本殿は市の指定有形文化財になっているそうですが、由緒などは下の説明板の写真から読み取って下さいませ。写真をクリックすると拡大写真に移行することが出来ます。(吉田春日神社の由緒) 神社を出て路地を適当に曲がってジグザグに走っているうちに、花園駅前に出た。玉串川沿いに山本駅方面まで走ってみるかと、当てもない気儘銀輪散歩なれば、気の向くまま、風まかせ、道まかせであります。 で、山本駅も通り過ぎ、玉串川の終点、長瀬川との分流点まで来てしまいました。(玉串川と長瀬川の分流点。右が玉串川へと流れて行く。) 長瀬川。写真の奥方向へと長瀬川沿いに走ると、我が母校の八尾高校の前を通って、長瀬駅(近鉄大阪線)、そして小阪駅(近鉄奈良線)へと至るのであるが、今日は、反対の上流方向へと走る。大和川に出て終点となる。 途中から雨がパラつき始める。柏原市役所前で暫し休憩も兼ねて雨宿り。しかし、大した降りでもないので、帰途に。安堂駅前を通って、今度は恩智川沿いを走る。こちらの方が銀輪散歩としては走り良い。 少し雨が強くなって来たのと、珈琲が飲みたい気分でもあったので、いつもの喫茶店nanaに立ち寄って、暫し雨宿り。 時間はと見ると4時過ぎ。雨も小止みになったので、店を出る。自転車(MTB)に乗って走り出そうとすると、店の人の声が後から・・ザックを置き忘れていたようで、店の方が追っかけて持って来て下さったのであった。(長門橋)(恩智川の遊歩道) ということで、暗くなる前には自宅に到着。 新潟のブロ友・ふぁみり~キャンパーさん風に言えば、本日はラグビー神社など近隣散歩のお話でした(笑)。
2012.12.17
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本日(29日)は、日本経済新聞社主催の「第9回文楽の夕べ」に行って参りました。小生は文楽についてはそれ程「好き」というのでもないが、友人の偐山頭火氏は文楽がお好きなよう。今回も同氏が申し込んで居られたようですが、急なご都合で行けなくなったので、宜しければと「参加証」を当方に回して下さったもの。 ということで、偐家持が偐山頭火になりすましての参加でありました。ニセがニセのニセになった訳で何ともややこしいことでありますな(笑)。まあ、今日の演目もそうであるが、文楽の出し物には、別の人物になりすましていて、実は私は・・というのが多いようですから、こういう参加もいいでしょう。因みにその正体を明らかにする場面が一つの見せ場というか山場になっているのですが、大夫はその語りで人物の違いを出さなければならない。それは「声を変える」のではなく、「息を変える」ことによって、語り分けるのだそうな。 文楽については、大阪市長が補助金を出さない云々で物議を醸しましたが、日本経済新聞社は大阪の伝統芸能・文楽を広く一般の方に親しんで貰おうとこのような催しを毎年続けて来られて、今年で9回目になるのですな。 下のプログラムにも記載の通り、対談と来春公演の「義経千本桜・すしやの段」と「ひらかな盛衰記・松右衛門内の段」の「さわり」の部分のミニ公演の二部仕立てになっていて、文楽初心者にも親しみ易い構成になっている。(プログラム) 演じられるのは、まさに「さわり」の部分にて、映画の予告編ではないが、もう少し、という処で幕が下りてしまう、些かもの足りないものであるが、これは「来春の国立文楽劇場へお運び下さい」と言うことでもあり、最後に出演者の座談会も盛り込まれてあるとなれば、致し方のないことでありますな。 なお、参考までに本日の出演者竹本文字久大夫のブログを下記にご紹介して置きます。 <参考>文楽、竹本文字久大夫の気ままな絵日記(プログラム裏面の解説) 会場は、中之島中央公会堂。午後6時開演で、5時半から受付開始。小生が公会堂の前に着いたのは5時10分になるかならない位であったかと思うが、既に多くの人が並んで居られました(下掲写真)。小生は並ぶのが嫌いなので、中之島の夕景などを写真に撮ったり、珈琲を呑んだりしながら、離れた場所で時間を過ごすこととしました。(公会堂の前には受付開始を待つ人の列が長く延びて・・。) 5時45分。受付が始まり、建物前の人影が全て建物内に消えたのを見計らって、小生も公会堂の方へと向かいました。 入場するとホールは既に人で一杯。後方の席に陣取りました。開演中は撮影禁止なので、開演前の場内風景を2枚撮影しました。(開演前場内風景)(同上) 会場に入る前の時間潰しで撮影した、中之島公園の写真を付録で掲載して置きます。イルミネーションが美しく、また、川面に映るビルの灯りや水上バスの姿など、水都大阪らしい風景でもあるかと。(イルミネーション)(同上)(土佐堀川・奥の橋は淀屋橋)(カフェテリアのイルミネーション)(水上バスもやって来た。)(同上)
2012.11.29
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今日は朝から雨。黄葉・紅葉もいよいよ終盤でしょうか。 もみぢ葉を訪ねての銀輪散歩もあと暫くのことでしょうね。 さて、今日は、小生の銀輪散歩の起点基地でもある花園中央公園の「もみぢ」をご紹介して置きましょうか。写真は21日撮影のものです。 この公園は、銀輪散歩の折によく立ち寄ることもあり、またその一角の桜広場はこの処の若草読書会のお花見の場所となっていることなどもあって、当ブログには度々登場して居りますが、「もみぢ」を取り上げたことはなかったような気がするので、今日はその「もみぢ」に焦点を当ててみました。(桜広場の紅葉) では、暫し、花園公園の紅葉をお楽しみ下さいませ。(同上) 毎年のように「もみぢ」の写真を掲載し、「もみぢ」の歌も何首作ったか知れないのですが、今日は「歌」どうしましょうかね(笑)。 その年のもみぢはその年限りのものにてあれば、一期一会なのでありますが、試みにざっと遡ってみたら、「もみぢ」に関連する記事は実に沢山ありました。<参考>「もみぢ」関連の過去の記事(抄) もみぢ 2008.11.6. 談山神社 2008.11.24. 大阪城、大川端のもみぢ 2008.11.25. 夕照散歩 2008.11.27. みたび竹田城址へ 2008.12.6. 明日香小旅行下見 2009.11.24. 囲碁と銀輪散歩(大阪城公園) 2009.12.9. 天野川銀輪散歩 2010.11.25. 銀輪と囲碁と黄葉と 2010.12.1. 近隣紅葉銀輪散歩 2010.12.5. 墓参・もみぢ散歩 2011.12.3. 銀輪もみぢ散歩 2011.12.5. 写真をクリックして拡大画面でご覧戴くと、 「もみぢ」の世界が一層広がります。 もみぢは日に透かして見ると美しさが増す。 目の中まですっかりもみぢ色に染まって・・・。 カメラ目線を低くして見ると、 そこにも、もう一つの「もみぢ」が・・。 落ち葉も亦「もみぢ」なりせば・・。サクサクと もみぢ葉踏みつ 行くわれに やがて夕陽は やさしく笑みぬ (偐家持) 蟻や蛙や鼠は、そして野良猫たちも、こんな風に、 花園の夕陽を眺めている、のでもあるか(笑)。
2012.11.23
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わが町、東大阪市の市庁舎は地下鉄中央線の荒本駅前にある。 囲碁例会などで自宅から梅田や中之島方面にMTBで走る時は概ね中央大通りを走るので、必ずと言って、この市庁舎の前を通る。 もう数え切れない位に、この前を通っているのだが、市庁舎の中に入ったことがない。今日は、大阪市内の本町近辺に所用があってMTBで出掛けたついでに、ちょっと休憩、を兼ねてこの市庁舎に立ち寄ってみた。最上階の22階が展望ルームになっていて、一般の者も見学できるそうなので、そこに上ってみるのが目的。 東側と西側が眺望のきく大きな窓になっているので、遠くまで見通せる。東側は生駒山の山並が見渡せ、西側は大阪市内が一望できる。(東側の眺め。) けん家持の自宅は後方の生駒山の山麓、写真の右側奥の山裾のやや高みにある。そこから、写真中央の高速道路の下の国道308号線(中央大通り)を走り、下の写真の右奥の方の高層ビル街へと走っていることになります。(西側の眺め) 上の写真の奥左側にひと際高いビルの影が見えますが、これは現在工事中の「阿倍野ハルカス」です。横浜のランドマークタワービルを抜いて日本一のノッポビルになった超高層ビルです。こうして眺めるとその高さが抜きん出ていることがよく分ります。 ハルカスをアップで撮影したのが下の写真。遥かに霞むハルカスということで、語呂も合っていますから、これ位遠くから眺めるのが正しいハルカスの眺め方であるのです(笑)。見はるかす あべのハルカス 高々に 日の本一の 高きビルこれ (偐高持)(阿倍野ハルカス遠望) <参考>あべのハルカス これらの写真に写っている範囲は、小生の「近隣散歩」の範囲ということになります。これに、北側、南側の写真も加えれば、「近隣散歩」の「近隣」を全てカバーすることになるのですが、北と南の写真は撮り忘れていました。
2012.09.13
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本日は囲碁例会の日。少し早めに家を出て、淀川を渡り、阪神電車姫島駅の近くにある姫島神社に立ち寄ることにしました。自宅を9時5分頃に出発しましたので、姫島神社到着が10時45分、ということで、1時間40分掛かったことになる。その前に、囲碁例会の事を書いてしまいます。 本日の出席者は青◎氏、竹◎氏、村◎氏、荒◎氏、平◎氏と小生の6名。最初に青◎氏と2局続けて打ち、連勝。次に平◎氏と打ち、中押し勝ち、3戦3勝でした。 さて、姫島への銀輪散歩。国道2号線で淀川を渡り、野里交差点で左折、姫島通りを姫島駅へと走る。(淀川小橋)(淀川大橋)(淀川大橋から淀川上流を望む。)(姫島駅) 姫島駅を撮影していたら、駅から出て来られたご婦人と鉢合わせ。通行の邪魔になるので、自転車を脇に寄せると、「有難う」と仰って、小生を見て、「わ~よく焼けてますね。こんなに日焼けした人を見るのは久し振りです。」と笑って居られました。小生も笑うほかない。 姫島駅から300mほど西の姫島交差点を右折、200mほどで姫島神社である。姫島交差点の遍満寺という寺の前に「大和田街道」の碑があった。(大和田街道の碑) この道は大和田街道と言うらしい。(姫島神社) 神社の由来は下の由緒書をご参照下さい。(写真をクリックして拡大画面でお読み下さい。)(拝殿) 姫島神社の祭神、阿迦留比売(赤留比売)の話は、今年2月8日の記事の比賣許曾神社の祭神「下照比売」のと同じですな。 <参考>囲碁例会・比賣許曾神社 2012.2.8.(同上)(本殿)(万葉歌碑)妹が名は 千代に流れむ 姫島の 小松が末(うれ)に 苔生(む)すまでに (河辺宮人(かはべのみやひと) 万葉集巻2-228) (注)姫島については、淀川河口にあった島とのことであるが、 此処西淀川区姫島説のほか、浪速区敷津西説、東淀川 区南江口説、同北江口説などがある。 歌碑の歌は、上の通りであるが、万葉集には、和銅4年に河辺宮人(経歴不明)が姫島の松原で、娘子の屍を見て悲しみ嘆いて作った歌と題詞にあり、この歌の次に、もう1首掲載されている。難波潟 潮干(しほひ)なありそね 沈みにし 妹が姿を 見まく苦しも (同上 万葉集巻2-229) 隣の姫島公園で暫く休憩の後、梅田へと取って返す。(淀川大橋から下流を望む。) シンフォニーホールの木陰で休憩。(シンフォニーホール)(同上) 11時半にアポロカフェ到着。昼食後、スカイビルの囲碁会場へ。 囲碁終了後の帰り道は、花園中央公園に立ち寄りました。萩の花が咲き始めていました。(花園公園の萩)
2012.09.05
