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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク藤沢市獺郷(おそごう)の雷(いかずち)にある神社・子聖神社(ねのひじりじんじゃ)に到着。獺郷地区の鎮守で、祭神は大己貴命 ( おおなむちのみこと ) 。大己貴命(おおなむちのみこと)は出雲神話の最大のヒーロー、大国主の別名。『獺郷 子聖神社』 と赤く刻まれた石柱。獺郷(おそごう)の名は、沼地に獺(かわうそ)がたくさん住んでいたためついた地名とされているとのこと。その昔は胸まで浸かるくらい深い湿田が多く、耕作が大変であったが、現在は耕地整備や土地改良が行われ、乾田となっているのだ。『獺』 と言う字は私にとっては昔からなじみ深く。何故ならば人気の日本酒『獺祭(だっさい)』から。妻もこの銘酒のファンなのである。入口付近から境内を見る。正面に鳥居から参道、本殿、左手に獺郷公民館と鐘堂、右手に神楽殿、神輿殿。手水舎。 本殿と狛犬、灯籠。本殿の左手に子聖神社由来の碑。 創建時期は不明だが、1733(享保18)年の棟札(むなふだ:築造・修復を記念した碑板)が残されているため、江戸時代中期には存在していたと。この頃には、「東陽院」近くの中谷にあったが、1868(明治元)年、台風の影響で本殿が倒壊したため、現在の地に移転・改築。同時に八幡社・大六天社・山王社の下宮3社を合祀し、子聖神社という名前になったと。鐘楼。 境内の梵鐘は棟札と同じく享保期のものであったが第二次大戦時に供出され、1981(昭和56)年にふたたび鋳造されたのだと。本殿右手には神輿殿が。道祖神やお地蔵さまを祀った小さな社。社の中に青面金剛庚申塔が2体。石塔群 次に大向墓地に向かったのであったが、草むらの手前に車を停めて中に入っていく。「お殿様の墓」とも呼ばれていると。入ってすぐ正面に今にも朽ち果ててしまいそうな小屋が見えるとのことであったが見つからなかった。慶長~幕末まで、獺郷村を支配した地頭平岩氏が建立した常久庵といい正信が妻の菩提を弔うために建てた寺院があったと。平岩氏は代々徳川家譜代の三河武士。小牧・小田原・関ヶ原などの役に従い上野・上総・相模に知行を与えられ、この村に陣家を置き菩提所を作ったと。最奧の右手には背丈ほどもある立派な卵塔形式の平岩家の墓?がひっそりと肩を寄せ合うように立っていた。そして墓地内には多くの墓石が。東陽院に向かう途中の畑道の横にあった地蔵様。 安藤養鰻場。現在ではウナギの養殖をやめ、他県から買い付けた親ウナギを一週間程かけて地下水で泥を吐かせて、そのウナギを卸業やら、自宅で直売(冷凍かば焼きなど)を営んでいるとの事。この様な場所に養鰻場があることは知らなかったのである。東陽院に向かう道のY字路にあった簡素な祠の中の地蔵尊。 東陽院に到着。東陽院は、藤沢市獺郷字三清にある寺院。僧忠室宗孝により永正年間(1504〜1520)に開基された曹洞宗の寺院で、岩谷山と号す。かつては小田原市にある久野総世寺(くのそうせいじ)の末寺で、茅ヶ崎市芹沢の善谷寺,行ヶ谷の宝蔵寺を末寺に従えた小本山であったと。以前は近くの「丸山」にあったと。 参道。 永正年間(1504‐1520)開基の曹洞宗の寺院。参道横には石造りの小さな祠が。。守護神はカワウソとキツネと言う、異例の組み合わせを持つ東陽院。昔、このあたりに悪戯好きなカワウソとキツネがいたと。そのカワウソとキツネを忠室宗孝禅師が封じたと。現在狛犬に抑えつけられた、地名由来のカワウソとキツネの小さい祠が境内に。本堂。本尊は釈迦。須弥壇左側の阿弥陀如来は東陽院の守護神と伝えられてると。 曹洞宗(禅宗)南無本師釈迦牟尼佛当山本尊 阿弥陀如来 大 本 山 福井県 永平寺 御開山 高祖道元禅師 横浜市 總持寺 御開山 太祖瑩山禅師(たいそけいざんぜんし)伝 統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禅風として 開花し、鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす。その教義は瑩山禅師に よって広く全土に実践教化され今日に至る。教 義 人は本来 佛性有り 己に佛心の具え有り。 正法の経典を讃仰読誦し深く黙照して坐し 脚下照顧して己の足下を見つめ自然(宇 宙)と一体なる自己を見極めて活達なる人生をいかしきるのが 禅の実践なり経 典 修証義 般若心経 観音経 寿量品等を読誦する 本堂のご本尊に先ず合掌五重塔。 水子地蔵菩薩像。 寺務所。 藤沢市宮原にある観蔵寺に到着。宮原山不動院と号する真言宗の寺院。創建時期は不明とされていますが、安土桃山時代と推定され、寛永年間(1624〜44)に僧、成印により再興されたと。明治期まで道を挟んで隣接する宮原寒川社を管轄してしいたと 。 境内の六地蔵。 本堂。本尊不動三尊、本堂安置の阿弥陀如来は獺郷にあった西福寺の旧本尊。現在の本堂は大正大震災後に改築されたもの。 本堂手前の小さな社。観蔵寺の手前にある宮原寒川社に向かう。藤沢市宮原の六本松にある宮原地区の鎮守の神社。境内には大宮社(大宮姫命)・八雲社(須佐男命)を合祀。創建時期は不明だが、神仏が合習していた江戸時代には社の西隣にある観蔵寺が別当役を務め、僧や山伏、修験者など雑多な人々が居住していたと。その後神仏の分離を経て、明治時代末、打戻の宇都母知神社との合併が取り沙汰されることもあったが、地域の人々の反対により独立維持されたと。境内は、南側から正面に拝殿と本殿、左手前から鐘堂、手水舎、社務所、奥に神輿殿、右手に神楽殿、稲荷神社が。入母屋造の屋根を持つ拝殿は1894(明治27)年に再建。 鐘楼には鐘がぶら下がっていなかったが昔から?。この鐘も第二次大戦時に供出されたのであろうか?神輿殿。 正面から見た宮原寒川社拝殿と狛犬。祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)すなわち応神天皇。古くは寒川郷であったと。当地は相模の国一宮寒川神社(相模十三社の内)の領で、その宮地であった野原を開拓し出来た集落であったので宮原(みやばら)という名称となったと。 境内の稲荷神社を正面から。 次の目的地に向かう途中の宮原・中原の道路脇の道祖神。 藤沢市宮原にある立小路地蔵尊に到着。石碑には『子育地蔵尊』と刻まれていた。 1699(元禄12)年に奉造された子育て地蔵尊で、宮原地区の女性たちが念仏講を記念して建てたと。一昔前までは首のないお地蔵さまといわれていたが、願いの叶った平塚の人が首を奉納し、現在のお地蔵さまの姿になったと。 藤沢市宮原にある社・鬼子母神堂(きじもじんどう)にも立ち寄る。祭神はもちろん鬼子母神。仏法を守護し、安産・育児などの願いをかなえるという女神。もとインドの鬼神訶梨帝母(かりていも)。創建年月日は不詳であるが、武田武士内野隼太他13名(7名という説もあります)の墓地が堂の裏手にあり、この墓守として建立されたと。現在は講中により月一回のお題目を行っているのだと。 境内の稲荷社。
2016.10.09
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク宇都母知神社から南西に足を延ばし、曹洞宗・盛岩寺(せいがんじ)を訪ねた。参道から山門、本堂に至る広い前庭の植栽が見事。「盛岩寺由緒」高照山と号し、慶長18年(1613)朝岩存夙禅師(ちょうがんそんしゃくぜんじ)により開創された禅寺です。御本尊は釈迦牟尼如来(仏師広運作)で文殊・普賢両菩薩が脇侍仏としてまつられています。当寺は高座南部地蔵尊二十四札所中の十九番札所で、本堂内に安置された延命地蔵菩薩は市の文化財調査によれば室町前期の仏像とみられております。 御詠歌 「のちの世は 実の舟に法のふた 打ち戻りても また訪ねこん」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 濃きみどり こゝろ安らぐ 盛岩寺 山門は開創400年を迎えた古寺らしい風格。『心安らぐ緑の寺 盛岩寺由緒』 高照山と号し、慶長18年(1613)朝岩存夙禅師により開創された禅寺で、御本尊は釈迦如来(仏師広運作)脇侍仏として文殊・普賢両菩薩がまつられています。当寺は高座南部地蔵尊二十四札所の十九番札所になっており、堂内の地蔵菩薩は市の文化財調査によれば室町前期の仏像とみられています。なお、薬師三尊(室町后期)十二神将は打戻下東光寺の本尊であったが、明治初年、廃寺のため当山にまつられた。 竹林の 葉ずれささやく 盛岩寺境内の高照観音と墓地の慈母観音の案内板。 高照観音(境内) 三十三身に変化し妙智力をもって諸願を成就し玉う慈母観音(墓地) 慈悲心をもって母と幼子を安らぎの園に導き見守り玉う『高照山 盛岩寺』と刻まれた石柱。 境内に入ると、左手に立派な六地蔵が鎮座 山門をくぐると本堂の前には、可愛いお掃除小像尊(洗心童子)が箒を持って立ち「掃けば散り 払えばまたも 塵つもる 人のこころも 庭の落ち葉も」と、境内を掃き清めていた。掃いても掃いても降り積もるのは、庭の落ち葉も、私たちの心に潜む邪念も同じこと。日々怠ることなく、精進を重ねることが大切と言う教え。私たちの心も、永遠に汚れが続くため、永遠に掃除を続けなくてはならないのだと。本堂正面。本堂に安置されている地蔵菩薩は高さ21.5cmと小振りながら室町中期の作で、高座郡南部24札所巡り第19番の地蔵で、延命地蔵と呼ばれていると。 美しい曲線の石灯籠。 十三重石塔。その隣には、珍しい石の鈴を下げた石造の五重石塔が建ち、層塔の上には相輪も。境内の高照観世音菩薩。 美しい顔。 高照観世音菩薩縁起が刻まれた石碑。高照山盛岩禅寺は慶長年間寶泉寺六世朝岩存夙禅師により開創され法燈連綿と継承し現在に至る。大正十二年の関東大震災により伽藍全潰し爾后戦中戦后の激動期に直面し再興の機運熟せず今日となる。昭和五十五年二月堂宇の再建を発願し檀信徒この勝縁によく合力し翌五十六年四月本堂、書院、境内の整備等万端成り高照の浄域に輪奐の美を現ず。百花香ばしき五月八日の吉辰をトし入佛落慶。普山結制の大法会を厳修す。〇徳荘厳入天を照し盛岩の禅苑朝暘に映ゆ。・・・・・・・・後略境内にある稲荷社 境内にある『昭和文化館』。 詩吟や写経、茶会など、打戻地区の文化コミュニティの場となっている。2012年に大正時代の商家を移築・再建した貴重な建物 そのルーツを辿ると、江戸時代の「越前屋」にまでさかのぼると。文久3(1863)年の浮世絵にも描かれ、藤沢きっての豪商だった「雨谷商店」(越前屋は屋号)。もとは遊行寺の黒門前に構え、明治・大正時代には砂糖や薬品、雑貨、石油などを扱う大地主だったと。1923年の関東大震災により、大商店と家屋は倒壊。翌24年、かつての部材を用いて遊行通り(現・藤沢市藤沢68)へ移転・再建。その後、38年に森氏が買取り、自宅として打戻で利用されていた。時は流れ、2010年。老朽化により重機で取り壊すことを知った盛岩寺の中津川雅久住職が「歴史的価値のある建物を壊してしまうのは勿体ない」と私産を投じて、宮大工や建具職人らよって移築したと。現在は薬師堂として使用し、檀信徒会館を兼ねる。墓参りに来た檀家に開放するだけでなく、彼岸やお盆、施餓鬼などでも多くの人が使用しているとのこと。昭和文化館前から本堂を見る。境内からの六地蔵。 境内から山門そしてその手前にケヤキ?の老木。 山門に向かって歩いていくと耳元に聞き慣れたブンブンの蜂の羽ばたきの音が。蜂を目で追いかけると、欅の老木の地面に近い空洞に入っていった。 日本ミツバチであろうか?幹の空洞に巣を作っているらしい。 入り口の掲示板には小出川彼岸花のポスターが。 車を走らせしばし行くと交差点の片隅に石塔が四基。 交差点名は「打戻堂の前」。『堂の前の辻』 剣の如き形の二十三夜塔は、右一之宮と左ふじさわと刻まれた道標。右は猿田彦大神で、文化十癸酉年十一月、1813年の造立。ここは盛岩寺まえの道路と子聖神社からの道路とが交差した場所。左は月山・湯殿山・羽黒山の出羽三山信仰の石塔。続いて右の庚申供養塔は、寛政二年で1790年の造立。
2016.10.08
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク藤沢市打戻周辺の寺社巡りを続ける。妙福寺 山門。陽向山 妙福寺は 日蓮宗の寺。寺の掲示板には『盂蘭盆と申し候事は』と。お盆の正式名称は「盂蘭盆(うらぼん)」。『「盂蘭盆」はインドのサンスクリット語の「ウラバンナ(逆さ吊り)からきた言葉と。「逆さ吊り」が語源といわれると驚きますが、次のような由来が伝えられているのだと。お釈迦様の弟子のひとり、目連尊者(もくれんそんじゃ)は神通力によって亡き母が地獄に落ち逆さ吊りにされて苦しんでいると知りました。どうしたら母親を救えるか、お釈迦様に相談したところ、お釈迦様は「夏の修行が終わった7月15日に僧侶を招き、多くの供物をささげて供養すれば母を救うことができるであろう」といわれました。目連尊者がその教えのままにしたところ、その功徳によって母親は極楽往生が遂げられたということから、精霊を供養する盂蘭盆会の行事が生まれたといわれています。この盂蘭盆会の行事が日本の祖霊信仰と融合し、日本独自のお盆の風習がつくられていきました。』とネットより転載。手水場。日蓮上人像 祈願堂。 祈願堂の扁額には南無妙法蓮華経と刻まれていたがその他は読めなかった。地蔵尊? 鐘楼 この妙福寺は慶長八年(1603)に徳川家康の側室であり、家康の次男結城秀康の生母おまんの方(養珠院)が帰依した高僧日遠上人を開基開山として、創建。 当時は寺域が広く、七町歩あったが、後の社会変動、第二次世界大戦などを経て大幅に減少。また昭和九年の火事で、堂塔を焼失した。二棟あった蔵にも火が入り、将軍関係などの寺宝をすべて失った。記録類も失われたと。平成五年、日遠上人第350遠忌の記念として、本堂・客殿・庫裡を新築。本尊は日蓮、三宝諸尊を安置。本堂には『陽向山』と書かれた扁額が。十五代将軍慶喜は隠居後当寺で暮らすことを予定するなど、幕府の厚い保護を受けてきた寺。鳥羽伏見での敗戦で、寺への隠棲は実現しなかったが、170人ほどが宿泊可能な庫裡が建てられていたと。 しかし何故慶喜はこの様な田舎の土地に隠棲を決断したのであろうか?家康への思慕か?本堂前の可愛い地蔵さん。 本堂横を通り奧に進むと大きな敷石の先には素朴な御堂が。手水舎。 八角形の屋根の御堂。 その奧にも墓所の施設が。 再び本堂前の境内に向かう。 右手に萩の花が。 本堂前の銀杏(イチョウ)の木。 多くの銀杏(ギンナン)が地面に。 「ギンナン」と「イチョウ」は違う漢字にして欲しいのですが・・・・。境内から山門、鐘楼を見る。 さらに車を走らせ大法寺へ。大法寺は、藤沢市打戻の字榎戸にある寺院。1596(慶長元)年、僧、正誉によって開山された浄土宗の寺院で、元、上土棚にある蓮光寺の末寺であるが、現在は無住の寺院らしい。本尊は阿弥陀如来で、この像は、寺が創建される前路傍の御堂に厨子に入って安置されていたものと伝えられていると。また、本堂には1972(昭和47)年に修理した閻魔王像、法然・善導坐像、神像二体が、また、境内には1822(文政5)年の光明真言供養塔、聖観音塔、地蔵菩薩像と慶蔵坊の碑があるとのことであったが、門が閉まっていて中には入れなかった。日吉神社。内戻の農村地帯の農道の横にあるある素朴な神社。鳥居と祠がある程度で、素朴そのもの。神社の由来の解る説明板なども立っていなかったので、縁起などは不明。敷地に「寛政十戊午歳霜月」と刻まれた石碑が立っていたので、比較的古くからの神社。寛政十戊午歳とは1798年、約220年前。
2016.10.07
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク藤沢市打戻に鎮座する宇都母知神社(うつもちじんじゃ)を訪ねました。延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)とされるとのこと。藤沢市打戻2662。宇都母知神社と赤く刻まれて石碑。 この地『打戻』の地名の由来として、宇都母知神社の「宇豆毛遅」(うずもち)が訛って打戻(うちもどり)となったという説がある。また、古語において「うつ」と「もち」にはどちらも「小さな盆地」という意味があり、当地の地形からまず「ウツモチ」と呼ばれるようになって「うちもどり」に転化したともされる。この他には、海老名の刀鍛冶屋、五郎正宗が鎌倉へ向かう道中この地で休憩した際に、これから納める刀の出来がよくないことを思い、「家に戻って打ち直した」ことから地名となったとする説もあるとのこと。 鳥居建設碑。平成2年と刻まれた鳥居建設祈念碑も。 9月15日に行われた例大祭の名残が祭りの寄付金の掲示板に。参道横に庚申塔。文政十年丁亥十一月吉日、1827年の造立。手水舎。 宇都母知神社 縁起碑。神社の創建時期は定かでないが、雄略天皇の御代(495年)に厳粛な祭祀が執り行われたという記録がある(『日本総国風土記』)。また、これまでに転社(移転)の記録はないが、同風土記では当社の鎮座地が「相模国鷹倉郡宇都母知郷」とある。なお、『延喜式神名帳』では「相模国十三座(式内社)の内 高座郡六座の内の一座宇都母知神社」と記されている。天慶2年(939年)、大和国泊瀬より若日下部命の尊霊を遷座、相殿に合祀した。正応3年(1290年)、鎌倉幕府八代将軍久明親王の執権である北条貞時が社殿を改築、さらに寛永4年(1627年)、当地の領主である高木主水源正次が社地900坪(約3000m²)を寄進して本殿の改築を行なっている。当社の呼称として、江戸時代には「大神宮」「神明宮」とも称されていた。その後、明治6年(1873年)12月には郷社(近代社格制度)に列せられた。大正12年(1923年)の関東大震災により社殿(安政5年(1858年)造)を含み全壊したが、3年後の大正15年(1926年)9月には全復旧し現在に至っていると Wikipediaより。 大きな社務所。 社殿。社殿の左手は神輿殿。誰一人いない閑散とした空間。御祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、稚産霊神(わくむすびのかみ)、若日下部命(わかくさかべのみこと)。稚産霊神は五穀や養蚕を司る神で若日下部命は仁徳天皇の皇女で養蚕を盛んに奨励したとされているのだと。かつての打戻の地は養蚕がさかんだったと。 本殿を斜め前から。 境内社の菅原神社。 平成8年に建立した菅原神社、伊勢神宮鎮座二千年記念、第二次世界大戦終結50年を記念碑。氏子中と刻まれた石塔が二つ。 稲荷神社。 打戻稲荷神社 石碑。平成19年の灯籠整備祈念碑。境内を西側に出て道を挟んですぐのところにある鐘楼そして手前に古い石碑が。『相模十三社 式内社 宇都母知神社』とあるが、風化が進み何とか解読出来た。土地改良事業完成記念碑、「甦る大地 藤沢市長 葉山峻 書」郷土の鎮守、宇都母知神社が鎮座する、藤沢市打戻字大仲及びそれに接する宮台、大谷戸、根下、矢崎の地は、原始の昔より農耕が営まれてきたが、畑地は傾斜地が多く狭隘であり、山間に位置した水田は強度の湿田で生産力も低く、長い間耕作農民を苦しめ、経営の伸展を阻害してきた。昭和四十八年、藤沢市が国の施策である第二次農業構造改善事業を導入するに及び、当地の地権者百十二名は、この事業の実施推進によって生産基盤の改善と経営の安定を計るべく、度重なる協議を経て、土地改良区の設立に踏み切った。以来十年間の歳月を費やし、本土地改良区は、県、市、農協等関係機関の懇切な指導と地権者及び役員の溢れる熱意により、幾多の困難を乗り越えて、事業費二億七千万円、総面積四千五ヘクタールに及ぶ土地基盤整備事業を完成させ、更にその耕地内の二千ヘクタールを対象に、事業費四千五百万円をもって畑地灌水施設を完工し、また、ガラス温室団地及び養豚団地を配置するを成し得た。これにより、改良地区の中心部を通る、工費六千万円をもって完全舗装された延長千百三十六メートル、幅員七・五メートルの幹線道路をはさんで、農耕地は平坦にして整然と区画され、どの耕地も巾四メートル以上の農道に接する、良好なしかも早害の懼れのない近代的農耕地に生まれ変わった。この改良事業は、今後当地の農業経営の合理化と発展に寄与するところ限りないものがあると思われる。思うに、当地の農耕の遥かな歩みの中で、本事業はまさに歴史的かつ画期的な大事業であったと言うべく、本土地改良事業の完成にあたり、その〇概を記して、後世に伝えんとするものである。 昭和五十八年一月 藤沢市打戻土地改良区鐘楼は昭和20年(1945年)の春に太平洋戦争の物資回収により献納されたため暫く設置のされないままだったが、昭和50年(1975年)になって、天皇在位50年を記念して鋳造されたものを再建。また、境内の全域が風致林の指定を受けており、昭和49年(1974年)には自然環境保全地域に指定されているとのこと。
2016.10.04
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク更に歩を進めると朱と白木のままの二種類の鳥居のある社殿が。 上村神社(かむらじんじゃ)と上野森稲荷神社(かみのもりいなりじんじゃ)のニ社が隣同士に鎮座しているのだ。そしてこの二つの神社は、社殿が2重になっていて、外側を格子で囲んであった。両社ともその創建時期は不明となるが、上村神社は、通称、おしゃもじさまと呼ばれ、病を抑えてくれる神様として、崇められたと。上野森稲荷神社の方は、農耕、商売の神様として篤く崇敬されたと。朱の鳥居は上野森稲荷神社。 創建の時期は不明であるが、寛政年間(1789年)幕府が調査を命じた図面にこの上野森稲荷神社の記録があるとのこと。白木の鳥居が上村神社。上村神社は、通称、おしゃもじさまと呼ばれ、病を抑えてくれる神様。 境内の入り口近くの、双体道祖神。昭和58年奉納とあるから、新しい道祖神。左右の石碑は、磨耗した昔の双体道祖神。 神社を後にし、最後の散策地の寺に向かう。寺の場所は小田急線。藤沢本町駅を過ぎ善行方面に線路沿いに歩き藤沢バイパス手前の坂道をバイパス沿いに上っていった。左手の伊勢山の斜面にも小さな社が。そして右手の光妙寺(こうみょうじ)入口に到着。 光妙寺は藤沢四丁目にある日蓮宗の寺院。山号は、立正山。旧本山は、身延山久遠寺。 坂道を上り境内へ。妙法玉丸稲荷大明神。 玉丸稲荷大明神の幟が並んでいた。 本堂。宝暦6年(1756年)光妙院日暁により創立。静岡県富士郡芝富村円恵寺の仏堂であったが、 1934年(昭和9年)に光妙寺と号し独立して、現在地に移転したと。 本堂に掲げられた扁額は「光妙寺」。本堂前に日蓮聖人像が鎮座。 懐かしき、つるべ井戸。 境内のベンチでしばし休憩。 光妙寺の永代供養墓 パゴダ。 パゴダ (pagoda) とは仏塔(ストゥーパ)を意味する英語。頂部は黄金に輝く塔が。パゴダを下から。 水子地蔵尊。 そして帰路の藤沢本町駅へ向かう。帰りは坂下の突き当たりにある踏切を渡り進む。赤い布には「北向地蔵尊」の文字が。藤沢三丁目の厚木街道のかたわらに、北向きに祀られている地蔵菩薩像。地蔵菩薩は常に民衆とともにあることから、あえて人の下座、つまり、北向きに配されているのが、北向き地蔵とのこと。そしてここは『諏訪町』に鎮座する『諏訪神社』の例祭が行われる場所。諏訪神社の例祭は、白旗まつり(7月15日から21日)の翌週の土日と決まっていると。そして小田急線に乗りこの日の散策を完了し15時前には帰宅したのであった。
2016.09.12
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク普門寺門前の道を南方に向かい、クランク状になったところを過ぎた左側に歴史がありそうな建築物が現れた。斉藤家長屋門。斉藤家は鎌倉時代に三河から鵠沼に移り住み、代々名主を努めた。江戸時代の砲術家江川太郎左衛門が鵠沼海岸に鉄砲場を設けるにるに当たって、鵠沼から二人が見回り役とされ、その際、名字帯刀を許されたという。うっそうとした屋敷林に囲まれた邸宅で、地元では「大齋藤」と呼び慣わしている齋藤本家であるとのこと。 門の両袖が納屋などの長屋になっている様子。現在もお住まいのようで、残念ながら中には入れなかった。藤沢バプテスト教会。 長屋門を過ぎて道なりに行くと、風化した道祖神右側に道祖神三体が。ここが苅田の辻という所らしい。 中央は浮彫りの相対道祖神で、左右にあるのは五輪塔であろう。建立時期は不明だが、江戸時代のものと。 すぐ目の前の民家の塀に、新しく設置された小さな祠の中に庚申供養塔がが組み込まれていた。 苅田稲荷社入り口。 小さな社殿。祭神の稲荷神は五穀豊穣の神。道路沿いの民家の塀には朝顔と瓢箪が。 湘南新道を横断し更に南下すると原町の道祖神が。そして原の辻石像が3体並んでいた。 原の辻 史蹟案内。光明真言供養塔?。石碑には四国三十三所・・・と刻まれていたが。 出羽三山供養塔。文化6(1809)年、159cm。一番左のものは小さな祠内に。 青面金剛像浮彫。宝暦3(1753)年、60cm。そして近くのバス停から江ノ電バスに乗り、日本精工前で下車。小田急線のガード前で左折し湘南高校方面へ歩く。湘南高校の前を通り、一中方面の曲がり角にはあったのが車田白旗稲荷。これは飯尾常吉翁頌徳碑(大正10年銘)。飯尾常吉は明治26年に車田町に住み、町内のために力を尽した人で、この稲荷の敷地も飯尾翁が寄付したのだと。元々この車田といわれる町内は白旗神社の直轄田(神田・しんでん)で例祭の時に行われる神輿渡御は、この車田から出発、収穫された稲穂が神輿に供えられていたのだと。鳥居建設のための氏子の寄付金リストも。この庚申供養塔は元禄2年(1689)の銘が。藤沢第一中学正門。 藤沢第一中学の敷地に接した小さな一画に、小さな庚申供養塔が祀られていた。 ここは、その昔、内田の辻と呼ばれた場所で、古い道が通っていたと。 祠内の青面金剛像。 第一中学の裏を歩く。 第一中学西南隅の小さな林の中の石碑は昔の姿を留めていなかった。その横には鵠沼内田土地区画整理組合落成記念碑が。
2016.09.11
