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そして「岩屋通り」を戻り、「江の島サムエル・コッキング苑」入口まで戻る。「夜灯りの夢庭(よるあかりのゆめにわ)」がサムエルコッキング苑にて開催中。こちらも江の島灯籠の期間中は、「夜灯りの夢庭」として、ライトアップが行われているのだ。入場は有料(夜間入場料:大人500円/子人:250円)。苑内入口には、無数の光が宙に浮かぶような美麗なオブジェが出迎えてくれたのであった。様々な形の燈籠が、紫の垂れ幕を背景に。「三つ鱗」があしらわれた灯籠は、和風の意匠ながらも多角形でアート作品の如くに。「昔々、鎌倉の深沢の沼に体が一つで頭が五つある恐ろしい龍が棲んでいました。」「この五頭龍は様々な災いを周辺の村にもたらし長きにわたり人々を苦しめていました。」「龍の人喰いを恐れた村人たちは毎年泣く泣く幼子を人身御供に差し出すようになったのです。」「ところが欽明天皇13年天地を轟かす地鳴りが起こり海底から島がわき起こりました。 これが江の島でした。」「天からは美しい天女が現れ江の島へと舞い降りました。」「五頭龍は美しい天女に結婚を申し込みました。 しかしこれまでの悪行の数々を指摘され断られてしまいます」「五頭龍はこれまでの行いを悔い改心を誓います。 天女はその言葉を信じ夫婦となったのです。」「それからというもの五頭龍は日々村人たちに尽くしました。 しかしその度に体は衰えていったのでした。」「「私の命もやがておわるでしょう。これからは山となってこの地をお守りしたい」 これが江の島の対岸にある龍口山です。」「山の中腹には龍の形をした岩があり天女を慕うようにいつまでも江の島を見守っているのだそうです。」振り返って。再び風になびく羽衣、その周囲に輝く燈籠を追う。ここは帰路に訪ねた影絵広場。「昆明広場」も帰路に。「江の島シーキャンドル」に向かって進む。オレンジ色の燈籠。「江の島シーキャンドル」の光も刻々と青の姿を変えて。枯れ枝に囲まれた燈籠。「江の島シーキャンドル」への遊歩道の左右の燈籠を楽しみながら進む。一面、丸い竹灯籠の世界は広がっていた。自由に編まれた竹籠が輝く。近づいて。江の島シーキャンドルを下から見上げて。トランポリンで遊ぶ子供たち。「江の島燈籠2024メッセージ燈籠大切な人に言葉を残しませんか?ご自由にお書きください」。様々な文字が。英語、中国語そして子供たちの文字も。神秘の世界への入口の如くに。「江島弁財天」と。鬱蒼とした森の如き場所にも灯りが。ここには、円柱状の燈籠も。山小屋の前庭の如し。こちらは、たわわに実る果実のごとくに。再び「江の島シーキャンドル」を。この日は青であったが、期間中は色が毎日変わるのであろうか?そして海鼠壁(なまこかべ)の建物に向かって進む。以前は松本館として使われていた蔵風の建物。現在「UMIYAMA DO」としてリニューアルオープンしていると。「松本市 日本:長野県姉妹都市提携年月日1961年7月29日(松本市から来藤した日を提携日とする。)提携の動機と経過東洋のスイスといわれている長野県松本市と、東洋のマイアミ・ビーチと呼ばれている藤沢市は、日本の海と山を代表する観光都市てあり、市民がお互いのまち(観光地)を訪問して交流を図る「海と山との市民交歓会」がきっかけとなり、全国に先がけて観光面で姉妹都市の縁を結びました。松本市の概要本州および長野県のほは中央に位置し、400年以上の歴史を誇る城下町・松本は、日本で最も古い小学校の一つとされる旧開智学校の開校や旧制松本高等学校の誘致など、教育を重んじる気風であり、明治時代から「学都」として豊かな文化を育んできました.また、日本百名山に数えられる美ヶ原や日本を代表する山岳景勝地である上高地をはしめ3000メートル級の峰々が通ねる北アルプスなど、大自然の宝庫でもあり「岳都」としても有名です。美しい四季に磨かれた感性が芸術、音楽への恵みとなり、オーケストラコンサート、オペラをニ本柱とした世界屈指の音楽家たちが共演するセイジ・オザワ 松本フェスティバルは多くの愛好者に親しまれており、「楽都」としても知られています。市民の心の拠りどころでもある松本城を街のシンポルとして、「「三ガク都」まつもと」~岳都、楽都、学都~と称されています。」「藤沢市・松本市 姉妹都市提携40周年記念」碑。「松本市・藤沢市姉妹都市提携40周年記念碑「海と山の絆」(山辺石)この記念碑は、藤沢市との姉妹都市提携40周年を記念して松本市から贈られたものです。藤沢市の姉妹都市である松本市域には、江戸時代に建立された約280体の石造道祖神があります。なかでも男女の神様をひとつの石に刻んだ「双体道祖神」は、地域の特徴ある道祖神として観光に訪れる人々の人気を集めています。道祖神は、古くは村を守る境のかみとして祀られました。村の繁栄を願って祀られた道祖神は、後に疫病除けや縁結び、豊作などあらゆる願いをかなえてくれる身近な神様へと変わっていきました。今も松本では2月8日の朝早く、誰にもみつからないように道祖神に餅を付けると良縁に恵まれるといわれ、双体の像容とあいまって縁結びの神様として信じられています。「海と山の絆」は、「双体道祖神」をモデルに造られています。異なる環境、文化のなかで育ってきた海の民(藤沢市)と山の民(松本市)の出会いに感謝する気持ち、お互いの歴史と文化を尊重する気持ち、そして、これからも「仲良く」「末永く」友好を深められますようにとの願いを込めて、純真な「男の子」と「女の子」の像が刻まれています。松本市と藤沢市の友好の象徴であるこの碑は、松本域の石垣にも使われている特産の「山辺石(安山岩)」造られています。」海鼠壁(なまこかべ)に近づいて。紫そして緑の燈籠。五頭龍の姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.30
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「龍宮」を後にすると直ぐ左手にあったのが「龍恋の鐘」入口案内板。江の島の弁財天と五頭龍の伝説にちなんでつくられた、カップルの名所。見晴らしのいい丘の上に大きな鐘が据えられ、南京錠がいくつもつけられた金網が周りをぐるりと囲んでいる。恋人同士でこの地を訪れて鐘を鳴らし、金網に南京錠をつけると永遠に結ばれる と。二人仲良くカップルが「龍恋の鐘」を鳴らす。戻って、「龍宮」の鳥居を振り返る。「稚児ヶ淵」の岩場に向かって急な石段を下る。さらに。「食事 のみもの 見晴亭」が前方に。「ようこそ 江の島岩屋洞窟へ」。海が見えて来た。前方下に「稚児ヶ淵」が現れた。伊豆半島の灯りが見えた。「稚児ヶ淵 ⇇岩屋」碑。島の西南端、岩屋の周辺に広がる、隆起現象でうまれた海食台地。屏風のように連なる断崖の真下にあり、打ち寄せては砕ける波と、富士山の向こうに沈む夕日の美しさで知られ、「かながわの景勝50選」にも選ばれている。磯釣りの名所としても知られ、休日には多くの太公望でにぎわう。稚児ヶ淵の名前は、かつて稚児の白菊👈️リンク がここから身を投げたことから付いたといわれている と。その時扇子に記して、渡し守に委ねた辞世が、次の二首です。 白菊の しのぶの里の 人問はば 思い入江の 島とこたえよ 憂きことを 思い入江の 島かげに すつる命は 波の下草行方の知れない白菊の後を追って江の島にたどりつき、その最後を知った自休和尚は、残された扇子を見るや自らも次の一首を残して後を追いました。 白菊の 花の情けの 深き海に ともに入江の 島ぞ嬉しき「稚児ヶ淵・永瀬覇天朗の句碑」。「稚児ヶ淵・永瀬覇天朗の句碑稚児ヶ淵は島の西側に位置し、大正12年(1923年)の関東大震災で1mほど隆起した波食台地です。この名称の由来は、建長寺の修行僧自休が、江の島へ百ヶ日参詣の帰り、相承院の稚児白菊と出会ったのが縁で恋におちいりました。しかしその恋も実らず、ついには白菊はこの断崖から身を投げ、自休もそのあとを追ったという悲恋物語からおこっています。ここから眺める富士山夕焼けの相模灘の美しさは、まさしく「かながわ景勝50選」のひとつに数えられるものです。永瀬覇天朗の句碑は、たて148cm、横97cmの仙台石の中にきざまれています。この句碑は、もとは岩屋への桟橋近くに建立されましたが、大波で破壊され、再建の際に、現在地に移されました。覇天朗は大正時代に藤沢が生んだ新鋭俳人です。」永瀬天明の句碑はこの場所に建っていたのだが、台風で倒壊し、半分は流されで紛失し、半分が上の岩場に残っているのだという。再び伊豆半島方向をズームして。「稚児ヶ淵石灯籠」。かつて使用されていた「龍燈」で、もともとは江ノ島沖で嵐に遭遇した人が龍燈松の灯りに救われたお礼にと江戸期に建立したものですが、明治32年頃に大波に押し流されてしまいました。現在の燈籠は昭和2年に建て替えられたコンクリート製のもの と。小田原方面。湘南海岸を見る。大山方向をズームして。平塚・二宮方向。岩屋方向。妻の友人が建てたという公衆トイレ「稚児ヶ淵レストハウス」。再び「稚児ヶ淵石灯籠」。左から「佐羽淡斉の詩碑」、「芭蕉句碑」、「遊江嶋」。●「佐羽淡斉の詩碑」佐羽淡斉の詩碑は、野火で碑面が剥落していたのを、4代目の子孫が再建したものです。淡斉は、上州桐生の人で、大窪詩沸門下の詩人です。全国の各所旧跡を遍歴して百詩碑建立を図り、江の島の碑はその第1号として建てられました と。この碑には、次の七言律詩が刻まれています。 瓊砂一路截波通 孤嶼崚梨屹海中 潮浸龍王宮裏月 花香天女廟前風 客樓斫膾絲々白 神洞燒燈穗々紅 幾入蓬雙諳秘跡 不須幽討倩仙童●「芭蕉句碑」芭蕉の句碑は、握り飯の半面を押しつぶしたような素朴な碑型の河原石で、「潮墳」の碑と称されて観光客に親しまれています。青緑の色濃い自然石を程よく活用して「疑ふな潮の花も浦の春 はせお」(『疑ふ那潮能花も浦乃春 はせお』)と彫りこまれたこの句は元禄二年(1689年)に、芭蕉が「伊勢・二見ヶ浦の図(いろいろな画家が描いていますので誰のもかは不明です)を見て詠んだものです。●「遊江嶋」八雲庵遊江嶋詩碑は、宝暦二年(1752年)に建てられたもので、臥龍軒一梁の書で「遊江嶋」との漢詩が刻まれています。八雲庵及び臥龍軒一梁という方の事績はよくわかりません。左から「龍燈塔」、「石塔」、「題石壁」。●「龍燈塔」この石碑は、文化六年(1809年)に、江戸・深川新地の遊郭・五明楼の喜兵衛が建てたものです。よろず芸事の神様とされる江島弁財天は、新吉原・深川新地といったあたりの遊郭の人々からも篤く信仰されていました。●「石塔」刻文は風化して全く読み取れませんが、足元に線香皿や蝋燭立の穴があるところから、墓石であることは間違いなさそうです。かつてこの付近に「稚児が淵」の名の由来となった稚児・白菊の石塔があったと伝えられており、この石がそれではないかと云われています。●「題石壁」こちらは、江戸中期の儒学者で詩人の服部南郭の詩碑です。南郭没後・かなり年数を経た文化二年(1805年)に舞岡相長保という人が建てたもので、書家・源美徳の筆による 「石壁」と題された七言絶句が刻まれています。この詩は、南郭が江ノ島を訪れ舞岡相長保の外祖父にあたる方の家に宿泊した折に、岩に墨で書き下ろされたものだそうです。 風濤石岸闘鳴雷 直撼楼台萬丈廻 被髪釣鼈滄海客 三山到処蹴波開京都の商家に生まれた南郭は、若くして徳川綱吉の寵臣・柳沢吉保に仕え、綱吉のブレーン・荻生徂徠の門下となりました。詩文に秀で、殊に盛唐詩に通じ、江戸中期に一時代を画す存在として、多くの門弟を輩出しました。 また文人画家としても知られています。「稚児が淵稚児が淵は海水によって削られて比較的平坦になった岩盤が隆起したことによってうまれました。その昔、白菊という名前の稚児がここから身を投げたという話が「稚児ヶ淵」の名前の由来となっています。稚児ヶ淵からは、広がる海と空、富士山の向こうに沈む夕日を一望することができ、その絶景から「かながわの景勝50選」にも選ばれています。また、釣りの名所としても知られており、休日は釣り人でにぎわっています。」そして来た石段の道を、復路は上って行った。「見晴亭」。「龍宮」まで引き返す。そして「奥津宮」。そしてさらに「岩屋道」を引き返す。さらに、戻るに連れて姿を変える「江の島シーキャンドル」、「燈籠」の姿をカメラで追いながら「江の島サムエル・コッキング苑」に向かって歩を進めたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.29
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江島神社の参道を進むと、正面に「江島神社」の「朱の鳥居(大鳥居)」とその先に「瑞心門」。「江の島燈籠 2024」マップ。時間は18:40、既に「光の絵巻(瑞心門)」が始まっていた。VELVETA DESIGNによるインスタレーション「光の絵巻」 江の島誕生の伝承「江島縁起」を軸にした物語を光と音で演出していると。しかし、まだ周囲に明るさが残っているので、帰路にゆっくり楽しむこととした。朱の大鳥居の下には、琵琶形の案内看板。「日本三大弁財天 江島神社」と。上部には「江島神社 社紋」が。「江島神社 社紋」は、北条家の家紋「三枚の鱗」の伝説にちなみ考案されたもので、「向い波の中の三つの鱗」を表現しているのだと。『太平記』によれば、建久三年(1190年)鎌倉幕府を司った北条時政が、子孫繁栄を願うため江の島の御窟(現在の岩屋)に参籠したところ、満願の夜に弁財天が現れました。時政の願いを叶えることを約束した弁財天は、大蛇となり海に消え、あとには三枚の鱗が残され、時政はこれを家紋にしたと伝えられています とネットから。狛犬(右)。1mを超える堂々たる大きな狛犬がいた。右手の阿像、鬣、尾の流れも美しい。狛犬(左)。吽像の鬣をくわえた姿。そして正面に「随神門」。インスタレーション「光の絵巻」 が始まっていたが、暗くなった帰路にと。「瑞心門瑞心門は龍宮城を模した神門です。参拝者が瑞々しい心でお参りができるようにとの思いで名付けられました。門の両側には日本画家・片岡華陽画伯による唐獅子図が飾られています。門をくぐった正面にある弁財天童子石像は2002年に江島神社御鎮座1450年を記念して建てられたものです。瑞心門より先へ続く石段は江島神社の辺津宮へとつながっています。」左手に、「江の島エスカー」の乗車駅が。昭和34年に国内初の屋外エスカレーターとして、高低差46メートルを4連で結ぶ全長106メートル の「江の島エスカー」 が稼働。もちろん私は階段を徒歩にて。右手奥には「裏参道」に架かる朱の欄干の「御幸橋(みゆきばし)」の姿が。「江島神社全景絵地図御祭神は、三人姉妹の女神様」社伝によると、欽明天皇十三年(五五二年)に、「欽明天皇の御宇、神宜により詔して宮を島南の竜穴に建てられ一歳二度の祭祀この時に始まる」とあります。これは、欽明天皇の勅命で、島の洞窟(岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社の始まりであることが記されてます。欽明天皇は、聖徳太子よりも少し前の時代の天皇で、この頃、日本では仏教が公伝され、日本固有の神道と外来の仏教が共に大事にされていました。」「江島神社全景絵地図」をズームして。歩いて来た参道を振り返る。再び「瑞心門」のインスタレーション(展示空間)「光の絵巻」を。唐獅子(右)もライトアップされて。門の両脇には唐獅子画が飾られていた。これも片岡華陽が描いた絵。唐獅子はご祭神の守護と参拝者に厄災がふりかからぬよう祈願の意味が込められているのだと。唐獅子(左)。童子を伴い右手に宝剣、左手に宝珠を持った弁財天の石像が階段上の正面に。 江島神社ご鎮座1450年を記念して奉献。近づいて。「弁財天 童子像建立之記平安時代中期に撰述せられた「江島縁起」は、天地開闢のことより説き起し、東海道相模国江ノ島が 天下の霊地たるを記述せられている。縁起に曰く、「欽明天皇13年卯月12日、戌刻より23日辰刻に至るまで、江野南海湖水湊口に雲霞暗く 蔽いて、天地震動すること十日に余れり。諸々の天衆龍神水火雷電山神類夜叉羅刹、雲上より 磐石をくだし海底より塊砂をふき出す。その後、竭雲収まり軽霞まきしりぞいて、海上に忽ちに 一つの嶋を成せり。即ち江野にまぞらえへて、これを江野嶋という。天女、雲上に顕れ、 白龍、十五童子を従へ、この嶋上に降居したまへり」とあり、弁財天が江ノ島に祀られることと なりしを伺い知ることが出来る。折りしも当神社御鎮座1450年を向へ、記念事業としてこの縁起に基づき、弁財天顕現の一場面を、篤志者の御浄財を以て石像にて奉製いたし、弁財天の無量無辺不可思議の功徳を後の世永く称え奉るべく、祈念建立いたすものなり。 江島神社宮司 相原圀彦」「江島神社 三宮の御案内 辺津宮・中津宮・奥津宮の三宮を総称して江島神社と称す●辺津宮(下之宮)御祭神……田寸津比売命(たぎつひめのみこと) 土御門天皇 建永元年(一二〇六年)源実朝が創建。 弁天堂には日本三文弁財天の妙音・八臂弁財天御尊像を始め、十五童子像・御宇多天皇の勅額・ 弘法大師の護摩修法による弁財天像他が奉安されている。宋国伝来の古碑・福石・白龍銭洗池・ 御神木の結びの樹等があり、八坂神社・秋葉稲荷社が境内社として鎮座する。●中津宮(上之宮)御祭神……市寸島比売命(いちきしまひめのみこと) 文徳天皇仁寿三年(八五三年)慈覚大師が創建。 現在の社殿は元禄二年(一六八九年)の 御造営で平成八年の御改修により格天井には花鳥画が施され彫刻等が復元された。 境内には歌舞伎界より奉納された石灯籠等がある●奥津宮(御旅所・本宮)御祭神……多紀理比売命(たぎりひめのみこと) 天保十三年(一八四二年)再建。源頼朝奉納石鳥居・酒井抱一画の八方睨みの亀・八十貫の 力石・鎌倉四名石の一つ亀甲石・御神木・山田流筝曲開祖 山田検校像等がある。●龍宮(たつのみや)・・・・龍神をまつる(例祭九月九日)●岩屋 波の侵食で出来たもので第一・第ニ霊窟からなり約一五〇メートル深奥が当神社発祥の 地である。欽明天皇十三年(五五ニ年)にこの地に鎮座された。春季大祭 初巳例大祭 四月初の巳の日秋季太祭 古式初亥祭 十月初の亥の日 一歳両度の祭祀として欽明天皇の御代より連綿と継承されている」弁財天の梵字が刻まれた石碑は瑞心門の横にあった。石碑の前から随神門を見上げて。「辺津宮」への石段に向かって進む。暗くなり石段横の燈籠も輝きを増して来た。近づいて。杉山検校和一(すぎやまけんぎょうわいち)の建てた江ノ島弁財天の道標とその後ろに『福石』と刻まれた比較的小さい石碑が。杉山検校は、江ノ島の弁財天で21日間の断食をし、祈願したところ、その満願の日、帰り道にこの石につまずいたと。その時、体を刺すものがあったので確かめてみると、松葉の入った竹の管だったいう。この出来事が、管鍼(かんしん)の技術を考案するきっかけとなったといわれていると。これが『福石』 ? つまずくには大きすぎる石であるが・・・・・・。さらに石段を上って行った。右手には「夏限定 切り絵 御朱印」案内板が青くライトアップされていた。燈籠をズームして。江の島の伝説「天女と五頭龍」、湘南の風景、江島神社の家紋(ミツウロコ)、湘南家紋など、江の島にちなんだ様々なデザインの灯籠は、江島神社(辺津宮、中津宮、奥津宮)、江の島サムエル・コッキング苑の他、江の島東町、弁財天仲見世通り、亀ヶ岡広場、 御岩屋通り、江の島岩屋など広範囲に設置されていたのであった。こちらには、江島神社の御札、御守が。正面に「手水舎」。龍の口から水が。「辺津宮」への最後の石段を上って行った。社殿前には白い貝殻で出来た風鈴の数々が来場者を迎えてくれた。貝は土産物などに使われる「カピス貝」という種類で、風が吹くとシャラシャラと涼やかな音を響かせる。周囲は夜になると青いライトで照らされ、拝殿のたたずまいと相まって幻想的な雰囲気になったのであった。右手には「絵図」。(ピンボケだったので以前の写真を)。辺津宮境内のインスタレーション(展示空間)「光の絵巻」波の姿であろうか。左手にあったのが「江島神社奉安殿」。「江島神社奉安殿」の前方にあったのが「銭洗白龍王」。「龍神と弁財天水辺に鎮まる龍神は古来より気象を司る国土安泰の神とされました。江ノ島では弁財天の夫神として財宝福徳の神としても信仰を集めています。」「銭洗白龍王」に近づいて。八角形の「江島神社奉安殿」。源頼朝が奥州の藤原秀衡調伏祈願のために文覚上人に命じてこの弁財天を勧請したとのこと。「奉安殿江の島弁財天への参詣の歴史は古く、広島 の宮島、滋賀県の竹生島と並び「日本三 大弁財天」として篤く信仰されて来ました。 弁財天は当初、武人守護の神として信仰を 集めていましたが、時代が進み泰平の世に なることで、次第に“芸能・音楽・知恵 ・ 福徳の神”として信仰されるようになりました。奉安殿では勝運祈願の神として信仰される八臂弁財天(国重要文化財)や音楽芸能の上達を願う人々の信仰を集めている妙音弁財天(市重要文化財)の御尊像をお祀りするほか、多くの宝物を収蔵しています。」奈良の法隆寺の夢殿をモデルとして建てられた。国指定重要文化財の八臂弁財天像、市指定重要文化財の妙音弁財天像のほか、十五童子像などが安置されているのだ(有料)。重文指定「八臂(はっぴ)弁財天像」。ネットから。同じく日本三大弁財天のひとつとして有名な妙音弁財天(みょうおんべんざいてん)。 「裸弁財天」ともいわれ、琵琶を抱えた全裸体の意外に小さい座像。女性の象徴をすべて備えられた大変珍しい真っ白な姿で、鎌倉時代中期以降の傑作。 ネットから。その先にあったのが「八坂神社(江ノ島天王社)」。御祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)。稲荷社・秋葉社。八坂神社の隣にある小さな社。江島神社の末社だと。豊受気毘賣命(とようけひめのみこと)と火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)が祀られている。江の島随所にあった小祀(秋葉稲荷・与三郎稲荷・漁護稲荷など)を合祀した社とのこと。源実朝ゆかりの「宋の古碑」。1204年(元久元年)に源実朝の命を受けて宋に渡った良真が、宋の慶仁禅師より伝えられたという石碑。「大日本国江島霊迹建寺之記」と彫られているとのことだが読み取れなかった。安岡 正篤(やすおか まさひろ)の感載碑。「明神降鑒衆生福智」安岡正篤撰竝書と刻まれていた。昭和の名宰相とされる佐藤栄作首相から、中曽根康弘首相に至るまで、昭和歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた人物とのこと。「江島神社、御鎮座千四百年祭」の石碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.26
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片瀬漁港・「白灯台」の近くには多くのカメラマン・釣人の姿が。手前の赤灯台の左、その先に、茅ヶ崎沖の烏帽子岩の姿が見えたのであった。雲の色の変化を楽しむ。オレンジ色に輝いて。片瀬漁港の手前・東プロムナード、奥・西プロムナードを見る。西の空一面がオレンジ色に染まる。雲の間から太陽が姿を現した。海面に描かれる夕日による赤い帯は、まるで空の炎が水面に映り込んだかのような美しい光景。太陽が沈むにつれて、その光は濃密な赤からオレンジ、そして金色へと変わり、海の上に広がる色の帯が、波に揺られながら優雅に踊るのであった。その赤い帯は、水平線に向かって次第に薄れていき、最後には海と空が一体となるように溶け込み日が沈んだ後も、しばらくの間その名残を海面に留めたのであった。この一瞬の美しさは、まるで大自然が描いた壮大な絵画のようであったのだ。海面上の一筋の光の帯をカメラで追う。太陽の姿が雲に隠れて。こんな写真を撮りたかったのだが(ネットから)。片瀬漁港の西プロムナード先端にある「白燈台」をズームして。そしてこちらは、「湘南港灯台」。この白い灯台は1964年の東京オリンピックに建造されたもの。塗色および構造:白色・円形鉄造、等級および燈質:無等・明暗緑光・明2秒暗2秒・電灯、光度:870 カンデラ、光達距離:12.5 海里、明弧:全度、高さ:地上から構造物の頂部まで18 m・平均水面上から燈火まで19 m、記事:看守員を常置しない と。2016年(平成28年):湘南港の主要施設の1つとして土木学会選奨土木遺産に選ばれる。洋食レストラン「アイランドグリル」の屋根の上に「江の島シーキャンドル」の姿が。左の相輪(そうりん)のある寺のような建物は「中華飯店 吉祥楼」。そして、江島神社参道~えのすぱ別館通路~シーサイドデッキに至るまでの小路を訪ねた。カラフルな中国提灯の幻想的な光で彩られていたのであった。中華飯店 吉祥楼の営業日は中国風の門構えも光に包まれ、江の島を訪れる観光客を迎えるのであった。中国提灯、ハートのオブジェともに自由に出入りできる箇所にあるので、どなたでも撮影を楽しめるのであった。以前に訪ねたベトナム・ホイアンの美しいランタン祭り👈️リンク を想い出したのであった。そして青銅の鳥居の前に。江の島弁財天信仰の象徴であるこの青銅の鳥居は延亨4年(1747)に創建された。現在のものは文政4年(1821)に再建されたもので、約200年の間、潮風をうけながらその姿をとどめている。市指定重要文化財である。江の島道においては三の鳥居で、一の鳥居は遊行寺前に、二の鳥居は洲鼻通りにあったが、現存するのはこの三の鳥居のみとのこと。両柱には再建に協力した寄進者の名前が記され、信仰の厚さを物語っている。鳥居をくぐると江島神社へと続く参道は江の島弁財天仲見世通りとも呼ばれ、土産物屋がずらりと並んでるのであった。「青銅の鳥居江の島弁財天参拝の玄関口となる鳥居です。古くは木製の島居でしたが、1821年に青銅製で再建されました。鳥居の柱には再建に尽力した大勢の人々の名前が刻まれており信存の篤さを物語っています。正面の額には「江島大明神」と書かれていますが、特徴的な筆跡は弁財天のお使いである蛇をかたどっています。鎌倉時代、我が国にモンゴル軍が襲来した戦い(文永の役)で敵側が退散した事への神恩感謝として、第91の後宇多天皇が奉納したとされる勅額(天皇から賜った額)を写したものです。1997年に藤沢市の指定文化財に登録されました。」青銅鳥居の扁額。『青銅の鳥居』の足元に建てられた案内板によると、元は「木製の鳥居」だったとのこと。「江嶋大明神」と書かれた鳥居の扁額(後宇多天皇による直筆の複製)にある特徴的な筆跡は「弁財天のお使いである蛇をかたどったもの」とも書かれています。とても不思議な力を感じる筆跡で、『江島神社』の御朱印にも使われているとのこと。そして、扁額の額には昇り龍の姿が刻まれていた。なお、この勅額・扁額は蒙古軍退散の祈願に対する恩賞として、第91代後宇多天皇から授かったもので、こちらは写しであり、本物は【奉安殿】内で保管され【奉安殿】を訪問すれば鑑賞出来るとのこと。以前に頂いた『江島神社』の御朱印にも「蛇をかたどった文字」が中央に。青銅鳥居の柱の下部。鳥居の脚に成された「波形の装飾」。鳥居の柱の下に据える沓巻(沓石はない)。沓石とは礎石の上、柱や縁の束柱 (つかばしら) の下に据える石。 根石 (ねいし) 、礎盤 (そばん) のこと と。再建に協力した寄進者の名前、扇屋宗右衛門、大黒屋勘四郎、松葉屋半蔵、等の文字が。銅鳥居をくぐり江島神社へと続く参道を進む。「江の島灯籠2024」配置案内図。美味しそうな海鮮丼が並ぶ。江島屋 竹燈籠「創作ちりめん 布遊舎」。布遊舎は、日本伝統の優しく美しいちりめん生地を使用した四季折々の飾り物をはじめ、和小物・風呂敷・手拭い・はんかち・のれんなど布ものを中心とした和雑貨を扱う店舗。「江ノ島郵便局」。文字は「江の島」👈️リンク 郵便局ではない。「江ノ島郵便局 明治時代の郵便差出箱(ポスト)」。「江ノ島郵便局明治時代の郵便差出箱(ポスト)明治四年三月に郵便事業が創業し、明治五年、東京府下に郵便取扱所を開設するにあたり書状箱を設置したのが始まりです。この郵便差出箱は、明治ニ十年頃に使用していたものを復元したものです。皆さまから愛された、ご利用していただくことにより、「あなたの街の郵便局」のポストとして、江ノ島のふるさとづくりに役立ちたいと思います。」途中、右に曲がり海辺の砂浜・富士見浜に向かう。石段の上から。ここからも富士山の姿は雲の向こうに。こんな光景を期待していたが(ネットから)。江島神社へと続く参道に戻ると右側にあったのが「岩本楼」入口。「旧岩本院 岩本楼」と。岩本楼本館は、江島神社・奥津宮の別当寺「岩本院」に由緒を持つ宿。鎌倉時代より時の将軍・勅使・大名などの宿坊として栄え、今日まで小説や芝居、講談の舞台にも数多く取り上げられて来た。歌舞伎『白波五人男』の弁天小僧はここ「岩本院」の稚児がモデルとのこと。現在も「湘南・江の島の海と富士山の絶景を望む宿」として、人気の宿。昭和初期に誕生した「岩本楼ローマ風呂」と「弁天洞窟風呂」は、当館自慢の神秘の湯。きらめく波光の彼方には霊峰・富士がそびえ、旅の夕餉を彩る。そして「江島神社」と刻まれた石柱。江島神社」は、日本三大弁天のひとつ。滋賀県 竹生島の宝厳寺・竹生島神社、広島県厳島の大願寺・厳島神社、そして江島神社。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.25
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この日は、2024年8月2日(金)、2024.7.20(土)~2024.08.31(土)に開催されている「1,000基の灯籠で、江の島の名所一帯をライトアップする」の『江の島灯籠 2024』を見に行って来ました。『江の島灯籠 2024』は2023年11月に「関東三大夜灯」に認定された。関東最大級の夜灯りの世界、芸能、芸術の神様が見守る江の島でしか味わうことのできない美しく厳かな光祭りを演出していたのであった。そして入口の瑞心門では江の島誕生の伝承「江島縁起」を軸にした物語を光と音で演出していたのであった。17時過ぎに自宅を出て、小田急線で片瀬江ノ島駅に到着。構内にある江ノ島水族館のクラゲ水槽が迎えてくれた。水槽は駅舎正面中央に置かれ、開口部が直径二メートルの円形で、二・六五トンの海水が入っており、ゆっくり回転するように流れていた。十匹以上のミズクラゲがゆらゆら浮遊する様子は、同館で人気を集めている展示水槽そのまま。 ミズクラゲは水族館などでもよく見かける認知度の高いクラゲであり、青と白のコントラストで来場者を魅了する。飼育はなかなか難しいといわれるが、ペットとしても人気がある。しかし、自然界では大量に発生してしまっていたり、漁では網が揚げられないほど大量に入ってしまったりと、被害も出ている。ミズクラゲには刺胞があるため、海水浴中などに刺されることもあるため、注意が必要であるとのこと。体色は透明~白っぽく、半透明の色をした寒天質の傘を持つ。傘は扁平な皿状をしており大きさは平均で直径10cm~15cmほどである。最大では直径が50cmを超える個体もいる。傘の表面に4つの円のような口腕がある。これらに口腕にはヒダがあり、そのヒダの縁に短い触手が並んでいる。また、傘の縁には光の明暗とのバランスを取るための平衡器も8個ある。体長は15cm~30cmにまで成長する日本で一番認知度が高いクラゲである。鑑賞用として飼育されることも有るが、意外とデリケートなため飼育はなかなか難しいのであると。片瀬江ノ島駅構内にあった『江の島灯籠 2024』のポスター。18 : 00 ~ 20 : 30まで点灯(雨天・荒天中止)土日祝および8 / 12 (月・振休) ~ 16 (金)は18 : 00 ~ 21 : 00会場:江島神社(辺津宮・中津宮・奥津宮) /江の島サムエル・コッキング苑 江の島シーキャンドル/御岩屋道通ら/江の島岩屋他 と。まだ明るい小田急線片瀬江ノ島駅。新駅舎は従来の竜宮城のイメージを引き継ぎ、新たに各所に龍の像や天女の絵などがあしらわれ、日没後は毎日、ライトアップされるのだ。道路面のタイル。正面からズームして。屋根には鯱に替わってイルカの姿が。社寺に用いられる「竜宮造り」の技法を取入れて、江の島の「五頭龍と天女の伝説」に因んだ天女と龍の装飾を施し、品格と遊び心を共存させたデザインとなっているのであった。そして江の島に向かって境川に架かる「弁天橋」を渡りながら江の島を見る。手前の橋は国道134号に架かる「片瀬橋」。江の島をズームして。「弁天橋」を渡る。弁天橋にある「雲の形」の像。「江の島弁天橋」方向を見る。陸地寄りには椰子の木が並んでいて、南国感がある風景になっているのだ。国道134号下の地下道へと。ここから左右に、東浜、西浜への海岸に出る階段が伸びている。江の島案内図。現在位置はここ。作者 歌川広重(うたがわ ひろしげ)初代 寛政9年~安政5年(1797~1858)作品名 相州江之嶋之図制作年 天保年間後期(1842年頃)作者 歌川広重(2代)作品名 諸国名所百景 相州七里ケ浜作者 歌川広重(うたがわ ひろしげ)初代 寛政9年~安政5年(1797~1858)作品名 本朝名所 相州江ノ嶋岩屋之図制作年 天保3年(1832)板元 藤岡屋彦三郎「江の島弁天橋」に向かって進むと、巨大な石灯籠が現れた。江島神社御鎮座記念「龍燈籠」(右)江島神社御鎮座記念「龍燈籠」(左)龍をズームして。「龍燈建立之記「江島縁起」によれば欣明天皇十三年(五五二)四月に海底より塊砂を噴き出し天地が鳴動すること二十一日、忽ちに海上に一つの島が成せりとあり、これが島の起りとされる。この島上に天女が降居し湖水の五頭龍は天女の麗質を見て善行を施すに至り、 以降天女は江島明神として祀られることとなった。 役行者を始め弘法、慈覚等高僧が岩窟にて参籠修行をいたし、各々が神感を受け御神威を仰いだとされる。 鎌倉時代には源頼朝を始め鎌倉将軍家、北条氏歴代、更に秀吉、家康等その時代の名立たる武将の信仰は極めて篤く、 殊に江戸時代には江の島詣が盛んとなり、天下衆人の敬仰を集めるに至った。 又景勝の地江の島は紀行文、人情本、謡曲、長唄、常磐津、歌舞伎等に表現され、 北斎、広重等浮世絵師により秀れた錦絵が数多残され、 島内には社殿をはじめ多くの石碑が往時の信仰の深さを物語っている。然るに豊かな自然環境と歴史的文化遺産を持つ江の島が折しも江島神社御鎮座千四百五十年を迎えるに際し、当地永々の繁栄を祈念いたし、奉祝記念事業として関係各位の御高配と多くの御奉賛者の御浄財を以て、史蹟名勝地に相応しき石燈籠一対を建立いたす所以である。 平成十三年巳歳七月 江の島振興連絡協議会、江島神社」境川越しに夕日を。時間は18:03。片瀬漁港の先の空がオレンジ色に染まって来ていた。片瀬漁港鮮魚直売所(左)も見えた。岩屋洞窟への漁船・べんてん丸案内板。「行きはお楽な船で!歩くと登りで40分以上かかりますが、船なら7分程度で着きます。帰りは江の島を観光しながら、歩きで降りてお帰りいただけます。片道 大人400円 小人200円(5歳以下無料)」往路、帰路の推薦ルート図 と。地震=津波➡️避難すぐ高いところへあがってください と。江の島弁天橋の入口に到着。ピンボケであった為、これは以前訪ねた時の写真であるが。弁天橋入口にある石碑・「名勝及史蹟江ノ島」。葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景」の「相州江の嶌」も紹介されていた。「この浮世絵の江の島は、神奈川県藤沢市に位置する、江戸時代も人気の観光名所である。神奈川県指定史跡・名勝、日本百景の地である。当時は干潮時に現れた砂州を歩いて江の島へ渡っていた。現在は橋が架かっている。干潮時の限られた時間の中で江の島の弁財天詣でに急ぐ人々の動きが伝わってくる。江ノ島弁天の江島神社上之宮の塔が顔を出している。渡った先には大きな石灯籠が見え、そこが参道の入口である。両岸の茶店や家並みが細かく描かれている。島の周囲の海面は波一つなく穏やかである。江の島は対象的に砂州の両側に寄せる波の点描表現が浮世絵として効果的である。建物の屋根、帆船、富士山の形と様々な三角形があふれている。現在の江ノ島は、1959年藤沢市は米国マイアミビーチ市と姉妹都市提携を結んだ。「東洋のマイアミビーチ」という触れ込みで江の島・片瀬・鵠沼地区の観光開発に力を入れる。この年、江ノ島鎌倉観光は日本初の野外エスカレータ「江の島エスカー」を建設した。1964年の東京オリンピックが観光客数のピークで、以後は減少する。この浮世絵は1830年から1832年頃の作品である。北斎の年齢が72歳頃になる。」と。現在地はここ。江の島まちづくり憲章1、前文江の島は、海と緑の美しい自然環境と豊かな歴史的遺産を持つ藤沢市の代表的なは地区であり、藤沢市民にとって印象深い場所の1つです。私達は、さらに豊かな江の島の魅力をつくりだしてゆくことを願い、すぐれた自然環境と歴史的遺産を生かして、江の島らしい、価値をもった活力と魅力あるまちづくり"島ぐるみ野外博物館"を目指します。また、旧島部も埋立地も1つの江の島としてまちづくりを進めるために、ここに「まちづくり憲章」を定めます。2、本文私達は、江の島に調和した魅力あるまちづくりを進めるために次のことに努めます。( 1 )緑の江の島を形成する自然環境を守り育てます。( 2 )江の島の海をきれいにし守り育てるよう努めます。( 3 )江の島の歴史的文化遺産を守り後世に伝えます。( 4 )海への眺望や、海辺・緑・歴史的文化遺産を生かした行楽地として活力あるまちづくりに 努めます。( 5 )江の島にふさわしいすぐれた街並と、健康でゆたかな生活の場を作り出すよう努めます。( 6 )お互いの友愛と連帯意識を高め、住民自治の精神でまちづくりを進めます。3.附文これらの目標を達成するには、地域住民・市・事業者等が、お互いに協調を図ってそれぞれの役割を果たす必要があります。( 1 )地域住民の役割市民が良い環境をつくり、良い環境が市民を育てます。すぐれた環境をつくるには、市民1人1人の環境に対する自覚と関心が必要です。地域住民相互の協力と合意のもとに豊かな江の島のまちづくりを目指します。( 2 )市等の役割市は、市民・事業者に対する指導・助勢・啓発の他、環境整備事業を推進し、江の島の骨格・顔となるすぐれた景観づくり、及び土地利用誘導・緑地保全維持などに先導的な役割を果たさねばなりません。また、公共建築物等の建設・計画に当たっては、江の島にふさわしい施設づくりに努めるものとします。また、国・県も、その事業や計画の展開に当たっては、広域的かつ基幹的な必要性だけでなく、江の島の自然・歴史の特性を十分配慮して行うよう努めるものとします。( 3 )事業者等の役割事業者は地域社会の一員として、その事業活動を通じて、地域住民との信頼関係を深め、魅力ある江の島のまちづくりを目指して、江の島の環境形成に努めるものとします。 [制定: S.63.4.7 江の島一丁目ニ丁目住民一同]」「江の島は、またの名を「絵の島」ともいわれ、昔から風光明媚と自然環境に恵まれた周囲約5Km、面積0.37km2の島です。島の頂上部にある展望燈台からは、東南に三浦半島、南に伊豆大島、西に富士山・箱根の山々、と湘南海岸を中心に360度の大パノラマを楽しむことが出来ます。また江の島は、地質上、第三紀凝灰質砂岩からなる島で、このため海浸洞窟や岩嘴が多く、奇異な形をなして、古くからその名勝をうたわれています。島の中央には江島神社があり、弁財天が祀られています。安芸(広島県)の宮島、近江(滋賀県)の竹生島にある弁財天とならんで、日本三大弁財天の一つにあげられています。江戸時代には平和の神・福の神・音楽技芸の神として、多くの人々から信仰され、大変にぎわいました。このため、島内には神奈川県および藤沢市指定の多くの文化財が遺され、自然美と併せて、全島が史跡・名勝に指定されています。来島いただきました皆様に、四季を通じた江の島の魅力をご満喫いただきたいと思います。」名所・史跡リスト。「潮音」「円弧型日時計」といい、日時計作家 小原輝子氏の作。長洲一二元神奈川県知事の揮毫になる「潮音」という文字が黒御影石に彫られていた。平成元年4月、藤沢のライオンズクラブが結成15年を記念して建てたものであるとのこと。「円弧型・日時計”時”には形がなく見えません。しかし、私達には確かに時が過ぎていくのが感じられます。人々は大昔、太陽の動きをつかまえて、とりとめもなく流れる時に区切りをつけました。それが日時計と時刻です三角形の石の指針(ノモン)の影を、円弧形の石の時刻目盛で読んでください。影を止めることなく刻々と動いています。それが宇宙における地球の雄大な回転なのです。午前は西側の影、午後は東側の影で真太陽時(ここの太陽による時刻)がわかります。日本標準時と真太陽時はちがいます。標準時が兵庫県明石市・東経一三五度できめてあるからです。いつも真太陽時が進んでいてその差は毎日ちがっています。左の時差表グラフを見て計算すると標準時がわかります。湘南海岸にたつ日時計に明るい風が吹きぬけていきます。太陽と地球と私達、すべてを大切にしたいと思います。」「時差表👈️リンクこの日時計が影で示す時刻は日本標準時より進んでいます。時差表の本日の分秒数を引いてください。日時計の位置は、東経139度29分11秒、北緯35度18分09秒」なかなか理解が難しいのであった。そして「江の島弁天橋」入口。「沿革この橋は、明治24年 満潮時砂浜であるところと島とを結んだ橋として、作られ、江の島棧橋と呼ばれていました。明治30年に至って橋を片瀬州鼻まで延ばし、大正11年に県営となるに及んで渡橋料金2銭也がとられました。しかし橋が長いので一度暴風に遭へば流失するような状態で、昭和24年には更に橋脚を鉄筋コンクリートパイル、上部は木橋として作り直され、その後、江の島弁天橋として親しまれてきました。昭和32年に至って湘南海岸公園施設の一翼を担ひ、この近代的な橋梁に生れ変わったものであります。昭和33年7月 神奈川県」片瀬漁港の「西プロムナード」の方向、夕日が雲の中に沈んで行ったのであった。オレンジ色に染まった雲をズームして。江の島・シーキャンドルを見る。「江の島大橋(えのしまおおはし)」越しに鎌倉、逗子、三浦半島方向を見る。「江の島大橋」は神奈川県藤沢市の江の島と本土とを結ぶ橋で、厳密には西側の歴史的な「江の島弁天橋」(人道橋)と東側の「江の島大橋」(車道、自転車も可)に分かれているが、一般には両橋を含めて江の島大橋、江ノ島大橋と呼ぶ。残念がら、富士山の姿は完全に隠れていた。ズームして。 ・・・つづく・・・
2024.08.24
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この日は一昨日・8月14日(水)、実家の盆参りに夫婦で行って来ました。といっても我が実家は我が家から徒歩にて数分の場所。お盆は地域によっても違いますが、我が実家では8月15日を中心として8月13日~16日の4日間、故人を偲び、ご先祖様や精霊が家族のもとに帰って来て一緒に過ごす日なのです。13日の日に夕方早めに迎え火で故人を招き、16日には夜遅くに送り火で見送りをします。お盆は仏教行事としての正式な呼び名は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言い、「お盆」は盂蘭盆会から変化して現在では親しみやすくそう呼ばれる様になったようです。我が家の地域では、お盆の迎え火は、家の門の近くの屋敷内に小さな四角の土の盆塚(祭壇)を造り、その周囲にオガラを刺し、盆花を添えて準備をして、この土の盆塚・盆の土盛(祭壇)の近くで、藁とオガラを燃やし、お迎え火としています。私が子供の頃は、この盆塚・盆の土盛(祭壇)を作るのがこの時期の私の仕事でした。畑の土を持って来て、土を箱に詰めるのではなく、板を利用して四角く土を固め、ここに上る坂道階段も造った事を今、懐しく想い出しています。オガラとは麻の茎の皮をむいたもので、オガラの火に向かって煙に乗って先祖がやってくると言われています。8月13日のお盆の始まりの夕方に焚くことで、この世に帰ってくる時が来たよ、帰る場所はここだと知らせているのです。迷わず帰ってこれるようにと目印を出しているのです。併せて、この場所に、キュウリとナスで造った精霊馬(しょうりょううま)を置きます。ご先祖様は東から来ると言われているので、迎え火、送り火の時はキュウリは西向き、ナスは東向きに置くというのが我が実家のやり方です。ご先祖様がいち「早く」家にたどり着いてほしい願いを込めて、キュウリを足の速い馬・駿馬に見立てて作ります。我が家でゆっくりしていただいたあとは、あちらの世界にお戻りいただかなくてはいけません。名残り惜しい気持ちを込めて、「ゆっくり」と帰っていただくために、ナスを牛に見立ててご先祖様をお送りするのです。また、様々なお供え物をあちらの世界に持って行っていただくように、牛に荷物を持たせるという意味合いもあるとの事です。蓮の花の盆花です。蓮の花を供えると、祖先が花びらを舟にして帰ってくるのだと昔、祖母から。そして我が実家のこの日の祭壇です。私が子供の頃には、細い竹を門型に組み、そこに鬼灯(ホオズキ)や稲等を吊るしていました。鬼灯(ホオズキ)はふっくらした形と炎の様なオレンジ色から、お盆に帰ってくる、ご先祖様や精霊が迷わずに帰って来れるように、そして「鬼灯」の文字からもわかるように灯りとしての道しるべになる様に提灯(ちょうちん)に見立てられ、仏壇や盆棚、精霊棚に飾られたのです。我が実家は日蓮宗、南無妙法蓮華経、明治34年と記された掛け軸。以前に撮った掛け軸の写真です。これは明治27年のもの。左下の「勘左衛門」とは曾祖父の名前です。盆棚・精霊棚に近づいて。我が農園で採れた野菜類を、実家に運び、兄がお供えしてくれました。スイカ、カボチャ、そしてキュウリとナスで作った「精霊馬」です。手前には「精霊馬」の食事も。ナスを刻んで、里芋の葉の上に載せています。子供の頃は「水の子」と呼んでいた記憶があります。その隣には、清水の入ったお皿。透明で綺麗な水は「穢れのない浄土」を表すため、仏壇には必須のお供え物なのです。そして我が実家では、樒(しきび)の葉のついた枝を束ねて。参拝者はこの樒(しきび)の葉を水につけて「精霊馬」の食事の上に優しく触れて水をかけるのです。樒は、高さ10mほどの常緑高目で、マツブサ科シキミ属に分類されます。春になると薄い黄色の花を咲かせます。漢字では櫁、梻と表記されることもあります。シキビ、ハナノキ、ハナシバと呼ばれたり、独特の強い香りなので、香の葉(こうのは)、香の木(こうのき)、香の花(こうのはな)、香芝(こうしば)とも呼ばれたりします。香の葉はミソハギの代用品であると聞いた記憶も。ミソハギは別名には「精霊花」「盆花」「盆草」「霊の屋草」など、お盆に関係する名前があります。「精霊棚」、「水の子」に水をかけるために使う花であることから「水掛草」の別名もあるのだと。下記のミソハギの写真をネットから。キュウリとナスで作った「精霊馬(しょうりょううま)」です。「精霊馬」とは、お盆の時期に飾られる、ご先祖様を迎えたり、送るったりするための乗り物のことです。“馬”という名称が用いられていますが、キュウリは馬、ナスは牛をそれぞれ表現。「馬は、ご先祖様の霊が帰ってくるときは早く家に帰ってきてもらうため。牛は、帰るときにはお供え物をもって、ゆっくりと景色を楽しみつつ帰ってほしいため」という願いが込められています。よって馬用のキューリは長くて元気なものを、牛用のナスは土産物をたくさん運べるように太ったものを選ぶと聞いています。そしてご先祖様には、この日は赤飯と煮付けを奉納。今日は、オハギでしょうか?我が実家を守って下さっている仏像様です。手前には日蓮聖人像が。ズームして。我が実家では「念持仏」と呼ばれている仏像。昔からあるとのことですが、この歴史は知りません。「開運!なんでも鑑定団」に!?(笑笑)。◯◯家先祖代々の霊位。我が両親の位牌です。個人情報でしょうが!?毎年、この位牌を見て命日を再確認しています。76歳で亡くなりました。昭和から平成に変わった年、私は39歳でした。まだまだ話をしたかった、聴きたかった!!父の命日は中国で天安門事件(1989年)👈️リンクが起きた日なのです。そして今年は父が亡くなってから35年、母は31年経ったのです。両親に合掌そして感謝!!我が祖父母の位牌。祖父が亡くなったのは私が4歳、祖母は16歳の年齢の年でした。明治時代の先祖の位牌。「弘化」の文字の入った位牌。「弘化」とは1844年から1848年までの期間を指す。176年~180年前の位牌。「仁孝(にんこう)天皇、孝明(こうめい)天皇の代の元号。前元号は天保(てんぽう)。次元号は嘉永(かえい)。1844年(天保15)12月2日改元。江戸城大火などの凶事を断ち切るために行われた(災異改元)。弘化年間の江戸幕府の将軍は徳川家慶(いえよし)(12代)。1846年(弘化3)に仁孝天皇が崩御し、皇子の孝明天皇が即位した。」と。「文化十三年」の文字のある位牌。「文化十三年」は1816年、208年前の位牌。「文化」は享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。町人文化が顕著に発展した時期であると。そして12時過ぎに我が実家の檀家寺の住職が盆供養に来てくださいました。木魚は持参されて。我が〇〇家は江戸時代・寛永年間の1630年代からスタートした事が解っているのです。亡き父が檀家寺に通い調べ上げたのです。よって現在までの「過去帳」もあるのです。それによると、私は初代から数えて18代目の次男坊なのです。約400年で18代ですので約22年/代という計算になります。久しぶりに兄妹4人が全員夫婦で元気に集まり、ご先祖に感謝しながら思い出話をご先祖の前でビールを飲みながらしばし語りあったのでした。お盆は祖先、故人だけでなく、身近な人とのかかわりを更に深める機会になっているのです。来年も、全員が元気でこの場所にと!!と語りながら実家を後にしたのでした。 ・・・完・・・
2024.08.16
