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イケアストア 船橋店行くのは止めといたほうがいいかも。だってすごーく混んでました。えんえんえんえん待ちました。中に入るまでに30分くらい並んでいた上、途中で雨まで降ってくるし、サイテー。しかも、中は広い広い。結局全部見られなかった。混んでるのでなかなか先に進めない上に広い。高価な家具はありません。安い、気楽、手軽が売りかな。しかも、フロアの中の展示が細かく間仕切りされていて、日本のマンションや、アパートの広さを再現してある。今までの家具屋さんのショールームって広すぎなんだよね。自宅の狭さを忘れて、ショールームの素敵な展示に惑わされて、無計画にかった挙句、部屋に置いてみたら、でかすぎなんてことあったに違いない。うちも先日ソファを買った時、お店の人に「大きさは大丈夫ですか」と聞かれた。きっと買ったはいいけど、部屋に置けずに返品する人がいるにちがいない。でもね。イケアは買ってから、90日間は返済可能なんだって。やっぱ、家具屋さんもわかっていますね。ところで私が買ってきたのは、クッション(安いやつね)とフロアスタンド、これは安かった1200円でした。それと、黒いコンパクトなまな板。これはテーブルであるいはお客様の前で、あるいはアウトドアーで気楽に使える。あとは、ポプリと、それくらいかな。疲れたのよとっても。えんえん並んだ挙句、店内も広い。ウォーキングのためにはいいところだ。知らないうちにいっぱい歩ける。それから二階のレストランでランチ。メインディッシュはサーモンとミートボールの二種類しかありませんでしたが、このミートボールおいしかったですよ。しかも、帰りにスウェーデンストアで買って帰れる。冷凍ですしね。ドリンクバーのコーヒーも美味い。最近いろんなファミレスのドリンクバーで見かけるけれど、コーヒー豆がセットされていて、飲みたい時に豆から挽いて入れてくれる。この機械考えた人、偉いと思う。しかもおいしいしー。とにかく大物買いはしてないけれど、大物を買いたい場合は、ショールームで商品を見た後、番号を控えて、最後の倉庫のようなところで自分で商品を探し、レジで支払い。というシステムでした。 それにしてもーーーーー。いつも思うんだけれど、このララポートとオートレース場としかも、そこにイケアオープンで、この一帯の道は渋滞しまくり毎度のことだけど、千葉県の行政はひどい普通ここまで渋滞していたら、右折専用の信号とか出来ていていいはずなのに、未だに作られていない。事故がおきないのが不思議なくらいだ。休日に千葉県内の道路を走るとどこもここも渋滞しまくり。十年前とちっとも変わっていない。千葉県の行政はひどい。私はいっちゃあなんたが、つくづく千葉県には住みたくない。とくに船橋市はひどい。なぜ何の対策もとらずに平気でいるのか。しかも、住民サイドから改善の声は上がらないのだろうか。不思議ダー。という訳で混んでますからイケアに行くのは、もう少したってからの方がいいでしょう。と言いつつ、私はもう行きました。そのうちもう一回いきなおしだな。
2006年04月30日
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中学受験の時のこと、X中の学校説明会で、X中の先生は「我が校は充実した補習授業をそろえています。塾なんて要りません。生徒もいいます。あんなものいらない。と」といいました。 そののち、X中の生徒専門に教えている塾の先生の話を聞いたときには、『学校の補習は役に立ちません。先生はプリントを配って座っているだけ。生徒同士答えを見せ合って、とりあえず、書いて提出して終わりです。」という訳で、学校の補習は役に立たないらしい。 で、どっちの言うことが本当なんでしょうか? うちが入ったのは、X中ではないけれど、なんだか、学校の補習はあんまり役に立ってそうにないし、子供はいやがるし、でも、塾だって週にたった二時間で役に立つんですか。 うーん。親はどっちを信じればいいのかわからない。 ほんとはね、自分で勉強するしかない。でも、イマドキの家の中には、ゲーム機と、パソコンと、テレビと、DVDプレーヤーと、将棋盤と、気持ちのよさそうなお布団と、もう楽しい誘惑がやまもりで、集中して勉強なんてできるわけもない。 塾に期待するのは、集中できる静かな誘惑のない自習室と、子供のモチベーションを挙げてくれるテクニックですかねえ。 学校に期待するのは、まともな環境、基礎の学力作り、勉強の仕方ちゃんと教えて欲しいですね。 やっと学校行き始めたと思えば、今日からゴールデンウィークで、ため息。
2006年04月29日
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最近の高校の修学旅行は派手になる一方で海外旅行は当たり前。イギリスとか。すごい時代になってきたなあと思っていたら、景気の低迷で、いくらかつつましくなってきた。それでも、韓国とか、沖縄とか。私は中高どちらも京都だったのに。くやしいぞ。しかもその旅費を出すのは自分だし。いや、これはダンナの金だったか。それでも、大枚だして、自分はいけずにお留守番ですかい。くぅーーーー。私の親もこんな風にお金出してくれたんだな、昔は当たり前に思ってたけど、などと考えて親の苦労とありがたみが今頃少しだけ、わかったりして。いやでも、その理由が自分がいけなくて悔しいというところがきっかけってなんでしょうね。なさけない。 ということはまあいいとして、長男の修学旅行先は沖縄です。 けっ沖縄 南の島で楽しくビーチリゾートかよ、高校生のうちから。などとせこいことを考えた。所詮私にとって沖縄は南国の楽園、リゾート、そんな認識しかなかった。沖縄米軍基地問題を考えるはめになるまでは。 確かに南のリゾートでもあるけれど、そうか、太平洋戦争の場所だったところなんだ。唯一アメリカに上陸されたところ。しかも、今もなお米軍の基地があって(いや、関東にも基地はあるけどね)、今もニュースで話題のところだ。 先生が言うには、「戦争がらみのところをいろいろと見せてきたいと考えています。」ということでした。「米軍基地も見せたいけれど、当地の人にすれば、高校生が基地の中に見学のために入っていく様子は奇異に見えるので、それは出来るかどうか、わからないのですが」、とも言われた。 そうか。沖縄に行くのは太平洋戦争を見るためなのかと気がついた。東京にいるとわからない。実際に沖縄に行くことで、沖縄の空気、あつさ、湿度、におい、その土地が持つ独特の雰囲気、歴史がつくった土地独特のもの、に、ふれることが出来る。刑事さんが「現場百回」なんてよく言うけれど。ドラマでね。 やはりナマで見るというのは大きい。 男の子の中には、この時期太平洋戦争や、そのほかの戦争にハマル子がいるものなんだと我が子を育ててみて、知ったのだけれど。男の子は女の子に比べて一つのことにハマリヤスイ。 先日久しぶりに私の兄の本棚を見たら、昔はSFばかりだったのに、ぞろっと戦争がらみの本が増えていて、うーん、やっぱりこの分野にハマルものなんだとあらためて思ったんだけれど。 学校ではなかなか世界史もできないし、今の学校ではあまり現代史ができない。それでも、近代戦争史にはまる男の子がいるもので、学校とはまったく別に自身で知識を増強していくのだけれど、そして、これからの社会で働く上でも、世界の力関係を知る上でも、世界の、日本の、経済が現代に至る過程で近代の戦争が大きく影響していることも、そして、もちろん戦争のリアルな悲惨さもかなり重要な必修の内容だと思うのだけれど。 でも、今の学校と受験のカリキュラムだと、世界史、近代史が勉強できないんだよ。なんとかしろよ文部科学省。 と、内心、怒ってますけどね、ワタクシ。 戦闘機と戦艦は好きだけれど、戦争はきらいらしい。このあたりの感覚、私にはよくわからない。 戦争嫌いなのに、ぐろいのもきらいなのに、何で戦艦にはまれるのだろう。なぞだ。 だんだん何が書きたかったのかわからなくなってきました。 とにかく、沖縄に行く。そして戦争を見てくる。ついでに海で遊んでくる。 ということで。
2006年04月28日
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表参道ヒルズに行きました。かつて同潤会青山アパートがあったところですね。たしかに狭い。店舗の一つひとつが、そして、通路が。大きなフロアはありません。でもね。その狭さはまさにかつての同潤会アパートと同じ位の広さなのかなと思ったのです。ほんとに狭い小さなお店がずーっと並んでいました。かつての同潤会アパートもまた、イマドキの暮らしになれた私達から見ると、ほんとにこんなとこすむんですかいというくらい狭い。十畳一間くらいかなあ。そしてその狭くて、レトロな同潤会アパートのたたずまいを愛して、わざわざそこにお店を開いた人たちのその思いを、伝えようとしたんだろうかと考えてしまった。 今はまだ混んでいるのでしんどいですが、あの通路の狭さもまた、広くて高くて大きなビルになれた今のわたしたちから見れば、不思議に見えます。けれど、ビルに訪れた人たちがちょっと気をつければ、車椅子にしろ、ベビーカーにしろ、決して通りづらいことはないのではと思います。ちょっと気を使って、ちょっとよけてあげれば、ちょっとよけてもらえば、なんということはないかもしれません。それよりも、車椅子やベビーカーを使う立場にすれば、エスカレーターや、エレベーターや、階段を使わなければ、他の階にいけないということのほうが大変なのです。段差というのは普通の人間にはたいしたことはありませんが、弱者にはつらいものです。そういう意味で館内全てをスロープだけで移動できる、しかも高すぎない広すぎないビル、という意味でとてもやさしいつくりだなあと、改めてつくづく思ってしまったのでした。 狭いレストランも、後に待っている人がいると思えばそうそういつまでも長居はできません。待っている人がいるから食べ終わったら、次の人のために早めに席を立つという気遣いを、利用者が出来るかどうかが問われている。表参道ヒルズというのは、便利さやスピードばかりが求められる今の時代にあって、使う側のやさしさが問われる、という最先端の設計だと言えるのではないでしょうか。 それはかつての昭和のたたずまいがもつ優しさを、同潤会アパートからそのままに伝え、残したいと願った、設計サイドの狙いとも思えます。 六本木ヒルズの回転ドアの事件が、弱者に充分配慮して作られた高い感度のセンサーがあだをなして、管理サイドの「わずらわしい」という自己本位の判断によって切られてしまったことを思えば、いい設計とは、その後のランニングにおいて、どう理解し、維持していけるか、管理するものも利用するものもどちらにも、その気遣いと人としてのやさしさがもとめられるということではないのでしょうか。 というわけで、狭くて小さな家、狭い路地裏で、やさしくのんびり暮らしていた昭和初期と、その後に進められた合理化とスピードアップ優先の昭和中期の時代と、その後の反省と再生の、その昭和の全てがつめこまれたようなところなのだなと、そんな思いで、表参道ヒルズを訪れてみてください。 それにしても、災害時の対策はどうなってますかねえ。ただ、高層ビルではない分、救助しやすい部分もあるでしょうか。 と、ここまで考えていたら、設計した本人はなんていってるんだろうと思い始めて、早速表参道ヒルズのホームページを見に行った。 設計したのは、建築家安藤忠雄さんだった。そして、 まさにおんなじことが書いてあるじゃあないか。 とくにこのコメントがすばらしいのよ。 建て替えが<都市の記憶>の喪失となってはならない。 同潤会アパートのその原点をいかにして残すか、そして、その上で新しい時代にあったビルを作ろうとしたようです。なんどもなんどもの話し合いの後にやっと形となって、現れた姿なのですね。 既に書いてあるとおりなのでいまさら私が書くこともないかも。それでも、こんな何にも知らない人間がふらっと遊びに行っても、建築家が建物を通して語ろうとした思いが伝わるほど、表参道ヒルズはよく出来ているんだってことです。 昔の同潤会青山アパートもすてきだし、今の表参道ヒルズもすてきだよ。
2006年04月27日