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク皇大神宮の前の道を南に進み、大きな花栽培の温室沿いの路地を右折し東海道線の線路に向かって歩く。右側にこぢんまりとした寺とその入り口に小さな神社が。朱の鳥居と小さな社殿。 江の島弁財天道標の解説板が鳥居の横に。この杉山検校(けんぎょう)の道標は、以前は近くにある日本精工(株)の工場敷地内にあったが昭和22~23年頃この場所に移動されたとのこと。本来はこの道標の一面には「一切衆生」と刻まれているのであるが、いたずらで「一」の上に一本足されて「二切衆生」となっていると。見てみるとなるほど「二」と刻まれていたが、どの時代にも悪戯する人間がいたのであろう。境内には墓石や庚申塔がたくさん集められていた。江の島弁財天道標と同様に、道路や鉄道の整備、宅地や工場の開発で行き場がなくなったものなのであろうか。 善光山天龍院法照寺(ぜんこうざんてんりゅういんほうしょうじ)は浄土宗総本山知恩院の直末として直為上人を開山に、享保年間(1716〜1736)頃に創建されたとのこと。一説には寛文元年(1661)龍保上人の創建とも。法照寺は地域の人々からは「おかんのんさま」と呼ばれ親しまれていると。秘仏十一面観音は霊験あらたかで安産・学業にご利益があると。その手には錫杖を持しており、悪を戒めるとのこと。 法照寺本堂。右には「宿庭(しゅくにわ)町内会館」が。「善光山法照寺」と書かれた扁額。境内の小さな半跏思惟像の石仏。 本堂側からの庚申塔群が10基(宝永8年銘も)。その中央に小さな祠が。 祠の内部の石仏。 右手に金剛杵(こんごうしょ)を持っていた。杵 (きね) に似て中央がくびれ,両端に刃 (鈷) をつける。本来はバジラというインドの武器。仏教では修法に用いこれにより煩悩を破ると。そして東海道線の線路に出る。子供に配慮したのか、「ここは、とうかいどう線 37番 くげぬまみち踏切 です」と記された案内板が設置されていた。この歩行者専用踏切を渡る。ひたすら真っ直ぐな線路は小田原方面へ。 踏切を渡り暫くすると本鵠沼にある普門寺(ふもんじ)山門前に到着。高野山真言宗の寺。相模国準四国八十八箇所のうち第四十七番札所と第八十八番結願の札所。1872年(明治5年)から1913年(大正2年)まで、藤沢市立鵠沼小学校の前身である鵠沼学舎、尋常高等鵠沼小学校が置かれていたとのこと。 手水舎。 本堂。密巌山遍照院普門寺と号し、高野山真言宗(古義真言宗)に属しているが、もと藤沢・大鋸の感應院三十二か寺の一つであったとのこと。過去帳によると、享禄元年(1528年)5月、感應院三五代権大僧都良元(良元僧都)が、唐土ヶ原(平塚市)に一寺を創建、十一面観音像を本尊としたという。その後、元和3年(1617年)3月、元朝阿遮梨が、砥上ヶ原の現地に再興開基し、本尊を不動明王像としたとウィキペディアより。 見事に手入れされた境内の中で毘沙門天がひと際目立っていた。 大師堂。石造弘法大師坐像を安置。聖観音像。 南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)と刻まれた石仏。これは御宝号(ごほうごう)といい、真言宗で唱える一番短い『お経』。十三層石塔。 三界萬霊(さんがいばんれい)塔。「三界」とは、私たちが生まれかわり死にかわりするこの世界のことで、「欲界(よくかい)」、「色界(しきかい)」、「無色界(むしきかい)」の三つの世界。「欲界」は、もっとも下にあり、性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲を有する生きものの住む世界。ここには地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人・天の6種の生存領域である「六趣(ろくしゅ)」、「六道(ろくどう)」があり、欲界の神々(天)を六欲天と言うのだと。「色界」は、前記の三欲を離れた生きものの住む清らかな世界。絶妙な物質(色)よりなる世界なので色界の名があり、四禅天に大別される。「無色界」は、最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界。ここの最高処を「有頂天(うちょうてん)」というのだと。「萬霊」とは、欲界、色界、無色界などのそれらすべてをさすとのこと。鐘楼。梵鐘は寛政3年(1791年)11月、東都鋳工、西村和泉守藤原時政、発願主 阿遮梨智英の梵鐘があったが、太平洋戦争のとき供出し、現在のものは1974年(昭和49年)鋳造のものであると。 水子地蔵尊。 手水舎の龍神様と本堂。龍神様は、雲や雨を司る水の神様。生きていく上で、水は命の源。その龍神様から出るお水=ご神水。
2016.09.10
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク更に歩を進める。太陽も顔を出し気温も一気に上昇していることを実感。藤沢市立羽鳥小学校前を通る。 そして「耕余塾跡(こうよじゅくあと)」に到着。「耕余塾跡」と刻まれた石碑。 奥には2基の石碑と説明板が。 明治5年3月に 小笠原東陽 が羽鳥村の廃寺 徳昌院の本堂を利用して開いた郷学校の跡。羽鳥村の 三觜八郎右衛門の招きで、まず読書院という名前の学校を始め、村内の幼童の教育指導を始めた。明治5年8月に学制が布告されると、読書院は羽鳥学校(明治小学校の前身)と改称されて、生徒の多くはこちらに移動。東陽はこれとは別に読書院を私塾として存続させ、独自の教育を行いはじめた。漢学の他に、英語、数学、理科、西欧史、法制などを寄宿制、小中学一貫教育の私学として特徴を持っていた。やがて、近隣諸村からの 入塾者が増え手狭になったため、明治11年には学舎を立てて耕余塾と改称。この塾は、「相州第一の高等学府」として高い評価を受け、全寮制で最盛期には遠く静岡や東北地方からも入学希望があったと。明治12年頃は県下の豪農の師弟が百人以上もここで学んだと。明治9年12月に出された「小笠原東陽教則」によると、耕余塾の教授が、第8級~第1級と級外のランクに分けられた教えられたことが書かれてある。もっとも低い第8級では、読書(孝経・略史)、算術(四則)、聴写(書取・倭文)、習字、第1級だと、読書(万国公法、仏教政典、新律網領)、算術(測量)、作文(著述)。東陽は明治20年(西暦1887年)8月に58歳で没し、女婿 松岡利紀 が、耕余義塾と改称して継続。しかし明治30年9月8日の大風で全学舎が倒壊し、 再建のための資金難で、この年に閉塾。耕余塾からは、後の首相である吉田茂をはじめとして、村野常右衛門(自由民権運動家)、平野友輔 、 武藤(金子)角之助 、中島久万吉(商工大臣)、山梨半蔵(陸軍大将)、鈴木三郎助(味の素社長)など政財界を中心に多くの有用な人材が出ているのだと。吉田茂は横浜市の太田小学校を出てからここで5年間学び学習院に入学したが、彼の人格形成にこの時代が大きな意味を持っていたと。現在は、明治幼稚園の隣の地に、藤沢市指定史跡として石碑を残すだけ。 この石碑は大正5年に明治小学校から移されたもので、勝安房(勝海舟)による筆だと。 小笠原東陽の頌徳碑。現在はここ耕余塾跡にあるが、以前は現在の城神明社の側にあったと。 10分以上歩くと引地川に再び出た。上村橋の欄干に皇大神宮例大祭を描いたオブジェが。橋の両側の欄干には、幅が3メートルもある大きな金属製のレリーフが埋め込まれていた。太鼓を打ち笛を吹くお囃子の舞台の前に、大勢の観衆が集まっています。この近くの鵠沼神明にある皇大神宮の人形山車。欄干の両側に先日8月17日に楽しんだ皇大神宮の例祭の山車の姿が。上村橋を渡り、その先の元日本電気硝子(株)藤沢工場の脇の道に右折して進む。この工場は若き頃いろいろとプラント納入でお世話になった工場。しかしながら数年前に閉鎖され、現在は工場の撤去工事が行われていた。進んでいくと万福寺(まんぷくじ)裏の左側に二基の庚申塔が。中央のものが、文字庚申塔。上部には月と日が陰刻されていた。元禄4年の建立で、三猿の大きさが一律でなく、左から順に大きくなっていた。そして左側の物は享保4年建立の青面金剛庚申塔。右には「大乗妙典六十六部供養塔」と刻まれた石碑。六十六部とは、全国六十六カ国の霊場に大乗妙典(法華経)を奉納するという名目で行われた巡礼とのこと。万福寺裏門は木造瓦葺き。裏門の横から万福寺境内へ。手水舎。本堂。万福寺は藤沢市鵠沼にある真宗大谷派(東本願寺系)の寺。僧荒木源海が寛元3年(1245年)に開山・創建したと伝えられる鵠沼最古の寺院。正式名は鵠沼山 清光院 萬福寺。本尊 は木造阿弥陀如来立像、像高64.3cm、総高181.5cm、寄木造、江戸時代の作。太子堂。木造瓦葺き八角堂。開基源海が師親鸞の形見として譲られた聖徳太子自作と伝えられる太子像(木像)を祀るため、法隆寺夢殿を模して建てられた八角形の太子堂。2003年(平成15年)10月17日、落慶法要が営まれた。境内参道の奥に鐘楼が。最初の梵鐘がいつ作られたかは不明だが、寛文3年(1663年)十六世良意、梵鐘を鋳替えと寺伝にあり、さらに文政4年(1821年)10月廿世良締、梵鐘を再鋳造とある。1943年(昭和18年)、太平洋戦争のため供出されたが、1983年(昭和58年)10月に復興。親鸞聖人尊像。蕉窓句碑「雛持て飛なの噂や市もとり」万福寺二十三世良空は幕末~明治期の住職で、俳号を蕉窓と称し、鵠沼村の俳諧グループ「鵠沼連」の代表メンバー。1994年(平成6年)10月17日、蕉窓句碑が良正現住職の手で萬福寺境内に造立されたと。こちらが、万福寺山門。万福寺入口。右に進むと宮ノ前公民館前に新しそうな首塚が。古い石碑は風化が激しく、石碑の文字は読むことが出来なくなったと。新しい石碑は、しっかりと首塚の由来が読み取れた。しかし、碑文は王朝文学スタイルなので、ひらがなでもかなり難解な文章。鎌倉時代にこの辺りで戦があり、その時の死者と思われる二体の遺骨が明治12年に発見されたので、ここに首塚の碑を建てたと。 首塚碑の横には小さな祠に入った庚申塔像・青面金剛像浮彫。嘉永元(1848)年、85cm。そして皇大神宮一の鳥居横には道陸神が。平成12(2000)年3月に再建?皇大神宮鳥居群。 遠く皇大神宮社殿が。鳥居が微妙に曲がっているのであった。
2016.09.09
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク来た道を引き返すと、右手に廃墟の如きビルが。そしてその壁には蔦が屋上まで伸び一面がほぼ全面に緑のカーテンに。 羽鳥3丁目に小さな祠が。その中には庚申塔の唐様笠付角柱塔の六手青面金剛。更に歩くと『旧三觜八郎右衛門家住宅』 の案内板が。旧三觜八郎右衛門家住宅門。主屋の前方に西面して建つ。薬医門、切妻造桟瓦葺。見学は水曜日と土曜日の10時から可能と。この日は偶々土曜日の10時過ぎで幸運なのであった。両脇に潜戸付きの袖塀を設け、取付部に絵様付きの柄振板を入れる。部材木口を白塗とし、扉の金具類も古式そのもの。冠木や男梁等の材も太く、風格ある外観。屋敷の正門に相応しい格式を備えていた。 門を入ったところからの主屋と前庭。広すぎてカメラに納めきれなかった。正面に桜そして右手にはクロマツの巨木が2本。門を屋敷内から。 羽鳥3丁目にある歴史的建造物。国の登録有形文化財に登録されている。東海道の南方の敷地に西面し、二階建、切妻造桟瓦葺。南寄りの土間や板の間では、ケヤキなどの良質な柱や差物を堅牢に組む。また床上部は六間取で、座敷廻りでは襖に山水画を描くほか、透彫欄間や釘隠金具等の造作も入念で、格調高い室内意匠をもつ。中に入るとボランティアの男の方が案内してくれた。三觜家は江戸時代は名主を務めた名家で、明治時代に東京から儒学者の小笠原東陽を招いて「耕余塾」という学校を開設。故吉田茂元首相もこの塾生のひとりであったと。内部は撮影禁止であった。多くの風格のある座敷が縁側に沿って並んでいた。そして各部屋には見事な書が描かれた襖や山水画が。部屋には床の間も設けられ、使っている柱や天井材、透彫欄間、釘隠金具等の造作や仕上げも見事で格調高い室内意匠い圧倒されたのであった。畳1畳の大きさのある天井板や、49cm角の大黒柱など、現在では手に入れるのが相当難しい材木がふんだんに使われていたのであった。2本のクロマツも手入れが行き届き見事な庭園。なまこ壁の倉も見事。 旧三觜八郎右衛門家住宅を後にすると、道路脇には羽鳥御霊神社例大祭のお知らせが貼られていた。 旧三觜八郎右衛門家住宅の2階からも見えた御霊神社の入口へ。例大祭に繰り出す山車も組み立て、飾りの準備中。 石の鳥居が続いていた。一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居の並んだ向こうに神社が見えた。御祭礼と書かれたゲートとその奥に幟がはためいていた。ここ御霊「神社」には、なぜか鐘楼と梵鐘が左手に。 梵鐘には1386年の銘があり、元千葉県香取神社のもので、明治5年に羽鳥の村人が買入れたもの。藤沢市指定の重要文化財になっている鐘。 社殿にも例大祭の飾りが。 羽鳥村の鎮守。創建は不明であるが「高皇産霊神・ 神皇産霊神・玉積産霊神・生産霊神・足産霊神」の五神を合祀して「五(御)霊神社」として祀られている。 御輿も出番を待っていた。 境内では祭りの準備のために参集している氏子達がアイスクリームで休憩中。 御霊神社の「のぼり幡」。各界に多くの人材を輩出した「耕余塾」を主催・運営した小笠原東陽の自筆のもので,揮毫された1885年(明治18年)以来,地元で神社祭礼に供されてきたもの。もちろんこの祭礼では現在レプリカが用いられているとのこと。御霊神社の「のぼり旗」は隷書体で「神州寶祚之隆」、「當與天壌無窮」と書かれていると。 『日本書紀』天孫降臨の段で,天照大神が下した神勅にある文言であると。「神州寶祚之隆」………神州(日本)の宝祚(ほうそ 皇位)の 隆 (さかえ 栄) 「當與天壌無窮」………当に 天壌 (てんじょう 天地)と与(とも)に 窮まり無かるべき(永遠であること) そしてこの、のぼり旗の柱には見事な彫刻が施されていた。右側。 左側。 そして次に汲田墓地に到着。ここ羽鳥にあった耕余塾/耕余義塾は明治期の中等教育機関で、漢学、英語、数学、理科、西欧史、法制などを教え、寄宿制、小中学一貫教育の私学だったと。この塾を主宰したのが小笠原東陽と松岡利紀。この汲田墓地にはその小笠原東陽と松岡利紀の墓があるのだ。道路沿いの赤い屋根の祠には二体の地蔵様が。 「南無大師遍昭金剛」と書かれた木札が後ろの壁に。 これは御宝号(ごほうごう)といい、真言宗で唱える一番短い『お経』であると。「仏さまの慈悲の光は、すべてのものに及びます。そして、すべてのものに幸せを及ぼそうという智慧(ちえ)の働きは、ダイヤモンド(金剛石)のように堅固で輝きを失いません。」の意味とのこと。先ほど訪ねた三觜家の墓もここにあるようだ。小笠原東陽の墓。 1872年(明治5年)3月に、羽鳥村名主の三觜八朗右衛門に招かれ読書院(5年後に耕余塾に改称)を開き、教育指導を行い58歳で没した人物。 小笠原東陽、松岡利紀の墓の説明書き。松岡利紀の墓。小笠原東陽が没し、松岡利紀(東陽の娘婿)が塾長となり、耕余義塾に改称した人物。 この墓地には、老梅庵跡の石碑や地蔵様の姿も。この老梅庵というのは、大庭にある宗賢院の末寺だったとのこと。
2016.09.08
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク更に来た道を戻り再び引地川を渡り左手に折れ川沿いを進む。藤沢バイパスの下を潜り暫く進むと浄土宗本願寺の参道入口に到着。坂道の参道の左手に古い庚申供養塔が。『青面金剛塔』と刻まれた石碑が一番左手に。その横には六手青面合掌金剛+三猿が。 その隣に笠付角柱塔、三面猿、蓮台座が。 境内には比較的新しい六地蔵が祠の中に。 本堂。山号は往生山。創建は明暦2年(1656年)に阿道による開山であるという説と、西村の観音坂への再建中興が明暦2年であるとする説もあると。天明6年(1786年)には大雨により土砂崩れが起こり寺が崩壊したが、寛政3年(1791年)、恵光が現在地に移転再興。天保5年(1834年)火災にあったと。本尊は阿弥陀如来。いずれにしても歴史ある寺がここにも。墓地へ上る階段の脇に、古い墓石等の石造物がまとめて。無縁仏か? しかしその石仏は風雨に耐え歴史を重ねていたのであった。大きな石塔。南無阿弥陀仏の文字だけは識別できた。中央の石碑には『南無阿弥陀仏』と。左側の石碑の文字は???。これも南無阿弥陀仏?? 『戦死者 迢?墓 南無阿弥陀仏』 と刻まれた石碑。その後ろには多くの地蔵様が並んでいた。地蔵様は、子どもを守ってくれる仏様として、昔から人びとに信仰されて来た。地蔵様に赤いよだれかけをかけるのも、冬には毛糸の帽子や頭巾を被せるのも、赤ちゃんが丈夫に育つようにという母親たちの願いと祈りがこめられているから。参道を下り、右手に折れ川沿いを進むと柏山橋に着きこの橋を渡る。川床の雑草の倒れから、台風9号時にこの引地川の水位がかなり上昇したことが理解できたのであった。橋を渡ると正面の銀杏の木の下に『柏山稲荷神社』と刻まれた社号標の石碑が。銀杏の木には大きな銀杏(ぎんなん)の実が撓わに。正面の鳥居に「厳島千人力弁天社」の額が。縁起によると、女の人だけで、社殿を建てよ」という竜神大神のお告げあり、柏山神社の信者が相談して、女人千人で社殿建築に努力したと。よってご祭神は市杵嶋姫大神と女神(スサノオの御子神、水・芸能の神、学業の神 )。800年以上前から女は強かった事を再認識。木立に囲まれて池があり、朱塗りの橋・辨天橋が架かっていた。伝説によると、この弁天社は大庭景親が厳島神社の分霊を勧進したものと伝わっているのだと。よって名前が「厳島千人力弁天社」。公園の中には別の参道そして鳥居が。 更に進むと柏山稲荷神社の一の鳥居が。 参道の階段を上る。 左手に百度石と社号標石碑が。お百度参りはもともと100日掛けて行なうものであることは明らか。しかしそれが簡略化され、1度に続けて100回お参りするようになったのだと。そしてこの百度石が出来、百度石からお参りして百度石へ戻って1回、後はこれの繰り返しで100回。最近でも四国88ヶ所巡りで、88ヶ所の寺の名前が書かれた石碑が置かれておりその前を一つ一つお参りすれば、四国88ヶ所巡りを1日で結願になるとの寺もあるのですが・・・???。社殿近景。大庭城を守る引地川の水門の護り神とされるとのこと。また堰守であった吉田将監の屋敷跡とされると。祭神は宇迦之魂命(うかのみたまのみこと)。名前の「うか」は穀物・食物の意味で、穀物の神であると。性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきたと。よってこの場所は女神二人が仕切っているのであった。そしてこの神社には多くの銀杏の木が植わっていることも理解できたのであった。何故ならば「ウィキペディア」によると【銀杏は英語ではmaidenhair tree。これは「娘 (maiden) の毛の木」の意味で、葉の形が女性のIN毛が生えた部分を前から見た形(葉柄は太ももの合わせ目)に似ているための名であるが、「木の全体が女性の髪形に似ているため」と美化した説明もなされる。】と。そして思い出したのが、イチョウ(銀杏)の巨木の乳根(ちちね)。枝から垂れ下がったように下に伸びた棍棒状の突起物を見かけることがあるがこれを「乳根(ちちね)」または「おっぱい」と呼ぶことを。今日も勉強になりました。柏山稲荷神社 建立記念之碑文。境内の稲荷社正面。 奥にある本殿を右側から。 将監稲荷社。厳島千人力弁天社の辨天橋を見る。更に歩を進め明治小学校近くの神社に到着。明治小学校正門前の小高い丘の上にある城神明社。創立は永久5年(1117)鎌倉権五郎景政の勧進と伝わっています。この地域は城(タテ)と呼ばれているが、このあたりに大庭氏の館があったもの推定されていると。城(タテ)神名社の正面鳥居。鐘楼。社殿正面とその右には、この地区の戦没者317柱を合祀する慰霊碑が。御祭神は天照皇大神。土地の人は「お伊勢の宮」と呼んでいると。道祖神、疱瘡神、庚辰塔他。疱瘡神とは祈ると疱瘡を免れたり、軽減してくれたりするとされた神とのこと。拝殿建設祈念碑。昭和3年建設。御神楽殿建設祈念碑。昭和18年建設。鳥居建設祈念碑。昭和27年建設。 歩道橋から明治小学校を見る。運動場の広さにビックリ。 旧東海道に面している場所にある秋葉堂に到着。秋葉堂の名前のとおり、秋葉大権現(火伏せの神様)を祭ってあると。写真のように、小さいながらも石造りの太鼓橋風の橋が架かっていた。以前はこの太鼓橋の下に池があったと。この日は門が閉まっていたので中に入ることはできず、外から眺めるだけ。更に藤沢バイパス沿いを下り、国道1号線方面に向かうと前方の松林の下に神社が。ここは辻堂の旧東海道と国道1号線に挟まれた場所。ここからは国道1号線は藤沢市街地を通過する藤沢バイパスとなり、旧東海道は県道となって市街地方面へ向うのだ。鳥居が二つ、朱の鳥居は境内稲荷社、隣の比較的新しい鳥居・神社が八坂神社。バイバス開通時に整備されたのでしょう。境内稲荷社の朱の鳥居。四ッ谷八坂神社の石の鳥居。四ッ谷八坂神社社殿。祭神は須佐之男尊。
2016.09.07
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンクこの日は藤沢周辺の散策に出かけました。小田急線藤沢本町駅で下車。駅の横の踏切を渡り伊勢山方面へ歩を進める。右に折れ伊勢山の登山口?へ進む。ここは昔からの階段、最近は線路側に綺麗な階段が整備されていましたがあえて私が子供の頃上った階段を利用。この階段を上るのは50年以上ぶりか。狭い階段を上っていくと男坂、女坂の表示板が。もちろん私は・・・・坂を。途中階段の横の草むらに白き花が。カラスウリの花か?カラスウリの花は夜間だけ開く花で知られているので、既にこの朝には花を閉じていた。そして下から5分ほどで頂上の伊勢山公園に到着。正面には4個の大きな石碑が昔と変わらずに建っていた。伊勢山緑地(いせやまりょくち)(通称 伊勢山公園)は、藤沢宿の西、旧東海道の北側に位置する小高い山。昔、伊勢神宮がここに祀られていたので伊勢山と呼ばれるようになったと。1923年(大正12年)の関東大震災の後、白旗神社などにあった戦没者慰霊碑がここに移され500本の桜を記念植樹、1927年(昭和2年)2月21日竣工式が行なわれたのが伊勢山公園のはじめとのこと。藤沢市第1号の公園。正面向かって右側から『明治十年西征陣亡軍人之碑』西南戦争における高座郡下各村の戦没者11柱を合祀した慰霊碑。有志によって明治13年(1880年)8月に建立された、ここではもっとも古い石碑のようだ。『忠魂碑』。日清戦争から日露戦争、第1次世界大戦までの陸海軍の戦病歿者7柱を合祀した忠魂碑。大正2年(1913年)11月3日に建立。碑正面には「忠魂碑 陸軍大将子爵川村景明書」と刻まれていた。『殉國勇士招魂碑』。西南戦争、日清戦争、日露戦争の戦病歿者の招魂碑。 なお、建立年は明治36年(1903年)。碑正面には「殉國勇士招魂碑 正三位野邨素?書」と刻まれていた。『明治丗七八年戰役陣亡軍人之碑』日露戦争の戦病歿者7柱を合祀した慰霊碑。碑正面には「明治丗七八年戰役陣亡軍人之碑神奈川縣知事従三位勲二等周布公平書」と刻まれていた。『江の島が見える見晴台』遠く江の島の全景がはっきりと。島の真ん中のV字谷『山ふたつ』もはっきりと。江の島の花火の絶景ポイントは昔と変わっていなかった。伊勢山公園頂上の庚申塔。石仏(如意輪観音?)。庚申塔。庚申塔。承応二年(1653)右から見ざる、着かざる、言わざる。『北辰妙見大霊府神』の石碑。農作業の目安や航行時の方角の目印としていた北斗七星を神格化し祀ったものとのこと。伊勢山公園の鐘楼。昔からここには鐘がぶら下がっていなかった記憶が・・・・。調べてみると「かつてここ に下がっていた梵鐘は、山王山(さんのうやま)(現県立藤沢高校がある丘陵で、頂上に山王社があった)のものが、昭和の初めごろに女学校の建設に伴ってここへ移設され地域の「時の鐘」として朝夕に時を告げていました。しかし1943(昭和18)年、戦時の銅鉄回収により供出し、そのままとなっています。関東大震災後の30(同5)年に発行された『大藤沢復興市街図』には「藤沢の新十名勝」が掲載されていますが、その一つに「伊勢山の晩鐘(ばんしょう)」が挙げられていて、当時いかに親しまれた存在であったかが伺えます。」との説明が。私の記憶が合っていることに一安心。公園トイレは地元市立一中美術部員の作品とのこと。伊勢山の裏の坂道を下る。右手には藤沢石名坂環境事業所の焼却炉の煙突が聳えていた。 坂の途中に竹林が。いつもは車で通りすぎるだけの道。 旧東海道に出て右折ししばらく進み、引地川に架かる「引地橋」を渡る。 「引地橋西交差点」から100m程で右斜め上にある寺・養命寺(ようめいじ)前に到着。路地の先に養命寺の石段が。藤沢市にある曹洞宗の寺院。引地山と号す。 創建は天正年間(1573年 - 1592年)頃に暁堂が開山。延文年間(1356年 - 1361年)頃の創建であるとする説もあると。延享年間(1744年 - 1748年)に大拙が中興したと。こじんまりとした本堂。本尊は国指定重要文化財の木造薬師如来坐像。建久8年(1197年)の銘があると。 源頼朝に仕えた大庭景義の子景兼の守護仏であったと伝えられていると。藤沢七福神 の布袋様の寺院でもある。本堂の扁額。号の引地山ではないが、何と書かれているのであろうか?「皆王堂」?五輪塔?球形の水輪には卍が刻まれていた。 永代供養塔。大庭氏は、1213年(建暦3年)に起こった和田合戦で、景兼が和田義盛に味方して滅びている。 頭のない石仏や倒れている石仏が境内隅に。養命寺の脇を抜け、旧国道に出ると前方にメルシャン(株)藤沢工場が。七面地蔵尊。(身代地蔵尊)メルシャン(株)藤沢工場の門の脇に。道路を渡り引き返すと、養命寺の前に赤い小さな祠が。『おしゃれ地蔵』祠の中には顔が白い双体の石仏(道祖神)が祀られていた。「おしゃれ地蔵」案内板によると「女性の願い事なら何でもかなえて下さり満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼をする。」と伝えられており、今でも、お顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされている と。 白粉を塗る女性の姿を見たかったが残念ながら・・・・・。
2016.09.06
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク引地川沿いを海に向かって歩く。津波浸水予測図が掲示されていた。1605年(慶長9年)の如き慶長型地震が発生すると、この場所は3~4mの浸水となる模様。 鵠沼橋のたもとにある引地川改修紀功碑。昨日、紹介した引地川堤防築造碑よりはるか後年、昭和7年から9年(1932~34年)にかけて、当時の神奈川県と藤沢町の手により行われた、下流部の改修工事のことが刻まれていた。付近の農民が度々河川の改修を陳情したこと、やっと県が多額の予算を組んで改修工事を実施したこと、改修が済んでこの付近の水害がなくなったことなどが、刻まれている主な内容。ちなみに、鵠沼橋の架橋も昭和7年なので、この改修工事と同時に架橋を行ったもの。その横には道祖神が。階段を上がり、国道134号線に。見下ろすと右手には歩いて来た引地川が。国道134号は、横須賀市から中郡大磯町に至る相模湾に沿って走る一般国道。この鵠沼橋の先の左側には「鵠沼プールガーデン」があり、子供の頃はここで何回もプールを楽しんだのであった。しかしこの鵠沼プールガーデンは平成12年9月に営業を終了し、現在は「鵠沼海浜公園スケートパーク」として利用されている。 歩道橋から江の島が見えた。こちらから見ると、江の島をちょうどV字型に二分する境となって いることから、俗に「山ふたつ」といわれている場所が確認できたのであった。旧鵠沼橋の親柱。平成2年の台風集中豪雨で倒壊した この橋のもとの親柱。もとの橋は昭和7年に作られた由緒ある物だったようです 。 聶耳(ニエアル)記念広場。ニエアルは中国国歌「義勇軍行進曲」の作曲者。なぜ、ニエアルの記念広場がここにあるかといえば、1935年、ここ鵠沼海岸で友人と遊泳中に帰らぬ人となったのだ。「義勇軍行進曲」が中華人民共和国の国歌となった年に藤沢市民有志により聶耳氏を記念する運動が起こり、1954年(昭和29年)記念碑が建てられ、その後台風により記念碑が流出したが再建され、1986年(昭和61年)聶耳氏没後50周年を記念する事業として現在のレリーフと広場が整備された。石碑の左上には丸い聶耳の胸像(レリーフ)が。 中国語石碑も2010年12月に設置された。聶耳にゆかりの深い雲南省から石を取り寄せ、「聶耳の略歴」と「聶耳の生涯と聶耳記念碑保存会の活動など」を中国語で彫刻した石碑を建造。1980年5月から昆明市との交流が始まり、1981年8月、昆明市長から友好都市提携をしたい旨の文書が寄せられ、翌月9月の定例市議会において都市提携の議決がなされ、1981年11月5日、友好都市締結の調印式が行われたと。聶耳の死という出来事が、藤沢市と昆明市、そして日本と中国を強く結びつけることになったのだ。青年の死を悼む藤沢市民の気持ちと、そのことをありがたく思う中国の方の気持ちが通じ合い、聶耳の終焉の地に建つ聶耳記念碑こそが、その友好のシンボルとなっていると。 聶耳記念碑。鵠沼地区、そして引地川沿いを歩き湘南海岸まで出てこの日の散歩を終わったのであった。徒歩にて小田急線鵠沼海岸駅まで歩き、小田急線で帰宅の途についたのであった。 鵠沼は、1100年の古い歴史をもつ北西部と、110年前から日本初の計画的別荘地分譲と海水浴場が開かれた南東部の二つの面があるのだ。明治中期以降、鉄道の開通を契機に、別荘地、保養地、住宅地として開発が進んだ。また明治から昭和にかけて、多くの文化人が滞在するなど、歴史と文化の街として発展してきたのであった。そしてそれぞれに魅力ある地域を形成していた。また「鵠沼市民センター・公民館」内に「鵠沼郷土資料展示室」が開設されているとのこと。昔の貴重な写真や資料から、「鵠沼」の懐かしい風景や当時の暮らしぶりをうかがい知ることができるとのこと、是非一度訪ねたいと思っているのである。