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「湘南港北緑地広場」にあった「弁財天と世界女性群像噴水池」でしばしの休憩。ベンチに座り、持って来たバナナを食べた後は、再び靴と長ズボンに変身する。4体の像が「弁財天」を囲んでいた。この鳥の名は?ムクドリに似ているが!?水浴び中。「湘南港竣工とオリンピック東京大会ヨット競技開催記念弁財天と世界女性群像噴水池弁天の江の島といわれる江の島弁財天は、近江の竹生島、安芸の厳島とともに日本三弁天の一つであり江の島の象徴であって、この弁財天にちなみ、冥想の弁財天を池の中央に配し江の島の歴史と文化を表現しこれを囲んで東洋と西洋、古典と現代の四つの像つまり東洋の古典像は、オリンピック発祥の地ギリシャの古代女性像、これに対し西洋現代像は優雅な女性裸像と東洋の現代女性像として東南アジア踊り子像をくみあわせこの五体はオリンピックの五輪を表し世界とその平和親善を表現しヨット競技開催を永久に記念するものでこれらはいずれも格調高く気品にみち全体的に美的統一がはかられています。噴水は弁財天を水のベールにつつみ、昼間は太陽のひかりをあびて七色の虹をいろどり夜間は水中照明により様々に変化しつつ一層の美観をくわえます。」「弁財天と世界女性群像噴水池を後世にこの弁財天と世界女性群像噴水池は平成十年第五十三回国民体育大会かながわ・ゆめ国体を機に江の島北緑地の再整備事業として現在の姿となりました。当初の位置は現在地より約二十メートル程南側に位置しその景観は左の写真のとおりであります。弁財天は、発祥地インドではサラスバティーすなわち水の神 音楽の神と云われそれにふさわしく弁財天を中心として世界女性群像はこの水面の上にたたずみ幾年の歳月を>潮騒の調べにだかれて流れる雲とともにその女性美を水面に映してまいりました。ここを訪れ散策する多くの人々の心に安らぎと美しき感銘をあたえ静かにいならぶ弁財天と世界女性群像この五体の彫刻の製作者こそ昭和九年に日本彫刻家境界を創立、造形と精神の両面にわたる人間性の追求に専念した日本彫刻界の重鎮、加藤顕清氏であります。氏は晩年を藤沢市ですごし昭和四十四年市内大庭で没した。享年七十二才。ここに氏の生涯にわたる彫刻美術の偉業に敬意を表し弁財天と世界女性群像噴水池を後世に残すものであります。 平成十二年三月 藤沢市長 山本捷雄」噴水池の中央に「辯財天」。西洋:ギリシアの古代女性像。現代:東南アジアの踊り子像。東洋:法隆寺の百済観音像。古典:西洋の女性裸像。そして同じ江ノ島緑地広場にあった「エドワード・S・モース記念碑」。大きな御影石にレリーフがはめ込まれた碑。作者:山本正道氏竣工年月日:1985年4月14日作品材質:ブロンズブロンズ製の博士と子供たちのレリーフ。「エドワード・S・モース記念碑 日本近代動物学発祥の地」碑。「東京大学の初代動物学教授エドワード・S・モースは明治10年(1877)7月から8月末までここ江の島に日本最初の臨海実験所を開き、シャミセンガイなどの研究をしました。」そして海が割れたトンボロを再び。仮設階段に向かって長い行列が。「湘南港灯台」方向に歩いて「片瀬東浜」海岸を見る。ほぼ完全開通した「トンボロ」。私も再び仮設階段を下り、トンボロの道へ再び。完全に砂浜になった「海が割れた道」を「片瀬東浜」海岸に向かって進む。ワンちゃんもトンボロの見物か、海を見つめて。最後まで残っていた水面もほぼ消えて。時間は12:22。この場所には観光客の足跡が確認できた。「江の島大橋」、「江の島弁天橋」方向を見る。この日の最大干潮が間近の相模湾。最後の海面跡を歩き振り返って。大きく砂浜の拡がった「片瀬東浜海岸」が前方に。再び最後の海面の痕跡近くまで延びた列を振り返って。別の場所から。開通した「トンボロ」の中央分離帯の如くに、人の列もカーブして。海が最後に割れた場所を。12:25。直射日光があれば、もっと乾く速度が速いのか?海が最後に割れた場所をうろうろと。赤い帆のウインドサーファーが仲良く。大きく潮の引いた岩場で遊ぶ家族連れの姿も増えて。これもウインドサーフィン、それともヨットであっただろうか。「片瀬東浜海岸」そして腰越港方向を見る。往路の時よりも人の数は減っていた。歩いて来た、江の島の海が割れた・トンボロを振り返って。時間は12:40過ぎ、この日の干潮のピークの時間。少しズームして。普段は海面に覆われている場所から、約200~250mの「砂の道「トンボロ」」が生まれているのであった。そして「砂の道「トンボロ」」時の上空からの写真を、これもネットから。この日の如く、「江の島大橋」の鎌倉側の海が割れて「砂の道「トンボロ」」が生まれるのだ。普段は、赤線------の上部が海面、青線------がトンボロとなっているのであろう。国道134号沿いの「片瀬東浜海岸」。夏には海水浴客で賑わう海岸。帰路は江ノ電で帰ることとし、「すばな(洲鼻)通り」を進む。和菓子屋「玉屋本店」。明治45年創業、江ノ電開通と共に湘南の地で100年以上にわたる伝統を紡いできた羊かん専門店。そして「江ノ電 江ノ島駅」に到着。駅入口にあった「小鳥付車止め「ピコリーノ」👈️リンク」は着飾って。「江ノ電 江ノ島駅」👈️リンク。「江ノ島(えのしま)」と。「江ノ電路線図」。路線距離(営業キロ):10.0 km軌間:1,067 mm 駅数:15駅(起終点駅含む。その他信号場1) 和田塚・由比ヶ浜・極楽寺・稲村ヶ崎・鎌倉高校前・湘南海岸公園・鵠沼・柳小路・石上の 9駅が終日無人駅。 切符は乗務員が回収するか、備え付けの集札箱に入れるようになっている。 繁忙期には旅客が集中する無人駅にも駅員や警備員が配置される。自動改札機は鎌倉、長谷、 江ノ島、鵠沼(一部)、藤沢の5駅に設置されており、その他の駅のすべての出入口には ICカード簡易改札機が完備されている。複線区間:なし(全線単線)電化区間:全線(直流600 V)腰越 - 江ノ島間の一般道路との併用軌道。そしてホーム横の待合室内に設置されている303形電車先頭部。そして藤沢駅行きの電車に乗り込む。「鵠沼駅」手前で「境川」を渡る。そして藤沢駅から小田急線で帰宅したのであった。そしてこのブログを書きながら、北海道の函館も陸繋砂州(トンボロ)の上に発達した街であることを思い出したのであった。「函館の市街地は、両側が海に面した1kmほどの幅しかない非常に狭いところにあります。その先に突き出た函館山があります。このような地形の特徴は、函館山によるトンボロ(tombolo)現象によってできたものです。陸の近くに島があると、沖からの波が島の両側を回って、裏側で打ち消し合って穏やかになることがあます。そこには沿岸流や河川によって堆積物がたまりやすくなり、砂洲が形成されることがあります。このような島と陸をつなぐ砂洲のことを、「トンボロ」、日本語では「陸繋砂州(りくけいさす)」と呼ばれています。沖に島があることによって、陸との間に砂洲ができることを「トンボロ現象」といいます。」と再び。そしてこちらは、フランスのサン・マロ湾上に浮かぶ小島・「モンサンミッシェル」👈️リンク。潮の干満の差が最も激しい所として知られ潮の満ち引きの差は15m以上と。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.05.30
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「海が割れる」直前の砂浜を半ズボン、ゴムサンダルで渡る。「海が割れる」直前の海面を撮す。「江の島大橋」、「江の島弁天橋」の顕になったコンクリート橋脚、基礎を見る。「片瀬東浜」の波打ち際を振り返る。「片瀬東浜」の高層マンション群。一番右に見えたのが「ヴィルヌーブ片瀬江ノ島」1996年2月に竣工した「ヴィルヌーブ片瀬江ノ島」は、事業主が株式会社西洋環境開発、および施工が株式会社竹中工務店により建設されました。「ヴィルヌーブ片瀬江ノ島」は全ての住戸が湘南の海を一望できる南東向きに配置され総戸数は64戸で、間取りは57.47㎡~90.28㎡の2LDK~3LDKとDINKSやファミリー向けのプランニングであるとネットから。上層部の部屋のベランダからの「トンボロ」も絶景なのであろう。「海が割れる」直前の海面をゴムサンダルで歩き渡り振り返る。推進は数cmで上下している。「トンボロ」の産まれる直前の瞬間を歩いたのであった。多くのズック姿の観光客が、潮の引くのを待っていたのであった。待ちきれず、大胆に歩く方もチラホラと。 私と同様に、裸足、ゴムサンダルで渡る人も増えて来た。小さな子供もヨチヨチ歩きで。父親がその後を追う。浅瀬をSUPで楽しむ人の姿を。SUP(スタンドアップパドルボード)とは、大きなサーフボードの上に立ち、オール(パドル)を使って海や川を漕ぎ進む、ハワイ発祥のウォータースポーツです。 日本でも、ここ数年愛好者が増加してきています。 ボードの上に立って漕ぐと、海や川の上を散歩しているように感じられ、周辺の森や山・水中の自然を楽しむこともできます と。再び「片瀬東浜」海岸を振り返る。海面も残り少なくなり、小波(さざなみ)状態に。ズックでかかと歩きをする方々。多くの小型ヨットを三浦半島を背景に。「ヤドカリ」が安全な場所を求めて急ぎ足で移動中。江の島島内の「江の島サムエル・コッキング苑」内に立つ「江の島シーキャンドル」の頂部をズームして。ここから、「トンボロ」を楽しむ人?の姿も。「湘南港北緑地広場」下の岩場も潮が引いて姿を表していた。そして、何故かこの時間に仮設階段が補修?中であった。時間は11:05過ぎ。「◆仮設階段設置日時(予定)」この日は、10:00頃から~であり、1時間以上経っていたが。何か問題が発生し、応急修理中か?10m以上離れた右側の岸には、輪っか付きのロープが下がっており、階段の再?開通を待ち切れない人々がロープを利用して岸壁を上っていた。上から腕を掴んで引き上げる人の姿も。多くの観光客が開通を待っていた。パイプ階段の凹凸部を養生し、工事も最終段階に。そして漸く階段の開通。まずは下りから。階段の幅が小さく、片側交互通行せざるを得ないのであった。そして今か今かと待つ上りの観光客の姿。クレームを付ける方もなく、これぞ我が日本の光景。そして漸く上りの開通。時間は11:20過ぎ。その後ろに長蛇の列が。海の道が出来ない、江の島の付け根の海岸を見る。ゆっくりと、一歩一歩下る子供の姿も。下りに観光客も増えて来た。私も長蛇の列に並び、この階段を漸く上ることが出来たのであった。「湘南港北緑地広場」前にあった案内板。「トンボロとは江の島は、潮が大きく引くと陸続きになり、この地形をトンボロと呼びます。トンボロはイタリア語で、日本語では陸繋砂州(りくけいさす)といいます。波は、島のような障害物があると、回り込んで進みます。波は同時に砂を運び、島と海岸の間には、砂が集まり、トンボロができます。江の島のトンボロは、自然現象のため、必す現れるとは限りませんが、潮位がおよそ20cmより低くなる時に現れます。トンボロは江の島以外にも国内や世界各地で見ることトンボロができます。 解説・写真提供:新江ノ島水族館・なぎさの体験学習館」。「トンボロ」発生時の写真。「相州江之嶋辯財天開帳参拝群衆之図 歌川廣重」制作年代:嘉永4年(1851)サイズ:37.0cm×75.0cm(大判3枚続)解説江の島の弁財天は、技芸の神として信仰を集めた。特に音曲の世界では講中を組んで江戸から参詣することが多く、六年に一度の開帳の時は、多数の参詣人で賑わったといわれる。ここでも江の島参詣に向かう四組の女講中を揃いの日傘で描き分けている。画面では、江戸長唄の杵屋、清元節、常磐津節などの人々である江の島北緑地広場において、「デジタル版 トンボロ記念証」を発行していた。其の「QRコード」をカメラで。「デジタル版 トンボロ記念証」日日も「令和六年五月二十六日」と。「湘南港北緑地広場」前から「海が割れた・トンボロ」を見る。時間は11:55。「海が割れた・トンボロ」が姿を現し始めた。残るは水溜りのみか?長蛇の列が相変わらず。この時も50m以上あっただろうか!?「海の道」がほぼ開通したので、手前の列はなくなっていた。天童よしみの曲:「珍島物語」👈リンク を想い出したのであった。♫海が割れるのよ道ができるのよ島と島とがつながるのこちら珍島(チンド)からあちら芽島里(モドリ)まで海の神様カムサハムニダ霊登(ヨンドン)サリの願いはひとつ散り散りになった家族の出会いねえわたしここで祈っているのあなたとの愛よふたたびと♫♫遠くはなれてもこころあたたかくあなた信じて暮らしますそうよいつの日かきっと会えますね海の神様カムサハムニダふたつの島をつないだ道よはるかに遠い北へとつづけねえとても好きよ死ぬほど好きよあなたとの愛よとこしえに霊登サリの願いはひとつ散り散りになった家族の出会いねえわたしここで祈っているのあなたとの愛よふたたびと♫年に数日だけ干潮の関係で珍島から芽島まで約2.8㎞の道が現れるのだ。この珍しい海道は、国家名勝第9号に指定されていて、多くの観光客が集まる大イベントになっていると。『珍島物語』には「朝鮮半島の南北分断によって離れ離れになった家族の願いが込められている」という意味もあるのだろう。この歌には、そうして離れ離れになった母と娘の物語が綴られているのだろう。そう考えると、1番で綴られた再会への願いがしっかり相手に伝わっていること、そして相手もまた同じように再会を切望していることがよくわかるのだ。誰の人生にも訪れる、大切な人との出会いや別れ。「あなた」との再会を切に願う歌詞には、きっと多くの人が共感できるのでは。ふたたびの愛や、永遠の愛。これらの強力な愛を抱く『珍島物語』の主人公、ひいては再会を願う全ての「わたし」に海割れの道が開けることを願っているのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.29
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『横須賀市浦賀の旧跡・神社仏閣を歩く』をアップ中ですが、チョット休憩して下記をアップさせていただきます。一昨日、5月26日(日)、テレビのニュースで、江ノ島で干潮時にしか現れない、江ノ島へ通じる砂の道「トンボロ」が出現することを聞き、訪ねることに。ネットにて、潮見表を。5月26日(日)は中潮で12:41に干潮になり、潮位は-2cmとのこと。江の島は潮位が20cm以下になるとトンボロが現れ陸続きになるとのこと。トンボロを日中歩いて渡れるのは、3月から9月(2022年)の新月または満月の干潮時のみ と。自宅を10時前に出て、小田急線を利用して「片瀬江ノ島駅」に10:30過ぎに到着。改札口横には、新江ノ島水族館の協力で、クラゲが漂う常設の水槽があるのだ。水槽は駅舎正面中央に置かれ、開口部が直径二メートルの円形で、二・六五トンの海水が入っており、ゆっくり回転するように流れている。十匹ほどのアカクラゲ?がゆらゆら浮遊するしているのであった。アカクラゲは最大で傘の直径が15cm、触手の長さを入れた全長は2mにも達するらしい。日本全国に生息し、私たちが最もよく目にする「毒クラゲ」の1つだと。ズームして、傘の縁からは赤褐色の触手が多数伸びる。入り口の天井にはウミガメの木彫像が。ウミガメをズームして。2020年7月30日(木)に新装なった小田急線の片瀬江ノ島駅を正面から。駅舎は神社仏閣に用いられる「竜宮造り」と呼ばれる技法を採用。江島縁起の一つとされる「五頭竜と天女の伝説」にちなんだ装飾が施され、屋根にはシャチホコではなくイルカが載っているなど、”品格と遊び心”が共存し、隅々まで見飽きない造りとなっているのだ。波間から立ち上がる黄金の龍の姿が。屋根の上には鯱ならぬイルカが。そして江ノ島に向かって、境川に架かる「弁天橋」を渡る。路面には、陽光に輝く、江島神社の鳥居、藤沢市の花・フジそして江ノ島の姿が描かれたパネルが埋め込まれていた。「弁天橋」から国道134号・「片瀬橋」その奥に江ノ島の姿が。「弁天橋」から「境川」の上流を見る。「弁天橋」中央に置かれている像。「雲の形」と。なめらかでふくよかなポーズが悩ましい。この日は日曜日でもあり、国道134号には車が渋滞中。「べんてんばし」。「弁天橋」途中から振り返って。そして「片瀬東浜海岸」に到着。時間は10:40。干潮のピークの時間は12:41とのことで2時間後であった。しかし前方を見ると、既に海が割れて砂の道が出来ていたのであった。まだまだ、この時間では「砂の道」は現れていないつもりで向かったのであった。海が割れて「砂の道」が出来てくる・「トンボロ現象」の姿を初めから写真に収めようと早めに出て来たのであったが。ネットで一昨日の「潮位グラフ」を。これによると、早朝5時の潮位は152cm、そして1時間に30cmほどの速度で潮が引いているのを知ったのであった。そしてこの時間の10:40には潮位が15cm近くになっていて、トンボロの現れる潮位20cm以下になっていたことを、今、知ったのであった。海が割れて「砂の道」が出来る前の写真を撮る為には、10時過ぎに来なければならなかったのであった。江の島は大きく潮が引くと、陸続きになり、この地形を「トンボロ」👈️リンクと呼びます。「トンボロ」はイタリア語で、日本語では陸繋砂州(りくけいさす)といいます。波は、島のような障害物があると、回り込んで進みます。波は同時に砂を運び、島と海岸の間には、砂が集まり、「トンボロ」ができます。江の島のトンボロは、自然現象のため、必ず現れるとは限りませんが、潮位がおよそ20cmより低くなる時に現れます。トンボロは江の島だけでなく国内外で見ることができます。無人のトンボロの姿をネットから。そして普段の海面の様子をネット・Googleマップから。そして現在のGoogleマップの航空写真は偶然か??「トンボロ」発生◯時のものであった。鎌倉方面からの波と茅ヶ崎方面からの波がお互いに江ノ島入口方向に廻り込み、その波は砂を運び込み、江ノ島大橋の東側でぶつかりあい、ここに砂が集まり海底が浅くなり、トンボロ現象が発生するのだ。「片瀬東浜海岸」から三浦半島・葉山~三崎口方向を見る。多くのヨットの姿が。江の島を背景に海が割れて出来た「砂の道」を。潮の引き海水が残された場所では子供達が遊んでいた。多くの観光客が、潮の引いた海の道を対岸に向かって。露出した岩場にも多く子供たちの姿が。県道305号線の「江の島大橋」のコンクリート橋脚も露になって。その近くで、カニや小魚を追いかける子供達。「江の島大橋」、「江の島弁天橋」の先も砂場が露になっていた。車道の「江の島大橋」、歩道の「江の島弁天橋」の間から江の島方向を見る。この先には未だ水面が拡がっていて最後まで砂浜には変身しなかった。国道134号側を見ると一面の砂場が。「湘南港灯台」方向を見る。ズームして。江の島の湘南港防波護岸外端に立つ灯台。東京オリンピック開催の1964年(昭和39年)9月26日 に灯台を設置する。塗色および構造:白色・円形鉄造、等級および燈質:無等・明暗緑光・明2秒暗2秒・電灯、光度:870 カンデラ、光達距離:12.5 海里、明弧:全度、高さ:地上から構造物の頂部まで18 m・平均水面上から燈火まで19 m、看守員は常置していないと ウィキペディアより。長ズボン、ズックを脱いで、その下に履いて来た半ズボン、持って来たゴム草履姿に変身。「江の島弁天橋」の先から江の島方向を見る。こちら側には海の道は出来ないようであった。「江の島弁天橋」のコンクリート橋脚の基礎部分。この近くは、未だ数cmの海水が満ちたり引いたりしていた。この先が残された海面。再び「湘南港灯台」をズームして。生まれて来る「海の道」の形状。範囲がじわじわと解って来たのであった。 ・・・つづく・・・
2024.05.28
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「宇都母知神社」を後にして「慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス」に向かって進む。慶応大学の敷地を囲む道路に突き当たり、右折すると直ぐ左側にあったのが「縄文時代早期末の炉穴群」。下の写真の如くに、前面が金網になっているコンクリート製の囲いで炉穴群が保護されていた。「縄文時代早期末の炉穴群縄文時代草創期~早期(今から壱万弐千年前~六千年前)の竪穴住居には規模が小さいものが多く、屋根も低かったと想像され、住居の中央付近に食料調理用の炉を設けると火災を起こす心配もあったためか、竪穴住居内には炉を設けていない。そして散村形態の集落からかなりの間隔をおいた風下になる一段下がった斜面部にこのような炉穴を設け、ここで食料の煮焚きを行っている。十年を超す年月の間には炉穴を何回も作り替えるので、このように交錯重複することもある。 平成四年四月 慶應義塾」。金網の隙間にレンズをセットして内部・炉穴群を撮影。さらに、慶応大学の西際の道を南に向かって進む。右側に富士山、そして丹沢山塊、大山の姿が確認できた。富士山をズームして。中央に「二子山」その右に「駒ケ岳」、さらに「神山」の姿が。西側緊急車両出口にはゲートが。。「注意 緊急車両進入路につきこの付近は駐車を禁止します」と。そして左折して進むと左手にあったのが「遠藤富士浅間神社」。慶應義塾大学・湘南藤沢キャンパス敷地内にある遠藤富士浅間神社の階段が正面に。こじんまりしていてきれいな神社で、SFCの守護神??「浅間神社」。石段の上に社殿。「由來浅間神社は矢崎と苅込のコミヤであり「浅間さま」として地域の人々に慕われてきました。平成2年(1990年)4月慶應義塾大学が当地に開設しました。浅間神社は慶應キャンパスにとり囲まれる格好となりましたが、矢崎と刈込の要所であるため移設する事無く現在地に残りました。社殿は老朽化したためこれを契機に慶應義塾の協力を得て氏子により現在の社殿が再築されました。浅間神社は以前にも増して氏子の信仰を受けると共に学問の神様として発展することでしょう。 平成三年四月吉日」平成3年4月に作られたもの。平成2年4月にSFCが開設された際、浅間神社がSFCに近かったものの、移設する事無く現在地に残ったと。義塾もこの際協力し、社殿を改修した と。SFCの誕生よりずっと前から遠藤を見守ってきた浅間神社、数々の歴史を乗り越えつつ、今も遠藤、そしてSFCを見守ってくれていると。この石碑には「富士浅間神社ハ安永年間ノ創建ニシテ今ヲ去ル百六十余年木ノ花咲耶姫ヲ祀ル當社ハ元矢崎ノ氏神ナリシガ苅込一同ノ崇敬スル□トナリ明治三十年其ノ氏子トナル明治四十三年其筋ノ布告ニ依リ當社モ御岳神社ニ合祀サルルニ當リ隣地五四六五番地ニ遷シ奉リ以来二十八年社殿ノ腐朽セルニヨリ再建ノ議起ルヤ御岳神社総代ヨリ元當社敷地ノ五四六四番地ノ地上権ヲ氏子一同ニ於テ譲受ケ再建奉還ス爰ニ記念碑ヲ建立シ永遠ニ傅ヘシト云爾 昭和十二年三月十五日 氏子一同」と。明治三十年頃に遠藤地域で富士浅間神社への信仰が深まり、およそ100年以上前から浅間神社が始まったようです。この13年後、浅間神社は明治四十三年に御嶽神社に合祀され、隣の番地に移動してしまいました。そして、社殿が老朽化し、再建の機会に浅間神社は元の場所に戻り、また独立した神社になったのだと。「縄文時代最古の住居(竪穴住居?)」「縄文時代最古の住居(竪穴住居?)ここの地下に埋没保存してある住居はローム層上面に作られた東北から西南に長軸方向のある長径約7メートルの長楕円形の住居で、掘りくぼめた周囲の壁面は明瞭でなく、従来は平地住居などと呼ばれていたものに該当するが、住居の床面は当時の地表面より10センチ前後は掘り下げられていたと思われ、竪穴住居と考えるべきてあろう。両端の柱穴は深さ約30センチに真直に掘られているが、両測の各3本柱穴は屋恨の中央に向かって傾斜した穴か掘られている。縄文時代草創期、今から約12,000年前の竪穴住居は国内では3例目の発見で、考古学上極めて重要な遺構である。住居内に炉跡はない。この付近に住居を営んだ草創期の細隆線文土器を使用した人々は湘南の校地全域で鹿、猪、兎などの獲物を追って食料獲得活動をしたようで、弓矢の発達以前のこの時代に使用された有茎尖頭器と呼ばれる投げ槍の先につけた石器は校地内各地から発見されている。 平成4年4月 慶應義塾」「工学博士 関野克氏による復元家屋骨組」。「慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス」の「キャンパスマップ」。リスト。キャンパス内の建物の名称はほとんどがギリシャ文字!!!Ω館の他にもθ(シータ)館、ο(オミクロン)館など、建物ごとにそれぞれ異なるギリシャ文字が充てられているのであった。詳細は「SFCの建物名称、ギリシャ文字の由来」👈️リンク を参照下さい。大文字と小文字をどのように使い分けているのであろうか?「慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部」の校舎が前方に現れた。「慶應義塾の校旗(通称「塾旗」)」が前方に。「慶應義塾の校旗(通称「塾旗」)」は三色旗と呼ばれている。しかし実際には青と赤の2色を3段に配したもので、例えば青、白、赤のフランスの国旗のように、3色からなるものではない。それに、色彩についても、フランスのそれが特に平等とか、自由、博愛とかを象徴するというほどの深い意味は、別に塾の旗にはないようだ。ペンマークの由来と意味明治18年(1885年)ごろ、塾生が教科書にあった一節「ペンには剣に勝る力あり」にヒントを得て帽章を自分たちで考案したことからはじまり、その後多数の塾生・塾員の支持を得て公式な形として認められ、今日に至っています。ペンマークは、その発祥のルーツにも見られるように、学びの尊さを表現するシンボルであり、慶應義塾を指し示すだけでなく、広く認知された社会的な存在と位置付けられます。」と。「慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部」の校舎の入口。この坂を下ると「大庭獺郷線」に繋がっている。左手には池および慶応大学の白き建物が。丸い建物は学生ラウンジ・「Ω(オメガ)舘」。慶応大学湘南キャンパスの学生ラウンジ内にあるチェーン店・サンドイッチの店「サブウェイ 慶應大学SFC店」の建物。これは、以前に訪ねた時の写真で「旅人かへらずの碑」。ガラスのプレートなので、撮影しても文字が見えないのであった。刻まれているのは、詩である。「旅人は待てよこのかすかな泉に舌を濡らす前に考へよ人生の旅人 西脇順三郎」と。「ガリバー池 (鴨池)」を見る。「2号遊水池この池は、遊水地になっており、大雨の時、雨水を一時貯水して河川へ少しずつ流し、河川の氾濫を防ぐ大切な役目をします。」「2号遊水池」は「ガリバー池 (鴨池)」と呼ばれているようであった。そしてこの日の「藤沢地名の会」・「春の御所見南を歩く~宮原・獺郷・打戻の史蹟を訪ねて~」の行程を全て完了し、バス停「慶応大学本館前」で解散となったのであった。湘南台駅行きのバスに乗り込み、帰路についた。バスの車窓から「Α(アルファ)館: 本館」を見る。「湘南慶育病院」。右折して「高倉遠藤線」に出る。「藤沢ジャンボゴルフ」の巨大ネットを左手に見る。「藤沢ジャンボゴルフ」のクラブハウスを見る。「藤沢市 北部環境事業所」。「いすゞ自動車藤沢工場」。「引地川」を渡る。「エスタテラ湘南台」。そして小田急・湘南台駅に到着し地下広場・「湘南台アートスクエア」へ。2022年3月に誕生。正面に真っ赤な壁画が。壁画の幅は25m。「郷土に捧げる讃歌」をテーマとした壁画は、鮮やかな赤色の上にピアノの鍵盤の上を勢いよく走り抜ける自転車や、奏でられた音をイメージした粒子が彩られており、思わず入り込みたくなってしまう風景が広がっているのである。この壁画を制作したのは、湘南台在住の画家・廣田雷風さん。壁画を右側から順に追う。振り返って。そして小田急線イて自宅へと向かったのであった。
2024.04.14
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「宇都母知神社」の「一の鳥居」そして「参道」方向を見る。右手の社務所に繋がっている参集殿には、七段飾りの雛人形が飾られていた。氏子が持ち寄ったものであろう。2段5人飾り。親王飾り。社務所の部屋の内部へ。ここにも7段飾りが。「神社振興対策の指定神社とする」と。神社振興対策の指定神社とは、神社本庁が1975年からおよそ40年にわたって指定してきた神社です。神社振興対策は、氏子や住民と神社との密着を図ることで、神社の振興をはかるとともに周辺神社にも良い刺激を与えることを目的としています と。「一の鳥居」そして参道を見る。「宇都母知神社 郷土資料館」が左手に。「宇都母知神社【御祭神】 天照大御神 伊弉諾、伊弉再二神の生み給う方で、高天原を治められ、神徳宏大で人々から敬われ、 日の神と称え奉られた 稚産霊神 豊受大神の御親神で五穀や養蚕を司る神様です 若日下部命 仁徳天皇の皇女で雄略天皇の皇后になられた方で、非常に人徳の高い方で養蚕を奨励された【境内神社】 菅原神社 御祭神は菅原道真公で、学問の神様 稲荷神社 御祭神は倉稲魂神で、農業、商工業の神様【由 緒】当神社は創立年代は詳らかではないが、延喜式内社で21代雄略天皇の御代(幸喜1119年 西暦459)に厳粛な祭祀が行われたことが、日本総風土記に記されている。風土記によると、当神社の所在地は相模国鷹倉郡宇都母知郷にあったとあります。61代朱雀天皇、天慶2年9月(皇紀1599年 西暦939)若日下部命の御尊霊を大和国泊瀬より遷座して相殿に奉祀された。90代伏見天皇、正応3年8月(皇紀1950年 西暦1290)鎌倉8代将軍久明親王の執権北条貞時が社殿を改築し、同年9月に参拝された。寛永4年11月(皇紀2287年 西暦1627)領主高木主水源正次が社地900坪(約三千平方米)を寄進し、又、本殿の改築を行った。当神社は明治6年12月郷社に列せられた。大正12年9月の関東大震災により社殿等全てが倒壊したが、村民全員が総力をあげた努力により、倒壊後わずか3年の大正15年9月に全てが、現状のように再建された。境内地は一丁五反(約一万五千平方米)で全域風致林の指定を受け、自然環境保全地域に指定されている。打戻字大平2009番地には溜池一反五畝(約150平方米)の社有地がある。社務所 参集殿等の建設を記念して、この碑を建てる。 平成16年9月 吉日」手水舎木製の祠の中にあったのが右:庚申供養塔 六臂青面金剛像 文政十年(1827)丁亥十一月 打戻村講中左:???参道途中には大きな石燈籠が。参道入口石鳥居の手前、左側にあったのが「鳥居建設碑」。「鳥居建設碑」の下は古墳であると。原形をとどめていないが、もとは円墳があったと。おそらくこの古墳の被葬者がはじめて宇都母知の神を祀り、その時の祭神はこの土地を最初に開拓した土豪の守り神でありその土豪の祖神であったと思われる と資料から。「鳥居建設記念碑」。「鳥居建設記念碑平成天皇の御大礼を記念して鳥居の再建を行う。従前は木造の鳥居であったが大正6年に花崗岩で建設された。大正12年の震災により笠木が破損し修理が行われたが、その修理箇所が再び危険となった為、氏子一同の総意により再建するものである 平成2年9月吉日」この時点・平成2年で「平成天皇」と使うのはおかしい!!社号標石「延喜式内 宇都母知神社」。一の石鳥居は神明鳥居。足元には、先代の石鳥居が横たわっていた。「御神木 椎の木」。根本を見る。「御神木 椎の木」を見上げて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.13
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正面に「宇都母知神社」の「鐘楼」が姿を現した。境内の西側、道を挟んだ所にあった。鐘楼は昭和20年(1945年)の春に太平洋戦争の物資回収により献納されたため暫く設置のされないままだったが、昭和50年(1975年)になって、天皇在位50年を記念して鋳造されたものを再建。また、境内の全域が風致林の指定を受けており、昭和49年(1974年)には自然環境保全地域に指定されているとのこと。「梵鐘」をズームして。昭和50年(1975年)になって、天皇在位50年を記念して鋳造されたのだと。以前に訪ねた時の写真。鐘撞堂の前に立つ石碑には「寛平三年 式内 宇都母知神社」と。鐘撞堂の横には左:「大地神」の石柱。 文久四年(1864)甲子正月 邑惣連 世話人 和田 金子 宮地他 七沢村石工 前場長エ衛門亮張 と。右:青面金剛神 南一ノ宮 西□□ 北□□ 天和四(1684)□□土地改良事業完成記念碑、「甦る大地 藤沢市長 葉山峻 書」郷土の鎮守、宇都母知神社が鎮座する、藤沢市打戻字大仲及びそれに接する宮台、大谷戸、根下、矢崎の地は、原始の昔より農耕が営まれてきたが、畑地は傾斜地が多く狭隘であり、山間に位置した水田は強度の湿田で生産力も低く、長い間耕作農民を苦しめ、経営の伸展を阻害してきた。昭和四十八年、藤沢市が国の施策である第二次農業構造改善事業を導入するに及び、当地の地権者百十二名は、この事業の実施推進によって生産基盤の改善と経営の安定を計るべく、度重なる協議を経て、土地改良区の設立に踏み切った。以来十年間の歳月を費やし、本土地改良区は、県、市、農協等関係機関の懇切な指導と地権者及び役員の溢れる熱意により、幾多の困難を乗り越えて、事業費二億七千万円、総面積四十五ヘクタールに及ぶ土地基盤整備事業を完成させ、更にその耕地内の二十ヘクタールを対象に、事業費四千五百万円をもって畑地灌水施設を完工し、また、ガラス温室団地及び養豚団地を配置するを成し得た。これにより、改良地区の中心部を通る、工費六千万円をもって完全舗装された延長千百三十六メートル、幅員七・五メートルの幹線道路をはさんで、農耕地は平坦にして整然と区画され、どの耕地も巾四メートル以上の農道に接する、良好なしかも早害の懼れのない近代的農耕地に生まれ変わった。この改良事業は、今後当地の農業経営の合理化と発展に寄与するところ限りないものがあると思われる。思うに、当地の農耕の遥かな歩みの中で、本事業はまさに歴史的かつ画期的な大事業であったと言うべく、本土地改良事業の完成にあたり、その〇概を記して、後世に伝えんとするものである。昭和五十八年一月 藤沢市打戻土地改良区」写真は以前に訪ねた時のもの。西側入口から境内に向かって進む。「宇都母知神社」案内板。当地(打戻)の地名の由来として、宇都母知神社の「宇豆毛遅」(うずもち)が訛って打戻(うちもどり)となったという説がある。宇都母知(うつもち)神社は御所見地区では最も古い神社で、、うつもちの「うつ」は「囲まれたところ」を指し、「もち」は「小さな盆地」を意味し、小出川流域の盆地を中心とした土地がこのように呼ばれたという説もあるのだ と。延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)とされるとのこと。レンタル自転車置場。「SHONAN PEDAL」このシェアサイクル事業「SHONAN PEDAL(湘南ペダル)」は、江ノ島電鉄㈱様が事業主体となって、自治体などの後押しを得ながら様々な場所に設置する事で地域住民・観光客の手軽で新たなモビリティを提供する目的で立ち上げられた と。料金は利用開始30分まで 130円(延長)15分ごと 100円12時間まで 1800円よって2時間のレンタルで730円になるようだ。そして「拝殿」の手前にあったのが「神輿殿」。「宇都母知神社」の「神輿」👈️リンク の写真をネットから。神明造りの「拝殿」を斜めから。正面から。御祭神 天照皇大御神(あまてらすおおみかみ) 稚産霊神(わくむすびのかみ) 若日下部命(わかくさかべのみこと) 天照皇大御神は伊弉諾(いざなき)、伊弉冉(いざなみ)二神の生み給う方で、高天原を治められ、神徳宏大で人々から敬われ、日神とも称え奉られた。稚産霊神(わくむすびのかみ)は豊受大神の御親神で五穀や養蚕を司る神であります。若日下部命(わかくさかべのみこと)は仁徳天皇の皇女で雄略天皇の皇后になられた方で非常に人徳の高い方で養蚕を盛んに奨励された。祭日 9月15日 由緒 当神社は創立年代は詳かではないが延喜式内社で二十一代雄略天皇の御代(西暦四九五) に厳粛なる祭祀が行われたことが日本総風土記に記されている。なお風土記によると 当神社の所在地は相模国鷹倉郡宇都母知郷にあったとあります。六十一代朱雀天皇 天慶2年9月(西暦939)、若日下部命の御尊霊を大和国泊瀬(はつせ)より遷座して 相殿に奉祀されました。九十代伏見天皇正応3年8月(西暦1290)、鎌倉八代将軍 久明親王の執権北條貞時が社殿を改築し、同年9月に参拝された。寛永4年11月 (西暦1627)、領主高木主水源正次が社地900坪を寄進し、また本殿の改築を 行った。震災当時の建物は安政5年(西暦1858)に建築されたもので当時の記録に よると本殿9坪(約30平方米)拝殿25坪(約82平方米)幣殿4坪 神楽殿20坪 (約66平方米)であった。また、当神社は明治6年12月に郷社に列せられた。 大正12年の関東大震災により、社殿等全てが倒壊したが村人一同の総力をあげた努力 により倒壊後わずか3年、大正15年9月に総てが現状のように復旧した。本殿神明造 6坪(約20平方米)幣殿5坪(約16平方米)拝殿12坪(約40平方米)神楽殿 16坪(約53平方米)参集殿15坪(約50平方米)神輿殿3坪(約10平方米)が 再建された。境内地は約1丁6反(約16000平方米)で全域風致林の指定を受け、 また昭和49年、自然環境保全地域の指定を受けている。打戻字大平2009番地には 溜池1反5畝(約150平方米)の社有地もある。この神額は、第65代花山天皇の後裔である神祇伯資顕王(1731年~1785年、花山源氏嫡流、白川伯王家)によって江戸時代中期に謹書されたもの。神額左下に「神祇伯資顕王謹書」と見える。白川伯王家は、伝統祭祀を継承された公家源氏であり、神祇伯(神祇官の長官)に補任されて、のちに白川を称した。日本国旗が青空にはためく。複数の日本国旗の姿を同時に見るのは、何時以来であっただろうか?提灯台に納まった提灯には、「宇都母知神社」の文字、「十六葉一重菊」紋が。拝殿を望む。正応三年(1290)鎌倉幕府九代執権北条貞時が社殿を改築、同年九月に参拝しました。寛永四年(1627)には領主高木主水源正次が社地九百坪を寄進の上本殿を改築しました。現在の建物は、旧建物が関東大震災で全壊し、大正十五年(1926)九月に内務省造神宮技師の設計に基づき再建されたものです。正規の神明造りで、拝殿は「土間神殿」と呼ばれ、床がなく現在はコンクリートになっていますが、以前は砂利が敷き詰められていました。特に本殿は楝持柱が一直線に地面に延び、側面が美しいものです。拝殿内は拝殿内撮影禁止 と。「神楽殿」。「社務所」。「本殿」を右側から見る。「拝殿」の右側には2社が。「菅原神社」。御祭神:菅原道真。「菅原神社【御祭神】 右大臣菅原道真公【神徳】 学間の神(入試合格・学業成就) 文芸の神(芸道上達)【御由緒】菅原道真公は幼少より詩歌に才能を発揮し、十一歳で初めて漢詩を詠んだとされています。宇多天良の厚い信頼のもと、文章博士に任じられ、寛平六年(八九四年)には遣唐大使に任じられました。醍醐天亶の御代に右大臣に昇進して左大臣藤原時平とともに国家の政務に努められました。故あって大宰府に赴任されましたが、詩歌・文筆に親しみ励んだことにより、復世広く学問・文芸の神に仰がれるに至りました。現在においても「学問の神様」、「天神様」として入試合格、学業成就、芸道上達の信仰厚く、人々の生活の中に受け継がれています。道真公のお使いとして「使いの牛」があります。これは道真公の生年が乙丑の年、薨去が丑の日という説、道真公の御遺骸を載せた牛車が座り込んで動かなくなった場所を基所と定めた説など道真公と「使いの牛」の関わりは深いと言われます。」「絵馬」掛け所。「絵馬」には「馬」の字が鏡に写った如くに。「うま」を逆から読むと「まう」と読めます。「まう」という音は、昔からめでたい席で踊られる「舞い」を思い起こさせるため、福を招く縁起が良いのだと。「菅原神社菅原道真公をお祀りした神社です。菅原道真公は誌や文学に優れ五歳には詩歌を詠んだといわれています。絵馬古来神様に祈願する時は生きた馬を奉納しましたがその後馬の絵を奉納するようになり最近では十二支などいろいろな絵や文字を書いて奉納するようになりました。」「菅原神社」。「第ニ次世界大戦集結五十年伊勢神宮鎮座二千年記念菅原神社造営 平成八年九月建立社殿ノ損耗著シク氏子ノ総意ニヨリ社殿ヲ建築シ鳥居、灯籠等ヲ設置スル」再び「宇都母知神社」の本殿を見る。朱の鳥居の先には「内錑稲荷神社」。社殿に近づいて。「稲荷神社【御祭神】 字迦之御魂大神(うかのみたまのかみ)【御神徳】 稲作・農業の神 (家内安全・商売繁盛・厄除)【御由緒】 お荷さんは、全国に三万社以上あるとされていますが、総本宮は京都の伏見稲荷大社です。 『山城国風土記』によると、和銅三年(七一一年)秦伊呂具(はたのいろぐ)という人物が、餅を 的に弓を射た際に餅が自鳥に変わって山の彼方へ飛んでいき、その降り立った場所に稲が たくさん実ったと伝えられています。その場所に、神様をお祭りして伏見荷大社が創建 されました。 稲作・農業の神として全国にその信仰は広がり現在では「家内安全」・「商売繁盛」・「厄除」 など、生活全般にご利益をもたらす「お稲荷さん」として崇敬されています。 稲荷神社の象徴であるキツネはお稲荷さんの使者であり、神聖な動物とし鎮座しています。」境内社の右側に並ぶ、石碑と石燈籠。「内錑稲荷神社燈籠の復元について神社の境内に散乱する燈籠を確認前場石材店の協力により平成十九年六月に建立する。以下略」。御神燈が2基。「霊峰富士山信仰として浅間講なる集まりが発展したものと思われる。厚木市七沢地区にある、鐘ヶ岳の頂上近くにある浅間神社へ登る。参道に一丁目毎の石碑に打戻村の住人五十六名の方が刻まれている。」と。以下五十六名の氏名・子孫の名前が刻まれていた。神明造りの本殿を横から。「平成五年九月 水道管布設寄付者芳名」板。反対側に回り込んで本殿を見る。説明員の方が古地図から現在地を説明。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.12
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「遠藤宮原線」の「榎戸」交差点を右折して片側2車線の歩道を東に進む。道路の反対側には大きなガラス温室が続く。「サンクイックトマト 井出農園」と。井出トマト農園は、「1次産業」であるトマト生産から、ジュースやケチャップなど加工品を手掛ける「2次産業」、そしてそれら製品を直営店舗や自然体験、他農業経営者の支援を行う「3次産業」までの「6次産業」を展開している。農業の新しい価値の創造を通じ、社会からの期待に応え、一人ひとりが輝く豊かな世界の実現を目指している と。こちら側にがレタス畑が。そして路地を左折すると右手にあったのが「妙福寺」の「山門」。藤沢市打戻2587。「山門」前から「鐘楼」を見上げる。「山門」前に「妙福寺」の掲示板。「今月の聖語ただ我信ずるのみにあらずいのちに合掌=安穏な世を目指して=この文は、「また他の誤りを誡めんのみ」と続きます。世の中を良くするために、良いと思ったことを自分自身にとどめず、他人の誤りを注意していこうということです。私たちは日常生活のなかで、自分だけの正解を相手に押し付けてしまったりすることがあります。それはともすれば、むやみに相手を否定しかねず、発展性のないものになってしまいます。他人に注意や忠告などをする場合は、一度立ち止まって独りよがりの自分だけの正解にとらわれていないかよく考え、常に相手を尊重し、安穏な世の中を願いながら行ないましょう。鎌倉時代の日蓮聖人はお釈迦さまが説かれた経典の1つ『法華経』を信仰の基にしましたが、改めてすべての仏教経典を読み込まれて人びとの安穏を願い『立正安国論』という書を著しました。◎日蓮聖人ご遺文『立正安国論』私たちの心の持ち方を改め安穏な世の中にしていこうと、鎌倉幕府の実力者である前執権最明寺入道北条時頼に上奏した書物です。日蓮聖人の代表的な著作です。 文応元年(1260)39歳」石段を上り、山門を潜って境内に。巨大な日蓮聖人像が迎えてくれた。お顔をズームして。「祈願堂」。近づいて。扁額中央には「南無妙法蓮華経」の文字が。観音像。「鐘楼」。梵鐘をズームして。「本堂」。近づいて。石灯籠。天水桶。近づいて。日蓮宗の宗紋「井桁橘(いげたたちばな)」が中央に。本堂を正面から。「本尊釈迦牟尼仏(三宝諸尊:大正・昭和の火災で一尊のみ安置)。昭和九年(1934)の火事で、堂塔を焼失、ニ棟あった蔵にも火が入り、将軍関係などの寺宝をすべて失いました。また記録類も失われました。平成五年(1993)、日遠上人第三百五十遠忌の記念として、本堂・客殿・庫裡を新築しました。妙福寺は、慶長ハ年(1603)に徳川家康の側室「お万の方」(水戸光圀祖母)が帰依した高僧日遠上人を開基開山として創建され、徳川家の庇護を篤く受けたと伝えられています(縁起より)。別説に正保三年(1646)創立とされていますが、日遠は慶長ハ年に亡くなっているので、弟子の日福が師を開山に据えたと考えられます。また、十五代将車徳川慶喜が隠居後、当寺で暮らすつもりでしたが鳥羽伏見の戦い敗れ実現しませんでした。170人ほどが宿泊可能な庫裡が建てられ、当時は寺域が広く、七町歩ありましたが、後の社会変動、第ニ次世界大戦などを経て大幅に減少してしまいました。室町期の作とされる日蓮上人坐像(当寺祖師像 像高36.0cm)や、天明四年(1784)開眼の日蓮上人が安置されています。江戸時代には寺子屋が開かれ天保五年(1834)の筆子塚があります。明治の初めには村役場が置かれました。他に、墓地の上方に三十番神堂、釈迦堂、境内に祈祷堂があります。」と資料から。屋根には徳川家の家紋の「葵」の紋が。ーロに葵の紋といって、様々な意匠がある。特に徳川家康公の代になってからは、「三つ葉左葵巴の紋」のデザインが定着し、徳川三代の家紋として利用し始めた。いずれにせよ徳川家の葵の紋は、賀茂明神の信仰に基づくもので、それを変形したものである。内陣に近づいて。本堂の扁額「陽向山」。十五代将軍慶喜は隠居後当寺で暮らすことを予定するなど、幕府の厚い保護を受けてきた寺。鳥羽伏見での敗戦で、寺への隠棲は実現しなかったが、170人ほどが宿泊可能な庫裡が建てられていたと。 本尊は日蓮、三宝諸尊を安置。内陣。ズームして。この写真はネットから。虹梁の龍の彫刻(右)。虹梁の龍の彫刻(左)。花頭窓。木魚に鼠そして居眠り小僧の石製置物が本堂前に。庫裡・客殿。本堂の左を奧、石段の上には、八角形の御堂・釈迦堂があった。その横にも建物・三十番神堂があった。ドコモ打戻無線中継所。山門前から本堂を振り返って。鐘楼近くの石碑には「法界𭇥識 宜禪院日弘聖人」と刻まれた石碑があった。法界の𭇥識とは「生命をもつすべてのもの」を意味すると。「妙福寺」を後にして、「遠藤宮原線」の坂道をさらに上って行った。右手に連なる温室には「井手農園 野菜直売所」案内板が。左手に立っていた石碑。藤沢市打戻2588。「夢の大地平成十一年ニ月、打戻大仲土地改良区は、当地を東西に縦断する巾25メートル道路の建設と相俟って施工に及んだ。古来よりこの一帯は起伏が激しく、農作業には支障を来し、困難の解消を望む衆議を経て七年、英知の結集によって現代農業に適する圃場によみがえった。区内を奔る道路は四面に通じ、整然とした区画畑は、以前の地形をとどめることを知らず。拓けた耕地の展望は景観をよくし、新生活力の夢を膨らませる。首尾一貫、事業の工成りしを刻み永世に伝える。 平成十四年(2002)三月ニ十六日建立」裏面には土地改良組合の関係者の名前が刻まれていた。巾25メートル道路、そして「夢の大地」碑を振り返って。民家の庭には「ヒメキンギョソウ・リナリア」?に似た花が。坂を上り終わると信号が。「宇都母知(うつもち)神社入口」交差点。この交差点を右折して「宇都母知神社」に向かって進む。真っ赤な椿の花が咲き溢れるが如くに。近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.11
