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またまた書く。ネットサーフィンしていて、あるサイトで、奇妙な「シュタイナーの大予言」動画をみつけた。一介の自称シュタイナー研究者としては、捨て置けないので、みてみたら、なんと25年に日本がなくなる、というトンでも予言だったから思わず笑ってしまった。【閲覧注意】2025年の日本が悲惨すぎる。大予言者ルドルフ・シュタイナーが語る日本の未来【ゆっくり解説】 - YouTubeシュタイナーのドイツ語の原文は読んでないので、なんともいえないが、25年に日本がなくなる、とはシュタイナーは一言も言ってなかったと思う。というか、シュタイナーは現世(物質界)の出来事は、あくまでも幻想で、現世の日本という国そのものよりも、どちらかというと、民族霊のような上位の存在に言及していたはずで、日本の国がなくなるとか、そんな些末なことは、本物のオカルティストには世俗的で、馬鹿馬鹿しい都市伝説レベルの話なんである。さてまぁ、この動画には色々間違いがあるので、シュタイナーが説いている霊的真実を都合よく編集し、大本教の出口ワ二三郎もどきの論点を展開しているので、指摘しておきたい。恐らく最近話題の統一妖怪、あるいは大不幸の洗脳科学、もしくはそこらへんのブラック宗教団体らなど、どこぞの都市伝説を利用して、情報洗脳工作を企む連中の仕業かもしれない。さて動画をみていくと、前半のシュタイナーの大まかな解説は確かに妥当だが、あまりに宣伝的で洗脳的にみえる。シュタイナーは確かに地球がかつて正四面体で、その頂点の一つに日本がある、と語っているが、日本が中心とは一言もいってないはずである。霊的中心地と言っているのは出口ワ二三郎だろう。大本教がそんな思想を広めていたはずである。そして、その頂点は、地球の火山帯や地殻構造から、天照大御神がいる古代ヘブライ語のイーシュ(救い)を意味する伊勢神宮であることがわかるが、そこには言及していないし、日本は、あまりにも西洋文化の影響が強いので、つまり物質文明の虜になってしまっているので、霊的進化からは下降している、と述べている。シュタイナーの使命は、現世に霊的な真実を広めることで、キリストの教えを引き継ぐことにあるからだ。また、お釈迦さんが広めた仏教でも、日本では、肉食し、飲酒し、妻帯し、霊的な修行を怠っていて、心眼を、つまり霊視ができない物臭坊主が沢山いる現実をみれば、とても、霊的指導たる地位を担える場所でないことは明らかである。だから逆の意味で、物質文化の中心にはなりえるかもしれないから、悪霊団のアーリマンには好都合な国なので、なくすはずがないだろう。中国とともに、悪魔にとっては重要な支配地、植民地なのである。悪魔というのは、悪なんて存在しないよ、といいながら、人間を、陰で洗脳し、支配し、奴隷化する霊団のことである。このことはシュタイナーが、悪の秘儀という書籍で語っていることで、そこから、シュタイナーの大予言という、大袈裟な書籍が出されてもいる。つまり、アーリマンという悪霊団が、人類を物質界に洗脳し、いつまでも地上の存在に貶めようとしているので、その誘惑に負けないように、霊的修行を怠らないようにしないと、神々の位階に進化できませんよと指導しているわけである。シュタイナーが予言していることは、予言というか、霊的真実から、この世の未来を見通すと、それを正式にいうと、預言だが、いずれゲルマン=アーリア民族霊とスラブ=ロシア民族霊が互いに深く関りあい、ゲルマン民族霊の霊的真実を見通せる霊視が、スラブ民族に拒絶されずに受け継がれると、次の文化期に移行する、ということである。つまり、いま、この衝突が、アーリマンの悪霊団に利用されて、戦争、闘争を地上にもたらしている、ということである。だから、アーリマンの誘惑に惑わされてはいけない、と警告しているのである。霊的真実を深く認識する霊眼をもちなさい、とシュタイナーは人智学を興したわけである。