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タイトル 👈リンク 発表日★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その1) 2021.09.25 往路~かしわ台駅~念仏坂~護王姫の碑~産川せせらぎ公園~萩原神社★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その2) 2021.09.26 史跡 秋葉山古墳群★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その3) 2021.09.27 おしな坂~榎戸制水門~お松地蔵尊~弁財天社~地蔵堂~永珊寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その4) 2021.09.28 三島神社~浅間神社~泉橋酒造~井戸坂 ★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その5) 2021.09.29 常泉院★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その6) 2021.09.30 かいな坂~いちご遊園~杉本稲荷社~子育地蔵~狐坂~清水寺公園★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その7) 2021.10.01 龍峰寺(その1)★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その8) 2021.10.02 龍峰寺(その2)★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その9) 2021.10.03 弥生神社~蚕影神社★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その10) 2021.10.04 石坂~源頼朝公碑~吾妻坂~郷土かるた「ん」~史跡相模国分尼寺跡~かがり塚~浅井の水~ 前の坂~内出稲成神社~足折坂★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その11) 2021.10.05 宗珪寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その12) 2021.10.06 上郷地蔵尊~祠~相模三川公園~さくら橋~大藪稲荷神社~わくわくランド~大日如来堂~ 龍昌院~有鹿神社中宮~ 三王三柱神社~有鹿井★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その13) 2021.10.07 海老名氏記念碑~上郷水管橋~有鹿神社~有鹿姫之霊地史跡~總持院(1/2) ★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その14) 2021.10.08 總持院(2/2)~海老名氏霊堂~海老名市立歴史資料収蔵館~ 末日聖徒 イエス・キリスト教会★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その15) 2021.10.09 三眼六足稲荷社~安養院★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その16) 2021.10.10 弁財天社~あゆみ橋~海老名市民活動センター~海老名市文化会館~海老名駅~帰路★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その17) 2021.10.11 ViNAWALK~海老名中央公園~七重の塔~温故館★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その18) 2021.10.12 相模国分寺跡★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その19) 2021.10.13 海老名市消防署第一分団~稲荷社~伊勢山大神宮~史跡逆川~石橋供養塔~新道稲荷社~ 海老名の大ケヤキ ★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その20) 2021.10.14 相模国分寺~正一位稲荷大明神~しんえむ坂~音坂薬師堂跡(旧国分寺)★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その21) 2021.10.15 国分八景公園~尼の泣き水跡~龍峰寺跡~大六天社~真福寺跡~四十坂 ★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その22) 2021.10.16 ひさご塚公園~瓢箪塚古墳~上浜田6号墳~浜田三塚公園~上浜田1号墳~上浜田2号墳 ★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その23) 2021.10.17 鳳勝寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その24) 2021.10.18 八坂神社~水神社~浜 田歴史公園~上浜田古墳5号墳(太鼓塚古墳)★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その25) 2021.10.19 大谷神明社~福壽院~天神社~妙常寺・鈴木三太夫の墓★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その26) 2021.10.20 宇賀神~大谷公民館~大谷八幡宮~神遊苑~ 鈴木三太夫霊堂~大谷宿★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その27) 2021.10.21 大谷観音堂 ★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その28) 2021.10.22 海老名市消防庁舎~海老名市役所★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その29) 2021.10.23 海源寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その30) 2021.10.24 増全寺~諏訪神社★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その31) 2021.10.25 伊勢宮大神宮~養蚕発祥の地~川寿稲荷神社★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その32) 2021.10.26 東興寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その33) 2021.10.27 大島記念公園~今福薬医門公園~大谷水門・高座郡海老名町耕地事業竣工記念碑~沖の坂★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その34) 2021.10.28 山王社~妙元寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その35) 2021.10.29 真鯨稲荷社~清水坂~善教寺~不動明王堂~杉久保遺蹟・富谷横穴墓群★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その36) 2021.10.30 豊受大神~社家駅~茅ヶ崎駅~帰路★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その37) 2021.11.19 JR門沢橋駅~地蔵尊~海老名南JCT~若宮八幡宮~妙泉寺~中野八幡宮(1/2)★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その38) 2021.11.20 中野八幡宮(2/2)~盛福寺~相模川水管橋~相模大堰~社家取水管理事務所★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その39) 2021.11.21 JR社家駅踏切~海老名JCT~法閑寺~明窓寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その40) 2021.11.22 三島社 ★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その41) 2021.11.23 常在寺~十王堂~浄光寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その42) 2021.11.24 山王社~今里道祖神~東林寺~今里正八幡宮~清水坂~釜坂橋★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その43) 2021.11.25 かぶき場の坂~かながわ農業アカデミー~有馬のはるにれ~椿地蔵尊★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その44) 2021.11.26 有馬水道記念碑~定國寺~横須賀市水道局有馬浄水場~有馬中・小学校~吾妻坂~貴日土神社★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その45) 2021.11.27 忠魂碑~義勇奉公碑~本覚寺~吉祥寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その46) 2021.11.28 金剛寺~本郷ふれあい公園★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その47) 2021.11.29 寿閑寺~大山道~道祖神~真光寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その48) 2021.11.30 地神塔~石造宝篋印塔・石灯籠~本郷神社~郷土かるた「ほ」~不動明王坐像・二十三夜塔★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その49) 2021.12.01 居合坂・柏尾通り大山道~居合の道祖神~下原橋天満宮~正覺寺★海老名市の寺社旧蹟を巡る(その50) 2021.12.02 浄久寺~渋谷神社~門沢橋駅~茅ケ崎駅北口ペデストリアンデッキ~帰路へ ・・・完・・・
2022.05.18
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【海老名市歴史散歩】 目次そして次に「正覺寺」の北側にあった「浄久寺」を訪ねた。「浄土宗 浄久寺」。「浄久寺」の「山門」そして奥に「本堂」。海老名市門沢橋4丁目11−1。「掲示板」には「ご先祖さまと共に生きる」と。「郷土かるた「は」」「長谷川氏 墓石ずらりと 浄久寺」。「長谷川山 隆崇院(りゅうそういん)」。「浄土宗 浄久寺」。「南無阿弥陀佛」碑。赤い頭巾、涎掛けの石仏。「本堂」浄久寺は、「新編相模国風土記稿」では、山号を長谷川山隆崇院、増上寺(東京都港区芝公園)の末寺とされています。平安時代後期作と考えられる本尊・木造阿弥陀如来坐像、墨書から寛保3年(1743)に造立されたと考えられる法然上人坐像などが安置されています。法然上人坐像の胎内からは安政6年(1859)、文久元年(1861)の納入経や関東大震災で破損した仏像を修理した文書などが納められていました。長谷川正成(?~1638)が寛永2年(1625)に門沢橋他に1751石の所領を得て、門沢橋村を本貫地としたことから菩提寺として浄久寺を建立し、然誉知全(?~1617)が開山したと伝えられています。このことから1625~1638年の間に創建されたと考えられますが、境内に慶長19年(1614)と刻まれている墓石があることや、境内にある歴代住職の墓碑の筆頭に「開山・然誉上人得阿大求智全和尚 元和三年(1617)二月十九日」と刻まれている。正成が門沢橋村を所領地とした1625年よりも前に然誉上人は亡くなっており、時期的な矛盾が生じる。そのため、それ以前から寺は存在し、長谷川家の菩提寺になった時から、寺名などを変えたことも考えられる とネットから。扁額「浄久寺」。「水子地蔵尊」。「水子子育地蔵菩薩」と書かれた幟が手前に。「水子地蔵尊」に近寄って。お顔をズームで。「長谷川家 石造宝篋印塔群」。池波正太郎作「鬼平犯科帳」の主人公長谷川平蔵の本家筋にあたる長谷川家の墓塔として15基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残っているのだと。第2代正成から第11代正岱(まさたけ)までの当主の宝篋印塔があるが、途中5代と10代の宝篋印塔が見当たらない。一番古い宝篋印塔は慶長13年(1608)のもの。海老名市教育委員会が立てた説明板には、「別の寺院に葬られた記録のある人の名前や、複数の名前が刻まれたものがあること、長谷川正成が門沢橋村を所領地とする以前に亡くなった人の名前も見受けられることから改葬等の際に建立された宝篋印塔もあると考えられています。」と記されている。「海老名市指定重要文化財 浄久寺長谷川家石造宝篋印塔群寛永ニ年(一六ニ五)に慕府旗本の長谷川正成が門沢橋村を所領地として与えられたことから、浄久寺が長谷川家の菩提寺となりました。以来、慕末まで長谷川家代々の当主とその家族が葬られて、墓塔として宝篋印塔が建立されてきました。台座に被葬者の没年代と法名・俗名が刻まれており、長谷川正成以降、正岱まで八人の当主とその家族が葬られたことがわかります。別の寺院に葬られた記録のある人の名前や、複数の名前が刻まれたものがあること、長谷川正成が門沢橋村を所領地とする以前に亡くなった人の名前も見受けられることから改葬等の際に建立され宝篋印塔もあると考えられます。宝篋印塔は、江戸時代に慕府旗本の墓塔としてよく用いられ江戸時代中期(十七世紀)には盛んに造られました。このため、数基単位で建立されている例はよくありますが、大形のものを中心に十五基もの宝篋印塔が建立されている例はあまり多くありません。また、市内でこれだけの数の宝篋印塔が現存しているのは浄久寺だけであることから市指定文化財となりました。」長谷川正成の宝篋印塔基礎正面には「頓證佛果 為前筑州大守空誉浄久居士 菩提円満也」と刻まれていた。境内にある長谷川氏の名残は、これら石像宝篋印塔だけなのか、本堂などの建物および付属施設にも長谷川氏の家紋が見当たらない。「丸に五つ割り卍」が使用されているのであった。「海老名市指定重要文化財 浄久寺木造阿弥陀如来像この木造阿弥陀来坐像は、浄久寺の本尊として長谷川正成が寄進したものと伝わる仏像です。平成七年(一九九五)の海老名市史編さん仏像調査により平安時代後期(一ニ世紀)の定朝様の仏像であることが初めて明らかになりました。像高は五十ニ・一センチで割矧ぎ割首造、眼には後補の玉眼が入っていますが、元は彫眼と考えられています。丸く穏やかな面相、ゆったりとした体、浅く整えられた衣表現など平安時代後期に興隆した定朝様式の特徴がよくでています。一部後世に補修されているものの海老名市内で確認されているものとしては最古の仏像であることから市指定文化財となりました。」「浄久寺木造阿弥陀如来像」。