2016.08.29
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク元は尼寺の本真寺(浄土宗)に到着明治36年創立の尼寺、もと慈教庵といい現在地より海岸寄りに建てられていた。関東大震災の時の津波で被害を受け、この地に移転してきたそうです。開山は颯田本真尼(さったほんしんに)。尼さんの後継者がなく、数年前に若い男性が住職になったようだ。本真寺の山門。山門脇にある「不許葷酒肉入門」の石碑「葷」の意味は「ニンニク、ニラ、ネギ、ラッキョウ、ショウガ」の総称。精がつく食べ物なので、酒、肉と共に、修行の妨げになるということ?「葷酒肉」は私の大好物であるが、この日は山門をくぐらせて頂いたのであった。宗祖は法然上人(源空)、開宗は承安5年(1175)ご本尊は阿弥陀仏。「凡夫の心は物に従いてうつりやすし」と。「愚かな者の心は絶えず散乱し静まることがない」と。凡夫の心っていうものは、まるで猿の如く木から木に枝をつたって飛び回るように、全くもって落ち着かないもであると。法然上人が浄土宗二祖である聖光房弁長上人に語ったと伝えられる言葉の中の一筋とのこと。凡夫故、いつも心が落ち着かず「どうしたら良いのか、どうすべきか」と悩みが尽きない自分がいるのです。山門を入ると、小さな六地蔵が迎えてくれました。。笑顔が可愛らしい六地蔵。こちらも。小田急江ノ島線沿いの寺。境内の池には朱の丸橋が。動物供養塔。境内には、鵠沼別荘地開拓創始者として、また多くの文人達が逗留した旅館「鵠沼館」や「東屋」を築いた伊藤将行のお墓が。本堂とその前にある「薬師瑠璃光如来」の立像。境内の地蔵尊。瓦を積み上げた灯籠。そして本真寺を後にすると、馬頭観世音の石碑がこれも塀の窪みにひっそりと。浜道 弘法大師堂。大師堂の左脇に2基の青面金剛浮彫の庚申塔が。右の庚申塔は宝暦12年(1762)、左はの庚申塔は宝永6年(1709)の建立。祠内の地蔵尊(右)。1780(安永 9)年11月吉日。立像丸彫。110cm 。弘法大師座像(左) 文政3年(1820)の建立。鵠沼海岸6丁目、大平橋に向かう道の左側にあった隅丸形文字道祖神。寛延4年(1751)正月吉日、浅場太郎左衛門の建立と刻まれていた。石碑の銘に「南無道祖神 守護 」とあるが、仏式の「南無」と神式の「道祖神」が合体したようなおおらかな民間信仰なのか?太平橋が左手に。 太平橋を渡らずに引地川沿いを海に向かう。右手には松並木が残っていた。辻堂東海岸2丁目と藤沢市鵠沼海岸4丁目の境界付近の堤上の引地川治水の碑。「引地川」の河口付近の流れが時代と共に大きく蛇行し変化していると。江戸時代から度々の洪水の治水のために現在のような堤防が築かれた。この石碑は文化年間に鵠沼の浅場氏が私財を費やして堤防を築いた記念碑。この治水の碑は日之出橋と作橋の間の辻堂側堤にあった。引地川の名前の由来は明治時代に記された皇国地誌によると「大庭城が廃城になった後、大庭開墾の際、元の流域13村の人々が伊勢山西側の山裾を掘り下げ、鵠沼へと川を流したから」と書かれており、「引いてきた川」という意味との説もあると。 横には小さな石の社がいくつか。 作橋を渡り八部球場横へ。 更に進み右手に折れると、右側に朱の鳥居が。 鵠沼伏見稲荷神社。 「湘南のお稲荷さん」として、地元の人々に親しまれている神社。朱の橋を渡る。鵠沼和貴水。ここは海岸近くにある土地なのであるが、美しい湧き水が湧いているのであった。横には小さな祠が。 手水舎。 社務所。 鵠沼伏見稲荷神社は、1943年(昭和18年)創建の神社。かつて鵠沼字中井に霊泉の湧く稲荷社があったが、関東大震災によって涸れてしまい、社運も振るわずにあったが、鵠沼海岸に鎮守社創建の機運が高まり、その稲荷社を遷座するかたちで創建されたのだと。祭神は宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)佐田彦大神(さたひこのおおかみ)大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ) 田中大神(たなかのおおかみ) 四大神(しのおおかみ)と多くの大神が。奥宮への鳥居。 鵠沼伏見稲荷神社の真っ赤な旗が奥宮への参道沿いに。 奥宮。
2016.08.28
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンクこの日は鵠沼(くげぬま)散策に向かう。鵠沼は、神奈川県藤沢市の南部中央にある地域。北は旧東海道付近、東は境川、西は引地川に囲まれた地域。南は相模湾に面しており、今は市内の高級住宅地となっている。鵠沼海岸海水浴場開設をきっかけに、海岸部に「鵠沼館」、「對江館、「東屋」という3軒の旅館が建った。その中でもとりわけ有名なのが東屋。東屋は、鵠沼海岸別荘地を開拓した伊東将行が1897年(明治30年)頃開業した旅館で斎藤緑雨、谷崎潤一郎、志賀直哉、武者小路実篤、徳冨蘆花、与謝野鉄幹・与謝野晶子、岸田劉生、芥川龍之介といった、明治から昭和の蒼々たる文人墨客が寓居・逗留し、執筆活動をした旅館。彼らは当時の作品中に折々の鵠沼風物を描写し、それが「鵠沼風」と呼ばれて大きな評判を得たのであった。「旅館東屋」は、そうした文化人の社交施設の役割を果たしたのでありこれから高級住宅地へと変遷していったのである。鵠(くぐい)とは白鳥の古名で、かつてこの辺りには沼が多くあり、鵠が多く飛来していたと言われ、これが鵠沼の名に。 藤沢駅南口から徒歩にて小田急線沿いを進む。 更に小田急江ノ島線沿いに歩いていき、右手に踏切がある路地を左に曲がると「橘の辻」に。左は鵠沼花沢町と鵠沼橘の境を行く道で、右が「江の島裏街道」。 この庚申塔(こうしんとう)は正徳5年(1715年)建立。江戸時代、大山詣での帰り道、この町を抜けて江ノ島に遊ぶ人が多かったとのこと。脇往還と呼ばれ、所謂バイパス。橘の辻は二股に分かれる場所なので、道案内も兼ねていた。右側面には、「右えのしまみち」と刻まれていた。 庚申塔は、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いと。庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしのむし)という虫が、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って宴会などをする風習なのである。花立公園の庚申供養塔。元文2年(1737)の建立。庚申塔の右手の道を西に向かうと、普門寺に通じていた。 青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)浮彫。三眼の憤怒相で、一般には足元に邪鬼を踏みつけ、六臂(腕が6本)で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ姿で描かれることが多い。頭上の両側に日月、足元には三猿が彫られることが一般的。 左手に大東の辻があり、2基の庚申供養塔が祀ってあった。1基は享保2年(1717)、もう1基は宝暦4年(1754)の建立。 大東の辻近辺。 左が大東町内会館。大東の辻近くに、明治21年(1888)に旧海軍が鵠沼海岸で大砲の試射の標的に使った鉄板穴あき鉄板があるとのことであったが見つからなかった。馬頭観音がブロック塀から引っ込んで立っている電柱の横に。馬頭観音とはそもそもは仏教の六観音の一つであり、さらに遡るとヒンドゥー教のヴィシュヌ神の化身とも。観音像としては珍しく憤怒相で表され、頭上に白馬の頭部を戴く。これが路傍に祀られるようになったのは、家畜の守護神と考えられたからであり、同時に道路の安全を願う意味もあったからと。牛馬の供養のために祀られたとも。茂兵衛の辻の青面金剛像浮彫(左)は宝暦3(1753)年と刻まれていた。右の道祖神塔は火成岩製 尖頭角柱型文字碑 「道祖神 中東町」と刻まれていた。明治42(1909)年正月14日と。本鵠沼2丁目の原地蔵堂。旧家の墓地の近くに。地蔵堂の正面右手に、「相模国準四国八十八箇所第5番札所ご詠歌」の掲示板が。『この里の人の心も月かげも 砥上が原にみがきあぐらん』 「相模国準四国八十八箇所第5番札所」 を示す石柱。原地蔵は立像丸彫り、厨子入り、69cm 。 鵠沼仲東の辻の庚申塔。Y字路の付け根にある庚申塔。 手前に馬頭観音菩薩塔 明治29(1896)年11月24日。後ろに青面金剛像浮彫の庚申塔、元文5(1740)年。 中原稲荷大明神の朱の鳥居が子供広場の老木の先に。 そしてその近くのY字路にあった地蔵尊。 綺麗な赤いよだれかけを着けて。お地蔵さんは「地蔵菩薩(じぞうぼさつ)」といって、子供を守ってくれる仏様。よだれかけは、子供の使っていたものをお地蔵様につける事によって、子供の匂いを覚えてもらい守ってもらうということをしていたと。赤は赤子(赤ちゃん)の赤という説や、赤色には魔除けの意味があるという説や、長生きを願ったという説も。中原稲荷大明神。正面鳥居には神額が。社殿近景。原町の皇大神宮おまつりのポスター。更に歩を進めると右手にヒマワリ畑が広がっていた。青空に生える百日紅も。
2016.08.27
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク一の鳥居~二の鳥居の間の参道横で待機していた九台の山車が15:00を過ぎ、いよいよ順番に境内広場に入場を始めました。一番山車の那須与一。この皇大神宮は、鎌倉権五郎景政が開発した大庭御厨の総鎮守。屋島の合戦で知られる那須与一が弓を奉納したとも伝えられているのです。よって那須与一が一番山車?本殿前の石鳥居の前を通り、指定場所に曳かれていきました。 そして二番山車も入場。 三番山車が続きました。 神武天皇も鳥居の前を。そして次々に指定の場所へ。 本殿に向かって左側には一~五番山車が並びました。 こちらはやや逆光でした。境内広場に勢揃いした各人形を斜めからズームで。那須与一。源頼朝。神武天皇。源義経。徳川家康。そして次には六~九番山車が正面右側の指定場所に陣取り、境内広場での勢揃いも完了。 楠木正成。浦島太郎。日本武尊。仁徳天皇。場所を移動して二の鳥居前まで行きましたが、九台の山車を全て入れての撮影には限界があったのです。九台の山車が境内広場に勢揃いした後は、3台ずつ3グループに分かれそれぞれの山車が前に出て、各グループそれぞれ10分間ほどのお囃子の競演を楽しませてくれたのです。原町の山車の破風屋根の上では、烏 いや 鷹の嘴の如き面を被り赤い旗を見事に回転させる技を披露。 次には大きな扇子を片手に。 一番山車の前では、お囃子衆の長?である派手なご婦人?が横笛の披露を。 子供達にお菓子を配る恵比寿様の姿も。この皇大神宮は藤沢七福神の商売繁盛の神・恵比寿様の神社。 七番山車の破風屋根の上では、白装束のおかめひょっとこの姿の男女が。 いつの間にか一番山車の破風屋根の上に上がって、化粧の濃いご婦人が踊りを披露。 次々とそれぞれの山車のお囃子と舞の競演が行われたのであった。 各山車人形の人物は町内で独自に選択したのであろうか?源頼朝と義経兄弟の存在そして浦島太郎と、この辺の人物選択の経緯を知りたいとも感じたのであった。また、一から三の鳥居そして本殿が一直線上になく微妙にずれていたのであった。この理由、経緯も気になる血液型B型の拘りなのである。 山車の競演の後は、藤沢市無形文化財となっている「湯立神楽」が行われたのであった。湯立神楽は、打囃子から始まりお祓い、掻湯、湯座、剱舞・・など伝統の神事だそうで、搔湯では煮えたぎる釜の湯を掻きまわしてユタブサ(笹の葉等を束ねたもの)に湯花を浸して、参拝者に振りまいて無病息災を願うものであると。 そして本殿前の階段に座り込み、体を休めながら喉を潤しカメラを覗いていると、突然横から私の名前「・・・ちゃんだよね」と呼ぶ声が。視るとなんとこの皇大神宮の近くに住む私の従兄ご夫妻であったのだ。5年ほど前に挨拶程度での再会はあったものの、具体的な会話を交わすのはなんと凡そ50年以上ぶり?なのであった。帽子を被り、カメラを構えている私の姿を見つけてくれた従兄に驚き!!と感謝!!。そして7人弟妹の我が父の、今は唯一元気で頑張っておられる亡き父の妹の叔母さん(91歳?)を家に訪ねて楽しい時間を過ごし、叔母さんの昔と変わらぬ元気な声に大いに励まされ、逆に元気ももらい充実した一日となったのであった。そしてこの皇大神宮・烏森はまさしく「邂逅」の森。やや大げさですが、人間は 様々な「邂逅」を積み重ねて生きて行く事、そして人生で最も幸福なことは「邂逅」である事、更に「邂逅」の繰り返しで今の自分がいること、この「邂逅」に感謝を忘れてはならないこと をあらためて実感しながら従兄の車で自宅近くまで送っていただいたのであった。「山車囃子 我をいざなう わくらば(邂逅)の森」・・・・・詠み人しらず。
2016.08.25
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク人形山車の順番は下記のごとく。そしてその順番に既に整列していた。 順番に山車を見学しながら写真撮影。山車は3層式になっており、下段は破風屋根(はふやね)で精巧な彫刻が施され、前面は囃子の座で大太鼓や笛、鉦が座るのだ。2層、3層にめぐらした豪華な四方幕は頂上の人形の物語を描いていた。人形山車は市の有形民俗文化財に指定。まずは一番 宮之前町 那須与一像。 下段の破風屋根の下には町名を書き込んだ提灯が一対。 破風屋根正面中央。那須与一は、源氏と平家の「屋島の戦い」にて、平家が立てた扇の的を、見事射落としたことで有名な源氏方の武士。上段四方幕に描かれた那須与一。与一は、馬を海に乗り入れたが、扇の的までは、まだ40間余り(約70メートル)もあり、しかも北風が激しく吹いて扇の的は小舟と共に揺れていたと。「南無八幡」と心に念じた与一が渾身の力で鏑矢を放つと、矢はうなりを立てて飛び放たれ見事に扇の要近くに命中。扇は空へ舞い上がり、ひらひらと海へ落ちたと。 二番 上村(かむら)町 源頼朝像。囃子の座には未だ人の姿はなかった。破風屋根正面中央。上段四方幕には白き富士山と虎の姿が描かれていた。源 頼朝は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍。鎌倉の海岸から遠く富士山を見ている姿であろうか?三番 清水町 神武天皇像破風屋根と囃子の座。破風屋根正面中央。上段四方幕には清水町の「清」の文字と龍の踊る姿が。神武天皇は、日本神話に登場する人物であり、古事記や日本書紀は日本の初代天皇であり皇統の祖と。人形は、神武東征神話のなかの象徴的な場面である金鵄(きんし:金色のトビ)がとまった弓を手にしていた。胸には三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)?をぶら下げていた。八咫鏡は天照大神が天の岩戸に隠れた岩戸隠れの際、作ったという鏡。四番 宿庭(しゅくにわ)町 源義経像。提灯には「左三つ巴」の紋が描かれていた。破風屋根正面中央。上段四方幕。左手には源氏の家紋の「笹竜胆(ささりんどう)」の紋章が描かれていた。ジンギスカンの紋章がこの笹竜胆に酷似しているので、ジンギスカン=源義経 説の一つの根拠になっているとのことではあるが・・・・・。源義経は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた武将。五番 苅田町 徳川家康像破風屋根と囃子の座。破風屋根正面中央。上段四方幕には黄金の徳川の「丸に三つ葉葵」のご紋が。徳川家康は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。もちろん260年続く江戸幕府の初代征夷大将軍。六番 大東町 楠木正成像破風屋根と囃子の座。この山車には既に囃し方が準備中。破風屋根正面中央。後醍醐天皇は皇室の御紋章である菊紋を楠木正成に与えたのだ。ただし正成以後楠木家は、天皇とおなじ菊の紋を持つことは畏れ多いと、菊の下半分に水の流れの図を添えて菊水紋としたのだ。上段四方幕にはその菊水紋が描かれていた。楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍して天皇を助けた。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害。七番 中東町 浦島太郎像。破風屋根と囃子の座。破風屋根正面中央。漁師の浦島太郎は、子供達が亀をいじめているところに遭遇する。太郎が亀を助けると、亀は礼として太郎を竜宮城に連れて行く。竜宮城では乙姫が太郎を歓待する。しばらくして太郎が帰る意思を伝えると、乙姫は「決して開けてはならない」としつつ玉手箱を渡す。太郎が亀に連れられ浜に帰ると、太郎が知っている人は誰もいない。太郎が玉手箱を開けると、中から煙が発生し、煙を浴びた太郎は老人の姿に変化する。浦島太郎が竜宮城で過ごした日々は数日だったが、地上では随分長い年月が経っていた・・。という話。中段四方幕にはその亀の姿が描かれていた。上段の四方幕には竜宮城が描かれていた。小田急線江ノ島駅はこの絵からの意匠なのか?釣り竿を右手で担いでいる若くてイケメンの浦島太郎。「鵠沼皇大神宮例祭と人形山車の由来」が説明されていた。八番 原町 日本武尊像。破風屋根と囃子の座。破風屋根正面中央。上段四方幕。『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される古代日本の皇族(王族)。第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄。九番 堀川町 仁徳天皇像。破風屋根と囃子の座。破風屋根正面中央。中段四方幕。上段四方幕手をかざして、かまどの煙を見る仕草を現しているのであろう。仁徳天皇の四年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられて「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろうと仰せられ「向こう三年、税を免ず」と詔されたと。「皇大神宮縁起」獅子舞とひょっとこ踊りも準備中。そして破風屋根の上に上がって。皇大神宮参道に戻ると、多くの出店が営業を開始していた。金魚釣りの店には、元気で泳ぎ回る多くの金魚が。武士の姿の女性も。巫女さんも忙しそうに準備を。
2016.08.24
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク鵠沼にある皇大神宮の例大祭を見に行ってきました。例大祭は毎年曜日に関係なく8月17日に行われるのです。台風の影響が懸念されていましたが、すっきりと晴れ渡った空、少し強めの風も吹き夏らしい陽気となったのです。小田急線で藤沢本町で下車、徒歩にて湘南高校の前を通り烏森へ。駅から15分ほどで到着。 例大祭は14時からスタート、しかし到着は12:30過ぎ。時間が早い為か未だ人出は少なく、出店は準備の真っ最中。 二の鳥居とその先の本殿が。 「相模國土甘(とかみ)郷総社 皇大神宮」 と刻まれた石碑。奈良時代の天平7年(735年)、相模国司が「相模国封戸租交易帳」を作成し、中央政府に報告した中にここ鵠沼付近を表す土甘郷が見られるとのこと。この「土甘」は「とかみ」あるいは「つちあま」とも「となみ」とも読む説があるのだと。 手水舎。 本殿。南面して建てられている神明造の本殿。1984年(昭和59年)、390年ぶりに「昭和の大造営」が行われたとのこと。 祭神 は・天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・天手力男命(あめのたぢからおのみこと)・天太玉命(あめのふとたまのみこと)・天宇受売命(あめのうずめのみこと)・石凝刀売命(いしこりどめのみこと) と覚えきれないほど。 境内は境内地面積は約3,300坪、樹齢数百年にもなるタブノキ、ケヤキなどが境内奥に残り、鎮守の森を形成。カラスが多く生息していたことから「烏森」と呼ばれてきた。 社務所。 境内から参道方面を。各町の幟がはためいていた。 「皇大神宮例大祭」 のポスター。 「相模國土甘郷総社 皇大神宮 由緒」第53代淳和天皇の御代、天長9年(832年)、御社殿造立の記録があり、勧請の時期は更にどれほどさかのぼるべきか詳らかではないが、創建の極めて古いことは明らかである。天喜3年(1055年)、元亨2年(1322年)、天正13年(1585年)、昭和60年(1985年)と造営を重ねられていると。 五穀豊穣、無病息災を願って行われる例祭では、高さ8mにもなる9基の人形山車がお囃子とともに町内を練り歩く姿は圧巻なのです。九台の人形山車は,明治中~後期に作成されたもので,三層式,総高約8メートル,人形が飾られ,屋台には精巧な彫刻が施されている。かつての例祭では,各町内からお囃子の音とともに9台の人形山車が境内に集まったとのことですが,今は交通事情などのため,境内の山車庫に収められているとのこと。現在の例祭では,数百メートルほど離れた路上に九台の人形山車が並べられ,1時間半~2時間ほどかけて境内まで参進してきます。境内に集まるとお囃子の競演が始まりたいへん賑やか。参進行列の順番は以下のように決まっているのだと。 一の鳥居から二、三の鳥居そして参道の幟、出店を見る。 御囃子の音に誘われ、そちらの方向に歩いてみる。山車合同格納庫から出して来た山車は、日本精工藤沢工場の横の道路で既に人形山車の組み立てが完了し、御囃子を奏でながら出番を待っていた。
2016.08.23
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク小栗判官・照手姫伝承の里めぐりからの帰路は境川沿いを自転車で走る。境川に沿った道から、住宅街へ入る急坂の左側に八幡社が。由来など良く分からないが、歴史がありそうな長い石段があり趣もある神社。しかし入り口にはロープが張られ立ち入り禁止。石段の先には八幡社が。しかし石段はズレて傾いていた。地滑りの発生か?片方の石灯籠が無くなっていた。 これが入山禁止の理由か。境川と和泉川が合流する地点の手前にラバーダム(ゴム堰)が。私が子供の頃には、コンクリート製の堰があり、水遊びを楽しんだ場所。 ラバーダムから流れ落ちる水に朝の陽光が射し込んでいた。上流の水面に白き雲が映りこんでいた。この付近には境川の洪水対策の遊水池としてのビオトープが拡がっていた。 境川遊水地情報センター遊水地の仕組みなどの展示がされているのです。 自転車を降り手で引いて急坂を上ると道路右には西俣野北窪の道祖神が。子供の頃は、自転車を降りずにこの坂をペダルを漕いで上がれたのであったが今では・・・。 石碑には元文元年(1736年)の文字が。そして地元の寺、雲昌寺へ。自転車で裏口から入る。正面には平成13年に本堂の裏手に完成した位牌堂が。そして表門に廻り自転車を降り徒歩にて散策開始。雲昌寺 山門。建保年間(1213年~1219年頃)に道済(北条義時)により開基。もとは瑞龍寺と称して現在の今田地区にあった。慶長元年(1596年)に水害で堂の建物が流失したことから第4代の宗順によりこの亀井野に移り、現山号に改めていると。豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻略した際、関東の主要な地域に禁制を出したが、天正18年(1590年)4月この亀井野村にも掲げられ、雲昌寺に当時の禁制が保存されているとのこと。慶安元年(1648年)に江戸幕府から寺領九石の朱印を与えられたとのこと。それ故、山門には葵の紋、九石は90斗、昔、一人一年1斗の米を食べたというから90人分の食い扶持か。 山門に掲げられていた扁額には山号「光輝山」の白き文字が。山門を通り境内内部へ。 二十三夜塔とその右手には庚申塔が。18世紀の後半から昭和の初期にかけて、日本の各地で「講」を組織した人々が集まって、月を信仰の対象として精進・勤行し、飲食を共にしながら月の出を待つ、月待ちの行事を行ったと。その際供養のしるしとして建てた石碑(月待塔)のひとつが、この二十三夜塔と。二十三夜月は下弦の月、弓張月とも呼ばれ、真夜中に東の空から上り左半分が輝いて見える月。 そしてその手前には首無し地蔵が七体。首なし地蔵は、明治の初めのころ、博打打ちの間で地蔵の頭を持っていれば博打に勝つという縁起があり、持ち去られてしまったという話もあると。それとも廃仏毀釈の影響?真実は如何に?今、その地蔵さんの身代わりなのか、門前の右側に六地蔵があった。祠の中には各種の地蔵様が並んでいた。 愛育地蔵と水子地蔵。 常香炉手前から本堂を。 鐘楼。鐘は、総高さ1m76cm、総重量1,125Kg(300貫)とのこと。鐘は、平日の午前6時30分と、12月31日の除夜祭で撞かれており、その音色が我が家にも届いているのである。本堂。本尊は如意輪観世音菩薩。 境内の聖観世音菩薩像。 木魚に腰掛けるような子坊主にネズミが肩に沿うようにしている心和む石像の姿。道元禅師像であろうか。 親子で顔を見合わせながら「なむなむ」と経を詠む姿。 十三重石塔。十二という数は、十二因縁、十二支を意味する。因縁を超えた十三という数、宇宙の摂理である十二支、十二か月を超えた十三という不思議な数に因んでいると。また十三は十三仏の最後、虚空蔵菩薩をあらわしているとされ十三重の塔は虚空蔵菩薩をあらわすと。 稲荷大明神。ここにも神仏混淆の跡が。雲昌寺を後にし、自宅に向かう。途中の住宅街の道路の角には道祖神が。左側は男女の双体像。元は三屋道(さんやみち)の辻にあったものを、土地区画整理事業の際にこの場所に移した物。この事実を知っているのは、生まれてこの方、この地に66年住み続けているお陰。
2016.08.22