簡単にいえば、物質的な姿、肉の姿、つまり外見に囚われていると、霊的真実が益々見通せなくなるから、この世での高い地位や権力を貪るにつれ、精神的に腐敗し、堕落するので、益々、霊的真実から遠ざかり、獣のような、いまの動物のような存在になってしまうので、注意しなさいということなんである。人智学から学んだ見解からすると、あえて論理的感覚でみるなら、神とは光そのもので、その光を陰として、つまり波として受け取る形で、ヒエラルキーができるようである。神とは、仮に論理的思考で、数を使うなら、12次元の存在のようで、そこから、感受能力が下降するにつれ、次元が下がり、人間はいまや3次元の物質界で生き、精神は4次元の時間意識を使っている。つまり、光を4次元でしか意識できないから、光の違いを捉えられない。皆同じ光で、可視光しか見えない。だから物質界しか生きれないので、物質界で生きる存在を自分と意識するしかない。動物は更に下位の次元になってしまっている。だから時間に縛られ、同じ習性をもち、時間を超える意識がない。シュタイナーにいわせると、いまのサルは、かつての類人猿のなれの果てだそうで、人類はサルから進化したのではなく、類人猿が、精神的な向上を遂げて、人類になったのだそうである。そして現代人は、論理的思考をいま駆使しているが、その思考は物質現象を認識することで生まれたから、物質創造には都合がいいが、生命創造には活用できない、それはソクラテスが、無知の知と説いた、物質知を深めても、霊的真実には辿り着けない、といったのと同意で、論理的思考で、生命を解き明かすことは不可能なのである。ちなみに、人類に論理的思考=物質知を与えたのは、ルシファーという悪霊団で、その論理的思考に囚われている限り、人類は絶えずアーリマンの誘惑に、つまり洗脳に晒され、霊的真実に辿り着けずに、地上に何度も生まれ死んで輪廻転生を繰り返す存在、つまり聖書のカインの彷徨えるユダヤ人となるわけである。さて、シュタイナー研究に絶好のサイトを以下に紹介するので、人智学の理解を深めてほしい。Steiner (quicca.com)
2022年11月19日
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久しぶりに、2022年サッカーワールドカップがはじまるので書きたい。82年スペインワールドカップ黄金の中盤カルテットブラジル代表(セレソン)をみてから、サッカーの虜になった。丁度多感な高校時代だったが、中学からサッカーをやっていた連中は、クライフとベッケンバウアーの二大派閥を形成していた。78年はアルゼンチン開催で地元アルゼンチンが勝ったが、軍事政権で何やら八百長疑惑が大きかったので、ケンペスは評価されていたが、意外に人気がなく、空飛ぶオランダ人クライフがやはり人気だった。その前は、やはりゲルトミュラーが人気だった。しかし、私は82年のブラジルが最高だといまでも信じている。ジーコ教の信望者である。あの時のブラジルは実際凄かった。ジーコ、ソクラテス、ファルカン、セレーゾはもちろん、左足の魔術師エデル、両サイドバックのジュニオール、レアンドロ。そしてヘディングの強いセンターバックのオスカル。最高のメンバーだった。しかし、ザルGKら守備力のなさでイタリアに負けてしまったが、あのときのブラジルの攻撃力が一番だと思う。残念ながら、FWとGKがイマイチで、守備的MFが(当時バチスタを入れておけばといわれていたが)、良ければ、優勝していただろう、といわれていた。いまはほとんどサッカーをみていないので、たまに日本の代表戦をみるくらいなので、古い知識しかないが、この間、ジーコ監督のときの日本代表の裏話と、BSNHKでやっていた2002年のブラジル代表の真実という番組をみて、ワールドカップで優勝するチームとグループリーグで敗退するチームの違いがわかり面白かった。一言でいって、「チーム一丸になれるか」にあるようだ。これは簡単に使われるフレーズだが、なかなか難しい。というのも、理想のサッカーは多種多様だからである。一つ重要なのは、控え組が鍵を握っている。