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「盛岩寺」を後にして、「盛岩寺」前の道を次に訪ねる「大法寺」の方向に進む。左手の小屋の前には古式の「腕用ポンプ」👈️リンク が置かれていた。「腕用ポンプ」は手動でピストンを動かして、放水する仕組み。その先の道路脇には真っ黄色に輝くミモザの花が満開であった。「ミモザの花」👈️リンク をズームして。そして神奈中「荒井」バス停手前にあった「大木家墓地」を訪ねた。「市指定重要有形民族文化財応永二十六年板碑一基板碑は卒塔婆の一種で玄永(1118)頃から慶長(1614)頃まで流行した。この板碑は武蔵型縁泥片岩製で、一般に浄土教的色彩のものが多い中で、真言密教的色彩が濃いところに特徴があるといえる。たとえば、陰刻されている「右所趣者帰弥陀法身擬法界大智依即得往生金言奨」は、「この卒塔婆の趣旨とするところは阿弥陀仏の法身に帰依し、法界大智(真言密教)の心意を覚得したことに依って即往生できる」という意味で、密教色が濃くなっている。このように特徴のある板碑は数少なく、貴重なものといえよう。 平成四年二月一日指定 藤沢市教育委員会」墓石「大木家之墓」。藤沢市打戻1201。コンクリート製の祠?によって守られている「板碑」類。「板碑応永二十六年(1419)板碑 市指定有形民族文化財(H4.2.1 指定)板碑は卒塔婆等の一種として発生し、元永(1118 :平安末)頃から慶長(1614 :江戸初期)頃まで流行した供養塔で、副次的に墓石の意味を持つようになっていったと言われます。関東の板碑は武蔵系板碑と呼ばれる秩父産の青石を使ったものが多用されています。」と。尖頭扁平型(上下欠失) 総高70. ocm 緑泥片岩製(武蔵系)種子子は阿弥陀三尊(キリーク・サ・サク)を表しており、板碑は一般的に浄土教的色彩のものが多いと言われる中で、これは銘文(「法界大智」)から真言密教色が濃くうかがわれる希少なものとのことです。たとえば銘文の「右所趣者帰弥陀法身擬法界大智依即得住生金言奨」は、「この卒塔娶の趣旨とするところは阿弥陀の法身に帰依し、法界大智(真言密教)の心意を覚得したことによって即住生できる」という意味で密教色の強いものだそうです と資料から。小さな木札に六道の救済を象徴する地蔵六体の名前を書いて、道の側に立ててロウソク6本を立てて供養していた。・法性地蔵王菩薩・陀羅尼地蔵王菩薩・宝陵地蔵王菩薩・宝印地蔵王菩薩・鶏兜地蔵王菩薩・持地地蔵王菩薩こちらは「貞和ニ年(1346) 59.0cm」と。「貞和七年(1368) 32.0cm」と。さらに北に進む。カンザキアヤメ(寒咲菖蒲)であろう。花に近づいて。開花期は1月から3月で、葉の間から花茎を伸ばして、薄い紫から青色の花を咲かせると。アヤメが60センチメートルになるのに対して15から20センチメートルとかなり小型なのであった。こちらはスイセン。さらに進む。赤の色が鮮やかな椿の花が。「金子園芸」の作業小屋の前にあった「種まき用土」その先の路地の角にあった石碑。近づいて。鉄柵でガードされている「道祖神」「明治三十七年壱月十四日 建之 講中」と刻まれていた。その横にも小さな石碑が。そしてこの路地を左に折れ、次に訪ねたのが「大法寺」の裏にあった墓地。この場所には無縫塔や多くの石碑、石仏が並んでいた。「慶蔵院碑当寺創建の一人である慶蔵坊和尚は、咳に大変苦しめられ、生きている内に地中に入り、竹筒から好きな酒をたらしてもらい念仏を唱えて「私が死んだら咳の神様になり苦しんでいる人たちを助けたい。」といって鈴を鳴らし続けながら入定したと伝えられています。昭和の初め頃までは、近隣の村人たちは百日咳や喘息にかかると、この地で酒を竹筒に入れて回復を祈る風習がありました。現在、入定塚跡(打戻2054字大平)には元禄四年(1691)十ニ月の光背型石仏(大日如来)が立っています。また、大法寺の墓地には慶蔵院の石碑が立てられています。(「ふじさわ教育」128号より)」と資料から。近づいて。お顔のない石仏が。近づいて。現在、入定塚跡(打戻2054字大平)には元禄四年(1691)十ニ月の光背型石仏(大日如来)が立っているとのこと。光背型石仏(大日如来)をズームした写真。こちらの写真はネットから。隣の墓地にも多くの石碑が並んでいた。そしてこちらが「大法寺称業山薬王院 浄土宗 上土棚村(現綾瀬市)蓮光寺末慶長元年(1596)、僧、正営によって開山されました。開基は井出五郎石衛門とされます。本尊は阿陀如来座像(室町時代)で、他に鎌倉仏師三橋永助、伊沢善助銘の閻魔大王座像(文政六年(1823)作)が安置され、閻魔堂とも呼ばれていました。」と資料から。藤沢市打戻1331。「「華坐」~よい種を まいておきたし 彼岸かな~お墓-------暑さ、寒さも彼岸まで-------お彼岸といえばお墓参りを連想される方も多いことでしょう。お墓は、もともとはお釈迦さまのお遺骨を納めた塔・ストゥーパがその起源とされています。お墓に建てる卒塔婆も同じくストゥーパに由来します。日本では奈良時代頃からお墓が建てられるようになり、時代と共に一般の人々にも広まり、大正時代の頃私たちが普段目にする「◯◯家先祖代々之墓」等のお墓が普及しました。お墓は個人の遣骨を納め供養する場所ですが、今は亡き大切な方との繋がりを感じられる場所でもあります。是非、お彼岸にはお墓にお参りをされて、お浄上にいらっしやる大切な方々に思いをお伝下さい。」「春彼岸 法要 20日(水)11時~ 於 蓮光寺」と。大法寺は、藤沢市打戻の字榎戸にある寺院。1596(慶長元)年、僧、正誉によって開山された浄土宗の寺院で、元、上土棚にある蓮光寺の末寺であるが、現在は無住の寺院らしい。本尊は阿弥陀如来で、この像は、寺が創建される前路傍の御堂に厨子に入って安置されていたものと伝えられていると。また、本堂には1972(昭和47)年に修理した閻魔王像、法然・善導坐像、神像二体が、また、境内には1822(文政5)年の光明真言供養塔、聖観音塔、地蔵菩薩像と慶蔵坊の碑があるとのことであったが、門が閉まっていて中には入れなかった。そしてバス停「榎戸」の手前の路地を右に入る。Y字路の角にあったのが「榎戸辻の仏像供養塔(不動道標)」。正面から。道標を刻した不動明王の座像で、現在地にあったものを一度前のパス通りに移し、道路の拡張工事のため再度今の道に移されたそうです。ここは一ノ宮と長後、用田をつなぐ旧道の三叉路だったのであろうか。正面「不動講中供養」と。左面「右長後 左用田 南ー之宮 道」右面「文化六(1809)龍集己己。十一月吉良旦」。正面から「不動明王座像」を。横から。この路が一ノ宮と長後をつなぐ旧道だったのであろう。白い水仙。ズームして。ユキヤナギも真っ白に。そして「遠藤宮原線」の「榎戸」交差点まで進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.10
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本堂から外に出て、本堂の天水桶、鎖樋 (くさりとい)を見る。右にあった建物は、薬師堂の中に新たに造られた三畳丸炉茶室「無庵」であると。お釈迦さんの最期の言葉・(長阿含経(ちょうあごんきょう)巻第四「遊行経」)と。「白大衆(しらだいしゅ)(うやまってだいしゅうにもうす)生死事大(しょうじじだい) 無常迅速(むじょうじんそく)各宜醒覺(おのおのよろしくせいかくすべし) 慎勿放逸(つつしんでほういつなることなかれ)」■皆の者に申し上げる■生死は我々にとって重要な事です■諸行無常に速やかに過ぎゆく世界の中で■各々しっかりと目を覚まして■無為に時を過ごす事がありませんように と。歴史的建造物「昭和文化館(薬師堂)」。「越前屋(雨谷商店)」は、江戸時代中期から遊行寺惣門前(現在ふじさわ交流館辺り)で薬品・砂糖などを扱っていた大店で、その様子は浮世絵にも描かれている。関東大震災で店舗が倒壊したため、大正13年(1924年)店舗兼住宅として、倒壊した家屋の部材も再利用して境川大正橋近くに新築された。その後、昭和13年(1938年)に二里半離れた御所見・打戻の村長を務めた農家の母屋として移築され、住居として使われていた。老朽化が進み、床下等の痛みもひどく平成22年解体することが決まり、貴重な建造物であったので盛岩寺が譲り受けることとなり、解体後2年の保管を経て平成26年(2014年)に寺社大工の棟梁によって、境内に移築されて現在に至ります。大正、昭和、平成の三世代を商家、住居、薬師堂と違った形で移築再利用された木造建築は、他に例を見ない。この建築が良い建材を選び、費用を惜しまず使われたこと。その構造や意匠には、往時の大工の高い技術や職人の技が随所に見られ、部材の再利用により二回の移築と継承が実現した。そしてなによりも三代の持ち主の建物への愛着が感じられ、そのぬくもりと大正・昭和の息吹を伝える貴重な建物です と。「大正硝子」の使われた引き戸で囲まれていた。大正硝子は明治から大正時代に製造されたガラス。 現代のとても平滑で厚く透明度の非常に高いガラスとは違い、大正硝子は歪みがあり、不規則な波によって光の屈折が生じ、ガラス越しの景色が曲がって見えるガラスなのであった。 それがレトロを感じさせるのであった。「雨谷(あまや)商店 大正8年(1919)1月2日 撮影 雨谷家所蔵」。江戸時代中期から遊行寺惣門前(現在ふじさわ交流館辺り)で薬品・砂糖などを扱っていた大店であったと。扁額「薬師堂」。薬師堂のこの扁額は大雄山最乗寺御前(住職)の揮毫であると。扁額「昭和文化館」。昭和文化館のこの扁額は昭和史研究家半藤一利氏の 揮毫寄贈である と。「昭和文化館「薬師堂」」👈️リンク の内部にも入らせて下さいました。千本格子の障子戸を見る。レトロを感じさせるステンドグラス風の灯籠と古い時計が。薬師堂内の薬師瑠璃光如来・日光菩薩・月光菩薩の三尊は、小柄ながらもおだやかで、また十二神将は精かんで躍動感あふれる慈悲深い仏様であり、近くの堂の前旧東光寺の本尊であったと。 明治初年寺は廃寺となり仏像は盛岩寺に移管されたのだと。 「薬師瑠璃光如来像」。「十二神将」。住職が、秘仏を見せてくださいました。「薬師瑠璃光如来像」を別の角度から。「盛岩寺・昭和文化館「薬師堂」 平面図」。昭和文化館「薬師堂」内の薬師瑠璃光如来・日光菩薩・月光菩薩の三尊が安置されている場所が◯。八畳二間を見る。廊下。建物の特徴はセガイ(船枻)、太い梁、梁組の高い天井、大正時代のガラス戸や板戸、千本格子の障子戸、京猫間の障子、当時は炭はありましたが冷房はなく、昔の生活の知恵と工夫を随所に見ることができるのであった。 京猫間の障子を見る。一番奥の八畳間の、土壁で囲まれた床の間には違い棚、天袋、地袋が。外に出ると「茶釜供養塔」が白壁の前に。「山門」と「六地蔵」を再び。盛岩寺の白壁塀。墓地の入口には「慈母観音像」が。「慈母観音」。真言 おん あろりきや そわか。無染無着で泥の中より美しい蓮の花が咲くように、世の中の人々の心を清浄にするという意味 と。墓地とその奥に大山の姿が。ズームして。さらに。「當寺開山歴住大和尚宝塔」と刻まれた無縫塔をズームして。歴史的建造物「昭和文化館(薬師堂)」を墓地側から。平成 29 年(2017)5 月に国登録有形文化財に登録された。そして白塀に映り込んだ木々の影を。この白塀に、緑の葉を描くと、覆面アーティストであるバンクシーの新しい作品に似るのではないかと!!これがロンドンのフィンズベリー・パークの壁に描かれた作品。2024年3月17日に見つかり、バンクシーの作風に似ていると話題になっていると。今回の作品は、枝を大きく切られた木の背後にある建物の壁に緑色のペンキが塗られているもの。離れて眺めると、葉が生い茂っているようにも見える。木の下には、高圧ホースを持ち見上げる人物が、バンクシーおなじみのステンシル画で描かれている。BBCによると、使われているペンキは現地イズリントン行政区が道路標識に用いる色と同じだという。これまで、環境破壊に警鐘を鳴らす作品も残してきたバンクシー。様々な憶測も飛び交うが、この作品についてのバンクシーからのコメントは発表されていない。写真はネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.09
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「盛岩寺」の入口に到着。「掲示板春彼岸会三月十七日からニ十三日までお中日はニ十日ですお彼岸にはお寺やお墓にお参りをして、ご先祖さまに報恩のご供養をいたしましよう彼岸会法要 ニ十日午前十一時から 高照山 盛岩寺」「よく噛めばいただいた食べ物とわたしのいのちが一つになる」と。「曹洞宗」。「盛岩寺」。「盛岩寺由緒高照山と号し、慶長18年(1613)朝岩存夙禅師(ちょうがんそんしゃくぜんじ)により開創された禅寺です。御本尊は釈迦牟尼如来(仏師広運作)で文殊・普賢両菩薩が脇侍仏としてまつられています。当寺は高座南部地蔵尊二十四札所中の十九番札所で、本堂内に安置された延命地蔵菩薩は市の文化財調査によれば室町前期の仏像とみられております。 御詠歌 「のちの世は 実の舟に法のふた 打ち戻りても また訪ねこん」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 濃きみどり こゝろ安らぐ 盛岩寺 山門に向かって、両脇がツツジの木で囲まれた参道を歩く。参道脇には桜並木もあり、またツツジも綺麗に刈られていた。山門、本堂をズームして。旅友も元気に歩く。カラス??左側・駐車場の先にあった2基の案内板。「心安らぐ緑の寺 盛岩寺由緒」と「境内の高照観音と墓地の慈母観音」の案内板。 高照観音(境内) 三十三身に変化し妙智力をもって諸願を成就し玉う慈母観音(墓地) 慈悲心をもって母と幼子を安らぎの園に導き見守り玉う「心安らぐ緑の寺 盛岩寺由緒高照山と号し、慶長18年(1613)朝岩存夙禅師により開創された禅寺で、御本尊は釈迦如来(仏師広運作)脇侍仏として文殊・普賢両菩薩がまつられています。当寺は高座南部地蔵尊二十四札所の十九番札所になっており、堂内の地蔵菩薩は市の文化財調査によれば室町前期の仏像とみられています。なお、薬師三尊(室町后期)十二神将は打戻下東光寺の本尊であったが、明治初年、廃寺のため当山にまつられた。 竹林の 葉ずれささやく 盛岩寺」「山門」。山門は平成十九年(2007)に建立。寺号標石「髙照山盛岩寺」。「高照山 盛岩寺 山門 建立 記念碑」。「山門」を潜る。境内に入ると、左手に立派な六地蔵が。近づいて。いや、八地蔵??六地蔵の内4尊は、宝暦十三年(1763)2尊と明和七年(1770)2尊である と。山門をくぐると本堂の前には、可愛いお掃除小像尊(洗心童子)が箒を持って立ち「掃けば散り 払えばまたも 塵つもる 人のこころも 庭の落ち葉も」と、境内を掃き清めていた。掃いても掃いても降り積もるのは、庭の落ち葉も、私たちの心に潜む邪念も同じこと。日々怠ることなく、精進を重ねることが大切と言う教え。私たちの心も、永遠に汚れが続くため、永遠に掃除を続けなくてはならないのだと。左手にあったのが「昭和文化館」。境内の高照観世音菩薩。ズームして。「高照観世音菩薩縁起高照山盛岩禅寺は慶長年間寶泉寺六世朝岩存夙禅師により開創され法燈連綿と継承し現在に至る。大正十二年の関東大震災により伽藍全潰し爾后戦中戦后の激動期に直面し再興の機運熟せず今日となる。昭和五十五年二月堂宇の再建を発願し檀信徒この勝縁によく合力し翌五十六年四月本堂、書院、境内の整備等万端成り高照の浄域に輪奐の美を現ず。百花香ばしき五月八日の吉辰をトし入佛落慶。普山結制の大法会を厳修す。〇徳荘厳入天を照し盛岩の禅苑朝暘に映ゆ。・・・・・・・・後略境内の「稲荷社」。近づいて。「中山鳥居」の形状に似て、笠木が反っていたのだ。珍しい石の鈴を下げた石造の五重石塔が建ち、層塔の上には相輪も。本堂正面。本堂に安置されている地蔵菩薩は高さ21.5cmと小振りながら室町中期の作で、高座郡南部24札所巡り第19番の地蔵で、延命地蔵と呼ばれていると。本堂の扉が開いてご住職から本堂の中に入って下さいと。正面に「延命地蔵菩薩」。扉は閉ざされていたが。延命地蔵菩薩(室町時代)は、相模国高座郡南部の地蔵ニ十四札所巡りの19番目にあたります。由来や発祥の時期は定かではありませんが、江戸時代、茅ヶ崎・寒川・海老名・藤沢にかけて地蔵尊を祀る札所ニ十四ヶ寺が散在していました。ちなみに一番札所は茅ヶ崎市行谷の宝蔵寺、ニ十四番札所は海者名市本郷中河内の地蔵堂(跡地)です。地蔵菩薩は釈迦が入滅の後、五十六億七千万年の後に弥勒仏が出生するまでの間、即ち無仏の時に五濁の世に出現して六道を救済する菩薩です。今も、地蔵講ではニ十四日を地蔵忌として供養がなされています。(「相模国高座郡南部地蔵ニ十四札所巡り」より)本堂の黄金に輝く「天蓋」を見上げて。祭壇。慶長十ハ年(1613)宝泉寺六世朝岩存夙禅師によって開基創建されました。本尊は江戸時代の仏師広運作の寄木造り玉眼金泥の釈迦三座像(釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩)です。温和な明風の作で曹洞宗に多く用いられた中国色の濃厚な基準作として貴重なものとされています。昭和五十六年(1981)本堂、客殿は平成七年(1995)、山門は平成十九年(2007)に建立されました。扁額「高照山」。ズームして。釈迦三座像(釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.08
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「子聖神社」を後にして、「大庭獺郷線」を東に進む。右手にあった背の高い植木は見事に刈り込まれて。梯子や脚立では無理で、高所作業車による刈り込みか?前方斜め左に次に訪ねた「盛岩寺」の建物が確認できた。「打戻川」に架かる「新堀橋」を渡る。「打戻川」。「しんぼりばし(新堀橋)」。野鳥を見つけたが・・・。文政11年(1828)の地図で、現在地を示す説明員の方。「打戻川」の下流側を見る。現在の「少年の森」付近であろうか。介護施設「湘南希望の郷」をズームして。「カラスいけいけ ネットボックス」👈️リンク と。「折りたたみ式ゴミネット」のPRボードなのであろう。その先にあったのが「うなぎ ふぐ 専門店 一幸」。以下2枚の写真はネットから。最近の金額であるかは不明。・うな丼 2350円・うな重 3850円・上うな重 4600円・薬味膳 3550円・二段重 5900円・特上 6800円・蒲焼またはしら焼 松/4150円 竹/3250円 梅/1900円「上うな重」であろう。その先のT字路交差点の角にあったのが「堂の前「下の大社」の石仏群」。辻の北西側に医王山東光寺(遠藤宝泉寺末寺)があったので堂の前といわれ、明治元年( 1868 )の火災後、再建されず廃寺になりました。本尊薬師如来や脇侍等は盛岩寺に移されました。(宝泉寺;遠藤6094 曹洞宗 永正十六年(1519) 開山 如幻宗梧 開基 仙波土佐守)相州高座郡打戻村大法寺ロ観阿闍梨修法者観行院常須寅吉種子(サ)西国坂東秩父観世音供養*巡礼供養塔く座像仏>月山湯殿山羽黒山大権現天明三( 1783 )龍集癸卯ハ月吉日*庚申供養庚申供養寛政ニ年( 1790 )十一月日*ニ十三夜塔右ー之宮左ふじさわ道藤沢市打戻684字二ッ町。右から「猿田彦大神文化十(1813)癸酉天 十一月吉日 打戻邑 根∴(下)講中」と。「二十三夜塔安政五(1858)午年正月ニ十三日 打戻村下講中」と。月待とは「月待行事」のことで、十五夜・十六夜・十九夜・二十二夜・二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にした後、「お経」などを唱えて「月」を拝み、「悪霊」を追い払うという宗教行事。江戸時代の文化・文政の頃、全国的に流行した。特に普及したのが、二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々が建てた「二十三夜塔」が全国の路傍などに広く見られます」とウィキペディアより。 下部には道標「右一之宮 左ふじさわ」と。「庚申供養塔庚申供養 寛政ニ年(1790)十一月日」と。「巡礼供養塔<座像仏>月山 湯殿山 羽黒山 大権現 天明三(1783)龍集癸卯八月吉日種子(サ) 西国坂東秩父観世音 供養相州高座郡打戻村 大法寺□観阿闍梨修法者 観行院常須寅吉」一番左にあった小さな石碑には??そしてこの交差点を左に向かって進む。左手にあった旧家の薬医門?。左手の畑の道路脇にあった小さな「石祠」。ここが医王山東光寺(遠藤宝泉寺末寺)があった場所なのであろうか?大山方向の山々の姿がはっきりと見えた。「大山」の山頂をズームして。東京電力の電波塔らしきものも微かに見えたのであった。そしてその先に、次に訪ねた「曹洞宗 盛岩寺(せいがんじ)」の案内板が姿を現した。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.07
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昼食を楽しんだ後は、「子聖神社(ねのひじりじんじゃ)」の境内を巡ったのであった。藤沢市獺郷799。山門の正面から。「獺郷 子聖神社」碑。石碑の裏面。「昭和六十三年 二月吉日建之 氏子中」と。上部には「子聖神社旌旗(せいき・色鮮やかな旗)之銘福仰千秋獺口集落(意義:福は千歳に亘って獺郷(おそごう)を霑(うるお)す)徳暉萬載聖神瑞籬(意義:聖徳は万年の後までも神籬(ひもろぎ)の内に輝く)」と刻まれていた。 (神籬(ひもろぎ):神事で、神霊を招き降ろすために、清浄な場所に榊さかきなどの常緑樹を 立て、周りを囲って神座としたもの。のちには、神の宿る所として室内・庭上に立てた、 榊などの常緑樹もいう。)境内・右奥にあった石仏2尊。「秩父坂東供養塔種子👈️リンク(サ=聖観音) 聖観音立像 明和元(1764)甲申(きのえさる)十二月吉日西大山道 北江戸道 東かまくら 南一之宮道」「東かまくら 南一之宮道」。東西南北四方の道標となっている珍しいものであると。「西大山道 北江戸道」と。「不動明王坐像(半肉彫) 供養塔天保六年(1835)八月吉日 相州高座郡獺郷村」「手水舎」。近づいて。「獺郷(オソゴウ)昔、各所に沼地があり獺(かわうそ)が多く生息していたことから獺郷と名付けられたという。水田の下に湿地帯に生えていた葦の葉の地層があり、また、小字大道の畑のくぼ地にある水田はその沼地の名残りともいわれている。 藤沢市」「獺郷の地名の由来は、昔各地に沼地があり、獺(かわうそ)が多く生息していて「獺の郷」から獺郷となったといわれます。水田の下に湿地帯に生えていた葦の葉の地層があり、また小字大道の畑の窪地にある水田は沼地の名残といわれています。獺郷は、東を打戻、南を茅ヶ崎市、西と北を宮原に接し、ほほ平坦な地形で、古くは寒川郷に属し、相模国一の宮寒川神社の領でした。鎌倉時代初めは梶原景時所領、明応の頃(1492 ~ 1501)は大庭城主上杉氏の領、大永四年(1524)小田原北条氏の領となり、天正十ハ年(1590)徳川家領となりました。天保年間(1840頃)は、平岩七之助200石、杉浦房治郎17石で、相模国高座郡大庭荘獺郷村(皇国地誌は一之宮庄)でした。獺郷村は昔、一部東宮原村と寒川町だったといわれています。」と資料から。「子聖神社」の参道を拝殿に向かって進む。「子聖神社」の石鳥居。シンプルな神明系鳥居であり、最上部を「笠木(かさぎ)」、その下部を「貫(ぬき)」と呼び、それぞれが一本ずつで成り立っている。ほとんどの貫は、縦の「柱(はしら)」を突き出ないものが多い。神明鳥居に関しては、笠木・貫・柱がすべて丸くなっているのも特徴。近づいて。扁額「子聖神社」。狛犬越しに拝殿を見る。狛犬(右)。狛犬(左)。お顔が切れてしまったので。境内左手奥にあったのが「鐘楼」。梵鐘。別の場所からズームして。梵鐘は棟札と同じく享保期のものであったが第二次大戦時に供出され、1981(昭和56)年にふたたび鋳造されたのだと。振り返って。「子聖(ねのひじり) 神社の由緒祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)境内地 獺郷雷799番地 3,252平方米明治六年十二月村社列格昭和六年三月指定村社旧神社は獺郷中谷1,552番地にあり当時は境内の樹木うっそうとして繁茂し昼尚暗き様相を呈し見るから数百年を経たる神域であったとつたえられる。明治元年九月大暴風雨により神殿倒壊のため現在地に遷座、同時に八幡社、大六天社、山王社の下宮三社を合祀、社名を子聖神社 となった。・・・・・因みに享保十八年(1733年)前社の名を誌した棟札が残存している大正十二年関東大震災のため社殿が倒壊したるも 氏子の協力により復興尚、其の後、再度、屋根の修復等を行って今日に至る。又鐘楼には、文政六年鋳造の古鐘が、第二次世界大戦の祭、供出して長く空楼となっていた。このため久しく鐘声を聞くことのなかった氏子は寂寥を感じこゝに梵鐘鋳造の機運髙まり再三協議の結果、 後に昭和五十六年新規鐘楼を鋳造した以来氏子は氣々と鳴り響く鐘声を聞いて心に安詳を得、朝夕神徳に稱えまつる。 行 事 一、元旦祭(交通安全) 一月一日 一、建国記念日 二月十一日 一、例祭 九月十五日 一、七、五、三、祝 十一月吉日 一、勤労感謝の日 十一月二十三日 平成四年十一月吉日建立 氏子中」「絵馬の由来祈願の際や祈願成就のお礼の証として、上部が山形の木製額を「絵馬」といい、願い事やお礼を書いて奉納します。元々、馬は神様の乗り物という神聖かつ大事な役割をあわせ持つものとして扱われ、大願の祈願の際は生きた馬を奉納する習わしがありました。以後、生きた馬の代わりに土偶の馬や木製の馬が使用され、いつしか馬を描いた絵馬に変化してきました。昨今では描かれる図案も神社特有のものが多く、当神社ではその年の十二支を描いた絵馬を、新年の元旦祭において神殿で祈祷をおこない、提供をしています。祈願する内容を書き込んで奉納して下さい。 子聖神社」「獺郷公民館」前から境内を見る。「神楽殿」を見る。「拝殿」を斜めから見る。「拝殿」を正面から。扁額「子聖宮」。拝殿の内陣をガラス越しに「本殿」を左側斜めから。「神輿殿」。正面から。「拝殿」と「神輿殿」との間の奥にあった祠?。石鳥居に近づいて。木製の祠。石仏が2尊。左:庚申供養塔 六臂青面金剛像 安永4(1775)乙未(きのとひつじ)12月吉日右:青面金剛像(半肉彫) 寛保2(1742)庚申供養講中 左:庚申供養塔 六臂青面金剛像の横面には 安永四(1775)乙未(きのとひつじ)十二月吉日 西一之宮名神道 北国分寺道 と。右:青面金剛像(半肉彫) の横面には「寛保ニ年(1742)八月吉日」と。祠の脇には多くの石碑、石仏が並んでいた。ここ獺郷地区の土地改良事業の際に、この「子聖神社」に集められたものも多いのであろう。近づいて。「道祖神」。裏面には「昭和十二年五月建之西北馬場講中」と。振り返って。「双体道祖神 安永五(1748)丙申年」 獺郷雷馬場町739-1より移設とのこと。左側をズーム。右側をズーム。「双体道祖神 天明三(1783)癸卯歳三月吉日 相州高座郡獺郷村願主・・・」。左。右。裏側から。「天明三(1783)癸卯歳三月吉日 相州高座郡獺郷村願主・・・」と。さらにその先にも。近づいて。「道祖神」と「西国秩父坂東供養塔」。「道祖神 獺郷村 上氏子中 五名 大正七年一月十四日再建 五名」「西國秩父坂東供養塔種子(アーンク;大日如来) 月山 湯殿 羽黒 大権現 天明三年(1783)西國秩父坂東観世音菩薩供養 と。文字「道祖神」もあった。獺郷村 大向坂口 氏子 弘化四未年正月十四日 獺郷下向坂977より移すと。「双体道祖神 元禄三(1696)年正月十四日 西山■兵衛」。藤沢市内で最古といわれる道祖神であると。左。右振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.06
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「寒川社(宮原)」を後にして、「宮原百石線」を南東に向かって進む。民家の花壇の葉牡丹も開花に向けて背を伸ばしていた。前方左にあったのが「御畜食肉センター」。食肉卸、小売、国産肉牛豚鶏販売、卸輸入肉チルド、冷凍オーダーカット お中元、御歳暮各ギフト商品取り揃えている有限会社とのこと。藤沢市宮原1514。手作りメンチカツ・1ヶ140円、カレーパン・1ヶ150円が人気であると。衣はカリッと中身はジューシーと。揚げ物がイロイロありました。旅友のオバチャンがメンチカツ・カレーパンを購入。「県道45号線」との交差点の横断歩道の先に石碑があった。「宮原中央辻の石仏平成十年(1998)九月新しい道祖神が建立され、江戸時代(年次欠寅年のみ)の和合ニ神像が後ろに残されています。傍らの名号供養塔(南無阿弥陀仏 文政ハ年(1825)一月)には、一遍上人五十ニ代他阿とあり、当麻山無量光寺の五十ニ代霊随上人のものと言われています。(市内には七基あり、御所見地区には他に用田西、皇子大神、東陽院にあります。)」藤沢市宮原1289。微笑ましい双体の道祖神の裏には、江戸時代の和合ニ神像が中央に。手前に名号供養塔、奥に五輪塔があると。道端の木瓜の花が見事。その先、「用田獺郷線」の先に木製の祠が立っていた。「東の辻の不動堂」と。県藤沢市獺郷649。堂内手前の石仏。左:石像不動明王座像 下部の脇侍 向かって右:衿掲罷(こんがら)童子 左:制吒迦(せいたか)童子 嘉永ニ年(1849) 獺郷村東講中右:石像聖観音立像 文化九年(1812) 施主獺郷村高橋忠左衛門2尊の石仏の奥の厨子にも木造仏が安置されているとのこと。奥右厨子内には■ー木造玉眼子安地蔵尊 像高 18cm 桃山前期作(後補あり) 昭和の初め頃まで、地蔵講として講中の家を一日ずつ回り、各家で祀っていました。 東不動講によって管理され、こ開帳は年ニ回、一月ニ十ハ日 九月ニ十ハ日です。 本尊には、「・・願主東宮原村 金兵衛 小左衛門 三良左衛門 戊申五月一ハ日 開眼供震・・・ とした書付があり、東宮原村の名が見られます。獺郷の一部は昔、宮原村と寒川町だったと いわれていて、宮原分は東宮原と呼び広町あたりを指す説と、字中島・大六天・雷までの広い 範囲を指す説とがあります。寒川町分は中原街道を隔てた字大道といわれています。 (御所見の昔・今)より 奥左厨子内には■本尊木造不動明王座像 大山不動模刻 総高39cm 像高15cm 近現代の作(年号欠損)と資料から。そして「遠藤宮原線」の「獺郷西」交差点を渡る。「遠藤宮原線」の国道45号方向を見る。交差点脇の芝桜。「高橋緑化園」が左手に。藤沢市獺郷646。右手に「熊山園」。藤沢市獺郷675。スイセンも陽光に輝いて。富士山の姿をズーム。白い桜の花であっただろうか?大島桜?山桜?それとも梅の花?花にズームして。「弁天池跡碑」と「悠久の大地碑」が「子聖神社(ねのひじりじんじゃ)」の手前、左側にあった。「弁天池跡碑 遥か昔より ここに池あり 水清く湧き出枯れることなし 田を潤し皆これを 弁天池と呼び親しんだ 平成六年三月吉日 土地改良区建立」。隣には弁天様の石像が。弁天池は「打戻川」近くにあったのだろうか?「悠久の大地 藤沢市長 葉山峻土地改良事業の記念誌獺郷(おそごう)は、ふるく「皇国地誌」によると、かわうそが多く生息していたことからついた地名といわれ、北から南へ浅い谷戸が続き、この地域の降水すべてが当地に集まりドブッ田となり、生産性が低く、農民を長い間苦しめ農業の伸展を妨げていた。1977年(昭和52年)この状況を解消すべく、「子聖神社」を囲む獺郷字六本松、雷、大向、中谷、中村、三清、茅ヶ崎市芹沢字広町の田畑山林他32.1ヘクタールについて、土地改良総合整備事業を実施するに及び、権利者129名は治水排水路の整備と、生産基盤の整備を図るため、度重なる協議を経て土地改良区を設立させた。以来17年間、幾多の困難を乗り越え総事業費4億5千万円を費やし、農耕地を集団化、整然と区画、すべて幅4メートル以上の道路に接する良好な農耕地に生まれ変わらせ、農道整備事業により地区内南北中央を貫く道路を中心に、8路線2100メートルについて完全舗装を完成させた。1992年(平成4年)には、農用地集団化優良地区として関東農政局賞を受けた。この土地改良事業は、今後当地の農業経営の安定と発展に寄与するところ限りないものがある。農業は人類の生存と生命を育むものであり、農業の果たす役割が大きく見直され期待が寄せられている。本土地改良事業の完成にあたり、この概要を記して後世に伝えようとするものである。 1994年(平成6年) 3月吉日建立 藤沢市獺郷土地改良区」その先にあったのが「獺郷地区第二十六分団消防署」。そして「子聖神社」の境内にあった「獺郷公民館」をお借りして、各自持参の昼食を楽しんだのであった。「獺郷公民館」。「御所見地区防災マップ」。「平成6年度 獺郷太鼓連 第4期生」。「子聖神社」の境内での様々な写真が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.05
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そして「宮原百石線」に出て、正面に「寒川社(宮原)」が正面に見えて来たが、先に訪ねたのが「観藏寺(かんぞうじ)」。「観藏寺」山門に向かって進む。明治期まで道を挟んで隣接する宮原寒川社を管轄してしいたとのこと。本尊は不動三尊で、本堂安置の阿弥陀如来は獺郷(おそごう)にあった西福寺の旧本尊。現在の本堂は大正大震災後に改築されたもの。山号 宮原山院号 不動院宗旨 高野山真言宗創建 不明(安土桃山時代)右「奉 宮原山」と刻まれた山門の石柱。左「献 観藏寺」と刻まれた山門の石柱。境内の入口右にあった「六地蔵」。移動して。平成8年(1996)7月 建立と。以前にあった文政6年(1823)の六地蔵は西福寺跡に移されたのだと。本堂の手前、右側にあった「弘法大師堂」。「弘法大師石造 文政3年(1820)」。相模国準四国ハ十ハヶ所霊場 第六十五番伊予三角寺御詠歌「花さきて実らぬ草はなかりけり神も仏も秋をみやはら」江戸文政の頃(1818 ~ 30)頃、鵠沼在の浅場太郎右衛門が、普門寺(高野山真言宗)の僧善応密師と相談の上、弟子の浄心を四国にやり、ハ十ハヶ所の御砂を取り寄せ、大師像を近在に配置しました。藤沢には四十四ヶ所ありますが、御所見地区は観蔵寺のみです。「本堂」。「本堂」の内陣。ズームして。明治期まで道を挟んで隣接する宮原寒川社を管轄してしいたとのこと。本尊は不動三尊で、本堂安置の阿弥陀如来は獺郷(おそごう)にあった西福寺の旧本尊。現在の本堂は大正大震災後に改築されたもの と。観蔵寺を後にして、手前にある「宮原寒川社」に向かう。藤沢市宮原の六本松にある宮原地区の鎮守の神社。藤沢市宮原1289。「寒川社」と。前方に神明鳥居の「石鳥居」。「寒川社御祭神 品陀別命 (ほんだわけのみこと・応神天皇) 寒川比古命 寒川比女命祭儀 元旦祭 一月一日 紀元祭 二月十一日 神立祭 七月三十日 例大祭 九月二十七日 新嘗祭 十一月二十三日(七・五・三)由緒 創立年月日不詳延喜式内社・相模国一之宮寒川神社を勧請して鎮守となる。明治六年十二月村社に・大正四年に(一九一五)末社に指定される。」鐘楼には梵鐘の姿はなかった。この鐘も第二次大戦時に供出されたのであろうか?「大東亜戦争記録昭和六年九月十八日満州事変勃発 昭和十二年七月七日支那事変 引続き昭和十六年十二月八日大東亜戦争となり昭和二十年八月十五日終戦 その間の宮原地区内応召戦没者記名・・・二十七名の戦没者名・・・昭和五十◯年十一月ニ十三日 建之」「奉納 藤扇睦」👈️リンク。宮原寒川社神輿保存会。境内右側にあった「神楽殿」。「手水舎」。「かわせみ ひな祭り」案内ポスター。正面に「拝殿」。境内には大宮社(大宮姫命)・八雲社(須佐男命)を合祀。創建時期は不明だが、神仏が習合していた江戸時代には社の西隣にある観蔵寺が別当役を務め、僧や山伏、修験者など雑多な人々が居住していたと。その後神仏の分離を経て、明治時代末、打戻の宇都母知神社との合併が取り沙汰されることもあったが、地域の人々の反対により独立維持されたと。境内は、南側から正面に拝殿と本殿、左手前から鐘堂、手水舎、社務所、奥に神輿殿、右手に神楽殿、稲荷神社が。入母屋造の屋根を持つ拝殿は1894(明治27)年に再建。 ⑥宮原・寒川社(宮原1289字六本松)例祭日9月27日に近い日曜日 神輿渡御宮原の鎮守。祭神は誉田別命 (ほんだわけのみこと・応神天皇) 寒川比古命 寒川比女命 末社 稲荷社寒川町の寒川神社を勧請したものですが、その年月は不明。元は観蔵寺が別当を務め、山伏・社僧・法師・修験者が居住していました。寒川社には、寒川の大神がいずれの国から相摸国に移り住んだ時、茅ヶ崎の芹沢にしばらく逗留し(腰掛神社:祭神日本武尊)、その後宮原に移り、最後に現在の寒川神社に移り鎮座したという伝説が伝えられています(相模の古社 菱沼勇)拝殿は、明治ニ十七年( 1894 )、本殿は大正十三年( 1924 )、神楽殿は昭和四年( 1929 )に再建されました。拝殿は軒唐破風向背付き入母屋造、覆殿は銅板豊の切妻神明造で屋根形状が大きく異なっています。内部の本殿は三間社流れ造、両下がり屋根の幣殿でつないでいます。昭和初期、目久尻川の水田区画整理や大昭橋架橋による旧石橋の石が神楽殿の土台に、古材が拝殿廊下の手すりに再利用されているそうです。拝殿の扁額「寒川大神」。「宮原」案内板。「宮原(みやばら)高座郡寒川町宮山にある相模国一の宮寒川神社の社地であった原野を開拓したところからこの地名が付いたといわれている。村の中央を南北に中原街道が通り、北町に大山街道の近道がとおっていた。往時には旅人の往来も多く、当時のようすを思い起こさせる屋号も多く残っている。 藤沢市」「宮原は、寒川町宮山にある相模国一之宮寒川神社の社地であった原野を開拓したことによってできた集落で、「宮の所領の原」で宮原としたとされます。宮原は東は獺郷、西は寒川町會見、南は寒川町小動(こゆるき)、北は用田に接するほぼ平坦な地で、古くは寒川郷に接し、寒川神社の領でした。天正年間(1573 ~ 1591)北条氏の令によって当村より藍瓶役の税銭を出したとの記録があり(足柄下郡板橋村紺屋藤兵衛蓙文書)、この時分当村に紺屋があったことがわかります。天正十ハ年(1590)徳川家領となり、江戸時代は三人の旗本の領地で(三給)、維新前の石高は、総高は820石余り、うら佐野肥後守庸貞453石9斗余、今村伝右衛門(佐野家家来筋、中分) 215石4斗余、佐野六十郎(佐野家分家) 151石3斗余りであった。徳川末期は相模国高座郡ーの宮庄宮原村でした。なお、昔、宮原には東宮原と西宮原という地名があり、東宮原は現在の獺郷の一部、西宮原は寒川の一部と者えられています。江戸時代の検地帳の中に該当すると思われる地名が見られます。宮原は村の中央を南北に中原街道が通り、北町に大山道の近道が通っていて、住時は旅人の住来も多く、昔の村のようすを思い起こさせる屋号も多く残っています。現在、植木生産販売業が多く見られますが、以前は葉煙草、生糸生産等が盛んで、特に生糸は横浜より買い付け業者が住来し業者相手の商売もありました。」と頂いた資料から。境内の「齋正一位稲荷神社」。「覆殿」を右側から見る。全体もしくは本殿のみを保護する目的で本殿・拝殿等の周りに更に建物を建てている場合があります。これを「覆殿」と言うのだと。「令和四年度 寒川社施設整備寄付者御芳名」。「寒川社々務所」。狛犬越しに拝殿を見る。狛犬(右)。狛犬(左)。「神輿殿」。「寒川社 神輿」をネットから。「覆殿」は銅板豊の切妻神明造。「大震災記念」碑。「大正十二年九月一日午前十一時五十八分関東一帯激震アリ 當宮原部落ハ戸數百二戸ノ内全潰四十一戸 半潰六十一戸ニ上リ殃死者一名負傷者三名ヲ出シ土地ノ陥落崩壊道路橋梁用排水路ノ破壊等頗ル惨状極ム 茲ニ碑ヲ建テ其災害ヲ後世ニ傳フ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.04
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藤沢市宮原にある社・鬼子母神堂(きしもじんどう)に立ち寄る。祭神はもちろん鬼子母神。仏法を守護し、安産・育児などの願いをかなえるという女神。もとインドの鬼神訶梨帝母(かりていも)。創建年月日は不詳であるが、武田武士内野隼太他13名(7名という説もあります)の墓地が堂の裏手にあり、この墓守として建立されたと。以前にも訪ねたことがあるが、風景が様変わりしていた。藤沢市宮原3433。こちらが「鬼子母神堂」。正面から。本尊の鬼子母神立像は、像高21.5cm、木造り、彫眼、黒塗で江戸時代の作といわれ、鬼女形で子を抱くのは古い形で希少とされています。令和四年(2022)四月に鬼子母神講中の方たちにより現在の社に建て替えられました。墓地裏を大山道近道が通っていた とのこと。( *武田勝頼没天正十年(1582))その横に安置されていた美しい小さな社。以前に訪ねた時の写真がこれ。境内の西側には「稲荷社」が。「稲荷社」の内陣。*庚申供震塔昭和五年( 1930 )ハ月一四日建施主遠藤モト日蓮六百遠忌報恩妙伝寺ニ十九世日進*題目塔南無妙法蓮華経明治ニ十年( 1887 )「題目塔題目南無妙法蓮華経 安永三(1774)□月吉日 御題目ニ千□□御祈願相州高座郡□□村 鬼子母神堂□當坊四世光雲院日案造立」と刻まれていると。左「題目塔 南無妙法蓮華経 明治ニ十年(1887) 日蓮六百遠忌報恩 妙伝寺ニ十九世 日進右「庚申供震塔 昭和五年( 1930 )ハ月一四日 建 施主 遠藤モト と刻まれていると。その横にも石碑が並んでいた。そして、「鬼子母神堂」の裏にあった「内野家墓地」を訪ねた。こちらも「内野家之墓」と。こちらにも。こちらが、内野家の本家の墓地と。正面から。「妙法 先祖累代之霊」。本家の家紋:「丸に五瓜に唐花(まるにごかにからはな)」。「墓誌」。こちらの家紋は「丸に横木瓜(まるによこもっこう)」。「三橋家之墓」もあった。「内野家之墓」から「高座クリーンセンター環境プラザ」をズームして。 施設の老朽化に伴い、平成31年度に新しいじん芥処理施設(高効率ごみ発電施設、マテリアルリサイクル施設)が完成。・高効率ごみ発電施設 搬入された可燃ごみは、ごみピットに貯められ、焼却炉(逆送式ストーカ炉)にて焼却処理 されます。 処理後に排出される灰及び焼却残さは、全量資源化施設に搬出しリサイクルされます。 また、焼却によって発生する排ガスは、ハイブリッドバグフィルタにより有害物質が効率的に 除去され、排ガス再循環(EGR)システムで一部を焼却炉内に戻すことにより、排ガスの 発生を抑制しています。 焼却による熱エネルギーを利用した発電も行っており、作られた電気を施設の内外で利用する ほか、売電も行います とネットから。「高効率ごみ発電施設 ごみ処理の流れ」。大山の姿を見る。大山の右に「三峰山」。そして「鬼子母神堂」を後にして、往路と同じ道を引き返す。解体撤去中の「高座清掃施設組合・第二清掃処理場」を振り返る。藤沢市の汚水マンホール蓋。市の木クロマツの地色が黒のデザイン。こちらは市章の上に「おすい」の 文字が入っていた。途中右手に折れて「長嶋園」方向に進む。前方に、枝が落とされた巨大な欅の老木が現れた。樹齢は??その先には、美しく刈り込まれた生垣が現れた。左側の植木畑の木々も見事に手入れされて美しい姿で。長嶋家の入口門の上部には、見事に刈り込まれた モチノキ(黐の木)。見上げて。宮原・獺郷には植木生産販売業が多く見られます。明治の終わりにはすでに植木農家が出現し、鵠沼の別荘地に出入を始めたり、関東大震災の後には火事に強い樹木の需要に応えて来ました。戦時中は食糧増産に押しやられましたが、昭和40年代に入り、再び盛んになっています。長嶋園の敷地を囲生垣は藤沢市の保存生垣に指定されています。(ぶら一り御所見ふるさと発見総合マップより)。「藤沢市保存樹木」と。表札「長嶋」と。その先前方にも、円筒状に刈り込まれ、背の高い樹木が現れた。近づいて。椿の花が開花中であり、椿の樹であることが分かったのであった。椿の樹がこれほどに高くなることに驚いたのであった。「長嶋園」と。そして突き当りを、左に折れる。そして「株式会社渡辺花園」の巨大な温室の脇を南に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.03
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この東への道も「大山道近道」であったのだろうか?西側を見る。この場所の両側には大きな寺があったが廃寺となったと。「中原街道」から富士山の勇姿を。ズームして。その先を右折、ここが「大山道近道」であったと。大山道は用田辻より用田橋を渡り海老名に入るのが本来の道ですが、用田辻より中原街道を南下し、五反畑より左に入り、鬼子母神堂の西を通って戸中橋を渡り海老名に入り門沢橋に通じる『大山道の近道』として利用された道がありました。昔は旅人相手の商売も見られ、たいそうな賑わいを見せたといわれています。またこの大山道近道と滝山街道が交差しています。(中原街道バス停「中原」から大山道・厚木道のバス停「西用田」に通じる道)。「神奈川県県水道消火栓マンホール」の蓋。神奈川県の鳥「カモメ」、花「ヤマユリ」、木「イチョウ」のデザイン。民家の花壇には美しい花々が。菜の花に似た花も。右からの小路も大山道近道に見えたがこの路は違うようだ。左手。次の左手の小路を左に曲がったが、間違ったとのことで引き返して進む。さらに西に進む。さらに藤沢市宮原の住宅地を進む。そして、「宮原」交差点へと続く広い道・中原街道に出た。道路沿いに咲き初めていたのは、花色が濃くて華やかな「オカメザクラ」であっただろうか。中原街道の先に木製の祠があった。中原街道の左手・「宮原」交差点方向を見る。この祠の前の小路を「立小路(たつこうじ)」と呼ぶと。「宮原歩一(ぶいち)にある道で、名前の由来は不明。立小路は宮原で最も早く人々が住み始めた場所で、並行して通る中原街道を立小路に対し「新道」と呼んでいます。立小路をはさんで多くの家々の玄関があり、中原街道側に墓地があることからも、立小路が古い道であったことがわかります」 と資料から。~「立小路」の歴史~立小路---は小田原北条氏支配時代に整備された道路とみられ、当時、沿道には約20軒もの家が軒を連ねていたようです。その後の江戸時代末の宮原村の地図によると、中原街道は「江戸新道」と呼ばれていました。立小路は中原街道が江戸時代に整備される前の「古道」であったと推測されています~宮原郷上史稿 吉川榮著より~中原街道を渡り、祠の前に。正面から。内部にはニ体の石仏が鎮座。石碑には「子育地蔵尊」と刻まれていた。 「子育地蔵尊立小路の一番北の位置にある子育地蔵尊で「元禄十ニ(1699)卯天九月吉日奉造立念仏講女中」とあり女性の講中によって建てられたもので、「妙舂 和□ 浄全 秋□ 三九郎 □甲 妙梅 為 妙宗 おかめ □覚 妙眞 宗益江□」と女性の名前が刻されています。昔から子どもに恵まれない人がお参りすると子どもが授かるとされています。ー昔前までは首がなく「首なし地蔵さん」と呼ばれていましたが、願いの叶った平塚の人が首を奉納し現在の姿になりました。」奉納されたお顔をズームして。左手には、宝暦十辰年(1760)七月ニ十七日造立の阿弥陀如来立像も安置されていた。右にあった黄金色に装飾された小さな像も。以前は、中原街道の反対側・「立小路」北側入口の正面に鎮座していたと。写真のカーブミラーの右側辺りか?両側には植木屋さんの植木畑が広がる道を北西に向かって進む。この場所の桜は、エピローグへと。椿の花も。「植木造園 宮原園」。その先、道路の反対側右手の路地にあった石碑。「北立小路の道祖神」には「道祖神」と刻まれていた。北町と立小路神集落の道祖神で元は双体道祖神でしたが、昭和49年(1974)に盗難にあい、翌50年に再建されました。「昭和五十年十一月十四日建立 相州宮原村 北立小路講中」と。「昭和」と刻まれた部分が破損して台座上に置かれていた。さらに植木畑をの緑を楽しみながら進む。正面に白い煙突が見えて来た。「高座清掃施設組合・第二清掃処理場」海老名、座間、綾瀬市の家庭ごみの焼却処理などを行っている高座清掃施設組合(海老名市本郷)。稼働を終えた第2清掃処理場の解体撤去工事と、本郷ふれあい公園(第2工区)の整備に着手しているとのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.02
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この日は3月22日(金)、会員登録している「藤沢地名の会」の令和5年度第3回「地名探訪」・「春の御所見南を歩く~宮原・獺郷・打戻の史蹟を訪ねて~」に参加して来ました。多くが以前に一人で訪ねた場所でしたが、「藤沢地名の会」の説明員の方が案内してくれるので復習も兼ねて参加を申し込んだのです。集合場所は、藤沢市北部の藤沢市用田地区にある、神奈川県道43号藤沢厚木線と中原街道が交差する「用田交差点」、時間は9:40とのこと。小田急線長後駅西口から、9:00発の綾瀬車庫行のバスにて向かう。小田急線長後駅を定刻9:00に出発。車窓から、長後725号線沿いにあった「藤沢市長後市民センター」を見る。特徴的な長後市民センター体育室の外観。長後は柏尾通大山道と八王子へ向かう滝山街道が交差する交通の要衝として、古くから栄えて来た。その名前は高座の「長の郷」に由来するとも言われているのだ。今でも市の北西部への玄関口で、かつて私が学生時代にはは小田急線の急行が長後だけに停車した時期もあった。果樹の栽培が盛んで、シーズンには新鮮なナシやブドウを求める人たちで賑わうのだ。バスが走るこの道路はかつての「大山道」で、今でも市の北西部へ向かうバスルート。「藤沢市長後市民センター」の本館を見る。そして引地川の手前からは富士山の勇姿が現れた。そして長後駅から約15分で集合場所近くの「用田辻」バス停で下車し集合場所に向かう。集合場所の「用田」交差点を渡り、「中原街道」を振り返る。「用田」交差点を通過する赤い大型バス。SFCと呼ばれる慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスと小田急線湘南台駅を結ぶ「ツインライナー」。「ツインライナー」は、「交通バリアフリー法」に対応した、日本初のノンステップ連節バス。全長 18.175mと、ほぼ電車 1 両分の長さで、定員も 129 名(旅客 128 名+乗務員 1 名)と、電車の定員とほぼ同じ。車両はドイツ生まれのヨーロピアンスタイルで、カラーは街並みに明るく華やかな雰囲気を添えるピーチピンクを採用。乗降しやすいノンステップの入り口からは、平面床が約 15m 続くのだ。昨年・2023年には、湘南台駅近くを走っていた際に、新しい4両編成のバスとすれ違ったのであった。2両編成のツインライナーがついに2倍になっていたのであった。この4両編成の連結バスは、ツインライナーにあわせて「ツインツインライナー」と名付けられたと帰宅してから知ったのであった。中原街道(なかはらかいどう)・神奈川県道45号線の道路標識。中原街道は、相模国(神奈川県)平塚と武蔵国豊島郡江戸(東京)とを結ぶ街道。現在の国道1号桜田通りから東京都道・神奈川県道2号線および神奈川県道45号線に相当し、高座郡寒川町一之宮の田村の渡し、または、四之宮の渡しで相模川を渡り、平塚市御殿へ達している。中原街道は脇街道であったため、東海道のような宿駅は設けられず、荷物等の受け渡しを行う継立場が下記の通り設けられた(なおこの継立場を中原街道の宿場とする見解もある)。・小杉(神奈川県川崎市中原区)・佐江戸(神奈川県横浜市都筑区)・瀬谷(神奈川県横浜市瀬谷区)・用田(神奈川県藤沢市)写真はネットから。そして集合時間になると、この日の参加者18名が全員集合。平均年齢は70歳を超えていたであろうか。この日に「藤沢地名の会」からいただいた資料(以下 資料)の一部を転載させていただきました。この日の散策案内資料の表紙。下部にこの日の散策場所・探訪コースが示されていた。「御所見の昔・今より」上:現在の地図下:当時の御所見の小字葛原には、桓武天皇第三皇子葛原親王(かつらはらしんのう)の御所があったといわれている。御所見(ごしょみ)の名は、葛原親王が散歩の際に御所を眺めたという菖蒲沢の塚「御所見塚」に由来するとのこと。また、平安時代に葛原親王の子孫である垂木主膳正従四位下長田武蔵守平忠望がこの地に住み、その館は土地の人々に垂木御所(たるきごしょ)と呼ばれていた。菖蒲沢の塚から、この御所を見ることができたためという説もある。「御所見地区は、明治ニ十ニ年(1889)四月市町村制の施行により、用田・葛原・蒲沢・打戻・獺郷・宮原の6ヶ村が合併して御所見村となったのが起源です。昭和三十年(1955)に藤沢市に合併し、現在は藤沢市13地区区分の1つとなっています。藤沢市の北西部に位置し、北から西にかけて綾瀬市、西は目久尻川を境として海老名市、西南に寒川町、南は小出川を境に茅ヶ崎市と接しています。地層の基盤は、相模川左岸の洪積層相模原台地(約7万年前)に、地区の中央を南北に高座丘陵(約13万年前)が割り込んだ形となっています。その上を関東ローム層が覆う30 ~ 40mの台地となり、一部が相模川支流の目久尻川・小出川や引地川支流の一色川等の沖積層になっています。沖積層の低湿な地域は、以前は氾濫・泥田地帯でしたが、昭和初期からの耕地整理により今では良田に改良されています。また、台地上は昭和三十五年(1960)以降の工場進出や宅地開発が進められてきましたが、市街化調整区域として今も山林や畑が多く残され、昔ながらの農村の姿を各所に見ることができます。当地区は、古代は東海道別路と東山道連絡道が通る交通の要衝で、早くから拓かれた土地とされ、今も長い歴史の伝承を持つ神社が複数存在しています。これらの古道は、近世になって中原街道・大山道として引き継がれ賑わい、用田辻付近は旅籠や茶店が多く集まっていました。一方で、大方の村人たちの暮らしは養蚕と、粟・米・麦・サツマイモ・スイカ、また戦前まではタバコも多く栽培され、農耕を中心とした生活に支えられていました。」と資料から。在りし日・昭和30年頃の「御所見塚」を頂いた資料から。「御所見塚」は、昭和35年に工業用地となり、整地されてしまったのだと。「御所見塚事蹟之碑」現在は、 御所見塚の記念碑が、場所を移して御所見市民センターの一角に立っている。「御所見略年表」。集合場所の「用田辻」。南北に中原街道、東西に大山道・厚木道が交差する用田辻は、古くからの交通の要所で、用田村はこれらの道の継場として栄え、継立の道程は、中原街道は一之宮村へー里半、瀬谷村へニ里半、大山道は門沢橋へ三十町、長後村へー里、厚木道は藤沢宿へニ里ニ十七町、厚木村へニ里です。用田辻を中心に伊東屋、あずま屋、富士屋、亀屋、伊豆屋などの旅籠がありました。現在、中原街道---は丸子中山茅ヶ崎線、大山道---は横浜伊勢原線、厚木道---は藤沢厚木線と呼ばれ、大山道と厚木道は御所見中学校前で合流し、用田では一本の道となり用田橋の先で再びニ本の道に分かれます。「用田辻」にあったのが「不動明王坐像道標」。丁度、影になってしまっていたので、以前の時の写真を。こちらは、この日の写真・「不動明王」像。安永4年(1175)「右大山道 東柏尾道 北江戸志んみち 南一之宮道」と刻まれていたと。大山街道「柏尾(かしお)道」は、横浜市戸塚区の柏尾で東海道から分かれて大山に向かい、伊勢原市の下糟屋で矢倉沢往還ルートの大山街道と合流するもので、東海道から大山に向かう旅人に利用される道だった。全体的にはほぼ真っ直ぐ西に向っており、途中でいくつもの川を渡る。 川を越すたびに丘陵からの下りと上りを繰り返すが、息が切れるほどの急坂はあまりなく、歩き旅に変化を与えてくれるといった感じ。 また、他の旧街道と比べて道標や庚申塔などの石造物が非常に多く残されているのが特徴的だ。明治になって鉄道が開通すると平塚経由の方が便利になったので廃れていったと ネットから。「不動明王」像の右下に石碑が2基。左の石碑・道標には「施主 相州ふたつや村□木□ 相州□谷村久保田 西 座間休息山 上依知星下」と刻まれていたと。その右には「発起人」の名前が刻まれていた。2基の石碑の裏面。そして「中原街道」を南に下り散策開始。この日の散策ルートを資料から。 ・・・つづく・・・
