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高校二年生の娘もとうとう塾にいれました。大学受験の塾、予備校って山の数ほどあるじゃないかってイメージだったんだけど、いざいかせようと思うと意外と少ないことに気がついた。高校受験のための塾というと、大概は家からスグのところにあったし、自転車でいけるところにあった。でも、予備校となると、有名なJRの駅の辺りにしかない。新宿とか、渋谷とか、御茶ノ水とか、秋葉原とか。場合によっては、とてもじゃないけど、家から通うのは無理だなあっていうところのほうが多い。下手すると、塾予備校の講義の時間より、そこに通うまでの時間の方が多くなりそう。そんなことやってたら、時間と労力無駄かも。ちょっとマイナーな知る人ぞ知るっていうような塾は娘にはぜんぜん関係ないし。ほら、鉄緑会とか、平岡とか。長男の時は、ふーん過ごそうな塾だなあと、思いつつ、その気になれば通えないこともないかなと思うような塾。でも、娘となると、関係ないのね。ぜんぜん。大手の予備校もパンフや、サイトみてると、ホントにあくまで早慶、国立がメインなんだよね。うーん。微妙にとらえどころが違うかも。都心の予備校に通わせるとなると、帰りが不安です。普段がバス通学なので、都心から帰ってくると、駅からのバスがもうない。自転車でかえってこれないので、ここで予備校通いをさせることが難しくなってきました。 というわけで、家から自転車で通えるメジャーなところにしました。見にいったら、こじんまりして小さいけど、授業も役に立つか疑問だけど、まあ、とりあえず、モチベーションをあげるためと、自習室使うには、家から近いほうがいいからね。自習室に50回いくと、図書券だかくれるそうです。そういう釣りが大学受験にまであるのですかね。もともと中学受験から始めたとひろなので、話を聞いていると、ハウツーが中学受験とそっくりでした。いやあもう大学受験でここまでするのかなと、思いましたが、まあ、女の子なので、やんわり優しく厳しすぎず、きつすぎず、ほどほどに通って、なんとか受験をのりきってほしいのですが。どうなるんでしょうねえ。 女の子は男の子と方向性が違うから難しくって、悩んじゃいます。
2009年11月19日
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高尾山のケーブルカーからみる紅葉は美しいらしいと聞いて、いってみたかった、秋の高尾山。去年はあまりの混雑に挫折しましたが、今年はそのリベンジで平日におやすみをとって、朝早くに出かけていきました。でもでも、おやすみをとった日はなぜか大降りの雨。高尾山にも、嫌われている。しくしくしくしくしく。しかし、その雨にもめげず出かけてきました。雨ならきっとそんなに混んでなくていいかもしれないジャないか。 紅葉シーズン専用の車体なのでしょうか。もみじ号。雨だったけど、そこそこには他の観光客の方たちも来てました。みんな傘さして、黙々と山道を歩くのです。 ケーブカーを降りるとすぐに目に飛び込んでくる天狗焼きの文字。黒豆あんが入ってます。このデザインチョーかわいい。すんごく気に入ってしまいました。生地がふわふわでね、時々あんの中に黒豆の味がわかるんです。 雨は小降りになることなく、どんどん土砂土砂 降ってきました。このあと、薬王院でおみくじひいたら、凶でした。最近次から次と体のあちこちが壊れるし、なんか最近いろんな意味でついてないというか、呪われてるというか。いろいろと家の中のものもこわれまくってるし。日ごろの私の行いがよくないんでしょうね。「あたってる!」と思ったので、引きなおす気もおこらず、そのままもちかえってしまいました。だって、この日も見事に雨だしね。 でも、まだ時期が早かったらしく、あまり紅葉はみられませんでした。ケーブルカーの紅葉がまだぜんぜん青くてだめでした。薬王院のいくつかの紅葉がなんとか見事に赤くなっていたので、それでいくらか見られたということです。まだまだ今年はこの時期にしては、あたたかいですからねえ。来年またリベンジできるかな。 鼻の高い天狗は一説では白人かロシア人ではないかとも、言われているとか、いないとか。 でもって、緑のからす天狗。高尾山はからすと紅葉のお山なんですね。私もここで修行して、カラスの羽をつけて山を飛べるようになりたいなぁ。 奥の院のこの紅葉が一番きれいでした。そして、そのあとは、宿坊の方も見に行ってみた。 本殿のさらに奥に行くと行くと、宿坊があります。ここで、精進料理がいただけると以前から知ってはいたのですが、食べたことはありませんでした。今回は雨のせいもあってすいてまして、予約なしでも大丈夫ということで、初めて精進料理をたべてしまいました。 お皿自体は質素なものですが、手間隙かけたお料理。肉や魚が使っていないだけで、野菜類いも、きのこなどだけのものですが、豪華でした。修行僧はもっと質素のもの食べてるはずだと、思うんですけど、受付の人も体格よかったし、今の時代はそんなに粗食でもないのでしょうか。それはともかく、はじかみとか、いままでたべたことのないめずらしい食材がいろいろ使ってあり、おもしろいし、おいしかったです。初体験でした。お値段は安いほうのコースで2500円です。 さらにセルフサービスだけど、デザートで、お汁粉とゼリーもついてました。おいしかったです。 でも、この日この100畳くらいありそうなお部屋には私たち二人だけ。時間が早かったせいもあるかもしれないけれど、広くて静かな中でのんびりとお食事できて、くつろげました。ごちそうさまでした。なんか紅葉見にいったというよりも、お料理食べるために山を登ったような感じです。帰りの雨の中の道はなんとなく行きよりラクでした。ああ、でも、今日起きたら、ふくらはぎが痛くて。運動不足です。今度こそよい天気にであえますように。
2009年11月12日
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日本航空がモデルの山崎豊子のビジネス小説。かな? 労働組合のリーダーとして、会社側との交渉に勝ち、年末手当4,2という回答を勝ち取った辣腕の主人公恩地。しかし、そのごり押し振りが会社の経営陣の反感をかってしまい、僻地へと左遷されてしまう。そののち、日本に戻ってきた、彼は、さらに御巣鷹山の事故の処理という仕事に携わる。この事故をきっかけに退任した会長のあとにやってきた新しい会長の下、会長直属の室長として、新しい国民航空改革にとうちこんでいく。その裏で、会社の経営陣は、汚職等、会社の利益を裏の手口で自分たちのふところにいれるような事態になっていく。 腐っていく国民航空内部。しかし、改善の途中で、会長は、辞任に追いこまれ、会長の下で働いていた恩地もまた、かつての左遷の地、ケニアに再度、とばされてしまうのだった。 会社の不正と、戦い続ける善人として描かれる主人公恩地。会社の利益を裏から自分のふところにいれる重役たち。 でも、最初に会社の利益をむさぼり始めたのは、恩地自身ではないのだろうか。 労使交渉での組合の要求は、年末手当4.2だったけど、年末ボーナス4.2ヶ月ってことは、一年で8.4ヶ月ってことですよね。だいたいボーナスの相場は、年間4ヶ月くらいだと、思うのですよ。メーカーがだいたい4ヶ月で、金融とかはもっといいはず。そして、一番安いのが、建築で2.5ヶ月くらいです。今はどうかわからないけれど、昔私が就職しようとしたころの相場はこのくらいでした。 それが、1962年当時に、8ヶ月以上のボーナスを会社側に要求しているわけだから、かなりむちゃくちゃというか。ごり押しですよね。主人公恩地は、このあと、御巣鷹山で死んだ人の遺族の人たちの気持ちをくんで同情的に行動しますが、この最初の時は、労使交渉のために、ストまで結構しようとしています。飛行機がストなんかしたら、どれほどたくさんの人が困ることか、しかも、こんな高額の手当ての要求でどれほど会社の経営が苦しくなることか。おかげで、日本航空のチケットって世界一高いですしね。 御巣鷹山事件が会社の経費節減による安全性の欠如であったとしたら、会社が悪いだけでなく、ここまでの高額のボーナスを会社側に要求した恩地自身の行動も影響しているのではないでしょうか。 後半会社内の経営陣や、関連会社、政治家を巻き込んでの汚職事件などもでてきますが、会社に金を求めることを一番最初にしたのは、恩地自身ではないでしょうか。 恩地自身もまた、資本主義社会の中で、高額の収入を得ることという価値観に洗脳されていのではないでしょうか。会社に迫害されている割には、物語の中でかれの自宅はだんだんランクアッブしていきます。最初は団地住まいだったのが、一戸建てになり、そのあと、さらに現代風のきれいな家になっています。迫害はされてますが、しっかり高給は、もらっているのですよね。家一軒買うのすら、普通の私たちはすごく大変なことなのにね。迫害されても、恩地は決して会社を辞めませんでした。彼の教示にかかわるからと、彼はいいますが、あれほど必死に会社と戦い、かちとった高収入を投げ出すのはばかげています。しっかりと、自分たちが勝ち取った権利は、もらうべきですから、彼が会社を辞めないのは、当然なのかもしれません。 さらに、左遷された土地のケニアでの猛獣ハントや、その獲物を剥製にして部屋に飾っている趣味の悪さといい、御巣鷹山事件での彼の人情味ある行動とのずれを感じてしまいました。 高額のボーナスの要求や、御巣鷹山事件での、補償額の交渉など、彼には、経営者としての視点がありません。そして、ごり押しによって、会社の経営陣側から徹底的に嫌われてしまいます。実際、彼があそこまで強硬な行動をとらなければ、あのあと、国民航空社内で、傀儡の組合ができたり、複数の組合ができたり、かつての組合の同僚が彼と同じように会社側に迫害されることはなかったかもしれません。 恩地は、会社内部の不正を調べるためにアメリカにとびます。アメリカの動物園の中には、「地上最強の生き物」として、その文字の前に、見物している人間たちが格子越しに見えるよえになっているところがあります。ちょうどそこに立つのが恩地です。人間こそ地上最強の生き物であるという、ジョーク。でも、そのほかにも、物語の中で最悪の人物という遠まわしなメッセージでも、あるようにみえました。 8ヶ月も社員にボーナスを持っていかれたら、会社はたちゆかなくなってしまわないのでしょうか。会社の安全性のために必要だと、恩地は言うけれど、安全性のためなら、機体の整備などにも、経費をかけなければなりません。でも、あの巨額の人件費のせいで、整備や機械部品などがけずられたのだとしたら、会社自身の経営が圧迫されているとしたら、どうなのかと、考えると、恩地の行動は、最も、会社の金を食い尽くす行動だったのでは。 そして、狭い日本の中のさらに一つの会社の中での出世を目指す。そんな狭い世界、狭い視点にとらわれている自分自身に、ラストで恩地ははじめて気づくようでした。 そして、今現在物語モデルとなった日本航空が本当に経営不振で倒れそうです。だって、日本航空って給料いいものね。つぶれるはずだよね。とダンナと話します。他の会社が2.5ヶ月とか、4ヶ月とか、さらには、ボーナス減額というきびしい状況で働く中で、高額の給与をもらいつづけているのだとしたら、この先どうなるのでしょうか。 恩地は、会社のためといって、常に誠実に働き続けてはいますが、彼には、経営者としての、金銭的視点がないようにも見えます。会社は打ち出の小槌ではないのですから、たとえ必要であったとしても、いくらでも彼の要求のままにお金をだせるわけでもなく、そいうい方向での見方ができないかぎり、恩地は、アフリカにとばされつづけてしまうのではないでしょうか。 ラストで、ふただひ、アフリカに戻った彼には、もう猛獣ハントはしないでほしいです。 出世とか、お金とか、そんなことに必死になって、狭い日本の中で暮らしてるなんて、どうしてでしょう。私はできれば、世界中をまわるような仕事の人と結婚して、世界中のいろんなところに住んでみたかったです。仕事があって、収入を約束されつつ、世界のいろんなところに暮らせるなんて、ある意味贅沢じゃないのかな。 そんなことに気づく余裕も彼にはなかったのです。というよりも、あの時代日本全体が、そんな価値観の中でいきていたのですよね。長い映画なので、真ん中に10分の休憩がありました。休憩のある映画なんてはじめてかもしれません。トルコあたりだと、結構あるそうですが。トイレにいこうとしたら、ドアの前で、飲み物やホットドック売っていました。商売うまいなぁ。休憩のおかげでエコノミー症候群にならなくてすみました。ははははは。重厚な映画で飽きることはなかったけど、クビがいたくって辛かったです。 沈まぬ太陽@映画生活
2009年10月29日
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放蕩を繰り返す夫にひたすら献身的につくす妻。という感じの宣伝だったのですけどね。でも、私は見てみて、ちょっとちがうかなぁと、思いました。とにかく夫も、妻もどちらもよくもてる。放蕩三昧の大谷も、その妻のサチも、どちらも、周りから見ると魅力的らしいのです。 小説家大谷は、汚れるのをいとわない男。そして、人は生きていく限り汚れてしまうものだと、覚悟している男。その汚れていく自分自身を徹底的に見つめて、文学にまでできることのできる人間は、でも、めったにいない。 大谷とは、逆に司法家を目指して、そのために自分が汚れるのを恐れた辻は、かつてサチが好きだった男。彼のために盗みまでしたサチをみすてて逃げ出して、汚れることから逃げたはずの彼も、出世のために汚れきった銀行家の娘を妻にしようとしている自分の中の欺瞞と汚さにきずいてしまう。人はいきている限り汚れざるをえなくて、どんな人間にもかならずどこかで、ウソや、欺瞞や、ズルやそんな汚さをあびながら、生きていくしかない。そうきずいた時、辻は、ただ自分の本音に向かい合う。人妻だけれど、惹かれているサチに、大谷の裁判の代償を要求する。 辻を惚れた心のままに行動した結果、泥棒してしまったサチを、交番で見かけた大谷は、強引にサチを救い出す。彼女の美貌は、物語の中であう全ての男を魅了する。そして、そのサチに一番魅了されたのが大谷で、サチが浮気しているかもしれないと思ったとたんに尾行までするほど。放蕩をして妻を泣かせているようにみえる大谷だけど、本当に好きなのはやはりサチなのだろうか。通りがかった交番の中で、惚れた男のために盗みまでしてしまう純粋で美しいサチに一瞬で魅了され、惚れたのではないのだろうか。 自分が汚れるのもいとわないほどに。 そして辻もまた、汚れることで初めてサチと体を重ねることができる。 サチは、大谷と、辻と、いったいどちらが好きなんだろう。交番から助け出されたことをきっかけに大谷の妻となったけれど、本当は初恋の相手の辻を今でも好きなのだとしたら、夫の心中事件の弁護を頼むことをきっかけに、夫のためという名目をもって、本来一番好きだった辻と、一度だけ関係を持つことができた。サチの行為は、夫のためではなく、それをきっかけとした、本音の実現だったかもしれない。 辻を好きだったサチを妻にした大谷は、サチに惚れていながら、妻の心が本当は別のところにあるのかもしれないと、ずっとそんな不安を抱え続けている。その心の不安が浮気であり、心中あり、放蕩であり、そして、彼は自分の中の汚さをずっとずっと見続けている。 自分の中の汚さにタップリと浸る夫に、好きな男と寝た自分の心の奥底の本音を見つめている妻は、言う。 「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」 いいじゃない。私たち汚いまま生きていきましょうよ。 人は汚れずにいきていくことなんかできないんだから。松たかこさん。ほんとーにきれいですね。もともお嬢様キャラなのに、貧乏人の役が多いのはなんでなんでしょうねえ。でもって、太宰治、いいですねえ。読みたくなりました。昔、「人間失格」呼んだことがあるのに、その内容をまったく覚えていないのですよね。若い頃は文学なんてぜんぜんわかんなかったのに、どうしてあんなに無理して本読んでいたのかなぁ。昔友達に誘われて桜桃忌に、三鷹の太宰の御墓に行ったことがありますが、太宰自体はぜんぜんわかっていませでした。今でも、人気のある作家のひとりですが、近代文学ってすごいって、最近やっとわかってきたかも。情けない。いやいやそれだけ幸せにいきてこれたってことなんでしょうね。 ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~@映画生活
2009年10月22日
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高校はいよいよ今週から中間試験です。来年は、娘もいよいよ受験生で、勉強するのも受験科目に絞られてきますが、今はまだ高校二年生。できれば、いろんな分野を勉強してほしいですが、中学の時ほど内申は受験に影響しません。ので、定期テストも、どこまでやるものやら。 そうはいっても、赤点とったらたいへんです。なんてことに関係なく、勉強しております。 今の時期高校二年生は、古文で『伊勢物語』の『小野の雪』をやっているようです。娘に意味がわからないと、昨日聞かれました。「古文の先生が授業で説明してくれたでしょう。」と聞くと、あんまりちゃんと聞いていなかったから分からないといいます。おいおいおい、塾とか、勉強以前に、まずちゃんと授業聞かなくちゃだめじゃん。 で、私も説明のために読んでみたのですけれど、よくわからない。ネットの現代語訳を読んでもよくわからないです。高校の古文って私が高校生の時もよくわかりませんでした。高校の古文って、文法を勉強して、現代語訳してそれでだいたい終わりです。その文章が何を意味していて、何をいいたいのかとか、古文の平安時代の時代背景とか、その時の生活習慣とかは、あんまり説明してくれないのですよね。だからよく分からない。大学に行くと、国文学なんかだと、先生も大学教授なので、とても、専門的で詳しい説明をしてくれるので、大学の時の方が専門的に勉強する割には、高校より分かりやすかった気がします。それまでに自分も受験のために勉強しているせいも、あるのかもしれませんが、やはり大学は、プロフェッショナルな授業をしてくれます。あ。だから、大学教授のことをプロフェッサーっていうんですね。プロフッショナルな仕事をする人。 で、ネットをいろいろ見ても、訳はのってるんだけど、その内容の具体的な説明ってなくて、私も娘に説明するのに、苦労しました。今もう一回調べ直して、現代語訳を見てみると少しだけわかってきましたが。このアタリが、高校生がいつまでたっても、古文ができるようにならない理由でしょうかねえ。うちの子だけ?『小野の雪』原文はこちら現代語訳はこちら 『小野の雪』は、惟喬親王と、その部下の右馬頭の物語です。 二人は、離宮(別荘みたいなものです)で、鷹狩りをして、その後、都に戻ってきます。親王を宮中まで送った後、早く帰ろうとする右馬頭に、親王は鷹狩りのお供をしてくれた御礼に、褒美をくれたり、お酒をだしてくれます。そして、右馬頭を引きとめようとする。早く帰りたい右馬頭ですが、親王のためにその夜は、ひきとどまって、一晩二人で語り明かし、飲み明かす夜を過ごしました。この時に右馬頭が読んだ歌が、 本当は早く帰りたいのですが、親王が強く引きとどめるので、このまま残って今宵は一緒に過ごしましょう。けれど、今は春なので、夜が短い。秋の夜長なら、もっとゆっくりと長い時間を過ごせるのに残念です。 と、いう意味だと思います。でも、現代語訳や説明では、ここまで解釈できません。私の解釈なので、違うかもしれませんけどね。右馬頭は、たぶん、親王が小さい頃からずっとお仕えしていて、かわいくてしょうがないのではないでしょうか。大好きなんですね。きっと。親王のわがままに対して、「しょうがないなあ」と思いながら、ほんとは嬉しくて楽しいのではないでしょうか。 さて、ここで疑問なのが、どうして、秋の夜は長くて、春は、短いの? 秋は、日の出が遅く日の入りが早いので、夜が当然長くなります。でも、この物語の時期は三月で、夜明けが早く、日の入りが短いので、夜が短いのですね。 このあと、親王は出家してしまいます。この時にまた、右馬頭がたずねていきます。親王がいる比叡山のふもとの小野というところ。正月で雪が深く、仕事のある右馬頭は、もっと親王と一緒にいたかったのですが、しかたなくそうそうに帰ってしまいます。彼はこの時、昔、一緒に鷹狩りをした時は、親王のひきとめられるままに、夜を過ごしたのに、今は、こんな雪深いさびしいところに一人で仕事もなく、することもなく、さびしくすごす親王を哀れに思い、その親王を置いて帰らなければならないことを辛く思い、悲しく思うという物語です。 翁と書かれているので、右馬頭は高齢で親王より年上なのだと思いますが、親王は、親王であっても、皇太子ではなく、天皇になれるわけでもなく、仕事があるでもなく、出家するしかない立場です。生きがいもなく、父王のいた若い頃は親王として大切にされ、わがままに振舞っていたけれど、年を取ると仕事もなく、することもなく、居場所をもなく、出家するしかなかったのでしょうか。この時代、親王はたくさんいたので、天皇になれない親王のほうが多かったのだと思います。 そう思うと、光源氏は、子供の頃に父の帝の決断で、親王のままでなく、臣下にくだされて、親王でなくなっています。源氏の母の実家はすでに父もなく、力のない家なので、バックアップのない源氏の君は、親王のままでいても、将来天皇にはなれないでしょう。だったら、親王のままでいるより、臣下となって仕事を持って働き、自分の稼ぎで堂々と生きていった方が、頭のいい源氏の君の能力を宮中でくさらせることなく、生かして、生きがいを持っていきていけるだろうと決断した桐壺天皇は、えらかったと、思います。 でも、現代は、跡継ぎがいなくて困ってるのだから、タイムジャンプして跡継ぎをつれてこれるといいのですのにねえ。 というのはいいとして、こういう親王とその部下の、ビジネスライクじゃない人間関係や、心の交流やつながり描かれた物語なのですよね。でも、文法やって、現代語訳だけやって、とりあえず、暗記してテスト受けても、そういうのは、わからないし、だとすると、高校で古文勉強している意味ないでしょうにねえ。 それとも、このアタリの説明本当はちゃんとやっているのでしょうか。うちの娘が聞いてないだけかな。しょうがないなぁ。さて、それではもう少し深読みして、どうして右馬頭は、鷹狩りの時は、残ったのに、小野では、そうそうに帰ってしまったのでしょうか。一度目は、親王は、親王として社会的に高い立場でした。だから、右馬頭が翌朝の仕事に遅刻しても、親王に引き止められたからであれば、責められることはなかったのでしょう。でも、出家して社会的に力のない親王のせいで仕事に遅刻すれば、言い訳は聞かないし、仕事のなくなる危険性もあります。だから、右馬頭は、早めに帰ってしまうのです。ここで親王の社会的な立場と権力の違い、変化があるのです。そういう、社会の権力の変化や不易流行、栄枯盛衰に似た感覚が、世の中の権力の移動、立場が変わると、仲のよい臣下であっても、そうそうに帰ってしまう哀しさ、世の哀れが語られている物語でもあるのだと、思います。以上は、私の勝手な解釈なので、間違っているかもしれません。ご了承ください。
2009年10月19日
