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『カンガルー・ノート』安部公房(新潮文庫) 本文庫の解説をドナルド・キーンが書いていて、おおよそ褒めてありますが、解説文のおしまいあたりにこう書かれています。 『カンガルー・ノート』は文字通りの前衛文学である。前衛的であるから同時代の読者に分かりかねる部分もあろう。或いは未来の読者が難なくこの小説を読んで、安部さんと同時代の批評家たちはどうしてわからなかったのだろうかと不思議がるかもしれない。 この『カンガルー・ノート』から遡ること約20年、安部公房の新潮社純文学書下ろし特別作品の『箱男』の箱の裏表紙には、同じくドナルド・キーンがこのように書いています。 『箱男』を読了して、私は輝くような場面の連続で頭が一杯になり、分析するよりも、もう一度読んでみたいという気持ちが強い。 いかがでしょう。どちらもいわば「宣伝文」ですから、もちろん褒めてはいるのですが、言っていることは決定的に違っていますね。 『箱男』については、詳しくはまだわからないけれどとても素晴らしいと書かれており、『カンガルー・ノート』の方は、素晴らしい可能性は高そうだが私には全くお手上げだ、と書かれているように私は思いました。 そして、キーン氏がそう書いた気持ちは、憚りながら、私などの素人が読んでもとってもよくわかるんですね。晩年に向けて、安部公房の小説はどんどんわからなくなってきています。 私の手元に安部公房について書かれた2冊の本があります。以前、もう一つのブログで紹介した本ですが、この2冊です。 『安部公房伝』安部ねり(新潮社) 『安部公房とわたし』山口果林(講談社) 一冊目の本は、安部公房の一粒種の娘さんの書いた本で、公房研究の第一次資料としてとても重要な本であります。しかし、公房の最晩年については、ほとんど何も書かれていません。なぜか。 それは、公房は最晩年、妻である安部真知と別居し、愛人であった山口果林とほとんど行動を共にしていたからであります。 そして『カンガルー・ノート』は、そんな最晩年に書かれた小説であります。(だから、山口果林の本は、最晩年の安部公房研究にとっては、安部ねりの本をはるかにしのぐ重要な第一次資料となっています。) 安部ねりの本に、公房が妻と別居するに至った理由について、このように書かれてあります。 40歳を過ぎた真知にも変化があり、自己に回帰するようになり、(略)真知の中に公房に対する競争心のようなものが芽生えて張り合いたくなってきた。(略)真知の公房に対する絶対の尊敬は、かげりを見せた。 そして、数行後にはこのようにあります。 事実をまるで絵画のように一部強調して感じたりすることは人がよくやることだが、ついに的外れな批評家のように知ったかぶって公房の作品を批評してしまったりもした。 で、二人は別居に至るのですが、これが原因というほど単純なものではないでしょうが(もちろん山口果林の存在がとても大きいでしょうが、安部ねりは、公房の愛人としての山口果林の存在を本文中に全く触れていませんので、このあたりはかなり奥歯にものが挟まったような展開になっています)、晩年に近づくに従っての安部作品の難解さは、わたくし思うのですが、真知氏が「批評」をしたく思うのももっともではないか、と。 ところで「ねり本」には、公房の死後、ねり氏がドナルド・キーンにインタビューした文章が収録されていて、そこにこんなことが書かれています。 お父さんはもちろん、一般の読者をただ喜ばせようとするなら、彼が若いころ書いていたものを続けて書いたらよかったのです。なにもそんな複雑なことを書かなくてもよかったのです。誰も考えていないようなものを書こうという野心がありましたから、読者が読んでくれないかもしれないと考えても、それでも書いていました。仮に批評家がわからないとか、つまらないとか書いても、本がよく売れました。 ここに描かれているのも、作品の批評を完全にあきらめた上での、その作品に対する好意といいますか、むしろ作者に対する信頼、または期待のようなものが書かれていると思います。実際に本がよく売れたというのも同じだと思います。 さて、『カンガルー・ノート』の内容に直接は全く触れずにここまで書いてきましたが、もうお分かりのように、私にも本小説の良さが、ほぼ全く分からないわけであります。 この度私は図書館で借りて文庫本で読みましたが、家には単行本があり、出版されてすぐに買って読みました。 その時もきっと全く分からなかっただろうと思いますが、1991年に刊行されてすでに30年以上になり、自分が読んで理解できない本について、私は、老人的硬直さを大いに発するようになってきました。 30年前、分からなくてもきっと素晴らしい本なんだろうという理解というか、感情の動かしかたをもはや、しなくなったんですね。 わたくし、ふと思ったのですが、書籍にも最もふさわしい出会いの時期があるという言い回しは、こういうことを指しているのじゃないかと、遠くを目を細めてみるような寂しさとともに感じたのでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.06.30