そしてこの日の最後に「浄久寺」の近くの西側にあった「渋谷神社」を訪ねた。海老名市門沢橋4-11-14。社号標石「村社 澁谷神社」。石鳥居の扁額は「澁谷神社」。狛犬(阿形像)(右)。狛犬(吽形像)(左)。「手水舎」。「鐘楼」。「梵鐘」。「社務所」。海老名市指定重要文化財の「本殿」。渋谷神社の創建年代等は不詳ながら、江戸時代初期の創建ではないかと推定され、神寿稲荷と称し、門沢橋村の鎮守社だったといいます。明治6年村社に列格、明治7年渋谷神社と改称しています。社号の渋谷は、庄名(寒川町から海老名市にかけて)より付けたものです。見事な龍の彫刻。「海老名市指定重要文化財 渋谷神社 本殿渋谷神社は、江戸時代に神寿稲荷(稲荷社)と称し、旧門沢橋村の鎮守であった。現在の渋谷神社に名称を改めたのは、明治七年である。江戸時代の延宝七年(一六七九)鋳造の鐘を鐘楼にかけていたので、その成立は同時代初期に遡ると思われる。勧請の年代は不詳であるが、古社であることは間違いないと思われる。本殿は、間口四尺の一間社流造りの建物で、覆殿内部に安置されている。建築年代は、本殿内にある棟札から、寛保元年(一七四一)と推定される。また同じ棟札から、作者が地元の工匠であることが判明している。母屋は、正面両脇の小壁に上り龍や下り龍の彫物をはめ、頭貫の木鼻は、正面を獅子と獏の彫物、背面は象鼻と絵様木鼻である。また中備には、草花を彫った蟇股を置くなど、小規模な建物ながら、彫物装飾を効果的に用いた造りとなっている。当本殿は、斗栱の形式、虹梁の絵様や、木部と彫物すべてに当初から彩色が施されている点など、十八世紀の中ごろの特長をよく示しているうえ、保存状態も良い。また、当時としては彫刻を多く用いるのは珍しい。以上のように、本物件は、十八世紀前期の標準的な遺構として貴重であり、保護の価値があると認められるため、市指定重要文化財に指定したものである。」内陣。「木鼻」には獅子の彫刻(右)。「木鼻」には獅子の彫刻(左)。「宝物殿」。「本殿」を横から見る。「社務所」。境内の下部は「防火水そう」になっているようであった。「海老名市 街区案内図」。現在地は門沢橋一、ニ、四、六丁目の角地が接する場所。そして県道22号線・横浜伊勢原線に出て右折すると200m程でJR相模線「門沢橋駅」に到着したのであった。「時刻表」。17時台は約15分間隔で運行中であった。そして終点のJR茅ヶ崎駅に到着。JR東海道線との連絡橋には「相模線100周年」記念のポスターが。「相模線は神奈川県の北と南を結ぶ重要な路線となっています。お客さまに支えられ、相模線は100周年を迎えることができました。引き続きJR東日本相模線をよろしくお願いいたします。」と。「相模線は雨の日も、風の日も、暑い日も、寒い日も沿線のみなさまに支えられ1 00年間走り続けることができました。」「いつも ありがとう」。そしてこの日は、9月30日に緊急事態措置及びまん延防止等重点措置が解除されたこともあり久しぶりに茅ケ崎市内に住む旅友Sさんの行きつけの店でビールを。約1.5時間楽しんで、20時前に引き上げて茅ケ崎駅へ向かう。茅ケ崎駅北口から続くペデストリアンデッキには、手形モニュメントが飾られていた。こちらは、茅ヶ崎市出身・プロ野球の中日ドラゴンズで活躍し、茅ケ崎市民栄誉賞を受賞した山本昌広氏。2度のスペースシャトル搭乗を経験した土井隆雄氏。学生時代、茅ヶ崎の実家で過ごし茅ヶ崎市民栄誉賞受賞。歌舞伎俳優の12代目市川團十郎氏。明治29年、現在の茅ヶ崎鉄砲道付近に別荘"孤松庵"を建てたのは、9代目市川團十郎。その由縁で手形を残したのは、12代目市川團十郎氏。2009年12月20日にソユーズTMA-17に搭乗し、国際宇宙ステーション(ISS)に約5ヶ月間滞在。2010年6月2日地球に帰還した野口聡一氏。小、中、高と茅ヶ崎市内の学校を卒業し、茅ヶ崎市民栄誉賞を受賞。そして茅ヶ崎市出身の若大将・加山雄三氏。茅ヶ崎駅の駅舎内に。祝相模線開業100周年/ 祝茅ヶ崎 出身加山雄三さん復帰おめでとうごさいます!9月28日より茅ヶ崎駅相模線発車ベルが「海その愛」へ!!そして上野東京ライン19:12発で帰路についたのであった。この日の海老名市内の散策ルート。そしてこの日の歩数は47000歩超え。この日も頑張りました。我が藤沢市に隣接する海老名市の「海老名市の寺社旧蹟を巡る」を3日間で制覇したのであった。次は「高座郡寒川町」に挑戦する予定なのである。 ・・・もどる・・・ ・・・海老名市 完・・・
2021.12.02
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【海老名市歴史散歩】 目次次に訪ねたのが「居合坂」・「「柏尾通り大山道」坂標識」。海老名市本郷1218。「柏尾通り大山道この道は、江戸時代の「大山道」です。庶民の信仰を集める大山へ、あ参りに行く旅人などは、戸塚下柏尾から東海道を難れ、この道を通り相模川を渡り大山へと向かっていきました。今も昔の「大山道」とほほ同じ道筋をなしています。」「柏尾通り大山道」は東海道保土ヶ谷宿と戸塚宿の間、といっても戸塚宿江戸方見附より1km弱江戸寄り、現在の横浜市戸塚区柏尾町、不動坂が起点となり、そこからほぼ西へ、途中ここ海老名を通過し相模川を戸田の渡しで越え、現在の伊勢原市下糟屋で江戸青山からの青山通り大山道に合流して大山へと向かう道であったのだ。。ここが以前「旧東海道を歩く(保土ケ谷~藤沢)」で歩いた「柏尾追分・柏尾の大山道入口」。「柏尾通り大山道」を歩く旅人の姿。「居合坂坂を上がりきったところの地名が「居合」であったことから、この名が付いたといわれています。「居合」は村共有の入会地が転訛したものといわれていますが、由来ははっきりとしていません。」ここから東に向かって200m余りのだらだら坂が「居合坂」。「柏尾通り大山道」坂標識を振り返る。「居合坂」を上りきった近くにあった「居合の道祖神」。海老名市本郷1212付近。既に10月31日の衆議院選挙のポスター掲示板が設置されていた。この後に海老名市から寒川町にある寺社を歩いたが、これらは次回の「寒川町編」でアップする事とし、その後再び海老名市に戻ったのでここから再スタートとします。西の空の色が刻々と変わる中で、JR相模線の「門沢橋」駅方面に北上したのであった。前方に橋が現れた。「世継橋(よつぎばし)」。橋の名称の由来は、左岸にあった代継宮から。発音は「よつぎはし」ともいうが、橋には「よつきばし」と書かれていた。なお、代継宮は 熊本県熊本市北区龍田3丁目25-1 に移動した と。下を流れる川は「永池川」。国分尼寺の近くの浅井の泉が水源といわれ、寒川町で相模川に合流する川。「ながいけがわ(永池川)」。「世継橋」を渡って直ぐ右側にあったのが「下原橋天満宮」。海老名市門沢橋4丁目3社号標石「下原橋天満宮」。朱い鳥居と立派な一間社流造の社殿が目を引いたのであった。そして社殿裏手には、右から「関東大震災の碑(大正12年10月建立)」・「庚申供養搭」・「道祖神(弘化4年 西暦1817年1月奉納)」・石搭2基などが祀られていたのであった。日没が迫って来ていた。そして案内に従い海老名市門沢橋4丁目の住宅街を進み、この先を左手に。「真言宗高野山 正覺寺」に向かって進む。そして「正覺寺」山門前に到着。時間は16:40過ぎ。海老名市門沢橋4-13-13。山門前には「郷土かるた 「ひ」」「左手に 蓮の花もつ 観世音」。寺号標石「真言宗 橋澤山 正覺寺」。「橋澤山 延命院」。「真言宗 正覺寺」。剣と如意宝珠を持つ石仏。見事な「宝篋印塔」。「弘法大師御入定千五百五十年御遠忌記念 生かせいのち」碑。「弘法大師」像。「南無大師遍照金剛」の文字が。近寄って。「寺務所」。「本堂」「正覺寺」は、橋澤山延命院と号す。「新編相模国風土記稿」では、山号を橋沢山延命院、安楽寺(寒川町岡田)の末寺とされている。十一面観音坐像を本尊とし、桃山時代に作られ元禄5年(1692)に補修された木造弘法大師坐像、延享4年(1747)に小田原の仏師・蓮池佐内が造立した木造不動明王坐像、宝永6年(1709)に仏師・松村理左衛門(あるいは村松右衛門)が造立した愛染明王坐像などが安置されています。創建時代は不明ですが、本尊を初めとする仏像の製作年代から、室町時代に創建されたと考えられている。江戸期には神壽稲荷社(渋谷神社)の別当寺を勤めていた と。扁額「正覺寺」。「海老名市指定重要文化財 十一面観世音菩薩像 正覚寺正覚寺本尊の木造十一面観音菩薩坐像は、像高四八・五センチ。寄木造りで玉眼嵌入。表面は肉身部を金泥塗り、着衣部を黒漆塗りで仕上げていますが昭和五十四年の修理の際に補われたものです。江戸時代の終わりに編纂された「新編相模国風土記稿」の正覚寺の項には、本尊を運慶作と記していますが、仏像の作者を鎌倉時代の有名な仏師運慶になぞらえるのはよくあることです。本尊は江戸時代に造られたものでしよう。修理の際には、像内から木造十一面観世音菩薩坐像が発見されました。仏像の像内に小さな像を納めるのも、ときおりみられることです。像内に納められた像を胎内仏、その容れ物になった本体を鞘仏といいます。胎内仏は一木造りの小像ですが、その作風は、鞘仏よりも遡る室町時代ごろの特徴を示しています。」「十一面観世音菩薩像」。「胎内仏納入状況」。「胎内仏」。境内には「南無十一面観世音菩薩」、「南無不動明王」の幟が並んでいた。こちらは「六地蔵尊」。「南無大師遍照金剛」碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.01
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【海老名市歴史散歩】 目次「真光寺」を後にして西に進むと、「下谷津」交差点の角右手の道路脇にあった「地神塔」。「地神塔」とは、大地の神・農業の神を祭った塔である。 春分・秋分の日に最も近い戊(つちのえ)の日には、田の神と山の神が交代するので、農業の始まりと終わりであるという信仰から、鍬(くわ)、鋤(すき)を休ませて田畑を耕さないという地神講が行われていた と。海老名市本郷467。県道22号線・横浜伊勢原線に合流し横断歩道を渡る。海老名市本郷の住宅街を進むと右手にあった小さな社。朱の鳥居の先に社が。「稲荷社」であろう。内陣には狐様が。そしてその先にあったのが「石造宝篋印塔石灯籠」。本郷の高台から目久尻川沿いの低地に下りる坂道の途中にあり、すぐ横は竹林になっていた。海老名市本郷3067。海老名市指定の重要文化財。石造の宝篋印塔は高さ3.19mで承應3(1654)年に建立された。台座の銘文から大阪堺の僧不休をはじめとして摂津住吉、海老名の本郷を中心とした近郷、近在の130人からの援助により建てられたことがわかっていると。石灯籠は、高さ1.65mで建立時期や発起人も宝篋印塔と同じ。「海老名市指定重要文化財常念寺(現在廃寺)石造宝篋印塔石灯籠」「記念碑この地に安置されている釈迦立像宝篋印塔 石塔篭等の石造物は今から三百四十年程前 栄えた常念寺(通稱お釈迦様)の面影を偲び我々の先祖を語る貴重な遺物です。この度周辺道路の拡幅工事が行われるにあたり、釈迦堂の再建と境内を整備し、この遺物が後世に末永く伝承されることを念じ、記念碑を建立す。」「御堂」がその横に。内部には石仏がニ体。「阿弥陀如来像」であろうか。「大日如来」と刻まれていたが。歴史を感じさせる石仏。「ここに掲示されている和鏡と鉦は、昭和51年5月23日(1976)この地に安置されている」宝篋印塔 の下から出土した室町時代のもので、用途としては神(信仰の対象)としての和鏡装飾宝物としての鉦といわれる貴重な文化財です。この度境内整備を行うにあたり往時を偲び元の宝篋印塔の基に納めたので模写品として掲額す。」「石灯籠」と「石造宝篋印塔」を振り返る。その奥にも石碑が並んでいた。直ぐ西にあったのが「毎日新聞首都圏センター」。毎日新聞東京本社の、神奈川県、埼玉県、福島県、宮城県、山形県で発行される新聞を印刷する工場、並びにその運営会社(株式会社毎日新聞首都圏センター)である と。そして次に訪ねたのが「本郷神社」。直線的なこの鳥居は「神明鳥居」。海老名市本郷2257。社号標石「村社 本郷神社」。狛犬(阿形像)(右)、大正6と刻まれていた。狛犬(吽形像)(左)。境内右手にあったのが「本郷天満宮」。海老名市本郷2657。社号標石「本郷天満宮」。「拝殿」。「絵馬のいわれ絵馬は本来神の馬 神の乗り物に考えられ馬または木馬の代わりに神前に捧げられたものです。祈願のとき願いごとがかなったときお礼として馬などの絵を描いた板額を奉納する風習が現在に至っております。お参りの際にはその年の願いごとをお掛けください。」近づいて。「本郷神社末社天満宮祭神 菅原道真公・天満大自在天神・大威徳天天神さんの呼び名で親しまれ合格祈願の受験生でにぎわう学問の神でもあります。もともと天神とは地神に対する天神のことで天から降臨された神のことですがこれが平安時代に菅原道真公の霊を祀ったことによりだんだんと全国に広まっていきました。この度本郷神社氏子の総意にて神社合祀より百年を記念して境内社として社の祠に奉斎されていた天満宮を新たに御造営し文化の神・学問の神として崇敬し地域人材の育成と発展を願いここに荘厳な御社殿が御造営されました。なお本郷神社御本殿に合祀されました。天満宮もここに御遷座されました。」「本郷神社」の「手水舎」。「神楽殿」。扁額「聖徳無窮」であろう。歴代天皇陛下のご聖徳をしのび、皇統の無窮を祈り自然を慈しみその恵みに感謝する意でると。「神輿殿」。扁額「神輿殿」。そして「本郷神社」の「本殿」。見事な彫刻。扁額「本郷神社」。境内の大きな樹。「海老名市自然緑地保存樹木第166号 平成17年7月1日指定樹木名 ケヤキ幹の囲囲 3. 00メートル所有者又管理者住所 海老名市本郷2567番地民名 本郷神社」お顔を補修された石仏他が並ぶ。「西国秩父坂東順禮」碑。「此方 大山道」碑大山道道標。弘化四未年(1847年)造立。「郷土かるた 「ほ」」「本郷の 遺跡から出た 小銅鐸」に立ち寄る。富士フイルムビジネスイノベーション(株)から有馬小・中学校まで広がる大規模な遺跡で、発掘調査により縄文時代から江戸時代までの遺構や遺物が出土しています。本郷遺跡では、古墳時代前期と推定される玉作り工房や小銅鐸などが出土しています。小銅鐸は、高さ約8センチメートルで、個人の祭祀に使用されていたのではないかと考えられています。本郷中谷津遺跡でも、玉作り工房が発見されていて、玉作り拠点になっていたのではないかともいわれています。奈良時代から平安時代にも大規模な集落が営まれ、梁行き4.4メートル・桁行き23メートル以上という長大な掘立柱建物跡や、数多くの墨書土器・大型掘立柱建物跡群などが発見されていることから、一般的な集落ではなかったと考えられています。富士フイルムビジネスイノベーション(株)巨大駐車場角には比較的新しくしっかりとした御堂が。堂の中に「不動明王坐像」と「二十三夜塔」が祀ってあった。海老名市本郷2263。「廿三夜供養塔」碑。「不動明王」仏。ここの道は大山への参詣者が通る道「大山道」のひとつである柏尾通り大山道であり、大山寺の本尊が不動明王と言う事で、道沿いにはあちこちに不動明王像があるのだった。不動明王光背の火焔が色鮮やか。「南一之宮道 北かしおみち ふじさわみち」と刻まれ、大山道道標を兼ねていた。像の台座には「大山 不動明王」と。微妙にズレた四つ角には「通行自主規制 FUJIFILM関係車両」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.30