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ここのところ、ちょっとブログの更新が滞り気味です。なんでかっていうと、ゲームが面白くって、そっちばかりやってるから。笑最近はじめたのは、「みんなの冒険大陸カナン」です。これは、ブラウザゲームというものらしくて、なんか軽いです。内容的にもシステム的にも、かなり遊びやすいです。レベル30くらいまでは、そんなに苦労なく、さくさく進みます。 オンラインゲームは、基本的にすごくパソコンの容量を使うので、いいパソコンをもっていないと、なかなか楽しく遊べません。普通は大概パソコンでやることは、ネットを見る、メールする、文章をうつ、ブログを書く、買い物をする、動画を見る、くらいでしょうか。そんなに高性能のパソコンでなくても、できちゃうんですよね。パソコンで、プログラムをつくるとか、絵を描くなんていう、専門的なことに使うなんていうのは、ごく一部のこと。だとすると、高性能のパソコンの売り上げや、技術的な部分の開発を一番要求し、促進しているのは、実は、オンラインゲームなんじゃないかなと、思います。オンラインゲーム自体は、それほど専門的な知識がなくても、あそべるのに、意外とパソコンの性能が必要。スペックも必要。オンラインゲーム自体で、収益を上げるという時代から、ゲームを遊ぶために、よいパソコンがほしくなるという利用者の要求に対しての反応によって、パソコンを売るために、ゲームがあるというような時代の変化があるきがします。 ゲームサイトによっては、ゲーム推奨パソコンを買えるサイトにつながる広告が出始めています。 ネトゲ中毒が話題になる一方で、パソコンの技術向上と売り上げをのばすものがオンラインゲームだというのも、面白い話です。 その一方で、スペックが軽くても遊べる軽いゲームや、ボットなどのでない遊びやすいゲームもだんだん開発されはじめているようです。
2009年10月16日
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あの人気子育て漫画「ママはぽよぽよザウルスがお好き」の思春期編です。 リュウ編と、アン編があるらしいのだけど、とりあえず、リュウ編だけ買えたのです。 子どもも二十歳になればいいかげん大人になって、手がかからなくなるかと、思っていたら、ぜんぜん!!!成人したはずなのに、精神年齢は未だに子供です。どうしてこんななんだろうと、悩んでいたら、リュウくんも、うちの息子とそっくりです。どこもおなじなんだと、ほっとしました。結構うちの息子と行動パターンが似ていて、安心しました。 高校の頃、時間割そろえるのがメンドウで、いつもカバンに全部の教科書入れてたりとか。大学生だと、昼間で寝てたりとか。出かける時、いろいろと忘れるので、結局母として、いろいろ声かけしちっゃたりとか。幼稚園時代から、小学校、中学校、高校と、その時のいろんなエピソードなんかも描いてありました。 そして、そんな男の子を育てる母親のいらいらや不安や、不満や、辛さも描いてあって、共感度タップリ。思春期でぜんぜん口を利かない息子の態度の悪さにいかったり、喧嘩して悲しくて泣いてたり、でも、成長して独り立ちして出て行こうとする息子にショックを受けてたり。息子と喧嘩したあと、毛布にくるまって泣いていたり、それがますます腹立たしくなって、さらに子どもに怒ったり。息子と喧嘩した夜は、息子が家出しちゃうんじゃないかと、心配で寝られなかったり。そんないろんなエピソードがすごく似てる。もっとも、うちは、二年間ほとんど口をきかないとか、家出しないか心配とか、そういうことは、とりあえずなかったけど。 男の子を育てているお母さんには、共感度200パーセントです。 で、買ってきたこの本を見てうちの子達も、「あ、ぽよぽよだ」と、言って、読んでいました。これを読んで、息子にも、子育てしている母親の心情や辛さをわかってほしいと、思いましたが、彼は、読みながら、母親ともめてるリュウの方に「うわ、ひでえ、リュウかわいそう。」と、逆の方に共感してました。子どもには、子どもの事情や、気持ちがあるんでしょうねえ。 とりあえずもう、これ以上子どもにあれこれ言いたくなーい。 早く大人になってほしいけど、出て行かれるのはさびしいし、でも、いるとうざいし。相変わらず子どもだし、えーーーーっとお。どうすればいいんだろう。 いつも行くクリーニングやさんのお姉さんに子育ては一生よっと、やっぱり言われました。彼女、男の子三人の母です。はぁっ。 ↑たぶん、表紙のリュウは、美化されすぎだと、思う。
2009年10月09日
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息子の机の下に落ちてました。こういう奴なんだよねえ。わかるでしょうか。
2009年10月07日
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有楽町マリオンで映画を観終わった後、通りの向こう側のニュートーキョービルの地下にあるイタリアンレストランでランチを取ろうと考えた。ところが、この店。メインのスバゲティ以外はビュッフェスタイルのせいか、混んでいた。それでも、すぐに席を通されて、待つこちしばし。ところが、私の後から来た4人のグループの方にウェイトレスが先ず水を運んでオーダーをとった。よくわからないので、様子をみつつ、そのあとに私もオーダーをたのんだ。ところがそのあとも、私の席に水はとどかない。嫌な感じがしたのだが、それは当たっていた。先に頼んだ四人組にスパゲティがだされ、そのあとに席に着いた二人にも、料理がきたのに、私にはまだこない。しかたないので、去ろうとするウエイターに、まだ料理が来ないこと、自分が先に着ていることをつげた。すかさず、ウェイターは、スパゲティをもってきたのだけれど、それが私の頼んだものとちがう。6分かかるけれど、いいですか、といわれしかたなくまった。こんなにまずいスパゲティをたべたのは、はじめてかもしれない。味だけが料理のすべてじゃない。ウェイターの人もウェイトレスの人も謝ってくれたけれど、それで私の不愉快が消えるわけでもない。とても情けなくて、いやーな気分で、悲しくて、一日ずっと憂鬱な気分だった。水はでないし、オーダーはまちがわれるし、しかも、他の人たちより後回しにされていたし。どう考えても、ただのミスというより、作為的ですらあったようなきがする。私の行動のなにかが、店側にこんな行動をとらせたのだろうか?だとしたら、それはなに?禁煙席を指定したから?安っぽいティーシャツ姿だったから? そのほかにも、デザートのコーヒーゼリーは、ものすごくまずかったし、もうひとつのミックスフルーツはあきらかに、缶詰だし。コーヒーメーカーのコーヒーは、ぜんぜんでてこないし、サラダのさらにサラダはぜんぜんなかったし。これのどこがビュッフェなのですか。 ものすごくひどいお店だった。安いから混んでいたのかもしれないけれど、もう二度と行きたくない。しかも、しっかり代金は、とられたし。 それにしても、最近は外食するとどこのレストランもひどくて、すごくなさけない気分になることが増えた。ロイヤルホストは、油ギトギトの、メタボリックなメニューばかりだし。メニューをはしからはしまで何度見ても、たべたいものがなくて、30分もえんえんと悩んで困ったこともあるし。以前は、おいしいおみせだったのに。 世の中の不景気をひしひしと感じてしまいます。 ところで、このお店であじわった不愉快な気分は、ココ・シャネルが味わった感覚はまさにこんなだったのだろうと、私に感じさせた。映画の中で、使用人たちが働く台所で食事をとるココ。しみのついたよごれたナプキンに文句をいうと、使用人から「あなたはこれで十分です」といわれるシーンがある。 ココのいるすぐ後ろで「ご主人様の愛人はブサイクだ」と、聞こえよがしにいう使用人たち。 そして、ココを愛人として屋敷にすまわせるバルザンにも、男に奉仕するためだけの存在としてさげすまれるような扱われ方をされる。 使用人にも愛人にも、馬鹿にされ、軽く扱われたココの味わっていた感情はたぶんちょうど、私がレストランで映画を見たその同じ日にあじわったのと同じ感じだ。彼女はずっとこの不愉快をその人生の中で味わい続けたのだろうか。 そして、この時代。彼女だけでなく、女性たちもまた、男にとっての飾り物でしかない。男に寄生していくことでしか生きていくことができなかったのだろうか。女たちが、レースやリボンやフリルのタップリついたドレスで着飾っているのを見た時、ココは言う。 「デコレーションケーキみたい。」 それは、女たちが男のための飾り物の存在として扱われていることをあらわしている。そして、ココのような身分の低い女性だけでなく、貴族の妻たちでさえ。 ウェストを締め付ける苦しいコルセットや、頭をふるたびに落ちそうになるような飾りだらけのチンプな帽子。デコレーションケーキのようなドレス。男のために不便を我慢して着飾る女たちを見た時、シャネルは何を考えたのだろう。 男のためでなく、ドレスを着る女性自身のきごこちのよさのためにあるドレス。男にたよらず、自分自身の力で生きていくためのドレスをココは作り始める。愛人のバルザンやボーイ・カベルの男物の服をリメイクして着始めるココ。今でこそ、ズボンもボーイッシュな服もシンプルな服もしごく当たり前なものだけれど、この時代にズボンをはき、男物の服をきるココは、どれほど奇異にみえたことだろう。 フリルもレースも、リボンもないシンプルな黒いドレスを作り出したココの感性は、この時代に、いきなり、100年の時間を飛び越えるほどの革命でもあったろう。 ココシャネルの服は、ただデザイナーがきれいなかわいいファッションとして作る服なのではなく、女性が自立して生きていく、男のために着飾ったり、我慢したり、苦しい思いをしたりしない服なのだ。だから、その基本のスタイルは、100年たっても、200年たっても変わらない。 シャネルというブランドは、自分の心のままに生きていくというココの思想そのものが、服になったものなのだと、この映画をみてはじめてしりました。 けれどシンプルで自由を意味した、有名なシャネルスーツは、今では、お金持ちのステイタスであり、豪奢なものというイメージをもち、彼女が本来語ろうとしたものとは、別のものになってしまっているようでもあります。 シャネルというブランドもまた、お金持ちでないと買いずらいような高価なものとなってしまっています。あるいは、男性の接待をしてお金をかせぐ水商売の世界の人たちに愛用されてしまっているという、なんとも皮肉な今の日本のシャネルという存在。 なんとも、皮肉です。 けれど、ラストにヒロインココがきているシャネルスーツは、とてもきれいでした。それにしも、オドレイ・トトゥさん。アメリだけのはまり役でなく、どんな役でもこなしちゃうんですね。映画の中でだんだんきれいになっていくところが見所です。『ココ・アヴァン・シャネル』公式サイト ココ・アヴァン・シャネル@映画生活
2009年10月02日
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毎度オープンキャンバスについていくのは、本当は過保護だからではありません。私がいろいろな有名大学を見てみたいからです。単純に好奇心です。こんなきっかけでもないと、見にいけないし。大学の講義も聴いてみたいし、学食も興味あるし、たべてみたいし。というわけで、この夏いろいろといきました。立教のオープンキャンパスは、真夏の炎天下に行ったので、体力的にとてもきつかったです。夏のOCは、つらいです。そうはいっても、秋は秋でいそがしいし。で、なぜか今頃のアップとなりました。 池袋のちょっと北西。いささか歩きますが、地下鉄なら、それほどでもないかもしれません。いわずとしれた、マーチの筆頭。ですが、最近の偏差値表は、こまかくまざっているので、なんともわかりにくい。 とにかくきれいな大学です。びっくりしました。受験の時、模試をここで受けた長男がすごくきれいだったといっていたのですが、なるほど。徹底的に管理されて、美麗な構内。びっくりです。どこの芝生でランチを食べてもきもちよさそう。 イギリスの寄宿学校を思わせるようなたたずまい。キリスト教系の学校はたくさんありますが、ここまで徹底的なのは、初めてです。そして、すごい人の多さでした。ハリーポッターにででくるような学食の食堂。でも、そんなに大きくもなく、とにかく混んでいて、並んでいたので、あきらめて、もっと裏のカフェで、カレーをいただきました。こちらは、メニューも少なくて、しかも、辛いものばかり。店内もあんまりきれいでなくて、しかも、安くない。あまりいい感じしませんでした。外の校舎はどこもあんなにきれいなのに。 この木に毎年クリスマスになると飾りつけがされてライトアップされるらしいです。毎年NHKとかが、中継しにくるとか。今でもきれいなのに、さぞやクリスマスは、きれいでしょうねえ。12月の模試には、ここの会場を使うのをおすすめします。さぞや、冬の寒さや、受験勉強のストレスがすーっと解消されるにちがいありません。 そして、明治時代風の建物の中に、近代的なビルも混在していました。たくさんの校舎がコンパクトに敷地内に建っていて、広すぎないので、移動もラクそうです。私は、この日は、史学と会計の講義を聴いて、ガイダンスを聞いて、ランチを食べました。でも、なんとなく講義内容がつまらなくて、途中で出たくなってしまいました。マーチトップの大学なのに、こんなものなのかなと、ちっょと不可解でした。建物のきれいさと、偏差値の高さがなければ、ここの大学は、入りたいとおもえませんでした。でも、人気は高いのですよね。まっ、そんな偉そうなことは、受かってからいうべきです。はい。 「立教大学(文.法.経済.理.社会学部)」エリア東京都 > 池袋ジャンル学校住所東京都豊島区西池袋3-34-1説明立教大学(文.法.経済.理.社会学部)クチコミ立教大学(文.法.経済.理.社会学部)もっと読む
2009年09月30日
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地デジ対応テレビを買いました。32型です。今まで我が家は、極力小さいテレビを趣旨に暮らしてきました。テレビ中心の生活って知性なくていやだと、思っていたからです。それにお金なかったし。 でも、最近は年とって視力が落ちてきてつらくなったのと、大画面でゲームやりたくなってきたからです。ふふふ。 それでも、26型でいいかなと思っていたのですが、値段的に26も32もかわらない。場合によっては、32のほうが安かったりする。で、このシルバーウィークにあてた大セールでいろいろ売り出していたので、とうとう買ってしまいました。我が家のテレビはがんばればまだまだみられたのでので、ちょっとくやしいのですが、たぶん、二年後のチェンジ直前になると、みんながドタンバでテレビを買い始めて、いいやつが買えなくなるかもしれないと、思って、エコポイントのきくうちに買うことにしました。 大画面。 やっぱりいいです。特に映画とか。ラジコン飛行機のDVDとか。 もう一台買わないとならないけど、とりあえず、一台かったからいいや。 ところでですね。今回テレビを買ったので、エコポイントが12000点。リサイクルしたので、そのエコポイントが3000点です。あわせて15000点。 ところが、実際にポイント交換をしようとすると、手数料をとられるのですね。ほぼ400から500ポイント分とられる。そういうところが結構あります。 だから、15000点あっても、実際には、14500までしか使えない。500点のこっても、どうにもうまく使えません。結局使い残すしかない。それに意外と、交換できるものが少ないです。 JCBだと、手数料として、400点かかるので、14000点と400点つかって、600点残る。600点は細かすぎてつかえません。大概のところが1000点以上だからです。(ちなみに、JCBは、14000円分のギフトカードと、500円分のクオカードにかえられるパターンもあるみたいです。これでも、100円分は使い残ってしまいます。それと、JCBのサイトをみないとわかりません。) ほかには大概が500点とハンパな手数料系の費用がかかります。 うまく組み合わせようとしても、パズルみたいで難しいし、なんとか組み合わせられるとしても、こんなの別にほしくないとか、高過ぎて割りに会わなかったりする。ぴったり、手間料なしで、交換でき。百貨店のギフト券もありますが、デパートって今はほとんどかいものにいかないし、割高なものばかりだし、交換したくないですね。 エコポイントなんだから、テレビやエアコンをかった電気店のポイントに交換できたり、次回の家電品を買うために使えるのが一番なのではないでしようか。 で、悩んだ末に私は、図書カードにすることにしました。図書カードだと、3000円以上なら手間料かからずに、全部換えられるのです。 それにしても、このポイント交換システム、絶対ヘン!!!!! もう少し考えてほしいです。 ちなみに、もう一台買う予定のテレビや、DVDレコーダーなどは、二年後でもいいかなと、思いはじめました。日本の電化製品の技術の進み方はめちゃくちゃはやいので、今買えるものと同じレベルの電化製品が、二年後には、今買うとつくエコポイントの12000円分より、安い値段で買えてしまう可能性があるかもしれないと、思えてきたからです。 今までのテレビは、4万円代で買ったもの。それが、32型の液晶が7万円弱で変えてしまいました。比較してみると、すごく安いです。それを考えると、同じものが二年後には、いくらになっていることか。 今買うか、もっと切羽詰って買うか。一種の賭け ですね。 結局いつ買うのが一番いいのか。読みの力をためされるイベントともいえましょう。
2009年09月29日
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いったいいくつ見にいくの?とおもうほど、行きまくりのオープンキャンパスです。あまりにも多いので、私も全部付き合ってるわけではないけど、成蹊大学は一回くらい見てみたかったのと、わりとめざしてもいいんじゃないかと、思いました。中学高校の付属のある、お金持ちの学校のイメージでいたんですけど、大学になると、付属に比べて偏差値がおちるのであれーっと思いました。付属の人たちは、大学はもっと上をめざしてしまうらしいですね。それでも、お金持ちのブルジョーワな雰囲気の学校のイメージがありましたが、いってみると、なんか静かでおちついていて、よかった。それと、面倒見よさそうだし、なにせ、三菱系列の会社とかかわりが深いので、三菱系を目指すには、いい学校ですよね。よく学校案内にのってるのがこのケヤキ並木の写真ですが、実際にナマでみたら、写真ほどではありませんでした。写真てホンモノよりきれいだし。しずかーな森の中のイメージだったのだけど、実際には、商店街をあるいているといきなり、この並木道。そして、想像より短かったです。とりあえず、レトロな本館。一応きれいでした。でも、図書館はすごかった。大きくてりっぱで、SFっぽくて、おもしろい。で、やっぱりいまどきは、親も一緒の人が多い。なんとここには、親と来てる男の子もいたし。^^後半は、成蹊の学生さんたちが、自分の受験勉強について話してくれました。でもって、最近は、どこでも、シャープペンと、バックと、飲み物は、常識のようです。雰囲気とか落ち着いてるし、やはり品もよさげ。なかなかいいですね。でも、吉祥寺からすごく遠い。私にはつらいのだ。とーってもつかれました。しかも、この日は、吉祥寺の町のおまつりでした。帰りに神社によって出店で、いろいろ食べちゃいました。そのあと、駅前には、おみこしと、それをかつぐたくさん人たちがいて、活気がもりもり。吉祥寺の駅前には、東急やイセタンやロフトがあって、家から自転車でこのてのお店にいけちゃうなんて、すごすぎる。人もすごくたくさんいて、すごく力のある町だなっと、思いました。人も町もすごい。吉祥寺か人気の町の理由が分かりました。なんせ、吉祥寺に行ったのは、なんと、初めて。おつかれさまでした。 「成蹊大学(工.文.法.経済学部)」エリア東京都 > 吉祥寺/三鷹ジャンル学校住所東京都武蔵野市吉祥寺北町3-3-1説明成蹊大学(工.文.法.経済学部)クチコミ成蹊大学(工.文.法.経済学部)もっと読む
2009年09月27日
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アジア風のチキンライスというものがあることを最近知りました。自分でネットのレシピをみたりして作ってみたけど、どうもうまく作れない。そもそも、食べたことのないものって作れないわよねえ。やっぱりホンモノをたべてみなくちゃというわけで、食べに行きました。検索をかけるとほぼ一番にでてくるのが、ここのお店。『海南鶏飯食堂』ふつうのちょっとしたお店なのに、このセオ対策のすごさは、おみごとです。どこのホームページやさんにたのんだのだろう。それとも本当に評判でいろんなところにリンクされて紹介されているのでしょうか。ま、それはいいとして、場所は、六本木ヒルズのすぐとなり。それも裏のほう。しらなければ、ぜったいみのがしてしまう小さなお店です。しかも、ランチのメニューは、チキンライスとカレーライスしかありませんでした。サイドメニューは、いろいろありますけどね。にもかかわらず、ほぼ満席状態で、かなり客の入りのよさ。感心しちゃいました。 おみせは、白い壁と入り口が少し庭になっていて、店内は、東南アジア風です。そして、お客さんのほとんどがチキンライスを頼んでいました。知る人ぞ、知るチキンライスのお店なのでしょうか。季節がよかったので、窓も全開で、外のオープンデッキのテーブルもみんな満席でした。お外の席もきもちよさそう。それに外で食べると、いかにも、アジアっぽい。 そして、テーブルの上には、レシピを書いた紙のランチョンマットが。もってかえって、作ります。ふふ。 そして、これが海南鶏飯。アジアのチキンライスです。鶏肉を弱火で長時間かけてゆでる。そのゆで汁を使ってご飯を炊きます。でも、タレの作り方と味ががどうもわからなかったのですが、このお店では、甘い味の醤油ダレと、唐辛子とにんにくのおろしたものでした。たぶん。コレを自分の好みでチキンにかけていただきます。私は辛いのがだめで、醤油ダレだけ。ダンナさまは、ほとんど全部かけてました。全部かけるとからそうだけど、自分の好みで調整できるのがいいです。どことなく、ほんのりとアジアのハーブの香り。ほんとはもっと、ハーブがきいているのではないかと、思うのですが、日本人むけにハーブは、おさえめだったのではないかと、思います。でも、そのほんのり感がよかったです。そして、ご飯は、インディカ米のジャスミンライスでした。普段インディカ米なんて、ほとんどたべないのだけど、さらさらしてておいしかったです。ただ、並と、大盛りがありましたが、並はわりと料が少なめ。ふつうの女性でも大盛りたのんでも食べられそう。わたしは、わからなくて、並をたのんでしまって、たらなかった。大盛りをどうぞ。暑くて食欲のない真夏でも、さらっとたべられるさっぱりしたチキンライスです。こんどまた、我が家でも、作ってみるのだ。ご馳走様でした。 「海南鶏飯食堂」エリア東京都 > 六本木ジャンルアジアン住所港区六本木6-11-16 中銀マンション裏手説明海南鶏飯食堂 (アジア・エスニック料理(その他))クチコミ鶏飯とジャスミンライスが絶妙です。最近のお気に入り店。もっと読む
2009年09月26日
