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予期不安で夜眠れなくなることがあります。試験に落ちてしまったらどうしよう。人前で恥をかいたらどうしよう。人から無視されたりからかわれたりしたらどうしよう。等々。予期不安が起きると、自動的に問題解決モードになります。未来の危険(失敗、恥、無視など)を今すぐに取り除きたくなります。しかしこれらはコントロール不可能なために、目標は達成できず、無力感と不安が強まります。思考は常に「こんなことになったらどうしよう」という循環理論に陥ります。ネガティブな思考の堂々巡りが始まります。まだ起きていないのに、失敗の原因分析や自己防衛策を検討し始めます。思考という「解決のための行動」が絶えず行われるため、心が休まることがなく、疲れ果て、動悸や震えなどの身体症状が出てきます。どうすればよいのでしょうか。「未来を変えようとする努力」を一時停止し、「今の不安という感情」がただあることを許可する。すると、心の抵抗が緩み、思考と自分自身との間のスペースが生まれます。「これは未来の危険についての思考だ」と客観的に気付き、思考と現実を分離します。ネガティブな思考の渦の中心から離れ、「考え」と「私」を切り離します。すると予期不安は「現実の危険」ではなく「ただの思考活動」に変わります。今この瞬間に意識を持っていくための方法として、グラウンディングという方法があります。予期不安で心が未来に飛んでしまったとき、強制的に五感を使って「今、ここに」戻るためのエクササイズです。予期不安の思考が湧いてきたら、その場で立ち止まり、以下のステップを上から順番に探してみてください。①今、自分の周りで目に見えるものを5つ探して、心の中で名前を挙げます。例えば、キーボード、シャープペンシル、本、時計、スタンド。②今、自分が触れている感触を4つ感じます。例えば、椅子の感触、服の感触、腰の痛み、手のひらの温度③今、聞こえている音を3つ探します。例えば、エアコンの音、スマホから流れている音楽、救急車のサイレン④今、香る匂いを2つ探す。例えば、コーヒーの残り香、自分の服の匂い⑤今、口の中で味わっている感覚を1つ感じます。例えば、ガムの甘さこの一連の動作を行うことで、思考のエネルギーは中断され、五感を通して「今、この瞬間」の感覚が回復します。グラウンディングは心理学やマインドフルネスなどで、「今、この瞬間」に意識を向けて、予期不安に振り回されないようにする技法となります。
2026.01.31
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生活の発見誌2025年12月号にこんな記事がありました。ある方の体験記のなかに、「竹買い」という話が出ています。これは、高良興生院に入院していた対人恐怖の人が竹買いに行った。そして、「対人恐怖が出たから今日の竹買いは失敗だった」と日記に書いた。そうしたら高良武久先生に叱られたという話です。竹を買うときは、真っすぐで用途にかなった竹を買うのが目的であって、対人恐怖が出たとか出なかったとかは関係のないことです。これに対して私の感想です。私も対人恐怖症です。他人が自分のことを非難した、悪口を言った、無視したということがとても気になります。最悪期は人との接触を断って家に引きこもるような状態でした。考えることは自己嫌悪、自己否定で自分で自分を責めています。イライラして気が楽になることをあてどもなく探して動き回る。精神疾患にかかっているようなものでした。実際薬物療法にも取り組んでいました。そんな時に本屋で長谷川洋三氏の「森田式精神健康法」を見つけて、生活の発見会を知り、集談会に参加するようになりました。集談会では毎月の実践課題を作って実行するように言われました。実行すれば対人恐怖症が治ると言われました。そのときはその意味が分からなくて、反発していたのですが、他に良い方法もなく、みんながやっていることなのだから渋々取り組み、次の集談会で経過発表をしていました。この実践で分かったことは、症状のことで頭の中がいっぱいだったのが、症状以外のことも少しだけ考えることができるようになったということでした。実践課題を作って取り組めば対人恐怖は楽になるということが薄々わかりました。この段階は行動することで症状が楽になるということが目標でした。つまり行動することは症状を治すことが当面の目標だったのです。今考えると、症状で観念上の悪循環、行動の悪循環に陥っている人は、症状を治すためにハツカネズミが糸車を回すような行動であっても構わない。とにかく運動でも趣味でも何でもよいので行動力を取り戻すことに注力する。行動すると新しい感情が生まれる。行動にはずみがついてくることがある。但しやりすぎには注意しましょう。控えめな行動力で十分だと思います。とにかく頭の中で症状のことだけを考え続けるということだけを避けることができれば十分です。そんな取り組みをしていると、しだいにアリ地獄の底から地上に這い出てくるというのが私の実感です。
2026.01.30
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昨日の続きです。2025年12月の生活の発見誌の巻頭言にある話です。自分の症状だけに関心があり、自分だけ早く治したい、他人はどうでもよい、生活の発見会の活動や会の運営に無関心というというような人で、良くなり治った人をあまり見たことがない。誰でも早く自分の神経症を治したい。しかし同時に、一緒に学ぶ仲間が早く治るために自分に何ができるかというように、自分より仲間に関心が向くと不思議に自分の症状が客観的に見えて軽くなる。仲間が治ることを自分のことのように喜ぶことができると、なぜか自分の症状も良くなってくる。「集談会の世話人をやると神経症がよくなるよ」と多くの先輩が言っていたが、これは嘘ではない。一般会員として集談会に参加するときは自分の神経症を治すことが目的である。しかし、代表幹事となると視点が変わる。自分の症状より参加者のために集談会の内容や進め方に関心が変わる。自分より仲間や周囲に意識が向いてくると人間的に大きく成長する。神経症のアリ地獄に落ちている人にとっては考えも及ばない事だろう。また生活することが精いっぱいという人も世話活動をすることは難しいだろう。自分のことで精一杯の人に、他人の役に立つことを心がけなさいというのは酷なことだと思う。これは最悪期を脱して神経症で苦しみながらも何とか生活できている人に考えてみてほしいことである。その段階にありながら、自分の症状だけを問題にしている人は、それ以上に治ること、さらに生きづらさを解消して味わいのある人生を送ることは難しい。その理由を考えてみたい。人間は社会的な生き物であり、自己中心的な生き方だけを前面に押し出して生きることは無理があるからである。自分の神経症を早く治したい。この気持ちは大切なことです。この気持ちが持てない人は、失意の人生で終わってしまいます。そういう気持ちになった人は、それをそのまま持ったまま、注意や意識を周りの人に向けることが有効です。神経症で観念的にも実生活でも打開策がなくて苦しんでいる人がいる。自分も苦しいのに、集談会の運営にかかわってくれている人がいる。会場予約、会場設営、司会、受付係、理論学習の準備、連絡係、図書係などである。生活の発見会は残念ながらかっての勢いはない。そこで会員になり経済的に下支えをしてくれている人がいる。会の継続のために寄付をしてくれる人がいる。自分の神経症を早く治したいというのは、森田理論でいうと主観的事実ですが、これだけで突っ走るのは飛行機でいうと片肺飛行しているようなものです。とても不安定で大事故につながりかねません。森田では主観的事実に対して客観的事実があり、そのバランスをとることが不可欠であると言われています。客観的事実というのは、自分の周りの人に注意を向けて、他人のことを思いやるということです。自分のできる範囲で役に立つことを実行することです。森田では主観的事実よりも客観的事実に力を入れて生きていくほうが全体としてはうまく収まるといいます。これは両面観の学習で学んだことです。会の世話活動をしている人が、世話活動に一生懸命に取り組み、自分の症状のことは後で考えようと思って生活していたら、いつの間にか症状が軽快していたと言われていました。まさにこのことを言われていたのだと確信しました。カラオケのど自慢大会に三山ひろしの「あやめ雨情」で挑戦しました。DAMの精密採点で88点でした。ジョイサウンドよりも厳しい採点をします。それにしてもカラオケに命をかけている人が多いことにびっくりです。
2026.01.29
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2025年12月号の生活の発見誌の巻頭言に「なるほど」と思う話が2つあった。神経症が治るということは、神経症がなくなることではない。神経症は相変わらず存在する。違いは、今までは神経症が自分の意識のすべてだったものが、今は頭の中で神経症のことを考える割合が減って、神経症を治すよりもっと大事なものがあることに気づき、自分のやりたいことにどんどんチャレンジするように変化していることである。私も全くその通りだと思います。裏を返せば、神経症が完治するということはほぼありえないということです。完治を目指すと逆に多くの弊害が出てくるということです。不安にとらわれやすいという神経質性格は変えることができないわけですから、発揚性気質の人のように不安に鈍感になることは無理です。私の感覚では、神経症が軽快しても、絶えず小さな不安に振り回されてしまいます。私は神経症は30~50%くらい治れば、普通の社会生活が可能になると思っています。アリ地獄の底から地上に這い出てなんとか社会生活ができるようになったことを喜び、それ以上神経症を治すことに精力をつぎ込むのは考えものです。それよりは、その貴重なエネルギーを仕事や日常生活に投入した方がよい。神経質性格は類まれな育くみがいのある素晴らしい性格です。そのプラス面を実生活の中で活用・応用することを考えた方がよい。私たちは小さな不安にとらわれやすいという特徴がありますが、これはリスク管理をするうえでとても役に立ちます。神経質性格の人は、石橋を叩いて慎重に渡るという特徴がありますので、大きな病気やケガ、自己破産で全財産を失うことは少ないように思います。健康管理に細心の注意を払って長生きができる人が多いと思います。人間関係でも、相手の身になって考えることができ、人の役に立つことに積極的にとりくむことができます。気になる点を紙に書きだして、一つ一つ解消していればどんどん生活に張りが出てきます。やりがいが生まれ、小さな成功体験の積み重ねは、自信もつきますし、自己肯定感も育ちます。また不安にとらわれやすい人は、感性の豊かな人といえます。例えば第九の歓喜の大合唱に参加して楽しむことができるのは、神経質性格だからこそです。その他、優れた映画鑑賞や楽器演奏を楽しむこともできます。豊かな感性を活かして、コンサートや写真、動画作成、落語、踊りなどの芸術や芸能面を大いに楽しむこともできます。ペットの世話、花や盆栽や植木、自家用野菜作りを楽しむこともできます。男の料理教室や釣りや旅行なども楽しめます。これらは感性豊かな神経質性格の賜物だと思います。