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数学が苦手なら私立文系をねらえ。 これがかつての文系スタンダードだった。 ところが最近、そうも言ってられなくなってきた。私立文系といわれる学部でも、受験科目に数学が導入されはじめているのである。経済学部はかつて、英語、社会だったと思うんだけれど(よくしらない)、最近、英語と社会あるいは英語と数学というパターンが出始めた。社会を選ぶか、数学を選ぶかなのである。 この科目ならびにさらに、国語か、論文が加わってきたりする。そして、しかも、数学を選ぶパターンのほうが募集人員が多かったりする。のである。これはいったいどうすればいいのだ。これからは、さらに数学優先の、受験科目になっていくのだろうか。法科ですら、数学を受験科目に含み始めている。 数学と歴史は好きだけど、国語も英語も苦手な我が子はなにをどう選べばいいのか。しかも、最近、数学も危なくなってきたし、歴史だって好きと言ったって、マニアックに詳しいのは戦争のあたりだけなんだから、試験にでてくる歴史のほかの部分、に対してはすごい根気で勉強していかなければ、歴史なんていくらでも、細かいこと問えるわけだし、時間がかかる数学とその必要な労力は変わらないんじゃないかと思う。だとすると、数学と、歴史とどっちを選べばいいんでしょうね。しかも、社会をえらんでくる人たちは英語で点を稼いでくるだろうし。 英語なくして、数学と近代史だけの受験はありえないのかなあ。 とにかく英語だけははずせない。イマドキの受験。そのうち翻訳機が電卓のように当たり前に出回るようになっても、やっぱり英語は勉強するんでしょうね。 いやもう、こんなの愚痴です。ただの愚痴。 でも、どうしましょうねぇ。悩みマスねえ。 最近は理系の大学でも、経営学部なんか作り始めたし、経済は数学ってことで、大学もスタンスが変わってきました。さて、数学に力を入れるか、英語と歴史に力をいれるか。悩みどころでございます。
2006年04月26日
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表参道ヒルズに行きました。 ゴールデンウィークになる前に行ったほうがよかろうと。 表参道の坂に合わせて、同じ角度でビルの中のフロアが傾斜したまま上にも下にも通路が螺旋になってつながっているのですね。表参道の通りから入ってふらっとそのままウインドゥショピングのつもりで進むとそのまま最上階あるいは、最下層に行き着いてしまうのです。知らないうちになにげなーく。そんな風に表参道の坂に寄り添うように自然な感じで作られているのです。なにやら不思議な面白いつくりのビルでした。フロアを見終わるたびに次のフロアに移るためにエレベーターやエスカレーター、階段を探さずとも、歩いているだけで全部回れちゃうのです。面白いつくりです。 それからね、同潤館というのがあって昔の同潤会アパートの一部が残してあったのです。昔の昭和の頃のコンクリで出来たシンプルな階段が、そのままに残っていて、アパートの部屋がそのままワンフロアに二部屋づつ残してあるのです。ちいさな狭いお部屋です。それでも、当時は最先端だったのです。 かつてまだ同潤会アパートだったころ、古いアパートの部屋のいくつかが、おしゃれな服飾店、ブティックになっていて、古い建物と蔦の中でショーウィンドーがちらほら見えて、なんともいえない、不思議な素敵さがあったのですが。その雰囲気と同潤会のよさをどこまで残して新しいビルを作れるか、勝負でしたね。新しいヒルズには新しい良さもあり、一区画だけ残されたアパートもなつかしい雰囲気を伝えていました。 さて、ヒルズの中にはたくさんのお店がありますが、私は車で行ったので、パーキングからいきなり3Fまであがりまして、『デルレイ』のチョコを買い(一個400円前後です。高!!)、『ナチュラルビート』でアイスを食べて、『はせがわ酒店』で、スパークリングサケを買いました。いやこのお酒、炭酸がすごくて、キャップを少しあけて炭酸が上がってきてはしめ、を繰り返し、飲むまで大変でした。あまりにも炭酸がすごいので、いきなりあけるとぜーん部あふれ出てしまって、飲めずに終わってしまうのだそうです。でも、これにごりざけの炭酸酒です。ピンクの包み紙がかわいくて、選んでしまいました。美味いかどうかは…よくわからない。 それから『ポワグリエ』で、チキンカレーを食べて、これ、ご飯がハーブライスだか、十二穀米だったか、えーと忘れた。とにかく普通のご飯じゃなかった。とにかくおいしゅうございました。とにかくやっぱり混んでてねえ、並ばないとナーンにも食べられない。 それから、通路のはずれに『ジブリ』グッズのお店がありました。ただのメンズのお店かなと思ってよく見たらジブリの『紅の豚』のグッズオンリーのお店なのです。 キャラクターテイシャツや紅の豚が着ていたのと同じトレンチコートとか、紅の水上飛行機のモデルとかね、売ってました。よく見るとジジが端のほうに隠れてます。ほかにもいろいろお洋服もね。ありました。 これがジジ 洋服とかはね、もちろん売ってましたけど、見ないのです。ちらーっとしか。だって私には着られないもノーーーー。 最後にラジコンカーのお店。うちのダンナがラジコンマニアですからー。このお店、奥のほうにレース用のコースがあって、お客さんも遊べるのです。500円でレンタカーが借りられます。マイカーもちこみ、300円で、どちらも15分遊べます。ダンナも遊んだ。コースの壁にぶつかりまくりだったけど。はっはっは。 上から下まで歩くと結構あります。いい運動になりましたでも、散財しちったので、しばらくはおとなしくしていませんと
2006年04月25日
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うちの長男もとうとう高校二年生。私は男の子育てるのなんて初めてだし(あたりまえだけど)、何をどうしたらいいのかなんてわからない。それでも、兄貴がいた分まだ、男の子がなんなのか、なんとなーくわかる気がする部分もあるけど。 しかーし思春期の高校生初心者の親とはちがって、男子進学校の先生は思春期の男の子の扱いに関してはプロフェッショナルだ。保護者会だなんだかんだと学校の行事に参加するといろいろいろいろなお話が聞ける。 たとえばろくすっぽ勉強もせず、パソコンにあけくれるわが息子に、いいのかなあと思う母だけれど。 勉強勉強と親がうるさく言った挙句、不登校になる生徒とか、親にうるさく言われて家をでて、繁華街をうろついた挙句勉強したふりして家に帰る男の子だとか。 さらには、よっぴてネットゲームにはまり、昼間は寝まくりの生徒とか、落ちていくんですよねー。ここまでいくと。そんな情報、先生はどうして知ってるんだろう。 上から圧力かけて勉強させても、ものにならないだろうこととか、 男の子は差が激しいので、その成長速度も違う。早くから自分を律することの出来る子も、ネットにはまり、自分の欲望に流されてしまう子供もいる。結局生徒自身が大人になるしかないことだとか。でも、どうしたら子供は大人になるのか。どんなことが子供の精神を成長させるのか。苦痛や苦労や苦境や苦い経験が人を成長させることもあるけれど、今現在の高校生にそんなものないし。 高校生の大事な時期に勉強だけの生活で生徒の時間をつぶしたくないと先生は言う。ええっとお、進学校なんですけどね。 この時期男の子なんて親には話しをしませんし。それでも、うちはまだましな方だけど、一言も口利かないという子もいるとか。母と口利くうちの子に反抗期は感じられないけどいいんでしょうかね。ま、勉強しなさいなんて言うの、私はだイッ嫌いだからね。 それでも、友達とのかかわりの中でいろいろ刺激を受けて、自分の至らなさに戸惑っているのが分かります。まさに思春期だなあ。
2006年04月24日
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楽天ブログには字数制限がありますね。他はどうかわからないけれど。 半角10000字です。しかし、私はまだ一万字を超えたことはさすがにない。ええと、一番多くて8000字代です。ちょっと長文かなという時で、4000時を超えるくらいです。かなり長文書いてるつもりだけれど、やはり一万字の壁は遠い。いやおさまっていいんだけどね。第一、長すぎなのですね、私の場合。途中でめんどくさくなって退散してる人も多いかもしれない。しかし、この字数、記事をアップした時の画面で唯一しることができるのみです。後になると何字なのかわからない。記事本体にはのらないし。いくらなんでも、自分で数えるのもちっょとねえ。めんどう。 ところで最近コメント欄にも字数制限があることを知りました。大体1600字前後あるいは1700時前後くらい。詳しいことは忘れてしまった。先日引用文も入れて丁寧に書いていたら、アップしようとして字数制限に引っかかってしまったのです。仕方ないから引用文もかなり削って本文もいくらか削って空白も減らして、苦労してやっとアップできたことが。 いやでも、10000字超えてエラーメッセージ出してみたいな。ふふふ。ところで、今話題の楽天りんくすですが、どうも、アクセスの多い人気ブログをまず、会員にしてるみたいですね。しかも、本人に入会の意思も気かず、強制的に。いきなり、リンクスになってる方も、驚く。そして、他の人は待ての一言。つまーり、みんな平民であったはずの楽天会員の中で、階級格差ができたのだ。身分差別です。あきらかに。平民である非会員は、既に会員の方にお願いするとか、なんとか仲良くなるとかするしかないみたい。何気不思議なシステム。楽天のプログラマーさんとか企画スタッフの人たちって、どうも、世間的常識に欠けてる。毎度言いたい放題ですね。いえね。善意に解釈しましようね。アラシもあるし、仲良くなったひとと懇意に話をしたい。いろいろブログに書きたいけれど、全く知らない楽天外部者には見られたくない。ネットにおいて常識的な行動のとれる人たちだけで安心してブログ生活を送るためには、楽天内で人気の高いブログの人に他のメンバーを加入させる判断をお任せするのがいいだろうと。いうことで。楽天の会員全部をリンクスにいれるかどうか、楽天スタッフだけで判断するのは大変だし、それこそ、独裁ともいえないこともない。会員同士うちうちで決めてみてということなのでしょうか。アラシのない、平和な閉鎖社会で、楽しくネット生活。でも、まあ、これ何っ?てところですね。ほんとはよくわかってなーい。
2006年04月23日
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横田めぐみさんの拉致問題のニュースはほとんど毎日見ることができる。 帰国された他の方々の場合ほとんど落ち着いた様子で、ただ、横田さんの問題だけが解決されないまま未だにご両親のいらつきと憤りは変わらない。私の子供達がもし、誘拐されたら私もやはり同じようにその憤りは消えないだろうと思う。 それでも毎日このニュースを見ていると最近なにか釈然としない不快感を感じるのです。 それはやはり自分達の辛さだけが主張されていて、そこに北朝鮮の現状への憐憫や情がないからなのだろうか。 先日私が書いた記事に関してコメントをいただき、今一度知識の補充をした上で考えてみると、(いやそれでもまだ全然足りませんが)、現在の北朝鮮が出現するにいたった経緯や、朝鮮のために大戦中当時の日本がした行為や、アメリカ、中国、ソ連(ロシア)の勢力のせめぎあいが朝鮮にあたえた影響など今一度考え直して見た時、当時朝鮮の苦しい状況をなんとかしようとしながら結局はできなかったというか、中途半端に終わった事を今一度仕切りなおせないのだろうかと思ったのです。 朝鮮がソ連に占領されずにすんだのが日本やアメリカの尽力によるものだとしても、それでも、やっぱり今の北朝鮮(や韓国)の状況は同じくらい苦しいように思える。北朝鮮自身も自らの苦しい状況に身もだえしているようにも見える。拉致した日本人を返還し、国交の回復を試みて、首脳会談を繰り返しつつも、自国の位置を確保するためにどうにもならない状況で、めぐみさんがらみの情報は国交交渉の上で貴重なキーアイテムなのだろう。ただその身を全て投げ出して助けてくださいとはいえない、国同士の勢力争いのまさに渦中にある状況のその、 北朝鮮を救い出すことはできないのだろうか。 かつて朝鮮のために日本が行った数々の支援を、今一度アメリカや他の大国の援助も頼んだ上で行いたい。日本はかつてがんばって見たけれど、それでも、力不足で今の北朝鮮の状況を作り上げてしまったのかもしれないのだから、もう一度日本は、朝鮮のためにがんばってみたい、だから、アメリカも中国もそのほかのいろいろな国も助けて欲しいという主張をしなければ、ただ、拉致事件ばかりをあげつらって日本の辛さばかりを言って見ても国際会議の場で賛同を今ひとつ得られない。それは、日本側に朝鮮の現状に対しての憐憫や情がないからなのじゃないのかなあと思うのだ。 それはまさに藤原正彦氏の『国家の品格』の中に書かれている「情」を論理の出発点とするということなのではないかと思うのだ。 自らの苦境以上に相手への情を示すことこそが日本という国の品格の表現ではないのかと思うのだ。 と、いろいろ考えつつ、テレビを見ていたら、竹島問題で韓国は怒りまくり、とてもアジア同士仲良くしましょうなんて雰囲気とは遠いなあとため息気分になった。 AU by KDD までの道のりは遠いな。やっぱ理想論で終わるんだな。 それにしても日本は、朝鮮のためにがんばってるつもりなのに、韓国は日本に反感もちまくり。はたから見てるとなんでこの二人仲良くしてるのだろうと不思議に思うような人間関係と、国単位の国際関係って同じなんだろうか。日本がアメリカになんだかんだと助けてもらっているように、朝鮮韓国も中国に助けてもらっていたわけで、それなのに、日本が助けるつもりで手を出して、中国と朝鮮の関係にへんなじゃまをしただけってことないのかしら。なにしろ朝鮮と中国の関係は日本とアメリカより長いからねえ。他人にはわからない。結局、朝鮮の頼る国が中国からアメリカに変わっただけなんだろうか。朝鮮にすればアメリカより同じアジアである中国の方がよかったのかも。しかし、中国もいまそれどころじゃなさそうだしね。 という訳で、もう少しまじめにニュースを見ないと。