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『キャリアこぎつねきんのもり』の続編です。「きんのもり」の一巻では、四歳だったわらしちゃんは、とうと小学生になりました。すごいです。この話そんなに私は好きなわけじゃないんだけど、でも、わらしちゃんがかわいいという、それだけで読み続けています。というか、作者の石井先生が好きなので、このセンセイの作品は本屋でみたら、即買いなので、中身チェックなんてしないもん。 わらしちゃんなんと、小学校お受験してます。私立小学校なんて好きじゃないけど、まあ、このお話の場合は、主人公早歩さんの勤めているホテルに近いので、学校終わったら、バスでわらしちゃんがホテルに帰れるからという選択なので、ま、そういう選択もあるんですね。 でも、このお受験シーンがなかなか面白かったです。読んでいて、うちの息子も筑波大付属くらい受けてもよかったかもしれないと、思ってしまいました。おもしろそう。筑付なら、国立だから、安いし。でも、あそこは、中学、高校と上がるための内部進学にきびしい成績チェックがあるので、大変そう。ほかも、私立によっては、小学校受験では、むずかしいのに、上にいくほど、レベルや偏差値のたいしたことのない学校になっていくところもありなのでねえ。 それにしても、学力なんて、はかれないし、私立小学校っていったい、どうやって、選考するのでしょう。やはり、面接で、いかにもお金ありそうな家からえらぶとか?面接ってたぶん、やくざかどうかとか、危ない世界の人かどうかとかも、チェックしてそう。親の中には、いかにも、品のない人たちもいるし、この人若い頃は、ギャルだったのかなとか、そういう人もいるからねぇ。あ、こんなこと書くと、差別とか、いろいろクレームのコメントがきそうで怖い。 ただね。公立小って、おとなになったら絶対かかわらないような世界の人の子どもたちとかとも、同じ教室で、関わってかなきゃならないから。貧乏人や、危ないひとたちと、うちのかわいい子どもを接点もたせたくないと、思えば、私立入れるのでしょう。お金のある家はいいなぁ。でももちろん、うちの子達は、公立小で、問題なく、成長させていただきました。はい。 話がそれました。人に顔をみせるのもいやなほど、心に傷をもっていたはずのわらしちゃんが、いつのまにこんなにタフになったのでしょう。びっくりです。やはり、ホテルの保育室って、子どもながらにいろんな子どもたちとオープンに接している場所。子どものうちからいろんな人たちとかかわることのできるオープンな場所で育ててもらえるって、すごくラッキーなことだし、子どもにもいいことなんですね。うらやましい。日本は働かないかぎり、保育に預けるってできないからなぁ。その保育所自体不足してて、問題になってますからね。 しかし、中盤で早歩さんがわらしちゃんの人間関係で悩んだ時の十川さんのセリフ。 「人に好かれるように生きる学校生活は生き地獄ですよ。」 つて、うーん。すごい。この巻の中ですごくインパクトありました。私もほとんど人の機嫌をとるような行動のできない人間なので、もう少し他人の機嫌とるような行動とればもっとラクなんじゃとかずーっと、思っていたけど、そうでもないのかぁ。うちの母親なんか会うたんびにいかに他人の機嫌をとって、うまく立ち回ることが大事かをえんえんと説教してくれますが、聴いてる私はもう、しらけるばっかり。めんどくさいから、だまって聞き流してますが。 ま、だいたい自分の行動の基準を他人の機嫌取りにおいてたら、どうにもなんないものねえ。人の機嫌や価値観なんて、人によっても違うし、その時の気分や体調や都合でも変わるし、あくまでこっち側の想像でしか予測できないことを基準に動くなんて、…不可能です。 それにしても、十川さん。早歩さんのこと、好きだったんですね。それを思うと早歩さんの言動はある意味とっても残酷ですが、それがまた、たまらなくよかったりするのかもしれないし、はらはらしながらも、もしかしてたのしいのか? いえいえ。ほんとに最後には、二人がくっついてほしいなと、読者としては、心待ちにしつつ、ずーっと読んでます。この二人がカップルになりそうなのは、「きんのもり」の最初から想像はつくんだけど、最近の漫画ってたまに読者の期待を裏切ることがあるからね。 早歩さん。自分の産んだわけでもない子をここまで必死に育てていて、偉いです。早歩さんの場合は、恋愛と結婚すっとばして、いきなり子育てですからねぇ。今の私は、息子がかわいいながらも、早くでてかないかなあとか、時々考えることアルもので。ははははははは。子育てって自分の子でもたいへんですからねえ。ま、子どもが成人したら、そう思うのは、ふつうのことですが。 いるとうざいけど、いないと、さびしい。矛盾だらけ。
2009年09月19日
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配偶者控除がなくなると、騒がれてますが、いろいろ問題点はあります。扶養控除というと、配偶者と子どもとそのほかの養っている人を含みます。でも、民主党が扶養控除をなくそうとしているのか、たんに、配偶者控除を失くそうとしているのか、いまひとつよくわからないので、この記事では、配偶者控除に話を絞って書いてあります。 配偶者控除によって、免除されている所得税自体は、たいしたことありません。奥さんがいることで夫の収入からひかれる所得税の金額から免除されるのは、微々たるものです。テレビでは、配偶者控除がなくなると、増額だと騒いでいますが、ふつうのサラリーマンの収入では、そもそも、配偶者控除がなくても、普段とられている所得税自体がすごく少ない額です。でも、これのせいで、事務手続きが増えています。そして、配偶者控除がなくなることで、増額になるのは、本当に年収1千万以上の高収入の家庭だけなのです。それなのに、さも大変なことのようにテレビでは騒いでいます。テレビ局の人たちって、高給だからね。視聴者のためじゃなくて、自分たちに不利だから、騒いでいるだけだと、思います。ね。でも、高収入の人たちは、そもそも雌雄乳が多いのですから、配偶者控除や扶養控除がなくなって、増税されても、それほど困らないと、思いますが。 所得税の税額表なんて簡単にみられるのですから、家にある給与明細をみながら、配偶者控除がなくなると、いくら増額か実際に見てみることをお勧めします。夫の月収が40万なら、子ども二人いる家庭で、月額3千円くらい。年間で5万円からくらい。ほらね。民主党が払う子ども手当て二人分と同じです。少し具体的に見ると、月収401000円では、扶養者のいない場合の所得税は、16410円。妻がいる場合は、13240円。妻と子ども一人で、10070円。妻と子ども二人で、7520円。妻も含めて扶養者が一人増えるごとに免税される金額は、3170円なのです。子どもがいても、いなくても、配偶者控除がなくなった時の月額の所得税は、3170円増えるだけです。この12倍で38040円。このほかにボーナスが加わると、おおくても、2万円弱くらい。です。これが年間に増える税金です。実際には、月40万だとしても、所得控除や社会保険控除などで、課税される金額はもっとずっと少ないです。税額表の金額は、所得控除と、社会保険を引いた額なので、実際の所得の額面はもっと多い金額になります。また、実際には、ボーナスも含めて一年間の収入として計算されるので、これは、あくまでおおまかな計算にすぎません。年収での計算表をみたほうがいいのですが、見つけられませんでした。これが、月収20万だとすると、もっと少ないです。 それと、妻自身の収入も100万円までが非課税ですが、もし課税されるとするとしても、0円です。 この他に住民税がそれざれ免除されています。ちなみに、住民税のほうが所得税より高いです。ぜんぜん。が、これらのものが課税されるより高いのが社会保険です。月収40万でも、家のローンや子育ての教育費などで、ぎりぎり精一杯なのが、今の日本の家庭です。なんでなんでしょうね。それゆえに、たとえ、年間5万円でも、支出が増えるのは、いたいのですが、私が今回の記事でいいたいのは、この所得税の増える分よりもっともっといたい支出が生じるかもしれないという、事について書きたかったからです。それは、つまり『社会保険』です。 会社は、この配偶者控除を基本にして、妻帯者には、配偶者扶養手当てがあるのですが、それがつかなくなります。(ちなみに、我が家の給与明細をよくみたら、やくしょくでもないのに、扶養手当ついてなかった。昔はついていたのに、いつの間に。きずきませんでした。不覚。はあ。うちの会社せこい。給料も安いし。安く使われてるなぁつくづく。) それで、妻が配偶者控除の対象であることを基本にして、会社の健康保険と、年金保険に加入しているのですが。 もしこれがはずされると、妻自身が自分で、国民健康保健、国民年金に加入して、その保険料を月々払っていかなければ、なりません。この金額がいちばんかかりますし、私としても、配偶者控除がなくなることで、それらが全てはずされるのが一番心配で、怖いのです。 国民健康保健は、月額2万くらい。年間26万円。たかっ。国民年金は、年額16万くらい。あわせて、40万以上。ひえーーーー。自分でやってみたので、計算間違ってるかもしれないけど。 だいたい、今の奥さんたちの場合、これを考えて、年間100万以内の収入でおさまるように働いています。もし、この枠をこえると、150万円以上にならないと、上記のように、逆に引かれるものが増えてしまって、実施収入が減ってしまうからです。そして、この枠の制で、パートなどの時給もなかなか上がらない。上がっても、困るからだと、思います。でも、パートでがんばって働いても、妻の稼げる額は、120万くらいがせいぜいだと、思います。その金額まですら働けないのが、今のシステムです。 そして、この制度があるために、夫の収入が300万だろうと、400万だろうと、600万だろうと、 奥さんが働いて、家計を助けられる限度が100万になってしまうという問題点があって、しかも、20年以上前から、限度額が100万円のまま、物価が上がっているにもかかわらず、いっさい変更されていないことです。 だから、夫の収入が少ないほど不利ですし、その場合はもう、妻も、正社員として、年収200万以上をめざして働かないと、まともな暮らしも、子育てもできません。そうなるともう、家のこととも子どものこともやりずらいし、PTAもできないし。(もっとも、今のPTAなんて、たいしたことやってないけど。) わたしがのぞむのは、配偶者控除はなくしたとしても、奥さんの年収に関わらず、健康保険、年金は、夫の会社のものに入っていられるようにしてほしいということ。(妻が正社員として働く場合は、別として。)いえね。ほんとは、配偶者控除もなくしてほしくないですよ。もっとも、うちは、もっと収入すくないですが。(だから税金も少ないけど。) 以上は、サラリーマン家庭のお話に限ってます。自営業はまた、事情違ってきますので。 正社員の妻はその会社の保険でいいと思います。でも、正社員ではない、パートなどで働く場合、収入は不安定です。そして、年収が100万を超えた場合、翌年から配偶者控除をはずされてしまいます。でも、その翌年にも、それだけの収入があるとは、限りません。パートってすごく不安定だし、年収がきちんと決まってるのって、正社員くらいなものです。 少なくとも、子育てをしている家庭の妻に対しては、収入にかかわらず、夫の社会保険に加入できること。それだけは、残してほしいと、思います。その方が、各家庭にお金を配るより、事務手続きが、簡単にすみますし、働こうとする女性の意欲をのばしていけるし、男女共同参画社会を勧めていけるはずです。 制限なく働きつつ、社会保険だけは、補償してほしいし、家族が全員同じ保険に入っているほうが、管理もしやすいはずだと、思います。 さて、どうなるのでしょうか。
2009年09月17日
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アメリカのホラー映画っていうのは、「怖いよ怖いよ」って宣伝される割には、いつもあんまり怖くありません。なんでかっていうと、でてくる怖いものの正体が悪魔だから。あれほど騒がれていた『エクソシスト』にしても、怖い相手は、悪魔なんですね。悪魔と戦う話。 私たち日本人は、悪魔とか、地獄なんてないっと思ってますから、悪魔とか出てきても、モンスターの一種、ウルトラマンにでてくる怪獣と同じレベルでしかない。だから、怖いと宣伝されて、映画の中の人物たちがびびっていても、ちゃんチャラおかしい感じで、見終わった後には、また騙されたな、駄作じゃんとと言う感想がほとんどです。 なぜなら、日本人にとって、怖いのは幽霊だからです。ジャパンホラーのほとんどは、幽霊です。幽霊に関しては、一度も見たこともない人でも、もしかすると、いるんじゃないかと、心のどこかでなんとなく信じています。だから、幽霊の話ってすごく怖いんですよ。私たち日本人には。じゃあ何で怖いかっていうと、幽霊というのは、だいたい呪いとか、恨みの具現化したものだからです。誰かに殺されたとか、誰かに怨みをもったまま死んだ人が、その恨みをなんとかしようとしてでてくるのが、幽霊です。 日本人が一番恐れているのが、他人の恨みを買うことです。なんでかっていうと、農耕社会だから。一つの村落を形成して、その村びとたちが協力し合いながら、農業をすることで、生きていくのが日本です。だから、人の恨みを買ったりして、その集団の中で生きていけなくなると、自分の生死に関わるわけです。 だから、「村八分」とか、「いじめ」とか、「仲間はずれ」とか、「世間様」とかが、一番こわいのです。日本人が恐れているのは、ひと、他人です。 その一方で、西洋社会の場合、キリスト教社会なので、一番怖いのは、『神』です。神の怒りを買うことが一番怖いのでしょう。神は天上にいて、人間が悪いことをしないように常に見張っているわけです。そして、悪いことをして神の怒りを買うと、ひとは地獄に落とされてしまうと、信じられているからです。このあたりの感覚が、日本人にはどうしても、わかんないんですけど、でも、本当に西洋人は、信じているように思います。 もともとは、悪いことをしている人間に対して、悪いこと(殺人とか強 姦とか、盗みとか)をしないようにするために、悪いことをすると、地獄に落ちるよ、地獄に落ちるとずーっと永遠に業火に焼かれ続けたりして、この世のなくなるまでずーっと痛い辛い思いをしなければならないよと、諭されたわけです。で、悪いことはしたら、反省して、悔い改めて、常に悪いことしないようにきをつけなくちゃだめだと、いったのが、キリスト教です。ところが、それを聞いて、悪いことをしないようにするという部分より、地獄に行かされちゃうという部分の怖さの方がインパクトがあって、人々の心に残ってしまったのでしょう。で、悪いことをしたら、懺悔して、でも、あいかわらず、悪いことはしていねのが西洋人。それでも、昔よりはずっと、悪いことはしなくなったのでしょうか。でも、あいわらず、地獄と悪魔は怖いわけです。深層心理にすりこまれてるのでしょうか。 だから、その神の怒りを買ったときにおとされる地獄、の使い手であり、悪いことをした人間を迎えに来るのが悪魔なのです。 だから、西洋の映画にでてくる悪魔はどんな目的があるかとか、どんな力があるかとか関係なく、いるだけで、でてくるだけで怖いのだと、思います。それは、無条件で、たとえ自分に関係なくても、でてくるだけで、怖いと感じる日本人にとっての幽霊と、おなじなんだと、思います。 だから、アメリカ映画や洋画のホラーに出てくるのは、いつも、悪魔であり、そして、西洋人にとっては、とてつもなく怖いのでしょう。 映画「ミラーズ」でも、最初はわからない怖いものの正体は、悪魔です。物語の後半で悪魔が現実に具体化するところで途端に日本人はしらけてきますが、たぶん、西洋の人たちは、鏡の中にいた悪魔が、具現化すること自体がすごく怖いのだと、思います。それは、まだまだ行くのは先のはずだった地獄に、いますぐつれていくために自分をむかえにきた存在だからです。 そして、鏡の向こう側というのは、西洋では、地獄のひとつなのではないかと、思います。日本でも、夜中に鏡を見るのは怖いんだけど、西洋でも、鏡の向こうは、悪魔のいる世界であり、それは、つまり、地獄ということです。だから、ラストで、主人公が鏡の向こう側に閉じ込められてしまったということは、地獄つれていかれてしまったということなのだと、思います。 真夜中の12時に向かい合わせにした鏡の中から悪魔がでてくるという話を昔きいたことがあるけれど、つまり、鏡の中というのは、悪魔のすんでいる世界であり、普段はでてこれないけれど、なにかのきっかけで、でてこれる。その悪魔が現実世界にでてこれるきっかけの一つが、「エクソシスト」で悪魔に憑依された少女。悪魔がとりつくことのできる体をもった人間がたまにいるのだと、いう解釈になるのだと、思います。 鏡の中にいるはずの悪魔が現実世界に干渉できる力をもてるようになったきっかけが、映画「ミラーズ」の中では、アンナ・エシカーに一度は憑依していた悪魔であり、そこから一度鏡にもどされてしまった悪魔が、もう一度現実世界、地上世界に戻ろうとしていたという物語です。 主人公が働いていた廃墟同然のもとデパート自体が、なぜ壊されずずっとあるのか、しかも、さらに警備員をわざわざ雇って夜中にパトロールをさせていたのか。たぶん、立て直したり建物を壊そうとしたりすると、中にいる悪魔の力によって、妨害されていたのでしょう。そして、なんらかの力で警備員を雇わざるを得ない状況になっていたのだと、思います。それは、中にいる悪魔が、自分が地上にでるためのエシカーの体を取り戻すため。そして、悪魔の力は、夜でなければ、使えなかった。だから、昼間の警備員は、まったく影響を受けていませんでした。 ラストで悪魔とたった一人で戦う主人公。しかし、悪魔をたった一人の人間が倒せるとは思えません。悪魔がまだエシカーの体にとらわれていた間は力にも限界がありますが、地上世界でそのエシカーの体もなくなった時、やっと、悪魔は地上に出現できる。ラストのあと、悪魔は地上にあらわれて、主人公の他にも、悪行をした人たちを鏡の中の地獄にとりこんだのかもしれません。 物語序盤で、火に焼かれる人たちの幻影は、地獄の業火に焼かれる人を意味し、鏡の中で焼け爛れる女性もまた、鏡の中に地獄があることを意味しているのではないでしょうか。そして、主人公の家族までが悪魔によって引き込まれていきます。悪いことをすれば自分だけでなく、自分の関係する周りに人までもひきこんでしまうことをあらわしているのかもしれません。そして、ひとを殺し、酒におぼれた主人公が、鏡の中のとりこまれてしまうというラストは、やっぱりこわいですね。 ミラーズ@映画生活
2009年09月12日
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最初から最後までめちゃくちゃ面白かった。私的には、「エヴァンゲリオン」より面白かったかも。 はいはい。ネタバレ全開で書きます。 物語の舞台の一つは、仮想社会。バーチャルワールド。『OZ』 かつてバーチャルワールドとして騒がれた「セカンドライフ」が失速していく現在。日本初の新しいタイプの仮想SNS社会として、昨年始まった「ニコッとタウン」というものがあります。私もニフティ経由で少し前からはじめましたが、最近楽天にも、広告がではじめて驚いています。現在のニコッとタウンは、まだ、アバターや簡単なゲーム、現実に存在する企業からの広告、出店と、コミュニティサークルがある程度でまだまだちゃっちいものですが、これがずっと進化していくと、この映画のように、現実に存在するいろいろな公共のお役所や、税務署、公共機関、企業の出店などのある、リアルとほとんどかわらない、納税、買い物のできるものへと、進化していくのかなと、思いました。 セカンドライフは外国からの輸入形態であるため、アバターも八頭身くらいのものですが、ニコッとタウンは、4頭身くらいで、日本人うけするキャラクターデザインになっています。映画の中のバーチャルソシェティである「OZ」のアバターもかわいいデザインになっていて、イメージとしては、「セカンドライフ」と「ニコッとタウン」を足して二で割ったような感じです。SNSといえば、「mixi」が有名ですが、そのさらに進化した形として、ニコッとタウンは、アバターがあり、ブログ、コミュニティの他にも、いろいろな会員どうしの交流をすすめるシステムが作られ続けています。 さて、この映画では、そういうSNSがより進化し、世界中のほとんどの人たちが加入しており、ネットを通していろいろなことのできる世界です。 ところがそのOZに入るためのセキュリティがなにものかによって破られ、主人公ケンジをはじめとする多くの人たちのアカウントが盗まれてしまったために、世界中の機能が麻痺、信号がとまり、大渋滞が発生し、水道などの制御もできなくなっていきます。さらには、原子力発電所をめざして、衛生が落下しはじめてしまいます。 世界中がマザーコンピュータに管理されている社会。ところが、そのマザーコンピュターが反乱をおこしたために、世界中の機能が麻痺して大混乱になるというお話は、すでにSFではよく書かれ、映画も作られてきたストーリーです。けれど、この映画は、微妙に違います。世界のシステムを管理し、つなげているのは、バーチャルワールドであるOZです。そして、その世界の混乱は、OZに入るためのセキュリティが破られ、ラブマシーンというプログラムがはいりこんで、たくさんのアカウントを吸収して巨大化していくことで、起こります。その吸収されたアカウントの中には、公共のシステムを管理するためのものも含まれてしまったからです。 この物語のテーマは、「信頼」だと、思います。 SNSというのは、コミュニティサイトです。会員同士がブログやコミュニティや、アバターを通して、コミュニケーションを深め、仲良くなっていく。けれど、そのSNSには、会員にならないと、はいっていけません。そして、一人ひとりがじぶんのアカウントをもっていて、それによって、セキュリティが守られているわけです。 けれど、どんなに厳重に作られたセキュリティであっても、やぶられないセキュリティはないのです。絶対安全ということは、ありえない。今、ネットが社会の中にどんどん増え始めていて、そして、ネットの中の常識として、安全性、セキュリティは、最も大事なものとして、どうしたらより安全なセキュリティがつくれるかが、求められています。 けれど、絶対安全なセキュリティは、ありえない。 その一方で、物語のもう一つの舞台となるケンジの訪れた田舎の旧家(ヒロインナツキの曾祖母の家)は、多くの親族が一緒に住んでいて、鍵もなく、窓もなく、すべてがあけっぱなしのものすごく開放された家です。個人の部屋もいっさい仕切られていません。縁側の向こうはもう広い庭。ものすごく大きな家なんだけど、広い庭と垣根があって、門もあるけれど、その門だって、開けっ放しです。 昔の日本の村というのは、村中の人たちが昔からの顔見知りで、お互いのことをよく知っている。だから、それぞれの家はみんな開けっ放しで、鍵なんて全くありませんでした。泥棒なんてありえない。村中の人同士の信頼があったからです。 「赤毛のアン」の物語の中でも、プリンスエドワード島の人たちはみんな知り合いで、だから、鍵をかけるということもありません。村中がお互いを信頼していて、だから、鍵なんてないのです。 映画の中のOZのマークが鍵穴の形をしています。そして、アカウントを入力するシーンがOZのマークである鍵穴に、鍵を差し込むという描写なのです。ネット世界にあけるアカウントというのは、つまり、自分の家の鍵と同じなのです。厳重にセキュリティを作り、鍵であるアカウントによって入る世界。セキュリティによって守られている社会。 今、社会はセキュリティが問題視され、よりハイレベルのセキュリティを作ることにエネルギーがむけられています。人と人のコミュニケーションが大切と、いいながら、コミュニティサイトを作りながらも一方では、セキュリティ強化の進められていくネット社会、リアル社会。けれど、本当にそれでいいのでしょうか。 コミュニケーション。人とひとが会話をするのは、相手がどんな人か知るためです。そして、知りあった先にあるのは、相手に対しての信頼です。信頼するために人は会話するのです。信頼した友人にはよく自分の家の鍵を渡したものです。その究極の世界が、鍵のいらない社会なのではないでしょうか。 信頼があれば、鍵もアカウントもいらないはず。それこそが究極のセキュリティなのだと、思いますし、この映画の訴えていることです。 だから、クライマックスシーンで、ラブマシーンと戦うヒロインナツキのために、世界中の人たちがみずしらずのナツキにアカウントを預けるのです。それは、自分の家の鍵をまったくしらない人に渡すのと同じ行為です。なぜ? それは、世界中の人たちがヒロインなら、自分のアカウントを預けても大丈夫だと、信じたからです。 これから先、さらにネット社会が進化していく一方で、セキュリティ強化も叫ばれていくし、進められていくでしょう。けれど、人が作るものである以上、絶対やぶれないセキュリティなんて、ありえません。だからこそ、最強のセキュリティは、信頼であり、信頼すること、信頼されること、なのだと思います。アカウントなんか盗まなくてもすむような、泥棒のいない社会。目指すものはそいうい社会なのだと、思います。 それは、物語にでてくる田舎の旧家のような鍵も窓もないオープンで信頼された社会。ドアをしめて鍵を閉めてクーラーをいれて快適に暮らす社会は、窮屈で、息苦しくて、つらい。そして、どんどん温暖化していってしまうもの。 物語中にでくる旧家の総元締めの栄おばあちゃんも、あちこちに電話する。電話機は黒い昔ながらのアナログなものだけれど、その電話機だって、デシタルなシステムによってつながっているものですが、栄おばあちゃんのこの行動もまた、人と人の信頼の大切さを語っているのだし、それは、リアルもネットもおなじなんだと、言うことです。 物語の中ではさらに、その旧家の門さえもが、ぶち壊されて行きます。セキュリティも鍵もいらない安心してすめる社会。泥棒なんかしなくてもいい社会。ネット社会が進んでも、リアルの世界との差がなくなってどんどん繋がっていった時、だからこそなおさら、人を信頼するということを忘れないようにしたい。 そういう映画だったのだと、思います。ところで、この映画。悪事を働くアバターのデザインがミッキーマウスにそっくりだったり、最後の真犯人がアメリカ国防総省だっり、普段のアメリカの行動に対してのちょっした怒りが表現されてるんじゃないかなと、思うのは、私だけかなぁ。 サマーウォーズ SUMMER WARS サマーウォーズ@映画生活 サマーウォーズ公式サイト