2024.04.01
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そして道路脇の巨大な「六地蔵」を訪ねた。「温顔和楽」と刻まれた碑。「和楽」とは なごやかに楽しむこと。互いにうちとけて楽しむこと。常にこのお地蔵様のごとくに「温顔和楽」の日々でありたいが。近づいて。通りに面し通行人に語り掛けるような優しいお顔で並んでいたのであった。右から、「ほかほか地蔵」と名前が刻まれていた。「らくらく地蔵」。「ふくふく地蔵」。「にこにこ地蔵」。「すくすく地蔵」。「いきいき地蔵」。塀の角にあった石碑。これも以前のブログにて高校時代の友人から教えて頂きました。「古松談般若(こしょうはんにゃを だんじ)幽鳥弄真如(ゆうちょう しんにょ をろうず)」👈リンク という一対の禅語の言葉であると。古い松の木が風に吹かれて悟りの智慧を説き、山奥に棲む鳥が真実の教えを説きながらさえずっている。すなわち、周囲を見渡せば森羅万象が等しく尊い教えを説いている。この世界そのものが悟りの世界にほかならない と。この先にも石碑が。この石碑には「純未生流之碑」と刻まれていると、これも以前に師匠から。歴史を感じさせる石灯籠。そして引き返して、「山門」右手の大きな台座に鎮座する「聖観世音菩薩立像」を見る。ズームして。右手に開蓮と未開蓮を刺した水瓶を持つ。「聖観世音菩薩立像」の下に向かってっ進む。途中、左手に「山門」を見る。蕾も未だ小さい「八幡桜」。「若宮大路 八幡桜」碑。「鎌倉八幡宮若宮大路の段葛より移植された晋山記念の桜である八幡桜の銘は吉田宮司による平成廿八年降誕会 天嶽院廿九卋正三謹誌」「聖観世音菩薩立像」を斜めから。お顔をズームして。正面から。「慈光遍照」と刻まれた石碑。「お大師様(空海)は、常に私どもにお救いの御心「慈光(じこう)」を遍(あまね)く照らされておられますので、いつでもお大師様の存在を感じる心をお持ちください。そしてお大師様を心に念じながら合掌して『南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)』をお唱えすることにより、本来自身に備わっている穢(けが)れのない清浄なる心の鍵が開き、御仏に包まれ抱かれている境地と共に、どんな場面でも常に仏様と共に歩んでいるという安らぎと喜びを実感できると思います。」と。左手は、親指と中指を合わせて輪を作る「九品印」・「中生(ちゅうしょう)印」と呼ばれる印相で。紅葉をこれでもかと楽しむ。サザンカであっただろうか?再び山門前から。山門に近づいて。再び掲示板を。「功徳山 早雲禅寺 天嶽院 写経会」案内。「功徳山 早雲禅寺 天嶽院 参禅会」案内。最後にもう一度。2023年も様々な場所を訪ねて紅葉を楽しんだが2023年の紅葉も見納め!! ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.03.04
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再び石舟の如き鉢?の上に乗った「聖観音菩薩像」をズームして。移動して。鉢に「感應」の文字が刻まれていた。仏教の語で「感応」とは 「信心が神仏に通じること」である と。二人の童子が支える蓮華座に結跏趺坐で鎮座する「聖観音菩薩像」。二重円光を背負い、左手に開蓮を持つ、右手の印相は来迎印。左下に「龍の吐水口(とすいこう)」。日本では昔から龍神が水を司る神さまとして崇められてきた。水はすべてのいきものにとって命の源。命をつなぐ水は尊いものであり、神道(自然信仰)では穢れや邪気を祓う神聖なものとされた。神社の手水舎で、左手、右手と水をかける行為は、心身を清めるために行うもので、この水を「龍神から出ている水」と見せることで「神聖な水である」ことを表現しているのである と。「相生松」。「昭和平成伽藍恢興之碑」「昭和」の文字がひっくり返した鏡文字のようになっていたが、「昭和」の『異体字』であると以前に師匠より。「道元禅師御道詠の碑」「峰の色 渓(たに)のひゞきも 皆ながら 我釈迦牟尼の 聲と姿と」。【季節の移ろいとともに変わってゆく峰々の色、そして聞こえてくる谷川のせせらぎ、自分を取り囲んでいる自然の姿そのものの中に仏(釈迦牟尼)の姿を見る、道元禅師の澄んだ心の有り様を素直に感じさせてくれる歌。仏は、お経やお堂の中だけにいるのではありません。山や川や海や雲や、世の中全てのなかに仏はいます。】とネットには。右手に入母屋造銅板葺で妻入の「淨聖殿」。大棟と向拝の唐破風に獅子口、軒廻りは一軒繁垂木で組物は舟肘木、拝は猪目懸魚で唐破風の兎毛通も猪目懸魚、妻飾は狐格子。両開きの桟唐戸と上に菱格子欄間、脇間に花頭窓本尊の「千手千眼観世音菩薩坐像」を安置。「浄聖殿」内に安置されている本尊「千手千眼観世音菩薩像」をパンフレットから。像高34.5センチメートル、総高83センチメートル、玉眼、金色相、寄木造の坐像。室町後期の作と。扁額「淨聖殿」。そして切石敷の参道を進んで行くと正面に切妻造銅板葺の「中雀門」。左右に白壁の築地塀のような回廊を設けた中雀門を通して本堂(法堂)が見えた。扁額は「湘中早雲禅寺」。「功徳山 早雲禅寺 天嶽院」と。「常香炉」越しに「本堂・法堂」を見る。中雀門の真ん中に「常香炉」が置かれ、香炉に乗っている鞠を踏む唐獅子と、左右の取っ手部に取り付けられた阿形吽形の龍が参拝者を迎えてくれたのであった。「常香炉」には寺紋の「北条鱗」が。「常香炉」に近づいて。鎌倉の北条と小田原の北条(後北条)。家紋も同じ三つ鱗のようでいて微妙に違うらしい。「正三角形の三つ鱗」は、「鎌倉時代の北条氏(特に得宗家)」が使用していたと言われている。一方、「二等辺三角形の三つ鱗」は得宗家以外の北条氏や「戦国時代の後北条氏」が使用しており、「北条鱗紋」と呼ばれる事がある。ただ、得宗家が二等辺三角形の三つ鱗を使用していた形跡もあるのだと。こちらに関しては厳密にどちらが使用していたかを区分するのは難しいと言えるのだ と。「中雀門」の前、「淨聖殿」の対面に建つのは入母屋造銅板葺の「寺務所」。「中雀門」前から「山門」方向の境内を見る。玄関前には「掃除小僧」の姿が。「掃けば散り 払えばまたも塵積る 人の心も庭の落ち葉も」。「木々の色鮮やかな紅葉に目を奪われ、葉が落ちる様子に少しの物悲しさを覚えます。はらはらと庭先で積もる落ち葉は、日々増えて毎日掃いてもきりがないように感じます。今月のことばは、そんな落ち葉の様子を人の心になぞらえた道歌です。心は常に清浄でありたいと願うものの、人との小さな摩擦や日々の出来事で、簡単に人の心はささくれ立ちます。苛立ちや怒り、自分の価値観で凝り固まった自尊心は少しずつ塵のように自分の中に溜まっていくのかもしれません。宮城顗先生のことばに、次のようなものがあります。「いつとはなしに積もってしまう塵とは、自分の体験のみを絶対的なこととして誇る自負心、驕慢心であります。どこからともなくにじみでてきて肌をおおってしまう垢とは、自分のしたことや考えについての執着心であります。その塵と垢とを払い除かないかぎり、努力すればするほど人をへだて差別し、軽蔑する人間になってゆくのです。人々への愛に生きているつもりが、いつしらず、愛に生きている自分自身への自己満足と自己固執にすりかわり、人々がその愛に生きる自分を理解しないときには、逆にその人々を軽蔑し、憎みさえしてしまいます。」自分では気づかないそのような心を掃き清めるのは、一日の終わりの感謝のことばではないでしょうか。静かに一日を振り返り、真摯にわが身を問いかける、そして他者にかけてもらったあたたかいことばや出来事を思い出し、一日が無事に過ごせたことに感謝の思いを抱きます。「ありがとう」の思いでその日を閉じ、「ありがとう」の心を明日へと繋ぎます。感謝とわが身を振り返る生活が、知らず知らず積もっていくわが身の塵に、少しでも気づくきっかけを与えてくれるのではないでしょうか。」とネットには。可愛らしい小さな石仏も。「淨聖殿」を振り返る。この四角い穴の空いた石碑は?石灯籠?獅子像を中雀門側から。再び「聖観音菩薩像」を見る。獅子像越しに紅葉を。「大悲願力透徹◯永劫」と刻まれた石碑。「六地蔵」の手前のここにも掲示板があった。「時の流れに心せよ「まだ」は忽ち「もう」となる」。高齢者にとっては、身にしみる言葉なのであった。「六地蔵」。庫裡の建物の一部であっただろうか?「早雲閣」と。「早雲閣」の玄関。「東司」は手洗い。手洗の中の額に書いてあった言葉を紹介させて頂きます。「禪寺では御手洗のことを東司(とうす)と申します。一、佛殿(ぶつでん)ニ、法堂(はっとう)三、僧堂(そうどう)四、庫裡(こり)五、山門(さんもん)六、東司(とうす)七、浴室(よくしつ)以上が禪寺に於ける七堂伽藍であります。」と。「庫裡」前から「鐘楼」を見る。「梵鐘」越しの紅葉。「鐘楼」越しの紅葉。そして「不動殿」横の小径を進む。紅葉を見上げて。三体の石仏が祠の中に。近づいて。突き当りを右に折れて、山門の横に向かって進む。奥に「山門」の茅葺きの屋根が。「山門」を見る。紅葉を愛でながら引き返す。「中雀門」への参道入口まで戻る。再び右手奥に「中雀門」を。そして山門に向かって引き返す。寺の方が落葉をハンディブロワーで清掃されていたが・・・・・。石畳の上の落葉も綺麗に??苔の上の落葉は残り風情を保っていたのであった。山門手前。「千寿桜」「千寿桜天正十九年夏日 徳川家康公御手植」と。そして「山門」まで戻って再び仁王像を見る。阿形像。お顔を横からズームして。吽形像。お顔を横からズームして。「仁王尊像」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.03
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季節外れの、昨年の紅葉見物の最後のブログアップです。この日は2023年12月12日(火)、この秋も多くの場所の黄葉・紅葉を楽しんで来たが、地元市内にある「天嶽院」の参道の紅葉も美しいので、訪ねたのであった。駐車場に車を駐め、この日も散策開始。「天嶽院」の「山門」は西向きに建っているので、紅葉の参道に陽光が入りこむのは15時前後からが良いのである。この日も15時過ぎに到着。駐車場に車を駐め散策開始。神奈川県藤沢市渡内1丁目1−1。「功徳山 早雲禅寺 天嶽院(てんがくいん)」。頂いたパンフレットから「天嶽院境内案内図」を。「参道」入口の門柱。この門柱に書かれている文字は、数年前に、我が高校時代の友人Sさんから教えて頂きました。「雨花知佛境 流水識禅心」と。「雨花佛境を知り 流水禅心を識る」と。「雨花知佛境」(右側)の門柱。「流水識禅心」(左側)の門柱。山門に向かって進む。「山門」とその前の「寺号標石」と「金剛力士像・仁王像」。寺号標石「天嶽院」。・真言密教の古寺「不動院」から始まる。・治承四年、源頼朝公は、伊豆で挙兵、鎌倉を目指すが、途中「不動院」に立ち寄り 不動明王様に大願成就祈願をされたとの伝説がある。・明応四年、北条早雲公によって伽藍の一宇が創建され、「不動院」を改めて曹洞宗の禅寺とし、 虚堂玄白禅師を迎えて開山。・天正四年、火災に遭い伽藍は全焼。・中興開基 玉縄城主北条綱成公、氏繁公父子。・再中興開基 紀伊大納言徳川光貞卿。・昭和平成伽藍復興。向かって右側の「阿形像」。上半身をあらわにした2体は、筋骨隆々。カッと両の目を見開いて、睨みをきかす迫力たっぷりの表情。左手に長い金剛杵(こんごうしょ)を抱え、右手の五指を下に向けて大きく開いて。向かって左側の「吽形像」。左手に短い金剛杵(こんごうしょ)を抱え、右手の五指を正面に向けて大きく開いて。「掲示板」。「過ぎて 悔やむな 人生は 空しく 生きるな 今日の日を」と。「山門」前から「参道」の「モミジトンネル」を望む。「不許並葷酒入山門」と。【くんしゅ【葷酒】 山門(さんもん)に入(い)るを許(ゆる)さず】多く禅宗の寺の門前に立つ結戒の一つ。「不許葷酒入山門」とあり、臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内に入ることを許さないということ。山門を絵画の額縁に見立てて。「山門」を潜りながら。モミジのトンネルに続く切石敷の参道....石畳とその左右に敷き詰められた苔の緑が絨毯のようで美しいのであった。「参道」を歩く。モミジのトンネルの中から眺めた石段上の堂宇境内。言葉は不要の絶景!!石畳の上には、前日の雨で、濡れ落ち葉?が。近づいて。苔の上にも。再び真っ赤に染まった紅葉を追う。正面奥に「中雀門」が見えて来た。そして参道の石段を上る。石段の上から紅葉を振り返る。山門を振り返って。ズームして。「中雀門」入口の獅子像(阿形)。獅子像(吽形)。自然石を刳って作ったのであろうか、「手水場」が。「舟落葉」が水面に。「鐘楼」を見る。「梵鐘」。安永3年(1774年)の銘のある梵鐘。総高161.8センチメートル、口径81.6センチメートル、鐘身111センチメートル。銘文の文中には「功徳山早雲禅寺天嶽院北条氏繁公草創」とある と。鐘楼とは反対側の紅葉。「参道」の右手にあったのが「不動殿」。「参道」には「獅子像」、その手前に「八角青銅燈籠」が。「八角青銅燈籠」。「不動堂」への入口の紅葉。ズームして。「不動殿」前には、石舟の如き鉢?の上に乗った「聖観音菩薩像」が。巨大な手水鉢なのであろうか。そして再び山門方向の参道を振り返る。「不動堂」を正面から。内陣に近づいて。不動殿には「不動明王像」、「大黒天像」、「愛染明王像」を安置。「天蓋」。中央に「不動明王像」。火焔を背負って鎮座する宝剣と羂索を持つ濃い青色の「不動明王像」。「愛染明王像」。「大黒尊天像」。この美しい線刻の如き絵画が描かれていたのは、これも燈籠であろうか。 ・・・つづく・・・
2024.03.02
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私の住む地域の「どんど焼き」が昨日1月14日(日)8:00から近くの公園で行われました。コロナ禍の中、この行事を中止する自治会が多くあるとのテレビ報道でしたが、我が地域では今年は従来通り執り行われました。「どんど焼き」という不思議な名前の由来は、■どんどん燃えるから■燃やし始めに青竹がはぜて「どんっ!!」と音がするからなど諸説あり、音の響きから ついたようです。「門松」「しめ縄」「破魔矢」などの正月飾りを処分するにはいくつか方法がありますが、最も一般的なのが神社やお寺の「お焚き上げ」や「どんど焼き」で焼くというもの。我が住む地域には近くに神社・仏閣が無いので、私が子供の頃には近くの農道の路地、そして現在は近くの公園で毎年継続してどんど焼き」が行われているのです。小正月になると、塞の神(サイノカミ)を祀り、旧年の災いを払い、これから一年の平穏と農作物の豊作を願う「どんど焼き」。正月飾りや書き初め、だるまやお守りを燃やした火で繭玉を焼いたり、酒がふるまわれたりしながら、無病息災を願う昔からの行事なのです。かってはどんど焼きが行われるのは小正月の「1月15日」が主でしたが、現在はそれよりも早く行われる場合が多いのです。これはかつて1月15日だった成人の日・祝日がハッピーマンデー制度により、日にちが移行してしまったことが大きな理由 。このハッピーマンデー制度により祝日が1月第二月曜日に変更され、1月15日が平日になる年もでてきました。そこで『どんど焼き』に参加しやすいように、成人の日(1月第二月曜日)またはその(前)後の土曜・日曜日に「どんど焼き」の日にちを移すようになったのです。妻が今年も「門松」、「しめ縄」等を一つに纏めておいてくれました。今年も、妻が前夜に上新粉で造った3色の団子も準備しておいてくれました。「どんど焼き」の火で焼いた餅、または三色団子を食べると、その年の病を除くと言われているのです。三つ叉の木は、趣味の養蜂場のある畑の木の枝を切り準備しておきました。8時からの開催とのことで8時前に近くの公園に。既に廃材その上に「しめ縄」や「正月飾り」が置かれていました。そして役員の方が8時前に着火し「どんど焼き」のスタート。公園内での「どんど焼き」を行うためには、市に対して「公園内行為許可証」そして消防署に対して「煙・火炎発生届」が必要とのこと。併せて消化器の準備もされていました。団子をアルミホイールで覆っている家庭の三叉団子が出番を待っていました。役員の方が、家から枯れ木を準備して下さり、勢いよく燃え始めたのでした。その上に我が家の「門松」、「しめ縄」等投げ入れました。私が子供の頃は、正月の書初めを燃やし、燃えた書初めの半紙が高く上がると字が上手になると言われていたのですが、最近では書き初めをする子供達も少なくなってしまったのです。三股の団子を持ったご家族の姿も。次第に炎も大きくなり、遠ざかって。ダルマも火炎に囲まれて。まだまだ火力が強く、団子を焼くには早すぎるのでした。お神酒を紙コップにいただき、飲みながら団子の焼けるまでの炎を見つめていました。そして漸く下火になり団子焼きのスタート。三股ではなく三股2段で六股の枝の先端に団子を付けて焼く方も。このくらいになった場所が、団子焼きには良いのです。我が家の団子も。いつのまにか、この地域の方々の数も増えて。子供さんの姿も増えて。昨年は、お神酒の入った紙コップの代わりに白のマスクだったのですが。(昨年の写真)。やはり、近所の方々も、三叉の木を準備するのが大変と。3色の団子の位置は、各家で違うようだ。焦げ目もついて。6個の団子を1本の枝につけて、アルミホイルで巻いて。そして団子を焼く方の数も急に増えて、団子の焦げた匂いも。そして30分ほど雑談しながらの「どんど焼き」も終えて自宅に戻り妻と焼いた団子をシェアーし、今年の健康を祈ったのでした。そして去る7日(日)は七草粥の日。「セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ」、子どもの頃に一生懸命覚えた春の七草の名前。ゴギョウはハハコグサ、ハコベラはハコベ、スズナはかぶ、スズシロは大根のこと。この七草をおかゆにして1月7日に食べる七草がゆの習慣は、江戸時代に広まったそうです。七草の種類は時代や土地によって異なり、七草がもっと多くなったり、少ない場合もあったそうですが、いつの時代もどんな土地でも、年頭にあたって豊年を祈願し、「今年も家族みんなが元気で暮らせますように」と願いながらおかゆをいただくその気持ちに差はありません。さらに去る11日(木)は「鏡開きの日」であった。鏡開きとは、正月に年神様(としがみさま)が滞在していた「依り代(よりしろ=居場所)」である餅を食べることで、霊力を分けてもらい、1年の良運を願う行事なのです。年神様は、穀物の神様。毎年、正月にやってきて、人々に新年の良運と、1歳分の年齢を与えると考えられて来たのです。神棚、床の間からお供えを下げて来ました。プラスチックのお供えの内部にあった餅を焼いてお汁粉にして。「どんど焼き」「七草粥」「鏡開き」の如き日本の伝統行事をしっかりと引き継ぎ、次世代に繋いでいく事は、非常に大切である事を今年も感じながらの「どんど焼き」だったのです。
2024.01.15
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天然温泉 加賀の宝泉 御宿野乃 金沢(ドーミーイン・野乃 グループ)「遊行寺」からの帰路に「白旗神社」に立ち寄る 。石段上の「拝殿」を見る。 参道の左側の石庭の「みそぎ川」の奥には石祠があった。ズームして。「白旗辨財天」と。「源義経公武蔵坊弁慶公之像」。この「源義経公武蔵坊弁慶公之像」は2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の記念事業の一つとして建てられたのだ。馬に乗る「源義経公」。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。そして「武蔵坊弁慶公」。大きな薙刀(なぎなた)を持つ武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。「義経公・弁慶公の首塚は、文治五年(一一八九)六月一三日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀の背に乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の御首は、当社から南に一五〇メートルの場所に埋葬され、その御霊は白旗大明神として当社に祀られました。一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺境内にあり、その御霊は常光寺境内の八王子社に祀られていましたが、現在は塚のみを遺しています。一般的に神社は南向きか東向きに建てられますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を向いて北向きに建てられていたと謂います。此度、令和御大典の嘉年と主従没後830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵坊弁慶公の銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。 令和元年(二〇一九)一〇月二八日 白旗神社 宮司 鈴木大次」そしてこちらが「湯立神楽」の奉納場所。今年はこの「湯立神楽」👈リンク を10月28日(土)に楽しんだのであった。「藤沢市指定重要無形文化財 湯立神楽白旗神社を中心に神官 により継承されている神事芸能 。湯立てを伴う神楽で、湯花神楽 、鎌倉神楽等の名称で、藤沢 、鎌倉 から三浦半島 一円におよんでいる。古くは、関東一帯に分布したとされる神代神楽を源流 とし、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮 の神楽男 が伝承し、次第に近隣に定着したものとされる。「湯立て」という神事手法に組み込まれた神楽には品格があり、舞にも洗練されたものがある。演目は十一で打囃子、初能、御祓、御弊招、湯上、中入、掻湯、大散供、笹の舞、弓祓、最後の剣舞・毛止幾で神人共楽の内に終了する。 白旗神社神事 十月二八日 平成八年三月一日指定 藤沢市教育委員会」 そして既に正月の準備が進んでいて来年の絵馬が。「令和6年甲辰(きのえたつ)歳 干支絵馬」。旭日を背に舞う縁起の良い龍の姿が。「原画は例年通り、藤沢市内在住の漫画家 佐野絵里子先生に依頼、絵馬作成は藤沢市長後の㈱グロリア工芸さんにお願いしたとのこと。今回の図案は、義経公が来年の干支である龍(辰)に乗って雲の上を駆けている様子が描かれている。架空の存在である龍が登場しているだけあって、幻想的な絵となっているのだ。」 次に「白旗神社」の東側にあった「イチョウ並木」が人気の「御殿辺(ごてんべ)公園」を訪ねた。 「白旗川」に架かる「人道橋」の先に「イチョウ並木」が。 近所の保育園児が散歩に来ていたり、ベンチで休憩する人がいたり。普段は近隣住民の憩いの場、というこの公園ですが、紅葉の季節になると黄色く染まったこのイチョウ並木の見物に人々が訪れるのだ。毎年11月下旬から12月中旬にかけて見ごろを迎えるイチョウ並木。今年は剪定の都合により枝の広がりがかなり減っていたものの、がんばって黄葉している状態。一面黄金色に染まる美しいイチョウ並木。実は藤沢市内にも知る人ぞ知る名所なのである。左側奥には「御殿辺(ごてんべ)公園」の遊具が。その奥に見えたのが集合住宅「藤沢スカイハイツ」。 入り口向かって左に白旗神社、右に藤沢市民病院、向かいにはトレアージュ白旗というモールに面している。1万m2を超える広い敷地の中央にイチョウ並木が通り、遊具や木陰のベンチ、広々とした芝生が広がる公園。午前中の陽光に黄金に輝くイチョウの葉を追う。まだ緑の葉も。黄葉のプロローグ・序章。「白旗川」の上では鳩が日向ぼっこ中。 ズームして。そして「白幡神社」まで引き返す。 正面にFRP製の「一の鳥居」、その先の石段の上に社殿の姿が見えた。 見事な彫刻が施された「手水舎」。参拝の前に身を清める場所。この「手水舎」は平成5年7月に建てられた。手水石は真鶴の銘石、小松石で作られている。新しく置かれた、義経に縁の深い亀の姿が。腰越の浜に捨てられた義経の首は、しばらくして境川を遡り、金色の亀の背中に乗って、白旗川に流れ着いたと伝えられているのだ。「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命由緒古くは相模の国一の宮の寒川神社の御分霊を祀って寒川神社と呼ばれていた。しかし、創立年代はくわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治5年(1189年)閏4月30日、奥州(岩手県)平泉衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は腰越の宿に着き、そこで和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」山岳信仰の石碑群。右から・「御大典記念 永代御供米三俵」と刻まれた石碑。・「八海山大神」碑。 八海山(はっかいさん)は、南魚沼地方に位置する、木曽御嶽信仰の霊山である。 古くから信仰の霊山であり、中世には越後三宮として知られていたが、江戸時代後期に、 木曽御嶽山を中興した人物の一人普寛が、八海山山麓居住の泰賢を弟子としてともに 八海山を開山し、八海山は木曽御嶽信仰の霊山となった。・「御嶽大神」碑。 昭和9年9月に建立。医薬の神様として昔から信じられてきた木曽の御嶽大神を祀り、 病気の苦しさを和らげるよう祈願したと。・「三笠山大神」碑。 御嶽山の前山である三笠山は王滝口独特の霊場で、その山容が御笠をふせて形からその名が 付けられており、道中安全、交通安全の御神徳がある と。スリムな狛犬(右)。こんなに小顔なのも珍しいのでは。一角の狛犬(左)。石段を上り、社殿への参道を進む。参道左手には義経公に纏わる「齋源義経公鎮霊碑」が。白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。そして右側には「義経松」碑。しかし松の姿は見あたらなかった。「源義経公鎮霊碑文冶五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衝に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御首は奥州路を経て、同年六月十三日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき。藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。」そして「拝殿」。現在の拝殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成した。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置されたと。「拝殿」の緻密な彫刻は何度見ても見事。唐破風下には、白旗神社に縁のある亀の姿が。「拝殿」前から参道を振り返る。「神輿殿」裏の見事な黄葉。 「神札授与所、 社務所」。 「義経藤(白色)」 。昨年の4月に訪ねた時の写真。そしてこちらは「弁慶藤」。 昨年の4月に訪ねた時の写真。そして「弁慶藤」の右横にあったのが「芭蕉の句碑」。「草臥て 宿かる比や 藤の花」。貞亨5年(1688年)4月11日、『笈の小文』の道中大和八木で詠まれた句。文化2年(1805年)3月、以足建立。以足は江戸の人。別号牛文庵。碑の裏に以足の句が刻まれている。「東路や華にくるまる鈴の音」ここ藤沢で詠まれた句ではないが、ここ藤沢の「藤」にちなんで建てられたものであろう。この句は『猿蓑』にも収録されている と。「芭蕉句碑草臥て(くたびれて) 宿かる比や(ころや) 藤の花 文化ニ年建」と。久しぶりに「遊行寺」そして「白旗神社」の境内・イチョウの黄葉を巡り、大いに楽しんで、帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.01.13
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山代温泉 雄山閣(BBHホテルグループ)「歴代上人御廟所」を後にして、巨大な屋根の「本堂」、宝珠を乗せた宝形造銅板葺の屋根が印象的な「回向堂」を見る。「歴代上人御廟所」越しに「小栗堂」。 そして次に訪ねたのが工事中の「宇賀神社」。 ロープが張られており、社殿には近づけなかった。宇賀神社に祀られる宇賀弁財天は、徳川氏の祖とされる有親の守り本尊と伝わります。有親は遊行十二代尊観上人の弟子となり名を徳阿弥と、長男の親氏は長阿弥と名を改めました。そして、次男泰親が独阿弥となり、三河国大浜称名寺に移るとき、遊行寺に宇賀神社を奉納しました。長阿弥はのちに三河国松平の酒井家の養子となり、独阿弥は松平家の養子となり、その子竹若丸は松平を、次男竹松は徳川信光と称しました。これが徳川家の祖先といわれる由縁です。(諸説あります)寛政6年(1764)11月に当山の大部分が焼失した際に、宇賀神殿も類焼しました。このとき、幕府より白銀30枚を再興費用としてもらい受けています。天保年間の宇賀神社再興にあたっても同様の援助がありました。現在の建物は明治13年に類焼し、のちに再建されたものです。宇賀弁財天は開運弁財天ともいわれ、俗に銭洗弁天として江戸時代から藤沢宿の人々に信仰されました。現在でも銭を洗うことによって、財福を招くと信仰されています。昭和9年7月に遊行六十七代尊浄上人によって「八大龍王碑」が建立されています。「誌出入職方一同は本山七百年記念事業より奉仕して参りましたが此の度遊山会として発足し益々本山とのきずなを固める事を誓い宇賀神に鳥居を奉納いたしました。」 「宇賀神社」から「鐘楼」へと続く参道を見る。「本堂」を「宇賀神社」前から。 「本堂」と「信徒会館」を結ぶ「百間廊下」を見る。 「百間廊下」をズームして。そして再び「回向堂」を見る。 「宇賀神社」を後にして再び墓地内から「歴代上人の御廟所」の白壁を見る。 「高瀬家累代之墓」と。 「小栗堂」を背景にズームして。 こちらは「金井家先祖代々之墓」と。 「南無阿弥陀佛」碑が並ぶ。「金井家の墓地」内には多くの墓石が。 卒塔婆も。再び「本堂」横の「長生院」からの坂道を下る。 右手奥に「地蔵堂」 。「本堂」を斜めから。 「遊行寺だより」。 再び「一遍上人像」を横から。 ズームして。そして「遊行寺」の「いろは坂」を下り「ふじさわ宿交流館」を訪ねた。 「旧東海道・藤沢宿」「藤沢広小路広小路とは、もともと「火除け地」を意味します。江戸の街ではたびたびの火災で多くの人家が焼失したので、幕府は一六五七年の明暦の大火前から火除け地を計画していましたが、護持院の焼失(一七一七年)を契機に八代将軍徳川吉宗は、この地を火除け地とし、さらに江戸市中にとどまらず、各地の重要社寺等の門前にも設定しました。藤沢広小路は、大鋸広小路 とも言われ、時宗総本山清浄光寺 (遊行寺 )門前の商家 が櫛比していた場所に設けられました。この場所は人々の往来も繁く、各地に知れ渡って、日本三大広小路の一つとも言われていました。また、東海道五十三次の中では「三曲がり 」としても有名でした。ふじさわ宿交流館 は、この藤沢広小路 の一角に建てられています。」 「掲示板」。「藤沢市ふじさわ宿交流館 ご利用案内」。 「ふじさわ宿交流館」入口。「ふじさわ宿交流館」碑。 「ふじさわ宿交流館」内部に入る。「歌川広重「東海道五十三次藤沢(隷書東海道)」が描かれた「ようこそふじさわ交流館へ藤沢宿は東海道の江戸日本橋から数えて六番目の宿場です。江戸時代には、大山道、江の島道、厚木道、八王子道(滝山街道)と、多くの道が集まる交通の要地としてにぎわいました。宿の名所としては、時宗の総本山であり小栗判官照手姫伝説の残る遊行寺や源義経の首洗い井戸、義経をまつる白幡神社などがあります。」 受付・販売カウンターを見る。「東海道中細身図会」。 「東海道五十三次細見図会」という、歌川広重が弘化年間(1844〜47年)に描いた画集。縦位置の図の上半分に各宿から次の宿までの道程を俯瞰的に眺めたものを描き、下半分には街道で見られる旅人の風俗画を描いています。「藤沢宿を通った人々近世藤沢宿にはどのような人々が行き交ったのでしようか。将軍、大名行列慶長関ヶ原戦に際して、徳川家康の軍団が通行し軍事物資の輸送が行われました。以後寬永十一年(一六三四)まで、京都・大阪などとの将軍の上洛還御の大通行が十一回ほど行われ、宿場や沿道の民衆に人馬の提供などの役担がありました。寬永十二年(一六三五)参勤交代制度が確立すると、大名行列の通行が定期的に繰り返されるようになり、宿場も次第に整備されていきましたが、宿場および周辺村落の負担も大きくなりました。外交使節朝鮮・琉球など外国使節も藤沢宿を通りました。琉球の使節は寬永三年(一六三五)から嘉永三年(一八三五)まで一八回派遣されています。琉球使は琉球国王即位を感謝する恩謝使で、将軍就任を祝う慶賀使とともに派遣されることもありました。琉球使の派遣は薩摩藩島津氏の監督のもとに行われ、多い時で一七〇人程でしたが、先導する藩士を加えると四千人余になることもありました。オランダ商館使節の参府が恒例となったのは寬永一〇年(一六三三)からで当初は正月に、寬文元年(一六六一)からは三月一日前後に将軍に謁見するようになりました。ケンベル、シーボルトらは、街道沿線の様子や風俗についてよく観察し、日記に残しました。ケンベルは藤沢で食事をして、遊行寺に指でています。またシーボルトは藤沢宿に宿泊しています。その他の公用交通日光例幣使は、朝廷から家康廟の日光東照宮礼拝のため毎年派遣された奉幣他(参議の公卿)で、正保二年(一六四五)以降毎年派遣されました。一行は五〇人程で、往路は中山道経由で、倉賀野から日光例幣使街道を通り日光霊廟に忌日前日の四月一六日に金の幣帛を奉納、帰途は江戸に寄り浅草寺に詣で、東海道を帰京しました。御茶壺道中は、宇治の御茶を茶壹に入れて将軍に献上するための一行です。これは寬永一〇年に制度化され、東海道通行は住路のみでしたが、元文三年(一七三八)からは往復東海道を通行しました。御茶壹道中は五摂家や宮門跡に準じた権威をもち、これに遭遇した大名は駕籠を降りて挨拶しなければなりませんでした。また、通行に際して、大名に優先して本陣を使用しました。天保三年(一八三二)、保上ヶ谷宿では茶壷の通行に人足五六七人、馬五五疋を要しています。なお、熱海の温泉も、はじめは東海道を通って江戸に送られ、将軍に献上されました。庶民商人、文化人、芸能者、宗教者をはじめ寺社参拝、湯治客など多くの人々が藤沢宿を通りました。特に伊勢お陰参りは時に爆発的流行があり、江戸時代に慶安三年(一六五〇)、宝永二年(一七〇五)、明和八年(一七七一)、文政一三年(一八三〇)年の四回の流行があり、その度に街道筋では混雑を極めました。藤沢宿の場合は、伊勢参拝を別として、大山、江の島・鎌倉参拝や、箱根・熱海の湯治などに向かう人々が多く通ったという特徴があります。とくに江の島参拝は、弁財天開帳の年に、より多くの通行がありました。」「東海道五十三次細見圖繪 藤澤 平塚へ三里半👈リンク下半分には、道中風俗、原野体の図、金毘羅参り、六部、修行者昼寝 が描かれている。上部には「南古立ば」「名物/あんこう/ふぐ」と記されている。その左手には「なんごの浦」の文字も見える。藤沢宿藤沢宿・東海道分間延絵図(藤沢市蔵複製)。近づいて。さらに近づいて。さらに。絵図東海道右端境川に架けられる橋が現「遊行寺橋」で、「字大鋸板橋」と記述され、その上に「高札」と記述され、下に道標と鳥居が描かれている。「藤沢宿」「慶長六年(一六〇一)、家康が発した朱印状で、各宿に伝馬を出すことが命じられ、一宿の伝馬を三六疋とし、馬数に応じた屋敷を置いたのが、近世の東海道の始まりです。東海道というと江戸から京都までの「東海道五十三次」が想い起こされますが、大津(滋賀県)から分かれる大坂までの道も東海道です。藤沢宿は日本橋から一二里一八町(約五〇キロ)、東海道第六の宿場で、遊行寺の門前町、江の島詣でや大山詣での中継地として賑わいました。天保一四年(一八四三)には人口四〇八九人、家数九一九軒、本陣・脇本陣が坂戸に、人馬継問屋が坂戸と大久保に置かれ、旅籠屋は四五軒ありました。藤沢御殿と陣屋天正一八年(一五九〇)関東に入った家康は各地に地域支配や交通の拠点としての専用の旅館・休憩施設としての御殿や御茶屋を設置しました。藤沢御殿の設置年代は慶長元年(一五九六)頃と推定されています。藤沢御殿は街道の北側、妙善寺のやや北東よりにありました。なお陣屋は御殿と同じ頃には存在していたものと推定され、代官(藤沢代官)とその部下の手付や手代が常駐し、伝馬の差配や諸般の事務を担当しました。本陣・脇本陣寛永一一年(一六三四)を最後に将軍の通行がなくなると将軍専用の宿泊休憩使節としての御殿の役割は終え代わって参勤交代など諸大名や幕府役人、勅使、宮門跡などが利用する本陣が設置されていました。本陣は門横に玄関、書院などを備えた建物で享和三年(一八〇三)当時の」蒔田本陣の規模は間口一三間(約二三・六m)、二一〇坪(六九三m2 )、部屋数一五(内上段の間二部屋、書院六部屋)、総畳数一四四畳でした。蒔田家は明治三年(一八七〇)本陣が廃止されるまで藤沢宿の本陣を勤めました。脇本陣は本陣の補助的な施設で規模は本陣に次ぎ、本陣が空いてないときに大名の休泊や幕府役人の御用宿を勤めました。平時は普通の旅籠屋でした。藤沢宿の脇本陣は、享和三年(一八〇三)に大久保町、坂戸町に各一軒ありました。旅籠屋格式の低い武士や庶民は旅籠屋に泊まりました。旅籠とは食事付きの宿で飯盛女を置く飯盛旅籠と置かない平旅籠とがありました。また食糧持参で燃料代(木賃)を支払って泊まる宿を木賃宿といいました。藤沢宿の旅籠屋は地名にも残されているように大久保町の一部「旅籠町」を中心に立ち並んでいました。軒数は享和三年(一八〇三)四九軒、天保一四年(一八四三)四五軒でした。旅籠屋の規模は様々で、多くは畳数二〇~三〇畳ほどの小規模の旅籠屋が全体の六割以上を占めていました。宿場には休憩施設としての茶屋もありました。茶屋は部屋を建具で仕切る事を原則とした施設であった。茶屋では飲食を提供するほか地元の名産品を販売するところも多かった。問屋場宿場の役割として休泊と並んで重要なのが人馬継ぎ立てです。宿場において人馬継ぎ立てを行う場所を問屋場といいその最高責任者を問屋といった。藤沢宿の問屋場は大久保と坂戸に各々一箇所あった。問屋場には問屋のほか年寄(問屋の補佐)、帳付(人馬の割り振り、賃銭の記帳)、馬指(馬に荷物を割り当てる)、人足指(人足に荷物を割り当てる)、出迎役(御用通行する武家や公家を境まで出迎え宿場へ案内する)、下働(問屋場の雑用、使い走りなど)が勤務、宿場全体では四〇名が間屋場に勤務していた。帳付以下は間屋が雇った奉公人であった。間屋場は明治になって伝馬所と改称され明治五年(一八七二)に廃止された。なお間屋は人馬継ぎ立て業務にともなう村々への助郷役や街道掃除役の割当て、継飛脚などの業務を担当した。寺院・堂宿場の寺院は通常宿泊するところではないが、特別の大通行があり宿が不足した場合は下宿として使用される寺院があった。藤沢宿では常光寺と永勝寺が宿泊できる寺院であった。また庚申堂、地蔵堂などは貧しき旅人が雨露を凌いだり、行き倒れ人の収容・埋葬施設としても機能した。見付藤沢宿の「見付」は「上居」ともいい、江戸方は遊行寺の東門付近、京方は台町にありました。見附から見附までが宿場の範囲でその目印でもあった。ちなみに藤沢宿の長さは一二町一七間(約一三四〇m)でした。高札場藤沢宿の高札場は万治元年(一六五八)に大鋸橋際に設けられた。道標宿場には立石(傍示)や道標があり、境界を示し、旅人を目的地へと導いた。江戸時代の絵図には、遊行寺の正門前に立石が記されている。この立石は現在も遊行寺の正門に立っている。また大鋸橋側には、江の島道鳥居と並んで道標が描かれている。この道標は江の島道の道標で安藤広重の浮世絵などにも描かれています。枡形藤沢宿大鋸町で東海道は右左に屈曲し大鋸橋を渡ってさらに右に折れている。また宿場かられるが引地川の手前でも東海道は左に屈曲して引地橋にかかる。こうしたクランクは枡形の変形で東海道が設置された当初の軍事防衛上の必要から設けられたものです。」『東海道五十三次(狂歌入東海道)藤澤』 「うちかすむ 色のゆかりの ふち沢や 雲井をさして 登る春かな 松吟庵清風」境川に架かる「大鋸橋」でここが旧東海道。左にある鳥居が江の島道の入口の「一の鳥居」。旧東海道は「大鋸橋」を渡り、右折して平塚宿に向かっていたのである、 「東海道藤沢宿遺跡①~⑩は発掘調査地点第10次調査は、本館建設の事前調査」 薄いオレンジ部分は「藤沢御殿跡」」 「現代に姿を現した藤沢宿の痕跡江戸時代に東海道の宿場町として賑わいを見せた藤沢宿の痕跡が地下に眠っていることがわかったのは、一九九〇年代の中頃になってからです。これにより、藤沢市教育委員会は平成九年(一九九七)一月、神奈川県埋蔵文化財台帳に藤沢市の新たな遺跡として『東海道藤沢宿遺跡』を登録しました。藤沢市の南部には、湘南砂丘と呼ばれる砂丘地帯が拡がっています。ここには東西に延びる砂丘が複数存在していますが、藤沢宿はこれらの砂丘の中でも最北の砂丘列と境川に挟まれた緩やかな斜面地に立地しています。東海道藤沢宿遺跡に初めて調査のメスがはいったのは、遺跡として登録されてすぐの平成九年(一九九七)八月のことです。共同住宅建設の際におこなわれた第一次調査では、戦国時代から江戸時代にかけての五時期の生活の跡が確認されました。江戸時代だけではなく小田原北条氏が支配していた時期の痕跡が確認されたことは大きな成果でした。つづく第ニ次調査が平成十五年(二〇〇三)に、第三次調査が平成十六年(二〇〇四)におこなわれ、藤沢宿の様子が考古学の見地から徐々に明らかとなってきました。しかし、調査は主に宿場の中央から東側の地域にかけてのものであり、西側がどのような姿であったか、まだ明らかになっていません。西側の様子を知るきっかけとなった調査は平成十九年(二〇〇七)におこなわれた第四次調査です。この調査では江戸時代から大正時代にかけての生活の痕跡が確認されましたが、その中で注目されたのが、宝永四年(一七〇七)に富士山が噴火した際の火山灰を廃棄した土坑(大きめの穴)です。これまでの調査からも火山灰の廃棄土坑は確認されていましたが、穴が掘られていた場所は東海道から離れた敷地の裏側にあたるような場所でした。しかし第四次調査でみつかった土坑は東海道沿いに掘られており、また噴火前後に人々が住んでいた痕跡は確認されませんでした。天保十三年(一八四二)に記された『鶏肋温故(けいろくおんこ)』という文献には第四次調査地点周辺より西側を「坂戸新宿」と呼んでいたことが記されています。おそらく宿場の中でも新たに発展した場所を新宿と称したのでしよう。文献と発掘の成果が一致した貴重な調査となりました。なお第四次調査地点の北四隣りに位置する第六次調査ではこれまでに文献からは確認できなかった幕未期と考えられる最大幅約四・五の水路が確認されました。この水路や周辺のゴミ穴からは「伏見屋市兵衛」をはじめ様々な店の名前が記された荷札が大量に出土しました。今後これらの荷札を研究することにより、藤沢の物流の一端が明らかになることが期待されます。」。 「東海道分間延絵図」。「江戸時代の旅人のすがた江戸から京まで東海道を旅するのに、江戸時代には約一四日間ほどの日数を要したといわれています。一日に約四〇キロを往かなければなりません。季節にもよりますが、早朝から歩き始め日没前には投宿しなければならないと考えると、結構な強行軍です。道中記を片手に街道筋の名所旧跡を巡っていますが、実際には通りすぎたというのが実感だったのではないでしようか。それでも今日とは異なり、一生に何度も体験することのない旅となれば、人びとは懸命に歩き、見て、味わい楽しんだのでしよう。ここで、当時の旅人が携行した旅行用品についてみてみましよう。江戸時代に刊行された旅行の心得を説いた書物『旅行用心集』には、矢立、扇子、針、懐中鏡、日記手帳、櫛、鬢付油、提灯、蝋燭、火打道具、懐中付け木、麻綱、印板が記され、その他に革袋、胴乱、鉤が図示されています。また、これら以外にも鋏・小刀・物差・ぶん回し(コンパスのような道具のことです)・耳掻き・毛抜き・千枚通しなどの七つ道具、弁当箱に方位磁石などがあります。今日の旅行用品とほとんど変わらないようにもみえますが、早朝出発や仕方なく夜道を歩かなければならないときには、やはり提灯や蝋燭が必要です。道脇で弁当を食べたり、木賃宿(燃料代だけを支払って宿泊する宿屋)で炊事をするにも火打道具に懐中付け木が必要でした。それから、方位磁石。不思議でもなく、実は方位磁石の果たす役割は大きかったのです。「東海道分間絵図」をみると、図中にしばしば方位が表示されています。つまり、絵図形式の道中記も同様ですが、紙の天地の幅が限定された図鑑の場合は、東海道は一本道として描くことになってしまいます。実際は、場所によっては南北に、あるいは東西に曲がりくねっていた道を右から左へ描いたため、宿場や名所旧跡などを除くと、例えば富上山や大山などの遠め近めの山などが目印となりました。そこで、自分がいる場所からそれらの目標が果たしてどのように見えるかを描き、現在地を確認してもらうために方位が側に記されていました。そこで、旅人は図と方位磁石を合わせてどの方角にどのように富士山が見えるかで、自分の現在地を確認したのです。こうした絵図中に方位を表示する方法を表示する方法は江戸市中の絵図にもみられるところから、ちょっとした散歩でも方位磁石は必須アイテムとなっていたにちがいありません。」 「小栗判官と照手姫「東海道名所図会 巻の六」東海道名所図会のさし絵添え書小栗小次郎は鎌倉権現堂にて強盗に出会い既に毒酒にて殺さるべきを遊君照手が貞操にて夜陰に忍び出竹林の荒馬に乗り藤沢の道場へ駈け入り危急の難を逃れたる これ馬上の達人にして王済が錦障泥を惜しむの類にあらず「小栗判官と照手姫 「東海道名所図絵 巻之六」」。「小栗判官」の物語は、ふるくから説経節(せっきょうぶし)として語られ、江戸時代には人形浄瑠璃、歌舞伎などの題材となり、登場人物や背景もさまざまに変えて上演され、大変流行しました。そして、江戸時代後半に庶民の物見遊山の旅行がさかんになると、物語の重要な場面で、「藤沢の上人」が登場することから、東海道を旅する人々は遊行寺や長生院をたずねることを楽しみにするようになりました。寛政9年(一七九七)に刊行された名所案内である「東海道名所図会」には、小栗判官照手姫の物語が藤沢に伝えられた話として、次のように紹介されています。 相模の豪族横山の屋敷に宿をとった小栗判官が、金品目当てに毒設されそうになりますが、 その場に居合せた遊女の照手姫に助けられて、荒馬の鬼鹿毛を乗りこなして遊行寺へ逃れた・・実はこの話は、小栗判官の物語の様々な筋書きの一例にすぎません。現在も清浄光寺(遊行寺)の北側には、照手姫が開基となったという長生院があり、小栗判官主従や照手姫の墓、馬具などゆかりの品々を伝えるばかりでなく、「小栗略縁起」という小栗判官物語も伝えています。また、西俣野には「小栗判官絵解き」(花応院)や、小栗判官が埋葬されたという小栗塚跡などがあります。」 「歌舞伎役者が演じる小栗判官三代豊国 「役者見立 東海道五十三駅 藤沢 小栗判官」 「差上申手形之事この文書は、信州(信濃国・長野県)伊奈(伊那)郡福地村(長野県高遠付近)の住人である三四郎と營太郎が、現在の群馬県沼田の半兵衛方に所用のため旅行するので、関所を通してくれるよう、両名の居住する村の名主等が、慶応元年(1865年)差し出したものです。」 「差上申手形之事 内藤若狭守領分 信州伊那郡福地村 三四郎 榮太郎右之者此度上州沼田林屋半兵衛方迄用事有之ニ付罷越候間 其関所無相違御通シ被遊被下候以上 慶応元丑年 右村 名主 与兵衛 年寄 弥次右衛門 組頭 儀助横川 御関所 御役人衆中様」 「旅道具枕 むかしはまげを結っていたので、寝ている間に髪が崩れないように首の下に枕を当てました。