2026.01.28
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生活の発見誌12月号のクラゲさんの記事に感動した。この方は42歳のとき職場移動を経験されている。その頃からひどい頭痛に悩まされるようになったという。頭の後ろに鉄の板を張り付けたような痛みが続きました。出世競争で同期や後輩から後れをとっていたので、妬みの気持ちが強く、人が立ち話をしていると、自分のことを言われているのではないかと感じていました。52歳で2度目の職場移動。今度は畑違いのサービス業の仕事でした。もう会社を辞めようかと思うくらい大変でしたが、子どももいるし、家を建てるために会社からお金を借りていたので、しかたなく会社に行き、山のような仕事をこなしていった。そうした日々を積み重ねて、気がつけば定年まで勤めあげていた。クラゲさんは「畳水練」という話をされている。いくら畳の上で水泳の練習をして完全にマスターしても、実際に海で泳ぐことはできない。ある程度森田理論の基礎を学んだら、後は実際の仕事や生活の中で活用や応用をする必要があると言われています。小さな成功体験が積み重なっていけば、自信になり、自己肯定感が高まる。日々降りかかってくる出来事は、すべてに意味がある。それは良いも悪いもないので、全面的に受け入れる。前向きに関わることです。そうしないと不安や後悔や心配で息苦しくなってくる。現在、病院、高齢者施設、一人暮らしの高齢者たちの傾聴ボランティアをされている。私の感想ですが、完璧に神経症を治すことに焦点を置いて、軽快後も森田理論学習に余念がない人がいらっしゃいます。それは尊いことだとは思いますが、その反面、仕事や日常生活、趣味や人間関係、自己啓発、世話活動、子育てについては見るべきところがほとんどないというのは問題だと思います。これは車の車輪でいえば、理論の車輪はとてつもなく大きいが、実践の車輪が極端に小さい。前に転がしてみると、前進しないで、実践の車輪の回りを理論の車輪がいつまでも空回りしているというような感じです。これでは神経症の克服は困難です。神経症が軽快するどころが、ますます混迷の度を増して、生きる醍醐味を味わい損ねているのではないかと思います。理論と行動のバランスをとるためには、70%くらいは行動面に注意や意識を向けることで解決します。(生活の発見誌 2025年12月号 40ページ参照)
2026.01.27
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杏林予防医学研究所の山田豊文氏のお話です。私たちの体を構成する細胞の膜は資質でできており、それは食事から得た油がそのまま材料になるため、油は必要不可欠なものです。ただしその質が極めて重要であり、摂るべき油と避けるべき油があることを知らなくてはなりません。油は常温で固体の飽和脂肪酸と、常温で液体の不飽和脂肪酸に分けられます。前者はバター、ラード、ココナッツ油などが代表的な摂取源です。摂取が多すぎるのは問題です。後者は大きく二種類、オメガ6脂肪酸(リノール酸むなど)の多いごま油やコーン油は、老化を促進するのでできるだけ避けた方が賢明です。逆に、抗老化の柱であるオメガ3脂肪酸(αリノレン酸など)の多い油は積極的に取った方がよいのです。具体的には何と言っても、亜麻仁油です。これらとは別に徹底的に警戒すべき存在が「トランス脂肪酸」です。マーガリンやショートニングなどの製造時に人工的に生じるもので、クッキーやパン、チョコレートなどの賞味期限の長い既成食品が主な摂取源となります。栄養ではなくれっきとした有害物質であり、細胞の働きを狂わせ、ガンや糖尿病、心臓病、うつ病や認知症、不妊症などのリスクを高めることが報告されています。世界各国では、トランス脂肪酸を含む恐れのある加工油脂類の食品への使用が規制・禁止されていたり、包装食品におけるトランス脂肪酸の含有量表示を義務化したりしています。ところが日本では、含有量表示すら義務化されていない。これは日本人の健康を考える上で大問題ではないでしょうか。(人間学を学ぶ月刊誌 致知 12月号 126ページ参照)これら健康に関する基本的知識は、100歳以上の長寿を目指している人にとっては必要不可欠となります。無知であり続けることは、身体面の不具合だけではなく、精神疾患などを誘発してあとで取り返しのつかない悪影響をもたらします。
2026.01.26
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予期不安で苦しんでいる人は多いようです。「明日の試験で落ちたらどうしよう」「人前で失敗して大恥をかくことになったらどうしよう」「ガンになったらどうしよう」「人から無視されたり、仲間外れにされたらどうしよう」などなど。予期不安が起こっているとき、あなたの心は「失敗しない安全な未来」を確固たるものにしようとしています。未来の不安や危険をすぐに取り除いて安心を得ようとしているのです。しかし、未来の出来事は、コントロール不可能なことが多いため、精神的な混乱を招きます。自信が持てず、自己嫌悪、自己否定感が強まります。思考は常に、「○○したらどうしよう」という反芻思考に集中し、「今、この瞬間」に注意や意識が向かなくなります。「解決のための試行錯誤」がいつまでも頭の中だけで行われるため、不安が不安を呼び込み、心が休まることがなく、疲弊し身体症状の発症に繋がります。これが森田でいう「精神交互作用」でアリ地獄に落ちた状態です。予期不安を乗り切るということは、「未来をコントロールする努力」をやめ、「今、この瞬間」に意識の焦点を戻すことが肝心です。「未来を変えようとする努力」を一時停止し、「今現在不安という感情」が存在していることを認める。意識して「することモード」から「あることモード」に変えていくのです。すると、心の抵抗が緩み、思考と自分自身との間のスペースが生まれます。「これは未来の危険についての思考だ」と客観的に気付き、現実と思考を分離する。感情や気分を、自分とは分離して、流れゆく雲を眺めるように客観化していくのです。思考の渦の中心から離れ、「考え」と「私」を切り離します。予期不安を「現実の危険」ではなく「ただの思考の活動」に変えていくのです。「今、この瞬間」の呼吸や足が床についている感覚に意識を戻します。マインドフルネスの手法を取り入れていきます。予期不安が未来に引き延ばそうとする意識を「安全な現在」にしっかり取り戻すようにします。「することモード」から「あることモード」に変えることは、森田理論では、不快な感情と行動の分離、イヤな気分と行動の分離といいます。これだけを身につけることで、人間関係のほとんどの問題は解決に向かいます。
2026.01.25
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後悔や罪悪感といった強い感情に特化した、「あることモード」への切り替えを促す「優しい呼吸法」(コンパッション・ブレス)というのがあるそうです。この実践のポイントは、「気分を追い払う」という「することモード」の目標を完全に手放し、「自分は今苦しんでいる」という事実に優しさを向けることです。この実践は、特に過去の思考が頭の中でグルグルと反芻し始めたときに、数分間で行うことができます。座っていても、横になっていても構いません。ステップ1・・・立ち止まり苦痛に気付く(気づき)まず、今、自分が後悔や罪悪感で苦しんでいる事実に気づきを向けます。その時、過去の出来事を分析したり、自分を責める思考の連鎖を意識的に一時停止します。心の中で静かに「ああ、今、私は後悔(または罪悪感)の感情に注意が向いている」と認めます。この時、感情を評価せず、「あるがまま」を認識します。その感情が、身体のどこに現れているかに気づきを向けます。胸の重さ、お腹の締め付け、頭の圧迫感など感覚として特定します。ステップ2・・・呼吸に優しさを乗せる。(あることモードの確立)自分の呼吸を、苦しんでいる自分をケアするためのツールとして使います。意識を呼吸の出入り、特に胸やお腹の動きに集中させます。息を吸うとき、「自分の苦痛を和らげる優しさ」または「穏やかな気持ち」が、肺や胸に満ちていくイメージを持ちます。息を吐く時、「後悔の重み」や「自己批判の言葉」といった苦痛が、息と一緒に身体の外へ静かに流れていくイメージを持ちます。この呼吸を数回(1分~3分程度)続けます。吸う息で優しさを迎え入れ、吐く息で苦痛を手離す、というシンプルな動作に集中します。ステップ3・・・慈愛の言葉を自分に贈る。(脱同一化)感情と自分を切り離し、苦しんでいる自分に対して意図的に優しさを向けます。心の中で自分自身にそっと以下の言葉をかけてみます。「どうか、私はこの苦痛から解放されますように」「どうか、私は自分自身に優しくありますように」「どうか、私は自分自身を許すことができますように」これらの言葉を贈ったとき、心の中にどのような変化が起こるか、やさしく観察します。変化がなくても、ただその努力を認めます。再び呼吸に注意を戻し、今いるこの瞬間の「あるがまま」の状態をやさしく受け入れて、実践を終了します。この実践は、過去の失敗をさらに強化するような「することモード」を停止させ、感情に優しく寄り添う「あることモード」を意図的に起動する訓練になります。感情的な波がいったん収まった時、冷静な心で、過去の出来事に学び、少なからず今後の建設的・生産的、創造的な行動がとれるようになります。