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この処、色々と用向きがあって銀輪散歩もままならず、近隣を形ばかり走るのみというのが続いています。 それにしても暑くなりました。少し走っただけでもう汗、汗、汗であります。「遊びをせんとや生まれけん」ならぬ「汗をかかんとや走りけん」であります。 ここ数日のお天気はよく晴れて、まるで梅雨が明けたような感じでありましたが、梅雨前線が南に下がっていただけの一時的な現象にて、明日からは前線がまた北上して来て近畿は大雨になるとか。 まあ、そんなことで何と言って記事ネタもありませんので、花園中央公園と生駒山の写真などで、お茶を濁して置くことと致します。(花園中央公園から望む生駒山) 花園中央公園は小生の銀輪散歩の起点ともなる公園であり、全国高校ラグビーで有名な花園ラグビー場があるのだが、立派な野球場も出来ている。これらの写真は8日(日曜日)撮影の写真で、リトル・リーグか何か存じませぬが子供たちが野球の試合をしていました。公式の試合と見えて、打席に入る選手の名を呼び上げるアナウンス嬢の声もしていました。もうどう見ても梅雨明け、夏の景色であります。(花園中央公園の野球場) 次は9日(月曜日)の写真。外環状道路(国道170号線)の水走交差点の少し南側の空き地の木陰です。木陰が恋しくなる銀輪散歩であります。(外環状道路・水走交差点付近の空き地にて) 空き地には、夏の花、ムクゲが咲いていました。 木陰に立ち寄れど、蝉の声は未だせず。 蝉が鳴き出すと梅雨明け、というのが小生の診断方法でありますので、小生の診断にても、未だ梅雨は明けて居りませぬ。(ムクゲ) そして、次は、今日、10日午後5時43分撮影の写真です。恩智川沿いの道を北へ、大東市に入る手前にある、加納緑地から眺めた生駒山です。(緩衝緑地公園・加納緑地から望む生駒山) 写真の右端、林立するテレビ塔の右側、少し下がっている稜線の辺りが暗峠、直越えの道(国道308号線)である。 直越えの この道にして 押し照るや 難波の海と 名付けけらしも (万葉集巻6-977)と、神社忌寸老麻呂(かむこそのいみきおゆまろ)が詠った道である。 神武天皇東征の折に、此の辺り(草香津、盾津)から上陸し、この生駒山を越えて大和へ入ろうとするのであるが、長髄彦の抵抗に遭って果たせず、遠回りして熊野から大和へ入ることとなる。無念の思いで神武天皇が眺めたであろう山の姿がこれであるのですな。この山中の何処かで両陣営の闘いが繰り広げられたということである。 神武さんはこの山を越えては大和には入れなんだが、万葉時代には、遣新羅使の秦間満(はたのはしまろ)君は大和の妻か恋人の許に、この山越えの道を通って逢いに行って居りますな。 そして、芭蕉さんは菊の節句の日に暗峠を越えて大和から難波に入りますが、そのまま、難波で病床につき「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」ということになってしまうのでありますな。NHK大河ドラマ「平清盛」では木曽義仲が登場する処までやるのかどうか存じませんが、芭蕉さんは木曽義仲のファンであったらしく、墓は義仲の菩提寺である大津市の義仲寺に葬ってくれと遺言して亡くなり、その遺言通り、弟子たちによって、義仲の墓の隣に芭蕉の墓も造られたようです。 <参考>義仲寺を訪ねる 2008.2.27. まあ、そんなことに思いを致しながら、眺めてみると、見なれた山の姿も亦なかなかに趣深いものに見えて参ります。 <追記:2022年1月13日>上掲写真「ムクゲ」が横倒し・タテヨコ比率逆転になっていたのでこれを復元修正。
2012.07.10
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本日は昼過ぎから雷鳴が轟いたり、激しく雨が降ったりと、天気予報通り、不安定な空模様。それを予測した訳ではありませぬが、銀輪散歩は朝のうちで切り上げ。正解であったようで、帰宅して直ぐに雷雨となりました。 ということで、本日は石切神社上之宮の紹介です。字数節約のため、詳しい説明は、下記のリンク先参照とさせて戴きます。 <参照:石切劔箭神社上之宮> <参照:石切神社上之宮> (石切神社上之宮)(同上)(同上)(同上・拝殿) 上之社も本社(下之社)と同じく、祭神は饒速日尊<ニギハヤヒ>と可美真手命<ウマシマデ>である。 <参照:石切神社 2008.6.30.>(八代龍王社)(婦道神社) 祭神は、夫、ヤマトタケルのために海に身を投げた弟橘姫。これを婦道の鏡とするのは今時無理筋と言うべきでありましょうな。(登美霊社) 祭神は三炊屋媛命<ミカシキヤヒメ>。三炊屋媛は長髄彦の妹でニギハヤヒの妻となりウマシマデを産む。古事記では登美夜須毘売とあるから「登美霊社」という名はそちらからのものですな。(御滝入口) 上之社の鳥居前に「石切夢観音堂」という怪しげなと言うか、悪趣味と言うか、妙な建物がある。これも石切神社が建立したものらしいが、開いているのを見たことがない。 <参照:石切夢観音堂>(茶室) 観音堂の裏には茶室もある。石切神社とは何でもありの神社ですな。(石切夢観音堂) 上之宮社から少し北に行くと近鉄の廃線跡がある。(旧孔舎衛坂駅) ここの写真は以前にも掲載したことがあったかと。廃線跡にある自転車は小生の愛車のMTBであります。<参考:銀輪花遍路 2010.3.31.>(旧生駒トンネル跡)(同駅ホーム) (くさか滝道の碑)
2012.05.29
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本日は月例の墓参。 墓参の後は山添いの道を散策して、枚岡梅林・枚岡神社・枚岡公園と桜の花を求めての桜散歩、花逍遥でありました。 帰途は久し振りの散髪。伸び過ぎた髪を切ってサッパリとした頭になりました。もっとも中味の方は以前からサッパリですが(笑)。 <写真はクリックすると拡大サイズの写真になります。>(枚岡梅林の柳と桜)(同上) 桜のピンクと柳の緑が美しいコントラストを演出してなかなかいい。 万葉集に桜と柳両方を詠んだ歌はないかと探したが見当たらない。梅との共演では次の歌がある。青柳(あをやなぎ) 梅との花を 折りかざし 飲みての後は 散りぬともよし (笠沙弥 万葉集巻5-821) 仕方がないから、桜と柳の共演は偐家持のセルフサービスです。青柳(あをやぎ)の 糸が戯(たはむ)る 桜花 散らぬ間(ま)にこそ 見せむ妹がも (偐家持 偐万葉集) セルフサービスで「偐(にせ)」の悲しさ、所収の歌集がない。そこで「偐万葉集」ということになりました(笑)。 ついでに、「柳」の万葉歌も掲載して置きます。こちらは、ご本家の家持さんの歌であります。春の日に 張れる柳を 取り持ちて 見れば都の 大路(おほぢ)思ほゆ (大伴家持 万葉集巻19-4142) ところで、ヤナギは楊と柳があるが、枝垂れている糸柳が「柳」で、「楊」はネコヤナギのことになりますな。楊は猫、柳は蛙。この意味は分る人だけが分れば宜しい。(枚岡梅林の桜) 万葉では「花」と言えば「萩」と「梅」で、桜の歌はこの二つの花の歌数には遠く及ばない。古今集の時代になってからですかな、桜は。もっとも、古今集の桜の歌数を数えたことはないので、何ともいい加減な話ではある。絶等寸(たゆらき)の 山の峯(を)の上(へ)の 桜花 咲かむ春べは 君し思(しの)はむ (播磨娘子(はりまのをとめ) 万葉集巻9-1776) (注)絶等寸の山=姫路城のある姫山説と南部の手柄山説とがある。 <関連記事>2007.8.17.「カンナ燃ゆ」見渡せば 春日の野辺に 霞立ち 咲きにほへるは 桜花かも (万葉集巻10-1872) 今や桜を代表するソメイヨシノであるが、これは江戸時代にオオシマザクラとエドヒガンの交配によって人工的に作られた「桜」であるから、万葉の頃や西行の頃の「桜」ではない。彼らが眺めた「桜」はヤマザクラであるから、まあ、吉野山の桜が、その景色に近いのでしょうな。(満開です。) 以下の山桜は、本日のものではなく、5日の銀輪散歩の折、深北緑地で撮影したものであります。5日の記事には、字数制限の関係で掲載できませんでしたので、此処に掲載して置きます。(山桜)(同上) 先程、偐山頭火氏よりメールが入り、昨日の記事で言及、ご紹介申し上げました「若草歌壇2012年春花園篇」が河内温泉大学図書館に収録され、一般公開に供されたとのことでありますので、お知らせして置きます。 河内温泉大学図書館にご入場の方はコチラからどうぞ。入場・閲覧共に無料です(笑)
2012.04.07
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東日本大震災から一年。 お亡くなりになった万余のみ魂に黙祷。水仙の 花は咲くとふ 海鳴りの 悲しきこの日 忘れまじとぞ (偐家持)悲しみは 絶えなくあれど 一年を 区切りと今日し それぞれの春 (偐家持) (第92回智麻呂絵画展より) さて、小生のブログの記事件数も昨日で1000件の節目を迎えたことは既に記しましたが、東日本大震災一周年のこの日のこの記事が、偶然にも1001件目ということで、また新たな歩みを始めることとなります。被災地復興への歩みも亦この日を機に新たな進展とスピードアップが図られますことを願って止みません。 そして、小生のブログもまた新しい一歩に相応しい記事をと思いましたが、追悼式ほか震災関連のTV番組などを見ているうちに午後3時も過ぎ、その後軽く銀輪散歩に出掛けたるも、既にして最初の一歩が出遅れ、これといった話題もなくあれば、昨日(10日)の銀輪近隣散歩を取り上げることと致します。 昨日の近隣散歩の立ち寄り先は、大東市の須波麻(すはま)神社でありました。 この神社の名を知ったのは先月27日の銀輪散歩で大東市平野屋にある坐摩神社を訪ねた際に、たまたま通りかかった古堤街道で、泉公園前にあった案内板に「大東市最古の神社」としてこの神社の名が記されていたことによります。帰宅して地図で調べてみると阪奈道路の下の小高い場所にそれはありました。 いづれ行ってみようと思って居りましたが、ブロ友・ビッグジョンさんの先日の記事で、ご紹介されていた道標の拓本に「古堤街道」という文字を目にし、この神社のことを思い出したという、まことに他愛も無い理由からの訪問でありました。 <参考>古堤(ふるづつみ)街道=「近隣散歩・大東市坐摩神社へ」2012.2.27. (須波麻神社・ヤカモチの愛車のMTBも写っています。) 鳥居の前、左の道標は、坂の下を南北に通っている東高野街道脇にあったものを、此処に移設したものとのこと。(鳥居の額)(由来書き・クリックして大きい画面にすると読みやすいかと思います。) 上の由来書きによると、この神社は出雲大社と同体で大国主命を祭神とし、延喜式・神名帳にその名が記載されている古社(即ち、式内社)であるということです。(拝殿)(拝殿前の灯篭) 写真一番奥の灯篭は大正時代の建立ですが、手前の二基には「延享二乙丑九月(きのとうしながつき)」の銘がありますので、1745年建立の古いものです。(延享二乙丑九月の銘)(春日造りの本殿)(拝殿から本殿への橋) 神社の前の坂を下って行くと道脇に、神社の名を刻んだ石碑が建っていました。(坂の下にある神社の石碑) 帰途は東高野街道、外環状線道路(国道170号線)、恩智川沿いの道などをジグザグに走りつつ、時には路地に入ったりしているうちに、石切神社の裏手に出た。神馬の厩舎と馬事苑のある場所である。 偶然に馬が外に出ていたので、写真を1枚。(石切神社の神馬) 馬は古来より神の乗り物として神聖視され神社に奉納されて来た。雨乞の祈りの場合は黒馬を奉納し、雨が止んで欲しい・晴れて欲しいという祈りの場合は白馬を奉納したとか。しかし、生きた馬を奉納するなどということは誰にでも出来ることではないし、神社側も余り多くの馬を奉納されても困るなど実際的な理由もあったのでしょう。木板に馬の絵を描いて奉納するということが考え出された。絵馬ですな。 埴輪も殉葬の代りとして考え出されたものであるから似ている。神像、仏像も神や仏という目に見えないものを形に表象したものであり、人間の「みなし」という脳の働き、認識作用に関係した産物であるのでしょうな。 貨幣というものを考え出せたのも同じ延長線上のものではないでしょうか。文字の発明も絵を書いたり物語を作ったり、またそれを見たり読んだりして楽しむというのも或いは皆同じシステム上のものかも知れません。 <参考>「石切神社」2008.6.30.