2009年09月10日
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物語の冒頭はイギリスからはじまりますが、中世イタリアを舞台にした物語です。ハーレクイーンヒストリカルみたいだなと、思って買ったのですが、まさにハーレクインな内容でした。 でも、700ページ以上もあるやたら分厚い文庫本です。持ち歩くのが大変でした。最初の100ページ位を我慢して読むと、後は、結構おもしろかったですね。ネットのいろんなブログ書評を読むと、賛否両論でおもしろくなかったという意見も結構ありましたが、私は面白かったです。 久々に読んだラブロマンスでしたが、読んでいくと、途中から二人のラブシーンがSMになってきて、「うわっ、なんで?」と、ここで読者は戸惑います。セックスの時にヒロインのエレナが相手のアレグレートの体に噛み付いたり、二人で、女王様と奴隷というSMプレイを始めたり。ほのぼのしたファンタジックであまーいラブロマンスを期待して読んでいた読者にするとびっくりです。 でも、作者はどうして、こんなシーンをいれたのかなと、ちょっと考えてみました。 イギリスで育ったヒロインエレナは、故国イタリアへと嫁ぐことになります。ところが途中で海賊につかまってしまい、その海賊アレグレート・イル・コルヴォと、結婚することになってしまいます。 この物語のテーマは、「人は愛によってしか支配できない」ということだと、私は思います。 人を支配する方法は二つあります。一つは、力で、もう一つは愛で。殴られるのが怖くて他人の言うことを聞く場合と、愛する人からの願いや頼みだから聞く場合があるのです。そして、一つの国家もまた、武力による支配と、支配者の国民への愛、国民のリーダーへの愛である場合とがあります。 フランコ・リアータの力によって支配されていたエレナの故国モンテヴェルデが、故国に戻ったエレナのその愛によって、統治されるようになるという物語なのです。 愛しているはずの父親に、力と恐怖によって支配されていたアレグレートは、エレナと出会い、愛によって支配されることになるのです。SMプレイのシーンで、アレグレートは、エレナにしばられ、ムチ打たれます。けれど、力の上では、アレグレートの方がずっと上です。彼がいやなら、逆らうこともできます。それなのに、エレナの為すがままにされていく上で、しばられ、痛めつけられていたはずの彼は、エレナとの愛の行為の中で、絶頂の愛の喜びに浸ります。彼を幸福の快楽に導いたものは、チカラや暴力でしょうか。いいえ、どんな状況にあっても、愛する彼女との行為ゆえに彼は、幸福であり、喜びを感じたのです。アレグレートの心をの描写がこんな風にかかれています。 「征服されたのだ。私は、何千もの軍勢に勝る力で」 この行為によってエレナは、力によって人を支配することは無駄なことであり、無理なことなのだと、実感させたのです。そして、これ以降彼の中で何かが変わっていきます。 そしてまた、この描写は、物語の後半、女大公となるエレナと、その家臣となるアレグレートという立場、人間関係へと変化していく複線でもあります。その時までは、絶対的に、アレグレートの方が上の立場にいたはずなのですから。 最初の時にはまだ、アレグレートの方が力があり、エレナは何の力も持たず、ただ彼の為すがままになるしかありませんでした。けれど、エレナは、力によって征服されることに抵抗したのです。その時できた唯一の方法が彼のからだに噛み付くこと。彼女は力よって支配されることに徹底的に抗い、そしてまた決して、他者を力で支配することもしませんでした。 中盤から物語は意外な展開になります。宿敵フランコを殺すために訪れたモンテヴェルデで、微妙な状況の一瞬を捉えて、モンテヴェルデ共和国の正当な相続権をもつエレナは、故国モンテヴェルデの女大公となったのです。この展開には私はとてもびっくりしました。もともと彼女の祖父が大公として支配していたモンテヴェルデは、フランコ・ピエトロ・リアータの武力と、暴力によって支配されていました。リアータ家に対立するモンテヴェルデ共和国のもうひとつの名家の非嫡出子という微妙な生まれであったアルグレート・イル・コルヴォ・ナヴォナは、宿敵フランコを殺害しようとしたはずなのに、その瞬間、大公となったエレナに捕らえられてしまうのです。 大公となったエレナは、フランコとアレグレートの二人をけれど、死刑にするでもなく、武力や暴力で支配するでもなく、それぞれの城に高待遇で幽閉し、あくまで二人が、仲直りすることを平和的に説得し続けるのです。 そしてそれは、モンテヴェルデを狙う他国の策略にはまり、窮地となったエレナたちを、フランコとアレグレートの二人が協力して助け出すことで、かなえられていきます。大公となったエレナは、自分の国も、自分の国の国民たちも、自分の部下たちも、すべて、彼女の持つ愛の力だけで、支配していく。そういう物語なのだと、思います。 二人は、SMなのかなと、思う描写にびっくりしましたが、それ以降の二人の愛のシーンは、もっとずっとふつうですし、状況的に妊娠できないエレナのために、アレグレートは、いろいろと彼女に気遣いもしてくれています。 そしてアレグレートは、愛するエレナには、決してあらがえないけれど、いざ敵の前に立った時には、驚くほどの英知と、勇気と、剣さばきやたくましさを見せてくれます。そしてなにより、ものすごーくきれいないい男らしいのです。もし、映画化されたら、どんなかっこいい俳優さんが、彼の役をやってくれるのか。ちょっと楽しみなくらい。 そして、もう一つ。この物語の中にでてくる西洋人の信仰心。ほとんど宗教のない日本人には、彼らの感覚や価値観はかなり、理解しにくいものですが、この物語における重要な部分でもあります。そして、当時のキリスト教がどんな意味とどんな社会的位置を持っていて、西洋社会の中で、どんな意味を持っていたのかを知らないと、この物語は、分かりにくいのではないかと、思います。 司祭さまに自分のやった悪行を告白するだけで、許されると、本気で信じているなんて、私たち日本人には到底理解できないです。それでも、自分の行動を常に第三者的な視点で捉え、言葉にして、他人に話すことで、自分という人間と、その行動を冷静に見直すという行為を、日常的に繰り返していくということは、とてもいいことだと思います。許されるかどうかは別として。 そして、物語の中で結構悪いことをくりかえしているフランコも、アレグレート、エレナも、司祭に告白することで、許されるという部分をすごく大切にしているし、それがなければ死後は、地獄に落ちると、本気で信じている。そのあたりがすごく不思議です。そして、そこまで信じていながら、アレグレートのために司祭への罪の告白をしないということで、エレナのアレグレートへの愛がいかに深いものかが、描かれているのです。日本人には、分かりづらいけど。 また、どんな状況にあっても、しかたないとか、自分にはできないとか、どうしようもないとか、そんな風にあきらめずに、どんな苦しい状況でも、自分の信念を決して曲げずに、生きていく、突き進んでいくヒロインエレナの生き方が、全編を読んでいて、すごく素晴らしくてステキだったです。 タイトルの原題は、『SHADOWHEART』です。コレを意訳して邦題は『黒き影に抱かれて』となっています。黒き影とは、カラスの異名をもつ海賊アレグレートをあらわし、彼に守られるエレナをイメージさせますが、原題は、シャドウハーツ、つまり、心の影。非嫡出子として、名家ナヴォナの血をもちながら父親の愛を得ることができず、力と恐怖に支配されていたアレグレートが、その身の内に持ち続けていた心の影、闇を意味しているのではないかと、思います。そして、彼のそんな心の闇の部分を解きほぐし、愛によって、彼を支配し、人の心は、愛よってしか支配できないことを、国もまた愛によってしか支配できないことを示した、ヒロインエレナの物語なのです。 人も国も、剣や武力ではなく、愛によってしか支配できないことを、世界の全ての人たちが、理解できたら、世界から戦争はなくなって、平和になるのになぁっと、ずっとずっと、思っています。
2009年09月06日
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みてきましたが、不作ですね。ラストは、原作にない部分つぎたしてあって、話としては、原作では分からなかった部分が補完されたかんじではありますが、時代的なズレがあるなぁと、思う。この話の主人公の少年時代というのは、だいたい昭和40年代のはずです。ところが、ラストにでててくるイジメのシーンでの、お葬式ゴッコのような壮絶なイジメがはじまったのは、もっとずっとあとです。だいたい、10年から20年くらいのずれがあります。だから、おかしいのだ。 この物語は、作者浦沢直樹の自伝的な部分もあり、私の生きた時代とほぼ同じ。同世代ですから、おかしいなと思うところはおかしい。と、分かる。お葬式ゴッコをやるような壮絶なイジメは、私がもう成人したくらいの時に、その当時の中学生の世代で行われていたからです。 これは、たしか原作にはかかれていなかった部分。でも、『トモダチ』が過去の友達に仕返しをするという展開である以上、そのくらいの壮絶なイジメがないと、なりたたないと、考えたのかもしれません。 実際には、主人公ケンヂがした万引きを、トモダチに間違って嫌疑がかかってしまい、それをきっかけにして、小学校、中学校と、いじめられ続けたことに原因していたという結末です。でも、その程度のことだとすると、トモダチガ、世界中の人間を殺すほどのしかえしをするにいたるとはおもえない。 実際には、万引きだけが、イジメのきっかけはにならないのでは。それ以外の要素をトモダチがもっていたのではないでしょうか。 今回の映画。シナリオ自体がダメダメです。そして、これだけの長い話を三回分に詰め込むのは、やっぱり無理だったようで、最終話は、消化しきれずに、それぞれの登場人物に自分のことを語らせることで、なんとかストーリーをこなしているけれど、盛り上がらないしつまらない。そして、ラストの展開で、物語のテーマが「トモダチ」という恐怖物語のミステリーものという終わり方で、終わってしまった。 そもそもこの物語のおもしろさは、20世紀少年というタイトルが語るように20世紀後半に少年時代を送った、作者やそのほかの40代の人間たちの回想や、夢の実現物語という、爽快さにあるのだから。 子供の頃想像した、『世界を破壊しようとする悪の帝王を、英雄や勇者になって倒す』という、当時のアニメやヒーロードラマに影響をうけた少年たちの夢語りの実現。 青年時代に夢見た、シンガーになって、大観衆の前で歌うという夢の実現。 そして、当時の有名人の登場に懐かしさを感じるおもしろさ。三波春夫や、トキワ荘や、不二子フジオ、忍者ハットリくんや、ウルトラマン、などなど。 けれど、そういう夢の部分だけを描くと薄っぺらい夢物語になってしまうところに、「トモダチ」という人物が配されることで、物語は深みを持ち、多重構造のわくわくするけれど、ハラハラドキドキする、そして、懐かしいというたくさんの要素を持ったおもしろい物語になっているのだと、思う。 けれど、映画では、ラストでなぜ、ケンヂが大観衆の前で歌うシーンになるのか、そこに至るまでの部分の描写が薄くて、どうしてなのか、わからなかった。 ラストでも、草原に突然ひょっこりあらわれる「トモダチ」って、なんでなのかわからなくて、都合よすぎ。 過去のイジメ部分がオーバーすぎて、原作の面白さが壊されてしまった気がする。それと、あれだけいじめられている少年が、他の人に自分から「トモダチになってほしい」なんて、絶対言えないはずだ。もし、ケンヂが過去を清算したいなら、ケンヂから、彼に向かって友達になろうというべきだと思う。 それから、13号が、ヘリコプターに乗って、トモダチのつくった、細菌をばら撒くためのUFOを破壊するために、ヘリコプターごと突っ込んでいくシーンが、戦時中の「特攻」のようで、私は不愉快だった。今の時代、命を大切にすること、「特攻」のような、命を無駄遣いさせるような行動を否定しようとしている時代に、このての映画でこんな方法で物語を進めるのは止めてほしいと思う。 とにかく、見終わってうーんと思った。せっかくのいい原作なのに。というより、原作がいいものだからこそ、なおさらいい映画にはしずらいのだろう。 ・20世紀少年〈最終章〉ぼくらの旗@映画生活
2009年09月04日
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選挙が近づくと、創価学会の友達から電話がかかってくる。「今度の選挙では、公明党のだれそれに入れてほしい」とか、「比例は公明党にしてくれ」とか。毎回メンドウなので、「はいはい」と返事はするけれど、その通りに入れたことはない。たかだかたまにあって、お茶するくらいの友達に頼まれたからって、自分の貴重な選挙権をそんなふうに他人に明け渡すやつなんて、いまどきいると、公明党や創価学会は本当に思っているのだろうか。時代遅れもはなはだしい。 というわけで、今回の公明党、代表までが、落ちた。 そして、未だに、共産党の選挙カーは、他の党に比べて郡を抜いてうるさい。党名や候補者名を連呼したからいれてくれるなんて、ほんとに思っているのだうろか。 民主党がほぼ圧勝するだろうことは、選挙のはじまるかなり前から大概の人たちが、想像していたことなんだから、いまさら、想像していたとおりだなんて人にいうのすら恥ずかしい。けれど、この民主党の圧勝は、あくまで、鳩山由紀夫を代表とする民主党に入った票なのだから、民主党に参加する議員一人ひとりに対しての評価ではないことを思うと、はたして、どうなんだろうかと、思う。党員ひとりひとりが、もっと力のある人材でなければ、数年後には、今回の小泉チルドレンのように、そのほかの自民党員のように、ばたばたと、落ちることになる可能性だった十分あるだろうなあと、思う。 議会は多数決できまるんだから、党員がたくさんいれば、それはそれで、やりやすいのかもしれないけれど、できれば党員一人づつがちゃんと力をもってほしいと、思う。党の名前に入れるよりは、その議員さんの技量にたいして投票したい。 ちなみに、うちの選挙区は、民主と自民が、熱戦だったらしい。それだけ、自民の議員さんは、この土地でその力量を評価されていたんだろうと、思われる。 これだけ書いといて、実は今回選挙に行ってない。どちらにも、票を入れかねた。 ところで、先月二十歳になった息子は、初めての選挙の日に朝早く、出かけるまえに近くの中学校の投票所によって、投票していったらしい。彼にとっては、初めての選挙権。しかも、歴史に残るような、痛烈な選挙戦で、投票デビューのできた彼は、なかなかにご満悦である。しかも、その日は選挙速報のはじまる前にそうそう帰ってきたし。
2009年09月01日
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『ネトゲ廃人』という言葉がちょっと前から言われている。先日も『ネトゲ廃人』という本がでていたし、新聞でも、ネトゲを取り上げた記事を読んだ。一晩中ゲームにはまって、現実世界を離脱し、ネットゲーム世界だけで生きていく少年たち。 けれど、それらの本や記事は、所詮ネトゲをしたことのない記者が、ネトゲをしている人やその家族、関係者などに取材してえた記事をもとに、もともと記者が想定した結論を書き上げているにすぎない。記者自身がネトゲをしたわけでもなく、ただ、現実を生きていくことができず、架空世界というゆるい世界にしかいられない弱い少年たち。という結論でしかない。 しかし、オンラインゲームでそれなりに快適に遊ぶためには、それなりの人付き合いのできる能力や、その場の雰囲気を読んで自分の役割を理解して、パーティーメンバーと助け合いながら、ゲームをこなしていく能力が必要である。まったくのお子様だったり、自分勝手であったり、人間関係がきずけなかったり、マナーやルールがまもれなければ、楽しく遊ぶことはできない。 そして、ゲームの魅力とは、「ゲーム中で英雄になれる快感」というような簡単なものではないと思う。「自分が抜けるとパーティーメンバーが死んじゃうから抜けられなくなる」というが、そこまではまる為には、そんな単純でない、ゲームとしての面白さがあるわけなのだけれど、そのことについて、つきつめている評論には出会っていないように思う。 ところで、オンラインゲームの世界で遊んでいて、いちばん多く使う言葉は、「ありがとう」である。その他には、「おつかれさま」「またあそぼうね。」「ばいばい」「こんにちは」「おはよう」。 ほとんどの言葉は、『いたわり』に近い。 ネットゲーム(オンラインMMOゲーム)の社会の基本構造は『たすけあい』の世界だ。そして、それに対して、現実の社会の基本構造は、『競争』だ。 オンイランゲームの中では、強いボスを倒して、レアなアイテムを手に入れる、または、経験値を獲得するというパーティメンバー共通の目的のもとに助け合うことでゲームはなりたつ。一緒に戦う仲間が、死んだら、いきかえらせたり、戦闘の中での自分の役割を理解してこないしていかないと、モンスターを倒して目的を達成できない。そして、クリアして、ゲームを止める時にお互いにかけあう言葉が、「お疲れ様」であり、「「ありがとう」であり、「またね」である。 それは、友達であっても、はじめてであって戦った相手であっても、共通の社会ルールでもある。 その一方でふっと、現実の世界を考える時、そこにあるほとんどは『競争』だ。ましてや、子どもの世界ではそれはなおさらに際立つ。学校では勉強してよい点を取り、受験を勝ち越していかなければならないし、クラブにおいても、より強くなって、同じ部員の中で勝ち抜いていかなければ、レギュラーとなって、試合に参加することはできない。自宅にもどって友達と遊んだとしても、今の子どもたちのやるゲームもまた、ニンテンドーなどのゲームをみていると、そこにあるのは、競争なのだ。友達どうしで遊ぶにしても、それぞれコントローラーをもちより、4人のプレイヤーが競い合って、ゲームをする。そして、その結果はみごとにシビアに「順位付け」される。所詮遊びではあっても、ほとんどそれを意識していないとしても、そこにあるのは、『競争』の世界だ。 かつては、学校の野球部などで、野球をしていたスポーツ少年であったはずの子どもが、ネトゲにはまったまま、抜け出さなくなってしまう。親にはなぜかわからない。親にはいわないけれど、あるいは本人自身気づいていないけれど、日々の勉強、テストによる順位づけや、クラブの中でのレギュラー争いなどに、疲れてしまった子どもが、ネットの中で、助け合い、いたわりあうゲームの世界は、場合によっては、初めて知る「たすけあい」の世界なのかもしれない。 実際のところ、本当の戦争や本当の冒険はもっとずっと危険で、一度死ねばもちろん、生き返るなんてできない。戦って怪我をすれば痛い。ポーションをぱっとつかえば一瞬にして直るなんてわけにはいかない。それでも、助け合って、危険を切り抜けていくゲームの世界は、どこかで癒しを感じるのかもしれない。 仲の悪かったはずの姑と嫁が、戦時中には、助け合って、生き抜いたエピソードもきいたことがあるし、そうだろうなと、思う。競い合うより、助け合うほうが人の心は結びつくし、仲良くなることもできる。 今の日本は、平和で、不況といえども、戦時下よりはよっぽど、のんびりしていて、暮らしやすいけれど、日本の中でそれなりに生きていくためには、やはりこの競争社会を生き抜いていかなければならない。日本という国は、平和に見えるければ、実際には結構きびしい社会だ。その競争の中で疲れた子どもたちがゲームの世界に癒しを感じるとしたら。「競争」より、「たすけあい」のほうがずっと、心を癒してくれるものだと思うし、人との心のつながりを感じるものだ。もちろん、ネットの中にも、ネトゲの中にも、中傷や、盗みや、ルール違反の行動は、存在する。ネットといえども、その中にいるのが人間であれば、そこに起きる事件も、できあがる社会ルールも、現実の世界となんら変わらない。そして、オンラインゲームで楽しく遊ぶためには、それらのルールを守ったり、場を読み取る力が必要でもある。そして、ゲーム以外のネットの世界にも、相互補助の助け合いに出会うことが多い。掲示板などに中傷はつきものだけれど、だれかが質問をしたことにたいして、無償で親切に丁寧にアドバイスや解答をくれる人は多い。 学校というところは、「助け合い」や「おもいやり」を道徳的に説いているけれど、その場で実際に子どもたちに求めているものは「競争」であり、「勝ち抜いていくこと」なのだから。 そうはいっても、やはり、競争は必要だし、それを乗り越えて生きていかなければならない。そして、未成年が一晩中寝ないでゲームをし続けることのできる今のオンラインゲームのシステムは、やはりどうかと、思う。それは、子どもにかかわらず、大人にだってよくないと、思う。そのためにも、オンラインゲームの運営時間にたいして、なにかしらの規制は必要なのではないかと、思う。少なくとも、夜どおしの運営は、ストップするべきであり、夜中の1時から、5時くらいまでは『閉店』するべきであると思う。ゲーム業界が自主規制しないのであれば、法的に規制をかけるべきだし、タスポのように、未成年のゲームに対しては、親や成人でしか入ることのできない認証サイトを作って、そこから、子どものゲーム時間に対して、規制すべきだろう。場合によっては、3時間以上遊んだら、強制的に、ゲーム落ちしてしまうようなシステムは、必要だと思う。 オンラインのMMOゲームなどは、一般にRPGと、されているけれど、実際には、その一つのゲームの中には、RPGだけでなく、育成や、チャット、仲間作り、オシャベリ、戦争、などがあり、場合によっては、その中で、レアアイテムを買い取ったり、売り裁いたりする商人のような人物すら存在する、あらゆるゲームの要素を内包している。また、子どもや若者のやるものと、一般的には思われているけれど、実際には、30代、40代あるいはそれ以上の大人たちもまた、多く参加している。ふつうの大人もまた呼び込んでいるオンラインゲームとは、それなりの魅力をもった娯楽でもあり、その先にこれからどんな変化をしていくものなのだろうか。
