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麻生さんが、「みんなにおこづかい3万円あげるよ」といってますが、そんなのもらっても、焼き石に水です。せっかくまとまってるお金なのに、わざわざ細かく分けないで、他のことに使って欲しいです。そのお金を集めるのに使った事務処理の経費と、そのお金を配るのに使うだろう事務処理の経費を考えると、ばかばかしいばかりです。もう少し別の方法はないのですか。おこづかいくれたあげく、あとで、消費税増額で回収されるのではたまったものではないですよ。お金配っても景気回復にはならないし、消費税率あげらば、ますます景気は悪くなるよ。やめてくれ。 高速道路一律1000円て、そんならいっそ「ただ」にして欲しいです。それも、ETC売るための対策ですよね。高速道路は管理するための経費、人件費、ETC開発、普及にかかったお金とか考えると、いっそ、全部ただにして欲しいですね。そして、公団なんかつぶして、高速道路も国交省で、一括管理してくれればいいのにと、思います。道路を作るのにかかるお金は全部ガソリン税を高くしてそこから回収すればいいのでは。そうすれば、営業のクルマが、公園の横にクルマを止めて、エンジンかけっぱなし、クーラー入れっぱなしで、昼寝するなんてこともなくなるでしょうにねえ。タメイキ。 最近の病院て、ホントに救急の患者さんを受け入れるのを嫌がります。先日の妊婦さんの急患受け入れ拒否事件も、システムの不備とか、人手不足というより、きちんと直せるか分からないあぶない急患は受け入れたくないのだと思います。だって、受け入れて、うっかり死んじゃった時に、医療訴訟を起こされて何億円ものお金を取られたくないのではないのかなと思います。病院の管理って大変だし、お金かかるし、経営大変だし、お医者さん一人作るのだって、膨大なお金と時間がかかるのに、一回の医療ミスで何億円もとられたら、もともこもないのでは、と、思います。ミスは、ないほうがいいけれど、人間のやることなのですから、どうしたって、起きるのでしょう。だから、最近の病院て、たとえ、死んでも、もう年だからということで、家族から苦情のでないお年寄りばかりのような気がするのですが。それに、急患の患者さんて、うっかりするとお金なくて、入院費も治療費もはらわずに、ある日突然病院からいなくなってしまうそうです。病院経営も大変ですね。 昨日のニュースは、慶應の大麻事件ですごかったです。うちの子も大学生なので、ひとごとではないです。でも、普通のほとんどの大学生はふつうにまじめに大学生やってるんだけどね。ちなみに、あれは、2チャンによると、内部生だとか。二回も高校で留年してるみたいです。小学校から入ると、中学、高校の授業のレベルと、トップクラスの難しさなんですから、さぞやついていくのはたいへんだろうなあと、思います。慶應の付属のシステムは、良く出来てるとは思うのだけど、諸刃の剣なのですよねえ。 などといいろいろ最近のニユースについて、考えてみました。
2008年10月31日
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自力整体の本を買いまして、ここしばらくやっています。 楽天ブックスのベストテンにはいっていたので、見てみたら、よさそう。本屋さんに一冊だけあった本をかってきまして、CD付きなので、自宅でやってます。なかなかいいです。 なにしろ腰は痛いし、直らないし。 この本を書いてる矢吹先生はもともと整体の先生だったのですが、いくら治療して治してもまたしばらくするとやってくる患者さんたちに、悩んだ挙句、やはり、「他力ではなく、自力で整えるのでなければだめだ」、という結論に至ったのでそうです。その結果、それまでの治療院をやめて、自分で自分の体を整体するための体操を考え出し、『自力整体』の教室を開いて、教え始めたのだそうです。しかも、その整体法を学んだ生徒さんは、指導員となって、日本全国で、自力整体を教えているのだそうです。 それとともに、食事法も書いてあって、朝ごはんはたべない。昼は炭水化物だけ。夜は、おかずを主体として食べるようにして、ご飯は、それほどたべなくてもよいという、食事法です。 お医者さんは普通一日三食バランスよくといいますが、お医者さんのような激務ならいざしらず、普通の人にとって、三食毎回、いろんなものを食べるのは、逆に胃に悪いのだそうです。 スコーンと、私の意識にピッタリはまった感じです。どうも、朝ごはんを食べると胃が痛くなる。お腹はへっても、朝ごはんは抜いたほうが胃が楽なんですよね。正午までは、お茶や、水分だけにして、昼は、ごはんか麺類という食べ方は、とても楽です。胃にもやさしい。 そして、正午まで食べないほうが内臓にたまった滞留便が外に出て行くというのも、その通り。最近なんだか、お腹の中がスッキリしてきました。この食事法と整体体操を平行してやっていくと、外側の体も内臓も整っていくようです。なんだか、最近お腹もすっきりして楽です。 で、ずーって腰が痛いといって、整形外科に通っていた夫が、私のやるのをみて、一緒にはじめてしまいまして、最近は毎晩、自分でやっております。そうすると、朝腰が楽なんだそうです。おかげで整形外科に行かなくいすむようになりました。 私も体重一キロくらいおちました。でも、これは、滞留便がなくなっただけかもしれないし、これから冬になると寒くてお腹がすくので、食べちゃうかもしれないので分かりませんが。 でも、整体体操をしていると、自分ではきずかないこったままの筋肉がほぐれるのですね。肩がこると肩をもみますが、この体操をすると、体中のこった部分をほぐすので、肩こりにも腰痛にもきくようです。ただ、私の現在の腰痛は、ネンザなので、無理にやると腰によくないんだけど。 でも、体操をする時は、痛い時は無理せずに、痛くないところだけやるほうがいいそうです。やっていると、体が硬いのでどうしても、できない姿勢や体操もありますが、やり続けていくと、だんだん体がやわらかくなって、できるようになっていくようです。 ダイエットにもいいですね。自力整体。 でも、毎日ものすごーく忙しくて大変な人は朝ご飯抜きはつらいかも。体操だけでも、やせるかもよ。 疲れると背中あたりに疲労物質がたまって、そのせいで背中がこって痛くなるんですが、この整体をしていると、体がほぐれて、つまっていた部分も通りがよくなるので、たまっていた不純物がでていくようて、肩こりや疲れも減っていく気がします。 飽きずにつづけていければ、背中の脂肪も落ちるかもね。 私が持っているのは、CDですが、ビデオとかDVDとか、動画だと、分かりやすいです。で、自力整体で動画検索すると、ニコニコ動画あたりに自力整体動画がアップされてました。動画だと分かりやすい。買わなくても見れちゃうよ。 でも、もちろん、いいとわかったら、やっぱり買ったほうがいいよ。毎日やるといいんだけど、私はなまけものなので、毎日はやってないです。 私が買ったのはこの本ですが、 DVDつきのほうがいいだろうし、 女性用もあったのね。こっちの方がよかった。
2008年10月30日
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私の宗教は……ムナカタシコウだ!お前の宗教はなんだと、棟方志功に問い詰められて、彼の妻が答えたことば。見ていてだいたい想像はついたのだけれど、それでも、ラストのこの一言は感動的だった。 版画家として世界的に有名な人だけれど、まだドラマ化は、されていなかったのだなと、つくづく思ったのでした。 その才能ゆえに時に傲慢になって行く彼のその鼻っ柱をへし折って、しかりつけ、彼を現実に引き戻してくれる人たちが、彼のまわりにはこんなにもいたのだろうか。彼の才能とともにそのことがとてもうらやましい。 その才能ゆえに傲慢になり、高慢になり、わがままになって、まわりの人々をきづつけ、孤独との戦いの中で自らの才能を削っていってしまう芸術家の多い中で、棟方には、彼が傲慢になるそのたびに、彼をしかりつけて、くれる人々がいたのでした。 帝展に入選して邁進した彼を叱る病気がちの姉や、彼を殴る友人や、才能におぼれそうになる棟方に難しく厳しくかかわってくる師、自分の版画のために芸術という夢の世界に取り込まれおぼれそうになる彼を、わが子や妻をないがしろにする彼を、激怒して、叱り、怒鳴り、彼の生きているはずの現実の人間の世界に引き戻す妻。現実に生きていなくてどうしてすばらしい芸術が、人のこころをうつ作品が作れるだろう。 彼の周りの何人もの人たちが彼のために彼を叱り、けれど、彼と、彼の芸術と、彼の才能と、彼の個性に、魅了され、彼の全てを愛していて、彼に関わってくる人たち。なぜ、ムナカタの周りにはこんなに彼を愛してくれて、彼のために尽くしてくれるひとたちがいるのだろうかと、とても、うらやましかった。 ムナカタ教の教祖さまと、その信者たちのお話。ともいえるかもしれない。 ムナカタの版画芸術というすばらしいバイブルとともに。 土曜日に放映されたドラマなのに、今頃のアップなのでした。それにしても、棟方の奥さん役の女優香椎由宇がきれいできれいで。ドラマの間ずーっと見ほれてしまいました。本当はホンモノはもちろんこれほどの美女ではないのでしょうが、その内面の美しさをドラマでは、物理的に視覚的に表現してあるのかなーっと。 ただ、棟方役の劇団ひとりの演技がいまひとつ芸術家として、物足りなかったような。棟方の近眼ゆえの独特の身振り手振り動作は、まねしていても、どうしてああいう立ち居振る舞いになるのか、その真髄までにいたっていなかったような気がします。シナリオが表現しようとしたものを、劇団ひとりは、演技仕切れていなかったのでは。ムナカタの傲慢さや、芸術におぼれていく内面の表現がいまひとつだったようで、そのあたりが、ちょっと惜しいです。 でも、面白いドラマでした。ちっょとだけ、泣けました。 そして、東北の雪と山の景色がとても、美しかったです。
2008年10月27日
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昨日のテレビみましたでしょうか。食べ物のお話。っていうか、食べ物を普通に食べられない、先天性遺伝子異常の人たちのお話でした。 ひとりは、運動をしなくても、どんどん筋肉が増えてしまい、脂肪が全くない二歳の少年。人間は、筋肉が増えるのを抑制する物質と脂肪が増えるのを押さえる物質がでていて、普通の人はそのバランスがとれているから、脂肪と筋肉のある体なのだそうです。 でも、彼は筋肉を押さえる物質がでないから、普通にしてても、筋肉だらけのからだになってしまうのだそうです。だから、二歳なのに、一日1800キロカロリー食べないとならない。嫌がる彼に親はつらいけれど、食べることを強要しないとならない。脂肪って敵だと思っていたけれど、脂肪もやっぱり人間の体には必要なもの。なのですね。 それから、いくら食べても、満腹感がえられなくて、どんどん太ってしまうアメリカの女性。そのまま望むままにどんどん食べれば太りすぎて病気になってしまい、命も危うくなる。 また、生まれてから、クッキーやビスケットしか食べられない男の人。自分でも、嫌なんだけど、どうしても、それ以外のものは気持ち悪くて食べられないそうです。子供の頃、彼が、お菓子以外食べないのが自分のしつけのためと、お母さんは何度も悩み、食事の時間は楽しいものではなくて、辛いものになってしまったとか。 そして、舌の感覚がとても、敏感でものすごく薄味でなければ、食べられない女性。野菜なんかも苦くてたべられないそうです。野菜嫌いの子供って多いけど、子供たちも苦くて嫌なのかも。私はちなみに、野菜の歯ざわりがきらいです。 いつも、食べ物は、好き嫌いなく食べたほうがいいといわれるけれど、舌が敏感だったり、脳が拒否していたり、そういう理由で食べられないということが、この番組の人たちほどではないにしても、たぶん、普通にもあるのかもしれないと、思うのです。 脂肪は邪魔者とか、筋肉を増やすには、筋トレするものと、思っていたのに、体の中には筋肉を増やす物質があるものなんだ。 遺伝的に満腹を感じられずに、一生物を食べる満足感を感じられずにがまんしつづけなければいけにいなんて、すごく辛いだろうと、思います。 でも、物を食べたくてたまらなくて、我慢できなくて食べてしまって太ってしまうのが、この番組に出ていた女性ほどじゃなくても、普通の人でも、多少あるのかもしれないし。だとすると、そういうのをわがままとか、我慢が足りないとか、そういう風に単純にはいえないのだなあと思ったのでした。 野球選手のイチローも子供の頃から、好き嫌いが激しくて、足りない分はお菓子をたべていたそうです。イチローは、感覚が普通じゃなく、すごく感じやすくていのでは、だから、食べ物も食べられないのかも。うちの子も、好き嫌いが激しくて、足りない分はお菓子を食べています。お菓子じゃなくて好き嫌いなく、ご飯をたべたほうがいいからと、お菓子を買うのをやめると、カロリーがたりなくて、風邪をひくのですう。 思うに好き嫌いのある人は味覚とか、触覚がすごく敏感なのではと、思うのです。子供のころきらいなものが大人になって食べられるのは、大人になるにつれて味覚が鈍化していくからだと、思うのです。私も大人になるにつれて、きらいだったものが少しづづ食べられるようになってきました。 ほかにも、外から見るとわからないけれど、アレルギーとか、その食品が体に合わなくて、食べると体が不調になったり気持ち悪くなったりするからだったりするのじゃないかと思います。だとすると、体にいいからとか、栄養がとかいって、食べるものを強要していいものか、考えさせられます。私も、未だにお刺身とか、どうしてもたべられないのです。 いままでの食の常識を、180度転換させられる面白くて興味深い番組でした。それにしても、アメリカとかイギリスってあんなにバターや油脂タップリのお菓子や、ジャンクフードだらけだし、野菜料理もおいしくなさそうだし。日本のお米やおいしい質素で新鮮な食事なら食べられるのではと、思ったんですけどね。
2008年10月25日
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先日行ったららぽーと横浜のムーミンオーロラカフェで買ってきたムーミンのクッキー型。早速、作ってみました。ムーミンとスナフキンとニョロニョロです。でも、わかりづらいし、説明もなくこれだけみたら、なんなのかわからないかも。お店には他にも、もっとおおきい型で五つも入ってるものもありました。たぶん、このほかのムーミンぱぱとミーが入っていたと思う。味はふつうです。って当たり前。いつもの我が家のレシピで作ったんだから。でも、家族でクッキーを食べながら、ひとしきりムーミンやスナフキンの話題で盛り上がりました。特にスナフキン。昔のアニメのスナフキンは、もっと大人で渋かったんだけどな。黙って立っているだけなのに、妙に存在感があって、肝心なところでちょっと一言何気なくいう言葉が実にずばりと的を射ているそんな感じです。スナフキンてきっとデリケートだから、人と関わりすぎると、しんどいのでしょうね。一年の半分は旅をしていて、残り半分はムーミン谷で、つりをしてすごす。北欧で出来た物語にしては、結構シビアで、深みの有る物語ですよね。スナフキン堤外と人気があるのですね。楽天トラベルのイメージキャラクターもスナフキンだし、東洋大学でもイメージキャラクターとして、スナフキンを雇っているのですよね。ネットでいろいろ探すと出てきますが、スナフキンの壁紙を探したら、楽天トラベルで作っていました。数年前のものだけど、スナフキンが主役の壁紙。かわいいです。スナフキンの名言集とか探すと、面白いです。結構渋くてかっこいいのだ。 【正規日本品】アラビア ムーミンマグニョロニョロ
2008年10月21日
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日経オンラインの記事を読んでいたら、「今の中国のお金持ちは財産をみんな自分の息子に相続させてしまう。アメリカのお金持ちは莫大な財産を寄付したりしていて、子供にはのこさなかったりするのに、今の中国人にはそういう社会寄与、ノーブレスオブリージュの感覚がなくて困るし、これからそういう考え方を中国にも浸透させていきたい」というようなことが書いてあった。 でも、中国という国は個人の財産は一族みんなに行き渡らせるもの。親族の人が出世したら、その利益は親族みんなに還元されるもの。そういう国民性の国なのに。そういうのも、考えてみれば、一種の東洋的なノーブレスオブリージュ、社会還元のシステムなのでは。 だから、昔の中国ではあたまのいい子がうまれると一族で協力して、勉強させて試験に合格させ、その子が出世したら、その利益は一族に還元されたもの。その人の口利きで親族が役人になったりも出来た。 もっとも、このせいで、能力のない人間が役人になってしまうという弊害もあったので、その部分がよく批判されるのだけれど。 ただ、中国のように、大陸で周りが全て他国と接していて、いつ攻め込まれるか分からない上に中国の国の中自体がいつも分裂して、いくつかの国に分かれていたりすると、どこまでが自分と同じ社会で、どこからが敵なのか分からないし、そうんると社会還元なんてしにくい。そうなると、血がつながっている親族、一族郎党までを守備範囲としてくぎって、その中での助け合いをするしかなかったのかもと、自分なりにちょっと考えてみた。 そういうのも、一種のノーブレスオブリージュ、社会還元なのではないのかなと。アジア的な。 アメリカというのは、成功すると本当に莫大な財産がきづける国で、そこまで莫大な財産となるとたしかに寄付でもしないと、一人か二人しか居ない子供に譲るには多すぎるかも。 でも、日本にはそこまですごいお金持ちっていませんよね。社会が一人勝ちするのをゆるさないくにだから、ちょっと頭のいい子がいて、偏差値の高い学校でも行こうものなら、周りのひとたちから、いみや僻みがすごいです。頭がよければ絶対将来出世してお金持ちになるに違いない。自分だけがいい思いをするなんて許せないと思うのでしょう。日本は出世しようとする人間の足をひっぱる国だと、よく言われます。でも、実際には出世してもアメリカほど高いお給料はでないし、出世して成功しても、ちょっと普通より大きい家に住めるくらいなものです。相続税が高くて、国が狭く土地が少なく、住居費が高いので、アメリカのように大豪邸に住むなんて無理だから。同じ日本人同士で、メイドを使いこなすことは無理だから。日本の場合は、家事をやってもらう家政婦さんにも遠慮しないとなりません。 アメリカの場合だと、主人と使用人はあきらかに、人間としてのレベル、社会的地位なんかにランク付けがありますが、日本だと同じ日本人同士、同じ人間同士なので、あまり居丈高に使えません。あれとこれとこれやってくださいねおねがしますというかんじで気を使うので、面倒。自分たちがメンテできる程度の家に住んだほうがよっぽどいい。 それで、アメリカは、成功した人がいるとその人の回りにいっぱい人が集まってその人の成功に自分もついていこうとするということだけど、日本や中国のように身内や親族同士のつながりで助け合うというシステムがない以上、見ず知らずの他人でも、むりやり仲良くなるとかしないと、出世のきっかけをつかめないからなのではないのかなと、思います。そして、成功して私財を増やした人も見ず知らずのしらない団体にいきなり寄付するとかしないかぎり社会還元は出来ないから。なんじゃないかと思う。 でも、そういう中国もいまや、一人っ子政策で、親族とか、血縁関係とか、一族郎党とか、そういうつながりがシャットダウンされつつあります。最初、一人っ子政策というのは、人口を減らすためだと思っていました。でも、よく考えてみると中国独自の強い親族関係を途切れさせるためのものかもしれない。その結果中国には強い親族同士のつながりがなくなって、個人主義の社会になるのかもしれません。そうなったらやっぱり、成功して稼いだ財産はわが子だけでなく、社会に寄付するとかしないと、社会還元されないということになるのでしよう。 日本の長子相続制度というのも、本来長男が偉いから、財産みんな長男がもらってというものではなくて、長男が一族を代表してあくまで一族の財産の管理人としての代表権をもつものとして、受け継いだだけで、そのぶん、一族のすべての人間に対しての責任もまた持たされたものなのです。だから、嫁に行って、戻ってきた妹や姉をもう一度引き取って面倒見たり、年を取ったおばさんまで面倒見たり。 でも、今は少子化や住宅難もあるけど、西洋の個人主義がチュウトハンパに浸透していて、そんなことはありませんね。だいたい今の長男のお嫁さんなんて、ダンナの兄弟がちょっと自分の家にきただけでもすごく嫌な顔をしますからね。出戻りの妹やお姉さんをひきとるなんてぜったいやらないし。姑が実家に遊びに来た娘にちょっとしたもの持たせるのにも気を使いますから。お嫁さんが家の財産をもちだすなんてという感じで怒るから。 日本の場合は、大成功して巨万の富を築くなんてことはなく、しかも、相続税が高いので、子供の手元に行くころには、普通の金額になってしまいます。というか、逆に相続借金なんてものまで。 日本は度外視しても、中国はこれから、アメリカのような資本主義の巨大な国になっていくのでしょうか。しかも、古来のような血族的なつながりがなくなった状態で。 そうなると、やっぱり、西洋のノーブレスオブリージュや、社会寄与、社会還元という考え方も導入していくしかないのでしょう。血脈のつながりというものがなくなってきている以上。 ちなみに『ノーブレスオブリージュ』というのは、「高貴なるものの義務」、高い身分の人や、高い能力学力知性学歴教養を持った人は、低い身分の人、一般の普通の人に、それらの能力によってできる仕事をすることで社会貢献しなければならないと、いう意味合いで、この記事は書きました。 昔は貴族が領民と領内を守るために、他国が責めてきたら、率先して戦ったということから来ているのだろうと、私の知っている範囲では、そういう意味合いだと、思います。 アジアのノーブレスオブリージュはちょっとちがう。そうでもないかな。
2008年10月19日