2006年04月22日
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この映画、今話題のジョニデプが主演なのに都内では四箇所しかやってない。いつもの劇場では無理なので、はるばる渋谷まで見に行きました。内容見たら…、いやもう確かにそこらのシネコンじゃ流せないな。無理ないわ。 そしてすごーく混んでました。なにしろ上映館少ないので、どうしても一極集中になるらしい。私は30分前に入ったけど、それでも、既に後ろ半分の席は埋まっていました。そして、帰りにはイマドキめずらしく、整理券そして、行列でしたからね。 しかーし、私、途中で寝てしまいました。映画はよかったのですよ。それでも、五時半起きと、映画が11時からというナイスなタイミングには勝てず。見終わった時、えっとーこの映画は結局どういう話だったんだということになったのも途中で寝ていたせいもあるかも。ネタバレしてますからね。 いやそれにしても、テレビだったら ぴー が入りそうなわいせつな単語がでまくり!もっと過激な映像がでるかと思ったけどそうでもなかった。でも、セリフがね。すごいのよ。汗汗汗なんだわ。 放蕩の末に改心してキリスト教を受け入れて、安らかに最期をむかえる話 いやージョニデプがそんなに単純なはずないですね。 映画の中で最初と最後にロチェスター伯爵(ジョン・ウィルモット)の独白がある。 「私を好きにならないでくれ。」 この言葉が何度となく繰り返される。 この言葉がもつ意味は、はたして、 「私を嫌ってくれ。」 なのか、あるいは 「好きになって欲しい。」 なのか。 ううむ。どっちか。 それでつまり結局、ジョンは寂しくて寂しくて、心の空白を埋めるすべをどうにももてない。ま、男ってみんなこんな風に甘ったれだけどさ。 金持ちの奥さんを持たざるを得なかったということは、つまり、彼自身の資産はたいしてないのか。作中奥さんの母親はでてくるけれど、彼の両親は出てこない。ジョンは幼いうちに両親を亡くした貧乏貴族なのか 親の愛を充分に受けずに育った子供というのは、異性との性交渉に走りやすいのだそうだ。たぶん、愛情不足という心の空白を埋めるために。 そしてジョンもまた、異性との、さらに同姓とまで、はてしなく性交渉の日々をくりかえす。 優れた才能を持ち国王をはじめとする数々の人に愛されながら、彼の心は寂しくて寂しくて、どうしようもないのだろうか。正しく彼を愛する妻の愛すら彼の心には届かない。 昔読んだ女性作家のエッセイにあったのですが、人間というものには、「シシジー」と「愛情乞食」(いやこの表現ちょっとあんまりですね)という二種類のタイプがいるんだそうだ。 「シシジー」というのはわりと一人でいるのが平気で、というよりも感度が高いから、人が発する生命的なパワーというか、エネルギーなるものを敏感に感じ取ってしまうために、多くの人とかかわったり、長時間接していることに苦痛を感じてしまうタイプの人間なのである。だから、ある程度一人で過ごす時間がないと精神的にもたない。詩人のキーツが多分このタイプなんだろうと思う。 それで、「愛情乞食」というのは、感度が悪い。たくさんの人と長時間かかわっても、どんなに愛情を示されても、上手く相手のパワーを感じ取れない。だから寂しくてしょうがない。いつもいつも友達や恋人を求めてかかわっていないと精神的にもたないのだ。 つまり、ジョンは「愛情乞食」タイプ。たくさんの恋人との逢瀬を交わしながら、どうにもこうにも寂しくてしょうがない。あんまり苦しいから本人もいろいろやってみるのだが、やっぱりどうにもこうにも心の空白は埋まらない。普通の人たちならどちらかの気質をもちつつ、適当にごまかしながら生きているものなのですけれど。 さて、そんなある日、彼は演技のド下手な女優エリザベス・バリーを見つける。自分の技量でなんとかこの女優を仕込んで売れるようにしようと画策する。ところがこの女優さん、下手なくせにやたらプライドが高い。「たとえ、仕込んでもらっても、ジョンのおかげだなんて世間に言われたくない。」と威勢のいいこと。「私は女優になりたいの、名声と栄誉を自分の手で勝ち取りたいの」と大見得を切ってくれる。 しかし、この女優さん、大見得切るだけあって根性はぴか一。ジョンのしごきに耐えて、見事大女優になって見せるそして、自分の欲しい物を手に入れて大満足なわけで、自分に満足してるんだから、他人に自分の寂しさを埋めてもらおうなんて発想は全然ない。当然自分の恩人兼愛人であるジョンといえども、飽きたらさっさと「さよなら」というわけで、いやその強いこと。 ジヨンはそのスペシャルな美貌と才能で、本人の努力無しの状態で他人からの愛情も、詩人としての成功も簡単に手にいれちゃったのだから、まして、達成感なんかない。下手くそだったエリザベスが血のにじむような努力で手に入れた栄光と達成感をジョンは得られない。 心の満足は自分自身の努力によって見つけ、そして手にいれるものなんだ。そうして初めて、達成感や、心の空白や寂しさを埋めることが出来るのであって、どんなに他人に求めても、えられるものではない。他人がくれるものではないのだということを、ジョンは自らが育て、鍛え、愛したエリザベスからやっと学び取ることが出来たのでしょうか。 いや、このあたり山岸涼子の『アラベスク』思い出しちゃいまして。主人公ノンナのライバルの天才バレリーナ(名前わすれたよ)がさっさとバレェを止めちゃって女優になっちゃうのよね。簡単に手に入れたものにはありがたみがないってことか。 それから。テレビを見ていたら、中村うさぎと見城美恵子の対談やってまして。中村ウサギは買い物依存症からはじまりホストへのめりこみ、さらにはデリヘル嬢にまでなってその経験を作品にしている話題の人ですが、「ああ、この人もリバティーンなんだな。自分では自分がなんでこんなことしてるのか、わからないんだろうな」と思って見てました。きっちりと自分を確立して、なんの迷いもなく正しく人生を生きている見城美恵子には、中村ウサギの心の裏はわからないんだろうな。 ところで作品中かなり肝心なところなんだけど、梅毒になった後のジョンが国王の会議で演説するシーン。ちょっとうっかりうわの空で見ていたら、ジョンがどんな演説したのか、聴きそびれちゃって、うーん、やっぱりこの映画の真意を読み取りそびれてるに違いない。これはもうDVDになったらもう一度見るしかありません。ああ、馬鹿だ。
2006年04月21日
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娘が入っている美術部の顧問が代わった。 美術部なんだから、顧問は当然美術の先生。 去年の先生は転勤でいなくなり、今度の先生は部活をいきなり、週四日にした。前は週一回だけの気楽な文化部だったのに。クラブって生徒が自分で運営して生徒の自主性を育てるためにあると思っていたのだけれど、顧問の一存で部員の意見もその親の意見も全く関係なく部活の日程が決められてしまうとはびっくりである。さすが公立だ。 しかも活動日を強制的に増やしておきながら、先生自身はやる気がなく、生徒達に勝手にやりなさいと言ったとか。私は週四日と聞いてはじめ、娘の冗談だと思っていたのだ。しかーし、事実だったのです。しかも、先生自分はコンピュータやりたいから、今年は一年を入れるのはよそうと言ったのだそうだ。いったいそれってどういうこと新入部員が入らなかったら部の存続はないじゃないか。いきなり部活日をふやしたのも本音はこの先生顧問がめんどくさいから、美術部なくしたいだけなのではないのだろうか。うーーーん。娘はいきなりハードになってばかばかしいからまじめに部活は出ていないみたい。そして、三年生は辞めた人もいるらしい。それでも、受験の内申に影響するからということで娘自身は退部の気はないらしい。それって母としては変だと思うんだけどね。 それにしても公立中の部活って言うのは…。今年は転勤で顧問のいなくなった部が二つも廃部になったそうだ。その後で顧問を引き受けようという先生すらいなかったのか。剣道部だけはなんとか顧問を引き受けてくれる先生がいて、先生自身は剣道全然しらないけれど、なんとか引き受けてくれたのだそうです。かと思うとちょーのんきな部がいきなり熱血先生の顧問就任で、熱血クラブに変身したりすることもある。 まさに顧問の先生の一存だけできまる公立中の部活の実態って。なんなの。 それで私はいつも思うんだけど、何も中学からそんなに部活なんてやらなくてもいいんじゃないの、とか。生徒達が夜は塾に行ってるのを承知の上でハードにがんばらすぎる運動部だとか。よくわからない。部活は高校に行ってからのお楽しみにとっといた方が受験のモチベーションも上がりそうだと思うんだけど、中学でがんばりすぎて高校の頃には既に部活飽きてたりして、高校のモチベーションは下がりまくりな気がしないでもない。 私立の中高一貫の場合、生徒の自主性やリーダーシップを育てるために部活はポイント高いし、顧問もちゃんといて、いきなり、廃部になるようなことはない。たぶん。だいいち、先生の転勤も基本的にはないですから。 それでも、実際には二年半もやると子供は部活にあきてくる、という現実を知ったのです。中高一貫は六年間(実質四年半かな)通して、部活ができるってのも売りなはずなんだけれど、現実には子供なんて一つのこと、一つのところには三年が限度なんだな。それで、うちの長男も二年半くらいでそろそろクラブは辞めたいとか言い出したし、長男と同じクラスの中の子でも、どどっとクラブを止めていたり、する。ほかにも部長以外もう、勉強だからといって高校二年生になると、ぞろっと辞めていたりするみたい。 それで、だから、中学における部活の意義ってなんなのでしょうね。そして、その維持と活動の実態はこんなものなんだ。
2006年04月20日
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ここのところなぜか戦争ネタ多すぎ。戦争オタクでもないのになぜでしょうね。面倒な話が続いてすみませんね。 そういいながら今日もこれだ。先日『アドルフの画集』をみて、そしてその後がこれ。続き物を見ているような、全然ちがうような。 それでも、先に『アドルフの画集』を見たことが影響していたりする。ついでに公式サイトはこちら ええと、ネタバレしてますので。 物語はまさに第二次世界大戦終盤。終戦まであと数日。ソ連軍はベルリンに迫りつつあり、ベルリンは陥落寸前です。地下要塞にこもったヒトラーとその側近達、一部の兵士たち。 物語の主人公はヒトラーの秘書であった一女性です。 戦後生き残った彼女によって伝えられた最後の日々のヒトラーの真実。ほんとにどこまで真実なのかは所詮映画だから確証はないですが。 それでも、戦闘シーンの迫力はすごいものでした。そして、苦しい状況の中で怒りまくり、怒鳴りまくるヒトラー。 ちなみにヒトラーは作品中ほとんど軍服を着ていない。宣伝のポスターやビデオ等の写真ではヒトラーは軍服姿なのですが、映画の中でヒトラーが、軍服を着ていたのは一度だけ。いつもスーツ姿で総統というよりもやさしいおじさんのようにみえる。一見ね。ヒトラーは政治家であって、軍人ではなかったということなのでしょうか。 そして、作中では十代前半の少年兵も登場するし、敗戦直前のヒトラーは市民の安全や命なんか考えてもいない。陥落寸前のミュンヘン市内の病院には山積みされた裸の死体。そして、医師がいなくなった病院に忘れ去られたように残されている老人達。日本の戦時中と大して変わらなかったのだなあと思いました。そしてヒトラー夫妻を皮切りに順次自殺していくのです。すごいのはゲッペルス夫人(だったかなぁ)が六人の子供を毒殺するあたり。「ナチでない社会で子供を育てたくない」と彼女は言う。なんでなんだろう。それくらいヒトラーとナチスを信望していたということなのだろうか。そして更に陥落寸前でも、逃げようとしない側近や秘書の女性達。彼等はこんなにヒトラーを信望していたのだろうか。いったいヒトラーのどこにこれほどまでの魅力があったのか。イマドキの私から見るとモノスゴーク不思議なのでした。 それでも、地下要塞を出て、逃げ延びようとする人たちもいて、主人公も逃げないといいながら最後はこの人たちと一緒に脱出します。映画のラストでは、彼等がその後どうなったのか一人づつ教えてくれるのですが。 そして更にその後、主人公の秘書の女性の本人が出演して彼女の言葉で語ってくれます。「ヒトラーのしたことはひどいことだけれど、自分自身は関係ないのだと長いこと思っていました。けれど、自分と同じ年に生まれ、自分がヒトラーの秘書になった年に処刑された女性の記録を見た時、私は愕然としたのです。」と。 この映画のテーマはもちろん反戦ですし、上手い言葉や時代の流行に流されずに、自分の頭で考えなさいよと言っているのだろうと思ったのですが、その上でさらに更に、「直接目の前で人が死ぬのを見ないから気づかないけれど、本当は自分が人の死にかかわる仕事をしていることも、人の死を自分の飯の種にしていることにも、きちんと思いを及ばせられなければダメなのだよ」と言っているのだと思うのです。 そういうのは多分今の現実にもあって、アジアの田舎の村で芥子しか作れないからなのか、それ以外に生きていく方法がないから大麻を作って人の命や人生を自分達の収入の犠牲にしていることだとか、 姉歯事件に怒りながらも、自らは米軍基地があることでそこから仕事を得ることが出来るために米軍を拒否しきれない現実、(米軍の存在をイヤだと思う本心とは裏腹に)、 そんなことが心のジレンマになっていて、苛立ちは増していく。 ものすごーく間接ではあるけれど、米軍がらみで仕事を取るということは、やはり人の命とひきかえているということで、やはり軍隊が人の命にかかわらないわけはなく、 米軍が今実際必要なのかどうかとは別のところで、考えてみてなのですが。 今現在、だからそれをすっぱりやめようよ、とはもちろん言えないけれど、それでも、もっと他に自分の仕事はないのか。もっと他に地域のために仕事を、産業を作り出していくことはできないのか、他の手段はないのかと、心の奥で考えるスタンスだけでも、持てないものだろうかと考えてみるのです。それにしても、ドイツの映画はドイツ語に限るヒトラーが英語で怒鳴ってても…ねえ。
