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『マチネの終わりに』平野啓一郎(文春文庫) わたくし、この作家の作品はさほどたくさん読んでいるわけではありませんが、『ある男』という作品を読んだ時に感じ、今回もまた感じました。ははん、これがこの作家の作風なんだな、と。 何のことを言っているかというと、作品にどんどん詰め込んでいく現代的課題、とでもいえましょうか、『ある男』にもいろんな話題(ほとんどが現代日本の深刻な課題)がこれでもかとストーリーに絡めて入っていましたが、本作でも同じように感じました。 しかし私は、それがよくないと思ったわけではありません。ただ、例えば谷崎潤一郎の『細雪』等をふっと思い出したりして、「この極北だな」と感じたりしただけです。 とにかく、いろんな現代的課題(今回は国内課題ではなく世界的課題)を詰め込んでいますから当然話は長くなり、文庫本で460ページほどもあります。だから、何といいますか、誉めどころも多いけれど、ツッコミどころも多いという「満腹」作品になっています。(いや、ツッコミどころも多いけれど誉めどころも多い、と書き直すべきでしょうか。) 実はわたくし、本書を読むのは2回目なんですね。 やはり、小説を再読するのはいいですね。再読すると、作品のアラよりも、思いのほかにしっかり書き込んでいると感心するところのほうが多いように感じました、少なくとも今回は。 ということで、読書報告事項が多すぎて少し困っているのですが、枝葉は捨ててざっくり幹を述べてみます。まず、2回読んでみてもちょっとここはなあ、と感じた個所ですが、やはり「大山」(一番大きな山場の部分ですね)の、三谷早苗の詐術の部分です。 ただ、都合よすぎる展開だと思ったのはむしろ、そのあとに蒔野が送ったメールでしょうか。ここはあまりに都合のよすぎる文面ではないかと感じました。(そのあとの洋子が携帯電話のスイッチをずっと入れないでおくというのは、もっと「?」ではありますが。) しかし読み終えてしばらくぼーっと考えた今は、まー、これでもいいかと思ったりしているんですね。 というのは、変な理由なんですが、この山場の描写を境にして、私は本作がぐっと読みやすくなったように感じていたんですね。そういった、後半部が読みやすくなるというのは、長い小説にはよくあることなのかもしれませんが、この度私が思ったのは、前半部作者は、いかにも慎重に慎重にこの山場に向けて伏線を張り巡らせている、そしてそれが、かなり息苦しい展開にまでなっているのに、それでも丁寧に丁寧に描いている、と言うことでした。(伏線とは、本来最も述べたい内容を直接描かないという、考えればそもそも息苦しい技法でありますね。) つまり私の変節理由は、そのようにして作った山場は、やはりそのままに読んであげるべきじゃないか、これはそんな山場の展開に、それなりのリアリティのある世界のお話なのだという、……うーん、上手く説明できたか心もとないのですが、ともあれ、筆者はここに大きな山場を持ってきたが、それはいわば段取りであって、筆者が一番書きたかったのはここじゃないと考えるということであります。 ついでにもう一つ。私がこの小説の中で一番ドキドキして読んだのは、この山場ではなく、終りから二つ目の章で描かれている早苗と洋子の会話場面の「――あなただったのね?」のところでした。 ここは上手ですねー。「ファクト」の出し入れ具合が、筆者の小説家としての職人的手さばきを存分に感じさせる見事な場面描写だと思いました。 さて、話を戻しますが、筆者が本作品を通じていちばん書きたかったことですが、もちろん一番二番の順位付けがあるのかないのかはわかりませんが、私の感じたものとしては、実は作中にけっこうあちらこちら偏在して描かれているので今更という思いはありますが、やはり一言でいうならば「恋から愛への軟着陸は可能か」ではないでしょうか。 少し長くなりますが、それが割とまとまって描かれている部分を抜き出してみます。 若い人間の心には、肉体との境界のあたりに、頗る可燃性の高い部分がある。