2002年のブラジル代表は控え組であっても、ほとんど試合には出れないが、チームのために犠牲を厭わなかったのがわかった。2002年のブラジル代表には、ロマーリオが外され、暴動が起きたぐらいだったが、スコラーリ監督は怪我で代表活躍が微妙なロナウドに賭けた。ロナウドもその期待に応えた。ロマーリオが外されたのは、協調性に欠け、チームの和を乱すのを恐れた、ともいわれていた。つまり、2002年のブラジル代表は協調性を重視した選考だったようである。W杯は試合数が少ないわりに、二か月間も一緒にそれも他国でほぼ缶詰状態で、行動しないといけないから、何より協調性が重要なのである。試合に出れるのも、グループリーグで敗退すればわずか3試合しか出れないから、強いチームは大体主力メンバーで固定されるので、代表に選考されても出れない選手が多いわけで、控え組が、どう主力組をサポートできるかで、チーム一丸となれるかが決まる。この現実、つまりW杯でのチームづくりができていなかった典型例が、ジーコ監督のときの日本代表で、海外組と国内組の闘争に発展し、初戦のオーストラリア戦で、守るか、攻めるかで二分し、後半残り僅かでたて続けに点をとられ大敗し、海外組の中心の中田選手を孤立化させてしまったようである。間に挟まったのがキャプテンの宮本選手だったようである。しかし、宮本選手もどちらかといえば目立つ選手である。日本代表の欠点は、どこの代表もそうだが、特にセットプレーに弱い点が挙げられる。これはセットプレーの練習量が少ないせいに思われる。攻撃に対しては練習しているのかもしれないが、守りに対して、特にハイボールに対して弱い。体格のない日本の選手は、ハイボールに対して隙ができやすいが、それを補う選手がいない。ミスの補完ができる選手がいない。縁の下の力持ちというか、犠牲になる選手がいない。決勝に進むチームには必ずそのような選手がいる。目立たない汚れ役みたいなものである。日本はセットプレーが弱いとみると、そこをついてくるのが上位チームである。だからセンターバックは非常に重要なのはいうまでもない。しかし目立ってしまうと相手に逆に狙われ、潰される。目立たないがミスの修正を当たり前にできる選手が必要である。それも試合中だけでなく、試合のないときはムードメイカーみたいなことができる選手だ。つまり、当たり前の話だが、W杯で決勝に進むには、チーム選考からはじまる。ムードメーカーが重要に思える。ジーコ監督下の日本代表にはムードメーカーがいなかったようにみえる。2002年のブラジル代表は、ロナウドと、ロべカルが非常に相性が良く、ロべカルがムードメーカーだったようである。エースのロナウドの活躍を支えたのが陰のロべカルである。ちなみに、ロナウドの大五郎カットはムードメイクではなく、脚の怪我をマスコミからそらすためのフェイクだったようで、脚の状態がヤバかったので、つま先でシュートしかできないので、ビーチサッカーの経験から、大五郎カットの次の試合に、そのシュートが生まれたと語っていた。ロナウド伝説となった大五郎カットが、ブラジルで子どもたちに流行ってしまって、その親から「格好が悪い」と苦情がきたのには参った、とロナウドが笑いながら語っていたのには感動した。W杯という注目すべき晴れの大舞台で、勝つためには、格好の悪い髪形にするのを厭わない精神に感服した。どこか丸坊主にする高校野球児の精神に通じるように思えた。というのも、ロナウドは、前フランス大会で、決勝前の前日に大失敗(フランスのハニートラップという噂もある)を犯して、出場できない状態だったのを、決勝戦で、ロナウドを出さないで負けたら、ブラジル全国民から総スカンに遭うのを恐れたザガロ監督が、リバウドなどは反対したが、出場させて、大敗した苦い経験があったからでもある。この苦い経験から、2002年のブラジル代表は大会中セックス禁止令が発動された。あの大五郎カットはブラジルチーム一丸の証なのである。目立とう精神だけが目立つ日本代表とは月と鼈である。つまり、2002年のブラジル代表、セレソンは、職人気質の集団だったようにみえる。