2012.03.11
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本日は墓参。その後、山沿いを散策、枚岡梅林、枚岡公園から石切へ。 石切駅前で昼食後帰途へ。、墓参と昼食の時間も含めて3時間程の散策でありました。 今回墓参で気が付いたことですが、我が家の先祖代々墓の裏手にある墓の一つが水走(みずはい)氏所縁の人物の墓であったということです。 外環状線道路と中央大通りが交差する処が水走交差点であり、地名としても今もその名は残っているのであるが、古代から中世にかけて河内国で活躍した氏族が水走氏である。河内国一之宮・枚岡神社を管掌した平岡連は天児屋根命を祖神とし中臣氏と同流の氏族であるが、水走氏は平岡連の末裔と考えられている。平安時代の藤原氏の隆盛に伴い、この地域では枚岡神社の勢力が強くなり、同神社を背景に水走氏がこの地方を支配することとなる。南北朝時代には南朝方の楠正成・正行の側につき敗れ、力を失いつつも生きながらえ、戦国時代には畠山氏の下につくが、畠山氏の没落と共に水走氏も没落する。 我が集落の一角にも水走氏の墓があるが、我が家の墓のすぐ近くにもその関係者か末裔の墓があったとは。何度も何度も墓参に来ていて、何回となくその墓の前も行き来していたのに、今まで見落としていたようです。まあ、ご近所とは言え、墓石の銘なんぞは普通は覗き込みませんので、自然に目に入る場合は別として、見落としていても何の不思議もなく、小生が不注意であったという訳ではないでしょう(笑)。 ただ、水走氏と言っても、墓石の建立は大正8年3月建立とありますので、末裔の末裔と言った処の人物でしょうな。「水走春忠大人墓」とあるのが。ちょっと一般人とは「違う」雰囲気と言えば言えますかな。 枚岡梅林の南東にも「水走氏屋敷跡」という標識があったように記憶しますから、小生のご先祖もひょっとするとこの水走氏の支配下にあったのかも知れません、何処かから流れて来たのでなければ(笑)。 <参考>水走氏 (水走氏の墓) うらうらの春日和にて、歩いていると暑くなって少し汗ばむ位。上着を脱いで丁度良い位の陽気でありましたが、枚岡梅林の梅は未だ咲き始めたばかり、本格的な観梅はあと数日してからがいいでしょうな。(枚岡梅林の梅)(同上) 枚岡神社を通り抜け、枚岡公園へと坂道を登る。姥ヶ池を過ぎ、椋ヶ根橋を渡り、暗峠へと続く国道308号線を横断すると枚岡公園である。入口西隣の民家が解体され、広い空き地となっていて、以前はその民家の入口付近にあったお地蔵さんが枚岡公園の進入路脇に引越していました。民家が無くなったので、視界を遮るものはなく、お地蔵さんの背後は大阪平野が一望である。 <参考>姥ヶ池などは「墓参と桜散歩 2011.4.2.」参照。 梅の万葉歌「枚岡梅林 2010.2.22.」参照。 偐家持の梅の歌「梅の花あれやこれやのおらが春 2009.2.5.」参照。(枚岡公園南入口前のお地蔵さん) まあ、何と言って、テーマもない記事となりましたが、散歩とは元よりそのようなものでありますれば、ご容赦のほどを(笑)。 では、どちら様もご免下さいませ。 <追記:2022年1月13日>上掲写真「水走氏の墓」が横倒し・タテヨコ比率逆転になっていたのでこれを復元修正。
2012.03.03
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最近は銀輪散歩も近隣ばかりにて足も少しなまって来たようです。 本日も午後から大東市の坐摩神社まで走っただけでありました。 先ず、枚岡梅林に立ち寄ってみましたが、梅がようやく一輪、二輪と咲き始めたばかりであり、見頃は未だ先のようです。枚岡神社へと続く道の傍らに椿の大木があり、見上げると白い花がいくつか咲いていました。ただ、咲いている場所が高くて見上げていると首が疲れるというもの。つらつらに 見つつと思へど 高々の 椿に首の 疲れもぞする (偐首持) (白梅・紅梅) (白椿) (注)写真をクリックして戴くと大きい画面に移行します。 枚岡梅林の高みから一気に下り、外環状線(国道170号線)を越えて恩智川沿いの定番コースに。恩智川に沿って北へ、加納緑地を過ぎると東大阪市から大東市に入る。JR学研都市線の手前で御供田地区で橋を渡り東に入る。古堤街道である。(古堤街道。大東市泉町公園前付近) 古堤( ふるづつみ)街道は、大阪・京橋から旧大和川や寝屋川の堤防上を東へ進み、奈良へと至る道である。 享保21年刊行の「五畿内志」には「中垣内(なかがいと)越」、「古堤路」などと見えるが、明治以降は「古堤街道」と呼ばれるようになった。 写真は大東市泉町の泉公園前付近。この先1km余、中垣内地区で南北に通る東高野街道と交差する。背後に見えている山は生駒山である。 泉公園から300m程東に進んで左に入ると、坐摩神社がある。 思ったより小さな神社である。昨年12月14日の囲碁例会の折にこの付近を走って坐摩神社を探したのであるが、見付けられなかったのも無理ありませぬ。住宅街の一角にこぢんまりと鎮座ましませる神社でありました。鳥居には「坐摩大神宮」とあるのが微笑ましい。 <参考>2011年12月14日囲碁例会・鶴見緑地(坐摩神社 大東市平野屋1-9) 坐摩神社は大阪市内、本町にある(関連記事:2011年9月23日記事・2011年12月7日記事参照)が、この地の坐摩神社は大阪の坐摩神社の分霊を勧請して祀られたもの。 この地域は深野池という大きな池であったが江戸時代に大和川の付け替え工事に伴い、深野池が干拓され深野新田が誕生し、その開拓権を得た大坂の豪商、平野屋又右衛門が守り神として勧請したのがこの神社の始まりとのこと。 祭神は坐摩神5神のうちの2神、阿須波大神、波比岐大神。(本殿)<参考>坐摩神社(大東市) 神社の西側には平野屋会所の建物があったらしいが、2008年に解体されたそうで、今は住宅街になってしまっていて、跡形もなし、である。 坐摩神社の裏から北西に行くと空き地があって巨木が繁っていました。平野屋会所跡の名残でしょうか。 帰途は、野崎高校の前を通り、東高野街道を走る。石切神社参道前を通るので、左折して参道に入り、石切神社にもご挨拶して行くこととする。(石切神社、南門) <参考>2008年6月30日石切神社
2012.02.27
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本日は朝のうちに墓参。 墓への道にあるロウバイが咲き、甘い香がほのかに。(蝋梅) 梅の花は未だ固き蕾にて、道端の池には薄氷が張っていました。それでも蝋梅の花が朝日に咲き匂い、今日が立春であることを告げていました。梅の花 いまだ含(ふふ)めど 蝋梅は 咲きて匂へり 春立つらしも (偐家持)蝋梅の かほりほのかに 立つ春と われは墓参(ぼさん)の 朝の道ゆく (偐家持)(同上)立つ春も 半分なりて 薄氷(うすらひ)も 池の半分 朝寒の道 (偐家持) 墓前の花を取り替えようとすると、花茎の周囲が氷になっていました。日本海側は大雪とかで寒さも厳しいのでしょうが、大阪は寒いと言っても、この程度です。雪のカケラもありませぬ。空はご覧の通りの青空です。 午後からは、MTBで智麻呂邸を訪問。新作絵画を仕入れて参りましたので、近日中に第94回展を開催いたします。
2012.02.04
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パソコンの故障でブログ更新を休んでいましたが、本日午前中に修理が済み手元に帰って参りましたので、漸くブログに復帰です(笑)。 ちょっと古い話になりますが、パソコン故障中の1月15日に、我が地元の枚岡神社で蹴鞠の奉納がありましたので、それをご紹介して復帰のご挨拶とさせて戴きます。 蹴鞠は奈良県桜井市の談山神社のそれが有名ですが、飛鳥寺の庭での蹴鞠で中大兄皇子の沓が脱げたのを中臣鎌足が拾って差し出したことで二人が近付きとなり、大化改新への伏線となるという話なども思い出される方も多いことでしょう。。 いつの頃よりか枚岡神社でもこれが奉納されるようになりましたが、今回奉納される蹴鞠は京都府の蹴鞠保存会の皆さんによるもの。 蹴鞠の鞠は鹿皮で作られた白いボール。演者が、神主から梅の枝に挟まれた白い鞠を恭しく受け取り、鞠場の中央で、屈んで衣の下に隠したままで枝から外して鞠を取り出しキックオフとなる。 4人が蹴る役でその4人の間に外れた鞠を拾うアシスト役の4人が加わり、総勢8人で行れます。 相手が受け止め蹴り易いように蹴り出すのが大事で、いかに上手く長くパスが続くかを楽しむ、或いは神にそれを楽しんで戴くというもの。 神社の片隅には、童子森の母さん宅のぽぽちゃんによく似た猫がいましたが・・(笑)、蹴鞠には興味ないようにて・・ご覧の通りでありました。
2012.01.20
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風邪で蟄居のお正月でありましたが、久し振りに少し外を散歩してみました。初詣と言うのではありませぬが、枚岡神社付近を散策です。(枚岡神社本殿) 枚岡神社は河内国一之宮であり、小生の自宅にも近いので度々当ブログにも登場して居りますので、詳しくは省略しますが、春日大社と同じく天児屋根命、比売大神、武甕槌命、経津主命の4神を祀っている。元々は天児屋根命と比売大神を祀っていて、春日大社が出来た時に当神社からこの2神が春日大社に勧請されたもので、そのことから枚岡神社は「元春日」とも呼ばれる。武甕槌と経津主の2神が当神社に祀られるようになったのはその後のことで、この2神は春日大社から勧請されている。 普通、神社には鳥居の脇に狛犬が鎮座しているものであるが、当神社は鹿が鎮座しているのが特長である。(なで鹿<右>牡鹿)(なで鹿<左>牝鹿と仔鹿)(なで鹿のいわれ)※追記:本日(2020年8月29日)上掲の写真が横に倒れた形になっていることを発見し、正しい向きの写真に修整しました。先月にも過去記事の写真でこのようなことがありました。時間経過によってこのようなことが勝手に起こるなら困ったことですが、原因不明です。 上の謂れに記載の通り、鹿は鹿島神宮の祭神・武甕槌命に由来するものである。タケミカヅチとフツヌシは出雲に出向き強談判の末、オオクニヌシに国譲りを承諾させることに成功するという役回りで登場する神であるが、春日大社の社伝では、鹿島神宮から春日大社へ勧請した際、タケミカヅチは白鹿に乗ってやって来られたそうな。それで、奈良では鹿を神の使いとして大事にしているのであるが、「なで鹿」もそれと同様のものでありますな。 なで鹿の居る前は広場になっていて、鞠場になっている。蹴鞠をする場所でありますな。秋の祭では近郷の集落から繰り出した太鼓台がここに立ち並ぶのでもあります。(鞠場の石碑)(鞠場) 元々の枚岡の神は天児屋根命である。現在の社殿の裏に聳える山、神津嶽の頂上に、アメノコヤネノミコトを祀ったのが枚岡神社の始まりである。その神津嶽を望むようにして、社殿の南側に遥拝所があり、若宮社がある。春日大社と同じ構造である。 このアメノコヤネノミコトは、天照大神が天岩戸に隠れた際に、岩戸の前でフトタマノミコトと共に祝詞を唱えたこと、アマテラスが岩戸を少し開いたのをとらえてタヂカラヲノミコトがアマテラスを岩戸から引き出した時に、素早く注連縄(端出之縄・シリクメナハ)を張って引き返せないようにしたこと、天孫降臨のニニギノミコトにつき従って地上に下り、中臣氏の祖となったこと、などが日本書紀に見える神である。(遥拝所)(若宮社) 若宮社から更に南に進むと、枚岡梅林へと続く巽橋の手前に末社の天神地祇社がある。 これは、近郷の多くの神社を当神社に合祀したもので、神社は一町村につき一社に限るとした、1906年明治政府発布の神社合祀令に基づくものでしょうな。明治期に合祀された神社として次の神社が列記されている。額田村・・・・額田明神社・若宮八幡社・恵比寿社・山神社・高城社豊浦村・・・・春日神社・東山神社出雲井村・・・八坂神社五条村・・・・八幡社客坊村・・・・市杵島姫神社四条村・・・・春日神社松原村・・・・春日神社・八幡社 また、境内地各所に鎮座していた次の19末社も合祀したとある。椿本社、一言主社、青賢木社、坂本社、太刀辛雄社、須箋鳴命社、勝手社、八王子社、地主社、戸隠社、笠社、大山彦宮、住吉社、門守社、飛来天神、角振社、岩本社、官社殿社、佐気奈邊社(天神地祇社) <参考>枚岡神社関連記事 枚岡神社秋郷祭2009 2009.10.16. 枚岡神社秋郷祭 2008.10.14. 枚岡神社 2008.7.12. 墓参と桜散歩 2011.4.2. 初詣2011 2011.1.3. 贈呈図書 2009.8.16.(枚岡神社・一の鳥居)
