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安倍首相とトランプ大統領との首脳会談の日に放映された読売テレビ「かんさい情報ネットten.」に出演しましたが、反響が思いの外多かった事に驚きました・・・反響というのは「かつては泉州の繊維産業が隆盛を極めていましたが(昭和40年代まで)、何故衰退してしまった(97%減)のか理由が解った・・・」というものです。小中学校の頃はどこへ遊びに行っても、「ガチャガチャ」と織機の音がしていたものです・・・町内に11軒、隣村には20軒も織屋さんがありました。小学校の時に、家が織物関係の仕事をしている人は農業との兼業も含めて半数くらいは手を挙げたものです・・・それが、ほとんどゼロになってしまったのですから、時代の流れというのは残酷です。※大阪泉州地区の南半分の貝塚市から岬町まで、大阪南部織物組合員数が昭和40年代前半680社あったのが、現在20社と97%も減ってしまいました(岸和田市以北の泉州織物組合や泉佐野市のタオル組合や泉大津市の毛布組合は別として)。1970年代前半にアメリカのニクソン大統領と日本の佐藤首相との日米繊維交渉で「糸を売って、縄を買った(日本の繊維製品のアメリカへの輸出を自主規制する代わりに、沖縄の返還が実現)」というのは元織物業の当事者間ではあまりにも有名な話でしたが、一般の人には殆ど知られなかったというのが解りました・・・繊維に関わる人間にとって生死に関わる事ですが、関係なければ殆ど無関心という事なのでしょう・・・繊維と一口に言っても、自動車産業と同じように裾野が広いですから、日本で2番目の大阪経済に与えた影響は計り知れません・・・当時私は高校生でしたが、滅多に見ない新聞を食い入るように読み、親父から「明日から風呂は2日に1回や・・・」「ジーパンの洗濯は月に1回洗え・・・」といった具体的な節約命令が出て、この先どうなるのやらと不安で仕方ありませんでした・・・のんびりとオケ部でトランペットを吹いている場合ではないと・・・当時織機の半分は西ドイツ向けの幅広50番手ポリエステルスパンの平織物を、残り半分はオッパ物(定番綿織物)を織っていましたが、オッパ物を織りの難易度が高い和布団生地の40番手サテン(朱子織り)に早々と転換しました。この変わり身の早さに、高校生ながら驚いたものです・・・当時織物なんて、年がら年中同じ織物を織り続けるのが常識でした。実は同じ原料(糸)を使う事による、業界特有の「ウマ味」があったのでした・・・日本の繊維業界のビジネスの本場である大阪本町に近く、繊維に強い伊藤忠や丸紅、紡績の本社もここに集中していましたので、泉州の織物業者は商売で苦労する事は少なかったのです・・・「地元の利」と言えばそうですが、苦労なく楽して長年商売をした結果、これが仇になったんですねェ・・・まァ、そんな環境で「品種替え」するなんて、大阪の常識では考えられませんでした・・・子供にとって、「何か(事件が?)あったんか?」と不安になるのも仕方ないでしょう・・・日米繊維交渉があってから数年の間は、近隣の同業者の廃業が相次ぎましたが、うちは朱子織り(サテン)という少し高級織物を織っていましたので、商社の注文が途切れることなく24時間操業していました。当時1台25万円くらいで政府の「織機の買い上げ」をしてくれましたので(補助金として)、簡単な平織しか出来ない同業者はその制度に手を挙げ廃業が相次ぎました・・・これが、これまで通りの定番しか織っていなかったら、弊社も廃業に早々と手を挙げていた事でしょう・・・親父の「何としても、織屋で生き残ってやるぞ・・・」という執念みたいなものが、高校生であった私にもヒシヒシと伝わってきた事を昨日の事のように思い出します・・・(涙)。「本当の苦境に陥いる前に、何とか知恵を絞りだす(逃げ道を見出す)・・・」というのを親父の背中が物語っていました・・・苦境に陥ってからでは遅いのだと・・・これが後々、バブルの1年前に旧シャットル式織機から新エアージェット織機への設備更新や、リーマンショックの2年前にトランクルームへの転業(織物業の廃業)に繋がっていったのでしょう・・・まだプラザ合意の影響で円高不況だったバブルの1年前(1987年)に設備更新する事によってバブル以降の2,30%安く設備機械が買えましたし(ウン千万円のコスト削減)、北京オリンピックとリーマンショックの2年前(2006年)に廃業しましたので、中古織機や鉄クズ関連が結構イイ値で飛ぶように売れましたのでトランクルームへの転業も割とスムーズにいったのです・・・1年違いで天国と地獄・・・正に、タイミング・・・1年後の1988年からのバブル期以降に織機を買えば高く買わされ、2008年以降に中古織機を売却しようにも安すぎて売り値が付きません。私は株はしませんが、正に安く買って高く売るという株の売買の原理と同じです・・・照れ屋な親父からこの「人生はタイミングがすべて・・・」というのを言外に教わりました。という事で、取材に来られたten.の山川デスクの鋭い嗅覚に恐れ入りました・・・報道デスクというのは、医者と同じように毎日毎日大変な仕事のプレッシャーに耐えながら頑張っているのだなァ・・・と感心しました。私が今ヤッテいるトランクルームや不動産やスタジオといった仕事なんて、大したコトないなァ・・・もっともっと頑張れる余地があるのだと感じた次第です・・・にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2017.03.29