対照的に、ジーコ監督下の日本代表は、どこかタレント気取りの坊ちゃん集団のようにみえる。ジーコ自身W杯で苦い経験をしているので、チームの現状を痛いほどよくわかっていたはずである。日本のマスコミは選手を持ち上げスター化するのに長けているので、忖度やゴマすりだけは巧いが、肝心のチームのなかにそのような存在がいなかったのがミソだった。中田選手には愛嬌がなかったが、後の本田選手には、その反省か、わずかながら愛嬌があり、いじられキャラがチーム一丸に機能したので、孤立せずに済んだようだ。これはジーコも、中村俊輔選手もいっているが、いうまでもなく、練習以上の実力が本番で発揮できることはほぼない。練習から一丸でなければ、ピッチ上で一丸になることはない。増してや、実力以上のチームと対戦するには、いわんやである。それはチームづくりの全てで、ゲームをやるにも、食事をするにも、一丸でないと、試合では発揮できる可能性に乏しくなる。特に守備力に関してである。必ずミスはある。その穴を埋めるには、誰かが犠牲にならざるを得ない。2002年のブラジルに負けたイングランドのベッカムが、ゴールキーパーのミスで点を取られ負けたが、それはゴールキーパーのミスではなく、我々チームのミスだったと、語ったのが印象的だった。最近のサッカーはみていないので、チーム一丸となるには、欧州組、国内組も関係もない。チームのためにどれだけ努力できるか、どれだけ犠牲になれるか、その我慢比べであるようにみえた。ちなみに、2002年のW杯で、初戦ベルギー戦で、前夜一睡もできなかった鈴木選手は、国家斉唱を聞いたとき、スタンド一杯の日の丸をみて、「死ねる」と思ったそうである。セレソンの選手も緊張で脚が震えると言っていた。その緊張と重圧はどの国の選手も同じだろう。PK戦にでもなったら、誰もが逃げたくなるほどの重圧となる。かつての西ドイツではPKは外しても大丈夫なように、若手に蹴らせたようで、どんな名手も、プラティ二、ジーコ、バッジオも外している。94年ブラジル代表のキャプテンだったドゥンガもPKは死ぬほど緊張したらしい。チームのための個の技術。技術を生かすも殺すも精神力だ!サッカーをやっているようで、サッカーの技術の問題ではないように、両チームの格差から感じた。日本を応援していないわけではなく、本来日本人のもつ和の精神。差別しない平等の精神。そういうものが最近の日本代表には欠けているのではないか、と思った。現日本代表にはムードメーカーはいるのだろうか?思うに長友選手辺りだろうが、いじられキャラという感じではないような気もする。それを期待して今回のカタールのW杯をみたい!
2022年11月18日
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久しぶりに書く。NHKの「ヒューマニエンス」は非常に面白いので、毎回みている。人間学というか、生命学というか、新しい学問の誕生を予感させる番組である。前回は、「文字」で、今回は「毛」がテーマだった。非常に面白いというのは、これらのテーマが、神秘学からわかることを再認識されてくれるからである。人間が文字を手にいれた、つまり開発してからの歴史はまだ浅く、文字の認識は人類史にとってはまだまだ新しい。人類史のなかの大体97%以上が、文字無しで生活してきたという。だから文字生活は、脳にとっては、ほんの最近のことで、文字認識に対して、従来の視覚認識の、顔認識の機能領域を利用している、という。だから、逆に、顔が認識できるのに、文字が思い出せないことがあるわけで、ある芸能人を思い出す際に、顔は思い浮かぶが、名前が出ない、ということが、老いると頻繁にみられるわけでもある。というのも、文字を読み書きできるように、子どものときに習う必要があるからで、子どもは、顔と同時に文字の認識を習うために、ほぼ左右対称な顔に対して、非対称な文字もあるから、文字を習う段階で、左右逆に書いてしまう間違いがよく起こる。