2012.01.06
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前回は墓参のあとのもみぢ散歩をご紹介いたしましたが、本日は銀輪もみぢ散歩であります。 小生がひそかに「もみぢ名所」としている近所の裏山の紅葉スポットである。いつもここは紅葉を独り占めできる場所なのであるが、説明は不要。写真でその美しさをご覧いただくのが一番でしょう。(もみぢ1)今日をかも 生かされてあり もみぢ葉の 散らずありけり 日に照るも見む (偐家持)さくさくと 落ち葉踏みつつ 行くごとに 心澄みゆく もみぢなりけり (偐家持) (もみぢ2) (もみぢ3)(もみぢ4) (もみぢ5) (もみぢ6)(もみぢ7) (もみぢ8) (もみぢ9)(もみぢ10) (もみぢ11) (もみぢ12)(もみぢ13) (もみぢ14) (もみぢ15)(もみぢ16)(もみぢ17)(もみぢ18) 上の「もみぢスポット」は細い山道を登って行かなくてはならない。下の写真(左・中)のような道なので、自転車は押して登るしかないのである。それだけに訪れる人もまずなくて、ゆっくり好きなだけ紅葉が楽しめます。 (注)もみぢは、「もみじ」と表記するのが今の仮名使いであるが、 敢えて旧仮名使いの「もみぢ」と表記しています。 愛車MTBも撮って置きました。マウンテン・バイクですから、こういう山道こそが似合いというものであろう。 足元に目をやると、そこにも落葉したもみぢが一面に。もみぢ葉を 踏めるかそけき 音のして ここだ騒げる 百鳥(ももどり)の声 (偐家持) 此処には、楠正行と楠正時の碑が建っている。 以前にもご紹介しておりますが。(2008年12月15日記事参照) もみぢと対峙するように、山茶花も咲いていました。 そして、ここだも騒ぐ鳥の声かも、でありました。楚(しもと)踏む み山の奥の 山茶花の 咲ける静寂(しじま)に もみぢ葉散れる (偐家持)(大阪平野を望む。) 場所は高みにあるので、木々の間から大阪平野が一望であるが、今日は霞がかって淡路島などは見えない。(檪も黄葉して、日に輝く。) (極楽寺付近の銀杏) (市立郷土博物館の銀杏) <追記・注>縦長写真が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月26日これらを復元修正しました。
2011.12.05
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本日は墓参。 墓参の後は山の辺、裾廻の道をもみぢ散歩。行く秋を暫し楽しむことといたしました。 では、出会ったもみぢなどをご紹介します。お付き合い下さいませ。思ひつつ 行けば薄日の 射しも来て 裾廻(すそみ)の道に もみぢ葉落(ふ)れる (偐家持)黄葉(もみぢば)の 照れる山道(やまぢ)を 尋(と)ひ行けど 直(ただ)には逢はじ 風の音(と)に聞く (偐家持) (柘榴)山芋の つるにしもある もみつ葉の 垂水(たるみ)となりて たぎちぞ流る (偐家持)柘榴また 黄金(くがね)の色に 葉は染むや 隠(こも)りてひとつ 実ものこりける (偐家持)(紅葉する山)(同上) 上の写真の左に見える公孫樹の木を、そば近くで撮ったのが、下の右側の写真です。 (公孫樹) 墓地は生駒山系の山裾の高みにあり、大阪平野が一望である。 遠く六甲山も淡路島も見える。(大阪の市街地一望。北西方向。六甲の山々が見える。)(同上。鶴見緑地方向)(同上。西方向。淡路島が見える。)(八幡神社の紅葉) これは、我が集落の八幡神社境内の紅葉です。 昔は、この神社の裏からも山に登る杣道があったのだが、今は楚に遮られて道らしきものも見えなくなっている。もみぢ葉の 匂ひ変らね 跡絶えて 杣道(そまみち)尋(と)へる 人もなくあり (偐家持)(同上) <追記・注>縦長写真が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月27日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.12.03
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昨日(16日)は友人N氏からご案内戴いた謡曲の会の「秋の会」が開催されるとのことで、谷町4丁目の山本能楽堂まで出掛けるべしで、自宅をMTBで出たのであるが、秋風に吹かれて走っているうちに気が変り、住吉公園までの銀輪散歩となりました。 高砂やこ乃浦舟に帆をあげて、こ乃浦舟に帆をあげて 月もろともに出汐の、波の淡路乃島影や遠く鳴尾の沖過ぎて はや住吉に着きにけり、はや住吉に着きにけりではありませぬが、コースは違えど、気がつけば「はや住吉大社に着きにけり」でありました(笑)。 谷町筋に出た処で北へ走れば山本能楽堂への道であったが、MTBは南へと走りました。ちょっと天王寺にある堀越神社に立ち寄ってから、能楽堂に向かおうというもの。(堀越神社)(同上)(本殿) 堀越神社は四天王寺の鎮守の一つ。祭神は崇峻天皇。神社の由緒書には、聖徳太子が叔父の崇峻天皇を偲び四天王寺創建と同時にこの神社を創建したとある。崇峻は蘇我馬子に暗殺されたようなものであるから、「偲び」と言うよりも、その祟りを怖れて「御霊」として祀ったものであろう。 堀越神社に立ち寄ったのは、此処の境内に熊野九十九王子社の第一王子社である「窪津王子社」が移設されているとのことで、坐摩神社行宮銀輪散歩の続きであります。 <参考>銀輪散歩・坐摩神社ほか (熊野第一王子之宮) (かえる石) 熊野第一王子之宮の傍らに、由緒は知らぬが「かえる石」がありました。たしかに蛙の形をしています。 堀越神社を出たら、「かえる石」ではないが、北へと帰り、能楽堂に向かわなくてはならないのに、何故かMTBは南へ。天王寺駅前を過ぎ、熊野街道をゆく。安倍晴明神社、阿倍王子神社、晴明丘公園の経塚、北畠公園、万代池、と気が付けば来月の万葉ウォークのコースに近いコースを走っていました。能楽堂行きは取り止め、気まま銀輪散歩に切り替えです。 (経塚) (裏面) 熊野街道に面した小さな公園(晴明丘公園)の一角に「経塚」と刻まれた石碑がありました。聖徳太子が一字一石経を埋めたとか、空海が写経を埋めたとか伝えられる経塚という墳丘が現在の北畠公園の北側にあったらしいが、その石碑が現在はここに移設され、塚そのものは消滅している。(北畠顕家像?) 北畠公園には北畠顕家墓と伝えられる大名塚があるが、その公園の一角にある小さな建物の窓から中を覗くと、正装の公達の姿が。顕家の像であろうか。 公園を出てMTBは万代池へ。更に、帝塚山4丁目駅の先で西に向かい粉浜駅前経由住吉大社駅前へ。 谷町や~その裏道に目をつけて、その裏道に目をつけて~ 銀輪もろとも駆け行けば 雲の生駒の山影や~遠くちぬの海見えずとも はや住吉に着きにけり、はや住吉に着きにけ~り~であります(笑)。(芭蕉句碑) 住吉公園東入口を入った処に芭蕉の句碑がある。 升買て分別かはる月見かな (芭蕉) 芭蕉は元禄7年9月9日故郷の伊賀上野から奈良を経て大阪に入り、13日には住吉の宝の市で名物の升を買っている。これはその翌日の句席での挨拶の発句。(住吉公園) <参考>住吉公園・Wikipedia 上の写真は公園の西入口。東西のこの道は浜から住吉大社へと至るメインストリートにて、高灯篭が国道26号線を挟んで高々と屹立しています。(高灯篭) 住吉大社を経て霰松原まで足を延ばして帰途に。 四天王寺まで帰って来て勝山通りを東に行くと、五條宮という神社がありました。祭神は敏達天皇とある。敏達は欽明天皇の子であり、推古天皇の夫でありますな。聖徳太子の父、用明天皇は推古の同母兄であり、敏達は用明と推古の異母兄である。従って、聖徳太子から見れば敏達は父方の伯父ということになります。 堀越神社の崇峻天皇は、聖徳太子の母、穴穂部間人皇后の弟であるから、母方の叔父ということになる。父方、母方の伯(叔)父が四天王寺に添うようにして鎮座して居られるのでありますな(笑)。(五條宮)(本殿) 帰宅途上、小阪近くまで帰って来た時に何やら鐘、太鼓の音がするので行ってみると、菱屋八幡神社のお祭りで、山車が神社の前から出発した処でありました。 NHK朝ドラの、岸和田の「だんじり」のような大型のものではないが、これも亦「だんじり」である。目の前を通り過ぎて行きました。 (菱屋八幡神社秋祭の山車)<関連記事>大阪市南部銀輪散歩(2)、(3)、(4) <追記・注>縦長写真(全7枚)が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月28日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.10.17
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昨日(3日)は、八尾空港まで銀輪散歩して参りました。 午後1時過ぎにMTBで自宅を出発。近鉄布施駅前のヒバリ屋書店に立ち寄った後、其処から東へ戻り、長瀬川に出た処で川沿いに南へ走る。程なく樟徳館という建物が見えて来る。 材木商として財をなし現・樟陰学園を創立した森平蔵氏の旧邸宅であり、現在は寄贈されて同学園の所有となっている。「家政学実習館」という表札が掛っている。(樟徳館・帝国キネマ長瀬撮影所跡) ここにはかつて帝国キネマ長瀬撮影所があった。説明板の記載によると、「大正6年、市内御厨29番地に建設された小阪撮影所が手狭になったため、昭和5年11月”東洋のハリウッド”と称された長瀬撮影所が開設されました。(中略)敷地約30000平米に、3300平米のステージ2棟を含む近代的な撮影所で、(中略)この東洋一の撮影所も昭和5年9月30日、火災により全焼し、撮影所は京都の太秦に移転し、長瀬撮影所は再建されませんでした。」とのこと。(昭和4年刊行の雑誌「帝キネ映画」) 長瀬川沿いを走っているうちに、突如、八尾空港まで走ろう、という考えが浮かぶ。散歩でも何でも最終目的というか目標が決まると行動がし易くなる。近鉄大阪線長瀬駅前を過ぎ、長瀬川上流へと走る。(近鉄大阪線・長瀬駅) 長瀬駅を過ぎると川は蛇行し南から南東に向きを変えるので、時に方向感覚が狂うのであるが、これは生駒山を見やることによって修正されるのである。(金岡公園)(長瀬川沿いの道。左に長瀬川が流れている。金岡2丁目付近) やがて近畿自動車道の高架が見えて来る。中央環状線道路である。これを右折し、しばらく中央環状を走る。久宝寺緑地を過ぎるとJR関西本線の跨線橋になる。MTBを担いで道路脇階段を上る。我がMTBの重量は10~11kg程度なので、こういうことも造作なく出来る。(久宝寺緑地北入口)(JR関西本線。跨線橋の上から。後方の山は生駒山脈) 久宝寺緑地から中央環状線を南へ4kmほど行くと大和川である。大和川に出る手前で左折し東に1.5kmほど行くと八尾空港A滑走路が見渡せる場所に出る。滑走路の長さは1.5km程度あるだろうか。空港の外周道路を西から東に走るだけでも2km位にはなるのだろうが、最後は行き止まり。 外周道路では、発着する飛行機を撮ろうと望遠レンズ装着のカメラを構えている男性二人組と出会いました。 小生のコンパクトデジカメでは下の写真程度しか撮れません。外周を走っている間に2機が離陸して行きましたが、シャッターチャンスは2回とも逃しました。(八尾空港A滑走路) <参考>八尾空港・Wikipedia(八尾空港、飛行機と格納庫。後方に生駒山山頂のTV塔が見える。) 八尾空港外周道路から一般道に出て東へ。国道170号線(外環状線道路)に出て左折。JR志紀駅の東側で道路はJR線を跨線橋で越えて行くのだが、少し先に線路の下を潜る道があった筈と線路沿いの道を東へ。 果たしてありました。この道は偐山頭火氏との銀輪行で走ったことがあるのでぼんやりと記憶に残っていたのですな。その後は、生駒山を見ながら東へ、北へと、方角だけを頼りに、適当に走る。一端、適当に走ってしまうと、頭の中の地図が消えてしまい、自分の位置が分らなくなる。生駒山の山並みを眺めてはおおよその自分の位置と進むべき方向を確認して行くしかない。(西村市郎右衛門顕彰碑) 志紀駅の近く、国道170号線跨線橋下に西村市郎右衛門顕彰碑があった。説明板に目を通すと、江戸時代に大和川の付け替え工事によって旧大和川流域であったこの地域の灌漑用水が不足することとなり、幕府に対し新大和川から井路川へ水を引くことを請願するがなかなか許可が下りない。そうしているうちに大干ばつがこの地を襲う。そこで、弓削村の庄屋であった彼は勝手に二つの樋を開いて農民を救う。しかし、その咎によって捕縛され大阪城中にて彼は客死、財産没収、一家断絶となる。