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最近、年取ったのか、昔の事ばっかり考えます・・・(笑)。過去は変えられませんし、その反省をしているのか・・・(笑)。私の過去30年の仕事遍歴を振り返ると、1.織物工場の設備一新(工場の新設とシャットル織機から最新式エアージェット織機へ更新)→ 30歳2.トランクルームへ転業 → 49歳3.不動産仲介業の兼業 → 51歳4.リハーサル音楽スタジオに新規参入 → 59歳この4つをやってきた訳ですが、いずれもヤル前は「どうなるか(右に転ぶか、左に転ぶか)、全く分からない?」というのが正直なところでした・・・もちろん事前の準備や計画には万全を期し、100%自信満々で臨む訳ですが、コトはそう簡単に進むはずもありません・・・20年前に社長だった父親が急死しましたが、まだ織物業の景気がマシだったことも幸いしました。当時から営業も現場も私主導で会社をコントロールしていましたが、いざ亡くなってみると、これほど心細いものかと・・・(涙)。しかし家族と従業員を守るために、気力を振り絞り目の前のやるべき事を一つ一つ片づけていくしかなかったのでした・・・しかし、ヤッテみてイロンナ事が徐々にワカッテきて、毎日カイゼンカイゼンの連続で、日々を乗り切ってきたというが実感でした・・・振り返ってみて、新しい分野に飛び込むには勇気が要りますが、「思い切って、ヤッテ良かった・・・」と思います・・・しかし、先ず30歳で決断した1の織物機械(織機)の更新で失敗すれば、2も3も4も無かったのは言うまでもありません。これらは1という土台があったからこそ出来たのであって、先ずエアージェット織機の経験ありきだったのです・・・その1は、私の人生の中で1番の「大勝負」でした・・・文字通り何億も設備投資し、生死を賭けた戦いでした。正に、人生のターニングポイントです。やはりビジネスで成功を狙うには、リスクが必ず伴うものです・・・その1のエアージェット織機も、その2年前の「中古シャットル織機」の更新に失敗したのが原点でした。4年間のサラリーマン人生に別れを告げて家業の織物業に戻ってきて初めて手掛けたのが「織機半分の入れ替え」でした。60台あったシャットル織機の半分の30台を、これまた中古のシャットル織機に入れ替えたのです。当時はまだ、最新のエアージェット織機でも未完成で、導入するのは時期尚早と判断して、シャットル織機の中でも「ユニフル式自動織機」という弊社にあった力織機よりも回転が速く効率の良い織機を「とりあえず」導入したのでした。ただ、元が中古織機なので何処かを新品の部品に入れ替えて、ウマく動かないのです・・・元遠州織機のエンジニアだった人の浜松の家で1週間籠って、朝から晩までユニフルの分解組み立て作業に没頭し必死に修理技術を覚えました。その甲斐あって、ユニフル修理だけでなくその下のマガジンの修理も自分でデキるようになりました。しかし、所詮中古です。どう足掻いても、新品にはならないのです。中古の機械をいじくりまわして、やっと気が付いたのです・・・正に、「安物買いの銭失い」という諺を文字通り身を削って実感しました・・・「ヤルなら、思い切って!」というのを心の底から身に染みて感じましたので、その後の織機更新でも新工場まで建設したり、自宅の新築にも至ったのでした・・・ヒトそれぞれの考え方や人生観や感性なんて、学校で学ぶ通り一遍の勉強や読書だけで固まるのではなく、こういったひとつひとつの経験の積み重ねによって徐々に築き上げられていくのでしょうねェ・・・まァ、中古機械と言えど、工場を多少改造し30台も買っていましたので、このまま辞めれば損です。エアージェット織機を導入てからも2年間同時並行で稼働させ、たまたまそこそこの値段で売却先が決まりヤレヤレという感じでした・・・(冷汗)。しかし、結局トータルで30台の中古織機導入を計算すると赤字でした。まァ、高い授業料でしたが、織機の基本技術を覚え、次のエアージェット織機技術を覚えるベースになったのかと思うと、結果オーライです。中古織機導入は確かに失敗でした。しかし、それで学んだ事が次のステップに役だったのです・・・「失敗は成功の元」という事ですかねェ・・・この中古シャットル織機の技術を覚えるのに、たまたま偶然にも素晴らしい出会いがありました。近くの鉄工所で隣村の「織機の神様」と言われる方と偶然出会ったのです。それが縁で、懇切丁寧にイロイロとノウハウを教えて頂いたのが技術的に一皮むけたように思います。「隣村」という縁だけでこのような展開になったのです。「テルちゃん(父親)の息子か・・・」「惣助はん(祖父)の孫かいな・・・」というだけで、親しみを感じてくれたのです・・・もちろん先祖を辿れば、隣村ですから先祖同士が親戚や友人だった事に繋がっていくでしょう・・・私は何もしていませんが、先祖のお蔭でこのような出会いに繋がったのかと考えると、先祖に感謝以外ありません・・・(涙)。