2006年04月19日
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私が私のブログで書いているのは理想論です。ぜーんぶ理想論です。あきれるくらいきれいな理想論です。なぜなら、理想論が書きたいからブログを書いているからです。 だから、書いているのが理想論なのは百も承知の上なのです。 ところで、反戦がらみの記事を書くと、よく、その道に特に詳しい方からコメントをいただく。 私はただでさえ少ない知識を無理やり引き出して書いているので、その道の人にはぼろぼろの穴だらけに見えるだろうと思う。 それで訂正とか、知識の補充のコメントをいただく。それは結構なのだが、そういうコメントのやりとりをしていると、どうしても最後に、それは理想論ですねとか、仕方ないのじゃないかと、必ずそういう方向に話が行ってしまうのだ。現実に起こったこととその結果ばかりが引き合いに出されて、今現在の位置から見直して考えた場合の意見がないのだ。 そもそも私は理想論を書いているのであって、だから、「理想論ですね」と言われても困るのだ。歴史的事実は百も承知の上で、その当時のことも仕方なかったことも承知の上で、そうであったかも知れないけれど、それでも、そのときのことを今一度考えたとき、間違いはなかったか、何がいけなかったのか、そのとき無理だったとしてもでは今いったいそれをどう修正していけるのかを考えているのだから、当時の事情を挙げて、「しょうがない」と言ってみても始まらない。 「しょうがない」という言葉は明らかに「思考停止」の言葉であって、「仕方ないから、どうしようもないんだからねじゃあいいよね」ということでその先に進むことをやめてしまう。 だから、コメントの返事で理想論だとか仕方なかったとか、そいうい方向に持っていかれても困ります。 そして、この手のコメントをつけてくださる場合、仕方ないという言葉の先に、だから、今戦争になるのはしかたないという方向になっていって、女である私からすると、結局言い訳と理由をつけて、戦争をしたがっているようにしか見えない。 私は理想論を書いているけれど、だから今そのてのこと戦争がらみのこと、軍事がらみのことを今すぐ全部ストップしてしまおうと思っているのではない。無理だろうし…。ただ、今の状況の中でそれらにかかわりながらも、何が正しいのかどうあるべか考えたいではないかと思うのだ。 理想論はいけないことなのでしょうか。理想論とは無理なこと、絶対実現しないことなのでしょうか。 かつて数百年昔に無理だったことの数々は今現実に実現されたなと思うことも多い。 たとえ今無理に思えることだとしても、目指す理想のあり方を考え続けることはいけないことなのだろうか。 理想論というのは、今現在の苦しい状況の中で、今とはかけ離れて見える理想に見えたとしても、目指す姿を、そして、何が真実正しいものなのか模索するためのものであるのだから、と思うのだけれど。 たくさんの知識を持ちながら、コメントを書いてくださる方の知識を超えた先の思考がみえないのだ。 どこまでいっても知識優先の平行線の論議にしかならない。これほどの知識を持ちながら、その知識の上で自分なりの改善や主張はないのだろうか。世評への批判はあっても、本人自身の思想はどこにあるのだろうか。 どんなに稚拙で未熟であっても数々の理想論の中に真実が隠れていることだってあるのではないかと私は思う。 えーとだからですね。自国のために朝鮮や日本や中国に手出しするアメリカも、不凍港欲しさに他国を分捕ろうとするソ連も、朝鮮が弱いからって属国扱いする中国も、大変そうだからって力もないのに手出しする日本も、何かって言うと他人に何とかしてもらおうとする朝鮮もみーんな悪い。そして、今内政干渉や他国を占領することや、戦争することが世界レベルで否定され始めていることはいいことだと思う。だからって戦争がなくなるかどうかわからないけどね。 それから私は国同士の技術提供や係わり合いや助け合い自体を否定しているわけでもありません。ただ、ものすごーく大局で見た時、他国の文化と成長に手出ししすぎだと思うのです。もうこれから先、西洋文化に侵食されすぎたくありません。西洋は好きです。すばらしいものがいっぱいある。それでも、他国に手を出すあり方は自己過信が過ぎるのではないですか。それはアメリカもロシアも中国も日本も。 当時のことは私もそれこそ仕方ないだろうとは思うのですが、それでも、北朝鮮の現状に日本もまた、関与しているのだろうと思うわけで、大国が来たからしょうがないという論戦に流れてしまうのは勘弁して欲しいのです。 ちなみにうちの長男の意見もキートンさんとほぼ同じではあります。当時の国同士の勢力争いの中でどうにもぎりぎりの線であったろうと言います。 おかげ様でそのあたりの知識はだいぶ増えましたが、またこれから、のんびり勉強します。ところで社会主義が必ず独裁政権になってしまうのはなぜなのでしょうか。
2006年04月18日
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うれしいです。『ゲド戦記』の予告がテレビで流れ始めました。そしてウェブでも、見られる。これだ。そんでもって、ジブリのホームページ、そして『ゲド戦記』製作ブログあとは、監督日誌もあります。予告編もよかったあ。本編早く見たいです。それにしても宮崎駿監督。もうお年で手が使えなくなり始めている。もう宮崎駿監督作品は見ることが出来ないのでしょうか。こんなすばらしい監督がもっと早いうちからジブリの作品をどんどん世に出せていたら、もっともっとすばらしい作品が見られたかもしれないと思うと悔しいのです。ジブリ作品はいろいろあるけれど、やはり宮崎駿監督が作られたものは別格です。さて、宮崎吾郎監督がどんな作品を見せてくれるのか。とても楽しみです。ただ、ものすごーく大物の人物の子供というのはやはり親を超えられないパターンが多い。これはもう仕方のないことで、歴史上に残るような人物がそうぽんぽん生まれるわけもなく、大物の親の血を引くというだけで、子供も大物であるはずもない。長島一茂しかり、ですね。(こんなことを書くとファンから苦情がきそうだなぁ)ウォルト・ディズニー亡き後のディズニーもまた、最近の作品作りの悲惨さ、プライドのまるでないものまねや、テクニックだけに走るつまらなさ、それはもう、ウォルトほどの逸材がそんなに簡単に出てくるわけもないからで、『南極物語』にしろ、『ライオンキング』にしろ、最近の駄作、『ナルニア物語』(ファンの人ごめんね)にしろもう、スタッフの息も絶え絶えな苦しさが垣間見えるようで、見るも無残ですね。宮崎駿監督がジブリから抜けた後、ジブリはどうなるのかなあと心配。ジブリの中で維持し続けるというよりも新しい逸材はもっと違うところから全く別の個性をもって生まれてくるもの。それはつまり手塚治虫亡き後の虫プロではなく、新しい存在としてのジブリという集団が出現してきて、アニメ界に新しい流れを作ったように。ところで私がポストジブリとして、その作品のすばらしさとジブリとはまるで違う映像美に感動したのが、新海誠作品です。ショート作品『ほしのこえ』そして、長編『雲の向こう 約束の場所』今の所この二作品くらいしか見かけませんが、いま新海さんはどうしてるのでしょうか。ただ、これらの作品はSFで、結構内容的に難しく、ジブリのように一般大衆や子供達には受けない部分が多いなあと思うのですね。それでも、この作品の中で、今私達の日常の中で当たり前になっている、コンビニや雨の後の歩道のにおい、携帯やメールでこそかわされるやりとり、それからそのほかいろいろの、まさに現代社会ならではの景色が、登場人物たちにとっては懐かしいシーンとして登場してきたのを見たとき、本当に感動してしまいました。まさに今に生きる私達の感性にリンクしている感じなのでした。さあて、宮崎駿監督のあと、アニメ界はどうなるのでしょうね。というところで宮崎吾郎監督の力量を拝見できる『ゲド戦記』楽しみですねー。
2006年04月17日
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昨日「アジアの国同士仲良くしたいね」と書いたけれど、実際のところテレビのニュースを見ていると、とにかく北朝鮮拉致問題のニュースが多い。 米軍基地問題はあんまりなくて、報道の世界では既に旬を過ぎたニュースなのか、それとも報道規制でもされているんだろうか。などといろいろ考えてみる。拉致問題はテレビをつけただけで見られるけれど、基地問題はテレビ欄とよく相談しないと見るのは無理みたい。 北朝鮮の拉致は本当にひどいことだと思うんだけれど、こう毎度毎度ニュースで見てるといい加減なんとかならないのかなあと思うわけだ。国民が北朝鮮にどんどん反感を増殖するようにやっぱり報道操作でも、してるんだろうか。 北朝鮮が今現在やってることは確かにひどいことだろうけれど、じゃあ日本がかつて朝鮮にやったことはどうなのか。 ソ連とアメリカが朝鮮半島を割譲するきっかけを作ったのは日本だし、歴史上も朝鮮半島の内戦を中国と日本とで後ろで糸引いてたりしてる。大戦中にもいろいやってるでしょう。 北朝鮮でひどいことしてるのはあくまで書記長とその周りくらいであって、ニュースに見る北朝鮮の国民の暮らしぶりのひどさは現代とは思えないほど過酷だ。そしてその過酷な北朝鮮の人々の現在を作ったきっかけ作りを自分達日本人がしているんだと言うことをまったく忘れ去っているのだろうか。北朝鮮がしようとしているのは国内の貧窮を救うためになんとか日本と国交を回復して物理的支援を仰ぎたいと考えているように思えるのに、現実にはますます状況は悪くなっていって、書記長にすれば、日本の反感はひどくなるは、国内での威信は維持しなきゃならないはで、つらいところですね。こんなことを書くとやっぱりどこが?と言われそうだ。 ところで、アジア同士仲良くなんないのかなと考えていてヨーロッパの現在を思い出した。そうそう、ヨーロッパはついこないだ、通貨統合もして、EUも出来上がったんだよね。かつてはヨーロッパも国同士ケンカしたりもめたりしていたけれど、さすがにヨーロッパの国同士仲良くしないとアメリカに対抗できないし、内輪もめなんかしてると、アメリカにつけこまれて、又、ヨーロッパを戦場にされちゃ叶わないってことに気づいたって事だ。ヨーロッパ共同体の案は結構前から出てたと思うんだけど、この数年で急速に結束が強まってEUが出来上がってきたのもそのあたりが原因なんだなってことに気がついた。 やっぱり西洋って賢い。日本は西洋化を目指しながら、結局いったい何を学んだのだろう。アメリカの資本主義による物優先の考え方は学んでも、西洋がもつ真の価値観、芸術文化への敬意は学ばなかったのだろうか。 結局アメリカに戦争を仕掛けられるのは内輪もめしてけんかしてるところばかりなんだよ。 ヨーロッパのように日本もアジアもお互いの国に敬意を払って相手の文化にも芸術にも理解をもって協調していきたいじゃないか。と思う。 太平洋戦争の開戦のキャッチフレーズになったのが「アジア イズ ワン」という言葉だ。けれど、この言葉で当時日本がしようとしたことは、日本がアジアの国を全部まとめて一つにしてやろうじゃないか、だから、植民地化だ、戦争だとさも聖戦をしているようなふりをするために悪用された言葉だ。けれど、本当は同じ場に生きる同じ人種として意識を一つにして仲良く暮らしていきたいねというメッセージなわけで、だから、もう一度この言葉を思い直してみたい。と、思うのだ。