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映画のテーマは「家族回帰」なんだと、思います。 アメリカが今まで売りにしてきた、物質文明とセックスを否定する映画。 大学を卒業した息子クリスにポンと車を買い与える親。車も服も家も食べ物も豊富にあるけれど、いごこちのよい家庭だけはなかった。夫婦のセックスを中心にして出来ているアメリカの家族構成は、子供にとっては楽しいものではないのではないでしょうか。 大学を卒業したクリスは、家を出て、クルマもすて、お金も燃やし、行方をくらませてしまう。消息不明の息子を探してはらはらする両親とはうらはらにバックパッカーとなってアメリカ中を旅していくクリス。けれど、二年後、アラスカの荒野で死体となって発見されたのでした。 いつも夫婦喧嘩ばかりしている両親と家庭にいやでいやでしょうがなかった主人公クリス。 日本ではアメリカのヒッピーなんかは有名なんだけど、その他にもそういう脱物質文明、脱キャリア社会という意識の人たちが群れて暮らす村があって、映画の中でクリスは、アメリカのそういういろんなところを旅して訪れていきます。 物が豊かなこと、セックスすること、アメリカではメジャーなこういうことを嫌だなと思うアメリカ人もまたいるのではないかと思うのです。でも、そういう人たちはアメリカの中では、マイノリティーなわけです。そういう人たちが、集まって住んでいる村や、放浪者たちが、アメリカには、ある程度いるようで、クリスは旅の途中でそういう人たちに何人も出会い、知り合い、仲良くなったりします。 途中なかよくなった中年の夫婦としばらく旅するクリス。けれど、テントの中でセックスしている夫婦の声を外で聞いていたクリスは、次の朝旅立ってしまいます。 しりあった16歳の少女からセックスを求められるのだけれど、クリスは、拒否するのです。 今までのアメリカの若者の映画なら、旅に出た少年は、いろんな人と出会いながら成長し、少女と知り合ってメイクラブをして、放浪生活をし、バイトをし、荒野でキャンプをしたのち、故郷の我が家に戻ってくる。そういうストーリーだったと思うのです。 けれど、この映画の中で、クリスは、アメリカの物質文明もセックス文化も否定しています。 幼い日けんかばかりしていた両親。結婚しているのにクリスの母と同棲し、自分たち兄弟を生んで暮らす父。実は私生児だったとしらされるクリス。そこには、セックスをする夫婦を核としたアメリカの代表的な家族のあり方があります。 実は、親のけんかも親のセックスも子供はいやなんですよね。 日本では逆に夫婦よりも子供を中心とした家族構成があるわけで、アメリカとは逆に子供を大事にするあまり夫をないがしろにする奥さんたちがいます。それはそれで、やっぱり、よろしくないとは思いますが、まあ、どっちもどっち。 親中心でもなく、子供中心でもなく、バランスのとれた家族のあり方って難しいです。 父は大学をでて、キャリアも積んだし、ビジネスでも成功して、アメリカ人としては普通だと思いますが、夫婦喧嘩の耐えない家庭であったことで、クリスにとって、ビジネスで成功しても、お金持ちになって、幸せににはれないのだと実感させてしまったのでしょう。 こんな家庭で育ったために、セックスにも、ものの豊かさにも、働くこと、出世することにも、希望を見出すことの出来ないクリスは、放浪の末にアラスカの荒野に行き着きます。嫌なものを全部排除した生活はアラスカの荒野で暮らすことしかなかったということです。 私も若い頃、嫌なことがあると、「砂漠に行きたい」とよく思ったことがあるので、なんとなく分からないでもないのです。 アメリカにはたぶん、こんな風に破天荒な冒険の旅に出て、のたれ死んでしまって結局親の元に帰ってこなかつた青年たちが、結構いるのかもしれません。 クリスが途中で知り合った中年の夫婦もやはりたった一人いた息子が旅に出たまま帰らなかったのです。その息子もまた両親の勝手気ままな暮らしぶりや、子供への配慮のない夫婦関係に嫌気がさしたのではないのかなと思います。 日本であれば、子供にきずかれるような夫婦での交渉などしないものです。それに、日本では16世紀に既に「わび」、「さび」という文化が生まれていて、あまりにも豪華であることにも、ものの豊かさにも、逆に「むなしさ」を感じるという意識があり、過渡の贅沢をきらうという考え方があります。これは、日本の社会では、結構メジャーの思想です。 けれど、それは、アメリカ社会ではマイナーな意識であり、そういうことを感じ取ってしまう人たちはマイノリティーとして、生きづらいのかもしれません。だから、都会や企業社会を抜け出して、同じ考え方のひとたちで、脱文明的な暮らしをする村があるのでしょう。 大学を出て、大成し、経済的には豊かに暮らしながら、妻をすてて、愛人とくらす父、喧嘩ばかりしている両親を見て育ったクリスは、それらのもの全てを否定するしかなく、全てを否定した先に荒野の暮らししかなかった。 クリスが目指したのは、アジアでいえば、仙人の暮らしなのだと思います。 けれど、荒野で暮らすことのリスクにまで考えがおよばなかったクリスは、荒野で衰弱し、けんかばかりしていたはずの両親のもとへ戻ることを夢見つつ、餓死してしまいました。 彼が望んだのは、夫婦仲良くくらす両親と、穏やかで幸せな家庭。 わが子をしあわせにしたいなら、まず自分たちが幸せに暮らさないとだめなんだなと、つくづく思いました。そして、家族が家族一人ひとりを大切にすることも。 ところで、荒野をでて、文明社会に戻ろうとしたクリスは、ものすごい濁流の河を目の前にして、渡ることを断念して、バスに戻ってしまいますが、河ぞいをずっと下っていけば、どこかで、橋か民家か道路に出会えたのではないのかと思います。 巨大な鹿を食糧として、捕獲しますが、冷蔵庫もないのに、彼一人であれを腐る前に食べつくすのは不可能であることくらい分かりそうなもの。とも思います。 野生の動物を捕獲して焼いて食べていますが、未開拓の土地に住む生き物は、いまだ発見されていないウィルスや病原菌を持っている可能性もあります。つまり、それすらとても、危ないのです。 原野でのワイルドな生活というのは、文明社会で暮らすよりよっぽど体力と知識と、計画性が必要だと思うのに、彼は、そのあたりの周到な準備が足りなすぎる気がします。原始的な生活をなめています。食料が尽きる前に戻るとか、もっともっと情報収集してから、荒野で暮らし始めるべきだったのではと、疑問が残ります。あんなに頭よさそうなのに。最初この映画のあらすじを聞いた時は、せっかく苦労して育ててるのに、大学出たとたん、親元を飛び出してその挙句荒野で死んじゃうなんてけしからんと思ったのですが、子供がでていく理由が親にあるのだとすると、つくづく親の立場として考えさせられてしまいます。何が子供にとっていいのか、常に自問し続けていても、やっぱり難しいです。子供が親に対して厳しいのも事実ですし、私も親に対して厳しいし、わが子も私に対してきびしいです。どこまでが許容範囲なのでしょうねえ。 イントゥ・ザ・ワイルド@映画生活
2008年10月17日
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今日はもう木曜日だ。時間がなくて、ブログのアップができませんでしたが、こないだの三連休は、一日目は食糧等の買出し、二日目はおうちでのんびり。さすがに三日目はあきたのでお出かけしました。近くにオープンしたばかりのショッピングセンターは、混んでるだろうし、横浜のトリエンナーレは行ってみたいけど、混んでるだろうし、出かけたいけど、どこにいこうか?と、悩みました。本当は公園とか自然のあるところに行きたいけど、先週いったし、遠いし。そういえば、オープン当初は混んでいるだろうと思って行かなかった、横浜のららぽーと。まだ行ったことなかったし、一度くらいは行ってみたいかも。だんな様も少しだけ遠いところに行って、車を飛ばしたいらしい。ちょうどおてごろな目的地かも。というわけで行ってきました。ららぽーと横浜。でもね。東名の青葉で降りたんだけど、ららぽーとの看板はないし、道はわかりにくいし。地図にはのってないし。しばし迷いました。看板だしてほしいよ。ららぽーとさーん。東名の青葉はとってーも分かりにくいところです。それでもなんとか着きましたー♪よかった来てみたら、ムーミンオーロラカフェを発見。わたし、スナフキンと、ニョロニョロが好きなんです。で、先ずはここでランチ。北欧料理だよね。メニューに、サーモンが多かったです。店内にあるムーミンの絵がドレもコレも素敵なのだ。そして、二人だと、このソファ席に座れる。天井にはプラネタリウムがあって、リラックスしながら、見られるのです。夜に行けば、オーロラを見られたらしいのですが、残念。だから、オーロラカフェなんだー。私たちが食べたのは、ムーミンパパランチ。他にも、ムーミンママランチとか、北欧ランチとか、お子様用のランチがありました。パパランチは、チキンです。バターナイフが、何気にニョロニョロだったりする。これ、店内で売ってました。お土産に、ムーミンの紅茶缶と、クッキー型も買いました。そのあとは、デザートにアイスクリームが食べたくて、行ったのが、このアイスクリームやさんです。『コールド・ストーン・クリーマリー』冷やした石のうえで、アイスクリームと、フルーツをまぜまぜしてくれるアイスクリーム屋さん。以前テレビで見て一度いきたいと思っていたのですが、こんなところにあったとは。たぶん、本店は六本木あたりだと、思います。私がたのんだのは、「ベリーベリーベリーグッド」だったかな。スイートクリームアイスと、ラズベリーと、ストロベリーと、ブルーベーリーを混ぜてくれたもの。石という話ですが、見た目鉄板にみえますが、どうなのでしょう。アイスまぜながら、アイスクリームの歌もうたってくれました。アメリカンパフォーマンスのお店なのでした。私は、カップを選んじゃったけど、カップ型のワッフルもあって、それだと、プラス60円ですが、おいしそうに見えて豪華度が増します。きっと。あまいものずきなら、そちらの方がいいでしょう。味は普通だったかな。甘かったあ。ランチたべて、アイスたべて、コーヒーのんで、普通のお店でまともに見たのは、本屋さんだけでした。なんなのだ、私たちのコレって。いつもだけどね。こういうところに行くと、お店見るより、食べてる時間の方が多いんです。なにしにいくのでしょう。お洋服見てもどうせ着られないし、雑貨をみてばかりいると、旦那があきてくるので、自然こうなるのでした。ま、どうせ今回は本当にひまつぶしだったのでいいのです。面白かったしね。ひさしぶりにいいお天気でした。お金もなくなりました。来週は、どうしよう。
2008年10月16日
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フルCGアニメなのですが、映像がすごかったです。今まで道中で一番すごかった気がします。 まるでゲームしてるような気がしました。ただ、やはり、CGアニメというのは、人物描写がむずかしい。どうしても、お人形になってしまう。お肌がきれいで、あばたもエクボもにきびもしみもでこぼこもないつるんとしたきれいなお肌。不自然なんだけど、肌のきびまで描写したら、もっと気持ち悪くなるだろうし。それなりに、よく出来ているとは思うけど、難しいですね。人物の動きもリアルでいいと、おもったら、現実の人間の動きをキャプチャーして起こしたもの。うーん、純粋にアニメの力だけで、リアルな人物描写はやはり、難しいんですね。それでも、かなりよく出来ているので、この技術でスターウォーズクローンズウォーズをつくったら、かなりいいんじゃないかなと思いました。 画像もいいし、物語の設定もいいし、なんだけど、コレだけのアイデァとおもしろい設定の割りにラストまで見ていくと、結局たった一人のマッドサイエンティストに日本中おどらされて、滅ぼされてしまったという、結末は、なんかいまいちでした。せっかくここまでの設定なら、もう少し、最後の部分でひとひねり、ほしかったし、最後の生きている日本人がたった一人だけだったという結末も物足りない。 CGは、良く出来ていたんだけど、物語としてのねりが、やはり、既存のヒットしている漫画にくらべると浅いのがすこぶる残念でした。せっかく、ハイテク鎖国して、一般の国民を機械化しているぶん、その状況を享受している人間がもっといて、その中での葛藤や揉め事もほしいですね。事件の原因のたった一人の人物をころしてしまうだけで、方がついてしまったのが、ものたりなかった。惜しいです。 アニメの場合はヒット作の条件はキャラクターのそこしれない魅力によるところが大きいのだけど、ヒロインのベクシルは、ちっょとかわいくて、勇気と体力があるくらい。話に深みがないのは、彼女のマイナス部分、欠点や弱点が描かれていないからでしょう。 でも、CGがすごかったので、次回作に期待したいと、思います。 ベクシル -2077 日本鎖国-@映画生活
2008年10月13日
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あたらしいゲームを買ったら、どうしても、スタートしない。いくらスタートボタンを押しても始まってくれない。買ったゲーム屋さんに行って、みてもらったら、動くの! で、ディスクを変えてもらってまた、家でやったけど、だめ。『天外魔境の2』なんだけど、なんでだろう。くやしーい。ゲーム屋の店員には、「これでも動かないなら、ゲーム機との相性が悪いんです」と、言われました。だってー、プレステ用のゲームなんだよ。なのになんで?ハドソンどうしてくれる。 で、最近はゲーム機の新機種ばかり売り出される。そんなにいろいろ出されても、買うのが追いつかない。そんなにお金ありませんからー。それに自宅に居て、携帯型のゲームするのって悲しくありませんか。家にいたら、テレビの大画面でやりたいよねー。我が家のテレビは、小型ばかりですが、ゲームのために大型テレビがほしいです。 で、ゲーム機は増えるいっぽうだけど、おもしろいソフトが最近少ないので、もう、最近は、昔のゲームを引っ張り出してやってます。こないだまで、「ファイナルファンタジー12」を、やってましたが、ほぼクリア。最後の超すごいドラゴンは大変すぎてやる気が失せました。どうせ一度たおしたことあるし。時間ばかりかかるし。 で、またまた何年か前にクリアして、そのまましまっといた「ファイナルファンタジー10」を、はじめてみましたが、このゲームはねえ、シナリオが泣けるんだよね。主人公とヒロインの召喚士の恋物語なんだけど、泣けるんですよ。かわいそうで。 最初にやった時は、ラストボスを倒した後のシーンでもう、ポロポロ泣けました。で、そのあと、このゲームシリーズには、めずらしく、続編のゲームがでたのですね。「ファイナルファンタジー10-2」です。 この続編ゲームでは、FF10のラストできえてしまった、主人公のティーダが、ネットの攻略サイトにかいてある方法でゲームをクリアすると、マルチエンディングになって、ラストボスの撃破のあとに、復活するのですよ。すごくうれしかった。 で、そのラストをしっているにもかかわらず、もういちど、FF10をやってたら、ティーダと、ヒロインユウナのキスシーンでもう、泣けてしまいました。ハッピーエンドで終わらないのをしっているから。10-2で、生き返るのもしってるのに、10のラストでティーダがきえちゃう、10だけのストーリーを思うとやっぱり、せつなくて、かわいそうで、泣けるのでした。 ゲームで感動してないてるってどんだけー。 でも、最近のゲームは、画像の技術が上がってきて、ゲームに出てくる人物がリアルな分、ストーリーも、違和感なく、理論的な設定が必要なわけで、やる側は面白いけど、考える方は大変かも。それが楽しいのかな。 で、ゲームにでてくるモンスターや召喚獣も、スピラの世界にいる幻光虫というものが集まってできたものという設定。で、ゲームを全部クリアして、考えてみると、ティーダも、ユウナに召喚された召喚獣なのかもしれないと、思ってみたり。 自分が召喚した男の子と恋仲になってるということは、自分の理想の恋人、夢の王子様を現実に再現して、恋人にしてるってことで。あらー。それってあぶなくないか。 うーん。こんなこと考え出したら、しらけてきちっゃたじゃなーい。 いや。でも、ゲームのストーリーは、泣けるからね。
2008年10月12日
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今週の「アエラ」を買ったら、まつもとゆきひろさんのインタビュー記事が載っていた。世間的にはあんまり有名じゃないけど、コンピューターをやる人たちにはかなりな有名人ですよね。プログラミング言語としてその世界ではすこぶる評価の高い「Ruby」の開発者です。私もコンピューターは詳しくないので、よく分からないんだけど、でも、今回は読んだ記事はおもしろかったし、まつもとさんてすごい人みたい。 とにかく子供のころは本ばかり読んでいたらしい。自宅の前に本屋さんがあって、そこの本を勝手に読みまくっていたらしいです。しかも、その本屋さんがそれを怒らなかったという。で、平凡社百科事典13巻を読破したり、小学五年生で物理学者ジョージ・ガモフ(←だれだこの人)の本を読了したとか。私も子供の頃家に25巻くらいの平凡社世界大百科事典があったけど、読破なんて夢のまた夢。ありえない。 で、中学からパソコンに触れ始めて、中三でお父さんの勤める会社の残業計算プログラムを作ってしまったそうです。 うーん。世の中は頭のいい人がいるものです。すごいなー。わたし、個人的な趣味として頭いい人が好きなんだけど。日本て頭のいい人に対して社会的に批難やけちがつきやすいけどね。でも、きれいな宝石やきれいなドレスが好きな人がいるのと同じように、好みとして頭のいいというのが好きなの。頭のいい人って性格の悪い人が多いけど、そういのは、本当に頭のいい人じゃなくて、本当に頭のいい人は性格もいいです。まつもとさんも性格いいらしいです。 で、この人なんとモルモン教徒なんだそうです。大学時代二年間大学にいかないで、布教活動をしたそうです。大学時代ってこういうことできるところが面白いんだけどねえ。それに、この経験は大変だったけど、のちの「RUBY」のコミュニティを管理する上でとっても役に立ったそうです。うーん。人間『楽あれば、苦あり。苦あれば楽あり』ということでしょうか。(←わたくし、ことわざも好き。) で、そのあと、編入試験を受けてもう一回大学に戻って勉強して、コンピュータの会社に入って、会社勤めしながら、作ったのが「RUBY}なんだそうです。 『マイノリティであることは自分の個性の一部』だそうです。コンピュータをやる人間なんてリアルの世界ではあんまり周りにいないし、モルモン教なんてほとんどいないし。棋士の故村山聖さんも「病気はボクの個性の一部だ」と、言っていたけど、自分のマイナスの部分を自分の個性と、認識する感覚はいいなあと思うの。 将棋もねえ、マイナーな趣味なんで、周りに対戦してくれる人ってめったに見つけられないのです。サッカーや野球はいっぱていて困らないんだけどねえ。いまでこそ、インターネットのおかけで自宅に居ても気楽に日本中の強い人と対戦できるけど。 インターネットのおかけで、パソコンも自宅に居て気軽に世界とつながれますし、リアルな世界では出会えないマイナーな趣味の同好者に合えますが。 で、とにかく、好きなことをして生きていけるなんてうらやましい。しかも、それが社会的にも役に立ってて、評価されてる。 彼は自分の知力をお金儲けには使わなくて、「Ruby」も、著作権無視して、無償公開されちゃってるんですよね。でもそういうのはチャンと、かれのところに見えない形で戻ってきているわけです。 記事のトップのまつもとさんの写真が、デスノートのエルちゃんみたいで、おもしろい。よく撮れてます。やっぱ、プロはうまいなあ。
2008年10月10日
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毎年一回はいってるようなきもする神代植物公園ですが、深大寺との漢字の違いの謎は未だにとけません。東京というのは、大都市すぎて、(というか、関東平野がひろすぎ) とにかく行楽のために自然のある山までいくのに、軽く、二時間はかかる。で、緑をお手軽に味わうには、こういう擬似高原型公園に、行くしかないのです。都会人の悲しさです。でも、しょうがないです。ここで、生まれそだっちっゃたんだもん。だから、こういう公園で、「ああ、まるで山の中みたい」とか、「高原のようねえ」とか、自分をだましてとりあえず、リフレッシユするしかありません。緑の多い田舎に住みたい。私、東京さえに生まれてなければ、生涯一度も都会にでないで、終ってたかも。なんで、私みたいな人間が、都会にうまれちゃったのかなーと、いつも思います。都会って、上昇志向で、外向きの人が集まるところなのにね。5月と並んで10月というのも、薔薇の季節です。薔薇が花盛りでした。本格的なカメラで撮影してる人がいっぱいいた。奥に見えるのが、温室。かなり大きいですが、今回はめんどくさくて、はいらなかった。せっかくいっぱいさいてるのですから、群落で激写。白だけってのも、いいです。ここのすすき。いつも来る時は、咲いてるきがする。たしか、パンパスグラスという名前で、たぶん、外国産なんだと思う。人の身長よりはるかに大きくて、日本古来のすすきとは、ぜんぜん別物ですが、見ごたえあって、きれいです。なんか、魅かれる。というわけで、今回のタイトル画像のすすきは、ここのやつを写真にとってきたのです。秋らしくていいです。マンホールってなにげに見逃してしまうけど、よくみると、場所ごとにデザインちがうし、面白いですよ。こんなものでも、デザイナーさんが、一生懸命工夫をこらしているのですよね。緑の中で、ほっとひといき。公園内の売店で売っていた薔薇のアイス。薔薇の花びらと、ローズウォーターが入っていて、かなりしっかり薔薇の味と薔薇の香りがしました。さっぱりとして、適量であまくて、おいしかったです。今回は、おそばより、こっちの方が収穫だったような。でも、製造元は九州なんです。ここは、高原。うつくしい緑の中。と、自分をだましてみる。あー。リフレッシュ。でした。
2008年10月08日
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10月のどかな日曜日。めずらしく、何も用事がないので、ひさしぶりに遠出。たまには緑のいっぱいあるところでリフレッシュしたい。というわけで、深大寺におそばを食べにやってきました。深大寺は、何度も来ています。お寺よりも、おそばの有名ななところです。門前には、やたらめったら、おそばやさんだらけ。季節もちょうど新そばの時期らしいです。ただねえ。たくさんあるのはいいけれど、どのお店がおいしいのか、分からなくっていつも困るのです。どこが一番いいんだろう。で、今回は、門前の一番前、歴史有る有名店『嶋田屋』さんにしました。今回たべたのは、「むさしの」。おそば三種と野菜のてんぷら。お味は…うーん、いまいちだったような。深大寺のお蕎麦屋さんを全部制覇してみたいです。順番が逆だけど、おそばを食べてから、お参り。そして、ここには、大きな金木犀の木がありました。金木犀でこんなの始めてみた。ちょうど、花のシーズンだったので気がついたけど、いままで、ぜーんぜんきづきませんでした。で、緑の狛犬。コケだらけで、緑色なのね。ちっちゃな神様の狛犬だから、そんなに手をかけてないのかな。でも、ここまで緑色になるまで苔がはえてるってちょっとすごいよ。境内で寝ていた猫ちゃん。この子は、逃げないでなでなでさせてくれました。かわいい。で、この後は、当然神代植物公園に行きました。ところで、今気づいたんだけど、お寺の深大寺と、公園の神代植物公園は、音は同じなのに、漢字は違うのですね。なんでなんだろう。以下次号!