以来、志紀、大正地区では旧盆には「功念仏踊り」を踊って彼の霊を慰めたという。(由義神社) 適当に住宅街の道を走っていると由義神社の前に出ました。道鏡さんが手招きしたのでもあるか。 道鏡はこの地の出身にて、ここ由義神社は、称徳天皇の時代に置かれた由義宮の跡地だと言われているが、道鏡の失脚と共に由義宮は廃され、歴史の彼方に。今日に至るもその正確な位置は確定しないのである。(同上・拝殿) <参考>由義神社 (狛犬。現在は後輩に道を譲り、引退して犬小屋に鎮座まします。)(近鉄大阪線・山本駅) やがて近鉄大阪線山本駅前に出る。ここで、再び頭の中の地図が登場。踏切を渡り、玉串川沿いに北へ。途中で神社らしき森が右手家並みの屋根越しに見えたので立ち寄ってみる。御野縣主神社とあった。 (御野縣主神社) 説明板によると、「古代の河内で三野縣を支配した豪族、三野縣主(みののあがたぬし)が祖神として斎き祀った神社である。」とある。祭神は角凝魂命(つぬこりむすびのみこと)、天湯川田奈命(あまのゆかわたなのみこと)の2神。三野縣は、現在の東大阪市松原、水走、吉田、花園、玉串から八尾市福万寺、上之島に及ぶ広大な地域。 天武天皇13年(685)に三野縣主は美努連(みぬのむらじ)という姓(かばね)を賜っている。藤原不比等の妻となる犬養橘三千代は、元は美努王の妻であり、美努王との間に生まれたのが橘諸兄であることなども思い出されましたが、美努王は三野氏によって養育された王であったのかも。 もう文字数制限一杯です。これにて終ります。 花園中央公園でしばし遊んだ後、帰宅すると6時近くになっていました。 <追記・注>縦長写真(狛犬及び御野縣主神社)が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月28日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.10.04
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<承前> 昨日の続きです。難波神社の祭神が仁徳天皇ということで、その連想から、難波神社を出た銀輪家持は高津宮を目指すこととしました。仁徳天皇は難波に都を置くが、それが高津宮である。 難波( なには)に都(みやこ)つくる。是(これ)を高津宮(たかつのみや)と謂(まう)す。 (日本書紀・仁徳天皇元年春正月の条) もっとも、高津宮の跡地がどこであるかは諸説あって定まらない。大阪城及びその周辺の何処かであるのだろうが、高津神社(高津宮)は大阪城築城に際して現在地に移転して来たものであるから、仁徳さんの高津宮趾と言う訳ではない。しかし、高津神社も仁徳さんを祭神とし、高津宮と称しているのであるから、固いことことは言わないヤカモチ的には高津宮は此処でいいということになるのである(笑)。 ということで御堂筋を南下するが心斎橋・道頓堀辺りまで来ると人が一杯である。道頓堀手前の宗右衛門町通りで左(東)に入り、心斎橋筋の人混みを抜けて、相合橋で道頓堀を渡り、道頓堀通りに出る。これを左(東)に行くと突き当りが高津宮・高津神社である。 高津神社に到着すると、大勢の人だかり。「ASIAN PUJA 2011 in 高津の宮」という催しがあったよう。東日本大震災支援のチャリティ・ライブのようでした。PUJAとはヒンディ語で「祈り」という意味だそうな。(高津神社境内)<参考>高津宮(Wikipedia) 高津宮(高津神社)(踊り子)(高津神社鳥居) 鳥居を出て、坂道を上ると「熊野街道」である。谷町筋の一つ西の道であるが、この道筋はお寺が立ち並ぶ「寺町」である。千日前通りに出る少し手前に常国寺という寺があり、その門前に「梶井基次郎墓所」という碑が建っていた。 梶井基次郎と言えば「檸檬」という小説のタイトルが思い浮かぶが、小生はこの作家の作品は一作も読んでいない。それでもこれも何かのご縁と境内に入って、その墓を探してみた。だが、見つからない。お墓参りをされていたご婦人に尋ねてみるも、彼女も「知らない。」と仰る。結局見つけられないままに退出と相成りました。(常国寺)<参考>梶井基次郎 (梶井基次郎墓所碑) (熊野街道道標) 常国寺を出て千日前通りに出ると、熊野街道の道標があった。最近に建てられたものだが、「大坂天満八軒家から2.9km」とある。天満の窪津王子跡地近くにあった碑(下掲)の辺りから熊野街道が始まり、ここまで約3kmということであるが、小生は坐摩神社に立ち寄るために御堂筋を回って来たので随分遠回りして、ここで熊野街道と再会という訳である。(天満京町3丁目の碑) 熊野街道はここから南へ生国魂神社、四天王寺の前を経て阿倍王子神社、住吉大社へと続くが、本日の銀輪散歩はそんなには走れない。上町筋を南に入った処で左折、清風高校の校舎を左に見て東に走り、帰途につく。 猪飼野の辺りだろうか、「ムグンファ」という店の看板が目に入る。ムグンファとは漢字で書けば「無窮花」、ハングルで書けば下の写真の通り。ムクゲの花のことである。(韓国料理店ムグンファ) ひたすら東へと走る。やがて地下鉄千日前線が走っている国道479号線に出る。地下鉄小路駅の前に来る。この道は昨年暮に走った道。その時に立ち寄った喫茶店が駅前にある。ここで珈琲休憩とする。店のママさんに「足の具合はどうですか?」と声を掛けると怪訝な表情。足は何ともない、と仰る。どうやら小生の思い違いであったようで、痛められたのは腰であったよう。「骨折したのは足ではなく腰ですわ。」と笑って居られました。帰宅して昨年12月30日の記事を確認すると、確かに腰の話でありました。 <参考:煤逃げ銀輪散歩> 喫茶店を出て国道を北に走ると直ぐに近鉄線のガード下に着く。潜って右折、東に走ると東大阪市に入り、布施駅前に出る。近鉄奈良線に沿って東へ走っていると左手に神社の鳥居が目に入ったので立ち寄ってみた。(鴨高田神社)(同上・説明碑)(同上・本堂) 神社の裏手(北側)に出ると道を挟んで長栄寺がある。その名はかねてより承知していたが、訪れるのは今回が初めてである。 <参考>長栄寺 長栄寺(長栄寺)(同上・本堂)(不動明王) カラフルな不動明王が夕日を背に屹立して居られました。 傍らには萩が咲きこぼれていました。 柿なけど 萩は咲くなり 長栄寺 (偐岡子規) 季語が柿と萩と二つも入ってはいけないのが俳句の決まり。まあ、偐子規でありますから、固いことは言わないのである。そう言えば、先刻立ち寄った高津神社の参道脇に、写真には撮りませなんだが、河東碧梧桐揮毫の碑が建っていましたですな。碧梧桐なら自由律俳句ですから季語があってもなくても、二つでも三つでもOKなんでしょう。(長栄寺境内の萩) 長栄寺を後にして、東へ、東へ。夕日も早や傾き、影が長く伸びている。この時刻は影持登場でありますな(笑)。帰宅は午後5時半。約4時間の「のんびり銀輪散歩」でありました。(偐影持登場) 影持と 暮れゆく銀輪 彼岸花 (筆蕪蕉) <追記・注>「梶井基次郎墓所碑」、「熊野街道道標」、「鴨高田神社説明碑」及び「不動明王」の写真が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月29日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.09.24
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本日は大阪市内を銀輪散歩して参りました。 取り敢えず目指したのは坐摩神社行宮。先日(9月7日)の囲碁例会の帰り道に立ち寄った八軒家浜の近くに熊野九十九王子の1番目の窪津王子があったとのことで、何かその痕跡でもあるかと期待したのですが、下調べもせず、その日の思い付きの行動であったため、空振りに終りました(関連記事「囲碁例会・八軒家浜」 )。で、ネットで調べると、大阪府立労働会館の東側にある坐摩神社行宮がその跡地であるとのこと。という次第で坐摩神社行宮を訪ねてみようというもの。ついでに本町にある坐摩神社も訪ねてみようということに致しました。 午後1時半頃にMTBで自宅を出発。中央大通りを西へと走る。右翼の街宣車が何台も列をなして軍歌を高らかに響かせる中をひたすら西へと走り、大阪城公園から天満橋に出て、土佐堀通りを西に行くと労働会館「Lおおさか」である。その東側の道を入ると、小さな祠があった。(坐摩神社行宮)(同上) 現在は坐摩神社行宮(御旅所)と称されているが、神功皇后がこの地に坐摩神を奉祀したのが始まりとされ、坐摩神社は元はこの地にあったとされている。豊臣秀吉の大坂築城に際して、現在の久太郎町4丁目に移転させられたのである。 本殿には門戸・玄関・窓の守り神、豊磐間戸(とよいはまど)神・奇磐間戸(くしいはまど)神の二神が祀られている。拝殿には神功皇后が休息したという鎮座石が今も残る、とあったが、何処に鎮座ましますのか、見当たらない。この石に因んで、この辺りは石町(こくまち)という地名になっているそうな。 平安期に熊野詣でが盛んになり熊野古道沿いに熊野王子社が数多く設けられるが、その一番目の窪津王子(渡辺王子ともいう。)社が此処に設けられたと言われている。(同上・奥に駐輪しているのは我が愛車のMTBです。)(同上・本殿) 坐摩神社の「坐摩」は普通に読めば「ザマ」であり、坐摩神社も通称はそう読まれているのであるが、正式の名は「坐摩」を「イカスリ」と読み「いかすりじんじゃ」と言うそうな。 行宮(あんぐう)を後にし更に西へ。御堂筋に出て南へ向かう。(御堂筋に出て南へ。平野町付近) 休日の御堂筋は閑散としている。梅田周辺や心斎橋・難波周辺は人人人であるが、淀屋橋から本町にかけてのオフィス街は人影がまばらで銀輪散歩も快適である。 中央大通りで西に入り、一つ目の辻を南に入ると直ぐに坐摩神社である。 (坐摩神社)<参考>坐摩神社公式ホームページ 坐摩神社の祭神は生井神(いくゐのかみ)、福井神(さくゐのかみ)、綱長井神(つながゐのかみ)、波比岐神(はひきのかみ)、阿須波神(あすはのかみ)の五神で、この五神を坐摩神(いかすりのかみ)と総称するとのこと。 「いかすり」の語源については諸説あるそうだが、土地又は居住地を守り給う意味の「居所知(いかしり)」が転訛したものという説が有力説であるようだ。(坐摩神社本殿)(同上) 坐摩神社は伊藤忠商事、南御堂の裏にある。南御堂の南側で御堂筋に出て南へ150m程行くと難波神社がある。仁徳天皇を祀る神社である。 第18代反正天皇が河内の国、丹比(現大阪府松原市)に遷都した際に、父帝・仁徳を祭神として創建したと伝えられる。(難波神社)(同上・本殿)(同上)(境内の大木) この木は、大阪空襲で焼け焦げて枯れる木が多くあった中で、ことなきを得て生き延びた木である。市内でも最古の木だそうで、保護樹木となっている。この木に触れると元気が貰えるということで、参拝の人が触って居られました。 かつては、当神社境内に人形浄瑠璃(文楽)の小屋があったそうな。 さて、仁徳天皇と言えば高津宮ですな。と言うことで、この後、高津宮へと向かいますが、もう深夜になりましたので、続きは明日とし、本日はここでひとまずお開きとさせていただきます。(つづく) <追記・注>坐摩神社行宮の3枚目の写真と難波神社境内の大木の写真とが横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月29日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.09.23