2006年04月16日
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さきおとといの記事を書いていて、ガビーンとショックだったことがある。 私は中東に関してはアメリカが手出しするからおかしくなるんだから、さっさと手を引けばいいのにと思っていたのだ。にもかかわらず自分がらみのアジア圏となると、日本が危ないならアメリカに手伝って欲しいと考えたことだ。なんということでしょう。中東とアジア、果たして問題点は同じなのか、ちがうのか。 ところでさきおとといの記事に更にpyoサンからお返事をいただいた。内容的に失礼な部分もあるのでどうしたものかと内心ひやひやしていたのだけれど、丁寧にコメントを書いていただいた。ありがとうございます。 しかも私の記事の中のおかしなところもご指摘いただきました。現場が分からない人間の知識なんてこんなものです。私の馬鹿さが露呈しまくりでみっともない話ですが、私はそれでもいいと思っています。完全に知識を補充してから間違いない状況で書こうとすれば、永久に書けないだろうと思うからです。だからも間違ってもおかしくてもいいじゃないか、それでも自分の意見を言ってみようというスタンスで書いてます。変なところいっぱいありますが、ご容赦ください。そして、訂正コメントをいただくことで更に話題も盛り上がり、その記事を読むことで、こちらのブログを読みに来ていただいた方にもニュースへの関心や新しい知識が増えればそれでいいとも考えています。 ところでさきおとといのコメントへのお返事です。コメント欄には入りきらないし、コメントで終わりにするのはもったいないので、ここでもう少し書きます。そこにさらに話が続きます。 でも実際には辺野古に基地を作ると那覇への陸上連絡は非常に不便になるんですよ。 それでも陸路でいけるのであれば、基地内の病院では対処できないような重病人が出たとき、さらに嵐であれば飛行機、ヘリコプターで救急の大型病院に行くのは大変なことだろうと思います。こういうシーンドラマに多いですね。それと、アメリカ側にするとかなりの譲歩だということですね。ただ、誤解があるようなので訂正させてください。米軍基地の中には病院、スーパー、学校、娯楽施設まで整っていて、その物資の輸送は軍港・軍飛行場を利用しています。つまり日本の施設が整ってる必要はないんです。その物資の仕入れは、極東地域の担当がやってると聞いた覚えがあります。日本だけじゃなく、韓国や他の国の基地も一緒くたに。県庁所在地である必要も、ないんです。なぜなら米軍との連絡窓口になってるのは、防衛施設庁であって、「県」や「地元市町村」ではないんですから。政治的な種種の申請や手続きなどいろいろそれらも、治外法権地域である米軍が日常の手続きを県に対してやってるとは聞いたことないです。例えば軍人・軍属が個人でもつ車両についても、その登録手続きは陸運局が軍の中に事務所をおかせてもらってやってます。 なるほど。現地でないと知らないあるいは興味がないと知らない数々の情報ですね。ありがとうございます。ところで、それでも防衛庁にしろ陸運局にしろ日本の役所ですよね。基地内で書類の手続きを引き受けるのは日本の役人だし、その引き受けた書類は日本国内の役所に持っていくわけですよね。県庁所在地というのはそのての役所もあるところだろうと思ったわけです。それと、どんなにアメリカ本国から物資補給をしてもやはり足りないもの、緊急に必要なものが出てくるだろうなとも思います。南洋諸島と書かれてますが、私が書いたのは「南西諸島」です。ただ、南洋諸島だから物が腐りやすくて…っていうのはちょっと偏見かと。沖縄も相当暑いですよ。(^^; >北緯27度、これをどうぞ世界地図にあてはめてみてください。 すいません。南西諸島ですね。間違えてますね。申し訳ありません。腐るというのはまあ、東京でも腐るけど、ちょっと表現力足りませんね。すいません。えっとーちなみに南西諸島って言うのはどこのことでしょうか。わ、わからない…。ハワイとグアムとサイパンと沖縄と八丈島に行ったことがありますが、断然沖縄の方が涼しくて体力的に楽です。八丈島は狭くて基地は無理。伊豆大島まで行くと既に空域に空きがないんじゃないかと思います。本島は雪が降るというマイナスがあります。これは結構大きいと思う。それ以外の島はミッドウェーとか、ほぼ南洋か、沖縄に比べて遠すぎるかなとも思います。 ちなみに長男(戦争オタクと私は思っているが本人は別にそう思っていないみたい)に「自分がアメリカだったらどこに基地を作りたいか」聞いたところ、自分ならフィリピンだそうです。でも、フィリピンにもすでに基地はあるし、開戦して戦闘機で例えば北朝鮮に行く場合、戦闘機の航続距離が足りない。1000キロが限度だそうです。沖縄からでも、ぎりぎりだそうです。それから考えると対馬がいいはずだと言う事です。しかし対馬では、近すぎることと、中東から中国へのシーレーンから遠い。長男に聞いたこと全部書いちゃった。長男君許してね。 と、いろいろコメントの返事を考えていたのだが、結局こんな瑣末なことを言ってみても、実のところ他の場所に出来ればそれでいいんだ、自分の所に出来さえしなければ、なんて考えているわけでもなく、とにかく米軍基地が出来ること、目の前に戦争の現実を見せられること、大きな力に個人の意思や現実の生活を無視されることへの怒りなわけですよね。 平和だと思っているから軍事基地が出来ることに対しての拒否反応が強いけれど、じゃあ基地を拒否しきって、逃れたと思っても現実には戦争の可能性があって基地がなくなれば戦争の可能性はアップするかもしれない。開戦されれば、基地の周りだけじゃなくて、東京だって大阪だって日本全国どこでも充分危ないので、状況は同じなんじゃないかとも思います。 などといろいろコメントへの返事を考えていたのだけれど、結局こんなことは瑣末なことで やっぱりなんで、日本に米軍基地必要なのか、本当のところは要らないか、結局はアメリカの産業のための消費でしかない。 中国も北朝鮮も開戦する気なんてないとしたら、それをむりやりあおってるのは結局アメリカなんだろうと思う。やっぱり最初の言葉に戻ってしまいますね。 これです、これ。 いつまでも戦争というツールに頼って経済状態を回復するようなシステムであっていい訳がない。pyoさんには、書いた本人以上に、言葉の真意を読み取っていただいたのかもしれないなあとつくづく読み直してしまいました。 ところで、自分達(アメリカ)の経済のために他人(中東やアジア)の命が使われているというのはモノスゴーク腹立たしいんだけれど、結局内輪もめしてるから漬け込まれるんだよなあと思ってしまった。 中東もアジアも同じ地域の中で人種的にも近く、向こう三軒両隣なんだから、もっと仲良くすればいいのになあと最近思う。それでも、歴史を見れば中国と朝鮮半島と日本はいろいろと勢力争いを繰り返してきたわけで、やっぱり近いからケンカするんだろうか。明治の初めに日本の文化的科学的遅れに気づいた新政府は、急速な欧米化を図って日本もまた西洋化を目指し、西洋の真似事もいろいろしてきた。中国への侵略や植民地化もその施策の一つでそういったことが未だに尾をひいて、国民レベル国家レベルで未だにけんか腰。福沢諭吉先生は『脱亜入欧』を唱えたけれど、今日本は既に充分な発展を遂げていて、時代は明らかに変わってきたんじゃないのかなと思う。 そして、実際、西洋、アメリカへと向けられていた日本の興味関心の目は少しづつアジアにもむけられ始めているように思う。それはまさに今はやりのヨンさまを筆頭とした韓流ブームであり、中国の三国志や水滸伝などが中学生レベルにまで読まれ始めていることにも見えるように思う。 時代は既に変わり始めていて、日本はそろそろ 『脱亜入欧』から再び『脱欧入亜』にふり戻ってもいいのじゃないのか。もっとアジアの国同士仲良くしようよと考えてみる。 だから、ナイスなタイミングで放送された『冬のソナタ』がまさに時代に上手くリンクして韓流ブームの発端となり、日本の中で新しい朝鮮韓国観を作り出した。そして、アジア系の映画やドラマが今までアメリカやヨーロッパのものに行っていた関心をアジアに向けなおした。それは既に人々の中で芽生え始めていたものなのだろうと思う。 人と人の付き合いが難しいように国と国の付き合いも難しい。仲良くしたいと思いながらケンカし、ちょっとした過去の不愉快な記憶がいつまでも心のしこりとなって仲直りを邪魔しているのは個人も国も同じなんだろうか。 私達は国同士の政治的国際関係にはどうにも手出しできない。けれど、個人個人で、普通に相手の国の人を憎んでいるわけじゃない。 アジアのドラマや映画を通して相手の国の内実を知り、理解し、関心を持ち、少しづつ好きになっていく。 普通の一般人のレベルで「お互いに仲良くしたいね」という気持ちが高まっていけば、いずれ政治的にも国家も政府もケンカしてるどころでも、威嚇しあっているどころでもなくなって、国同士も仲良くしなければならなくなる、ようにならないのだろうか。 それはまさに市民レベルでの意識の高まりの頂点で、国同士の政府同士の取り決めとは別のところで『ベルリンの壁』が崩壊したように。あれは歴史的感動のドラマでもあったけれど、そんな風に歴史は作られていくんだろうかと思ってみる。 「私達はちゃんと仲良くやっていけるんだから、もうあなたの助けはいりません、だから基地も要りません」とアメリカさんに胸を張っていえるような日は来るのだろうか。
2006年04月15日
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先日中学の保護者会でした。 校長は新任、生活指導も新任、四月はねえ。 さて、体育館でおこなわれた保護者会では 各学年の担当の先生方がぞろぞろ出てきて、「何年何組担任のペケペケです。」と順番にご挨拶。保護者が座るその前でずらり並んだ先生たちが挨拶をしてぺこり。私はなにやらこのときオークション開場にいる顧客のような気分だった。保護者みんなで先生を品定め。先生達もずらり並んでご挨拶。うーん。 それでその後学年保護者会。それから、クラスごとのごあいさつも。 それで、先生方の話を聞いていると、とにかく生徒をほめまくるのです。 新任の校長も「どんな学校かはらはらしながら来ましたが、ほんとにこの学校の生徒はちゃんと黙ってこちらの言うことをきいている。」といって感激のご様子。その後の先生方も皆さん口をそろえて、「生徒達がちゃんと授業を聞いている。荒らす子がいない。」とほめまくる。 あまりにもほめ言葉が続くので「ほんとかなあ、保護者を怒らせないように機嫌取りしてるのかな、それとも悪いことを言って心配させたりすると保護者が不安になって学校にけちつけるかもしれないからかなぁ」といろいろ考えちゃっゃたのです。 それにしても生徒がおとなしくちゃんと先生の言うことを聞いてることがほめ言葉になり、そしてそのことに先生が感激して保護者会でほめまくるっていうのはすごいよね。本来だまって授業聞くのって当たり前なことのはずなわけでして。 今の時代そのくらい学校は荒れてるんですね。 長男の学校(私立)ではこんな風に先生が出てきて並んでご挨拶なんてないもの。 そういえば娘も言ってたっけ。「学校の先生が、この学校は生徒がちゃんとおとなしく授業聞いててすごい。前にいた学校は大変だったって言ってたよ。」 ということはほんとに今の学校って荒れてるんだ。 そうだ。たしか、今年卒業した学年は荒れてたんだっけ。それで荒れの原因の張本人が途中で転向したなんて噂も聞いたな。 それにしても先生達は保護者会でいろいろ気を使ってます。 最近の公立中は一応選べますからね。やっばり学校の人気度とか先生達にも影響してくるのかな。人気が落ちるといい生徒は他校に流れちゃって、学校が荒れるとかあるのかな。 実際には人気校はなかなか入れません。公立といえどもね。 とりあえずわが子の学校、落ち着いてるのならよしとしましょう。
2006年04月14日