ある時、何かの拍子にその一端に火がつくと、それが燎原の如く広がって、手が着けられなくなってしまう。その火に、相手の心のやはり燃えやすい部分が焼かれてしまうと、二人はただ、苦しさから逃れるためだけでも互いを求め合わなければならない。 恋がもし、そうしたものであるならば、土台、長続きするはずはなかった。その火は、どこかでもっと、穏やかに続く熱へと転じなければならない。 愛とはだから、若い人間にとっては、一種の弛緩した恋でしかない。その先に見据えられた結婚には、どれほどの祝福が満ちていようと、一握りの諦念が混ざり込まずにはいられないものである。 この文の中には「弛緩した恋」「一握りの諦念」という表現があります。また、この引用部の先にも、主人公の蒔野が、洋子と結婚できない未来があるかも知れないと考え、かつて彼女に恋した感情を処理した未来の自分を想像し、「そして、そのような未来の光景を、彼は憎しみに近い感情で拒絶した。」とあります。 私は、最後まで読んだ後、やはり恋から愛への軟着陸は、本作の大きなテーマだと思いました。 ただ、本作にその一つの答えが描かれているわけでも、どうもないようだと感じました。主人公の男女は、途中で何とも不条理な障害によって関係を引き裂かれていただけで、恋から愛にはまだ向かっていないのかもしれないからです。 (この「何とも不条理な障害によって関係を引き裂かれ」という部分について、私は読んでいていきなりある短編小説を思い出しました。なるほど、この不条理な展開というのはいかにも小説的なテーマなんだなと思いました。その短編小説は、村上春樹「中国行きのスロウ・ボート」の二人目の中国人の話であります。) 常識的に空想して、作品の最後の場面の後に続くのは、この先、より関係を深めていく二人でしょう。(早苗は? 冷たいようだけれど離婚しかないでしょう。自分を愛していない男性と一緒に暮らし続けるのは、彼女だって辛いことでしょうし。) つまり、二人はやはり、まだ恋にとどまっているのかもしれません。 ただ、筆者が提示した「恋から愛への軟着陸」、それも「弛緩」「諦念」を伴わない繋がり、というのは、実はわたくし以前よりそれなりの興味を持っています。 これは、以前の『マチネの終わりに』の読書報告でも触れましたが、古今東西に無数にある恋愛小説には、ほとんどそれは描かれていないと(その読書量も少ない私が傲岸に述べるのもなんですが)思うからであります。(私が読んだほぼ唯一の例外は、谷崎潤一郎『春琴抄』です。) つまるところ、本作にもそれは描かれませんでした。 どなたか、いや、『〇〇〇』には描かれているぞ、とお教えいただけませんでしょうか。よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.01.24
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『桐島、部活やめるってよ』朝井リョウ(集英社) 『少女は卒業しない』朝井リョウ(集英社) 今回は2冊まとめて読書報告してみますね。 2冊まとめてというのは、久しくしませんでしたが、読み終えた今でも、内容が微妙に私の頭の中でこんがらがっているからであります。 そこで、とりあえず私のこの2冊との出会いを時系列でまとめてみますね。 私はまず、『少女は卒業しない』の映画を見ました。(監督・中川駿) ちょうど少しまとめていわゆる「青春映画」というものを見ていた時期で、(旧い映画も見ましたよ。『若者たち』とか。)その一環としてアマゾンで見たんですね。 するとこれがけっこう面白くて、かなり感心しました。 そしてこの面白さはいったいどこから来るのだろうと思いまして、見ると原作は朝井リョウとあります。(私のごく偏っている映画の評価として、やはり原作や脚本がまずしっかりしてないと面白くないんじゃないか、というのがあるんですね。いえ、全く賛同しない方々がいらっしゃることは、それなりに知っていますが。) 小説家朝井リョウの名前は、一応知っていました。しかしまだ一冊も読んだことはなく、私の知っていたことは、上記の『桐島、部活やめるってよ』という作品が一時話題になっていたという程度でした。 