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンクこの日は早朝から、地元近くに伝わる小栗判官伝説のスポットを自転車で訪ねました。 その昔、常陸の国(現在の茨城県真壁郡協和町)に、城を構える小栗氏と言う一族が居た。「鎌倉大草子」によると、今からおよそ600年前、1415年、関東で上杉禅秀が乱を起こした際、小栗氏は上杉方に味方し、鎌倉公方足利持氏に敗れ落ち延びる。 その途上、相模の国に10人の家来とともに潜伏中に、大富豪、俣野に屋敷を構える相模横山家の横山大膳の長女 照手姫と出会い恋におち結婚の約束を交わす。 この娘は日光に祈願をかけて生まれたので「照る日月をかたどりて てるてるひめ」と呼ばれたが、姿は秋の月のような美女であったと。しかし二人の関係に立腹した横山大膳は、小栗判官に酒宴と称して毒を飲ませ殺してしまった。地獄に落ちた小栗判官は閻魔大王の同情をかい、蘇生への道として餓鬼阿弥(がきあみ)の姿に変えられ現世に送り返されたと。哀れな姿で倒れていた小栗判官は通りかかった高僧に助けられ、木の車に乗せられて熊野の湯の峰を目指した。小栗の首には高僧により「一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」と書かれた札が下げられていた。一方、照手姫は恋人を失った上、小栗が毒殺されるのを見て逃げ出し、流浪の身となったが追っ手に捕まり、武蔵金沢の侍従川に棄てられる。六浦の漁師に助けられたが、嫉妬深い漁師の妻に松葉でいぶされ、挙句の果てに人買いに売られ美濃国、青墓(大垣)の宿場で働く。小栗は箱根、掛川、名古屋まで引かれてきたが、美濃国まで来ると引き手がつかず、ついに遊女宿の軒下に捨てられてしまった。 しかし照手姫はある時、首から札を下げた餓鬼阿弥を見て、亡き小栗判官の供養になればと小栗とも知らずに湯の峰へ小栗の車を引き参詣の旅に旅立ったのだ。長い旅路の果て、ついに湯の峰に辿りついた照手姫は餓鬼を四十九日の間、つぼ湯に浸けて湯治させたところ、なんと元の小栗判官の姿に戻ったと。小栗は報恩のために遊行寺に閻魔堂を建てた。小栗の死後、照手姫は剃髪して長生尼と名乗り小栗と毒殺された家臣の菩提を弔った。遊行寺の中にある長生院がこの菩提寺と伝えられる・・・ いうのが小栗伝説の大まかな話。 自宅を出ると朝の陽光が東の空の雲間から。自転車で5分程の下り坂の途中左手の地域生活支援センター「湘南ゆうき村」の擁壁の上には「伝承 小栗塚乃跡」と刻まれた石碑が建っていた。横山大膳に毒殺された小栗判官が土葬された場所と伝えられていると。この西俣野の道は昔は九十九折(つづらおれ)の道であったと。そして九十九折の道は現在取り崩され、道路は拡張され、破壊されその跡に碑だけが残っているのであった。道路の反対側には畑地に上る階段が。 土震塚(すなふるいづか)。小栗が餓鬼阿弥の姿に変えられ地獄から生き返って、地獄の砂を払い落とした出来たといわれる塚。榊の古木が残っているだけであったが。 土震塚説明板。 階段を下り県道に戻る途中からの「伝承 小栗塚乃跡」の碑。 再び自転車で坂を下り信号を右折し左に入ると左側には左馬神社(さばじんじゃ)が。 この左馬神社は鯖神社とも呼ばれは神奈川県中部の境川中流域、横浜市泉区・瀬谷区、藤沢市北部、大和市南部にかけて12社ある神社の一つ。祭神は源義朝。語源については、源義朝が左馬頭(さまのかみ)だったためともいうが、諸説あり詳細は不明と。 源義朝を祀る神社が何故ここにあるのかも不明とのことであるが、この地を支配した大庭氏は、1156年(保元元年)の保元の乱までは義朝に従っていたのだ。左馬神社前を更に道なりに進むと左手の、樹木に覆われ足元に墓石群があった。ここに閻魔堂があったらしい。閻魔堂跡(法王院十王堂跡)の説明板が立っていた。 昔、この辺りに遊行道場があり、遊行寺と相模原当痲寺を行き来する時宗僧の通り道になっていた。近隣の人を集め、地獄絵を使って善悪を説き布教していた。この辺り一帯、小字を御所ヶ谷といい照手姫の御所があったといわれる。小栗墓塔と刻まれた角型石塔が写真一番左に。天保11年(1840)、火災で焼失し、本堂にあった閻魔大王像(市指定文化財)は花応院へ移されたと。 「照手姫 追善菩提供養塔」と書かれた塔婆も。そしてその右には「天翁録守信士」と書かれた塔婆も奉納されていた。これは誰の供養の塔婆であるかをネットで調べてみると下記ページを発見。http://blogs.yahoo.co.jp/pokochino6324/64925615.htmlこれによると、弘化4年(1847)の或る日、この地に流れ来た浪人が、 瞽女淵のあたりにたたずんでいた。目の前には、切れた堤防からあふれた水で池のように変わった田畑の風景が広がり、野良で働く百姓の姿もなかった。浪々の長旅で体力も衰え、将来への希望も失っていた浪人は、やがてどこかの地で行き倒れる身、それならここで水害に苦しむ農民の為に命を投げ出そうと決心。淵の水溜りからは浪人の遺体が見つかった。紙片には「この村を水害から救う為にわが身を投げ出し、人柱となってこの土手を守りたい。」との遺志が書かれていたと。 村人は、この浪人を御所ヶ谷の閻魔堂(もとの法王院十王堂跡)の墓地に手厚く葬った。そしてその戒名がこの「天翁録守信士」と。 更に狭い道を進むと、前方には西俣野の田園が拡がっていた。田園の隅には緑のネットで囲まれた場所が。 その中には多くの鴨であろうか、野鳥が群をなして。瞽女淵(ごぜぶち)の碑。延宝年間(1673-1680)に盲目の女芸人があやまって淵に落ちて溺れ死んだことがあったと。境川は氾濫の多い川だったので、その後も水死者が続いたと。この碑は大正9年に村の有志が建立したものであると。 石碑の根元に、いろいろな亀の置物が置いてあり、いかにも瞽女淵らしい雰囲気。「俣野」、「水」の文字だけが理解できた石碑が瞽女淵の碑の近くに。この浪人の遺志に沿うために村人は水難除けの石仏を建立し、土手番様と呼んだと。始めは金沢橋のたもとに建てられていたが耕地整理等の関係で現在のところに移されたと。 摩耗して判然としないが、下部の基壇には「水難除」と刻まれているのだと。 西俣野暗渠排水の碑という昭和八年建立の石碑が西俣野の田んぼを見渡すように建っていた。(写真右)この碑の隣には、当地の悪路を改修し併せて行った用水路の改修も完成したことを記念する碑も建っていた。前方の田園の先には旧横浜ドリームランドのホテルエンパイアが朝の青空の下に。現在は横浜薬科大学図書館棟となっているのです。そして飯田牧場が右手に。 ジャージー牛のジェラートや牛乳がおいしい地元で人気の店。 花應院が飯田牧場の目の前に。 花應院は、鎌倉公方足利持氏に対して謀叛を起こした小栗判官(小栗満重)伝説が残されている寺。この花應院は当地名主飯田家所蔵の小栗判官縁起絵、地獄変相十王図絵を保管、毎年、1月と8月の16日には小栗判官縁起絵、十王図絵の絵解きがある寺。 下記に詳細が記載されていました。 http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/1244/1/kob-rs_002_006.pdf曹洞宗の寺院。山号は西嶺山。 参道前方には銀杏の古木が、そしてその奥に本堂が。 参道右手に六地蔵。 銀杏の根元の石仏。(右) 銀杏の根元の石仏。(左) 社務所。 九重石塔と水子地蔵。 本堂再建記念碑。 慶長9年(1604年)に開山は国境と開基は祖桂として創建。近くにあった閻魔堂が天保11年間(1840年)に火災にあい閻魔大王像が運び込まれた。 像高104cm 、近くにあった閻魔堂が火災にあったため担ぎこまれたと伝えられている木造の閻魔大王像。 馬頭観世音菩薩。 境内の石仏。 隣にも。 来年の1月または8月の16日には小栗判官縁起絵、十王図絵の絵解きに是非とも参加したいと思いながら、この歴史ある花應院を後にしたのであった。後日の説明会の様子です。
2016.08.21
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク辻堂元町地区の寺社巡りを終わり、辻堂駅に戻る。 駅前の大通りを北に歩き本立寺を訪ねる。日蓮宗の寺院、山号は宝光山、創建は1592年。『南無妙法蓮華経 日蓮宗 寶光山 本立寺』 と刻まれた石碑。そしてその前に座像が2体。釈迦像。 開祖像。 山門。 本堂。本尊は十界曼陀羅。開山は日榮上人で、静岡県清水市興津に文禄元年(1592)に創設され、大正13年(1924)に当地に移設された寺とのこと。 寶光殿遍照廟。遍照廟とは永代供養墓らしい。開祖 寶光院神通日佛尼の像。 釈迦像。鐘楼。 山門横の石碑。 本立寺を後にし国道1号線方面に歩を進める。神台(かんだい)公園(シークロス公園)の横を通り、直ぐに右折。 東海道に出て藤沢方面に歩くと左手にあるのが二ツ家稲荷神社。地名は「二ッ谷」ですが、神社は「二ツ家」稲荷。この付近は大山詣での立場(たてば)だったようで、茶店が二軒並んでいたことが由来とのこと。信者が大山詣での帰りに宝泉寺に立ち寄った後の休憩所として栄えたと。境内には庚申塔が。案内板によると寛文10年(1670)のもの。 高さ105センチ、立派な庚申塔。藤沢市指定重要文化財。一里塚跡と書かれた標柱。松並木があり一里塚跡の標柱が立つ。辻堂一里塚、江戸日本橋から13里。しかしこれのみで他の跡は見当たらなかった。 羽鳥交差点を左折し、新湘南バイパスの下を進み、左に折れ丘を登ると折戸日枝神社が。創建は元治元年(1864)年で、以前は山王権現と呼ばれていたと。 本殿。御祭神は御祭神:大山咋命(おおやまくいのかみ)。昔は宿場の間には休憩所として「立場」があった。藤沢ー平塚には4つの立場がありその一つが四谷立場。そして四ツ谷不動堂に到着。ここは大山道との分岐点。大山詣りへ向かう人たちが辿る大山道(おおやまみち・おおやまどう)。東海道を行き交うのは、何も京都を目指す旅人ばかりではなかったのだ。不動堂を挟んで左・東海道、右・大山道。鳥居は大山道の一の鳥居。大山道とは、主に江戸時代の関東各地から、相模国大山にある大山阿夫利神社への参詣者が通った古道の総称。大山街道(おおやまかいどう)とも呼ばれる。代表的なものとして、この「田村通り大山道」があるが、これがその起点の一の鳥居。経路は東海道藤沢宿四ツ谷(藤沢市) - 一ノ宮(高座郡寒川町) - 田村の渡し(相模川) -横内(平塚市) - 下谷(以降、伊勢原市) - 伊勢原 - 〆引 - 石倉 - 子易 - 大山。この石造の「一の鳥居」は、万治4年に木造で設置された後、昭和35年に大改修され、鳥居の正面に天狗の面がかけられたと。しかし今は残念ながら鼻がなくなっていました。 四ツ谷不動堂。 堂外には古い1661年に建てられた道標があったが痛みが激しく、最近、新しいものに建て替えたのだと。『是よ里?大山みち』と刻まれていた。古い道標が内部に。 上部には迫力満点の不動明王。大山道の行きつく先、大山寺の本尊が不動明王とのこと。 道標の脇には「これよ里大山みち』と刻まれていた。 約4時間弱の辻堂古道散歩を終え、城南よりバスに乗り湘南台経由で帰宅したのであった。
2016.08.19
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク阿弥陀堂跡。阿弥陀堂の開創は、慶長年間(1596~1615?)か。ここに今は廃屋となった民家が一軒。この前の道が、藤沢道。陸軍歩兵伍長 落合元吉之墓と刻まれていた。敷地の一角にあるこのお堂が阿弥陀堂?。中の石仏が阿弥陀如来?首のない石仏がうち捨てられた如くに。弘法大使石仏?十一面立像?。田畑神社。別名社宮神とも。土地の人は「デンバクさま」とも呼んでいます。農業・土地の係わり合いがある神社とのこと。この辺りは旧街道(鎌倉街道・藤沢道など)地帯で古道に沿って幾つかの神社・神が宿っているところなのです。ご祭神は大比瑠女神(おおふるめのかみ)。八松稲荷神社(やまつのいなりじんじゃ)。この地は、昔は海岸砂丘で松林があり八松ヶ原(八松原)とありその名を残す貴重な神社だと。総鎮守の辻堂諏訪神社の末社でもあり正一位稲荷。ご祭神は宇賀魂命 ( うかのみたまのみこと ) 。クロマツの林の砂丘は天王山と呼ばれている。鳥居を潜り丘に登っていく。正面に辻堂天王社。「天王社(天王山)天王山は、宝珠寺の傘下にありましたが、明治六年(一八七三年)神仏分離政策によって分かれました。昭和初期まで神輿が奉られ、毎年七月ニ十五日に町中をねり歩きました。神輿は現在、諏訪神社に奉られています。祭神 御嶽山権現(オンタケヤマゴンゲン) 長崎大明神(ナガサキダイミョウジン) 大日大聖不動明王(タイニチタイショウフドウミョウオウ)平成ニ十六年ニ月【問合先 辻堂市民センター】」。中央の石碑は「八海山提(大)頭羅神王」、「御嶽山座王大権現」、「三笠山刀利天王」そして右の石碑は「笠守霊神」左の石碑は「御山開闢普寛行者」と刻まれていた。御神燈の上部が下に?。 宝珠寺(ほうしゅじ)高野山真言宗の寺院。山号は八王山。別名は北の寺。 正しくは八松山明王院宝珠寺。創建は文治年間(1185~90)と伝えられる。左手には六地蔵。 山門には「八松山」と書かれた扁額が。高野山真言宗 寶珠寺 の文字が。そして『開眼』 と。風火水地と刻まれた五輪塔。 上から空輪=宝珠形、風輪=半月形、火輪=三角形(または笠形、屋根形)、水輪=円形、地輪=方形。古代インドにおいて宇宙の構成要素・元素と考えられた 五大(空・風・火・水・地)を象徴。仏教のいう五大要素でもある。それぞれの部位に「空(キャ)、風(カ)、火(ラ)、水(バ)、地(ア)」の漢字が刻まれていた。鐘楼。 本堂。ご本尊は不動明王立像。像高96.0センチメートル、総高144.8センチメートル、平安後期作とのこと。 重要文化財指定の文字庚申塔は寛文6年の建立 隣は立派な笠塔婆の付いた青面金剛庚申塔で、元禄13年の建立です。 右手も笠塔婆型の青面金剛庚申塔で三面に猿が配置されています。中央も笠塔婆型。青面金剛庚申塔で三面に猿が配置されています。 歴史を感じさせる石仏がその横に安置されていた。 大きな常香炉越しに本堂を。 本堂の『寶珠寺』 の扁額。弘法大師像と四国八十八か所の寺の石柱が。「同行二人(どうぎょうににん)」 と刻まれた石碑が3本。四国巡礼の遍路などがその被る笠に書きつける語。弘法大師と常にともにあるという意。この日の私は『同行似仁(どうぎょうににん)』。辻堂鳶職組合の碑。 聖徳太子堂。 英霊供養塔。 不動明王座像。そして踏切を渡り左手に辻堂駅に向かって歩く。
2016.08.18
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク例大祭が行われている辻堂諏訪神社の鳥居。周囲には多くの屋台や露店が。 辻堂諏訪神社鳥居。 祭神は、建御名方命、八坂刀売命で創立は平治年間(1159~60)で村の氏神、鎮守様。寛永8年(1631)と文政7年(1824)の2度の火災と関東大震災で倒壊したが、その都度すぐに再建されたと。また、戦時中の旧海軍陸戦隊の辻堂演習の際には、氏子の家を兵の宿舎にし、神社の境内と隣接の宝泉寺の境内を集合所としていた。境内には日露戦争の慰霊塔が大砲のかたちをした4つの石造物からなるさくに囲まれて残っているほか、太平洋戦争の時に供出された梵鐘もつくられ今日に至っていると。手水舎。 狛犬、阿像。本殿。現在の本殿は平成12年(2000)に再建。旧本殿は八松稲荷神社の本殿として移築されています。中断していた諏訪神社奉納人形山車も平成12年から復活したと。 頭貫(かしらぬき)?の上部の見事な彫刻。御神木。社殿新造のための造成中に掘り出された樹齢500年ともいわれる欅の根。諏訪神社の発展と氏子の繁栄を祈願して奉納されたと。 神輿舎。 そしてその隣にある宝泉寺(ほうせんじ)へ。 神仏混淆崇拝の典型の様な諏訪神社と宝泉寺が並んでいたのであった。宝泉寺の鐘楼。 宝泉寺は高野山真言宗の寺院。山号は海龍山。別名は南の寺。 水子地蔵尊。六地蔵。 六地蔵石幢(せきどう)。四角柱の三面に二体ずつ地蔵を浮き彫りにしている初めて見る珍しい六地蔵の形。 境内には上の写真の六地蔵を始め、道祖神や庚申塔がズラリと並んでいた。木食観正。 多くの六手合掌青面金剛像。地蔵・聖観音。 六手合掌青面金剛像(左)と庚申供養塔(右) 祠に入った仏像。消火用ホースを片付けましょう。 こちらにも。 宝泉寺の歴史が説明されていた。本尊は十一面観音。源頼朝が勧請したといわれ、俗に「南の寺」と呼ばれている(1190年~1199年の創建)。江戸時代には、大山詣の帰りに必ず参詣する寺として賑わっていた。辻堂という地名は、宝泉寺の近くの辻に不動堂あったことから「辻堂」となったと伝えられている。辻堂は、源頼朝が相模川の橋供養の帰りに落馬したところともいわれていると。空海像。 歩を進めると白山神社が。御祭神は久久理比売(くくりひめ)神、三島明神。辻堂3丁目の道路脇の広場に人だかりが。北町町内会と書かれた武者絵。山車の飾りの真っ最中。出番を待つ子供たち。そして日枝神社へ。日枝神社は山王社とも呼ばれています。御祭神は大山咋比命( おおやまくいのみこと)、大山津見神(おおやまづみのかみ)。境内には直衣姿で袖の中で合掌する2体の男女の双体道祖神があり、町内で大切にされているのです。寛政元年(1789)に建てられたと刻まれていた。境内には推定樹齢200年のタブの木が植わっていた。隣には町内会館があり、地域に根差した神社。そしてその奥に出番を待つ神宮皇后の姿が。ややピンぼけ。この後、山車が各町内を曳き廻されるとのことでしたが下記ページにその姿が紹介されていました。http://www.cityfujisawa.ne.jp/~tsujido/cult/dashi.html
2016.08.17
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンクこの日は辻堂の散歩に出かけた。辻堂駅南口の階段を下りると、目の前に小さな神輿が。この日は辻堂諏訪神社の祭礼とのこと。交番の横には辻堂駅開設記念碑が。 1872年に新橋-桜木町間で開通した鉄道は1887年7月に国府津まで延長された。 辻堂駅は国府津迄延長された26年後の1913年に先ず、信号所が設置された。 しかしながら、客扱いをするまでにあと3年待たねばならなかった。信号所か開設された翌年に地元に停車場設置期成同盟会が発足し、駅設置運動が始まった。 1916年12月に用地と建設資金を地元が負担して駅が開業したと。記念碑の右前には辻堂駅開設記念碑の由来が書かれた石碑が。辻堂駅の開設は全国でも類のない地元請願駅で駅舎用地と建設資金を地元有志が提供し、当時の鉄道院総裁に強力な設置運動を展開した結果実現したと。辻堂駅開設記念碑。記念碑は全て漢字で刻まれていた。「相模之地西北負山箱根足柄丹澤雨降蜿蜒起伏東南直臨干太平洋為 一大湾曲而其沿海自三浦半島到鎌倉郡江之島為東部高座中両郡為 中部足柄下郡為西部而東部曲折如屏西部亦其一半岬磯参差獨中部而其所属干高座者海濱長汀相連陸上地廣産亦豊也古来稱此南端一帯之地區日砥上原後方遥控富嶽於長空碧落之表面近望伊豆七島於煙波蜿蜒之間白沙靑松風光明媚而其氣候之順良宣於避暑宣於凌 寒可謂湘南之一勝地矣是為辻堂此地延干東海鐡道之線路在藤沢茅ケ崎之間而官未至設停車場也地方人士有深惜於此捐資獻地以請官遂為其所納矣大正五年十二月一日停車場竣工開通而稱辻堂驛嗚呼此勝地而加以鐡路交通之便自今而後此地方之繁榮可立而待也茲列記捐金者之氏名干碑陰併録其由云爾 牧野精處撰又書」その意味は『相模の地は西北に山を負い、箱根・足柄・丹沢・雨降(大山)がうねうねと長く連なっており、東南は直接、太平洋に臨み一大湾曲をしている。 その沿岸、三浦半島から鎌倉郡江の島に至るを東部と、高座郡・中郡を中部と、足柄下郡を西部としている。 そして、東部は屏風のように折れ曲がり、西部もまたその一半は岬や磯が入り混じっている。 ただ中部のみは其の高座といわれるように、後方、はるかに富士山が晴れ渡った大空に控え、前面の近くには伊豆七島を太平洋の波の向こうに見える。白砂青松、風光明媚にして気候は避暑にも寒さを凌ぐのにもよい。 湘南で一番景色が良いというべき所が辻堂である。 この地は東海道線の線路に沿って藤沢と茅ヶ崎の間にあって、鉄道院では未だ駅を設けるには至っていない。 この地方の人達は大変に残念がり、ここにおいて資金を出し、土地を提供して鉄道院に請願をし遂にそれを受け入れて貰う事と成った。 大正五年(1916年)十二月一日停車場が竣工・開通して辻堂駅と云う名前になった。 今後はこの地方が繁栄して行くのを待つだけである。 ここに資金提供者の名を碑の裏に列記し、併せて由来を記録する。』と。 そして線路に並行して茅ヶ崎方面に歩いていくと線路横に『地蔵堂』 が。大正末頃、この踏切で家族を事故で亡くした老婆が、毎日線路脇で供養をしていましたが、突然その老婆の姿を見ることがなくなりました。神谷三吉、トミ夫妻がこの事に気付き老婆を気の毒に思い、相談して老婆家族の供養のため、お地蔵さまをまつりました。以来、お地蔵さまは休むことなく見守っていて下さいます。マンションの一角にあった小さな熊の森権現社。昭和の初めごろ、一帯に松の木が根を張り、強い南西風にさらし出されて熊の森根上がり松と呼ばれていたと。西行歌碑 「柴松のくずのしげみに妻こめてとかみが原に牡鹿鳴くなり」。近くの「砥上が原」がありその縁で、ここにこれが選ばれたのだと。これは、西行が文治2年(1186)に東大寺再建のため、勧進に奥州平泉を目指した折の歌だと。馬頭観世音と刻まれた石碑。 三叉路角、松の木の下に熊の森道祖神(西町の道祖神)。 双体神祇道祖神。文化五年(1808)と刻まれていた。ここの道祖神も、摩耗しているとは言え人為的な損傷無し。住宅街を八幡神社方面に進んでいくと左手に伏見稲荷神社。 多くの狐様が。 昭和4年9月の銘のある馬頭観音塔。 馬頭は、一切の魔をうちふせると。気が付かずに通り過ぎてしまうところに。迷路のような路地を通り、小さな社の辻堂八幡神社に到着。 この八幡神社は辻堂諏訪神社の末社の一つで、昔から「西町の八幡様」と呼ばれ、辻堂の住民に親しまれ尊敬されて来たとのこと。通ってきた境内左の細い道は旧鎌倉道で、当時は主要の道で、武士が馬に乗って往来したと。こちらが本社殿?切り妻造りの社殿は平成13年2001年に改修。ご祭神は品陀和氣命/誉田別命(ほんだわけ)『三ツ又』 の説明板。古道(鎌倉道と光明真言道場道)がここから3本に分かれていた場所。三叉路で山車に乗り祭囃子を奏でる子供たちの姿が。 辻堂諏訪神社のお祭りのポスター。 『奉献諏訪方大明神』と書かれた幟が。八森稲荷神社。入り口の両脇の手すりには、何故か白の覆いがかかっていた。 八森稲荷神社 本社。この社は旧諏訪神社本殿とのこと。「源平盛衰記」には寿永2年(1183年)佐々木四郎高綱が木曾義仲追討のために上洛の折に「十七騎にて稲村、腰越、片瀬川、砥上が原、八松原馳通し・・」と記してあり、高山遺跡や諏訪神社建立の時期を考えると、前述の「八松原」は、「源平盛衰記」の記述や「八松稲荷」、宝珠寺の山号「八松山」等から考えると、ほぼこの場所を指していると考えられると。鉄板と下瀬火薬の説明板。『明治二十一年(一八八八年)に旧海軍技手の下瀬雅充(しもせまさちか) が、ドイツから持ち帰った新火薬を、大砲を使って辻堂海で試射しました。 試射は成功し、「下瀬火薬」と命名。後の日露戦争で実戦に使用され、その威力で威名をはせました。試射には、何枚かの鉄板が標的や砲台に使用されましたが、これは その内の一枚と。この度、鉄板をここに設置するにあたり、専門家に時代考証をお願い しましたところ、この鉄板は当時英国で製造された戦艦三笠やタイタニックの 鋼板と化学成分が類似していることから、英国で製造されたものであることが分かりました。』と。多くの屋台や露店が営業準備中そしてお巡りさんが出店に指導する場面も。
2016.08.16
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク旧街道沿いの昔の写真が紹介されていた。トランスボックスにプリントされた梶荘本店の古写真(右)。藤沢宿の街並み。左上から鎌倉屋、下が田村屋そして右が旧名主家・廣瀬家の門構え。 小田急線藤沢本町駅(昭和12~15年)。 そして「伝源義経首洗井戸」の標柱。交番の脇の細い道を奥に進む。 そして突き当たり右に井戸が。義経と言えば知らぬ人の無い稀代の、そして悲劇のヒーロー。平家滅亡の立役者でありながら兄・頼朝の不興を買い、逃げ延びた奥州・平泉でかくまってくれていた藤原泰衡に裏切られて攻められ、自刃したとされた人物。文治5(1189)年の事、討ち取られた義経の首は鎌倉に送られ、梶原景時らに首実検された後に海岸に晒され、腰越の海に打ち捨てられたと。しかし首は潮に乗って境川を遡り、この近くの白旗神社付近に義経の首が漂着。里人がその首をすくいあげ、洗い清めたのがこの井戸と伝えられているのだ。一説によれば、鎌倉に入る前に首実験に備えて化粧を施したとも、また、夜間に鎌倉方面から、首が目を見開いて亀の背に乗り飛んで来たとも。「義経首洗井戸」 首塚の石碑。 本町白旗商店街マップ。 ここにも藤沢宿絵図が。 この日に散策した旧跡、寺院の藤沢宿での位置関係が理解できたのであった。白旗交差点を右折。 前方に白旗神社の鳥居が見えた。 この白旗神社も藤沢宿巡りでは大事な神社であるが、この神社は何回か訪ねているのでこの日はパス。以下に私が今年2月ににブログアップした白旗神社は下記に。http://plaza.rakuten.co.jp/hitoshisan/diary/201602020000/狭い路地に入り藤沢本町駅方面に向かう。 諏訪神社の標柱が。藤沢本町駅の踏切手前で左折し急な坂を上る。学生時代はいつもこの坂を上り高校に通ったのであった。小田急線の線路の上の伊勢山橋。 伊勢山橋からの現在の藤沢本町駅。ここの町名の読みは「ほんちょう」で、郵便局も藤沢「ほんちょう」郵便局であるが、何故か駅は藤沢「ほんまち」。 この陸橋を渡った辺りが藤沢宿上方見附のあった所。見附は、宿場の入出口に設けられた見張所で、有事の際には、関所としても機能した場所。ここで、藤沢宿と別れ、いよいよ次は平塚宿への道程となるのだ。伊勢山橋の斜め向かいの階段の上の高台には寺が。 浄土宗 風早山 真源寺 本堂。創建は安永元年(1772年)空寂による。 文政3年(1820年)火災により本尊、過去帳はじめ全て消失。慶応元年(1865年)にも火災、仮本堂を建て現在は再興と。高校時代3年間、この寺の前を朝夕通ったのであるが全く記憶のない寺なのである。私の記憶も風早山 真源寺の名と同じく、風の如く早く頭から吹き抜けていったのであった。本堂には風早山の扁額が。 そして66年間住み慣れた藤沢の昔の姿を追いかける藤沢宿巡りをとりあえず終了し、藤沢本町駅から帰路に向かったのであった。
2016.08.15
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク道路の反対側には蒔田本陣跡(まいたほんじんあと)を示す標柱が。現在は、その跡地はラーメン屋になっていたが、その看板には「ふじさわ本陣跡」と。 本陣というのは、宮家、公家、大名が休泊した大規模な施設。江戸時代初期は大久保町の堀内家が藤沢宿の本陣であったが、類焼のため坂戸町の蒔田家が明治三年まで約百二十年間その要職にあったと。総坪数約400坪、門構え庭園等があり堂々たる家であったが、現在は妙善寺にその墓域を残すのみとなっていると。再び旧東海道(国道467号線)の反対側に戻ると、問屋場(といやば)跡があった。問屋場は、江戸時代の街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいったと。脇本陣・和田七郎右衛門・坂戸町問屋場の絵図。坂戸町問屋場跡は現在、藤沢消防署がある所に。「藤沢宿坂戸町問屋場跡」と書かれた小さな木の標柱のみ。トランスボックスの写真によると以前は藤沢警察署(写真右)があった。消防署の脇を入ると常立寺、門前に先ほど訪ねた記念碑があった。藤沢警察署。 そして妙善寺(みょうぜんじ)の参道を入る。 妙善寺の石の標柱には「南無妙法蓮華経 妙善寺」と。妙善寺は、藤沢市藤沢一丁目にある日蓮宗の寺院。山号は、長藤山。 妙善寺の山門。扁額には「長藤山」の文字が。実はこの妙善寺は我が実家の檀家寺。本堂。永正元年(1504年)に日純により創立した。前身とされる密教寺院が建立された延暦15年(796年)が創立で、弘安3年(1280年)日聞が日蓮宗に改宗したという説もある。天明年間(1781年-1789年)に洪水により堂が流失したが、天保13年(1842年)に日扇が再建。妙善寺の本尊は佐渡流しの途中で立ち寄った日蓮聖人像。手水舎。 本堂横に鐘が地面に置かれていた。銘は、鎌倉極楽寺の鐘と同文とのこと。鐘楼の再建を待っているのであろうか?。 由緒沿革略記碑。正宗稲荷大明神入口 の石鳥居。正宗稲荷大明神は、もとは真言宗の真蔵院という寺が改宗して日蓮宗の道場になった弘安3年(1280年)に境内に奉安されたものであると妙善寺「由緒沿革略記」碑にある。この名は鎌倉三郎正宗入道に因み、文永8年(1271年)に日蓮聖人が名付けたものであるとされるが年次が合わない。真蔵院の頃からあった稲荷社であろうと。正宗稲荷大明神の御神体は伝教大師(最澄)が延暦21年(802年)に刻んだものとされている。比叡山延暦寺に安置されていたが、4代執権北条経時の時に鎌倉に移され、その後、この地に移されたと。また、一説には、鎌倉の刀工五郎入道正宗が、この御神体を守護神としていたとも。正宗殿。「正一位 正宗稲荷大明神」と刻まれた石碑。正一位とは神社における神階の最高位に位し、従一位の上にあたる。 正宗稲荷大明神の隣にもう一つの朱の鳥居と社が。この神社がもともとこの地の人々に守られてきた稲荷神社とのこと。再び本殿を。