旅行には小型の枕を持参しました。盜難対策に貴重品を入れる胴乱(もの入れのこと)が付いた枕もありました。」 「状箱誰もが気軽に旅に出ることができなかった時代、旅先に届ける手紙を預かりました。雨や汗で汚さないように、状箱に入れ、油紙でつつみました。」 「提灯日本でロウソク(和蝋燭)が作られるようになったのは、今から600年前、江戸時代より前で、外出時には提灯に入れて使われました。街灯が無い時代には、夜道を歩くときに欠かせないものでした。旅行者は、小型の提灯を持ち歩いていましたが、火を大きくできないので、あまり明るくなかったでしよう。」 「早道お金(銭)を入れたり、火打道具(火打ち石十火打金)などを入れて、帯に挟んで持ち歩く袋。」 「火打金火打鎌ともいう。火打金は鋼鉄の板で、これに火打ち石を打ち付けて火花を出し、モグサや木くずなど(火口という)に火をつけて、火種にする道具。帯に挟んで持ち歩くように、根付けが付いている。男性の装身具でもある。」 館内に展示されている藤沢宿(大鋸町地区)のジオラマ。大鋸橋。宿場町の時代は遊行寺橋の場所に架かっていた橋を大鋸橋と呼んでいた。遊行寺門前から大鋸橋を手前に向かって渡ると、左手に江の島道が延びている。右側の大きな橋が現在の国道1号の「藤沢橋」。江戸方面からの旧東海道は現在の「藤沢橋」手前で右に折れ、その先の「大鋸橋」で境川を渡り、直ぐに右折し藤沢宿の街を通過し平塚宿方向に延びていたのだ。「朝櫻楼国芳/歌川国芳「本朝武優鏡」源義経」。 「藤沢の義経伝説『吾妻鑑(あすまかがみ)』(鎌倉幕府の記録)によれば、義経は文治五年(一一八九)閏(うるう)四月三〇日に頼朝の意を受けた藤原泰衡(やすひら)に攻められ、衣川の館で自害したと書かれています。まだ三一歳の若さでした。そして、同書の六月一三日の項には、泰衡の使者新田高平が義経の首を腰越の浦に持参し、首実検のために和田義盛・梶原景時等が遣わされたとあります。頼朝は、和田・梶原からの報告を聞いたのみで、義経の首は見ていないと言われ、それから義経の首がどのように扱われたのかは史書には見えません。腰越の浜に捨てられたという言い伝えもありますが、『鎌倉大日記』という書物の記載の中には、「閏四月三十日義経於衣河館自害、五月十三日首上鎌倉被埋藤沢」と書かれています(五月十三日は六月の誤りかも知れません)。藤沢に伝わる伝説では、腰越の浜に捨てられた義経の首は、しばらくして境川をさかのぼり、金色の亀の背中に乗って、白旗川に流れ着いたと伝えられています。江戸時代の文政一三年(一八三〇)に、小川泰堂が著した、藤沢の郷土史『我がすむ里』には、 その頃、藤沢の川辺に、金色なる亀、泥に染みたる首を甲に負い出たり。 里人驚きて怪しみたるほどに、側(かたわら)にありける童児たちまち狂気のごとく肱(ひじ)を はり、『我は、源義経なり、薄命にして讒者(ざんしゃ)〔梶原景時のこと〕の毒舌にかかり、 身は奥州高舘の露と消えるのみならず、首さえ捨てられ怨魂やるかたなし、汝等(なんじら)、 よきに弔(とむら)いてくれよ』と言い終わりて倒れぬ。 諸人恐れて、これを塚となせり。また、首洗井戸については、 白旗横丁のうちにあり、文治五年の夏、彼の義経公の御首をあらい清めし水というと書かれています。義経に関係する伝説は、各地に存在しますが、死後のものはほとんどなく、藤沢に残されたものは貴重な伝説と思われます。小田急線藤沢本町の駅に近い白旗交差点のそばの公園の片隅に、「伝源義経首洗井戸」と「九郎判官源義経公之首塚」の碑が残されています。また、義経の首(みしるし)は、文治五年に近くの自旗神社に葬られたとされ、同社は宝治三年(一二四九)に義経を祭神として合紀し、名称も白旗神社となったと伝えられています。藤沢の旧宿場地域には、先に挙げた史蹟のほか、自旗神社境内の義経松碑(松は亡失)、弁慶のカ石、合紀の碑、荘厳寺の位牌、常光寺裏山の弁慶塚等が残されています。「浮世絵に描かれた藤沢宿」 初代広重「東海道五十三次之内 藤澤 保永堂版」 製作時期1832~1833年。江の島一ノ鳥居付近。背景の小山は遊行寺。鳥瞰図「湘南海岸」。 鵠沼海岸在住のデザイナー、市川勝典さんが、湘南の全景を描いた「鳥瞰図」であると。作品は魚眼レンズ越しに覗いたように丸みを帯びており、湘南の観光スポットを中心に遠くは富士山や伊豆半島まで一望している。「道~藤沢宿を通る道 藤沢宿からのびる道~●東海道 江戸と京都をむすぶ主要道路で大名の参勤交代をはじめ、旅人たちや物資・手紙などが 行き来する重要な道路でした。●厚木道 ●八王子道 藤沢宿から北西の厚木へ通じる道と、北の八王子へ通じる道です。●鎌倉道 藤沢宿から東へ向かい鎌倉へ通じる道で、今の柄沢を通る道と手広を通る道があります。●江の島道 遊行寺前の橋のたもとから南へ江の島まで通じる江戸時代の大人気観光ルートでした。●田村通大山道 西へ向かう東海道の途中から分かれて平塚の田村を通り大山不動尊へ通じる道です。 数人がまとまって参詣する「大山講」が盛んでした。」 「旧東海道藤沢宿近隣宿場マップ」 「宿場 ~藤沢宿の近くにある宿場~」 戸塚宿 江戸日本橋から五番めの戸塚宿は、ひとつ前の保土ヶ谷宿とともに 江戸から最初の宿泊地になることが多く、賑わいました。 藤沢宿 藤沢宿は東海道で六番めの宿場です。 鎌倉、江の島、大山など各地へ通じる道が集まる交通の要衝でした。四ツ谷の立場 宿場と宿場の間には「立場」という休憩所が設けら茶店などもありました。 四ツ谷は大山道への分岐点でもありました。平塚宿 相模川(馬入川)を渡った次の宿場は平塚宿です。水運も盛んで、 船で厚木方面へ上る大山参詣のルートもありました。大磯宿 高麗山(湘南平)のふもとを過ぎた先に次の宿場大磯宿があります。 曽我物語の虎御前や西行法師ゆかりの鴫立庵(しぎたつあん)など 歴史物語に彩られた宿場です。「浮世絵に描かれた藤沢・東海道名所之内 ふちさハ 遊行寺 歌川貞秀・東海道五十三次之内 藤沢 歌川広重・東海道 七 五十三次 藤沢 歌川広重」 上:「東海道図屏風」六曲一双(静岡市蔵) 江戸時代(17世紀) 静岡県指定「東海道図屏風」左隻。東海道は古代からある道ですが近世に入って徳川家康により整備された。江戸時代、歌川広重や葛飾北斎が描いた東海道五十三次の浮世絵は有名。この東海道図屏風は、1枚の屏風が6つの面で構成されている。そして左右2枚で一対になるようになっている。こういった屏風を「六曲一双(ろっきょくいっそう)」と呼ぶ。屏風の枚数の単位は「隻(せき)」で、右隻は向かって右側、左隻は左側に並ぶように置く。画面全体に広がる金色の雲と青々とした山並みが印象的。「東海道図屏風」右隻。下: 右上の江戸城に向かって進む朝鮮通信使一行が中央から左側にかけて描かれている「藤沢宿と朝鮮通信使朝鮮通信使とは、江戸時代に徳川将軍の代替わりの際などに、朝鮮王国から日本(徳川幕府)へ遣わされた外交使節のことです。使節の往来は一六〇七年(慶長一二年)から一八一一年(文化八年)までの全一二回でした。二回目(京都まで)と一二回目(対馬まで)を除く一〇回は東海道を通行した江戸への往復で藤沢を通過し、そのうち九度(往復で一八度)藤沢宿に宿泊しています。通信使は国賓待遇の使節でしたので、大名や公家と同じく宿場の本陣(大名など高家の宿泊所として指定された宿)に宿泊しました。使節一行と随行する大名関係者は総勢五〇〇人を超え、本陣のほか、宿内の主だった旅籠や寺院に分宿しました。一七一九年(享保四年)の通行の際には、帰路、藤沢宿を通過したのちに沿道から通信使の駕籠に蜜柑が提供され、一行が喉を潤したという友好交流の記録(申青泉「海游録」)も残されています。通信使の姿を伝える資料として様々な絵画が知られていますが、ここに掲げる「東海道図屏風」(静岡県指定文化財。静岡市蔵)もそのひとつです。六曲一双の右隻右上の江戸城に向かって、品川宿あたりから、チャルメラを吹く先触れや使節(正使)を乗せた輿などが生き生きと描かれています。華やかな外国使節の通過を見て、街道沿いの人々は様々な刺激を受けたことでしよう。」 「歌川広重 東海道堂遊歴双六 恵比寿屋庄七版」。「東海道五十三次と藤沢名物東海道五十三次とは、江戸時代の五街道のひとつである東海道に、江戸日本橋を起点に京までの間に置かれた五三の宿場のことです。江戸時代後期には誰もが安全に旅行できる環境が整い、社寺参詣を理由とした物見遊山が庶民の間にさかんになりました。旅は庶民にとっての、一生に一度の娯楽になりました。歌川広重が幕府の行列に同行して東海道を旅した際に行った写生をもとに、天保四年から五年(一八三三~一八三四)に制作した「東海道五十三次之内」は、それ以前は人物画が中心であった浮世絵に対して、風景を叙情的に描いた版画として大好評となりました。その後、他の版元も後を追って、五十三次を一組にした名所絵が次々に版行されました。東海道五十三次の名所絵を一枚にまとめ、道中訪ねるべき場所や、知っておくべき名物を描いて仕立てた「道中双六」も各種制作されました。「東海道遊歴双六」は嘉永五年(一八五一)に広重が制作したもので、各宿場の名所・名物を紹介しています。藤沢宿の名物は「砂糖漬」とあります。これは藤沢宿の和菓子屋が販売した防風などの砂糖漬のことを指しているのでしよう。防風とはハマボウフウのことで、海岸の砂地に自生するセリ科の植物です。砂糖漬のショウロもまた湘南地方の名物だったようです。ショウロは手入れのされたクロマッ林に生するキノコです。砂糖が高級品であった時代の高級菓子だったのでしょう。江戸時代の記録に残された藤沢宿の名物は、これらのほか「ひしこなます・さざえ・あわび・弁慶餅」があります。「ひしこなます」のひしこがシコイワシのことであれば、海岸部で漁師が作って食べていたイワシのぬたでしようか。さざえやあわびは、藤沢宿から参詣道が分かれる江の島詣でのみやげ物として有名で、浮世絵の美人が手に提げていたりします。弁慶餅というのは、どんなものだったか、今日ではわかりません。」 「歌川広重 東海道五十三図会 七 藤沢 弘化四年~嘉永五年(1847~1852)江の島道への分岐点となる藤沢宿で、江の島みやげを持った美人が描かれています。美人の旅支度は軽装ですが、駕籠に乗ってきたからなのでしょうか。丸い折詰に入っているのは江の島名物アワビの粕漬、その横には有名な員細工である貝屏風(畳んである)が描かれています。」 「東海道五十三次之内 藤澤圖 三代 歌川豊国(国貞)」 「五拾三次景色入女画」シリーズの一つで、バックの風景画は広重の保永堂版東海道に非常によく似ています。保永堂版に描かれた時間を少し進めたような感じです。後ろの小山は遊行寺で、大鋸橋(現遊行寺橋)付近を表しています。「東海道ってどんな道?近世の五街道・東海道・甲州街道・中山道・日光街道・奥州街道」 「藤沢市ふじさわ宿交流館」のもう一つの入口。 そして「藤沢市ふじさわ宿交流館」の前にあった「藤沢宿高札場跡」。昔の場所の遊行寺橋(旧 大鋸橋)たもとにあるのは 史跡跡の説明板のみとなっていた。藤沢宿の高札場は 高さ:2間(約3.6m) 長さ:3間(約5.4m)とのことなので 丁度 石垣から上の部分が地面にあったと思われる。「藤沢宿の高札場東海道藤沢宿は鎌倉郡大鋸町と高座郡大久保町・坂戸町の三町からなりますが、郡境に境川が流れており、そこに架かる遊行寺橋(旧大鋸橋)のたもとの大久保町に高札場がありました。江戸幕府が作成した「宿村大概帳」によると、藤沢宿の高札場は間口三間(約五・四メートル)、奥行一間(約一・八メートル)、高さニ間(三・六メートル)の大きさでした。」 「高札とは高札とは、法令・禁令などを板札に墨書し、町辻・橋詰など人目につきやすい場所に掲示したもので、制札とも言います。江戸時代以降、明治初年までの代表的な高札としては、正徳元年(一七一一)の五枚の高札(忠孝の奨励、切支丹禁制、火付・火事場取締、駄馬賃銭の制、毒薬・にせ薬売買の禁止)や、明治維新とともに新政府から出された五傍(五倫道徳遵守、徒党・強訴・逃散の禁、切支丹邪宗門の厳禁、万国公法履行、郷村脱走の禁、の五枚)の掲示などがあります。」 「定一、藤沢宿より駄賃幷人足賃銭 戸塚江 荷物壱駄 八拾六文 乗掛荷人共 同断 軽尻馬壱疋 五拾八文以下 略」 「東海道藤沢宿について藤沢宿は、慶長六年(一六〇一年)に東海道の宿場として設置され、後に戸塚宿、川崎宿が追加されて、江戸から数えて東海道五十三次の第六番目の宿場となりました。古くから清浄光(遊行寺)の門前の町として人が行き交う「藤沢」は東国、西国や北相、三浦半島などをつなぐ交通の要衝 でした。清浄光寺の東側に江戸側の見附(江戸見附)と小田急江ノ島線を越えた西側あたりに京都側の見附(京見附)があって、江戸時代、この範囲が藤沢宿でした。」 そして道路脇の塀の蔦の紅葉を楽しみながら「藤沢市ふじさわ宿交流館」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.12
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そして正面に見えて来たのが、時宗総本山である「清浄光寺(通称:遊行寺)」本堂裏手にある「長生院(ちょうしょういん)」。 「長生院 小栗判官墓所」「堀田家 稲葉家 酒井家 墓碑」案内板。「藤沢市指定重要文化財(建造物)昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定 時宗板碑(じしゅういたひ)板碑とは卒塔婆の一種で、鎌倉時代から安土挑山時代頃にかけて主に関東地方を中心として盛んに造立されました。長生院の本堂に安置されている板碑は、延文元年(一三五六)の銘がある板碑(全長110cm)と、永和三年(一三七七)の銘がある板碑(全長94cm下部欠失)のニ基があり、いずれも南北朝時代のもので、緑泥片岩製の武蔵型板碑と呼ばれるものです。江戸時代末期に時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の境内から発掘されました。時宗板碑は「南無阿弥陀佛」の名号を刻みつけたものが多く、揩書体のものと行・草書体のニ系統がみられますが、こちらの二基は揩書体で刻まれています。 令和五年(二〇二三)三月 藤沢市教育委員会。」本堂の中のガラスケースの中に納められて。「藤沢市指定重要文化財(彫刻)平成八年(一九九六)三月一日指定木造阿弥陀如来坐像長生院の本尊であり、平安時代後期の作と推定される市内屈指の古仏です。像高は約53cm、檜材の寄木造で、上品下生印(来迎印)を結ぶ典型的な定朝様の尊像です。定朝様とは仏師定朝からはじまる仏像彫刻様式のことで、柔らかな曲線や彫りが浅く流れるような衣文(えもん)が特徴とされ、本像も柔和で優美な印象です。平安時代後期は極楽往生を願う浄土信仰が盛んであり、各地で制作された阿弥陀如来像には人々の極楽への願いが込められています。 令和五年(二〇ニ三)三月 藤沢市教育委員会」 本尊:木造阿弥陀如来坐像「平成8年(1996)3月1日・藤沢市指定重要文化財(彫刻)指定。像高52.5cm、臂張:30.7cm、膝奥28.3cm、頭長18.8cm、膝張40.0cm、腹厚16.3cm、檜材寄木造、彫眼/長生院の本尊。螺髪は彫出、木寄せは、頭と躰を共木で造り、首で割り矧ぎ、更に前後に割り矧いでいます。頭部や面部は丸みを帯び、面相は穏やか、体部はゆったりとしていますが胸は薄く衣文の彫りは浅く整えられています、定朝様の作風が窺われ、平安後期、12世紀の作と推定される市内屈指の古仏です。」とネットから。正面に「長生院」の「寺務所」。 そして「長生院」の「本堂」。 「小栗堂」に近づいて。寺伝によれば正長元年(1428)頃に照手姫は太空(たいくう)上人の弟子となり、剃髪受戒(ていはつじゅかい)をうけて長生尼と号しました。永享元年(1429)に閻魔堂(えんまどう)のかたわらに草庵を結んでこの処に住まわれたことにより閻魔堂を長生院(ちょうしょういん)と改称して遊行寺の支院となりました。開山は太空上人であり、天正の頃に類焼し、元和年中に再興されています。また年月不詳ですが、享和の頃に復興したといわれています。明治13年11月26日夜の大火によって類焼し直後に仮建築を行い、大正5年に本堂・庫裏を建築、大正12年9月の大震災には後の山が崩れその土砂に圧倒され、庫裏は全壊、本堂は半壊の状態でした。そして同15年2月5日に起工し同7月18日に竣工(しゅんこう)しています。現在の本堂は平成3年に落成したもの。扁額「小栗堂」。 「内陣」。 応永29年(1422)常陸小栗の城主「判官満重」は足利持氏の攻めにより落城、その子「判官助重」が家臣11人と三河に逃げ延びる途中にここ藤沢で横山太郎に毒殺されかけた時、妓女「照手」が「判官助重」一行を逃がし「遊行上人」に助けられたことでゆかりが深い。正長元年(1428)に照手姫は太空上人の弟子となり、剃髪受戒をうけて長生尼と号した。永享元年(1429)に閻魔堂の傍らに「草庵」を結んでこの地に住まわれ閻魔堂を「長生院」と改称された。浄瑠璃で名高い「小栗判官」は家名を再興し「照手」を妻にした。そのゆかりで「小栗堂」と言われている。「助重」の死後に「照手」は長生尼として助重と家臣11人の墓を守り続けここ「長生院」で余生を送った。現在の本堂は平成3年に落成したものだが、明治13年の大火、大正12年の大震災で本堂・庫裏を幾たびか失い再興している。「本堂」裏手には「小栗判官」と「照手姫」のお墓があり、一画には「小栗判官眼洗いの池」、その脇に名馬「鬼鹿毛の墓」までもがある。境内入口左の「知恵地蔵菩薩像」。「小栗判官 墓所入口」案内に従って進む。「(伝)小栗十四代城主・小栗孫五郎平満重と家臣の墳墓由来について桓武天皇の曾孫・平上総介高望から七代の子孫と伝えられる平重家(平上総介重幹の四子)は、平安時代の久寿二年(一一五五)に、伊勢皇太宮小栗御厨(神領)の保司(長官)となって要害の地であった小栗山(協和市宮本)に築城市、地名の小栗を称して小栗氏となり、その子孫は十五代に至るまでの三百年余の間、領主として常陸国(茨城県)の小栗地方を統治され、盛衰の歴史の中に小栗武名の威光を見るに至りました。その小栗の十四代城主であった小栗孫五郎平満重は、室町時代の応永三十年(一四二三)八月二日、関東公方 足利持氏との激戦に奮闘拙く敗れ、小栗城は落城しました。この落城により満重はその子助重と十勇家臣とともに、一族の小栗貞重等(愛知県)を頼って落ち延びる途中相州藤沢辺の悪党横山大膳の館(横浜市戸塚区東俣野)で歓待宴酒に毒をもられ、家臣十名は毒殺されて哀れにも上野が原(藤沢市)に捨てられたが、幸いにして時宗総本山・無量光院清浄光寺(藤沢市)八世(遊行十四代)他阿太空上人のご光配によって藤沢山境内に手厚く埋葬されました。幸運にも照手姫の助によってこの大難を逃れ、九死に一生を得た小栗助重は、熊野本宮湯の峰温泉(和歌山県東牟婁郡本宮町)に浴して快復し、父満重の死(応永三十三年三月十六日)後、十余年を経た嘉吉元年(一四四一年)の結城合戦(結城市)に、幕府軍の将として活躍し、その論功により再び小栗領に復しました。なお助重は、毒殺という非業の死を遂げた十勇家臣の菩提を弔う追善に、藤沢山に入り、追孝行謝恩をもって父満重と家臣の墓石を、八徳池のほとりに営んだと伝えられています。またこの施主助重が、世上有名な小栗判官と称された室町時代の武将で、小栗十五代城主・小栗助重であります(御戒名・天照院殿前金井太陽宗源大禅定門)。ここに、無念にも相州の野辺に露と消えた小栗十勇家臣の悲惨な死を哀悼し、さらにその追善への意を表して、小栗主従墳墓の概略由来等を顕彰するものです(小栗伝承藤沢編)」。前方に大小の墓石が並んでいた。 「(伝)小栗十四代城主 小栗朝重公と十勇家臣の墓」案内柱。 「小栗判官公並に十勇士之墓」案内板。更に墓碑に近づいて。中央部の背高い小栗判官満重の墓石の両側には、それぞれ 5 基の石塔が並 び、案内柱には「(伝)小栗十四代城主 小栗満重公と十勇家臣の墓」と記されていた。小栗判官満重の墓石は石造宝篋印塔型、総高166.5㎝・火成岩製。十勇家臣の墓は石造宝篋印塔型の塔身部を丸石にした石造五輪塔(宝篋印塔様集積塔・火成岩製)である。10塔のうち、1塔(総高83㎝)に「重阿弥陀仏 応永21年7月13日(1414)」の銘が入る。右側の「十勇家臣の墓」。左側の「十勇家臣の墓」。「小栗判官眼洗之池」案内板 。「小栗判官眼洗之池小栗主従墳墓に向かい右側には「小栗判官眼洗之池」と銘記した案内板 が建っており、透明度の高い清水を湛えた小池の中には観音菩が祀られてい た。小池に纏わる逸話などは記されておらず、謂れなどについて は窺い知れないが、往古の八徳池を再現したものなのか、あるいは小栗判官満重が十勇家臣の弔い・墓参の際、悲涙に濡れた顔面を洗眼した池だったのか、あるいは息子の助重が父満重や十勇家臣の墓参に際し、心身を清める禊の聖水 として使用した池であったのかなどと・・・・。小栗判官満重が八徳水と呼んでいた事が『小栗畧縁起』に記載されているとのこと。その先の鯉の泳ぐ池にはネットが張られていた。「小栗判官公並に十勇士の墓」の後ろに見事なサルスベリ・百日紅の木が。引き返して行くと「照手姫之墓」。照手姫の墓は石造宝篋印塔型の塔身部を丸石にした石造五輪塔(宝篋印塔様集積塔)、総高110㎝・火成岩製である。 「照手姫の墓」案内板。右に「奉供養七観世音菩薩」像。 「奉供養七観世音菩薩 彦七母 長五良内女講中仁兵衛内 伊兵衛母 長右エ門内 特左エ門母 半左衛門母 妙林 新 五良内 七兵衛内」。舟形光背付聖観音像を半肉彫した総高80㎝・安山岩製。左に聖観音像を半肉彫した月窓妙鏡禅定尼墓碑(総高77㎝・安山岩製)「銘 月窓 妙鏡禅定尼霊位 貞亨五戊辰歳四月廿六日」(1688)。「厄除地蔵尊照手姫の五輪塔の墓石の前に佇む、照手姫が 建立した 3 体の厄除地蔵尊。地蔵尊は、お釈迦様亡き後、この世の人々を救ってく れる仏様といわれ、道中安全の祈願のために詣でる人たちで賑わうという。照手姫自らが遭遇した道中での災難などの厄除祈願のために建立されたのかもしれないと。」 三躯とも火成岩製、総高・中央163㎝・左側157㎝・西側143㎝。右側1躯の手には穴が空けられ何かを差し込んでいた様子もうかがえるのであった。「名馬 鬼鹿毛(おにかげ)之墓」。小栗主従墳墓の脇には、満重が酒宴で難を逃れるために騎乗した「名馬 鬼鹿毛之墓」が。石造角柱型、総高104㎝・花崗岩製である。馬頭観世音菩薩を配し銘文は「宝暦五乙亥歳七月廿四日(1755)為馬神祭祠 藤澤道場」とある。馬を供養した慰霊塔は、遊行十四代太空応永23年(1416)に建立した国指定史跡「藤沢敵御方供養塔」(怨親平等碑)が遊行寺境内にあり、順次往生を謳う畜類供養との関連性も見いだせるのだと。「長生院 歴代和尚の墓」。無縫塔には「長生院 小栗堂 歴代和尚之墓」と。 「長生院 歴代和尚の墓」から「遊行寺 歴代上人の墓」を見る。 「本堂」、「回向堂」を墓地側から見る。 「回向堂」をズームして。「宗祖一遍上人御入滅七百年記念」碑。長生院小栗堂本堂再建寄進者御芳名が。 「長生院」を後にして、墓地の中の通路を「回向堂」に向って進む。 正面に「回向堂」。振り返ると、一段高い場所に「長生院」の「小栗堂」が見えた。そして「歴代上人御廟所」を訪ねた。「歴代上人御廟所 長生院 小栗判官墓所」。手前にあったのが「藤堂彦子の墓」。 「藤堂彦子の墓筑前国秋月藩主黒田長興と佐竹氏の娘であり、伊勢国久居藩主藤堂高通の正室である。遊行四十二代他阿尊任上人との親交により、当山に埋葬されている。」こちらは「美術工芸家 藤井 達吉の墓 一八八一~一九六四」。「美術工芸家 藤井 達吉の墓 一八八一~一九六四愛知県出身。近代工芸の革新を志した人物。戦後は愛知県で和紙工芸を振興した。遊行七十一代他阿隆宝上人との親交によりこの地に眠る。ニ〇〇八年に碧南市藤井達吉現代美術館が開館した。」そして中央正面に當山開祖塔、左右に歴代上人の墓塔が。ほとんどのものが「無縫塔(むほうとう)」で、それが整然と並んでいた。「無縫塔は、主に僧侶の墓塔として使われる石塔(仏塔)。塔身が卵形という特徴があり、別に「卵塔」とも呼ばれる。また、墓場のことを「卵塔場」ともいう。形式としては二種類あり、一つは基礎の上に請花をのせ、その上に丸みをおびた長い卵形の塔身をのせるものである。もう一つは、基礎の上に六角または八角の竿と呼ばれる台座の上に中台、請花、卵形塔身がのる。卵形塔身は前者のほうが長く、後者は低い。基礎の下には脚、返花座(かえりばなざ)が据えられることが多い。また、竿、中台、請花には格座間などの総力が施されている場合がある。卵形塔身は、時代によって形が微妙に変化する。なお、この卵形塔身に縫い目がない(一つの石だけで構成されている)ことから無縫塔の名がある。中世期の石塔は、それまでのもろい凝灰岩から硬質の花崗岩や安山岩の利用といった材質の変化、また関東に入った大蔵系石工の活躍、技術の進歩、大陸から入った禅宗を含む鎌倉新仏教の台頭などによって、複雑な形を持った新たな形式が数多く登場した。平安期からの五輪塔をはじめ、鎌倉期には宝篋印塔、板碑、狛犬などが新たに造られるようになった。 無縫塔も、鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式で、現存例は中国にもある。当初は宋風形式ということで高僧、特に開山僧の墓塔として使われた。近世期以後は宗派を超えて利用されるようになり、また僧侶以外の人の墓塔としても使われた。 現在でも寺院の墓地に卵塔が並んでいたら、ほぼ歴代住持の墓である。」 「當山開祖塔」。 「歴代上人」の無縫塔が並ぶ(右側)。この独特の卵型のデザインは、仏教の「宇宙の根源は無念無想」の考えからきていると言われている。すべてをつなぎ合わせると最終的には卵のような形になるとの仏教の思想を、お墓で再現したとの説が有力とのこと。また、五輪塔の「空輪」の部分を細長くデザインしたものという説もあるようだ。 「歴代上人」の無縫塔が並ぶ(左側)。新しい無縫塔が2基。遊行七十三代 他阿上人 一雲大和尚。遊行七十四代 他阿上人 真円大和尚因みに現在の上人は、遊行七十五代 一浄大和尚 とのこと。よって、この無縫塔は先代のもの。遊行七十一代 他阿上人 隆寶大和尚(右)。遊行七十二代 他阿上人 一心大和尚(右)。他阿真教(たあしんきょう)上人は鎌倉時代の浄土僧で、一遍上人を初祖とする時宗の二代目の上人ですが、一遍上人没後、彼により教団が形成されたため、実質上の時宗開祖とされているのだと。そして「歴代上人御廟所」から石名坂環境事業所の煙突越しに富士山を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.11
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時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の東門脇に建つ「小栗判官墓所入口」の石柱。石柱の先に、小栗判官の墓所のある長生院への小路が続いているのであった。右手にあったのが「諏訪神社 神輿殿」。 扁額「諏訪神社 神輿殿」。一昨年の箱根駅伝応援後の初詣時の「諏訪神社 神輿殿」内の写真。内部に諏訪神社の神輿が二基。屋根に竜の神輿(左)と屋根に鳳凰の神輿(右)左の神輿は明治の終わりから大正の頃に茅ケ崎市下寺尾から譲渡された神輿であると。明治11年頃の二宮梅澤流の製作神輿で当時、下寺尾諏訪神社の境内八坂神社として祀られていたと。そして右の神輿は平塚から譲られた神輿との言い伝えが有り、管理人の調査では平塚市真土から譲渡された神輿(明治20年、愛川町半原大工矢内右兵衛藤原高光の製作神輿で真土神社の境内八坂神社として祀られていた。)の可能性があるのだと。小栗判官の墓所のある長生院への小路を進むと左手には多くの墓石が並んでいた。近づいて。左手に「六地蔵」。 「酒井忠重逆修六地蔵供養塔酒井長門守忠重が萬治三年(一六六〇)一月十五日に逆修のために建立した六地蔵である。この付近には、古く塔頭海潮庵があり、万日堂(常念仏堂)建立のために浄財を寄進したのが酒井長門守忠重であった。この万日堂(常念仏堂)は、酒井忠重の戒名である「光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士」に因んで「光岳院」と呼ばれていた。」「逆修」とは生前に、自分の死後の冥福 (めいふく) のために仏事をすること。予修 (よしゅ) 、逆善、逆修善とも言うと。六地蔵に近づいて。その先に巨大な「五輪塔」。 この五輪塔には、「寛文六(1666)丙午歳 光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士 酒井長門守忠重 九月十八日」と記されている。忠重は、萬治3年(1660)六地蔵供養塔を建立しており、翌年には万日堂(念仏堂)をも寄進している。遊行三十九代慈光上人は羽州最上(うしゅうもがみ)の出身であることから、忠重との関係は深いものがあったのではないであろうか と。「酒井忠重五輪塔万日堂、六地蔵の寄進者酒井長門守忠重(一五九八~一六六六)の墓所である。酒井忠重は、下総市川に蟄居中に不慮の死を遂げたため、生前からの関係からこの地に葬られたようである。」 「地蔵堂」裏の地蔵様。 ズームして。小さな石仏も。「五輪塔」、「六地蔵」を振り返って。 「稲葉家墓碑」 稲葉家の家紋は、「折敷に三文字紋」、時宗の宗紋と同じ。寛永4年(1627)、稲葉正成公が真岡二万石の城主となった。正成公は、この偶然に驚く。この「折敷に三文字紋」は、瀬戸内海の大三島に鎮座する三島神社(大山祇神社とも称される)の神紋であり、大三島大明神を氏神とした越智氏の家紋となった。そして、越智氏から分かれた一族も又、「折敷に三文字紋」を家紋としました。著名なものとしては鎌倉期に河野水軍を率いて瀬戸内海を治めた河野氏、戦国期に活躍した稲葉氏、来留島氏などがあげられる。稲葉氏と一遍上人が出自した河野氏は、活躍した時代は違えども伊予越智氏から分かれた一族であり、それぞれ歴史上に名を残す人物を輩出しています。正成公は、「折敷に三文字紋」が証する稲葉家と宗祖一編上人を仰ぐ時宗との縁を大切にしたとのこと。碑面には戒名が陰刻されていたが、どなたの墓碑なのであろうか?そして「本堂」横にあった「永代供養墓」。竣工年:平成二十五年寸法 :間口十三尺奥行八尺仕様 :散骨用地下納骨棺、骨壺保管用石棚、ガラリ付きステンレス扉、 蓮華台多宝塔、内部照明、明り取りガラス窓 「永代供養塔」前から本堂前の「常香炉」方向を見る。 「永代供養塔」を正面から。こちらは、犬と猫の石像があしらわれたペット類の合祀墓。「いつくしむ」と。 犬の親子?猫の親子。ペット類の慰霊塔「蒼空(そうくう)」。人間のようなペットの名前が書かれていた。「蒼空(そうくう)」と。「本堂」、「地蔵堂」の間に「大イチョウ」を見る。そして再び小栗判官の墓所のある長生院への小路・坂を上って行った。本堂を横から。ズームして。さらに。そして右手奥にあった「堀田家三代の墓碑」を訪ねる。右手の土手の上に、一際大きな尖塔角柱型(下の写真)の5つの墓碑があった。堀田正利夫妻・正盛夫妻・正仲の墓。「藤沢山日鑑=遊行寺の日々の出来事等を記した記録」には、毎年のように堀田家からの墓参の様子が記録されている。さて、この5つの墓碑の内、直接埋葬されたのは正仲であり、正利は浅草日輪寺に、正盛は東叡山の現龍院に葬られている。そして正利・正盛の墓碑を遊行寺に建立したのは正俊。正俊は正盛の三男で母は酒井忠勝の女であり、家光の命によって春日局の養子になった。この正俊がなぜ正利・正盛の墓を遊行寺に新たに建立したのかについては明らかではないとのこと。ただ、正俊は領地を高座郡(神奈川県)にもっていたことと正利は覚阿という阿号をもっていた時宗の信徒であり、その関係から日輪寺に埋葬されたと考えられる。正俊は幕閣内においても勢力をもって来たことと、時宗の信徒として総本山に墓石を新たに建立することになったのではないかと考えられていると。正仲の墓石には「常楽院殿其阿法漢映性大居士」とあり、さらに元禄7年(1694)7月6日卒とも刻まれているのであった。「堀田正盛妻阿栗供養塔」「正統院殿華岳宗栄大姉」。「堀田 正盛 妻 阿栗 供養塔堀田 正盛の妻 阿栗(一六一七~一六七四) 酒井忠勝の娘。墓所は東京都品川区東海寺・台東区上野現龍院 この供養塔は堀田正国、脇坂安政、堀田正俊、堀田正英が延宝九年(一六八一)に建立」「堀田 正盛 供養塔」。「玄性院殿心隠宗卜大居士」「堀田 正盛 供養塔堀田 正盛 (一六〇九~一六五一)老中筆頭 従四位下 武蔵川越 藩主下総佐倉藩初代藩主。堀田家宗家初代。堀田正利の長男で母は稲葉正成の娘。正室は酒井忠勝の娘阿栗。子に長男堀田正信、次男播磨龍野藩主脇坂安政、三男大老古賀藩主堀田正俊、四男北條藩主堀田正英等がいる。春日局との関係から三代将軍徳川家光の信頼を得て、寛永十二年(一六三五)老中に就任、さらに寛永十九年(一六四ニ)下総佐倉藩に転封し十一万石の大大名となる。寛永四年(一六五一)徳川家光の死去にともない、阿部重次とともに殉死をとげた。墓所は東京都品川区東海寺台東区上野現龍院。この供養塔は堀田正国、脇坂安政、堀田正俊、堀田正英が延宝九年(一六八一)に建立」。「堀田 正利妻・萬 供養塔」「活生院殿東弌房」「堀田 正利妻・萬 供養塔堀田 正利妻の諱萬(一五八七~一六ニ七)稲葉正成の娘。春日局の継子。この供養塔は堀田正俊が延宝五年(一六七七)に建立。」「堀田正利供養塔」「正成院殿覚阿弥陀佛」「堀田正利供養塔堀田正利(正吉)(一五七一—一六ニ九)旗本 堀田正秀の五男。母は浅野長一の娘。通称 勘左衛門。正室は稲葉正成の娘萬。織田信長、浅野長政、小早川隆景、小早川秀秋に仕えた。関ヶ原の戦ののち、慶長十年(一六〇五)江戸幕府に出仕した。墓所は、東京都台東区日輪寺。この供養塔は堀田正俊が延宝五年(一六七七)に建立。」少し離れた場所にあった「堀田正仲墓所」「常楽院殿其阿法漢映性大居士」こちらは供養塔ではなく、墓石であるようだ。「堀田 正仲墓所堀田正仲(一六ニニ~一六九四)徒四位下 下総古河藩ニ代藩主。出羽山形藩主、陸奥福島藩初代藩主。大老古河藩主堀田正俊の長男。母は小田原藩主稲葉正則の娘である。正仲の後継には、双子の弟である堀田正虎が継いだ。」「堀田家三代の墓碑」を後にして、さらに進むと左手奥に、この後訪ねた「回向堂」が見えた。 さらに、小栗判官の墓所のある長生院への小路を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.10
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正面に「時宗総本山遊行寺」の巨大な「本堂」。木造銅葺きで木造としては東海道随一と言われる。関東大震災で倒壊し、昭和十二年に再建された。「時宗総本山 遊行寺(ゆぎょうじ)清浄光寺(しょうじょうこうじ)が正式の寺名ですが、遊行上人の寺ということから広く一般に遊行寺と呼ばれています。宗祖一遍上人は「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」のお札をくばりながら、日本各地をまわり遊行して踊り念仏をおこないました。この遊行寺は正中ニ年(一三ニ五)遊行四代呑海(どんかい)上人によって開かれ「藤沢道場」といわれ時宗の総本山となっています。宝物として、国宝「一遍聖絵(ひじりえ)」重要文化財「時衆過去帳」「後醍醐天皇御像」など多あります。境内には、市指定天然記念物の銀杏の巨木、国指定史跡「藤沢敵御方供養塔」、県指定重要文化財の梵艟、長生院にある小栗判官と照手姫の墓や有名文学碑などもあります。また桜・ふじ・花しようぶの名所で、観光百選の一つにもなっています。」「本堂」手前に露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の御堂に置かれた「常香炉」。巨大な「常香炉」。「常香炉」には時宗の宗紋の、「折敷に三文字紋」・「隅切三(すみきりさん)」が。河野氏の家紋「折敷に三文字」は、古代豪族越智氏が奉じた伊予国大三島に鎮座する大三島神社の神紋を用いたものである。すなわち神様に食物などを供える白木の台「折敷」に、大三島神社の「三」文字を組み合わせたものだ。折敷は三方ともいわれ、四角いものを傍折敷、 四隅を切った八角形のものを隅切り折敷、四隅が内側に入り込んだものを隅入折敷とよび分けた。一遍上人が開いた時宗のこの寺紋も「折敷に三文字」だが、 これも一遍上人が河野氏から出たことに由来したものであると。本堂に近づいて。正面に扁額。「登霊臺(とうれいだい)」の扁額は紀伊大納言・徳川治寶(とくがわはるとみ)筆。徳川治寶は「中雀門」の建立者でもある。この額はもともと惣門に掛けられていたが、明治の大火の際に救い出されて以降はここ本堂の正面扉の上に移された と。本堂の見事な彫刻をカメラで追う。木鼻も見事。天水桶には皇室の菊花紋(十六葉八重表菊)。「登録有形文化財清浄光寺 堂宇十棟・本堂 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積841㎡・御番方 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積226㎡・小書院 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積162㎡・百間廊下 一棟 木造平屋建、瓦葺、建築面積222㎡・囬向堂 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積31㎡・宇賀神社 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積3.6㎡・鐘楼 一棟 木造、銅板葺、建築面積11㎡・手水舎 一棟 木造、瓦葺、建築面積13㎡・惣門 一棟 木造、銅板葺、間口5.0m・石垣及び 一棟 石垣 石造、総延長53m 築地塀 土塀、瓦葺、総延長22m 築地塀 平成二十八年二月二十五日登録」「登録有形文化財 第14-0207~0216号」。「文化財というのは国等の自治体が、後世に残したいものとして指定し、管理を行っていくというのが一般的。それが、重要文化財指定というもの。しかし、国や自治体だけでは把握しきれないものも大多数あり、民間の建造物でも文化財としての価値が見出せるというものがあれば、緩やかでも管理していきましょうと、制度化されたものだと。自治体が指定するわけではなく、あくまで申請者が登録するという制度。どのような価値が登録の基準となるのか。1.国土の歴史的景観に寄与しているもの2.造形の規範となっているもの3.再現することが容易でないものそして、築後50年経過しているもの。」とのネット情報。「歳末別時念仏会期間のご案内歳末別時念仏会に伴い、本堂内は完全非公開となります。11/24(金)~11/28(火)」 「一ッ火」開催案内。令和五年11月27日(月)午後5:30 解説/一ツ火法要。「広い本堂が順に灯火が消えていき、やがて完全な暗闇に包まれた本堂には幽音の念仏が響きます。一遍上人以来700年間行われている修行の一つで、暗黒の世界にただ一つ灯される新たな灯明が、光輝く念仏の世界を本堂内に映しだします。法要が進むと、灯火が消され、闇の中から念仏が聞こえてきます。しばらくすると、新しい灯が闇の中から輝き、堂内を明るくし、僧侶の念仏の声が高まっていきます。一年の様々な罪を懺悔し身と心を清めます。暗闇の中から遊行上人の静かな霊音念仏が始まり、二人の僧が古式通り火打石で「一ツ火」を打ち出します。そして仏前の灯火は灯されてゆき居ならぶ修行僧の念仏の高まりとともに再び堂内は輝きに満ち溢れます。闇と光と念仏がかもし出す世界はすべての人々が導かれる極楽浄土そのものです。」とネットから。「本堂 内部」。 外陣と内陣に分かれ、内陣は僧座・尼座・鏡縁に分かれる時宗独特の様式。欄間の彫刻類が美しいのであった。扁額「清浄光寺」。「清浄光寺」の勅額は後光厳天皇宸筆。本堂須弥壇に鎮座する阿弥陀如来坐像。平安時代後期作と伝える。参拝客の数もこの日は少なく、久しぶりの参拝をしながら写真を撮れたのであった。ズームして。「いろは坂」を登りつめた処が山門跡で、明治13年に焼けるまで銅屋根の仁王門あり、「藤沢山(とうたくさん)」と書かれた東山天皇の勅額(ちょくがく=天皇などが寺院に特に与える直筆の書で記された額)があったと。そして現在は本堂内にあるとのことからこれがそうなのであろう。「本堂 内陣」の左側をズームして。「本堂 内陣」の右側をズームして。「本堂」前から境内を振り返る。ズームして。「大イチョウ」をズームして。 本柱と向拝柱とを繋ぐ見事な曲線の海老虹梁の本堂。「放生池」、「寺務所」方向を望む。 「本堂」の手前、右側にあったのが「地蔵堂」。 露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の地蔵堂。大正十二年(1923)の関東大震災で倒壊後、平成二十六年に再建。「少病 少悩 ひぎり地蔵」碑。「なでなで地蔵」。私も今更ながらであるが頭を「なでなで」。自由に鳴らせる小さな鐘。昨今、どこの寺も不用意に鐘を突いてはいけない雰囲気。この鐘は、どんどん突いて下さいという雰囲気。小さいのでいくら突いてもかまわない?、響く音も小さい?しかし音色はよかったのであった。近づいて。「地蔵堂」の絵馬かけ。 扁額「地蔵堂」。 木造で高さおよそ3メートルの「日限地蔵様(ひぎりじぞうさん)」をお祀りしている。日限地蔵 (ひぎりじぞう)は日本各地に存在する、「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩。日切地蔵と表記する例もあるとのこと。さらにお顔を。「お地蔵さんの由来地蔵菩薩は、お釈迦様亡き後、この世で私たちを救ってくださる仏様です。なかでも「ひぎり地蔵菩薩」は、日を限ってお参りをすることによって願いがかなえられるので、全国各地で信仰をあつめています。遊行寺の門前は、東海道の藤沢宿として栄え、江戸・明治・大正の頃には、道中安全をお祈りするために、お地蔵さんを詣でる人々で賑わいました。しかし、大正12年の関東大震災で遊行寺も本堂など多くの建物が倒壊し、地蔵堂も倒壊したため、応急処置を施して本堂内に安置されてきました。このたび全国宗門寺院および檀信徒皆様の協力で、平成の大修理として解体修理しましたところ、胎内から『少病少悩』等の文字と「享保六年辛丑年四月廿四日」の日付が発見され、江戸庶民の信仰がしのばれます。平成26年6月に修復を終え、関東大震災から約百年ぶりに再建された地蔵堂に安置されました。輝きを増したお地蔵さんは、偉大な法力を備え、交通安全・安産成就や子どもの成長安寧の他、病魔退散・健康長寿といったご利益を施してくださいます。平成26年9月15日 時宗総本山 清浄光寺(遊行寺)この地蔵堂は、東日本大震災を機に、震災・風水火災で亡くなられた方々の鎮魂の為に発願し建立されました。」「地蔵堂」前から、「本堂」への参道方向を振り返る。 「本堂」を。青空に黄葉の映えた「大イチョウ」を再び。 案内に従い「国指定重要史跡 敵御方供養塔」を訪ねることに。 東側からの参道沿右側・「俣野大権現」の手前にあったのが「鈴木貫介の歌碑」。「もののあわれも知らさりし 少年にてこのみ寺の 小野小町の歌を読みしか」酒井長門守忠重が萬治三年(一六六〇)一月十五日に逆修のために建立した六地蔵である。この付近には、古く塔頭海潮庵があり、万日堂(常念仏堂)建立のために浄財を寄進したのが酒井長門守忠重であった。この万日堂(常念仏堂)は、酒井忠重の戒名である「光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士」に因んで「光岳院」と呼ばれていた。」 「逆修」とは、生きているうちに、あらかじめ死後の冥福を祈って仏事を行うこと。死後に行う七七日の仏事を生きているうちに営み、冥福を祈ること。予修(よしゅう)。逆縁。逆修善。「藤沢敵味方供養塔」。「国指定史跡 大正十五年(一九ニ六)十月一一十日指定藤沢敵御方供養 総高一四九.五センチメートル 安山岩製この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永ニ十五年(一四一八)に造立されたものです。基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は、磨滅していて読みとにくいのですが、次のように解読・解駅されています。南無阿弥陀佛自應永廿三年十月六日兵乱至同廿四年於在々所々敵御方為箭刀水火落命人畜亡魂皆悉往生浄土故也過此塔婆之前僧俗可有十念者也 応永廿五年十月六日応永ニ十三年(一四一六)十月六日からの戦乱は同ニ十四年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢).刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過きる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年一月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行十四代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長四年(一五九九)高野山奥の院(和歌山県)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では、怨(数)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んています。 平成二十年(二〇〇八)二月」そしてこちらが「戰歿者供養塔」。「倶會一處(くえいっしょ) 戰歿者供養塔」 「倶會一處」とは、『仏説阿弥陀経』に出てくる「倶(とも)に一つの処(ところ)で会(あ)う」というご文(もん)で、同じ阿弥陀様の御浄土でまた共に会わせていただくという意味であると。「戦没者供養塔この供養塔は日清・日露戦争・太平洋戦争で藤沢市出身の千二十余名の英霊が眠っている。遊行七十代一求上人による戦没者慰霊名号碑と同時期に、藤沢市遺族会によって供養塔を東門右側に建立、昭和25年4月23日開眼。「倶會一處 戦没者供養塔 遊行七十世他阿一求書」とある。「倶會一処」とは、阿弥陀仏の浄土に往生して、人びとと共に一とことにいるという意味である。その後、樹木の生長により供養塔母体が破損、藤沢市、遊行寺の賛同を得、戦後六十年を記念して藤沢市遺族会が平成17年7月30日に現在の場所に移設建立した。また遺族の移住にともない他市の英霊もここに眠る。 平成17年8月7日 開眼」 斜めから。「畜霊供養塔」。 近づいて。昭和9年(1934)5月1日 高座郡農会と高座郡畜産組合が発起人となって建立された「畜霊供養塔」の書は秦堂栗原宣で、手洗鉢は高座郡南部豚商組合の寄進とのこと。「大イチョウ」をこちらからも。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.09