また、文字認識は、脳の視覚領域で、文字の意味を理解する言語領域は、視覚野とは離れているので、その間の連携を省略し、いわば自動連動化して、文字の形を推測して、悪くいうと、当てずっぽうで、文字を読むので、つまり、知っている文字を、みえている図形に、当てはめて、文字を認識している、という。例えば、日本語には、漢字、かな、カタカナがあるが、それぞれ同じ文字を書くと、例えば、美しい、うつくしい、ウツクシイ、と、なんとなくイメージが異なって伝わるように感じるだろう。それはどこか顔の認識と似ている。「美しい」は、すらっとした顔、「うつくしい」は、しなやかな細顔、「ウツクシイ」は、ゴツゴツした騒々しい顔というような。要するに、顔認識を文字認識に利用しているので、知っている顔から、知らない顔、つまり、知っている文字から、知らない文字を当てはめているから、文字でない図形は読めず、誤読や、読み書き障害(ディスクレシア)が生じるという。逆に、ディスレクアの人や、サヴァン症候群の人は、絵画を書くのが上手い人が多い。この才能は、神秘学から説明できる。この文字認識を、神秘学の霊魂から考えてみれば面白い。文字認識というのは、人類史ではごく最近のことなので、霊魂には、文字認識の翻訳能力があまりないと考えられる。シュタイナーによると、大体の霊魂は、数千年から1万年毎に、この世にやってくるので、ほとんど文字を知らないわけで、古代で文字を知っていたのは、神秘学者、いまでは哲学者と呼ばれる賢者たちで、それも神殿でのみ用いた、というから、文字の学習は、この世で習わないと身につかないものである。古代人、古代アトランティス時代以前は、文字を用いないので、代わりに、いまでいうイメージで伝えた、といわれている。テレパシーのように、いまでいう以心伝心で伝えたという。いまでも、動物が用いているという。これはコンピュータで考えるとわかる。動物には、集合魂という、コンピューターでいうメインフレーム、いまではクラウドのホストサーバーがあり、いわば巨大図書館、記憶貯蔵庫、翻訳機みたいなもので、そこから、各端末の、クライアントPC同士が、連絡するのに、情報をイメージの形で引き出してくる恰好になっている、と考えるとわかる。つまり、各個人が、会話をするのに、巨大翻訳機をつないで、行うわけで、いまのネットシステムの原型と考えればよい。だから、ネットで、文字をつかわずに、画像で伝達するような感じになる。画像でそのまま情報伝達できれば、文字などは間接的で、いわば情報を圧縮し、省略化するので、その分曖昧になり、誤訳が生じる余地が生まれるが、代わりに自由な発想に委ねられる。文字認識には、細かい違いを省略し、経験から大雑把に、ほぼ同じものという認識を生じさせ、A=B、C=B,故にA=Cという論理を生起させ、この文字の発達が、論理的思考を成立させたと、シュタイナーは述べている。この論理的思考は、文字が生じ、ポストアトランティス時代の現代、つまり古代ローマ時代に発展した霊魂の能力で、シュタイナーは悟性魂と呼んでいる。これにより、神を文字で記述し、聖書が普及し、神は文字になり、様々な文字に表現され、一つの存在だった神がいわば多神教になったわけである。だから、この時代に生まれる霊魂はまず最初に、文字を習い、この時代特有の論理性を学ぶ。この時代が物質世界なのは、この論理性にある。神が多様に記述され、物体は一つ二つと数えられるようになり、いわばモノとなり、主に視覚野から言語が発達した。そして、その集大成といえるのが、量子力学だろう。この世界は、量子と呼ばれる、いわば振動粒子からなる、とされたのである。人類は文字から量子力学というこの世界の翻訳機を生み出したわけだが、かつてアインシュタインが、神はサイコロを振り給わず、と言ったように、論理的思考は統計的思考となって、いま行き詰まりを迎えている。統計的思考は、三体問題を論理的に解けないための、補完思考でしかないから、不完全な思考で、この不完全性から、ギャンブル性が成立する。この論理的思考の行き詰まりは、AI(人工知能)という形で表れている。人工知能は、脳の機能を物質的に表現したもので、文字認識の論理性を飛躍させた産物で、確かに便利なツールだが、人体が脳だけで成立していないように、いわば頭でっかちの存在である。