2008年10月07日
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息子が成績表をもらってきましたが、予想通りとーっても悪かったです。だって、夏学期の終わりにぜーんぜんまじめに試験もレポートも取り組んでないのですから。 で、母としては当然、あんまり成績が悪いと、就職の時困らないのかなということ。でも、今は学歴を無視した採用になってきたのですよね。だとしたら、学校の成績は試験をうける会社に提出したり、第一志望の会社の時に大学から推薦ほもらうとか、そういうのは、今はないのでしようか。 まわりに、そのての実情をきける人がいないので、わかりません。で、母としては、息子にどういう説教をすればいいのか迷っています。 いまはもう、大学の成績は就職に関係ないのでしょうか。それとも、やつぱり、関係大なのか。でも、だとしたら、就職を考えて、成績を気にするのって、高校受験の内申書と同じなのでは。内申を気にして、大学の勉強をするのは、なにか違うような。 私は、所詮短大だったし、まじめでしたから、普通に勉強したましたが。でも、予定外にいい成績がとれなくて、きびしいんだなーと、思ったのを思い出しました。 で、息子にすると、そういう成績を重視した授業の取り方はしなかっただけだと。大学って先生によって、甘い点をつける先生と辛い点をつける先生がいますからね。私のときにも、「ホトケのアオキ」という、自分の授業をとった学生全員に優をつけるという先生がいましたからね。 で、楽に単位をとれる授業は、チョンボというようで。なんとなくわかるう。 で、彼にいわせると、そんなのつまんないし、なさけないし、悲しいじゃないと、いうんですよお。自分はそういうのは、まったく無視して、おもしろいかどうか、自分が学びたいかどうかだけで、選んでいると。 うーん。その気持ちはわかる。 しかし。 もうちっとまじめにやってたら、ここまで悪くはないはずだ。第一、あんまり成績悪いと、三年生になれないらしいし。 と、母の悩みはまだまだ続く。 眠くて眠くて、しょうがない息子を朝おこすのもたいへんなんだよお。
2008年10月06日
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『闇の子供たち』という映画が今話題のようです。見てみようかと思いもするのですが、その内容のあまりのハードさに見る気になれず、ネットでネタバレした記事を読んでみようと、検索をかけてみました。以下の記事は映画のネタバレを含みます。 物語は、タイにおける児童買春と児童の人身売買です。その実情のひどさを訴えたくて、監督は映画化に踏み込んだわけです。 けれど、この物語。実は後半の衝撃的な部分。臓器提供の部分。生きたままタイの子供が、日本から来た子供への移植のために心臓をとりだされるのです。映画としては、かなり衝撃的ですが、この部分が実は虚の部分であり、問題になっているのだそうです。 この部分に関して、本物のお医者さんによれば、日本人でタイでの心臓移植という事例はないそうです。実際のところ、心臓移植というような非常に難しい手術は、世界でも有数の技術力の日本で行うことすらむずかしいです。それを、手術をタイのような国で出来るのか。たとえできたとしても、はたして、成功するのか。それは、臓器提供された側にも、そのリスクはあるでしよう。 いくらなんでも、心臓じゃなくて、他の臓器なら、お話ももう少し真実味が入ってきたのかも。でも、他の臓器なら、冷凍保存も出来そうだし、生きたまま取り出さなくても何とかなるし。生きたまま臓器をとりだされるタイ人の子供。というシーンを作り出すには、心臓しかなかった。 でも、それは、物語としてのクライマックスを盛り上げるための創作なわけです。 売春に関しては、監督もそれなりに調べたし、ある程度真実として、そういう状況はあるらしいのですが、臓器移植の部分に関しては、映画のテーマ性を盛り上げるための商業的創作。 それが、いかにもドキュメンタリータッチの映像と、物語の展開ゆえに、最後の心臓の移植のシーンまでが、本物だと、誤認させられてしまう怖さ。 日本ってこんなひどいことしてるんだ。自分もなにかしなければと、思わせられるつくり。その挙句に日本のユニセフが協賛していて、そのサイトにいくと、「こんな現実があります。」という説明の後に、貴方にもできることがあります。募金してください。という展開。 どこまでが真実何だかもう本当にわかりません。 先日読んだ『偽善エコロジー』の、レジ袋や、割り箸のことといい、北京五輪の花火の報道の真実とのずれといい。 怖いのは、ただ、だまされているということだけでなく、それが、一見、真実に見えること、いい事をしているように見えること。ものすごく怖いです。 そういう一見本当の事に思える嘘が、まだまだ私の周りにはあるんだろうか。そういうことを考えると、とても、怖いです。参考サイト 映画『闇の子供たち』宣伝にに思う ところで、この映画。作った人はやっぱり高いところから見ているなと、私は思います。所詮話の舞台は、発展途上国。売春という問題は、タイにかかわらず、世界中にあることで、もちろん、日本にも、当然のごとくありました。吉原も、赤線も。まだ、十歳前の子供が貧しい農家から売られていったことも。 自分たちが生きている同じ時代に起きていることがショッキングなのでしょうか。 でも、過去の日本にもあった売春を、今、日本で作ったら。大体このてのお話はそういう描写は伏せてあるものですが。この映画と同じ手法でつくろうとしたら、必ずどこかからクレームがつくでしょう。まず、作ることは出来ないと思います。よしんば、作られて公開されたとしたら、その不愉快さはこの映画以上なのではないかと思います。(日本人にとって、ですが) それが、タイという国だから。タイの子供を使っての撮影だから、出来たのかなと、思うと、やはり売らされる側に回りかねない女性の立場では、不快な気がします。 撮影の後に撮影に参加した現地の子供たちには、精神的なメンテナンスはしたといいますが、そんな簡単なものだとは思えない。そんな簡単に消えるものとは、思えない。この映画を作った人たちの感覚は、映画に出てくるブローカーやそれ以外の人たちと同じようにすら、みえてきます。 そこに、商業的な、演出が入っていることがなおさらに。 映画の中で、心臓病で移植のためにタイに来た子供の母親が、移植を思いとどまるように言われて、「だって、私の息子が死んじゃうのに」と、怒るシーンがあります。が、10歳の子供をもつ母親なら、大体世の中の10歳の子供のこころにシンクロしているものです。わが子がいくら死にそうでも、同じ10歳の子供を犠牲にする真実を知った時、それでも、わが子を助けようという気にはまずなれないだろうと、思うのです。 そのあたりがやっぱり、男の人の作った映画だなあと、思います。 ところで、この手の話に似た話を昔読みました。新井素子のSF小説で、臓器提供のための臓器を作るために子供たちが劣悪な環境で育てられるというか、製造されている場面を発見して、主人公はその状況を撮影したビデオを、テレビ放送で、全国だか、全世界だか、全宇宙だかに、流してしまうのです。そうすることで組織の存在が公になり、事件は解決しました。物語の舞台は科学の進んだ輝ける未来であるはずなのに。 『部長島耕作』でも、中国での売春の裏組織を摘発するために、その大元締めが敵対する役人に情報を流して、組織の大元締めのボスを捕まえさせてしまうのです。 この手の売春組織というのは、社会的な状況が原因のようでいて、実は、そういう集団を組織して運営しているボスを捕まえてしまえば、解決してしまうのです。(それがたいへんなんだけどね。) 先進国であるはずの日本にも、やはり、売春組織は、存在していて、摘発される事件はあります。山岸涼子の漫画「テレプシコーラ」にも、現代日本で、お金のために娘を売る母親がでてきます。 私がかなり昔に旅行で行った時のことですが、パリにも、組織的に観光客を相手に盗みをする集団がいて、ヨーロッパは、怖いところ、社会的にそういうところなんだと、思っていました。ところが、ところが、パリについて現地の係員の人にきいたら、その組織のボスは、ついこないだ捕まえられたので、その件に関しては大丈夫ですといわれました。 現代のアメリカでさえ、ごく普通の白人家庭の児童が誘拐される事件は多いのです。それらの子供は、児童買春や児童ポルノや臓器提供に使われていると推測されます。先日子供の時に誘拐されて、犬のように育てられた少年の話の映画もありましたよね。 もちろん、この映画『闇の子供たち』に描かれる、売春の状況は並みのものではないハードさのようですが、売春自体は、いつの時代にも、どんなところにも、起きることであり、必ずしも、貧困や社会悪だけの問題ではないのではないでしょうか。 そしてどんな時代にも、買いたいと思う人間たちがいる以上売ってやろうと考える人間がいるのもまた、真実なのだと、思います。 だとすれば、貧困が解消されるのを待っていたのでは遅いのではないですか。それまでの長い年月の間にどれほどの子供たちが悪の餌食にされることか。この問題は、事件の原因を貧困のせいにするのではなく、さっさと、闇組織を摘発して、組織のボスを捕まえることなのだと、思います。もし、捕まえたとしても、また新しい闇組織が生まれることはあるでしょう。けれど、それをもまた、捕まえるしかないのです。 日本の社会が落ち着いていて、誘拐が少ないのは、日本の警察の検挙率が世界有数だからだと、私は思うのです。 たくさんの人が映画をみて、あるいは、本を読んで、事件の実態を知って、ブログに書いて、人に話して、世論をあげていくこと。国際的に問題視していくこと。その上でタイ政府に世界的に無言の要求をしていくこと。これは、タイ政府が解決すべき問題であり、そのために、国際的にも協力できるのなら、協力すべきものと、思います。 害虫は、見つけたらそのつど、殺虫剤をかけて、枝を切り落とし、捨てていく。そのくりかえししか、美しい木を維持していく手立てはないのですから。 社会的に問題定義をしているように見える映画ですら、そこに虚実織り交ぜられている。こわいですね。
2008年10月03日
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一時間半と、予定外に時間の短い作品。のわりに、意外と内容は、濃かったような気がします。 しかし、アメリカ大統領が、テロ撲滅というテーマで演説する場所としては、あの周り中窓だらけの場所というのは、ありえない気がします。いかにも、撃って下さい、殺してくださいと、いわんばかり。警備もかなり手薄だし。たった一人の男に、大統領の命が任されちゃうというのも。 そして、カーチェイスは、かなりハードで、見ごたえあるんだけど、よその国の街中を壊しまくりだし、自分の国の大統領のために、こんなによその国を壊しながら、町の人の危険も顧みずに、走り回っていいものなんでしょうか。 それでも、最後は、あれだけ人を殺しまくった人たちが、心の中の一条の光を見せてくれる。このお話は、つまり、性善説なわけですよね。 もうどうにもならないどうしようもないとう、極限状態で、おもわず、取った行動が、人の心の本心、根のところにあるもの。そうであって欲しいと、思いますが。 しかし、爆発現場でいきなり、母親のいない女の子をさっき会ったばかりの初対面のおじさんが勝手に連れ出しちゃったり、事故現場でばらばらになって、はぐれたお母さんが、かなり離れたところに居たり。ストーリーは、見ごたえあって、面白いんだけど、あまりにも、ご都合主義な展開は、ついていけません。いまいちうれなかったのも、そりあたりが原因かも。 バンテージ・ポイント@映画生活
2008年10月01日
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日本では吐いて捨てるほど多いといわれる鈴木さんと佐藤さん。その佐藤さんがあんまり多すぎるから、少し人数を減らすために、鬼ごっこと称して狩られてころされ始めてしまった。そして、主人公の名前も、やっぱり当然佐藤だったのだ。 なかなか興味をそそるストーリー設定。鬼役の赤い目玉二つの黒いお面という、いかにもな、DVDの表紙は、おもわず、目がいくのだけど、いざ見終わってみると、たいしたことなかった。 前半はかなり怖いのだが、謎解きの始まる後半からだんだん失速していくようだ。なにせ、王様が出てきた段階で、正体がだれなのか、ほぼ簡単に予測できてしまう。それに、おどろおどろしい恐怖の対象である王様の兜や、衣装がよくみると、ちゃっちいのだ。 コレだけの設定をしておいて、結局、パラレルワールドものだったのかと、謎解きされると、がっかりする。 しかし、設定自体は面白いのだし、コレを、それこそ、ハリウッドで、ハリウッドの技術を駆使してつくれば、かなり、本格的な、セットや、お面などの装具の効果で、面白さは上がるかもしれない。こういう作品こそ、ハリウッドで作って欲しいですね。でも、ハリウッドでつくるには、やっぱり、日本でそこそこ評判にならないと、だめだしね。 ハリウッド版にすれば、殺される対象の苗字は、佐藤じゃなくて、「スミス」さんとかになりそう。アメリカを独裁者が支配する国にしたら、かなり怖いですねえ。それも、かなり、自分勝手で自分のことしか考えいなし奴だしね。 リアル鬼ごっこ@映画生活
2008年09月28日
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たまたまであった、足の不自由な女性に恋をする主人公。そして、結婚まで覚悟したはずが一瞬の心の迷いにきづき、結局、その重さに別れてしまう。しごく当たり前な展開だけれど、どこか味わいのあるストーリーや、風変わりで個性的な人物がいっぱいでてきて、独特な物語になっていた。特にヒロインのかなりかわった少女ジョゼを池脇千鶴が好演していた。 しかし、私も普通の根性なしの人間なので、息子が、障害のある女性を奥さんにしたいといって連れてきたら、どうしようと考えてしまった。 憧れの女性の先輩役香苗が、今わりと話題の上野樹里だったりしておもしろい。眉毛がやけに濃くて、気になっちゃったりした。 障害のある女性に本気でほれる男ってどうなんだろう。こういう男を将来夫にしたら、人間的には、深みと幅と人情のあるやさしいだんなさんで奥さんは楽かな。それとも、またすぐ、そういうタイプの女性に惚れて、浮気されたりしたら、困るかも。彼は、どっちのタイプだろう。 ジョゼと一緒に暮らす、どういう関係かよくわからないおばあさんが、初めに言う言葉。 「あの子はコワレモノなんだよ。」 最初に言う時は、障害のあるジョゼの体のことを言う。体が壊れていて使い物にならなくて、世間のお役にたてないどうしようもない人間。そんな意味合い。 でも、二度目に恒夫に言ったその言葉は、そっくりおなじなのに、全く違う含みを持っていた。 心が傷ついたってこと。 心がきずついてる人間。 同じ言葉が物語の進むにしたがって違う意味を持ってきていて、このあたりの、シナリオがみごとだなーと、感心してしまいました。 で、心がきずつくのには、障害のある人も普通の人も、同じなわけで。主人公の恒夫は、最初から最後まですごく優しいんだけど、そんな彼でも、彼と関わる女性を傷つけてしまったりする。恒夫に振られて自暴自棄になっちっゃた香苗もやっぱり、コワレモノだった。 どうしてもやっばり、ジョゼとやっていく自信がなくて、別れちゃって、でも、まだジョゼを好きだから、香苗の前なのに、泣き崩れる恒夫もやっぱり「コワレモノ」だったので、人はみーんな『コワレモノ』になりやすいのかもね。 このあとたぶん、恒夫は、香苗と結婚するんだろうと思う。けれど、足の悪いことが負担になって別れてしまったかもしれないけれど、普通の人間の香苗だって、体の故障とは別に、長い結婚生活の中で、恒夫の負担になっていく可能性はあるだろうと思う。案外、気性のしっかりしているジョゼが実は、以外に長い人生をそいとげてみると、いい伴侶だっなということになることもあるかもしれない。壊れているのがどこの部分なのか。目では見えないものがいろいろあるんじゃないのかな。ふられたショックで、ジョゼにけんか売ったり、就職も投げだしちゃったりする香苗の方が実は意外と大変だったりするかもしれない。 あの逆境の中でも、自分で料理を作り、拾ってきた本しか読めない状況で、それなりに読みきって自分自身を強く持っていたジョゼの方が、実は楽だったりするかもとか、思ったりした。 とするとあるいは、恒夫は、ジョゼが身障者だったからじゃなくて、そういう芯の通った強さに逆に、気おされてくじけちゃったのかも。 恒夫は優しいけれど、誠実じゃない。そんな彼だからこそ、障害をもち社会の底辺で暮らしながらなお、自分というものを持っているジョゼの強さが、彼をほれさせたのであり、その強さが、二人を別れさせた理由でもあるのだと思う。 二人で旅行に出た時、「車椅子を買えよ」という恒夫に、「いやや」と拒否するジョゼ。大概の女の子が惚れた男に嫌われたくなくて、低姿勢で、自分をおさえ、いいところだけを見せようとしてしまうものなのに、ジョゼはあえて、自分の最大の欠点、負い目を恒夫に示し、押し付け、それでも、自分と添い遂げる覚悟があるか、その真意をはかったのだと思う。 そしてそんな自分に一時でも惚れてくれて、結婚まで考えてくれた恒夫に対して、自分の体を許すことで応えたのは、ジョゼのやさしさなんだと、思う。ジョゼはたぶん、最初から、いつか、恋の終わりがあることを覚悟していたのだろう。 けれど、彼との出会いによって、閉じられていたジョゼの世界は開かれ、外に向かい始める。それだけでも、ふたりのであった意味は大きい。 この恋によって、得たものは二人のどちらにもあるのだろう。恋の向こう側に、成長してより人間らしくなった、二人の姿があった。恒夫は少しは誠実になったかな。 原作とはちがうのかもしれないけれど、やっぱり、田辺聖子独特の味わいを、感じる映画でした。 ジョゼと虎と魚たち@映画生活
2008年09月27日
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ほぼ原作の雰囲気どおりの映画でした。最後にでてくるロボットとかは、実写ならでわだと、思う。にもかかわらず、見終わってみると、原作で感じたわくわく感も、感動もどきどきも、緊迫感もなし。なんでかなーと、考えてみると、そうそう、肝心の「トモダチ」の、怖さがぜーんぜん伝わってこないし、うまく描ききっていないからだ。 この話の、機軸は、「トモダチ」の、怖さ、不気味さ、誰なのか、最後までわからないこと。全てのストーリーも、エピソードも、事件も、「トモダチ」の怖さと不気味さと、得たいのしれない行動にあるわけで。 ケンヂや、その仲間たちが、集まるのも、戦うのも、いろんな事件が起きる理由のおおもとも、ぜーんぶ「トモダチ」が原因なのに、それが、みてて、分かりにくい。 おかけで、話の怖さも面白さも、感動も伝わってこない。 シリーズ二作目以降、もっと「トモダチ」の怖さを演出してほしいと、思います。 ケンヂ役が唐沢利行なんて、かっこよすぎ。原作の絵から考えると、 原田泰三なんかがいいと、思うんだけどなー。「オッチョ」とか、「ユキジ」の常盤貴子なんかは、よかったですね。
2008年09月26日
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なんかショック。すごいショック。いままで、いい事正しいこと、と、思ってやってきた、エコロジーなことが、みんな、無意味だったなんて。 今話題のこの本は、一方で、必ずしも中に書いてあることは正しくない、間違ってこるとも多いと、いろいろ批難、指摘されている部分もおおく、どこまで、本当なのかは、分からないんだけれど、それでも、ショックだった。 レジ袋や、割り箸が、地球の資源やエネルギーを大切にするためのエコロシーの行動だと思っていた。けれど、この本の注釈に実は、それらは、環境省が、ゴミを減らすためのキャンペーンとしてやっていたことだと、書いてあって、私は、かなり、驚いた。 今までやってたことはみんな無駄? 環境省が影のおおボスだったのか。考えてみれば確かに、レジ袋とか、割り箸って、ゴミの元。それも、ドレも、ただで配られるもの。お役所だから、政治家と、経済界ってのは、密接に関係しているわけで、企業の利益や売り上げや景気に影響するような、ことは出来ないのだろう。みんなが余計なものを買うこと自体をやめれば、売り上げ自体がへって、売り上げや景気に影響するわけで、お役所としては、そういうことはできない。となれば、ただで配られている、レジ袋や、割り箸をやめるという対策くらいしか出来ないんだろう。お役所って、非力。ていうか、いろんなシバリが多くて、その中で、仕事をするのは、たいへんなのね。 でも、ゴミを減らしたいなら、庭のある家庭に、コンポストを無料で配ってくれればいいのに。希望者だけでも、くばって、庭で、生ゴミを処理できれば、随分生ゴミは、へると、思うんだけど。生ゴミっていうのは、臭いので、ゴミとして、ゴミの日まで保存しとくのも、いやなんですよね。 コンポストあればいいなとは、思うけど、高いから、いまひとつ買う決心がつかない。各家庭で、生ゴミだけではも処理できれば、大分減るのに。 ゴミの分別も無駄らしいです。でも、週に二日しか、燃えるゴミの回収がないのでは、分別しないと、ゴミも全部一緒にしちゃうと、全てのゴミがくさくて、ゴミの日までがつらいのも、事実なので、エコのためだけじゃなくて、臭くないゴミだけで、ひとまとめにしといた方が、楽なのも事実です。プラゴミだからというより、臭くないゴミとして、ひとまとめにしときたい。 古新聞や、缶や、ビンを分けるのも、エコのためじゃなくて、ゴミをへらすためだったのですね。 この本ではほとんどのものは、分別するより、ゴミとして、燃しちゃった方がいいと書いてあるけど、みんなゴミにされると、清掃局は大変なのですよね。それは確かにそうですねえ。 この数年で、ゴミ償却場はかなり増やされました。自治体のゴミは、自治体の中で、処分できるように。 ほとんどの資源は、リサイクルがむずかしい。ものはみんな、使えば劣化するから。運ぶ手間も、分ける手間も、リイメドいることによる、劣化もあるから。 ゴミの元といえば、中元やお歳暮もそうだと思う。あれは無くても困らないもの。いらないもののやり取りと梱包でますますゴミはふえるし。もともと日本にあった習慣でもないので、やめればさぞや、ゴミはへるでしょうねえ。ものによっては、届いたものの中身をだすと、ゴミのほうがおおかったりしますからねえ。 資本主義ってのは、ゴミを出すことが目的みたいなもの。いらなくてもいいから、とにかく、商品を売ることが大事なんだもの。 まー。余計なものは買わない、もらわないしかないのですね。バーゲンで、安いからってことで、いまいち気に入らないものを買うのは、やめようかなあとも思う、このごろです。 でも、プラスチックとか、今無理に燃さなくても、埋めておけば、いちか未来で、科学力が上がった時に、それらを掘り起こしてもう一度使える時代も来るかもしれないのに、燃さないで、埋めといた方がいいかもしれないじゃんと、思うのです。実際にはもう、埋めるところが無くて、もやしはじめてるんですが。 廃家電や、中古家電、テレビとか、を発展途上国に売ることで、ゴミがみんな発展途上国にたまるから、やめようっていうのも、あったけど、でも、安く家電を変えるんだから、それはそれでいいのにと、思う。そのあとのゴミは、ためて保存しとくと、いつか未来で、資源になってるかもよ。だって、石油だって、大昔のゴミなんだよね。それを中近東とか、発展途上国で、今、売って、儲けてるんだから。 将来なにがどうなるかなんて、わからない。いま、の判断が本当に正しいかどうかも、未来になって見ないと、わからないんだし。とりあえず今、安くテレビわみられる恩恵は、大きいのでは。 などと、いろいろ考えさせてくれる本でした。いろんな批難をあびて、他の人が正しい意見や情報をあげているけれど、その情報開示のきっかけになったのだという、その部分でも、この本の意味はあると思うし、批難をあびつつ、本をだした、著者の人は、偉いじゃんと、思う。のです。この本のタイトルは、『偽善エコロジー』というよりは、『偽装エコロジー』にした方がぴんとくるのでは、と、思います。
2008年09月25日
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リーマンブラザーズがつぶれたー。 日本支社の一番偉い人がこないだテレビに出てたけど、なんかなかなかいい男だったー。品もいいし、あたまもいいんでしようねえ。かっこよかったぁ。日本にも、あんなにいい男のサラリーマンがいるのねー。 昔日本が戦争しようとしてお金が無くて困ってた時に貸してくれた会社があって、その会社も吸収合併したのが、このリーマンブラザーズなんだって。てことは、この会社は証券会社っていうより、戦争のための資金を貸し付けて、大きなくなった会社なのかも。でも、最近は、アメリカも世界中から批難されてて、戦争もしづらくなってきたし、戦争でお金儲けするのも、もう無理なのよね。リーマンが潰れたのも経営の失敗とかっていうより、もう、株式っていう、経済のシステムの無理、限界のひとつの兆候だったりするんじゃないのと、思う。働かずに、お金もうけするなんて、おかしいじゃん。がんばって働いても、その利益が働いた人じゃなくて、株主の懐に入っちゃうていうのも、どうかと思う。昔は、お金持ちと貧乏人がいて、その格差もばけしかったし、なにかをするために、お金を貸してもらうことも必要だったかもしれない。でも、今の時代にもう、株式は、その本来の形とは、違ってきている。 どんなに働いても、その成果が払われないのなら、社会主義が崩壊したように資本主義が崩壊したって不思議じゃないし。がんばったらがんばっただけかえってくる物があったから成功したのが今の資本主義なら、がんばってもなにもかえってこなくなれば、やっぱり、終っちゃうんだとしても、不思議じゃないし。今の若い人たちが働かないのもだからかも。 アメリカもいい加減戦争でお金儲けするのはやめて、せっかく広くて平たくて、あったかいところにある土地がいっぱいあるんだから、もっと、農業に力を入れて、農作物を作って、世界中の人たちの食糧をアメリカで作ってやるくらいのことしたっていいのに。自国のものは自国でつくるって、食糧自給率を上げるのもいいけど、どうしても、小麦やお米のように主食を自国でつくれない、貧しい土地だらけの国だってあるんだ。自分の国さえ食べていければなんて、せこい。 アメリカほどの科学力があれば、あの国のほとんどをもっと開発して、食糧生産量を今の何倍にもすることは出来るだろうに。労働力だって、いっぱいあるんだし。アメリカは、もっともっと、農業国として、力をあげてもいいのに。戦争で、兵器を売って、お金儲けをするより、農作物を世界に売って、かせいでもいいのにね。あれだけの科学力を駆使すれば、戦争以上に稼げるようらなる日もくるかもしれないし。 第一次産業をもう一度見直す時代になってきたのではと、思う。だって、こんなに科学の力は、上がってきたのだし。科学がもっと人をしあわせにしてくれてもいいじゃない。 で、これからほんとにいろんな証券会社とか、崩壊していくのかなあ。どうなるんだろう。