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『土に贖う』河崎秋子(集英社) 友人からの薦めのような形で、本書を読んでみました。 人から薦められるとか読書会の課題図書だとかがないと、なかなか新しい作家の本に手が伸びないのは、なんとなくいかんなあと思いつつ。 読んでから、ちょっとネットで調べてみたんですね。 すると、直木賞受賞作家とありました。なるほど、それっぽい感じではありますね。さらにもう少し読んでみますと、2020年に『土に贖う』で新田次郎文学賞を受賞し、2024年に『ともぐい』で直木賞を受賞と。 つまり今回の報告作品は、直木賞受賞以前の作品であります。 何が言いたいのかといえば、私は今回の本書について、まー、なんといいますか、さほど感心しなかったわけですね。 で、いわば、まだ「成長期」の作家だったころに書かれた短編集だったんだなと、そんなふうに納得をしたという事であります。 (これは閑話ですが、芥川賞受賞者の最初の作品集なんかで、芥川賞受賞作と一緒に受賞以前の作品が収録されていて、それがとても受賞作と比較にならない「凡作」であったりしたことありませんか? もっとも、芥川賞は入門者の賞で、直木賞は初級者の上りの賞だみたいな話は聞いたことがありますが。) ということで、以下の文章は、私があまり納得がいかなかった個所の説明となり、それはどうしてもあまり褒める文脈にならないだろうわけで、少し困ったなと思ってもいます。 例えばこんなところなんですがね。 「南北海鳥異聞」という短編の冒頭近く、時代は「明治も二十年を越えた」年、鳥島でアホウドリを撲殺する仕事をしている弥平と泰介という二人の「三十男」のせりふ部分です。 少し力が余ったのか、首の部分から骨が突き出して皮を貫き、血が白い胸の羽毛を汚している。それを見咎めたのか、弥平の背後から「おいこらぁ」と野太い声がかかった。「弥平。お前、血ぃ出させるな。力入れて殴りすぎだ」「何でだ。血が出ても出なくても、鳥殺すのは一緒だべ」「あほが。鳥の羽とるのに殴ってるんだから、その羽がきれいでないと値が下がる。力加減、気ぃつけれ」「悪かった。次は気をつける」 このセリフのどこに私はおやっと思うかといえば、この描写の後にこんな説明があるんですね。 弥平は今日はもうこうして二百五十羽ほども殴り殺した。 二百五十羽も殴り殺した後のせりふのやり取りとしては、少し変じゃないですかね。 私はこんなところが気になるんですね。 さらに二人は鳥を撲殺し続けていくのですが、泰介がこんなセリフを言います。「しっかし、弥平、お前はまったく躊躇しねえなあ」 そして少し先にこんな説明があります。 弥平と泰介は東北の山奥にある寒村の生まれだ。いずれも家は小さな農家で、弥平は上に三人も兄がいる末っ子のせいか、親にも周囲からも温かく目をかけられることはほとんどなかった。 私は、泰介のせりふの中の「躊躇」という言葉に引っ掛かります。 それはお前の勝手な感じ方だといえばそれまでですが、私はもっと別のこなれた言葉で説明できないのかしらと感じたりします。 他の作品にも、この作者の描写に対して、細かい指摘ではありますが、その表現が最もふさわしいのかなと思ってしまう個所が、私としては、けっこうたくさんありました。 例えば、別の短編小説で、昭和三十五年の「札幌近郊、江別市」の、父子家庭で父親が「装蹄所」を一人で営んでいる小学校五年生の男子が、父親と話をしている場面です。話題についての引用はしませんが、父親の会話に対して男の子はこう答えます。「なんか、割り切れない。納得できないよ」 どうなんでしょ。これもお前の変な思い込みだと言われたらそうなのかもしれませんが、私は小学五年生の男子が使う用語としては、「割り切れない」はかなり違和感を感じます。 さて、そんな細かい指摘をしてしまいました。 実は全体の物語の構造などについても、少し個人的に違和感のあるところはありました。しかし、短編集全体の「近代北海道開拓史の中で厳しい自然と共に生きる人々を描く」とでもいえる大きなテーマに、とりあえず真正面から取り組んだ作者の心意気は、いかにも壮とするべきで、その後この志が直木賞受賞に至ったについては、大いに納得できると思いました。 私は、次はその直木賞受賞作を読んで、物語の構造などについても鑑賞させていただこうと思うものでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.06.16