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「中雀門」の左にあった「黒門」から中に入ると正面に「寺務所」、左に「僧堂」、右に「御番方」が姿を現した。 「寺務所」。 ここで「御朱印」が頂けるようであった。 正面には「兵才無用(ひょうがむよう)」と書かれた巨大色紙?が。「『仏説無量寿経』というお経には、「兵戈無用(ひょうがむよう)」という言葉が出てきます。武力も武器も用いる必要が無いという意味の言葉です。この言葉が出てくる一節は、「仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよいときに降り、災害や疫病(えきびょう)なども起こらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮らし、武器をとって争うこともなくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲(ゆず)り合うのである。」とネットから。右隣にあったのが「御番方」。境内北西を占める住居部の正面中央に建つ。入母屋造銅板葺で、正面の軒唐破風付の大振りな入母屋玄関は精緻な彫刻で飾り、遊行上人の出立などに用いる。内部は六間取方丈形式で、上間奥室に床などの座敷飾りを備える。寺格に相応しい品格を備えた接客施設 と。この建物は明治13年(1880)11月の大火で類焼し、大正2年(1913)2月23日上棟された。関東大震災によって、本堂・大書院その他多くの建物と同様に倒壊したが、すぐに倒壊当時の古材をもって再建された。なおこの建物に施されている彫刻類は、一部江戸時代の彫り物をそのまま使用したのではないかと言われているのだと。屋根の下には金網で保護された鳳凰・鳥の「懸魚」の彫刻。唐破風下の向拝虹梁の上下の彫刻。扁額「御番方(ごばんかた)」。こちらには「遊戯三昧」と。自由気ままに遊びほうけること。 物事にふけって、夢中になること。 もとは仏教のことばで、何ものにもとらわれることなく、自由であることの意。「三昧」は、あることに一心になって他のことをかえりみないこと と。「中雀門」を内側から見る。懸魚の彫刻。そして「中雀門」の見事な彫刻を内側から更に追う。「中雀門」の扉を内側から見る。 「僧堂」、「寺務所」、「御番方」 を振り返る。 「放生池」手前には石碑が2基並んでいた。元禄7年(1694)五代将軍徳川綱吉の時代、「生類憐れみの令」発布にともない、次のような”おふれ”が出された。 「江戸市中の金魚(赤色)銀魚(白色)を所持いたすものは、その数など正直に報告し差し出すべし」こうして江戸市中の金魚・銀魚が集められ、この遊行寺の池に放生された。 現在も、毎年、春季開山忌に放生会などでこの放生池で行われている と。「放生池この池は一名放生の池とも称し、江戸幕府の記録である「徳川実紀」元禄七年十月の日記によれば、金魚、銀魚等を放生せんと思わば清浄光寺(遊行寺)道場の池へと命され、かっ放生の際は、その員数をしるし目付へ届出づべしと記録されている。古来より由緒あるこの池に金魚、鯉等を放生すれば、その功徳により家内の繁栄は勿論のこと長寿を保っとされている。」 『静雲』と。河野静雲の句碑『生きて居て相遇(あいあ)ふ僧や 一遍忌 静雲』。放生池の前に「魚鱗甲貝供養塔」があった。「魚鱗甲貝供養塔 遊行一雲平成九年四月遊山會」と記されていた。遊行七十三代・藤沢五十六世他阿一雲上人 平成9年(1997)遊山會 と。正面にある「太鼓堂」が水面に映り込んで。 ズームして。「放生池」の島には「聖観世音菩薩像」のお姿が。再び「御番方」、その右の「信徒会館」を振り返る。 「信徒会館」、「太鼓堂」、「聖観世音菩薩像」。「五重石塔」。そして新しくなって黒くない「黒門」出る。 左手にあった「鐘楼」👈リンク。 近づいて。この鐘楼は南北朝時代、正平11年、北朝の延文(えんぶん)元年(1356)に造られています。当時の遊行寺の住持は遊行八代他阿渡船(とせん)上人です。この上人は遊行上人として初めて佐渡に渡って念仏勧進された方で、記録によると、佐渡を巡り終わって越後柏崎に上陸、国内を遊行中、その年の12月22日に藤沢遊行寺に独住されていた遊行六代一鎮上人が入寂されています。鐘楼に脇には、この写真の左側に「円意居士」、中央に「南無阿弥陀佛」碑、そして右側に「中里 理安・理益」の墓があった。「円意居士墓境内鐘楼の前に「円意(えんに)居士供養塔」があった。円意居士は江戸鍛冶橋の小林宗兵衛の父で、浅草日輪寺にあった宗学林の建物にあたって、金500両を寄進し、また月供料として15両も施している大施主。また、『一遍上人語録』の刊行にあたっての施主としても知られた人物。この本宗の篤信に対して建てられたものは供養塔。自然石を二個積み重ねたような碑は、円意居士の人柄そのままのようだと。」 「中里 理安・理益」の墓碑。小田原北条氏によって持ち去られた梵鐘は当町大鋸の住人、中里八郎左衛門理安によって、梵鐘は無事取り戻すことができたのである。寺では遊行三十五代法爾(ほうに)上人いらい『遊行藤沢両御歴代霊簿』の裏に、代々の上人の自筆でこの功績を讃えることばと一族の戒名を載せるのが例となった。そのため遺骸も鐘の近所に埋葬されました。現在鐘楼の前には理安の墓と、その子理益の墓碑があります。「梵鐘」。この鐘は、総高168cm、口径(こうけい)92cmで、この金の池の間4面に489文字の漢文の序文と銘文が陽刻されている。その奥書には、「時也延文元年7月5日 沙弥(しゃみ)重阿 住持他阿弥陀仏 遊行八代冶工大和権守(やこうやまとごんのかみ)光連 願主沙弥給阿等 南無阿弥陀佛」と刻まれています。延文元年は北朝の年号で、南朝では正平11年(1356)。沙弥とは、時衆では出家の僧と在家の信者との中間にあり、半僧半俗的な存在で、客寮(きゃくりょう)とも呼ばれていた。冶工大和権守は、鎌倉地方の鋳物工物部氏の一族で、南無阿弥陀佛は渡船上人の自筆である。平和を願って造られた鐘ではありますが、この鐘自身も数奇(すうき)な運命をたどりました。それは永正10年(1513)1月29日、遊行寺は兵火のために全山焼失するという災難にあいました。戦国の時代の到来です。ここ相模国では伊勢長氏(北条早雲)と三浦義同(入道道寸)との戦いが繰り返され、遊行寺はその戦場となって焼きはらわれたのでした。それ以後、徳川時代になるまでの約一世紀の間廃寺同様となり、住職である藤沢上人もここに住むことができませんでした。梵鐘も北条氏によって小田原城に持ち去られました。天正18年(1590)7月小田原城は豊臣秀吉によって落城。慶長12年(1607)遊行寺の再建が完成し、遊行三十二代普光上人が遊行寺の住持となった。伽藍は再興されたが、鐘はありません。藤沢大鋸の中里八郎左衛門里安(りあん 理庵とも)という人が、小田原城主と談判を重ね、新しく鐘を造って交換するということで、その費用を負担して新しい鐘を鋳造し、古鐘を引き取って寺に寄進したのだと。寛永3年(1626)12月下旬のことと記録されていると。新しく造った鐘は小田原市荻窪の寿昌寺にあり銘文に「藤沢山清浄光寺」とのみ陰刻(いんこく)されている。「絵馬掛け」。 「おみくじ結び所」。 「大イチョウ」を振り返って。「宗祖 一遍上人像」。 ズームして。先代のものは太平洋戦争中に供出されたが、昭和45年(1970年)5月23日、林霊雲作「宗祖銅像」が仙台阿弥陀寺から寄進建立されたのだと。さらに。「本堂」に向かいながら、「大イチョウ」を振り返って。 そして登録有形文化財「手水舎」。明治100年記念として、ここ手洗鉢が新設されたとのこと。近づいて。「明治百年記念碑。住古より余ってかへる遊行寺の手洗鉢と世人の諺にまで謂われ文化財にも比すべき本堂前の手洗鉢が大東亜戦争の戦災に遭い資源不足のためにやむなく供出され、茲に25年篤志家の御賛同を得て復元いたしました 昭和四十四年 三月廿六日」とあり、発起人6名の名前が裏面に記されていた。 そしてその先にあったのが「俣野大権現」。 地蔵堂前に建つ小さな社は「俣野またの大権現」社で、埼玉県長久寺によって寄進建立されたものです。祭神は俣野五郎景平であり、開山呑海上人の兄であり、また当時の大檀越でもありました。貞和年中(1345~49)に没し、のち俣野大権現として山内の文学蔵と称される土蔵の前に祀られていました。また灯籠が一基あり、文政6年(1823)7月17日と記されていた。「俣野大権現時宗総本山清浄光寺(遊行寺)は、正中二年(一三二五)に遊行第四代呑海上人によって創建されました遊行寺は呑海上人の実兄に当る地頭俣野五郎影平公が大檀越となって広大な敷地と大殿堂を寄進され総本山としての基礎を創られたものであります影平公は貞和年中(一三四五~四九)に没しておりますが後に俣野大権現として山内に祀られ今日に至っております 平成十年七月吉日 藤沢山」 句碑。2012(H24).10月に建てられた清水 浩の句碑と。「春愁と いふ傘さして ひとりかな 浩」。一遍上人の【花の事は花に聞け、雲のことは雲に聞け、私は知らない】という有名な言葉がありますが、その教えに応える”春愁に落ちて孤独に悩んでも、人の助けを借りずに自分で自分を見詰め直しなさい”ということを俳句にしたもののようです。奇しくも一遍上人像のすぐ後ろに建てられたことに何か意義がありそうです とネットから。「提灯」越しに「大イチョウ」 、「いろは坂」方向を振り返る。 こちらからもズームして。「境内案内図」も新旧、歴史を感じることが出来るのであった。年中行事 元修正会 一月一日 初賦算 一月十二日 節分会 ニ月三日 釈尊涅槃会 ニ月十五日 釈尊降誕会 四月八日 春季開山忌 四月ニ十ニ日・二十三日 大施餓鬼法要 六月ニ十七日 薄念仏会 九月十四日 秋季開山忌 九月十四日・十五日 別時念仏会 十一月十八日~ニ十八日 減灯(一つ火) 十一月ニ十七日 大御台式 十一月ニ十人日 除夜法要 十ニ月三十一日 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.08
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「いろは坂」を上り終わり大きな「石門」前に到着。この石門は山門跡となる。「石門」前には「当山今月(11月)の行事」案内木札が並んでいた。貞秀の錦絵にも描かれた楼門の山門は明治13年(1880)に焼失。楼門に掛っていた「藤澤山」の扁額(公式サイトによると東山天皇の直筆による勅額)は本堂内にあるとのこと。 貞秀「東海道名所之内 (御上洛東海道) 藤沢 遊行寺」をネットから。「東海道の名刹 藤澤 遊行寺」の幟。石門には時宗の「宗紋・「隅切三」(すみきりさん)」が。一遍上人は延応元年(1239)、 伊予(いよ・愛媛県松山市)の豪族である河野家の次男として誕生した。 幼名は松寿丸といい、父は河野七郎通広(こうのしちろうみちひろ) 、祖父は河野四郎通信(みちのぶ )。一遍の俗名は河野時氏といって伊予国の土豪の家系。隅切と呼ばれる、4角形の隅を切り落としたような8角形の枠に、漢数字の「三」を配しており、この8角形が、食器や供物を載せる盆「折敷」(おしき)に似ているため、この枠のある紋を「折敷紋」とも呼ぶとのこと。伊予国(現在の愛媛県)の「大三島神社」の神紋でもあると。「三」の文字は大三島神社の「三」であると言われているとのこと。上って来た「いろは坂」を振り返る。当時の石段は、阿弥陀様の四十八願にたとえて、四十八段と呼ばれていた。春には両脇の桜で花のトンネルとなり、訪れる人々の憩いを今も与えている。平成19年(2007)に大改修が行われた。地元では、いろは四十八文字から、「いろは坂」の愛称で親しまれているのだ。 そして正面に真っ黄色に色づいた「大イチョウ」。この日は、この黄葉した「大イチョウ」を観るのが主目的であった。青空を背景に黄金に輝く「大イチョウ」。場所を移動して。北側は、黄葉へのプロローグの箇所も。「市指定天然記念物昭和四十六年(一九七ー)七月五日指定大イチョウ 樹高約 21m 幹回り 710cmひときわ大きなイチョウで、遊行寺境内のシンボルとなっています。境内最大の巨木は、市内で一番太い木でもあります。かつては高さが約31mありましたが、昭和五十七年 (一九八二)八月の台風で地上6mの辺りで幹が折れてしまいました。今、樹木全体がずんぐりとした形に見えるのは、この時の折損のためです。折れた幹の中は空洞で炭が入っていたので、過去に火災に遭ったことがあるようです。雨で腐らないよう折れた部分にトタン板を張って防いだところ、樹勢が回復しました。平成四年(一九九二)の調査で686cmだった幹回りは、平成二十年の計測では710cmと太くなっていました。樹齢については、指定時の調査では幹の太さから約六五〇~七〇〇年と推定されました。その後、台風で幹が折れた際に行われた折損部材の年輪測定では二五〇年だったので、それ以上の樹齢であることは確かです。ただし、イチョウの古木は根元の外周から生えた若木が育ち、元の木が枯れて中心が空洞になることがあるので、元来の樹齢は不明とせざるをえません。イチョウは中国原産で、日本への渡来は早くても十二世紀以降のこと、遊行寺の創建は正中二年(一三二五)なので、何れにせよこれをさかのぼることはないでしょう。雄株なのでギンナンはなりませんが、晩秋の黄葉はみごとです。例年十一月下旬から十二月上旬に色づきます。平成二十年(二〇〇八)九月〔藤沢市教育委員会〕」「大イチョウ」前から「石門」越しに「いろは坂」を振りかえる。「大イチョウ」の先に「本堂」。 ズームして。「本堂」を望む。ズームして。「時宗総本山清浄光寺(遊行寺)境内案内」。 近づいて。ここにも「境内案内図」。 「大イチョウ」に近づいて様々な角度から。 「遊行寺墓苑案内所」。 入口の「観音像」。上記「遊行寺墓苑案内所」の先・右手奥にはトイレがあったが・・・。『小噺「厠(かわや)」遊行寺の大イチョウ前にいるお坊さんに、おばあちゃんが話しかけました。「和尚さん。厠(お手洗い)は、どちらですか」と尋ねました。お坊さんは「そこの茶屋の後ろにありますよ」と答えると、おばあちゃんは厠に向かいました。すぐに戻って来て言いました。「和尚さん、カミがないですよ」。お坊さんはすかさず「ここは、紙ではなく仏ですよ」。お坊さんが紙をお渡しすると、おばあちゃんは「なんまいだ…」と数え始めました。』とネットから。再び「大イチョウ」を追う。 宝物館の前にあった「明治天皇 御膳水」。 「明治天皇 御膳水」。 明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになったことがあり、その時に使われた「井戸」とのこと。「御行在所日 宿泊(大書院)明治元年四月十ニ日 東征軍有栖川宮大総督御宿泊所となる 供奉員は西郷隆盛明治元年十月十日 明治天皇東幸の折り御宿泊行在所となる明治元年十ニ月九日 明治皇還幸の際御休息なされ遊行上人とご対面なさる (遊行五十九代尊教上人)明治ニ年十一月九日 明治天皇東幸の折り御行在所となる明治五年六月十八日 皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる明治五年八月三日 明治天皇・皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる明治五年八月ニ十一日 明治皇還幸の折り御宿泊行在所となる明治九年八月二十七日 皇后陛下箱根に行啓の折り御宿泊所となる明治九年十一月ニ十日 皇后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる明治十年一月十一日 皇太后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる明治十年五月ニ十一日 皇太后陛下東京に帰啓の折り御宿泊所となる明治十一年十一月八日 明治天皇北陸からの還幸の折御宿泊行在所となる 供奉員は右大臣岩倉具視・参議大隈重信 井上馨・内務省大書記官品川弥ニ郎・宮内省大書記官山岡鉄太郎(鐵舟)等 五十名明治三十四年十一月三日 東宮殿下(大正天皇)鎌倉御用邸より来山、 上人と御対面なさる(六十一代尊覚上人) 時宗総本山 遊行寺」 明治天皇が度々この遊行寺を訪ね宿泊していることを知ったのであった。「遊行寺宝物館」。 これが「袴石」。宝物館入り口の前にある袴石(はかまいし)は、もと遊行寺橋際に建てられていた、かつての江の島詣での道者がくぐった鳥居の袴石。一般に江の島一の鳥居とよばれ、最初に建てられたのは明和6年(1769)頃で、寄進者は江戸麹町の秩父屋孫七です。のちに朽ちたが再度建てられ、明治13年(1880)の大川屋火事で焼失したが、その翌年14年4月に三代目として建立されましたが、しかしこの鳥居は藤沢駅通り拡張工事にともなって取り除かれた。この袴石はその時のものです。碑には世話人として「祠官筥崎伝尹」とあります。「徳川と遊行寺」👈リンク会 期 令和5年9月23日(土)~12月18日(月)で開催中であった。そしてこちらが「寺務所」への「黒門」。 そしてその右側に「中雀門」。中雀門は安政6年(1859)に紀伊大納言徳川治宝が寄進、建立された。向唐門(むかいからもん)様式で作られている。境内の建造物の中でもっとも古く、紀伊大納言徳川治宝公の寄進により、安政六年(1859)に建てられた。 明治の大火を含め度重なる火災でも焼け残っていたが関東大震災で倒壊、その後以前の姿に復元され平成二十年四月大改修が完成した。四脚門で、高さ約6m、幅約2m70cm。「藤沢市指定重要文化財(建造物)平成二七年(二◯一五)十月一日指定中雀門安政六年(一八五九)に紀伊大納言徳川治宝(はるとみ)が寄進、建立されました。清浄光寺はたびたび火災にあっていますが、この中雀門は明治十三年(一八八〇)の藤沢宿大火の際にも焼失を免れた境内現存最古の建物です。大正十ニ年(一九ニ三)の関東大地震で倒壊したものを、引き起こして補修し、今に至っています。向唐門(むこうからもん)造りで、高さ約6.4m、幅は約2.7m(左右柱間内寸)です。正面破風及び屋根大棟側面と鬼瓦に菊の御紋、下り棟鬼瓦に徳川家の葵紋が刻まれています。勅使門としは閉門していますが、現在は遊行上人が出立帰山する時や、開山忌行列等の諸行事に合わせて開門されています。平成二九年(二〇一七)三月 藤沢市教育委員会」 正面破風及び屋根大棟側面と鬼瓦に菊の御紋が。正面破風にズームして。「中雀門」の見事な彫刻を更に追う。「中雀門」の精緻で素晴らしい鳳凰など鳥の彫刻群。そして再び「大イチョウ」を振り返って。こちらからも、北側のイチョウの葉は、まだ緑が残り黄葉のプロローグに。黒門横の板塀にも禅宗様の「火灯窓・花頭窓」を想起させる模様が。 うすねずみ色の「黒門」から「寺務所」正面を見る。 再び「中雀門」を斜めから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.07
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この日は2023年11月29日(水)、久しぶりに「遊行寺」の大銀杏の黄葉、そして境内を巡って来ました。まずは「遊行寺」の「惣門(そうもん)」。その両脇には歴史を感じさせる灯籠、その奥には石垣と築地塀も。 大きな寺号標石「時宗 総本山 遊行寺」。 提灯が並ぶ。消防車の車庫のシャッターには藤沢宿の浮世絵が描かれていた。下が本物の浮世絵。『歌川広重東海道五十三次』= 佐野喜版・狂歌入東海道・狂歌東海道 = 《 藤澤 》松吟庵清風うちかすむ 色のゆかりの ふぢ沢や 雲井をさして 登る春かな惣門前には、高さ約2m80cmの青銅製の灯籠が対になって建立されていた。青銅製の灯籠(右)。青銅製の灯籠(左)。「榜示(ぼうじ) 門前先通道幅四間二尺」と刻まれた石碑。榜示とは支配関係者が杭または石などによって、領域や領田の表示としたものを意味すると考えられ、境界のしるしに立てた杭を榜示杭と呼んでいる。 江戸時代に入り、人の往来の激しい街道筋で、天領や私領の入り込んでいるところは人々に領域の存在をはっきり知らせるため、街道の傍らに榜示杭が立てられていた と。現在の黒門は、主柱の後に控柱をもつ4本足で、屋根が無く、主柱の上部を横木が貫く大きな黒の冠木門(かぶきもん=門柱にぬきをかけたもの)。これが「遊行寺」の「惣門」。今日では遊行寺の黒門とも呼ばれているのだ。天保 10 年(1839)成稿の「相中留恩記略」挿図や明治初めの境内図では、この門は「惣門」とあって黒門とは書かれません。姿も今とは違い、冠木門に屋根がついた薬医門の形式で、基壇もある。そしてなにより黒く見えません。江戸後期の境内図で、門全体を茶色に塗ったものもあるので、やはり黒くなかったのでしょう。一説に大書院への門(現在は中雀門の隣)がもともとの黒門だともいわれ、確かにどの図でも黒く描かれています。とすればこのころ惣門は「黒門」と呼ばれていなかったのではないか とも。日本三大黒門の一つといわれますが、他の二つがはっきりせず、どうも根拠はないようです。そして、明治 13 年(1880)「清浄光寺境内絵図面明細書目」 (清浄光寺文書)の「総門」の項からは、桁行 3 間 1尺(約 570 ㎝)、梁間 2 間 3 尺(約 450 ㎝)、棟高 1 丈 4 尺(約 420 ㎝)、屋根は銅板葺きで、紀伊藩主徳川治宝が 染筆した「登霊台」の額が掛けられていたとわかりま す。「藤沢山日鑑」は文政 13 年(1830)5 月 25 日(17 巻) に、この額が届いたと記します と。「作者:歌川(橋本)貞秀東海道名所之内 (御上洛東海道) 藤沢 遊行寺文久3年(1863)」に描かれた惣門。右に「時宗總本山」と彫り文字に墨入れした大きな木札がかかっている。当本山の正式名称は、「藤沢山 無量光院 清浄光寺(とうたくさん むりょうこういん しょうじょうこうじ)」と号す。近世になって遊行寺と通称され、明治時代より法主・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の「遊行寺」の方が知られているのだ。 左に「清淨光寺(しょうじょうこうじ)」と彫り込んだ大きな木札が。そして惣門から遊行寺の境内に入り、まずは直ぐ左手奥にある墓石を訪ねた。「板割浅太郎の墓」と書かれた案内板。この墓地群は「真徳寺」の境内のようであった。「板割浅太郎の墓」。 卒塔婆には「洞雲院弥阿」の文字が。 「板割浅太郎の墓の由来国定忠治 への忠義を貫ぬく板割浅太郎(本名 大谷浅太郎 )は、大正五年(一九一六)に刊行された平井晩村 の小説『侠客忠治 』(後に『国定忠治』に改名)に登場する「板割の浅治」や、主題歌『赤城の子守唄 』が話題となった昭和九年(一九三四)公開された映画『浅太郎赤城の唄 』の登場人物として知られています。真徳寺 には忠治の元を離れた板割浅太郎の後日談が口承されています。天保十三年(一八四二)に忠治がおこした勘助親子殺害事件と大戸関所破りの後、親分であった忠治と決別、無職渡世の足を洗い、時宗金台寺 (長野県佐久市 )住職である列外和尚の弟子となり列成と名を改めます。後に遊行上人の導きにより藤沢 の地に移り、時宗総本山遊行寺の堂司(堂守)を勤める事となります。朝タの鐘つきに始まり、札売りや参拝者へのお茶の接待、境内の清掃と、精進を重ね念仏三昧の日々を送り、伯父であるとされる勘助親子の菩提を弔うのです。仏門に入り改心した姿が認められ、遊行寺塔頭である貞松院の住職を拝命したとされます。以上の口承が昭和六十一年(一九八六) 山本周五郎 が刊行した『夜明けの辻』に収載された「遊行寺の浅」の元となったとされます。後の列成和尚 は、明治十三年(一八八〇)に発生した藤沢宿大火 により遊行寺が類焼すると、老骨に鞭打ち勧進僧となり、遊行寺復興の為に各地を巡って浄財を募り遊行上人の仏恩に報いたのです。明治二十六年(一八九三)十二月三十日七十四才にてその生涯を閉じたと伝えられています。貞松院跡地に現存する墓石には「当院四十二世洞雲院弥阿列成和尚」と刻まれています。 赤門真徳寺住職「 そして右手にあったのが「眞徳寺」。 寺号標石「赤門 眞徳寺」。扁額「真徳寺」。境内に入り、「赤門」を振り返る。この大きな石碑には仏像が線刻されているようであった。「本堂」。清浄光寺の塔頭である。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。別称は赤門、鎌倉北条氏邸より赤門を寄付され以来、朱塗りの門であるためという。遊行51代一法はこの寺の檀家から出ているのだと。唐破風の屋根。見事な龍の彫刻。「三界萬霊」碑。三界とは、無色界(むしきかい)・色界(しきかい)・欲界(よくかい)。無色界の上、つまり三界を超越したところに仏様の世界が存在すると。その右隣に卒塔婆が2本。「戦災震災風水害殉難横死之諸群霊証大菩薩堤塔」 「古今大戦々死病役之諸精霊証大菩薩堤塔」の文字が。十三重石塔、天水桶を見る。「本堂 内陣」。ご本尊は阿弥陀三尊坐像。 「本堂」前、一段下がった場所にあった墓地。 そして「いろは坂」を更に進むと左手にあったのが「時宗 眞淨院」。寺号標石「時宗 眞淨院」。白壁に囲まれた参道を進むと正面に「山門」が。扁額「登龍山」。そして白壁に囲まれた参道を進む。「水子地蔵尊」。 「本堂」。清浄光寺の塔頭の筆頭である。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。歴代上人が法燈をつぐ時や、遊行から帰ってきた場合にはここで宿泊することになっていたと。近づいて。見事な彫刻の数々が正面に。彩色された龍の彫刻。牡丹の花と獅子の彫刻(右)。牡丹の花と龍の彫刻(左)。「開運厄除 毘沙門天」と。「開運厄除 福壽聖観音」と「本堂」の扉の「鳳凰」の彫刻(右)。 「本堂」の扉の「鳳凰」の彫刻(左)。「このお寺の宗旨名称 「時宗」 宗祖 証誠大師 一遍上人(智真)開宗 七百年前(鎌倉末期)本尊 「阿弥陀如來」を本尊に仰ぎます。称名 南無阿彌陀佛教義 大慈悲の阿彌陀如來に皈命(おまかせ)する只今のお念彿が一番大じなことです。家業に つとめはげみむつみあって只今の一瞬が充されるなら人の世は正しく生かされて、明るさを 増し皆倶(とも)に健やかに長壽を保つことになります。浄土えの道はそこに開かれるとする 教えです。お経 無量壽経 観無量壽経 阿弥陁経 六時禮讃などの 諸經典(おきょう)を読誦(およみ)致します。 教學部編」内陣。ズームして。「南無阿弥陀仏 無縁法界供養塔」。「無縁法界」とは、無差別平等の一切をこめていった言葉。縁もゆかりもないこと。また、その人。あるいは弔う親族のない亡者のことと。白壁の参道を引き返す。そして前方に入口が見えて来た。「時宗 眞淨院」の境内の隅にあった銀杏の老木を見上げる。 ・・・つづく・・・
2024.01.06
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そして旧東海道に出て、横断歩道を渡り平塚方面に進む。右手にはこの後訪ねた「養命寺(ようめいじ)」があった。その先にあったのが「おしゃれ地蔵祠」。朱に塗られた素朴な祠の中に顔を化粧した「双体道祖神」の姿が。この石仏は左手に壺を捧け右手には皿を持っている男女ニ神の和合神。この仏様はご婦人の願いことなら何でも叶えて下さると伝えられていて、願いが叶った時にはおしろい白粉を塗ってお礼をするというならわしがあり、お化粧をしてもらえるところから「おしやれ地蔵」と呼はれているのだ。「おしゃれ地蔵「女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには白粉を塗ってお礼をする。」と伝えられており、今でもお顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされる。形態的には「地蔵」ではなく、道祖神 (双体道祖神) の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたい。 平成七年十二月 藤沢市教育委員会」「おしゃれ地蔵」の前にあった「化粧箱」。「化粧箱」の中には口紅、白粉他が。じっと見つめるご婦人たち。その先、道路の反対側にあったのが「メルシャン 藤沢工場」。そして「養命寺(ようめいじ)」を訪ねた。「養命寺」は曹洞宗、大庭宗賢院の末寺。昭和2年(1927)国指定重要文化財に指定された「薬師如来坐像」を安置している。男性的な力強い尊顔や勢いのある尊体から力量のある運慶の弟子の作品ではないかと推定され、建久8年(1197)の銘が胎内から見つかっている。公開は、寅年の4月12日に限られている。こちらは先代の石碑か?「養命寺 本堂」引地山と号す。創建は天正年間(1573年 – 1592年)頃に暁堂が開山した。延文年間(1356年 – 1361年)頃の創建であるとする説もある。延享年間(1744年 – 1748年)に大拙が中興した。本尊は薬師如来である。扁額「皆王堂」か?本堂の見事な龍の彫刻。斜めから。「本堂 内陣」。「国指定重要文化財(彫刻) 昭和2年(1927)4月25日指定 木造薬師如来坐像 檜 寄木造 漆箔 玉眼 像高90.5cm引地山養命寺の本尊仏。普段は非公開で、12年に一度寅年の春に公開されます。大正12年(1923)の関東大震災で破損した後、昭和3年(1928)に解体修理がなされた際に、像内脚部に「建久八年 丁巳 8月12日」の墨書銘が確認されました。作風などから、建久8年(1197)に製作されたもので、作者は当時を代表する仏師であった運慶の一門と想定されています養命寺は天正年間(1573~93)の創建と伝えられていますので、それより古い本像は、別の場所から遷された客仏となります。市内の大庭には、十四世紀初めに薬師堂があったことが知られていて、米国のシアトル美術館所蔵の絵画には、この薬師堂らしき堂が三重塔や仁王門・僧坊などと共に描かれています。本像は、その薬師堂の本尊であったと考えられ、造立主は当地域の有力武士であった大庭景義・景廉父子、または三浦義澄・義村父子と推定する説があります。平成ニ十八年に再度の修理が完了しました。」「薬師如来坐像寄木作り、玉眼入り漆箔のこの像は、男性的な面貌、堂々とした体躯で、鎌倉時代初期の関東彫刻に根さした「運慶様式」の貴重な彫刻で、像のひざ裏に建久8年(1197 )という墨書銘があり、造立ないし供養の年と考えられています。昭和2年に、彫像としては市内唯一の国の重要文化財として指定され、全国的にも有名な尊像となった。こ開帳は干支寅年の4月12日の1日に限られている秘仏です。と頂いた資料から。「東海道分間絵図 元禄元年(1690)初版」にもこの場所には「やくし」の文字があると。「市指定重要文化財(彫刻)平成ニ十九年(ニ〇一七)ニ月一日指定木造日光・月光菩薩立像 日光菩薩 檜 寄木造 漆箔 玉眼 像高一〇六・〇cm 月光吾薩 檜 寄木造 漆箔 玉眼 像高一〇五・八cm市指定重要文化財(彫刻)平成三〇年(ニ〇一八)ニ月一日指定木造十ニ神将(じゅうにじんしょう)立像檜 寄木造 漆箔 玉眼 像高七ニ・四~七八・五cm日光・月光菩薩の両像は、本尊の薬師如来坐像の脇侍仏で、三体で薬師三尊仏を構成します。本尊同様に東国運慶派の菩薩像として貴重です。十三世紀中頃(鎌倉時代中期)の製作ですが、日光菩薩の頭部は十四世紀に補修を受けています。十ニ神将は、薬師如来の眷属で鬼神を率いて薬師如来やその信者を守護します。平安時代末頃から十ニ支への割り当てが始まりましたが、組み合わせには種類があります。本十ニ像は、十五世紀(室町時代初期)の製作ですが、胎内の銘文と修理札から、永正十八年(一五ニ一)から明治初期にかけて数回行われた修理の年代や、それにたすさわった鎌倉や江戸の仏師の名が明らかとなっています。 令和ニ年(ニ〇ニ〇)三月 藤沢市教育委員会」「月光菩薩 日光菩薩」。「真達羅(しんだら)大将【寅】」、「毘羯羅(びから)大将【子】」。「東海道分間延絵図 文化三年(1806)」には「養命寺」が描かれていると。「本堂」の天井絵。150年ほど前にお寺さんを改修したときに、改修に寄与してくれた檀家さんの名前を入れて天井絵にしたと。一点一点、味がある絵。「市指定文化財 木造十二神将立像」。「布袋尊」。こちらには、更に大きな「布袋尊」。毎年新春に行われる藤沢七福神めぐりでは布袋尊を拝んで本堂の天井画を見ることが出来ると。「藤沢七福神巡り」(毎年1月7日~1月31日)開催中は、布袋さんが、本堂入り口にお出ましになられます。以前に「藤沢七福神巡り」👈リンク を行った時の写真。その時に頂いた御朱印。境内にあった「五輪塔」。「大師像」この石像は頭部がなく無惨な姿、肩までの像高は33cm。「大師像」の前で4体の石仏が地面に横たわっていた、いや半分埋められていたが・・・。「永代供養墓」。正面に祈りの姿の石仏が。「庚申待」塔。三猿もついている文字庚申塔で、貞享3年(1686)建立のものと。庚申待は、江戸時代の庶民が60日に一度おとずれる庚申の日に、皆で集まって一晩中酒食を共にする行事で、中国の民間信仰である道教に由来。掲示板。以下、掲示板から。「養命寺本尊薬師如来坐像 日光菩薩月光菩薩は、京都美術院での修復を終え鎌倉国宝館にあずけてあります。展示してあれば拝観できます。」と。「薬師如来坐像」、「日光菩薩月光菩薩像」。「お知らせ本年十一月二十九日養命寺において晋山結制法要、首座法戦式を執り行います。それに伴い当日早朝より午後二時くらいまでの間、境内に入れなくなります。ご了承くださいますようお願い申し上げます。山主」。「本堂」を斜めから。入口階段横にあったのが「引地山 養命寺 江湖会(ごうこえ)令和五年十一月二十九日」 案内板。禅宗、特に曹洞宗で、四方の僧侶を集めて行なう夏安居(げあんご)。夏安居とは「外出せずに一所にこもって修行をすること」と。そしてこの日の全ての行程を完了し、ここ「養命寺」で解散となったのであった。「本日のルート」。この日の歩数は約15700歩であった。私は、小田急線「藤沢本町駅」に向かって歩く。再び「引地橋西」交差点を渡る。「ひきぢばし」。「引地橋」を渡る。再び、下を流れる「引地川」の上流を見る。そして旧東海道はここを左に曲がっていたと。この先で右に折れて。右に曲がると直線の道。そして右にカーブすると再び旧東海道に合流。よってここ旧東海道を上る人にとっては旧東海道ルートが「コ」の字を裏返した形になっているのであった。ここは、藤沢宿の入口手前に当たるため、城と同様に「枡形虎口」、しかもこれが二重( 」+「 )になっているのであった。更に進むと交差点が。我が母校の名が。そして前方には案内板が。「旧東海道 藤沢宿 京見附(きょうみつけ)」と。「見附は土居(どい)ともいい、江戸方は清浄光寺(遊行寺)の東門付近、京方は台町にありました。見附から見附までが宿場の範囲で、その目印でもありました。藤沢宿の京見附は、古図などからは判然とはしませんが、この辺りであったとの伝えがあり、近くには「見附」という屋号を持っ家があります。」「見附の図 歌川広重「東海道五十三次之内石薬師(蔦屋版)」」そして小田急線に架かる「伊勢山橋」が前方に。「伊勢山橋」を歩く。「いせやまばし」。そして高校時代は毎日上り下りした坂を下る。そして藤沢本町駅に到着し、小田急線に乗り込み帰路についたのであった。明治地区(羽鳥・城南)の石造物と史跡を訪ねたのであった。そして小笠原東陽の耕余塾跡を訪れたのであった。耕余塾は日本の歴史的な場所の一つで、その場所を訪れることは日本の教育や文化に対する理解を深める機会でもあった。塾の跡地に足を踏み入れると、かつての知の拠点としての重みを感じることが出来たのであった。ここでは小笠原東陽が教育に対する情熱を持ち、学生たちに熱心に知識を伝えていたことが想像出来た。塾の風景は静寂と歴史の息吹で満ちており、教育に対する献身と精神の豊かさを感じたのであった。また、耕余塾の場所は自然と調和した風景の中にあり、学びの場と自然との調和が今でも感じられたのであった。この地で教育が行われていたことが、自然との共存を尊重する教えにも通じていたのであろう。結びつけて言えば、耕余塾跡を訪れたことで、小笠原東陽の教育の精神とその時代の息吹を感じることができたのだ。この場所は、歴史と教育の尊さを改めて垣間見ることができる特別な場所、そしていつまでも子供達に大切に残して置きたい場所だと感じたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.01.05
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藤沢バイパス「城南交差点」まで戻り、この交差点を渡り「城南隧道」方向に進む。「城南隧道」手前の交差点を右折し、次の交差点の角に石碑が立っていた。「藤沢市城稲荷土地改良事業記念碑」。石碑には「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」と刻まれていた。「鼓腹撃壌」とは、国がよく治まり平和なことをいう。中国の堯帝(ぎょうてい)のとき、大地を足で踏み鳴らして拍子をとり、腹(はら)つづみを打って歌い、天下泰平を喜んだ老人の故事から。「鼓腹」は、腹つづみを打つこと。「撃壌」は、大地を叩くこと。『十八史略(じゅうはっしりゃく)―五帝・帝堯陶唐氏』に、「有二老人一、含レ哺鼓レ腹、撃レ壌而歌曰」とある と。「鼓腹撃壤 農林大臣河野一郎」と。「藤沢市城稲荷土地改良事業竣功記念碑引地川の東西両岸に展開する三十余ヘクタールの当耕地は古来区画狭小、乱形の原始的湿田にして、農道および水路少なくひとたび大雨の際は、引地川の氾濫により被害を受けることしばしばであり、加うるに城地区の用水は小糸川に稲荷地区は溜池に、それぞれ水を求めていたが、一朝早魃に会うやたちまち用水の不足をきたし植付不能に陥る等、営農上の障害はきわめて大きかった。ここに両地区耕作者相計り昭和三十二年十一月土地改良区を設立、以来組合員百三十二人の総力を結集して、区画整理、機械揚水、○○排水と遂次その工を起し五か年の歳月と総工費一千二百八十一万一千円をもって昭和三十七年三月すべての事業の完成を見たのである。これによって、当耕地の区画整理ならびに用水の確保、道路橋梁の整理、乾田化が行なわれ古来の姿をここに一新したしだいである。これはまさに百年の大計を成就し近代農業の基盤を確立したもので、長く郷土の民生を豊かにしていよいよ国家の発展に寄与することとなった。ここにその概要をしるして本事業の記念とする。 藤澤市城稲荷土地改良区建之 昭和三十七年三月 神奈川県知事 内山岩太郎 書 」そして次の目的地の「柏山稲荷神社」に向かって進む。左手奥に次に訪ねる「柏山稲荷神社」の社殿が見えて来たが、予定の裏口からの道は工事中で進入禁止であった為、「柏山公園」側から向かうこととする。「柏山公園」に到着すると、黄色の世界が広がっていた。見事な銀杏の黄葉をカメラで追ったのであった。「柏山公園」のこの銀杏の黄葉は、秋の魔法のような色彩のショーを演出していたのであった。その鮮やかな黄色は、まるで自然界のキャンバスに描かれた金色の絵画のごとし。そして下を向けば黄色の絨毯が一面に広がって。昨年の台風15号の被害により、樹木の転倒、社殿屋根の破損が発生し、その補修が進んでいないとのことで、境内へは「進入禁止」になっていたのであった。しかし、朱の太鼓橋と黄葉とのコラボが美しかった。朱の鳥居にはイチョウの葉の黄金色が後光の如くに。この鳥居も黄金の光を浴びて。黄と紅のカオス。僅かな風になびく葉っぱは、移り気な太陽の光を受けると、突然に輝きを増し、周囲に暖かな輝きをまき散らすのであった。この美しい光景は、季節の移り変わりと自然の神秘を象徴しているのであった。ここにも朱の鳥居が。扁額「厳島千人力弁天社」。縁起によると、女の人だけで、社殿を建てよという竜神大神のお告げあり、柏山神社の信者が相談して、女人千人で社殿建築に努力したと。よってご祭神は市杵嶋姫大神と女神(スサノオの御子神、水・芸能の神、学業の神 )。800年以上前から女は強かった事を再認識。伝説によると、この弁天社は大庭景親が厳島神社の分霊を勧進したものと伝わっているのだと。よって名前が「厳島千人力弁天社」。陽光が待ち遠しいのであった。黄色一色の世界。「奉納 柏山稲荷神社」。黄色一色の世界をこれでもかと。そして「柏山公園」を後にして「引地川」に架かる「柏山橋」を渡る。「引地川」の川面にはマガモ?が。そして「柏山橋」を渡り「柏山公園」の銀杏を振り返る。そして次に「引地川」の下流側にあった「浄土宗 本願寺」を訪ねた。寺号標石「往生山 称名院 浄土宗 本願寺」。境内の参道を上って行った。そして石段を上り、本堂に向かって。「本堂庫裏再建記念碑」。中央の石碑には『南無阿弥陀仏』と。左側の石碑の文字は???。これも南無阿弥陀仏?? 「常香炉」とその先に「本堂」。藤沢市稲荷1丁目2−3。「本願寺の歴史」について説明してくださいました。本尊は阿弥陀如来、浄土宗。本願寺の創建は寺伝によると今から670年ほど前の鎌倉時代末期の元弘三年(1333)と伝えられています。この2年前の元弘元年に全国で疫病が流行したとき、大本山知恩院ハ祖空円上人の高弟たらは「大数珠」と「楊流観音」を掲え全国行脚をし、この地に来て楊流観音を本尊とし開創したと伝えています。明治29年の12月に不慮の火難にあい、諸堂字、大数珠などとともに全てを消矢し、再建後は昭和34年の伊勢湾台風の猛威により全壊しました。その後昭和56年に本堂を再興して、一歩一歩地道に復興を進めています。長後地域には東に境川・西に引地川流れている。自然条件に恵まれ農耕が開始され、大庭御厨で有名な大庭の荘(おおばのしょう)に隣接していた。平安時代末期には、大庭景親に対し、桓武平氏の流れをくむとされる、渋谷重国が治めていた。当寺の本拠(館)は現天満宮附近とされる。その後,渋谷一族の中心は、綾瀬市早川城山公園内早川城趾に移されと言う。渋谷荘構成は、現、長後・高倉・下土棚・円行・用田・菖蒲沢の藤沢地区が該当する。江戸時代には旗本領。御詠歌「とくめくる人の命をやしなふて車引地の名をのこしける」「六地蔵」。本堂前から常香炉を。墓地へ上る階段の脇に、古い墓石等の石造物がまとめて。無縁塚か? しかしその石仏は風雨に耐え歴史を重ねていたのであった。左から「庚申供養塔」: 文字塔 「青面金剛神」の刻字 嘉永6年 94cm「庚申供養塔」: 青面金剛像 三猿像 享保元年 98cm「庚申供養塔」: 正面に梵字が刻印 三猿像(3方に各1猿) 延宝4年 110cm「庚申供養塔」: 文字塔 嘉永3年 56cmその先にも小さな石碑が並んでいた。「庚申供養塔」: 文字塔 「青面金剛神」の刻字 嘉永6年 94cm「庚申供養塔」: 青面金剛像 三猿像 享保元年 98cm「庚申供養塔」: 正面に梵字が刻印 三猿像(3方に各1猿) 延宝4年 110cm「庚申供養塔」: 文字塔 嘉永3年 56cm小石祠。???そして「本願寺」を後にして境内の下り坂参道を下りながら「柏山公園」、「柏山稲荷神社」の銀杏の黄葉を見る。黄葉の後ろには高層マンション「サンクタス湘南藤沢アネーロの丘」。藤沢バイパスの「引地橋」の下を通過。「引地川」と旧東海道「引地橋」を見る。「引地川」には数多くの白い鳥が。「コサギ」であっただろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.04
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「羽鳥御霊神社」を後にして次に向かったのが「旧三觜八郎右衛門家住宅跡地」旧三觜八郎右衛門家住宅は、神奈川県藤沢市羽鳥にある歴史的建造物。国の登録有形文化財に登録されていた。三觜家付近の東海道沿いの集落一帯は江戸時代から明治中期まで羽鳥村と呼ばれ、三觜家は江戸時代には100石以上の高持(本百姓)で代々八郎右衛門を名乗り、羽鳥村の名主を務め、羽鳥村の農民の4分の3と小作してもらう関係を結んでいたという。11代目は明治初期の高座郡羽鳥村の初代村長を務めた。13代目八郎右衛門は、小笠原東陽を招き学校を開いていたところ、明治5年に学制が布かれると「耕余学舎」という名の小学校に認定された。明治10年に東陽が、私塾を新設するときは三觜八郎右衛門も援助した。その「耕余塾」から各界へ多くの人材が輩出され、その中に後に内閣総理大臣となった吉田茂や、味の素を創設した鈴木三郎助などがいるという。2013年(平成25年)に主屋、門、石塀が国の登録有形文化財に登録された。建物の保存を望む声があがっていたが、所有権が不動産業者に渡り主屋など建物全ては2022年に解体され跡地は既に宅地分譲がほぼ完了し、多くの住宅が建っていたのであった。しかし、ネットには、解体完了に対する報道等はほとんどアップされていないのである。この理由は何故なのであろうか?そして解体に対する藤沢市の見解等も見つからないのだが。そして虚しく、新しい石碑のみが。「明舜之郷 三觜八郎右衛門邸跡」と。「明舜」の意味は?? 「瞬」ではなく「舜」??「舜」は「むくげ(アオイ科の落葉樹)などの意味を持つ漢字」のようであるが、「三觜八郎右衛門邸」には「舜」が庭にあったのだろうか?「三觜八郎右衛門邸跡三觜家は江戸時代より明治維新まで羽鳥村の名主を務めた素封家として知られ当主は代々八郎右衛門を襲名した。第十三代八郎右衛門に当たる三觜佐次郎が子弟の教育にあたり明治五年、小笠原東陽を招聘して開いた読書院はのちに耕餘塾に発展し元内閣総理大臣吉田茂をはじめ多くの近代日本のリーダーを輩出した。広大な敷地に建てられた三觜八郎右衛門邸宅は明治初年の創建で重厚な木造二階建て建築であり多くの居室を持つ稀な商家風建物であった。近年邸宅等は国登録有形文化財に指定され令和四年春まで一般公開された。藤沢の教育の始まりと言える耕餘塾の開設から百五十周年を迎える今年後世に語り継ぐこの記念碑を建立するもの也。 令和五年三月吉日 羽鳥本村町内会 明治郷土づくり推進会議 明治郷土史料室運営委員会」跡地前に建った住宅。この案内板には「跡」の文字が必要なのであった。その先にあったのが「白笹稲荷神社」。「古代水田農耕民族は、その水田耕作に不可欠の水源に、また人間の生存の礎となる衣食住の源としての「水源(みなもと)」に、清らかに神奈備(神霊(神や御霊)が宿る御霊域)を覚出しました。 「宇迦之御霊」と仰ぐ稲魂・穀霊を祀り、「保食神」、「生産の神」として信仰し、現・白笹稲荷神社の前身としての白篠稲荷の小祠を祭祀してきました。」とネットから。御祭神 宇迦御魂命(うかのみたまのみこと) 大宮売命 (おおみやめのみこと) 猿田彦命 (さるたひこのみこと)であると。笠木部分の曲がりが、とりわけ激しいいのであったが。藤沢市羽鳥3丁目19−23。そして旧東海道まで戻ると道沿いにあったのが「秋葉堂」。写真のように、小さいながらも石造りの太鼓橋風の橋が架かっていた。以前はこの太鼓橋の下に池があったと。この日は門が閉まっていたので中に入ることはできず、外から眺めるだけ。藤沢市羽鳥3丁目21−11。「この秋葉堂は秋葉大権現(火伏せの神様)を祀っているお堂で、城と羽鳥の集落の人たちが講中をつくり、命日には毎年交代で行事をしてお祭りをしていました。今もその行事は続いていて世話人が集まり正月十六には護摩を焚いて供養をしているといいます。」と頂いた資料から。そして「羽鳥4丁目」にあった「羽鳥歩道橋」を渡る。歩道橋の上から平塚宿方向を見る。歩道橋の上から藤沢宿方向を見る。そして「藤沢バイパス」下から「明小歩道橋」先の黄葉した大銀杏を見る。ズームして。藤沢市立明治小学校神奈川県藤沢市城南3丁目3−1この小学校の沿革は明治五年(1872)に名主の三觜八郎右衛門が小笠原東陽を招いて、羽鳥に私塾「読書院」を開き、明治六年(1873)学制発布により羽鳥小学校に改称されたのであった。そして到着したのが「城(たて)神明社」。以下頂いた資料から「祭神は天照皇大神、創建は永久5年(1117)鎌権五郎景政が所領の大庭荘を伊勢神宮の御厨として寄進したのち当所に天照皇大神を勧請したといい、城地区の鎮守です。それに因んでこの辺りは御伊勢宮という小字地名が残されています。また大庭地域にはこの他にも台谷神明社、小糸神明社など「大庭御厨」に関わると伝えられる神明社があります。◇石塔群ここで紹介した石塔群は「城部落の今昔(宮本隆治郎著)」の大神宮の石造物」の項から引用しました。(内道祖神ー基は移転時に行方不明とありますが、現在再建されています)・山王大権現 文化十酉年 月吉日・疱癒神 安政四丁巳年正月吉日立之・庚申供養塔 安政ニ年月 吉日立之・庚申供養塔 安政六巳未 吉日立之・地神塔 明治十年丑丁一月日 第十ハ大区大庭村 (笠塔婆型・青面金剛像)・庚申供養塔 明治ハ年四月建。左側小笠原東陽大先生筆。・道祖神 再建(寛政七年正月十四日)鳥居には「昭和二十七年二月吉日建之」と。国道1号線(藤沢バイパス)の北側に隣接する高台に、「城神明社」の赤い屋根の「鐘楼」が建っていた。「本堂」。左斜から。お賽銭の盗難防止用か左:臨時 お賽銭 投入口右:臨時 補修募金 投入口内陣。御祭神は天照皇大神。土地の人は「お伊勢の宮」と呼んでいると。「本堂」の右隣に「慰霊塔」。城地区の戦没者317柱を合祀する慰霊碑。同地区の遺族らによって昭和37年3月建立。碑本体380㎝、幅・奥行150㎝、台石90㎝。所在:城神明社(藤沢市)(刻字)碑正面:「慰霊碑」碑左面:「略敬称 順序不同 (14名×11段+12名の氏名)」碑右面:「(14名×10段+11名の氏名)」「惟フニ過グル第二次大戦ハ吾々ノ宿命ダッタカモ知レナイガ各方面ニ多大ノギセイト惨禍ヲモタラシタ 要スルニ戦争ハ引合ウ仕事デナイコトヲ誰モガ痛感シタ 戦没ノ諸君ハ実ニオ気毒ダ 然シ諸君ノ功績ハ実ニ偉大デアル 諸君ノギセイニヨリ民主主義日本ガ誕生シ諸君ノ助力デ東洋ノ被圧迫民族ハ自主独立ノ宿願ヲ果シ得タト云エナイダラウカ 諸君ハ決シテ犬死シタノジャナイ 諸君ノ功績コソ永久ニ歴史ニ大書サレルベキダト信ジテル 昭和三十七年三月 明治辻堂地區初代郷友會長 石井佐一」背部碑: 發起人(66名の氏名) 城世話人(5名の氏名) 地区遺族会(5名の氏名) 施工 鍛代石材店 山口石材店 西山工務店「城公民館」。「本堂」左側には、多くの石碑、石塔が並んでいた。「御神樂殿建築記念碑」。「御神楽殿建築記念碑 昭和拾八年八月四日建之 従六位勲七等清水善茂敬書」と。「拝殿建築紀年碑」。「御大典紀念 拝殿建築紀念碑 昭和参年十一月吉日 巴城 加藤伸吉謹書」と。手前右から・道祖神 再建(寛政七年正月十四日)・山王大権現 文化十酉年 月吉日・庚申供養塔 安政ニ年月 吉日立之・疱癒神 安政四丁巳年正月吉日立之 疱瘡神とは祈ると疱瘡を免れたり、軽減して くれたりするとされた神とのこと。・道祖神 再建(寛政七年正月十四日)後方右から・庚申供養塔 明治ハ年四月建。左側小笠原東陽大先生筆。・地神塔 明治十年丑丁一月日 第十ハ大区大庭村・庚申供養塔 安政六巳未 吉日立之・庚申供養塔 笠塔婆型・青面金剛像)移動して左から。近づいて。「鐘楼」、「石鳥居」を振り返る。「石鳥居」の近くにあった「石灯籠」(左)。「石灯籠」(右)。「城町内会掲示板」「城町内会デジタル回覧板(LINE)の参加方法」についての案内が掲示されていた。そして「城神明社」を後にして、再び「明小歩道橋」を渡りながら銀杏の大木を見る。右手に「藤沢市立明治小学校」が。運動場の広さにビックリ。再び「藤沢バイパス」に沿って東に向かて進む。すると予定の道には道路工事中の案内板が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.03
