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最近やや重、元に戻って読み返す必要がある本が続いたが、 久々のスラスラ・あっと言う間に読了の一冊に遭遇。 そんな本著購入の動機は、何と言ってもそのタイトル「6時に帰るチーム術」、 副題「なぜ、あの部門は残業なしで好成績なのか」に引かれてである。 「本当に6時に帰れるのか?」 「いったい何時に働き始めての話だ?」という具合に 突っ込まずにはおれないタイトルなのだが、 残念ながら、後者の疑問への回答は掲載されていなかった。さて、「社会の変化-24時間働ける時間は終わった」に出てくる次の一文は、目から鱗であったが、絶対に考えておかねばならないものだった。 実際、ある企業では管理職候補者リストの中で「一人っ子で独身の人」に 「リスク」のマークを付けていました。 「この人は将来介護によって休む可能性が高いので、 管理職にする優先順位を少し下げましょう」ということだそうです。(p.40)現在、退職が進んでいる団塊世代は、今から15年後に75歳、要介護世代に突入する。つまり、今30歳代の団塊ジュニア世代は、その時「自分の両親を介護する」状況に直面する。そして、この世代には既に共働きが多く、兄弟姉妹が少ないうえに、未婚率も高い。つまり、介護を配偶者や兄弟姉妹と分担して担うことが難しい。さらに、未婚率は女性より男性の方が高く、労働人口は7対3で男性の方が多い。すなわち、15年後に親の介護に直面する可能性が高いのは、男性の方なのである。そのことから、先のような「リスク」マークは、今までなら専ら女性に付いていたのだが、現在では、男性に付けるようになってきているというのだ。 *** 「ルーティン業務を効率化することが先決」。 そう考えた私は、携帯電話を使った「メーリングリスト」をつくることにしました。 店舗の売り場でパソコンを開くことは難しくても、 携帯電話であれば、接客の合間を縫って使うことができます。 商品発注や販促物の補充、スケジュールの報告など、 ルーティン業務はすべてメールでやりとりしてもらうことにしたのです。 私と販売員の「1対1」ではなく、 メンバー全員が閲覧できるメーリングリストを使うことによって、 情報が全販売員の間で共有されることになりました。(p.67)ここでの成功体験が、小室さんがやがて資生堂を退社して独立、現在に至る大きな切っ掛けになったように私は思う。しかし、化粧品専門店というのは、接客の合間に携帯でメールが打てるものなのか?また、そのメールを読んでいられるものなのか?と少々疑問を感じたのも事実である。まぁ、それぞれの業種・職場で状況はかなり違うものなのだろう。私の業種・職場では、それを実行しようなんて、鼻から無理な相談である。逆に、もしそんなことをしようものなら、たちまち各方面からクレームの雨嵐、マスコミも喜んで、大いに叩きまくる記事をバンバン書くことだろう。 評価の機能として重要なのは、結果のフィードバックだけではありません。 「このチームでは何をすると評価されるのか」という点を、 あらかじめアナウンスする効果には大きなものがあります。 チームを変える視点からは、 (1)人を育て合うこと (2)時間を意識すること (3)結果に至るプロセスを重視すること という3つが重要です。 この3つをチームとして評価することを、 マネージャーとしてはっきり打ち出すのです。(p.135)指導と評価は一体のものであるから、本著がチームに、そしてその構成員である社員に求める全てがここにあるはずである。すなわち、この3点こそが本著のエッセンスということになる。これができれば、6時に帰れるのである。さて、本著に書かれた「チーム術」を実践する6ステップ・25のツール、最大の難関だと私が感じたのは、最初の一歩「朝メール」である。これに踏み出すことが出来れば、あとは何とかなるんじゃないかという気さえした。これも、実現可能な業種・職場と、かなり困難な業種・職場がありそうだ。
2010.12.30
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これも、随分以前に購入しながら、 チラチラッと最初の方を眺めただけで、 本棚に放置してあったものを取り出して読んでみたもの。 しかし、本著は本当にスゴイ一冊であった。 本著が、文庫本という形で発行されたのは、1983年10月25日。 それ以前に、単行本として発行されたのは、1977年の4月である。 三十年以上も昔に書かれた書籍ということになるが、 そこに書かれている内容は、全く古さを感じさせないものであった。まず、塚本虎二氏の『日本人の親切』に掲載された随想への、著者のコメントが興味深い。その随想は、大変親切な人が、寒中にあまりに寒かろうと、ヒヨコにお湯を飲ませたという話で、結果ヒヨコを死なせてしまうというものである。さらに、若い母親が、保育器の中の自分の赤ん坊に、寒かろうと懐炉を入れる話が続く。そして、この母親も結局、過失致死罪で法廷に立つことになってしまう。どちらも、全くの善意に基づく親切だが、こんな善意が通ったら、命がいくつあっても足らない、だから、こんな善意は通らない方がよい、と著者は言う。ところが、それに対して反論が起こるのだ。それは「善意で懐炉を入れても赤ん坊が死なない保育器を作らない社会が悪い」というもの。 教育ママは「学歴なきがゆえに……」と見た夫を子どもに乗り移らせ、 子どもというヒヨコの口に「教育的配合飼料」をむりやりつめこみ、 学校という保育器に懐炉を入れに行く。そして、それで何か事故が起これば 「善意から懐炉を入れたのだ。それが事故を起こすような、そんな善意の通らない 『保育器=社会や学校制度』が悪い」ということになる。(p.40)とても三十年以上前の記述とは思えないほど、現在の状況も酷似している。モンスター・ペアレントという言葉は、最近でこそあまり使わないようになったが、もちろん、そういう傾向の言動をとる保護者は、まだまだ存在し続けているわけで、社会や学校は、そういった期待に応えるべきだと信じている人たちも多い。 ***さて、本著は日本や日本人というものを理解する上で、たいへん重要な一冊である。そして、そこに書かれている内容は多岐に渡り、簡単に語り尽くせるものではない。それでも、それをある程度簡潔にまとめたものを読もうとするのなら、次の著者による「あとがき」に書かれた文章が最適であろう。 