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【海老名市歴史散歩】 目次「本郷ふれあい公園」を後にして100m程の場所にあった「寿閑寺」を訪ねた。道路沿いの石段の上に「山門」が見えた。海老名市 本郷3453。寿閑寺入口階段の下にあった「海老名郷土かるた「ゆ」」「ゆかりある 蘇生延寿の 鐘かえる」。題目碑「南無妙法蓮華経」。「石段供羪塔」碑。石段を上って行った。「南無妙法蓮華経 當山山門再建碑」。「山門」。」扁額は「念濟山」。山門をくぐると「日蓮聖人像」が迎えてくれた。「五重石塔」。「南無本化上行日蓮大菩薩第七百遠忌御報恩謝徳念濟山壽閑寺大本堂再建記念碑」。「鐘楼」。「梵鐘」。「壽閑寺梵鐘の由来念濟山と号す。創建は弘治三年(一五五七)五月。開山成就院念濟日意聖人。本山妙純寺宿老と伝う。梵鐘は延宝三年(一六七五)乃木希典将軍先祖源頼朝の重臣佐々木高綱の後裔(こうえい)乃木壽閑居士の寄進に依る。」この幻の名鐘を「蘓生延寿(そせいえんじゅ)の鐘」と称す。「本堂」「新編相模国風土記稿」では、山号を念斎山、妙純寺(厚木市金田)の末寺とされています。本尊は一塔両尊で、題目塔の脇に木造釈迦如来坐像と木造多宝如来坐像を配しています。両像は作風から、江戸時代前期作と考えられています。この他、文殊・普賢両菩薩坐像や四菩薩立像、元禄16年(1703)作の不動明王坐像と愛染明王坐像、四天王立像、鬼子母神像、十羅刹女像などが安置されていて、近世日蓮宗において信仰されている尊像が一通り安置されています。また、天和2年(1682)に鎌倉扇谷の仏師・三橋伝之丞によって造立された木造日蓮聖人坐像や、元禄11年(1698)に鎌倉の仏師・三橋重郎兵衛が造立した木造大黒天立像なども安置されています。寿閑寺は、日意によって開山され、円応院寿閑日到(?~1673)が開基と伝わることから、江戸時代前期頃に建立されたと考えられます。「本堂」前の石灯籠。「本堂」の扁額は「壽閑寺」。御堂の中に石仏が。石仏の名は?浄行菩薩?台座にタワシが置かれ、願い事をする人はこのタワシで浄行菩薩を洗い清めるのであろう。「十三重石塔」。岩積みの中にも石碑が。西側にも山門が。こちらの山門の扁額は「思親門」。掲示板には「善悪の全ては自身の中にある」と。壽閑寺所蔵の海老名市指定重要有形文化財の「脇侍二菩薩」案内板。「日蓮宗のお寺には「南無妙法蓮華経」という題目を書いた宝塔を中心に、『法華経』の世界をあらわすたくさんの仏像を配置するのが一般的です。この脇侍二菩薩像はその中の二体です。普賢菩薩は象に、文殊菩薩は獅子に乗る姿にあらわされます。ニ像とも本体はヒノキ材割矧ぎ(わりはぎ)造りで表面は金泥塗り・漆箔。眼には水晶の玉眼を嵌(は)めています。像内に墨書があり、天和四年(一六八四)鎌倉扇谷の仏師である三橋伝之丞(宗三)の作とわかるのが貴重です。」「普賢菩薩像 総高一〇八・八センチ、像高三一・ニセンチ」「文殊菩薩像 総高一〇九・ニセンチ、像高三一・七センチ」西側の駐車場から「壽閑寺」の「本堂」を見る。上空には海上自衛隊機が厚木航空基地から飛び立って。「壽閑寺」の「本堂」と西側の山門・「思親門」を振り返る。「壽閑寺」を後にして更に西に進む。城・寺の如き民家が右手に。「自然と歴史のさんぽみち」この道は「大山道」であると。ここは海老名市本郷3 4 3 9番付近であると。路地の角に「道祖神」。海老名市本郷3439−11。その先の路地の角にも大きな石碑が。「花蓮港廳巡査勲七等出井奥次郎墓」碑と。花蓮港庁(花蓮港廳、かれんこうちょう)は、かつて台湾の地方行政区分だった五州三庁の一つで、現在の花蓮県にあたる。そして「真光寺」の路地の角にあった石碑群。道祖神等を集めたのであろうか。「道祖神」の文字が確認できる石碑もあった。そしてここが「真光寺」の山門。「如法山 真光寺」。「地蔵堂」。「如法山真光寺境内地蔵尊縁起地蔵尊は三体あり 五輪塔一体前方左右に法塔二基中央奉造立地蔵菩薩魚而縁等為憲順菩提当村施主石川氏寛延四年天朔日右錦覚寿音信士宝暦五乙亥六月十一日菩提也 施主 出井氏敬白当村上村俗名出井佐五右衛門 行年 三十六歳前方五輪塔 岩船地蔵尊相州高座郡恩馬根新宿中前方右南無阿弥陀佛徳本 念佛講中文政八酉年十月大吉辰雲晴院浄誉相頓居士 杉久保村藤左衛門事先祖代々後世安楽上河内村大貫光菊事香誉得入伯秀禅定門宗 石川左衛門事左辨誉上人安永八年九月十七日当山十四世前の右先祖代々後世安楽本宿村前右衛門安藤茂右衛門 本郷村庄右衛門門主祐林 〃 忠左衛門志世話人 下河内村弥左衛門上河内村大貫半兵衛 新宿講中門沢橋村治右衛門倉見村友右衛門此の地蔵尊は高座郡は二十四ヶ所の札所の内二十ニ番目に当りその御詠歌はたておきし誓いをたのみめぐりきてまことの光拝むこの寺子育て子供の非行防止に霊験あらたかであり近隣の信仰を集めている。近年堂宇老朽化が激しくなり為に柤徒石川富司氏が私財を投じ自作する。平素佛心に厚く見上げた心情である。落慶式は平成十一年十一月に勤修」三体の地蔵尊。地蔵尊前に「観音像」と独特の書体の「徳本念仏塔」が立っていた。左手の「観音像」。「辨誉上人」と。右手の石碑が「徳本念仏塔」。「本堂」。海老名市本郷462−1。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.29
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【海老名市歴史散歩】 目次「吉祥寺」を後にして竹林の中にある山道を東に向かって上って行った。途中左折して北に向かうと、右側にあったのが「海老名市立 本郷コミュニティセンター」。本郷地区は海老名市内南東端に位置し、相模野台地から相模平野にかけて広がる。北で中河内・上河内・杉久保南、東で綾瀬市吉岡および藤沢市用田、南で藤沢市宮原および高座郡寒川町倉見、西で門沢橋・中野とそれぞれ隣接する地域。これまでに訪ねて来た社寺の名前が。そして田園の中のT字路の「自然と歴史のさんぽみち」案内板にはこの後訪ねた社寺の名前が。「金剛寺」に向かって進む。収穫前の水田が一面に拡がる。「金剛寺」まで500mとの案内表示が坂道の下に。「自然と歴史のさんぽみち」案内板の向かいの道路脇にあった「石碑群」。中央には「不動明王」と刻まれた石碑が。左右には「道祖神」と。海老名市本郷4197付近。さらに本郷地区の坂道を上って行った。Iphoneの案内に従い進むと畑地の前にある「金剛寺」に到着。「真言宗 大覚寺派 瑠璃光山 金剛寺」と。左手に「金剛寺」の「山門」と「本堂」が現れた。寺号標石「瑠璃光山 金剛寺」。「本堂」。瑠璃光山薬師院金剛寺と号す。金剛寺の創建年代等は不詳ながら、歴代住職のうち僧賴圓は元和9年(1623)に寂していることから、江戸時代初期には既に創建されていた と。本尊は薬師如来像。1階は鉄筋コンクリート作りでありその上2階に「本堂」があり現代的か。海老名市本郷3391。掲示板には「魂を彼岸に遊び心を道場につなぐ」と。2階の「本堂」への石段の横奥には石灯籠、石仏が。石灯籠の間に石仏が2体。「聖観世音菩薩」像。「子安地蔵尊」。「本堂」の左奥・境内には稲荷神社が。扁額「稲荷大明神」と。「社殿」。小さな五輪塔。「本堂」の扁額は「瑠璃光山」。2階の「本堂」前から朱の「山門」を見る。筋塀(すじべい)には3本線が。この横方向に何本か入っている線がある土塀は、必ず皇室と関わりのあるお寺にしか許されていないことを知ったのは、鎌倉の寺に関するブログを書いていた時。この所謂『定規筋』にもその格式の高さにより三本、四本、五本の三種があり、五本の筋が入っているものが最も格式が高いとされているとのこと。この「金剛山」と皇室との具体的関係は?必ずしも皇室と関係ありとは言えないものもあるようだが・・・。筋塀の前に石碑が。石碑には「鐘堂趾」と刻まれていた。そして再びIphoneの案内に従い未舗装の山道を進む。県道43号線に出て右折して進むと我市の「江の島 藤沢」の道路案内標識が姿を現した。神奈中「根恩馬(ねおま)」バス停前を通過。目久尻川を挟んで左手が藤沢市、右手が海老名市でその間を綾瀬市が細長く続く場所。この周辺は恩馬郷と呼ばれていたそうで、段丘の尾根の付け根に位置することから「根恩馬」という地名になったのだと。そして左側に見えて来たのが、綾瀬市の「神崎遺跡公園」内にある「神崎遺跡資料館」👈リンク。ここは綾瀬市の散策の際に訪ねた場所であった。「用田橋際」交差点を直進する。ここは県道43号線・藤沢厚木線と県道22号線・横浜伊勢原線の交差点。右手にあったのが「本郷ふれあい公園」。海老名市本郷 3611番1。2020年にできた新しい公園。公園の近くに目久尻川が流れ、東海道新幹線の線路があるので、運が良ければ新幹線が通る様子を見ることができる公園。鉄道好きの子供にはたまらないお出かけスポット。「目久尻川」に架かる「用田橋」を渡ると我が市「藤沢市」なのであった。広域水道企業団目久尻川水道橋が横に。この水管橋は伊勢原浄水場を発し海老名市の有馬、本郷の給水地点、ここ用田を経由し藤沢市の稲荷給水地点へ向かう酒匂川系統の送水管路線である。美しく整備された公園。総面積約1万1千平方メートルの敷地内にはもともとあった樹林地と調和した花壇や散策路、ベンチが設けられ、四季の草花を鑑賞できるほか、東海道新幹線を望める見晴らし台を整備。そのほか子ども向けの遊具をはじめ、ぶら下がりや腕・脚伸ばしなど、健康増進に役立つ健康遊具もあり、多世代が楽しめる環境となっている。公園の前の石碑群。中央の石碑の上部には石仏の姿が。「養蚕守護金色大天女」と刻まれた石碑。中央は頭が失われた石仏であろうか。案内碑には「養蠶供養塔 明治二十ニ年五月六日創建 大正九年拾月六日再建」と刻まれていた。この公園は昨年4月に稼働したごみ処理施設「高座クリーンセンター」の建設に伴い、近隣住民から「周辺整備として市民に親しまれる公園を作って欲しい」という要望のもと設置されたもの。住民と協議を重ね、豊かな自然環境を生かしながら「広域避難場所」としての機能も併せ持つ施設として建設されたのだと。折しも新幹線下り線が通過。「本郷ふれあい公園」案内板。近くにある「高座クリーンセンター」をズームで。海老名市本郷1−1。海老名、座間、綾瀬市の広域的なごみ処理を担う高座清掃施設組合(海老名市本郷)のごみ処理施設。廃棄物処理と廃棄物発電、マテリアルリサイクルなどを行う。廃棄物焼却施設では三菱重工環境・化学エンジニアリング(横浜市)が建設したストーカ式焼却炉を使用しており、19年4月に稼働開始した。焼却時に発生した蒸気により発電を行い、施設の運営に使用するほか、余った電気を売電している。焼却灰は鉄、灰、飛灰処理物に分け、リサイクル会社に搬出する。粗大ゴミや不燃ゴミはマテリアルリサイクル施設で破砕、選別し、アルミ類や鉄類をリサイクル施設に搬出している と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.28
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【海老名市歴史散歩】 目次「貴日土神社」を後にして、南に進み、直ぐ左折して海老名市立有馬小学校の前を進む。有馬小学校の右手向かいにあった石碑群。この場所も有馬小学校向専有地のようであった。左から「忠魂碑」 海老名市中河内1785-2。趣旨(英霊) 表面:日清日露、日独戦役(推測)における戦没者の慰霊顕彰 裏面:太平洋戦争における戦没者150有余の慰霊顕彰 碑文 大正15年4月1日 有馬村 有馬村在郷軍人会 建立* 元帥陸軍大将子爵 川村 景明 書裏面) 大東亜戦争における戦没者150余柱の慰霊顕彰 ・殉國英霊 ・御芳名刻印 昭和22年8月1日 有馬村遺族後援会 増刻(再建?)「かながわのいしぶみ」から大正12年に有馬村より忠魂碑建立の指示があったが、大正震災の影響で延期されておりました。しかし、大正15年に建立され、有馬村長、三橋崎造氏により除幕式が取り行われました。終戦時には、軍国教育禁止令前に、地元郷友会により碑を本覚寺境内の竹薮に隠し、その後昭和22年頃、有志が集まり碑を再建しました。現在の維持管理は、地元郷友会の手で春秋彼岸2回行われています。隣中央に「義勇奉公」碑。海老名市中河内1785-2 有馬小学校向専有地趣旨(英霊) 西南役、日清日露、暴徒鎮霊、大正3年乃至9年役独、尼港事変、霧社事変における従軍者の顕彰碑文 各戦役毎に従軍者138名の御芳名刻印 大正12年 建立 有馬村在郷軍人会* 陸軍大将 鈴木壮六 書従軍者氏名 趣旨(英霊) 各種戦役における従軍者428名の顕彰碑文(表面) 従軍者の御芳名 刻印 (地区毎)(裏面) 明治6年徴兵令が施行され国民皆兵となり 我等が先輩は各戦役に参加大いに国威を宣揚した。昭和20年大東亜戦争の終結により70年の歴史を閉じたが、その遺勲を顕彰するため、有志相諮り明治百年記念事業として茲に従軍者の名を刻し後世に伝える 昭和四十四年七月 海老名郷友会「海老名市立有馬小学校」の校門。そして右に折れて進むと次に訪ねた「阿妻山 本覚寺」が見えてきた。「阿妻山 本覚寺」の山門。山門にあった「海老名市指定重要文化財 本覺寺 大日如来坐像 昭和五十ニ年十月十ニ日指定」檜(ひのき)材寄木造、玉眼嵌人(かんにゅう)で像高は43.7cです。像は、結跏趺坐(けっかふざ)した状態で法界定印(ほうかいじょういん)を結んでいることから、胎蔵界(たいぞうかい)大日如来に分類されます。目鼻立のとおった写実的な作風は鎌倉様式をもっていますが、台座の銘から江戸時代中期の正徳元年(1711)に、江戸仏師法橋石見(ほいきょういわみ)によって造像されたことが知られ、その基準作といわれています。」「大日如来坐像」。寺号標石「真言宗 本覺寺」。「毘沙門天王」の幟が並ぶ、相模七福神の一つ、「毘沙門天王」の寺。「五重石塔」。「毘沙門天」堂。「広目天」、「増長天」、「持国天」碑。「水子地蔵」。「聖観音菩薩」像であろうか。お顔をズームで。「寺務所」。宗祖「空海(弘法大師)」像。お顔をズームで。「石造供養塔」。「青銅灯籠」「本堂」。本覺寺の創建年代等は不詳ながら、15世紀半ばには既に創建されていたと考えられています。「新編相模国風土記稿には阿妻山と號す、古義眞言宗(岡田村安楽寺末)本尊大日(坐像長一尺六寸、往昔中河内村吾妻坂の地を掘て得しと云、)又毘沙門の像を置く(弘法大師作、長三尺八寸、)寺寶に弘法大師筆心經一巻あり、鐘樓。延宝四年鑄造す」 と。扁額「阿妻山 」。境内のベンチで休憩、水分補給。「青銅灯籠」一対と五重石塔を見る。そして次に訪ねたのが「真言宗 吉祥寺」。「吉祥寺」の境内入口。寺号標石「真言宗 東榮山 吉祥寺」。「山門」。「真言宗 大覚寺派 東栄山 吉祥寺」。「本堂」。吉祥寺の創建年代等は不詳ながら、歴世僧に善慶(慶長2年1597年卒)がいることから、少なくとも安土桃山時代には既に創建されていた と。本尊は「不動明王」海老名市中河内1709。扁額「吉祥寺」。「鐘楼」。梵鐘は享保二年(1717)造と。「六地蔵」。先代の「六地蔵」か?こちらにも。「宝篋印塔」。無縁塚か?「真言宗 東榮山 吉祥寺世代塔」と「聖観音菩薩」像。近づいて。境内の高台から。大きな墓地の先に大山の姿が。「本堂」を見る。「真言宗 東榮山 吉祥寺世代塔」と「聖観音菩薩」像を上から。多くの墓石、石像が並ぶ。下に下りて再び「本堂」を振り返る。寺務所。「童水子地蔵」。「童水子地蔵この世の中には、墓もなければ位牌もない、流産、中絶など悲しい迷える水子の霊がたくさんあります。お地蔵様を建て、自分の水子の霊を供養して下さい。子供の家庭内暴力や、体の病弱な人、心配事の絶えないひと、安産、子育、受験合格などお地蔵様に願(がん)をかけて下さい。苦しみや悩みから必ず救われるでしょう。」「吉祥寺」を後にしてIphoneの案内に従い、墓地の脇の道を山に向かって進んで行くと左手にあったのが「双体道祖神」像。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.27