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成分解析、流行ってるんだそうだ。それでさっそくやってみたはいいけど、面白いけどわけわかんない。でも、何気あたっているような気もしてくるからこわい。ふつうの生活 ふつうのパラダイスの48%は乙女心で出来ていますふつうの生活 ふつうのパラダイスの46%は保存料で出来ていますふつうの生活 ふつうのパラダイスの5%はマイナスイオンで出来ていますふつうの生活 ふつうのパラダイスの1%はミスリルで出来ていますちなみに私の本名でやると…(当然名前の部分は削除してますけどぉ)60%は毒物で出来ています22%は蛇の抜け殻で出来ています9%はお菓子で出来ています5%は言葉で出来ています4%は成功の鍵で出来ていますいやもうなんだか、自分の人生がうまくいかない理由がわかった気がしちゃったのよ。そんでもって、さらにこっちもやってみた。civakaの58%は勢いで出来ていますcivakaの23%は苦労で出来ていますcivakaの8%は気の迷いで出来ていますcivakaの7%はミスリルで出来ていますcivakaの4%は理論で出来ています勢いね勢い、うん、たしかにそう、勢いだけで書いてるもんね。 まあね、なんでもいいけどね。これがそのサイトだ。成分解析 on WEB以前、コメントをいただいた汪(ワン)サンのところに見学に行っていただいてきました。ありがとうございました。
2006年04月13日
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詳しいことはわからないです。ぜんぜん。 でも、先日ずっと前に書いたブログにトラバとコメントをいただいた。お訪ねして読ませていただくと、先方は沖縄の方でした。まさに米軍基地問題でもめている真っ最中。そんな切羽詰った状況で私の記事を読み、参考になったことをコメントしていただいた。こんなつたない内容でも少しはお役に立てたのでしょうか。うれしいことです。 しかしそうも言っていられませんよね。 現地の方たちにすれば自分達のそばに基地なんてあって欲しくない。もちろんです。 がんがん戦闘機飛べばうるさいし、他にも米軍兵による暴行事件なんかのニュースも聞きます。大変そうです。もちろん私あたりだと、大変だろうと想像するのがせいいっぱいですが。 ところで、それとは別にもう少し考えてみれば、私がアメリカであればやはり沖縄に基地を作るというのは重要なことだろうと思います。。アメリカがアジアへの足がかりとしてのポイントとして日本に基地をおくというのは、物理的にも政治的にも大事なポイントだろうと思います。なにしろアメリカと、アジアの間には太平洋というやたらでかい海がありまして、アメリカからだと遠い。ハワイと日本は給油そのほかの物資の調達のためにも必要なポイントだと戦略的には考えるわけです。 なぜ奄美は返還されて、沖縄が残ったのか。なぜ基地を南洋諸島に作らないのか。 どこであろうとイヤなのは同じ、それはそれとして。 奄美と沖縄なら、県庁所在地に陸路だけで行ける沖縄の方が便利ですね。トップダウンや、政治的な種種の申請や手続きなどいろいろ基地ともなればありますからね。それと基地内に重病人が出た場合、やはり沖縄のような文化圏の方が大病院もあるし、嵐でも、台風でも、陸路で到達できますからね。南洋諸島であれば、暑い分病気も出やすいし、物も腐りやすい、病院も少ない。物資の確保も自前でやらなければならない。基地の中にアメリカ側が自力で病院を作るのはお金もかかるし、人材も多様な機器の維持も薬の補充も大変だろうと思います。いざ戦争がはじまれば勝負は戦闘機で決まるわけで、飛び立つとすぐ海だらけの沖縄は非常に使いやすい。 私がアメリカであればやはり、沖縄本島を選ぶと思います。しかも、かつてアメリカの領土であった頃からのものなのですから、すでに既得権益になっているのですから、そう簡単にてばなせるはずがありません。 今現在の世界情勢から言っても、北朝鮮、中国の状況を思えば日本に基地を置いて、にらみをきかせる必要があるわけで、それはイヤだいやだといいながら日本政府側がアメリカの基地を拒絶しきれないのもそのあたりが原因。 もちろん中国が戦争を仕掛けてきたら、米軍といえども、どこまで対抗しきれるかわかりませんね。まあ、中国が攻めてくるとは思ってないけど。というか日本とはほんとは仲良くしたいんだろうとは思うんだけど、それでも、今現在ある程度距離を保って牽制しとく必要はあるんだろうと思う。 それから、北朝鮮。こっちもほんとは日本と仲良くしたいんだろうと思うんだけど、(どこがって声が聞こえてきそうだな…)それでも今の状況だとどうなるかわからないし、とりあえず戦争始まったらアメリカにも手伝って欲しいし、アメリカもほっとくわけに行かないだろうし、そうなると日本の基地から飛行機飛び立たせるのが一番いいわけで、飛行機の機動性考えればたくさん燃料積まなくて済むほうがいいわけで、こうなるとどうしても日本に基地つくっとかないとならないだろうなと思うわけですね。 だから、このあたりの問題が片付かないと米軍完全撤退は無理っぽい。 それでも、いろいろ日本側からの苦情で、奄美や普天間を片付け始めたのだから、アメリカにするとかなりの譲歩。 東京にも横須賀に基地ありますね。こっちもいろいろともめてますね。 というわけで米軍基地は絶対いなくならないだろうから、その上で苦情があるならどんどん言ったほうがいいだろうなと思うわけです。向こうが聞くか聞かないかは別としてしょっちゅううるさく言っていればアメリカさんもそれにりに気にはしてくれるとも思います。首都圏もかつて三里塚闘争(成田空港建設のことね)でもめたことを思い出しました。軍隊でなくともやはり地元にすればいやなわけで、農家は土地をとられ、うるさい飛行機は飛びまくる。それでも、結局空港は出来ました。そして、私も利用したりしてる。で、いまどうなっているかというと、空港の周りの取られなかった農地はみんな持ち主によって整地され、海外旅行へ行く空港利用者のための有料パーキングとなっている。すごい数ですよ。農作業するより、楽に稼げるわけで、がんがん飛行機がとんでる下で、農作業するどころじゃないのかな。 環境のいいところに住みたいなら引っ越すしかないけど、東京も空気は悪いし、飛行機もがんがんとんでるし、私は引っ越したいけどひっこせない。老後は田舎に行きたいなあ。きれいな不便と不愉快な便利、どっちがいいんだろう。 とにかくこれから気をつけてニュース見ます。うーんと、この内容はもう少し煮詰めることが出来そうですね。だから続くかも。
2006年04月12日
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新学期も始まって娘が新しい教科書をもらってきた。「おかあさん、見て。今年の教科書はこんなに厚いの。大きいの。中身増えたみたい。」と娘が言う。ドシャドシャと私の目の前に積んでくれた。なるほど、数学の教科書、版が大きい。今までのA6からB4になってる。国語もなにやら分厚い気がする。 教科書が厚くなったのはいいことだと思うけれど、そうそう単純に喜んでもいられない。 うちの娘は今年中2で、いろいろ考えるととにかく損な学年のような気がする。 なにしろ、小学校時代はゆとり教育佳境の時で、かなり大事で重要な五年の算数も内容がいままでで、そしてその後と比べても一番少なく、削られまくっていて、すかすかなんである。おかげで娘の算数はぼろぼろである。未だに分数の計算が分かっていない。それ以外の割合も何度やってもわからないらしい。 そしてなんと文部科学省もゆとりをやめたらしくて、今年はこんなに厚くなった教科書をくれた。これからはいままでより内容もハードになりはじめるらしい。 小学校ですかすかで土台も基礎もあやふやな状態で、いきなり内容アップなんだそうだ。それってあんまりじゃないかい。 しかも、この春から都立高は中高一貫を始めた。おかげで、今年の高校入試でも募集人数が去年より減らされている。そのままその人数分、娘が受験する時にも人数枠が減ってるってことだ。トップ校の入学できる人数が減った分はそのすぐ下のレベルの学校に受験生がずれてくるってことだ。つまり娘の上の学年なら受かった学校に、娘が受ける時は厳しくなるってことだ。 娘の学年が小六の時は、都立中高一貫は始まっていないのだから、娘の学年はその分の人数は減っていないわけで、その分が高校受験に行くわけだから(単純に考えればね)かなり割りにあわない。 娘の一つ下の学年(今の中1)の場合は今年都立中高一貫校にその分の人数が抜けている計算になるわけで、だから高校受験で帳尻あうけどね。 まあ、実際には、都立中高一貫校を受験する子供と私立中学受験する子が重なっている部分もあるので単純にはいえないかもしれない。でも、そうだとすれば、さらに都立までが私立中学受験をするようなレベルの家庭に場所をとられることになるとも言える訳で、ますますわりにあわないし、わけわかんないし、うーん、なんとかならないのかなー。とにかく一番のしわ寄せのしわよりまくりのところに娘達はかち合っちゃったわけだ。 都立中高一貫校化が進むことで都立高の偏差値は上がるのか、都立人気の回復になるのか、はたしてそれがどういう意味を持ってくるのか。 貧しくても学校に行けるはずの公立校の存在が、富裕層に埋め尽くされて終わることにもなりはしないのか。 都立の復興はいいことなのか。悪いことなのか。 とりあえずうちの子の受験がなんとかなりますように。
2006年04月11日
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アドルフ・ヒットラーといえばあまりにも有名で、どんな歴史嫌いでも知ってるはずの人物だが、彼にも無名の時代はあったわけである。この映画は一人の画家志望の青年のとまどいと挫折の物語であろう。普通の話のはずが主人公がヒトラーであるところに大きな違いがある。 ヒトラーが画家志望であったことは、知っている人は知っている話だが、このエピソードを物語りにしてこの映画が語ろうとしているのは、ただの独裁者の独裁者になるまでの歴史ものではない。 この映画はただの画家志望の青年の話にすぎない。しかしヒトラーがいずれ世界をゆるがす歴史上の重要人物であることを映画を見る側は当然知っているわけで、そこにこの物語の面白みと深みがある。とにかくネタバレしてますからぁ。 画家をめざすアドルフはただの貧乏な元伍長にすぎない。第一次世界大戦終戦直後のドイツは敗戦国として、貧乏のどんぞこ。国民の全ての生活も苦しい。その苦しさにアドルフもまたあえいでいる。 アドルフが知り合ったユダヤ人の画商マックス。かつて画家を目指しながら戦争で右手を失い、画商となったマックスはアドルフに言う。 「ただ絵が上手いだけではだめだ。絵の中に自らのうちにある真実を描け」と。「自分にしか描けないものを描け」と。自分自身の中にある疑念、苦悩、怒り、戸惑い、苦痛、自分が持つ全ての心の闇を絵のなかに転化するのだと。 時代は貧しく、苦しく、そのゆがみ、ひずみ、よどみがアドルフの中で怒りとなって沈殿してゆく。 芸術家というものはその身のうちの闇の部分を芸術という形に昇華させて、人を感動させうる作品をつくりだしていく。しかし、自らの心の闇と対峙し、芸術にまで高めていくその作業はとても苦しい。そして困難である。自分自身のよい部分も悪い部分も醜い部分もすべてを自ら自覚し、認識し、ひきうけなければならない。そしてその全てを他者に露呈しなければならない。 アドルフは決して政治的成功を目指していたようには見えない。独裁者となろうと考えていたとも思えない。 時代のよどみの中で彼は画家を目指しながら、なかなかその先に進むことができない。 そして、彼は時代のゆがみに囚われてしまう。自らの意思とは別のところで、歴史の生贄として捕らわれてしまっている。 二次大戦におけるドイツ軍というのはかっこいい。悪役であるはずのドイツ軍はしばしばあらゆる映画、漫画、アニメ、小説などにも登場する。ただの悪役としての登場ではないその抜群のかっこよさは、実は誰もが認めていて、だからこそいろいろな物語の中で登場し、物語をより面白くしてくれるのだが、悪役がかっこいいという面白さをドイツナチスは体現してみせてくれたのだ。あの制服といい、親衛隊といい、マークといい、全てがデザイン的には抜群のセンスなのだ。それは画家志望であったアドルフがデザインしたものだったからかと、この映画をみて再確認してしまった。なにしろ日本軍はどの映画を見てても毎回呆れるくらいださくてかっこ悪いからねえ。何とかなんない?と毎度思ってたけどさ。どんなかっこういいセリフ言っててもあのダサさで半減するっていうか9割引きですからね。実のところ。 それはいいとして、自らの苦悩、怒り、疑念をアドルフは芸術にしようとした。しかし、時代によってそれは戦争へのエネルギーに変えられてしまう。 マックスは言う。そのエネルギーを芸術にむけろと。しかし、現実はアドルフを戦争へと向かわせてしまう。 ラストで、アドルフの演説によって反ユダユ主義に燃えた一部の聴衆によってマックスは殺されてしまう。この時アドルフは自らの熱意によって仕上げた作品を持ってカフェでマックスを待っている。アドルフによって殺されてしまったマックスは当然カフェに来ない。もしこの時、マックスが殺されることがなかったら、アドルフは独裁者になることはなかったのだろうか。画家への道を進めたのだろうか。 