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そして、この日の昼食は、歩いて数分の場所にあった「羽鳥市民の家」をお借りして、各自準備した昼食を楽しんだのであった。私はコンビニ購入したおにぎりを2個そしてカツサンドを1個。判りにくいが、現在地はここ。「羽鳥市民の家」入口。入口手前の空き地の「ピラカンサ」。真赤な実が撓(たわわ)に。藤沢市羽鳥3丁目のユニークな外装・黒塗りと木材地肌の住宅地横を進む。そして「耕餘塾跡」に到着。明治5年(1872)に羽鳥村名主(地区の戸長)、第13代三觜ハ郎右衛門(三觜佐次郎)は世情不安の日々の中から新しい時代には村民教育の必要性を感じ、池上本門寺で教鞭を執っていた儒学者の小笠原・読書院の名声が高まるにつれ、近隣諸村から子弟を入学させる者が増え、1878 (明治11)年には新しい塾舎が完成するに伴って耕余塾と改称された。当時は相州第一の高等学府とも言われ、県内外からこの塾を目指した塾生に寄宿舎を備えて多数集め、生徒数は100名を数えるまでとなりました。初めは漢学を中としていたが、時代の変化に対応し何度か教則を改めながら英書に学ぶなど、洋学を取り入れ専門では政治・社会・経済学などの社会科学部門へ進教育課程を採用していました。小笠原東陽は1887 (明治20年)に58歳で病没しましにが、没後は子息の小笠原鍾(あつむ)、明治21年に女婿の松岡利紀か塾長を継き、「耕余義塾」と改称し、明治33年(1900)に塾は閉鎖されるまで25年という短期間であったが、私塾として果たした役割は大きかった。巣立った門下生には吉田茂(内閣総理大臣)、平野友輔(衆議院議員・医師)など多数の優れた人材を輩出しました と頂いた資料から。「耕餘塾跡」碑。素朴な山門越しに二つの石碑が。山門を潜って。更に近づいて。右は「小笠原先生碑」。明治25年5月に門下生達が東陽先生の旧宅の庭に建立したもので、大正5年に有志の方が羽鳥青年の奉仕を得て明治小学校に移設、その後昭和22年に現在の地に移されたものです。左は牧野随吉氏による「東陽先生由緒碑」(大正5年3月建立)。いずれも、小笠原東陽の生立ちと業績を讃えた碑文が刻まれていて、その拓本は明治郷主史料室に展示されています と頂いた資料から。「市指定史跡 昭和44年(1969)2月8日指定耕余塾(こうよじゅく)の跡明治5年(1872)羽鳥村戸長 三觜八郎右衛門は、東京から小笠原東陽を招いて郷学校(明治時代初期に民間の有志が設立した学校)の読書院を開きました。開校間もなく学制が布かれると同校は小学羽鳥学校とされますが、東陽は、明治10年、三觜家等の助力で公立小学校とは別に私立耕余塾を開きました。この「耕余塾」はその敷地の一部です。東陽没後、明治21年に松岡利紀が塾長を嗣ぎ、同23年に耕余義塾と改称。同33年に閉校するまで、政治、実業、教育の各界へ多くの人材を輩出しました。元内閣総理大臣吉田茂も同塾の卒業生で、若き日に三觜八郎右衛門へ宛てた書状に、「錦地(相手の居住地の尊敬語。耕余塾のあった羽鳥の地)は小生の第二の故郷」と記しています。周辺には、東陽の眠る汲田墓地、旧三觜八郎右衛門家住宅、東陽が筆をふるった幟を所蔵する羽鳥御霊神社などゆかりの地があります。 平成25年(2013)3月 藤沢市教育委員会」2基の石碑の前から、山門方向を見る。「小笠原東陽」関連の旧跡の位置関係図。そして「耕余塾跡」を後にして、前の道を北に進む。左にあったのが「明治学園羽鳥幼稚舎」。三觜本家の関係者が経営されているのであろうか?藤沢市羽鳥4丁目の瀟洒な住宅街を進む。「文化財ハイキングコース案内板耕余塾跡周辺の歴史を訪ねて明治幼稚園の隣りに耕余塾跡の碑があります。耕余塾は、明治5年3月に小笠原東陽が羽烏村の廃寺徳昌院の本堂を利用して開いた郷学校のことで当初は読書院と名づけられていましたが、同年8月学制が市告されると羽鳥学校(明治小学校の前身)と改称され、生徒の多くはこちらへ移りましたが、東陽はこれとは別に読書院を私塾として残しました。やがて、近隣諸村からの入塾者が増し教場が手狭になったため、新学舎を建ててを耕余塾と改称し、同時に教育内容の充実を図り中等教育を行なうまでに至りました。しかし明治30年9月8日の大風で全学舎が倒壊し県下各地に中学校が開設されたこととも相まって、再建のための資金難により閉塾することになりました。当塾からは、後に首相となった吉田茂をはじめ多くの有用な人材を輩出しました。今は碑だけで何の面影もありませんが、近代教育の先駆けとして大きな役割を果たしました。この周辺には、羽烏の総鎮守である御霊神社をはじがじ養命寺、おしやれ地蔵、「お伊勢の宮」と親しまれている城神明社、緑に囲まれた柏山稲荷神社など、短時間でさまざまな文化財を訪ねることができます。」。そして次に訪ねたのが「羽鳥御霊神社」。狛狗越しに石鳥居を。貫禄ある狛狗(右)。狛狗(左)。再び「石鳥居」・「三ノ鳥居」は平成2年建立と。扁額「御霊社」。境内に入って振り返ると、鳥居の手前左には大きな御神木・欅が。社殿の左側奥の右側には「庚申供養塔」を納めた社があった。後方中央に「御靈神社新築記念碑」 昭和38年9月吉辰と。隣りにあった小さな社殿。神産霊神(天地開闘造化の神・高産霊神)であっただろうか?中央に「庚申供養塔」。近づいて。正面には「寛文七丁未歳 十一月二十日」と刻まれた、「日月型 三猿像」庚申供養塔。「市指定有形民俗文化財 昭和52年(1977)4月13日指定 寛文七年庚申供養塔 総高130センチメートル、安山岩製この石造物群の中で、中央の一番大きな石塔は寛文7年(1667)に造立された庚申供養塔です。基台に三匹の猿が正面向きにすわり、両手で目・耳・口をおおっています。この「見ざる・聞かざる・言わざる」はどれもやや長身で、丸彫りに近く彫り出されており、基台も同じ一石から造り出されています。三猿像は庚申の申が猿と通じるので祀られているものです。また、頂部左右に日と月が彫刻され、塔身部に左記の造立年記が、基台前面に三橋次左衛門ら15名の造立者名が陰刻されています。 寛文七年丁末年 十一月二十日この刻銘の日は、十干・十二支を組み合わせた暦法で六十日ごとに巡ってくる庚申の日でした。庚申の夜に三尸という虫が睡眠中に身体から抜け出して天帝にその人の罪を告げるので命を奪われる、という道教の説があります。かつてこの信仰に基づいて信者が講という団体をつくり、庚申の夜は眠らずに過ごして無病息災を願う風習がありました。江戸時代に全国的に広まり、昭和の頃までは続いていました。この十五名の人たちは庚申講の構成員で、おそらく彼らも夜明かしをしたのでしょう。この石塔はその時の記念に建てられたものです。 平成20年(2008)3月 藤沢市教育委員会」「明治歴史資料室」に展示されていた「御霊神社」の「庚申供養塔」。「(塔身前面)寬文七□歳十一月ニ十日三觜次左衛門 三觜七左衛門 三觜政右工門三觜増左エ門 三第藤右工門青木与五右工門 青木二郎右工門青木□右工門 青木休右工門 石山久石工門神埼久右エ門 秋本四郎右工門秋本五郎右工門 植田七郎右工門窪田仁右工門(墸身前面彫物)【日月型 三猿像】※燈身の下部(高さ25cmを基礎状に1センチ余り全面に作り出し、三猿像を陽刻し、 その左石側面に溝中人名を掘る。※藤沢市指定文化財」そして「御霊神社」の「社殿」。創建年代や由緒は不詳。御祭神 高皇産霊神(たかみむすひのかみ) 神皇産霊神(かみむすひのかみ) 玉積産霊神(たまむすひのかみ) 生産霊神(いくむすひのかみ) 足産霊神(たるむすひのかみ) 鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)扁額「御霊神社」。2個の「本坪鈴」と3色の太い「鈴緒」が。本来、鈴の清らかな澄んだ音色には、悪いものを祓う力があると信じられているとのこと。拝殿前に吊るされた鈴も、お参りする人が鳴らすことで祓い清めるという意味を持っているのだと。 「神輿庫」。以前、祭礼の時に訪ねた時の神輿の写真。「供養塔」と「道祖神」碑。歴史ある石鳥居の笠木部分、扁額が保存されているようであった。「御由来この笠木は当神社の鳥居として維旹寛政四年竜舎壬子仲冬穀旦氏子により奉納された由緒ある建造物である時、事故により倒壊し当時を忍び文化財として設置するもの也 令和三年六月吉日 御霊神社 宮総代」神楽殿いや集会場であろうか?様々な石碑が並ぶ。「神輿奉納記念碑」。「寄贈碑」。「五霊大権現山王権現 御霊神社 駒形大権現大六天」、側面には平成25年9月建立 と。「羽鳥総鎮守 御霊神社祭 神 高皇産霊神・神皇産霊神・玉積産霊神・生産霊神・足産霊神 (鎌倉権五郎景政政)祭礼日 毎年9月第一土曜・日曜 斎行 神社神輿氏子八ケ町渡御斎行 一月一日 歳旦祭も斎行 毎年十一月 七五三斎行 明治維新前は 御霊大権現 駒形神社 山王権現 大六天 四社を合祀し御霊神社と称す市指定文化財 一、梵 鐘 至徳三年 (1386) 銘 一、庚 申 塔 寛文七年 (1667) 建立 一、祭礼幟旗 小笠原東陽書 明治十八年 (1885) 七月 平成二十六年五月 」「鐘楼」。(市)指定重要文化財総高101.5cm 口径66.5cm。境内の鐘楼には、至徳3年(1386)の銘を持つ梵鐘が懸かっていた。銘文から、もと下総国香取大神宮寺に奉納されていたもので、明治維新の神仏分離の時に流出したと思われます。明治5年に羽鳥村の78人が22円で古物商から買取り非常警報用に使ったことが、追刻銘文に刻まれています。中世における優良工芸品として戦時中の供出から除外され難を逃れたと言われているとのこと。梵鐘にズームして。「市指定重要文化財工芸品 羽鳥御霊神社の梵鐘 銅鐘 101.5cm、口径 66.5cmこの鐘には、次のような銘文が刻まれている。「奉懸 下総州香取太神宮寺大鐘一口 大旦那周防守宗慶 大工秦景重 千時至徳三年丙寅十月 日 敬白」以上の銘により、この鐘は至徳三年(1386)に鋳造され、もと下総国香取神宮の別当であった神宮寺に奉納されたものであったことがわかる。また、追刻銘には、この鐘は、明治の初め廃仏毀釈により放出されて、東京神田の古物商の店頭にさらされてあったのを、羽鳥の人々が二十二円余りを醵出して非常時の警報用として買い取り、現在に至ったことが刻まれている。 昭和41年1月17日指定 藤沢市教育委員会」説明員から御霊神社の「のぼり幡」についての説明を聞く。各界に多くの人材を輩出した「耕余塾」を主催・運営した小笠原東陽の自筆のもので、揮毫された1885年(明治18年)以来,地元で神社祭礼に供されてきたもの。もちろん祭礼では現在レプリカが用いられているとのこと。御霊神社の「のぼり旗」は隷書体で・「神州寶祚之隆」・「當與天壌無窮」と書かれていると。 『日本書紀』天孫降臨の段で,天照大神が下した神勅にある文言であると。・「神州寶祚之隆」………神州(日本)の宝祚(ほうそ 皇位)の 隆 (さかえ 栄) ・「當與天壌無窮」………当に 天壌 (てんじょう 天地)と与(とも)に 窮まり無かるべき(永遠であること)・「神州寶祚之隆」・「當與天壌無窮」明治18年(1885)7月という年記と「小笠原東陽」の署名があるとのこと。「手水鉢」。江戸時代末期の1863年奉納と。最後に3基の石鳥居越しに「御霊神社」を振り返りながら、この場所を後にしたのであった。一ノ鳥居は「維時 昭和54年7月吉日」と。扁額は「御霊神社」。そして二ノ鳥居 は昭和17年3月建立。扁額は「御霊神社」。石鳥居の柱も道端に。固定されているのであろうか?左側奥の柱には「維旹寛政四竜舎壬子仲冬穀且」と ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.02
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さらに旧東海道を上ると、左手にあったのが「一里塚跡」と書かれた標柱。日本橋から 13番目の一里塚であったと。辻堂の地は多くの辻に囲まれており、その辻を、かつて大山詣でや江の島詣での旅人が行き交い、又、藤沢宿へ の買い物等、幾多の人々は生活利用していた。昔辻堂村は、宝泉寺・辻堂諏訪神社近くの「四つ角」を中心に東町 西町南町、北町の集落が形成されており、当時も此処を中心に考えると、四ツ谷大山道へ、藤沢道へ、鎌倉道へ と、道が放射線状に伸びているのが明瞭となる。古き道を辿(外)りながら社寺、石仏などを訪ね往事の面影を散策したのであった。一里塚(いちりづか)は、江戸の日本橋を目印として大きな道路(街道)の側に1里(約3.927キロメートル)毎に設置した塚(土盛り)である。多くは塚の上に榎や松を植えて、旅人の目印にした。いわゆる街道のマイルストーン・キロポストと同様であり、一里塚は中国にも存在する。一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年2月4日(グレゴリオ暦1604年3月4日)、徳川家康が子の徳川秀忠に命じ、金山奉行の大久保長安が総監督となって設置したのが始まりである。江戸幕府は江戸の日本橋を起点として全国の各街道の1里(約4 km)ごとに一里塚を設置するよう指令を出し、長安の指揮の元に一里塚の設置が行われ、10年ほどで完了した。一里塚の大きさは5間(約9 m)四方、高さ1丈(約1.7 m)に土を盛り上げてつくられ、一里塚の上には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた。また、植えられた樹木は築いた塚の崩壊を根で防ぐ役割も持つ とウィキペディアより。「東海道分間絵図」の「四ツ谷付近」にここ「一里塚」の表示があると説明員の方から。「羽鳥交番前」交差点を渡る。右手がJR辻堂駅方向。左が「市道辻堂駅遠藤線」の「大庭トンネル」方向。そして更に東海道を上ると、左手にあったのが道標。道標には「是よ里右大山みち」と刻まれていた。1661年に江戸浅草蔵前の講中によって建建てられた道標があったそうだが痛みが激しかったようで、2005年に新しいものに建て替えられたのだと。尚、その道標は2012年に、何と遠く伊勢原市の大山新道沿いに修復・移設されたとのこと。先ほど訪ねた「明治郷土資料室」に展示されていた資料には。「(塔身前面)是よ里 右 大山みち 御蔵前(塔身右側面)浅草御蔵前猿屋町 願主常陸屋権兵衛同所 天王町 祇園 吉兵衛(塔身左側面)萬治四牛年正月建立 當所世話人天保六未年正月再建 薩屋平左衛門(塔身背面)大正十ニ年九月一日大地震ノ為倒潰後日建立翌年一月十五日尚大地震ノ為倒潰十一月七日修繕建立大山御師 □見民部不動尊再建 鎌倉材木座石工□山定右衛門当町発起人一同辻堂 □□□如白書石宏」これが2012年に、何と遠く伊勢原市の大山新道沿いに修復・移設されたものの写真と説明員から。新しくなった案内板には「四ツ谷不動(大山道標)東海道と大山道の分岐である四ッ谷の辻に不動明王を載く道標が建てられています。道標の正面には不動明王を表す梵字「カーンマーン」と「大山道」、側面には「これより大山みち」とあります。現在のものは延宝四年(一六七六)に江戸横山町の講中によって建てられたものです。この脇に建つ道標は、万治四年(一六六一)に江戸浅草蔵前の講中によって建てられたものを、平成十七年(ニ〇〇五)に再建したものです。道標の右手の通りにある鳥居は大山阿夫利神社の一の鳥居で、この通りは大山詣りの人々が通った道です。大山へ向かう大山道は何通りかありますが、この四ッ谷を起点とする「田村通り大山道」が特に重要な大山道とされています。現在でも、七月一日の大山開きの日には、四ッ谷町内会の年中行事こして、辻堂元町の宝珠寺の住職のもと護摩供養が行われています。 令和五年(ニ〇ニ三)三月」歌川広重「東海道 七 五十三次之内 藤沢四ッ谷の立場 (蔦屋版)」。四ッ谷の立場(宿場と宿場の間にある休憩所)を描いた浮世絵からは、かって旅人相手の茶屋が建ち並んでいた往時の賑わいが感じられます。図の左端には不動明王を戴く道標がみえます。「不動明王」を頭上にいただく道標は、1670年代後半に建てられたと。「不動明王」に近づいて。さらに「不動明王」をズームして。道標の正面には不動明王を表す梵字「カーンマーン」と「大山道」と。この台座石柱には、「大山道 延宝四年(1676)」銘があり、江戸横山町の大山講中川建立したものと。梵字「カーンマーン【不動明王】」をネットから。不動明王は厳しくもやさしい慈悲の心ですべての障害を打ち砕き、人々を導き救済する役目を持つ「大日知来」の使者です。梵字重字「カーンマン」は、「カーン」が「不動心」、「マーン」は「柔軟心」を表しています。両側面に「これより大山みち」と刻まれていた。。先ほど訪ねた「明治郷土資料室」に展示されていた資料には。「記念碑藤沢バイパス道路新設工事のタメ四ツ谷不動尊移転トナリコレガ敷地 藤沢市辻堂字餅塚一番地鈴木得郎氏ノ御好意ニ依リ奉納サレタ依ッテコレヲ記念シ永遠ニ傳へンガ為此ノ碑ヲ建立シマシタ昭和三十八年二月三日 四ツ谷町内会」不動堂はもともと少し南よりにあったが、バイパス工事などの道路改修のために現在地に移されたのだと説明員の方から。この場所が東海道と大山道との分岐点。大山詣りへ向かう人たちが辿る(たどる)"田村通大山道"。「御花講大山道」や「御花講道」とも呼ばれ、東海道と藤沢宿で接続し、藤沢宿を挟み対面の江の島道にも通じるため、最もにぎわいをみせた経路である。神奈川県道44号伊勢原藤沢線や神奈川県道611号大山板戸線が近似したルートを辿っている。経路はここ東海道藤沢宿四ツ谷(神奈川県藤沢市) ~ 一ノ宮(高座郡寒川町) ~田村の渡し(相模川)~ 横内(平塚市)~ 下谷(以降、伊勢原市)~ 伊勢原 ~ 〆引 ~石倉 ~ 子易 ~ 大山に至る道である。東海道を行き交うのは、何も京都を目指す旅人ばかりではなかったのです。旧東海道から見た石鳥居近づいて。鳥居には大山信仰のシンボルの一つであるカラス天狗の顔が。残念ながら鼻がなくなっているのです。左側の柱を奥から振り返って。「萬治四辛丑歳(1661)正月建立之御師 矢野清太夫 御府内石工見世持中 八町堀世話人中 佐久間町 山本新五」と。「昭和三十四年己亥歳五月復元 茅ヶ崎市 端山銀次郎」と。「天保十一庚子歳六月再建之御師村 村山八太夫御府内 石工 若者中 當所 世話人 藤屋平左衛門」と。先ほど訪ねた「明治郷土資料室」に展示されていた資料には。「四ツ谷不動(大山道標)」を「田村通り大山道」から斜めに見る。現在はここから旧東海道(写真左奥)と国道1号に分岐しているのである。「大山道入り口」を後にして、更に旧東海道(県道44号線)を上る。左手の山の斜面に小さな神社が確認できた。藤沢市羽鳥2丁目15−22。鳥居がニ基、旧東海道沿いに。稲荷神社であろうが、小さな社殿が2基あったが、案内板等は設置されていないのであった。「旧東海道」を右に曲がり住宅街を歩く。「羽鳥2丁目」を歩く。神奈中バス停「羽鳥山」を通過。昔はこの周辺は小高い丘になっていたのであろうか?羽鳥の地名の由来には、いくつかの説があり、大昔に住んでいた「はた織」をする一族ハトリベからきたもの、また鶴が飛来していたことから名づけられたものなどがある。この地は4割が水田であったそうだが、今は住宅街に変わり、その面影はない。また羽鳥の北部には、東海道が東西にはしっているが、その昔は大山行者の往来でにぎわっていた。ところが行者達は村の子供たちにお金をまき与えたりしたので、教育上好ましくない状況もおきた。それを憂えた村名主の三觜八郎右衛門は、教育向上のため、明治5年に東京の学者小笠原東陽を招き、読書院を開いた。その後、耕余塾と名が改められたが、耕余塾の評判は高く、やがて神奈川の教育の中心ともなり、かつての総理大臣 吉田茂もこの塾で学んだという。耕余塾は、中学校が普及してきたことなどから明治30年に廃塾となったが、その跡には小笠原東陽の碑が墓地に囲まれてひっそりと立っている とネットから。高校時代にこの付近に住んでいた学友にLINEしてみました。子供の頃の私の記憶ではこの周辺は、水田が広がり山の様な丘があった記憶がないのだが と。すると学友が、『藤沢の地名』という本を図書館から借りて調べて下さいました。「この辺りは松山(林)が連なっていたそうで山のつく地名がたくさんあったと。羽鳥山もその一つであるようだと。今も自治会の名前として残っていると。」 下の写真も送ってくださいました。なるほど「山」のついた多くの名前が確認できたのでした。そして「小笠原東陽の墓」のある「汲田(くみた)墓地」に到着。藤沢市羽鳥3丁目2。「旧三觜八郎右衛門家住宅 約210M先右折 明治地区郷土づくり推進会議・藤沢市 明治市民センター」案内板。案内板の後方にあった「橋供養塔」「橋供養塔の由来昔、この村の受持ちの橋が大雨のたびに流され村人が困難をしておりました。村人が集り相談をしていた所へ西行姿の老人太爺さんと言う人が、橋の架け替えに我が人柱に立とうと言われその後、橋は永く村人が困難をまぬがれました。太爺さんの供養のため建立されたものです。 平成30年5月吉日 明治郷土史料室」この墓地には学校「読書院」を開き後に「耕餘塾」の初代塾長となる小笠原東陽とその娘婿で2代塾長であった松岡利紀と塾生らのお墓があったのだ。右奥に巨大な石碑と六地蔵が。「老梅庵跡」碑。老梅は宗賢院の末寺である。現在は廃寺で存在しないが羽鳥村の鷹山にあったものを徳昌院境内に移したものらしい。汲田墓地内にある老梅庵跡の碑を見ると、手前の卵塔は徳昌院歴代の要石ゆえ当時の様子がうかがえる。残された証文をたどると、庵室は三觜八郎右衛門の廟所とあり、老梅庵は三觜家の菩提所として同家墓所内に設けられたと思われる。「老梅庵跡」碑と「六地蔵」。「六地蔵」に近づいて。「瑞方面山禅師(ずいほうめんざんせんじ)」の遺跡羽鳥鷹山の老梅庵に面山禅師が父母の冥福を祈って千日閉関の苦行を行い、満願の宝永6年正月開関。後に「石書妙経塔」を建立した。石仏、六地蔵を廻り込んで。そして「小笠原東陽墓」。左手には女婿で東陽の没後、2代目の塾長となった「松岡利紀墓」があった。「小笠原東陽・松岡利紀の墓東陽(1830~87)は美作国(岡山県)勝山藩士小笠原忠良の三男として生まれる。3歳の時父を失い、26歳で昌平坂学問所に入り佐藤一斎、安積艮斎に学び、林鶯渓の門下生となるが、明治維新後脱武士として池上本門寺で僧たちに漢字を教えていた。明治5年、羽鳥村の三觜八郎右衛門の招きで村内の廃寺徳昌院に読書院という郷学校を開き、村内幼童の教育指導にあたった。明治5年の学制発布によって読書院は羽鳥学校となったが、東陽はこれとは別に読書院を存続させ独自の教育をおこない、明治11年には学舎を建てて耕余塾と改称した。東陽は明治20年(1887)8月 58歳で没し、女婿松岡利紀がその後を継ぎ、明治30年に廃塾になるまでに村野常右衛門、平野友輔、武藤(金子)角之助、吉田茂など、政、財界を中心に多くの時の人材を輩出した。 昭和63年3月 藤沢市教育委員会」東陽の左には長男・小笠原鍾(あつむ。民権家として活躍)墓。「水子・◯子の墓石薫風院賢室◯峡大姉」と。小笠原東陽の2名の女子の水子の墓であろう。耕餘塾に学び、民権家として活動した「十字架」の刻まれた「平野友輔の墓」もここにあるのだろう。医師、代議士として活躍した人物。「十字架」、「路加」と刻まれた墓碑もあった。多くの無縫塔は徳性院歴代住職の墓石であろう。小笠原家の歴史の刻まれた石碑のようであったが。小笠原東陽の母の慰霊塔であろうか?墓地の東端の道路沿いに赤い屋根の小堂が立っていて、中に2体の大師像があった。「相模国準四国八十八ヶ所」の、右が廃堂になった52番天神山の大師像で、像高47cm。左が明治の初めに廃寺になった78番徳昌院の大師像で、像高41cm。2体の大師像に手を合わせこの場所を後にしたのであった。三觜本家墓墓地の大部分・多数の墓が三觜であるが、奥に一段と大きな墓があったが、三觜家本家の墓と思われる。中央の大きな墓石に「三觜家」と。ここの墓石は全て「三觜家之墓」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.01
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「明治郷土史料室」を後にして「神台公園(かんだいこうえん)入口」交差点まで戻る。「児童クラブ交流会」の看板が。(公財)藤沢市みらい創造財団が運営する児童クラブは基本的に小学校区ごとにあり、・児童の成長を促すこととして次の活動を行っているのだと。・児童の安全と健康を守り、豊かな心を育てる活動・遊びを通して自主性・社会性・協調性を培う活動・生活の場を提供し、生活習慣を身につける活動・家庭との日常的な連絡、情報交換・地域活動への参加など、地域の特性を生かした活動・その他、児童の健全な育成を助ける活動多くの子供達が集まっていたが。前方に「湘南藤沢徳洲会病院」。その手前を右折し、藤沢市道・明治457号線を進む。昔の街道・「大山街道」から分岐した「鎌倉江の島道」であったと。前方、路地の角にあったのが「伊勢屋の墓地」。「江戸時代、二ッ屋付近では街道を行き交う旅人相手に立場茶屋が繁盛したといいます。伊勢屋の先祖は伊勢の出身で立場茶屋を営んでいました。明治維新後は茶屋を廃業して酒屋兼雑貨を扱う店を営んでいたことが知られています。」と頂いた資料から。墓石が並ぶ。「乙磨墓」?。「明治郷土資料室」資料から「いつこより 吹来るものか秋風に 草も我身を 枯れそめにけり」「先祖代々の墓」。道路側にも墓石が並ぶ。中央に「三觜家之墓」と。三觜本家からの分家関連の墓地なのであろうか?「墓誌 三觜家先祖代々之諸精霊位」と。そして東海道・国道1号・「大山街道入口」交差点に出る。「大山街道入口」。手前にあった石碑。廻り込んだが、風化が進んで剥落が激しく文字は確認できなかった。頂いた資料には「⑤二ッ谷の辻ニッ谷はニつ家とも書きこの道筋にニ軒の家があったことから起こった地名ともいわれています。またここは北方向への大山道、南方の光明真言道場道(鎌倉江の島道)への分岐点であり、大山での帰りの信者たちが宝泉寺へ参詣し、更に江の島鎌會方面へ行く途中の休憩所として、ニ軒の立場茶屋があったからともいわれています。」そして上記の石碑は◇常光明真言道場道標(国道南側)光明真言道場と呼ばれた宝泉寺への道標で、同様のものが宝泉寺にもある。旧東海道と明真言道場道と交差する所にある。初め寛保ニ年(1741)伊予国出身の回国行者空山が立てたが、朽ちてしまったので文化六年(1809)に再建した。「常光明真言ロロ 寛保ニ壬戌三月廿一日 願主予州沙門空山 辻堂村宝泉寺」と刻まれていたと。「明治歴史資料室」の展示から。正面に「常光明真言」と。塔身石側面 願主寺州沙門空山 辻堂村宝泉寺 寛保ニ壬戌元三月廿一日塔身左側面 于時文化六巳之ハ月日再興そして正面が「大山街道」。ピンクが「田村通大山街道」と説明員の方から。この場所は「藤沢市」と「茅ヶ崎市」の境界付近。ここから「茅ヶ崎市」と。 横断歩道を渡りると、そこにも石碑が転倒した状態で放置されていた。廻り込んで。裏面、右側面にも文字が刻まれているようであった。「西国坂東秩父巡礼塔」であり享和3年(1803)高座郡用田村の人々により道中安全祈願を目的に建立されたものと。頂いた資料には正面 奉巡禮四國坂東秩父供養塔塔身右側面 あふり山 わけいる道に しおり置 つゆのことのは しるべとはなれ塔身背面 相州高座用田村 角田紋右衛門 宮原村 菊池五右衛門 菱沼村 太田口口 赤羽村 古知屋太郎衛門 同 太郎左衛門 安齏兵左衛門 城田治左衛門ニッ谷の立場:ー里塚を挟んて、四ツ谷とニッ谷の立場があった。ニッ谷の辻にある「奉巡礼西国坂東秩父供養塔」は、大山道しるべにもなており、巡礼の物道に迷って困窮した経験から、大山詣ての人々に道しるべを建てたと云われる。※道標左面の銘文(現在は、剥落判読不明の部分)すぎし年 やつがれは都路より西の国々東越道の国々の宮寺詣せしに わかれの岐をもしらで打越しことありき、あるわき道にかつりもうてしをりも侍り幾されば此里人の語り侍るには、大山詣でする人たちを委しくふたつや(ニッ谷)・小わた(小和田)を討ち過ぎ道しるべする人をやといて直格にロロロはた具儘に詣するなりむ者も有とかやしかあれど、此岐みちは細道なれば、ざして大山道と記難き海道しるべにてはべればとて、或人に一首の歌を乞得て書誌ものならし ↑この一首が、右面の和歌ネットより、在りし日の石碑の写真を。ネットより、在りし日の石碑の写真を。そしてこちらが大山道への道。そして東海道を藤沢方面に上ると「二ツ谷公民館前」交差点の先、左手にあったのが「二ッ家稲荷神社」。ニッ家稲荷は二ツ谷とも書くが、道辻に二軒家、二軒茶屋があったとも言わわたことから此の名がと。藤沢市城南1丁目3。「二ッ家稲荷神社」。そして入口左に道路を背に向けて立っていた「寛文十年(1670)庚申供養塔」。「寛文十年(1670)庚申供養塔」。塔身前面 寛文十庚戌年 奉造立庚申供養 九月吉日正面彫物 日月型 三猿像昭和52年(1977)4月13日指定/舟型光背型、総高125㎝、火成岩(安山岩)製/寛文10年(1670)の紀年銘があり、基礎造り出し部分前面に「相州土戸村道行」(辻堂か)として石井権左衛門以下、造立した庚申講中8名の名が刻まれています。「藤沢市指定重要文化財寛文十年(1670)庚申供養塔庚申信仰は、十干・十二支の組合せによって六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。その源流は、「人の体内にいる三尸の虫が、庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」 とする中国の道教の教えに由来している。江戸時代、万治・寛文頃(1658~1672)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、「庚申講」が結ばれて庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、徹夜で酒食歓談して過ごす庚申待の行事や、供養塔の造立が盛んになった。二ツ家稲荷神社境内の寛文十年庚申供養塔は、総高百五cm、蓮辧型で、造り出しの基礎部の上に別に台座を作り、その上部箇所に正面向きの三猿像を載せる手法をとっている。」。隣に「道祖神塔」。蓮弁光背型 和合ニ神立像。塔身正面 施主吉田氏権右衛門 天明元年丑年九月吉日「二ッ家稲荷神社」の「一の鳥居」。そして「ニの鳥居」。扁額「ニッ家稲荷」。「ニッ家稲荷神社歴表当町稲荷社ハ昔古ヨリ設立延宝七年六月并ニ天明六年九月再築享和三年二月新築天保九年二月再建是マデ修繕致シ束リ今回大破ニ及ビ氏子一同協議之上新築仕リ度何分少数ナル町民負担ニ堪ヘ兼テ有之有志諸氏多少ヲ不満新築費ノ内御寄付被成下度伏テ願 ヒ奉候也明治三十九年氏子一同協議之上新築明治四十三年其ノ筋ニ依リ無格社ハ可拂ヒノ命令ニ依リ一時川澄忠右エ門氏ノ宅地内ニ五ヶ年程置ク大正四年二月川澄藤之助氏功志ヲ以テ神台四二六番地ニ新築セリ昭和十八年太平洋戦争ニ依リ当時ノ海軍省ノ命令ニ依リ稲荷社ノ敷地(参百坪余)ヲ買収サレ物資不足ノ折リ下内地城南一丁目三番地ニ新築ス昭和六十一年屋根ノ損傷ヒドク瓦ヲ葺替同時ニ外装ヲモ一新ス昭和六十二年氏子有志ニ依リ玉垣ヲ奉献ス 平成八年十一月吉日新築ス 二ツ家稲荷神社氏子中」「狛狐」(右)。「狛狐」(左)。こちらにも。こちらにも。そして「三の鳥居」と「社殿」。扁額「稲荷大明神」。二ッ家集落の鎮守社で、祭神は「保食神(うけもちのかみ)」例祭日二月一日、勧請年月日は不明。延宝七年(1679)に再建され、以降明治三十九年まで度々再建を重ねている。昭和十八年春、海軍衣料廠の拡張にあたって、神台2ー8(国道1号線反対側)より現地に移転した。これが、「寛文十年(1670)庚申供養塔」が道路に背を向けている理由であろうか。ここにも狐様が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.31
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さらに「明治郷土資料室」の見学を続ける。城南にある養命寺の本尊で、国の重要文化財に指定されている「木造薬師如来坐像」。「木造薬師如来坐像」は、今から約821年前、大庭景親所領を与えられた鎌倉幕府の有力御家人、三浦義澄が作らせたと言われている。国の重要文化財となった現在は、鎌倉国宝館に保管されているが、薬師如来や薬師経信者を守る十二神将像は同寺に安置されている。2018年2月1日、曹洞宗・養命寺にある「木造十二神将立像」を藤沢市指定重要文化財に指定。これにより市内所在の指定文化財は、市指定77件、県指定14件、国指定8件となった。十二神将とは、仏教の信仰・造像の対象である天部の神々で、薬師如来・薬師経を信仰するものを守護するとされる12体の武神。鎧に身を包み、手には武具を持ち、頭には干支の動物を付けている。有名なところでは、奈良市の新薬師寺にあるものが国宝に指定されている。市郷土歴史課によると、今回指定した立像は、15世紀(室町時代)に製作されたもので、檜材の寄木造。像高72・4cmから78・5cm(台座除く)で、一般にあるものに比べるとやや小ぶりだが、藤沢・鎌倉地方の中世仏像の指標となるものだという。さらに、立像の中には銘文や修理札が状態良く保存されており、1521年(永正18年)から明治初期におよぶ数回の修理年代や、それに携わった鎌倉や江戸の修理仏師の名が明らかである点も貴重だと評価した と。そして「わがまちの誇り「耕餘塾」」のコーナーへ。「小笠原東陽」と「松岡利紀」。「耕餘塾(こうよじゅく)(1872年~1897年)●耕餘塾の生まれる背景羽鳥村は藤沢宿、四谷宿に近くお酒や賭博に染まり貧しく荒廃していた。こどもたちも、旅人に銭をねだることもあった。羽鳥村を良くするために学問が必要であると三觜家の人は考え、江戸より小笠原東陽先生を招いた。●耕餘塾の誕生1872年(明治5年) 3月、池上本門寺南谷檀林で漢学を教えていた小笠原東陽先生が羽鳥村の三觜ハ郎右衛門家(元名主)と小三郎家(分家)の支援のもとに、廃寺徳性院で教授する。教場は徳性院の名にちなみ「読書院」と命名。●読書院 1872年~ 1876年(塾主:三觜ハ郎右衛門、教員:小笠原東陽)男女生徒が学んだが、学制の施行で児童は羽鳥学校へ移る。特別(中等)教育を始める。 ◯学科 読書、算術、習字、修身、作文の5学科。 ◯教科書 四書、考経、世界国尽、国郡訓義、国史略、十八史略、西洋事情、日本外史、政記、 文章規範、八大家文読本。●耕餘塾 1877年(明治10年) 1月~ (塾長兼教員:小笠原東陽)趣旨は『農家ノ子弟耕耘収穫ノ余カヲ以テ五学科ヲ研究セシム』 ◯学科 読書、算術、習字、修身、作文の5学科 ◯学年 第1学年から第4学年、等級は8級から1級まで、期間は各6ヶ月。 ◯授業 午前6時起業、7時朝食。8時~ 12時・午後1時~ 4時まで9時間授業。東陽先生4時間、 残りは助教が担当。 ◯休日 日曜日、祝祭日、国幣社大祭日、村社祭日、塾主家祭日 ◯入学年齢 原則として、14歳以上。ただし、小学年齢であっても、学力の度合いによって 入学が許可。入学者は男子のみ、寄宿か通学かは自由。予備学科として前期後期1年。 ◯塾生費用 入門費金五拾銭、毎月在籍料 金ニ円八拾銭(随時変更) ※塾費の額について、 現在の額との換算は難しい ◯耕餘集 1880年(明治13年) 10月第一集から、1886年(明治19年) 4月第六集まで発刊。 塾生70人の詩152篇、文章48篇が収められ、文章中の42篇に小笠原東陽先生の 短評が付く。●耕餘英和学校 1885 ~ 1886年(明治18 ~ 19年)頃(塾長:小笠原東陽) 教則を改め、英学大家の平井忠雄先生を招聘(しょうへい)して英学科を増入。英書籍にミルや スペンサー著使用。●耕餘義塾 1890年(明治23年) ~ 1897年(明治30年) 9月9日(塾長:松岡利紀) 寄付などによる公益の体制として「耕餘義塾」と名称が変更。高度な教則のもと授業がなされ、 良家の子弟が学ぶ 校長 小笠原 鍾(1887年~ 1888年の一年間) 塾長兼教員 松岡 利紀(1888年~ 1897年の10年間) 教員 小沢市三郎(英学)・村上(内山)守倫(英学)・田中元次郎(英学)・ 杉野鉾太郎(数学)・對馬運作(数学)・前田定之介(英学)・三觜ハ郎(英学)・ 中島 繁(数学) 管理者 三觜ハ郎右衛門 金子小左衛門 維持者 三觜ハ郎右衛門 金子小左衛門 今福元頴 大嶋正義 平野反輔 小笠原鍾 牧野随吉 梅原良 ほか 賛成員 三觜小三郎 小泉与左衛門など多数 ◯本科3か年、修業6か月で進級 訳読、語学、数学、地理、漢学、作文、英習字、和習字、文法、代数、幾何、植物学、 動物学、簿記、翻訳、化学、経済学、翻議、三角術。洋書籍、漢書籍などが使用 ◯予科では、綴字、訳読、語学、漢学、作文、英習字、和習字。 ◯学費 入塾金1円。授業料70銭。舎費30銭/通学生は20銭。賄および浴湯料2円20銭 (物価の高低で増減あり)●閉塾1897年9月9日夜、大暴風雨のため塾舎倒壊により閉塾。1900年8月31日神奈川県知事に管理者より「閉校之儀御届」提出。」小笠原東陽(おがさわらとうよう)(1830年~1887年)1830年(天保元年) 9月13日、作州(岡山県)勝山藩士の三男として江戸谷中で誕生。3歳で父を失い、姫路藩士奥山家の養子となる。奥山鉄四郎と名乗る。本名は董(ただす)、字は公威(こうい)、号は半漁(はんりょう)。1832年(安政2 )、昌平坂学問所(昌平黌)に入る(26歳)。儒学者の佐藤一斎・安積良斎に、学ぶ。つづいて林家の藕演塾に移る。1861年(文久元年)、姫路藩江戸邸学問所の学頭助となる。その後、姫路藩をはなれ小笠原の本姓に戻る。易占いで生計を立てるが、日々の暮らしは大変貧しかった。1869年(明治2) 6月、池上本門寺の南谷壇林(なんこくだんりん)に招かれ約4年間漢学を教える。檀林の生徒のなかに、羽鳥村の三觜治香(ちか)がおり、羽鳥村に遊ひに来て、三觜家の人々と出合う。1872年(明治5年) 3月、三觜ハ郎右衛門(本家)、三觜小三郎(分家)両家の招聘に応じ羽鳥村に転居。三觜家の多大な支援の下に、「読書院」を開く。同年『学制』の施行により公立耕餘学校と私塾「読書院」(中等教育)の両方て教鞭をとる。1877年(明治10年) 1月、新塾舎が完成し、塾名を「耕餘塾」改称。その後、英学を取り入れ「耕餘英和学校」へと発展させる。1884年(明治17年)舂頃より肺結核を発病、1887年(明治20年) 8月12日、58歳をもって永眠。教育の功績に対し、1877年(明治10年) 9月神奈川県から表彰。1883年(明治16年) 1 1月文部省から表彰。ニ松学舎山長の三嶋毅(昌平坂学問所の同門)は、「東陽のように死後も敬慕されること万分の一ほどでもありがたいものである。東陽は学問の栄光たらんことに力を注き自ら栄光を望まなかった。卓識というべきである。」と述べている。松岡利紀(まつおかとしのり)(1844年~1907年)1844年(弘化元年) 3月8日、美濃(岐阜県)高須藩士の家に誕生。字は大綱、号は拙鳩(せっきゅう)。8歳にて藩校(日新堂)に入り、漢学を修める。1860年(万延元年)林家の藕潢塾(ぐうこうじゅく)に入門し、林晃先生に漢学を学ぶ。小笠原東陽先生は藕潢塾での同門であり師である。その後、京都で漢学修業。1866年(慶応2年)名古屋藩校の鷲津宜光先生のもとで1年半あまり文学を学ぶ。1868年(明治元年) 4月、高須藩の貢士(こうし)(藩から選抜された政府の役人)となる。同年7月行政官、同時に刑法官の辞令を受ける。同年9月神祇官(じんぎかん)御用を仰せつかり、神社との関係が始まり、各地の神社で宮司などを勤める。鎌倉宮宮司時代、小笠原東陽先生の長女りかと結婚。1873年(明治6年) 7月から翌年の11月まで文部省の依頼で、川田剛(子息は辻堂に住んたことのある歌人川田順)のもとで、国史編纂の助手をする。1888年(明治21年) 7月、耕餘塾の先生となる。同年9月に塾長となる。1890年(明治23年)塾名を「耕餘義塾」と改称する。この時期、吉田茂が在籍している。自ら「源氏物語」「平家物語」などを書き写して、教材とし講義する。1897年(明治30年)、耕餘義塾閉塾。1901年(明治34年)中郡立中部学校(金目村堀の内)の教員となる。1907年(明治40年) 9月9日教授中に突然倒れ逝去、享年64歳。「小笠原東陽邸宅」模型。「松岡利紀(としのり)(拙鳩)翁碑銘」拓本。そして「耕餘塾常設展示」へ。右側、正面の展示。近づいて。「はじめに明治の初め私たちの藤沢市の羽鳥に『耕餘塾』という素晴らしい学校がありました。ここでの教育理念は、『人間の育成』で多くの人が高度な中等教育を受け、後に日本の近代化に貢献しました第二次世界大戦後の日本の復興を成し遂げ、名宰相と言われた吉田茂元総理大臣も、11歳からここで5年間学び、政治家となる資質を成長させました。明治5年(1872)に羽鳥村の大地主であった三觜八郎右衛門(本家)と三觜小三郎(分家)が、著名な漢学者小笠原東陽を東京から招き、廃寺を教場に、私塾「読書院」をはじめました。しかし明治政府の(学制)の施行に伴い、翌年「読書院」は公立の小学校に位置づけられました。そこで東陽は学齢の高い子弟には漢学を中心にした中等教育を存続します。明治10年(1877)新し塾舎も新築され「耕餘塾」が誕生しました。塾の名称はこのあと二回変わりますが、ここでは一貫して社会で役に立っ能力を身につけることと、よき人間作りをめざしました。さらに時代の変化とともに英語など西洋の学問を取り入れてゆきます。東陽は、明治二十年(1887)病気のため五十八歳で他界します。その後、娘婿の松岡利紀が塾長を継ぎ、教員を増やし新しい教科を加えるなど内容の充実がはかられましたが、明治三十年(1897)、暴風による塾舎の倒壊で閉塾を余儀なくされました。「読書院」に始まった「耕餘塾」の二十五年で学んだ生徒は、千人を超えていました。吉田茂はじめ、「味の素」の創業者鈴木三郎助兄弟、医者で民権家の平野友輔衆議院議員、山梨半造陸軍大将、外山亀太郎農学博士ほか、多くの政治家、実業家、教育者などがこの塾で学び社会で活躍しました。小笠原東陽と松岡利紀の両先生が私学教育に尽くした功績は不朽のもので、藤沢市民の誇りとするものです。この教育理念を風化させることなく後世に語り継ぎ、教育の大切さを再認識したいと思っています。 明治郷土資料館」下部の写真は「第13代目三觜八郎右衛門(佐次郎)」(左)「旧三觜八郎右衛門家住宅 薬医門」(右)「耕餘塾の始まり 「読書院」から「耕餘塾へ」明治の初め頃、羽鳥村は貧しい家も多く、学問や教養は低く、大人はお酒や賭博に染まり、こどもたちの一部に旅人にお金をねだるという良くない風習がありました。教育の必要性を強く感じていた三觜家の人々は、池上本門寺の南谷壇林で僧侶などに漢学を教えていた小笠原東陽を羽鳥村に迎えることとしました。前年に三觜家に八日間招かれ歓待され、良い印象を持っていた東陽は、快く羽鳥村に移って来ました。明治五年(187)三月廃寺「徳昌院」を教場として『読書院』が始まります。当初は教育の必要性の感じていない人々で、学問を学びにくる人は希でした。三觜家の呼びかけで仕事を終え夜しぶしぶやって来た人々に、東陽は、たくみな話術で水滸伝を語り、論語や孟子の話をしました。その面白さに人々は感動し、親しみを持つ人が増えてゆきました。さすが昌平黌(江戸幕府の昌平坂学問所)出身の先生だ、という評判を聞いた人々が自分の子供を通わせるようになり、ここで学ぶ子供の数が増えて行きました。この年八月には明治政府の学制」が公布され、各地に公立小学佼を作ることになりました。羽鳥村では、翌年「読書院」が「耕餘学校」(のちに「羽鳥学校」)と改称され、現在の明治小学校の前身となる神奈川県で最初の公立小学校となりました。一方、東陽は、広く社会的な教育を考え、学齢の高い子弟に特別に中等教育を続けることとしました。東陽はこの公立と私塾の両方の教師でした。」*三觜家の人々代々羽烏村で名主を務めた大地主の家で、明治時代まで代々三觜八郎右衛門を名乗ってきた。羽島村の農民の4分の3が同家と小作関係を結んでいたといわれている。土地の指導者として、教育にも熟心で、身内の人には教育を受けさせた。三觜八郎や三觜茂市(幼名は治香)が池上本門寺の壇林で東陽から学んでいた。八郎はその後、京都の同志社で英学を修め、耕餘塾で教えた。*小笠原東陽先生の人となり1830 (天保元年) 9月13日、岡山県勝山藩士小笠原忠良の三男として江戸谷中で誕生、三歳で父を失う。姫路藩士奥山家の養子になるが、幕末に小笠原の本姓に戻る。東陽、半漁と名乗るのは、羽鳥村に来てからになる。26歳のとき昌平坂学問所(昌平黌)に入り、高名の儒学者佐藤一斎及び安積良斎のもとで約4年間学び、その後、林家の藕潢塾に移り漢学をめた。1861年姫路藩に戻り、江戸邸学問所の学頭助として教育に従事する。38歳の時、士録を返し平民になる。1869年池上本門寺の南谷擅林で4年間漢学を教える。当時の家族は、夫婦、子ども4人と義母の7人である。生活は、なかなか大変だったようだ。1887年(明治20年) 8月2 0日逝去。「東陽の中等教育は大きな成果を上げ、近隣の村や町から生徒が集まってきました。学年、学科、規則などきちん定められ、高度な教育内容でした。名声が高まるにつれ、寺の教場は狭くなり新しい塾舎を立てることになりました。明治十年(1877)、三觜八郎右衛門が提供した六百坪の土地に塾舎が完成しました。工事費千数百円は、有志によって賄われました。新塾舎は、講堂、寄宿舎、炊事場、浴室、井戸があり、運動場もありました。新塾舎完成を機に、塾は『耕餘塾』と命名され神奈川県に届けられました。「耕耘収穫の余力から耕餘」、すなわち「農作業をしたうえで、なお余ったカで勉学を行う」。労働と学問の両立をめざして付けられたのが『耕餘塾』です。「耕餘塾」では、「読書院」時代よりさらに、学科、教科書、教員など充実させました。年に八十人から百人近くの塾生が学び、社会に出て活躍しました。耕餘塾では、漢学は重要な位置を占めていました。塾生は、漢文で作文を書き、漢詩も作っていました。これ塾生の漢詩や漢文作品を集めて明治十三年から十九年までに、第六集までの『耕餘集』を発刊しています。」「英学を入れての「耕餘英和学校」そして東陽死去文明開化を謳歌する明治時代、政府は欧米の新思想や学問を取り入れることに積極的でした。中でも実証的、経済的なものがもとめられ、ミルやスペンサー系の学風が好まれました。そういう時代の流れをうけ、「耕餘塾」も欧米の語学や思想を教科に取り入れます。明治十八年(1885)、名称を「耕餘英和学校」とし、塾教則を改正し、「本塾は専ら英漢学を修めるものとす」とします。初代文部大臣に森有礼がつき、小学校から大学令までの法令と、新育行政改革によって教育改革が具体化されます。これを受け東陽も塾を改革しました。しかし、東陽は前年ごろから肺の病気にかかり、塾の運営が困難となり、塾を三觜八郎右衛門と金子小左衛門に託します明治二十年(1887)になり、東陽の病が重くなり、八月十ニ日、家族に看取られ五十八歳をもって永眠しました。「耕餘英和学校」の校長には、長男で医者の小笠原鐘がなりました。」「鈴木 三郎助(2代) (1867~1931) 明治~昭和の実業家慶応3 (1861)年12月三浦郡堀内村(葉山町)、米穀酒類商鈴木三郎助(初代)の長男として生まれる。幼名泰助、のち三郎助(2代)を名乗る.明治10 (1877)年羽鳥村(藤沢市)の小笠原東陽の耕餘塾に学び、その後明治13 (1880)年、浦賀の酒商加藤小兵衛商店へ奉公した後、明治(1884)年に家業を継ぎ、酒類や穀物などの販売店を営んだ。この頃、母と妻は昆布からヨードを作る仕事をしており、明治23 (1890)年、弟の忠治(耕餘塾に学んでいる)らと海藻「かじめ」を原料にして沃度の製造を開始した。沃度ホルム・沃度加里・硝石などの製造にも力を注ぎ、明治39 (1906)年3月関東沃度製造同業組合を組織し組合長となる。明治41 (1908)年10月池田菊苗博士が発明したグルタミン酸塩を主成分とする新調味料の製造に着手し、翌42 (1909)年「味の素」として売り出した。大正6 (1917)年、株式会社鈴木商店(味の素株式会社前身)を設立する。一方、同年東信電気会社を創設し電気事業にも尽力した。昭和6 (1931)年没。享年65歳であった。」「耕餘塾に学んだ元内閣総理大臣 吉田 茂10の出来事でたどる吉田茂の生涯(左)1889 (明治22)年に、耕餘義塾に入学。1894 (明治27)年まての5年間在学する。ここでの高度な教育が、名外交官ならしめ、名宰相として戦後の復興の原動力となった。在学当時のことについて、秘書官の杉浦徳氏に「耕餘塾の時、近くにタ食の豆腐の買い物に行かされてね。ところが、豆腐屋と塾の間に溜池があるんだ。そこに狐が出るという噂があった。薄暗いなかを溜池のそばを通り過きる時、さすがに恐ろしくて震えたもんだよ。」ともらした。三觜ハ郎右衛門の長男舜太郎氏(吉田茂と同門の親反)の夫人ヒサさんは、「元気のいい人で、木登りをしていたことを覚えています。子どもの頃の茂さんは頭が良くて、書いた論文が立派だったのが頭に残っています。」と語っている。茂の三女麻生和子さんは著書『父吉田茂』の中て、「スイカを割らずに食べる方法を知っているかい」と聞かれ「ムギワラを突っ込んて吸い出すと、甘い中身だけが吸い出せる」と子ども時代のことを得意そうな顔をして話したと書いている。1967 (昭和42)年逝去。享年89歳。」「小笠原東陽」の筆のものか?そして左側の展示。「多士済々の塾生たち藤沢の羽鳥の地に明治三十年まで二十五年間続いた「耕餘塾」からは、昭和二十年代戦後の復興に貢献し、名宰相と言われた吉田茂を始め、政財界、学術界、自由民権家など明治維新後の日本の近代化に大いに貢献した人材を多く世に送り出しました。小等原東陽の時代からは、平野友輔、牧野随吉、ニ代目鈴木三郎助兄弟などがあげられます。平野友輔は衆議院議員になり、神奈川県で医師会を創立させています。牧野随吉は、神奈川県会議員になり、綾瀬のみならず神奈川県の政治・農政など幅広い活躍をします。「耕餘塾」では優等生で助教や寮長を勤めています。二代目鈴木三郎助は、味の素を売り出し、世界的な会社を創り上げます。松岡利紀の時代の代表は、なんと言っても吉田茂です。「耕餘塾」に十一歳で入塾し、五年間学びます。ここでの勉学が名宰相になる礎を創り上げていったのです。他にも多くの人材を輩出しました。」「新体制なる耕餘義塾明治ニ十一年(1888)、東陽の長女の夫・松岡利紀が塾長となりました。明治〇〇年、名称を「耕餘義塾」と改め、寄付などを集め、充実を図ります。松岡塾長は、自ら「源氏物語」や「平家物語」などを書き写し教材とし、日本の古典文学の教育にも力を入れます。「耕餘義塾」の学科は、中等教育ということですが、高度の教育がなされていました。このころ「慶応義塾」と「耕餘義塾」の関係が密接になります。「慶応義塾」から教師が迎えられたり「耕餘義塾」の塾生が「慶応義塾」へ入塾できるようになっていました。この時代に、吉田茂は「耕餘義塾」で五年間学びます。塾の教育がいかに高度であったかを物語る例として、吉田茂の論文があります。内容といい文章といい素晴らしい論文を今の中学生の年齢で書いています。」写真:松岡利紀先生の墓(汲田墓地)。「「耕餘塾」の諸先生開設当時は、東陽が一人で教えていました。「耕餘塾」の評判が上がり生徒が増えるにつれて、塾生の中から助教師を選び教えるようになりました。牧野隨吉・三觜(飯島)昇・加藤松之助・山梨半造・石上憲定など十数名が明らかになっています。明治十八年頃からは漢学中心から英語や洋学を取り人れ、学科の充実を図っています。この頃から積極的に外部から教授陣を人れるようになります。特に「慶應義塾」出身者が多く教授人に名を連ねています。「慶應義塾」出身者としては、教頭兼幹事を勤められた内山(村上)守倫、小沢(久保)市三郎(英語)、田中元次郎(英語)他がいました。そのほか、「同志社」出身の三觜八郎(英語)、外国語学校出の杉野鉾太郎(数学・英語)、「宮城師範」出の対馬運作(数学)などがいました。」「「耕餘塾」と自由民権運動明治政府は、日本の近代化に取り組んできました。封建時代の士族が没落し、不平氏族が鹿児島の西郷隆盛の下に集まり新政府と戦います:この西南の役後国会開設を求める言論運動が盛んになります。この自由民権運動は、憲法の制定・議会の開設・地租の軽減・言論の自由や集会の自由などの要求を掲げ、明治二十三年の帝国議会開設まで続きました。板垣退助や大隈重信などが活躍した明治の自由民権運動には、「耕餘塾」の塾生や父兄の四、五十名が参加し、日本の近代化に大いにカを発揮しました。主な民権家としては、村野常右衛門、平野友輔、小笠原鍾、武藤角之助、牧野隨吉、大島正義らが挙げられます。東陽は、よく「平民は天民なり、天民は不羈(ふき)なり」と言われていました。(耕餘第二集序)これからは平民の時代だという強い信念を持って指導されました。「耕餘塾」は、若き塾生たちが新しい民権思想を自由に学べる場になっていたのでしよう。」「耕餘塾年表」。●明治5年(1872年)3月 - 羽鳥村の廃寺であった、徳昌院の庫裏を校舎として、名主の 三觜八郎右衛門が、小笠原東陽を招いて郷学校読書院を開設する。●明治5年(1872年)8月 - 学制により、読書院は羽鳥学校(現在の藤沢市立明治小学校)に 改称され、生徒の多くはこちらに移ったが、小笠原東陽は、これとは別に読書院を私塾として 存続させる。●1878年(明治11年) - 入塾者が増加したため、新校舎を落成し、塾名を耕余塾に改め、 変則中学となる。●1887年(明治20年)8月 - 小笠原東陽が没し、松岡利紀(東陽の娘婿)が塾長となり、 耕余義塾に改称する。●1896年(明治29年)11月16日 - 耕余義塾卒業生の慶應義塾高等科第三等第一期への 無試験編入の契約を結ぶ。●1897年(明治30年)9月8日 - 大風で全学舎が倒壊する。●1900年(明治33年)8月31日 - 再建できず、閉塾する。「耕餘塾舎」案内図。「東陽先生旧宅」案内図。拓本「小笠原先生碑」。この石碑は「耕餘塾跡」に立っていたのであった。「養命寺」。養命寺 本尊「木造薬師如来坐像」。「お地蔵物語」。「東海道鐵道寿語録」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.30