2009年08月30日
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昨日テレビで『アンビリーバボー・衝撃世界実録事件簿SP!!』を見ていてた。アメリカの高齢の大富豪と結婚したもとストリッパーの女性アンナが死んだ後、その女性の産んだ子どもの親権をめぐって、その女性のかつての愛人たちによる壮絶なバトルがあったというドキュメンタリーもの。 富豪の死んだ後、莫大な財産を受け継いだ若き未亡人アンナは、けれど、信頼していた弁護士によって薬殺されてしまう。その財産は彼女が死ぬ直前に生んだ女児に受け継がれるけれど、その財産の管理権、相続権を獲得するためにかつてのアンナの愛人たちが、自分こそがその女児の父親だと、名乗りを上げる。結果は、DNA判定によって、人の若い男が、父親と確定され、女児の父親となる。けれど、みていると、彼には、娘への愛情はあまり感じられない。それでも、遺伝的に科学的に証明されれば、それが父親とされて、社会的に認識される。 ちょっと前にやっぱりテレビの番組でみたのだけれど、アメリカの女性が本当に自分の産んだ子どもの親権を獲得するために、役所に申請し、DNA鑑定を受けたところ、否定されてしまった。これは、結局、キメイラという、一人の体の中に部分部分によってちがうDNAがまざりこんでいるという特別な体質だったためであり、最終的には、子宮のDNA鑑定によってやっと、親子であることを科学的に証明することが出来て、親権を獲得することが出来たのだけれど。 親子かどうか、親権は誰のものかが、DNAという化学的証明だけで、当事者の親や子どもの感情や事情を無視して決定されてしまうことに、疑問と不快感を感じた。 江戸時代のエピソードで、大岡裁きという有名なものがある。その一つに、こんな話がある。二人の母親が自分こそが、この子どもの母親であると、大岡越前の守に裁判を求めてきた。大岡越前は、二人の母親に両側から子どもの手を引っ張るように言う。二人の母は、両側から思いっきり手を引っ張る。けれど、一人の母親は、わが子の手がひきちぎられそうで、痛がるわが子の姿に、耐えられなくなって、手を離してしまう。大岡越前は、手を放した方の女性を本当の母親として、裁定する。 江戸時代にDNA鑑定も、血液検査もない。 けれど、子どもに本当に愛情をもっている母こそが本当の母親であると、大岡越前は、裁いてみせてくれた。 化学の力はすばらしいけれど、それだけがすべてじゃないんだと、思う。 アンナを虐待した挙句、子育てを放棄して他人に預けてしまったアンナの実の母親。血のつながりだけで、科学的な証明だけで決定してしまうアメリカ社会ってこわい。そして、コレと同じような事件が起きた時、日本の裁判所もまた、たぶん、おなじ決定をするだろうと、思える。愛情のあるフリをして、虐待する親もいる。それらを正しく、見極めることはとても難しいし、愛情だけで、決定してしまうことにもまた、別の難しい問題が生じそうな気がする。 本当のことっていったいどこにあるんだろうか。そういうのは、とてつもなく、むずかしい。
2009年08月28日
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昨日の朝、窓の外をみていたら、中学生、小学生がぞろぞろと登校していくのが、みえた。小学生の夏休みが今年から短くなると、うわさには聞いていたけど、いつからなのかは、具体的には、知らなかった。でも、昨日から早速登校がはじまってしまったらしい。こんなに夏休みが短いなんて、なんかかわいそう。でも、実際には、今の子どもは、夏休みといっても、結局、休みの時間があれば、塾に行かされちゃうし、さもなきゃ、習い事か、部活動で、埋まってしまう。それもないと、一日中部屋でゲームかネット。昔のように夏中外で元気にあそぶなんて、たとえ親が望んでも、そうはならない。だとすると、さっさと学校に行って、学校内で、クラスメイトと、遊ぶほうがまだましかもしれない。ゆとり教育がはじまって以来、かえって、ゆとりのなくなる一方。授業内容を減らせば、勉強の足らないぶん、きっちりした親は、子どもを塾に行かせるし、そうじゃない親はなんにもしないので、子どもの方は、勉強不足で、高校もままならず、中途でやめたり、いきたい学校にいけなかったり。結局のところ、いい効果はなかった気がする。それに、今はクーラーもあるし、先生たちは昔と違って、たとえ授業がなくても、夏休みでも、学校に出勤しなくてはならなくて、時間があるので夏休みの部活はいそがしい。そういうことが、影響して、息子のバイトも昨日から、がくっと減った。なにしろ、昼間の授業は夏休み中しかできないのに、昨日から学校はじまったのですから。こんなところにも、影響でるんですね。塾業界は大ダメージでしょうねえ。なるほどと、思いました。ゆとりを作るはずのゆとり教育の結果は、結局ますますのんびりできない子どもたちの夏休みの減少という成果となったのでした。これから先、いったい、学校は、どうなるのでしょうねえ。それでも、私の頃よりはずっと、カリキュラムは、まだまだ少ないはず。昔、小学5年生になった時、毎日6時間びっしりある時間割をわたされて、こんなに勉強なのかと、うんざりした覚えがありますが、娘の時は、最高でも、週4回が5時間でしたからねえ。もう、子どもたちが卒業してから、少し厳しくなったのでしょうか。うちは、ちょうどゆとり教育のハザマにあたっちゃって、ほんとに損した。でもって、子ども育て終わったら、今度は課税される挙句、そのお金は、自分はもらってないのに、今の若い子育て世代へわたされるなんて、ほんとになんでいつもこう、タイミング悪いんだか。なんかすごく腹立たしい。子育て資金配るにしても、私たち子育てに一番お金かけさせられた世代から取るのは、止めてほしいですよね。どっちかというと、ゆとり教育のせいで損したぶん返してほしいくらい。教育機関を充実させるために使われるならまだしも、現金が直親に配るくらいなら、やめてほしいです。ああもう、だんだんきりがなくなってきたかんじ。今度の日曜は選挙だけど、投票したくない。
2009年08月26日
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三日目のメインは、天竜川です。妻籠から山をこえて、伊那市へ。天竜川には、『天竜川舟下り』と、『天竜川ライン下り』のふたつがあって、どちらがいいのだろうと迷ったのですが、『舟くだり』のほうが、もともとからあるもののようなんだけど、なんだか、予約が必要みたいで、でも、その時間にうまく天竜川の乗船場につけるかどうかわからないので、予約のいらなそうな、『ライン下り』の方を選びました。実際にいってみると、三信越道路からずっと、案内の看板が出ていて、迷うことなく行き着けました。しらないと、ふたつのどちらかまようことなく、こちらについてしまいます。もう一つのほうはどうやっていくのか、全く分かりませんでしたから。ついてみると、あと45分くらいの待ち時間ということでしたが、待合室室で、ぼーっと天竜川を眺めていたら、あっというまでした。でもあの待合室、もっときれいにしてほしいです。天気がよくて、炎天下の45分の乗船時間は、結構暑くてたいへんでしたが、おもしろかったです。 これが天竜川。始めてみました。今年は雨が多かったので、水量は、たっぷり。舟遊びもしやすいというもの。 乗ったのは、この船です。結構たくさん乗れました。思ったほどの激量下りでもなく、対してゆれることもなく、水しぶきのかかることもなく、優雅な船旅でした。 天竜川沿いに走っている鉄道の鉄橋。時間があえば、帰りはこの鉄道に乗って、船着場までもどりたかったのですが、なにせ、田舎の鉄道なので、1時間1本すら走ってないのですよね。東京のようにはいかないものです。 そして、ところどころの岩に漢字が彫ってありました。こんなところでよくこんなことする人がいるものだなぁと、びっくり。 釣り橋も下から。はい、水上視点ですね。 そして、途中で、船頭さんが投網をして、お魚を取るところをみせてくれます。しかもねその、取れたお魚をなんと船の上で焼いて、たべさせてくれました。こんなイベントまであるとは、しらなくて、びっくりでした。お魚は、たしかウグイだったと、思います。内臓処理もなく、釣りたてを生きたまま、割りばしに刺して、焼いたもの。残酷焼きというそうです。 そのあと、サービスでおせんべいも。 そして、お魚、おせんべいと食べて、のどの渇いたところで、水上売店が出現しました。船頭さんが、売り子さんにはや代わり。いやはや、この『ライン下り」の会社の社長さんの経営手腕にはオドロキです。どこからどこまでも、気配りと、商売根性が徹底していて、ある意味、ほほえましい。ここの飲み物も、一缶200円と、たかかったけど、なんだか、笑えちゃいます。そういえば、この手前でも、途中に神社船が用意してあって、お賽銭を投げるようなイベントもありました。あのお賽銭はあとで回収して、会社の収益にしてるのだと、思います。が。 このあと、最後は、案内のガイドの女性の歌声をききながら、終点につきました。45分間。といっても、船に乗ってるだけだと、結構すぐあきちゃいそうですが、こんなお客さんをあきさせないイベントをいろいろ用意してありました。帰りは、マイクロバスで、最初の乗船場まで、連れ戻してくれました。高いけど、なかなかたのしい船旅でした。そして、この後は、すぐに高速に乗って、一路東京へかえって行きました。木曽路中仙道の旅おしまいです。 【クーポン配布中】【送料無料】 フランスベッド スリープバンテージ(抱き枕 横向き 枕 まくら 快眠 安眠 いびき対策 横寝用 横寝 抱きまくら ウォッシャブル ギフト 防止 グッズ 予防 解消 だきまくら いびき枕 スリープバンテージピロー 洗える 横向き寝) 【20P23Apr16】価格:3980円(税込、送料無料)
2009年08月21日
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はい。三日目の朝です。朝ごはんの前後にもカメラをもって宿からでて、妻籠の写真とりまくりました。朝早いので、まだ、観光客もぜんぜんいなくて、すごく静か。そして、朝の光というのは、昼間とはちがうのですね。空気もまだ澄んでいてきれいです。涼しくて、静かで、すきとおった妻籠宿。昨日の疲れもとれて、集中して写真がとれました。 ところで、なんでこんなに、旅日記を延々と書いているかというと、もう、いい加減同じ写真ばかりでしつこい気もしますが、自分のためです。数年前から書き始めたブログでさらに、カメラを買って、写真も加えるようになりました。 そうすると、一年、2年たって、後から読み返すと、旅のときのことを思い出して、すごくいい記録になっているのですよね。ただ。アルバムに写真貼るだけじゃなくて、その時の旅程や、その時、思ったこと、考えたことまで、記録していると、後から見ても、旅の記憶が鮮やかによみがえってくるし、写真もあざやできれいです。読み返しているとたのしいんですよね。 それと、旅先として、考えている人に、少しでも、わかりやすい現地の情報を残しておきたいかなと、思いました。正式のホームページの情報や写真では、分からないことがすごく多いのです。 あとは、写真も込みで、記事を作るのはとても、手間がかかるので、一度にそんなに写真があげられないので、めんどくさくなって、省いちゃうので、今回は、少しづつ、なるべくたくさん写真を載せようと思いました。 今回はこんなに書きましたが、あと、一回でおしまいです。自己満足ですが、大変でした。でも、来年読むと楽しいでしょう。さて、来年はどこにいけるかな。 松代屋さんも、朝見るとこんなにきれい。 最後に、チェックアウトして、クルマに荷物を積んだ後、また、妻籠に戻って、お土産を買い、お茶屋さんで、だんな様はコーヒー、私と娘は、前日たべたのに、またまた朝から、カキゴオリをたべてしまいました。このての、ちゃんとカキゴオリ機でつくったものは、東京では、なかなかたべられません。おいしかった。でもこれで、お腹を傷めて、このあと、延々と、お腹の痛いのに苦しんでおります。はい。この後は、山を越えて、天竜川へ。
2009年08月20日
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妻籠ネタまだまだつづきます。開田高原だけでは見るところもあんまりないし、どうしようかなと、思って地図を見ていて、ちょっとだけ贅沢なお宿は去年とまったので、気がすんでるし、と、思っていたら、妻籠をみつけました。宿場町の旅籠に泊まるなんていままでやったことないし、おもしろいかも。と、おもいました。ただ、このてのお宿は部屋の仕切りがふすまだけなので、隣の部屋の音も聞こえそうだし、治安も問題かも。そして、暑いかも。という心配がありました。でも、実際に泊まってみたら、クーラーもあり、トイレもきれいで、お部屋もきれい。音のうるささもなく、とても快適でした。今回泊まったのは、ここ、『松代屋』さんです。 妻籠のHPをみながら、10軒ほどある旅籠のなかで、江戸時代からつづく旅館ということで、一番宿場町の旅籠の雰囲気を感じさせるということで選びました。 ここの宿は、鯉の煮付けと、こいこくのお料理で有名なところ。また、渡り廊下があって、その下には、池があり、食用の黒い鯉が何匹も泳いでいました。この鯉が、あの食卓にでてきたのかな?どうも、鯉料理が出るのはここだけみたい。渡ると床がギシギシいうんですよね。でも、渡り廊下たのしかったです。 でも、夕飯の写真はカメラの電池の充電中につき、取りそびれました。無念です。 妻籠の宿は、他の旅館とちがって、ふすまだけで隣の部屋としきられているということで、狭くてしかも、うるさくて、休みづらいかもと、危惧していたのですが、とおされた客室はきれいで、二部屋つづき、クーラーもあり、カイテキでした。古いお宿だけれど、少しリフォームしてあって、トイレもきれいな水洗につくりかえてありました。そして、宿から一歩でれば、妻籠の街中。休んでは、見学のくりかえしで、たっぷりと、妻籠を見学堪能できました。やはり、宿場町を見るなら、宿場町の旅籠に泊まるのが一番だと思います。夕飯の後にも、夜の真っ暗な宿場町を散歩。しかも、松代屋さんでは、ちょうちんをかしてくれるので、真っ暗な道だけど、夜のお散歩も楽しめました。もっとも、このちょうちん、中のろうそくは、電気でしたが。 各家の明かりだけがついている宿場町の夜のお散歩もまた、乙なものでした。 翌朝も、食事前、朝食後もなんども、宿から出て、宿場町の見学。さすがに朝は少しすずしいので、前日見学のしんどかったところもまだ観光客がいなくて、写真を撮るには絶好のタイミングで、何人か同じように写真とっている人がいました。 朝ごはんです。ふつうのメニューですが、目玉焼きがハート型。かわいい。窓の外はすぐ中山道というお部屋で、気持ちのいい朝食でした。それから、ここの宿のお部屋には、いままでこのお部屋に泊まった方たちの書いた雑記帳がおいてありました。その中に、北朝鮮に拉致された蓮池さんのご両親が宿泊された時の書き込みがありました。蓮池さんも、わが子がやっと帰ってきたことで、気持ちの整理がついて、やっとゆっくり旅行にこれたのでしょうか。かかれていた内容は忘れてしまいましたが、結構驚きました。松代屋さん、お世話になりました。
2009年08月19日
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木曽路はすべて山の中である。妻籠の中には、本陣、脇本陣と、資料館が博物館として、公開されていて、全て見ても、700円。先に宿に寄っていたので、2割引の割引券をもらっていたので、さらに安く見ることができました。ラッキー昔ながらの宿場町の本陣の建物の中をじっくりと見学できました。 先に脇本陣を見ました。ここは、天皇家の誰かが来られたらしいのだけど、誰だったっけ。忘れちゃった。 内部です。やはり広い。お侍さん用の玄関もあり、おくには、床の間上座もありました。 本陣は、町の庄屋さんがつとめるもので、中山道を通る幕府の偉い人や、参勤交代の殿様、いろいろな用事で街道をとおる大名などを泊めて接待する宿だったそうです。実は妻籠に来るまでまったくしらなかったのですが、ここ妻籠の本陣は、かの島崎藤村のお母さんの実家でした。島崎藤村は隣の馬込の本陣の家の七男だったのだそうです。七男で、実家を継ぐことなく東京にでて小説家になった島崎藤村の書いた小説によって木曽とその木曽の宿場町のくらしぶりなどが、後の世の人たちにも、知らされることになったのだと思うと、小説家ってすごいお仕事なんだなあと、思います。 でもって、こっちが妻籠本陣の入り口。庄屋さんの家であり、大名を泊めるお宿です。 そして、本陣の内部です。 で、大名の泊まる部屋。周りには、敵が来たときのための警護もかねた部下のためのスペースもあります。そして、一段高くなってました。 蔵を改装した資料館の中には、『里見八犬伝』の原書がありました。表紙がこんな絵だったんだ。表紙の絵がみられるなんてすごい。 木曽路はすべて山の中である。 この言葉が旅行中何度も頭の中を飛来しましたが、木曽という土地をなんとうまく表現しているのでしょう。このあと、旅から戻って、たまたま家にあった「夜明け前」の一巻だけを手にとって読み始めてみると、旅でみた妻籠の宿場町や中山道の山々の景色が目に浮かび、旅行が思い出されます。 そして、実際に木曽の山中をみてきたことで、小説がとても身近で分かりやすいのです。大学の文学部などでも、本一冊を一年間通して、こまかい時代設定や、物語時代の背景、その当時の社会状況などを調べながら、講読していくものですが、実際物語の舞台となったところをみてくると、本を読んでいてもちがうものだと、思います。物語が格段におもしろいです。 長野はどこもいいところですが、木曽街道に行ったのは、子供のころ以来です。権兵衛トンネルができたことで、とても行きやすくなりました。いつかまたいきたいです。そして今、「夜明け前」を読み始めたところです。ただの名作ではない面白さを実感できるようになりました。妻籠編、まだまだつづきます。
2009年08月18日
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さて、本当にいよいよ妻籠です。二日目の午前中は、御嶽山。そのあと、寝覚めの床があまりの暑さで、あまりよいところでもなくて、すぐに終わってしまい、予定よりぜんぜん早く、1時に妻籠についてしまいました。猛暑の中での見学はかなりきつかったです。今後観光旅行は夏じゃない時にやりたいですね。そうはいっても、夏じゃないと、こんな長期の休暇はとれないんだけど。サラリーマンてつらい。昔は、夏でも田舎にいけばそれなりに涼しくて、避暑になったのに、最近は田舎にいっても、東京並みに暑くて、避暑になりません。観光もできません。地球温暖化をここ数年リアルに実感します。地球温暖化なんとかしてほしいです。とりあえず、お宿に荷物だけ預けて、妻籠の宿場町を見学しました。妻籠は、外側から見ると、普通の村落と変わらないのです。 でも、脇にいくつもの侵入路があって、中に入ると見事な宿場町でした。自動車は、昼間は、入場規制ではいれません。そして、この厚さにもかかわらず、多くの観光客が見学していました。特に欧米系の外人さんがいっぱいでおどろきました。彼らには、すごく日本的なここの景色はおもしろいのでしょうか。アジア系の外人さんはいないのですよね。アジアの人には、宿場町の風情より、貧乏の苦しさしか感じないかも。 お昼は、その中の一軒でザルソバと五平餅のセットをいただきましが、写真とるのわすれました。今回は暑くて、集中力も激落ち。あんまりいい写真や肝心の写真が取りそびれたものがおおかったです。外人がおおいので、メニューは英語もありでした。木曽路は観光コースにはいってるのでしょうね。中山道の宿場町として有名な妻籠は早くから、昔の宿場町の保全運動を始めたところで、昭和初期には、普通の田舎の町と建物だったのをあえて。作り直して、江戸自体の宿場町の建物に立て直して、再現されたものです。でも、今では世界的にそういう町並み保存が普及してきているなかで、文化財として、世界屈指の有名な場所となっているようです。 宿場町は、旅籠十数軒と、お土産やさんと、お茶屋さん、本陣資料館でした。のんびり見ていると、いろいろと楽しくてなかなかみきれませんが、おもしろかったです。お昼を食べて、カキゴオリを食べて、お土産をかい、旅籠に泊ままりました。 妻籠のはしにある鯉の形ににているということで鯉岩ですが、関東大震災で、上の部分のいわず落ちてしまい、形がかわってしまったとか。景色に混ざって、発見しずらくて、よくわかりませんでした。妻籠まだまだ続きます。以下次号。 「妻籠宿」エリア長野県 > 木曽ジャンル観光名所住所長野県木曽郡南木曽町吾妻説明私の生まれ育った場所。 江戸時代に栄えた中仙道の木曽路十一宿の一つで、長野県と岐阜県との県境に位置し、隣には島崎藤村の出身地である馬籠宿がある。 江戸時... (ペチカ)クチコミ中仙道を通る宿場町。長野と岐阜の県境にあります。五平餅とそばが美味しかった。もっと読む
2009年08月17日