しかし、たとえ、アドルフが独裁者にならなかったとしても、他の誰かがアドルフの代わりに時代に捕まってやはり独裁者あるいはそれに近い何かとなって第二次大戦は起こっていたのではないかと思う。あれほど、苦痛にあえぐドイツの中で国民の怒りは既に充分燃え上がっていて、その象徴となるべき存在を要求していたことが映画の中でも、要所要所に表現されていて、その時代の中でアドルフはその身のうちの怒りとぴったりリンクして、捕らえられてしまった。 人がもつ怒りや苦痛や苦悩は、芸術にも、あるいは、犯罪や戦争にも、どちらにも変化しうる可能性を持っている。 芸術家は絵画も音楽も文学も人間の生の苦悩を描くことで人を感動させ、ひきつける。そして、犯罪や政治や戦争も人間の怒りが変容した姿である。 自らのもつ心の闇を芸術に変えるのか、戦争に変えるのか、その境界線にたって、どちらに向かうのか。その決定はなにによって決まるのか。 独裁者として世界を席巻したヒトラーは世界最強のイメージ。けれど、映画の中の青年アドルフは弱い人間として描かれている。貧乏にあえぎ、めざす将来に迷い、自らの立ち位置をみつけられずにいるただの弱い青年でしかない。そしてその弱さこそが独裁者ヒトラーの強さを支えているのでもあろうか。 ノア・テイラー演じるところの、目ばかりがぎろぎろとして目立つ、孤独で人生に迷う青年アドルフは人間的にはとても魅力的に見えて、男前で金持ちの自信家にみえるマックスよりはるかに人間くさく、見る側の心をひきつける。 ところで画商マックスは架空の人物なのだそうだ。しかし、映画のなかで、アドルフのライバルとして名前だけ登場してくる画家がエルンスト。有名ですね。その世界では。そのエルンストのフルネームが、マックス・エルンスト。なんとも絶妙な遊びかな。ここまで気づく人がいるのかいないのか。 そして、右手をうしなったマックスには画家としての未来はない。右手をもつアドルフに未来があるはずだとマックスは思う。スタートシーンで愛人に゜私達に未来はあるの?」とマックスは問われる。マックスは答える。自分に未来はない…と。 マックスがみたアドルフの未来とアドルフ自身がつくるアドルフの未来には微妙なずれがあって、冒頭で既に自分には未来がないというマックスの言葉はただのストーリー上の複線にしかすぎないのか。あるいはそれ以上の含みをもち、ストーリーのテーマと微妙に絡んで、見る側は考えざるをえない。作中のアドルフのライバル エルンストの作品集です(たぶんこの人だと思うのです)
2006年04月10日
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テーマ投稿です。なんでこういうテーマないかなあ。社会をテーマに考えよう。世の中いろいろおかしいこといっぱいあるよね。疑問に思いませんか。政治、経済、常識と思ってること。
2006年04月10日
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パズルが好きパズルが好きで時々集中してやるんだけど、集中してやるものだから、パズルを解きながら頭の奥の方に入っていた、普段考えないいろんな思考がふわあーっと浮き出てくる。これが結構やばい。 普段もんもんとして考えないようにしているうらみ、つらみ、いらいら、なんかが出てきて、ああ、あいつきにいらねーあんなところがいやとか、こんなとこがいやとか、あんなことされたとか、ああいういやな事しやがったとか、あーもうだれそれなんか大きらいとか、うつうつとしてちょー暗い思考にはまって、パズルを解いている思考のちょうど裏側でどろどろねちねち出現してくる。まずいっすね。 こういうのは考えないほうがいいのか。それともこの際徹底的にドップリと自らのマイナス感情にいっそのことつきあった方がいいのか。 心の中の闇は待ってましたとばかりにぞわぞわぞわと染み出してくる。人間だからね。 ところでお勧めのパズルはこれイラストロジック。むかしパズラーでよく鉛筆とケシゴム用意してやったものだけど、今はパソコンでも遊べて、鉛筆なんかより楽。間違ったらクリック一回で画面もぱっとクリアーになるし。 暗算とか計算とか苦手なので、数独はパスでも、スウドクおもしろいですよ。計算力もあがるだろうし、海外でも、話題です。 他にも今は面白い新手のパズルがいっぱいあってたのしイッちょよ。 たとえばスリザーリンクとか、マシュとか、バトルシップとか、アルコネなんかが好き。 スウドク系のパズルっていうとナンプレ、サムクロス、なんかがあるけど私は計算きらいですから、パス どれもみんな楽しいですが、やりすぎて心の闇に捕まる前にやめてリアルに戻りましょうね。 ほら、おいしい晩御飯がまってますから。
2006年04月09日
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映画の感想をブログで時々書いているけど、それほど映画ファンなわけでもない。レディースデーに安いから、そして子育てが一段落してひまだから、映画館に行ってる。でも、きらいでもないから程ほどに楽しんできて、てきとーにブログのネタにする。 それで、ビデオなんかも借りてきて見てる。 それはいいんだけど、家で見てると寝ちゃうんんだよね。それでも、面白い映画はいいんだけど、たまにつまらない映画があって、30分みてても、面白くならない。せっかく借りてきたんだから、ぐぐっと我慢してみてるんだけど、どうにもつまらなくて余所見なんかしてると知らないうちに話が進んで益々わけわかんなくなってきて、ますますつまらなくなってくる。しかも、それが世間では評判の高い名作映画だったりするわけで、つまらないのを我慢して見ながら、どうしてこれが評判いいのだろうかと頭の中はぐるぐるしてくる。 さらに途中で寝ちゃうものだから、目が覚めたら、撒き戻してまた、途中から見始めたはいいけど、さらにまた、寝てしまって、もう一度見直し。途中で電話とか来客とかで切断されたりもして、こうなるとコマギレに見てるからますます話は分からないし、面白いと思ってないから、一番最初から見直す気にもなれない。 それで、なんとか見終わってさてどんな話でと思っても駒切れで見てるからよくわからないし、感動どころでもない。へんだなあ名作だしいい映画だっていうから借りてきたのにああレンタル代もったいないと思いながら返却。 こんなことも結構ある。 映画が悪いと言うより、その時のタイミングとか、私の体調とか、スケジュールとか、あとは感性の波長が合わないのが原因なんだから、しかたないっちゃしかたない。 それで、一応ネット検索でいろいろみた映画の感想やネタバレを読みに行く。ネットって言うのはネタバレ禁止とかネタバレいかんとかあるけど、私なんかはネタバレとか映画みてわかんなかったところの謎の解明のために読みに行くんだから、ネタバレしてないと困るというか、ネタバレしてくださいっというか、全問正解でもいいからテストの解答が欲しい時みたいなもの。だからネタバレよろしくおねがいしたいです。 それで、今回は『ビッグフィッシュ』みたはいいけど、上記のごとくわけ分かんなくて、よそのブログを読みに行ったりして解決してみる。でも、この映画いつもいくブログにはないんだよね。やっぱり面白くないのだろうか。とにかく検索かけて読んできました。 今度借りたのは『アドルフの画集』だ。 期待したい。
2006年04月08日
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お花見に行って来ました。九段の千鳥ヶ淵です。もう葉桜になり始めていて花も少なくなりはじめていました。靖国神社の桜も満開のものやら葉桜のものやら。そして、境内の能舞台を使って夜桜能をやっている様子。見てみたいですね。でも、場所取りが大変そう。夜だし。 商売繁盛のお札を買おうと思ったら、靖国には売ってませんでした。ここで、商売繁盛考えちゃいけないのかな。その割りに記念グッズの桜の花を樹脂加工で封印した文鎮とか、桜のタイピンとか、ブローチとかいろいろ売ってたし、お土産の靖国神社限定お菓子も売ってたけどね。靖国神社も商売熱心です。 それから神社の前の花見ポイントには、出店がいっぱい。たこ焼きと焼きそばとシャーピンを食べました。たこ焼きのたこがすごくでかい。東京は競争がはげしいからね。でも、あそこまででかいたこははじめてです。 子供達のお土産にお好み焼きと焼きそばも買って。しかーし、娘が始業式だというのにそんなものはほっぽりだして花見に出かけちゃう親です。 千鳥ヶ淵の桜もよく来ますが、今年は警備の人も多くてゴミ回収のボランティアの方もいて、さらにさくら募金もしていて、千代田区も気合はいってます。前はごみだらけだったのにすごいきれいでした。 ここはすぐ横にインド大使館があって花見の時の土日にいくと大使館を開いてカレーを売っているのですね。何度かいただいたことがあります。普通においしいよ。 それから花見の途中でちょっとだけ、募金をして桜飴をいただきました。かわいいんだよ。 買い物して帰ったら、子供達は家でごろごろして待っていました。今度のクラスは楽しそうだそうで、娘よかったね。 平山郁夫 『仁和寺月華』
2006年04月07日
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長男の期末の数学の点数が悪くて、いくらなんでも、塾に入れようかと思ったのだが、あえなく却下された。どう塾にいれても、どうも、本人がちゃんと通うとは思えず、今ひとつ決定しきれないやわな母の私。 どうも今年一年の数学の点数は乱れ気味。数学得意が売りだった理系狙いのはずの長男だが、ここにきてさすがに、物理はもう苦手とか言い出すし、化学はめんどくさくていやだとか言い出すし、数学の点も怪しくなってきたし、文理わけで理系選んだはいいけど、いったいぜんたいどうすんだと思う今日この頃。 理系といいつつ、特に行きたい学部があるわけでもなく、パソコンマニアでもなく、工作が好きなわけでもなく、生物も医者もいやという。いったいぜんたいどうすりゃいいんだか。わけわかんない。 高校になるとさすがに数学も難しくなるので、私も昔数2Bの先生がへたくそで授業聞かずに自分で内職して勉強してたもんだけど、ノートのチェックがあるから長男はそういうわけにもいかず、この一年わからーんという愚痴をときどき聞いてきたけどね。 ただ勉強だけさせてもだめだなーっていうんで、最近の学校はどこも職業教育に力入れてるのはいいんですけどね。裁判所見に行ったり、いろいろ見に行ったりしてみても、たかが高1で将来なんか決まるはずも無く、「何をしたいの」と聞いたら、帰ってきた答えが「あそびたい。」 あんたね。学校の宿題やる以外朝から晩まで遊びまくってるじゃないのよ。ちがうだろ。 「大学行かなくてもいいけど、そしたら働いてね」っと言ったら「わかってます」だそうだ。 それで結局なにがいいんだと言うと経済学部というので、よくよくきいてみると私が買ってほっぽらかしといた『理系白書』という本を読んで、理系は割りに合わないから文系にしようと考えたらしい。そんな理由かよー。しかも法学部も文学部もいやなので残ったのが経済だそうだ。 うーん。子供の言うことはうかつに真に受けちゃいけない。 ところで数学どうするんだろうと聞いたら、宿題やったからどうにかなりそう。だって。 でも、塾先お勧めのブルーチャートはたしかによかったらしい。あれをみながら、解けない問題を一つづつなんとかとけたらしい。塾の先生方の言うこともなかなかばかにできない。それにしてもこれから数3だよね。学校ももう少しいい先生やとってほしいよ。学年便りで生徒怒る前に先生も授業なんとかしてほしいです。 それにしても長男、まだまだ穴はいっぱいあいてると思うんですけど。完璧にするって事わかってないね。
2006年04月06日
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国立大学ってなんですか。みんな国立を目指してる。私立はあくまで国立のおさえ。国立は月謝が安いから。でも安いったって私立の半分くらいだよね。十倍くらいならわかるけど。第一、受験科目も多いから受験に至るまでに既にお金かかる。 学費安いからみんながめざす。みんなが目指すから偏差値があがる。偏差値が上がるから、さらにみんなが目指す。そしてさらに偏差値があがる。ここまで難しくなってくると、本来の国立の内実がなんなのか。 本当にみんながいうほど国立がいいのかどうなのか、どうも私にはよくわからない。まあ、税金かかってるからその分はいいだろうけどね。国立目指せば学力上げなきゃならないし、そうなると私立の中高一貫だの、塾だの予備校だのって、つまりお金がかかるのさ。お金がなくても入れるように税金投入して国立大学があるのに、偏差値上がっちゃって、金持ちのぼんぼんばかりが通ってる。みんなの血税が金持ちのボンボンのために使われていて、そして、そのボンボンたちは自分達が更に金持ちになるためにがんばってて、じゃあ税金はらってる庶民ってなに?ま、実際には金持ちの方が税金いっぱい払ってるけどね。 ところで、もし、国立と私立の授業料が同じになったら、大学の偏差値地図はどうなるのだろうか。受験科目の少ない私立に人気がでるのだろうか。それともやっぱり国立の人気は高いままなのか。それでも、国立は七科受験を押し通すのか。 いったいみんなが目指し、先生ががなり立てる国立って本当にそんなにいいものなのか。 いい先生そろってるのですか。施設だけは税金かかってるからいいよね。 どうして私立分系だと、逃げなのか。私立の方にもいい所があると思うかもしれないし、文系の中にやりたい分野があるかもしれないし。 ちなみに、どうして、法学部とか、経済学部が文系なのか。どちらも数学も、理科も必要な科目だと思うんですけど。 純粋に文系なのは、文学部と社会系学部だと思うんだけどね。 それなのに高2あたりで、文理わけを早々にしていたり、本当にわけわかりません。今の受験界って。本日の東京は雨です。東山魁夷 宵桜