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昨日(24日)の銀輪散歩は、久し振りに山裾の道を走ってみました。自宅は生駒山西麓の斜面の中程にあるので、つい坂を下って恩智川沿いの道を走るということが多いのであるが、昨日は久しぶりに山裾を走ってみることにした。 山裾の道と言っても、恩智川の道のように一本道が続いている訳ではなく、家並みの間の路地などを潜り抜けたりしながら坂を上ったり下ったりして走ることとなる。 西向き急斜面にある田畑や集落は東西に主要道路があり、南北の移動は、随所でその東西道で切断される、路地まがいの道をジグザグに行くこととなり、効率が悪いのである。 急坂ではギアを下げに下げてペダルを軽くして上ることにし、加えて立ち漕ぎして上って行くのであるが、それでも息があがり、長い上りでは、途中で休まないと持たないのである。この処の小生は膝の故障があるので、膝への負担を極力小さくなるように加減して漕ぐので余計に疲れる。(分水樋) 坂を上って行くと、生駒山へのハイキングコースの一つともなっている、山の方から下って来る道が二俣に分れている地点に出た。 その地点で、上のようなものを見つけた。分水樋である。この地点で山から流れ落ちて来る川も二俣に分れるのであるが、水を等分に分かつための樋、分水樋である。坂下の水田への農業用水を昔からこのようにして分配して来たのですな。もっとも今は住宅が建て込み、水田もどんどん少なくなり、この分水樋のある高みの地点でも周囲は住宅が建ち並んでいる。 ここから南へ、右に大阪平野を遠望しつつ行くと二本松古墳というのがある。六万寺古墳群の一つである。生駒山西麓には、山畑古墳群(下記参考記事参照)、花草山古墳群、五里山古墳群など、6世紀後半から7世紀初頭にかけての古墳時代後期の群集墳があるが、此処の古墳群もその一つ。 <参考>煤逃げ墓参(2010.12.29.)(二本松古墳)(同上) 更に南へと走る。楠正成墓のある往生院を過ぎた辺りに神仏習合の権現寺・権現宮がある。(十二社権現寺) (堂之宮権現宮) 十二社権現寺、堂之宮権現宮の由来などは知らない。 この地の西方に梶無神社(下記参考記事参照)というのがある。この神社は、神武天皇創始と言われている神社。神武天皇は、東征の折、日下(草香)の浜から上陸し生駒山を越えて大和に入ろうとするが、この地のナガスネヒコ(長髄彦)の抵抗を受け、果たし得ず撤退。船で南へと下るが嵐に遭って梶をなくして、漂流の危機に瀕する。そこで祖神に加護を祈った処、嵐が収まり、海も凪いで、無事上陸することが出来た。そこでその地に祠を建て祖神を祀ることとした。それがこの梶無神社であるというのである。 その梶無神社の末社に別名「堂之宮」とも言う「十二社権現社」というものがあったとのことであるが、それがこの権現宮のことなのかどうか、その辺の関係は、何も取材せず、調査もしない銀輪散歩とあっては全く分らないままなのであります(笑)。 <参考>石切・額田・瓢箪山近隣散歩(下) (2010.5.4.)(同上)(同上) 関西中心の行事だと思うが、今は「地蔵盆」の時期であり、通り過ぎる村々の地蔵堂が祭提灯で飾られている。 子供の頃は、カボチャでハロウィンのそれみたいな提灯を作り、ワルサ仲間と暗がり探検をしたり、肝だめしをしたりしたものであるが、最近はそのようなことをする子供もいない。そもそも夜の暗がりが無くなってしまって、探検も肝だめしもあったものではないのだから、当然のことですな。<参考>地蔵盆(地蔵盆) 山辺の道にも飽きたので、一気に坂を駆け下ることとする。息喘がせて上って来た「貯金」を一気におろすようなもの、風も心地よく、忽ちにして下界の恩智川畔に到着であります。 帰宅するためには、再び坂道を駆け上らねばならないのであるが、「貯金」というものはおろし出すと止められないものにて、残高ゼロまで走り下りました(笑)。 ここまで下ると花園中央公園・花園ラグビー場に立ち寄らねばなるまい。 花園公園に向日葵の群れ咲いている一角がある。もう盛りを過ぎていて枯れかかっているのが多い中で未だ元気にしている花があったので、行く夏を惜しむ意味で写真に撮ってみました。(ヒマワリ)(同上)山麓の 道は上(のぼ)り道(ぢ) 七曲(ななまがり) 漕ぎてぞ吾(あ)が来(く) 風の音(と)恋ひつ (偐家持) <追記:2020.12.30.>上掲写真3点が横倒しになってしまっていることを発見、修正しました。
2011.08.25
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(承前) 昨日、千光寺山門前で終ってしまいました記事の続きです。 ネット検索すると千光寺という名の寺は北は北海道登別市から西は福岡県久留米市まで12ヶ寺もあるようですが、この千光寺は奈良県の平群にある寺にて、役小角(役行者)が660年頃にこの地に千手観音菩薩を安置して修行したのがその開基とされる寺である。この後に役行者は大峰山(山上)に入ったので、千光寺は「元山上」と呼ばれるようになったとのことであるが、山門に「元山上修験根本道場」とあるのが、それを示している。 <参考>千光寺ご案内(観音堂) 山門を入ると右手に千光寺が経営するユースホステルの建物がある。ユースホステルを経営しているお寺というのも珍しいのではないか。 正面の石段を登って行くと先ず観音堂がある。石段の両サイドには役行者の像がズラリ並んでいたが、これは写真に撮っていませんでした。(胃癪大師) 敷石の下には四国八十八ヶ所霊場の御砂が埋められてあるそうで、草鞋に履き替えてお参りすると、ご利益があるらしい。(納骨堂)(大師堂)(行者堂) 行者堂の中には役行者像、前鬼・後鬼像が安置されているそうですが、この日は固く扉が閉ざされていて、拝見叶いませんでした。(同上)(同上)(護摩木を焚く場所ですな。) 毎月18日、午前11時から月例護摩供祈願祭が行われているようだが、この場所で行われるのでしょうな。(弁天池) 弁天池。鳴川弁財天が祀られている。 この千光寺、真言宗別格本山とあるから、寺の格式はかなり高位にあるということであるのでしょうか。もっとも、大本山とか総本山とか別格本山とか宗派によって区々のようにて、小生にはその違いはよくは分りませぬ。(千光寺前の坂道) 千光寺境内を一通り回って山門前の広場で休憩していると、杖をついた可愛らしいおばあちゃんがやって来られました。ご挨拶すると満面の笑みにて、小生の前の縁台に腰掛けて、暫くお喋りをして行かれました。「おいくつですか?」とお聞きすると、「おばあちゃんです。」と仰るばかりで、年齢は仰いませんでした。やはり女性には年齢を聞いてはいけないのだ。 小生の自転車トレンクルに興味を持たれたようで、自転車についてのお話も楽しそうにされていました。「こう暑いと畑仕事も大変なんだけれど、なるべく歩くようにと出掛けて来るようにしている。」と、いくつになってもこういう気力が大切なんですな。上の写真はそのおばあちゃんが去って行かれる処を撮りました。 おばあちゃんもお帰りになったので、小生も帰途に。峠から下って来た道を再び登って行く。(千光寺前の川・檪原川)(山門の左のこの細い道を登って行くと鳴川峠への道となる。) この道の途中の高みから鳴川の里を見やるとなかなかいい風情である。(鳴川の民家) 竹藪を抜けると、「行場」という表示板があって、深い谷になっている。川沿いの山道を行く。昨日までの雨で川の水量は十分。川音もとどろに響く。この川は檪原川と言うらしいが、平群の方に流れて、竜田川に注いでいるのであろう。(鳴川峠への道)(同上)(同上)(鳴川峠を越え大阪府側へと下る道) 鳴川峠を越えて大阪府側に下ると、そこも渓谷になっていて、川が流れている。こちらは恩智川へと注いでいる。鳴川峠の辺りの何処かが分水嶺になっているのだろうが、それを見届けることは出来ませんでした。(水車小屋跡)(大阪府側の渓谷) 上の渓谷から少し下った辺りで漸く自転車で走れる道に出る。一気に走り下り、やがて民家のある舗装道路に出る。そこからは、下り坂ということもあり、自宅まではあっという間でありました。<参考>千光寺への道(2011.7.8.) 英坊2さんのブログ「芹谷山・千光寺(砺波市)」
2011.07.09
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本日(8日)は枚岡梅林→府民の森→信貴・生駒縦走遊歩道→鳴川峠→千光寺へと行ってまいりました。ブログ友の英坊2さんが富山県の千光寺をご紹介されていたので、我が地元の千光寺もご紹介しようかと思い付いたものであります。 地元と言っても生駒山系の鳴川峠を越えて奈良県側に2km程下った処にありますので、大阪府側のヤカモチが「地元」と言うのは「言い過ぎ」ではありますが(笑)。 険しい山道もあるので、トレンクルで出掛けることに。往復13kmほどの行程でしたが、予想通りその多くが自転車で走れる道ではなく、殆どの行程が、自転車を肩に担いだり、押して歩いたりしながらということになりましたので、変則銀輪散歩となりました。(枚岡梅林からの登山口) 府民の森へは色んなコースがあるが、自宅から一番近い枚岡梅林の登山口から登ることにする。道は写真のような山道。随所に階段もあって、早くも自転車は押して行くしかない。(枚岡展望台から大阪平野を望む。) はあはあ言いながら、汗だくになって、九十九道を登って来ると、枚岡展望台である。ここからの眺望も素晴らしい。先客が2人居られた。若い女性と年配の男性。男性(A)の方のベンチに腰を下ろし、水分補給も兼ねて暫し休憩。軽く会話を交わす。そうこうしている内に別の男性(B)がやって来られた。Bさんは直ぐに出発し、Aさんも出発。少し遅れて小生も出発。(腰掛石又は猫石) 上の石は展望台の少し上の高みに在る。かつて山歩きをよくした頃には、この石の上に腰掛けて休憩したので、小生が勝手に「腰掛石」と呼んでいる。また、何となく猫がうずくまっているようにも見えるので、「猫石」とも呼んだりしている。勿論、名もない石であるので、「猫石」は何処か、とハイカーに尋ねても無駄である。猫とヤカモチ以外は知らないのである。(枚岡神社創祠の地への入口) 猫石のある高みと向かい合うようにして、枚岡神社創祠の地、神津嶽山頂がある。登り口に碑が立っていて、これを登って行くと小さな祠がある。元々はここに枚岡神社があったのであるが、孝徳天皇の時代に麓の現在地に遷されたのである。 今日はパスして裾の道を迂回して行く。程なく「らくらく登山道」に出る。そこに休憩所があって、数人の男性が寝転がって居られる。その中の一人は下の展望台でお会いしたAさんであった。らくらく登山道を行っても府民の森へと行けるが、急登ながらもう一つのハイキングコースを登って行くこととする。らくらく登山道なら自転車に乗って登って行けるのであるが、自転車での走行が禁止されているので、ショートカットの急登の方を選択した。途中で先程のBさんを追い抜く。(府民の森) 府民の森に到着。園地の中はこのように舗装された道なので、自転車で走るのに丁度よいのであるが、禁止とあっては押して行くしかない。内緒の話ですが、実は少しだけ、乗って走りました(笑)。(同上) 下で買ったお茶が無くなったので、「森のレストハウス」でスポーツドリンクを購入して飲む。Tシャツが汗でぐっしょりとなったので、新しいのに着替える。そして煙草を一服。(森のレストハウス)(森のレストハウスのデッキからの眺望) デッキからは大阪府(右側)と奈良県(左側)の平野が同時に眺めることが出来るのである。 休憩している間にペットボトル1本を飲み干してしまったので、もう1本買って出発する。(ホタルブクロ) 道の辺にホタルブクロが咲いていました。 レストハウスを出て、「ぼくらの広場」の鉄塔を横目に右に行くと生駒縦走コースの道に入る。鳥たちの声が盛んにする。ホトトギスやウグイスの声もするが、多くは何と云う鳥の声か分らない。道は鳴川峠に向かって下りに入る。昨日までの雨でぬかるんでいる処もあり、すべらぬよう注意が必要。 (ぼくらの広場の鉄塔) (縦走コースの道標) 鳴川峠に到着。ここでも一人の男性ハイカー(C)と出会う。休憩を兼ねて暫くお話をする。若江岩田にお住まいでよく山歩きをされているようだ。定年退職して13年になるが、90kgあった体重が山歩きで随分減量して、健康になったと仰っていた。見た感じでは70kgあるかないか位の身体つきでありましたから相当な減量と言うべきですな。千光寺まで行く、と言うと、道を説明下さいました。(鳴川峠) 愛車のトレンクルも撮って置きましょう(笑)。 鳴川峠で左(写真トンネルの奥)に下ると奈良県である。上は信貴・生駒スカイラインの自動車道が走っている。(分かれ道) 下って行くと三つ股に分かれた道となる。先程のCさんに教えられた通りに真ん中の道を行く。 暫く行くと道は細くなり、ブッシュで隠れてしまう状態になる。ブッシュを抜けて、二俣道を左に取ると千光寺への道となる。竹林を抜けて行く。片側は深い渓谷になっている。 (ブッシュの道となる) (竹林の道も) そして突然のようにして民家が現れる。この民家を巻くようにして細い道を下って行くと千光寺の山門前に出る。(千光寺への道)(千光寺山門)(同上) やっと山門に到着しましたが、もう夜も更けました。続きは後日ということにして、ここでひとまずお終いといたします。 まるで門前払いのような仕打ち、とは仰いますな(笑)。<追記・注>「腰掛石または猫石」及び「鳴川峠」の写真と「枚岡神社創祠の地への入口」ほかのタテ長写真6枚とが、横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月31日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.07.08
