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『箱男』安部公房(新潮社) 安部公房『箱男』、多分4回目の挑戦読書であります。 4回以上読んだ小説も他にないわけではありませんが、でもわたくしとしては、やはり例外的であるのは間違いないと思います。 ではなぜ、4回目の読書挑戦になったかといいますと、それはわたくしのもう一つの拙ブログで報告させていただいております。(ちゃっかり宣伝) 安部公房原作『箱男』の映画を見たんですね。 見る前に読んでおこうかな読まないでおこうかなと少し迷い、結局読まずに見ようと思いました。その理由は二つあります。 一つ目は、原作の内容をほとんど覚えていないほうが、映画が面白く感じられるんじゃないかということです。これは、よく言われることですよね。「映画化は失敗だ」なんて言われる原作付きのケースは、観客が、すでに原作から受けていた印象から自由になれないからでしょうかね、だから、映画を見るにあたっては原作はほとんど忘れているほうがいい、と。 で、もう一つ、私の場合は理由があるんですね。 それは、今まで3度『箱男』を読んで、はっきり言って自分のような軟弱な頭では理解しきれないと、今まで感じていたんですね。 だからこのまま4回目を読んでも同じだろう。むしろ、先に映画を見て、そこから何かヒントを得て原作に当たれば、何か新しい理解を得ることが出来るんじゃないか、と。(ここまで書いてきて、わたくし、健気なほどに論理的ですねと自画自賛!?) で、読んだわけです。4回目読書。 やはり、映画を先に見たのは、いろいろヒントになったように思います。 映像化されたイメージを頭において文章を追うと、文字表現だけでは自分の理解に自信があまりなかったようなところについて、やはりこの読みでよかったんだ、などと思ったりもしました。 で、どのように思ったかといえば、これは別の拙ブログでも触れましたが、やはり「箱男」というのは、ひとつの状況のネーミングではないかという事でありました。 登場人物の手記という形をとっているので当然ともいえますが、その人物の主観による状況の説明・考察・感想などがほぼ作品全体を占めていることや、今まで読んでいた時はよくわからなかった「貝殻草の話」「Dの場合」そして「ショパン」の話なども(映画では取り上げられていませんでしたが)、比喩または寓話による「箱男」的状況の説明と捉えることが出来るように思えました。 「状況」と書きましたが、プロットの中心となる筋は、ないではありません。ただ、その筋は、途中から執筆記録状況自体を主題とするメタフィクションのような展開になっていき、一本の筋は拡散していったように思います。 併せて、それを書く描写は、迷宮のようになりながらも、やはり一人称の説明・考察・感想による展開で、それは「状況の説明」から離れてはいないと思いました。 そしてやはり、「状況」こそが中心なのだと読めば、作品の冒頭と終末が、共にシンプルな箱の作り方解説になっているのも、きわめて象徴的だと私はひとつ納得をしました。 ……と、あれこれこね回したようになりましたが、しかし、私が読んでいる最中ずっと感じていたのは、実は重苦しさでした。 もちろんこの重苦しさには、内容を伴った意味があるのでしょうが、しかし、それにしても何とも重苦しい。 で、ふと考えたのですが、今まで3回読んできて、やはり毎回重苦しかったはずだ、なのになぜ3回も私は読んだのか。 一番に浮かぶのは、安部公房独特の、跳躍距離の長い乾いた比喩表現であります。 例えばこんなところ。 不快なしびれが、口のまわりに輪をつくる。夢の中の駆け足。 ぼくは空気銃男が消えた後の、無人の坂道を眺めながら、こわれた水道の蛇口のような湿っぽい気分になっていた。 或いはこんな部分は、比喩ではなく、安部公房の独壇場のシニカルの論理展開なのかもしれません。 裸と肉体は違う。裸は肉体を材料に、眼という指でこね上げられた作品なのだ。肉体は彼女のものであっても、裸の所有権については、ぼくだって指をくわえて引退るつもりはない。 もっとも、彼女について、まだ批評がましい意見を述べられるほど知っているわけでもない。しかし、右眼にとって、左眼についての知識が、なんの役に立つだろう。肝心なのは、とくに意識しなくても一つのものを注目することが出来、ごく自然に関心を共有し合える信頼なのである。 ……うーん、こういう風に引用をしていきますと、安部公房の逆説的文章というものが、重苦しさを伴いながらも、いかに強靭な魅力的構造を持っているかつくづくわかる気がします。 そして、実はわたくし、書き写していてもう一つ、ふっと連想したことがありました。 それは、確かに描かれている細部の展開は、砂を噛んでいるようにざらついて、いわば少しも魅力を感じません。まるで無機質のようです。 で、ここで私はふと思ったのですが、無機質の魅力って……。 そういえば、安部公房の芥川賞受賞作『壁』にも、無機質の魅力や、無機質が大いに称讃されていました。 で、さらに私の連想はここでまた跳んで行ってしまったんですね。 ひょっとして、無機質の魅力は、鉱物の魅力につながってはいないか、と。 そして、我が国の鉱物的文学の第一人者といえば……。 私は実は、安部公房氏がその作家が好きなことを知っているんですね。 だって、(もうお亡くなりになられましたが)一粒種の娘さんの名前が「ねり」さんですもの。 ……『グスコーブドリの伝記』。 ……宮沢賢治。 ははあ、これは、魅力的なのも当たり前だわ……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.09.22