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【海老名市歴史散歩】 目次「椿地蔵」を後にして、直ぐ北側にあった「杉久保第一児童公園」に立ち寄った。ここにあったのが「有馬水道記念碑海老名町旧有馬地区は往時から良質な地下水が存在し、井戸水が滾滾と湧く自然水の恵みに浴してゐたのであるが社会開発の進むにつれ急速に枯渇しはじめ日常飲料水にもこと欠く事態となり。生活上由々しき問題となった。昭和三十四年の夏当時の部落区長及び町議会議員の職にある者相寄り相謀りこれが対策のため日夜談合を重ね種々方策を講究した結果地区内に浄水場を有する横須賀市水道からの分水による簡易水道布設が最も適切な処置であるとし関係当局に実情を訴え地域住民を啓発しこれが促進を期するため今年十一月有馬水道期成同盟会を結成し実行委員会挙げ計画の策定既設地区度の視察地域内の実地踏査を行い数度に亘り町県当局及び厚生省に接渉した◯にして横須賀当局のご理解もあり漸く昭和三十五年からニヶ年継続事業として給水人口五〇〇〇人を見込み総事業費三七四ニニ千円を以って町営実施の運びに至らしめた。これと同時に期成同盟会を切替えることとし加入者を会員する有馬水道組合を組織組合長に期成を推進して貰った役員の中から金指喜代治氏を推し◯組合長以下の役員を選出自主的に事業に協力することになり爾来住民福祉の向上と事業の円滑な運営に努力を傾けて来た結果当初加入約八〇〇戸から一五〇〇戸を超える規模ににまで生々発展し水道事業とする域にまで成長した。ここに於いてこの事業が〇〇と確固たる基盤を有するに至った事を認め当初有志の目的を充分達しものとして昭和四十二年十ニ月発展解消することにした。茲に組合」解消に当たり発◯起当初数々の御苦労と輝やかしい功績を積まれた実行委員各位の名をささやかな碑に託し後世に残さんとするものである。」海老名市杉久保南2丁目4。公園内には小さな社が。稲荷社であろうか。大山の勇姿がはっきりと。そして県道43号線の「杉久保南四丁目」交差点を渡り、次の目的地の「定国寺」に向かって進む。そして「定國寺(じょうこくじ)」山門に到着。「臨済宗建長寺派」。「明寶山 定國寺」。正面に立派な本堂が。「水子地蔵尊」。ズームして。更に。「六地蔵尊」。「庚申塔」が並ぶ。「本堂」「定國寺」は、圓模(永享3年1431年卒)が開山したと。本尊は釈迦如来像。「本堂」は六間四方で、三面がガラス張り。海老名市上河内1086 扁額「定國禪寺」内陣。内陣の扁額は「明寶山」。墓地。「畜霊の塔」。「馬頭観世音」碑。こちらも「馬頭観世音」碑。石祠。「聖観音菩薩像」か。お顔をズームで。寺務所。巨大な屋根には「卍」紋と 北条家の家紋「三つ鱗」が。そして次に訪ねたのが「有馬浄水場」。「横須賀市水道局有馬浄水場」。有馬浄水場は、海老名市中河内にある横須賀市の浄水場。旧海軍の浄水場として創設されたが、第2次大戦後、旧軍港転換法により横須賀市に無償譲渡され、数次の拡張事業などを経て、現在は、日量73,900m3の水道水を造り出すことができる浄水場。有馬浄水場は、相模川の表流水を水源として、約2km離れた社家の相模大堰から取水し、浄水した水を約29km離れた横須賀市内まで送水している。有馬浄水場では、粒状活性炭を用いた高度浄水処理を採用し、急速ろ過方式により浄水処理を行っている。有馬浄水場の敷地面積は46,500平方メートルで、沈でん池、活性炭吸着池、ろ過池、調整池、天日乾燥床などの施設を配し、これらの施設の運転について管理本館内の中央管理室で24時間常に集中管理するとともに、浄水工程や水源の水質検査なども有馬浄水場で行われている。また、有馬浄水場では、神奈川県内広域水道企業団が持つ浄水場のうち、酒匂川を水源とする伊勢原浄水場で浄水された水を受水し、有馬浄水場で浄水した水とあわせて横須賀市内まで送水しているのだと。門は閉まっていた。門の脇には横型ポンプが展示されていた。「管理棟」。上空から見た「有馬浄水場」。そして「有馬浄水場」の脇の道を西に進む。左手に「海老名市立有馬中学校」海老名市本郷4601。その隣に「海老名市立有馬小学校」海老名市中河内1784。突き当りを左折して進むと左手に「吾妻坂」案内柱があった。むかし、この坂修復工事の際、仏像が掘り出され今も近くの本覚寺に安置されています。この寺の山号を吾妻山ということから、この名がつけられたようです。また別名「泣き別れ坂」ともいわれ、悲しい歴史を持つ坂でもあります。その手前にあった石碑群。「泣き別れ坂」にあった石仏には言い伝えがあるとのことだが・・・。石碑には「・・・神位」とあるが解読不能。供養塔のようであるが。そして「吾妻坂」を下って行くと右手奥にあったのが「貴日土(きびと)神社」。「貴日土神社」の参道を進む。「鳥居移築」碑。「大東亜戦争陣地構築の廃土 基礎埋没につき移築改修」と。狛犬(阿形像(右))。狛犬(吽形像(左))。石鳥居を潜る。右手奥にあったのが「御獄大神」。小さな「社殿」。境内の左手に「中河内自治会館」が。「拝殿」。明治8(1875)年10月に、中河内村内の弁財天・稲荷・金比羅の3社を合祀して創建されました。神体は丸石です。社殿は、金比羅社(旧河内村の鎮守)の本殿を充当したものといわれています。境内に文久2(1862)年8月に、佐藤八左衛門が寄進した手水鉢がありますが、これは合祀以前の3社のいずれかのものと思われます。トタン屋根の社殿であった。「貴日土(きびつ)」の社名は、中河内村の寺子屋の師匠植田佐兵衛が、農業にとって大切な「日を貴び、土を貴ぶ」という意味で名づけたといわれています。明治24年に改築されています。また、境内には武州御嶽大神を祀った社があります。「 貴日土神社 所在地 海老名市中河内一七四三番地 祭神 稲荷社(宇気母知命・倉稲魂命) 享保六年辛丑十一月、勧請。 厳島大神(市岐島姫命) 宝暦六年丙子九月、相殿。 琴平宮(大物主命) 秋葉大神(火之迦具土神) 東照宮(徳川家康) 文化十三年三月。 山王宮(日枝大神・大山咋命) 文化十三年丙子相殿。 明治八年十月合併、貴日土神社と改称。明治二十四年九月、改築。 明治二十七年八月、台風により倒壊・復元。 昭和五年四月、改築現在に至る。 境内神社 御嶽大神(日本武命) 武州御獄山を勧請」境内の石碑群。境内から大山を見る。富士山の姿も。丹沢山塊の東端、宮ヶ瀬ダムの東側に聳える山々であろうか?「馬頭観世音」碑。「自然と歴史のさんぽみち」ここは「貴日土(きびと)神社」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.26
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【海老名市歴史散歩】 目次海老名市杉久保北4丁目2の住宅街を東に進む。そして前方に前回訪ねた「杉久保富谷横穴墓群」があった「杉久保富谷児童公園」が見えて来た。「杉久保富谷児童公園」の角を左に曲がり更に東に進むと左手に「海老名市消防団 第10分団」の建物があった。シャッターには「非常用飲料水」や「災害対応型自販機」、「防災倉庫」の場所を見える化した「防災マップ」が描かれていました。相鉄バス「杉久保住宅」バス停前を通過。「海上自衛隊 厚木航空基地」への着陸態勢の海上自衛隊機の姿が上空に。そして「かぶき場の坂」手前の路地まで進む。ここが「かぶき場の坂」。「かぶき場の坂」案内柱。「坂を上がった南側の斜面が「かぶき場」と呼ばれており、そこへ上がる坂であるためこの名がついたと考えられます。「かぶき」は、傾くという意味の「かぶく」が訛りかぶきになったといわれています。」坂を上がった南側の斜面が「かぶき場」。一面にキャベツ畑が拡がっていた。そして「神奈川県立かながわ農業アカデミー」の敷地内を歩く。県立の農業者研修教育施設。 各県の農業大学校と同じである。人事院規則により、生産技術科は卒業時に短期大学2年卒相当の 資格を得られるのだと。直売所にもなっている建物。「情熱直売所」の文字が。そしてこちらが「神奈川県立かながわ農業アカデミー」の正門。「神奈川県立かながわ農業アカデミー」。郷土かるた 「ち」「地の利えて 館構えた 遠馬氏」縄文時代早期の落とし穴状土坑と炉穴、弥生時代の環濠の一部とされる溝状遺構と方形周溝墓の溝が発掘調査により出土した。環濠と推定される溝からは、深鉢と壷の合口土器棺が発見されている。出土した土器の年代等から弥生時代中期と考えられている。かながわ農業アカデミーの敷地内に渋谷一族の遠馬氏が館を構え、遠馬城があったと伝えられているが、発掘調査などでは今のところ見つかっていない と。次の目的地の「有馬のはるにれ」に向かって県道406号線・吉岡海老名線を南に進む。この道路沿いは、産廃物の中間処理・リサイクル工場が左右に並んでいた。ひたすら前方に向けて歩いたのであった。途中、右手にあったのが「社会福祉法人中心会 えびな南高齢者施設」。7施設の老人ホームを展開する社会福祉法人 中心会が運営する2000年4月1日に開設された定員45名の特別養護老人ホームであると。隣に「社会福祉法人星谷会 星谷学園」。知的障害者支援施設であると。いずれも立派な建物が並ぶ。そして右側に大きな石碑があった。「驢庵半井瑞壽館阯之碑」。「有馬のはるにれ」。海老名市本郷3881。この碑には「名木 なんぢやもんぢや」と。裏側には「昭和十一年十二月建立」、「有馬村史蹟保存協会」と。郷土かるた 「な」「なんじゃもんじゃ そびえる 驢庵屋敷跡」。江戸時代の御典医・半井驢庵(なからいろあん)が朝鮮半島から持ち帰り、屋敷の門の両側に植樹されたうちの一本と伝えられ、樹齢は300年以上と考えられています。当時ハルニレは大変珍しい木であったため、木の名前がわからず「なんじゃもんじゃ」の木と呼ばれるようになったといわれています。「県指定天然記念物 有馬のはるにれ」和名:ハルニレ(ニレ科)このハルニレは、徳川幕府の御典医であった半井驢庵が、寛永年間にこの地に構えた屋敷内にあったと伝えられています。樹種がわからなかったので「なんじゃもんじゃ」と呼ばれ、親しまれてきました。昭和59年1 2月には「かながわの名木1 OO選」に選定されている。樹高 1 5メートル 胸高周囲 8.6メートル樹齢 約350年以上(推定)ハルニレは北海道から九州の夏緑林帯に分布する落葉高木である。樹高45メートル、胸高周囲8メートル、樹齢約600年に達するものもあると言われている。」多くの支柱に支えられていた。そして幹の下部は腐食した部分を切り取って殺菌した後、木の表面をコーティングし、治療されて木が枯れるのを防いでいた。そしてIphoneの道案内に素直に従い畦道を進む。イノシシが出てきそうな道を案内され進む。畑にポツンとあった「道祖神」碑。海老名市杉久保南4丁目27付近。レタス畑であろうか穴空きマルチに一面に。そして路地の角にあった「椿地蔵尊」に到着。海老名市杉久保南2丁目6−12。「椿地蔵尊供養日 秋季彼岸中日祈願成就●子授 ●安産●子育 ●進学●家内安全夫婦仲よく良い子は育つ母が拝めば子も拝む拝む心の美しさ久光山善教寺」「史跡 玉椿地蔵」碑。手前には何故か首を落とされた地蔵尊が並べられ、この世の無常を全身で代弁しているかのようであった。「玉椿地蔵由緒」碑。「時恰も(あたかも)元禄の初め、きさらぎの風荒むここ杉久保村、千躰寺門前に旅装いの母娘づれが通りかかり 突如娘が傍の大松の根本に病の為立ちすくんだ母御の驚きと焦りは譬えようなく、伝え聞いて里人達が馳せつけ 共々介抱に手を尽くしたがその甲斐なく、夕闇迫る頃遂に帰らぬ旅路の人となった。居合わせた者の助力を得 亡骸を寺内に移し通夜が営まれる。江戸の屋敷にニ人だけの侘び住まいと云うのみで母なる人も他は多くを語らなかったが高雅な気品を備えた人柄がそれとなく誰にもしのばれた 曽て御殿勤めのおり 知遇を受けた将軍家の侍医半井驢庵を頼り この所まで来た途上の出来事と知れた花なら蕾、寄る辺なき僻地に於て、あたら無常の風に誘われた妙齢の見目美しき可憐な顔ばせは 並居る人の眼裏に強く焼きつき香煙供花の絶える事なき幾日か続いた たまたま供えし一枝が根付き成木したのが現在の椿である。以来幾星霜 この悲運の乙女心を心として咲くを待たずに落ち尽くす 唇に僅か紅を綻ばせ はかなく地に帰る この事実を常の習わしとして今に及んでいる。」石碑の前に祈りの石仏。「椿地蔵のツバキ椿地蔵のツバキは、樹高4・5メートル、言い伝えによれぼ樹齢約三百年。この木は、つぼみがふくらんで色づきますが、遺伝子的な理由からか、っぽみのまま落ちてしまうので、「玉椿」と呼ばれています。この木には、次のような話が伝わっています。今から三百年ほど前のこと。さる武家の母娘が、娘の長患いを治してもらうため、江戸から当地に滞在する名医半井驢庵を訪ねてきました。しかしその途中、杉久保にあった千躰寺の前を通りかかったときに、娘が苦しみ出し、村人や母の介抱のかいなく、亡くなってしまいました。不憫に思った村人は、娘を手厚く弔って地蔵堂を建て、椿を供えました。やがて、その一枝が根付いて成長しましたが、不思議な事に、椿はつぼみを持つのに花が咲きまん。村人たちは、若くして花咲くこともなく亡くなった娘の霊が乗り移ったのだろう、と話し合いました。この話は、海老名のむかしばなしとして、広く市民に親しまています。」「椿地蔵のツバキ」。「椿地蔵堂」。「椿地蔵尊」。そして近くには相鉄バス「椿地蔵」バス停があった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.25
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【海老名市歴史散歩】 目次「浄光寺」を後にして、再び産業道路に出て「運動公園入口」交差点を渡る。交差点の角にニ社が鎮座していた。左手前は「稲荷社」で右奥が「山王社」。海老名市中新田5丁目20−7。「稲荷社」。内陣には石祠と狐様の姿が。そして「山王社」。内陣。産業道路の歩道脇にあった「道祖神」。そして次の目的地の「東林寺」に向かって海老名市今里3丁目の住宅街を東に進む。道路脇にあった比較的新しい石仏。県道43号線に合流した角にあった「道祖神」碑。「昭和四十六年四月吉日 道祖神 今里下講中」と。「今里」交差点を通過し「東光寺」に向かって更に北に進む。県道43号線・藤沢厚木線を北上して行くと「禅宗 東林寺」と書かれた案内板が。左手に入ると「東林寺」の本堂が見えた。「郷土かるた 「か」」「唐金の 如来静かに 東林寺」。「海老名市指定重要文化財 大日如来坐像東林寺は、臨済宗鎌倉円覚寺末寺で、鎌倉扇ケ谷にありましたが、天正十三年(一五八五)、禅師の芳菊により、当地に移転再建されたと伝えられています。本尊の大日如来は、密教の最高位の仏で、宇宙そのものをあらわし、諸仏の王とされています。仏像は、高さ四六・五センチの銅造、中は空洞で、冥想に人って思惟(心で深く考える)する法界定印を結んだ像となっています。像容は、鎌倉時代の特徴を伝えますが、天文四年(一五三五)の銘文があることから、室町時代に製作されたと考えられます。」二つの御堂があった。この御堂の名は?「内陣」。こちらは地蔵堂か。地蔵尊が2体。歴史を感じさせる石碑が並ぶ。「手水舎」。「冥加」とは気がつかないうちに授かっている神仏の加護・恩恵。また、思いがけない幸せの事 と。「本堂」。臨済宗円覚寺派寺院の東林寺は、明徳山と号す。東林寺の創建年代等は不詳ながら、芳菊禅師(元和5年1619年寂)が天正13年(1585)鎌倉扇ヶ谷から当地へ移転して開山、慶安2年(1649)には寺領7石2斗の御朱印状を受領したといいます。本尊:大日如来像海老名市今里3-10。扁額「明徳山」。「東林寺」を後にして県道43号線・藤沢厚木線を更に北に進む。神奈中「神社前」バス停の先に石鳥居が見えて来た。「今里正八幡宮」の石鳥居。「拝殿」は屋根の塗替え工事中であった。海老名市今里1-3「鐘楼」には鐘の姿はなかった。神楽殿。「今里正八幡宮」の創建年代等は不詳ながら、相州高座郡渋谷庄の長山本六之蒸吉家が、延宝9年(1681)に金幣を献上、今里村の鎮守社だったと。「正八幡宮由緒所在地 海老名市今里一七四番地祭神 應仁天皇(誉田別命(ほんだわけのみこと)) (仲哀天皇の第三子、母は神功皇后)」由緒 古は渋谷庄長山本六之蒸吉家の守護神であったが延宝九年(一六八一)相州 高座郡渋谷在今里村の総鎮守となる。宝物 金幣 延宝九年山本六之蒸吉家 献上 大正十四年八月改築大祭 四月二十日」七福神の大黒天と恵比寿天が拝殿横に。「境内社」は「稲荷社」であろうか。内陣。「正八幡宮」を後にして、東に向かって進む。左手遠くに「海老名プライムタワー」が見えたのでズームで。海老名市今里1丁目6近くにある「大谷南側」交差点を横断して進む。そして次のT字路を右折して「地蔵尊」を訪ねたが・・・。地図の表示場所には石だけが転がっていたが「地蔵尊」の姿は見つからなかった。そして引き返して、T字路の信号を右折した。前回の散策時にも、ここまで下って来た「清水坂」を再び上る。かなり急坂であったが前方に案内柱が。「清水坂この坂は,かつての坂の上りぐちの左手から清水が湧き出て、一坪(3.3平方メートル)ほどの泉が清冽な水を湛えていたのが、坂の名の由来といわれています。」その奥に石碑群が。「角柱型道祖神」。側面には「道路改修記念/昭和四十五年四月二十五日建之 大谷杉久保講中」と。隣には「山状角柱型 道祖神」。側面には「大正九年(1920)十一月建設」と。その横には「舟形光背型 双体道祖神像」が辛うじて。モルタルで補強されたのであろうか。右「延享三歳」(1746)左「寅正月惣氏子十八人」と。更にその先にも「庚申塔」が。唐破風笠付角柱型 日月 青面金剛像 邪鬼(?) 三猿。「清水坂」案内柱と「双体道祖神」と「青面金剛像」を見る。「清水坂」を上って行った。そして「清水坂」を上りきる。この道は県道407号線・杉久保座間線。更にこの道を進んで行くと、正面に東名高速道路が現れ、そのコンクリート壁には杉久保小学校のみなさんの絵が!!東名高速の下を潜って行った。このトンネルも県道407号線の一部。そしてトンネルを潜り終えると、右手に前回訪ねた「不動明王」が。更に進み「釜坂川(かまさかがわ)」に架かる橋を渡った。「釜坂川」。橋の名は「釜坂橋」。更に進み「リエイトS・D 海老名杉久保店」を左に見ながら坂を上って行くと路地の角にあった石碑群。墓地であろうか。「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑が並ぶ。海老名市杉久保北2丁目16−25近く。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.24