2008年09月24日
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人が常に正しい判断をし続けることなんてできないんだよなあと、つくづく思った。 どんなに理性的で、冷静で、学問をしていても、いつもかなり正しく考えることのできる人だって、半永久的にに正しい判断をし続けることなんて、できるわけ無いんだよね。人間なんだから。 以下ネタバレしてます。 嵐の抜けた朝、湖の向こう側に現れた霧(ミスト)は、やがて、町をおおい、その霧の中には、今まで見たこともない、恐ろしいモンスターたちが潜んでいた。 町に買い物に出かけた先で、ミストに覆われ、大きな食品スーパーに篭城することになる町の人たち。店から出て、ミストの中に入れば、モンスターに殺されてしまう。 その中で、家に残してきた二人の子供のために、ミストの中に入っていってしまう女性。 聖書の言葉を語り、人々を狂気の妄信の世界に引き込んでいく女性。 理性的な判断力と勇敢な行動力で、徐々にリーダー的な存在となっていく主人公。 何とか二日間を乗り越えては見たもののこのままにこの店の中にいても助からないのではないか、世界はあの異世界からやってきたモンスターたちによって、滅ぼされてしまうのかもしれない。数人の同志とともに、店を抜け出して、ワゴンカーに乗り、南へと逃亡を図る主人公。けれど、ミストから抜け出さないまま、ガソリンもなくなり、銃弾による死を選ぶ。玉(銃弾)が足りないために最後にたった一人自殺もできずに残った主人公は、モンスターに食われるしかないのか。 けれど絶望の極地のその時、北からやってきた助けによって、あれほどの脅威に見えたミストもモンスターもあっさり排除され、取り払われる。主人公は助かったのだ。けれど…。 今までのパニック映画なら、勇敢な主人公は、南に逃れて数名の同行者とともに助かるといストーリーだったのだと思う。パニックに半狂乱になり、冷静に判断力を失う人々、普段の行動や言動とは裏腹に、いざモンスターを目の前にして立ちすくみ、あるいは、殺されてしまう人々。その中で、勇気と理性をもった主人公だけが、常に正しい判断と選択をして、助かる。そういうお話だった。 けれど、この物語では、主人公の判断は、常に正しくはない。それはそうだろう。だって、人間なんだから。 すこぶる分かりやすい物語で、たくさんの宗教的な教示や、自己犠牲の精神も、語られているんだけれど、私が、この作品で一番感じたのは、この、人のする判断は常に正しくはないということだった。 いろいろと、深みのあるストーリーで、ただのパニック映画ではない深さやテーマ性は、お見事。説教臭くなく、道徳っぽくなく、見ているものを納得させるんだけれど、それ以上にいろいろ考えさせられる映画だった。 「大学出のお前より俺たちの方が勇気があるぞ」っといって、無理にミストの中に入っていって、殺されてしまう、学歴コンプレックスの部分。その一方で、学歴があって、弁護士である男がいざとなると、自分勝手な思い込みで行動して、みんなのために行動してもくれなかったり。高齢の女性が勇敢に戦っていたり。小太りの男が全米競技会で優勝したこともある銃の名手だったり。 学歴も学問も資格も年齢も見た目も、人を本当に正しく評価する材料にはならないようです。 そして、そんな中で、モンスターと、戦うために、勇敢な行動をし、人々を導いて、正しい判断力と、行動力を持っていたように見える主人公が、けれど、最後までみていくと、必ずしも、正しい決定をし続けていたわけではないことも分かる。 南に逃げたけれど、助けは北からやってきた。南に逃げずに北に向かっていれば、あるいは、あのまま、あの店に残っていれば、あるいは、車が止まってしまった後も、最後のぎりぎりまで、自殺せずに生き残っていれば、助かったかもしれない人たち。 勇気ある行動でリーダーであったはずの彼が、店の中にいる他の人たちを見捨てて、数人の仲間とともに、立ち去ってしまったり。 町がミストで覆われた時、店の中に留まることがその時点では一番正しい判断に思えたのに、その中を子供のために自宅に帰っていった女性は子供たちとともに、助かっていたことがラストになってわかるのだ。その時は正しいと思える判断も、本当に正しいかどうかは、わからないものなのだ。 自分をなげうった時、助かるという部分もある。聖書の言葉を語り、人々を顫動して、最後には殺されてしまう女性も、モンスターに襲われた時、覚悟を決めてじっと、身を任せた時には、助かっていたりする。最後のシーンでは、五人なのに、四つの銃弾。それを他の人たちに譲って、自分は、モンスターに殺される覚悟で残った主人公だけが、生き残ったり。 で、そんな、いろいろなキリスト教的な自己犠牲の精神とともに、最後に生き残る主人公。けれど、愛するわが子は、既に死んでいた。正しい判断があれば、助かったかもしれないけれど、それは、やはり、無理なんだろうなあ。と、思う。 正しい判断のできるリーダーを選んでみんなそれに従っていけば、楽だけど、そのリーダーが常に正しい決定をしてくれるとはかぎらないんだから、やっぱり、常にみんなでいろいろ考えた方がいいんだけど、みんなが考えて決定することが正しいともかぎらないし。 人間はいっぱいいるんだから、みんなが勝手にいろいろ考えて行動しているどれかは、正しいこともありうるので、たまたまその正しい決定を運よく選んだ人なんかが、何とか生き残る。そうやって、人類は、生き残ってきたのかも。 大統領や総理大臣が決めたことがはずれることもあるわけで、そうすると国民は批難ゴウゴウなんだけど。お医者さんが医療ミスをしても、今は裁判沙汰で大変なんだけど、毎日仕事していれば、どうしたって、ミスはありえるわけだし。仕方ないんだけど。 映画の中でも、軍の科学者の研究の途中でミスをしたために、異世界の扉がひらかれて、モンスターがミストともに、現れる。それを知った店の中の人たちは、たまたまそこで生き残った軍人に対して、怒りをもってその軍人を刺し殺し、その死体をモンスターのいるミストの中に投げ込んでしまう。そうやって、人は誰かに責任を追わせたりする。パニックの中では、なおさら、人は、冷静さを失っていく。ただの一軍人に、軍隊のやったことの責任なんてもちろんあるわけないし、本当はそんなこと誰でも分かるのだけど。 映画の中でいろんな人がいろんな行動を取る。その行動が正しいのかどうか。映画は最後まで見ないと、わからない。 正しい判断や、決定が出来るとは限らない。後悔の無い人生もありえないのなら、その時一番だと思う選択をするしかない。 一人の人間が常に正しい判断をし続けるなんてできるわけないのだ。「衣食たりて礼節を知る」とか、「君子危うきに近寄らず」とか、「身を捨てて浮かぶ瀬もあれ」とか、映画を見てて、いろんな言葉が思い浮かんでしまいました。 日本にも、宗教はあんまりないけど、いろいろためになる名言があるもんですね。 ミスト@映画生活
2008年09月22日
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優しいということが、いいこととは、かぎらない。 主人公の士郎は、アメリカかぶれの祖母に育てられたせいか、女の子にとてもやさしい。そして、バイト先で知り合ったのり子と、同棲を始める。けれど、のり子はその前に大学生の彼がいて、何かをきっかけにして別れてしまったのだ。その別れた原因は、映画の中では、語られないけれど、たぶん、彼氏が浮気したのだろう。 けれど、別れたはずの彼は、やっぱりのり子に会いにくる。そして、結局二人はよりを戻してしまい、士郎は一人、残される。やさしい男の士郎を選んだはずの、のり子がどうして、彼女をきずつけ、手ひどく冷たく、突き放したはずの彼のもとへ戻ってしまったのだろう。 彼と別れたはずの、のり子が心の底でやっぱり元の彼を忘れられなかったように、浮気をしてのり子をふったはずの彼もまた、やっぱり、のり子と別れた辛さや、のり子のいない時間の寂しさに、傷ついていた。 お互いにやさしさもなく、傷つけあって別れたはずの二人は、けれどやっぱり、もう一度、恋人同士に戻ってしまう。 「やさしいだけじゃだめなんだよ。」と、アメリカンなグランマの士郎の祖母は、言う。祖母もまた、別れた男を忘れられずにいる。もし、普通の日本の祖母だったら、恋人にふられた士郎に、もっとちがった、道徳的な説教か、ありきたりの慰めの言葉をいったのではないかと思う。 けれど、人は優しさというシュガーだけで出来ているわけではなくて、人生に味わいをもたせるようなスパイス、人生の痛みを経験していきながら、その人としての深み、味わい、を、かもし出していくものなのだろう。 甘さと苦さ、辛さがまざりあって初めて、「風味絶佳」なその人なりの独特なうまさ、を作り出していくのだろう。 やさしくて、正しくて、道徳的に正しいことをまくし立てて、その生活ぶりもものすごくきちんとしている人というのがいるものだけれど、そういう人というのは、ある意味でちょっと、わずらわしいと、周りの人間に、感じさせていたりするものだけれど。 ただ、幸せで、まじめで、やさしくて、甘いだけではなく、人の痛み、辛さを知って、失恋の痛みを知って、そうしてはじめて、他者の痛みを知り、共感できる感性を持ちうるとしたら。 失恋をしった士朗もまた、人として味わい深い、シュガーな部分も、スパイスな部分も持った男となっていくのかもしれない。 夫婦や、恋人や、友達の関係が長く続くのは、お互いの弱点や、欠点を許容しあえるような関係になっているからなんじゃないかと、思うんだけど、小さい頃は仕方ないとして、大人になってまで、まだ親子なんだから、子供をしつけなくちゃと言わんばかりに合うたびに小言をいったり、欠点をあげつらったり、いろいろと指図したり、するような親には、いくらそだてられた恩義があっても、やっばり、逢うのはつらいなあと、最近しみじみ思います。スパイスだらけってのは、やっぱり、おいしくないです。 シュガー&スパイス~風味絶佳~@映画生活
2008年09月18日
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日曜日に久しぶりに銀座に行きました。昔は毎週のように行っていた銀座。車で通り抜けることはあるけど、じっくり行くのは久しぶりかも。今話題のクリスピークリームドーナッツを買うのが目的でした。最近出来た新しいショッピングビル「イトシア」の地下一階にあります。開店の11時に行くともうすでに行列~。並んでいると、もらえるという揚げたてのオリジナルグレーズドドーナッツ。ほんとにふわーっととろけるようです。さすが、揚げたて。でもねー。甘めちゃくちゃ甘いんだよー。まるで、砂糖の塊を食べてるみたい。もともと私はそれほど甘いもの好きじゃなかったの。で、日本のスイーツってのは、だいたい、ほんのりとした甘さですが、アメリカ本土に往くと、売っている甘いものは大体ものすごい甘さらしいですね。ハワイに行った時も売ってるケーキの外見の色のすごさに驚いたものだけど、あれは、観光地だからじゃなくて、そもそもアメリカの甘いものは、日本人の味覚には、超ハードと、言えるのでしょう。以前、アメリカに滞在している間、現地のケーキのあまりの甘さにやむを得ず、自分でケーキを作っていたという日本人の話をどこかで聞いたか、読んだかした記憶があるのですが、やっぱりほんとにアメリカのスイーツは、すごく甘いのでしょうねえ。で、このものすごい甘さのドーナッツを本当においしいという人たちがいるんですよね。なぜでも、本物の甘党の人たちはこのぐらい甘くてやっと、おいしいと、思うのかもしれません。ここのお店。外観がシンプルです。ドーナッツのパッケージも、緑を主体としたシンプルなつくり。今や子供向けでかわいいつくりになってしまったミスタードーナッツとは、その方向性は、たぶん、逆。甘党だけど、ミスドのかわいいつくりのお店で、ドーナツを買うのには、抵抗のある甘党男性にとっては、クリスピークリームは、シンプルだし、ドーナッツも全ての種類が強制的にパッキングされた、バラエティパックや、1ダースが箱に入っていて、しかも、箱買いのお客さんは、あまり並ばずにどんどん買えるシステムは、楽かもしれません。ドーナッツやさんに長い時間いないですむし、箱のデザインもシンプルなので、持ち歩いていても、恥ずかしくないかも。ミスドは、かわいいし、お店で、一つづつ指定しないとならないと、いっぱい買うのは辛いかも。これはもう、甘党の男性には、買いやすいし、一度にたくさん買うのも恥ずかしくない。そういう、経営戦略なのでしょうか。ドーナッツの箱をもってる男性を何人も見かけたけど、この箱だと、かっこいく見えるのだ。それにものすごーく甘いから、甘党の人でも、満足度は高く、一個たべただけで、かなりの満足感。ものすごく甘いので、日持ちもよさそうです。ただ、外国からはいってきたもののほとんどが日本国内で、日本人好みの味付けや量に変化していくものの多い中で、アメリカの本場のドーナッツのスタイルをどこまで維持できるか。見ものです。で、たいして甘党でもない我が家は、話の種と、好奇心で一度だけは買ったけど、またわざわざ買いに行く気にはなれないし。どうなるのかな。クリスピークリーム。 緑と白のシンプルにデザイン。アメリカっぽーい。気がする。 箱のデザインもシンプル。男の人が持っても、さまになるのだ。 二箱、24個も買っちっゃて、誰が食べるのよ。タラーリ。 箱買いすると、サービスで二個多く入ってくるので12個つまり1ダース入りのオリジナルグレーズド。クリスピーは、バラエティよりも、このオリジナルこそ買うべきなのだそうで。うーん。砂糖の塊にしか見えないよーーー。 そうは言っても、こっちの方がたべやすかったし、ジャムいりのものは、かかってる白い粉が実はすっぱい味で、意外とよかった。ジャムのフルーティな味と香りが結構しっかりしてるのです。 で、そのあと、金曜にオープンしたという、H&Mに行って見た。しかーし。ものすごい行列でした。長時間並んでまで中に入るほどの根性は、なし。写真だけとって、帰ってきました。 なにやら、スウェーデンの格安服飾メーカーらしいですね。日本で言う、ユニクロ。イギリスのマークスアンドスペンサー。イタリアのベネトン。みたいなものかなあ。でも、格安店なのに、銀座に有るって言うのも…。最近の銀座は、ユニクロやマツモトキヨシ、ドトールのような格安メーカーのお店と、エルメス、シャネル、アルマーニなんかの超ブランド店の独立店舗がならんでいて、なんか銀座もかわったなーと、思います。昔の銀座とは方向性が変わってきたのかも。昔からの老舗とは違うもの。銀座はこれからどうなっていくのだろうなあ、と考えてしまいました。今までの銀座とはちがうものになっていきそう…。
2008年09月16日
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「エヴァンゲリオン」は、宗教的な表現を多用していて、人間の内面世界精神世界をあつかっているために、カルトカルチャーという見方をされて、高い評価を得ている一方で、批判も浴びてしまっているのですが、先出の『悩む力』の中でも、産業革命以降宗教が否定されてしまったために、それ以降のものは、カルトとか、エセ宗教として、それ以前のものとはべつものあつかいされてしまったりして、それでしかたなく、スピリチュアルなんて形で残っていて、なお、そういう精神的なものを人間はやっぱり必要としてしまう。のだそうで。新興宗教が突き詰めきれずに、中途半端な形でいるために最終的に殺人や自殺という形になってしまうのだけれど、やはり人は、科学だけではない心のよりどころは必要なんだろうなと、思います。 自分だけで、ものの価値を決定して、生きていくのはしんどいので、本気でそれができるのは、まだまだ、ものすごく意識の高い人か、知性の高い人か、意志の強い人に限られてしまうのかもしれませんが、「エヴァンゲリオン」もまた、そんな形で、人の心を救うための一つの形であって、その意義は、評価されていいと、思います。 自分で物を考えるということは、一般に言われるほど生易しいものではありません。だから、実際には、普通の人たちも、宗教はないけれど、テレビやマスコミや偉い先生の言ったことや、世論や、世の中の常識、みんながしているから、といったことを基本にして生きている方が多いですし。 ただ、それでもわたしは、自分で考えることをやめたくないと、思います。それこそがまさに私が私であるということ。私であり続けるということだからなのだと、思います。自我の覚醒と獲得の物語『新世紀エヴァンゲリオン』その1は、こちらです。自我の覚醒と獲得の物語『新世紀エヴァンゲリオン』その2は、こちらです。 アニメ
2008年09月12日
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物語に出てくる、ファーストインパクト、セカンドインパクト。そして、アダムの遺伝子をもつものと、リリスの遺伝子をもつものが接触することで起きるはずの、サードインパクト。 けれど、思うに、ファーストインパクトとは、物質的生命体の誕生、セカンドインパクトとは、知的生命体の誕生、そして、サードインパクトとは、精神的生命体の誕生なのではないかと、思う。 地球や、人類は、精神的生命体を生み出し、育てるためのイレモノにすぎないのではないかと、思う。環境破壊によって、地球の自然体系をこわし、環境破壊をする人類は、まるで、地球にすくう害虫のようであるけれど、もしも地球が、精神的生命体を育てるためのイレモノであるのなら。 空気と水をもつ、地球という環境は、全宇宙の中でも、生命を生み出し、はぐくむことの出来る、稀有な存在であり、そこでいくつもの生命の中から、進化をとげ、人類として誕生し、さらに他の生物がぜったいもたない知性をもった、唯一の生命。その知性は、歴史的変遷の中で、ほぼ全人類に知を行き渡らせることに成功する。それによってともなう、自我の苦しみ。けれど、それは、宗教という、暖かく居心地のよい繭をぬけだして、精神的な生命体へと、進化するための、産みの苦しみ、生まれ出づる苦しみであり、悩みであるのだと、したら。知性の進化をとげなければ、精神の進化に到達できない。 人類がやがて、精神的な生命体となって、究極の進化をするための過程であるのだとしたら。アニメオタクも、ニートもひきこもりもアニメオタクの殺人者たちもそのための、捨て駒であるのかもしれない。全ての人類は、究極の進化のための捨て駒であるかもしれない。そのための、土台であるのかもしれない。 けれど、進化した生命体が、意識を共有できるがゆえに、一つになってしまったとしたらそこに、自我は無く、個の存在、孤独ゆえの悩みも苦しみももたなければ、個は、消失してしまう。アダムからうまれた使徒たちが、アダムと、接触して、そして、消失してしまうのは、だからだととしたら、リリスの末裔である人類は、精神的な融合の後もなお、個であろうとし、そして、個であるゆえの痛みも悩みももちつつ、なお、他者が存在するゆえにこそ、自分が自分でいることを望み、そして、精神的な生命体となってもなお、孤独の痛みを伴いながらも、考えること、悩むこと、知性を持ち続ける生命体というものに変化しうる、リリスの遺伝子。闇と悪の要素をもったリリンの遺伝子。 光からできている使徒とアダム。闇から出来ているリリスと人類。正の数と負の数を足すと、ゼロになってしまうように、アダムとリリスが接触することで、全てが消失してしまうのか。 同じように、大人になることの出来ない少年たちを描き出した、『スカイクロラ』の製作者、押井守は、アニメは、サブカルチャーであり、若者たちへの教育も指導も本来メインカルチャーの仕事であると、言っている。けれど。今メインカルチャーとして認識されている小説だって、もとは、サブカルチャーの扱いであり、ただの、娯楽ものだったのだ。文字だけの表現方法である小説から、言葉、絵、音楽までも駆使して語るアニメーションという方法が、やがて、時代とともに、メインカルチャーへと、進化していくかもしれない。 知を獲得しながらも、本を読まない、今の若者たちへの、新しい時代新世紀のあらたなる福音書であるのがまさに、「新世紀エヴァンゲリオン」であるのだと、思う。 ロボット大戦アニメの形をまとって、実は、現代の若者たちへの、哲学の書、自我の覚醒と、獲得をその方法論を、ときあかしているのが、まさに「エヴァンゲリオン」なのだと、思う。 製作者廣野秀明氏は、そもそも、この作品の製作の初期においては、大体のすじと、数回分の話しか考えていなかったのだそうだ。自分自身の悩み、戸惑い、人生への自分への謎をそのままに写しだし、作り上げていった作品は、だから、廣野氏の、心の変化そのままに、物語は、進化していく。 とりあえず、ロボット大戦の形式を残したままの、最後の使徒を倒した24回目からあとの、25、26回目は登場人物たちの心理描写へと、姿を変え、見る側には不可解極まりない。けれど、製作者が一番作りたかったのは、この、25、26話こそであり、そこまでの物語は、そのための前哨戦、複線、準備段階、土台作りなのであろう。けれど、予算不足と、時間不足、熟しきらないままの煮詰まらないテーマのままのテレビ放送分は、物語を未解決で、謎のままに終らせてしまっている。その後作り直された、25話『AIR』、26話『まごころを君に』によって、やっと、物語にちりばめられた謎は、明かされていく。それでも、直、多くの謎を残しつつ、未完成でありながら、多くの高い評価をえて、そして、まだまだ、未完のまま、さらに、自我の追求の物語は、新しい形で、新しい映画となって、今年もまた、製作され、上映され、続きのシリーズを待つところとなっている。けれどこの作品が製作者の心の変化の投射であるのなら、製作者の死なない限り永遠に終ることのない、『終りのない物語で』あり、私たちの自我、アイデンティティへの問いかけも謎もまだまだ終らない。人類が、精神的生命体へと、進化するまでの道のりは、まだまだ遠く、果てしない痛みをともなって、世代の交代とともに、少しづつ、進化していくのだろうか。 ここまでなんとか、自力で書いてみたけれど、このアニメをみて、ほどなく、たまたま買った『悩む力』という本は、まるで、「エヴァンゲリオン」の解説書そのものであるかのようなのだ。この本を読んでいると、エヴァの中で、なぜ、シンジやアスカが苦しみ、悩み、叫んでいるのか。物語の一つ一つの表現の意味するものがなんなのかを、解説してあるような、本だった。 エヴァンゲリオンは、すばらしい映画ではあるけれど、こういう哲学入門の読みやすい本くらいなら、読めると思うから、アニメだけでなく、どうか、本も読んで欲しい。言葉でなければ表現できないものもあるのだ。悩みを知り、悩みを他者と共有しつつ、悩みを突き抜けて、進化して欲しいと思う。のだ。 そのきっかけとしての「エヴァンゲリオン」なのだと、思う。知を獲得することで、宗教という心の繭を失った人類への、新しく与えられた福音書(←「エヴァンゲリオン」という単語の本当の意味)なのです。 リリスの遺伝子から進化した人類のように、人類によって、覚醒させられたアダムの遺伝子もまた、使徒となって、順を追ってものすごいスピードで進化していく。アダムの使徒たちは、ドレも個体であり、唯一の多体使途であるのが人類なのだ。個であるゆえに悩みをもたず、知性をもたなかったアダムの使徒はその進化の過程で人類と接触し、人類から、知性を学び取る。知性を得た使徒はさらに進化して、最終形態としての、知性をもった生命になった結果、人の形をとるカヲルになる。しかし、一見、人の形はしていても、使途であるカヲルは、個体なのである。人類のように他の個体を持たない。唯一の個体の知的生命体であり、アダムの末裔である第17使徒カヲルは、人類、シンジとの接触によって初めて、他の存在に出会うことができる。「君にあえてよかった。ボクは君に会うために生まれたんだ。僕と君が出会うことは運命だったんだ。」と、カヲルは、言う。 個体であるゆえに、孤独を知りえず、自我の認識すらなかったアダムの使徒たちは、最後に始めて、個ゆえの孤独を認識し、自我を持つゆえの悩みを知り、知の世界に目覚める。 精神生命体が、精神だけで出来ているゆえに、一つのものであることが、孤独の寂しさをうしない、自我への問いかけを失うことで知性を失ってしまうのだとしたら。知性を失い、迷い考えることのなくなった生命体にその先の進化はない。 この物語の過程として、なぜ、地球にアダムと、リリスの遺伝子を月という形のものに乗せて落としたのは誰なのか、それは、どこか遠い星に住む、人類よりずっと進化した知的生命体なのではないかというものがある。それを人は神と呼ぶ。その生命体は進化を遂げて、精神的生命体にまでなった。けれど、精神的生命体となった時、全ての精神は融合し、個となったことで、知性を失い、進化を止めてしまった。個になったままでは、その先の進化が出来ないのだとしたら、精神的生命体となってもなお、自他を認識できる集合体の形を残したままの精神的生命体でなければならない。それこそが、神が地球に送ったリリスに与えられた使命(テーゼ)なのかもしれない。 天使というのは、人の体に羽が生えたもの。つまり人類の進化した姿のはず。物質である人間は、地球の引力にとらわれているけれど、肉体をはなれ精神だけの生命になった時、地球の引力からはなれ、宇宙空間にまで、飛び立てるものになる。それがまさに天使なのだとしたら。 生命はつねに進化していくもの。生命にあたえられた、命題、つまりテーゼそのもの。神が人にかしたテーゼ。羽を生やし、天使となって、そしてその先もなお、進化すること。神が進めなかったその先へ。 だからやはり、テーマ曲の中で、歌われる「その背中には、はるか未来目指すための羽があること。残酷な天使のテーゼ。窓辺からやがて飛び立つ。」と、歌われているのだ。進化は痛みを伴う残酷なものかもしれない。 そう考える時、なぜ、リリスの月が日本にあったのかわかろうというもの。キリスト教など世界の多くの宗教が唯一神、個体である中で、日本の地の宗教は、自然そのものを神とする多神教なのだから。 精神的進化を遂げて、神となっても直、多体でありつづける命。なのが、日本であり、地球であったのだとしたら。 精神生命体のその進化の先ってどんな生命体なんだろう。うーん。ぜんぜんもう、想像つかない。自我の覚醒と獲得の物語『新世紀エヴァンゲリオン』その3に続きます。
2008年09月12日