本書で私は(中略)、日本に潜在する伝統的発想と心的秩序、 それに基づく潜在的体制の探究を試みたわけである。 表題を「『空気』の研究」としたのは、探究は「空気」にはじまり、 結局また「空気」にもどり、「空気」が全編に通ずる主題だったからである。 「空気支配」の歴史は、いつごろから始まったのであろうか? もちろんその根は臨在感的把握そのものにあったのだが、 猛威を振い出したのはおそらく近代化進行期で、 徳川時代と明治初期には、少なくとも指導者には 「空気」に支配されることを「恥」とする一面があったと思われる。 (中略) ところが昭和期に入るとともに「空気」の拘束力はしだいに強くなり、 いつしか「その場の空気」「あの時代の空気」を、 一種の不可抗力的拘束と考えるようになり、 同時にそれに拘束されたことの証明が、個人の責任を免除するとさえ考えられるに至った。 現代でも抵抗がないわけではない。 だが、「水を差す」という通常性的空気排除の原則は結局、 同根の別作用による空気の転移であっても抵抗ではない。 従って別「空気」への転移への抵抗が、現「空気」の維持・持続の強要という形で表われ、 それが逆に空気支配の正当性を生むという悪循環を招来した。 従って今では空気への抵抗そのものが罪悪視されるに至っている。(P.221)
2010.12.30
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プレジデント 2011.1.17号のテーマは「迷い、希望、突破」全課題55+αの解決法全予測「働き方、生き方、悩み方」。これは、毎年恒例の新年企画であり、仕事や自分・家族、暮らし・マネーについて、様々な分野の著名人が、一つのテーマについて私見を述べるもの。読者は、それぞれのコメントについて、頷いたり首を捻ったりしながら楽しめる。さて、これらの記事の中で、私が最も興味を持ったのが「中国人と付きあう際、最低限知っておくべき歴史は?」という、ソフトブレーン マネージメント・アドバイザーの宋文洲さんの記事。(p.46)それによると、尖閣列島の問題で、中国で起きた反日運動が、日本でよく取り上げられていたとき、宋さんが中国にいる親戚や友人に電話すると、「いったい何の話?」という感じだったそうだ。 だいたい、「国家」としての中国と、個々の「人間」としての中国は関係がないんです。 中国人は、“カタマリ”としての中国は意識しません。 世界中にいる華僑と呼ばれる人々だって、別に国の意志で活動しているわけじゃない。 多くは国を追われた人たちです。言われてみれば、「そりゃそうだ」という、当然のこと。私たち日本人だって、いつも日本という国家の意志を反映しながら、カタマリとして活動してるわけでは、決してない。中国の人も、同じだったのである。 単一民族国家と多民族国家の違いもある。(中略)日本は単一民族といっていい。 でも、中国は正反対。(中略) こういう人たちを同じ中国人だからと一括りにするのは、明らかに無理があります。 そんな中国人と付きあうには、まず、あらかじめ細かな取り決めをした契約書を交わして、 起こりうる悪い材料はすべて先に相手に言っておく。これが最初の注意点。背景の違う者同士が行うビジネスにおいては、悪い話も含めて、細部まできちんと詰めておくのが当然。背景の似通った日本人同士なら通用するアバウトな契約は、後々の大きなトラブルの元になりかねないので絶対厳禁、と宋さんは指摘。 西洋人もそうですが、「ケンカも礼儀のうち」が二番目の注意点。 だから、温家宝首相やきょうゆ報道官の剣幕を怖がる必要はないんです。 上手にケンカができるようになれば、交渉はむしろ佳境に入ったといっていい。 逆に遠慮して何も言わないと、押される一方ですよ。そして、第三の注意点は、「同じアジア人」という発想をやめることだ、と指摘。確かに、見た目や使用する文字が、まるで違う欧米の人たちに対するときと、中国や韓国・朝鮮の人たちに対するときとで、私たちの構えは微妙に違っている。そこに「同じアジア人だから、分かってくれるはず」という期待感を込めがちだ。 もちろん、肉親を日本軍に殺されたという中国人が、 日本に対していい感情を持っていないことはわかりますよ。 でも、そういう人は少数派というのが現実。 昔、チンギスハンが中国人を大勢殺したからといって、 今モンゴルを嫌っている中国人などいないのと同様、 歴史の問題は時間が解決してくれます。こういった、宋さんの指摘を受けても、「本当にそうなのかな?」と心配になってしまうのが日本人。それは一にも二にも、本当の中国、本当の中国人を私たち日本人は知らない、知らされていないということなのだろう。
2010.12.30
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ラカンは手強いと聞いていたが、さすがであった。 フロイトやユングを読んだときとは、まるで違う感覚。 その言葉は、精神科医というより、哲学者や宗教家のもののようである。 とても抽象的で、現実離れした世界での言葉遊び。 私の恩師は、私がフロイトに興味を持った際、あまり良い顔をしなかった。 彼女の専門分野は大脳生理学。 そして、私もあるところから、精神分析への興味を次第に失っていく。 その後、自分自身全く予想しなかった分野へと転身、現在に至る。さて、次の一文が、本書の中で私が最も共感した部分。 ちなみにレヴィ=ストロースはラカンのセミネールにこの時一度出席したきりであったが、 彼はラカンの話が、「正直言って全然分からなかった」そうである。 そして、数々の人類学研究の中で出会ってきたシャーマンたちの姿を、 ラカンの上に重ねたのだった。(p.227)レヴィ=ストロースが、分からないものを、私ごときが理解できるわけがない。こういう記述を読むと、本当にホッとする。 対象aは、人間の経験にいつも割り切れない感じを残させるものである。 しかし、この対象は、普遍者から見た人間自身の姿のであるから、 それと縁を切りそこから離れることはできない。 それどころか、この自分の姿を、あくまでも求めたいという欲望、 個別の人間を離れて普遍者の目から己を認知したいという欲望が人間の欲望である。 その欲望に応えようとするのが精神分析である。 近代以降の人間は、自分自身を、つまり自分の感覚の力を基準にして、 万物を測る方法を身につけてしまった。 ところが、そのためにかえって、 人間それ自身をどのように測るべきかという尺度を、失ってしまった。