という事で、1から4までのストーリーも、結局その前の「失敗ストーリー」という基礎があったから成り立ったストーリーだったのです。当り前の事ですが、人生というのは、結局ずっと繋がっているんですねェ・・・今ある自分は、結局「過去の積み重ねの結果」です・・・学歴、血縁、地縁、運動歴、思想、病歴、恋愛歴、失恋、出会い、別れ、家出、旅行歴、音楽歴、成功、失敗、挫折、起業、廃業、結婚、離婚、未婚、出産、就職、離職、リストラ、転勤、転職、転業、倒産・・・・・・「人生の集大成」が、もう60にもなると顔に現れます。自分でもビックリしますが、もう60年も生きてきています・・・(笑)。もう当たり前すぎて、ついつい見落とし(忘れ)がちですが、自分がこのブログを書く事によって自戒しているのかも・・・(笑)。この間生まれてきた孫から見れば、もう立派な「おじいちゃん」ですが、80歳の老人から見れば「まだまだ若いなァ・・・」です。事実は1つ、考え方は2つです・・・どう捉えるかは、自分の自由です・・・いずれにしろ経営が安定している大企業と違って、零細企業の経営は不安定ですので、常に何かを提案しカイゼンしていかなければ経営が成り立ちません・・・止まったら、オワリを意味します。見方を変えれば(イイようにポジティブに考えれば)、零細企業経営は波乱万丈でエキサイティングな人生を送れるという事か・・・(笑)。なんてことを考えながら、この1年前にスタートしたスタジオ経営に特に力を入れて頑張ってきた訳ですが、ヤッテみてイロイロ分かってきた事が多いです。ヤリながら、スタジオ全般の動向を見ながら、修正修正の連続・・・とでも言うのでしょうか・・・会員数350人を超え、音楽(バンド、個人)の利用が90%です。残り10%がダンス等です。当初からドラムの個人練習が多かったのですが、このところバンド練習が増えてきています。やはり、スタジオ経営は客単価の高いバンド練習が入ってナンボですから、この傾向はイイですねェ・・・この調子で会員数が1000人に増えてリピーターも多くなれば、ドラムとダンスの個人練習の予約が取りにくくなるでしょう・・・そうなってくると、「Bスタジオ構想」が浮上してしてくるのです・・・もうここまで来たら、決して急がず、焦らず・・・スタジオ経営は所詮「水商売」なので不安定で、設備投資金額(防音&防振)の割に客単価が低いので決して儲かるものではありません。スタジオに客が溢れだしてから行動に移しても遅くはないでしょう・・・まァ、ボチボチ足元を固めながら確実に歩んでいこうと・・・今日の最後の妄想はココまで・・・(笑)。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2017.03.28
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リハーサル音楽スタジオ(「スタジオ0724」 貝塚市名越661 072-446-0798)の経営をスタートして、2月末で丸1年が過ぎました。会員数も350人に達しました。1年前のスタート時は勿論ゼロで、それまで縁もゆかりも無かった人達が「リハーサル音楽スタジオ」が貝塚に出来たというだけで1年間で350人も集まった訳ですから、この意味は重いと思います・・・そして、更にまだまだ会員数も増え続けているのですから、1年前に色んなプレッシャーを受けながらも思い切ってヤッテ良かったと感じる今日この頃です・・・まァ、多少なりとも泉州の音楽文化発展の一助になっているのかなァ・・・と、当初の想いが少し叶って、ホッとしているというのが正直なところです・・・しかし、単に多くのミュージシャンがスタジオ利用してもらってオワリでは、チョッと能がありません・・・やはり、新規スタジオ経営者の端くれとして「もうひと工夫」したいところです・・・そこで、考えました・・・同業者と同じ事をしてもナンセンスですし、第一オモシロくありません・・・大手チェーン店には出来ない、地域密着型の弊社スタジオしかデキない、自分にしかデキない、オリジナルな切り口は何か・・・?主に泉州エリアのミュージシャン350人分のデータベースが、既に私の手元に集まって来ています。これこそ、スゴイ情報です。1年間1人1人コツコツと会員登録をして集めたものです。誰もこんなデータを持ち得ませんし、もちろん何処かで買った訳でないのです。弊社スタジオの大きな財産です。リピーターさんも多いですし、単なるデータでは分からない、普段の会話の中で各ミュージシャンの志向や実力や一種の「悩み」みたいなモノもある程度把握できるようになりました・・・これが、1番大事なんですねェ・・・当たり前の事ですが、物品販売なら売り上げの最大化が第一(基本)と同じように、スタジオ経営の基本中の基本は「練習に1人でも多く来て頂く」事に尽きます。スタジオに足を運んでもらうには、「スタジオ練習が楽しい」と感じてもらう事です。その為には「悩み」を解決する事です。趣味は100%いつも楽しいと限りません・・・仕事と同じように山あり谷ありです。その山や谷を越えて初めて「継続」出来るのです・・・生活の基盤である仕事の山や谷を越えるのは自己努力しかありませんが、趣味の音楽ならその山なり谷を越えるお手伝いが出来そう・・・というのが、最近思うところです。これって、スタジオ・オーナーである私しかデキないと思うのです。