2026.01.24
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今日は過去のことを思い出して後悔したり、罪悪感で苦しんだり、悪夢でうなされる場合の対応法を取りあげてみました。「することモード」・・・「過去の失敗や不祥事を取り消すこと」または「罪悪感から解放されること」は、過去は変えられないため、この目標は達成不可能であり、無力感を増大させます。「過去の失敗や不祥事」と「今の理想の自分」との間にギャップがあります。このギャップを埋めるために、心は分析、批判、評価をくり返します。過去の失敗や不祥事、ネガティブな感情をくり返して再生し、「なぜあの時あんなことを言ったのか、したのか」と永遠と分析し続ける。過去の思考に時間とエネルギーを奪われ、自己批判によって罪悪感が強まります。「私は失敗者だ」「私は悪い人間だ」「この世に生まれてくるべきではなかった」などと、過去の言動と理想の自分を同一化するようになります。過去の出来事や感情が「私という存在の中心」と化し、その苦痛から逃れられなくなります。この状態は、エンジンが空回りし続けるように、問題解決を試みているにもかかわらず、実際には何の解決策も生まず、ただ苦痛を増幅させるだけの非建設的な「することモード」となります。神経症で苦しんでいるときの典型的なパターンです。「あることモード」・・・「あることモード」では、過去を振り返る思考そのものを「解決すべき問題」ではなく、「観察すべき心の出来事」として扱います。過去の出来事や感情を変えようとしない。今、ここにその感情が「ある」ことを許可する。過去を変えることを手離し、心の抵抗を緩めます。過去の反芻が始まった瞬間に、「ああ、今、私は過去のことを考えているな」「罪悪感という感情が湧いてきたな」と客観的に気付く。自動的な思考の連鎖に「一時停止」をかけ、心の主導権を取り戻します。罪悪感を「私自身」ではなく「一時的に湧いてきた感情」として距離を置く。「罪悪感がある」という事実をそのまま受け入れる。過去の思考から意識を離し、今の呼吸や身体感覚(足が床に触れている感覚など)に集中し、「今、ここ」に戻る。感情に巻き込まれることなく、「私」と「罪悪感」の間に少しだけスペースが生まれるため、感情の強度が弱まります。過去や未来に散っていた意識を現在に固定し、心の安定を取り戻します。これを実践するために「優しい呼吸法」を明日紹介します。
2026.01.23
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他人から非難されて腹が立ったときの場合を考えてみました。上司、同僚、家族など、他人から自分の行動や能力、人柄などについて批判・非難をされた。その言葉や態度によって、強い怒りや不公平感、自己防衛の感情が立ち上がります。「することモード」・・・「自分は正しい」「自分を守らなければならない」「相手の非難を無効化しなければならない」という目標に心が集中しています。自分の望ましい自己像(非難されるべきではない自分)と、現実(非難されている自分)とのギャップに焦点が当たります。不当な評価に対する怒り、自己弁護の衝動が激しく湧きあがります。そのギャップを埋めるために、次のような行動をとることになります。反論や攻撃・・・すぐに言い返して非難を取り消させようとする。内的反芻・・・その後しばらく心の中で非難の言葉とそれに対する反論を何度もくり返し、復讐心や被害者意識を強める。怒りが長期化し、相手との関係性が悪化する。頭の中が思考で占拠され、精神的なエネルギーが消耗する。結果としての苦痛・・・非難という出来事よりも、その後の反芻思考や自己防衛の努力によって、怒りによる苦痛が長引く「非難を取り除き、自分の正当性を証明する」という目標達成のために、思考や感情を駆使して奮闘しますが、感情的な反応の連鎖を止められず、かえって苦痛を深めます。「あることモード」・・・非難されたことによって生じた怒りや身体反応を「今、自分の心と身体で起きている一時的な体験」として観察していきます。非難の言葉を聞いた瞬間に、「腹が立った」「心臓がドキドキした」という身体の緊張や強い感情に気づき、反射的に反論するのを一時停止する。反応の自動的な連鎖を断ち切り、一瞬立ち止まり(スペース)が生まれる。湧きあがった「怒り」や「反論したいという思考」を、「ただの心の活動」として距離を置いて観察する。非難の言葉が事実かどうかは一旦保留にし、判断を加えず、これらの感覚が「ある」ことを受け入れる。感情に飲み込まれることもなく、怒りの波が自然に収まるのを待つことができる。冷静な視点が戻ってくる。感情のピークを過ぎて落ち着いた後で、「今、私がとるべき最も建設的な行動は何か」と意図的に判断する。それは反論かもしれないし、その場を離れることかもしれないし、後日話し合うことかもしれません。感情に支配されず、目的と状況に応じた、最も適切な行動を選択します。非難によるダメージを最小限に抑えるために、「非難された」という出来事と、「非難に対する怒り」を別なものとして切り離します。「怒り」を「解決すべき問題」ではなく、「観察すべき一時的な現象」として扱うことで、心の平静を取り戻し、より冷静な対応を可能にします。他人からの非難という避けられない出来事に対して、「することモード」は闘いや反芻という形で反応し、苦痛を長引かせます。一方、「あることモード」では受容と観察を通じて感情にスペースを与え、心の平穏を回復し、非難された事実と客観的に向き合う力を与えてくれます。
2026.01.22
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部下が上司である自分の指示を無視した行動をとる場合について考えてみましょう。「することモード」・・・上司は「与えられた業務目標の達成」するために、組織をまとめあげていくことが必要になります。上司は目標を達成することと、部下を完全に掌握することを絶えず気にかけています。そんな状況にもかかわらず、部下が反抗的な態度に出るので、失望、焦り、怒り、いらだちなどの感情が立ち上がります。そのギャップを埋めるために、つい部下の個人攻撃をしてしまいます。「お前は仕事をやる気があるのか」「嫌ならさっさと退職してくれ」「自分のノルマについてどう考えているのだ」などと叱責し、愚痴や不満をぶちまけてしまいます。部下はますます萎縮し、反発をくり返して、信頼関係が損なわれることになります。このままでは上司としての適格性が疑われて、降格、左遷されかねません。「あることモード」・・・それらからいったん離れて、「今、自分の心と身体で何が起きているのか」に意識を向けて、冷静さを取り戻します。部下が指示したことに取り組まないという事実に接して、「イライラしている」「胃がキリキリ痛む」「顔面が怒りモードになった」「吐き気がしている」「トイレに行く回数がふえた」という自分の感情や身体感覚にまず気づき、不平不満を撒き散らす行動を一旦一時停止します。感情に支配される前に、間を置くことによって、感情のピークが過ぎ去り、心身ともに落着きを取り戻すことが可能となります。湧きあがってきた「怒り」や「部下を責めたいという思考」を「ただの心の活動」として距離を置いて観察し、判断を加えずにそれらの感覚があることを受け入れる。マイナス感情が落ち着いた後で、「業務目標達成のために、次にとるべき建設的なステップは何か」を考える。「指示が的確に伝わっていなかったのか」「リソースは問題なかったのか」など、部下を非難する前に、基本的な原因を冷静に探る。部下の立場や状況を考慮したうえで、協力的な対話を通じて解決策をいっしょに考える。感情論ではなく、事実に基づいた建設的なコミュニケーションが可能になります。部下との信頼関係を維持しつつ、問題の根本的解決につながります。マネージメントにおいて「あることモード」を活用すると、上司は「部下を動かす」という短期的な目標(することモード)にとらわれず、「部下の能力を引き出してチーム全体のマネージメント力を向上させる」という長期的な目標に向かって、冷静で効果的な判断を下すことができるようになります。そのためには、「することモード」から、「あることモード」に切り替えていくことが大事になります。
2026.01.21
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プロ野球のバッターでチャンスで凡打に終わったとき、バットを叩きつけたり、ダッグアウトに戻った時椅子などを蹴飛ばすような選手がいます。相手への腹いせというより、自分自身に腹が立ってどうしようもない状態です。これを「することモード」と「あることモード」で考えてみましょう。「することモード」・・・自分では悔しい気持ちを処理しきれないので、それをものにあたることで、精神的に楽になり、自己の苦痛を回避しようとしている。非建設的な行動や原因分析をしないで、人や物に吐き出している。これでは人から軽蔑されることになります。次に生かすことができないので、感情の暴走が続く。この行動は、くやしいという感情を「今すぐに解決すべき不快な感情」と捉え、衝動的、短絡的な行動によってそのギャップを埋めようとする最も原始的な「することモード」といえる。「あることモード」・・・悔しいという感情を認めてじっくりと味わう。湧きあがってきた悔しいという感情を、よいとか悪いとか評価しないで。その感情に内在する情報(不甲斐なさ、リベンジの意欲)を味わう。感情から得られた情報を基に、目標達成やリベンジを果すために、打てなかった原因を整理、分析、研究する。自分ではよく分からない場合は同僚やコーチの助けを借りる。次は明確な狙い球を絞って打席に入る。ここで考えてみたいことは、悔しいという感情がほとんど湧き上がってこない人である。鈍感・無関心で、終わったことは仕方ないとあっさりとあきらめてしまう人である。問題点や、怒り、不甲斐なさ、喜びなど感情全般が停滞して、感情が鈍麻している人である。感情という重要な情報を処理する能力が低下しているのである。気づきがない、発見がない、問題や課題の発見能力に問題がある。感情的なセンサーが働かないので、次に生かすべきギャップが認識できない。神経質性格者はこの手の人はほとんどいない。むしろ喜怒哀楽などの感情が泉の如く湧き出てその対応策に翻弄されている。しかしそれは両面観で考えると、豊かな感情、鋭い感性が高度に発達していることあり、忌み嫌うのはもったいない。感情や気分の取り扱い方や活かし方を森田理論で学習することが大切になります。