2016.08.14
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク旧東海道(現国道467号線)から消防署の脇を入ると、明治五年に警察署の前身である「邏卒屯所(らそつとんじょ)」が置かれた常光寺が。創立は元亀三年(1572)、常光寺は、浄土宗の寺院。山号は、八王山。正式名は「八王山 摂取院 常光寺」、鎌倉光明寺の末寺であったとのこと。山門横のお地蔵さんが出迎えてくれた。境内にも数々の新作石像があった。 本堂前の境内。参道の両脇に古木の楠が2本。境内右の六地蔵様は帽子も前掛けもきれいであった。六道において衆生の苦しみを救うという六種の地蔵菩薩。すなわち,地獄道を救う檀陀(だんだ),餓鬼道を救う宝珠,畜生道を救う宝印,修羅道を救う持地,人道を救う除蓋障,天道を救う日光の各地蔵の総称。 両端に可愛い豚がいる石のベンチ。 前はベンチをお尻で、そして後ろは前脚で支えていた。境内の子育て観音像。 本堂左脇に市指定文化財の「庚申供養塔」が2基。庚申供養塔説明板。庚申供養塔は庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いと。万治二年(1659)の銘をもつ庚申塔は、庚申講中が建立した浄土宗系のものとして貴重とのこと。もう1基(寛文九年銘・1699)は、笠石が軽快な感じが。 本堂。元亀3年(1572年)に光明寺二十七世の明蓮社光誉(西隠)が創立。 本尊は阿弥陀如来三尊立像で、本尊中尊は像高99cm、全高204cm。 福禄寿像。手には不老長寿の桃を持つ。常光寺は藤沢七福神の寺にもなっている。 常光寺のカヤの巨木。カヤの巨木が聳えていた。枝を回りに伸ばしているが、幹は空洞化しつつあると。かながわの名木100選にもなっているが、名木というよりは古木と言った方がぴったり。この古木のカヤは樹齢320年と推定されているとのこと。藤沢宿が整備されて85年後くらいに芽吹いたことになる。「かながわの名木100選 常光寺のカヤ」のプレートには、「樹高 25メートル 胸高周囲 5.0メートル 樹齢 約300年(推定)」、と記載されていた。 常光寺の境内の樹林も藤沢市指定天然記念物にもなっている。藤沢市指定天然記念物になっている「常光寺の樹林」にはカヤの他に、山門を潜った参道の両脇にクスノキ(2本)、本堂横のタブノキと若いイチョウ、弁慶塚入口のイチョウ、弁慶塚石段上のタブノキがあるとのこと。英米文学者で詩人の野口米次郎(1875-1947)の墓碑。30cm立方ほどの四角な磨き石が間をあけて二つ。その上を跨いで積み木細工のように、横60cm縦30cm厚さ30cm程の矩形の石が、横長にのせられてあるユニークな形の墓。子息の建築家イサム・ノグチ(1904-1988)が建立したものとのことで納得。野口米次郎は明治・大正・昭和前期の英詩人、小説家、評論家、俳句研究者。ここ常光寺にヨネ ノグチの墓がなに故あるかと言うと、ヨネ ノグチが16歳で親の許可えず、四日市を去って上京し、兄がこの寺の住職の常光寺に下宿して勉強していたことがあったことによると。墓碑には野口米次郎の臨終の時の詩が刻まれています。「鐘が鳴る かねがなる これは即ち 警鐘と言うのですこれが鳴ると皆ねます さぁ みんな眠りましょう」と刻まれていた。この誌の意味は?余裕を失った我々現代人への警鐘?それとも・・・・・?一段上にも多くの無縫塔(むほうとう)墓碑が。 常光寺の僧侶の墓塔であろうか?塔身が卵形という特徴があり、「卵塔」とも呼ばれる形。境内から山門を。手前に藤沢市指定天然記念物の大きな楠の木が2本。 ここにも新作石像が。 明治5年(1872年)から一時期、藤沢駅邏卒屯所(警察署)が設置されたとのことで、山門前にはその記念碑が。 再び山門から本堂を。
2016.08.13
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク再びトランスボックスに藤沢宿絵図が。蒔田本陣、御殿、そして荘厳寺、白旗神社が描かれていた。 荘厳寺(しょうごんじ)は、藤沢市本町四丁目にある真言宗の寺院。山号は、白王山。 創建元暦元年(1184)の古刹。延亭4年(1747)に白旗神社境内に本堂を建てて以来、神社の隣に荘厳寺はあったが、明治時代の神仏分離令により、明治8年(1875)に現在地に移ったと。山門はなく、いきなり境内に。竹の垣根沿いには多くの石碑、石仏、石灯籠等が並んでいた。 石仏そして歴史を感じる大きな石塔。 境内には相模国準四国八十八箇所のうち4番と10番の「弘法大師石像」が安置されている。 大きな宝篋印塔。高野山の末寺であり弘法大師の石碑が。 荘厳寺 本堂。本尊の不動明王は運慶の作と伝えられ、源義経の位牌があることで知られている。 荘厳寺を説明の石碑。 多くの墓石がピラミッド状に積み上げられた三界無縁塔。 小さな地蔵堂に納められている石仏が3体。 「木食観正(もくじきかんしょう)」と刻まれた石碑。 木食とは米食を絶ち、木の実を食べて修行する僧侶のこと。江戸期の木食遊行僧とのことでこの寺を訪れたのであろう。荘厳寺を後にし歩いていくと旧東海道沿いに『済美館』 の建物が。入口には済美館の由来が掲げられていた。碑文によると藤沢の歴史の1ページを飾る建物。済美館は、現在「藤沢公民館分館」。設立は明治3年(1870年)大久保町名主の堀内悠久の子郁之助は、これからの時代に必要なのは教育であると好学の生徒や有志と共に宿役人の許可を得て郷学校「藤沢郷学所済美館」を設立。済美館は昭和17年に武道場として一時期市会議場としても使用した。武道場として藤沢警察署の道場としても使われ、剣道柔道の稽古が盛んであったと。
2016.08.12
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク藤沢宿巡りを更に続ける。藤沢市民病院入り口を過ぎ左手に曲がり進むと永勝寺(えいしょうじ)門前に到着。永勝寺は藤沢市本町四丁目にある浄土真宗の寺院。山号は法谷山。「浄土真宗 本願寺派 鳳谷山永勝寺」の寺号標石が門前に。創建は真海が元禄4年(1691年)に開山。『皇国地誌』では、はじめ鎌倉にあったが各地を移転した後、真海が現在地に慶長年間(1596年 - 1615年)に移転し中興したのだとしている。 永勝寺山門。手水舎。鐘楼。 鐘楼の梵鐘には昭和58年(1983年)の銘が。 永勝寺本堂。 永勝寺本堂に掛かる「鳳谷山」の扁額。なぜか山号の「法谷山」ではなかった。境内の「親鸞聖人御像」。 太子堂。 境内から山門方面を。 山門に向かって再び進んでいくと山門手前右手には、東海道藤沢宿の旅籠小松屋に抱えられていた飯盛女(めしもりおんな)の墓39基が。飯盛女は、地元近郷からだけでなく、江戸や諸国から借金の代償として売られて来た女性たちが多かったとのことであるが、ここに葬られている飯盛女はほとんどが小松屋初代源蔵の出身地である伊豆国小松村の出であるとのこと。墓石は小さな物も含めて48基あり、その墓石の法名から5基は男であることが判るのだと。飯盛女が生んで幼くして亡くなった子供達ではないかと。それにしても、小松屋初代源蔵はこれらの飯盛女やその子供達を懇ろにここに葬ったのである。飯盛女とは、江戸時代の旅籠で給仕をしていた女性。給仕というと聞こえが良いが、主目的は所謂遊女・娼婦としての側面があったと。 永勝寺にある飯盛女の墓39基のうち、38基は1761年(宝暦11年)から1801年(享和元年)までに建てられたものであると。 幕府は、1825年(文政8年)、藤沢外四宿に次のようなお触れを出していると。下記は【http://www8.plala.or.jp/bosatsu/eishoji-fujisawa.html】より転載。『一、旅籠屋一軒に飯盛女二人以上おかない。一、飯盛女に木綿以外の衣類を認めない。一、無理に呼び込み酒食を勧めたり、多額な要求をしない。一、宿内のものはもちろん、助郷人足や近住のものは決して宿泊させない。一、藤沢宿では、江の島その他に参詣にくるものが多いが、 その際、飯盛女を出迎えにやらせない。 』江戸時代、娼婦は江戸の吉原遊郭ほか、為政者が定めた遊郭の中のみで営業が許されていたが、飯盛り女に限っては「宿場の奉公人」という名目で半ば黙認されていたとのこと。 いろいろな想いが巡りながら、彼女たちの墓に合掌して藤沢宿巡りを続けるためこの永勝寺の山門を出たのであった。
2016.08.11
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク国道1号線藤澤橋からの大鋸橋(現遊行寺橋)。この赤い欄干の橋が江戸時代の旧東海道で、下を流れる境川を渡る橋であったのだ。 そしてここにも江の島弁財天道標が。 旧東海道・藤沢宿 案内図。 東海道藤沢宿の成り立ち・しくみ 説明版。藤沢宿は慶長六年(1601)東海道の宿場となり、後に戸塚宿、川崎宿が追加され五十三次の第6番目の宿場となったのだ。藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)。宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、賑わいが感じられる。境川にかかる朱塗りの大鋸橋(現遊行寺橋)の袂には、藤沢宿のイメージを残した「排気ガス測定所」なる建物があり、その前で「昔話のある町」を謳っていた。 大鋸橋(現遊行寺橋)の前には高札場の跡があったと。高札場とは幕府の法度、掟、犯罪人の罪状などを掲げた所。屋根付きで高さ約3.6m、横幅5.4m、縦幅1.8mの規模であったと。現在は跡地はコンビニ、近くには各種の観光用案内板が掲げられていた。 そして再び朱塗りの大鋸橋(現遊行寺橋)が右側に。この橋を渡りしばらく行くと遊行寺の黒の惣門にたどり着くのだ。 朱塗りの大鋸橋(現遊行寺橋)を右に見ながら旧東海道を平塚方面に進むと今度は昔の旧街道に面して建てられていた写真が紹介されていた。 明治から昭和初期にかけての大鋸橋(現遊行寺橋)周りの建物。大鋸橋(現遊行寺橋)周りの藤沢宿地図。遊行寺橋の手前は城にある桝形構造となっていたことが判る。宿場の両端の街道をクランク状に曲げた場所を桝形と。藤沢宿では遊行寺の脇から大鋸橋(現遊行寺橋)に至るクランクが見られるが、これは、軍事防衛上の必要から意図的に設けられたものと。江戸時代の旅籠・藤沢宿の様子が描かれていた。 先ほどの夜の藤澤宿と同じ場所から描いた浮世絵。道路の反対側には歴史ある土蔵が今も残っている。桔梗屋は、藤沢宿で江戸末期から紙・茶問屋を営んでいる店。この店蔵は、明治44年(1911年)の竣工で、藤沢市に唯一残る店蔵とのこと。 日本橋から藤沢宿までの旧東海道の様子を一枚に描いた浮世絵。 宿場は境川東岸の大鋸町(鎌倉郡)と同西岸の大久保町(高座郡)・坂戸町(同)の3町で構成されていた。江戸時代の藤沢宿は、天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」に、宿内人口4,089人(男2,046人、女2,043人)で、総家数919軒、旅籠(はたご)45軒、大名や公用の旅客の宿泊施設である本陣が1軒、脇本陣が1軒と記されていると。坂戸町界隈図。 稲元屋本店跡、明治天皇行在所記念碑。 「弘化2年(1844)、初代寺田三郎兵衛(満弘)が創業。質素と誠実を家訓とし、稲元屋呉服店の礎を築いた。明治24年亀井野の陸軍大演習のため行在所となった。石碑は皇紀2600年(昭和15年)町民の意気高揚のため建てたものであると、側面に平成14年6月、5代目当主と刻まれていた。トランスボックスに描かれた「東海道藤沢宿復元図」。蒔田本陣跡、御殿跡(黄緑の四角)の場所が理解できたのであった。藤沢宿で一番その当時の雰囲気を残している建物の1つは内田商店本店。旧東海道に面して重厚な造りの母屋の店舗が建ち、その裏手にはくの字に曲がった石蔵と母屋の店舗横にも土蔵があるようだ。 「相中留恩記略」に見る蒔田本陣 墨絵図。藤沢宿の本陣は大久保町名主・問屋を勤めた堀内家(元玉縄城北条氏家老の家柄)であったが、延享2年(1745)に火災のため本陣職を坂戸町の蒔田(まいた)家に譲った。蒔田本陣の規模は間口13間、奥行19間、建坪210坪、玄関・門構えのある建物で明治3年まで約120年間続いたとのこと。 東海道絵巻・藤沢御殿絵図 。江戸時代の初め頃、藤沢にはまだ本陣がなかったので、将軍は自らの宿泊のために今の藤沢一丁目あたり(藤沢公民館付近)に藤沢御殿をつくったと。絵図面によると東西約193m、南北約113mの長方形の区画で、記録によると「慶長五年(1600)に家康が宿泊して以来、寛永十一年(1634)に家光が使用したのを最後に廃止となったと。
2016.08.10
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク遊行通りが国道467号線(旧江ノ島道)に合流する交差点を渡り藤沢橋、遊行寺方面に進む。歴史ある藤沢地区まちづくりとして、遊行通り4丁目~藤沢橋までの467号線沿いの東電トランスボックス22基に、歌川広重等が描いた浮世絵で写真ラッピングしてあるのです。 この日は進行方向左側の歩道を歩き、一つ一つ浮世絵を楽しみ撮影しました。 『雪月花 相模 横山の花 照手姫 小栗判官』。以下 『藤沢地区ポータルの文化・歴史情報』からの抜粋です。『この絵は、相模の国「横山の花」照手姫を花に見立てて描いたもの。小栗判官物語では、照手姫は武蔵・相模郡代である横山氏のひとり娘と言うことになっています』。『東海道五十三対 藤沢』 。『このシリーズは、初代広重、三代豊国、国芳の3人の当時代表的人気浮世絵師が分担して描いたもの。この絵は国芳の手による小栗判官照手姫で、いったん地獄へ堕ちた小栗が熊野で本復した様子を描いています。岩を持ち上げているのが小栗で、しゃがんで驚いた様子をしている女性が照手姫。小栗の後方の滝は那智の滝』。『武英名馬競 小栗小次郎助重』 。『このシリーズは「武者絵」シリーズと呼ばれ、国芳が武英名馬競(武将とゆかりの名馬の組み合わせ)を描いたもの。この絵は、藤沢ゆかりの小栗小次郎助重と、小栗判官物語に登場する鬼鹿毛が描かれています』。路地をチョットは行った場所にあった珍しい名前の『鼻黒稲荷大明神』。なぜ『鼻黒』 ?『東海道中栗毛彌次馬 藤沢』 。『このシリーズは大ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛』を摸して作られています。芳幾が弥次さんと北さんの二人が各宿でくりひろげる道中模様をユーモラスに描き、魯文が各宿のテーマとなる文章、狂歌一句と二人の会話をおもしろおかしく記しています。(二人が狐拳(きつねけん)に興じているところです。)』『東海道五拾三次 藤沢(狂歌入東海道)』。『このシリーズは図柄の中に狂歌が1首ずつ折り込まれているために俗に「狂歌入東海道」と呼ばれています。保永堂版と反対に遊行寺の側から大鋸橋(現遊行寺橋)と江の島一ノ鳥居を描いたもので、背景にある山は大山。橋の上の人物が担いでいるのは御神酒枠で大山詣を象徴しています。橋のたもとの高札場など、宿場の様子も窺えます』。『藤沢 五十三次 神谷伊右衛門お岩霊』 『藤沢宿の立場「四ッ谷」に歌舞伎の外題『東海道四谷怪談』をかけて役者による見立にした作品。神谷伊右衛門役に二代中村翫雀(がんじゃく)、お岩(霊)役に嵐璃珪(りかく)という二人の大坂の歌舞伎役者が描かれています。上部に描かれた絵は大鋸橋(現遊行寺橋)と江の島一ノ鳥居の組み合わせという藤沢宿の風景』。『東海道 五十三次 藤沢(隷書東海道)』 。『このシリーズは表題の書体から俗に隷書東海道と呼ばれ、保永堂版、行書版と共に三大傑作シリーズの一つです。藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)。宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、にぎわいが感じられます』。『東海道五十三次之内 藤沢(行書東海道)』。『このシリーズは表題の書体から俗に行書東海道と呼ばれます。画面右に江の島一ノ鳥居、左に大鋸橋(現遊行寺橋)を描いています。橋の上には御神酒枠(おみきわく・大山から水や酒を持ち帰るためのもの)を担いでいる大山詣の帰りの一行が描かれています』。 『東海道 藤沢』。『十四代将軍家茂の上洛を意識して出版された「上洛東海道」と同じく、宿場の風景に行列を描き込んだシリーズ。朝霧のなか、大鋸橋(現遊行寺橋)を行列が通り過ぎていくところをシルエットで描いたもので、左手前の鳥居は江の島一ノ鳥居。上方の屋根は遊行寺のものです』。藤沢橋交差点手前には、再び『鼻黒稲荷大明神』 と『金砂山観世音』と刻まれた2本の石碑が両側に、そしてこの先の階段の上には堂の如き建物が。『鼻黒稲荷大明神』 の観音堂。 『金砂山 安産 子育 観世音』 と刻まれた石碑。右は「嗚呼 九月一日」と刻まれていた。背面に廻ると関東大震災で亡くなった人の名前が刻まれていた。藤沢も甚大な被害を受けたのであった。『金砂山観世音菩薩(きんささんかんのんぼさつ)』の幟が。金砂山観音堂は金砂山と号す。砂山観音ともいう。通称は帯解観音。案内板には金砂山観世音についての緒言が掲示されています。下の文はその書き出部。『夫れ霊験顕著なる金砂山子育安産帯解観世音菩薩は今を去る三百有余年前即ち寛永年間に金井清西なる者不思議の霊夢を感じて一宇を建立す・・・・・・』。そして国道1号線『藤沢橋』 交差点に到着。境川に架かる藤沢橋。『境川』、『さかいがわ』の文字が。横断歩道を渡ると『藤澤橋』 の文字が。ところで雑学を一つ。川に架かっている橋ですが、入口、出口があることをご存知ですか。橋名を刻んだプレートのことを「橋名板(きょうめいばん)」といいます。橋名板の取付位置は、路線(道路)の起点左側に「漢字」橋名、終点右側に「ひらがな」橋名を記載するのがルールなのです。これは橋梁工事を発注する公共事業体の建築あるいは土木工事の「標準(共通)仕様書」に記載されているからなのだと。しかし、この藤沢橋には道路方向正面にひらがな『ふじさわばし』(下の写真)、道路側に漢字『藤澤橋』(上の写真)の「橋名板」が掲げられています。この橋は東海道1号線ですので起点は日本橋、よってこちら側は出口となりますので縦に取り付けられた「橋名板」のひらがな『ふじさわばし』が正式な「橋名板」と言うことになります。未確認ですが橋の向こうの左側には漢字『藤澤橋』の正式「橋名板」が取り付けてあるはず。また、ひらがな表記は『・・・・ばし』ではなく『・・・・はし』、そして『・・・・がわ』ではなく『・・・・かわ』と濁らないで表記するのが多くなっていると。これはルールではなく自治体の判断のようですが。『濁点があると川が濁ると考えるため』というのが通説。濁った水は水害などを連想させる。氾濫しないようにと濁点を外す慣習は、全国的にあるようだ」とのこと。この藤澤橋は『ふじさわばし』、『さかいがわ』と濁点付きで表記されていました。その為か??台風による境川の流量増大により、1990年に崩落してしまったのですが・・・。しかしこれは一世代前の橋でしたのでどの様に表記されていたかは????。橋を徒歩等で渡るときに、一度この「橋名板」を見てみるのも面白いのではと思っているアクティブシニアなのです。
2016.08.07
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク先日、鎌倉に行った帰りに、藤沢駅北口から徒歩にて遊行寺方面に向かって散策しました。藤沢駅北口。 北口から柳通りに出て歩を進める。駅北口柳道りと書かれた案内塔。 「稲毛屋旅館」(昭和10年頃)の写真が掲示されていた。そしてもう一枚、「角若松旅館(昭和10年頃)」の写真も。 懐かしい写真を見て、帰宅して昔の藤沢駅北口付近の写真が無いかをネットで探すと何枚かの写真や資料がありましたので紹介します。まずは昭和初期の藤沢駅周辺図。そうなんです、昔は江ノ電藤沢駅は地上の独立した木造駅舎だったのです。 【http://tsunesan.sub.jp/tsunesan/wp-content/uploads/2016/01/MapBig.jpg】より。そして昭和49年当時の藤沢北口駅舎とのこと。藤沢駅は、橋上駅舎化されるまでは、北口と南口と駅舎で分かれていた。北口駅舎は藤沢駅の表玄関の役目を果していたのだ。橋上駅舎は昭和55年に完成し、これに合わせて南北自由通路も開通したのだ。 昭和35年当時の北口広場。写真の一番右に稲毛屋旅館、そしてその左に角若松旅館。いずれも遊行通りの入り口の左右に。これらの写真を見ると、懐かしく想い出される光景。 【http://www.enopo.jp/index.php/fujisawa-guide/fujisawakonjyaku/1159-2-76147350.html】より転載。『藤沢やなぎ小唄』 の歌詞の刻まれた銘鈑。しかし島倉千代子が歌っていたというこの歌は聴いた記憶がない。 そして安藤広重作「東海道五十三次 藤澤」 の浮世絵も道路脇に。ここには遊行寺の名で知られている清浄光寺がある。画面のむかって右上方の森の中に見えるのがこの遊行寺。遊行寺は時宗の寺で,一遍上人より4世の僧呑海が開いた寺といわれ,一般の信仰を集めていた。また画面中央に見える鳥居は,江の島弁財天の第一の鳥居。ここから江ノ島道を利用し江ノ島に行くので,その入り口に第一の鳥居が建てられているのだ。ここは江ノ島弁財天参詣と物見遊山、そして大山詣で非常に賑わった場所。 「遊行通り」と刻まれた銘鈑が収まった標柱。道路左手には「レディオ湘南」 放送局。 その前にはトランスボックスの表面に描かれた遊行寺、そしてやや細い?大銀杏。 こちらは梅の花?、大きな常香炉と本堂。更に遊行通りを藤沢橋方面に向かって歩いていくと右手に庚申堂が。「江戸時代、道教の影響を受けて人間の肉体には「三尸蟲」(さんしのむし)というものが巣くっていて、寝ている間に天に昇り、その人の罪を天帝に密告し、それによって人の寿命が決められるとされていた。その為、六十日に一度めぐってくる庚申の夜には、誰もが眠らず徹夜して、「三尸蟲」が抜け出さないように見張る庚申待の信仰が生まれました。」のだと。この庚申堂のご本尊は市指定有形民俗文化財・木造青面金剛立像とのこと。残念ながら境内内部には入れなかった。 境内には、脇の路地に面した所(赤い鳥居の手前)に様々な「庚申供養塔」が連なっていた。 再び遊行寺の絵、時宗(開祖・一遍上人)の紋・折敷に三(おしきにさん)の紋が描かれていた。 旧東海道・藤沢宿の江の島道・江の島弁財天道標説明版。 遊行通り先のロータリーの中には市指定文化財の江の島弁財天道標が。この道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術の考案者で、江の島弁財天を厚く信仰していたといわれる杉山検校が、江島神社に参詣する人々が道に迷うことのないようにと寄進したものと伝えられ、この他に市内にほぼ同形の道標が12基指定されているとのこと。 正面上部の梵字(サンスクリット文字)は、弁財天の種子(しゅじ)「ソ」と刻まれているのだと。種子(しゅじ)とは密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)。そしてその下に「ゑ能し満道」の文字。 横には「一切衆生」の文字。この世に生を受けたすべての生き物。特に人間を言うと。 そして反対側には「二世安楽」 の文字が。二世の願によって得られる果報。仏の慈悲によって二世にわたって安楽を得ることと。
2016.08.06
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク先日、JR辻堂駅近くにOPENした藤澤浮世絵館に行って来ました。場所は辻堂駅から徒歩10分弱の湘南C-X内ココテラス湘南。平成28年7月16日にOPEN。実はこの日はなんと私の66回目の誕生日。藤沢市の浮世絵等資料コレクションは、1980年(昭和55年)に、市制40周年を記念して、日本大学元総長の呉文炳(くれふみあき)氏から譲り受けた江ノ島浮世絵等が中心となり、以来、郷土資料の一環として、藤沢宿、江の島を題材とした浮世絵や、関連資料を収集してきたものとのこと。ポスターに掲載されている浮世絵は初代歌川広重 作 『東海道五十三次之内 藤澤(保栄堂版)』湘南C-X内ココテラス湘南7Fでエレベータを降りる。 エントランスホールの壁には所蔵する浮世絵のウオールアートが並んでいた。7月16日より開館記念展「絵師たちに愛された藤沢 北斎・歌麿・広重・国貞」第1期が開催され所蔵する浮世絵が56枚展示と4つのテーマ展示室(東海道コーナー・藤沢宿コーナー・江の島コーナー・企画コーナー)がありそれぞれに会期ごとに展示品を入れ替える予定になっているとのこと。『藤澤浮世絵館』 と表示された白き文字が。浮世絵館入り口までの通路の右側にも所蔵する浮世絵のウオールアートが続いていた。 入り口には開館時間:10:00~19:00 休館日:月曜日(祝日、振替休日の場合は翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)入場料無料 と。展示スペースは撮影禁止とのこと。 この期間の1期では、1) 東海道コーナーは 三代豊国(国貞)「役者見立東海道五十三次駅」2) 藤沢宿コーナーは 歌川広重「東海道五拾三次之内 藤沢」 3) 江の島コーナーは 喜多川歌麿「風流四季の遊 弥生の江之島詣」4) 企画展示コーナーは葛飾北斎の「富嶽三十六景 相州江の島」が主な展示品。 展示鑑賞の後の休憩場所や、浮世絵や藤沢の歴史に関する書籍の閲覧、浮世絵の作り方を学ぶコーナーなども設けられていた。交流スペースでは浮世絵すりの体験コーナーが。声をかけられTRYするよう勧められましたが・・・・・。 歌川派、鈴木春信系等、絵師の系譜が詳細に。 歌川派の大きさに驚いたのであった。 主要な絵師の生没年と系譜。 展示コーナーでは浮世絵が出来るまでの様子を順次パネルで説明。葛飾北斎「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」の制作過程を通して、浮世絵に代表される木版画の「彫(ほり)」と「摺(すり)」の技術を紹介してくれていました。そして江戸の当時に摺られた「本物」が複数存在しており、世界のあちこちの美術館やコレクターの手元に収蔵。もちろんどれも本物。版画は、絵画と異なり本物が複数ある理由が理解できたのです。 東海道五十三次の双六テーブル。 暫くの間、ライブラリーコーナーで藤沢市史等の書物を眺める。そして展示室を後にすると、右手の事務室では所蔵浮世絵の絵はがき等のオリジナルグッズが販売中。『ふじさわ宿交流館』のポスター。 旧東海道藤沢宿の歴史、文化に親しむ機会を提供するとともに、我々地域住民や来訪客の交流の場として浮世絵館に先立って4月29日に遊行寺惣門近くに『ふじさわ宿交流館』が開館したのです。 そして再び所蔵浮世絵のウオールアートを鑑賞しながらそれぞれをズームで撮影。一寿齋国貞 作 『江の島』。四代豊国(二代国貞)と二代広重との合筆による作品。将軍が江の島の岩屋の前で、海女の親子が海中から鮑を取って来る様子を上覧している場面。月岡芳年 作 『今様げんじ江之嶋兒ヶ淵(いまようげんじえのしまちごがふち)』田舎源氏の光君が江の島遊覧に訪れ、稚児ヶ淵で海女(あま)達の鮑漁りを見物している様を描いています。光の君は特徴のある海老茶筌髷(えびちゃせんまげ)に豪華な衣裳を身につけていますが海女は上半身に何もつけていません。。 歌川貞虎 作『鎌倉七里ヶ浜ヨリ江の嶋遠見』七里ヶ浜から遠景に江の島を描いた作品。歌川広重 作 『 東海道五十三次 藤沢(隷書東海道)(とうかいどうごじゅうさんつぎ ふじさわ(れいしょとうかいどう)』藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)。宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、にぎわいが感じられます。 歌川芳形 作 『上洛東海道 東海道藤澤』。行列の馬であろう飾り立てられた馬とその馬の草鞋(馬沓)を替えている馬子が大きく描かれています。歌川広重 作 『冨士三十六景 相模江之島入口(さがみえのしまいりぐち)』江の島の入り口にある青銅製の鳥居をくぐり、揃いの着物を着た三人が、参道を上り始めたところである。江島神社の弁財天は芸能の神様でもあるので、歌舞音曲の上達を祈るための参詣かもしれない。鳥居の内側に堂々たる富士の姿があるが、本来は富士の位置はかなり左になり、本図のように見えることはないのでは。三代 歌川豊国(国貞) 作 『東海道名所之内 鎌倉七里が浜乃風景(とうかいどうめいしょのうち かまくらしちりがはまのふうけい)。』魚屋北渓(ととや ほっけい) 作 『江島記行 兒ヶ淵(えのしまきこうちごがふち)』。江の島稚児が淵から遠眼鏡(とおめがね)で眺望しているところ。 歌川広重 作 『冨士三十六景 相模七里が浜(ふじさんじゅうろっけいさがみしちりがはま)』。七里ヶ浜から遠景に江の島を描いた作品。 この場所は江の島と富士、七里ガ浜を望む袖ヶ浦あたりであると。 喜多川歌麿 作 『風流四季の遊 弥生の江之島詣 (ふうりゅうしきのあそびやよいのえのしまもうで)』。商家の女房が伴の若者を連れて江の島詣に出かける姿を描いたもので、菅笠(すげがさ)をかぶり黒襟(えり)のコートを着て手甲(てっこう)をした女房と天秤(てんびん)で荷物を振り分けて肩にかけた従者の姿は、当時の近場の旅の典型的なスタイルなのだと。見学を終え下りのエレベータから相模湾方面。