具体的に言うと、最近多いのが「メンバーが足らない(欠員)のですが、誰かイイ人いませんか・・・?」といった類いです。そう、マッチングです。メンバーを捜しているバンドと、楽器の個人練習してバンド加入を希望している人を「結びつける」のです。ある意味、弊社スタジオが地元ミュージシャンの為の「地域ポータルサイト」です。特に、腕のいいドラマーが少ないのか、上手なドラマーが引っ張りだこですねェ・・・ネットでよくあるバンドポータルサイトの「メンバー募集」とかも役に立ちますが、地域に密着している場合が少ないので、残念ながらマッチングが上手くいったという話は聞いた事がありません・・・これって、不思議と不動産仲介とカブって見えます・・・(笑)。大手ポータルサイトや大手系仲介会社に載せても(任せても)なかなか決まらないのに、地域密着の零細不動産屋にかかるとスッと決まる・・・なんて事が結構多いのです。やはり、大手は取引金額の大きな物件は得意ですが、取引金額が少なく細かく複雑な物件は地域の事情に精通している零細企業の方が有利という事でしょう・・・不動産の場合はどちらかと言うと、売り手(貸し手)より買い手(借り手)の方が有利ですが、ドラマー(売り手)の場合は完全に供給不足で、買い手側であるバンドの方が断然不利ですねェ・・・弊社スタジオでドラマーの安定供給(養成)が出来れば、バンドというマーケットが安定するのではと・・・これこそが、スタジオ・オーナーである私の役目かと思うのです。デジタル社会において、こんなアナログティックな仕事もないと思います・・・手段としてデジタルティックなスマホで動画を撮って(或いはYOU TUBE)、互いに見てもらったりという「事前お見合い」をしますが・・・高校生の場合高校間の「対バン」とかライブハウスでの「コンテスト」とかで、結構互いに交流があったりとかして「流動性」があるのですが、一般社会人となると「流動性」が無くなってしまうのです。仕事や結婚で一時バンドを中断したりすると、再開しても前のメンバーが揃わなかったり、長年離れていると互いのフィーリングも離れて行くものです・・・そうなると、バンドを組みたくても中々相手が見つからないのが中年ミュージシャンの難しいところなのです・・・その辺で、一肌脱ぎましょうという事です・・・チト言い過ぎか・・・(笑)。まァしかし、スタジオ経営もなかなかシンドイです。マーケット自体が小さいながらも、格安の「公共スタジオ」というライバルの存在があるのです。当然バンド活動(練習)という広義の意味で、中学や高校の音楽室や視聴覚教室もライバルに含めます。民業圧迫と言えば言い過ぎですが、人口の多い都会は別にして、人口の少ない地方にとって、民間で最安値の弊社スタジオにとっては最大のライバルと言えるかもしれません。税金の還元という意味で、公共スタジオは存在意義があるのですが、あまり安くされるとチト民間スタジオとしては困りますねェ・・・(笑)。実際泉州の南部地区で、弊社を含めて3軒ほどしかない民間リハスタの現状がそれを物語っています・・・私の所属している空手(止揚会)も岸和田と貝塚の体育館を利用していますが、ダンス系なんかもっと体育館をよく使っていますので、民間ダンススタジオなんかモロに影響を受けているのではないでしょうか・・・しかしビジネスは戦争ですから、民間もヘチマもありません・・・相手に勝たなくては企業は存続できません。競争相手は誰か?ターゲットは誰か?相手の弱点を分析して、こちらの強みを最大限生かすアイデアを捻りだす・・・勝負に勝つにはコレしかありません。「値段が多少高くても、スタジオ0724を利用しようか・・・」というエンドユーザーを出来るだけ増やす事が弊社の使命です。その為に、既に設備面や利用時間帯を工夫していますが、最近特に思うのがこのマッチングなのです。公共スタジオはマッチングなんて出来ないからこそ、こちらがヤル意味が大いにあるのです・・・という事で、スタジオ経営2年目に突入したところで、これからの1年はこの「マッチング」強化に努め、1人でも多くバンドに加入し、バンドに1人でも多く優秀なメンバーが加入して会員の皆さんのミュージックライフが少しでも充実すればこれ以上のことはありません・・・(涙)。そして次のステップとして既にやってますが、ライブハウスに弊社スタジオ会員を紹介し、ライブハウスで会員さんが演奏する事によって更にバンド人生を充実させようと・・・残念ながら、バンドやライブハウスへのメンバー紹介も不動産仲介と違って「仲介手数料ゼロ」ですが、回りまわってイイ事もあるでしょう・・・(笑)。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2017.03.25