2006年04月05日
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『家』ってなんなのだろうって最近考える。昔はよく「家風に合わない」って理由でお嫁さんが実家にかえされたでしょう。たとえば今、天皇家の跡継ぎ問題なんかも、もめてるけどね。男系にこだわるのは、Yの遺伝子が伝えられるから。確実に遺伝子が伝わるのが分かる。男の人の遺伝子って確かに強い。どんなに大柄な家系の奥さんをもらっても、ダンナさんの家が小柄だとやっぱり子供は大きくならない。私の実家とだんなの実家とうちの子供達をみてると分かる。子供はやっぱり父親によく似てる。XとYの遺伝子の発見はごく最近の生物学のことだけど、たぶん昔の人達もなんとなく気づいていたんだろうと思う。平安時代あたりの話を読んでいると、このころは女系の家族構成だったらしい。結婚制度も今ほどきちんとしたものではない。ほとんど強姦に近いような状況で婚姻が成立していたり、一度肉体関係が出来たりすると、それだけで既に夫婦ということになってしまったりする。父親が誰かわからないことも多そうだ。このあたり『源氏物語』を読んでるとすごいよね。貴族の娘なんかだと、下手すると一生家から出ないとか、日常のほとんどを自室に座ったままとか、ほとんど動かない、外にでない。で、日常のことはほとんど周りの侍女がするわけで、そういうまさに箱入り状態のまま、ある日突然男性が部屋に入ってきて、あれよあれよというまに婚姻関係が成立しちゃったりする。だから、結婚しても女の人は家からでないまま、出産して、そのままその子は母親の家で育てられたりしているわけで、つまり女系家族なんですね。男の場合ほんとに自分の子かわかんないけど、女の人は自分が産んだ子だから、確実に自分の子供だとわかる。そういう女系家族の時代の後、やっぱり女系家族だと男は婿として居心地が悪いわけだから、経済力をあげて、そのうち女性を自分の家に住まわせるようになってくる。必ず自分の遺伝子をもった子供を女性が産むようにいろいろと手立てもくむわけだけどね。徳川家の大奥なんて、絶対男は入れなかったから、内部の政務も女性が執り行っていたし、中国の後宮の宦官なんてちょっとイマドキ絶対無理なすごいシステムだなあと思うけどさ。ところで現代の日本も当然男系の家族制度が基本で、封建制度は既に過去の遺物のはずなのに、あいかわらず、女性が結婚の後男性の家の性を名乗るし、嫁だ、姑だといろいろもめていたりもするし、檀家制度もまだまだ健在で、跡継ぎがいないとお墓をどうするんだと相変わらずつまらない心配をしていなきゃならない。それにしても、自分の周りを見ていても、相変わらず古いシステムや価値観は健在で、嫁姑は腹のさぐりあいやらなにやらいろいろ忙しい。ただ、イマドキは家風だなんだかんだと言っても、遺伝子的に男子が家を継いだとしても、やっぱりその家のもつ雰囲気や家風や家の中の価値観は確実に、お嫁さんによって決定する。うっかり新興宗教をもつお嫁さんなんかもらっちゃうとお嫁さんは当然我が子には自分と同じ宗教を教え込むし、音楽が好きなら我が子にもやらせようとするし、絵が好きなら美術系の学校にいれようと考える。あるいはスポーツマンにしてみようとしたり、必ず母親の価値観によって子育てが行われるので、家の家風は嫁さんで決まる。相続問題においても、やはり、男性には次男三男でも、ある程度相続させうるが、娘達に対しては、親はあまり相続財産を渡したがらない。映画「プライドと偏見」の中でも、四姉妹には女性ということで、家の相続権がない。そして、その家の家長である父親が亡くなった段階で、どんなに遠縁であろうとも、親族の男性にその家の相続権がわたる。映画では、このあたりがストーリー展開の重要なポイントになるわけだけれど、随分男尊女卑な話だなあと思う。でしょ、最初は。ただ、女性に相続権が存在するとなると、その家の財産を持って女性は他家に嫁ぐわけで、財産の移動が起きる。これは社会の勢力図にも影響を与えかねないわけである。さらには最悪の場合は財産を持った女性との婚姻後に女性が死ぬあるいは殺されると、その財産は婚家先のものとなる。有名な『青髭』もこのあたりをねらった殺人事件とも取れる。まさに財産狙いの婚姻である。それはいいとしても、現代なお、親は娘には財産を渡したがらない。特に土地のようなものはその意識が強い。先祖代々伝えてきたものはやはり家に伝えていきたいと今だに考えるわけで、封建時代の崩壊から既にかなりの年月を経てなお、いまだに家にこだわり、嫁となり妻となり夫亡きあと、その家の最大権力者となった女性はすでに実家ではなく婚家先の人間としてすっかりその家に根をおろし、財産は息子にと考える。娘は我が子ではあるけれど、娘の財産は他家のものとなるわけで、よそから来たとはいえ家の中に入り込んで家に同化しようとする嫁とは違い、我が娘でありながら外に嫁ぎ他家のものとなった娘に財産を渡せばそれは、他家の資産となりうる。どこの馬の骨とも知れない男と結婚して確実に他人に変化していく娘の婚家に資産を移譲させにくいわけである。現代においてもこの認識は確実に残っているわけで、法律上の取り決めと、現実の社会の勢力争いや人の心情、人間関係の変容とは微妙にずれていると言うことを、再認識しなければならないし、そしてそれをどう折り合いをつけていくのか。それは葬儀における遺産争いをテーマにした三流ドラマが訴える登場人物達の私利私欲とは少し問題点を別にしているようでもあり、同じようでもある。しかし、どれほど家というものを守ろうとしても時代の変容に対抗しうるには限界というものもあって、この先どう変化して行くものなのだろうかと一介の一般市民にしか過ぎない自分はただ悩みうろたえ、試行錯誤の中で暗中模索の日々をおくるしかない。男性は家の中に遺伝子を残すけれど、女性は家風をつくり、自らの価値観と文化を残して、家風をつくりあげる。そして、新しい新規の世代によってその家風もまた、つくりなおされ、変容し、家へのこだわりもまた、容易に変化させられてしまう。女のつくった家は新しい女(嫁)の登場によってまたむなしくも変えられてゆき、家風も家制度もこだわってみたところで所詮そんなものなのか。既にそのばかばかしさを認識していながら、なお、こだわり、悩む人間の心理の奥底というものはそう容易には把握しきれず、社会的法的決定規正とはまた、別の所にある。家という概念がいまだに消滅しきれないその原因の一つに、明治時代に政府によって強制的に加入させられた檀家制度があって、墓がかならず個別につくられているヨーロッパの墓制度から理解しうる個人主義とは別物なわけである。その檀家システムによって法的な制度とは見事な矛盾をつくりだしている遠因ともなっているわけで、いまだに国民の望む、海や山、自然界への散骨をただのゴミ捨てと同一視して、なかなか許可しないというような、脱檀家制度、脱家制度をのぞむ国民サイドの要求を無視しているくせに、家制度を無視した個人制度優先の法的な相続財産の規正との矛盾を、そして個人制度と家制度の矛盾点にいまだに気づかない政府の内部矛盾に彼等は本当に気づいていないのだろうか。東山魁夷 吉野の春
2006年04月04日
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楽天にはね、何で行間設定がないんだか、ずーっと不思議だったのです。なんとかしてほしいです。普通ワープロとかワードとかできるはずでしょう。文字間設定もできないですのよね。 ま、できなくてもいいけどさ。所詮、ブログだし。 だけどですね。せめてブログの行間、もう少し開くように考えなおしてくれないですか。字と字がこーんなにくっついてて、ほらー読みにくいじゃあないですか。ずーっと仕事しててきづかないのかしら。文字間はまだいいですけど、も少し行間開かないものでしょうか。 だから、みんな苦労して一行づつ開けて書いてたり、やたら改行しまくったり、ない頭ひねって考えてるわけですよね。 一行の半分くらいの余白が行と行の間に入ったら、いいのにって思うわけですよね。よろしくお願いいたします。
2006年04月03日
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長男が小六の時のことだ。(今は高2)今とかわらず、だらしなかった。つまり今もだらしないんだけどさ。 とにかく筆箱に鉛筆が一本も無いし、消しゴムは人のものを借りまくっているし。たぶん、学校の机の中のお道具箱の中なんだろうけどさ。 保護者会で指摘されて、きっとそれはうちの息子のことだ。と思ったわけだ。それで「何で鉛筆をちゃんといれとかないのっ。」と怒ったのはいいのだけれど、「どうして塾の筆入れは鉛筆がちゃんと入っているの。」と聞いたら、長男が言うには、「塾は勉強するところだから。」私はしつけとか説教とか途端にむなしくなった。 学校ってしつけとか生活指導のまえにやるべき事あるの忘れてるのかな。 ちなみに今もだらしないけど、筆入れにえんぴつちゃんとはいってますね。とにかくそれでもしつけもしないとな。
2006年04月02日
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最近ろくな事がない。最悪だ。天中殺か、大殺界。次から次へとやな事がおきる。呪われているんかい 事の発端はとあるところで犬のぬいぐるみをもらったことだその帰り、自転車で走っていると、猫の足の先端部が骨の露出した状態で、落ちていた。げげっなぜに。なにしろ大通りだったので、たぶん車にひかれた猫の体が吹っ飛んできたのでしょうさらにその先、ふっとバンに轢かれそうになった飛び出しそうになって車がきたから、とまったら、相手も止まったので、じゃいいかと走り出したら、向こうも走り出したお互い判断力なさすぎ。私のとまった目の前で、寸止め。よく生きてたよね。私。怪我も無く。よく見れば赤信号。悪いのはわたしかぁ。いや判断力も注意力もゼロですね。 そののち一ヶ月前に風邪ひいたばっかりだというのにまた、風邪をひいた。娘にうつされたのだ。最悪だ。どうもこの風邪、はやっているらしい。なにしろちょっくり治らない。すでに発病から二週間たっているが、いまだに完治しない。鼻が痛い。鼻水がでる。鼻水がのどに絡んで咳がでる。おかげで気管支まで痛い。ますます気管支が悪くなる。呪われているのか。そのついでに軽く捻挫。これはもしかしてまた、接骨院がよい。かな。と思ったが家にあるシップを貼っていたらなんとか直った。やった。呪いに対抗してるよ。と思っていたら、娘の椅子に左足の小指を踏んづけられ、ダイレクトメールを開けようとして指を切り、副業の収入も激減し、最悪な事態はどんどんつづく。すごい。さらには、飴をなめていて歯のかぶせてたやつもはずれちゃったししかも、子供の成績は二人とも下がり、もう私どうしていいかわかりません。 諸悪の根源は絶対あの犬のぬいぐるみだ。とオカルトな事を考えているわたし。きっとぬいぐるみの中に悪霊が住んでいるんだやはりあのぬいぐるみは持ち主に返すか、神社にもっていって置いてくるしかない。それともお払いしてもらおうかなあ。あのぬいぐるみのなくなった家では、いまごろ悪霊退散で、いい事がいっぱいおきているに違いない。 ああもう悪い事がつづくと人間の思考回路ってこんな風にわけわかんなくなるんだ。 ばかな内容で、ゴメンユウコお姉さまたすけて~~~~ブログルポ投稿中の記事★ 『地球幼年期の終わり』★ 映画原作の小説『博士の愛した数式』★ 『博士の愛した数式』★ 美術は大事★ 言葉はナマモノ★ 『男たちの大和』その2★ 女の子の世界はむずかしい★ 『東大法学部』★ 教えられたようにヒトは行動する★ ノー ボーダー★ 「反戦」を「キレイゴト」で終わらせたくないと思いませんか★ 女の人は本当に働きたいのか
2006年04月01日
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