2016.08.05
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク洲鼻通りを江ノ電江の島駅方面に歩き、龍口寺前まで辿り着く。 門に向かって歩いていくと左側には処刑場の跡「龍ノ口刑場跡」。日蓮上人だけでなく、蒙古襲来(元寇)の際、モンゴル帝国皇帝フビライの命を受け、元からはるばるやって来た5人の使者を斬首刑にしたのもこの辺りだとのこと。湘南モノレールの湘南江の島駅前の江の島道を北へ、しばらく行くと、龍ノ口刑場で処刑された罪人の霊を弔うために建てられた寺院 常立寺 があるのです。龍口寺は日蓮聖人の弟子が「龍ノ口法難の霊跡」として建立したのが始まり。仁王門前で妻と待ち合わせて合流。仁王門の扁額には「龍乃口」の文字が。しばらくまつと、14時過ぎに国道467号線の藤沢方面から、先導する神戸町(ごうどまち)のお囃子が漸く到着し前を通る。 紫の和傘とお囃子の楽器を乗せた車を曳く氏子の老人。 大太鼓も後を続く。 その後ろには八坂神社の神輿を先導する白装束の神官。猿田彦も頑張って。 そして漸く八坂神社の神輿が見えて来た。 海から上がり、お色直しで赤い飾り綱、黄金の飾りも付け直して再登場。 龍口寺前の交差点を通過直後にピピーと言う笛の音と共に、神輿と担ぎ手が道路脇に見事な素早さで。 そこをゆっくりと江ノ電が通過。 神輿の通過する道路は、車両通行止めになっていますが、江ノ電だけは停めないようです。そしてその先に小動神社(こゆるぎじんじゃ)の神輿が待っていた。ここから2つの神輿による合同渡御になるのです。 毎年参加している氏子&群衆は慣れたもので、一瞬のうちに電車の通過する線路が開かれるのです。そして電車が通過すると再びあっという間に神輿の周りは埋め尽くされ元に戻るのです。もともとの腰越の地元は、五町からなっており、それぞれの町ごとに以下の人形を戴いた山車で祭りを盛り上げてくれていたのです。濱上町:源義経と辨慶神戸町:八幡太郎義家と鎌倉権五郎影政土橋町:源頼朝と御所五郎丸下町:神功皇后と武内宿禰、応神天皇中原町:須佐男命 古くは、人形を載せた万灯山車や2段の高欄を持つ山車が上記の如く5台あったが、その後焼失したり、江ノ電の架線を避けるために低くしたりなどし、当時の山車は姿を消し、現在は、3ヵ町が持つのみとなっていると。人形は、明治期に作られたものもあるとする説もあると。 こちらは土橋町の「源頼朝と御所五郎丸」の山車も待機中。 中原町祭典寺務所とその前には小さな神輿が出番を待っていた。 江ノ電が来ないときは線路上は歩行者天国状態。 土橋町の「源頼朝と御所五郎丸」の旧丸座幕(富士の巻狩り図)。丸座幕とは、昔、山車の大唐破風屋根の上の丸座に張った幕のこと。中原町の山車。須佐之男命は日本神話に登場する海原の神。 腰越、神戸川に架かる神戸橋より江の島が見えた。 ゆるキャラも登場。 神戸町の「八幡太郎義家と鎌倉権五郎影政」の山車。江ノ電の線路を離れ海岸に向かう道の両側には様々な出店が。道路脇には商店街店主や個人からの「寄付」が貼り付けてありました。 神戸町のお囃子の出陣式。 道路のゴミを片付けてくれている義経一行も私のカメラにポーズを。 先頭を歩き先導する猿田彦の手には、旗が付いた鉾を持ち、一本歯の高歯の下駄を履いて頑張っていた。 そして漸く目の前に合流した八坂神社と小動神社の神輿が目の前に。 天王祭は江の島八坂神社の神輿が年に一度、対岸の小動神社の神輿と行き会う祭り。江ノ島の八坂神社の神様が女神様で小動神社の神様が男神様、年一度の逢瀬を楽しまれるのだとも言われています。 小動神社で神事が行われた後、再び2つの神輿による合同渡御が龍口寺まで行われます。そして、龍口寺前で別れてそれぞれの神社に戻って行きとのことですが、今年の見学もここまでに。そして134号線に出て江の島を眺めながら、小田急線江の島駅に妻と向かう。突然右手に仏の姿が刻まれた石碑が建っていた。 右から「夢告の井戸」それとも左から「戸井の告夢」? 調べてみるとこんな説明が。『謎多き井戸なので詳しいことはわかりませんが、平安時代にかの弘法大師様が江の島岩屋洞窟で修業された際に関連があるようです。 平安から数百年を経た江戸期。東海道も整備され、治安も安定したので庶民は気軽に旅にでられるようになりました。江戸から江の島までは約2日間。 鎌倉~江の島~大山は大人気のコースだったようです。江戸期の記録によれば、 「片瀬浜の夢告げの井戸は弘法大師のお告げにより湧きいでし清水。その水面に月光を浮かべ、目を洗えば眼病にご利益がある」とのこと 』と。 【http://kamakura-tabi.com/2015/12/09/424/】より転載。よって右から「夢告の井戸」。そして小田急線で家路に。電光掲示板には、江ノ電は小動神社天王祭に伴う混雑のため16時10分〜17時00分頃まで一時運休。藤沢〜江ノ島間、稲村ヶ崎〜鎌倉間で折り返し運転との予告表示が。
2016.07.31
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク神輿のお色直しの始まりを見届けて、海の見える場所に大急ぎで移動。江の島大橋の袂にある北緑地(オリンピック記念噴水池)の近くの、神輿が浜に降りるスロープの横の好位置をGET。係の方がスロープの安全手摺りに紅白の飾りを足場パイプに取り付けて準備中。そして暫くすると、御座船に乗った神主、巫女の姿が前方海上に姿を現した。 そして後ろの方から元気な掛け声が聞こえてきた。そして緑地の中を通り、岸壁に設置した私の横のスロープを海へ下りて行った。気が付くと海中渡御を見ようと岸壁は既に人の山。褌姿の老若男男が掛け声もかけながら浜に降りて行った。 なるほど神輿の飾り綱、飾りは外され、神輿下部は白い帯がしっかり巻かれていた。 そしていよいよ海に入っていく神輿。 担ぎ手の男達が「ヨイヨヨイヨ」のかけ声で海に入っていく。これは「海上渡御(かいじょうとぎょ)」と言い、この祭りの一番の見所。 腰の位置まで行き、神輿を何回か上下して祭りを盛り上げる。 神官、巫女の乗った御座船が近づき神官が御幣を持ちお祓いを。御座船から飛び込む若者の姿も。これも何かの儀式でしょうか?伝承によると・・・「昔、腰越の小動神社に祀られていた祭神二体のうち、男神が海に流されてしまいます。男神の御神体は、江の島で漁をしていた漁師の拾われて八坂神社に祀られました。そのような所以から、八坂神社の御神体を女神に会せるため神輿が海を渡るのだ」と。 鮮やかな吹き流しをたてた御座船からは、「天王ばやし」などが聞こえてきます。同じ頃、対岸の腰越海岸でも、小動神社の神輿が海上渡御を行っていたのです。そして担ぎ手の肩近くまで入り「海上渡御」のピークに。 約15分くらいで海上渡御を終えて浜に戻って来ました。 そして再び私の横のスロープから地上へ。 神輿はヨットハーバーのある方面へ練り歩いて行きました。 神輿を担ぐには氏子だけでは足りず、神事に参加せずに神輿だけ担ぐ飛び入りの部外者が多数いる模様。そして道路を江の島の参道方面に右折すると、神輿の前方に水煙が。 歩行者天国の道路で、消火栓から引いた消防用のホースから勢いよく水が吹き出ていた。海水に浸かった神輿を真水で潮抜きするためであると。 消防団員も大活躍中。 そして木が入って午前の部の海上渡御は終了し一時解散。午後には弁天橋を渡り、同じく海中での禊(みそぎ)を行った小動神社の神輿と龍口寺前で合流。両基は腰越商店街を通って、御祭神の古里ともいえる小動神社まで渡御(=神輿が進むこと)。御祭儀を奉仕した後、神輿は再び担がれて江の島に戻っていく。ここまでが一連の流れとなると。 私は江の島ヨットハーバーのヨットハウスを訪ねる。1964年の東京オリンピック・セーリング競技は、東京を離れてここ江の島で開催された。この東京五輪が開催された江の島ヨットハーバー内の建物、ヨットハウスが改修のため取り壊され2014年6月に新たなヨットハウスがOPEN。 そして東京2020オリンピック競技大会のセーリング競技会場を江の島(湘南港)とする変更案が承認されたのです。 館内には産みの苦しみであった東京2020大会エンブレムが貼られていた。歴史的に世界中で愛され、日本では江戸時代に「市松模様(いちまつもよう)」として広まったチェッカーデザインを、日本の伝統色である藍色で、粋な日本らしさを描いた作品。更にヨットハーバーの奥に進むと江の島天王祭のポスターが。 ヨットハーバーからの江の島の姿。 駐車場を横断し、湘南大堤防上を散策。海も比較的穏やかで、遠くには多くの白きヨットが。 大堤防は遊歩道になっており、途中「自然浴さんぽ路」という足つぼを刺激しながら歩く道がありまさしく風と太陽を受けながらの「自然浴さんぽ路」。大堤防の先には白き湘南港灯台が。 湘南港灯台は江ノ島のヨットハーバーの脇に建っている。防波堤はウッドデッキになっていて公園のように整備されていた。堤防には多くの釣り人が釣り糸を垂れ、デッキには散歩している方々も多く。ヨットをイメージしたデザイン灯台。以前は灯篭手摺の下に電光掲示板があったが今回訪問してみると外されてスッキリと。 灯台は塗装間もないのか白が綺麗で海とのコントラストが映えていた。 塔高:8.1m、灯高:13m。雲の流れの景色も最高。遠く三浦半島と白き雲の流れ。 ここでも多くの釣り人が糸を垂れていた。 ヨットハーバーに戻る白きヨットとその先に片瀬東浜海水浴場、そして江の島大橋。 江の島頂上の江の島シーキャンドル(展望灯台)。 そして再び来た道を戻り龍口寺に向かう。先ほど訪れた湘南港灯台を振り返り見る。江の島弁天橋からの水上オートバイ(ジェットスキー)を楽しむ人達。
2016.07.30
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク先日、江の島の江島神社の境内社(けいだいしゃ)である八坂神社の例祭を見に行ってきました。八坂神社の例祭は、別名「江の島の天王祭」と呼ばれ、湘南を代表する夏祭りとして神奈川の祭50選にも選ばれるなど、人気の夏祭りなのです。小田急線でいつもの竜宮城の如き江の島駅へ。 本来7月14日であった祭日は、近年7月14日に近い毎年7月の第2日曜日・祝日(海の日)に神幸祭行われるようになり、多くの観光客がこの祭りを楽しみに江の島へ訪れるようになったのです。 江ノ島弁天橋を渡る。参道手前にはいつもは見ない「奉納 八坂神社」の幟が立っていました。参道を進むと、朱の江の島神社鳥居が。そしてここにも八坂神社の幟が。江の島神社鳥居の下にはお囃子用の小型の山車などが準備中。 階段を上り瑞心門を抜けて正面にある弁財天像。 階段を上がり終わると、辺津宮境内では御神輿の発輿祭(はつよさい)()が既に始まっていました。 発輿祭は御輿、山車や神式葬儀の棺などが出発する時に行う神事。辺津宮の前に神輿を置き、その周りを何回か回っていました。お囃子陣もその後から。御神輿。 宮司以下神職も姿を現し祭儀の奉仕の準備中。 いよいよ御神輿がお発ち。囃子を先頭に、江島天王囃子とよばれる里神楽にも似た非常に珍しい優美なお囃子をお供に。竹竿の先端に赤い提灯を付けて先導します。 宮太鼓、猿田彦大神、五色榊、五色の旗、賽銭箱…と長い列が続きました。天狗の如き「猿田彦大神」。猿田彦とは、古事記・日本書記の神話に登場する神で、天孫「ににぎのみこと」降臨の際、高千穂までの道案内を務めた神様。よって神輿を先導している?江の島内には史跡「猿田彦大神の石碑」もあるのです。一本足の下駄を器用に履き回していて感心しましたが、よく見ると長刀のようなものを常に手に持ってバランスをとっていました。 スピーカー、マイクを両手に『ドッコイソ-ラ ドッコイ ドッコイ』と威勢の良い掛け声をかける女性。 屈強の男衆に担がれて御神輿は石段を下りていきます。多くの参拝者、観光客のあふれる参道を練り、島の入り口を目指しました。参道脇の土産物屋や食堂の店の方々もしばし仕事を止めて店頭に。 青銅の鳥居の手前まで来ました。 鳥居越しに八坂神社の幟が再び見えて来ました。 巫女さんも笑顔で。 青銅の鳥居を抜けると、御神輿は海に入る支度をします。 宮司による祝辞奏上。 そして海中渡御の準備開始。神輿の飾り紐を変え、担ぐ長い棒を追加していました。 そして周りには、白褌と白足袋のみを身に付けた担ぎ手の男達が今や遅しと。自分の晴れ姿を自撮りするオジサンの姿も。
2016.07.29
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク片瀬市民センター前の弁財天道標。西行がこの松の木の近くで出会った童に「どこへ行く」と問いかけたところ、「夏枯れて冬ほき草を刈りにいく」という歌を詠んだという。弁財天道標。 裏面に西行もどり松と刻まれていた。 片瀬3丁目の個人のお宅の敷地内にある寛文庚申供養塔。下部には3猿が。日光の3猿は右から 見ざる 言わざる 聞かざる であったと思うがこの石碑の3猿は見ざる 聞かざる 言わざる であった。日蓮宗龍口山常立寺(じょうりゅうじ)。元は真言宗回向山(えこうざん)利生寺(りしょうじ)と称していた。日蓮宗となったのは室町時代から戦国の世となっていく永正年間(1504~1521)。こちらも龍口寺輪番八箇寺の一つ。 常立寺(日蓮宗)は、龍ノ口処刑場で処刑された者を弔うために建てられた寺。北条時宗によって処刑された杜世忠ら元の国使もここに葬られたと伝えられている。山門。 山門を潜ると右手に六地蔵が。 左手に大きな石碑が建つ、元寇使者塚。 石碑のもとには、供養塔と伝わる五輪塔。文永の役(1274。世にいう元寇の第一弾)ののち、元(げん)の皇帝フビライは、なおも服従・朝貢を勧告する使者を日本に派遣。鎌倉幕府第八代執権北条時宗は元には屈せぬという断固たる姿勢を示し、鎌倉に護送されてきた使者の杜世忠ら五人を龍ノ口刑場で斬首に処した。杜世忠は己の定めを儚んで辞世の漢詩を残し、龍ノ口の露と消えていった。そして歴史は二度目の元寇(弘安の役。1281)へとつながっていく。基の五輪塔は何れも青い幟で包まれていた。「青い襟巻?」見慣れない光景。 本堂は修復工事中。真言宗時代の回向山という山号は、龍ノ口(たつのくち)の刑場で処刑された者の供養がこの地でなされたことによる。五重石塔。鐘楼。 前方に湘南モノレールが姿を現した。 湘南モノレールの湘南江の島駅の入ったビルの角っこに道標発見。この道標には「従是右江嶋道」と刻まれていた。 「左龍口寺」「願主江戸糀町」と建てた講中の名も。 湘南モノレール 湘南江の島駅入口。 国道467線を渡り江ノ電踏切へ。江ノ電片瀬江ノ島駅が左手に。 洲鼻通りを江の島に向かって歩く。洲鼻通りなぎさ整備事務所前に移設された弁財天道標。「ゑのし満道」 と刻まれた道標。「ここは すばな通り」 と刻まれた石碑。周囲の柵は最近設置された?江の島道も終わる洲鼻通りから江の島が姿を現した。 「ここは 湘南」の石碑。 天女と五頭龍伝説の説明板がこの龍を象った塔の下に。3時間強の江の島道散策を終え小田急線片瀬江ノ島駅から帰宅の途へ。 この日に歩いた江の島道を一遍上人、西行法師、そして源頼朝や義経、鎌倉攻めの新田義貞も、そして江戸時代には江の島詣での江戸の老若男女が賑やかに歩いていたのであった。
2016.07.03
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク直ぐ先左側にあったのが真言宗密蔵寺。 真言宗大覚寺派の寺で宝盛山薬師院密蔵寺と。相模国準四国八十八箇所のうち十七番札所。 鎌倉時代末期に有弁僧正によって開山され、何度かの火災に会ったが、江戸時代に良忍上人によって再建されたとのこと。本尊は創建時から薬師如来だが、本堂に祀られている愛染明王の方が知られているのだと。蜜蔵寺寺号標石青銅製の「親子の愛情像」。 実はこの寺のみふじ幼稚園に妻は幼き頃通っていたのだ。「相模国弐拾一ヶ所 十七番」と刻まれた石碑。 南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)と刻まれた石碑の横の庚申塔。 これも庚申塔。 庚申塔と刻まれた古そうな石碑。石碑の下には三猿が。 本堂。この中には、本尊「愛染明王」が祀られているのだ。 本堂横には、弘法大師「南無大師遍照金剛」の立像が。脚の下の台には、四国八十八箇所の砂が納められているのだと。 桂の木「愛染かつら」。「愛染かつら」は、川口松太郎の昭和12年の小説を映画化したもので、金持ちの医師と看護婦の叶わぬ恋物語。二人が桂の木の前で、願い事を書いて木に結ぶと叶うと聞いて、願いをかけた。この映画に小暮美千代が出演しており、かつて小暮美千代は、江ノ島カーニバルのお芝居に出演していて、その時密蔵寺に泊まっていたとのこと。そこから、密蔵寺本尊の愛染明王を奉るご本尊の前に桂の木を植え、命名したのだと。 「記念植樹 愛染かつら 小暮美千代 昭和三十二年四月二十二日」と札に。 境内左手には六地蔵が並んでいた。六地蔵の後ろの銀杏の木も立派。六地蔵の隣には、小さな弘法大師の石像が26体鎮座。四国八十八ヶ所巡りの大師像を大正時代に実現しようとして関東大震災で頓挫した名残りとのこと。如意宝珠。 富士見大師。 門前の江ノ島弁才天道標。 密蔵寺の先三叉路の側面に「左ゑのし満遍」と彫られた庚申供養塔。左手に並立した江の島弁財天道標。 本蓮寺(ほんれんじ)参道が左手に。 本蓮寺門前の西行もどり松。本蓮寺は片瀬にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。 本蓮寺寺号標石。参道沿いには美しい白壁と曲線美の石灯籠が並んでいた。 冠木門(かぶきもん)の総門の傍らには鎌倉殿(源頼朝)が馬を繋ぎ止めたという伝承にちなんだ「駒繋の松」の案内立札が立つ。戦前までは樹齢数百年の老木があったと。寺伝では創建は推古朝のころ義玄和尚によって開山され、三輪寺と号したと。 手前の石橋は1800年(寛政12年)に架けられたと。本蓮寺山門。 本蓮寺脇門から入った右手には庭園が。 手水舎。 1931年(昭和6年)再建された本堂。推古天皇3年(595年)義玄が創建し、その後真言密教の寺院となったと伝わる。元暦元年(1184年)に、源頼朝が源立寿寺として再建したのち、文永8年(1271年)、日蓮が龍ノ口法難の後、休息をとったという伝承が残る。嘉元年間(1303年-1306年)頃、日秀が日蓮宗に改宗し現在に至るとのこと。 明治19年まで住職がいなかった龍口寺の輪番寺の一つ。境内の石畳の周りには竹製の行灯もあるので夜間が見どころ?同じく1931年(昭和6年)再建された鐘楼。 本堂裏稲荷山中腹には、1989年(平成元年)建立した多宝塔が。 本堂横の五輪塔。 本堂に向かって右手前には、宗尊親王(むねたかしんのう。1242~1274)の歌碑が。「帰り来て 又見ん事も 固瀬河 濁れる水の すまぬ世なれば」。宗尊親王(後嵯峨天皇の皇子)は鎌倉幕府第六代将軍(1252~1266在位)。源氏将軍三代が途絶えたのち、四代五代の藤原摂家将軍に続いて、執権北条氏が待望した親王将軍として、京より鎌倉に迎えられたと。この歌は、京に送還されることになった親王がここ本蓮寺(当時は源立寿寺)において行われた別離の歌会で詠んだ、とされるとのこと。片瀬市民センターを過ぎて角を右折し、しばらく行くと角地に設けられた小さな公園。そこが一遍上人地蔵堂跡。 ここ片瀬界隈においては日蓮上人の「龍ノ口(たつのくち)法難」があまりにも有名であるが、この一遍上人の故事も忘れてはならない歴史なのであった。鎌倉仏教の開祖六人衆(浄土の法然・禅の栄西・浄土の親鸞・禅の道元・法華の日蓮・浄土の一遍)のトリを飾る、時宗(じしゅう)開祖・踊念仏の一遍上人(1239~1289)。
2016.07.02
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク巌不動尊を後にし、江の島道を更に南に進むと、妻の母校片瀬小学校が左手に。その先の敷地の一角に庚申塔が左右に2体と、その間に恐らく双体道祖神と思われる石碑が1体、そしてその後ろに説明札が竹垣に囲まれた中に安置されていた。右から「元禄六年(1693年) 庚申供養塔。」六腑合掌青面金剛+三猿 舟形光背碑。真中は「年銘欠・道祖神塔」。 左は「文化二年(1805年) 庚申供養塔」。合掌青面金剛+三猿 笠塔婆石塔。そして近くには「江の島弁財天道標」が。 この道標は江の島弁財天を深く信仰した江戸時代の鍼医杉山検校が八王子から随所に立て、藤沢から江の島道には一丁目(約109m)毎に立てたうちの現存する一基。向かって左側面には「一世安楽」(道標は「一」の字の上にもう一本横棒が彫られ「二」になってしまっていた)。正面「ゑのし満道」。泉蔵寺(せんぞうじ)の入口にある石碑には「戦勝開運 弘法大師」と彫られていた。戦勝とは何の戦い? 泉蔵寺の門前、道に面した所には、6体の庚申塔と1体の馬頭観音が祀られていた。泉蔵寺山門。山門の柱に高野山片瀬山真言宗大聖院泉蔵寺と大書した木札が掛かっていた。北条泰時が開祖と伝えられている寺。本堂。本尊は不動明王。屋根には後北条氏の家紋が。弘法大師像。 水子子育地蔵尊。 本堂裏の山の斜面は、片瀬小学校のグランドを臨むように墓地が大きく拡がっていた。 江の島の海と富士山が眺められる墓地ではあるが、グランドの子ども達は、この緑なきこの斜面の光景をどの様に感じているのであろうか。諏訪神社まで歩を進める。諏訪神社社号標の石柱と石の大鳥居。 諏訪神社 大鳥居扁額。昭和15年建立 一の鳥居 御影石製社号額。 石灯籠、二の鳥居前から。 二の鳥居前から拝殿が見えた。 巨大なひのえ申の絵馬。 手水舎。 片瀬諏訪神社下社拝殿。由緒書きによると、創建は養老七年(723)信濃国諏訪大社を勧請したのがはじまり。かつて、このあたりには大きな湖があり、それが諏訪湖を取り巻く諏訪の地に良く似ていることからこの地が選ばれたのだと。 諏訪神社は全国に10000社近くあるとされるが、上社・下社を備えているのは信濃国諏訪の信濃国一之宮の諏訪大社とこの片瀬の諏訪神社のみであると。社務所。 そして諏訪神社へ案内に従って進むが判りにくかったのであったが。 諏訪神社上社は、江の島道沿いに建っていた。急な長い階段を上る。 石段を上り詰めた場所にある片瀬諏訪神社上社の社殿。上社の御祭神は,諏訪大社上社の祭神の建御名方富命(たけみなかたのみこと)。この日は柵があって、境内には入れなかった。 社殿手前左側の狛犬の後ろには石碑が。表面には震災記念碑と刻まれていた。 背面には・大正12年(1923年)9月1日11時58分 未曾有の大震(関東大震災)があった。・天皇より1千万円をいただいた。・神社も拝殿や御神輿などが倒壊したので直ちに修理した。・大正13年1月5日には大きな余震があり、破損個所を再び修理した。・氏子の被害も大きく、家屋の全壊、半壊、全焼、流出多く、負傷者52名 そして33名の死者を出した。 流出の文字には大津波の襲来もあったのでであろう。・慰霊祭を行った。・災害を後世に伝えるために記念碑を建立した。・死亡者の氏名など。ここ片瀬の街の惨状が刻まれていた。諏訪神社上社からの江の島方面の展望。マンションが邪魔をして江の島シーキャンドル (江の島展望灯台)は完全に隠れていた。 カメラの望遠で江の島の瑞心門、朱塗りの大鳥居が見えた。
2016.07.01