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弊社リハーサル音楽スタジオ「スタジオ0724」に併設して専用の楽器保管庫がありますが、それよりも本来弊社が本業とするトランクルームを借りる方の方が多いです。どういう事かというと、スタジオは「トランクルーム貝塚」別館の1階にあり、その別館2階に丁度ハイエース1台分(軽トラック1.5台分)の荷物が入る部屋が月額4000円(税込み)であります。それを個人ではなく、数人のバンド仲間で借りるのです。4人だと、1人たったの月1000円。この金額で、ドラムを含めた1バンド分の楽器が保管できるのです。手ぶらでスタジオに来て、トランクルームの部屋に保管している楽器をスタジオまで持っていくのにたったの1分です。これで、結構しんどい楽器運搬から解放されるのです・・・Eギター、Eベース、キーボード、ドラムセット、スネアドラム、ツインペダル、ギターアンプ、ベースアンプ、ボンゴ、コンガ、ウッドベース、金管楽器(トロンボーン、チューバ、トランペット、ホルン等)、木管楽器(サックス、クラリネット等)・・・特に、非力な女子にはピッタリですし、重いモノを運ぶのが苦になってきた年配の方にも重宝がられます。そしてドラマーの場合、何より自分のスネアやツインペダルといったチョッと重い楽器を苦労なく使える事が、涙の出るほど嬉しいことではありませんか・・・重い楽器運搬から解放されるだけでなく、ミュージシャンとして「マイ楽器」を演奏できるほど嬉しいことはないのです・・・既にプロのジャズドラマーの東原力哉(ナニワエキスプレス)さんも借りてもらっています。プロミュージシャンともなると所有楽器は多いですから、その一部という事でハイエース1台分のドラムセット保管に弊社トランクルームの1室を借りて頂いているのです。ギタリストやベーシストも自分のアンプの音を出せる事が、ライブ本番をどれだけ楽しみにされるか・・・これまでにも、ごく少数ながらリハスタに小さなスペースで楽器保管できるところもありましたが、うちみたいにほぼ「無制限?」ちかく保管スペースあるところは日本には無いと思います。他社のように先ずスタジオがあって次に付け足しの「保管庫」ではなく、まず大阪最大級の171室のトランクルームがあって、次にリハスタを始めましたから・・・モノは考えようです・・・他社のスタジオは先ずスタジオを始めてから「お客さんの楽器運搬がしんどそう(重そう)やなァ・・・」という発想から、「チョッとだけ保管したろか?」で既存のスタジオ内に小さなスペースを作っています。弊社の場合逆で、トランクルームを始めて「ナンで楽器保管がメチャメチャ多いの?」から「いつか楽器演奏をしたい・・・」というお客さんのホンネを聞きだし、リハスタ構想が具体化しました・・・そのリハスタ構想に、20代のバンド経験と織物時代の防音&防振経験の2つが偶然にもリンクしたのです。イヤ、どうしても自分がリハスタをヤリタかっただけか・・・(笑)。同じリハスタ経営でも、元々の発想が全く違うのです。まァ、日本初、私の全くのオリジナルと言えるかもしれません・・・これから私のマネをしだすところが出て来るかもしれませんけど別に構いません・・・(笑)。という事で、「40年ぶりにドラムを再開しよう!」という趣味先行で1年前に始めたリハスタですが、1年やってみてイロイロ勉強させて頂きました・・・もちろん事前の準備に計画も資金も相当時間もかかっていますし、実際オープンして予想通りの事や想定外の事がイロイロありました。その中でも、新しい人(ミュージシャンやダンサー)との「出会い」が最も意義あるものでした・・・(笑)。利益以上のモノがあるのです・・・大袈裟に言えば、私の人生を20度くらい変えたかも・・・(笑)。長かった織物時代は、寝る間も惜しんで一生懸命仕事をしてA品を作っても、取引商社から感謝される事はありませんでした・・・(涙)。それが、スタジオを使って頂いたお客さんが「楽しかった!」「メッチャ綺麗!」「音響が素晴らしい!」・・・と感謝されるのです。この落差は何???同じ自分の身体と脳ミソを使った「シゴト」なのに・・・やはりそれは、自分に合った生き方(仕事)をしないと人生オモロないという、根本的な人生の疑問への答えでした・・・頭も良くない上に高校時代勉強をさぼり2浪しても一流大学に行けず、更に留年もしたので当然大手企業に入社できず、名もない建築金物メーカーに入社し20代半ばで結婚して子供3人が次々と出来てしまったため、朝早くから夜遅くまで働いても安月給のサラリーマンでは家族を養う事が出来なかった為、泣く泣く家業の織物業を継ぎました・・・泣く泣くというよりも、親父に家出や浪人や留年と散々迷惑をかけたましたが、そんな不肖の息子でも信じて決して見捨てなかった事に対する感謝の為・・・とでも言うのでしょうか・・・(涙)。そして、「人生初の本気」で20年間働きました・・・「家業」というのは自分に合うとか合わないは関係なしに、運命として諦め「滅私努力」以外何ものでもありません・・・家族と従業員の為に、全身全霊で仕事に取り組むのです・・・それが結局自分の為にでもありますが。夏目漱石の「諦観」や「則天去私」といった境地とでも言うのでしょうか・・・結果的に355日24時間エンドレス工場稼働で、20年間月産20万mの工場を維持できたのです・・・イヤイヤ仕事をしたと言えば語弊がありますが、決して100%好き好んで仕事をしていたのではなく、織物品質向上や営業交渉に「秘かな楽しみ」を見つけながら自分のモチベーションを無理にでも維持しようと思っていたのかもしれません・・・(涙)。もちろん、家族を守るという義務感が第一なのは言うまでもありませんが・・・そんな自分の体力的精神的なギリギリの努力と、20年間動きっぱなしの織物機械(エアージェット織機)の更新期と、かつてない2005年の大不況(廃業前年の)の3つがちょうど重なり、「もう駄目だ・・・」と廃業決断をしたのです・・・(涙)。