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『或日の大石内蔵之助・枯野抄』芥川龍之介(岩波文庫) 先日菊池寛の「無名作家の日記」と「半自叙伝」をセットで読んでいて(岩波文庫にこの二作が一緒になっているのがあります)、結局のところ、菊池寛は芥川に対して感情的なわだかまりを持っていたのかいなかったのか少し考えました。(「無名作家~」にはめちゃめちゃあるように、「半自叙伝」には、全くないように書いてあります。) 実際としては、そんな白か黒かという単純なものではないでしょうし、例えば嫉妬心や優越感と友情が同居することは、当然あり得ましょう。やはりそんな簡単なものではない、と。 ただ、菊池寛は大正12年に『小説家たらんとする青年に与う』という文章(この文章は本ブログで以前にも紹介しましたが)でこんなことを書いています。 だから、本当の小説家になるのに、一番困る人は、二十二三歳で、相当にうまい短編が書ける人だ。だから、小説家たらんとする者は、そういうような、一寸した文芸上の遊技に耽ることをよして、専心に、人生に対する修業を励むべきではないか。 文中に「二十二三歳で、相当にうまい短編が書ける人」とありますが、菊池寛はこの言葉に具体的な人物イメージがあったのでしょうか。もしあったとしたら、それは芥川以外には考えられないでしょう。 (もしこの文章が芥川の死後のものなら、「あの芥川が自殺したのは、なまじっか二十二三歳で、相当にうまい短編が書けたからかもしれないよなー」とつぶやいても、まー、少しはいいでしょうが、大正12年には芥川はまだ存命中で、或る意味小説と格闘している最中であったわけですから。) ……とすればやはり、菊池は芥川にかなり感情的なわだかまりを……、とも思っていたのですが、この度本書を読んで、私は芥川の天才振りに改めて感心し、あるいはひょっとしたら、と思うようになりました。 さて本書には14の短編小説が収録されていますが、それは芥川の小説家としての実動期間(1916年の「羅生門」から1927年自殺のほぼ10年間)の前半の、たぶん一番脂の乗りきったあたり(1918年~1921年頃)の、江戸時代から幕末、明治初期に舞台を取った作品群です。 まず驚いたのは、実に多彩な作品の書き分けです。そしてどの作品にも、惚れ惚れするような描写が見えます。一つだけ紹介してみますね。これは「或日の大石内蔵之助」の冒頭部です。 立てきった障子にはうららかな日の光がさして、嵯峨たる老木の梅の影が何間かの明みを、右の端から左の端まで画の如く鮮に領している。元浅野内匠頭家来、当時細川家に御預り中の大石内蔵之助良雄は、その障子を後にして、端然と膝を重ねたまま、さっきから書見に余念がない。書物は恐らく、細川家の家臣の一人が借してくれた『三国誌』の中の一冊であろう。 多すぎず少なすぎず、まさにぴしりと説明し尽くしたような描写ですが、「嵯峨たる老木の梅の影」なんて表現は、うーん、私が単にもの知らずなだけなのかも知れませんが、なかなか他では味わえない書きぶりだと思います。 (本当は「嵯峨たる」という言葉の意味が分からなくて、普通の国語辞典を調べても載っていなくて、でも広辞苑にはさすがに「高低があってふぞろいのさま」とありました。こんな言葉、知っていましたか。) 実は、私は本書の短編のほとんどは再読以上に読んでいるのですが、今回また、読み直して面白かったことが幾つもありました。 例えば「戯作三昧」の最後に主人公滝沢馬琴の孫の男の子が出てくるのですが、今回私はここを読んで、あ、これはサリンジャーじゃないかと思ったんですね。 『ライ麦畑で捕まえて』の終盤に出てくるホールデンの妹と同じ扱いじゃないかと思って、びっくりしてなぜかちょっと嬉しかったんですね。 で、以前本ブログにこの「戯作三昧」について触れた個所があったのを思い出し、どう書いていたか見直してみると、「アリバイ」と書いているではありませんか。 ……うーん、そー読むかー。……どうなんかなー。 いえ、自分で書いたことながら、なかなか楽しい再読の発見でありました。 と、そんな部分が外にも何ヶ所かあったのですが、今回特に私は、「舞踏会」を読んで、改めてうーんと唸ったことがありました。 本文庫の解説を中村真一郎が書いていまして(岩波文庫の芥川の解説はたぶんすべて中村真一郎です)、そこに「舞踏会」の「一」の部分と「二」の部分の間に「開化の殺人」が挟み込まれるのだとありました。(もう一作別の「開化の良人」も、もちろん関係があります。) なるほどねー。言われてみればその通りで、そしてそのように挟み込んで改めて読むと、「一」の最後に描かれる若かりし頃のピエール・ロティのセリフ「我々の生のような花火」という表現が、俄然胸に迫ってくることに気が付きました。 思わず私は、「うーん、芥川は老成しとるなぁ」と呟いてしまいました。 「舞踏会」は大正9年、芥川29歳の作品です。 全く、ほれぼれするような天才的な老成ぶりではありませんか。 で、その時、私ははっと思っちゃったんですね。 菊池寛が「二十二三歳で、相当にうまい短編が書ける人」と書いたのは、これは芥川ではないんじゃないか、と。 この芥川の老成振りは、「相当にうまい短編が書ける人」などというレベルではない、と。 だからこの表現は、「天才芥川は別格として、『相当にうまい短編が書ける人』」という文脈じゃないかと思ったわけです。 考えてみれば、上記の菊池の文章は『小説家たらんとする青年に与う』というタイトルのものだし、「小説家たらんとする者は、そういうような、一寸した文芸上の遊技に耽ることをよして、専心に、人生に対する修業を励むべきではないか。」というアドバイスは、本当は、「いいかい。君たちは、あの別格の天才芥川じゃあないんだから」という前書きが付いていたのではないでしょうか。 ……うーん、そーかー。 いえ、この「妄想」が正しいのかどうか、私は全く責任は負いませんけれどー。……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.04.27