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さて、旅行二日目ですが、この日の早朝5時に大地震。数日前から何度かのゆれがあったのですが、旅先での地震は初めてです。旅先で被災したらどうしようと、思ったけど、大丈夫でした。思わず、東京の家に電話してしまいました。ちょうど、留守をたのんだ姑がきていて、電話にでてくれたので、家の方は無事とわかってほっとしました。ちなみに、東京に残って留守番していた息子は、爆睡中だったみたい。この地震で、東名高速が、壊れて、このあと、お盆だというのに、15日まで東名は一部不通となったのでした。旅行先を中央道にしておいてよかったです。今年は連日の雨で地盤もぼろぼろですしね。このあと、地震でぼろぼろの静岡、伊豆には、台風も送れて襲来したのでした。静岡の方お見舞い申し上げます。そして、この日は木曽御嶽山です。 さてその地震のせいで、ロープウェイとまってるかもと、シンパイだったのですが、ロープウェイは、普通に営業してました。 朝ごはん~♪メニューは普通だけど、卵焼きはふんわり上手に焼けてるし、素材の一つ一つがいいものを使ってあって、贅沢な朝ごはんでした。このあと、コーヒーも出していただけて、とってもうれしかったです。 宿から朝見た御嶽山は、久々の快晴で雲がなく、全景を見ることができました。地震のせいか、台風のせいか、雲の形がちょっと不思議です。 御岳ブルーラインを通って、一路御嶽山へ。開田から行くとちょうどいいんですね。今回のたびの企画スケジュールは、なかなかよくできました。 ゴンドラで、一気に山頂へ。結構時間長いですよ。この日は、まさにモーゼスパワーで、快晴。雲がぜんぜんなくて、雲上どころか、上から下まですべて見渡せる絶景でした。しかも、すんごく涼しくて、空気よくて、もう、下に下りたくない気分。そのまましばらく、下界をみおろして、山頂の風を味わっていました。昔、子どもの頃にたしか両親に連れられてきたはずなんだけど、ぜんぜん覚えてないのですよね。実はこんなにいいところだったのですね。 東京からここまではなれるとさすがに、混雑も渋滞もなく。カイテキです。 こんなに雲のかかっていない高い山を見られるのはめずらしいことです。ラッキー♪ そのあとは、中仙道をさらに南下しまして、途中寝覚ノ床を見学しましたが、あまりの猛暑に展望台の上からみただけ。ここは、木曽川のほんの一部分が奇岩ということで、名所になっていただけ。とても、川辺までおりていく根性なし。もう、真夏の観光は、ごめんです。 しかも、ここは公式の駐車場は、500円の有料なのに、その両側にセブンイレブンと、ドライブインの無料の駐車場があったり、寝覚ノ床の展望台の入場料が200えんもするのに、中はすごく汚かったり、下までえんえんと下りなければならなかったり、敷地内の資料館が暗くて埃臭く、せっかくの「十八史略」などのそ蔵書も死蔵されていて、ひどいところでした。長野は全体にきれいに整備されていたのに、ここだけが、昔のままでした。できれば、改善してほしいと思います。 御嶽山の売店でも売っていたので、食べちゃいました。開田高原アイスクリームです。おいしかった。 そして、いよいよ、娘の今回の最大の目的地。妻籠へ。以下次号。
2009年08月16日
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木曽路はすべて山の中である。 権兵衛トンネルを抜けて、木曽に入ったことを実感した時に頭に浮かんだのが、島崎藤村の小説『夜明け前』の有名なかきだし部分でした。まさに山の中。右も左も針葉樹林ばかり。 長野県の地図を見ながら、いつも、伊那のところにある権兵衛峠が気になっていました。でも、道も細そうで、ここを車で超えるのはたいへんそうだなと、思っていた。その権兵衛峠にトンネルが開通したのが二年前のことらしい。 難所だった権兵衛峠は、トンネルの開通で、山越えではなく、山抜けになった。かかる時間はわずか30分。中央高速の伊那を降りてすぐに、権兵衛トンネルに入る。トンネルの中は上り坂と思っていたら、ずっと平らな道で、長いトンネルを走っていくと、あっというまに、木曽に入ることができて、本当に驚いた。今回はこのトンネルができたことで、以前から行きたいと思っていた、開田高原に行くことを企画した。開田高原はおそばと木曽馬の産地らしい。しかし、旅の出だしをのんびりしていたら、東名の事故渋滞にひっかかってしまい、昼までに開田高原につけなくて、今回は開田高原のおそばをたべそびれました。くやしい。いつかまた、リベンジです。でも、伊那のインターの近くのお蕎麦屋さんもなかなかおいしかったです。 トンネルをぬけて、木曽に入ると、そこはもう、木曽路、中山道です。そこから少し南下して、木曽大橋の交差点を右にはいり、さらにトンネルを抜けると、開田高原に入ることができます。 日本一美しい村だそうです。ほんとにここから、風景がまったくちがいます。とても、いいところでした。 先ず最初にクルマをとめたのが、開田高原アイスクリーム工房です。ここのアイスクリームを食べることも今回の目標の一つでした。とうもろこし味のソフトクリームがおすすめ商品のようで、おいしかったです。とうもろこしって初めてなのですが、コーンクリームスープが甘くなってアイスになってるかんじ。違和感はぜんぜんありません。 そのあと、木曽駒をみたかったのですが、道が分からず、時間も押していて、宿に直行しました。はじめてのところは、道がわからなくて、暗くなってから迷うのをダンナが嫌がるのですよね。宿に向かう途中の峠からは開田高原と木曽御嶽山が一望できました。すごくいい景色だったんだけど、その素晴らしい眺望がどうにもうまくファインダーの中におさめられず、腕のなさを実感。かなり悔しい。 今回のお宿、やまかの湯です。 平屋かと思ったら、泊まったお部屋は二階でした。三人なのに、10畳以上の広いお部屋で、きれいでした。窓からは、木曽御嶽山がみえました。今年の夏は雨続きで、開田高原でも、ずっとー雨だったらしいのですが、この日の夕方から天気が晴れはじめて、なんと、御嶽山がみられました。翌日には快晴で、台風が伊豆の方にむかっているはずなのに、なぜか、開田高原あたりは、快晴だったのです。うちのダンナはすごく不思議な人で、今回の旅もだんなさまの力で、このあたりだけは晴れでした。あとで、姑に聞いたら、東京はずっと雨だったとか。で、こういうのをまるでモーゼみたいだといって、二人で、「モーゼスパワーすごいね。」と、冗談交じりに言ってたりするんだけど、ほんとにこの、三日間だけは、晴れてました。初日の朝は、土砂降りで、各地でいろいろと事故もあるなか山間に旅立つことに不安を感じていたのに、いざ来てみれば、うそのようなお天気。だんな様、今後もよろしく。 お宿の食事には、なんと、名前だけは知っていた、イナゴの佃煮が出てきました。でも、たべられませんでした。たべてみればなんてことないのだろうけれど、どうしても、だめでした。ダンナはたべてたけど。 それから、馬刺しもでてきたんだけれど、やっぱり、たべられませんでした。もともと普通のお刺身自体がだめなので。でも、それ以外はどれも、とても上手に作られていて、品のいいあじつけでした。おいしかったです。特に枝豆の茶碗蒸しは、枝豆しかはいってなくても上の部分には、枝豆のあんもはいっていて、初めてのお味。 おいしかったです。ごちそうさま。旅館というと、お茶はでても、それ以外の飲み物がなくて、水もお手洗い用の水を飲むしかなくて、いつもこまっていたのですが、ここの旅館は食後にお部屋につめたいお水が用意してあり、とてもうれしかったです。そのあとの翌朝の朝食でも、コーヒーか紅茶が普通に食事についていて、いつも旅先で飲みたいのを我慢したり、宿を出てからどこかで探して飲んでいたコーヒーを食後すぐにいただけて、そのサービスの行き届きぶりが、若い女将さんらしくて、きれいでゆったりしたいい旅館でした。女将さん、お世話になりました。翌日は御嶽山に登り、そのあと、妻籠へ。 ↑お土産に妻籠のお店でかってきたおそば。 乾麺だけど、お土産用の生めんよりおいしかった。
2009年08月15日
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朝から晩までノリピーの事件報道でちょっとあきました。(朝から晩までテレビついてるの?というのは、おいといて)でもこれって、単純に芸能人の覚せい剤事件っていう単純なものなのかなぁ。裁判員制度初めての裁判が始まった途端に、裁判員制度を広告する映画の主演女優さんがいきなり、事件を起こして報道されまくり、逮捕されてるなんて、なんだか、タイミングとして、できすぎているような気がします。果たして、ノリピーは、本当に覚せい剤してたのでしょうか。裏に何かあったりしないのかな。たとえば、裁判員制度に反対している政治家とか、官僚とか、法曹界の偉い人とか、そのあたりの人たちが、裁判員制度のイメージをおとしめるために、まず、のりピーをはめたとか。そして、裁判員制度開始のこの時期に摘発できるように、彼女の周りの人間から少しづつ固めていっていたのかも。例えば彼女のダンナとか、そのダンナに覚せい剤をさせるために彼女の弟から覚せい剤を渡るように仕向けていたのかもしれません。この日のためにも数ヶ月も前から。たとえ、彼らが覚せい剤をしたとしても、それがほんの数回だとしたら。でも、たったの一回でも、覚せい剤をしたことがみつかれば、逮捕できちゃうのですよね。そして、同じ時期に逮捕された押尾さん以上にニュースになってるのはなんでなんだろう。そんなことをつらつらと、考えてみると、なんだか、サスペンス映画みたい。私、サスペンス映画はそんなに好きじゃないし、みないのですけれどね。 にほんブログ村
2009年08月09日
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民主党のマニフェストが今話題になっている。 実際自民党にいい加減飽きてきたけど、他にいいところがないからみんなとりあえず自民党に投票したきたので、前回の都議選など、皆結構民主党に投票していることは多いと思う。私も民主党に投票しようかなと思っていたけれど、先日新聞を読んでいてちょっといやになった。 だって、『子どものいない働いていない主婦』に対しては、厳しくなるみたい。てことは、私なんか、あと二年で子供が二人とも成人すると、子どものいない無職の主婦ってことになる。実質子どもがいても、税法上は、子どもはいなくなる。二人とも成人しちゃうからだ。今までせっせと子育てしてきて、お金もたくさんかかって、それが、終わって一段落してこれから楽になるかなと、思っていた矢先にコレってどうよ。 民主党に投票するのはやめようかなぁ。 子どもがいないって、本当に全く子育てしていない場合と、子育てが終わって子どもたちが成人したから、税法上子どものいない場合では、ぜんぜんちがうじゃありませんか。 全く子育てしていなければ、それまでにお金もためられるし、いろいろ使えるし、でも、子育てが終わって子どものいない家庭の場合それまでに膨大な子育ての費用や教育費で家計はぎりぎりだし、貯蓄も使い果たしていたりするし。子育てのために、まともな仕事にはつけなかったり、仕事をしていても、学校のPTAの本部役員の仕事なんかで、それまでの仕事を止めたりする人もいる。子育てが一段落する頃には年齢的にも、もう、求人のない頃だ。 それなのに、一律に、『子どものいない働いていない主婦』って扱いになるのだろうか?そこんところどうなのだろろう。 ところで、その他にも、いろいろみていると、確かにばらまきだなぁっと、思う。数年後には所得を増やすというけれど、所得が増えると物価も上がったりして、それまでの貯金の価値がなくなる可能性もあるのだから、素直によろこべない。所得が上がるより、お金のかからない世の中になってほしい。とにかくまず物価があがらないでほしい。以前のバブルの頃には、収入もよかったけれど、今思うといろんなものがとても高かった。 そして、出産や中学生への助成金、高校の無料化は本当にいい事なのかも疑問だ。マニフェスとに書いてあることは本当にいい事みたいにみえるけれど、本当に実現できるのだろうか。そして、お金を配るような対策ばかりだけれど、小さい子どものいる家庭にお金を配ると、子どもの習い事や、塾のために使われてしまいかねない。もっと違った対策をしてほしい。塾に行かせなくても、学校での授業内容を充実させてほしい。そのためにも、教師の数を今の倍くらいにして、小学校から福担任制を導入したり、一クラスの人数は多いまま、たくさんの教師によってフォローしたりできるようにしてほしい。先生にも週に二日は休みのある生活にしたり、いろんな書類の簡素化や細かい雑用の最適化で、先生たちが、もっと勉強や児童、生徒へのの指導にエネルギーを注げるように対策したほしいと思う。予算をまわすなら、そういうほうにまわしてほしい。なんでも、お金を配る方にしか考えつかないのだろうか。疑問だ。 ちなみに私の住んでいるところは、幼稚園は、区からの助成がでているので、私立も公立も一律3千円しかからないし、医療費も全額無料だ。でも、お金は、保護者にダイレクトにはこない。医者にかからなければ、別にそれまでのこと。 出産に関しては、健康保険組合から、一回の出産に対しては、30万円程度の一時金が支給されているので、国から55万円だすより、保険組合の出すお金を増やすように助成した方がいいと思うけど、そのあたりのシステムは、どうなっているのだろう。それに今の出産は、出産だけじゃなくて、その前の検診にもとてもお金がかかるようだ。一度の検診で軽く一万円はかかるらしいし。そのあたりも何とかしないと、うかうか子ども産めません。 お金を配るより、お金がかからないようにしてほしいと、思う。 うーん。次の選挙はどうしようかな。
2009年08月07日
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先日娘とオープンキャンパスにいきました。自分でいくように言ったのですが、どうも一人ではいく勇気がでないようで、やむを得ずついていったのでずか、いってみると、案外親子連れが多かったのに驚きました。お兄ちゃんの時は、親は一切ついていくこともなく、本人の今いっている大学以外は、いっさい見に行ったことはありませんでした。本人も友達と約束してきたりして、今思うとそれなりに、いろいろと見ていたと思います。 今思うと長男は結構しっかりしていたんだなと、思います。でも、下のこはさすがに女の子なのと、志望大学が生徒によってすごくいろいろなので、友達と約束して一緒に行くというのも、しずらいようです。学校側は自分のみたい部分を存分にみるためにも、友達と行かずにひとりでいくようにと指導されていましたが、今思うとやはり友達と約束することで、めんどくさいなっと思ってもやはりいかなきゃいけない気持ちになれたのと、やはり知らないところに行く上で、心理的にラクだったのでしょうね。 できれば共学と考えていたけれど、いざ志望校を考え始めてみると、女子大もいいかもしれないと、思い始めました。女子大のほうが、おっとりした雰囲気があって、娘には行きやすいかもしれません。 そして、先日行った女子大も以外に両親ときている女の子が多くて、驚きました。勝気なタイプの子はもちろん、共学にいくだろうし、すごく偏差値が高ければ、当然選択の余地はありませんが、その下になってくると、逆に絞りきれない難しさがあるのですね。 女子大はやはり、どことなくおっとりした女の子が多く、両親に付き添われたり、母親といっしょだったりしました。 東京女子大は、とにかくキャンパスがきれい。森の中に校舎があるみたいです。そのあとに行った共学の大学は、親はすくなかったですが、保護者むけの説明会もあって、ここ数年間の大学の動きや考え方、受験のシステムなど説明してくれていました。やはり、大学案内のパンフレットやホームページだけではわからないお話をいろいろと聞かせてもらえるものです。なんだかんだ行っても、やっぱり親も少しはいってみるのもいいですね。過保護とかきにしないで。だって、お金出すのこっちなんだし。そういえば、長男の時もベネッセの企画した大学説明会で、今長男のいっている大学の説明だけはきいたのでした。そして、長男の大学はここがいいって決めたのでした。そのあと本人もその気になって、がんばってくれました。よかったです。でも、女子大の割には学食がいまいちおしゃれじゃないのが残念。校舎はあんなにきれいにしてるのに。 東洋大学は数年前に校舎を全面改修して、すごくきれいな近代的なキャンパスになったようです。しかも、大学のイメージキャラクターとして、ムーミンと、スナフキンを起用しているので、東洋大学のいろんなグッズには、ほとんどムーミンやスナフキンが書いてあります。もともとは、哲学の大学だったそうで、その基本を素にスナフキンを選んだのではないかとおもいますが、最近はなんだか、キャラクターとして、ムーミンのほうが全面にでてしまってるのが残念です。やっぱり、スナフキンをメインにしなくちゃ。 校舎も第2キャンパスをすぐ近くに作っていて、ほとんどの学部を東京にもどしたそうです。結局地方に分散すると、1.2年生のメンドウを見るはずの上級生や、教授がそばにいないことになってよくないそうです。そのほかにも、実際東京にすんでいるものにすれば、わざわざ郊外の遠いキャンパスまで通うのは大変だし、今の不況下では、一人暮らしをさせる資金なんて、ありません。だから、東京にある自宅から通える大学を優先的に選ばざるを得ないのが実情です。最近の東洋大学の経営をみていると、中に新しい経営指導の人材がいるのかなという気がします。大学のスタッフだけでは、頭が古くて、アニメのキャラクターを大学のイメージキャニクターに持ってくるとか、校舎を一気に立て替えて、ほとんどの学部を都内にするなんて、思いつくとは思えません。東洋大学は日東駒専のひとつですが、他の大学がまだまだ郊外にキャンパスを置いていたりする中で、かなりな変革を進めているように見えます。そういえば、東京女子大もふたつに別れていた校舎を三鷹から、荻窪に戻して、全てを一つの場所にしたようです。そのほうが、学部の垣根をこえて講義をいろいろ取ることができるし、今話題の、リベラルアーツをすすめているらしいです。 東洋大学の学食はすごくよかったです。わりとスエヒロなどのチェーン系列のレストランをいくつも入れていて、そのほとんどが500円とは思えないくらいおいしくて充実してました。また、たべにいきたいです。スパゲティは、サラダ飲み物デザートつき、カレーはナンもあり、ラーメン、鉄鍋餃子、東京食堂のオムライスなどドレもおいしそうでした。 わーい。スナフキンすてきだ。写真とってきてしまいました。それにしても来年果たしてどこかにはいれるのでしょうか。現状ではとてもあやしいです。
2009年07月31日
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うちの息子もとうとう成人となりました。二十歳の誕生日~♪もすぎましたが、なんか素直に喜べない。なんでかっていうと、国民年金の加入申請書が届いたから。二十歳になったので、国民年金にはいらなければいけなくなったのが、最近の成人です。私の頃はまだ、大学生なら、働いていなければ、こんなものはきませんでした。卒業して、就職して、初めて、厚生年金に加入となったものです。それだって、本人への了解も説明もなく、強制なんだけどさぁ。 で、いままで、ばくぜんとはしっていたけど、いざわが子にやってくると、なんか釈然としません。彼はまだはたらいていないし、バイトで稼げる金額なんて高が知れております。国民年金の月額1万4千円なんてはらえるわけもありません。なんで収入ないのに、請求がくるの? それというのも、いぜん年金問題で、日本国中がおおさわぎしたせいです。 学生時代の1万四千円は痛いけど、老後にもらえる6、70万円なんて、焼け石に水。しかもそれをわざわざ自分でいかなきゃならないなんて、ホントになんか釈然としない。もちろん学生は、卒業して、就職してからの後払いにすることはできますが、やはり、ちっょとお高くなります。 うーん。どうしよう。よその人はどうしているのだろう。親がだしてあげるのでしょうか。それとも、就職後の後払いにしているのでしょうか。 なやみます。なんかしらんぷりしたいけど、そういうわけにもいかないし、本人に封筒わたしたけど、本人はほっぽらかしてるし。こんなことなら、子どもはみんな、3月生まれにしとけばよかった。 まあ、ほっとくわけにもいかないのでしょうね。 それにしても、これ。細かい説明所とかぜんぜんはいってないんですよね。ずーっとはらってると、将来的にいくらくらいくれるのか、途中から就職して、厚生年金になる可能性も高いけど、その時どうなるのか。ぜんぜん説明なし。民間の生命保険に加入するのに、こんなに説明のないことなんてありえない。桝添えさん今回いろいろがんばったはずなのに、そのあたりちっともかわらない。どうしてくれるのだよ。 それに、こういうシステムってやっぱり、おかしいです。改正すべきだと、思います。
2009年07月30日
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ロッテリアの絶妙バーガーを食べてみた。コマーシャルでいうほどおいしいと、思えない。それというのも、バンズがあまりにも、ペチャっとしていて、存在感がないから、中身とのバランスがとれていない。ハンバーガーってサンドイッチなわけで、一番の主役はパンだとおもうんだけど、そのパンの部分が湿りすぎていて、ペチャペチャしていて、食べ応えがなくて、せっかくの充実した中身の良さがいきてこない。肉の部分も宣伝でいうほどでもない。 それと、今回の戦略としては、せこい。「おいしくなかったら、お金返します」っていうけど、アメリカ人やフランス人ならいざしらず、日本人の性格を考えたら、たとえ、おいしくないと思っても、実際にそれを言って、お金を返してくれとは、いわないだろうと、思う。 実際には、返却をもとめたひとが、0.2パーセントいたらしいです。いたんだ。 でも、大概の人は、いまいちだなと、思っても、そのまま食べちゃうと思うし、あの場所でもう一回レジにならんでまずかったなんて、他のお客さんたちがいる場所では、言いにくいです。 そういう日本人の性質を無視して、『お金かえします』というキャンペーンの仕方は、納得いかないなぁ。前回の絶品チーズバーガーも、アブラっぽくておいしくなかっのですが、今回もはずしてます。それと、マヨネーズ風なソースだはなくて、ケチャップにしてほしい。やっぱり、ハンバーガーは、ケチッャプがきめて。だと思うの。次回は、ケチッャプにしてほしいです。
2009年07月24日