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【海老名市歴史散歩】 目次「三島社」を後にして「宇治山」交差点を左折して北東に進む。150m近く進むと右手にあったのが「常在寺」の「山門」。「本興山 常在寺正和年間(西暦一三一ニ年頃)鎌倉小町に日蓮大聖人の法孫了性房日乗上人が開創しました。本尊 十界曼荼羅佛寶 久遠之釈迦牟尼佛法寶 妙法蓮華経僧寶 日蓮大聖人」「アツバキミガヨラン(厚葉君が代蘭)」であろうか。釣鐘状の花は 大きいもので10㎝くらいに。境内の「宗祖 日蓮大聖人」像。近づいて。お顔をズームで。右手に「鐘楼」と「堂宇」。樟・楠(クスノキ)の大木。「海老名市自然緑地保存樹木第205号 平成20年2月13日指定樹木名 クスノキ幹の周囲 2.80メートル所有者又は管理者住所 海老名市社家3746氏名 常在寺」「妙音院誌 南無妙法蓮華経」碑。「鐘楼」に近づいて。「梵鐘」。「手水舎(ちょうずや・ちょうずしゃ・てみずや・てみずしゃ)」。参拝者が身を浄めるために手水を使う施設のこと。水盤舎(すいばんしゃ)、御水屋(おみずや)とも呼ばれる。作法は一般的には次の通り。右手で柄杓(ひしゃく)を取り、手水を掬(すく)う。その手水で最初に左手を清める。次に柄杓を左手に持ち替え、同様の動作で右手を清める。次に口をゆすぐためもう一度右手に柄杓を持ち替え、左の手のひらに手水を溜めて口に含む(柄杓の椀に直接口をつけない)。音を立てずに口をゆすいで清め、そっと吐き出す。先の動作で左手をもう一度清める。最後に柄杓の柄を片手で持ち、椀部が上になるよう傾け、柄に手水をしたたらせて洗い流す。柄杓を元の位置に静かに戻す。「寺務所」。「本堂」。日蓮宗駿州富士郡北山本門寺末。「風土記稿」によれば、創建は文保年間(1317~18)とされています。江戸時代には慶安2(1649)年に、土地9石1斗について朱印地(将軍名の「朱印状」発給による寺社領地で、年貢や課役の免除が保証される)とされていました。海老名市社家3746。扁額「常在寺」。「内陣」。本尊は十界勧請大曼荼羅。また延宝7(1679)年に奉納されたと思われる木造子安鬼子母神立像(像高49センチメートル)、日蓮宗大荒行堂にて感得された木造大黒尊天神(像高36センチメートル)等が祀られていると。木造日蓮聖人坐像(像高35.7センチメートル)が最奥に。内陣にも「立正安国」の扁額が。本堂内の「日蓮聖人一代記」の欄間彫刻。富士市本市場住の彫師「板倉聖峯」師の作品であると。立教開宗・・・建長5年(1253)初めて清澄山頂にてお題目を唱える。伊豆流罪・・・弘長元年(1261)法華経の辻説法で鎌倉幕府により流罪となる。伊豆法難・・・弘長元年(1261)前年の松葉ヶ谷法難に続く四大法難の2番目。星降之梅・・・文永8年(1271)佐渡流罪の前に厚木で星が降ってきて梅の木に架かったと いう逸話。御入滅・・・弘安5年(1282)10月お題目を唱えながら61才の生涯を閉じる。こちらも見事な龍の彫刻。伝左甚五郎作の龍の彫刻であると。この龍が池の弁天様と遊んで参詣人を驚かせたため目に釘を打たれて釘付けとなり、後改心して、お寺や客人を守ってきたとの言い伝えが残っているのだと。「天水桶」。鶴をあしらった紋・鶴丸紋が。日蓮宗といえば「井桁に橘」だが、宗派や寺によっては鶴丸紋を使用しているようであった。「本堂」前の老木。「柏の樹この柏の樹は、常在寺が今よりおよそ四八〇年前、大永三年(西暦一五ニ三)に開創地である鎌倉小町より、当海老名社家に復興移転したおり、時の住職日在上人が法華題目の流布記念としてお手植えされた樹と伝えられているものです。」日蓮聖人が富士宮黒田存の本光寺に来て説教されたとき、村人が柏餅をこしらえて供したところ、聖人が大層喜んで食したという故事に因んで植えられたともいわれています。「海老名市自然緑地保樹木第58号 昭和62年8月1日指定樹下名 カシワ幹の周囲 2.80メートル所有者文は管理者住所 海老名市社3746氏名 常在寺」「鐘楼」を正面から。白のシュウメイギク。狸像も。樹木葬墓地とのこと。道路沿いにあった「永代供養墓」。そして次の目的地の「浄光寺」に向かって進む。産業道路の「宜山南(むべやまみなみ)」交差点を右折する。次の目的地の「浄光寺」にIphonesのGoogleマップをセットし進むが、「浄光寺」の東の道で「目的地に到着しました」とのメッセージが流れたが入口はなし。ストリートビューで確認すると、入口は反対側の道路であることが判明。案内に従って進むと右手にあったのが「十王堂」。海老名市社家1198。「十王堂」の祠。中には、頭に“王”と記された冠(?)をかぶり、厳めしい顔つきの石仏が鎮座。「閻魔大王」であろう。両側には石碑が。そして南西に向かって進むと左手にあったのが「浄光寺」。「浄土真宗 本願寺派」。「浄光寺」。正面に「本堂」。浄光寺は、歸命山遍照院と号す。浄光寺は、足利義晴に仕えていた日野三郎信忠が義晴没後仏門に入り浄觀と改め、天文元年(1532)鎌倉扇谷に創建、その後寛永年間(1624-1645)に今里村へ移転、さらに万治年間(1658-1661)ここ海老名の当地へ移転したと。海老名市社家3873。扁額「浄光寺」。内陣。本尊は阿弥陀如来像。境内の太い欅の木。親鸞聖人像。境内墓地。多くの墓碑が並ぶ。無縁仏塚。境内のピンクのシュウメイギクシュウメイギクは漢字で書くと「秋明菊」となり、菊に似た白やピンクの花を咲かせる宿根草。キンポウゲ科の植物で、花の形はアネモネに似ているのだ。こちらは白。名前にキクが付くが、キクの仲間ではなくアネモネの仲間であると。「アネモネなどと同様、プロトアネモニンを含み有毒。乳液に触れるとかぶれを引き起こす」とネットから。民家の庭に余り咲いていないのはこれが理由なのであろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.23
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【海老名市歴史散歩】 目次右手にあったのが「三島社表参道」案内板。近づいて。「郷土かるた 「み」」「三島社の 不動明王 いかめしく」道祖神他の石碑群。参道の脇にあった石燈籠一対と「地蔵堂」。 子供の守り神・子育て地蔵尊のようです。涎掛け・帽子を被り美しい着物を羽織った地蔵菩薩が祀られていた。更に参道を進んで行った。正面に石鳥居と社殿が見えた。「自力敢行」碑。「海老名町社家土地改良事業完成記念碑」と。石鳥居。左手に「鐘楼」。「梵鐘」。狛犬(阿形像、右)。狛犬(吽形像、左)。「手水舎」。「奉祝平成御即位記念奉納手水舎」碑。「不動尊堂」が右手に。「不動尊お堂建立の経緯三島社では明治以来不動明王立像ニ體等御躰と両界曼荼羅一対を護持しており、毎年七月二十八日には不動尊祭礼を行い供養してきました。これらの仏像等は、江戸時代中期の作とされ、当三島社境内に存していた別当寺しての正明寺が所有していたものです。この正明寺は高野山真言宗の末寺でしたが、明治初期の神仏分離により廃寺となった為、これらの仏像等は三島社が保存してきました。これらの仏像等は、祭礼時のご開帳以外はほとんど人目に触れることもない状態となっていました。このことから、地域の遺産としての仏像等を適切に保存管理し、かつ多くの方々に常に拝観することの出来る「お堂」を、氏子の寄進によりここに建立したものであります。北のお堂には五體の仏像が安置されております。向かって右から弘法大師坐像 一躰 正観世音立像 一躰薬師如来立像 一躰不動明王立像行基作 一躰不動明王立像 一躰」「内陣」向かって右から弘法大師坐像 一躰正観世音立像 一躰薬師如来立像 一躰不動明王立像行基作 一躰不動明王立像 一躰その先に「社家地域交流センター」。正面に「三島社」の「社殿」。創建年代不詳ですが、旧社家村の里正2名が記した元和9年(1623)棟札と再興の棟札が残され、寛永11年(1634)には本殿の改築が行われています。 天保12年(1841)の「新編相模国風土記稿」によると、別当・石井山正明寺の本尊「薬師如来」を祭神としていました。又、御神体「武者姿の画」は、昭和23年(1948)の火災で焼失している。地名「しゃけ」は、古くよりこの地に多くの神職が居住していたことに因むそうですが、今も当社から東南にかけ多くの寺社が点在しています。海老名市社家3392番地1。扁額「三島社」。源頼朝が伊豆三島社を勧請した鶴岡八幡宮の末社で 、神主家には海老名氏の庶流阿藤氏が就き、下海老名郷領家職を社領としていました。「大震災記念塔」関東大震災で破損した先代の石鳥居が保存されているのであろう。境内社の「稲荷社」であろうか。欅の老木。「海老名市自然緑地保樹木第159号 平成16年2月20日指定樹木名 ケヤキ幹の周囲 2.3 0メートル所有者又は管理者住所 海老名市社家3392番地1氏名 三島社横に廻って「本殿」を見る。そして「三島社」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.22
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【海老名市歴史散歩】 目次「相模大堰管理橋」を後にして、東に進むと前方にJR相模線の踏切が現れた。路地の角には「道祖神」碑があった。「新道踏切」を渡ると左手・JR厚木駅方面に見えたのが「海老名ジャンクション(JCT)」。海老名JCTは、東名高速道路と首都圏中央連絡自動車道(圏央道)を結ぶジャンクションである。茅ケ崎方面を見ると踏切の横にあったのが「JR社家駅」。「少なくとも江戸時代には高座郡社家村が成立しているので これ以前にはこの名前があったものと思われます。調べてみると社家(しゃけ)とは、日本の身分のひとつ。代々特定神社の神職を世襲してきた家(氏族)のことである。社家は奉職する神社の近くに家を構えることが多く、社家の家が集まった所は「社家町(しゃけまち)」と呼ばれた。」ネットより。近くには、この日に訪ねた「三島神社」があったが・・・それとも寒川神社?。「社家駅入口」交差点を左折して北に進む。正面を横断しているのが「東名高速道路」。その場所が「社家高架橋」。「東名高速道路」下り線から「圏央道」八王子方面への連絡道が上部に。「海老名JCT」下を通過すると正面の路地の角には「火の見櫓」が姿を現した。「火の見櫓」の下に「浄土真宗大谷派 清谷山 法閑寺(ほうかんじ)」の案内板があった。案内に従って100m程進むと正面に「法閑寺」が。「真宗大谷派」。「法閑寺」。「本堂」。「清谷山 華臺院 法閑寺」法閑寺は、祐信(延宝3年1675年寂)が開山したと。本尊は阿弥陀如来像海老名市社家2998。掲示板には「人生思い通りにならないことばかり。そのことが私に大切なことを気づかせてくれる」。「本堂建立記念碑本寺院は永禄十一年(一五六八年)釈祐寿の開基にして、関東大震災後大正十三年に再建した本堂も四十余年の歳月に破損甚だしく住職私財を以て庫裡を南方に寄せ新築すると○○○がる本堂を再建しようとの声が〇〇としておこり四十五年八月十○○○の建設委員を選出して九百万で瓦葺四十ニ坪の本堂が河原口小林材木店に依頼し雑費併せて一千二百五十万円の目標割当額と決して再建の賛同を得ることが出来ました。工事は四十六年四月より始まり六月五日に上棟式を行い十一月の中旬には全く完成を見ることができました。ついで仏具の修理、参道の整備も完了し名実共に新なる寺院の出現がなりました。四十七年四月十九日東京○○所長の臨席を仰ぎ落慶法要を盛大に執行し七十余名の稚児行列のもとに部落をあげての行事となりました。これ信仰のもとづく所五十余戸の壇徒の献身的努力の賜ものの結果でありここにその業を永久に伝える。 昭和四十七年十月吉日 十月吉日 十五世住職 大住真澄」「墓地整備記念碑銘一望千里の丘や台地に墓所を定めることはわたくしたちの祖先以来の習慣であった。平安時代に山岳佛教が興るに及んで「俗界を離れし山岳こそ御魂とどまる場所なれ」と感じ都塵を去る地に多く終焉の地を求めるようになった当山十四世住職この精神に則り墓地に植林八十余年を経てうっそうたる森林を呈するようになった時代の変化は陽光さんさんと映える平地こそ永眠の地なりと墓地改修を切望する声高まり数度に亘る檀徒総会を開き整理委員を選出し三十余戸の檀徒一丸となり巨木の伐採開墾、ブロック塀の建設と一ヶ月有余の日月をついやし延べ人員二百五十人寄付金弐拾万円を以って近代的墓地の出現をみるにいたった。これ一えに信仰のいたすところ数少ない門徒の献身的労力きよ金により此の事業の完成をみたのである。ここにこれを記念し碑を建てその業を永久に残す。昭和三十八年三月二十一日 当山住職 大住眞澄」境内の「萬霊塔」。「英霊供養碑」。六名の戒名が刻まれていた。山門前から境内を振り返る。「海老名JCT」方面に戻り、「法閑寺」の北側にあった「明窓寺」に向かって進む。「真宗大谷派 明窓寺(みょうそうじ)」が前方に。「明窓寺」の「山門」。寺号標石「真宗大谷派 光室山 明窓寺」。「真宗大谷派」「光室山 明窓寺」。「本堂」。「光室山 旭登院 明窓寺」。明窓寺の創建年代等は不詳ながら、捧珍(慶長18年1613年寂)が中興したと。本尊は阿弥陀如来像。海老名市社家3377。扁額「光室山」。「本堂」前の天水桶。紋は剣梅鉢(けんうめばち)、寺紋であろうか。掲示板には「自分こそ絶対に正しい 誰もがそう思っている しかしこれ人間の最大の欠点なり」と。「殉國」碑。十二名の戒名が刻まれていた。「愛玩動物合墓」「倶會一処(くえいっしょ)」碑。「倶會一処」とは「倶(とも)に一つ処(ところ)に会う」という意味である。ただし仏教では「極楽浄土に往生して人びとと一カ所に集う」という意味で使われている言葉で、浄土教の根本聖典である浄土三部経の一つである阿弥陀経に典拠がある。現在、浄土真宗系の墓や共同墓に刻まれていることが多いようである。「境内」を振り返る。屋根の紋は真宗大谷派の宗紋・八藤紋と学友から。そして次に「三島社」に向かう。「宇治山」交差点を左折する。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.21