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すごいらしいと、評判だけは聞いていたけど、今回、ネットで初めてそれもいきなり全編通して、数日かけてみたのですが。すごかった。なるほど、評判だけのことはあります。 いままでのロボット大戦系のものとは「一線を画す」というより、全く別物。現代人の悩みや迷い、そして、その先へ。 『マジンガーZ』に始まる、少年がロボットにのって、怪物をやっつけるという、一連のロボット系アニメものの流れをくむ作品のようでいて、いざ、観てみると、全く違う別物であり、そして、哲学的にものすごく深いテーマの物語であり、ロボットアニメの形を借りた、現代の少年少女たちへの人生の悩みの深遠に問いかける物語なのだ。 ロボットにのって、敵をやっつける従来の勧善懲悪、正義はただしいという、『マジンガーZ』などからはじまった、宇宙からの侵略者と戦うといったロボット大戦アニメは、『機動戦士ガンダム』では、独立を願うスペースコロニーと、地球連邦との独立戦争を描く未来社会の人類同士の戦いの物語になる。『ガンダム』では、もう、ロボットではなく、モビルスーツとなる。そして、『新世紀エヴァンゲリオン』においては、主人公碇シンジの乗るエヴァンゲリオンは、ロボットですらない。エヴァンゲリオンは、実は、生きている。生物なのだ。外見がロボットにみえるのは、装甲版をつけているから。生き物に乗って操縦して戦うなんて、今までのロボット大戦ものからすると、どう解釈するんだろうと思うけれど、今まで乗っていたロボットが自動車なら、生きているエヴァンゲリオンは、さながら、馬だろうか。戦車や飛行機にのっての戦争が、馬に乗った騎士の戦いになったようなものか。生き物がロボットのように装甲版をつけている姿も、人が鎧兜をつけていると、考えると、納得できる。(ほんとはコレは、装甲版ですらなくて、エヴァンゲリオンが勝手に動き出すのを抑制すための拘束具なのである。まあ、孫悟空の頭のわっかとおなじですね。) そして、いままでは、宇宙からの侵略者をやっつける、戦闘の爽快感だけが描かれていたロボットものとはちがって、『エヴァンゲリオン』では、中に乗っている操縦者もまた、エヴァが、傷を負うと、それにともなって、痛みを感じるのだ。 戦いによる爽快感だけを描いた、ロボットアニメ。戦車や飛行機や、宇宙船に乗って、機械で相手をやっつけても、目の前で人は死なないし、痛みを感じることもない。けれど、エヴァは、痛みを感じるものなのだ。 戦うことが痛みを感じるものだと、それを描いてあるのだ。 そして、エヴァは、生き物なので、シンクロしないと、動かすことが出来ない。馬に乗る騎士が人馬一体となって、気持ちをあわせなければ、よい騎乗ができないように、エバは、操縦管の操作だけでは、動かすことが出来ない。それは、人と人が心を通わせなければ、気持ちが通じないのと、同じだ。 そして、この物語には、キリスト教世界の言葉が多様に使われている。アダム。エヴァ。使徒。エンジェル。リリス。リリン。死海文書。ロンギヌスの槍。 エヴァンが戦うのは、使途だけれど、これは、どうも、いままでのような、宇宙からの侵略者とは、違うらしい。 キリスト教でいわれる、12使徒。これがこの物語では、全部で18の使徒が出てくる。キリスト教の使いである使徒とたたかうエヴアンゲリオンの物語は、だから、人類とキリスト教、宗教との戦いの物語なのだ。 地球に落とされた二つの進化の遺伝子、アダムと、リリス。本来正当な地球の継承者であったはずのアダムの遺伝子から生まれる使徒たち。けれど、実は、人類は、もう一つの遺伝子リリスから生まれた、リリンの末裔だったのだ。夫であるはずのアダムのもとを離れ、悪魔との間にリリンを生んだリリスのように、現代の人類は、知恵の木の実のりんごによって、知を獲得した代償に、宗教を捨てなければならなかった。それこそがまさに、リリンの末裔のゆえんなのである。 宗教を捨てた現代社会の人類は、それゆえに、心のよりどころをもたず、孤独に苦しめられる道を選ぶことになった。今まさに、現代の少年少女あるいは、現代人のほとんど全てが、自我、自分とはなんなのか、なぜ生まれてきたのか、なんのために、生きているのかという、自我との心の葛藤、戦いの中にある。それゆえに苦しみ、他者との関係性をうまくきづけずに悩む。 かつて、知識人は、その悩みを数々の哲学書や、知友とのディスカッションを通して、自らの内側への、深い洞察、思考、内省によって、解き明かそうとしたのだ。けれど、今の若い人たちは、本を読んだり、他人と討論したりしないし、哲学が何かすらしらない。それゆえに今自分が何に悩んでいて、なぜ、苦しいのかが分からない。 かつては社会の上層のごく一部のものであった知の世界は、産業革命以降の科学の発展によって、ほぼ全ての普通の人々にまで普及し、それは、宗教のような非科学的なものを否定することになった。宗教をもたない現代人は、自分の中の自我をうまく処理できない。自分はなにものなのか、なぜ生きているのかを、かつて宗教が全て与えてくれたその答えを、現代人は、すべて自分で、導き出さなければならなくなった。けれど、現代の若者たちは、その悩みの正体を知らない。宗教による、答え、価値の決定は、とても、楽で、居心地のいいものだけれど、私は、それを良しとしない。自我とはなんなのか。その応えは、やはり自分で悩み自分で答を出すべきものなのだ。 けれど、そのこと自体を知らない今の若者たちは、あるいは、引きこもり、ひどい場合は、凶悪な殺人へと、進んでいってしまう。 自我を認識する上で、他者との関係性は、その意味が大きい。他人から見た自分が自分なのか。他人に認められることで自分を認識したいのか。シンジは、エヴァに乗って、使徒を倒すことで評価される。そうすることで自分を認識できるのか。自分の存在意義を獲得し、生きる意味をもとめることができるのか。他人とうまく関われない。どうすれば、他人との意志の疎通が出来るのか。心を通わせることができるのか。他人と関われない孤独、自分一人である孤独から、逃れるにはどうすればいいのか。心の壁を全て取り払えば、人と交われるのだろうか。エヴァンゲリオンで、使徒が攻撃を防御するためのシールドは、ATフィールドと呼ばれ、そのATフィールドをやぶらないと、使徒を倒すことは出来ない。そして、そのフィールドをやぶるのには、やはり、アダムとおなじタイプの生命体リリスからとりだされたものでつくられた、「エヴァンゲリオン」だけが、作ることができるのだ。そのATフィールドによって、使徒のATフィールドをつきぬけて、使徒を倒せるのだけれど。 ATフィールドが、心の壁であるとして、自分の壁と相手の壁を取り外して、接触することの痛み。それを乗り越えてそして、他者の心と接触すること。エヴァと、パイロットたち、シンジ、綾波レイ、アスカ・ラングレーたちが、シンクロしないと、エヴァを動かせないように、人と人が心を通じ合わせてシンクロしないと、ならない。 けれど、それでは、人と人が交わって、全ての人がつながって、ひとつになれば、もう、孤独ではないのだろうか。孤独の痛みも、自我の悩みも消えるのだろうか。けれど、全ての人がつながって、ひとつになったら、それはもう、一つのもの。一人の自分。だからもう、そこに他人はいない。他人のいない場所には、自分という、認識すらない。自分という固体の確認は、他人との境界線によって、初めて、認識される。『エヴァンゲリオン』が描こうとしているのは、まさにこの部分。 宗教を捨てた人類、リリンの末裔は、だから、全ての価値を自分で判断し、決定しなければならない。今まで全て、宗教が、神が、あるいは、教祖様が決めてくれたことを、自分で決めるということは、自分自身が、宗教になること、自分自身が、教祖になること、神になることなのだ。だから、リメイク版の最終話において、エヴゥにのった主人公碇シンジは、十字架にはりつけたられたキリストのように、十字架のように、使徒たちによって、空にあげられていく。シンジ自身が、神であり、宗教になったのだから。そう考える時、テレビアニメ版の主題歌のラストの歌詞、「少年よ、神話になれ。」という、表現はああ、こういうことだったのだなと、納得できる。 この歌詞自体は、作詞者は、内容をあまりしらない、アニメを見たこともない段階で作らされたという。けれど、たぶん、最初の段階で、うたの中にいれるワードをいくつか指定されたか、あるいは、だいたいの物語の概要、あるいはテーマが製作者から語られているのだろうとおもう。それらの情報から、ここまで「エヴァンゲリオン」の終極のテーマにあう歌がつくられているのは、すごいとしか、いいようがないと、思う。 物語に出てくるATフィールドを破ることの出来る唯一の武器ロンギヌスの槍は、もともとは、十字架に磔になったキリストが本当に絶命しているか確認するために、当時のローマ兵が、キリストの体をさした槍なのだそうだ。心の壁を破る武器とは、ではいったい、なんなのだろう。けれど、それは、槍だ。痛みをともなうものなのだ。自我の覚醒と獲得の物語『新世紀エヴァンゲリオン』その2に続きます。 アニメ
2008年09月12日
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もともとは大好きだったはずのピアノ。けれど、父の死と、母からの強制によって、迷いの中に入り込んでしまったうたは、どうして、自分がピアノを弾くのかわからない。 自分は本当に、ピアノが好きだったのか。なんで、自分はピアノを弾かなくちゃならないのか。 まわりから、どんどん特別扱いされる中で、どんどん違和感が大きくなっていくうた。 けれど、耳の病気にきずいた時、やっぱりピアノが好きなんだと、うたは思う。 ピアノが弾けないなら死んだ方がいいと思うほどの絶望。それでも、自分を創っているのは、音楽なんだと、うたは思う。自分を生かしているのも、自分をつくりあげているのも、音楽なんだから、生きることと、ピアノを弾くことは一緒なんだと。 音楽が苦手な私にも、周りをひきつけるほどのうたの演奏の良さや、ピアノごとの音の違い、うたの演奏の魅力を体感できた感じです。 でも、コンサート会場とか、ちゃっちい。コンクールもでてないうたがいきなり、オーケストラと、競演ていうのも、楽譜もみないで、演奏するあたりも、ちっょとうそくさい。そのあたりが残念。 エル役ですっかり有名になった松山けんいちが普通の若者を演じていて、ちょっとおもしろい。 成海璃子って、かわいいというより、美人。子供なのに、すでに美人。顔の造作の全てがでかい。大人になったら、どんな女性になるんだろう。 神童@映画生活
2008年09月11日
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夕べの『第28回全国高等学校クイズ選手権』は、おもしろかった。日本の超有名難関高校がめじろおし。いつもは、体力勝負とか、運勝負でふりわけられちゃうのに、今年は知能、知識クイズオンリーの戦いなので、当然有名進学校が残っている。 そのなかでも、灘高校の子が一人、なかなかのハンサムで、すっごーくかわいかった。顔もよかったけど、そのキャラクターが持っているよさというか、ちっょとしたしぐさとかが、すごくいいのだ。なんかほんとに育ちのよさがにじみ出ている感じ。普通に町をあるいていたら、絶対灘高の生徒なんて信じてもらえないのではないのかなと。 あんな子のおかあさんは、どんな人なんだろう。どんな育て方をすると、ああいう全人的な子が育つのだろう。彼に悩みとか、あるんだろうか。聞いてみたいよう。そして、うちの子育ての参考にしたい。 「開成と灘。どっちが日本一の高校だと思いますか。」という問に一瞬とまどって、「えーっと、………灘です!」と、答えるところがすごーとかわいくて、娘と二人で、盛り上がっていた。テレビ局もかれのアップをいっぱい入れていたような。この質問に対して、どんな答が要求されているのか、この場合どんな答がベストなのか、を一瞬で考えて、ぱっと、答えるあたりの空気をよめる能力とか、思考力の抜群の鋭さとかを感じた。社会の第一線で活躍するには、ペーパーだけじゃなくて、こういう瞬時の判断力がものを言うのだろうな。 ほとんど難関校ばかりで、とくに、灘、開成、早稲田、慶應、東海あたりがみどころみたいに、そのあたりの部分ばかりが放映されていたので、他の学校の印象がみおわってみると、ぜんぜんなくて、他の学校もがんばっていたのだろうになあと、ちっょと複雑。 進学校とか、頭のいい子っていうと、一般には、勉強ばかりできて、性格悪そうとか、勉強以外なんにもできないとか、そんなイメージがあるけど、でも、いろんな日本中の高校生たちが、こんなに真摯に一生懸命学ぶことに向かい合っているんだよという、そういう部分が伝わってきて、よかった。 自分の知性を磨くことにこんなに懸命な少年たちが日本にはこんなにいて、日々がんばっていて、その姿をこんなふうにダイレクトにみられる番組もめずらしいです。学ぶことに真摯であることが、素敵でさわやかで感動的なものなんだと。 いつもの知識量だけのクイズじゃなくて、数学力思考力まで問われるクイズ番組はめずらしかったので、どの問題もむちゃくちゃむずかしくて、東大の教授とか、ピーターフランクルさんとかまで出てきて、ほんとーにおもしろかった♪ 答える側も、問題を全部聞くまでに、答えていて、その答が、どうして、問題文ここまでしかきいてないのに、わかるの?というところが、もーすごすぎ!「たまごの粒が」というだけで、答が「キャビア」って、すごすきだよーーーー。 番組ホームページで、出されたクイズとか、アップしてほしいですねーーーーーー。
2008年09月06日
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最近私はいらないサービスは断ることにしてます。日本てつくづくサービス過剰の国ですよね。 旅行とかに行って、観光地で入場料、閲覧料を払って、チケットをもらうと、必ずついてくる、案内パンフレット。家族四人だと、四枚くれるんだけど、家族なら、一枚で十分だと、思うわけです。四人でまわし読みすればいいんだし、実際のところ、他の家族は読むことすらないし。で、最近は、一枚だけうけとって、あとは、お断りしてます。もらって、もって帰っても、ゴミになるだけだもの。そのゴミをまとめて集めて、ゴミとして出す手間が増えるだけだもの。 他にも、昔マクドナルドで、お子様セットについてくるおもちゃを断ったことがあります。ディズニーだか、なんだかのキャラクターフィギィアだったと思うんだけど、うちの子別にディズニーのファンでもないし、ほんとにぜんぜん喜ばないのですよね。それで、「いらないです」っていったら、相手の店員さんが、「えっ?」と、いう感じで、「本当にいらないですか」と、食い下がってくるんですよね。向こうは向こうで、渡さないと自分の仕事が成り立たないのでしょうねえ。ミス扱いされちゃうのかもね。でも、いらないものはいらないので、ほんとにいらないですと、きっちり断ったことがあります。おもちゃイコール絶対子供は喜ぶなんていう図式はもう、今の時代には通用しないですね。 子供づれでレストランにはいると、よく、サービスでおもちゃくれるところ多いのですが、あれも、ちっょと遊ぶとすぐ飽きて、やっぱり、捨てるしかなかったりする。 さらに他にも、本屋さんで、本を買うと、カバーつけてくるというのも、毎回毎回お断りしてるわけですね。わたしは、本にカバーつけて読むなんてじゃまくさいからいやです。本なんて大事なのは、中身なので、表紙が汚れようが、ぼろぼになろうが、別にいいし。だいたいは、さっさと読み終わって次に行くし、読んでる本がなんなのか、他人に知られるのは嫌なんて思うほど、自意識過剰でもないし。積読をする場合、カバーついてると、どの本かわからないし。 未だにどこの本屋も、カバーつけるのは、当たり前って感じですね。 今ちまたでは、レジぶくろなくそう運動が盛んなのに、それ以外の過剰サービスについては、ほとんど、言われてないのも、不思議な話です。でも、レジ袋は、ゴミ袋として大概の家庭では、再利用されてるんだから、レジ袋をなくす必要があるとは思えないんだけど。ああいうのは、たぶん、家のことには無関心な男か、独身の男がおもいつく発想なのではないのでしょうか。 そういえば、プールや、テニスコートやいろんな設備の有る巨大ホテルなんていうのも、テニスのやらない私にすれば、過剰サービスだよね。テニスしなくて、プールにはいらないのなら、そういう設備の有るホテルに泊まるのは、無駄だな。だって、それらの施設の維持管理費はぜったい宿泊料の中に入ってるはず。使わないのに、そういうのとられるんだよね。いくら、テニスコート使う人が別料金で使用料払ってるとしても。 で、そういう施設のないホテルとか、旅館に泊まるほうが無駄はないだろうなと。 いろいろ考えるときっと、そういういらないサービスは、日本の中にはいろいろあるんですよね。アイスのスプーンとか、弁当買った時の箸とかは、やっぱりお断りしてます。でも、納豆についてるたれは、中に入ってるので、拒否できない。あのたれは、量が少なすぎて、結局しょうゆたさないとならないし、でも、ねとねとしててちいさくて、ゴミとしてかたづけるのも、毎回面倒です。生協だと、たれなし納豆もあるのですが、本当に過剰サービスすぎる。 日本は「さっしの文化」の国なので、相手が要求しなくても、お客様のニーズを考えて、いろいろメーカーは、工夫してるのかもしれないけど、なーんか「お子様あつかい」されてる気分である。そのわりに、本当にしてほしいサービスは、なかなかないんだよね。というか、サービスを毎回断る手間が、いいかげん面倒である。その面倒くさいという心理をこそ察して欲しいものである。 そういえば、ガソリンスタンドで毎回聞かれる灰皿も、そうです。我が家は完全にタバコ吸わないのに、スタンドで、毎回「灰皿」を要求されて、断るのも、面倒です。昔、日本の鉄道は案内の車内放送が過剰すぎだと、外国に指摘されたこともあったけど、そのころから、あいかわらず、ちっとも変わらないんだわ。 いやもうホントに、サービス過剰すぎ。
2008年09月05日
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我が家は家族四人のうち三人までが喘息です。認定を受けて、私と息子と娘が現在服薬治療中でーす。毎日せっせとせっせとせっせとお薬飲んでるけど、ぜんぜん直んないで、未だに喘息です。もっとも、薬さえ飲んでいれば、なーんにも困らないのですが。困るのは、娘が将来結婚して妊娠した時ですね。きっと。うちのかかってる先生はどうも、新薬が好きらしい。しょっちゅうぽんぽんと、薬が変わるような気がする。ずーっと吸入していた、フルタイドと、セレベントは、先日いきなり、アドエアなる新しい吸入薬に変えられました。またかーと、思う。これなら、二つ両方を一度でできるからね。だって。確かに、ディスクの交換はないし、使い勝手は、結構いいのですが、なんか、いまいち、効き目が悪いような気がする。できれば、元に戻してくれないかなあ。なんか苦しいといったら、いきなり、アドエア100だったのが、アドエア500だされました。効果は?かわらん。てか、増えたのかどうか、よくわからない。ちなみに、薬の数字は、薬の量を表しています。数字が大きいほど、見た目はかわらなくても、量が多いので。ま、色がちがってくるのだけどね。で、そのだされたアドエア500は、回数が少なかったので、すぐに吸い終わった。これ、中身どうなってるのだろう。というわけで、分解してみた。今までの、吸入薬とはくらべようもなく、複雑なつくり。機械ってこんな風に進化して、複雑になっていくのですね。 すごい歯車だらけで、複雑なつくりなのですよね。解体するのも大変でした。楽しかったけど。で、肝心の薬の部分は、ものすごくちっちゃくて、マッチ棒の頭の先くらい。いままで、二個だったのが、一個にされて、さらにこの量。よっぽど、気合をいれて、きちんと、吸わないと、粉なので、チャンと気管支まで届かないのではないんじゃないかと、思われます。どうりで、効かないわけだ。と、そんな気がする。うーん。次回もコレが出されるのかな。そういえば、「ポララミン」も、効かなかった気がするのよね。で、このアドエア。いままでのは、薬のディスクだけを入れ替えてたのに、これは、吸い終わったら、ケースごと全部破棄。なにしろ、本体が複雑なので、入れ替えできない。はっきりいって、いままでより、よっぽどゴミが増えます。ふつうは、いちいち解体なんてやらないで、捨てちゃうだけだものね。それに、二種類に分かれてるときは、どっちかだけを増やしたりもできたけど、アドエアは、そういう微調整がしずらそう。どうなのでしょうねー。祥伝社黄金文庫 Gき12−1ぜんそくは自分で治せる/久徳重和【後払いOK】【2500円以上送料無料】価格:720円(税込、送料別)
2008年09月04日
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なかなか面白かったです。『スター・ウォーズ』は、世界観がすごくしっかり出来ていて、しかも、面白いので、こういう風に、番外編や外伝がいろいろ作流ことの出来るシリーズだと思う。これからも、できればいろいろ作って欲しい。本編だけで終わりにするには、もったいなさすぎる。もともとの本編は、実写版だけれど、実際のところ、背景や、飛行船など、人物以外のほとんどがCGだったので、このCGアニメ版をみても、ほぼ違和感がない。実際の俳優を使うと、ぐずぐずしてる間に俳優が年取ってしまうけど、アニメは年をとらないので、いつまでも、のんびり作っていられていいかもしれない。 本編の『スター・ウォーズ』は最初全9話だと、聞いていたのに、結局全6話で完結になってしまって、本当のところ残念。技術的に無理ということで、前三作からは、時間も空いていたし。CGのおかげで、最初の三話が近年になって作られたけれど、CGでここまでつくれるならもう、実写にこだわる必要すらないのかもしれない。時代的にももう、昔ほどSFとか、宇宙大戦なんてもてはやされないし、つくった初期とは時代背景もかわってしまって、ソ連は、なくなっちっゃたしで、違和感があって、作りずらくなってしまったのかもしれない。アメリカの戦争好きは非難される一方だし。こうなると、そもそもの『スター・ウォーズ』シリーズのテーマ自体が、陳腐になってしまっているのかもしれない。でも、今回のクローズウォーズは、面白かったし、ラストは続きの作れそうな終わりかただし。パート2ができたら、また面白そうだ。それに、このクローンをネタにしている部分が、逆に外伝でありながら、今にあっているテーマだと思う。このお話のテーマ自体は、師弟関係だったようだけれど。成長したアナキン・スカイウォーカーが、師匠のオビワン・ケノビから離れて、新しいパドワン・アソーカの師匠になると言うところから始まる。師としては、まだまだ初心者のアナキン・スカイウォーカーと、弟子としては、やっぱり初心者のパドワン・アソーカの二人がいろいろもめていて、その一方で師弟同士信頼関係ができあがっている、ケノビとスカイウォーカーの、「あの人なら大丈夫。きっとやり遂げているはずだ」という、言葉が、、別々の場所で発せられているところが、すばらしかった。そしてそんな、ケノビとスカイウォーカーだって、本編のエピソード2のあたりではたしか、やりあっていたと、思う。ケノビとスカイウォーカーの場合は、このお話ではいきなりもう出来上がっちゃってますが、このシリーズが続けば、アナキンと、アソーカの師弟関係、信頼関係がとのようにして出来上がっていくものなのかを、描いてくれるのではないかと、思います。本編が親子関係、自分の中の善と悪の葛藤であったので、この新シリーズでは、人間と人間つまり、他人同士の信頼関係はどのようにして出来上がっていくものなのかが、テーマだと、思えます。宇宙をバックに、今はない深い師弟関係と、修行。東洋的な衣装や建物や思想があって、楽しい映画です。 ヨーダって面白くて素敵なキャラなのに、いつも脇役チョイ役ばっかり。ヨーダを主人公にした話も見たいです。 スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ@映画生活
2008年09月03日
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片付け本を読んでみた。でも、特に目新しいことは書いてない。というより、何でこんなこともしらないの?と、思う。つまり、ここに書いてあることは、既に私は知っていて、実践してるのだ。じゃあどうして、知っているかというと、結婚した時家事の本や、家の管理の本を何冊か読んだその中に既に書いてあったからだ。既にその手の本に書いてあるのに、何でいまさらなのか。今は、情報化社会とかいわれて、情報、情報といわれるわりに、実際には、その情報を自分の中に取り入れて活用していないのだと、思う。 わたしは、自分がその本を読んで、整理整頓収納の基本は一応覚えた。それでそれは、生活の中で、ある程度活用してきた。本を読んで情報を入手してという行為は忘れてしまったけれど、読んだ情報と、知識は、チャンと覚えていて、意識的にか、無意識的にかで、チャンと活用してきていたのだと、思う。 いくら情報と接触する方法ほいろいろ考えても、それをきちんと理解して自分の中に取り入れて活用できなければ、何の意味もないだうと、思う。 著者が一人暮らしなのに、何でこんなに散らかせるのか。片付ける、暮らしの基本自体が今はしつけられていないのだろう。私の親もそのあたりは、ぜんぜんしつけてくれていない。それでもわたしは、疑問点は全部本で情報収集して、解決するという習性だけはあるので、いろんな事態にであっても、全部そうしてクリアしてるわけだけど。もちろん、クリアできないこともあるんだけど。情報化社会といいながら、情報をどう取り入れるのかは、あんまり、理解されていない。それが今の時代なのかも。ということは、情報化時代はまだまだ発展途上なんだ。 片づけが雑誌などで特集されている場合には、それは一つの、話のネタであり、ファッションでしかない。著者はそういう雑誌などの表面的な情報だけで、片づけをしようとしてなんども、失敗している。一冊の本として、書かれている場合、かなり論理的にプロフェショナるに書いてあるけれど、雑誌やテレビのワイドショーの場合は、表面的で浅い。それをみたイメージで形だけでやると、片付けは浸透しない。まず、収納家具を買って、そこに入れれば片付くという幻想。それで、収納家具を買っても片付かないという現実。主婦であれば、まず、こんなにどんどんものは買えないので、そのあたりが先ず根底で違うのだけれど。まず、ものを不用意に買いすぎる。それから、片付けには、時間がかなり必要だということの認識が無い。家のメンテナンスというのは、かなり時間がいるものだ。だからこそ、この国には、専業主婦という人たちがいるのだし、主婦という言葉があるのだろう。片付けるには、収納家具を買っただけでは片付かない。片付けには時間が要る。気力がいる。頭を使う必要がある。方法論を理解して工夫する必要がある。良く使うものは、すぐ手の届くところに。あまり使わないものは、高いところや奥の方にしまう。物を増やさない。 そもそもそういうことを理解すること自体にかなりの時間が必要だってことだ。ちなみに、こんなこと書いてるからには、私の家はさぞや整理されてきれいかと、言うと、そんなにきれいじゃないです。適度にものは、散らかっています。それは、家の中が見た目きれいであることが大事なんじゃなくても、住んでる人間が快適かどうかが大事なことだから。それと、家族四人で住んでいれば、私の意識とは別に、家族がちらかしてくれるので、そのあたりはもどうにもならん。ちなみにこの人、前作であるこの本で話題になってるわけですが、こんな本もだしてるんですね。あれ?なんなの?だ?