(p.232)ここに出てきた「対象a」を始め「大文字の物」「黄金数」等、普段の日常生活では、決してお目にかかれないような言葉が、本著では当たり前のように、何度何度も使われる。そのことに耐えられないようでは、本著を最後まで読み通すのはかなり難しい。その前に、次の「三人の囚人」のエピソードを読んで、理解できるかどうかが、本著を読み進めることができるかどうかの試金石となろう。もし、これでお手上げなら、本著には手を出さない方が無難だと思われる。 三人の囚人がいた。 そこに所長がやって来て、こう言った。 「ここに五枚の円盤がある。三枚が白で二枚は黒だ。 これをお前たちの背中に貼りつける。 他人の背中を見ることは許されるが、話をしてはならない。 そして、自分の背中の円盤の色が分かった者だけが、 そしてその理由を論理的に正しく構成できた者だけが、開放される」。 そして所長は、三人のすべての背中に、白い円盤を貼った。 結果は、三人が同時に所長のところに来て、同じ論理を述べたので、三人とも開放された。 なぜそうなったのであろうか。(p.78)
2010.12.29
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大ベストセラー『不機嫌な職場』の続編。 問題提起はしてみたけれど、その解決に向けての道筋については、 あまり多くを論じぬまま終わっていた前著。 その解決編として出版されたのが本著であり、その使命は見事に果たしている。 1.一人ひとりがイキイキと前向きな感情を持って、職場やチームに参加できている。 2.お互いを認め合い、支え合い、学び合う良い関係が築けている。 3.自分たちがやっていること、自分自身を肯定できる。 これが、p.42にある「良い職場、良いチームであるために必要な三要素」。それにしても、本著の前に読んだ『頭がいい上司の話し方』とでは、書かれている内容が、あまりにも対照的なので、最初は結構驚いてしまった。職場に求めるものが、二つの著作で、随分違っているように感じたからだ。それは、双方の著作に書かれた、次の部分から得た感覚である。 別々のタコ壺で暮らしている者同士が一緒に仕事をするためには、 「成果を上げる」という共通の目的と「論理」という共通のルールだけがあれば十分だ。 人生観や価値観を共有する必要は、まったくない。(『頭がいい上司の話し方』p.34)社員たちに繋がりなど求めずとも、共通の目的とルールさえ明確に示すことが出来れば、彼らは自ずから働き、仕事の成果は得られる、といった感じである。仕事というものに対してドップリと浸り切るのではなく、一歩引いた所から冷徹に見つめ、個々の社員を駒としてどのように動かすか、まるでゲーム感覚で臨もうとしている。それに比べると、本著の記述は古き良き時代を彷彿とさせる、暖かみの感じられるものになっている。 良い職場、良いチーム、良い会社をつくるものは何か。 確かに個人の力は必要だし、全員の結集した力も必要です。 でもそれを支えているのは、お互いのことを感じ、 お互いに自分のことを伝え合い、お互いに同じ思いを持つ、 そんなお互いに交換される感情そのものなのではないでしょうか。(本著p.236)そして、本著は「感じる力、思いやる力を取り戻そう」と結論づける。「個の時代」を突き進む前者と、古くて新しいものへの回帰を目指す後者。私自身、最初は、両者の間に随分大きな違いがあるように感じた。しかし、よくよく考えてみると、実はそれほど隔たりがないようなのである。実際『頭がいい上司の話し方』では、「人生観や価値観を共有する必要は、まったくない」と言いつつも、コミュニケーションのとり方を、仕事をする上での最重要課題と設定し、それをいかに上手く行っていくかについての記述だけで、本一冊を構成している。そして、このコミュニケーションを行う際には、必ず、お互いの感情の交換が伴うものなのである。即ち、コミュニケーションをについて考えようとすると、どうしても感情について考えざるを得ない。コミュニケーションを上手く行おうとすれば、どうしても感じる力、思いやる力が必要なのである。 ***では、本著で私が注目した箇所。まず、ひとつ目は情動というものについて述べた箇所。 ところが、どうもこの情動という、出来事(周囲の変化)に対して反応する力、 出来事を感知する力自体が落ちてきているのではないかといわれています。 身近に危険があっても、それを感じ取ることができない。 自然や人の変化を感知する力が弱っている。 だから、無意識のうちにそのリスクを放置してしまう。 これは、人間にとって、すべての生物にとって危険なことです(p.58)確かに周囲に対するヒトの持つセンサーは、能力が低下してきているように感じる。自然の中で、自然を相手に生きていた頃には、もっと研ぎ澄まされていたはず。それが、安全な都市の中で、文明の利器に守られ、他者が自分に代わって危険を感知してくれるようになって、ヒト自体の能力は低下した。次は、居心地が良い職場が陥る落とし穴についての記述。 行き過ぎてしまうと、ぬるま湯感情が組織全体を覆ってしまう。 誰かがやってくれる、このままでもいいという感情が支配的になり、 誰も自分の業務範囲を超えた仕事に手を出さなくなってしまう。(p.90)これは、ありがちなことである。気を引き締めねば。
2010.12.29
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『上司は思いつきでものを言う』に続き、途中まで読んで放置していたものを、 もう一度本棚から取り出し、最初から読み直してみた。 上司の話し方の基本を、樋口式「四部構成」とする本著は、 次のような「問題提起→意見提示→展開→結論」という論理的説明を指南する。 1.「○○しようか。」 2.「たしかにAは××だが、Bは○○である。」 3.「私は○○がいいと思う。なぜならCは○○だから。」 4.「したがって、○○しよう。」さて、本著の中で私が興味を持ったのは、まず、挨拶についての記述。これは、これまで私が常々考えていたことと、極めて近いものであった。ひょっとすると、どこかで誰かから聞いた(読んだ)ものなのかもしれない。まぁ、逆に言うと、結構世間一般的な考え方なのか。 つまり、少なくとも挨拶さえしていれば、 そこにお互いを「個人」として認め合った最低限の関係性が成立するということだ。 挨拶は、ただ気持ちがいいからするのではなく、 「自分はあなたの存在を認めている」「あなたの顔や名前を知っている」 「あなたと私は、同じ人間同士だ」というメッセージを伝えるために交わすものなのだ。 