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンクこの日は『江の島道』 の藤沢散歩に行ってきました。『江の島道』とは、遊行寺橋たもとにあった江島神社の一の鳥居を出発点とし江の島までの片瀬旧道を呼んでいるのです。遊行寺橋から藤沢駅近くまでは既に散策し『歩いて見よう藤沢宿(その2)』でブログアップしましたのでこの日は藤沢駅南口からのスタートとしたのです。藤沢市民会館前の道路沿いに展示されている像。「平和の像 PEACE」 。作者は「熊坂兌子(なおこ)」さん。藤沢高校の卒業生で、美術の講師を務めていられるそうです。この後行った大庭城址公園にも同じような彼女の作品が展示されていたのです。同じく近くに「翔」が。 地元の彫刻家、親松英治氏の作品市民会館の前に福永陽一郎の記念碑も建っていた。 「日本の代表的なオペラ指揮者で藤沢市民オペラの生みの親でもある福永陽一郎さんの没後25周年をしのび偉業をたたえる記念碑とのこと。藤沢市民会館前庭には、戦後、最初の社会党内閣総理大臣の”片山哲像”も。 秩父宮記念体育館横の旧近藤邸内の『少女像 まごころ』 旧近藤邸。 旧近藤邸は、関東大震災の直後の1925年(大正14年)、藤沢市辻堂の松林に別荘として建てられた。当時の和洋折衷の代表的な建物と。建て主の近藤賢二氏没後、所有者が変わり、老朽化に伴って取り壊しが決定されたが、保存を望む声が近隣の住民や建築家から起った。「旧近藤邸を守る会」を中心とする1年余りの保存運動の結果、藤沢市によって移築保存されることになり、1981年3月、藤沢市民会館の前庭に移築され、今日に至っている。旧近藤邸は、有機的建築家として知られた遠藤新の設計で、暖炉を中心とした居間とモダンな和室など、当時の和洋折衷の代表的な建物。現在は障がい者就労支援施設「軽食&喫茶すかいはーと」としてオープン 。休日診療所入口の交差点を左折し、境川にかかる上山本橋を渡る。前方にミネベア(株)の工場が見えて来た。 しばらく行くとミニベア(株)社宅の三叉路左手に庚申供養塔(大源太の辻)が。「従是左ふじさ王道/従是右か満くら道」と刻まれていた。更にしばらく歩き『新林公園(しんばやしこうえん』に到着。 新林公園には旧福原家の長屋門が移築されていた。福原家は藤沢市渡内の旧家で、峰渡内村の名主。この長屋門は江戸時代後半の建築当初の状態を良く残していることから、平成18年(2006年)度から20年(2008年)度にかけて新林公園内に移築復元された。藤沢市指定重要文化財(建造物)。 そしてその奥には古民家・旧小池邸。小池家は市内柄沢の旧家で柄沢村の名主。名主の屋敷に相応しく、この建物は建築面積171,4平方メートル(約52坪)の寄せ棟造りの茅葺き屋根、土壁、石基礎で土台に栗が使われていると。立派な座敷を備え、名主の住宅の格式をよく表わしていた。囲炉裏はマッチなどによる着火が容易でない時代、火は絶やされることなく竃や照明の火種として使われていたのだ。 六畳間の和室。小池家の先祖は足利尊氏に仕え、江戸時代になって柄沢に移ったと。木製の橋が整備された湿性花園へ足を延ばす。菖蒲の花が満開中。様々な色が。半夏生(はんげしょう)の群生地。上の方の葉っぱが、ペンキをべったり塗ったように白くなっているのが風情のある植物。よって」「半夏生」の他にも「半化粧」、「片白草(かたしろぐさ)」など、いろんな呼び名があるのだ。花期のこの時期に葉が白くなるのは、虫媒花であるために虫を誘う必要からこのように進化したのではないか、といわれている(白くて目立つ)のだ。近くにいたオジサンの話によると、カワセミも飛来するという最奥の川名大池。子ども達が橋の上から魚を見つけて楽しんでいた。新林公園を後にし江の島道を更に進むと『馬喰橋』と表示された小さな橋に。源頼朝がこの川に馬の鞍を架けて橋代わりに往来したことから馬鞍橋といわれたとか、馬殺橋、馬鞍結橋など様々な名で呼ばれ、馬にまつわる幾つかの伝説が残ると。この付近は江戸時代には江の島参詣の往来や海上交通の拠点としても賑わったところ。だが、境川の洪水などにより、橋は何度も流され、往来の人を困らせたのだと。片瀬丘陵から境川に向けて流れ出る小川にかかる石橋。小川の水量は殆ど無し。片瀬山中学へ向かう道を横断し、江の島道を離れ左折。この道は大学時代に家庭教師に向かった道であり懐かしかったのであった。これも懐かしいPINY片瀬山本店というパン屋とマンションの間の細い道を右折。すると巖不動尊の表示板が目の前に。住宅街の中に突如として現れる正面鳥居に到着。境内には奉納された灯籠がずらずらと並んでいた。岩壁からは岩清水が沁みだしひたひたと垂れる音が印象的で清々しさが。灯籠には小さな裸電球が取り付いてはいたが・・・・。洞の中には地蔵尊が。赤い帽子と涎掛けが一体となっていた。その横にも岩屋が。 ここにも2体の地蔵尊。 こちらが巖不動尊 社殿。『巌不動尊』の文字が。巌不動尊は正式名は石籠山不動尊。弘法大師空海が穴居修業したと伝えられている。その後、江戸時代初期には快祐上人がこの岩屋で入定し、即身成仏。快祐上人は片瀬の生まれで、江戸の湯島や手広の青蓮寺で修業した名僧。中に入るとなるほど巖屋。 こちらの赤い文字は『不動明王』。横には線香の自販機が置かれていた。内部の電気を付けると、明るくなると共に換気扇が動き出した。中央にはご本尊の不動明王が鎮座。 江の島道に戻ると角には『岩屋不動明王入口』 の石碑が。ここから入るのが正式ルートか。
2016.06.30
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク大庭城址公園を後にし、再び自転車で湘南ライフタウンの端の住宅街に向かう。一段高く石垣で整備された同じ敷地に神社が2社鎮座していた。1社は熊野神社。御祭神は熊野久須比神熊野(くまのくすひのかみ)。一説によると、1254年(建長6年)、五代執権北条時頼が、聖寿丸(時宗)と福寿丸(宗政)兄弟の武運長久を祈って建てられた聖福寺の跡ともいわれていると。古い石塔・碑なども安置されており、歴史を感じられたのであった。熊野神社拝殿。この地は、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の雄、大庭氏の拠点となり、室町時代には、太田道灌が本格的な築城を行い扇谷上杉氏が領した堅城大庭城があった。時代が下り北条早雲により攻め落とされ、東に北条氏の居城玉縄城が築かれても、その支城として大庭城は重要な位置を占めたのだと。もう1社は市杵島神社 (いちきしまじんじゃ)。古い木の鳥居に小さめな社殿、北の谷の弁天さま(きたのやのべんてんさま)とも呼ばれていると。 こちらの御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。同じ境内には先ほどの熊野神社も鎮座。境内広場は町内の施設にもなっているようで、子供達の運動広場でもあるのです。次に北の谷共同墓地(丸山共同墓地)にある寛文十二年庚申供養塔を訪ねる。寛文十二年(1672)の三猿庚申塔。正面に三猿、右から「見ざる、聞かざる、言わざる」。この庚申塔は寛文12年大庭入村手院いまは廃寺、大庭二番構(がまえ)5,700番地にあったが、開発工事の為に大庭のこの場所に移されたと。共同墓地内には多くの仏像が並んでいた。元は阿弥陀堂で、発願山千手院と称したが、明治6年に出た無住寺院の廃寺令により廃院となる。大師像はそのまま旧跡に残されたのだと。今は土地区画整理のため整備されたこの共同墓地内にある。正面に新しい大師堂が建てられ、その中に昭和55年に新しく造られた大師像が安置されているのだ。引地川親水公園沿いに自転車を走らす。一面に黄色の花が。ニッコウキスゲか?新しい神社は『伊澤稲荷神社』。鳥居には『正一位伊澤稲荷』の扁額が掲げられていた。この石川地域には旧家の伊澤家が多いのは承知しているが・・・・。次にこれも石川地区にある『佐波大明神』 を訪ねる。正面鳥居と参道。 社殿近景。 社殿正面。 千鳥破風と唐破風が屋根に。御祭神は源義朝(みなもとのよしとも)。鐘楼。 引地川を渡り『自性院』へ。 浄土宗の寺。開基は領主旗本 中根臨太郎そして開山は竜見。慶長16年(1611)の創建。本堂。ご本尊は阿弥陀如来。 自転車で石川ポンプ場の裏を通り、細い竹林の中の坂道を上って行くと山王神社(さんのうじんじゃ)入口に。神社の方向から後光が射していた。階段を上って行くと正面に小さな神社・山王神社が。ネットによると、山王神社は、山王信仰に基づいて各地に存在する神社。山王信仰とは、比叡山麓の日吉大社(滋賀県大津市)より生じた神道の信仰。日吉神社・日枝神社(ひよしじんじゃ、ひえじんじゃ)あるいは山王神社などという社名の神社は山王信仰に基づいて日吉大社より勧請を受けた神社で、大山咋神と大物主神(または大国主神)を祭神とし、日本全国に約3,800社あるのだと。小さな堂の中で、地蔵さんが静かに。そしてこの日の最後は『石川天神社』へ。天神社鳥居と境内。天神社本殿。御祭神は神皇産霊神(かんみむすびのかみ)菅原道真(すがわらみちざね)天照皇大神(あまてらすすめおおみか) と蒼々たる御祭神。小さいながら地元に根付いた神社。 鐘楼は本殿の左手に。 自転車を利用すれば、1時間以内で行ける場所に多くの歴史ある城址、神社、仏閣等が存在していることを再確認したのであった。同じ地域(集落)に住む人々が共同で祀る氏神として、その土地に鎮まりその土地やその土地の者を守る神・鎮守として、それら全ては地元と密着し、大切に守られているのを今更ながら知ったのであった。
2016.06.27
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク宗賢院を後にし、「臺谷戸(だいやと)稲荷の森」に向かう。稲荷神社の境内は臺谷戸(だいやと)稲荷の森と呼ばれる丘の上にあり、タブノキ、ヒサカキ、ヤブツバキ、ケヤキなどが生い茂っていた。階段を上ると朱の鳥居が2本。 小さな神社。 大庭御厨を開発した鎌倉権五郎景政が境内を馬つなぎの場としたと伝えられ、近くには、先ほど訪ねた大庭景親の居館が近くにあったという宗賢院や大庭神社の旧跡といわれる熊野神社があるのだ。このタブノキは幹周り6mもあり、かっては樹高が18mもあったが老木化により平成8年(1996年)に大枝が折れてしまったと。 奥には地上1mで双幹になっているタブノキが。 続いて熊野神社(くまのじんじゃ)に向かう。江戸時代には「御霊社」、「権現社」と呼称されていたが、境内の石碑には「大庭神社舊趾」と刻まれていた。歴史を感じさせる石鳥居の先には竹藪に囲まれた参道が。何故か参道の階段が途中で微妙にずれていた。 こちらも小さな社。 大庭の地に鎮座し、本来はこの神社が「延喜式内相模国十三座」に数えられていた大庭神社だといわれている。賽銭箱は大きなコンクリート基礎から出た鎖で縛られていて、盗難防止? この後再び舟地蔵公園に戻り、自転車で小糸川沿いを走り大庭城址公園の駐輪場に自転車を停める。坂を上ると大庭城址公園の建物が見えて来た。 坂の途中から見えた、湘南ライフタウンの高層住宅。 大庭城址公園・管理事務所に到着し中で一休みする。 管理事務所内には天井からぶら下がった和凧。引地川と書かれた文字。 管理事務所内には大庭城の歴史について案内表示が。 大庭城址公園のMAP。 豊臣秀吉の小田原攻めの詳細ルート案内。大庭城周辺の地形の模型。 石畳の坂道を登り大庭城址公園の広場を目指す。 大庭城址周辺コースの文化財の案内板。 公園の入口は3ヶ所 『自然』。藤沢都市計画事業西部土地区画整理事業完成記念 1995年(平成7年)制作者 熊坂 兌子。母が赤子を抱くかのような白き像。 大庭城址案内板。大庭景親の城址と言われているが明らかではなく、室町時代中期の15世紀中頃に太田道灌が築城したと。その後、扇谷上杉朝良の時に北條早雲によって攻略され、豊臣秀吉の小田原攻めの後に廃城になったとのこと。 『からほり』 と彫られた石碑。戦国時代の大規模な空堀とのこと。 城址公園内には、それぞれの曲輪を区画するための空堀が、東西に横断するように3本残っているとのこと。チビッコ冒険広場には家族連れの姿が。 掘立柱建物址。大庭城屋敷跡この石柱は1968年(昭和43年)の発掘調査で見つかった高床建築の柱穴の位置を示すも。実際の柱穴は現地表下50cmに保存され地下に埋まっているのだと。大庭城跡碑。舟地蔵方面からの公園入口にあり、かすれて読み難かったが、大庭景親の居城と言われ、後に上杉氏の居城となり、北條早雲に滅ばされたと漢文調に漢字のみの記載。 石碑には『昭和七年九月 神奈川縣』の文字が。ドクダミの群生地。 大きな釣り鐘状のうすいピンクの花を咲かせるホタルブクロ。 花の広場のバラはピークを過ぎてはいたが、様々な種類の花が残っていた。 鮮やかなオレンジの花そして未だ蕾も。 美しい真っ赤な薔薇。 色の七変化。 市制50周年記念の「足型の丘」。 先人が立ち上げた半世紀にわたる歴史の上に立ち、家族の記念として子供の成長の記録として残されたもの。家族の足形、二人のもの、大きい足、小さい足、見ていると心温まるのであった。 公園北端の『原始・古代の集落』説明板。この台地上には、縄文・弥生・古墳・奈良・平安時代など各時代の遺物が広く散布しており、大庭城が築かれる以前から、人々の生活舞台となっていたと。 『さくらの園』。広場内にはケヤキやクスノキ、サクラなど、さまざまな樹木が植栽され、それらの樹形がアクセントになって景観も見事。見事な枝振りの大きな木もあり、日差しの強い季節には木陰を落としてくれその下にテントを張っている家族の姿も。サクラは特に多いようで、春には美しい景観を見せてくれること間違いなし。広場の北側外縁部には藤棚が何カ所かに設けられており、これも開花の時期には見応えのあるもの。
2016.06.26
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンクこの日の藤沢散策は大庭城址と周辺の散策に出かける。この日は自転車でリュックを背負って向かう。日本大学生物資源科学部の学内道路を進む。天神町の坂を下り、引地川に出て橋の手前で左折し、川沿いを進む。途中、大きなそして立派なカメラを覗きながら、川に向かっている多くのシニアを発見。雑草の陰にある流木に背中の青い美しい鳥を私も発見。近くの方に聞いてみると『カワセミ』、そして今は小魚を雛鳥に与える育児の期間であるとのこと。私も必死にシャッターを押したが殆どがピントは合わず。何とか小枝に留まっている所を一枚。また暫く川沿いを進むと明るい場所に別のカワセミが。その先の川岸には亀が日向ぼっこ中。 そして引地川を離れ引地川水路橋を潜る。横浜市水道の馬入川系統の導水管路。ここは引地川が流れている低地を高低差を少なく飛び越す為の水道管用の橋。そしてしばらく行くと、左斜面に大庭 聖ヶ谷(ひじりがやと)の道祖神を発見。右は双体神祇道祖神、左は兜巾型文字道祖神。そしてその先の二股に道路が分かれる場所に日月一猿庚申塔そして横に案内板が。 文政11年(1828年)建立。 道標を兼ねており、塔の側面に「右ひき志」「左ふじ沢」と刻まれていた。 更に自転車を走らせ成就院へ。 高野山真言宗の寺院、山号は稲荷山。創建は文和年間(1352年 - 1356年)頃。『新編相模国風土記稿』によると開基は山名伊豆守で山名時氏か山名師義ではないかと。古くは宝染寺という寺号で大庭神社の別当であったと。天保年間(1830年 - 1844年)に火災にあったとのこと。本堂前右には弘法大師の石像が置かれ、相模国準四国八十八箇所三十四番札所となっている。 庭におられた住職?本堂内も見学して下さいと。本堂内には天井梁から多くの仏画が。 墨の仏画も。 本殿。 本尊は愛染明王とされています。石碑によると『鎌倉市の深沢小学校裏山の墓地にあった樹齢500年ともいわれた椿の古木の根。平成7年11月、元禄の頃より続いていた旧家の墓地造成のため椿の古木の根を掘り出し、皮をむくと鶴と亀が表面に現れ、裏面には鯛、貝、男性・女性のシンボルが現れた。出産等の縁起の良い古木として大日如来が彫刻され、成就院に家内安全の仏として奉納された』 と。庭の池には立派な不動明王が置かれていた。 御朱印をいただきました。成就院から引地川親水公園へ向かう途中の東側の森に神社の鳥居が。『郷社(ごうしゃ)大庭神社』と刻まれた石碑が入口に。草に隠れて「庭神社」は隠れていたが。調べてみると、郷社とは、「社格(神社の格付)」のひとつ。鳥居を潜り新緑の中の75段程の踊り場なしの急な階段を上る。更に30段以上の階段を上り左に折れると、前方に大庭神社が見えて来た。真ん中、そして右には石鳥居の柱?が残されていた。左手には鐘楼。大庭神社御本殿。大庭城を拠点としていたという大庭景親が祀られている神社で、景親は、1777年(安永6年)に祀られた。1783年(天明3年)には、菅原道真も祀られたことから「天神社」とも呼ばれている。大庭城址の南を流れる引地川沿いの高台にある古社で、「延喜式内相模国十三座」に数えられていた神社。入母屋造りの屋根に千鳥破風。引地川に架かる天神橋を渡る。 左側の欄干の上にのみ何か突起物が。欄干に金属製の蛙が等間隔に。相撲の立会いから取り組みまで、そして行司を含め全部で10匹が向かい合うように。その表情は鳥獣戯画から抜け出して来たようで、写実的であり何となく可愛げが。しかし鳥獣戯画は蛙と兎だったのでは。43号線に出て左折し、暫く進むと三叉路の交差点に到着。歩道を渡ると右手に『舟地蔵』が姿を現す。 石の小舟に座る幼児ほどの石地蔵は、赤い帽子を被りピンクのよだれかけをしていた。台座が舟の形をしていることから「舟地蔵」と呼ばれている。案内板によると『北条早雲が大庭城を攻めたとき、沼地で攻め入ることができず、近くに住む老婆に引地川の堤を切れば、沼地が干上がることを聞き出した。北条軍はそのとおりにして大庭城を攻め落とした。しかし、老婆は、秘密が漏れるのを防ぐため、城を攻めるのに先立って斬り殺されてしまったと。一説には、その老婆を供養するために建てられたのがこの「舟地蔵」なのだと伝えられていると。 小糸川の橋を渡り舟地蔵公園の駐輪場に自転車を停め、徒歩にて再び43号線に沿って歩き宗賢院に向かう。10分弱で宗賢院に到着。山門の左手横には、白塀に囲まれた黒門と参道が残されていた。宗賢院は、約500年以上前に創建された曹洞宗の古刹で、境内には神木の銀杏や高木が鬱蒼とした荘厳な雰囲気の寺院。山門も歴史を感じる重厚さが。山門右手の石灯篭が見事。山門を入った場所の仏像。 境内の梅の老木の下を本殿に向かう。 輪光背を持つ観音菩薩立像、左手に蓮のつぼみを。本殿前には、巨大な宝篋印塔が立ち、その前には阿弥陀像の坐像と立像が並んでいた。宝篋印塔の横の階段上には龍骨堂があり、中には「龍骨」が安置されていると。昔は雨乞いの神として周辺の農家が「龍骨」を借りに来て、にこれを小川に持ち出し水を注ぐと、雨が降るという伝説があるのだと。 境内右手奥にある本堂。 宗賢院は、1505年(永正2年)の創建と伝えられる曹洞宗の寺院。山号は蟠龍山。開山は虚堂玄白、開基は宝珠院殿華窓智栄大姉。1649年(慶安2年)、徳川三代将軍家光から十石の朱印地を賜り、二世から四世までの間に末寺17ヶ寺が創建されたと。寺宝に大庭景親の陣釜とされる茶釜や、面山老師自筆の『相州養命寺記』一巻、「相州大庭荘」の扁額が伝えられているのだと。宗賢院後方の台地は大庭景親の居館跡ではないかといわれていると。本堂正面。ご本尊は釈迦如来。本堂右手前に象に乗って経文を読む賢者らしき像が厳めしい顔で。小さな堂の中の六地蔵。 阿弥陀像を中心に多くの墓石がピラミッド状に。 その横の階段を上った境内の高台には、歴代上人の霊廟所が。
2016.06.25
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク第一岩屋と第二岩屋を結ぶ桟橋より第一岩屋出口を望む。 波間に「亀石」が。波に現れている姿は、巨大な「亀」が龍宮城へと帰っていくかのようにみえるのだと。(満潮の時は見えなくなる場合があると。)ネット情報によると、この「亀石」は、やはり地元片瀬の中村石材の先代の『中村亀太郎』氏がノミをふるった亀であるといわれているようです。岩場に打ち寄せる白き波しぶき。 岩場の先、遠く三浦半島も。 『かながわの景勝50選 江の島稚児ヶ淵』 と刻まれた石碑。帰路も途中まで同じ道を引き返す。稚児が淵から江の島大橋まで、渡し船も出ているが徒歩を選択。江の島シーキャンドル(展望灯台)が前方に。景勝地『江の島』の象徴としてして親しまれてきた『江の島展望灯台』が2003年4月新しく誕生。高さ59.8mの展望灯台には、展望フロアとオープンエアの屋上デッキが設置され、湘南海岸を360度見渡せる展望スポットとして、カップルやファミリー、グループに大人気。 山ふたつの手前の中村屋羊羮店本店の手前を左に入り、下道を歩く。この道を利用すると、階段もなく参道まで戻れるのだ。江の島市民の家に行く赤い橋が前方に。 江戸時代の鍼師、杉山検校の墓で、一周忌の命日、元禄8年(1695)5月18日に建立されたもの。「検校」(けんぎょう)という名称は、盲官の最高位のこと。ここの階段を下りたところに比較的新しい墓石の杉山検校の墓?があった。そして児玉神社へ。一の鳥居。日露戦争で活躍した明治時代の軍人・児玉源太郎を祀った神社。日露開戦間際の頃、参謀次長となった児玉は、鎌倉の別荘を避け、こっそり江ノ島の山中に閉じ籠もり、おもむろにシベリアの形勢を案じていた。ところが、いつの間にかこの退避先にも「陸軍の諸星や顕官の面々」が押し寄せるので、江ノ島町内ではだれであろうかと穿鑿の末、参謀次長児玉源太郎大将と知れて、町民は大いに大将を徳とした。そこで「将軍沒後江の島町民は将軍の静養の地を購つて其霊を祀つたが大正七年内務大臣から兒玉神社を公認された」と。入り口付近にある山県有朋の歌碑。「児玉藤園の身まかりける日讀ける 有朋 越えはまた里やあらむと頼みてし杖さへをれぬ老いのさかみち」と。階段上に二の鳥居。児玉神社参道にある石碑群。中央の碑は後藤新平詩碑も。本社は工事中でネットが全面に。帰路の参道(弁財天仲見世通り)には相変わらず多くの観光客が。 江の島名物、丸焼きたこせんべいの店・「あさひ本店」 にはいつも長蛇の列が。懐かしき桜貝のお土産。 冷たいきゅうりの1本漬けも販売中。我が家の食べきれないきゅうりも我が家の前で販売しようかとも??。 生シラスも販売中。 江の島郵便局前の古そうな郵便POST。「明治時代の郵便差出箱、明治4年3月に郵便事業が創業し、明治5年、東京府下に郵便取扱所を開設するにあたり、書状箱を設置したのが始りです。この差出箱は、明治20年頃に使用したものを復元したものです」と案内板が。旅の想い出に投函する観光客女性もいた。モース記念碑を見に行く。江ノ島大橋が眼前に。 モース記念碑。モースは、アメリカの動物学者でダーウィンの進化論を初めて日本に紹介した人物。1877年(明治10年)、来日したモースは、東京大学の初代動物学教授を引き受け、江の島動物学研究所で腕足類のシャミセンガイの研究を行った。漁師の網小屋を借りて設置された研究所は、東洋初の臨海実験所となった。実験所の場所は、現在の恵比寿屋旅館の敷地内。モースは品川区の大森貝塚の発見・調査で知られている学者。モース記念碑の近くの噴水池。世界女性群像噴水池は東京オリンピック(1964年)記念として作られたと。噴水内には5体の像があり、中央に弁財天。周りに西洋:ギリシアの古代女性像等、4体の像が囲んでいる。彫刻の作者は加藤顕清。 現代:東南アジアの踊り子像。 東洋:法隆寺の百済観音。 古典:西洋の女性裸像。 再び江ノ島弁天橋へ引き返す。土産物屋の店頭には相模湾で採れた多くの海産物が並んでいた。 そして江ノ島弁天橋を江ノ電 江ノ島駅に向かって戻る。 国道134号線下の地下通路へ。 江ノ電 江ノ島駅から江ノ島方面に延びる「洲鼻通り」を歩く。 懐かしきスマートボール、射的の店が今でも。 妻から長男の幼き頃の作文の話を聞く。江の島弁財天道標。杉山検校(けんぎょう)が建てた藤沢宿から江の島へ至る江の島道の道標。道標はいずれも花崗岩製、高さ約1メートル、各面幅20センチの石柱。正面および両側面に「一切衆生 ゑのしま道 二世安楽」と銘が刻まれている。 一切衆生(=世の中に生きている全てのもの)の二世安楽(=現世及び来世の安楽)を祈念した造立者の熱き心が偲ばれる道標。そして江ノ電 江ノ島駅に到着。駅入口の車両進入禁止柵にかわいいスズメが。禁止柵は2つ。全部で8羽。季節ごとに衣替えをしているのだと。こちらの帽子は手が込んでいた。どなたが衣替えを?ホームで電車を待っているとカラフルな鎌倉行きの電車が。 江ノ島電鉄 1100形「スキップえのんくん号」。江ノ島電鉄の鉄道開業110周年を記念したフルラッピングの広告車両。そして我々が乗ったのは、江ノ電カラー(淡緑とクリーム)塗装の江ノ電の最古参車両・305系車両。そして藤沢駅から小田急線に乗り換え、久しぶりの江の島完全制覇?の散策が終わったのであった。岡山のSさんご夫妻、どうぞ近々に江の島観光にお越し下さい。我が妻が現地ガイドをやると張り切っておりますので。実は今回はその準備、予習の江の島巡りなのでした。
2016.06.22
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク島の西の端にある奥津宮に到着。正面に見えるのが源頼朝寄進の「石鳥居」。手水舎。前柱二本の礎石は「耳のある亀」が彫られていた。力石は、江戸時代に日本一の力持ちといわれた岩槻藩の卯之助が奉納した石。 80貫(320キロ)とのこと。弁財天の祭礼で力競技を行ったときのもの。 亀石(亀甲石)の表面には、亀の甲羅の紋が。奥津宮は、本宮御旅所と称され、夏期の避暑地だったのだと。祭神は多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)。山田流箏曲(琴)の開祖 山田検校の像。この像は、1917年(大正6年)の100年忌にあたり顕彰碑とともに建てられたと。拝殿下より奥津宮。『奥津宮』と書かれた扁額と宮内部の鏡が確認できた。奥津宮拝殿天井の「八方睨みの亀」は、1803年(享和3年)、酒井抱一によって描かれた「正面向亀図」。どこから見てもこちらを睨んでいるように見えることから「八方睨みの亀」と呼ばれるようになった。現在掲げられているものは、1994年(平成6年)に描かれた模写で、原画は江島神社宝殿に納められているとのこと。 江ノ島神社龍宮(わだつみのみや)。竜宮大神は、江の島の龍神。江の島は古来より、 龍神信仰と弁財天信仰とが習合した島。1994年(平成6年)に岩屋の真上に位置する場所に鎮座されたのだと。 祠の上に横たわる龍珠をくわえてた龍宮大神の姿は独特の威厳と迫力が。 龍宮(わだつみのみや)にも御祭神《龍宮大神》が祀られていた。高木蒼梧の句碑。「夏富士や 晩籟神を 鎮しむる」。 富士見亭前に石垣と石柱が並んでいた。明治座・・・・と刻まれた石柱も。しかし石垣の横は荒れていたがここは??。旗には『昔の音が沁みている 風に吹かれて波が創った海蝕洞窟へ』 と。江の島岩屋のポスターと入洞時間は9~18時、荒天時を除き年中無休と。 そして狭い階段下には海が見えて来た。 御岩屋道、稚児ヶ淵の表示とその先には6つの石碑が。 どれかと探してみると下の写真左の石碑が松尾芭蕉のものらしい。「疑ふ那潮能花も浦乃春(疑ふな 潮の花も 浦の春 の意)」と刻まれているが三重県伊勢の二見ヶ浦での作品で江ノ島を詠んだわけではないと。 では何故ここに? 芭蕉は江の島に来たことがある?石碑前の踊り場から見る湘南の海。未だ新らしそうなトイレは妻の幼なじみが建設担当したと。 湘南の海を眺めながら、幼き頃を懐かしむ女性の姿が。 稚児ヶ淵。稚児ヶ淵から眺める夕景は「かながわの景勝50選」に指定。建長寺広徳庵自休和尚に見初められた稚児の白菊が、断崖から身を投げ、自休和尚もその後を追ったという伝説が残されているのだと。 稚児ケ淵にある永瀬覇天郎句碑。本名永瀬登三郎は藤沢で酒屋を営んだ俳人。「桟橋に波戦える時雨かな」。岩屋に続く整備された橋。岩に打ちつけられた波が白く砕けて。左手崖下には、昔の第一岩屋への階段の名残が確認できた。幼き頃、岩屋に入った記憶があるがこの階段を上って行ったのであろう。岩屋入口でチケットを購入。おとな(高校生以上)500円 こども(小・中学生)200円。『江の島No.1パワースポット』の白の横幕が入口に。長い歳月を経て波の浸食でできた岩屋は、第一岩屋(奥行152m)と第二岩屋(奥行56m)から成っている。昭和46年以来、長期閉鎖されていたが、周辺施設を一新し、平成5年4月から再開。照明はあるものの薄暗い洞内を進む。洞窟に入ってまず最初に目につくのがこのギャラリースペース 。江の島の歴史や文化、自然、岩屋を描いた浮世絵などがパネルで紹介されていた。岩屋のパンフレット表紙に載っている歌川広重作『六十余州名所図会 相模江ノ嶋岩屋ノ口』与謝野晶子の「沖つ風 吹けばまたゝく 蝋の灯に 志づく散るなり 江島の洞」の歌碑が池の中にそして水面に。手燭(ロウソク)の貸してくれた。これも岩屋観光の想い出にとのアイデア。最奥には日蓮の寝姿石。鎌倉で布教をした日蓮は、江の島で修行を積んだと。1271年(文永8年)9月12日、幕府に捕えられた日蓮は、江の島対岸の龍ノ口刑場に護送された。しかし、江の島の方角より光が発せられ処刑が中止になったと伝えられているのだ。そして岩屋の奥は、昔から富士山の人穴に通じていると・・・・・・・・??。源頼家の命によって富士の人穴に入った仁田忠常が、穴の奥へと進むと江の島の岩屋に到達したという伝承があるのだと。その横には時計と温度、湿度が表示されていたが・・・・・・必要??第一岩屋にある石祠。ここが江の島弁財天(江島神社)の発祥地と考えられているのだと。地蔵様が静かに。第一岩屋の出口に向かう。金魚?が。第一岩屋出口からの岩場と湘南の海、そして第二岩屋入口へ。「天女と五頭龍」の絵。『昔むかし、鎌倉の深沢山中の底なし沼に五つの頭を持つ悪龍が住みつき、村人を苦しめていました。子どもをいけにえに取られることから、この地を子死越(こしごえ)と呼んで恐れられていました。ある時、子死越前方の海上に密雲が何日にもわたってたれこめましたが、天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れ、雲が晴れると今まで何も無かった海上に一つの島が出来ていました。これが現在の江の島とか・・・。天女の美しさに魅せられた五頭龍は、結婚を申し込むのですが、悪行が止むまではと断られてしまいました。その後、心を改め結婚することができたと云われています。この伝説の天女が、江の島に祀られている弁財天といわれ、五頭龍が瀧口明神社として鎌倉市腰越に祀られている。』との説明が。奥の方からドンドンと太鼓の音が響いてきた。これがその太鼓。2回連続で叩き、フラッシュが2回光れば願いが叶うと。私も叩いてみましたが2回とも光ったのです。太鼓の横の龍のオブジェ。しかしこれは新しく設置された観光用のもの。ここは第二岩屋の一番奥の折り返し地点。