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「本立寺」を後にして、道路の反対側にある「明治市民センター」に向かう。「明治市民センター」前の黄葉。「明治市民センター(明治公民館)」2階に、地域のボランティアである明治郷土史料室運営委員会により運営されている「明治郷土史料室」があった。東海道筋の歴史や耕餘塾など、藤沢市明治地区の歴史・文化史料を展示していた。明治地区には、藤沢市の教育施設の先駆けとなる耕餘塾という私塾があり、教育者小笠原東陽らが指導に当たった。後年総理大臣となる吉田茂をはじめとし、多くの政治家・実業家・教育者・社会活動家を輩出し、日本の発展に大きく貢献した。ここ明治郷土史料室にて、旧三觜八郎右衛門家住宅、耕餘塾の貴重な資料を見ることができたのであった。資料館の入口にあった灯籠。その下にあったのが「「わがまちの文化財」~仏像と石造物を中心に~展」案内書。「「わがまちの文化財」~仏像と石造物を中心に~展私たちが暮らしている明治地区に残されている仏像や石造物について近年明治地区においては大規模マンション建設や宅地化が進み、石造物の移動や逸散(散逸)が危惧されることから 2019 年に明治地区の辻堂神台・城南・羽鳥と大庭及び稲荷地区の一部にわたり、その現況を再調査し、石造物と地域住民とのつながりや歴史的意義について後世に伝えることを目的に実施し「明治地区石造物調査報告書」としてまとめました。石造物の多くは、江戸時代の庶民信仰の対象として造立され、露座で数百年の風雪に耐え先人の祈りを伝えてくれています。 明治地区には、まだ多くの石造物が残されており、現在では主に神社や寺院の境内に移設され、大切に保存されています。しかしながら年月の経過に伴い、失われていくものも多くあります。今回、石造物調査報告書より主なものを取り上げ、表題「わがまちの文化財~仏像と石造物を中心に~」として企画展示しました。●展示期間:2023年9月5日(火曜日)~2023年11月30日(木曜日)●時 間:午前10時~午後3時●休館日:日曜日、月曜日「わがまちの文化財~仏像と石造物」展。「明治郷土資料室」。「明治郷土史料室の主旨わが住む町明治地区は、歴史に裏付けられた古くから有形無形の文化が育まれてきました。特に明治初期に羽鳥に在った耕餘塾は、戦後日本の再建に多大の貢献をした名宰相吉田茂をはじめ多くの政治家・実業家・教育者・社会運動家等を輩出し、日本の近代的発展のために多大なる貢献をしました。これら耕餘塾を中心とする私たちの誇れる郷土の文化・歴史遺産を風化させることなく後世に残し、日本の教育・社会の発展のための一助となることを多くの住民が強く望んでまいりました。明治地区に残る文化・歴史資料を発掘し、展示することで、この明治地区の文化・歴史を一人でも多くの方々に知っていただきたいと思います。ここに明治市民センターの改築に合わせ明治郷土史料室としてスタートいたしました。 平成19年3月28日 明治郷土史料室運営委員会」入口近くにあったのが「耕餘塾」の模型。正面から。「耕餘塾 制作者:磯谷二郎氏」。そして「旧三觜八郎右衛門家住宅」の模型。「旧三觜八郎右衛門家住宅」は、明治11年(1878年)に13代八郎右衛門が建てたもの。良材をふんだんに用いた質の高い造作で、2階座敷をもつ民家として極めて早期の例であること、洋風意匠を加味した商家風の家構えからは旧東海道沿いの富裕な地域性も反映されている点等が評価され、平成25年(2013年)に国登録有形文化財に登録された。廻り込んで。位置を変えて。「旧三觜八郎右衛門家住宅」1階平面図。「旧三觜八郎右衛門家住宅」2階平面図。2022年に取り壊しされた羽鳥の国登録有形文化財「旧三觜八郎右衛門家住宅」を忠実に再現した50分の1の模型が2021年11月17日、明治市民センターに寄贈された。寄贈したのは大和市の五十鈴中央(株)(本郷正信社長)。本業の自動車や家電の鉄板を扱う三次元測定技術を生かし、3Dデータ化。それを基に保存・活用してもらおうと模型を作った。寄贈式には鈴木恒夫市長や明治郷土資料室運営委員長の三觜清次さんら関係者が出席。本郷社長は「郷土愛あふれる藤沢に向け、子どもたちの興味、関心を持つきっかけになれば」とコメント。鈴木市長は「素晴らしいプレゼントをいただいた」などと感謝を述べた と。2014年1月15日(水) ~ 3月30日(日)の展示期間で開催された「旧三觜八郎右衛門家住宅展」案内書「国登録有形文化財(建造物)指定記念旧三觜八郎右衛門家住宅展今回の展示の趣旨明治初期に建築された「旧三觜八郎右衛門家住宅(主屋・門・石塀)」が、国国登録有形文化財(建造物)として、平成26年1月に認定証が授与されることとなりました.今回、有形文化財認定を記念し建造物を中心に紹介する特別企画展示を開催します。建物を活かし、文化を生かす。わが国には、建造物や絵画・彫刻・考古資料なと、歴史的な価値をもつ有形物のうら、歴史・芸術上、学術上価値の高いものを保護する制度があります。国のほか、各都道府県や市町村も、それぞれの条例によって文化財指定の制度を定めています。指定文化財は、後世までそのままの姿で長く継承する事を目的にしています。指定文化財を補い、もっと幅広く多様な建造物を保護する仕組みとして、国の制度として「登録有形文化財」があります。国に登録して、それを公開することによって社会全体で保護することになります。この度、旧三觜ハ郎石衛門家住宅が、薬医門と石塀と共に「登録有形文化財」に登録されました。明治郷土史料室とは・・・私たちが住むこの明治地区には、歴史に裏づけされた古くからの有形無形の文化が育まれてきました。特に明治期に羽鳥の地にあった耕館塾は、名宰相吉田茂をはじめとする多くの政治家・実業家・教育者・社会活動家などを輩出し、日本の近代的発展のために多大なる貢献をしましに。郷土資料室は、これら耕餘塾を中心とする私たちの誇れる郷土の文化・歴史遺産を風化させることなく後世に残し、教育・社会の発展の一助にとの思いで設置されました。明治地区に残る文化・歴史史料を発掘し、展示をすることで一人でも多くの方に知っていただきたいと思います。 明治郷土史料室運営委員会門 ー薬医門、その他の門いろいろー三觜家の正門は、格式の高い「薬医門」です。昔は、公家や武家屋敷の正門などとして用いられました。扉をなくして医者の門として用いられたのでこの名前が付きました。また矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」から来たとも言われています。この薬医門は、この近隣でも寺院や元名主だった家などに残っています。特徴ある門の種類👈リンク三觜家について「藤沢郷土史」(加藤徳右衛門著)の中で三觜家の事に触れている。当家の三代目三觜出◯は原野を開拓し羽鳥郷を開拓し、三觜家の地位を固めました。十代目の三觜大助という人も優れを人物で三觜本家が「大三觜」と呼ばれるのは、この人に由来するとのことです。江戸時代になって名主制度ができ、三觜家は名主役を明治4年(1871)まで勤めました。13代八郎右衛門(佐次郎) 10代目の大助に劣らず人格に優れ、温厚寡黙な人で、勤めて産業の興隆に意を注ぎました。引地脇の山上の原野に広大な茶畑を作って製茶業を興し、相模小麦の特徴を利用して醤油醸造を開始しました。近代の三觜八郎右衛門家が地域に貢献したした最も大きな事業は、教育活動と言えるでしよう。13代八郎右衛門(佐次郎) は地域の風習が荒んでいることに心を痛め、当時池上本門寺で漢学を教えていた小笠原東陽先生を招聘して、郷学校(幕末から明治初年にかけて民間の有志が設立した学校で廃寺の徳昌院を利用したもの。東陽は読書院と命名)を設立しました。その後、東場は学制の発布によって名称を耕余学舎に変更しますが、明治10年三觜家等の助力で公立の小学校(藤沢市立明治小学校の前身)と別に私立「耕餘塾」を新築しました。塾の名称は東陽没後耕餘英和学校、耕餘義塾と変わり明治33年閉校するまで政治家や実業家、教育者など近隣地域のリーダーとなる数多くの人材を輩出しました。三觜八郎右衛門(佐次郎)は、子息舜太郎を同校に学はせただけでなく、経済的援助を惜しみませんでした。同塾の寄宿舎は、同家の家屋の一部を提供したもので、同家の徳を慕って多くの卒業生が卒業後も訪れています。元内閣総理大臣吉日茂も同塾卒業生で、若き日に三觜ハ郎石衛門(佐次郎)へ宛てた書状に「錦地(耕余塾のあつに羽の地)は小生の第ニの故郷」と記しています。同家1 4代となる舜太郎(1867 ~ 1953 )は明治40年に合併した藤沢町で町会議員(大正3年から1期4年)、同町学務委員(大正8年から1期4年)を務めていますが、地方財界に進出し、地域開発も手がけるなど地域の発展のために尽くしました。明治後期の藤沢では、全国の地方商業都市と同じく地方銀行が設立されますが、舜太郎は藤沢に本拠を置いた「関東銀行」に出資して取締役(重役)になり、またJ R相模線の前身である相模鉄道(大正6年設立)では、取締役から2代社長(大正12年~ 14年)を務めています。地域開発では羽鳥山に「別荘的住宅」羽鳥山住宅を開き、昭和初年に分譲を開始しています。明治早期に13代ハ郎石衛門(佐次郎)によって建てられた三觜家住宅は、現在三觜舜太郎の孫娘である◯◯京子氏が所有され、三觜家の名代として継続して守ってきています。」「登録有形文化財第14ー0182ー0184号この建造物は貴重な国民的財産です文化庁」「わがまちの文化財~仏像と石造物を中心に~展」。「わがまちの文化財~仏像と石造物を中心に~展趣旨私たちが暮らしている明治地区に残されている仏像や石造物について近年明治地区においては大規模マンション建設や宅地化が進み、石造物の移動や逸散が危惧されることから2019年に明治地区の辻堂神台・城南・羽鳥と大庭及び稲荷地区の一部にわたり、その現況を再調査し、石造物と地域住民とのつながりや歴史的意義について後世に伝えることを目的に実施し「明治地区石造物調査報告書(明治地区郷土づくり推進会議歴史文化部会)」としてまとめました。石造物の多くは、江戸時代の庶民信仰の対象として造立され、露座で数百年の風雪に耐え先人の祈りを伝えてくれています。明治地区には、まだ多くの石造物が残されており、現在では主に神社や寺院の境内に移設され、大切に保存されています.しかしながら年月の経過こ伴い、失われていくものも多くあります。今回、石造物調査報告書より主なものを取り上げ、表題「わがまちの文化財~仏像と石造物を中心に~」として企画展示しました。」「藤沢市明治地区の石造物 鶴見大学文学部文化財学科 教授 緒方啓介藤沢市の石造物ついては、昭和58年度から平成五年度までの10年問にわにり実施された藤沢市文化財総合調査によって、ほぼ全市域の悉皆調査が終了しており、その成果は『籘沢市文化財総合調査報告書(以下、『報告書』と省略する)第一集から第十集により出販されている。当時、藤沢市文化財保護委員長をされていたのが石造物の研究者であった故服部清道博士であったため、藤沢市では数多くの石造物や建造物や有形民族文化財として指定を受け、保護されている。筆者は、当時神奈川県社会教育指導員として藤沢市教育委員会に嘱託職員として在籍し、文化財総合調査の事務局兼調査員として仕事をしていた。今回、明治地区郷土づくり推進会議が行った石造物調査は、明治地区の辻堂神台・城南・羽鳥と大庭及び稲荷地域の一部にわたり、その現況を再調査し石造物と地域住民の生活とのつながりや歴史的意義を周知して、後に伝えることを目的としている。明治地区の石造物については、すでに平成元年刊の『報告書』第四集に所収されているが、すでに30年を経過している。この間の明治地区では大規模マンションや宅地化が進み、石造物の移動や散逸が危惧される点からも、今回の調査は意義のあるものといえる。今回行われた石造物調査は、明治地区に残される石造物のごとく一部の確認調査にとどまっているが路傍で風雨にさらされる石造物は日々劣化している現状が確認された。また開発などで散逸したり盗難にあう石仏も出てくる可能性も考えられる。これらを最小限に防ぐ対第にしては、日々地域住民が先人の残した歴史遺産に敬意を払い、未来に守り伝えていく気持ちを忘れないようにすることが大切である。」1、石造物の種類(1)石仏*仏像塔 釈迦・阿弥陀・薬師などの効果、観音・地蔵・弥勒などの菩薩、不動・愛染などの明王などの 仏像に、無病息災や諸願成就などを祈って造立される。また近世においては、 蓮弁型に各尊を浮彫りする像塔に戒名などを刻んで墓石とすることが流行する。さらに 近世には地蔵菩薩への信仰が盛んとなり、街道筋や村の辻に旅人の道中安全を祈って 地蔵菩薩像を造立したり、「縛られ地蔵」・「とげぬき地蔵」・「子育て地蔵」などの民問信仰 も生まれた。また地域の伝承などから生まれた「岩船地蔵」や「舟地蔵」などもある。 その形態は、仏像を丸彫り又は浮彫りにする像塔や尊名を刻む文字等がある。*六地蔵 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道を司る地蔵として六体の地蔵菩薩を表す六地蔵 がある。墓地に造立される六地蔵は死者の追善や先祖供養を目的としたものが多く、路傍に 造立されるものは村内に厄災が入り込をのを防ぐ目的が多いようである。その形態は、六体の 丸彫像や浮彫像を横一列に並べるものが多いが、四面や六面の石柱に六地蔵を浮彫りする 石幢型もある。*弘法大師像・相模国準四国八十ハカ所霊場塔 真言宗の開祖空海の石像は、真言系寺院で、宗祖として安置される。その形態は、右手に 五鈷杵、左手に数珠をとる丸彫りの弘法大師像で、基壇に造立年や札所名などが記されている。(2)基碑・墓石 *五輪塔 仏教の字宙を構成する「地・水・火・風・空」を表す石造卒塔婆で、平安時代後期から墓石や 供養塔として各地で造立された。その形態は、下から基壇=地輪、塔身=水輪、笠=火輪、 受花=風輪、宝珠=空輪の五石ならなる。また古形式のものは各輪に五大を表す梵字を 刻むのみであったが、室町以降になると地輪に戒名や命日が刻まれるものも多くなる。*宝篋印塔 本来は「宝篋印陀羅尼経」を納めた塔であったが、次第に生前の逆修や死者の追善の ための供養塔として造立されるようになり、鎌倉時代にはすでに墓碑塔としての性格を備え ていた。その形態は、十世紀に呉越王銭弘俶がハ万四千基を造立した阿育王塔が原型と考え られる。下から基礎・反花・基壇・塔身・四隅に隅飾突起を備えた笠部・九輪・受花・宝珠 を表す。*板碑 中世を通じて造立された板状の石造卒塔婆で、本来は供養塔の意味が強いものであるが、 墓石として用いられた例もある。関東地方では群馬県や埼玉県を産地とする緑泥片岩が多く 用いられる。その形態は、仏教宗派でまちまちで、浄上教系では念仏を刻んだ文字塔や阿弥陀 三尊などを浮彫りした像塔、密教系では大日や阿弥陀如来などの種子を刻んだ文字塔、 日蓮宗系では題目を刻んだ文字塔などである。*無縫塔 卵塔とも呼ばれる僧侶の墓石で、鎌倉時代に中国南宋から禅僧により請来された形式と いわれる。その形態は塔頂円形で、室町時代以降は長卵形の無縫塔が宗派を超えて流行した。「辻堂神台」の石仏・石碑・石塔。・本立寺 阿弥陀如来像、開祖佛眼院日顕上人像、石像・伊勢屋墓地 墓碑・光明真言供養塔「城南」、「羽鳥」地区。「城南」の石仏・石碑・石塔。・一の鳥居(大山阿夫利神社)・大山道標不動尊 大山道標・二ツ谷稲荷神社 道祖神塔、庚申供養塔、石狗・山崎家墓入口 地蔵菩薩「城南」の石仏・石碑・石塔。「城南」の石仏・石碑・石塔(1/2)。「城南」の石仏・石碑・石塔(2/2)。石仏・石碑・石塔の写真。「羽鳥」の石仏・石碑・石塔(1/2)。「羽鳥」の写真。「羽鳥」の石仏・石碑・石塔(2/2)。その写真。「大庭」の石仏・石碑・石塔その写真。石造物位置図。調査石造物一覧(1/2)。近付いて。調査石造物一覧(2/2)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.29
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この日は11月25日(土)、「「藤沢地名の会」明治地区(羽鳥・城南)の石造物と史跡を訪ねる」に参加。辻堂駅北口に9:30に集合。「羽島明治地区は、江戸時代までは東海道と大山街道の交通結節点として賑わい古くから交通の要街として発展してきた地区であるとともに藤沢市の教育発展の礎となった「耕余塾」がありました。今回、石造物と史跡を中心に明治地区を訪問します。【主な訪問地】本立寺・明治郷土史料室・ニッ谷稲荷・大山遥拝の大鳥居・四ツ谷不動・汲田基地・羽鳥市民の家(昼食)・耕余塾跡・御霊神社・城明神社・本願寺・おしゃれ地蔵・養命寺」定刻9:30になり、2Grに別れて散策のスタート。まずは今日の予定とこの地域の歴史についてのガイダンスが。「明治という地名明治22年の市制町村制施行時に辻堂 羽鳥 大庭 稲荷の4ヶ村が合併して明治村となり、明治41年に藤沢大坂町、鵠沼村と合併して藤沢町となるまでの間、明治村と呼ばれていました。かって明治村は全国に24ヶ所もありましたが、今は町村合併などで全て消滅してしまっています。現在藤沢市では行政地区のひとっとして城南、羽鳥と辻堂の一部をあわせて「明治地区」と称し、市民センターや公民館にその名を付けています。また市立の小・中学校、市民の家などにも明治という名称が使われその名残をのこしています。」と頂いたこの日の資料から。 「明治15年作成の地図に見る藤沢宿(藤沢駅)と周辺の街道」。まずは「本立寺」に向かって進む。「本立寺」の墓地の角にあった「題目碑」。そしてその前に座像がニ体。『南無妙法蓮華経 日蓮宗 寶光山 本立寺』 と寺号標石側面には「法華経 序品列座 大寶光天子安置」。「本立寺開祖 佛眼院日顕聖人像」。釈迦如来像。山門。ここにも題目碑「南無妙法蓮華経 寶光山 本立寺」側面には「除厄日蓮大菩薩 開運大寶光天子 霊場」。「本立寺當山は宝光山と号し日蓮宗に所属する。本尊は日蓮聖人尊定の十界勧請の大曼荼羅で、創立は文禄元年(一五九ニ)、日栄上人に依て清水市興津に創立され爾来三百三十余年経過したが、大正十三年九月三日、日佛法尼、日顕上人に依て現在地に移転し寺号を継承して現在に至る。 左の年中行事を執行する 一月一、二、三日 年頭祝祷会 二月三日 節分星祭会 三月春彼岸最終日 春彼岸会 四月八日 釈尊降誕会 七月十七日 孟蘭盆会 九月秋彼岸最終日 秋彼岸会 十月十一日 宗祖報恩会式 毎月十七日 守護神縁日」「今月の聖語獅子王は百獣に怖じず日蓮聖人ご遺文 「聖人御難事」=怖れない心=「大丈夫! 自分が今までやってきたことを信じて頑張れ! みんながついてるぞ!」。物事に取り組む時、不安に駆られ、ひるんでしまった経験は、誰にでもあることでしょう。私にも学生時代、試合に臨む時にコーチにそう励まされておじけづいた自分の心を奮い立たせたことがありました。自分の力が信じられなくなったり、自分には味方がいないのだと思い込んでしまうと、人はどんどん弱気になってしまいます。でも人生には勇気を持って突き進んでいかなければならない場面がたくさんあります。そんな時は自分を信じてみましょう。不思議と目に見えない力が働くことがあります。不信感や孤独感に陥ることなく、百獣の王・ライオンのような、いざというときに怖れない心・ひるまない心を養っていきましょう。◎日蓮聖人ご遺文『聖人御難事』日蓮聖人が身延の地から遠く離れた弟子や信徒に対して送られたたくさんのお手紙のひとつです。人びとを思いやり、苦難に遭遇したときの気の持ち方が説かれています。弘安2年(1279)58歳」山門を潜り境内へ。狛狗(右)とその奥に寺務所狛狗(左)。本堂。近づいて。本堂の扉には「日蓮宗 宗紋 井桁に橘」。本堂の見ごたえある扁額「開運大寶光天子」。本堂・内陣。本堂を斜めから。本堂の「獅子鼻」も見事であった。正面に天水桶。こちらの天水桶には「五三の桐」紋。反対側の天水桶には「日蓮宗家紋」。本堂の壁には花頭窓。右手に「鐘楼」。梵鐘 南無妙法蓮華経 と。境内の右側に二体の仏像。釈迦像。「釋迦像造立之疏寶光院神通日佛法尼ハ神奈川縣高座郡有馬村字本郷鈴野佐右衛門ノ長女ナリ幼少ヨリ病弱ニシテ医薬手ヲ晝スト〇モ更ニ其効ナシ二十七歳偶々霊夢ニヨリ本化ノ教法ニ帰シ苦修練行遂ニ別頭ノ大利益ヲ稟ケ二十八ヶ年間ノ病魔平癒シ法身ヲ成就セリ・・・中略・・・ 昭和九年九月十七日」ズームして。「中興開祖 寶光院神通日佛尼」像。近づいて。「當山 昭和五年八月廿八日寶光院神通日佛尼開祖 開祖七十ニ歳之時」。像の傍の石碑には「當山開山 宝光院神通日仏法尼銅像建設 浄財喜捨芳名表」と。多くの方の名前と奉納金額が刻まれていた。寶光殿遍照廟。遍照廟とは永代供養墓らしい。内陣。本堂前の石像(右)。これまた見たことのないユニークな地蔵狛犬。50cm程度の石像、由来不明。本堂前の石仏(左)。これまた見たことのないユニークな地蔵狛犬。同上。そして「本立寺」を後にして、藤沢羽鳥線の「明治市民センター前」交差点を渡る。再び「辻堂駅」方向に戻る。道路の反対側には、今訪ねた「本立寺」の姿が見えた。参道、山門、本堂を見る。 ・・・つづく・・・
2023.12.28
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「龍口寺・第13回 瀧の口竹灯籠」を楽しんで帰路に。「日蓮大聖人滝ノ口龍口寺御法難之霊跡 日蓮宗霊跡本山龍口寺」と。龍口寺前の交差点に江ノ島駅から海岸方向に向かう江ノ電電車。こちらが進行方向、次の駅は腰越駅。ホームの藤沢方は併用軌道と踏切が重なり、踏切は、ちょうど併用軌道に乗り入れる場所にあるため、遮断機が山側1基しかない(警報機は道路側にもある)。また鎌倉方も踏切となっているため、この腰越駅では4両編成の列車は鎌倉方の1両がホームからはみ出て停車するためドアが開かないのだ。急な右カーブの江ノ電の線路。「電車接近」と。そして藤沢駅行きの江ノ電が交差点に入り、江ノ島駅に向かう。ズームして。国道467号を江ノ電・江ノ島駅に向かって進んで行くと右手にあったのが湘南モノレール・湘南江の島駅。大船駅からモノレールに乗り込み、住宅街の上空を快走すること14分。トンネルを抜けた先に待つ終着駅が、ここ湘南江の島駅。ビルの5階にあるホームの窓の向こうでは、相模湾がお出迎え。さらに改札を通ると、海と湘南の街並み、そして富士山を一望できる展望台があるのだ。1本の桁を挟んで、降車専用と乗車専用の2つのホームがある構造の湘南江の島駅の写真をネットから。そして「江の島駅入口」交差点を左折すると正面に、江ノ電・江の島駅の踏切が見えた。江ノ島駅方向を見る。江ノ電・江ノ島駅入口にあったのが小鳥付き車止め「ピコリーノ」。いつもお洒落な手編みのお洋服を着て地元の方々や観光客を出迎えているのだ。「江ノ電 江ノ島駅」。藤沢駅行きの電車が出発。藤沢方面のホームに設置されていたジオラマ。左手に「龍口寺」。撮影角度を変えて。「このジオラマは、平成10年11月11日に当社が当時闘病生活にあった新田朋宏くんの「江ノ電の運転士になりたい」という夢の実現をお手伝いしたご縁で、朋宏くんのお父さん新田和久さんのご友人でおられる石井彰英さんからご寄贈いただいたものです。寄贈先を探していた石井さんが当社への寄贈を決められたのは、「息子をジオラマの運転士にして欲しい」と熱望された新田さんの優しさに感動して、「ジオラマは朋宏くんが愛した江ノ電の利用者に見ていただくのが一番」とお考えになられたからです。なお、まことに残念ながら新田朋宏くんは平成10年11月15日に亡くなられましたが、ジオラマ上を走る江ノ電の運転士としてこれからもご活躍されることでしょう。」「ばくの小さなパラダイス昭和40年頃、両親・祖父母と何度も来た江の島。海で泳ぎ、あじさいの花を見た懐かしい情景をジオラマにしたくなり、当地を何度も取材しながら制作に費やした期間は約2年。静寂の中の極楽寺駅、明るい学生さんが乗り降りする鎌倉高校前駅、子ども達の笑顔がまぶしい江の島海岸、皆さんを乗せて元気に走る江ノ電。私の前に広がる風景は、当時の頃と何ら変化はありませんでした。皆様にこのジオラマを楽しんで頂けましたら、制作者としてはこれほど嬉しい事はございません。 2008年11月吉日 石井彰英氏より寄贈されました。」美しい、秋を感じさせる生花。「江の島」駅案内。鎌倉駅 - 藤沢駅 営業キロ10.0 km 駅数15 信号場1併用軌道区間だけでなく、わずか10kmほどの短い路線でありながら、多数の特徴的な鉄道風景があるのだ。「AQUA GARDEN LAB」。「江ノ島電鉄株式会社では、魚の陸上養殖と野菜の水耕栽培を掛け合わせたアクアポニックス事業の検証を行うため、今般、当社線江ノ島駅構内においてアクアポニックス施設を設置し、2023 年3月31日から「Aqua Garden Lab(アクアガーデンラボ)」として本稼働いたします。「Aqua Garden Lab」は、アクアポニックスを身近に感じていただくため、多くのお客様が利用される江ノ島駅の藤沢行きホームに面した場所に設置いたしました。現在、魚はティラピアを養殖し、野菜はレタスと小松菜を育てており、今後も随時様々な野菜を栽培していく予定です」 と。2009年3月31日(火)に江ノ島駅上りホームに冷暖房完備の待合室がオープン。室内には展示スペースを併設し、往年の303号車運転台カットモデル、プラレールのジオラマ、1001号車の模型、電車のヘッドマーク等を展示しています。また、モニターも完備しており、江ノ電沿線の地域情報を放映しているのだ。往年の303号車運転台カットモデル。近づいて。「303号車についてこの303号車は303+353号として走った連接車の藤沢方の車両です。この偏成は1929 (昭和4 )年製の江ノ電最初のボギー車101~104号車4両を改造して1957 (昭和32 )年につくられた2偏成の連接車のうちの1偏成です。もう1つの偏成である302+352号は1997(平成9)年、レトロ調電車10形偏成と入れ替えに廃車となりましたが、この303+353号は車体内外を改造・冷房化し、台車、機器を新造車両と同じものに更新するなどして新車と同様の性能になり活躍しました。しかし、惜しまれながら2007 (平成19)年ついに廃車となりまいた。」貴賓室の扉と1001号車の模型の展示ケース。1001号車の模型。貴賓室の扉。「「貴賓室の扉について」明治35年の開業(藤沢一片瀬間の3.42km )当時、全4両の車両のうち、半数の2両には、一般の3等席に加えて1等席が設けてありました。当時から、葉山の御用邸をはじめ鵠沼の秩父宮邸など、近隣には多くの高貴な方のお住まいがあったため、江ノ電(当時は江之島電気鉄道)は1等という特別列車を用意したのです。記録によると、1等と3等の合造車はこの扉を仕切りとして車内を3つに分け、個室を確保したようです。大正2年4月8日の『横浜貿易新報』によれば、大正2年4月6日に伏見宮博仁王ほか3殿下が、この特別仕立ての列車で片瀬(現江ノ島)ー長谷間を移動されたという記録が残っています。」待合室の壁には様々な写真等が展示されていた。「江ノ電 駅シリーズ乗車券全集」。「江ノ島」。「昭和49年(1974) 藤沢駅 江ノ電ビルへ乗入れ開始」左:「昭和54年(1979) 48年ぶりの完全新造車両 1000型(1001・1002) 就役」右:「昭和55年(1980) 最後のタンコロ 107号車・108号車引退」「昭和56年(1981) 社名変更 「江ノ島鎌倉観光」から「江ノ島電鉄」へ」。「江ノ島名所案内龍ロ寺 0.2KM 徒歩約3分江の島 1.1KM 徒歩約16分江島神社 1.2KM 徒歩約18分江の島展望灯台 1.4KM 徒歩約20分稚児ケ渕 2.0KM 徒歩約30分(岩屋) 」。亀の背中に江の島 のこのポスターは??そして江ノ島駅のホームを。藤沢駅が入線。そして藤沢駅から小田急線で帰宅の途へ。龍口寺で開催された滝の口・竹灯籠は、竹を使った灯籠が境内に並べられ、幻想的な世界を演出するイベントであった。このイベントは、毎年10月最後の週末に開催され、地元のボランティアの方々が集い、願い事が書かれた竹の灯籠を境内に並べていた。今年は約3000基の竹灯籠が並べられ、夕刻になるとロウソクに火が灯され、幻想的な世界が広がったのであったこのイベントは、静かで神秘的な雰囲気が漂い、参加者は心を落ち着かせ、自然と調和することができるのであった。竹灯籠の光が、境内に幻想的な世界を作り出し、参加者を魅了。また、竹灯籠に願い事を書くことで、自分自身の内面を見つめ直す機会にもなっていた。私も、このような幻想的な世界を演出するイベントに参加することができ、素晴らしい時間を楽しんだのであった。そして自宅への帰路での10月の満月。10月の満月は『ハンターズムーン』と呼ぶと。10月の満月は狩猟を始める頃である事に由来していると。そして月の右側には木星が急接近。『ハンターズムーン』。さらにズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.11.26
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さらに「龍口寺・第13回 瀧の口竹灯籠」の幻想的な世界を山門の先からデジカメで追う。竹灯籠は、その繊細な美しさ、和風の雰囲気、そして夜に灯る温かい光の融合によって、日本文化の深さと美意識を象徴する存在となっているのであった。周囲に優しい光を灯し出す「竹灯籠」。この光は穏やかでありながらも存在感があり、周囲の空間に静謐な雰囲気をもたらしているのであった。日本の伝統的な美しさを象徴する素晴らしいアートピース!!参道を進み、本堂への石段の上から山門方向を振り返って。ズームして。廻り込んで。そして前方に進む。天水桶の周囲にはキャンドルが並べられていた。近づいて。一つ一つの炎が、闇を照らし、希望を紡ぎ出す。キャンドルの美しさは、その独自の輝きと静寂の中に宿るのであった。炎の躍動感、灯りが作り出す幻想的な雰囲気、そして独自の温もりによって、この空間に深い感動と穏やかな魅力を与えていた。微風がやさしく触れ、炎は踊りながら語りかけ、キャンドルは秘められた物語を語り出すのだ。右手の竹灯籠の灯りは「2023」と。そして本堂内を。本堂を出て一方通行を進む。竹灯籠を上から。蝋の芯が心臓となり、その先に灯される炎は生命の息吹そのもの。反対側の天水桶にもキャンドルが。そして更に進むと、瀧口会館の横には消防自動車が待機していた。そして再び山門前に戻ると、石段上の竹灯籠は見事な輝きに変身していた。本金蒔絵の漆塗り大箱の如し。竹灯籠の作り方。①竹にデザイン紙をマスキングテープで仮止めする。 穴の径毎に色を変えると間違いが少ない。簡単なもののデザインはチョークなどで竹に直接描 いてもOK。②透明テープでデザイン紙を竹にしっかりと貼り付ける。③固定用の台に竹をセットし、竹用ドリルで穴をあける。 竹が動かないようしっかり固定して穴をあける。そしてこれが完成品と。龍口寺には龍は欠かせないのであった。しかしこちらは、円形の穴ではなく、長方形の穴の集合デザインであるため、作業量が莫大であることが容易に想像できたのであった。近づいて。そして再び仁王門の仁王像を。手前に金網があるため、焦点合わせがなかなか難しかったのであった。仁王像の影も美しかったのだ。玉眼入り。口の開け方も生々しく。山門も再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.25
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この日は10月29日(日)、藤沢市片瀬にある龍口寺は日蓮宗の寺院で、日蓮にまつわる4つの受難のひとつ、龍ノ口法難👈リンクに関わる地にある。境内には神奈川県では珍しい五重塔や白亜の仏舎利塔があり、また、大本堂には藤沢七福神のひとつである毘沙門天も祭られている。季節に応じたさまざまな行事も行われるが、今回はこの日に行われた「龍の口竹灯籠」に行ってきました。藤沢駅から江ノ電にて向かいました。日蓮の弟子日法が1337年(延元2年)に龍ノ口法難の霊場であるこの地に堂宇を建立し、日蓮の像を安置したのが始まりといわれています。その後信者であった島村采女が1601年(慶長6年)に土地を寄進し、本格的な寺院としての格式が整えられました。龍口寺は、江ノ電・江ノ島駅および湘南モノレール・湘南江の島駅近くにある日蓮宗の寺院。「江ノ島」駅で下車。龍口寺に向かって、国道467号を歩く。「瀧の口竹灯籠」と書かれた幟。「瀧の口竹灯籠」とは、龍口寺境内に並べられたおよそ3千基の竹灯籠に灯るろうそくの光の中、本堂前に施餓鬼壇を設けて、参詣者の先祖や亡くなった方の供養を行うのです。例年8月に行われていましたが、昨年・2022年からは10月下旬の開催となりました。時間は16:59。少しずつ暗くなって来ました。「瀧の口竹灯籠」と書かれた行灯が歩道横に。青海波(せいがいは)の模様。この柄の発祥は古代ペルシャとされています。シルクロードを経て日本に伝わったのは飛鳥時代、平安時代に書かれた源氏物語の中に『青海波』という雅楽を舞う若き光源氏の姿が描かれているとのこと。この神楽を舞う舞人の衣装の柄が青海波で、青海波の名はこの神楽に由来すると言われている と。そして左にあったのが「龍口明神社(元宮)」。龍口明神社の創建年代は、ここ片瀬・津・腰越の境界地(龍口明神社元宮地)に欽明天皇13年(641)創建、江島神女の霊感により降伏した五頭龍を祭神としています。明治維新後の社格制定に際して村社に指定されていた。昭和53年、鎌倉市腰越1548-4へ遷座しているのだ。社殿の姿は既に無く。そして「龍口寺」に到着。藤沢市片瀬3丁目13。「龍口寺」と彫られた竹灯籠には既に灯りが点っていた。「仁王門」横の「瀧口会館」に向かう石段にも一面に竹灯籠が。近づいて。まだ暗さが足りないので最後にもう一度訪ねることに。こちらの竹灯籠には「龍」の姿が。様々な紋様が輝き始めていた。今年の「第十三回瀧ノ口竹灯籠」のポスター。2023年10月29日(日)、龍口寺境内にて午後五時~午後八時まで開催と。「龍ロ寺境内に並べられた約3,000基の「竹灯籠」に灯るロウソクの光に包まれながら本堂前に施餓鬼壇を整え、参拝の方々のご先祖様や、亡くなられた方のご供養またはお願いごとなどの祈願を行います。竹灯籠の灯りが描き出す幻想的なタベを大切な人とお楽しみください。」と。「瀧の口竹灯籠会場図会場内は一方通行です。矢印に沿ってお進みください。」と。「七面大明神例大祭」案内。七面大明神は法華経を信仰するものを守護し、苦しみを除き安らぎを与える神様です。例祭では加持祈祷を行い、七面大明神の御守護をお受け戴きます。どなたでもご奉拝下さい と。「竹灯籠 受付」、1基 1000円と。山門の手前右側に黄色いテントがありここが受付。灯籠代金(千円)を支払い申込用紙に必要事項(住所・氏名・電話番号)を記入し、「供養」または「祈願」の各項目のうちのいずれかひとつを選ぶのであった。その横では、和太鼓の演奏が。太鼓集団「ふじ」と。2009年8月に藤沢市で誕生した太鼓グループ。その名もズバリ藤沢の「ふじ」!!太鼓集団「ふじ」のプロデューサーは、FIFAサッカーW杯公式閉会式にて日本人初の2大会連続で演奏した、世界的な太鼓ドラマー“ヒダノ修一”。藤沢市のPRと活性化の目的のために発足した「ふじ」は、太鼓演奏を通じて多くの人々との交流を持ち、藤沢の更なる認知度アップを目指します。現在は藤沢市内外の各イベントに出演し、活動しています。太鼓集団名の「ふじ」は日本一の富士山と藤沢の「ふじ」。また「ふじ」は当て字だが「不二」という意味も含んでいて、「二つとない」団体という意味もある。「ふじ」の花言葉も「歓迎」「恋に酔う」など良い意味が多く、また「4月1日」の花でもあり、「4月1日」=始まりという意味もあって、今回新たに結成した団体が「始まる」という意味から「ふじ」と名づけているとのこと。太鼓集団「ふじ」が本堂内でライブ演奏と。藤沢市消防局の防水用水槽のマンホール蓋。そして仁王門の仁王像のお顔をズームして。阿形像。吽形像。石段の上に「山門」。扁額「龍口寺」。山門には、中国の故事に由来する素晴らしい木彫りの見応えある彫刻の美が。黄石公(こうせきこう)と張遼 張良(ちょうりょう)。黄石公の試練に耐え続けた張遼 張良がついに兵法の奥義を授かる話。羽目板彫刻では定番。???襄子(じょうし)の衣服を切る予譲(よじょう)。何度も襄子の暗殺を試みるが失敗し、とらわれの身となった予譲が最後に襄子の服を貰い受け、その衣服に三回切りつけて主君智伯の無念を晴らし自決する、という話。三国志演義の桃園結義かも知れません。左から長髭の関羽 長耳の劉備 虎髭(には見えないけど)の張飛ではないでしょうか。そして山門を潜ると、目の前には境内一面の竹灯籠の世界が広がっていた。約3000基の竹灯籠が所狭しと並べられ、本堂や五重塔と共に幻想的な空間を創り出していたのであった。竹灯籠一つ一つには、本物の蠟燭の火が灯されて。山門の先で留まり、しばし幻想的な竹灯籠を我がデジカメで追ったのであった。本堂を見る。本堂右奥には「五重塔」。「龍口寺 総受付」への建物への石段の上にも。正面から。 ・・・つづく・・・
2023.11.24
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十、射祓(いはらい または弓祓と書く) 四隅に矢を放ち悪霊を退散させます。最後に正面(神前)に向かいますが、悪霊がいないため 矢を放たず鳴弦(めいげん)にとどめます。四方に放たれた矢を授かると開運招福・息災延命 になると伝えられています。舞の音を奏でる神職達。鈴と弓を持って舞う。邪気を射祓い、邪悪を射据えて、招福除災を祈念し天の下平らけく氏子安らけくあるべきを祈念する、静かな中にも力強い舞である。弓矢の威力で悪魔を調伏する神楽で、この矢を授かると開運の御神矢としての信仰がある。赤い面を被る神職。後ろで別の神職が手助けして。そして十一、剣舞(けんまい) 赤面の天狗(猿田彦)が剣を持ち邪悪を清め、悪しき大気を体内に吸い込み浄化され、二本の 指で空中に九字を切り、護身・除災・勝利のまじないをしながら豊年万作・大漁満足・ 天下泰平を祈念し、天地運行の乱れを正します。神楽の終段である。赤面の神は鉾を執って進み出て九字を切り、五風十雨、雨風時に順ひ、豊年万作・大漁満足・天下泰平を祈念して気息を整え、醜(邪悪)を踏み鎮め、天地運行の乱れを正し、邪霊を鎮めて散供する。赤い面を付けた天狗が空気を体に吐き入れそれを吐きだすことで空気が浄化されたりして天下泰平を舞う。護身、除災、勝利の舞をしながら豊年満作、大魚満足、天下泰平を祈念し天地運行の乱れを正すだと。十二、毛止幾(もどき) 剣舞の途中より黒面の山の神がしゃもじを持って現れ、天狗の真似をしたり滑稽な仕草を しながら、斎場にいるすべての人の心に平安と安らぎを取り戻させる『もどき』で神楽は 終了します。赤面の神の所作をまねたり、おどけたりして笑いを招きつつ座の雰囲気を和めながら散供する。そして参列者が心に平安と和らぎをとりもどし、平常心即ち普段の心の状態に戻り、新しく充実し、増進した生命力をもって、再び日常生活に励むようにさせるという「もどき」(真似をする意)の所作である と。斎場にいる全ての人の心に平安と安らぎ取り戻させる舞い、黒い面の山の神は神社での神事に参列され緊張された方が家の帰る前に普段の生活の戻す舞い、という神楽舞で構成されいると。黒面の山の神が近くまで来て。大きな叫び声をあげ、邪気を払ってくれた。そして再び神前に戻り舞う。そして十二座に亘る「湯立神楽」の終了を告げる宮司。神楽が終わると斎場に取り付けられた紙垂(しで)を持ち帰り、家の神棚に祀り、災い除けにする風習があるとのこと。櫃にぎっしりと入った紅白の「福餅」。「福餅」を一つ頂きました。5色の紙垂(しで)と竹で作られた天蓋(てんがい)を見上げてそして境内にあった今年の巨大な絵馬。「令和5年癸卯(みずのとう)歳 干支絵馬」この絵馬は藤沢市在住の漫画家 佐野絵里子先生による原画をもとに奉製した絵馬 と。牛若丸と今年の干支である兎が八艘飛びのように船上で戯れている様子が描かれている。そして「湯立神楽」のこの日に合わせて来年の絵馬が。「令和6年甲辰(きのえたつ)歳 干支絵馬」。旭日を背に舞う縁起の良い龍の姿が。原画は例年通り、藤沢市内在住の漫画家 佐野絵里子先生に依頼、絵馬作成は藤沢市長後の㈱グロリア工芸さんにお願いしたとのこと。今回の図案は、義経公が来年の干支である龍(辰)に乗って雲の上を駆けている様子が描かれている。架空の存在である龍が登場しているだけあって、幻想的な絵となっているのだ。そして順序が逆になってしまったが、「白旗神社」に参拝。「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命由緒古くは相模一の宮の寒川比古命の神社のを祀って、寒川神社と呼ばれていた。しかし、創立年代はくわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝 の勘気をうけ、文治5年(1189)閏4月30日奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は、腰越の宿に着き、そこで和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」石段の上に拝殿。石段下左手に義経公に纏わる「鎮霊碑」が。白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。「源義経公鎮霊碑文冶五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衝に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御薗は奥州箆を経て、同年六月十一二日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき。藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。」拝殿に参拝。現在の拝殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成した。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置された と。そして、往路と同じくバスにて帰路についたのであった。藤沢・白旗神社の「湯立神楽」を鑑賞する貴重な機会に恵まれ、その神秘的な雰囲気に心が引き込まれたのであった。神社の広い境内に響く神楽の音と、神聖な舞台の上で繰り広げられる踊りが、まるで別世界にいるような感覚を呼び覚ましたのであった。神楽の舞台は厳かでありながらも美しく、神聖なエネルギーがその場に満ち溢れていた。独特の楽器の音色と共に舞われる踊りは、神秘的で迫力があり、見る者を引き込んで離さない。演じる神職たちの表情や仕草は、神話や伝統の中に息づく神々との交信の一端を感じさせ、自分も神聖な儀式に参加している気分に陥ったのであった。特に、神社の雰囲気と神楽が調和して、自然の中での演技が一層印象的。神聖な木々のそよ風や、境内に鳴り響く神楽の音が、訪れた者に心地よい穏やかさと神聖な感動を頂いたのであった。この貴重な経験から、日本の伝統や神聖な儀式に対する深い尊敬の念を抱きつつ、湯立神楽を通じて日本文化の美しさと豊かさに触れ、心に深く刻まれる一時になったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.11.23
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そして「中入れ(なかいれ)」の短い休憩時間になり、狩衣(かりぎぬ)を脱いで白衣・袴の姿に。六、中入れ(なかいれ) 前半の清め・祓い・神招きが終了して短い休憩となります。神職は狩衣(かりぎぬ)を 脱いで白衣・袴の姿になり、後半の新人共楽の神楽に備えます。また神前にお供えされている お神酒とお赤飯を参列者に分かちます。前段は祓の所作が中心で、生れ出た尊いお湯を献ずるまでの経過であって、奉仕の神職も後段の「湯立神事」に備えて狩衣を脱しての所作に移るため心気を整える。又、神楽の場に集う参列者にも撤下の神酒など分かち、お下がりをお受けすることで神気を直接に自分の体にいただき確実に納めようとするのである。氏子代表の方々から赤飯を手のひらにいただきました。この後にお神酒も。後半の「座」について説明する「白旗神社」の宮司。七、掻湯(かきゆ) 御幣(ごへい)で四方を舞い鎮め、舞が終わると大釜の前に進み、煮えたぎった湯釜を 御幣の串で掻き回すと、渦巻きが生じて湯華(湯玉)が立ち昇ります。古くはこの湯立ちに よってその年の吉凶を占いました。湯立神楽を象徴する舞です御幣を手に大釜に向かう神職。御幣(ごへい、おんべい、おんべ)とは、神道の祭祀で、捧げられ、用いられる、幣帛(へいはく)の一種で、2本の紙垂(しで)を竹または木の幣串に挟んだもの。湯華神楽(湯立神楽)のクライマックスである。神招きの祈念をこめた御幣を持って、煮え立っているお湯を掻き、釜底から立ち上がる「湯の泡」の様子で今年の豊凶をトする。沸騰し、気化した気泡を「湯華」という。釜の湯を御幣でかき回す神職。移動して横から。釜底から立ち上がる今年の「湯華」は数も多く吉兆と。湯釜の「湯華」を覗き込む宮司。八、大散供(だいさんく) 初能(はのう)の二人舞で、祓い清めの舞です。このお祭りに招かない八百万神 (やおよろずのかみ)に洗米を散供し、四方を和め鎮めます。勇壮かつ優美な二人舞です。中入れ後の二座目の神楽で祓い清めの神楽である。羽織を着用し白扇の上に神饌の白米を捧持、二人で対角線上に舞いながら四方に散供をする神楽である。白扇の上に神饌の白米を載せて踊る2人の神職。「白旗神社」の宮司は横笛を吹く。二人で対角線上に舞いながら。四方に神饌の白米を散供する。正面にも。九、湯座(ゆぐら または笹の舞という) 二人の舞手が笹の葉で四方を舞鎮めた後、交互に大釜に向かい、熱湯を笹に浸して参列者の 頭上に散らし掛けます。このしぶきを浴びると災難病魔を祓い除けると言い伝えられて います。二人の舞手が笹の葉で四方を舞鎮める。そして湯釜に向かう。1人の神職のみ、もう1人は舞台に残る。大釜の前に立って。そして笹の葉を湯釜に入れて、それを外に出し、観客に向けて振り払うのであった。観客の前を移動して、様々な場所から。私も熱湯の飛沫を浴びさせていただきました。この飛沫を浴びると災難病魔を祓い除けると言い伝えられているのです。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.22
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白旗神社の宮司が神前に詣でる。そして宮司がこれから行われる「湯立神楽」👈リンク の「十二座」について順次説明してくれたのであった。そしていよいよ「湯立神楽」の神事が始まったのであった。一、打囃子(うちはやし) はじめに笛・締太鼓・大胴の楽器によって音合わせをします。神職一同でこれからの奉仕に 備え祈念をし心意気を高め調子を揃えるのが打囃子です。この場において神楽を奏することを神々に祈念し、神楽の楽を調べ合わせる為に一通り楽曲を奏して奉仕者はもとより、参列者の心意を昂めるための所作であるのだと。二、初能(はのう) 宮司が左手に広げた扇に洗米をのせ、右手に鈴を持ち四方にお米を散供(さんく)して、 諸々の霊を和め清める舞です。左手に広げた扇に洗米をのせ、右手に鈴を持ち。神楽の聖域をととのえつくるため、白扇の上に神饌の白米を捧持し、これを四方に散供して稲霊の呪力によって、神楽の場に侵入しようとする邪霊や邪気(もの)を遠ざけて聖域に神霊の降臨を仰ぎ、神楽の滞りない進行を祈念する浄めの舞であると。四方にお米を散供。三、御祓(おはらい) お神酒とお祓いの道具を持ち、舞に使うすべての道具・斎場(さいじょう=神さまが 降臨される場所・釜場・火・水)を祓い清め、神様の降臨を待つ舞です。神楽の座及び神々の降臨を仰ぐ「ひもろぎ」となる山、お湯、釜をはじめ参列者を合わせて、ひろく「聖域」の清め祓いで、神々の降臨を仰ぐためのお祓いである。我々観客も清めていただく。そして神前を離れて。窯場に向かう神職。窯場を祓い清める。大釜の蓋を開け神様の降臨を待つ。大釜からは湯気が濛々と。大釜をズームして。四、御幣招(ごへいまねき) 神楽の対象となる産土神(うぶすなのかみ)・火の神・水の神をお招きする舞です。 舞が終わると参列者に恩頼(みたまのふゆ=神様の御霊魂)を授ける神事があります。邪霊や邪気(鬼・もの)を遠ざけ清め祓ひも終えて、斎庭・聖域の正面に設けられた山(やま)、ひもろぎに神々の来臨を仰ぎ祈る神招きの舞である。(神々は産土大神・火産皇霊神・水波能売神の三神である)。五、湯上(ゆあげ) 火の神と水の神が結びついてできた熱湯に湯たぶさ(笹)を浸し、熱湯を桶に汲み取り、 神前に捧げます。火の神と水の神が結びついてできた熱湯に湯たぶさ(笹)を浸す。介添人が装束の袖を支えて。用いる湯たぶさ(笹)は必ず生き生きした笹をもって作る。密生した笹むらが風も無いのに互いに触れ合ってサササ・・・とかすかに音を発する。この様子が神々の降臨を仰ぐ時の、依り来る神の出現の様子に似つかわしいとされることから用いられるとのこと。そして熱湯を桶に汲み取る。桶を手渡す。神前に向かって。神前に熱湯の入った桶と湯たぶさ(笹)を奉納。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.21
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