2008年09月02日
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長男がビジネスコンテストに行ったので、この一週間、家にいなかった。五月蝿い奴がいないと、こんなにさわやかなのかと、スッキリ。女の子一人だけの家庭ってこんなに 楽 なんですね。女の子は言えばとりあえず片付けるし、お腹がすけば自分でご飯作って食べたりもするし。気楽だ。男の子は、生活力が無いから、ほっぽっとくと死にかねないもの。だいたい、なにしろ男の子って存在自体が威張ってるものね。 でも、ここにきて私の周りには、いつも一匹の虫、たぶん、蚊かなにか、が、たかっていてぶんぶん五月蝿い。 いつもは、虫が五月蝿いといって、ぶつぶついう息子が神経質でうるさいやつだなあと、思っていたんだけど、そうか、息子がいれば、息子のところに虫が集中していたんだわ。若い男の子って、エネルギッシュで、おいしいものね。で、その息子がいないので、そのぶん、私のところにくるらしい。神経質でうるさいやつだなあと、思っていたけど゛、そうか、あいつが、虫役を引き受けてくれていたんだ。 息子のいない静かで部屋のちらからない、快適な生活もよかったけど、そろそろ飽きてきたし。もう、今日帰ってくるはず。そろそろいい加減、息子が恋しくなってきたかもしれない。早く帰ってこないかなあ。虫役やーい。 なにせ、虫役の彼のために我が家では、息子のところだけ、一人用の蚊帳がつってあるのだ。 でも、帰ってきたら、やっぱり、うるさくて邪魔でうっとおしいんだろうなあ。
2008年08月31日
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えーと、ネタバレしてます。ネタバレすると、この本は読む面白さが激減すると思われますので、以下、読む気はないからネタバレしてもいいという人と、もう読んだからという人だけ読んでください。 文庫本の後ろには、名作『白夜行』の興奮がよみがえる傑作長編と書いてあるし、本編を読めば、どうやら、ヒロインは、『白夜行』の雪穂と同じ人物らしいと、想像できる。あとがきでは、『白夜行』の第二部とも書いてもある。 しかし、この本を読んでみて、私としては、この作品は『白夜行』の 書き直し だと、思う。 『白夜行』では、かなり伏せられていた、多くの事件の詳細や二人の男女の関係性が、幻夜では、かなり詳しく書き出されている。「白夜行」で、19年がかりの話だったけれど、この『幻夜』では、五年くらいの間の話になっている。『白夜行』では、かなり挙げられていた社会的事象も、『幻夜』はサリン事件くらいだ。 たぶん作者は、前回あまりにも、トリックを駆使しすぎて、名作ではあるけれど、懲りすぎて作者の意図が伝わりきらず、よみこめないつくりにしすぎたかもしれないことを考えて、『幻夜』では、主人公雅也と、ヒロイン美冬の二人の最初の出会いから、その後の関係性、までをかなり明確に書き出しているし、二人でおこなった事件も、かなり克明に描き出している。 『白夜行』は、トリックすぎてわかりずらかったし、テレビドラマ化においては、そのテーマはあきらかに、改変され、原作では分かりづらかった部分を詳細に説明するようなものになっていた。 名作と評されながらも、けれど、作者の意図は、伝わらずに終ってしまったことが、今回の作品へと、つながっているのではないのか。 自分の正体を隠し、自分の身を守り、企業して、経済的成功をめざし、そのためには、自分の周りの男たちを使い、どんな犯罪も、殺人もいとわない冷酷で非情な美女の物語。 そういう話だけれど、作者ははたして、冷酷な魔性の美女が書きたかったのか。物語としては、見事なまでの美冬の行動にひどいと思いつつ、すごいなという面白さはある。 けれど、作者がこの物語で書き出そうとしているものは、なんだろう。 「世の中はもっと悪くなる。自分の懐をこやすことしか考えてない連中がこの国を仕切ってるんだから当然のことだ。今までは庶民が強かったからなんとかなった。だけどもうだめだ。がんばりにも限界がある。」 これは、作中の第11章、刑事の加藤が雅也のつとめていたフクタ工業の社長に会いに行ったときに社長の福田が言った言葉だ。 一人の女がこんな行動をとればそれは、犯罪であり、ひどいことだけれど、それを同じようにしていても、それが企業であれば、どこかで許されてしまう。 底辺にいる人間がどんなにがんばっても成功することも、のし上がっていくことも出来ない社会。 そして、企業ですら、社会的不正や、偽装や、犯罪ぎりぎりのことをしていかなければ、維持できないような社会。 美冬ほどの才気があれば、こんな犯罪をしなくたって、企業家として成功できそうな気もする。それでも、今の社会では、無理なのか。 雅也も美冬もフクタ工業の従業員も社長も雅也の父親もみんな社会の底辺に近いところで生きている。のし上がっていくことも人並みの普通の生活をすることすらも、もう、この国では難しいことなのだろうか。 もしも、これが、『白夜行」の第二部だとして、もし、第三部が描かれるとしたら、どうなるんだろう。一部、二部では決して、暴くことのできなかったヒロインを暴きだすのは、だれだろう。たぶん、男性には無理だろうな。『幻夜』の中でも、「女のことは、女でないとわからない」と、ヒロインの夫の父親に言わせている。だとすれば、ヒロイン美冬の正体を突き止めるには、女性の目が必要だろう。たとえば、第三部で美冬の正体を暴く人物がいるとしたら、それは『幻夜』の中で、美冬に夫を殺された曽我の妻、雅也に惚れていた美冬の義理の姉頼江あたりじゃないかと思う。けれど、やっぱり女だけでは、突き詰めきることは出来ないかもしれない。やはり男性もまた、必要だと思う。美冬にかかわれば、どんな男でも、彼女の魅力に捕らわれてしまうとしたら、決して彼女に直接会ったり、関わったりしてはならない。その上で、女性を裏で補助する男として、刑事加藤の父親で、それも、元刑事という高齢の世の中のすいも辛いも知ったような熟達した男性が必要かもしれない。こんな登場人物も用意して、第三部、美冬激闘編なんかできると、面白いかもしれないですね。 今の社会はとても厳しくて、のし上がっていくこと、経済的に成功して幸せになることはとても大変なことかもしれないけれど、人の幸せは、それだけじゃない。夫や家族を愛して日々ささやかに暮らすこと(曽我夫妻や、新海夫妻のように)も、人の世界の知を突き詰めて知り抜いていくこと(加藤の父親のように)も、人が人として情を持って生きていくこと(頼江と雅也の関係のように)も。と、そういう、世界があってもいいと、。 分厚い本でしたが、それなりに気合をいれて読破しました。東野圭吾の本はドレも分厚いので、持ち歩くのが大変。です。バックの中でおもくてーーーーー。
2008年08月28日
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『天外魔境』をやり終えて、もうひとつかってあった、『聖剣伝説4』をやりはじめてみたら、なんと、アクションゲームだった。がびーん。とろい私には、アクションゲームは、娯楽ではなくて、難行苦行なのです。少しやってみました。絵はすごーくかわいいのですよ。でも、なんか、面白くない。基本RPGの方が好きだー。だって、とろくても出来るもの。RPGばっかりやってると、あきてくるから、それでたまに、アクションもやるけどね。 で、ずーっと前にやったFF12をまた、やりはじめてみたら、面白い。RPGってもストーリーがあって、そのストーリーを追いかけてやるのが楽しくてやっていた。でも、一度やってるのに、ストーリーもしってるのに、それでも、先へ先へと進めたくなってしまう。うーん。FFって、やっぱり面白い。 大概のゲームは、やりおえると、売り払うのです。でも、FFだけは、全部売らずにとってあります。これはやっぱり、別格だよーン。 久しぶりにやってみたら、FF12が楽しい。ムービーなんか、細かいところ忘れてるし。FFシリーズは、作品によって、戦闘システムがちがっていて、FF12のガンビットシステムは、なかなかいい。ガンビットを設定しておけば、あとは、キャラクターが勝手にたたかってくれるので、かなり楽です。○ボタン連打とかしなくてすむものね。ガンビットの設定が腕の見せ所。しかも、戦闘中でも、がんがん変更できます。 初期のFFは、キャニクターごとに戦士とか、魔道士とか、職業が決まっていて、装備も制限されていたけど、そのあともジョブシステムとか、転職システムとかいろいろあって。でも、転職システムは、うっかり、判断をあやまると、とんでもないことになるので、遊びづらかった。 FF7のマテリアシステムはよかった。マテリアの装着の仕方次第でいろいろと工夫が出来て、深いものがありました。でも、当時、初めてやったゲームが、FF7だったので、よくわからなくて、攻略本みて、いろいろ、やっていて思い出があります。 そのあとの、FF8のシステムは、最低でした。魔法を100個、敵からドレインしなければならなくて、ドレインしながら、途中でねちっゃたりして。しんどかった。忍耐の必要なゲームはいやだあ。 そのつぎのFF9は、楽しかったけど、ゲームの中のカードゲームがすごく難しくて、私には出来ませんでした。でも、それをやらないと、いいアイテムを入手できないので、かわりに、息子にやってもらったのでした。息子がいなかったら、どうしていたのだろう。おばかには、むかないゲームですね。 FF10は、よかったですね。ラストかわいそうで、泣きました。先日ユーチューブで、ラストシーンをみて、また泣きました。ああ、かわいそうで。 FF11だけは、オンラインゲームなので、やってません。面倒だ。もう、オンラインゲームはいや。だってやっばり難行苦行と、忍耐の世界なんだもの。 今やってるFF12がおわったら、つぎはFF10をもう一度やろうかな。 しかし。FF12の裏ボス。さいごのやつは、ものすごく強いです。全員レベル100まで上げて、やっとこさ、倒しましたが。あれだけは、またやる気はしません。 でも、やっぱりすごく強い裏ボスは、欲しいよね。
2008年08月27日
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出来は悪くないとは、思う。でも、前二作をみているハムナプトラファンにすれば、肩透かしを食らった気分だ。エジプトが舞台になってないものはねやっぱりハムナプトラとはいえないかなあ。 中国を舞台にすると、かなり重厚な面白いものが出来るけれど、この作品では、十分な中国についての情報調査、資料調査がされていないまま、中途半端にとりあえずの知識だけで、作ってしまっていて、底の浅い作品になってしまった。万里の長城をつくった皇帝といえば、明らかに秦の始皇帝なのに、今回その中国では重要度抜群の始皇帝がただの、悪霊の大ボスとして、物語で使っているという、安直さ。西洋よりは、中国にくわしい日本人にすれば、違和感ばりばりで、なんかかなりちがうーという感じ。 兵馬俑が動き出して、戦争を始めたら。という、アイデア自体はおもしろいんだから、ハムナプトラとは離れて、もっと舞台設定をこって徹底的に中国の話として作れば、かなりいいものができたはずなのにと、思う。 今回は、ヒロインがレイチェルワイズじゃなくて、変わってしまっていた。ハムナプトラシリーズは、レイチェルワイズだからこそのよさなのに、そのいちばん重要なヒロインがかわってしまった時点で、これはもう、ハムナプトラじゃないんだけどね。 エジプトねた自体過去に既にたくさん作られていて、新しいものじゃないところを、ハムナプトラ独特の展開ゆえに面白かったのに、残念。監督が前二作とは、ちがうのでもう、その時点で、ハムナプトラじゃなくなってるのでしょう。 それから、いままでは、この手の冒険物で特に気にしたことなかったんだけど、考古学者なのに、自分の発見した遺跡に対しての扱いがひどい。ろくな前調査もなく、いきなり、ずかずか遺跡に入り込んだ挙句、仕掛けにひっかかかって、遺跡を壊したり、遺跡の中で拳銃ばんばん撃ってたり。貴重な遺跡を破壊して平気でいる辺り、考古学者の人がみたら、怒り出すんじゃないのかな。 貴重な兵馬俑を破壊しても平気で、今回の悪役の皇帝の遺体だけをありがたがって運び出していたり。そんなことしたら壊れるし、ありえないきがする。監督は、兵馬俑の歴史的価値も、万里の長城の歴史的価値もたぶん、まったく分かってない。 今回、中国政府から、手直しを要求されたのも無理からぬことだと思う。それで、直しても、これなんだから、中国政府もずいぶん甘くなったものだ。 西洋の目から見た中国って所詮こんな程度なのかも。 今回の作品は、ハムナプトラの人気による集客をねらった別作品ですね。 それにしても、一作目からわずか9年、三作目ですでに、一作目ではやっとカップルになったばかりの主人公とヒロインの子供がすでに大学生。映画の中の時間の進み方早すぎる。ジュニアがててくる段階で、すでに、インディジョーンズの二番煎じにしかみえなくて、そもそものこの夏の新作インディジョーンズ自体が、いまいちだったのに、ここでもまた、似たような設定って、なぜに。 もうこのシリーズはつくられないでしようねえ。 それとも、シリーズ四作目ができたら、今回のことに懲りずに見に行くなんていうバカをしてしまうかもしれない。 ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝@映画生活
2008年08月25日
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今年で、ここにいくのは、三回目。例年暑い中、必死に行くのですが、今年は、すずしかっので、さぞや快適に楽しめるに違いない、と、思ったのですが、結局雨降りで、あまりゆっくり楽しめませんでした。とにかく、メインの通りが混んでて混んでて、なかなか前に進めないのです。雨は降ってるし、傘があるので、混んでいて、おちおち出店の買い物をして、ゆっくり食べる場所がない。ちょっとしんどかったので、そうそうに帰ってきてしまいました。残念。麻布十番の通りに、あった像。いままで、ぜんぜんきづかなかった。さすがに、麻布。こんな像でもこんなセンス。すばらしい。テーマはなんなのかなあ。このパエリアは、ご飯ではないのです。たぶんクスクスなのだと思います。つぶつぶです。これって、原材料は何で出来てたんだっけ。シリア料理でした。今年はマンゴーのカキ氷が多かったですね。シシケバブは、毎年人気です。ワールドバザールは、首都高の下の三角の公園にあって、世界各国の出店がでています。いろんな国の料理が食べられるのです。串焼きのお肉と、カレーが多いですね。それと、最近は、食べ物だけでなくて、雑貨のお店もできてきました。私は今回、すずでできた、天使の羽のストラップと、猫の置物を飼いました。ほかにも、皮製バックのお店なんかもあります。食べ物だけだと、つまらないので、こういう雑貨の出店も増えるといいです。車を停めたところのそばにあるマンションです。ベランダが四角くて、ちょっと雰囲気がニューヨークっぽくて素敵なのです。でも、実はここ。空き家マンションなのです。結構しゃれてるのに、もったいない。案外使い勝手が悪いのかもしれません。でも、毎回気になるマンションなのです。だれかリメイクして、また、レンタルしはじめてくれればいいのに。麻布のこのあたりは、他にも高級マンションがいっぱいです。こんなところに住んでみたいよう。
2008年08月23日
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腰痛を何とかしたくて、この本を買いまして、読みました。↑整形外科のお医者さん自身が、整形外科を否定した本、とでも言いましょうか。 私も、なんども、捻挫したり、腰痛に悩んだりしているのですが、整形外科で直してもらえたことはない。整形外科ははっきりいってきらいだ。あのタカビーぶりにはあきれる。 体の不調で整形外科に行って、痛みを訴えても、レントゲン、MRI、CTなどの機械によって、診断し、特に悪いところがなければ、それまで。「特に問題は、ありません」と言われ、こちらの痛みの訴えに対しての対処は、全く無い。「あのー、痛いから来てるんですけど、その痛いのは、どうしてくれるの」、と訴えても、せいぜい痛み止めが出るくらい。そんなもので直るかい! その場で、「接骨の先生が…」と言うと、「あのね。接骨師は、先生じゃないの。先生っていうのは、僕たち医者だけ。」なーにを寝ぼけてるんじゃい。ボケ と、毎回腹立たしい。先生って言葉は、どう使おうと、使う人間の気持ちと意識で決まるもの。整形外科の医者はなんか、勘違いしてることこの上ない。 結局、痛みは直らないまま、接骨院に通う。東洋医学は、西洋医学とは、対応が違う。整形外科は、結局、手術によって、直せる欠陥しか、対応できないものなのだ。 まあ、一応整形外科に行って、西洋医学分野での病気が潜んでいないことがとりあえずわかったら、安心して、他の医療機関に行くしかない。 整形外科医学というのは、まだまだ発展途上だなあと、思う。 整形外科は、対応としては、手術する。手術で対処できないものに関しては、痛み止めを処方するか、シップをだすか、安静にすることを命令する。でも、急性期を除けば、安静にし続けて、体を動かさないことは、よくないと、この本の著者は言う。体は、使ってなんぼのものだ。使わないでいれば、体はどんどん弱まり、筋肉はなくなり、機能は低下する一方。体は、使って、動かして、それで始めて、血の巡りもよくなり、直る方向に向かうものなのだそうだ。 この本を読んで、そうそう、と、いままでの、不可解な疑問点がスッキリした感じだ。 冬に腰を痛めて以来、接骨に、通いながら、なかなか完治しないいらいらから、さすがに、腰痛について、もっと、知識と情報を仕入れないと、と、思って、本を買ってみた。腰痛に関しては、ネットでは、いまいち、いい情報が、手に入らない。 痛みがあると、体はその部分の血の流れを悪くするような対応をするものらしい。しかし、それでは、痛い部分にたまった、悪いものや、痛み物質、疲労物質がその場所にとどまり続けて、いつまでも痛いし、直りも悪くなる。それで、整形外科の場合は、痛み止めを処方して、痛みを感じなくすることで、血行の改善を図るらしい。痛みを感じると脳はその部分の血の流れを止めるような指令をだすらしい。しかし、痛み止めが効くのは、せいぜい数時間だし、痛い部分は、そんなに簡単には直らない。痛みがなくなるまで、ずっと、痛み止めを飲み続ければ、逆に胃や内臓を悪くして、患者はその二次災害に苦しめられることになる。私は、整形外科の、痛み止めによる治療という方法は、どう考えても、いいとは、思えない。それも、かなりきつい痛み止めが処方されたりするのだ。他にも、神経ブロックなどの方法もあるが、これはこれで、いろいろと問題があるらしい。 それで、接骨院や、そのほかの民間療法なんかでは、痛い場所の血行をよくするための方法がとられる。電気をかけたり、あたためたり、マッサージをしたり、シップをする。これでも、もちろん、すぐには直らないし、直るまでには、かなりの時間が必要なのではあるけれど、すくなくとも、胃を壊すことはないし、少しづつではあれ改善もされていく。筋肉の緊張によるための痛みもとれていく。 この本の著者も整形外科医ではあるけれど、患者に対しては、体を使うことを止めないようにしている。安静が一番よくないという。たとえ、負傷していても、患者が望むなら、それなりの対処をしつつ、体を動かす方法で対応しているそうだ。 うーん。体は、動かした方がいいし、動かさないと、逆にどんどん悪くなっていったり、いつまでも直らなかったりするものなのか。 というわけで、私もこの本に載っていた、腰痛のための体をほぐす体操を最近やり始めた。ベッドや布団の上で、寝る前や朝起きた時に、できるので、暑くてウォーキングの面倒な今の時期には、いい。怠け者の私にも、寝た体勢で出来るのはいい。腰痛のせいで、痺れやはりを感じていた、右足が格段に楽になった。膝の痛みも感じなくなってきた。治療による改善も、いいけど、運動によって体全体をほぐして、血行を良くするのは、かなりいい。タダだし。両方平行してやっていくと、相乗効果も増しますからね。 暑いので、最近は、運動もしずらいけれど、やっぱり体は動かさないと駄目なんですね。 体は死ぬまで、動かし続けて、使い続けるものなんだそうです。 主婦は家事をやるから、なんだかんだいっても、動いちゃうけど、家にいると動かない男性は、気をつけたほうがいいです。最近は、自分でやる整体なんていうのも、流行っているらしく、そういう本が売れているらしいです。そういう本も買って、自分で整体なんかやると、さらにいいかも。 かなり、参考になった一冊でした。
2008年08月21日
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ニュースなんて見なくても、日常生活には、たいした影響は無い。というわけで、日々、本すらロクに読まずにゲームばかりしているのだけれど、時々、ネットのブログや、ニュースをみて、これはいけない、ちゃんとニュースみなくちゃっと、思う。 テレビなどで流されるニュースは、大概、殺人事件や、強盗など、日々常時起きているようなことで、毎日の時間をつぶしてまで見なくても、たいしたことはないけれど、そして、それ以外の経済ニュースなんかは、対して良く分からないし。 それでも、ニュースみなくちゃーと、思わせられるのは、情報ニュースなんだと、思う。 で、今回「ガ島通信」を見ていたら、こんな事件が起きていることを始めて知った。ほんと、ニュースに疎いですね。 毎日新聞の英字新聞。現在は、ウェブ化されているものの中の、外国人記者が主に担当して、日本の現在を外国にお知らせするというのが本来の目的だったはずの、「WAIWAI」で、かなり、以前から、ほぼセクハラともいえる、低俗でひどいエロネタの記事が掲載され続けていたということ。毎日新聞で何が起きているか それがどういうものかというと。 ↓ ここの記事に翻訳したものがそのまま載せてあるのですが。 いやもうナンといいますか。大学出たはずの教養の高いはずの人が、どうしてこんな記事書いてご飯食べてるのかなーと。2ちゃんでも、スレッド立っているし、毎日新聞は、お詫びの記事を乗せてもいるんだけれど、それがまた、さらに、批判の素になるという。 で、ネットで炎上して、問題視されていて、新聞社内では、それがまたさらに、怖いという。 それにしても、不思議なのは、これほどひどいものがいままで、問題にならなかったこと。さらにさかのぼっていくと、19年くらい前から、こんなえげつない記事が、連載され続けていたこと。これらを読んだ人たちが、どうして、いままで、問題にしなかったのかということ。 英字新聞というと、私なんかからすると、すごく教養の高い人、ハイレベルな人たちが読む特別な新聞という、イメージが、あった。そういう人たちが、こんなもの読むのか?しかもこの「WAIWAI」は、人気コンテンツだったということ。なぜでしょう。 そう思う時、毎日新聞が日本の三大メジャー紙のひとつでありながら、近年、どんどんその力を失い、販売部数を落としている理由が分かろうというもの。 英字新聞を読んでいる人たちが、毎日ではないにしろ、ある日ふっと目を留めたこの下品なコンテンツに気づいた時、そして、その部分を数日間チェックした挙句、その下品さに、この新聞の購読をやめてしまう人たちもいるだろうということ。新聞社に、クレームをつけたりしないまま、ただ、黙って、読むのをやめる。世の中は、けちをつける人間より、黙ってひく人間の方がはるかに多いものだ。 毎日新聞は、この事件が、ネットで、問題視されていること、2ちゃんのスレッドで、叩かれること自体を恐れているけれど、そうやって、クレームをつける人たちより、はるかに多くの無言で批判する人たちの方が、多いのだ。 この事件に対して、男性以上に女性たちが怒っているともいわれると書かれているブログもあります。けれど、男性だって、男性として、自分の母親にこんなことされて気持ちいい分けないこと、絶対御免こうむることだということくらい、当然である。当然、このての低俗記事を知った段階で、普通の良識ある人たちは、購読をやめる。こんな記事を喜んで読むような人たちだけが、購読層として、残る。そうなれば、新聞のトップ面で、どんなにりっぱで、すばらしい記事を書いたところで、そんな記事には、説得力も価値も無くなっていくし、そんな記事の内容がわかる人たちは、すでに、その記事を読まない。良識のある人間が読まない新聞なんて、すでに、新聞としての意味はないだろう。 新聞の端にあるちょっとしたコンテンツが新聞の価値自体を下落させ、貶めていく。 ネットがなくたって、口コミは存在する。少しづづ、毎日新聞の下品さが、伝えられていけば、購読も落ちる。それがまさに、毎日新聞の本体の現在の購読量、販売量の下落そのものの姿なのだと、思う。 今、ネットの情報量は、新聞そのほかのマスコミなどの、情報量を上回り、巨大化し、ネットの存在は、新聞社や、そのほかのマスコミ世界で、自分たちの存在を脅かすかもしれない怖い存在として、意識され始めてきているけれども、それ以上にもっともっと、こわいものは、あるだろう。 たとえ、ネットがなくても、質の落ちた商品は、自然に売れなくなっていくものだ。ただ、それだけのことなのに、ネットで騒がれることが、原因なんだと、そういう、認識のずれに、きずいてもいいのではないのだろうか。 ネットがあっても、新聞は未だにとっているし、本も読む。いつ消えてしまうか分からない、ネットの情報とは別に、リアルな世界の、紙という、現実にあるものも、やはり、この先も、必要なものだと、私は思う。だから、恐れるべきなのは、インターネットが普及する前と変わらない。それだけのこと。どんな時代になろうと、基本はかわらない。と、思うのです。