2016.06.21
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク辺津宮から眼下には、江島神社参道、そしてその先に江ノ島弁天橋、江ノ島大橋が見えた。 八坂神社(やさかじんじゃ)。 御祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)。稲荷社・秋葉社。八坂神社の隣にある小さな社。江島神社の末社だと。豊受気毘賣命(とようけひめのみこと)と火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)が祀られている。江の島随所にあった小祀(秋葉稲荷・与三郎稲荷・漁護稲荷など)を合祀した社とのこと。菊和会記念碑。東京の楽器商菊屋のグループが建立。描かれていたのは千鳥模様の袋に包まれた琵琶。 源実朝ゆかりの「宋の古碑」。1204年(元久元年)に源実朝の命を受けて宋に渡った良真が、宋の慶仁禅師より伝えられたという石碑。「大日本国江島霊迹建寺之記」と彫られているとのことだが読み取れなかった。結びの樹。辺津宮の境内を出るところに、幹が二つで、根が一つになった「むすびの樹」と呼ばれる大銀杏の御神木が。「むすびの樹」の周りには、良縁成就を願って奉納されたピンクの絵馬がたくさん掛かっていた。中津宮エスカー乗り場の表示板とその後ろに2つの石碑が。 安岡 正篤(やすおか まさひろ)の感載碑。「明神降鑒衆生福智」安岡正篤撰竝書と刻まれていた。昭和の名宰相とされる佐藤栄作首相から、中曽根康弘首相に至るまで、昭和歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた人物とのこと。「江島神社、御鎮座千四百年祭」の石碑。 震柳居四世句碑。晩年を片瀬に住んだ俳人、震柳居九江の句碑。1923年(大正12年)建立。「月涼し徐尓聞久琴の曲」と刻まれていた。 国伝来の古碑の隣に建つ沼田頼輔の歌碑。「さながらに 生けるが如く 身まつりぬ 御神ながらも肌ゆたかなり」。沼田頼輔が裸弁財天の美しさを讃えた歌とのこと。江島弁財天女上宮之碑。 文化元年、姫路城主 酒井雅楽頭源忠道が建立と。猿田彦大神。この碑は庚申塔の一つ。天保3年(1832年)に建てられたもの。不老門再建記念碑。本来はこの場所に不老門があったが、今はなく、文久元年(1861年)の再建記念碑だけが残っている。江ノ島ヨットハーバーが眼下に。『納献 春日釣燈籠』の石碑。 江戸歌舞伎「中村座」が奉献した石灯籠・右。 江戸歌舞伎「中村座」が奉献した石灯籠・左。 市村座の石灯篭。 平成11年に江の島歌舞伎が行われた時の5代尾上菊五郎、7代菊之助の記念手形。私の手も一緒に。七代目(現)尾上菊五郎丈の植えたしだれ桜。江島神社・中津宮(なかつみや)に到着。ご祭神は市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)。上之宮とも呼ばれます。慈覚大師が仁寿3年(853年)に創建。元禄2年(1989年)に再建。江島神社の中津宮の脇にある水琴窟に向かう。地中に埋められた瓶に水を流すことで美しい音を奏でるのだ。水琴の高周波の音は、 心身の浄化・運気向上・幸運をもたらしてくれると。耳を澄まして聞いたが・・・・・・・・。古帳庵句碑。いさここにとまりて幾かん寶とと支須(ホトトギス) 古帳庵ふた親にみせたしかつお生きている 古帳女江戸小網町 天保12年6月 と。間宮霞軒句碑「さし潮の香を抱く島の霞かな」。 天女の羽衣をイメージをした独自のマークがあり、「もっと奇麗に、美しい恋をしたい!」と願う女性のパワースポットとして、密かな人気を集めているとのこと。正面に老舗の東雲亭が。江の島サムエル・コッキング苑、江の島シーキャンドル(展望台)59.8mの入り口。明治15年にアイルランド生まれのイギリス人、サムエル・コッキングがこの場所の土地約500坪を日本人妻リキの名で購入し植物園を造ったのが始まりと。入口横の亀ヶ岡広場で一休み。アメリカデイゴの深紅の花が開花中。湘南のシンボルとして親しまれる江の島シーキャンドル(展望灯台)は、2003年4月29日にリニューアルオープン。最福寺別院江乃島大師。入口右には『江乃島大師』左には『高野山真言宗最福寺別院』と書かれていた。鹿児島の最福寺の関東別院、色あざやかな阿吽の仁王像が入口両側に。 福島漁村の句碑。 「貝がらも 桜の名のあり 島の春」。ここは、漁村が経営していた江の島館跡地の一隅に建つ句碑。ネットでは福村漁村の名もあるが?一遍上人成就水道。飲料水に窮する島民を助けるために、一遍上人が堀当てた井戸と伝えられ、今も水をたたえていると。江の島をちょうど二分する境となって いることから、俗に「山ふたつ」といわれている場所。ガイドによると、断層に沿って侵食された海食胴が崩落したことで「山ふたつ」が出来たともいわれていると。木食上人阿弥陀如来古蹟山ふたつの谷底(中村屋本店の崖下)には、阿弥陀如来像が安置された木食上人(もくじきしょうにん)行場窟と呼ばれる洞窟があると。この洞窟では五穀を絶って木の実のみで生活する木食行が行われていたと。木食行を行う者を木食上人と呼んだとのこと。しかし現在は、見学不可。群猿奉賽像庚申塔(ぐんえんほうさいぞうこうしんとう)は、四面に36匹猿が浮き彫りされている庚申塔。江戸時代後期に、無病息災を祈念して建立されたものと考えられると。藤沢市の重要有形民俗文化財。
2016.06.20
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンクテレビのJ:COMチャンネルで、片瀬在住の作家の佐江衆一さんが市内の特色ある風景を、四季の移ろいや歴史、伝承などを交えて紹介している本『散歩名人 in 藤沢』が刊行され販売されている事を知り、遊行寺の菖蒲園観賞の帰りに藤沢市文書館まで足を延ばし購入してきました。下記の如く藤沢各地を巡り、その自然や歴史を紹介されているのです。いずれも地名については直ぐ解る場所。時間がありますので、この本を読み予習しながら順番に散歩をしようと考えているのです。 まずは『江島神社と江の島』を目指し、岩屋まで足を延ばす事としました。この日は、幼い頃この近くで育った妻も同行、いや妻に案内してもらったのです。いつもの小田急線・片瀬江ノ島駅。片瀬江ノ島駅前 境川に架かる弁天橋。 弁天橋から江の島を見る。隣には134号線の境川にかかる片瀬橋。 境川は東京都町田市を水源地とし、片瀬海岸の河口まで全長約52kmの二級河川。江ノ島弁天橋に向かって歩く。 人道橋の江ノ島弁天橋が架けられたのは明治24年だったが、台風でよく流されたため、昭和24年に橋脚をコンクリート杭とし、その後昭和28年、PC橋に改修された。横の車道橋の江ノ島大橋は、前回の東京オリンピックのヨット競技のため江ノ島港が建設されたことによって架けられた。目の前に対になった巨大な龍の灯籠が。江ノ島神社御鎮座千四百五十年記念事業を記念して奉納された、江の島の弁天橋手前の巨大な「大灯龍」。向かって左の龍は『阿』。 向かって右の龍は『吽』。江ノ島弁天橋の入口。『名勝乃史蹟 江ノ島』と刻まれた石碑が弁天橋入口に。 左手には日時計が。 「円弧型日時計」といい、日時計作家 小原輝子の作。長洲一二元神奈川県知事の揮毫になる「潮音」という文字が黒御影石に彫られていた。江ノ島弁天橋を進んでいくと前方に青銅の鳥居が見えて来た。この鳥居は、1747年(延享4年)に建立され、1821年(文政4年)に再建されたもの。この鳥居から、瑞心門前の朱塗りの鳥居までが江島神社の門前町で、旅館、土産物屋、食堂などが並んでいるのだ。鳥居には龍が施された扁額が掲げられていた。北条時宗が文永の役で元寇を退けた時、江島神社に贈った後宇多天皇勅額の(建治元年・1275)レプリカとのこと江の島道においては三つの鳥居があり、一の鳥居は遊行寺前に、二の鳥居は洲鼻通りにあったが、現存するのはこの三の鳥居のみ。「江嶋大明神」と書かれていると。参道を江島神社に向かって進む。この日も中国語があちこちから。そして自撮棒がいたるところで。右手に岩本楼の入口が。 岩本楼は現在は旅館業を営んでいるが、明治維新の神仏分離令以前は岩本院と称し江の島の寺社を支配する惣別当であった。江戸時代以前、室町時代には岩本坊と称していたと。歌舞伎『白波五人男』の弁天小僧はここ岩本院の稚児がモデルとのこと。瑞心門前の朱塗りの鳥居前まで進む。 鳥居の横に、1mを超える堂々たる大きな狛犬がいた。右手の阿象、鬣、尾の流れも美しい。左手には吽像の鬣をくわえた姿。その下には猫がのんびりと日向ぼっこ。昭和34年に国内初の屋外エスカレーターとして、高低差46メートルを4連で結ぶ全長106メートル の「江の島エスカー」 が稼働。江の島エスカーの乗り場が左手の狛犬の後ろに。もちろん我々夫婦は階段を徒歩にて。崖の下の無熱池(むねつち)。インドに伝わる伝説の池を真似たもので、龍が住みつき、どんな干ばつのときでも水が涸れたことがないと伝わる池。 そしてその上の蟇石(がまいし)。伝説によると、鶴岡八幡宮の供僧で慈悲上人と呼ばれた良真が、江の島で修業していると蟇(がま)がその邪魔をしたと。しかし、良真の法力念力によって蟇は石とされてしまったと。その石(岩)が竜宮城を模したという瑞心門の左側の崖にあって、蟇石(がまいし)として伝えられているとのこと。 江島神社の御神門。竜宮城を模して造られたもので「瑞心門」と呼ばれている。 天井には片岡華陽が描いた牡丹の絵が一面に。門の両脇には唐獅子画が飾られていた。これも片岡華陽が描いた絵。唐獅子はご祭神の守護と参拝者に厄災がふりかからぬよう祈願の意味が込められているのだと。唐獅子 右。唐獅子 左 。階段上の石碑の上部の丸い石には見慣れない文字が刻まれていた。弁才天の種子(しゅじ)である「सु(ソ)」とのこと。種子とは密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)。これは百度供養碑。寛政八年(1796)江戸下谷住時田三天明昭建立。宝暦十一年(1761)から36年間の間に百度参詣した記念碑。「ゆくとしや 百度詣でし 豆の数」と刻まれていると。童子を伴い右手に宝剣、左手に宝珠を持った弁財天の石像が階段上の正面に。 杉山検校和一(すぎやまけんぎょうわいち)の建てた江ノ島弁財天の道標とその後ろに『福石』と刻まれた比較的小さい石碑が。杉山検校は、江ノ島の弁財天で21日間の断食をし、祈願したところ、その満願の日、帰り道にこの石につまずいたと。その時、体を刺すものがあったので確かめてみると、松葉の入った竹の管だったいう。この出来事が、管鍼(かんしん)の技術を考案するきっかけとなったといわれていると。 これが『福石』 ?つまずくには大きすぎる石であるが・・・・・・。福石から下って朱塗りの橋を渡った場所には、検校が建てた三重塔があったという。 石段を更に上がると、途中に手水舎があり、龍の口から水が出ていた。 階段を上り終わるとそこは辺津宮境内。巨大杓文字に描かれた『江島神社 絵図』。弁財天を奉る江島神社は、田寸津比賣命を祀る「辺津宮」、 市寸島比賣命を祀る「中津宮」、多紀理比賣命を祀る「奥津宮」の 三社からなっているのだ。江島神社(辺津宮)の列をなす参拝客。 辺津宮は本社。田寸津比売命(たぎつひめのみこと)が祀られている。古歌を唱えながら茅の輪をくぐると罪などが清められるのだそうだ。 正月は中央に置かれてあったがこの日は脇に。巾着型になっている面白い木製の賽銭入れ。相模彫りと言われる独特の彫り物で、お賽銭を入れると音が出る仕組みに。打ち出の小槌。『昔から打ち出の小づちはどんな願いごとも叶えてくれると云われて います。小づちを3回なでながらあなたが成就させたい願いごとや 色々な運気上昇を祈りましょう。』 と。白龍王黄金浄水。水源には徳力製の純金の小判が秘められてあり、この御霊水で金銭を洗うと、金運向上、財宝福徳のご利益が授かると。 弁財天の神使「白龍王」。嗽水盥(そうすいかん)。嗽は「うがい」:水などを含んで口やのどをすすぐこと。盥は「たらい」:手や身体を洗って清潔にする、という意味もあり、昔、中国では 盃の形をそのまま大きくしたような手や顔を洗う器を盥盤(かんばん)と言っていたと。江戸麻布坂下町の藤屋半七が寛延2年(1749年)に奉納したもの。正面中央に三つ巴紋が陽刻されていた。多くの神社で巴紋が神紋として用いられている。辺津宮の左側にあるのが、八角の奉安殿。源頼朝が奥州の藤原秀衡調伏祈願のために文覚上人に命じてこの弁財天を勧請したとのこと。神奈川県の重要文化財に指定されている八臂弁財天(はっぴべんざいてん)。江島神社のHP(http://enoshimajinja.or.jp/gohoumotsu/)よりの転載です。同じく日本三大弁財天のひとつとして有名な妙音弁財天(みょうおんべんざいてん)。 「裸弁財天」ともいわれ、琵琶を抱えた全裸体の意外に小さい座像。女性の象徴をすべて備えられた大変珍しい真っ白な姿で、鎌倉時代中期以降の傑作。 これも江島神社のHP(http://enoshimajinja.or.jp/gohoumotsu/)よりの転載です。
2016.06.19
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク自宅から車で10分ほどの場所にある俣野別邸庭園へ妻と行ってきました。もともとこの場所には旧住友家俣野別邸があった場所なのです。65年間この地に生きていますが、全くこのような住友家別邸が近くにあることを知りませんでした。住友の名のある会社で長年お世話になっていたのですが・・・。旧住友家俣野別邸(以下俣野別邸)は、1939(昭和14)年に住友財閥の第16代住友吉左衛門友成の別邸として戸塚区東俣野町に建設されたとのこと。当時の郊外邸宅の有り様を物語る歴史的価値の高さから、2004(平成16)年に国の重要文化財に指定されたと。管理団体の横浜市が一般公開を目指して一部の老朽化した箇所の復元工事を進めていたところ、2009(平成21)年に出火。母屋約659m2を全焼したと。その後約4haの外苑部分を『俣野別邸公園』として2013年3月に公開する運びとなったと。(http://hamarepo.com/story.php?story_id=1764)有料駐車場に車を停め散策開始。駐車場横の芝生の下には雨水調整池が。入り口の俣野別邸庭園案内板。入り口の坂を上る。カスミザクラ?それともオオシマザクラ?であろうか、ほのかに香る白い花の大木が。坂を上っていくと、左手に入り口が閉鎖された鉄骨階段が。そしてその上には建物の屋根が見えた。焼失を免れた旧住友家俣野別邸の一部であろうか。更に歩を進めていくと、大きな凧を持ったオジサンが。凧を上げに来ているのであろうか?最奥に園内の唯一の建物の公園管理棟が。管理棟の前には、花の終わったソメイヨシノとこれを囲むチューリップ、クリスマスローズが開花中。管理棟内には休憩用のテーブル、椅子が用意されていた。そして園内の『3ヶ月開花予報』がホワイトボードに示されていた。園内MAPと花の写真の説明板が丁寧に。 管理棟の前は広い芝生広場になっていました。園内には数匹の猫がのんびりと。野良猫であろうか?しかし綺麗な姿の猫。 約1時間ほど、園内の花々を楽しんだのであった。紅葉シーズンにもモミジ等が美しいのであろう。また秋に行ってみようと思っています。明日はこの園内で開花していた花々を紹介いたします。
2016.04.10
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク先日、以前録画しておいた『元寇』に関する歴史番組を見ていたところ、私の住む市内に元(モンゴル帝国)の使いとして日本にやってきた5人を龍ノ口で処刑し片瀬の常立寺に埋葬し五輪塔が建てられ供養されているとの放送があったのでその常立寺を訪ねてみました。自宅から海に向かい30分弱にて常立寺に到着。入口横の駐車場に車を停める。 参道入り口には『伝元使塚』の説明板が。 山門に向かって進む。 山門手前の右側には三体の地蔵様が。 山門を入ると右手の六地蔵が迎えてくれた。 常立寺本堂と手前にお線香を焚く香炉が。 本堂には本尊・一塔両尊が安置されているとのこと。本堂の彫刻も見事。 境内に入ってすぐの左側に元使塚(げんしつか)が立っていた。ここ常立寺は今は、日蓮宗の寺であるが、元は真言宗の寺であったとのこと。近くの瀧ノ口の刑場で処刑された刑死者を弔う為に出来た寺であったと。文永11年(1274)10月蒙古の王・クビライは3万3千隻の船で対馬・隠岐を襲い、19日には博多湾に上陸をした。日本軍はたちまち敗走したが、台風により蒙古軍の船が難破し1万余りの兵が水死し、蒙古軍は引き上げていったのだ(文永の役)。資料によると翌年の建治元年(1275年)、再び元(モンゴル帝国)の使者・杜世忠ら5名が日本を服属させるため渡来し、北条時宗の命によって鎌倉に連行され、この寺の近くで処刑されたのだ。その6年後、弘安4年(1281)5月に蒙古は兵力14万、軍船4400隻で再来したが、再び台風に襲われ、蒙古軍10万人が水死。こうして北条時宗は日本の国難を切り抜けることが出来たのであった(弘安の役)これが「元寇」、蒙古襲来とも。大正14年(1925年),この元使650年記念に「誰姿森元使塚」が建立されたとのこと。石碑には斬首を前にして「杜世忠」の辞世の句が。『出門妻子贈寒衣 問我西行幾日帰 来時儻佩黄金印 莫見蘇秦不下機』 と刻まれている。門を出ずるに妻子は寒衣を贈り 我に問う、西行幾日にして帰ると来る時もし黄金の印を帯びたれば 蘇奏を見て機を下らざるなかれと「家を出る時、妻子は寒さを凌ぐ衣服を自分に贈ってくれ、西行(日本)からいつ帰ってくるのか、もし、首尾よく帰って来たならば、蘇秦の例のように機織の手を休めないということことはないでしょうと」日本との交渉に首尾よく成功すれば、故郷に残した妻子が暖かく迎えてくれるはずだったのに、遠い異国の地で処刑されてしまう無念を詠んだのだと。黄金の印を帯びるとは、日本との交渉に成功して出世することを言う。http://www.hbirds.net/postgallery/%E5%B8%B8%E7%AB%8B%E5%AF%BA/4866より常立寺元使五人塚の見事な香炉が五輪塔の手前に。上部に「誰姿森(たがすのもり)」の文字が。『大正14年(1925年)と言えば、大正12年の震災から2年、ここ湘南地方でも各地に被害を蒙った。そうした復興途上でこうした寄進がなされたのはどう言う訳か、この寺の檀家で97歳の古老の話によると現住職の先先代が単独で日中友好を願って横1メートル高さ2メ-トルの碑を建てた。又元寇記念館も開設し、元寇関係の遺品が陳列されていたと言う。(現在は消滅)かってこの常立寺周辺は誰姿森と呼ばれ、蕃神堂が存在していたと[新編相模風土記]に記されているが現在はない。73年前に片瀬の一隅にすでに、日中の友好を念願していた僧侶がいたことに改めて注目したい。』 と下記に。http://homepage1.nifty.com/shizshiz/ajisai/news/seichan/index15.htmlより転載。モンゴルで英雄を意味する「青い布」が五輪塔に捲かれていた。平成17年(2005年)4月7日、引退した元横綱の朝青龍や白鵬らモンゴル出身の幕内・十両力士らが参拝し、青い布を巻いて700年前の元使の霊を弔ったのだと。それ以来、毎年、この地への巡業の際にモンゴル出身力士による元使塚参拝が行われるようになり、モンゴル式にハタクという青い布が新たに捲かれていると。なるほど朝青龍の四股名に青の文字が入っていたのが理解できたのであった。 灯籠も歴史を感じさせてくれた。 この寺の名物の紅白の枝垂れ梅も開花を始めていた。 境内の仏像。 鐘楼。 十三重塔。 ハクセキレイ?が境内にノンビリと日向ぼっこ。 本堂横の社務所にて御朱印をいただきました。「南無妙法蓮華経」の文字が中央に、そしてその右に「誰姿森元使廟」の文字が。境内から六地蔵と山門を再び。 常立寺の白壁と鐘楼、十三重塔。
2016.02.13
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク本堂脇の永代供養墓。案内書によると、あとの憂いが少しでも楽になるように…近年、皆様のこういうお声を耳にする機会が増えてまいりました。 ★将来ご先祖さまのお墓を継ぐ後継者がいない。 ★独身、離婚などにより自分単身の入る墓を得たいが、供養してくれる人がいない。 ★子供が娘しかなく、家のお墓のために我が子の人生を拘束したくない。 ★結婚により、実家の代が途絶え、お墓の面倒を見ることが難しい。上記のような諸事情でお困りの方に代わり、納骨後永代にわたって総本山が供養 及び管理をするための墓所です と。動物の供養塔。犬が二匹。こちらは猫が仲良く。大悲水子地蔵菩薩像。 菩薩像の後ろにはたくさんの小さな地蔵様が。 本堂も人影は無し。 新しい地蔵堂は、本堂手前の右側に。 内部には高さ3mの木造地蔵菩薩像「日限地蔵尊」が黄金に輝いて。 南部右馬頭茂時の墓。南部茂時は陸奥国南部氏の十代当主。1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めによって、鎌倉東勝寺で北条高時一族とともに自刃。家臣の佐藤彦五郎が遊行寺に葬ったのだと。宇賀弁財天。宇賀弁財天は開運弁財天ともいわれ、俗に銭洗弁天として江戸時代から藤沢宿の人々に信仰された。現在でも銭を洗うことによって、財福を招くと信仰されていると。宇賀神は、天女の様で頭上には白玉と白蛇を刻した宝冠をのせていた。遊行寺の庭。立派な石塔が庭に映える。手前は放生池。元禄7年(1694)、5代将軍・徳川綱吉の時代、生類憐れみの令が発布され、江戸市中の金魚・銀魚が集められて、この遊行寺の池に放生されたと。 寺務所。 寺務所玄関内部。 大きな達磨が迎えてくれました。 御朱印を頂きました。 境内の大銀杏は樹齢500年。 中雀門。遊行寺境内の建造物の中で一番古いと。安政6年(1859)。紀州徳川家の寄進。通常は閉まっていますが、開山忌(春・秋)等には開かれると。屋根などに菊のご紋と葵のご紋が。遊行寺は天皇の行在所(あんざいしょ)、天皇をお迎えする為に用意されたとのこと。 見事な彫刻。真浄院。歴代上人が法燈(一宗を代表するような高僧)を継がれるときは、この寺院で旅装をとき、この真浄院住職の先導により、清浄光寺に入山する由緒ある伝統的な慣例が、今日まで続けれらていると。 境内内部。真徳寺(赤門)。清浄光寺の塔頭。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。別称は赤門、鎌倉北条氏邸より赤門を寄付され以来、朱塗りの門であるためという。 山門前の巨大灯籠。初代歌川広重「東海道五拾三次 藤澤(狂歌入東海道)」が建物のシャッターに描かれていた。
2016.01.31
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク遊行寺に立ち寄りました。この寺は浄土念仏門の一流である時宗総本山。東門を入り坂を少し上ると右側に 小栗判官墓所入口の石碑が。階段を上がり本堂脇を奥に進むと左手に地蔵様が並んでいた。酒井忠重逆修六地蔵。銘文によれば萬治3年(1660)1月15日に酒井長門守忠重が施主となって、遊行十七世慈光(じこう)上人(遊行三十九代)の代に建立されたと。施主の酒井長門守忠重は出羽鶴岡城主酒井忠勝の弟で逆修(年老いた者が、年若くして死んだ者の冥福を祈ること)のために建立されたと。 酒井忠重五輪塔。この五輪塔には、「寛文六(1666)丙午歳 光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士酒井長門守忠重 九月十八日」と記されている。細い道(通称 車坂)をたどると長生院という寺に突きあたる。左に折れ奥に進むと小栗判官公並びに十勇士の墓。小栗判官と照手姫の話は人形浄瑠璃でも有名な演目。照手姫の墓。応永29年(1422)常陸小栗の城主、判官満重が、足利持氏に攻められて落城、その子判官助重が、家臣11人と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に毒殺されかけたことがあります。このとき妓女照手が助重らを逃がし、一行は遊行上人に助けられました。その後、助重は家名を再興し、照手を妻に迎えました。助重の死後、照手は髪を落とし長生尼と名のり、助重と家臣11人の墓を守り、余生を長生院で過ごしたとされています。そして私の大好きな文字も刻まれた石碑を発見。歴代上人御廟所。中央正面に開山塔、左右に歴代上人の墓塔が。徳川以前のものは多く宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、それが整然と並んでいた。道を戻ると左手の土手の上に、一際大きな尖塔角柱型の5つの墓碑が。堀田家三代、堀田正利夫妻・正盛夫妻・正仲の墓の墓碑。堀田正利供養塔。堀田正利 ( 正吉 ) ( 1571 ~ 1629 )は旗本・堀田正秀の五男。母は浅野長一の娘。通称 勘左衛門。正室は稲葉正成の娘萬。織田信長、浅野長政、小早川隆景、小早川秀秋に仕えた。関ヶ原の戦いののち、慶長 10年 ( 1605 ) 江戸幕府に出仕したと。墓所は、東京都台東区日輪寺。この供養塔は、孫の堀田正俊が延宝 5年 ( 1677 ) に建立。(案内板より)堀田正利妻(正室) 萬供養塔。堀田正盛 供養塔。堀田正盛は、江戸時代 初期の大名 、老中格 、老中 、大政参与 ( 御側 )。武蔵 川越藩主、信濃 松本藩主を経て。寛永19年(1642年)7月16日には1万石を加増されて下総佐倉藩に転封。よって下総 佐倉藩 初代藩主。堀田家 宗家初代。奇しくも7月16日は私の誕生日、これも不思議な縁?堀田正利の長男。母は稲葉正成の娘萬。母は稲葉正成が最初の妻との間に儲けた女子であり、正成の2度目の妻が春日局。よって正盛は春日局の義理の孫にあたる。堀田正盛妻 阿栗供養塔。阿栗は( 1617 ~ 1674 ) 酒井忠勝の娘。堀田正仲供養塔。堀田正仲は、江戸時代 前期の譜代大名 。下総 古河藩 の第 2代藩主、のちに出羽 山形藩主を経て、陸奥 福島藩の初代藩主。正俊系堀田家 2代。
2016.01.30
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