たとえ「やあ」とか「どうも」といった簡単な挨拶であっても、 そこにはきわめて饒舌な言葉が含まれている。 逆にいえば、挨拶をしないということは、 「私はあなたを無視している」と表明したのと同じこと。 だからこそ挨拶は人間関係の基本となっているといえる。(p.45)続いては、上司と部下の関係を表した記述。これも、私の考えと極めて近い。故に、これもどこかで誰かから聞いた(読んだ)ものかもしれない。つまり、世間で周知の考え方。 その意味で、上司というのは「オーケストラの指揮者」みたいなものだと思えばいいだろう。 オーケストラにはさまざまな楽器があるが、それをすべて演奏できる指揮者はいない。 ほとんどの指揮者は、ピアノのほかにもうひとつ弾ける楽器があるという程度だ。 当然、個々の楽器については「部下」である楽団員の方がはるかに上手い。 それを統括し、オーケストラをひとつの「楽器」として鳴り響かせるのが指揮者の仕事だ。(p.152)他にも「全体最適を実現するのが、社長の責任」とか「覚えきれないスピーチは、それだけで反則だ」、「そこのキミではなく、名前で呼びかける」、「ワンフレーズに集約できない指示は、現場を混乱させる」等が印象に残った。それにも増して、次の言葉が私の心に引っかかった。目から鱗である。 「好かれたい」「尊敬されたい」という欲求はよそで満たして、 職場では自分自身をゲームの「駒」として扱えるぐらいクールになりたいものだ。
2010.12.29
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途中まで読んで、何か月も放置してあったものを、 最初から読み直してみました。 なので、埴輪を売る話を読むのは2度目だったのですが、 それでも、やっぱり面白かったです。 そして、新たに読み始めたところ辺りからは、展開が急変。 官僚であるとか、儒教であるとかの話になっていき、 民主主義とか能力主義という話を経て、最後は日本的という話へ。 タイトルからは、なかなか想像もつかないところへと辿り着きました。 ***それでは、本著で興味を持った箇所のご紹介です。まず、一つ目はココ。 「仕事」とはつまり、「他人の需要に応えること」です。 いくら当人にやる気があっても、それに対する「外からの需要」がなければ、 「仕事」というものは成り立ちません。 そして、それが「他人の需要に応えること」だから、 仕事は時として、「うんざりするもの」なのです。(p.98)まさに、これが「仕事」です。「自分の好きなことを、好きなようにやる」ものではない。「他人の需要に応えて、そのリクエストに即してやる」ものなのです。だからこそ、報酬が支払われる。では次、二つ目。 「そんなもん、お前がなんとかしとけよ」の一言が、 上司から「現場を預かる部下」へたやすく発せられてしまったら、 その時に、もう現場と会社は遠いのです。 現場と会社を遠くしておくことが出来るのが、 「大きい」を達成してしまった会社の誇りにもなるでしょう。 かくして、会社と現場との間の「距離」は当然のものとなって、 会社は「会社であること」を自己目的化した組織になります。(p.109)そして、三つ目。 二十世紀まで「現場」は必要によって生まれ、作られた。 二十一世紀の「現場」は、観念によって作られる。 二十一世紀の経済がいたって危うい基盤の上に乗っかっていることだけは、 間違いがありません。(p.122)そうそう、本著では「現場」という言葉が、やたら多く登場しますが、その意味合いは、次のようなものです。 会社には、会社の拠って立つ「現場」というところがあって、 「現場の都合」を考えない会社がうまく行くわけはないからです。 「現場」というのは、普通、ヒラ社員の放たれる場所で、 ここは「会社と外側の接点」であり、また「会社の外側」です。現在の会社は、「会社の外側」である現場を見失い(見つけられず?)、会社として存続するために「会社の都合」で動いている、ということでしょうか。
2010.12.26
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「ビジネス三国志」は、プレジデントの2008年3月17日号から始まった 短期集中連載企画であり、本著はそれに各著者が加筆修正を施したものである。 私は、『プレジデント』を定期購読しているので、全ての記事を読めたはずだが、 実際にこの企画に気付いたのは、ベビー用紙オムツを扱った辺りから。 そして、それ以前の記事を読むために、本著を購入することになってしまった。 ちょっと、もったいない話である。 しかし、こうやって一冊の本にまとまった記事を読むと、 それぞれの論述が互いに響き合い、また違った音楽を奏でているように感じる。本著で扱っているのは、プレミアムビール市場における、サントリーVSサッポロVSキリン、そしてアサヒ、ハンバーガー市場における、マックVSモスVSロッテリア、モバイルPC市場における、パナソニックVSソニーVSレノボ、健康緑茶市場における、花王VSサントリーVS伊藤園、ベビー用紙オムツ市場における、ユニ・チャームVS花王VSP&G家庭用ゲーム機市場における、任天堂VSソニーVSマイクロソフトの争いである。その攻防は、消費者という立場から、リアルタイムでそれに関わってきた者からしても、とても身近で、たいへん興味深いものである。その企業や市場そのものの盛衰に対し、様々な感情が湧き上がってくる。そして、各記事が書かれて既に3年近い日が過ぎた今、その感慨はより深くなってしまう。本著は、新市場の創発や、三者間の競争プロセスについての好例を提示することで、市場というものの捉え方が、各企業の立ち位置により違ってくることや、「漁夫の利」は、主体的に創造しうるものであること等々、新たな気付きを与えてくれるものであった。
2010.12.26