AIがギャンブルでしばしば間違えるのが、その証である。AIの競馬予想ほど当てにならないものはないのは、競馬ファンにはお馴染みである。確かに、論理性はモノを構築するには都合がいいが、それは知識が豊富であることを前提にしている。物質的な知覚が豊富になっても、いずれそれは、人間が死んでいく、のと同じように、死んでも確かに文字として残せるが、翻訳できなければ何の意味もない。昭和時代のPCの作業は、フロッピーディスクに記録したが、いまではPCマニアでもいなければ、フロッピーディスクは読み取れない代物になっている。たとえそれが読み取れたとしても、時代の価値観が大きく異なってしまっている。物流は論理で記述でき、昔のモノも現代にコピーとしてつくれるが、その精神や、霊魂は記述できない。何より、生命体が、モノではなく、生と死の狭間で、論理を超えた創造を繰り返す、不安定な存在だからである。論理は安定性を根拠にしている。同じものが常に存在することを前提にしている。同じとみなしたものはいずれ同じものでなくなるのが生命現象であるばかりか、生命そのものは同じではない。論理は、モノを量子で記述し、記録したが、生命は論理では記述できない。それはどこか点というよりも線で、数えられるモノというよりも、数えられない流れのようなものだからだろう。数十年前から、前世紀の量子力学はいまや超弦理論に置き換わりつつある。振動する点の数学的文字の記述が、線になり、振動する紐になったのである。面白いことに、NHK番組「ヒューマニエンス」の今テーマが、「毛」である。生命現象のほとんどに、「毛」が関わり、なんらかの毛、繊毛、鞭毛、絨毛が、生命現象のなんらかの運動にかかわっている。精子が卵子をみつけるのも、精子の繊毛が関わっているという。生命の発生に毛が関わっているのである。受精した卵子が、子宮に到達するのも、毛の運動でその流れがつくりだされるという。人体のなかに、細胞には毛が生えていて、その毛の運動が細胞分裂を制御し、いわばアンテナの役割を果たして、人体の適合適所に、最適な細胞などを運ぶという。受精卵が胚になって、胚に生えた毛が左向きの流れを起こし、心臓を左側に作り出すという。また細胞に生えている一次繊毛がなくなると、細胞はガン化するという。脳のなかにも毛が生えていて、脳室の髄液の流れを生じさせ、感染から守るためや、不要タンパク質を外に押し出しているという。脳の毛が、MCHホルモンを制御し、ストレスを受けると、その毛が切れ、短くなり、ストレス過多になると脱毛する、というのである。神秘学では、髪の毛は、空気中のケイ素を取り込み、いわばアンテナの役割を担うことがいわれている。毛を切ると、ケイ素を取り込まなくなり、ケイ素が溜まり、水晶になると、水晶は霊魂を映すといわれているので、これが煩悩を生じさせる、というので、仏教では、髪の毛を切り、坊主にするというのである。神秘学では、毛はセンサーなのである。人間は自然環境、野生から離れると、ケイ素を取り込まなくなり、ストレスを感じ、脱毛していく。最近、脱毛が流行るのは、ストレス過多のせいなのかもしれない。毛の運動が人体のほとんどの液体の流れをつくりだし、人体を制御しているのである。毛の運動が、流体力学をつくりだすようにみえる。毛の運動は、古代医術の、気功術と考えられる。シュタイナーは、エーテルの流れと呼んでいる。エーテルの流れは五芒星の図形で表され、この流れをつくりだすのが、六芒星で表されるアストラルの流れである。霊魂は六芒星で表記され、幽体は五芒星で表記される。毛の運動はどこか陰陽五行説の古代医術と似ている。また現代科学の申し子の超弦理論から、生命毛理論に発展すると面白い。生命の毛の研究者は、毛がどこから来たのか?解明したいらしいが、その答えが超弦理論にあれば、生命と物理が統合されるかもしれない。
2022年11月04日
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