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大学二年生です。ほんとに大学行ってるのか、授業してるのか謎なくらい、時間余ってます。というか、毎日昼前まで寝てます。そして、夏休み2ヶ月春休み二ヶ月。あんなに必死に、勉強してお金かけてはいったのに、大学っていったいなんなのっと、ものすごく疑問な毎日です。 大学は時間を買うところ、勉強したり、遊んだり、バイトしたりして、いろんな経験をつんで、有意義にすごすところ。と、思ってましたけど、実際、子どもが大学生してるのをみてると、すごく疑問です。バイトするために、受験勉強したわけじゃないです。そして朝寝して、夜更かしして、ぐうたらにすごすために、大学にいかせてるわけじゃない。タップリの休みと時間があって、バイトするくらいなら、さっさと卒業させて、就職させて、ほしいです。バイトで稼げる金額なんてたかがしれてるし、バイトさせるために、大学に授業料はらってるわけでもないのに、どうしてこんなに休みがあるんだか。こんなにのんびりする時間があるなら、その時間を買うために、受験勉強させるより、その時間を受験勉強のために、つぶした、高校生時代にまわしたいです。 大学受験のために、高校の授業がいろいろと犠牲になってたと思う。美術とか、家庭科とか、結構大事な科目なのに。受験がなければ、クラブだって、三年間たっぷり、卒業までできるのに。 なんか納得いかない。がんばったんだから、大学ぐらいのんびりするもの。と、思ってたけど、だったら、高校時代をそのぶん有意義に過ごしたほうがいいような気がする。 で、考えたんだけど、大学受験とかなくしたらどう。高速道路だって一律千円のご時勢なんだし。全部単位制にして、必要な単位がとれたら、2年でも、三年でもいいから、そこで卒業にして、バイトなんかしてないで、受験しないぶん、大学でがんがん勉強して、さっさと就職したほうがいいと、思う。せっかくの20代の一番カラダも頭も使えるいい時代を、大学なんてとこで、バイトやクラブなんかでだらだらすごしてるなんて、もったいなさすぎる。 国民的損失だと、思うわ。 大学受験のせいで、高校のすごく貴重で、いろんな科目を勉強したり、クラブでいろんなことをまなぶ時間が犠牲になってると、思う。しかも、受験のための勉強って学問ていうより、特別な勉強だし。受験テクニックとか、試験で点をとるための勉強だったりする。無駄が多すぎる。受験のためにその科目に集中しちゃうぶん、他の科目は切り捨てられちゃうし。 本来大学がのんびりしてるのは、教授がゆっくり研究する時間のためで、そのあまった時間で講義してるものだとは、思うけれど、だったら、もっと、世の中にあまってるポストドクターをどんどん講師や准教授として、採用した方がいいと、思う。いま、ポスドクの人っていっぱい余っていて、その人たちは、しかたないので、受験塾の講師をしていたりすると、思う。大学の勉強して、知識があるのに、受験勉強教えることにその人材を使っているなんて、もったいなさすぎる。 教育資金だって、受験塾に払うより、大学に払うほうがずっといい。教育費が今、塾と、塾講師(ポスドク)に払われている。これを、大学とポスドク(今の塾講師)に払うほうがずっといい。 今、ワークシェアって、工場の工員くらいにしか、広がっていないけれど、本来ワークシェアはもっと、社会全体の全ての職業でおこなわれていっていいはずだと、思う。それで、大学の教員なんかも、ワークシェアしていいのでは。 そして、大学が時間があってバイトしながらなのは、もともと学費を自分で稼ぐアメリカなどの外国の学生に合わせたシステムだけど、日本のように学費をほぼ親が出していたりするなら、その制度は意味がないのでは。まして、奨学金をもらっているなら、それを返すためにも、大学はさっさと卒業して、ちゃんと就職したほうが、稼げるし、早く返せるのでは。 大学も、受験をなくして、たくさんの学生をいれて、いろんな講義を単位として、とれるようにして、多くの学生により多く講義を提供すれば、収入も増えるはず。(今は法的に人数の規制があるらしいけどね。)学生は大学に所属せずに、どこの大学の授業でも取れるようにする。今現在もいくつかの大学では単位互換性が導入されているわけですし。どこの大学の講義でも、取れるようにして、必要な単位数がとれたら、卒業にする。どの大学の授業でもとれれば、地方の人は地方の大学で、講義を受けられるのでは。いろんな大学に教授が出張していくわけですね。学生が移動するんじゃなくて、教授が移動する。ってことになるのか。 高校の授業を普通にこなせば合格できる程度に易しい試験で、指定点以上とれれば、合格できるようにして、それに受かれば、大学にいけるようにする。指定点以上とれれば、何人でも、合格にする。そして、講義のレベルを5段階くらいに設定する。Eレベルの講義の単位を指定数とると、Dレベルの講義がとれるようになるというようにして、ランクアップしながら勉強していく。きちんと勉強しないと、単位が取れないように厳しくする。だから、Aレベルの講義はなかなか単位が取れないので、その単位をもっていると、今の学歴のように優秀であることの証明になるはず。講義も、4ヶ月とか、3ヶ月で終了して、そのサイクルで次々と講義をとっていけるようにします。低いレベルの基礎的な講義は地元の自宅から通いやすいところにある大学でうけて、最後の一年間だけ、Aレベルの授業やゼミのために、中央の大学に通えば、自活の生活も一年くらいですんで、親の負担も減るはずです。いままで、金銭的にくるしくて、都会に行くのは無理と思って断念していた家庭でも、最後の一年だけなら、何とかなるかもしれません。とにかく、自宅から通えるところで、講義を受けられたら、学生も親もラクです。通学も短時間ですみます。そして、大学院などに行きたい考えているなら、大学自体を短縮して、先に進みたい学生もいるはずです。また、自宅から近い大学に行きたくても、うからなくて、わざわざ遠い大学に行かざるを得なかった学生もたすかるはずです。 全ての人には、大学の講義をうける権利があってもいいと、思うのに、今現在、人数制限で、切り落とされる。そして、合格した生徒は逆に授業をサボるのが大学の常識っていうのも、なんだか納得できない。その挙句、大学なのに、すごくつまらない授業だったりする。 就職活動に一年もかけてるのだって、おかしい。新卒採用なんてなくして、卒業してから、一週間とか、一ヶ月で普通に就職すればいいと、思う。つまり、大学生時代の就職活動自体も、禁止とかすればいいのに。 大学受験は、廃止したら、どうなるのかなっと、つらつらと、いろいろと想像してみました。あとは、普通の大人ももっともっと大学の講義受けられるようにしてほしいですね。大人も大学。単位なくてもいいから。 ↑家族に評判です。おいしいらしいです。 私はたべられないけど。
2009年07月23日
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長男の入試以来の感覚で大学の授業料をかんがえていましたが、再度もう一度みてみたら、値上げしてるじゃん。 びっくり~~~~~~。 慶應大学は、たしか、長男の受験の時は、次年度からは、入学金はなくす予定だったはず。なのに、まだちゃんと入学金あるじゃない。それでも、とりあえず、以前よりやすくはなっていますが、そのぶん、普通の四年間払う授業料は高くなってるし、全部たすと、かなりの値上げですよ。そんなばかな。そして、他の大学をみると、のきなみみんな、慶應にあわせるように値上げしてあります。入学金を除いても、授業利用と、施設費当島で、90万以上、100万弱。こんなに私大ってたかかったっけ? 二年前の長男の時は、国立大学の授業料がどんどん高くなっていて、私立大学との開きがあまりなくなっていたので、このまま、私大と国立の授業料の差は、ちぢまっていくのだろうと、思っていました。 ところがどうしてどしうて、私大は、国立の値上げをいい事に、さらに値上げしているようです。国立が高くなるってことは、私大の値上げをしやすくしているだけです。国立を値上げして、私大との差をなくすためじゃなかったのか。かえって逆効果ではありませんか。 そして、どうして、私大がこんなに値上げしているのか、と思ったら、先日読んでいた『クルマは家電量販店で買え!』という本にその事情が書いてありました。授業料だけでは経営の苦しい、そして収入をもっと上げたい私大がどこもみんなも金融商品に手を出していて、特に危険な「仕組債」による大損をしているそうです。慶應は、226億の損失(2008.3)だそうです。そして、授業料だけではたりないから始めたはずの金融投資での損失を授業料の値上げで埋め合わせしようとしているわけです。 なんかもうほんとにびっくり。 そういう大学のミスがわれわれ保護者によって穴埋めさせられようとは。 慶應大学は、特に経済学部が看板学部の大学なのに、その大学が金融に失敗しているのでは、慶應で教育受けても、金融や経済に強く慣れるのか、危うい気がします。慶應は、大学の中でも、プライスリーダーなわけで、その大学が値上げなんかすると、他の失敗していない大学だって、コレを好都合とばかりに、みんな横並びで、値上げするわけで。 カンベンしてほしいです。 来年の娘の受験の頃はどうなっているのか。こういうものは、値上げはしても、値下げは、しませんからねえ。 大学の案内をみながらくらくらしてきました。懐がずきずき痛いです。
2009年07月16日
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プロパンガス詐欺が流行っているそうです。昨日読売新聞の家庭欄をみていたら、『悪質な訪問ガス販売に注意』という記事を見つけました。 今使っているガスより安いという触れ込みで契約した挙句、その二ヵ月後くらいには元の値段に戻してしまうそうです。プロパンガスは、都市ガスと違って、いくつもの業者があり、値段も都市ガスより少し高めのような気がします。公共のものではないので、価格設定も自由なのだそうです。 実はうちにも、この安いガスの勧誘の郵便がきていたんですよね。で、どうしようかなと、保留にしていたんですよ。うちは、都市ガスなんだけど、諸事情で、こういう案内が来ました。詳しいことは個人情報なのでかきませんが、このプロパンガスの安い話って詐欺だったんですね。契約したり、問い合わせたりしなくて良かった。それに、プロパンガスといえども、変えるとなると、いろいろな器具の取替えにお金かかるそうです。その挙句、元の値段に戻されたのでは、意味ありません。たしかに詐欺ですよね。 その封筒はまだとってあるので、ここで写真とか、会社名とかさらしたいんだけど、まあ、そういうことをするとこわいからなぁ。確証ないしね。 新聞の記事は訪問販売となってるけど、封筒での案内もきてます。 都会はほとんど都市ガスなので、問題はないですが、都市ガスのない地方は、要注意ですね。都会でも、一部はまだ都市ガスが通ってなくて、プロパンガスのところもあるのですよ。 それにしても、このニュース。新聞みていたからみつけたけれど、ネットでこのニュースには、なかなかきづけないです。ヤフーのトップページのニュースとかは、いつもタイトルだけでもみているけれど、ネットやテレビの場合は、大きなニユースしかとりあつかわないので、今回のガス詐欺のニュースも、振り込め詐欺や、リフォーム詐欺ののように、被害が大きくなってこないと、なかなか情報として入ってきません。ガス詐欺のニュースは、まだまだローカルニュースの扱いですから。ニュースとしては、とても、小さいし、ネットでは、知らなければ、検索もかけません。 もうネットでニュースは、みられるのだから、新聞は止めようと、ダンナはいうのですが、わたしは、なんとなくそれがいやで、未だに、新聞とっています。ときどき読みますが、やはり、紙の新聞は必要だなと、痛感しました。 この詐欺事件をネットで検索してみましたが、なかなかみつかりませんでした。ガスのニュースに関しては、器具の点検詐欺は、ちょっと前に多くあったらしく、たくさんヒットしたのですが、訪問契約の詐欺はまだまだのようです。 読売新聞のネット上のサイトもあって、しらべたら、これとおなじ記事がサイト内にもありました。でも、そのニュースがどこに書いてあるのか、分かりにくいです。トップページのニュースだけではみつけられませんでしたし、トップページは、新聞の見出しと違って、文字の大きさがほぼみんな同じなので、紙の新聞のように、めくりながらぱーっとみて、自分の興味をひく記事を見つけ出してみるのは、意外と難しいし、手間取るし、メンドウです。 これからの情報社会。ネットだけがすごい、ネットさえあれば、とはいえないです。アナログもまだまだ大切です。また、停電とかになったりしたらね。 それにしても、ガスの詐欺。こわいですね。ワイドショーとかで、取り上げてほしいですが、もうやったのかな。最近ワイドショーみないので、わかりませんが。 地方の方、気をつけてくださいね。
2009年07月14日
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ひるむことも、びびることも、怖がることも、パニックになることもなく、敵に向かっていく映画の中のヒーローの行動がいかにうそ臭いかにきづかされたのが、どの映画を見た時なのか、どうしても思い出せないのだけれど。 実際にもしも自分がその立場になったら、怖くて怖くて、勇敢に立ち向かうというよりは、敵前逃亡で逃げ出しちゃうだろうと思う。先日、『エヴァンゲリヲン/序』がテレビのゴールデンタイムで放送されたりするものだから、普段ぜったいみないような人たちが、見ていた。簡単にチャンネルさえあわせられれば見られるという状況で、みている人が多かったのではないだろうか。 そんな状況で、ただの娯楽ヒーロー映画のつもりでみている立場であれば、主人公のシンジが切れたり怒り出したり逃げ出したりするのは、ただのヒーロー失格の勇気のないうじうじした人間にしか見えないかもしれない。 けれど、もし自分が、本当に戦場に立たされた時のことを想像すれば、その怖さは、相当なものだ。しかも、自分の一人の行動が、地球上の全人類の存亡にかかっているとすればなおさらだと、思う。ほんの一瞬の判断が、あやまるだけで、負けるし、死ぬかもしれないし、人類滅亡になるかもしれない。(たかが、14歳の子どもに人類の命運がまかされるとい設定はどうよ、というようなことは、また、とりあえずひとまず、おいといてですが。) プロの兵士でもなければ、軍隊のような特殊な訓練もまだまだ受けていない状況で、いきなり、自分にしかできないといわれて、戦闘を強要されるとしたら、その精神的なプレッシャーたるや、相当なものなのではと、思う。 私ならたぶん、絶対エヴァンゲリヲンに乗らないだろうし、乗ってもそのまま逃げ出すかもしれない。 ぐずぐずしている間に、死んでるかもしれない。 いくつものヒーロー映画を見ている中で、ヒーローなら戦って当たり前と、思い込んでいた。でも、そんなことのできる人間なんて、本当にいるのだろうか。だから、最近、アメリカのヒーロー映画でも、人間的にとまどい悩み、あるいは、酒におぼれたりするヒーローたちが描かれ始めている。 あの状況でいきなり、勇敢に戦えるほうがよっぽど特別で、おかしいのだと、思う。 そんな中で映画でも、碇シンジがエヴァンゲリヲンを拒否して、逃げ出す場面がある。ものすごく当然な行動だと思うし、自分の中でエウ゛ァンゲリオンに乗ること、戦うことを受け入れるためには、一度徹底的に拒否して、自分の中の本当の本音に向かい合わなければならなかったのだろうと、思う。全てをとりさった中でも、それでも、乗りたいと思うのか。必要だと思うのか。自分の中に少しでも、戦うことに向かう気持ちがあるのだろうか。 この手の物語を見るといつも思い出すのが漫画の『エースをねらえ!』なんだけど。主人公の岡ひろみもまた、自分にかかるプレッシャーのきつさのなかで、一度はテニスを捨てる。けれど、離れてみてなお、やはり自分がテニスを好きでテニスやりたいことにきずいた時、彼女はもう一度テニスに戻ってくる。 シンジの前にすでに、エヴゥンゲリヲン0号機にのっている綾波レイもまた、一度は、エヴァンゲリオンに乗ることを拒否したのではないだろうか。物語では、描かれていないけれど、シンジが登場するずっと前、まだ、エヴァンゲリヲンにのるパイロットがレイ一人だけだった時にも、乗る乗らないの葛藤があったりしたのだと、思う。その時の数々の闘争を経験しているからこそ、ネルフのスタッフは、みんな、シンジの戸惑いや苛立ちに対しても、搭乗拒否にしても、冷静でいられたのだろうと思う。 レイは、もしかすると、一度戦闘中に死んでいるのかもしれない。物語の後半で「私はたぶん三人目なんだと思う。」という言葉が出てくる。テレビ放送本編では、物語の中で一度死んでいて、クローン再生されているのだ。それが三人目の体なのだとしたら、シンジの登場以前に一度死んでいるのかもしれない。それはやはり、シンジ以上にエヴァンゲリオンに乗って戦うことへの拒否や、戦死や、闘争、パニック、があって、かつてのネルフスタッフたちは、彼女の精神的なバランスをとることにそうとう苦労しているのかもしれない。 だからこそ、棟方仁が岡ひろみの精神的なフォローをしていたように、碇指令は、時々レイと食事をしたり、優しい言葉をかけて、レイをフォローしているのだと、思う。けれど、後からやってきたシンジには、そのことはわからない。なぜレイが、自分が悩んでいることを平然とこなせるのか、なぜ傷だらけになりながらもエヴァンゲリオンに乗り続けるのか、なぜシンジの父親である碇指令がレイに対しては、あんなにも優しいのか。 けれど、碇指令もシンジに対しては、レイに対するような優しさは、見せない。男の子は、女の子とは違うからだ。女の子は精神的にフォローしてあげたり、優しくしてあげる必要があるけれど、男の子の場合は、ある程度突き放して、厳しくし、自分自身の内側の葛藤をのりこえていかなければ、成長していけない。女の子に対するような優しい接し方では、成長を逆にはばんでしまうからだと、思う。 一見冷たいようにみえるけれど、碇指令は父親として、ちゃんとシンジをみていると、思う。 激烈な戦場で戦っていくのは、テレビのこちら側でスイカを食べながらのんびり観ている側には、想像しにくいのかもしれない。 だからいま、よりリアルなヒーー物語として、『エヴァンゲリヲン』は、多くの男性たちの評価をえているのだと、思う。 真希波・マリ・イラストリアス 自我の覚醒と獲得の物語『新世紀エヴァンゲリオン』の感想はこちら
2009年07月13日
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今七月なのに、なんで五月に飛ぶハエの話なのかって言うと、今週末の選挙のために先週くらいから、選挙カーがうるさいから。先週くらいからも疲れていて、昨日もちょっとでかけたら疲れちゃって、今朝は珍しく娘の学校が休みでお弁当作りもないというので、のんびり寝ていたのに、(私体調悪い時は、とにかくねないとだめ。寝不足は一番応える上に、寝つきが悪いという最悪さです)朝の八時半くらいから家の近所に選挙カーが車をとめて私がうつらうつら朝寝をしている貴重な時間をえんえんと、20分から30分くらい、許可もないのに、街頭演説まがいのことをしていたのだ。 夏休みでもないのに朝寝のできる(だんな様ごなんなさい)貴重な朝の時間だったっていうのに。それも、車で走りながら通り過ぎるならいざしらず、住宅街のど真ん中に車をとめてえんえんと。ああ、うるさかった。 それにしても、今度の日曜までえんえんと、うるさいのかと思うとげんなり。 毎回不思議なんだけど、選挙に出る人たちは、名前を連呼するぐらいで、投票してもらえるなんて、本当に思っているのだろうか。私は毎回選挙カーのうるさい人の名前はしっかり聞いておいて、絶対その人にだけは票を入れないことにしている。 それにしても、ここのところ、どうしてこう、ゆっくりぐっすり眠れないのだろう。やっぱり、最近家計が厳しくなってきて、心配事が増えたから?
2009年07月06日
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『翼をください』を検索していて、この曲がかつてのフォークソンググループ赤い鳥のレコード「竹田の子守唄」のB面だったことを知った。 で、A面の「竹田の子守唄」を調べてみたら、部落差別を歌った歌という取られ方もしていたらしい。というわけで、こちらのサイトを読んだのだけれど、この歌だけでなく、日本には、随分いろんな子守唄があるらしい。そのほとんどは、奉公に出された子どもが奉公先の家の赤子を子守するその辛さをうたったものであったらしいのだけれど、そのほとんどが、辛い、さらには、殺したいほど憎いというような内容であるという。 これらの歌詞を読んでいて思った。私だけじゃなくて、やっぱり昔から子育てって辛いものだったのだなと。 これほど歌い伝えられるほど、昔から、子守、子育てはつらいものだったのだと、思った。それは、子どもにかぎらず、大人であってすら、結構しんどい。 それでも今の大人が耐えられるのは、あくまで今の時代子どもはせいぜい二人くらいしか育てないからだと、思う。奉公に出された少女は、奉公先の子どもを奉公の続く間ずーっとずっとずっと何年でも、子守し続けなければならないのだろう。 もし、子育てが楽しくて幸せなだけのものなら、奉公先の奥さんが大切なわが子を外から来た十代前後の子どもに預けたりするだろうか。一番しんどい仕事だからこそ、弱い立場にわりふられるのではないのだろうか。 今は、子どもを育てるのは、その子どもを生んだ母親であるけれど、それでもやっぱりつらくてしんどい部分は多い。それなのに、自分が実際に子どもを生んで育てる立場になるまで一切そういう情報は、なかったなと、思う。それよりもどちらかというと、子どもを育てるのは、女、母親、そして、母親であれば、母性本能があって、子どもを育てるのも、かわいいと思うのも、愛情を感じるのもごくごく当たり前で普通のこと、子どもを育てるのは幸せなことと、思い込まされていたことだ。 もちろんわが子はかわいい。でもそれは、上から強制される種類のものではないだろう。 これほど連綿と歌い継がれるほど、しんどいことがいつのまにか、隠されて多いつくされて、子どもを育てるのは、幸せなことという一方的な情報だけが渡されていたのだろうか。 子守唄に歌われる子守、子育てのしんどさは、必ずしも、実の親と離されて、奉公にに出された子守の少女だけのものではないだろうにと、思う。 ああそう。ずっとずっと、昔から、子育ては、しんどくてつらいものなのに、テレビやマスコミは、子どもを殺す母親を批難して、愛情はあって当たり前みたいに偉そうに言う。 こんなに大変な子育てをしている女性たちにたいして、社会はなんてつめたいんだうろと、思う。実質的に働いている男性たちには、実際の報酬がしはらわれるのに、無給で子育てをする女性への社会的な保障のなんと浅くて冷たくて、不安定なこと。 女性たちが無給で育てた子どもたちが、その先の社会を作っていくものなのに。 守り(もり)もいやがる 盆から先にゃ雪もちらつくし 子も泣くし 盆が来たとて 何うれしかろかたびらはなし 帯(おび)はなし この子よう泣く 守りをばいじる守りも一日 やせるやら はよも行きたや この在所(ざいしょ)こえて向こうに見えるは 親の家(うち) ちなみに、竹田の子守唄の元歌の中に出てくる『久世の大根めし 吉祥の菜めし まだも 竹田のもんばめし』の部分ですが、まずしさゆえの、貧しい粗食としての描写なのですが、これらのメニャーは、今のメタボの時代には、優秀なスローフードとして、高い評価を得て、もてはやされそうな食事です。お金持ちになった挙句、過食でメタボで命と健康が危なくなっている現代。一見粗食にみえるけれど、今の栄養学でみればかなり優秀なスローフードであるとは、なんとも皮肉な話です。『竹田のもん場飯』とは、米に豆腐のオカラをまぜたご飯のことだそうです。食物繊維や、女性に重要な大豆イソフラボンや、両性たんぱく質を多く含んだ食事だと、思えます。はああ。ダイエットによさそう。そんなこといったら、この当時の人たちには、おこられるだろうな。 CD/赤い鳥/ゴールデン☆ベスト 赤い鳥 翼をください~竹田の子守唄 (Blu-spec CD) (完全限定生...