ベストセラー小説を読むか読まないかというのは、一種の見識であるという意見から、歪んだ選民意識(ナルシズム)であるという意見まで様々ありますが、私はどちらかというとあまり読まない派で、そのために面白い作家を見落とすということは結構あったと思っています。(多分、今回の報告もそんな一例かなと思います。) で、図書館に行ったんですね。 すると、『少女は…』は、借りられているじゃありませんか。仕方がないので、予約をして(予約順は少ない番号でした)、そして、いい機会だからと、この『桐島、…』を借りたんですね。 そして、読みました。 とっても、面白かったじゃありませんか。一気読みでした。 ちょっとびっくりしまして、あれこれ考えているうちに、『少女は…』の本が届いたとお知らせが来て、私は勇んで図書館に行き、わくわくしながら(あー、今からこの本が読めるというわくわく感は、いったいどのくらい久しぶりでしょうか。)読みました。 ところが……。 ……えっ? なんか、違う。 あまり面白くないんですね。いえ、本を放り出すほどの面白くなさ、というわけではありません。一応、先に映画で見ていることもあって、私の側の小説に対する好意的先入観は十分にあったと思うのですが、あ、いえ、ひょっとしたらそれがよくなかったのかも知れません。期待しすぎ、というやつですね。 とにかく、私はそれなりに本書を読みました。「それなりに」という感覚をまさに持って。で、私は、混乱したわけです。そんなことって、あるだろうかと。 『少女は』映画→〇、『桐島』小説→〇、しかし、『少女は』小説→……うーん。 ……こういうことも、あるのかなぁ……と。 で、私が次にしたことは、想像がつくと思いますが、『桐島』の映画を見ることでした。(監督・吉田大八) で、見ました。2回見ました。(2回見たのは、映画は複数回見たほうがよくなるという「持論」に従ったからです。) で、その感想ですが、これもあれこれ迷いましたが、もー、ざっくりまとめると、『桐島』については、小説と映画は別物である、という我が(偏見的)理解でありました。 そもそもメディアが違うのですから、小説と映画の内容が若干異なっていても、それはそういうものだろうということくらいは私も知っているつもりであります。 でも、今回の2作品は、これは究極的に別物だろうと、私は思わざるを得ませんでした。いえ、だからどちらかが劣っているということではないつもりです。 それが合うのかわからないながら、日本古典文学的マニアックな例えでいいますと、この二者の関係は、紫式部『源氏物語』と江戸期の柳亭種彦『偽紫田舎源氏』の関係(って、よくわかりませんよねー)みたい、かな、と。 少なくとも、紫式部の古典原文と例えば瀬戸内寂聴現代語訳『源氏物語』との関係と同種のものではない、と。 というわけで、今回の読書報告は、「読書報告」というにも羊頭狗肉感のあるものではありました。 しかし、ごくごくシンプルに私の読後感想を述べますと、とにかく小説『桐島』は、活きの良さ、新鮮感全開という感じでした。 斬新なタイトルと、「桐島」存在についての意表を突く展開、青春小説の諸要素(友情・恋愛・家族・未来・不安等)をすべて含みつつ、私が何より素晴らしいと思ったのは二つです。 一つ目は、微妙に未熟さも含みつつ、丁寧としっかり書き込んでいる感性的な文体。 二つ目は、19歳の筆者の意気込みをひしひしと感じることのできるデビュー作に独特の気迫。 私はこの二点にとても魅力的なものを感じました。 そして逆に言えば、この二点の不足こそが、そのまま『少女は』について私が感じたやや不満足な思いの原因でもあったように思います。(デビュー作独特のものうんぬんはもちろん無理筋ではありますが。) ともあれ私は、リアルタイムでのこの筆者の活躍ぶりについては全く知りませんが、大いに興味深いものと感じる次第であります。よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.01.10
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