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『銃』中村文則(河出文庫) かつてベストセラーになった、村上龍の『13歳のハローワーク』という本があります。 私はベストセラーの話題が落ち着いた頃に、中古本で買いました。 その中に「ナイフが好き」という章があります。(この本は、「好き」から仕事を探そうというのを基本的なコンセプトにしているんですね。) そこには、ナイフでいろんな事件が起こるが、もちろんナイフが悪いのではなく、使う人間が悪いのだという説明があり、さらにナイフ職人の説明があり、そしてその章の最後に、このように書いてあります。 しかし、ナイフを持つと自分が強くなったような気がするという子は、「絶対に」ナイフを持ってはいけない。 実は村上龍のこの本には、「銃が好き」という章立てはありません。 その代わりに、「武器・兵器が好き」という章があって、そこには、武器・兵器というものは「ばくだいな資金を使って開発され、作られているので、その姿形は機能的で魅力的に見える」とあり、しかし、「ただし、武器や兵器が本当に好きな子はごく少数だ。他の大多数の子は、学校の授業や家庭が退屈だったりして、その気晴らしとして、武器や兵器を好むようになるだけである。」と書かれてあります。 さて、冒頭の小説『銃』を読んで、私が本棚から手に取った村上龍の本の話題を書きましたが、本書のポイントの一つは、まさに引用した二個所であります。繰り返しますと、この二つ。 1.ナイフを持つと自分が強くなったような気がするという子は、 「絶対に」ナイフを持ってはいけない。 2.武器や兵器が本当に好きな子はごく少数だ。他の大多数の子 は、学校の授業や家庭が退屈だったりして、その気晴らしと して、武器や兵器を好むようになるだけである。 今回取り上げる『銃』は2002年の作品で、村上龍のこの本は2003年に発行されています。まさか村上龍が『銃』を参考にしたとも思えませんが、『銃』の主人公の内面設定は、きっちりこれに当てはまっています。 特に「1」の、銃との一体感、銃を持つことで主人公が手に入れる全能感は、作品中いたるところに散りばめられてあります。例えばこんな感じ。 私は、拳銃と一体になったような、そんな感覚に覆われていた。私は自身の体ごと拳銃の一部になった。この、圧倒的な存在感、意思を持った拳銃と一体になったその全身の感覚は、今までの私が感じたことのない程の、快感だった。 という描写がいっぱいあるのですが、しかし、そんな拳銃をどの様に詳しく描写しているかというと、実はあまり書いてありません。主人公も、拳銃を握っているか磨いているかしか、普段はしていません。 これは少しヘンですね。普通物を愛すると、人はそれをしつこいくらいに見つめるものであります。となると、主人公のこの「拳銃愛」の正体は、上記の「2」っぽくなってきます。 事実そうなんですね。主人公の人格的欠陥、人間的な感情の著しい欠如が、彼の成長過程の話と絡めて書かれています。 主人公が幼児の時、母親は失踪し、育てられている父親からは暴力を受けます。そんな小さかった頃のことを、例えばこんな感じで思い出します。 私を生物学的に形作っているものの半分はあの父親の遺伝子であり、もう半分は私の知らない逃げた女のそれだった。私はその時、自分に興味を失った。自問自答することや、自分を知ることをしない方が、自分は快適に生きていけると、子供なりに、ぼんやりと意識するようになった。考えてはいけない、私はそれを思いだし、少し嫌な気分になった(略)。 そんな主人公がたまたま銃を手に入れて、人殺しをしてしまうという話です。 という風にまとめて読み終えた私は、本棚からもう一冊、文庫本を取り出しました。 それはカミュの『異邦人』です。 ストーリー的にはそっくりなんですね。(特に『異邦人』の第1部まで。) 描写のタッチも、一人称で、ものを考えるその物事の捉え方も、とても似通っています。女性に対する欲望のあり方もよく似ていたり、ムルソーの「ママン」の死の代わりに、瀕死の父親と病院で対面する場面などが出てきたりもします。 ここまで似ていて、さて筆者はどうまとめていくのかなと、一抹の不安も抱きつつ、でも私はけっこうはらはらと楽しく読んでいきました。 私の「一抹の不安」とは、展開について、最後に主人公の行動を狂気に落とし込んでしまわないかという不安でした。というのも、ストーリー上仕方のないところはありながら、ちらちらとそんな言い回しがそれまでに見え隠れするように思ったからです。 ところが、「14」章あたりから、やはりそうなっていくんですね。そして最後までとうとう「狂気」で突っ走ってしまいました。 ……うーん、これはどうなんでしょう。14章以降についてですが。 今私は、「不安」という言葉を使いましたが、これは私の好き嫌いの問題なんでしょうか。 文学は、確かに狂気と併走する部分を大いに持ちます。しかしそれを描くポイントは、誰の中にも内在する狂気であって、例えばその結果拳銃で人を撃ち殺すというような、明らかに分水嶺を越えた狂気ではないように思います。(『罪と罰』は? あれのテーマは、狂気じゃなくて、これも文学が併走する魅力的なテーマの「悪」じゃなかったかしら。) 分水嶺を越えた狂気は、それは医学のテーマであっても文学のテーマではないように思います。 カミュの『異邦人』のムルソーは、「狂人」としては描かれていないと、私は考えるのであります。 ということで、実際はその見分けは難しくもありましょうが、私としては、これだけ我慢強くエネルギッシュに「読ませる」ように書き込んだ本書に、終盤、少し残念な思いを持ってしまいました。……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.04.14
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