目一杯ヤッタ・・・これ以上やりようがない。この一言が全てを現わしています・・・そして織物業をすべて廃業し、2棟あった織物工場の1棟を先ずトランクルームに改造したのです。そこから当初集客に苦労し、他社で1年半働きながら宅建の受験勉強を夜中の2時から始めたりとか苦難が続きましたが、織物時代の苦労に比べたら大したことありません。その何倍もの肉体的精神的なプレッシャーに耐えてきたのですから、頑張れる自信がありました。この、出来る・・・頑張れる・・・「俺はもっと頑張ってきたんだ!」という見えない自信が男にとって一番大事だと思うのです。ある意味、不透明で先の見えない家業の織物業をやめれて「ホッと」し、そのパワーを全て「次の新しい仕事」に向け、死ぬ気で努力する覚悟を決めていたのだろうと思います・・・10努力して、10返って来ないにしても、7,8くらいは返って来て当然なのに、織物業ではせいぜい2か3くらいしか成果が上がりませんでした・・・商売をやっていて、努力の4分の1しか報われないほど、情けない事はありません。競争の厳しい繊維業界では不当なマーケットクレームもたまにあり、そんな時はマイナスです。「努力の方向性が間違っているのか?」と、根本的な疑問である繊維業界にいること自体に人知れず悩みました・・・違う道を選んだ方が自分を活かせるのでは・・・と。ならば、40代の内に(49歳でしたが)・・・そんな事をしながら・・・10年経って昨年3月にリハスタ「スタジオ0724」を開業。時が経つのは早いです・・・正に実感。まァ、それらを全てひっくるめて、「1から始める商売って、実にオモロイなァ・・・」でした・・・残念ながら採算的にはマダマダで、人口が少ない地方でのリハスタ経営なんて決して儲かるものではありませんが、ロングスパンで「地元泉州に愛されるリハスタ」という位置づけで「力まずアテにせずボチボチ」やっていこう思うのでした・・・にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2017.03.17
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昨日は、毎年恒例の鳳高校1年10組(27期)のクラス会が大阪ミナミでありました。昨年1月の「還暦」学年同窓会の幹事クラスでしたので、今回は慰労会的な意味も含めてのクラス会でした。今回集まったのは12人プラス1人の計13人です。プラス1人というのは、集合時間前に高島屋でウロウロしていると、高校の同級生に偶然バッタリ出会ったからです。世間話をしていると、「ほな、一緒に行くけ?」となった訳です。クラス会といっても、他のクラスでも大歓迎・・・今回は、3時間飲み放題付きで3500円です。さすが、激戦区ミナミでの良心価格です。しかもチェーン店と違いますから、味もソコソコでコスパ最高でした。学年同窓会では人数が多すぎて余り喋れなかったですが、10数人のクラス会ならディープな話も出来ますので、その辺が何と言ってもオモシロいですねェ・・・今回の飲み会で、何でも4月22日に2年5組のクラス会がJR鳳駅前で盛大に行われるそうです。盛大というのは関東からの遠征組も含めて、クラス45人中、ナント23人も参加するようです。そして、鳳高校見学ツアーも事前にするようです。大正時代に建てられた懐かしの古い鉄筋コンクリート校舎も松林もなく昔と殆ど変っているようですが、一度見たいということでしょう・・・昨年の学年同窓会で盛り上がった結果だそうで、更に他のクラスから3人加え26人にもなるようです・・・クラス会で26人というのは多いですねェ・・・(驚)。我々1年10組も仲が良く、昨年の学年同窓会では23人も集合しましたが、それでも毎回クラス会では12,3人程度です。これを機に、私は2年1組でしたけど、そのクラス会に乱入したいと思います・・・(笑)。学年同窓会を機に、3年次だけでなく、2年次や1年次の時の各クラス会が活発化しているようで何よりです。それが結果として学年全体が仲良くまとまっているのでしょう。そういう意味で、学年同窓会の幹事クラスを引き受けるという事は大いに意義があるのでしょう・・・昨日はクラス会が大阪ミナミで夕方からでしたので、昼過ぎに家を出て岸和田駅前商店街にある前から行きたかった中古ギター店「OSAKAギターセンター」に行ってきました。ここのオーナーの山元さんは、知る人ぞ知る元ウインドサーファーです。レジェンドと言ってもイイくらいです。お会いするのも30数年ぶりでしょうか・・・なんせ、あの泉佐野にあった伝説のサーフィン&ウインドサーフィンショップ「シーアンドスカイ」のオーナーで、二色浜フリートを作ったひとですから。