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この本が何たるかは、巻末の「文庫版あとがき」を読めば一目瞭然。 女三代の年代記は、歴史小説・少女漫画・青春ミステリーと色合を変えながら、 それぞれの女性の生き様と、それぞれの時代を見事に描写しており、実に見事。 単なるエンターテイメントに終わらない、優れた作品に仕上がっている。 それに大きく寄与したのが、第二部の改稿であろう。 暴走族のぶっとんだ説話をごっそりと削って、 赤朽葉家一族の物語を増やし、第一部にあわせて文体も統一した。(p.453) これは、完成後に編集者との打合せによって為されたものである。もし、この改稿が為されていなければ、この作品は、きっとここまでの完成度には至らなかっただろう。まさに、この作品は、編集者の提案からスタートし、最後は、作家と編集者のチームワークによって完成した作品なのである。実際、本作を読んでいて、第二部は私にとって、心地良いものではなかった。どちらかというと、あえてそういう類の世界を描いた作品は、手にしない方だからである。そして、改稿前の第二部を加筆して、後日刊行された『製鉄天使』は、各種サイトのユーザーレビュー等を見ても、その評価はあまり芳しいものではない。そういう意味で、私がこの作品を最後まで読み切れたのは、暴走族のぶっとんだ説話をごっそりと削り、その代わり赤朽葉家一族の物語を増やし、第一部にあわせて文体も統一してくれていたからである。そうでなければ、途中で嫌気がさして放棄、なんてことも十分にありえたと思う。こんな感じで、私は毛鞠やそれを取り巻くキャラクターたちには、全く共感できない。それに比すると、その娘・瞳子には共感する部分が多い。また、瞳子の祖母、毛鞠の母である万葉は、とても興味深いキャラクターだ。これは、おそらく、私自身が生きてきた時代背景や価値観によるものである。
2010.12.26
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前巻から始まった「アンコール オペラ編」。 だけど、意外なほどにあっさりと今巻で終了。 これにて『のだめカンタービレ』完結。 番外編が今後も描かれる雰囲気は、少々残ってますが…… それにしても、何だかなぁ…… 盛り上がりに欠けるというか、伝わってこないというか、 作品そのもののパワーが、めっきり衰えてしまった感がある。 画の力も、物語の力も、双方共に……本当に残念。きっと色んなことがあったんだと思うけれど、もう、これ以上描き続けることが出来ないところまで頑張ってくれたことに対しては、二ノ宮さんに、心の底から感謝したいです。千秋からのだめに指環を渡すシーンで締めくくってくれて、本当にありがとう。
2010.12.26
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まるで雑誌を読むようなライト感覚。 そう、このQシリーズは、本当にお手軽で、気楽に読める作品。 今巻も最終ページのナンバリングは281、 1ページ当たりもわずか40字×16行なので、あっと言う間に読了。 美貌のスーパーヒロイン・岬美由紀が、現実離れした能力を駆使しながら、 悪の巨大組織を相手に大活劇を展開し、次々に難事件を解決していく。 同じ著者の手による、あの千里眼シリーズも軽快な作品ではあったが、 登場人物の設定や物語の展開には、それなりの深み・奥行きがあった。ところが、Qシリーズの主役を務める凜田莉子は、まさに、本著の表紙を毎回飾っている清原紘氏の描くキャラクターのごとく、実にアニメっぽく、現実離れしたキャラクターに仕上がっている。文字による文章を読んでいるのに、まるでマンガを読んでいるような感覚に陥ってしまう。新たなライバルとして登場した万能贋作者・雨森華蓮との対決。今巻のお話しは、その一言で説明が足りる。とってもシンプルで、分かりやすい。そして、結末は呆気ないほどに、スッキリとしたもの。どうも最近、松岡さんの筆はQシリーズにばかり向かっているようで、ハイペースで次々に新作を量産し、今頃は既に(7)も書店に並んでいるはず。しかし、以前から彼の作品を愛するファンは、やはり美由紀の活躍を待ち望んでいるのでは?もちろん、私も、彼女の再登場を心待ちにしている一人である。
2010.12.25
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今年『ゲゲゲの女房』等で大ブレークした向井理さん。 その向井さんが、2011年の大河ドラマで演じるのが2代将軍徳川秀忠。 そして、この秀忠、本作の中では、とってもイメージが良い。 今までの秀忠とは、一味も二味も違う人物像が伝わってくる。 もちろん、これも大いに脚色された人物像であろう。 『江 姫たちの戦国(中)』の記事の中で、私は、 江が生きた時代の、時の権力者、信長・秀吉・家康・秀忠・家光について触れ、 秀忠を除いては、誰もが大河ドラマの主役として描くことができると書いた。ただ、それは、秀忠が他の4人に比して劣っているという意味では決してない。徳川幕府を、確固たる存在へと導いた、彼の政治的手腕は並大抵ではない。ただ、他の4人に比すれば、若干地味な時代を取り仕切る役回りであったというだけで、彼を主役とする大河ドラマを作れば、本当に面白いものが出来ると思う。 ***この物語は、主役の江が亡くなったところで終了する。後半は、本来であれば、竹千代と国松、お福と江の確執のストーリーを、もっと詳細に、ドロドロと描くこともできたはずだが、そこについては、意外にも随分あっさりと締めくくられている。時の権力者の一挙手一投足に翻弄されながらも、自分らしさを見失わず、自分らしく生きた、強い女性を描ききった本作。『篤姫』に通じるところも多々あり、大変興味深いものであった。今年とは違って、来年のNHK大河ドラマは、じっくり鑑賞することになりそうだ。
2010.12.23
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2011年のNHK大河ドラマ『江』の主演は、上野樹里さん。 しかし、『江 姫たちの戦国(上)』を読んだ限りでは、ちょっとイメージが違う。 のだめと、織田信長を彷彿とさせる戦国の女性……とても結び付かない…… ただ、私は『ラスト・フレンズ』を見ていないので、あまり偉そうなことは言えない。 それにしても、本作はテンポよくお話しが進んで行く。 (上)巻だけで、安土築城から本能寺の変、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いを経て、 小牧・長久手の戦い、秀吉の関白就任までが描かれている。 歴史上の名場面のオンパレード、まさに圧巻である。それもこれも、この物語が江という人物を中心に描かれた作品だから。彼女が生きた時代の、時の権力者は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光。徳川秀忠を除いては、その人物一人だけについて描くだけでも、大河ドラマに耐えうる大作を書ける、そんなビッグネームばかりである。