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【海老名市歴史散歩】 目次「中野八幡宮」の散策をさらに続ける。境内社の「白山社」。社殿。扁額「白山社」。再び境内の「大銀杏」を見る。こちらは欅。「海老名市自然緑地保存樹木第71号 昭和63年8月1日指定樹木名 ケヤキ幹の周囲 2.90メートル」拝殿奥の「本殿」を見る。そして隣りにあった「盛福寺」を訪ねた。「中野堤外共有地の由来」碑。「この相模川県堤共有地は、古くから続く歴史があり、絹や食糧の生産など地域の共同体の核として我々に恩恵を与えてくれた。それは中野の文化として根づき守られてきた。江戸時代には、河川敷に開かれた耕作地は「流作場(ながれさくば)」と呼ばれ幕府が管掌し、面積は明和五年(一七六八)の記録によれば一町四反四畝二十八歩(約一万四千四百平米)とある。天保十二年(一八四一)には洪水で相模川の流路が二筋になったために決められた。相模川は、天保十二年の「新編相模風土記稿」に「平水幅一町余(約一〇八米)堤あり高さ五尺(約一.五米)」とある。明治五年(一八七ニ)に落合瀬兵衛以下五十二名として土地登録がなされ、小字が「鴻敷」(こうしき)と名付けられている。明治三十五年(一九〇ニ)には、荒地の一部を開墾し畑が割り振られた。その共有地は、畑と一段下がった河川敷があり、その段差は玉石が積まれ、「石土手」と呼ばれ、松林があり増水時に畑が守られていた。明治時代には、一部には住居付近にも流路があり、民有地の畑や宅地が流れに削られたためその内側に堤防が築かれた。その他の地域は自然堤防のかさ上げが行われた。大正時代関東大震災(一九ニ三)後から、建設用の砂利や砂の採取が河川敷で行われ、しだいに河床が下がった。昭和十年(一九三五)代後半まで帆掛け舟が行き来し、畑は大部分が桑畑で大水の時には桑の先端が見える程度まで増水し、堤防の保守や警護を地域で行った。その後食糧難になり桑畑は開墾され薩摩芋や麦などの増産に貢献したが大水などで生産は不安定であった。昭和三十八年(一九六三)ま砂利や砂の採取が行われ畑まで水位が上がることはなくなった。昭和五十八年(一九八三)地域の働きかけにより、河川敷共有地が「海老名市立中野多目的広場」として整備され、昭和六十年(一九八五)「サイクリングロード」も設置され利用者に喜ばれている。昭和六十三年(一九八八)には、共有地河畔に桜が植えられ堤外地組合で管理がされ大勢の花見客で賑わった。同年社家取水堰建設により、取水堰下流の堤防用地や堰の保全用として一部は売却された。またさがみ縦貫道路・第二東海自動車道・両者を接続するジャンクション・新堤防・相模川グリーンラインの計画が発表され、堤外共有地も計画用地となり対応が急務となった。特に将来まで影響を受ける景観や環境の変化は危惧され大きな問題点であった。粘り強い交渉を続け平成十二年(ニ〇〇〇)共有地売却に応じ契約に至った。交渉は十三年間に渡り、売却面積は共有地面積の四割余りであった。九十七本の桜も新堤防用地内に入り伐採された。交渉の間、堤外共有地は先祖が大切に守り受け継がれてきた貴重な地域の財産であるとの認識のもとに、由緒ある氏神様を祭る八幡宮の「平成の御造営」に奉賛することが、組合員全員の賛意により決定され、御造営を推進し寄与することとなった。平成十五年(ニ〇〇三)に念願であった新堤防が「石土手」付近に構築され、整備が行われたが、高規格道路の建設等に関連し、堤外共有地の利用を含めた新しい地域づくりが必要で、それらの対応を常に心がけることが責務となっている。ここに、堤外共有地の由来と成立の経緯を記し、それによる恩恵を記憶にとどめ、併せて維持管理者にご尽力された歴代役員や組合員各位に感謝すると共に堤外地組合の地域共同体としての精神が後世に長く伝わることを願い由来碑を建立するものである。平成十五年十月吉日 中野堤外地組合」「水子地蔵尊」。正面から。「水子地蔵尊」の横の石碑。「大圓鏡智 勤修大施食法會 無縁供養塔」と刻まれていた。「大圓鏡智」とは大きな丸い鏡が万物の形を映すように、すべてを正確に照らす智慧の事と。「施食法會」とは「施餓鬼(せがき)」のことで、そして、餓鬼(がき)とは、生前に悪行を行い地獄に落ちた魂や生前食べ物を粗末にしたり、俗世で供養してもらえなかったりして無縁仏となってしまった霊が、地獄に落ちて鬼となってしまったもののことです。餓鬼の世界のことは「餓鬼道(がきどう)」と言い、六道の一つとなります。餓鬼は地獄で、常に飲食をすることができないため、飢えと渇きにもがき苦しんでいるため、食物や飲み物をお供え物として捧げ、法要を執り行います。言い換えると、地獄にいる餓鬼に対して施しを行い、この世にいる自分たちの極楽往生を願うのが施餓鬼・「勤修大施食法會」となります とネットから。寺号標石「曹洞宗 中野山 盛福寺」。」「盛福寺」の「本堂」。「盛福寺」は、能山(元和6年1620年寂)が開山、中野八幡宮の別当寺を勤めていた。別当寺(べっとうじ)とは、専ら神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のこと。神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と称した。神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義 と。ご本尊は観世音菩薩像。扁額「盛福寺」。寺務所前の石碑。「勲八等功七級 故海軍一等水平 市川𠮷蔵之碑 」碑。「盛福寺」境内から「中野八幡宮」を見る。「故陸軍砲兵 曹長勲七等 平本清蔵之墓」碑。「大山」の山頂をズームで。最後に再び「中野八幡宮」の境内を見ながら後にする。そして相模川川岸に向かって進むと、斜め後ろには「中野八幡宮」と「盛福寺」の姿が。相模川の左岸堤防に着くと前方に富士山が現れた。富士山山頂をズームで。そして前方にあったのが「相模川水管橋」。相模川に架かる水管橋で、形式は「鋼管トラス構造(またはパイプトラス構造)」。小田原市の酒匂川にある「飯泉取水堰」で汲み上げた水を「伊勢原浄水場」で浄水し、海老名市の「有馬浄水場」へ送水する途中。橋は青色で塗装されていた。鋼管内径は1350mm。銘板。竣工は昭和50年(1975)8月。「相模川水管橋」の先に「大山」の姿も。NTT東日本 岡田電話局のアンテナ塔の先に大山の姿が。相模川の上流に向かって「神奈川県道409号相模川自転車道線」を進む。前方左に見えたのが「相模大堰管理橋」。「相模川水管橋」を振り返る。堤防にはススキが風に揺れていた。セイタカアワダチソウ(背高泡立草)の姿も。再び「富士山」と「大山」をいれて「相模川水管橋」を。斜め頭上には「圏央道」が。「富士山」とNTTアンテナ塔。厚木アクストメインタワーが「相模大堰管理橋」の先に。高さが117mあり、付近においては唯一の高層ビルとして神奈川県央におけるランドマーク的な存在の高層ビルとして知られる。「相模大堰管理橋」手前まで来る。相模大堰(さがみおおぜき)は、神奈川県内広域水道企業団の相模川水系建設事業のひとつとして、1995年(平成7年)に工事に着手し、1998年(平成10年)に完成した、相模川の取水堰である。河口から12キロメートル上流にあり、左岸は海老名市社家地先、右岸は厚木市岡田地先に位置している。2020年(令和2年)3月31日より、併設されている「相模大堰管理橋」が一般歩行者・自転車通行に対して開放されたのだと。「相模大堰管理橋の通行止めについて」案内板。相模川左岸堤防の先には「神奈川県内広域水道企業団社家導水ポンプ場」スクリーンと除砂装置が見えた。「相模大堰管理橋」。対岸は厚木市岡田で堰の長さは495m。「相模大堰」。幅42メートルのゲート4門、水道用取水および河川維持流量の制御のためのフラップ付き幅40メートルの2段調整ゲート2門と、フラップ付き幅21メートルの2段土砂吐ゲート1門の計7門のゲートがある。大山北尾根を見る。手前に「相模川橋」と奥に秩父の山々。相模川左岸堤防から見た取水門。「相模大堰」を振り返る。傍らに水利使用標識が掲げてあった。毎秒7.190㎥とありました。日量621,000㎥。横須賀水道分も合わせて取水しているので毎秒8.106㎥、日量約700,000㎥になると。再び「相模川橋」。相模川左岸のサイレン設備。「この施設は、城山ダムから放流する時 危険を呼びかけるための施設です。」「危ない!! ダムの放流による増水に注意この川の上流二十四・八キロメートルのところに城山ダムがあり、ときどきダムに貯まった水を流し、この川の水が急に増えることがありますから注意してください。また、ダムに貯まった水を流すときは、左記のとおりサイレンやスピーカーなどで知らせますので、そのときは危険ですから河原に降りないで下さい。サイレン吹鳴方法 20秒サイレン➡5秒休止 の繰り返し。」そして相模川を離れ東に進むと右手にゲートがあった。「社家取水管理事務所」。近くにあった「海老名運動公園案内板」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.20
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【海老名市歴史散歩】 目次この日は10月11日(月)、この日・10月11日は祝日でなく平日。10月の第2月曜日は例年、「スポーツの日」として祝日となるが、今年は東京オリンピックがあった関係から、10月11日は平日になったのであった。我が部屋のカレンダーは皆11の文字が赤く祝日表示になっているのであった。この週末に「海老名市の寺社旧蹟を巡る」の3回目を予定していたが、週間天気予報では海老名市は火曜日以降週末まで天気が安定しないとのことで、急遽この日を決断したのであった。JR茅ヶ崎駅からJR相模線を利用してJR門沢橋駅まで向かい、この駅からの「海老名市の寺社旧蹟を巡る」の3回目スタート。駅横の県道22号線・横浜伊勢崎線を相模川方面に向かって西に進む。前方に見えて来た高架道路は「首都圏中央自動車連絡道」いわゆる「圏央道」。ここ「戸沢橋東」交差点を右折して「東名高速道路」方面の散策に向かう。この道を真っ直ぐに進むと相模川に架かる「戸沢橋」があるのだ。「住みたい 住み続けたいまち 海老名」と書かれた掲示板には、「海老名中央公園」にある「相模国分寺」の「七重塔」の姿が。奈良時代の海老名にあった「相模国分寺」の「七重塔」を1/3に縮小して再現したもの。前方に「新東名高速道路」、「第二東海自動車道」の「海老名南ジャンクション(JCT)」。一番外側の大きなカーブの道は「圏央道」の「茅ケ崎JCT」方面への導入路。右折したT字路の角には「地蔵尊」の姿が。海老名市門沢橋2丁目24。「記念碑この地を跡堀と称す。この地に有史以来五戸の集落有り。この度第二東名及び相模縦貫の道路建設に伴い収用移転を余儀なくされた地蔵尊・道祖神の再建と共に記念碑を刻し後世に伝える。平成十六年七月吉日建之」「建立(こんりゅう)」も「建之(これをたつ)」も同じ意味で、石碑等を建てた年月日、人を指す。石碑、墓石や記念碑などに彫られることが多く、普段の生活の中ではなかなか見慣れない言葉なのであった。移設された「地蔵尊」像。「道祖神碑」。そしてその先にあったのが「若宮八幡宮」。海老名市門沢橋2丁目14。社殿には大きな南京錠が。扁額「若宮八幡宮」。ウィキペディアによると「社名の通り「八幡宮の若宮」という意味で、多くは宇佐神宮・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮などにある若宮を勧請し、八幡神・応神天皇の御子神である仁徳天皇(大鷦鷯尊)を祀るものである。他に、「八幡宮本宮から迎えた新宮」の意味の「若宮」もあり、この場合は応神天皇が祀られている。源氏、ひいては後の武家全体の守護神たる八幡宮から分祀され、日本各地に存在する。」と。「若宮八幡宮若宮八幡宮は門澤橋字八幡の地に鎮座されておりましたが、日本道路公団施工第二の東海自動車道と相模縦貫道とのジャンクション用地として土地を提供しその代替地として当地門澤橋字跡堀七一〇番地に再建された神社です。」ジャンクションの高架橋のカーブの下奥に「富士山」の姿が。「大山」の姿も。「海老名南JCT」を背にしながら、海老名市中野1丁目29の住宅街を北上する。二度左折して進むと「妙泉寺」の角にあった石碑。長年の歴史による風化で判読不能であった。そして「妙泉寺」の入口に到着。海老名市中野1丁目6−5。山号は「正蓮山」。「妙泉寺」。「本堂」。「正蓮山 妙泉寺(しょうれんざん みょうせんじ)」。日蓮宗、妙純寺(愛甲郡金田村(現在の厚木市))の末寺であると。本尊は三宝祖師で、元和8(1622)年、正蓮院日養上人が起立した。大正12(1923)年、関東大震災で全壊した本堂と庫裡を再建。昭和6(1931)年、三宝尊像を修復。昭和57(1982)年、本堂と庫裡を再建し、宗祖700遠忌報恩事業とした。また、宗教的行事で使うだけではない、市民に親しみを持ってもらえるような開かれたお寺作りを目指し、寺子屋や映画鑑賞、婚活行事、チャリティーイベントなどを開催しているとのこと。東日本大震災以後、東北の復興活動に力を入れ、大量の物資を運搬するのみならず、福島県南相馬市の子どもたちと海老名市の子どもたちの交流キャンプの開催地にもなっていると。扁額「正蓮山」。墓地の入口にあった歴代上人の墓石。現在は二十八世の住職であるようだ。塀の裏にも小さな「御堂」があった。「相模川」に向かって進むと路地の角には「海老名市消防団 第十三分団」の建物があった。シャッターには桜の木と真白き富士山の姿が描かれていた。そして次に訪ねたのが「中野八幡宮」。海老名市中野1丁目1−1。桜の老木の下の石碑には「???」。入口の真っ赤な社の中には大きな石仏2体と小さな石仏が1体安置されていた。近づいて。左手には大きな石碑が二基。「記念碑竿石(さおいし)の由来について此の石は康平年間(八百五拾年以前)当地の太守海老名源八季定邸の敷石に使われていた拾参枚中の壱枚にて其の後中野部落の田圃の用水路の石橋として使用していたが工事の完成と共に不要となる此の石を後世にのこすため敢えて竿石とする。海老名氏は居を河原口に営み関東武士として武勇を天下にとどろかせたが永享拾ニ年(五百三拾年以前)の乱に鎌倉の上杉軍に加担して一家は滅亡した。海老名町文化財保護委員◯島鉚造の記録より」「郷愛 土地改良事業完成記念碑」正面の石鳥居越しに境内を見る。「村社 八幡宮」碑。狛犬(阿形像 右)。狛犬(吽形像 左)。石鳥居。扁額「八幡宮」。「海老名市指定重要文化財 中野八幡宮 本殿」案内板。「中野八幡宮は、旧中野村の鎮守で、本殿内にある慶長八年(一六〇三)の古札ニ枚と、神体の木造将軍地蔵騎馬像の作から、室町時代後期に遡ることができ、同年に本殿と覆屋を新造したことが分かる。このため、勧請の年代は不詳であるが、古社であることは間違いないと思われる。本殿は、中規模の一間社流造りの内宮で、覆殿内部に安置されている。建設年代は、十八世紀前期ごろと推定される。大きさは、間ロ五尺、奥行きは母屋が四・一尺、向拝出が三・九尺で、母屋の柱には直径五・八寸の丸柱が用いられている。母屋の正面、黒漆塗りの桟唐戸は、草花の幾何学文を彫り、彩色を施した珍しい建具である。正面両脇の小壁には、竹と梅に鶯の彫刻をはめ、中備にあげた本蟇股の脚間にも彫刻をはめる。当本殿は、洗鰊された意匠の彫刻装飾を多用していることが大きな特色である。また、木部をすべて彩色しているうえに、銅製の飾り金具が多く用いられている。かっ、保存状態もよい。