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本日は昼食後、銀輪散歩に。錦織公園まで走って来ました。いつもは恩智川沿いの道・大和川を渡ってからは石川自転車道を走るのであるが、今回は気分を変えて、外環状道路を走ることにしました。 大和川到着が午後1時35分。自宅を出たのが12時45分だから丁度50分掛かっている。途中馴染みの自転車屋さんに寄って空気を入れるなどのロスタイムがあったから、それがなければ45分で到着することが分かりました。(大和川) 外環状を行くと大和川の手前でJR関西本線、大和川の先で近鉄南大阪線の跨線橋を越えなくてはならないのがちょっと厄介である。(近鉄南大阪線) 上の写真は跨線橋の上から撮影。奥の緑は仲津媛(応神天皇の皇后)の御陵。その右に少し見えているのが小室山古墳。その向こうには応神天皇陵がある。 1時間余走ったので漸くのどの渇きを覚え、道路脇の自販機でお茶を購入。すると、ありました、大阪にも。先日の富山で目にして面白がった「仮面サイダー」が。隣にはゴレンシャーも。今回はパスでしたが・・(笑)。(仮面サイダー) 暫く行くと左手に応神天皇陵古墳。これは巨大過ぎてカメラには収まり切りません。で、その先の「はざみ山古墳」を撮ることに。この辺りは古墳が多い。これを廻るだけでも日が暮れるというものである。(はざみ山古墳)(PLの塔) 東大阪市から、八尾市、柏原市、藤井寺市、羽曳野市を過ぎていつの間にか富田林市に入ったよう。道路の右手に、突如、PLの塔、出現です。 暫くして左手に錦織神社が見えて来たので立ち寄る。(錦織神社)(同上。愛車のMTBも。)(本殿) 境内に、何やら石碑があるので、近くに寄って見ると、天誅組河内勢の顕彰碑であった。(天誅組河内勢顕彰碑) <参考>天誅組 天誅組の変 天誅組迷走 河内勢の最後(補記2011.6.10.)文久3年8月17日、天誅組60余人は中山忠光を盟主とし、皇軍の先鋒として、甲田水郡邸を出発し、同日長野三日市を経て、観心寺の後村上天皇陵を拝し、大楠公首塚の前で結盟を誓い、千早峠を越えて大和に入り、五条代官を屠りて、その所領を天朝直轄の御地御民と宣言し討幕の第一声を挙げた。然るに翌18日突如として京師に政変起り、朝議一変、却って叛徒として追討せられることとなる。然れども少しも之に屈せず、至誠の心一朝天に達することあるべきを確信し、兵を十津川郷に募り、吉野の山野を血汐にそめて、孤軍奮闘し、遂に刀折れ矢尽きて、僅か40日にして9月24日、或は鷲家口に戦死し、或は紀州竜神に捕えられて、翌元治元年7月20日京都に於て斬首された。実に明治維新の魁として花と咲き、花と散った人々である。(以下略)--顕彰碑の碑文より。 錦織神社を出て、暫く、集落の中の道を走るが、再び外環状道路に戻る。大谷女子大横の最後の坂道を上って、下ると、錦織公園である。先ず、ご無沙汰している喫茶店「アキ」にて珈琲でもと向かうが、「都合により暫くお休みさせていただきます。」との表示が貼り出され、お休み。仕方がないので、下って来た坂道を再び上って、公園へ。(錦織公園入口) 自販機で冷たい飲み物を買って一気飲み。ひと息つき、入口近くのベンチで休憩されていたご老人と言葉を交わしながら、小生も休憩。煙草休憩でもある。10分ほど休んだ後、公園を出発、帰途に。今回は公園散策はパスです。 帰途は途中で外環状道路から西に外れて清寧天皇陵に立ち寄る。次に外環状道路を挟んで反対側の東にある、日本武尊陵に寄り、誉田八幡宮、道明寺と、東高野街道を走り、石川べりのいつもの道に出て、大和川を渡河。恩智川沿いの道を帰る。帰宅したら5時50分。5時間余の銀輪散歩でありました。(清寧天皇陵) 清寧天皇は雄略天皇の第三皇子(母は葛城韓媛)。雄略の後を継いで即位、第22代天皇である。生まれつき白髪であった、と日本書紀に書かれている。また、子がなかったので、履中天皇の孫に当たる憶計王(後の仁賢天皇)を皇太子に、弘計王(後の顕宗天皇)を皇子にしたとある。 清寧には異母兄が2人居た。父雄略と吉備稚媛との間の子、磐城皇子と星川皇子である。稚媛は夫であった吉備上道臣田狭が任那へ派遣されている間に雄略に略奪され妻にされてしまう。彼女にとって不本意なことであったのだろう。雄略の死後、息子の星川皇子に皇位を取れと唆し、反乱を起こさせる。大連の大伴室屋は皇太子(清寧)の側につき、軍勢を送り、稚媛と星川・磐城両皇子を焼き殺してしまう。これも日本書紀に記されている話である。 大伴室屋は家持の7代前、曾曾曾曾曾祖父である(笑)。(日本武尊陵)(東高野街道)<追記・注>「PLの塔」の写真、錦織神社由緒の写真(2枚)及び天誅組関係の写真(2枚)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月2日これを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.06.09
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昨日(17日)は八尾市方面へ、南方向の銀輪散歩。 花園中央公園に立ち寄った後、恩智川沿い、途中から玉串川沿いに銀輪散歩して参りました。 当ブログをお気に入りにご登録戴いているブログ友のアメキヨさんが、先日エゴノキの花の写真をブログに掲載されていました。この木、花園中央公園にも何本かある。先ず、その花を見むと、立ち寄ってみることにしました。今年はこの花を未だ見ていないことに、彼女のブログで気付かされたからであります(笑)。(エゴノキ) 公園の木は、それほど大きな木ではないのだが、4~5本植わっている。既に散り始めているようだ。木の下が白くなっている。(エゴノキの花) それでも、木には未だこのようにいっぱいの花が。もう少し近付いてみましょう。(同上)<関連記事>エゴノキ(ちさ)の花が咲いた 2008.5.6. エゴノキ(ちさ) 2007.8.11.(同上) 万葉集巻18-4106の大伴家持の歌に出て来る「知佐の花」は、エゴノキの花と考えられている。 この家持の歌は、部下である尾張少昨(をはりのをくひ)が佐夫流兒(さぶるこ)という遊女に夢中になって妻を顧みなくなったので、彼を教え諭した歌であるというのが面白い。 (歌の全文は上の関連記事「エゴノキ(ちさ)の花が咲いた」に掲載していますのでご参照下さい。) まあ、小生は教え諭したと言うより、宴会でからかったのではないかとも思うのであるが・・(笑)。()()(同上) エゴノキの隣にはミヤマトサミズキが実を付けていました。(ミヤマトサミズキの実)(同上) そして、少し離れた処にはシランが咲いていました。シランは万葉歌には登場しませんが、巻17-3967の歌の序文に「・・あに慮りきや、蘭とけいとくさむらを隔てて・・」とある「けい」(原文は草かんむりに恵という字)がこのシランだという。<関連記事>紫蘭(シラン)、定家蔓(テイカカズラ) 2008.5.2.(シラン)(同上)(同上) 花園公園を出て、定番の恩智川沿いの道を走る。途中で左折、西に向かい、玉串川沿いの道に移り、更に南へ。やがて、西へとカーブして来ている外環状道路にぶつかる。外環状道路を暫く行くと八尾市都塚付近で道路の反対側左手に神社の森らしきものが目に入る。横断歩道のある場所で横断しようとするが信号が赤になってしまう。待てないヤカモチは、帰途に立ち寄ることとし、右折して脇道に入る。出鱈目に走っている内に以前来たことのある弓削神社に出くわした。(弓削神社) 弓削氏は、ニギハヤヒを祖とする物部氏(石上氏)の配下にあった氏族である。蘇我・物部戦争で蘇我氏にしてやられた物部守屋は母方の姓に因んで、物部弓削守屋とも言うが、守屋の後裔は弓削氏を名乗っている。 弓削氏は河内国若江郡弓削郷(現大阪府八尾市弓削町付近)を本拠地とするが、何と言っても有名なのは、称徳天皇に寵愛され権勢を誇るも、その死と共に失脚、下野に左遷されてしまう、怪僧・道鏡であろう。(同上) 下の説明板によると、河内国では枚岡神社、恩智神社に次ぐ神社であったそうだから、この神社の南西志紀駅を挟んで反対側の弓削町にあるもう一つの弓削神社と一体の大きな神社であったのかも知れない。 弓削神社から少し南に行くと外環状道路。もう一つの弓削神社と八尾空港でも回ってみるかと思うが、空の雲行きが何やら怪しいので引き返すことにする。道路の反対側に渡り、往路で見かけた祠に立ち寄って行くことにする。(都留美嶌神社) この神社の祭神は闇(くら)御(み)津(つ)羽(は)大神。闇御津羽(くらみつは)(闇罔象)は、伊邪那岐命が迦具土(かぐつち)(軻遇突智)の首を十拳(とつか)(十握)の剣で斬った時に、剣から滴り落ちた血から色々な神が生まれているが、その神の一つである。 闇御津羽の「闇」は、谷あいの意味。「御津羽」は、水の意味で、谷を流れる水の神ということになる。雨乞・止雨の霊験ありとされる神である。(同上)<参考(2011年5月19日追記)> 「復(また)剣の頭(たかみ)より垂(しただ)る血、激越(そそ)きて神と為(な)る。号(なづ)けて闇(くら)?(おかみ)と曰(まう)す。次に闇山祇(くらやまつみ)。次に闇罔象(くらみつは)。然(しかう)して後(のち)に、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)、伊奘冉尊(いざなみのみこと)を追ひて、黄泉(よもつくに)に入(い)りて、及(し)きて共(とも)に語(かた)る。」(日本書紀神代上第5段)(<追記・注>縦長写真の「エゴノキ」が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月3日これを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.05.18
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本日は朝から墓参。4月2日は亡くなった娘の誕生日である。命日も月こそ違え2日である。死んだ子の年を数えても意味の無いことであるが、生きていれば35歳になる。 墓参りをしていると、鶯がホーホケキョと美しく鳴いて、春の日が穏やかに射しているのでありました。西の方、大阪市内はぼんやりと春霞の中である。(墓地の楠) 墓地の一番高い場所にある楠の大木。枝打ち払われて、何かオブジェのようでもある。 墓参の後は、うらうらの春日の中、山裾の道を散策。見やればおちこちに桜が咲き始め、足元の野道にはハコベ、イヌノフグリ、タンポポ、ホトケノザ、カラスノエンドウなどが咲いている。 歩いていると暑くなり、上着を脱いで腰に巻き、シャツの袖を肘あたりまで捲り上げて、丁度いい位の春の陽気である。 枚岡梅林までやって来ると、梅はあらかた散ってしまったが、それに代って桜が満開とはゆかぬが五分咲き位で、華やいだ雰囲気を醸していた。(枚岡梅林の桜)(同上)(同上)鶯の 鳴き来や野辺の 桜花 今し咲けるを 見む人もがな (偐家持) 梅林で桜を愛でては「梅」に申し訳ないが、梅林なのに桜があるのだから仕方がない(笑)。梅林からたつみ橋を渡ると枚岡神社の境内に入る。<参考>枚岡梅林(2009年2月21日) 枚岡神社(2008年7月12日) 枚岡神社秋郷祭(2008年10月14日) 枚岡神社秋郷祭2009(2009年10月16日)(枚岡神社本殿)(枚岡神社拝殿)(同上・吊り灯籠) 枚岡神社から枚岡公園へと続くハイキングコースの道の傍らに小さな池がある。最近これの改修工事が行われていたが、やっと終わったようで、以前の荒れ放題の池がこじんまりと整備されてしまった。この池にまつわる話など知らなかったが整備・改修工事で案内説明板も設置され、その記載から今日初めてそれを知りました。(姥ヶ池) 以下は案内説明板記載内容を転写。 この池は昔から「姥が池」と呼ばれていました。それは今をさかのぼること約600年前の出来事「悲しい老婆の身投げ伝説」に由来しています。 その伝説とは、枚岡神社の御神燈の油が毎夜なくなり、火が次から次へと消えていました。妖怪変化の仕業と不気味がられていましたが、その正体をつきとめると、生活に困っていた老婆がこの油を盗んでは売っていたのでした。そのわけを知り、気の毒に思って老婆を釈放してやりました。しかし、人の噂が広まっていたたまれなくなり、老婆は池に身を投げてしまいました。村人は明神の罰が当たったとして誰も同情しませんでした。その後、雨の晩になると池の付近に青白い炎が現れ、村人を悩ましたと伝えられています。 この物語は、井原西鶴の短編話など多くの俳諧、戯曲に「姥が池の姥が火」として登場しています。また、「和漢三才図会」「河内名所鑑」などにも記載されています。 平成23年3月 東大阪市<参考>姥ヶ火・Wikipedia 姥が火・井原西鶴『西鶴諸国ばなし』巻五「身を捨て油壺」より(枚岡公園への桜並木の坂道)(同上) 枚岡公園内の桜も五分から七分咲き、間もなく満開ですな。 レンギョウも今を盛りと黄色い花を咲かせていましたが、そんな中でちょとそれとは違う小さな花を付けたこのような花も。 東石切公園まで歩き、引き返すこととしました。(東石切公園から山を望む。右の峰が元枚岡神社のある神津嶽) 二つ見える峰のうち、右側の峰が神津嶽である。麓にある枚岡神社は始めはこの峰の上にあったとのこと。今も山頂の森の中に小さな祠があり、枚岡神社創始の地の碑がある。孝徳天皇の時代というから、大化の改新の後に山上から麓に遷座したことになる。(神津嶽アップで)<追記・注>「墓地の楠」及び「同上・吊り灯籠」の写真が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月7日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.04.02