だから、そこに散りばめられた歴史上の名シーンは、数えきれない。それを、何人分もまとめて一つの作品の中に盛り込めるのだから、極めて贅沢な作品である。逆に言うと、テンポ良く次々に話を進めていかないと、なかなか終わらなくなってしまう。そして本巻では、秀吉の九州征伐から全国統一、朝鮮出兵あたりまでが描かれている。 ***本作の最大の見所は、父・浅井長政を倒した張本人・秀吉と浅井三姉妹の確執。そう、秀吉は長政だけに留まらず、母・お市と義父・勝家まで死に追い込んだ憎き猿。実在の浅井三姉妹が、どんな感情を、どれほどまで秀吉に対し持っていたかは定かでないが、この物語では、相当強い嫌悪感を、秀吉に対して示し続けている。それが、戦国の世の、月日の経過・状況の変化と共に、変わって行かざるをえないことに。江が、織田家とは元来友好関係のあった徳川家に嫁ぐことになるのはまだしも、茶々が秀吉の側室になるなど、普通の感覚ならば、とても考えられないことだろう。これも戦国の世、権力者一族に生まれた者の宿命であろうか。
2010.12.23
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今年の大河ドラマ『龍馬伝』は、なかなか好評だったようである。 何と言っても、福山雅治さん演じる坂本龍馬はカッコ良かった……らしい。 と言うのも、天の邪鬼な私は、世間でとても人気が高い坂本龍馬という人物に、 昔から、あまり興味が湧かず、好感も持てないのである。 なので『龍馬伝』も、ほとんど見ていない。 もちろん、日曜夜8時には、我が家のREGZAにも福山さんが映っていた。 それに、熱心に見入っている人も傍らにいた。 でも、その時、私はたいてい本を読んでいたのだった。それに比べると、江という人物は、私にとって極めて魅力的な人物である。自分の体内に流れる織田家の血を、徳川将軍家へと繋いだ人物。織田信長自身が成し遂げることができなかった天下統一を、形を変えて成し遂げた人物……そう、スゴイ人なのである!しかし、本著に描かれている江と、実在の江とは、おそらく随分違う人のような気がする。本作における江は、織田信長を彷彿とさせる印象を、彼女に出会う人たちに抱かせ、その強烈な個性で、あの豊臣秀吉すら圧倒してしまう、そんな人物として描かれている。だが、これは、多分に脚色された人物像だろう。そう、この物語は、決して史実を忠実に描くことを目的としたものではない。実在した人物の名を借りながら、この物語のための新たなキャラクターたちを産み出し、そのキャラクターたちが、自らの個性で奔放に演じた、全く別物の新しい物語である。実際、秀吉のキャラなんて、これまでには無かったものだ。そして、本著を読み始めると、もう紛れもない大河ドラマの世界。まるで、大河ドラマとして放映されることが、予め決定済みで、それが分かっていて、書き進められたような作品。田渕さんは、『篤姫』で、すっかり大河のポイントを掴んでしまったようだ。
2010.12.19
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「ハンニバル戦記(下)」のスタートは、若きスキピオのシチリア赴任から。 彼は、そこでカルタゴ本国のあるアフリカ遠征の準備を進め、 いざ、アフリカでの戦が始まると、快進撃を続ける。 一方、ハンニバルは本国からの帰還命令を受け、南イタリアを後に。 二人の名将によるザマの会戦は、ローマの勝利で終わる。 カルタゴは、ローマから示された厳しい講和の内容を受け入れ、 第二次ポエニ戦役は終結、自治国として存続することになる。 しかし、50年後に起こる第三次ポエニ戦役で、カルタゴは滅亡してしまう。 *** 戦略家としてならば、ハンニバルは大きな誤りを犯している。 「ローマ連合」の解体が、容易に可能であると見た点である。 社会の階級が固定しているカルタゴの人間であるハンニバルのとっては、 勝って寛容になり、敗者さえも協力者にしてしまうローマ人の生き方は、 理解を越えていたのだろう。(p.82)弱小の一都市国家ローマが、ここまで大きく発展してきた理由を、明快に示した一文。そして、次もまた、そのローマ人の生き方を示した好例である。 ギリシア人には、ほとんど信じられないことであった。 他民族であるローマ人が、危機に瀕していたギリシアの独立と自由を救うために、 彼らの費用で彼らの血まで流して闘い、 しかもその後で全軍を撤退するということが信じられなかったのである。(p.109)さらに、マケドニアの国王フィリップス五世が、ローマ軍に完敗を喫し、ローマの出した条件での講和を結ばざるをえないことになった際の次の言葉は、深く重い。 自立した市民の数が多ければ多いほど、その国は強く、 農耕地の手入れもゆきとどいて豊かになる。 ギリシアの現状は、これから最も遠いところにある。 反対に、自由な社会のあり方を進めているローマを見るがよい。 あの国では、奴隷さえも社会の構成員だ。 何かあるとすぐ、彼らにさえ市民権を与える。 市民にしてやるだけでなく、公職にさえ就かせる。 立派なローマ市民だと思って対していると、 一代前は奴隷であったなどということは始終だ。 結果として、われわれは、地からわいてくるのかと思うほどに、 いつも新手のローマ人とあい対さざるをえないことになる。 このやり方でかくも強大になったローマ人に、誰が勝てるというのかね」(p.114)しかし、そのローマも、時代を経てさらに発展し、様々な指導者が代わる代わる上に立ち、それぞれの考えや個性で国をまとめより多くの地域・人々と遭遇していく毎に、いつまでも同じパターンの行動ばかりを示し続けることが難しくなっていく。 紀元前753年に建国してから、6百年以上もの歳月、 ローマは、敗者であろうとも地上から抹殺するようなことは、一度としてやらなかった。 それが前146年になるや、コリント、カルタゴとたてつづけである。 しかもこれらに加えて、カルタゴ消滅の13年後には、スペインのヌマンツィアも、 カルタゴと同じ運命をたどった。(p.201)
2010.12.19