2008年08月18日
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旅行から帰ってきて、五日目。今日は涼しいし、やっと、旅の疲れがとれてきたかなと、いう感じです。三日目に行ったのは、五色沼とあぶくま洞でした。五色沼は、いつも行くたんびに、雨に降られたりして、よく見られなくて、今回はそのリベンジです。前回もボートに乗った途端に、大降りの雨が降り出して、そうそうに切り上げざるを得なかったのです。今回は、幸い、雨もなく、いいお天気で、ゆっくりたっぷり、30分間の手漕ぎボートでの、優雅な時間を満喫することが出来ました。こういうボートに乗ると、なんとなく、映画の「昼下がりの情事」をおもいだしちやうんですよね。ああ、優雅だわ。でも、できれば、このあたりを散策もしたかったのですが、あまりの暑さと最終日ゆえの疲れでパス。 出発前に宿の廊下からとった写真。こんなところなのでした。 普通、渓流まで、降りていかないと見られない景色を、宿の廊下から楽々と、見られるのはなかなか素敵です。のんびり~。 五色沼到着~。混んでたけど、ボートは、並ばずに普通に乗れました。よかった。遠くに見える山並み。沼の水辺を渡ってくる風。いいですねえ。 しかも、結構みんな、ボートに乗ってます。ボートに乗ってみると、以外にこの沼が広いことが分かります。あ、こっちのさきにもまだまだ、沼が続いてる。 五色沼は、たぶん、このあたりの土地の土のせいだと、思うのですが、色が少し違うのです。水のブルーに少し白が混ざって、セルリアンブルーのような、ちっょと変わった色。でも、この日の水はすごく澄んでいて、透明で、沼のそこが見えるのでした。 そして、なぜか、鯉も飼っているみたい。この鯉は自然の鯉ではないので、意図的に入れてあるものだと思います。鯉を入れることで、水質チェックでもしているのかな。 その後は、帰り道で、途中にあった、ロッジのようなレストランで、ステーキを。たべたのは、だんなだけです。わたしは、暑いのと、連日の食べまくりに少々胃がお疲れ気味なので、ご当地産トマトのスパゲティをいただきました。おいしかったです。ただね。作ってくださったのが40代前後の女の人。地方に行くとたまにあるのですが、もともとは、東京にいて、脱サラかなんかで、家族で地方に来て、ペンションや、レストラン、喫茶店をしているというお店。他にも、以前泊まった旅館でも。40代前後くらいの、つまり私と同じ世代の女性の作った料理というのは、なんとなーく、自分の作った料理と同じ味がするんですよね。もちろん、商売だし、料理の腕は、私よりはぜんぜん上なのだけど、その底辺にある、同世代ゆえの共通性を、料理の味に感じるんですよね。そうすると、わたしとしては、なんか、ありがたくないというか、わざわざお金だして、自分が作ったような料理を食べるのって、釈然としないというか。もちろん普段、お友達の家にあそびに行って、お友達が作ってくれた料理をいただく時は、うれしいし、ありがたいのですが。それとは違って、お金を払って、自分と同じ味を食べるのって、納得いかないというか、もったいないというか、つまらないというか。私より、一世代か、二世代上のおばあさんの作った料理なんかを、たとえば、民宿なんかで食べる時は、すごくうれしいのです。ぜったい私には作れない料理や、知らない料理。ようするに、「お袋の味」という奴ですねきっと。でも、旅先で自分世代の料理は、面白くない。だから、プロの料理人が作ったものか、男性の作ったものが食べたい。そして、たぶん、この40代前後の女性の料理は、一世代下の若い人たちにとっては、もしかすると、彼らにとっての「お袋の味」なのかもしれません。五色沼に行く途中の道には、シーズン真っ盛りの桃が売ってました。山形、福島方面に旅行に来ると、桃が食べ盛りなのがうれしいです。とうぜん、今回のお土産は、桃 でした。 そのあとは、磐越道を通って、あぶくま洞へ。洞内撮影禁止だっので、リンク↑しときます。かなり遠くから見える、この白い壁。なんだろうと、思っていたら、あぶくま洞だったのです。そして、洞内は、一年中15度です。この炎天下の日々にはいると、とにかく、涼しい。「寒いかな」と、思ったのですが、連日の猛暑であったまりきっている体には、ぜーんぜんこたえませんでした。しっかり、冷えて、気持ちよかったです。もう、夏がこう暑いとなると、こういう涼しいところしか、観光したくないです。中で、かなり、歩いて、階段も登り降りして、いい運動になりました。でもでも、外に出たとたんに、もわーっと、暑い!!!せっかく、涼んだのにー。この後は、磐越から、常磐道という、普段とは、違うルートで帰宅しました。常磐方面て、いつもおもうけど、なんとなーく、殺伐としているのですよね。それは、未だにかわらず。ま、日本の田舎って本来こんななのでしょう。ただいまー。なのでした。来年は、「開田高原」に行きたいです。(予定)
2008年08月17日
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二日目は、会津武家屋敷と、大内宿にいきました。武家屋敷は、お宿からすぐのところ。会津藩の家老のお屋敷と、陣屋、それから、博物館などがあります。 ここで、大河ドラマ「新撰組!」の撮影が行われたそうです。娘が一緒だったら、騒いだでしょうねー。容保様と広沢富次郎会見の場。 解説とサイン色紙がここは、結構見ごたえありました。全部見るのは、大変なので、後半の博物館はパス。でも、当時の家老のお屋敷まるまる観たのは、初めてです。家来の部屋とか、主人の部屋、奥方や、子供部屋、女中部屋などもあるんですよねー。嫡男は、一部屋で、次男、三男以降は、全員一緒に一部屋。この扱いの違いが~。そういう時代だったんですねー。井伊直弼も最初は、子供部屋でこんな部屋住み扱いだったんですねえ。きっと。主人の部屋は、北側。奥様の部屋は西側。女中部屋が南なのが、以外。でした。 ここの博物館で、容保様が題字を書いた松平家の「家訓」の写しが売っていました。娘のお土産にナイス こんなにベリーグッドなものはないですぅ。お土産やさんえらーい。ただ、よっぽど気をつけてみていないと、発見できないのが、苦しいところですね。 大内宿に行く途中の沼です。標高も高く、涼しく、風も気持ちよく、波も穏やか。まわりに、ペンションや、お店を作って、カヌーや、ヨットや、ジェットスキーなど、いろいろな夏の水遊びの場所としては、いいところです。きっと。観光化しないのかなあ。でも、ここまでのスカイラインが整備されたばかりなので、これからなのでしょう。いいところです。そのあとは、大内宿へ行きました。なにやら、文化的な価値の高い建造物群として、指定を受けているらしいです。 大内沼からみた景色。まわりは、畑と田んぼのなかに、ぽつんと、ここだけ、村落。これが大内宿です。そして、有名観光地なのです。ここ以外は、何にもないのですね。 ずーっと、かやぶき屋根の昔ながらの家屋が続きます。でも、実際には、このあたり、会津のほとんどの民家は、現在トタン屋根になっています。トタンの方が火事の心配がないから。それを大内宿は、あえて、トタンをはがして、もう一度かやぶきに戻したのだそうです。かやぶき屋根を作るのにも、それなりの技術と、ハウツーがあるわけで、もう、失われつつある技術だと、思うのですが。でも、かやぶき屋根のおうちって、夏に中にはいると、すごーく涼しいのですよお。まさに、クールビズ。東京もかやぶきなら、涼しいのにねー。でも、材料のかやを確保するのは、逆に今の時代には、むずかしいでしょうね。 このおうちは、ちょっと他の家と、デザインが違っていた。 ここは、一番はしっこのお店。食堂になっていました。もとは、村長さんの家だったのかも。大内宿は、ようするに、建物を見にくる所なんだけど、そのおうちのほとんどがお土産やさんになっていて、見事に観光化してました。そういう意味では「町おこし」に成功しているとも言えるのでしょうか。それから、お蕎麦屋さんもたくさんありました。そのうちの一軒で、手打ちそばをいただきました。おいしかったー で、ここの場合は、「ねぎ一本そば」といって、はしの変わりに一本のねぎを使って、おそばを食べるという、ちょっと変わったおそばが名物。ねぎは、そばを食べながら、薬味としてかじりながら、食べちゃうのです。裏の畑からとってきたばかりの新鮮なねぎなのでしょうか。それならおいしいよねー。私は、食べなかったけど、だんなが食べてましたー。写真が…ない。撮る前にたべちっゃたので。 でも、とにかく暑い。しかも、帰りには、ずーっと、これから駐車場に入るためのながーい車列がずーっとずーっと、続いていました。なんにもない田舎なのに、ここだけが、都会のよう。あの人たちは、あのあと、見学できたのかなー。この数年、避暑もかねての夏の旅行なのに、観光地がどこもすごく暑くて、観光するのがしんどいです。めんどくさくもなってきます。以前は、東京を脱出すれば、地方は、ほどほどに涼しかったのに、最近は暑くて暑くて、観光もしんどいです。東京だけのことなら、ヒートアイランドなんだと、思うけど、何処にいっても、こんなに暑いと、地球温暖化をひしひしと、感じざるを得ません。もう、夏は、標高の高い高原に行くしかないです。そこで、散歩するか、昼寝するか。そんな旅行しかできなくなりそう。 いろいろお土産を買ったけど、今回の一押しは、これ!ずんだじゃがりこ。枝豆いりのじゃがりこ。東北地方限定なのだー。が、楽天でも、買える。娘がばりばりと、みーんな食べてしまった。
2008年08月15日
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今年の夏の旅行はどこにしようかと迷いましたが、新撰組ファンの娘の希望で、京都守護職を務めて、新撰組を雇ってくれた会津藩主松平容保公に会いに行きたいということで、会津にしました。ところが、宿を決めた後で、娘の合宿の日程と我が家の旅行の日程がぴったり重なることが分かり、娘はしかたなく、合宿優先で、今回の旅行は断念せざるを得ませんでした。学校のばかーーーーーーー。すでに、大学生の長男はもう、親に連れ回される旅行は拒否。留守番組です。ということで、この年ですでに、子供なしのフルムーン旅行なのでした。こどものいない旅行はさびしいよーと、思ったのですが、実際にいってみると、ものすごく楽で、旅をのんびりと、存分に楽しめることに気がついてしまいました。なにしろ、子供たちと一緒だと、移動のたんびに、子供たちを起こしたり、せかしたり、催促したり、いなくなってしまって、捜したり。それが、小さい子供ならいざ知らず、中学生、高校生になっても、手がかかる。観光の途中でいなくなって、探したり、朝起きて、朝食なのに、寝ていて起きなくて、起こして着替えを催促したり、荷物の準備も四人分となると、ものすごい量なるし。とにかく、大きくなっているにもかかわらず、手がかかり、気疲れし。子供と一緒の旅行って随分気をつかっていたのだなーと、きずきました。ようするに、私のしつけがなってないってことですよね。反省しました。でも、いまさらもう、たぶん、遅いだろうなあ。そして、今回、初めて夫婦二人で、旅してみると、全ての移動や行動の決定が、すごくスムースで、とても楽なのです。そのおかげで、それほどいろいろあちこち見たわけでもないのに、今回とても、旅行を堪能できて、楽しめた。というのが、今回の総評なのです。かえって、赤ちゃんづれの方が、楽です。赤ちゃんは所詮荷物だし。子供が大きくなると、かえって、こちらの思うように動いてくれないので、大変なんですよう。というわけで、たっぷりとたのしんだ、会津の旅なのでした。 まずは、猪苗代湖の遊覧船に乗りました。猪苗代湖は以前にも来たけれと、船に乗ることは考えなかった。今回は特にこれといったものもなかったので、船でも乗ってみようと。 水平線の見える湖ってやはり珍しい。さすがにやっぱり、猪苗代湖はでかい。湖面を渡ってくる風がきもちいかった♪ 猪苗代湖遊覧のあとは、そのまますぐ近くの天鏡閣を見に行きました。ぜんぜん知らなかったのだけれど、地図に載っていたので、ここってナンなのだろうと、思って。有栖川宮の別荘だったお屋敷なのだそうです。でも、管理が悪くて古くなっていて、カーテンはボロボロだし、今回は修復中でした。シャンデリアを付け替えたり、家具を置いたりして、いろいろ手をかけているようでした。東京にある岩崎邸や、庭園美術館などにくらべると、すごくお粗末ですが、邸内は、意外と広いので、もっと、メンテナンスして、きれいにして、もっと広告をかけると、それなりになかなかの観光名所になるだろうと思います。なにしろ、もう、野口英世記念館はあまりに俗化されていて、見る気がしない。福島県の観光課頑張れ。 内部は、テーブルや椅子などそれらしいものを配置してましたしね。 あ、階段の下にドアが。こんなところに、ハリーポッターの部屋がありますよ。いえいえ、じつはこれ。お風呂場に入るおつきの人専用のドアなのです。 そのあとは、一路会津若松市へ。やはりなんといっても、鶴ヶ城を見ませんと。このお城は、戊辰戦争で落ちてしまって、近年再建されたもの。中は、博物館になっています。 今回は、今話題の松平容保公特集でした。 最上階の天守閣からは、会津若松市内が一望できます。このあたりは、盆地だけど、あんまり高い山がないようです。それにしても、こんなところから、わざわざ京都までお仕事しにいったのだから、大変だなあと、思いました。いったい、京都まで、何日かかったのでしょう。 城を降りると、「南走り」も見られるようになっていました。長い回廊に沿って、武器の所蔵庫があったらしく、ここで、武器をとって、城攻めに応戦したらしいです。既に建物が無くなっいたところの、残った礎石から、かつての建物を再現したのだそうです。石しかないのに、何がどんな風に建っていたかわかるなんて、すごい。 今回泊まったのは、東山温泉「庄助の宿 瀧の湯」でした。最近は仲居さんとか、っていろいろと嫌がられるので、特別なお部屋係は置かないというのが、最近の旅行業界の新しいシステムになりつつあるようで、ここもお部屋係はなし。こころづけをわたすというような、うっとおしさもなくて、快適。また、館内にちょっと日本酒が飲めるように置いてあって、ちょっといっぱいがおいしかった♪全館「フォール ビュー」でした。そして、料理はすごく量が多くて、もう、お腹いっぱいで、頑張って食べたのですが、全部は食べきれませんでした。でも、福島、山形方面に来ると、宿の料理にかならず牛肉が出てくるので、うれしいです。今回は、ステーキと、すき焼きでした。同じ宿に二泊すると、どこでも必ず、二泊目には、すき焼きなのですよお。お風呂で日本酒飲んで、湯上りにサービスのピール飲んで、食事中にグラスワイン飲んで、酔っ払った私は、あっというまに、寝てしまいました~。ああ、滝の音が、子守唄。
2008年08月14日
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今年の旅行は今日から二泊三日で会津若松です。それでは、行ってまいります。
2008年08月10日
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友あり。遠方より来る。また、たのしからずや。 夕べの北京五輪開会式。みましたでしょうか。すごかったです。面白かったです。今回はぜったい見逃さないで、ぜったい見たいと思っていたので、きっちり、一時間見ることが出来て、よかったです。 中国四千年の歴史をひしひしと、感じましたね。俺たちの国は、これほどの歴史があるのだぞ。あとからでてきて、ごちゃごちゃ五月蝿いこと、えらそうにいうんじゃないよと、言わんばかりの、中国の歴史のすごさ。私、ひしひと感じました。考えてみると、世界で一番歴史の長い国なんですよね。四千年前からあって、しかも、未だに現役の大国なのは、ほんとにこの国ぐらいですからねえ。日本なんて、せいぜい、二千年ちょっとくらいだし。ヨーロッパや、アメリカは、こういうのみせられて、中国への認識、少しは、変わったのでしょうか。アジアをなめるんじゃないぞー。 今の中国に対して、世界各国がいろいろと、クレームつけて、もめたりしてるけど、その世界にむけて、わが友よ、よくわが国にきたねと。そう言っちゃってる太っ腹さは、すごいですねえ。(でも、毒入り餃子はやめて欲しいが。) 巨大な足跡が、五輪のメインスタジアムまで、歩いてくるような、花火のショーなど、大自然を受け入れるアジアの感性そのもの。日本で言うと、ディダラボッチでしょうか。大自然を巨人として表現してみせるあたりも、すばらしかったです。自然と対決する西洋とは対照的に、自然と共生しているアジアの感性が、世界に伝わっていると、いいなあと、思います。 それにしても、あれだけのもの。さぞやお金がかかってるでしょうねえ。準備も企画も、大変だろうことは、想像仕切れないです。今風の洗練された、ハイテクと、中国のお家芸のような、大集団の一糸乱れぬ踊り。あれほど大勢の人間を使ってのショーなんて、ものすごーい贅沢ですね。テレビ越しとはいえ、これだけのもの、ただで、見せていただけちゃって、わたくし、感動ものでした。 でも、きのうは、五時おきだっので、そのあとは、眠くて眠くて、寝ちゃいましたが。 ああ、たのしかった。ありがとー♪
2008年08月09日
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娘とおしゃべりした。彼女が幼稚園の時のこと。小さな子供だった時のこと。 「幼稚園の時一緒だったSちゃっんてね。ちょっとこわれてて、話をすると、ちょっと危ない子だったんだよ。だから、あんまり友達もいなかった。」「えー。だって、Sちゃんのお母さんて、すごいいい人で、しっかりしてたのに。それと、Aちゃんのお母さんと仲良かったけど、Aちゃんはどうだったの?」「Aちゃんも少し変な子で、やっぱりあんまり友達いなくて、ひとりだった。」「じゃあ、変な子どうしで、一緒にいたの?」「うーん。あの二人同士も、それほど仲よかったわけじゃないし。」 うーん。びっくり。大人の視点でみていると、ぜんぜんわからなかった。びっくり。 「でも、Rちゃんは、すごくいい子だったんだよ。私と遊んでる時に、他のお友達から遊ぼうっていわれた時、『今は、Mちゃんと遊んでるから、駄目なの。ごめんね。誘ってくれてありがとう。』って言ってくれたんだよ。」 どひゃー。ポニョと同じくらいの5,6歳だったはず。子供でも、そこまでの言葉って出るものなのですか。Rちゃんのお母さんは、絶対役員を引き受けなくて、そういうちょっとわがままなイメージだったのに。未だに気の利かない口下手な私には、ただもうオドロキです。しっかりしてる子は既に、子供の時からしっかりしてるものなのですね。お母さんのしつけがいいのか。お父さんの遺伝子なのか。どうなのだろう。 お母さんと子供って、ぜんぜん性格違うものなのですねえ。いまだからこそ、分かる真実。子育ての最中には、わからないものでした。 「じゃあ、Yちゃんは?」「Yちゃんは、なんか子供なのに、妙に大人びてクールでさめてるような子だった。」「うーん。Yちゃんのお母さんは、一人っ子のYちゃんにずこく過保護なおかあさんだっのに。体が弱いってすごくいつも気にしてたよ。幼稚園よく休んでたの?」「え?ううん。ちゃんときてたよ。それほど、休んだこともないし。」 うーん。小さい子って、そもそも大人に比べて、よく熱をだすし、病気になるし。でも、それを知らないと、うちの子は弱い子なんだーっと。思っちゃうのかも。うちの娘だって、よく熱をだして、どれほど、医者にかよったかしれません。でも、そんなものだと、思ってました。だいいち、私が遊びの計画たてると、その日に限って待ってましたとばかりに、熱を出したくれたし…。 「私、Yちゃんがいつも着てる服がすごくうらやましかったんだよ。」「えっ、どんなやつ?」「シックで大人っぽいの。紺とか、よく着てた。お母さんは私にいつも、赤とかピンクとか、やたら、かわいらしい服ばっかり着せようとしてたけど、わたしは、シックな服が着たかったんだよ。紺色の服とかがすごく着たかったの。でも、お母さんがうるさいから、もう仕方ないと思って我慢してきてたの。」 えー。だって、娘は、二歳の時からいきなり、自我が出てきて、私のいう通りにはぜったい服を着ない、ものすごく頑固な子供だったのに。それでも、お金がかかるので、娘の服は親戚からのもらいものや、ババサマたちの買ってもらったものばっかりだったので、私が私の好みで娘の服を買ったことなんて、ほとんどなかった。その限られた服の中から、娘が自分で着る服を着て、幼稚園に行ってただけ。でも、その服のほとんどは、赤やピンクのかわいいもの、フリルのついたものだった。 でも、幼稚園くらいの女の子に赤やピンクや、フリルや花柄を着せるのってごくごく普通のことだけど。それに、そのころ、子供にも、大人の女性やお母さんが着るような大人っぽいシックな服を着せて、親子でペアルックとか、流行っていたっけ。でも、わたしは、そういう大人の都合と好みと趣味を子供に強制して、親子で都会的なしゃれたファッションていう発想がきらいだったのです。 それに、学生時代の制服がずーっと紺だったわけで、地味な私の顔に紺は、ますます地味が増強されるようで、嫌でいやでしょうがなくて、学校を卒業して、紺を着なくてすむようになった時、すごいうれしかったのを思い出しました。そのあとは、自分の好きなピンクばかり着てます。人間が地味だから、きれいな色を着ないとゴミタメみたいになっちゃうの。 だから、娘にも、紺のようなシックな色を着せるなんて、およそ考えたこともありませんでした。でも、当時五歳だった娘がそんなことを考えていたなんて、ちっょと オドロキ! でした。五歳の子供といえども、結構、いろいろ考えていて、大人のように、シックな好みをもっていたりするもなのですねえ。ふつうの五歳なんて、子供で、なんにもわかってなくて、毎日ぽあーんとすごしているものと、思っていたりするのですが、やはり、子供といえども、人間なのですね。ポニョだって、だから、あんなにいろいろ自分の意志で行動してるのは、ほんとに普通のことなのですよね。 そういうわけで、紺の好きな娘は、今、紺と白で出来たセーラー服を毎日うれしそうに来て、意気揚々と学校に通っています。