2026.01.20
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今日は「気分本位」を取り上げてみました。気がすすまない、やる気が起きないなどという気持ちになることはよくあります。その時何もしないで済ますという方法もありますが、この方法は人に迷惑がかかります。社会的義務や責任を放棄すれば、人から嫌われることになります。本人は一時的にはホッとしますが、そのうち暇を持て余し、そのむなしさを埋めるために刺激のある楽しみを探し回るようになります。ネガティブな気分に振り回されそうになったときのことを2つのモードで考えてみたいと思います。「することモード」・・・「することモード」が自動的に作動し、ネガティブな気分を「取り除くべき問題」として扱うようになります。ネガティブな気分を排除すべき相手とみなし、そんな気持ちになってはいけないと考えると、本音と建前が乖離するので苦しくなります。ネガティブな気持ちを取り除いて、なんとかやる気を出さなければいけないと思っても、本音は逃げ腰になっているのでどうすることもできません。徒労に終わるのではないか、お金の無駄使いに終わるのではないか、私には荷が重すぎる、今まで成功したためしがないなどという理屈をつけて行動すべきことから逃避してしまいます。なぜいつもこんな気分になるのか、いつまでこの状態が続くのかと原因を延々と繰り返し悩み続けます。自己否定感が強まり、生きていくことに自信が持てなくなります。「あることモード」・・・ネガティブな気分を「ただの心の活動」として扱い、感情に巻き込まれることなく距離を置くようにします。このネガティブな気分を変えようとしないでそのまま認める。今気がすすまない、やる気が起きないという考えが湧いてきているなと、自分の思考を客観視します。この気分に伴う身体感覚(例えば身体のだるさ、胸の重さ)に注意を向けて、評価しないでただ観察します。ネガティブな気分を「自分自身」と同一視しないで、「一時的に心の中に現れた雲のようなもの」あるいは「大河の中に浮かんでいる丸太などの浮遊物」として認識し、判断や抵抗なしに「ある」ことを認めます。不快な気分が「私そのもの」ではなく、「私が体験しているもの」へと変化し、気分に飲み込まれなくなります。抵抗をやめることで、不快な気分はエネルギーを失い、自然に変化したり、過ぎ去ったりするのを待つことができるようになります。
2026.01.19
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「することモード」から「あることモード」に転換して、感情、思考、身体感覚を観察する手法は、森田理論の「事実唯真」に近づく有効な方法の一つとなります。今日も具体的な例をあげて深耕してみましょう。仕事で大きなミスをしてみんなに迷惑をかけてしまった。「することモード」・・・「私は無能だ」「どうしてあんなミスをしてしまったのか」「始末書を書かなければいけない」「上司や同僚や得意先から軽蔑した目で見られることになる」「これで会社での居場所はなくなった」「すべてを失ってしまった」「退職するしかない」などと自分自身を否定し、将来を悲観的に考えて焦燥感で苦しみ自暴自棄になる。抑うつ状態になりまた次に失敗することを怖れて、次の仕事に積極的に取り組む意欲が減退してくる。「あることモード」・・・自分の身に起こっているミスをして茫然自失状態の心の状態、不快な感情、身体感覚の状態、思考や考え方に注意や意識を向ける。注意や意識を相手に向けるのではなく、自分の心や身体感覚の変化に向けるのです。「ミスをしたことでいても立ってもおられない」という心の事実を認める。意気消沈して頭が真っ白になっているという事実を認める。上司や同僚の叱責や批判で情けない気持ちになっている自分の感情を見つめる。顔面蒼白、力が抜けて、腰砕けになりそうな身体感覚を見つめる。どういいわけをしようか。責任転嫁する方法はないかと考えている自分を認める。いたたまれない感情や批判的な思考が渦巻いているとき、意図的に思考を一時停止し、感情が少し落ち着くのを待つ。これは森田の感情の法則1を活用することです。最悪は売り言葉に買い言葉的な対応だけは何としても避ける。まともな思考をしようにも頭から血の気が引いて、頭以外のところ(例えば心臓や腕や足の筋肉)に血が回っているので考えることは幼児なみか酔っ払い程度のことしか考えられない。そのために、親指の爪を少し尖らせておいて、中指で押さえて痛みに注意を向けるなどの「割り込み動作」を行う。腹が立ったとき衝動的な行動に走る人には役に立ちます。その後、その場から離れ、トイレに退避したりする。感情がある程度落着いた段階で、「では、この事態をどう収拾するのがよいのか」考える。一人で解決困難な時は上司や同僚に相談してみる。「あることモード」は、すぐに不安を取り除いたり目を背けたりするのではなく、まずは今この瞬間の体験に意図的に意識を向け、是非善悪の評価をしないで、ただ自分の心の状態、感情、思考、身体感覚を客観的に観察するということになります。これはマインドフルネスの考え方そのものです。マインドフルネスは坐禅や瞑想という先入観がありとっつきにくいものですが、藤井英雄先生は、1日10秒マインドフルネスを勧めておられます。10秒という時間はいつでも取り組めます。私はこの本で紹介されている、緊張したときの「交差足踏み」、不安なときの「アキレス腱伸ばし」を生活の中に取り入れています。感情の暴走で苦しんでいる人は取り組んでみませんか。
2026.01.18
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昨日の続きです。「することモード」と「あることモード」の考え方は、観念優先の考え方から事実優先の考え方に転換するための有効な方法となります。森田理論の「事実唯真」「事実本位」を深めることにつながります。具体的な例を取り上げて説明しましょう。痛みという身体感覚への対応。例えば慢性的な腰痛があります。「することモード」・・・「痛いのはいやだ」「この痛みがいつまで続くのか」と、痛みに対して抵抗や闘いの姿勢をとる。痛みを意識しないように気をそらしたり、痛みを引き起こす可能性のある活動を過度に避けたりする。結果として、痛みへの恐怖や不安が増幅され、結果的に痛みの感覚をより強く感じることになる。観念上の悪循環、実生活上の悪循環が始まる。慢性疼痛は本来の痛みの他に心理的作用が加わって痛みが実態以上により強くなってくる。「あることモード」・・・痛み自体を「受け入れたくないもの」と決めつけないで、「痛みは今ここにある」と認識しそこに注意をむける。痛みを「嫌な感覚」として捉えるのではなく、「熱い感じ」「圧迫される感じ」「ジンジンする感じ」など、具体的な感覚要素に分解して観察する。痛みへの心理的な抵抗が減り、痛みが一時的な身体感覚として客観視できるようになり、苦痛のレベルが緩和されることがある。子どもが親のいうことを無視したり反抗的になる。親が幼児や小学生の子どもに対して、「早く着替える、おもちゃを片づける、宿題を始める」ように言っても子どもは抵抗したり、無視したり、癇癪を起す。「することモード」・・・「子どもにいうことを聞かせる」という目標達成のために、現在の状況(子どもの抵抗)を「解決すべき問題」として捉え、感情的に反応してしまいます。声のトーンが上がり、命令口調や脅し、論理的な説得など子どもをコントロールしようとする。子どもは親の焦りや怒りを敏感に察知し、さらに抵抗したり、泣き叫んだりして、状況がエスカレートする。親は「なぜこの子はできないのだろう」「私の育て方が悪かったのか」ていった自己批判や、問題の原因分析が始まる。そのうち疲れ果て、自己肯定感が低下し、次の行動のエネルギーを失う。「することモード」・・・親は「今、自分の心と身体で何が起きているのか」に意識を向けて、価値判断しないで観察してその感覚を認めるようにします。子どもが抵抗した瞬間に、「かっとなった」「胸がざわついた」という自分の感情や身体感覚にまず気づき、反射的な行動を停止する。私は怒っているのではなく、怒りという感情が自然現象として湧き上がっていると捉える。子どもの状態も「今は何かに困っている」と判断しないでただ観察する。感情に飲み込まれることなく、冷静さを保ちやすくなる。子どもに対しても客観的な理解(疲れているのかも、何か問題を抱えているのかも)が生まれる。「子どもが云うことを聞かない」という状況をそのまま受け入れ、「自分のイライラをどうにかしよう」と問題解決を急ぐのをやめる。その代わりに、今ここに起こっている感情や感覚を観察し、穏やかに対応するように心がける。つまり注意や意識が上から下目線で子どもに向かっているのではなく、自分の感情や身体感覚の変化に向けているということになります。
2026.01.17