フリートというのは「愛好団体」というような意味で、昔のウインドサーファーは今の風を求めてビーチを渡り歩くというスタイルと違って、ひとつのビーチに固定して「〇〇フリート」と地名やビーチ名を付けて遊んでいたのです・・・私の所属していた泉南フリート、ヤマゲンさんの二色浜フリート、泉南から分家した西村さんの脇浜フリート、よくレースを一緒にしたレーサー鬼木さんで有名な和歌山フリート、加太フリート、漁師軍団の泉佐野フリート、阪神フリート、六甲おろしで鍛えられた甲子園フリート、淀川でメインゲレンデのみなみかぜフリート、琵琶湖蓬莱浜のパフィナスフリート・・・学生が中心の関東と違って関西でのウインドサーフィンの流行りかけの30数年前は、学生フリートではなく一般社会人の団体がウインドサーフィン業界を引っ張っていました・・・樽井浜がメインゲレンデだった私が所属していたのは「泉南フリート」で、泉南フリートを作ったYさん、Mさん、Tさんらといった私のウインドの師匠(先輩)とヤマゲンさんが仲の良い地元の同級生だった縁で、磯ノ浦のサーフィンの帰りにたまたまウインドを始められたそうです・・・そして、まだ二色浜にウインドサーフィンを誰もしていなかったのでフリートを作ったといった当時の歴史やエピソードをイロイロ聞かせて頂きました・・・懐かしさのあまり、チョッと涙が出そうになりました・・・ウインドサーフィンが下火になり店を閉め、その後ハワイ・マウイ島に移住し、帰国してからギター店を始めたという波乱万丈の人生に驚きました・・・60代半ばの今でも夏はサーフィンを楽しみ、同年代の人らとバンド活動されているようです・・・4つ年上の本家の四男坊が40年前に沖縄に移住し、レストランを経営しながら今でも好きなサーフィン三昧というライフスタイルと何故かダブります・・・正しく、これがオレの人生や・・・という感じで感銘を受けました。人生悔いの無いように「好きな事をする」というのは言葉が軽いですが、その裏に隠れた努力の存在を忘れてはいけません。今年から心機一転、ウインドサーフィン用のニューボードを注文しました。今所有しているスラローム用の「2008年ファナティック・ファルコン104」は私にとってスピードが出過ぎるので、もっとマイルドでスピードはスラロームほど出ませんが、ジャイブのし易い(回転性の高い)フリーライド用の「2017年スターボード・FUTURA117」に買い替えるのです。ボードの買い替えは8年ぶりです。これだとボリュームも少し大きいですし、幅も10cm広く面浮力があり、沖で沈しても安心です・・・(笑)。10年で体力も落ちていますし、長年の課題であったジャイブとウオータースタートの練習がよりできるかなァ・・・自分の体力とテクニックに合った道具をベストチョイスするのが、残り少ない?ウインドライフをより充実させるために必須なのです。このウインドをする為に金も時間もかかります・・・しかし、それがあるからこそ仕事も頑張れるのだと思うのです・・・このボードに注文が殺到しているようで、納期が5~6月ですが楽しみです・・・しかし不思議と、ウインドサーフィンとミュージシャンというのは何故か?「繋がっている」ような気がします・・・周りのウインドサーファーを見ても、音楽をヤッテいる人の多いコト、多いコト・・・海と音楽が密接な関係があるのでしょうか・・・風待ちでビーチで休憩している時は、確かにBGMを聴いています・・・自然の中にいる時は、そのシチュエーションに合った音楽を聴くと心の底からリラックス出来ます・・・そして、帰りに店にスタジオのフライヤーを置いて頂きました。「宣伝しとくよ・・・」には心強い手ごたえを感じました・・・ヤマゲンさんは中古楽器販売と修理で、私はリハスタで泉州の音楽文化を微力ながら裏から支えようと・・・という事で、旧知のヤマゲンさんに30数年ぶりに会い、楽しい時間があっと言う間に過ぎた後ミナミに向かった訳ですが、せっかく大阪市内に行くのですから、いつもの様にミナミをウロウロしました・・・(笑)。日本第2の都市OSAKAの「今」を感じるのです・・・やはり、何処へ行っても中国人で溢れかえり、まるで正月のミナミのようでした。政治とは正反対で、一般の中国人は日本がよっぽど好きなんですねェ・・・(笑)。難波駅から心斎橋周辺からアメ村一帯まで歩き回り、途中アメ村のバーで生ビールを1杯飲んでチョッとリラックス・・・人の流れや店の移り変わりに躍動のミナミを感じます・・・もう五感は知らぬ間に、不動産屋目線になっています・・・(笑)。そして、高島屋でウロウロしているところを例の同級生と遭遇したのでした・・・しかし高1と言えばまだあどけなかった15歳、今は孫もチラホラいる熟年の60歳・・・45年前と同じメンバーと同じ空気を吸っているというのが何とも不思議ですねェ・・・そして、今回からクラス会の案内はハガキを止めて、ライングループでメールのやり取りをしていますので、幹事さんの負担が大幅に減ったところがポイントです。やはり今の世の中ITでも活用しないと、こういうのってなかなか続けられませんからねェ・・・ にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2017.03.12