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いよいよ、ハンニバル登場! 第二次ポエニ戦役が描かれる本巻の主役は、26歳でスペインの総督に就任し、 29歳で、アルプスを越えてイタリアに侵攻した稀代の名将である。 彼は行く先々で勝ち続け、南イタリアまでも軍を進めていく。 アレキクンダー大王の戦いぶりに、多くのことを学んだらしいハンニバルは、 優れた情報収集・活用能力と敏速な行動によって、戦を巧みに展開する。 そして、ローマ連合解体という、一大目標の達成のためには、 手段を選ばぬ冷徹さを見せることもあった。ハンニバルの活躍とは裏腹に、カルタゴ本国の戦いぶりは、あまりパッとしない。そして、ハンニバルへの支援は、ほとんど為されないまま年月が過ぎ去っていく。一方、カンネ会戦等々、ハンニバルにさんざんな目にあわされ続けたローマであったが、時間の経過と共に態勢を整え直し、反撃ののろしを上げることになる。「ハンニバル戦争」と呼ばれた第二次ポエニ戦役が始まって9年目の紀元前210年、遂にローマ側に主導権が移り、翌紀元前209年には、26歳のスキピオがスペインに赴く。そして、敵の本拠地・カルタヘーナをたった一日で攻略してしまう。逆に、ハンニバルはこれまでのように勝てなくなり、徐々に追い詰められていく。 ***さて、本著で印象に残ったフレーズを二つ。 天才とは、その人だけに見える新事実を、見ることのできる人ではない。 誰もが見ていながらも重要性に気づかなかった旧事実に、気づく人のことである。(p.127)言い得て妙、深いなぁと感心させられた。でも、「その重要性に気づかなかったら、本当に見てることにはならない!!」なんて、今の時代だったら、あちこちから突っ込まれそうな気もしますが……そう、見てるようで見てない、見えてないのが一般ピープルの常。それを為すのは天才の業。 われらが日本の特色が和の精神であるとすれば、 それを国際化時代では通用しないとして全面的にしりぞけたりすれば、 日本は日本でなくなるのと同じである。 騎兵が重要になったからといって、重装歩兵を騎兵に転化したりすれば、 ローマ人はローマ人でなくなるのであった。(p.131)これも、本当にそう思う。ローマ軍を率いた司令官たちも、誰もがそれぞれの個性に応じた戦いを展開しており、ローマ人たちも、それが敗戦に繋がったとしても、彼の命を奪うようなことはしなかった。「らしさ」を失えば、本来なら得ることができるものまで、失ってしまいかねないのだから。
2010.12.12
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高校時代、世界史という教科に対し相当な拒絶反応を持っていた私にですら、 「ハンニバル」という名は、他の誰よりも強烈なインパクトを与えた。 そして、彼こそが史上最高の名将という印象が、私の中に残り続ける。 今から思えば、世界史担当教師がその授業に、相当気合を入れた成果だろう。 その「ハンニバル戦記」(上)が、本著の副題である。 そして、この「ハンニバル戦記」は、上・中・下の三巻から成る。 即ち、ローマと北アフリカの大国・カルタゴとの戦いであるポエニ戦役は、 『ローマ人の物語』(3)~(5)において描かれている。 ***イタリア半島のつま先の西方に浮かぶシチリア島。この島の東端都市メッシーナから、イタリア半島のレッジョまでは、わずか3km。そして紀元前265年、メッシーナはシチリア一の強国シラクサにより攻撃を受け、もはや、自力での危機打開が困難な状況に陥ってしまう。シチリア島に西方から勢力を伸ばしている北アフリカのカルタゴに頼るべきか、それとも、ローマに救援を求めるべきか、国内の意見は二分される。そして最終的に、メッシーナからの救援要請はローマに届く。これを機に、第一次ポエニ戦役が始まった。アテネが衰退したこの時代、地中海第一となっていた海運国カルタゴ。一方、農牧民族であるローマ人に、それまで海軍は存在しなかった。しかし、この難題をローマは即座に解決、自然の脅威・暴風雨に度々痛い目に合いながらも、開戦から23年、遂にカルタゴを打ち破ってシチリアを手に入れ、第一次ポエニ戦役が終わる。カルタゴは、第一次ポエニ戦役で敗れたが、それは海戦で海軍が敗れたからである。ハンニバルの父・ハミルカル率いる陸戦部隊の方はと言うと、大いに敢闘した。しかし、彼は第一次ポエニ戦役後、スペイン東岸に「新カルタゴ」を建設中、戦死する。そして、その後を継いだのは、18歳のハンニバルではなく、父の女婿であった。 ***本著を読んでいて、とても印象に残ったのが、戦場における「象」の存在である。当時の戦においては、象が今で言う所の戦車の役割を果たしていたことを、初めて知った。そのパワーは凄まじいものであったようだが、これは諸刃の剣の存在で、一度操縦不能に陥ると、味方に大損害を与える、なかなか扱いにくいものだったらしい。
2010.12.12
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「ローマは一日にして成らず」(下)が、本著の副題である。 つまり、『ローマ人の物語』(1)は、「ローマは一日にして成らず」(上)である。 そして、(上)の後半からは、ギリシャの歴史が描かれている。 (下)に入っても、しばらくの間、それが続く。 それが、何とも興味深く、示唆に富んだものとなっている。 アテネとスパルタという、全く色合いの違うポリスの協調、反目の歴史。 そして、それに深く関わる、独立独歩のギリシャ人特性。 このギリシャの栄枯盛衰をローマはしっかりと受け止め、己に生かしている。さて、本巻において何よりも素晴らしかったのは、政治システムに関する記述である。その当時の、政治システムの根本的課題未だに解決せず、現代においても、おそらく最大の課題であると知り、驚かされた。それは、こんな感じである。 第一は、「民意優先」派としてもよい考えを持つ人々である。 主権在民であるのだから、国民の意を反映させながら公共の利益を達成すべきである、 と考える人々である。 古代のギリシャもローマも、主権在民という言葉こそなかったが、 市民が共同体の主柱であることに特質をもつ都市国家である。 民意をどう考えるかは、彼らにとっても重要な命題であったのだ。 第二は、「公共優先」派としてもよいかと思う。 公益こそ何にもまして優先さるべきと考える人々で、 民意は必ずしも公益の向上をもたらすとはかぎらない、と考える人々でもあった。 第一の派に属する人々は性善説に立ち、第二の派は性悪説に立つ、と言う人もいる。(p.90)「民意優先」か「公共優先」か。アメリカでは、前者の主張を民主党が、後者の主張を共和党が、それぞれに伝統として受け継ぎ、二大政党制が継続していると知って、目から鱗であった。さらに、塩野さんはこう続ける。 古代では、民意優先派は民衆派、公益優先派は貴族派と呼ばれていた。 