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マインドフルネス学会の越川房子理事長によると、心の状態には特定の目標に向けた意図的な「することモード」と、目標なしに現在の体験を観察する「あることモード」の2つがあると言われている。人は不安から逃れようとすると努力すればするほどかえって不安が高まるという悪循環に陥りがちで、これは「することモード」によって促進される。これに対して、「あることモード」の心では、こうした反応が引き起こされず、現在の状態を受け入れる能力が高まる。これがストレスや不安、うつなどの症状を軽減することにつながると考えている。(日本経済新聞 2015年11月1日より)この話は森田の根幹にかかわる話なのでもう少し深耕してみたい。「することモード」というのは、私たちの普段の生活の中で目標を達成したり、問題を解決したりするために主に使っている心の状態です。脳の部位でいうと前頭前野が盛んに活動しています。目標達成や問題解決に有効なモードですが、達成困難な状況や問題解決が難しい場合は、自己嫌悪、自己否定、抑うつ的な気分を引き起こしやすくなります。「あることモード」は、自分の現在の体験(感情、思考、身体感覚)を、良い悪いと判断したり、評価したりしないで、そのまま観察して認めることに焦点をあてます。すると、感情や思考に飲み込まれずに、心を柔軟にし、客観的な視点を取り戻すことができます。ストレス反応の低減や感情の安定に役立ちます。森田理論は観念中心で感情や思考を操作しようとするのを中止して、感情や思考を評価・批判しないでそのまま味わうものだといいます。この手法を身につけることが事実唯真に近づく有力な方法の一つとなります。不安を感じた場合を例にとって具体的にみていきましょう。「することモード」・・・「こんなに不安を感じるのはいけない」「この不安を取り除かなければならない」と考えてしまう。不安の原因を延々と分析したり、不安を打ち消そうと、無理にポジティブなことを考えたり、不安から逃れるために過度に動き回ったりする。不安の原因や結果について、いつまでも考えすぎてしまう。いわゆる精神交互作用が働き不安に振り回されるようになる。「あることモード」・・・「今、自分は不安という感覚を身体で感じているな」「胸が締め付けられるような感じがするな」と身体感覚をただ客観的に観察する。不安や思考を「現実」ではなく、「単なる思考の流れ」として捉え、「雲が流れるように」過ぎ去るに任せる。不安が「解決すべき問題」から「一時的な体験」へと変わり、不安の感情と自分自身との間にスペースが生まれ圧倒されにくくなる。明日以降もしばらく「することモード」「あることモード」の具体的な例を取り上げていきます。
2026.01.16
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森田理論の中に不安や恐怖は「あるがままに受け入れる」というのがあります。この考え方に立つと、不快な感情は自然現象なので意志の力ではどうすることもできないので、無理やり押さえつけて服従するという考え方になりやすい。集談会では、どうしても不安や恐怖を受け入れることができない。受け入れることができない場合はどうすればよいのでしょうかという質問がでます。この問題は森田理論の核心部分ですので、はっきりしておきたいと思います。森田で言っているのは、不安は自然現象なので、無理やり受け入れなさいということではないと思います。不安や恐怖が湧き上がってきた事実をよく見つめて、「私は今腹が立っていると感じているな」「私は、今、強い不快感を感じているな」という感情の事実を素直に認めなさいということだと思います。不快な感情を受け入れるのではなく、不快な感情が湧き上がっている事実を認めることなのです。認めることを無視して、受け入れることばかりに注意や意識が向いているということが問題なのです。では認めるためには、どうすればよいのか。感情の事実をありのままに見つめて、感情の事実を言葉にして表現することです。・人前で話をするときに上がってしまってしどろもどろになっている自分が情けないと感じている。・人が見ていると緊張して食事が喉を通らないと思っている。・喉に違和感があるので、喉頭がんにかかっているかもしれないと不安に感じている。・上司から叱責されたので、恐怖を感じている。・仕事でミスをしたので、この会社での居場所はなくなったと思っている。このように不安を感じている自分をあたかも別の人間が眺めているように見つめて、今現在どんな感情が沸き起こってきたかを口にするのです。私たちは、不安をそのまま放置しているとどんどん増悪して収拾がつかなくなるということにとらわれて、何とか早く取り除かなくてはならないと考えてしまいます。そんなとき、森田理論を学んだ人は、すべての不快な感情は受け入れなければいけないと考えてしまいます。でも反面では受け入れることなんか出来っこないと思っているのです。そんなときは、感情は受け入れるのではなく、不快で不都合な感情の事実を認めるだけでよいのだと気持ちを切り替えたいものです。受け入れるという縛りがなくなると、事実を受け入れ、さらに許容する方法に向かいます。そうなると、不安を抱えたまま、目の前のなすべきことに注意や意識が向きやすくなるのです。
2026.01.15
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生活の発見会の前理事長の斎藤光人氏は、どんな人格者と言われるような人でも内面には卑猥なもの、汚いもの、幼稚なもの、狡猾なもの、自己中心的なものを持っているといわれています。殺人事件を起こすような人にもよい面はある。善行をしたことはある。人に親切にしたことはある。悲しいかな人間は、その両面を持っているのがまぎれもない真実です。人間はその時、その場の状況に応じて、人に迷惑をかけたり、人の役に立つことをしているのが実態です。人間は二面性を持っていることを認識して、可能な限りマイナス面を見逃して、許容してあげるようにすれば、あたたかい人間関係を保つことができます。反対に、迷惑をかけられたことを大きく取り上げて、もうあの人とは付き合わないという態度を取っていると、周りは敵ばかりとなり、人間関係は窮屈になるばかりです。相手の上げ足をとることに注意や意識を向けていると、いずれ火の粉は自分の身に降りかかってきます。南アフリカのバベンバ族では、部族の誰かが不正をはたらいたり無責任な行動をとった時に、村の真ん中で一人で座らなければいけません。逃げられないようにしてあります。村人はみんな仕事をやめて、集まって輪になり、その人を囲みます。普通はみんなでその人の悪事のすべてを白日のもとにさらし、その罪に応じて罰を決めるのが普通ですがその部族は違います。子どもを含めた全員が一人ひとり、その人がしたよいことについて話し始めるのです。その人について思い出させることは全て詳しく語られます。その人の長所、善行、親切な行為などのすべてを、輪になった一人ひとりが詳しく語るのです。村人はこれ以上ない誠実さと愛を込めて話します。誇張もでっちあげも許されません。不誠実な態度や、皮肉な態度をとる人もいません。その人を共同体のメンバーとしていかに尊敬しているかを村人全員が話し終えるまでこの儀式は続きます。それは数日間に及ぶことがあります。最後に輪が崩されると、その人を部族として迎え入れるお祝いが始まる。人間関係に問題を抱えている人は、この話を参考にして活用するのはいかかでしょうか。メンタルヘルス岡本記念財団の創始者の岡本常男氏は、「人間は10の欠点があれば、10の長所がある」といわれていました。欠点は見逃してあげて、長所や強みを引き上げてあげることが、人間関係のコツであるといわれていました。良好な人間関係を維持するためには両面観の考え方を活用したいものです。
2026.01.14
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世界のホームラン王の王貞治さんが次のように述べている。野球の世界で食べていくためには、ずば抜けたものを一つは持っているということが求められる。全部80点じゃダメ。最低 1つは90点、 95点のものがないと生き残れない。だから1つの分野で95点を取れるものがあるなら、他は捨てて、そこで勝負したほうがいい。プロ野球の世界は、全員が走攻守そろった選手というわけにはいかない。例えば年間ホームラン数が数本でも、守備は一流だとか、バントの名手だとか、盗塁の成功率がずば抜けているとか、それぞれが様々な個性を持っている。もしそれが95点ならば、弱肉強食のプロ野球の世界で生き残っていけるのである。野球評論家の野村克也氏も同じことを言われていた。野球の世界で足が速い、肩が強い、球を遠くへ飛ばすことができるという特技を持った選手がいる。これらは持って生まれた才能であり、いくら訓練しても育たない。また、この3つをプロ野球の平均レベル以上に持っている選手はそうはいない。しかし、他の選手にはないきらりと光るものがあれば、プロ野球選手として十分やっていける。半面、 1番厄介なのは、3つの全てが平均点の選手です。厳しい目で見れば、他の選手と差別化できる特技を持っていない。とりえがない選手ということになります。スカウトされてプロ入ってくるような人は、すでにそれなりにある一定の基準レベルには達しています。そういった集団の中で生き残っていこうとすれば、自分の得意分野を早く見つけ出し、それに磨きをかけて、監督やコーチにアピールして認めてもらうことなのです。足の速い人は、走力に磨きをかけ、ピッチャーの癖をよく研究して、ここ1番で確実に盗塁を決められるような選手を目指す。肩は強い人は外野に球が飛んできたとき、長打にはしないような返球に磨きをかける。ホームラン打者は三振を恐れずにホームランを狙う。ミートの上手い選手はヒットの数で勝負をする。一般の社会でも同じことが言える。自分の長所は何か、自分の強みは何か、自分の得意は何か、自分の好きなものは何か、他人と差別化できるものはないかを鵜の目鷹の目で探す。一つでも見つかったら、そこにエネルギーを投入してレベルアップを図っていく。そうすれば組織の中に居場所ができ重宝されるようになる。自信がついて、自己肯定感も持てるようになる。これを神経質性格者にあてはめると、次のような長所や強みを持っている。神経質者は細かいことにとてもよく気がつきます。感性が鋭い、感受性が豊かである。また、真面目で粘り強い。物事を細かく分析できる能力がある。好奇心が強く、課題や目標を持って努力することができる。これらを生活や仕事や人間関係に活かしていくことが大事になります。例えば、どんな些細な事でも億劫がらずにメモしてストックしていく。できることから確実に実行に移していく。凡事徹底です。こういう平凡な生活を10年、20年、30年と続けていくと、類まれな非凡な人になれます。我々はホームランを量産して脚光を浴びるよりも、打率で勝負する方が性に合っています。それも無理なら、選球眼を高めてフォアボールで塁に出る。確実にバントを決める。そしてピッチャーの癖を見つけて盗塁を成功させる。守備力を鍛えてチームに貢献する。そういう一芸に優れた人がプロ野球という厳しい世界で生き残っているのである。これは意識して強み・長所・得意にフォーカスして努力していかないと絵に描いた餅になってしまう。
2026.01.13