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『草すべり』南木佳士(文春文庫) 少し前にこの本の筆者の『阿弥陀堂だより』という長編小説を読みました。(本ブログでも報告しています。) 割と面白かったので、古本屋で本書を見つけた時に、ほぼ迷わず買ったんですね。 4作の小説が収録されている短編集ですが、あの長編小説によく似たテイストだろうと少し期待したんですね。 いえ、よく似たテイストといえば、確かにそうも言えるのですが、その長編小説と大きく異なっているのは、本短編集が一種の連作仕立てになっていて、それがすべて「山岳小説」となっているところでした。 「山岳小説」――山登りをテーマにした小説があることは私も何となく知っていましたが、ネットで少し調べてみると、明らかに大きな小説の一ジャンルであること、例えば、推理小説とかSF小説とか企業小説とか恋愛小説とかと同じ一ジャンルであることを、恥ずかしながらわたくし、始めて知りました。 ついでに少しさらに調べたんですね。ネットにあった「山岳小説ベスト100」とかを見ました。 すると、えらいもので、私は全く一冊も読んでいないことがわかりました。(山岳小説がわからないわけだな、と。)ついでにこのジャンルの小説家で、名前だけでも知っていた作家は、新田次郎だけでした。(私は寡聞にして、新田次郎を一冊も読んでいません。) ……あー、世間は広いものだなーと、反省を絡めつつ感じたのですが、そんなわけで、今回の読書は、奇しくもわたくしの山岳小説読書初めになりました。 で、読みました。 今「山岳小説」と書いたところでありますが、そこに描かれている主テーマは『阿弥陀堂だより』と同様、医師である主人公が見つめる病や生と死であります。 それはまー、当たり前といえば当たり前なのですが、本ブログで主な読書対象としている「純文学」やその周辺の小説群は、突き詰めていけば「人間とは」というものがテーマとなっています。いわば本書は、それに山登り描写が絡められて描かれている、というわけですね。 でもやはり、いかんせん、山岳小説初体験のわたくしとしては、山登りを書いた描写のどこが面白くどこが凄いのかが(全くとは言いませんが)よくわかりませんでした。 ただそんな素人目で見ても、本書の描写がかなり控えめに描かれていることはきっと確かで、これは、ははん、山登りではあるけれども、それを特別なイベントとして捉えるのではなく、日常(医師としての苦悩の日常)の延長としての位置づけをにじませながら描いているのだなと感じました。 例えばこんな部分はその最も典型的な部分ですが、初老の主人公が、久しぶりに会った高校時代の女友達と一緒に、かなりハードな登山をしている場面です。(途中休憩のシーンです。) アルミホイルにくるんできたキュウリの浅漬けを差し出したら、沙絵ちゃんは二切れ取って、気持ちのよい音を立てて食べてくれた。 頭上を雲が走る。深い青空、雲、深い青空、雲。 ありがとう。 沙絵ちゃんが空になったコップを返してきた。おにぎりを二つ食べてようやく空腹感は消えた。(「草すべり」) ……実はこの短編小説には、セリフのひとえカギ(「 」)がなく、前後一行行明けで書かれているんですね。その狙いはよくわからなかったのですが、この個所なんかは見事にそれが効果的になっていますね。 展開から読むと「ありがとう」は間違いなく沙絵ちゃんのセリフでしょうが、この「ありがとう」の手前までを順に読んでいくと、「ありがとう」は、主人公の、山岳自然に対する感謝の一語のように読めます。(「深い青空、雲」の繰り返しがあったりして、私はそう読みました。) 私はふと連想したのですが、こういった日常生活の地味な一コマを、研ぎ澄まされたような工夫と文章でさりげなく読ませるというのは、まさに日本文学の、「私小説」の伝統ではないのかと。(そういえばと、私は、小津安二郎の映画もちらりと連想しました。) 様々な苦悩、それも結局のところ、生きること自体がその原因であるような苦悩を描く小説というのは、まさに文学の本道であります。 数知れない文学者かそれに取り組んでいき、そして、様々な出口を発見することが出来たりできなかった物語を作品として記録してきました。 この度の一連の山岳小説群は、いわば「山岳信仰」などにはすぐに結びつくことはない、ひとつの小さな記録の小説なのかもしれません。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.09.10
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