ただし、貴族といっても、生まれながらの貴族を意味したのは最初の頃だけで、 その後はずっと、貴族の語源であるアリストクラティコスのもともとの意味である、 衆に優れた人、つまりエリートを意味するほうが普通になる。 それゆえに、前者が良しと考える政体が民主政であるのに対して、 後者の選ぶ政体は、貴族政というより寡頭政としたほうが適切かと思う。(p.91)現代社会は、科学技術において、当時とは比較にならぬほど大進歩を遂げているにもかかわらず、政治の面においては、それがほとんど感じられないことに気付かされた。それは、この政治上の課題が、人類が形成する社会においては、完全解決到底不能な、永遠に背負っていかねばならぬ課題であるからかも知れない。 これが、前四世紀半ばに確立した、「ローマ連合」の実体である。 ローマは、敗者を隷属化するよりも、敗者を「共同経営者」にするという、 当時では他国に例を見ない政略を選択したのである。 そして、これこそ、後生に有名なる、「分割し、支配せよ」の考え方の誕生でもあった。(p.129)ローマによる他地域支配についての記述だが、上巻で描かれた時期と同様、この時期においてもローマ人らしさが感じられる。そして、この辺りの記述が、経営者やビジネスマンにとって、とても胸に響きやすく、本著の評価が非常に高い原因の一つとなっているのだろう。その他、ケルト族来襲や戦術の天才ピュロスとの戦いは、ワクワクしながら読んだ。それにしても、国家誕生から他地域への勢力拡張の時期であることと、ローマの地勢的特性や、都市づくりの方向性から、当然の成り行きとは言え、あまりの戦の連続に、ある意味感心させられた。
2010.12.05
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世界史は苦手だった。 あのカタカナだらけの教科書を読むのが苦手で、 さらに、カタカナで表記された人名・地名を暗記することは、 私にとって、苦痛以外の何物でもなかった。 なのに、今回本著を手にすることになったのは、 『えこひいきされる技術』の影響である。 もちろん、それ以前から本著の存在は知っていた。 数々の経営者たちが、ビジネス雑誌で「お薦めの一冊」に挙げていたから。そんな人たちが薦める一冊の中で、私の手がどうしても伸びなかったのが、司馬遼太郎さんと塩野七生さんの著作群。でも、どちらかと言うと、私なら司馬作品に先に手が伸びてもよさそうなのに、今回の結果に至ってしまったのは、自分自身も驚きである。 ***本著は200ページ弱と一冊としては薄いもの。しかし私の特性上、何時もの読書ペースより、読了に随分時間を要した。地名確認のため、地図と照らし合わす時間も結構かかる。それでも、読んでみると流石に面白いのである。そして今巻で、私が最も興味を持ったのは、ローマ人にとっての宗教についての記述。ローマ人にとっての宗教は、指導原理ではなく支えに過ぎなかったこと。狂信的でないことが、ローマ人を排他的・閉鎖的にしなかったこと。ローマ人は戦争をしたが、宗教戦争はしなかったという下りである。 一神教と多神教のちがいは、ただ単に、信じる神の数にあるのではない。 他者の神を認めるか認めないか、にある。 そして、他者の神も認めるということは、他者の存在を認めるということである。(p.75)ローマ建国の王・ロムルスが、サビーニ族との戦闘に勝利した時、クィリナーレの土地を用意して、サビーニ族を部族をあげてローマに移住させ、自由民全員にローマ人同様の完全な市民権を与え、長老たちには元老院の議席を提供し、さらに、二人の王で統治するという、対等な立場での両部族合同和平を提案した。 「敗者でさえも自分たちに同化させるこのやり方くらい、 ローマの強大化に寄与したことはない」(p.58)ローマ人はこの姿勢を以後も保ち続け、打ち破った者達を合同し、人口の増加と兵力の増大を図りながら、大きく発展していくのである。ローマ人の宗教に対する姿勢が、このことに大きく関係している。そしてさらに、この宗教に対する姿勢が、ローマ人の次の特性に繋がっていく。 人間の行動原理の正し手を、 宗教に求めたユダヤ人。 哲学に求めたギリシャ人。 法律に求めたローマ人。 この一事だけでも、これら三民族の特質が浮かびあがってくるぐらいである。(p.76)なかなか奥が深い。
2010.12.05
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バチスタ・シリーズのジェネラルこと速見晃一と 『ジーン・ワルツ』の清川吾郎の若き日を描く青春小説。 速見は桜宮・東城大の、そして清川は東京・帝華大の剣道部主将として、 医学部剣道部の「医鷲旗大会」優勝を目指している。 そこに、バチスタ・シリーズの高階権太も、双方に関わる存在として登場。 他にも、海堂作品ファンお馴染みのメンバーたちが、主役や脇を固めている。 しかし、この物語そのものが、バチスタシリーズ等に直結するわけではない。 あくまでも、一つの青春小説に、既出作品のキャラを割り当てただけ。その辺りの事情は、『ジェネラル・ルージュの伝説』の「自作解説」に詳しいが、既出キャラを登場させたことで、ファンにとっては、取っ付きやすい作品となったものの、逆に、そのことがある意味足かせとなってしまった感がある。シリーズものとしての一面と、新作としての一面の両立を図る必要が生じたからである。つまり、速見や清川、高階については、読者は予備知識があるので(もちろん、それらを全く知らず、初めて目にする読者も多くいるわけだが)、各キャラについて、さほど詳述せずとも、読者は違和感なく読み進めることが出来る。ところが、初出キャラについては、そうはいかない。それを最も感じさせられたのは、朝比奈ひかりと、その祖父についてである。特に朝比奈ひかりについては、登場シーンから途中までは、光り輝くキャラなのに、後半は大失速で、まるで存在感がなくなってしまう。このお話しのキー・パーソンであるはずなのに、その役割を最後まで全うできていない。もちろん、このお話しは、速見と清川の二人をメインに据えたものであるから、脇役であるひかりについての記述が控えめになるのは、ある程度やむを得ないと思う。しかし、それでも読後に、何かもったいなさを感じてしまった。朝比奈ひかりをメインに描いた方が、作品に膨らみが出て、より面白かったのではと。
2010.12.05
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