以上のように、本物件は、本市における彫刻装飾を多用した初期の貴重な遺構で、保護の価値があると認められるため、市指定重要文化財に指定したものである。」「庚申塔」碑。「八幡宮の由来」碑。「当八幡宮の祭神は應神天皇(誉田別命)であり、創建年代は未詳であるが、当地も大化の改新(六四五年)により条里制が整い、この八幡宮も農耕生活の上でなくてはならない守護神として朝野の信仰を篤くした。当八幡宮の別当寺院あった盛福寺の梵鐘文に「延暦」という年号(七八ニ年から八〇六年・奈良から平安時代)も見え、八幡信仰の古さを物語っている。一説に平安時代海老名源四郎親季が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請し、その後大島豊後守正時公が当宮の宝殿を創建したとある。中野は、上海老名郷であったことから海老名氏との関係も深く、その関係文書に居住地がこの地にあったことや、跡堀・入内島などの地名も出てくる。さらに海老名氏の館の敷石に使われていた十三枚のうち三枚が当地にあり、その一枚が土地改良記念碑として鳥居右側に建立されている。現在の本殿の建立は、棟札や建築様式によれば亨保十年(一七ニ五年)のものであり、その後幾多の修復を経て護持されてきた。御神木の大銀杏も樹齢八百年と推定され江戸期の資料では周囲一丈九尺余り(約六メートル)と記されている。当八幡宮の繁栄と氏子中の平穏無事祈念して、これを茲に建立するものである。」「手水舎」。境内右に「神楽殿」。御神木の大銀杏。11月下旬頃の見事な黄葉が楽しみなのであるが。「御神木(大銀杏)この大銀杏は、古文書や伝承が多く伝えられている。樹木医によると、樹齢は八百年を超えていると診断され古文書の記述が証明している。万治ニ年(一六五九年)に編纂された「鷹倉社寺考」には次のように記載されている。【八幡宮の鎮座時期は、古文書や棟札がないので本当の事はわからない。但し、社殿や神木をよく調べてみると古い時代の鎮座と思われる。】享保十年(一七ニ五年)現在の御本殿造営古文書「鎮守八幡宮歓物之礼」には、【正徳六年(一七十六年)この中野村の鎮守様の八幡宮は、長い間の歳月がたって痛みがひどく寂れてしまった。】村中で再建の話がでていた矢先、次の年の八月十六日に大風が吹き御神木の銀否が本殿の方に倒れ本殿が大破してしまった。これにより、村人の本殿再建の意思は強く固まり、七カ月の計画をたてその努力により金五十九両余りの寄付金が集まった。天保十ニ年(一八四一年)に編纂された「新編相模風土記稿」によると【神木銀杏樹周囲一丈五尺(六メートル)】と記されている。当時には、すでにかなりの巨木であったことを知ることができる。大正八年(一九十九年)十一月に撮影された境内の写真に大銀杏の健全な姿が写されている。雑木で実は付けないが、幹から乳(にゅう)が下がり特異な姿であった。昭和四十年(一九六五年)台風により、根が浮き上がり倒れ拝殿の屋根を破損し、主幹が枯れてしまった。現在の技術があれば、枯れることはなかったと考えられ惜しまれる。折れた枝でまな板を作り氏子に配られた。その後、南側の幹から芽が出て復活し、御神木の生命力の強さが証明された。以前は、境内を蓋うほど枝葉が茂り遠くからも見えたと伝えられている。平成六年(一九九四年)樹勢が衰え樹木医に診断を受け治療が施され、枯れてしまった部分には保存の手当てが行われた。その結果、幹の一部が樹勢を回復した。現在では、枯れた部分を含め八・五〇メートル程である。大銀杏は、樹齢ニ〇〇年を超えると診断され、近代では稀な大銀杏として手当てが施された。また、この大銀杏は平岩弓枝の小説「華やかな魔獣」に登場し「岩とも木ともっかぬ奇怪な塊」という表現が用いられている。この度、平成の御造営を機会に八百年以上に渡り悠久の時を刻み、八幡宮や地域の変遷・発展を見守り中野の象徴・誇りとして尊重され親しまれてきたことが改めて見直された。」「故郷かるた「ふ」」「古銀杏 傾き芽吹く 中野八幡」。1965年に台風により倒れ、枯れかけたが樹皮から枝が成長し現在の様になっていると。「六地蔵」。境内から、隣りにあった「盛福寺」の石灯籠、圏央道越しに大山連山の姿を見る。「中野八幡宮」の社殿。扁額「八幡宮」。賽銭箱の社紋(神紋)は「左三つ巴」。八幡宮の社紋(神紋)がなぜ「左三つ巴」なのか?その理由には諸説あるが、八幡宮の主祭神である応神天皇がお生まれになり、その腕に左三つ巴のようなアザがあった。という説や、弓道で用いる「鞆」という道具を表す絵がこのような紋で「鞆の絵」ということで巴となったという説等いろいろあるようだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.19
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【海老名市歴史散歩】 目次「土浦城跡」の散策を終え、国道125号を北上し次の目的地の「笠間城跡」に向かって進む。国道6号、県道138号を利用して進み石岡市に入り、前方の「府中橋北」交差点を左折し国道355号を進む。「日本プロゴルフシニア選手権大会」観戦用の駐車場案内板。ここ茨城県石岡市にある「サミットゴルフクラブ」でこの日の翌日の10月7日から開催されるのであった。石岡市内を通過。ひたすら走り北関東自動車道「友部I.C入口」交差点を通過。常磐線・上野東京ラインの踏切を渡る。「笠間市役所」前を通過。「芸術のかおるまち かさま」案内板。そして駐車場のある「かさま歴史交流館 井筒屋」に到着。この日の笠間市内の散策ルート。「かさま歴史交流館 井筒屋」・旧井筒屋本館は、正月の初詣や菊まつりをはじめ多くの観光客で賑わうこのまちのシンボルとして、長年にわたり市民に愛されてきた明治中期建築の木造3階建ての建物。東日本大震災により被害を受けたこの建物は、建築当時の雰囲気を残しつつリノベーションが施され、笠間の歴史や観光情報の発信、市民や観光客の交流の拠点、「かさま歴史交流館 井筒屋」として生まれ変わった と。建物1階は、観光インフォメーション、続100名城112番笠間城スタンプ設置場所、井筒屋カフェを併設。2階は、笠間市生涯学習課による歴史展示コーナーを常設。3階は、貸会議室2部屋があり、市内外に限らず予約申し込みで利用できると。裏は芝生の公園になっていた。人力車が展示?されていた。1階の観光インフォメーションコーナー。「井筒屋から笠間城跡までの道順」が写真入りで丁寧に説明されていた。「日本100名城・続日本100名城 スタンプラリーについてのお願い」。そして歌手「坂本九」が「笠間稲荷神社にて結婚式」を上げた時の写真が。「戦争中の1943年10月26日に発生した常磐線土浦駅列車衝突事故で川に転落し、多数の犠牲者を出した車両に、疎開のために母の実家のある茨城県笠間市に向かっていた坂本九は母と乗り合わせていた。ただ、事故の直前に他の車両に移っていたために遭難死を逃れる。成長して周囲の人々にこの一件を聞かされて知り、「笠間稲荷神社の神様が自分を救ってくれた」として、終生信仰していたという。後には、この笠間稲荷神社で結婚式を挙げる。そして、日航機事故で命を落とした時にも、笠間稲荷のペンダントが遺体の身元を特定する決め手となった」とウィキペディアより。「「上をむいて歩こう」の人気歌手 坂本 九(1941~1985)」。歌手「坂本九」の誕生坂本九は、神奈川県川崎市で昭和16年(1941) 12月10日、港湾土木業の社長、坂元寛と笠間町大町生まれの妻いくの3人目の子として生まれました。いくは後妻で、すでに先妻の子が6人いましたが、9人の子を分け隔てなく育てたといわれています。「九」は本名で「ひさし」と読みます。九が誕生する2日前の12月8日太平洋戦争に突入。やがて戦争は厳しさを増し、ついにアメリカ空軍が市街地を空襲するようになりました。両親は、母いくの実家がある笠間へ疎開することにしました。佐白山の山裾の地に木造平屋建ての一軒家を急いで作り、九が2才のころに移住。終戦後しばらくは、笠間幼稚園に通い、昭和23(1948)笠間小学校へ入学。子供ながら家のために働きました。数年後、川崎へ一家で引き上げました。青年になった九はジャズ喫茶で歌っていたところを見出され、昭和33年(1958)ダニー池田とパラダイスキングのメンバーとして、坂本九の芸名でプロデビュー。その後ソロ歌手となり、昭和36年NHKのバラエティー番組で歌った「上を向いて歩こう」(作詞・永六輔、作曲・中材八大)が大ヒットし、人気を不動のものとしました。郷土笠間に残した功績九は、歌手だけでなくテレビの司会・映画・舞台と多方面で活躍、ボランティア活動にも熱心に参加しました。特に昭和51年(1976)から9年間、北海道各地の福祉施設を訪ねて障害者に話を聞く札幌テレビの番組で司会者を務め、亡くなるまで5000人以上の人と会って自分の言葉で語りかけました。コンサートで手話を使って歌うことも坂本九がはじまりだといわれています。「笠間は第二のふるさとです」が口ぐせだった九は、笠間幼稚園にピアノを寄贈したり、笠間市役所の建設に協力するため歌謡ショーを開催したりと、笠間のために貢献しました。昭和46年(1971)12月8日女優の柏木由紀子との結婚式を笠間稲荷神社で挙げて市内をパレードし、郷土を大いに盛り上げました。市は感謝して、市庁舎の完成した昭和4 0年(1965)4月1日にあわせて「坂本九歌碑」の除幕式を行いました。昭和60年(1985)8月1 2日、日本航空ジャンボ機が、群馬県上野村の御巣鷹山に墜落、520人の犠牲者の中に坂本九がいました。43年の生涯でした。笠間では正午の時報に「上を向いてあるこう」、夕方5時に「見上げてごらん夜の星を】の曲を流し、坂本九を偲んでいます。」2階は笠間の歴史を知る「歴史展示コーナー」になっており、笠間城をメインテーマとしており、絵図や復元模型のほか、パネル展示などで笠間城の歴史や昔の姿を紹介。そして笠間市の政治や経済、産業、文化などの分野で大きな業績をあげた先人たちを「かがやく!笠間の先人たち」として紹介されていた。「笠間藩初代の藩主 松平康重(1568~1640)」家康覇権の先兵松平康重は、永禄11年(1568)三河国吉良(愛知県)の東条城で生まれました。慶長6年(1601)、「関ヶ原の戦い」の翌年に、武蔵国騎西(埼玉県)城主であった松平康重が3万石の笠間城主になりました。翌年5月、徳川軍に味方しなかった水戸城主佐竹義宣は、突然秋田(秋田県)に領地がえになりました。康重は、留守になった水戸城のニの丸の守りを命ぜられ、兵士を引き連れ水戸へ出発しました。佐竹氏転封の後始末徳川氏の使いへ城の引渡しが済むと、康重の役目も終わり、一時笠間へ戻りました。ところが水戸ではその留守に、佐竹氏の元の家臣車丹波(くるまたんば)らが水戸城を奪い返そうとする企てがあるとの知らせが康重の耳に届きました。そこで軍を引きつれて急いで水戸へ引き返し、水戸城に駆け付けました。このとき笠間の町人も、武器を持って加勢しました。こうした康重軍と笠間勢の働きで、車丹波らが行動を起こす前に騒動を治め、水戸城を守ることができました。徳川氏は笠間町人のすばやい行動と協力に大変感心し、褒美として笠間城下町のすべての町人が土地の年貢(税金)を納めなくてもよいことにしました。笠間の町人は、その後笠間城主が代わても、この約束を守るよう文書で取り交わして笠間城下町の誉れにしました。幕府の字固めに尽力慶長8年(1603)、徳川家康は征夷大将軍になり、江戸に幕府を開きました。この時笠間藩としてたまわった3万石の領地は、旧笠間市の大部分、城里町の旧七会村の南半分、桜川市の旧岩瀬村の大部分でした。この笠間藩の領地は、江戸時代終わりまで「笠間の城つき3万石」として扱われました。康重は、笠間藩主になって8年目の慶長13年(1608) 9月に丹波国篠山(兵庫県)へ5万石で領地がえになりました。ここは、幕府が西国をおさえる重要な所です。家康は、多くの大名に命じて篠山城を作らせ、康重を城主にしたのです。康重は、徳川家康を支える大切な武将でした。江戸時代初めに徳川家康の武将である松平康重が藩主になったことから、その後江戸時代を通して笠間藩が続いていきました。康重は笠間の歴史を作った重要な先人と言えるでしよう。」「徳川斉昭から名を与えられた鉄砲鍛冶 阪場志業(さかばむねなり 1833~1911)」鉄砲師になり、水戸徳川家の家臣に江戸時代の後期天保のころ、外国の船がたびたび日本へ来るようになり騒がしくなっていました。水戸藩9代藩主徳川斉昭(烈公)は、海岸沿いの守りを固めるために大砲や鉄砲などを鋳造しました。鉄砲は主に斉昭が駿府(静岡県)から招いた鉄砲師、国友尚志一門の手で製造されていました。鉄砲製造は精巧な仕上がりが求められ、一人前の鉄砲鍛冶になるには、奥儀を修得しなければなりませんでした。そのひとりに阪場志業がいました。弘化3年(1846)、1 3歳になった志業は、志を立て国友尚志の門に入りました。入門した志業は鉄砲について熱心に学び、数年のうちに鉄砲を製造する高い技術を身につけました。19歳のころには、国友流鉄砲のロ伝秘技を習得しました。一人前の鉄砲鍛冶になった志業は、水戸藩の武芸訓練所である神勢館の鉄砲師に迎えられ、家臣として扶持(俸禄)をもらうようになりました。」宍戸に移り鉄砲製造の継続ある日、志業は水戸藩主の斉昭に自作の鉄砲を献上しました。それがよい山来だったため、斉昭から「志業」名が与えられました。元治元年(1864)、水戸藩内の争いが起こり、鉄砲を作ることができなくなってしまいました。そこで水戸藩分家の宍戸藩松平頼位の招きで、志業は家族と共に明治3年4月、水戸をはなれて宍戸(笠間市)へ移り住みました。まず、猟銃の修理を始め、やがて猟銃の製造が認められると、再び製造を始めました。明治後期になると、発動機を動力源に使えるようになり生産は急激に伸びました。製造する銃は、元折単発猟銃、西洋式散弾銃、元折ニ連銃の他にピストルや空気銃・捕鯨銃も作りました。鉄砲に命をかけた志業は、同44年10月6日に78歳の生涯を閉じました。亡くなる直前まで、鉄砲を作る手を安めなかったといいます。鉄砲鍛冶として生きた年月は、実に65年に及びました。志業は「幼い頃より仕事一筋に打ち込むことが、真の職人になれる道だ」という考えをもっていました。徹底して技を身にけることが、次の代に引き継がれていくことになります。」「世界に広まった合気道の創始者 植芝盛平(1883~1969)」盛平の修行時代植芝盛平は明治16年(1883)現在の和歌山県田辺市元町に生まれました。幼いころは体が弱く、本の好きな子どもでしたが、18歳の時、東京へ出て仕事をしながら様々な武道を学び、精神修行に励んで立派な青年に成長しました。大阪の軍隊へ入った時も、隊内一番の銃剣術使い手として「兵隊の神様」と呼ばれるようになりました。同45年、紋別郡白滝村(北海道)へ開拓民として移住しました。そこでも盛平は強靭な精神力を発揮して、新たな村づくりに奮闘し立派にその目的を果たし、村人は盛平を「白滝王」と呼び尊敬しました。そんな折、宗教家の出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)と出会い、人間の生と死、人間の生きる道についてて教えられました。この出会いを機会に自分の生きる道を「武道一筋」と心に決め、王仁三郎のいる京都府綾部市の地で「植芝塾」道場を開き、ひたすら武道の修業に励み、自らの武術を「合気武術」として指導しました。時に盛平37歳、大正9年(1920)のことでした。合気道世界へ翔く昭和元年(1926)、厚生省から「財団法人皇武会」として認可され、柔道、剣道と並んで広く世に認められるようになりました。昭和17年(1942)、盛平は60歳のとき、「合気武道」を改め、初めて正式に「合気道」と名乗るようになりました。「合気道を守り伝えなければならない」と考え、かねてから少しずつ土地を手に入れていた岩間町(笠間市)に新たな合気の奥ノ院(神聖な場所)を作ろうと住まいを構えました。盛平はこの岩間の地で、門人たちと合気道の真髄を極め続けました。盛平はこのころから世界に目を向けるようになりました。