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森田理論学習の要点に、「自分のどんな感情もあるがままに受け入れて、未来の欲望に乗ってなすべきをなす」ことが肝心であるとあります。別のところでは、「苦痛あるいは恐怖そのものになりきることが大事です。なりきるとは、苦痛をそのまま受忍し、苦痛から逃れるためのやりくりをしないことを言います」とあります。この話を聞いて、はたしてすぐ実践・行動に移すことができるでしょうか。不安や恐怖にとらわれやすい人にとっては、理解はできるが、「あるがまま」にもなれないし、「なりきる」こともできないという人が多いかも知れません。先日の学習会では、「不安を受け入れればよいというけれども、不安が受け入れられないから神経症で苦しんでいる。不安を無条件に受け入れなさいというのは無理がある」という話が出ました。ではどうすればよいのでしょうか。不安を客観的に見つめるというのはどうでしょうか。不安とは少し距離を置いて、不安を感じている自分を客観的な立場から観察するのです。やり方は不安を感じた時、自分の分身(テレビのレポーターのようなもの)を現場に急行させて、今起きている不安の内容を実況中継させるのです。・「ただいま台風の影響で海岸の防波堤を乗り越えて海水が道路に打ち上げています。道路の通行は規制されています」・会社に行って同僚や上司に「おはようございます」と挨拶をしたのに無視された。「会社に行くと上司に出会いましたので、「おはようございます」と挨拶しました。上司は私を無視して自席に向かいました。私は茫然自失になりました」実況中継する時に気をつけたいことは、評論家のように是非善悪の価値評価などをしないことです。事実にラベルをつけて事実のままに実況中継することです。事実を客観化できると、衝動的、条件反射的な行動が先送りされ、一旦は感情と行動の分離、気分と行動の分離ができます。落着いた後で、その原因を分析・検討するようにすれば、適切な対応をとれるようになります。
2026.01.12
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さまざまなアミューズメントを提供しているサンリオエンターテイメント社長の小巻亜矢氏のお話です。小巻氏は、専業主婦から経営者に転じ、赤字に陥っていた同社をわずか2年で黒字化させ、前期は過去最高益を実現した。その一方、34歳の時に最愛の息子を事故で亡くし、40代で乳がんや子宮の病を患った。51歳で東京大学大学院の受験に挑戦し、仕事をしながら3時間睡眠で猛勉強を重ねた結果無事合格を果たした。小巻亜矢氏曰く。私たちはよく、「無事に過ごせますように」って祈ると思うんですけど、生まれてから死ぬまで文字通り事無く平坦な人生だったら、なんてつまらないだろうと思うんですよ。振れ幅が大きいからこそ人生であって、涙というのは人生に彩を与えてくれているのではないでしょうか。小巻氏の愛読書はエリザベス・キューブラ―・ロス博士の「人生は廻る輪のように」という本だそうですが、その本に次のような一文がある。「人生は洗濯機の中で揉まれる石のようなものだ。粉砕されて出てくるか磨かれて出てくるか、結局はそれぞれの人が選択している」「逆境だけが人を強くする。教訓を学んだ時に苦痛は消え失せる」(人間学を学ぶ月刊誌 致知 12月号 34ページ参照)私は神経症で苦しみました。その渦中にいるときは八方塞がりで暗闇の中で生きているようなものでした。これが神様が私に与えてくれた試練だなどとは到底思えませんでした。その時森田理論が助け舟を出してくれました。藁にもすがる思いでつがみついてきました。あれから40年。神経症を克服するとともに、神経質者の人生観を手にすることができました。そして現在では、神経症で悩んでいる人や生きづらさを抱えている人に対して、私の経験を赤裸々に開示して、人様に反面教師として役立ててもらうという生きがいが生まれてきました。悩んだことや不器用な生き方は今となっては貴重な財産になっているのです。この経験が元になって現在の活動につながっているのです。この投稿件数も既に5500を超えて、今度はテーマごとにまとめてkindle本として出版する目標を持つことができました。今はただ感謝しかありません。
2026.01.11
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24年前に大阪教育大学付属池田小学校で児童殺傷事件がありました。当時小学2年生の娘さんを亡くされた本郷由美子さんのお話です。最初は犯人を徹底的に憎んだり、恨みました。なぜ自分だけこんな不幸な目に遭うのだろう。周りの人も同じような目に遭えばいいと本気で思いました。一歩間違えば加害者になってもおかしくなかったのです。本郷さんは、子どもを失った「悲しみを乗り越える」という言葉は使わないようにしていると言われています。子どもを失った悲しみは現在進行形です。消えて楽になることはありません。乗り切ることはできても、乗り越えることはできないと実感しているからです。悲しんでかなしみ尽くし、自分なりに折り合いをつけると、悲しみの根源にある愛に気がつき、いつしか悲しみの質が変わってきて、安らぎを得た温かい涙として流れてくるようになります。悲しみと向き合うことで心が成長し、成熟できるようです。悲しみは人間にとって大切なものであり、私はこれからも悲しみを愛おしきものとして抱きしめて生きていきたいと思っています。悲しみという感情はどうしてもマイナスの感情として捉えがちなのですが、実は喜びなどのプラスのエネルギーと同じ自分の中にある大切なエネルギーなのではないでしょうか。私は自分の中にあるエネルギーであるのならば、マイナスのエネルギーをプラスのエネルギーに変えることができるはず、エネルギーをプラスに変えていきたいと思いました。(人間学を学ぶ月刊誌 致知 12月号 28ページ)本郷さんは悲しみを乗り切るために、きちんと悲しみに向き合うことが不可欠だと言われています。安全な場で徹底的に号泣し尽くすことは一番の癒しになります。泣くだけ泣いて胸の中が空っぽになると、そこから新しい前向きな感情が湧き上がり、その感情が自分を導いてくれているようです。ちなみに涙には3種類あると言われています。その一つに何か温かい思いに触れた時、深い安らぎを感じた時に流れる涙があり、この涙は人を癒す力があります。泣き尽くすと再生の芽(ひこばえ)が生まれてくるのです。犯人の成育歴や生活環境を後から知りました。親から虐待を受け、自尊感情が傷付き、「生まれなければよかった」と言っています。犯人はもともと悲しみを抱えた被害者だったのではないでしょうか。そういう意味では同じ被害者同士だと思います。犯人に対しても最初はこんなに恨めるのかと思うほど恨みましたが、それはとても苦しいことでした。でも赦すというより緩めるようになれたのは、幸せになる秘訣に触れることができているからなのかなと思っています。後に上智大学でグリーフケアを学ぶようになって、笑いやユーモアが前を向いて生きていく上でいかに大きな力になるかを教えられ、その意義を深く理解できるようになりました。喜怒哀楽は人間の大切な感情ですし、悲しみの中でも安心して笑いながら自分を癒していくための場は必要です。現在は落語家の立川談慶さんと落語を通じたグリーフケアに取り組んでおられます。
2026.01.10
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元総合格闘家の大山峻護氏のお話です。大山氏は2005年12月31日行われたK-1で、世界的な大スターのピーター・アーツに勝利して有名になりました。しかしその後は、試合でTKO負けが続きました。ケガや網膜剥離などの手術もされています。そして極めつけは、心臓に障害が出て、息切れや疲れ、不整脈など様々な症状引き起こす難病の「アミロイドーシス」になりました。この病気は今のところ治療法はないそうです。アントニオ猪木氏はこの病気で亡くなりました。普通は自分の不幸を嘆き悲しみ再起不能に陥っても不思議ではないと思いますが、大山氏は次のような話をされています。人生の最大の苦難ともいえる難病宣告を受けた時、私はそれを本気で「ギフト」だと受け止め感謝することができた。その瞬間、これまで経験してきた葛藤や苦しみ、流した涙が、上辺でなくちゃんと血肉となっていることを実感し、初めて自分を自分で褒めてあげたいと思ったんです。苦しんでいる人たちに、「そういえば、大山という人がすべてはギフトだと言っていたな。よし自分も頑張ってみよう!」と、生きる希望を与えられるよう、これからも残された時間を精いっぱい生きていきたい。(人間学を考える月刊誌 致知 12月号 19ページ)大山氏は、自分に降りかかる不幸を神様からのギフト、つまり試練と受けとめて自分のできる範囲で精一杯の努力を積み重ねていくという意志を感じます。それ以外に次のような話もされている。人に喜んでもらう、それを人生軸にしていけば、何ごともうまくいく、誰もが幸せな人生を送ることができると私は本気で思っています。実際その一択で生きてきて、今私は多くの仲間、宝物に囲まれて本当に幸せなんです。自分の利益のためという目標の立て方ではなく、どうすれば他人の役に立つか、少しでも他人に喜びや感動を与えたいという目標を設定して努力されている姿は感動ものです。
2026.01.09
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車椅子アスリートの官野一彦氏のお話です。車いす生活になってから、例えば、僕が携帯電話などを落としたりすると、すぐに「大丈夫?」などと家族や周りの人たちが拾ってくれるんですよ。でも、僕は自分で落としたものを拾えるし、ドアも開けることができるんですね。ですから人に優しくされればされるほど、「あなたは障害者です」と言われているような気がして、すごく苦しかったんです。車椅子ラグビーでは、ぶっつかって倒れても、自分でなんとかしなければいけません。そこに自由と心地よさを感じたんです。(人間学を考える月刊誌 致知 12月号 15ページ)身体の不自由な人や困っている人を見ると、すぐに手を差し伸べたくなるのが人情です。どうせできないだろうなと決めつけているからかもしれません。仮にできるとしても、もたもたして時間がかかり、次にやるべきことに遅れが出てしまう。それを見ていると、こちらがイライラしてしまうので、肩代わりして早く片づけてスッキリしたい気持ちになってしまう。幼児が着替えでもたもたしているのを見ていると、「時間がないのよ。早くして」と急かす親も同じ気持ちです。そして親がつい手を出してしまう。これをやると、子どもが本来得るはずの小さな成功体験の機会を奪っていることになります。小さな成功体験の積み重ねは自己肯定感を育てるために欠かせないものです。自己無力感が強い依存体質の子どもを育て、自立を妨げることになります。いつまでも親をあてにして親離れができなくなってしまいます。親は子供の近くにいて、じっと子どものやることを見るだけにするという基本的スタンスを無視すると取り返しのつかないことになってしまいます。集談会では、森田理論に詳しい人が、相手の抱えている苦悩がほとんど分からない時に、森田理論の説明をすることがあります。症状は試行錯誤の末に、最終的には本人が解決するものという意識が希薄なのではないでしょうか。集談会では傾聴、受容、共感、許容の態度が大事だといわれますが、まさにその通りだと思います。