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『ここはとても速い川』井戸川射子(講談社) 私は本ブログに、去年の2月に本書の読書報告をアップしています。この度また読んだのは、私が参加している読書会の課題図書になったからです。 以前読んだときに、講談社文庫の本書を買ったので、今回もそれをもう一度読もうと思ったのですが、家のどこを探しても出てきません。 おかしいなあおかしいなあといいながら探したのですが、どうにも出てこないので仕方なしに自転車で走って行って、少し遠い目の図書館に単行本としてあった(文庫本はなかった)ので借りて読みました。 だから2度目の読書ですが、1年以上も前の作品だとあまり内容を覚えていません。でも1年程度前の再読本だと、読んでいるうちにあれこれ思い出していきます。 それはそんな再読の小説だからそう思ったのでしょうか、前回は少し読みにくいと思ったお話が(本書には二つの小説が収録されていますが、特にそのうちの、総タイトルになっているほうの小説が)、とっても読みやすく、さらには「感動」までしてしまいました。 それは「ここはとても速い川」という題名の小説で、筆者はこの作で野間文芸新人賞を受賞し、その次作の「この世の喜びよ」で芥川賞を射止めるという、まさに絶好調の時期の作品であります。 前回読書報告をした時私は、本作品の文体はかなり工夫してあると感じ、その文体について詩的な効果があると書いたのですが、しかし一方で、やはりどうにもわかりにくい個所が少なくないとも報告しています。 今回読んでもやはり、これ説明へたくそなんちがう? と関西弁で思ってしまうような、たどたどしかったり舌足らずに感じたりするところが、特に前半部に見られるかと感じました。 そしてそれについて、私なりに問題意識を持ちながら読んでいきました。 まず思ったのは、本文が、小学5年生の男子がおばあちゃんに自分の近況報告をするために綴ったノートであるという設定。(そんな種明かしっぽいことは、なんとなく気になりながらも、本作品を3/4くらい読んだところでやっと初めて明かされます。) つまりこの稚拙感は、小学5年生の思考や語彙力で書かれたことになっているからかと、まー、誰でもそう思うでしょうが、私もそう考えたんですね。(ただ、読んでいて、こんな語彙は小学5年生の男子の頭の中にあるかな? と思わないでもない箇所はありました。) しかし、最後まで読んだときに、わたくし、本当にあっと思いました。 本作の最終盤の数ページ。主人公の少年が園長先生に訴える場面の「外堀」のようなカタストロフィーと、さらに最後2ページの「内堀」のようなカタストロフィー。 この二か所を書くために、筆者は、文脈的には描写になっていないような「へたくそ」な一人称視点の説明文を作品中あちこちに張り巡らせたのか、伏線だったのかと思ったとき、私はほとんど鳥肌が立つように感じました。 それを詳しく報告するには、本当はその部分を引用すればいいのでしょうが、そもそもが流れ落ちる滝のように切れ目なく描かれているこの文体では、短く抜き出しようがないので、うまくいくか、こんな説明をしてみます。 これは有名な、萩原朔太郎の詩。 蛙の死 蛙が殺された、 子供がまるくなつて手をあげた、 みんないつしよに、 かわゆらしい、 血だらけの手をあげた、 月が出た、 丘の上に人が立つている。 帽子の下に顔がある。 この詩の中で、描かれている状況を説明している部分は、おそらく最後の一行だけだと思います。そしてその最後の一行は、何ら論理的な説明をしていないにもかかわらず、我々読者に、この説明しかないと思わせる説得力があると私は思います。 本書の表現をこの有名な朔太郎の詩と全く同様に理解することはできないとしても、私は、それが説明になっていなくてもこの表現しかない、この表現こそが最も正確に描かれているのだと感じさせるものが、本小説のラスト数ページに、外堀と内堀のように描かれていると思いました。 そしてその先には天守閣=少年の心の真実があると、強引に感じさせる文体のパワーを、私は感じました。 実は私は、本書のような未成年者の一人称で書かれる小説には、なんというか、やや安易さがあるんじゃないかと思っていました。すべての小説がことごとくそうではないまでも、表現の拙さを一人称の心理心情のリアルであるものとして、描くべき真実にぎりぎりまで誠実に迫る表現力を放棄している様に感じてきました。 しかし、本書の小学5年生男子の一人称は、その少年の真実の心のありようを描くという狙いに従って、最も効果を計算して採用されているのではないか(高齢で施設に入っている祖母に読んでもらうためのノート記述という設定についても)と思われ、そして力技で最後まで描き通した本作は、筆者の表現に対するある意味クールなこだわりが本物に近いものである気がして、ひょっとしたら、この作家はこの先大化けする方じゃないかなと、私は思った次第であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.06.02
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