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11年前のトランクルームオープン当初から、後見人を立てた契約が時々ありました。それが、ここ数年増えてきています。やっと、後見人というのが世間に認知されてきたのでしょうか・・・成年後見制度は精神上の障害 (知的障害、精神障害、認知症など)により判断能力が十分でない方が不利益を被らないように 家庭裁判所に申立てをして、その方を援助してくれる人を付けてもらう制度です。弊社トランクルームの基本対象条件の1つに「制限行為能力者の方は法定代理人等が必要」とありますので、成年後見制度が必要な方でも利用できるようにしているのです。後見人と言っても、実際は認知症の老人を後見する弁護士の方が多いです。やはり何だかんだ言っても、割と新しい制度を活用するのに弁護士が最も信用力がある証拠でしょう・・・受け入れ側のトランクルームも、この制度をよく理解し契約者を見極め、賃貸借契約を結ばなければなりません。契約者は判断能力があるのか?契約者は制限行為能力者(未成年、成年被後見人、被保佐人、被補助人)か?取消権、同意権、追認権、代理権といったキーワードも重要です。これらをキチンと抑えとかないと、後でクレームになったらそれこそ大変です。そして、これらは通常の不動産契約にも、勿論応用できます。少子化、晩婚化、結婚率低下(未婚率上昇)、離婚率増加・・・これが今、日本を取り巻く現状です。このまま放置すれば、増々増えるような気がします・・・それが結局、「孤独な老人」をドンドン生み出す原因になり、後見人が必要な老後環境に繋がっていくのだろう思います・・・周りを見渡しても、そのような人も増えていますし、その予備軍も含めると相当な数に膨らみそうです。しかしよく考えてみると、「誰か後見人をつけようか・・・」言ってくれる人(親戚)がまだいる人は幸福かもしれません。それすらない、そんな事を言ってくれる人もいない天涯孤独の人が、今の日本の状況が改善しない限り増えるような気がします・・・残念ながら、そういったシニアマーケットが今後伸びる可能性があります・・・まァ、今後重要になってくる後見人の制度の法整備も含めた将来像に、どうしたらトランクルームと不動産ビジネスをリンクできるかに知恵を絞りだそうと・・・ひょっとしたら5年後くらいの、団塊世代(昭和22~24年生まれ)が73~75歳になったあたりから、スタジオにブームが起こるかもしれません・・・(笑)。何故なら、彼らは3学年で800万人を超え(今はせいぜい1学年100万人)、彼らは昭和40年代前半に空前の大ブームを起こしたGS(グループサウンズ)を支えた世代で、ベンチャーズやビートルズの多大な影響を受けた世代ですから、絶対老人ホームでもそういった音楽が流行っているはずだからです・・・(笑)。彼ら団塊世代は戦前戦中派とは明らかに違った、戦後の新しい教育を受けた人種なのです。そういう新しい巨大なシルバーマーケットが直ぐそこにやって来るのに、老人ホームで昔ながらの「チーチーパッパ・・・♪」といった童謡は無いでしょう・・・団塊世代に続く我々昭和30年前後生まれになると、また違ったマーケットになりそうです・・・人口が大幅減になり、音楽も日本のフォークソングや洋楽ロックに大きく変化していきます・・・それほど多感な小学校から中学高校時代に聴いた(流行った)音楽が、死ぬまで影響するのです・・・いずれにしろ、老人ホームではリクレーションとしての音楽が大きな役割を担っていますので、経営側では競争が激しいこの業界で勝ち残るために、そういった傾向と対策が必要なのは言うまでもありません。当り前の事ですが、マーケット戦略として供給側が需要側の歴史(時代)背景まで紐解くのが常識です。数年前に関空前のマーブルビーチでウインドサーフィンしていると、岸で中国人らしき数人の団体の中の同じような年恰好のオッサンが私に向かって「ワー、ワー」何か叫んでいました・・・「何かいな?ケンカ売ってんかいな?」と思って岸に戻って、その中の日本語の分かる若者の中国人に「このオッサン、何を言ってんや?」と聞くと、「何で?あんたは私と同じようなジイサンなのに、若者がするようなウインドサーフィンをやってるのか?」と不思議がっているとのこと・・・(笑)。最初何の事かピンときませんでしたが、「我々が青春時代の40年前は日本は自由主義国で、その頃からウインドは流行ってたんや」「あんたら中国はまだあの頃はバリバリの共産国やったから、ウインドの存在すらなかったのとちゃう?」と。続けて「国の社会体制が違っていたら、同じ年でも全く違った青春時代を送ったんや・・・」と。最後に「残念やけど、日本では20年前にウインドブームが去ってしまって、やっているのは50過ぎのオッサンばっかりや・・・」「しかし小さいながらも日本にまだ、オッサン向けのニッチマーケットがあるで・・・中国はないけど」と言うと、彼らは目を白黒していました・・・(笑)。1980年代後半の東欧の社会主義体制が崩壊してから、マイケルジャクソンを始め多くの欧米のアーティストがそれらの国にツアーを仕掛けましたが、東欧は完全に遮断されていた中国と違って、陸続きの近い欧米から密かにそういった音楽を聴いていたので、そういうマーケットが存在していたのです。まァ、そんな事を10年ワチャワチャしていると、自分も70歳になりますから、今からそんな事もやりながら自分の「人生の後始末」も考えていかなければ・・・(笑)。もう60になると、「人生の逆算」ばっかりしている自分がイヤになります・・・(笑)。にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2017.03.10
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