2026.01.08
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退屈でなにも面白いことがないと思っている人に、長島愛生園でハンセン氏病の治療に当たられていた神谷美恵子氏は次のような話をされている。毎日退屈だという人は、軽症で身動きの自由が効くような人に多かった。失明した人の方がかえって精神的にははつらつと生きている場合が少なくなかった。例えば肢体不自由である上に、視力まで完全に失ってベッドに釘付けでいながら、なお窓外の風物のたたずまいや周囲の人々の動きに耳をすまし、自己の内面に向かって心の目をこらし、そこからくみとるものを歌や俳句の形で表現し、そこに生き生きとした生きがいを感じている人がかなりいる。ベッドの上に端座し、光を失った目をつぶり、顔をやや斜め上むきにして、じっと考えながら、ポツリポツリ僚友に詩を口授する人の姿。そこからは、精神の不屈な発展の力が清冽な泉のようにほとばしり出ているのではないか。肉体的機能が制限された人は、かえってエネルギーと注意が許された狭い「生存の窓口」に集中して、密度の高い精神的産物を作り出しうるのであろう。(生きがいについて 神谷美恵子 みすず書房 60ページより引用)神谷美恵子氏は、制限されているものが何もなく、自由にやりたいことは何でもできる状況は、選択肢が多すぎるがゆえに、かえってさまよい迷うことが多くなり、その結果自分の能力を活かすことができなくなっているのではないか。ハンセン氏病で、身体を自由に動かすことができない、目が見えない状態に置かれると、五感で自然を味わい、詩や俳句などの創作活動に生きがいを見つけ出す人が出てくるのです。そういう人は、自分の不幸や境遇を嘆きひたすら悲しむことから解放されている。むしろ、きわめて少ない残された自由の中から、それらを存分に活かす道を突き進んでいるのです。選択肢が限られているので、迷うことなく自分のやりたいことに集中している。考えて見れば、無制限に自由になんでもできるということは少ない。様々なしがらみの中で、自由は制限されている。肝心なことは、不自由なところに注意や意識を向けて、嘆き悲しんだり、精一杯の抵抗をするというのではなく、残された自由の中で自分のできることに精いっぱい取り組むということではなかろうか。現実を否定するのではなく、そこを出発点として生きていく覚悟を固めることである。
2026.01.07
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形外会で林さんという方が、森田先生に次のように質問されている。同僚が転勤するようなときに、平常は、その人を非常に悪く言っているような人が、送別会の席などで、その人をほめたてて、体裁のよいお世辞ばかりをいうのがあるが、それは虚偽で自分を偽っているのではないでしょうか。こんな場合はどうすればよいのでしょうか。(森田全集第5巻 555ページ)この話に出てくる方は、普段から、相手のやることなすことに対して、批判的、否定的な態度をとっていたのだと思われます。こういう人間関係を「犬猿の仲」といいます。誰が何と言おうと、嫌いなものは嫌いだという気持ちになっているのです。林さんは、その嫌いという気持ちは素直な感情である。森田ではその素直な感情のことを、「純な心」と呼んでいる。森田で、その「純な心」を「かくあるべし」で捻じ曲げることがあってはならないと学んだ。嫌いだという感情を、抑圧するのではなく、相手に向かって吐き出したほうが、ストレスがたまらないのでよいのではないかと言われています。林さんの考え方を実行した場合どうなるか。人間関係は険悪になります。相手を非難していると、注意や意識がそこに固定されてしまいます。そして、不快感や増悪感情がどんどん膨らみ、火に油を注ぐような結果を招きます。多くの人は賛同者を集めて、相手を集中攻撃するようになります。これに対して森田先生は、常に自分が自分の目的にかなうように、適切に工夫すればよいと返答されています。 ここでは正直とか虚偽とかそんな事はむしろ問題ではない。 ただ客人及び周囲の人に対して好感を与え、人びとの心を引き立たすような工夫を凝らせばよい。日頃から快く思っていない人に対して、あからさまに自分の本心や素直な気持ちを態度に出してはいけないといわれている。普通は嫌な相手に対しては、たとえ口にしなくても、顔つきや態度に出てしまいます。それを見て相手は「この人は自分のことを嫌っている」と敏感に察知しているのです。このやり方は幼児の常套手段です。或いは酔っぱらった大人の言動と同じことです。プロ野球のピッチャーでいえば、ピンチになって頭が真っ白になって自分を見失っているような状態です。これに対して、ポーカーフェースで、周囲から何を考えているのか分からないという態度のピッチャーもいます。そういう選手は注意や意識が内向きではありません。外向きになって、どうすれば相手を打ち取ることができるかに集中しています。森田先生は、人生という舞台で、立派な役を演じている役者のような人間になりましょうといわれています。つまり感情と行動をきちんと分離できる能力を身につけましょうといわれているのだと思います。
2026.01.06
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臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺氏のお話です。仏教に五蘊(ごうん)という言葉があります。五蘊の5つとは、色、受、想、行、識のことを指します。「色」とは、この肉体のことです。人間は誰でも眼・耳・鼻・舌・身という五感が備わっています。「受」とは、五感を使って見る、聞く、匂いを嗅ぐ、味わい感触を確かめています。「想」とは、その情報は扁桃体に送られて、五感を通して感じたものが「快」か「不快」か即座に区別しています。「行」とは、快と判定したものは何度も繰り返して味わいたいと思うようになります。反対に不快と判定したものは、自分の周りからできるだけ遠ざけようとします。「識」とは、快・不快の情報は、今後同様の出来事が出現したときに活用して対応するようになります。問題に向き合うよりも、過去の是非善悪の判定に基づいて、先入観、決めつけ、思い込み、早合点で対応するようになります。(人間学を学ぶ月刊誌 致知 2022年5月号を参照して意訳)これを森田理論と照らし合わせて考えてみました。「色、受、想」は、自分の身体の中で行われている自然現象であり意思の自由は効きません。これに対して「行、識」は人間の意思の自由が効き制御可能なものです。「快」と判定したものを貪欲に追い求めていると、欲望の暴走を招きます。人間同士が欲望を巡って戦うようになります。世界各地で起きている紛争や強国による覇権争いは、欲望の暴走といっても過言ではないと思います。為政者が欲望のままに行動していると、やがて人間が人間を殺し合うようになり、人類はいずれ絶滅してしまうかもしれません。また個人としては、アルコール、薬物、ゲーム、風俗などの依存症で苦しむようになります。快楽に溺れて次第に使用量が増加してきます。その時点で反省して、中断しようとしても、今度は離脱症状で苦しむことになります。欲望に対して制御不能になると、まわりの人を巻き込んで深刻な問題を招きます。ですから扁桃体が「快」と判定したものに対しては、欲望を暴走させるのではなく、制御力を鍛えてコントロールすることが欠かせません。車でいえばアクセルに対して、正常に機能するブレーキを搭載しておくことが欠かせません。自分で制御できなければ、制御力の効く人の協力を仰ぐことです。営業でいえば同行営業をすることで、さぼり癖を回避することができます。「不快」と判定したものを取り除こうとすると神経症になります。森田では不安に対してはきちんと向き合うことが大切だと言われています。その後は2つに分かれます。現実的な不安に対しては、不安を解消するために積極的に行動することが大切になります。神経症的な不安に対しては、その裏に欲求や欲望があるわけですから、不安を抱えたままなすべきことに意識や注意を向けて行動するように心がける。不安を敵視するのではなく、不安を利用して自分の欲望を見つめるようにすることです。「識」についてですが、森田は観念で現状や事実をコントロールすることを嫌います。是非善悪の判定をするということは、観念重視の立場です。先入観、決めつけ、思い込み、早合点で対応すれば次々に問題が出てきます。森田理論の核心部分は、「事実唯真」の立場に立って行動することです。薬師寺の高田好胤和上は「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心」と言われていますが、これがまさに森田でいう観念主導の生き方から事実本位の生き方への転換の入り口となります。
2026.01.05