2008年08月07日
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やっと長男が夏休みにはいったー! というところです。長男の大学は、二学期制らしく、夏学期と冬学期という別け方をしてるみたいです。だから、今回は、7月の末まで目いっぱい学校があって、七月の最後の二週間くらいが期末試験のようでした。そして、最後のレポート提出が八月一日だったので、それを終えてやっと、夏休みです。そして、しかも、八月と九月、まるまる二ヶ月も夏休みなのです。でも、こんな中途ハンパな時期に夏休みに入るのでは、もういいバイトは、なさそう。それに、彼なりに夏休みにやりたいことがいろいろあるらしい。そういいながら、ここ数日ゲームばかりしてるけど。 世の中大学生になったら、バイトが常識。我が家の経済だって、厳しいのだから、バイトでもして欲しい。でも、私の中に微妙に迷いがあるのです。 だから、ここから先いろんなことの言い訳のオンパレードになります。 なにしろ、受験期間は毎日10時間ずーっと勉強していて、去年の夏休みだって、冬休みだって、ずーっと、勉強。高二から、塾に通い始めて、塾自体はそれほど行ったわけじゃないけど、最後のほぼ一年は、勉強だけの毎日でした。勉強することとともに、彼の頭の中でやらなくちゃという思いが、夜も昼もずーっとぐるぐるとまわっていたのだろうなと、思います。最初の頃は、そもそもモチベーションを上げること自体に苦しそうでした。そして、時おり、その「やらなくちゃ」という気持ちと混濁して、体力的、精神的な疲れが、蓄積して、はたで見ていて、これは、ちょっとやばいなと、思って、まる一日勉強しないでぼーっとしててもいいんだよと、休ませたこともありました。 今年の夏休みのはじまりに、「宿題のない初めての夏休みだ♪」と、言う、うれしそうな言葉。中高の六年間、そして、その前の受験のための一年間は、ずっと、頭のどこかに勉強のことが、重く、蓄積していたのかもしれません。もちろん、はたでみているぶんには、それほど大変な量の宿題だったようには、見えないのです。だって、夏休みの毎日夜寝る前の数分間で、宿題を毎日少しづつ、ぴったり夏休みの最後の日に終るように消化していたのだし、塾に通わせていたわけでもないし、朝から晩までやっていたわけでもないし。 それでも、彼にとっては、重かったのかなーと、。 そして、最後の試験発表の後は、入学式まで、わずかに、二週間くらい。 そのあとは、自宅から遠い通学で毎日四時間近くをとられ、土日には、部活や大会出場などいろいろあって、意外と忙しい日々の連続でした。 さいわい、中高とちがって、土日はまるまる休みだったのだけれど、「土曜になるとほっとする」と、彼がもらしたことがありました。やはり、彼なりにしんどいのでしょうね。きっと、来年になると、もっと慣れてくるし、授業も減ってきて、楽になるとは、思うのですが。 そして、なんやら、学生ビジネスコンテストの予選に通ったので、八月の最後の一週間、泊りがけで、参加するのだそうです。一週間とまりがけ。彼に出来るのかしら。都内だから、のぞきにいけるのかな。 九月には、部の合宿があるし、念願だったホームページも作りたい。一年半くらいがまんしていた、息子なりのいろいろなやりたいことがあるらしい。 親としては、せめて、免許くらい取りに行かせたほうがいいのかなと、思うのですが、二ヶ月では、取れないかもしれないし、そのあとは、学校が遠いから、通うのは大変かも。それでも、本人にその気があれば、何とかなるけど、親がもうこれ以上指図したくないなあ。私もかつて親に五月蝿く言われて免許取ったけど、結局嫌で、しょうにあわなくて、今現在ぜんぜん運転してません。運転下手なくせに、車大好きな夫に、「自分の愛車をぶつけられるといやだから、乗らないで」と言われてるのも、手伝って。息子に免許とらせても、やっぱり、同じように、俺の車には乗るなというだろうな。だからって、息子用に車を用意するほどの経済的な余裕もないし。いや、書類上の資格さえとれれば、乗らなくたっていいんだけど。 そう、息子も疲れているけれど、私自身も息子のことを心配して、あれこれ指図することに、疲れてきているのだなあと、ちょっと、気づいちゃいました。なんだか、ぼーっとしていて、危なげで、なにしろ、長男のジンロクですからね。横で見ていると、不安で不安で。私立校の厳しさもあって、ずーっと、気の落ち着かない日々でした。でも、あとからよくよく考えてみれば、最終的には、なんとか、こなしているのですよね。今回のビジネスコンテストもしらないうちに予選通過してるのだし。息子は息子なりにちゃんと成長してるのだ。 だから、もう、息子のことは、心配したり、指図したり、口出ししたりは、やめにしたい。それでも、心配で、コンテストの書類チェックしてしまいましたが。なにしろ息子は、出場の当日まで、封筒を開けることすらしそうにないのだもの。「期日までに出さないといけない書類があるんだから、チャンとチェックしなさいよ」と、ああ、また、口出ししてしまった。 「バイトしなさいよー。」と、口で言いつつ、内心逡巡の日々。 今年の夏くらい、親子でのんびりしたいかな。 それでも、のんびりしきれないのは、いまどきの大学生って、意外と忙しいから。三年には、就職活動があるし、四年には、卒論がある。しかも、いまどきは、結構大学院にもいく人が多そう。のんびりと時間のあるのなんて、一二年のうちだけ。だとすると、バイトする暇のあるのも、一二年のうちだけ。その貴重な一年の夏をのんびりしちっゃていいのかな。 それでも、まだ、戸惑うのは、男の子は本当に就職したら、歯医者にいく暇も取れないほどのハードワークになるかもしれないから。だとしたら、高校をでて、就職になるまでの、この時間くらいのんびりしとかないと、就職のあと、擦り切れちゃったりしないのかなと、考えてみたりしている。からだ。 でもでも、就職活動で面接もあるし、面接の練習がてら、バイトの面接とかしといたほうがいいかも。とかね。 そして、バイトするとしたら、塾とか、家庭教師? かつて、学生バイト教師に懐疑心タップリでいたり、学生のバイトの先生なんて当てにならないとか、塾先生って、いい加減じゃ困ると、思っていたのに、その塾の仕事に、いい加減な気持ちの息子を行かせていいものなのかなとか。で、たまたま仕事になれて、その待遇のよさに、逆に就職して安い給料ではたらくのことに、ばかばかしくなったりしないとのかなとか。 学生時代のバイトのせいで、ちゃんと働かなくなったりしないのかなとか。いや、これは、考えすぎかも。でも、かれは、人に勉強教えてる時すごく楽しそうなんだけどな。はじめたら、案外楽しいかもしれないのに。でも、それがはまって、プロになられるのは、いや。 いざやりだせば、息子なりに、真剣にやりだすかもしれません。ほんとにほんとに心配のしすぎ。バイトもせずに、すでに、今日。そして、明日から、将棋の大会にいくっていうし、そのあとは、わたしたちが旅行にいっちゃうし、そのあとはもう、お盆だし。八月は半分終ってる。 うわあーーーーーーー。 あんた心配しすぎだよーと、言われるか、てぬるいよ、やさしすぎと、いわれるか。どっちかですねえ。きっと。 というわけで、いろいろ毎日考えている言い訳を書いてみた。のでした。 いい大学をでて、結局就職しない人も多い今のご時勢。とりあえず大学入ったから、なんて、安心してられない今のご時勢。でも、まあ、そんなことを山のように考えてみても、きりがないし。その時は、その時だなあ。ああ、親ってばかみたい。
2008年08月06日
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眠り姫は王子様のキスで目をさます。 なんとも、エロティックなお話です。 事故をきっかけにこん睡状態となって眠り続ける恋人を看護する二人の男。介護のお話かなと、思ったのです。一人は、せっせと話しかけるけれど、もう一人はどうしてもそんな気になれない。話しかけることは、大切なんだよというお話?と、思ってみ初めたのですが、どうも、そういうはなしでは。なかったような。 眠り姫や、白雪姫が王子様のキスで目覚めたように、女性は、男性からの性的なシゲキによって、女として目覚める。男性は、生まれた時から男だけれど、女性は、男性からあたえられる性的な行為によって、初めて女としての生を受ける。 物語のはじめに主人公マルクと、ベニグノが、バレエを見ている。二人の女性バレリーナは、病んだ女性の役。それぞれに踊る二人のうちの一人に、男性ダンサーが、舞台の上のたくさんの椅子を彼女の動きに合わせて、彼女にぶつからないように、どけていく。そのシーンをみながら、涙するマルク。すごく感受性の高い人なのかなと、思ったのだけれど。実は、彼は、この舞台を見ながら、以前ずっと、麻薬にはまってどうにもならなくなった恋人を救うために努力していた日々があったことを思い出していたから。舞台は、病気の恋人のためにつくす男性の姿を象徴的にあらわしています。 ベニグノは、病院で日々アリシアの看護をしているのだけれど、それは、恋人だからではなくて、看護師としての仕事だから。けれど、アリシアが昏睡状態になるまえから、ベニグノは、アリシアを知っていて、恋焦がれていた。彼女の看護人となったのは、偶然のラッキー。けれど、恋する人を毎日世話することのできる幸福。 その一方、同じように昏睡状態になった恋人リディアの看護にいまひとつぴんとこないマルク。彼は、冷たいのか。けれど、たぶん彼は、それほどリディアを好きだったわけではないのでは。その一方で、その事件をきっかけに、病院に通いつめる中で、同じ病院内のベニグノと知り合い、そして、アリシアに出会う。 けれど実は、リディアと出会う前にマルクは、麻薬にはまった恋人を麻薬から救いだすために、ベニグノと同じように献身的な日々を送っていたのだ。映画の中で、蛇に驚いて全裸で逃げ出すかつての恋人のシーンが出てくる。蛇は、男性をあらわしているし、逃げ出した時裸体だったということは、恋人は、マルクと関係する直前で、男性としての彼を拒絶したことを意味しているのだろう。彼の献身的な行動にもかかわらず、結局恋人は、他の男と結婚してしまう。 そして、リディアの事件。かれは、献身的につくしてさられた恋人とのことに傷ついていて、もういちど、また、恋人に尽くすことにとまどいがあったkかもしれません。だから、その後あらわれたリディアの元恋人にあっさりと、リディアを託して、自分は、旅立ってしまうのですから。 そしてそれでもなおひかれるアリシア、との出会い。彼は、眠ったままのアリシアにひかれていく。 そんなある日、ベニグノは、寝たままのアリシアにセックスしてしまう。隠しても、結局ばれてしまい、彼は、投獄されてしまう。そして、絶望のはてに、自殺してしまう。 ところが、妊娠と出産をきっかけにして、アリシアは覚醒してしまうのだ。 目覚めた彼女と、マルクは、バレエの劇場で出会う。 めざめた彼女は、初めて会うはずのマルクをずっと目で追い、見つめ続ける。それは、まるで、彼に惚れているというよりは、生まれたばかりのヒナが最初に見た動くものを親だと思い込むインプリンティング(すりこみ)の状況に、似ている。 こん睡状態のアリシアに日々世話をし、肌に触れ、話しかけ、セックスし、妊娠させ、出産させたのは、ベニグノだったのに。彼女の女としての生を目覚めさせ、誕生させた王子様は、ベニグノだったのだけれど、彼はもうこの世にいない。そして、彼女が眠り続けていた時、ベニグノとともに、彼女のそばで話したり、接したりしていたのは、マルクだった。(もちろん、一緒にリディアもこん睡状態でそこにいたんですけどね。)アリシアは、マルクの声や、彼の出す、人としてのエネルギーを感じていた。彼女の中でベニグノと、マルクの存在が混濁していたのかもしれない。覚醒した時、目の前にいない王子様のかわりに、マルクを自分の王子様だと、思ったのかもしれない。女としての彼女を誕生させた親としての、男としてのマルクの存在。 ベニグノは、自殺する前にマルクに会い、自分の部屋をマルクに譲っているのだ。その部屋は、日々、ベニグノが窓越しにアリシアのいるバレエスタジオを見つめ続け、アリシアを恋し続けた部屋。 ベニグノは、アリシアを自分の代わりに、マルクに託したのだと思う。 眠り姫が目覚めた時に王子様が入れ替わっているなんて。 かくも女性は女として、男によって、誕生させられる。そんな、エロティックなお話だったのだと、思います。そう、思えば、映画の中で、アリシアの美しい寝顔や、着替えのシーンの美しさや、何度も映し出される裸体のわけも分かろうというもの。 病人に話しかけることがいいことだとか、寝てる女を襲うなんて強 姦じゃないかとか、そういう道徳的な部分は、それなりに処理されているわけですけどね。 死体置き場の死体に行為をしたことで、本当は死んではいなかった女性が生き返ったという事件と、長く昏睡状態だった女性が目覚めたというニュースから、監督はこの話の着想を得たのだそうです。 こん睡状態の女性に性的行為をする。でも、それが、夫婦や恋人だったら、あたらしい衝撃はないわけですし。そして、寝ている女性を全く知らない状況での行為は明らかに欲望だけ。だとすると、昏睡状態になる前の彼女を知っていて、そして、彼女をものすごく恋い慕うけれど、恋人ではない男性でなければならないと思うのです。それが、ベニグノ。それでも、四年間ただ、ずっと彼女の世話だけに生きがいを感じていたはずのベニグノが行為におよんだきっかけとして、彼がみた映画のせい、と映画では描かれています。直接的な原因はそうかもしれないけれど、マルクの出現がベニグノに無意識な危機感を与えたのかもしれないと、思います。実際最終的には、アリシアは、マルクと結ばれそうな展開になったのですから。 そして、リディアは、女ではあるけれど、その身のうちには、男性性をもっていて、だから、マルクの夢の中で、リディアにキスされたマルクの方が、目覚めてしまう。蛇をこわがるリディアは、たぶん、心のどこかで男性を拒絶していて、だから、マルクは去ってしまうし、恋人の看護にもかかわらず、女として目覚めることは出来なくて、目覚めることなく、死んでしまったのかもしれません。 男性は性の快感を局所的に感じるものだそうですが、女性は、体全体で感じるもので、それが、こん睡状態から、覚醒へのきっかけとなるのかもしれないし、それは、女としての人生の目覚めを、暗に意味しているような、スクリーンの一枚向こう側にある監督の意図だと、わたしは、思ったのです。 トーク・トゥ・ハー@映画生活
2008年08月05日
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愛することを知った時、人は始めて大人になるのかもしれない。 ディズニーや、手塚治虫によって、始められたアニメーションは、その後、テレビアニメという制限や、CGのに登場によって、そのあり方をさまざまに問われながら、変化してきたけれど、その形がある程度整ってき始めているのかもしれない。 今夏の『崖の上のポニョ』で、宮崎駿は、今までの制限された中でのアニメ製作という枠をとりはずして、手書きにこだわり、枚数制限を無視して思いっきり、書きたいだけ書いた手書きフルアニメーションを作った。これは。たぶん、アニメーターの究極の夢だろうと、思う。それまでは、テレビアニメなどの経済的、時間的制約によって、絵の枚数や、動きに制限を入れざるを得なかった。それを今回抜きにして、手書きにこだわりきったアニメーションを作った。 その一方で、今年の夏の二大アニメーション作品のもうひとつ、『スカイクロラ』は、大人向けのシリアスで、シビアで、そして、今までの迷いをもう一つの制限をふりきって、徹底時にリアルさを追求したCGアニメーションを作った。 アニメの世界にCG(コンピューターグラフィック)が現れた時、それが、手書きアニメとどう融合していくのか。たくさんの迷いと、逡巡があった。多くのアニメーターたちが、手書きアニメの中にCGを組み込ませようとして、その調和のむずかしさに戸惑った。手書きの動きと、CGの動きの不調和。どんなにリアルにつくっても、というより、リアルに作ろうとすればするほど、不気味さだけがましていく、CGによる人物描写。 いっそ、CGを徹底的に排除してつくってみたのが、『ポニョ』であり、そして、徹底的にリアルなCGアニメーションを作りあげながら、なお、アニメでありつづけようとする、『スカイクロラ』。(現在リアルすぎて分かりにくいけれど、リアルなCGは、実写版にも実際には、組み込まれているので。) 背景や、飛行機などを、限りなくリアルに作り上げつつ、その一方で、人物をぎりぎりまでラフな線だけで描き出すことで、バランスをとろうとする描き方をしていて、ものすごくむずかしいバランスを、ぎりぎりのところで、つりあわせつつ、手書きアニメとは違う、あたらしいアニメーションの世界を作り出そうとしているのが、押井守なのだろう。 日本の歌謡曲が、Jポップと、演歌にきれいに分裂していったように、ジャパニメーションもまた、子供も大人もたのしめる手書きの人肌のあるあたたかなアニメーションと、大人向けのシリアスなCGアニメーションの二つの道に分かれ始めているその分岐点にあるように思った。 スートリー自体は、過剰なほどの前宣伝によって、ほとんどネタバレされていて、映画をみても、その謎は、最後まで解き明かされることは無い。けれど、今の時代、「スカイクロラ」をみたいと思い、見に行くような人たちであれば、だいたいストーリーの裏側にある謎は、ほぼ想像がつく。そして、そのタネアカシは既に今までのいろんなアニメや漫画や小説でされてきていて、いまさら、その謎を作品の中でといてみても、白々しいだけなのかもしれない。だから、今作では、そんなベタな結末は、なしだったのだろうか。監督の描きたかったものは、もっと違うところにあるのだろう。 物語の舞台は、地球に似ているけれど地球ではないどこか別の世界。この設定自体がすでに、もう、いままでに何度も使われてきたものなのだし。 日本ににた国。ヨーロッパににた国。 第二次世界大戦はなかったけれど、戦争はある世界。 けれど、大人にならない子供のままの人間なんて、もちろんいるわけはなくて、大人ではないはずの「キルドレ」たちは、コーヒーを飲み、ビールを飲み、タバコを吸い、セックスをする。 コーヒーもタバコもビールも大人のものだけれど、それらでは、大人の証明にはならないらしい。 彼らが誰かを好きになった時始めて、大人になりたいと本当に思う。そう思った時はじめて、いつまでも大人になることを許されないキルドレの世界に息苦しさを感じ始め、そこから抜け出したいと思ったのだ。そう、思った時、父であり、師である「ティーチャー」を、殺し、乗り越えていかなければならなくなる。 子供は大人になろうとする時、自分の中の親や師の存在と精神的に戦い、打ち負かし、乗り越えていかなければならない。 ところで、「ショーとしての戦争」は、今の私たちの世界にある「ショーとしてのスボーツ」と、似ている。キルドレたちは、「ショーとしての戦争」のために、その存在、人間性、人生までをも、世界にささげて奉仕しているわけだけれど、今の世界の「野球」や、「サッカー」も、また、それに似ている。 プロ野球選手やプロサッカー選手を目指して、子供たちは、勉強や私生活までを犠牲にして、スポーツに打ち込む。場合によっては、家族までをも巻き込み、家族の生活まで犠牲にして、一人の子供をスポーツ選手に育て上げるという状況。 プロ選手になれるのは、ごく一部。一握りの子供たちだけだ。しかし、その一握りの人材の育成のために、数多くの選手候補生として、多くの子供たちは、その少年時代をスポーツにささげなければならない。その結果として、プロにならなかった多くの子供たちは、体を壊したり、勉強も学歴もないまま、自分たちの人生の途中で、スポーツの外の世界に放り出されてしまうのだ。 そんな子供たちの犠牲の上に、大人たちの見る娯楽としての、「ショーとしてのスポーツ」があるのだ。 そんな子供たちは、プロ野球選手や、プロサッカー選手をかっこいい存在として、みせられ、あこがれさせられて、勉強がだめなら、スポーツでという幻影や、洗脳で、気がつけば、スポーツも勉強もどちらも中途半端で、身につかないまま、ある日突然、大人の世界に投げ出されてしまうのだ。本来体を動かすことを楽しむための遊びであり、自分自身がやることで楽しむはずのスポーツが観賞用の大人のための娯楽となった時、そのための選手たちは、その人生を命がけで、提供しなければならない。 映画の中の「ショーとしての戦争」を、所詮異世界の話なんだからと、笑ってみてはいられない。 大人の娯楽のために使いつぶされる子供たちは、私たちの世界にもいるじゃないか。 ほぼ面白かったと思います。戦闘機の飛ぶシーンがすごいということなので、飛行機大好きの夫を誘って行きました。でも、戦闘のシーンは、すごかったけど、思ったより少なくて、しかも、展開がすごく早いので、何がどうなったのか、誰の飛行機がおちたのかとか、ぜんぜん分からなかったりして。せっかくのかっこいいCGシーンなので、もっと、じっくり見たかったかも。劇場で見たほうがぜったいいいんだけど、DVDになったら、借りてきて、もう一度見直してみてもいいかも。 草薙水素の声が菊池凛子さんなんだけど、重要な役どころの割りに、声が浮いてて下手だなあと、さすがに思ってしまった。最近のアニメが、声優を使わずに俳優を使うので話題づくりにすぎないと、不評なんだけど、私は、もう、数の限られた声優の毎回いろんな人物が同じ声っていうのに、うんざりしてたので、俳優起用は、悪くないと思ってたのですけれど、今回の菊池さんの声は、もう少し演技欲しかったですね役どころとしては、わりとさめた人物なので、わざとたんたんとしゃべっていたのかも知れないのだけど、だからこそ、そのあたりの微妙な心理の変化をうまく演技して欲しかったです。 スカイ・クロラ The Sky Crawlers@映画生活 アニメーション映画
2008年08月04日
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ドレスアップフルボディガールズここで↑ マイキャラを作ってみた。毎度楽天のことなので、貼れないのかなと、思ったら、貼れました。パチパチ。 ようするに、アバターなんだろうけど、ヤフーにしても、ハンゲームにしても、有料だから、ねえ。無料なぶん、デザインが少ないし、外国のサイトらしいので、英語ばかりで、分かりにくいけど。きせられる服もかなり、よってるし。でも、それなりに、自分の好みでつくってみると、面白い。もろ、秋葉系ですねー。だって、他にいいのなかったのだもの。夏の暑さにうんざりしてる時には、いいですね。気晴らしに。
2008年07月30日
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