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朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木 (藤原定頼) 本日午後にアクセス数が111111を超えました。その形姿は何となく網代木のようでもあるので、百人一首のこの歌が似合うかと(笑)。1111122011-03-18 14:01:1869.63.*.*1111112011-03-18 13:58:12*.e-mobile.ne.jp1111102011-03-18 13:55:45*.e-mobile.ne.jp1111092011-03-18 13:54:4969.63.*.* 網代木をゲットされた方は楽天ブロガーではありませんので、何方とも特定いたしかねますが、アクセス有難うございます。 網代木と来れば万葉のこの歌も外せないでしょうから、掲載して置きます。 柿本朝臣人麻呂、近江国より上り来し時、宇治河の辺に至りて作れる歌一首もののふの 八十(やそ)宇治(うぢ)河(がは)の 網代木(あじろぎ)に いさよふ波の 行方(ゆくへ)知らずも (巻3-264)<大阪府> 「東北地方太平洋沖地震」にかかる被災地の支援について さて、東北の方のこと、原発のことなど気にかかりますが、家に居るより外に出た方が節電にもなるので、午後から銀輪散歩に出掛けました。 この処、南方向が多かったので、本日は北へ。久し振りに深北緑地、野崎観音などを回って来ました。恩智川を北へ。JR住道駅前から寝屋川沿いの道に入り2kmほど行くと深北緑地である。(深北緑地への道 左側堤防の向こうが寝屋川である。) 深北緑地では、柳が青く芽吹き、寒桜などがもう咲いていました。(深北緑地の青柳 後方は生駒山系の山並。)青柳の 糸染めかくる 春風を 包み届けむ みちのくの地へ (偐家持)(寒桜)寒桜 はやも咲きたり 深北の 春日に霞み 生駒山見ゆ (偐家持) ソメイヨシノは未だ固き蕾なれど、寒緋桜の木一本ありたるが、やや咲きてひときは赤く、笑みもて我をさし招くかの如し。(寒緋桜) そして、コブシも咲き、足元にはタンポポやナズナが咲いているのでありました。(辛夷・コブシ)(タンポポ)(同上) 池では白鳥が羽づくろいをしている。鴨たちも日向ぼっこです。(白鳥と鴨) 深北緑地を出て外環状道路(国道170号)を渡り、東へ。JR線踏切を渡り右折。北条中学の前を過ぎて、JR野崎駅から野崎観音へ。(大東市立北条中学校)(JR野崎駅) 野崎観音。いつもは南側坂道を上って山門へと行くのだが、今日は正面から。正面は坂道を登り切ると階段なので、MTBを肩に担いで上らなくてはならない。長い石段、ちょっと息が切れますな。(正面坂道の石碑)(石段上から)※奥の白っぽい処が坂道の最上部、下からは結構の段数である。(野崎観音・本堂) 自転車を山門前で駐輪。門前で休んで居られたご婦人と暫く震災のことなどお話していると、寝屋川から来られた一人の女性が話しかけて来られた。境内を少しご案内し、四条畷神社へと抜けるハイキングコースがあるとお話すると、行ってみるとのこと。そこまではお付き合い致しかねるので、鐘楼裏の登山口でお別れし、小生は帰途に。 境内には馬酔木、椿、杏などが咲いていましたので、ご紹介して置きます。 (アセビ)(杏 桜かと思ったが少し感じが違うので杏かも。) 帰途は旧東高野街道から外環状道路に移り、大阪産業大学の南で恩智川沿いの道に入り、加納の緩衝緑地公園から花園中央公園へと走る。(ユキヤナギ) 恩智川沿いの道の辺には早やユキヤナギが咲き乱れていました。ここのはいつも少し早く咲くようだ。<参考>関連記事その他 深北緑地花散歩ほか(2009年8月19日) 朝は北へ、夕は南へ(2009年5月30日) 銀輪散歩始動(2009年1月6日) またも深北緑地(2008年6月7日) 深北緑地園ガイド のざき観音慈眼寺<追記・注>「同上(タンポポ)」「正面坂道の石碑」「あせび(2枚)」の写真が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月8日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.03.18
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昨日に続き今日も時々風花が舞う寒い一日となりましたが、午後から恩智川沿いのいつもの銀輪散歩道を南へ、大和川まで走って来ました。友人の偐山頭火氏に頼まれていた冊子を手渡すためもあって、この方面への銀輪散歩となったものであります。12時15分自宅を出発。 何と言ってテーマもありませんので、小生の銀輪散歩道である恩智川沿いの道を写真でご紹介することといたします。(恩智川沿いの道・東花園付近)(恩智川沿いの道・池島付近)(池島弥生橋) 弥生橋の東側には池島遊水池公園がある。(遊水池公園・弥生橋の上から)(恩智川沿いの道・弥生橋南詰)(恩智川沿いの道・八尾市上之島付近)(恩智川沿いの道・八尾市高安付近) 八尾市から柏原市に入り、法善寺付近から恩智川は細流となり、太平寺の手前で流れは東方向に曲がるので、恩智川沿いの道は、ここでお終い。国道170号に出て、南へ1kmほど走ると大和川に出る。 偐山頭火氏に冊子を渡して用を済ませた後は、大和川沿いを走る。国豊橋を過ぎ、府道183号(本堂高井田線)を直進し、JR関西線の鉄橋を潜った処にある芝山橋で大和川を渡ると芝山である。大和川はこの芝山を廻って大きく蛇行している。(芝山)(芝山橋。手前が大和川、右手の山が芝山である。)(注)芝山と芝山橋の写真は今回撮っていなかったので昨年の12月5日の銀輪散歩 で撮ったものを使用しています。 芝山は万葉集巻9-1751の高橋虫麻呂の歌に出て来る「島山」のこととされている。(歌意は上の12月5日銀輪散歩の記事に記載しています。) 島山を い行きめぐれる 河副(かはそひ)の 丘辺(をかべ)の道ゆ 昨日(きのふ)こそ わが越え来(こ)し か 一夜(ひとよ)のみ 宿(ね)たりしからに 峯(を)の上(うへ)の 桜の花は 滝の瀬ゆ 落ちて流 る 君が見む その日までには 山下(やまおろし)の 風な吹きそと うち越えて 名に 負へる社(もり)に 風祭(かざまつり)せな 芝山をぐるりひと廻り。途中で舗装された登り道があったので、自転車で上って行ったが頂上手前で行き止まりでありました。先はケモノ道のような道で自転車では入れない。今日はMTBであるから、トレンクルのように肩に担いで山の中に入って行くという芸当は出来ない(笑)。それに風花が舞い落ちて来たので引き返すこととした。国分神社の前を通って国豊橋へ。(芝山の中腹から大和川を望む。)島山(しまやま)に 風花(かざはな)散り来(く) ひさかたの 天(あめ)の苑にも 梅の咲くらし (偐家持) 上は、本日のるるらさんのブログに書き込んだ歌ですが、当ブログ記事にこそ相応しい歌のようでもありますので、追加で此処に記入して置くことといたします(笑)。(国豊橋上から大和川上流を望む。中央奥白い建物の裏山が芝山。)(大和川。中央は大和川に注ぐ石川である。) 大和川に別れ、再び恩智川沿いの道を走って帰途に。途中でよく立ち寄る喫茶ナナで珈琲休憩。(カフェ・ド・ナナ) 帰途は道の辺の花などを写真に撮りながらのんびり走る。(桃の花)(水仙)(木瓜) 往路では気付かなかったが、恩智川の川面では鴨たちが群れて遊んでいました。しかし、風花の舞う冷たい風に少し寒そうです。「葦辺ゆく鴨の羽交ひに霜」が降るほどではありませぬが。(鴨) 恩智川に別れて、近鉄東花園駅前でケーキを、花園ラグビー場前で和菓子を家づとに買い求め、午後4時過ぎに帰宅。約4時間の銀輪散歩でした。(花園ラグビー場)(ラグビー場の歌壇の葉牡丹)<追記・注>「恩智川沿いの道・八尾市高安付近」「桃の花」の写真が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月9日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.03.04
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今日はうらうらの春日和。午後から銀輪散歩に。いつものコース、恩智川沿いの道を大和川までMTBで走って来ました。 石川と大和川が合流する地点の少し東(上流)に、大和川に架かる橋がある。国豊橋である。国道25号が通る橋である。(国豊橋) 橋の下の河川敷から南東を眺めると二上山が。アップにすると、山肌に雪が白く消え残っているのが見える。 我妹子が「家持の『はだれ』の歌はどんなだったかしら?」と尋ねたので、「わが園の 李(すもも)の花か 庭に降る はだれのいまだ 残りたるかも」だと教えたことなどを思い出しながら、二上山の「はだれ」を写真に撮る。 (注)はだれ=まだらに降った雪。まだら雪。御食向(みけむか)ふ 南淵山(みなぶちやま)の 巌(いはほ)には 落(ふ)りしはだれか 消えのこりたる (巻9-1709 柿本人麻呂歌集) 上の万葉集の歌が連想される眺めであるが、万葉歌の方は明日香の奥の南淵山を飛鳥川の岸辺近くから眺めてのものであるのに対して、こちらは河内の大和川の岸辺から眺める二上山のはだれである。(国豊橋の下から二上山<左奥>を望む。)春日(はるひ)照る 青二上(あをふたかみ)の 山に降りし はだれかいまだ 消えのこりたる (偐家持)(高橋虫麻呂歌碑) さて、以前にも本ブログでご紹介した高橋虫麻呂の歌碑(巻9-1742、1743)であるが、この歌に出て来る片足羽川は大和川、石川と説が分かれ、それによって「河内の大橋」の架かっていた場所の説も区々となるのであるが、一説には、上の国豊橋のある場所に架かっていたという。 本日、国豊橋の写真を冒頭に掲載したのは、このことを言いたかっただけのことなのでありました(笑)。 今の国豊橋は写真でもお分りのように、さ丹塗りでもなく、赤裳の娘子の渡る姿もなく、車がひっきりなしに走っているばかりなのであるが、川辺に下りて、二上山の方を眺むれば、虫麻呂が眺めた娘子の背後の景色はこのようなものであったかも知れないという気もして来るのであります。(大日禅寺) 大日禅寺は、虫麻呂の歌碑のある大和川右岸からJR線、近鉄線を渡って、東へ坂を登った処にある。以前にも立ち寄っているので、本ブログでも写真を掲載したかも知れませんが、今回もちょっと回り道しましたので、写真を掲載して置きます。 寺の前でたまたま行き遇った地元のご年配の男性がお話して下さったことですが、本能寺の変で信長が殺された際に、信長の影武者(何人かいた内の一人)で、事件の時に堺に居たのが、自身の身を守るため、この寺に隠れたということらしい。家康の話もされていたから、家康の影武者のことだったのかな?随分早口で色んなことをお話になったので、記憶が早くも混乱しています(笑)。(二宮神社) 寺の隣の二宮神社の境内で暫し休憩した後、帰途に。ノンストップ(赤信号によるストップは別として)で自宅まで高速で走ったら、最後の自宅への上り坂では少々足にきました(笑)が、何とか玄関先まで走り切りました。<追記・注>「春日照る青二上の・・」の偐家持の歌以下の文字のフォントがポイントの小さいものに変化してしまっていること(原因不明)が判明しましたので、本来のポイント14に復元修正しました(2020年11月8日)
2011.02.16
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