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学校でも会社でも趣味の会でもいじめはあります。いじめには本人の普段のふるまいによることもあります。いじめる人が不満のはけ口として特定の人をいじめている場合もあります。その2つが共存している場合もあります。今日は本人の問題点に絞って考えてみたいと思います。私の経験では、感情と行動の分離ができていない人は、周囲の人から要警戒人物として見られるようになります。不平不満があると、その嫌な感情をすぐに解放させている人。売り言葉に買い言葉的な言動が習慣化している人。そういう人には、極力近寄らないようにするか、徒党を組んであからさまな嫌がらせをします。次に気分本位な人です。最初はやる気があっても、途中で気が変わりやるべきことを放置してしまう人です。対人関係や社会的な責任や義務を果たすことを無視している人です。仕事では自分に与えられた仕事をきちんとこなす必要がありますが、やる気が起きないといってサボってばかりという人はいじめにあいやすい。逆に言うと、イヤな感情が沸き起こっても、森田理論の感情の法則を活用して、感情と行動を分離する能力を獲得した人はいじめられる対象から外れる。また、いくら気分が乗らなくても、対人関係や社会的な責任と義務を果たすことができる人は応援してくれる人が出てきます。森田理論では、主観的事実に対して客観的事実があるといいます。主観的事実は不安や嫌な感情のことです。これらは自然現象なのでどうすることもできない。これに対して客観的事実は意志と行動の自由があります。例えば友達と旅行に行く約束をしたが、どうも気が乗らないので中止したい。そこで様々な理由を考えて、断りの電話を入れる。この断わりはいくらうまくやり過ごしたと思っても相手は薄々気づいています。主催者は宿泊、交通機関、施設の予約、予算組をしています。それらをまた一から修正しなければなりません。これらは主観的事実にあたります。その気持ちは変えようがありません。しかし客観的事実を重視すると、気が重いが、主催者に迷惑はかけられないので渋々参加することになります。参加してみると思いがけず、参加してよかったという気持ちになることもあります。主観的事実を否定することは問題ですが、行動にあたっては客観的事実を重視した方が、すべてが丸く収まるということだと思います。私たちは、とかく主観的事実のみで行動してしまうことがあります。飛行機でいえば片肺飛行をしているのです。極めて危険です。それから、「いじめ」について気をつけたいのは、狭い人間関係の中で生活しているのは考えものです。職場、学校、特定の友達関係の狭い範囲で生活している人は、いじめに遭うと抜け道がないのです。神経質な人は、コップ一杯の人間関係を数人持てば十分だと考えている人がいます。この状態では、何かのきっかけでいじめにあい、孤立してしまう可能性が高くなります。薄くて広い人間関係作りを心がけるようにした方が、精神的に楽になります。生活の発見誌で、人間関係のコツは、少しだけ水が入ったコップを数多く持っていることだと書いてありました。人間のつきあいは、その時々の必要に応じてくっついたり、離れたりする人間関係を築いていくことだと思います。森田理論ではこのことを「不即不離」といいます。これが人間関係作りの定石となります。
2026.01.04
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森田理論学習の中で「人の為に尽くす」という言葉がよく出てきます。人の役だつことを小さなことを見つけて、即実行に移すということです。その最たるものは、「笑顔で挨拶をする」ことだと思います。いつも苦虫を口にしたような態度では敬遠されます。次に、相手の話をさえぎって、すぐに自己主張をすることを止める。傾聴、受容、共感、許容の気持ちが大切です。「なるほど、あなたはそう考えていたのですか」「あなたの言いたいことは、こういうことですか」と相手の話を正確に理解するようにする。その他、ゴミが落ちていたら拾って片づける。スーパーで買い物をするときは、小銭を100円、50円、10円、5円、1円と分けておいてすぐに出せるようにする。700円の集談会の参加費を支払うときは、家で準備しておく。溺れている人を助ける、生活に困っている人に援助する、多額の寄付をするなどはハードルが高いと思います。自分できる範囲内で、小さなことをたくさん実行するのが私たちの性に合っていると思います。「人の為に尽くす」のは尊いことですが、やり方を間違うと逆に反発されます。「人の為」をくっつけると「偽」(にせもの)という字になります。人の為にするというのは、自分の目的を達成するための手段になりやすいということだと思います。これと同じような意味で、「小さな親切大きなお世話」という言葉もよく聞きます。良かれと思ってしたことが、相手にとっては迷惑千万と言うこともあり得るのです。この問題を解決するために全国各地にある「行列ができるお店」が参考になります。美味い、安い、コストパフォーマンが高い、痒い所に手が届くサービスを提供している。お客様の期待値以上の断トツの商品やサービスを提供しているのです。どんなに山奥にあっても、車を飛ばしてお客様がやってきてくれます。我々はその方法を学んで、生活に活かしていきたいものです。その極意は仕事でお金を稼ぎたいというものではありません。私が作っている商品やサービスでお客様の役に立ちたい、お客策を喜ばせたい、笑顔が見たい、感動させたいなどが、仕事をする目的になっているのです。そうすれば、お客様を喜ばせるために自分はどんなことができるだろうかと、日夜考えてどんどん工夫や改善をくり返すことができるようになるのです。成功に胡坐をかいた停滞はマンネリ化を招き、苦労して作り上げたものが一瞬で元の木阿弥になることが分かっているのです。だからいつも真剣勝負です。それがさらに好循環を生んでいるのです。
2026.01.03
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小林一茶の俳句はユーモアにあふれているが、その人生は悲しみと苦難の極みのようなものだった。小林一茶は1763年、信濃の国の柏原という寒村で生まれた。3歳で実母と死別。父は再婚し、すぐに異母弟が生まれる。異母は気性が激しく、一茶を徹底的にいじめた。父親はそれを見かねて、一茶を江戸に奉公に出す。唯一自分をかわいがってくれた父親は一茶が39歳の時脳溢血で亡くなった。父親は一茶と弟が等分に分割相続できるように遺言したが、折り合いがつかず、骨肉の遺産争いは10年以上続き、折り合いがついた時一茶は51歳になっていた。51歳の時28歳の菊と結婚。一茶は菊との間に3男1女をもうける。自分が不幸だった分、子どもには幸せになってもらいたいと願って、長男には千太郎、次男には石太郎、三男には金太郎、長女にはさとと名づけなめるようにかわいがったが、全員生後間もなく亡くなった。妻も37歳で亡くなった。一茶は62歳で家族を失った。その後3度目の結婚をした時、大火事に遭い、これまで培ってきた本や財産をすべて失い、やむなく生家の裏の土蔵に住むことになった。3人目の妻が懐妊したが、その子の誕生を見ることなく65歳で生涯を閉じた。こうしてみると、小林一茶の生涯は逆風との戦いであった。しかし本人には苦しいという感覚はなかったのかもしれない。悲しみや苦しみに対して、是非善悪の価値評価をすることがなく、悲しみや苦しみと一体になり、それらをユーモアというオブラートで包み込み俳句として表現できる能力を持っていたからである。極度の悲しみや苦しみを抱えながら生きていくことができたのは、ユーモアのセンスが一役買っていたと思われる。悲しみや苦しみをユーモアに変換する能力は、第一に不快な感情にきちんと向き合うことができたということです。さらにその不快な感情に対して、もう一人の自分が客観視できる能力も必要になります。この二つの能力があったお陰で、多くの人を感動させる俳句ができたのです。小林一茶は2万句あまりの俳句を作っています。その一部をご紹介します。めでたさも 中くらいなり おらが春雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る我と来て 遊べや親の ない雀やれ打つな 蠅が手をすり 足をするやせ蛙 負けるな一茶 これにあり名月を 取ってくれろと 泣く子かなともかくも あなたまかせの 年の暮れ這え笑え 二つになるぞ 今朝からはもう一度 せめて目をあけ ぞうに膳送り火や 今に吾等も あの通り極楽の 道が近寄る 冥途かなああままよ 生きても亀の 百分の一
2026.01.02
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みなさん明けましておめでとうございます。このブログにアクセスしていただいた方に感謝申し上げます。アクセス数がブログ更新の意欲を掻き立ててくれています。おかげさまで、今年は開始から14年目を迎えます。「10年偉大なり、20年畏るべし、30年歴史なる」という言葉がありますが、現在は「20年畏るべし」を目指している途中です。毎日更新することはまったく苦になりません。現在投稿記事のストックが50本から60本あります。それらを50日後に読み返して加筆・修正しながらアップしております。毎日投稿原稿を作成する習慣は、私の人生観の確立に大きな役割を果たしていることに日々感謝しております。さて、私は「短期目標」「中期目標」「長期目標」を設定しています。短期目標は、その日の目標、1週間の目標です。中期目標は、その年1年間の目標です。長期目標は、生涯目標です。短期目標は、卓上カレンダー、スマホのカレンダー。メモ帳などを使っています。「凡事徹底」をキーワードにして取り組んでいます。中期目標としては、「森田理論の活用・応用」についてのテキスト作りです。14の項目に分けて、現在整理してまとめているところです。出来上がりましたら、kindle出版で公開するつもりです。あるいは希望者にメール配信する予定です。今現在「森田理論に教わった、人間関係で躓かない6つのポイント」に取り組んでおります。今後はいろいろなテーマでさっと読めるものをシリーズ化したいと考えています。現在、kindle出版のノウハウを学習中です。もう一つは、「応用森田・活用森田」という勉強会を、偶数月の第2金曜日の19時30分から2時間ZOOMで行っています。この中に話題提供というのがあります。これに力を入れたいと考えています。長期目標は、このブログの継続と瀬戸内支部主催で行っている交流会「ボケないで元気で100歳まで生きよう会」を盛り上げていくことです。読者の皆様にとりましても素晴らしい1年となりますように心より祈念いたします。
2026.01.01
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