2009年07月04日
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先日ホームセンターに行って、買い物のためにレジで並んでいた。私の前には、大きな衣装箱を台車に載せている人がいた。レジは向かい合わせに二つあったけれど、その大きな箱のために、もう一方のレジに入り込んでいけない。でも、少しまてば、列はすすむのだしと思ってまっていたら、少しあとからきた女性が、「○○ちゃん。ほらそこのレジあいてるからはいっていって」というのだ。私が既にならんでいるのは、ちょっと見ればわかるだろうに。左のレジに行き着けないのも、その前の人の衣装箱のせいであることもわかるだろうに。 「並んでいるんだけどな」と、ボソッと言ったけれど、その女性はしらん顔で、子どもと一緒にレジをすませてしまった。レジの人もなにもいわずに、処理してしまった。 ここではっきり大きな声で「すみません。並んでいるんです。ちっょと入れないから、まっていただけなんです。」と、いってもよかったのだけど、最近いろいろと腹のたつことが多くていろいろと怒っていたら、いい加減疲れてきて、そろそろ怒るのもイラつくのも面倒になってきていた。それでそのまま、はっきりとした苦情もいわずにすませてしまった。 それに私も自分の子供が小さかった頃って、コレに似たような行動をとっていたなと、思った。少しでもすいているレジに並んでなるべく早く会計をすませたいとも、思ったいた。小さな子どもをつれていて、心に余裕がなかったと、思う。 最近少し、自分の無意識の行動をつらつらと、考える。私にも、こんな他人を出し抜いてラクに要領よくやろうとするようなところがあるかもしれない。 子どもが大きくなって、それでも、少しは余裕が出てきただろうか。 ああいうことをやってしまう子育ての期間中って、やっぱりしんどかったのだと、つくづく思う。今思うと心がカリカリしてたなと、思う。 子どもを育てるためには、周りのことなんかかまってられない余裕のなさは、結構子育て中の母親には多いよなとも、思う。(もちろん、きちんとした人もいます。)そういう習慣が身について、子育ての後まで引きづらないように気をつけないと。と、しばし考えた。
2009年07月03日
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いいアニメでした。にゃんこかわいい。微細な風景がすごい。キリのいる風景
2009年07月02日
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いやはや。ナウシカを観たとき以来の感動かも。 そして、ラストの曲。学校の合唱祭などでよく歌われる曲なんですけど、こんなところで使われるとはね。しかも、歌詞がエヴァンゲリヲンのラストシーンの展開とそっくり。そのもの。 びっくりしました。ここまでぴったりの曲がこんなところにあったなんてね。合唱祭で使われるので、なんだかもう、文部省指定の道徳的な歌のイメージになっちゃってるのだけど、もともとは、ちょっと昔のフォークソンググループが歌っていた、昔の若者の歌なわけで。昔も今も、若者の悩みや痛みや青春の本質ってかわらないのかもしれません。 そして、今の十代二十代の少年少女たちがこれをみたら、この場面でこの曲を聴いたら、どんな気持ちになるのかな。いやはやわたしもう、このラストシーン感動して泣いてしまいました。右も左もアニメファンのおじさんで結構混んでいた劇場の中で、涙ぐんだ人はどのくらいいたのでしょうねえ。 お話も画像もすでにリメイクではなくて、ほぼ全編書き直されているように見えました。最近のアニメのスピード感のすごさももちろんなんだけど、画面もめちゃくちゃすごくて面白かったです。 最近はもう、アメリカの映画は、しらけちゃって見る気になれず、このところ、なぜか邦画を見ることがふえましたが、先週といい、今週といい、平日の午前なのに、なぜ映画館は混んでいるのでしょうか。満席とまではいかないけど、いままでは、平日はがらがらな劇場だっのに。日本映画も、人気出てきたのでしょうか。最近いい作品が多いのでしょうか。それとも不況でみんな暇なのかな。今日なんか、私の隣の席のおじさんは、スーツ着てました。営業の仕事の途中で、映画館はいっちっゃてるのでしょうか。いいのかな。 なにしろ、「エヴァンゲリヲン」なので、お客さんの9割以上が、20,30,40代の男性でした。今日は、レディースディだけど、1日の映画デーでもあったからね。 それにしても、この監督は幸せですね。何度も何度も、納得のいくまで、自分の作品を作り直す機会にめぐりあえる映画監督なんて、そんなにいるものではありません。テレビシリーズでは、時間不足、練りこみ不足であきらかに、未消化のままの完結だったし、前回の映画作品も、全体的に醜悪になってしまって、うまく本当のメッセージを描き出せていませんでした。今回は、その醜悪さを大分押さえてきていますが、その分かえって、おきれいな道徳的作品になってしまうかもしれない危うさを感じました。ぎりぎりおさえているのでしようが、人と人が心をつなげていくその真髄を描き出すのは、本当にむずかしいなあっと、思いました。これを文部省的道徳観で作ったら、観る側はしらけて拒否感の方が上回ってしまうわけだし。 ものすごい急展開の「破」でしたが、次回「Q(急)」は、どんな結末を作りだしてくるのか。めちゃめちゃ楽しみです。 さあ、今度こそ監督は、うまくメッセージを若者に、いえいえ全ての人類に伝えることができるのでしょうか。 そして、今回要所要所にかなり明確に、十字架が描き出されていました。エヴァンゲリヲンは、キリスト教とその宗教観や、エピソード、アイテムなどを基本にしたストーリーだけれど、今回は、新しいキャラクターの女の子マリの登場によって、日本やアジア的な宗教観も入り込んでいたように思います。新キャラの女の子マリの「身を捨てて浮かぶ瀬もあれ」というセリフの、自己犠牲的な精神と発想は、アジアのもの。仏教的世界観ももりこんで、今回の「エヴァンゲリヲン」は、日本という場所を舞台に西洋と東洋の宗教観、精神世界の融合を目指すターニングポイントにいるような気がします。 今アメリカ的な西洋的な価値観も世界支配も疑問視され、まき戻される中で、中国ともインドともちがう、独特の日本の立ち居地は、もともとアジアの中で一番最初に西洋を取り込み、自分の中に融合させた国として、世界の中に有る二つの価値観をうまく融合させていくことのできる微妙なギャザーポイントになりつつあるような、いままさにそんな時代のハザマにいるんじゃないのかと、そんな風に思わさせてくれた映画でした。 新キャラの少女マリも私には、レキジョ、フジョシ、明るいオタク系女の子に近いように見えました。レイや、アスカにくらべると、ずっと現実の女の子のイメージに近いリアル感、本当の意味でのいまどきの女の子という感じがします。レイも、アスカもやはりどこか男性視点で描かれた女の子なんですよね。アニメを作ってるのが男性なので、どうしても男性の希望で描かれた女の子になっちゃうんだけど、これは、宮崎アニメでもそうなんだけど、アニメは女の子だってみているし、視聴者により現実世界に目を向けて人と関わって生きていってほしいと思うなら、男性の理想でできた女の子じゃなくて、ほんものの女の子を描き出してほしいですね。なんだか話しかけにくい女の子のレイでも、やたらきついことを言う女の子のアスカでもなく、もっと本当に現実に生きている女の子をうまくえがきだしてほしいと、思います。今の女の子はごくごく普通に男の子とおしゃべりするし、男の子と同じものを好きな女の子もいるし、ずっとずっと優しい子もいます。生きていくことへの悩みも人と関わることの悩みも、もちろん男の子たちと同じです。そのことにきづけさえすれば、たぶん、フィールドはなくなるはずなんだけど。 さて、物語のテーマも監督の思いも、わかっちゃいるけど、こんなこと偉そうに書いてるけど、現実は、ぜんぜん進歩しない自分がやっぱりここに。自我の覚醒と獲得の物語『新世紀エヴァンゲリオン』の感想はこちら ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破@映画生活
2009年07月01日
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偏差値表を見たけれど、娘がどのあたりに受かりそうか、皆目検討つきません。できれば、せめて、マーチとか受かって欲しいけれど、結構危ない。いとこ達の同じくらいのところには、受かって欲しいけど、けっこう彼らもぎりぎりだったしね。 私なりの受験のセオリーとしては、受験したい学校の入試問題をよくみて、受験生本人の得意な科目や分野などが難しくて、本人の苦手な科目や分野が、易しいまたは、でてこない。ということをチェックして、受験校を決める。わけなんだけど、お兄ちゃんの学校に比べて、とにかく模試が少ない。困ります。得意不得意がぜんぜんつかめません。 長男はこの得意不得意のデータをもとに受験を決め、受験勉強を計画しましたが。数学が難しくて、国語が易しく、小説の出ないところ。得意な理科で得点が稼げる。などなど。 得意な部分がむずかしければ、他の受験生と差をつけられるし、苦手なところがやさしければ、不得意な部分で得点を失わなくてすみます。 校内や校外でやる模試は必ずしも、偏差値や得点だけ見ればいいってモノじゃありません。点数が悪くて、勉強しなくちゃだめじゃないと、怒るためのものでもありません。返ってきた模試の答案をよーく見て、受験生本人の得意得意を掴むためのものです。だから、できれば、もっと何回もやってほしいんだけど、今の状態では、わが子の得意不得意つかめません。困ったものだ。来月模試があるらしいですが、できれば何回もやって、得意不得意をつかみたいのですが。 お兄ちゃんの時は、結構校内模試や、校内実力テストなんかがあったので、国語が苦手とか、国語でも、説明文は得意だけど、小説は苦手とか。数学理科は得意とか。英語は人並みとか。漢文が悪いのはなんだかきいたら、時間なくなるからだって。いうんで、漢文はやりさえすればできるのだから、先にやりなさいと、アドバイスしたりもできました。そうやって何回か模試をやりながら、答案のこなし方や、点数を上げるコツもつかめたけど。 娘の学校は模試少なすぎですね。 もっとも、長男もまだ、高2の時は、海せん山せんで、はたして、どのラインまで行くのか、ぜんぜん想像できませんでした。ちなみに、長男は海せん山せんの意味しらなかった…。ばかもの!!! はあっ。 自宅通学が基本なので、しょせん受ける学校は限られちゃいますけどね。都心に近いところにすんでいるのに、僻地の田舎に通うなんて、ばかげてるし。でも、それがありうるのが大学ってものだけど。今どきでも、女の子は大学より女子大や短大のほうがいいのかなとか、学歴つけると、嫁にいきそびれるのかなとか、あいかわらずくだらないこと考えちゃいますね。親だから。 明日から、定期試験です。とりあえず、勉強してます。
2009年06月30日
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人の罪はどこまで問われ、どこまで許されるのだろうか。 かつて、キリストは、罪を犯したものに対して、人々が石を投げるのを止めた。「彼に石を投げていいのは、罪を犯したことのないものだけだ」と。 けれど、罪を犯したことのない人なんて、いったいこの世にいるのだろうか。 殺人や、強盗のような明らかな大罪でなくても、会社のボールペンを持ち帰るとか、交通ルールを少しだけ守らないとか、止めてはいけないところに車をとめるとか、悪いことをしてもあやまらないとか、ちっょとしたウソをつくとか。罪として問われるほどではないとしても、ほんの少しだとしても、罪を犯していない人間なんていない。 キリスト教の世界であれば、それを裁くのは神だけなのだから、それでいいのかもしれないけれど、今現実の人の社会で神様が裁いてくれるはずもないのだから、人の罪は人が裁くしかない。もし、罪を裁くことがなく、罪を裁くのが神だけとなったら、今の現実で、殺人も強盗も、おこりまくるだろうと思う。 人の罪を裁けるのは、人だけなので、たとえ自分が罪を犯していても、他人の罪は裁かなくてはならないのだろう。 この世の中に一切罪を犯したことのない純粋に潔白な人間なんて、いるんだろうか。たとえば、裁判官だとして、一生の間に本当にちょっとした過失も罪も犯すことなく生きていくのは、たいへんそうだなと、思う。 人間なんて、本当に普段いろいろと気をつけていても、いろいろなやってはいけないことを頭ではわかっていても、疲れていたり、ストレスがたまってイライラしていたりした時に、ふっと、気が緩んで、罪を犯したり、失言してしまったり、謝るべきところで、ごまかしてしまったり、そんなことは、ありうるだろうなと、思う。 普段立派なことを言っていたり、素晴らしい講演をしたり、いい本を書いたりしているような人でも、やっぱり、普段の日常の生活の中で、ついうっかり、ってことあるんじゃないのかな。 人が必ず罪を犯してしまうものなら、それはそれとして仕方ないのかもしれない。罪を犯しつつ、それでもなお、人の罪は裁かなければならないのだろうか。そんなことをつらつらと考えていると、「罪を憎んで人を憎まず」といった、福沢諭吉先生の言葉の意味が初めてわかった気がした。 人は罪を犯してしまうもの。けれど、だからといって、罪を犯した人自体までは、否定できない。だからこそ、先日つかまった草薙君にたいして「最低な人間だ」という、罪ではなく、人間、人格を否定したことこそが鳩山大臣の罪なんだと思う。彼が彼の職を追われたのは、それゆえなんだと、思った。 今話題の「1Q84」を書いた村上春樹氏も、罪を犯すつもりのない人間がいつの間にか、自分の意志とは違うところで、罪を犯してしまうことについて、考えたのだそうだ。 だとしたら、罪を犯しても人を裁き、あるいは、裁かれ、あるいは、諭し、あるいは諭され、神に頼らずに、人同士でお互いに、修正しあうしかないのだろうと、思った。 偉い仕事についている人も普段偉いことを言っている人でも、罪を犯すことはあって、その人のその行為自体はそのままに、その過失だけはやはり、裁かれて、そして、それに対して人は、誤る、自戒する、反省するという行為しかないんだと、思う。 もうじき裁判員制度も本格化されていく。裁判員に選ばれる人たちも普段、駐車違反をしていたり、公共のものを無断で拝借していたり、他人のものをついうっかり壊したまま、誤らずにしらんぷりしてしまっていたり、大罪はしていなくても、そんなちょっとした罪は犯していて、それでもなお、人を裁かなければならない立場にたたされるのだろうなと、思う。 人の罪を、人は、どこまで裁けるのだろう。人の罪はどこまで、許されるものなのだろう。
2009年06月29日
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もうそろそろ娘も進学先をある程度絞っていかなければなりません。いまどきの進学は、将来何の仕事に就くかをよーく考えてきめようってことで。ですが、そんなこといったって、資格のある仕事や将来何の仕事に就くかなんてわからないし、医者や弁護士なんて無理だし、看護士や、保育士や栄養士も嫌みたいだし。 とにかく、先日河合塾の偏差値表を上から下まで、ずずずいーっとよーっくみました。お兄ちゃんの時は、そんなにまじめに見なかったので。 そしたら、ええええええってことがいっぱい。 なんか昔と違うかも。それに大学の検査値って、学部ごとに分かれてるし。 早慶が一番上なのは、分かるとしても、その下のマーチがごちゃごちゃに入り交ざっていて、しかも、同じ大学の同じ学部でも、入試のシステムがいろいろあるから、いろんなところに、同じ大学の学部名があたりして、こんがらかってわけわかりません。私の中のイメージでは、マーチって、一応大学ごとの順位があったのに、表の中ではほぼ同じだったりします。 それに、大学ごとに問題のくせやでる部分が違ったり、科目ごとの難易度にもくせがあるから、必ずしも数値だけでは、わかりません。 でもって、有名な関関同立は、難しいといわれている割には、マーチの下。いやおなじくらいかな。関西には、早慶に匹敵する私立がないのですね。そして、その下、偏差値55から下は、ほとんどが関西方面の大学なのです。 その中から、東京の大学を探し出すのは大変だし、あっても、結構偏差値低いってことで巷ではあまり評価の高くない大学だったりする。 関東の中堅より下目の学校と関西の難関校が同じ辺りに存在していて、1体これは、なんなのでしょう。 どうも、大学は、実際の難易度や、中での教育の質のよさよりも、立地の方が、大きい感じです。 だから、だいたい、関東の大学、関西の大学とつづいて、最後の方は、九州方面の大学なんかがあったりする。それと今は、女子大は、流行らないというか、女の子たちがいやがるので、昔の有名女子大といえども、のきなみ、偏差値の数値は下がっています。 大学の偏差値は、立地と、共学化女子代かで、かなりきまっているみたい。 同じ東京の大学だって、実際のキャンパスは、千葉、埼玉、神奈川、多摩方面にあったりして。せっかく東京の大学行くのに、そんなところじゃ嫌という、地方からでてくる受験生は、やっばり、都心の大学に行きたいのでは。 ということで、高校受験よりもさらに、時代の好みや価値観が如実にでているみたいな、大学偏差値。なんだか、実質とかけ離れているような気がします。 どういうことなんでしょう。
2009年06月26日
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最初から最後まだずーっと山登り、山歩きのシーンでした。画面に映る立山のやまやまが美しかったです。 空撮は一切なし。それがやはりよかったのでしょうねえ。よくこの手の映画は山のシーンなどヘリコプターを使った豪快な空撮シーンがあります。それはそれできれいで、すてきなんだけど、この映画ではスタッフも、俳優さんもみんな自分たちの足で登って、物語の流れの通りに撮影していったのだそうです。ぢベタをはいずっていく感じ。でしょうか。 だからこそ高い高い上れそうにもない剣岳の高い山の感じがじんじんと伝わってきます。今でこそいろんな登山の道具があって、かつて不可能といわれた剣岳もなんパターンもの登り道がありますが、この当時の日本の技術だけで登ろうとしていた物語なのでした。それにしてもね。日本陸軍は、最初から最後まで悪者です。どうしてあんなに性格悪くて、頭固いのか不思議なんですが。 日本山岳会とも、協力して、みんなで登ればもっとラクだったと思うのですが。なんで仲悪いんでしょう。 ただ、最後まで見終わっても、感動はありませんでした。結末もなんだか納得のいかないまま、気がつけばお話は終っていて。いい映画なのに、感動的な結末でもなく、それでも、見終わってみてというより、みていながら、ああ、いい映画だと、思ったのでした。 ラストに感動して涙ぐんじゃったけど、映画自体はそれほどのものでもないなという作品もあるので、ちょうどその対局のような映画でしょうか。監督はもともとキャメラマンなので、お話の盛り上げ方や、見る人に感動を与えるようなテクニックはないのかもしれません。 それでも、ぢ道に地道に撮影した映像や、苦労や努力は映画をみていれば、当然分かります。そうして、ありんこのようにぢ面をはいつくばるようにして、登って行った、撮影していったその画面の一つ一つの美しさや緻密さや、景色の一つ一つがドレもコレもすてきで、俳優さんたちの演技もすばらしく、 だから、いい映画だったなあと、思います。見終わって、家に帰って、思いだすと、なんだか一日中山登りしていたような気がしました。宮崎あおいちゃん。あいかわらずかわいかった。 今年の邦画の一番は、これだと、思います。 あ、でも、『鴨川ホルモー』もよかったし、どっちにしよう。劔岳 点の記@映画生活
2009年06月25日
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なんかいろいろ忙しくって、先週の旅行のネタを今頃やっと書いてる。いいのさ。ホテル泊の翌日はいよいよカーグラフィックのイベントにいくということで、一路、サイクルスポーツセンターに行きました。修善寺駅の周りがすごいぐちゃぐちゃで、80号線にいくのがちと大変でした。それでもなんとか着きました。距離的には近いですし、今回の旅行が修善寺だったのもひとえにコレに来るため。サイクルスポーツセンターもやっぱり広大な敷地です。昔はこのあたりは、ど田舎できっととっても、土地代が安かったのだと、思います。で、今はいくらなんでしょうね。とにかくそのおかげなのか、駐車場代がかかりませんでした。そして、こんなイベントですので、駐車場にとまっている車が普通ではありません。すでに、駐車場自体がイベント会場のようなもの。普段なかなかみかけない変わった車がいっぱいとまっている。さすがの私でも、普通じゃないと分かります。そこらじゅうにクルマオタクの空気がどよよよよよよっと、ただよっています。それをみただけで、ダンナの目がきらりーん。めずらしい車と一緒に持ち主に無断で記念写真までとっいましたが、さすがに、ブログには、載せられませんね。会場にい国はまず、サイクルセンターの入場料をはらわなければいけませんでした。遊ぶ機全然ないのに、ふざけてる。でもってねさらにカーグラのイベント会場に入るのにもお金がいる。ふざけチョる。ただ、ここだけは、女性は無料でした。そのくらいじゃないと、家族でこられませんですから。たのむと、プレートに好きな言葉をプレスしてくれる。一枚3800円でした。うちは買いましたともさ。太っ腹だ。ピザをその場でやいてくれるというピザバス。しかし、想像したとおり、注文が立て込んでいて、1時間半まち。あきらめました。でも、バスのデザインはこってましたねえ。ダンナが大好きなおベンツ様。ですが、このマークはなかなかすてきでしたので、おもわずぱちり。ベンツのマークも車によっていろいろです。この車が会場内で一番かっこよかったそうですので、一枚、パチリ。もちろん私にはそのちがいなどわかりません。鉄腕アトムにでてくるようなデザインです。ほんとにいよいよ昔のSF漫画の世界は現実化されています。どんどんと。普段は、サイクリング競技の練習などに使われる5メートル道路を借り切ってのイベントでした。でも、私はあっという間に飽きて、会場のはじっこでDSをして暇をつぶしていました。なんか曇っていて、かなり寒くて、遊戯施設で遊ぶ気もおきなくて。でも、まあ、周りは緑だしね。イエローのオープンカーツーシーターは、村上春樹の世界ですね。あまりにもうるさいので、ヘッドフォンがないと、走行中の会話ができないんだって。でも、オープンカーは、日本には向きませんね。夏は暑いし、冬は寒いし、春と秋は雨なんだもの。それでも、かっこいいんだけどさぁ。さて、会場には一応少しだけ女性向けのお店もありました。ここはヘナの液を使ってお肌に絵や模様をかいてくれるようです。私もいえにあるヘナでできないだろうかと、考えました。メヘンディアートというのだそうです。そのほかにも、手のマッサージとか、ハンカチなどの販売もありましたが、やっぱり退屈だよね。しかたないです。ちなみに、帰りはさらにさらに渋滞でした。やっぱり伊豆は遠いなぁ。でもおいしかったから、いいのさ。次は夏です。
2009年06月22日
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今回泊まったのは、ホテルラフォーレ修善寺。ゴルフクラブの併設のホテルらしく、ダンナの会社の健康保険関係で申し込むと安くなるということで、ネット申し込みしてみました。最近はネットがあるから、ラクチンです。修善寺温泉の南の山々の中にある広大な敷地の中にあります。山の頂上部分に作られていて、伊豆の初夏の風が吹いてきます。右も左も伊豆の山並みが見えて、さわやかです。しかし、建物はそれほど美しいものでもなくて、周りの景色もいまひとつだったので、写真を撮りそびれてしまいました。ホテルの中にある水着で入れるスパの温水プールは、チェックインの前の時間でも、入れるので、水着も用意してきました。よく温泉なんかにいくと広い浴場に思わず泳ぎたくなるものですが、まさにそれを実現した感じです。水深90センチで、温水。ちょうど今の季節にはピッタリです。冬にはやっぱり、寒いし、夏だったら、もっと冷たい水のプールに入りたいから。場内は、まるで、ローマの浴場のようなデザインで、他に誰もいなかったので、貸切状態のようでした。そのあと、しばらくして他のお客さんも来たのですが、それでも、2組か3組くらいしかいないので、すごくすいていて、ほんとにのんびりと楽しめました。全面ガラス張りの大きな窓からは、伊豆の山山が眺められます。隣には温泉浴場もあるので、プールのあとは、そのまま温泉に入って、髪も体も洗えてさっぱり。今のホテルは、シャンプーもリンスも、あるし、お試しの美容液などもいろいろ置いてあって、サービス満点です。三つくらいあった美容液を一度にみんなつけてしまいました。でも、一回くらいじゃ効果はないよね。そのあと、お部屋でやすんでから、イタリアンのフルコースの夕食でした。しかも、ここ、浴衣ではこないでくださいともかいてありました。みんな普通に洋服で来ていました。本格的ですね。ホテル内はほかにも、和食、フランス料理もありましたが、今回はお値段的にも個人的な希望でも、イタリアンがたべたかったので、予約してありました。山の中のホテルなので、他のお店に食べに行くのはたいへんなので、ここに宿泊するばあいは、やはり、宿泊の予約と一緒に夕食もついているものを選んだほうが良いと思います。お食事は、前菜、スパゲティ、伊勢えびのロースト、牛フィレのソテー、デザート。イタリアンブレッド、コーヒーまたは紅茶です。とっても豪華で、お腹いっぱいになりました。東京のど真ん中のレストランとほぼ変わらないおいしさです。しかも、伊勢えびも半身ですし、こんなところで、コレだけのおいしい食事をいただけるとは、予想外でした。あまり期待していなかっただけに、おいしさも倍増。また、いきたいなぁと、思いました。このパスタがすっごくもちもちで、もしかして、レストランの手打ち?かなという感じでした。写真は少なそうに見えるけれど、結構食べ応えありました。ほかにも、ジェノベーゼや、桜海老のにんにく風味など、三種類から選べるようでしたが、私もダンナもコレを選んでしまいました。やっぱり、トマト味が一番好きです。お台場のレッドロブスターよりぜんぜんおいしい。フィレ肉ってヘルシー。国産牛もえらべたそうですが、私は豪州産のもののほうが好きです。国産は脂臭くて。お肉って焼きすぎると硬いし、焼きが足らないと、なまっぽいし、難しいのよね。やっぱりその点、プロはうまいなぁ。このデザートの下の粒粒は、バジルシードの蜜付けでした。たしか。こんなデザート初めて。アイスもケーキもなくて、なんともヘルシー。すきっ腹で飲んだので、スパークリングワインがとってもきいて、そのあとは、お部屋であっというまに寝てしまいました。ホテルの夜を楽しむドコロではありませんでしたが、普段はいろいろあって、食事の後スグに休めないので、ご飯、お酒、バタンキューの睡眠は、とっても気持ちよかったです。ああ。久しぶりの贅沢。すてき。ちなみに、ここの食事は、クリームやバターを使ったケーキや、揚げ物は一切なくて、翌朝のビュッフェも、デザートは、フルーツ、ヨーグルト、シリアルなど、飲み物は野菜ジュース、などで、全体にかなりヘルシーな食事になっていて、健康的でした。
2009年06月19日
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