70歳をこえた盛平でしたが武道を通して世界の人々が仲良くなることを最後の活動としようと精力的に普及に励みました。このような活動が認められ同35年(1960)、盛平は紫綬褒章を受章など多くの勲章が贈られました。そして86歳で東京の自宅にて安らかに息を引さ取りました。「笠間藩政の資料をまとめた寺社町奉行 高橋義方(生年不明~1780)」山外郷百姓一揆を収拾高橋義方は、望月家(他藩の家臣)の次男で、丹治(たんじ)と名乗っていました。享保5年(1720)、延岡(宮崎県)藩主牧野貞通家臣であった高橋義陳の養子になり、延享4年(1747)主君が笠間藩主になるのに伴って笠間に移りました。翌年に義方は寺社町奉行の役に就きました。笠間に移って3年目の寛延2年(1749)、領内で百姓一揆が起こりました。この年は天候不順のために不作で、農民はいつものような年貢を納めることが出来なかったのです。山外郷(桜川市旧岩瀬町の笠間藩領地) 42か村の内、27か村・約1000人の農民が年貢を減らしてもらおうと城下町へ押し寄せました。しかし、このとき藩主の牧野貞通が、亡くなったばかりのうえ、京都所司代という幕府の重要な役についていたので、勤務地である京都から出棺、葬式、法要を行わねばならず、牧野家にとっては大変な時でした。次の藩主貞長が家督を相続すると、幕府の勘定奉行の指導の下、義方を中心とした藩の役人は、一揆の中心者の取り調べを始めました。14日間の厳しい調べの結果、掟を破った名主ら3名を死罪にし、その家族を領内より追放して、田畑や家財を取り上げました。また、村々に一揆の知らせをした農民に10日から15日の入牢を申しわたしましたが、村役人や一揆に参加した農民への責任はなしとして、罰をあたえませんでした。聞訟礎石集の編纂義方は、裁判をえこひいきなくより公平に判断しようと、幕府や藩、あるいは前の藩主の笠間の政治に関することなどを調べて『聞訟礎石集』17巻にまとめました。内容を見ると、訴え状、裁判の判決、刑法など裁判に関すること、村方の行政、領内の事情、証文、農政関係など幅広く記録されています。この書は江戸時代中ごろの笠間の様子を知る誠によい資料です。この書の序文で、義方は「寝ても鴬めても裁判のことに身を置き、えこひいきや秘密の打ち合わせや賄賂をなくし、人間として正しい道を歩むことに心掛けるために」と記しています。よこしまな道に走らず、正しい道を行う役人として忠実に勤めを果たした藩士でした。牧野家が新しい領地に移り、百姓一揆が起るとい最大の危機に誠心誠意職務を行ない、また正しい裁判を進めるために記録をまとめて、藩政の基を築いた先人です。「笠間藩の改革や飢餓対策を記録した藩士 手塚躬保(1777~1852)」藩政改革の記録「十五年来眼目集」手塚躬保(もとやす)は、安永6年(1777)に手塚芳躬(よしもと)の長男として江戸で生まれました。躬保が15歳の寛政3年(1791)に父が病に倒れたので、家督を相続し、藩主牧野貞長の世継ぎだった貞喜は近習役に就きました。このころの農民は重い年貢を納めなければならず、暮らしは大変貧しく、村を離れたり、子供を養育出来ないために生まれたばかりの子を殺したりする農家もありました。また、年貢に頼る藩の財政は大変厳しいものでした。藩主になった貞喜は、これまでの政治を見直して、藩の政治を改革することにしました。この時34歳の躬保は目付の役につき、改革政治がどのように進められたか調べて度々藩主に報告しました。さらに躬保は改革について自分の考えを述べるなど、より良い政治を目指しました。改革政治は文政7年(1824)まで実に16年間すすめられ、次第に農民の暮らしも良い方向に向かいました。躬保はこの間の事情を後世に伝えようと藩政の記録を調べ、『十五年来眼目集』(4巻)にまとめました。天保飢饉の施策「救民記」その後、天保3年(1832 )には24年間勤めた郡奉行の職の覚書として、主君牧野家の領地や幕府から受けた朱印状や村々の石高などが記載された「郡官日省録(ぐんかんにっしょうろく)」をまとめました。天保4年と同7年は、全国的に天候が不順のた農作物が不作で、食料が不足となる大飢饉になりました。笠間藩はいち早く対応し、その中心的な働きをしたのが躬保です。農民の生活の様子を調べ救済米を渡し、米を笠間藩領外へ出すことを禁止し、米の買い付け、飢饉食の指導など次々と対策を施しました。同8年には躬保自ら東北の藩領を訪れ、飢饉の様子を詳しく調べ、対策へ反映させました。その結果領内の被害は少なかったと伝えられています。この飢饉のために行たことを記録したのが『救民記』です。天保4年の『癸巳救民記』が2巻、同7年の『丙申救民記』が5巻、『救民記附録』が1巻で全部で8巻950べージにものぼる大量な記録です。67歳の天保14年に記録が終り嘉水4年(1851)の75歳の時に清書し、藩の役所に提出しました。その翌年、嘉永5年12月16日76歳で亡くなりました。61年間に仕えた藩主は実に6人、その間農政に全力をささげた一生でした。その勤務を後世に役立てようと、根気強く文書を調べて記録した生き様は、まさに家臣の手本と言えましょう。「薩摩藩の和算の指導者 甲斐駒蔵(1810~1861)」師弟で「量地図説」を出版甲斐駒蔵(かいこまぞう)は、文化7年(1810)に甲斐広盛の子として生まれました。笠間藩士の和算(日本独自に発達した算数・数学)の教師松本英映(ひであき)にその手ほどきを受け、恩師が亡くなた後は駒蔵がその跡継ぎとして笠間藩の和算の指導者となりました。一方、江戸の和算の大家の長谷川寛(ひろむ)や長谷川弘の門弟となり、和算の実力を一層高めていきました。4 3歳の嘉永5年(1852)1月に『量地図説』を執筆、編さんして江戸の文会堂・山静堂から上巻下巻を刊行しました。この書は手作りの簡単な測定器を用いて、田や畑・山や川などの地形を測量することができる手引き書です。出版にあたり監修に師の長谷川弘、校正したのは門弟の小野友五郎、序文は長谷川門下生の仙台の安倍勘司安円(あべかんじやすのぶ)、あとがきは駒蔵門人の冨田彦蔵保敬、挿し絵は葛飾北斎の弟子の葛飾為斎(いさい)が受け持ち、多くの人に支えられて見事に完成しました。和算の才能を存分に発揮した刊行書当時は外国船が日本近海にしばしば現れたため、国内では海岸沿いを外国から守る海防が重大問題で、地図の作成が必要になっていました。発刊の翌年、アメリカの艦隊が浦賀に人港して開国を要求したため、多くの関係者が測量の手引書とて『量地図説』を買い求め、今で言うべストセラーとなりました。ほかに『算法通解」という数学の書を編さんしました。この書は長谷川算学道場の発刊書の一つで、和算の新しい問題や色々な和算の解説を10巻にまとめたものです。また、測量の計測を和算で求める方法をまとめた書『算法量地大成』の編さんも行っており、駒蔵が和算の才能を存分に発揮したことがよく分かります.文久元年(1861)駒蔵は、52歳で亡くなり、桂町の玄勝院の墓地に葬られました。駒蔵はすぐれた理数の才能を生かし、指導者として小野友五郎等多くの人材を育て、日本の和算の発展に大きな足跡を残した笠間藩士でした。「幕末の湜乱した笠間藩をまとめた藩主 牧野正倫(1843~1923)」混乱した藩の沈静化に尽力牧野正倫(まさとも)は、天保14年(1843) 5月11日、笠間藩用人の牧野正喬の次男として生まれ、22歳で藩役所の番頭役に就きました。元治元年(1864)3月に天狗党の乱が起こり、尊皇攘夷を目指す人々は、幕府の開国に反対し兵を挙げました。幕府はこれを抑えるため多くの藩に出兵を命じ、江戸に居た笠間藩主牧野貞直(さだなが)もこの命により、笠間へ向かいました。番頭役の正倫は藩主を迎えるために府中(石岡市)まで進みましたが、天狗党に通行を妨げられてしまいました。天狗党に談判の末、なんとか通行が出来るようになりましたが、国元からの伝令により笠間へ引き返しました。笠間に着いた正倫は、藩主の所在や安否を確認するため、供一人をつれて笠間を再び出立しました。そして、土浦城下で足止めされていた藩主一団を探し出し、それまでの事情を報告しました。藩主貞直はその行動と武勇を褒め讃え、正倫を用人見習の重職に就かせました。初代郡長として県政・郡政に尽力明治2年(1869)に正倫は執政(家老の職)となり、翌年9月には大参事に就任し、笠間藩の政治を行う最高の責任ある立場になりました。明治4年(1871)7月に「廃藩置県」が行われ、藩が廃止され県が置かれると、正倫は笠間県の最高職の大参事になりました。茨城県に統合されてからも、県役所の笠間山張所の責任者として職務にあたりました。明治11年(1878)に西茨城郡が成立すると初代郡長として郡役所(当初は笠間小学校前)に務め、その後久慈郡、真壁郡の郡長に転じますが、同19年に再び西茨城郡長となり、同30年まで郡の政治に関わりました。正倫は、幕末の混乱した笠間藩を武勇と知恵でまとめあげ、明治の新制度のもとで20年間郡の責任者として郡政に尽くし、大正12年(1923)81歳でその生涯を閉じました。「笠間城の歴代城主」笠間城の歴代城主は、笠間時朝から天正18年(1590)までは笠間氏が代々城主を務めていました。笠間氏の没落後、守都宮氏家臣の玉生(たまにゅう)高宗が、慶長2年(1597)に宇都宮氏が改易になるまで笠間城主を務め、翌慶長3年には、浦生郷成(さとなり)が城主となります。関ヶ原の戦いの翌慶長6年(1601)に松平康重が初代笠間藩主となりますが、江戸時代中期までは頻繁に笠間藩主が入れ替わり、小笠原家、戸田松平家、永井家、浅野家、井上家、本庄家そして井上家が2度目の笠間藩主を務めます。延第4年(1747)に延岡藩から牧野家が移封されると、牧野家が藩主のまま明治維新を迎えることになります。「歴代の笠間城主」。※ 中世は城主、近世は笠間藩主「笠間氏 城主:笠間時朝、泰朝、家朝、高広、幹綱、綱家など」鎌倉時代から天正18年(1590)まで、約380年に渡り笠間城主を務めたのは、笠間氏です。笠間氏は、宇都宮頼綱の兄弟である塩谷朝業(ともなり)の子、時朝を祖とします。笠間時朝は、鎌倉幕府の御家人として、『吾妻鏡』の嘉禎5年(1235) 6月29日の条に初めて見られます。仁治元年(1241)には検非違使に任じられ、後に長門守になります。時朝は御家人としての活動だけでなく、楞嚴寺(りょうごんじ)の木造千手観音立像、岩谷寺の木造薬師如来立像、弥勒教会の木造弥勒仏立像、京都蓮華王院へ千手観音像2躯など、多くの仏像を寄進しています。また、鹿島神宮に「唐本一切経」を奉納しています。和歌にも長けており、『新和歌集』や私選集『前長門守時朝入京田舎打聞集』の編纂に携わっています。御家人・歌人・仏像寄進、色々な側面が見える時朝は、高度な教養人でした。時朝以後の笠間氏の動向については、断片的に追うことが出来ます。建武4年(1337)、北朝方の佐竹義春は、烟田(かまた)時幹を率いて笠間城を攻めていることが「烟田時幹軍忠状写」に見られ、笠間氏が南朝方であったことが分かります。笠間家朝は応永4年(1397)、一円知行の安堵を受けていた笠間郡12郷と石井郷半分について、鎌倉の宝戒寺子院三聚院による当知行をやめさせ、元のように知行出来るよう訴え出ていることが「笠間家朝訴状案」に見られます。戦国時代の笠間氏は、宗家である宇都宮氏に属して行動をしています。天文18年(1549)、宇都宮尚編と那須高資が衝突した喜連川早乙女坂の戦い(栃木県さくら市)では、笠間高広が参戦していることが戦記物に見られます。笠間幹綱は、同じく宇都宮氏に属していた益子重綱と領地境界のことで度々争っており、江戸時代後期から編さんされた「新編常陸国誌」には、笠間氏と益子氏の戦いについての記載があります。天正18年、笠間綱家は宗家宇都宮氏に攻められる事により笠間氏は没落しますが、その理由は、綱家が小田原北条氏に与した事や過去の宇都宮氏への敵対行為を口実に討たれたのではないかといわれています。笠間氏の動向は、不明な事も多いのですが、市内には笠間氏が創建に関わった寺社や寄進した仏像などが見られ、領主としての笠間氏の一端を見ることが出きます。「蒲生氏 城主:蒲生郷成」慶長3年(1598)から慶長6年まで、笠間城主を務めたのが、蒲生郷成(がもうさとなり)です。郷成は、初めは坂源次郎と名乗っており、柴田勝家に仕えていました。天正11年(1853)に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が減ぶと浪人になり、蒲生氏郷を慕って仕官しています。豊臣秀吉の九州征伐の際に、源次郎は岩石城(福岡県田川郡添田町)攻略の戦功を挙げるなどめざましい活躍をしたことから、蒲生姓を名乗ることを許され、蒲生郷成と名乗るようになりました。以後、蒲生氏の重臣として活動しています。天正18年(1590)、蒲生氏郷は会津へ入封すると、郷成は阿子ヶ島(あこがしま)城(福島県郡山市)や二本松城(福島県二本松市)に配置されます。葛西・大崎一揆や九戸(くのへ)政実決起の鎖圧において、郷成は氏郷軍の一番先手として出陣しています。氏郷の跡を継いだ秀行は、慶長8年に家臣の対立の処遇が不十分であることを理由に宇都宮へ移封させられます。この時、支城の一つであった笠間城に郷成が配される事になります。郷成が笠間城主の時代にも、登城路の改修や城下町の整備などが行われています。水田や湿地であった場所の埋め立てを行い、大町通りから弁才天社へ抜ける登城路を新設し、脇に武家屋敷地を新設しました。現在の田町周辺です。また、城下町の防火、生活用水、灌漑用水として使用するため、涸沼川から分水し、また涸沼川へ戻す用水路を創設しました。この時改められた登城路は、江戸時代を通じて使用され、用水路は一部暗渠化しながらも現存し蒲生用水とも呼ばれています。郷成は笠間城の天守曲輸の整備を行っています。『笠間城記』以下『城記』には「重楼を阿武山に営む」と記載されており(阿武山は佐白山頂の別名)、郷成が櫓を築いたことが、天守曲輪の整備を行ったという解釈になります。この櫓は板造りであることが、後の藩主井上正利が板造りから白壁造り改修している事からわかります。天守曲輸の石垣構築について『城記』には記載がありません。しかし、蒲生氏郷が会津に入封した際に、支城の多くに石垣を構築しており、蒲生氏の出自である近江国出身の石垣技能集団「穴太衆(あのうしゅう)」を動員出来たことを考慮すると、郷成によって石垣が構築されたと言えるでしよう。蒲生郷成が城主を務めた時代は、近世城下町の整備が進みました。また、笠間城は近世城郭として変貌する大きな画期であったと言えます。「永井家 藩主:永井直勝」元和3年(1617)から元和8年(1622)まで笠間藩主を務めたのが永井直勝です。直勝は永禄6年(1563)、家康の父松平忠広に仕えていた長田重元の子として生まれました。三河国碧海郡大浜郷(愛知県碧南市)の出身です。直勝が14歳の時に、家康の嫡男信康に仕えたが、信康の死後は大浜に帰りました。天正8年(1580)に浜松の家康に仕え、30貫の地を賜り、永井姓になりました。天正12年の小牧長久手の戦いに出陣し、羽柴秀吉の配下である池田恒興を討ち取り、その功績により三河国内に1000貫の地を与えられました。小田原征伐の後、家康の関東入国に伴い、相模国田倉、上総国市原、武射三郡の内、5000石の地を賜りました。関ヶ原の戦いでは、家康の近辺を守衛し、戦後には近江国(滋賀県)の内、野州、栗太、蒲生、甲賀の4郡で2000石が加増され、7000石となりました。大坂の役でも家康の近辺守護を務めています。家康没後は秀忠に仕えることになり、元和2年(1616)6月に上野国小幡藩(群馬県甘楽郡甘楽町) 1万7000石に封ぜられ、翌元和3年に3万2000石で笠間藩に封ぜられました。幕臣としての直勝は、幕府体制の足固めの為に下働きに任じました。幕府の使者として、多くの大名取りつぶしの後始末を行いました。例えば、元和5年(1619)に有力な外様大名である広島藩の福島正則の改易の際には幕府の上使として城の明け渡しの交渉を行っております。また出羽国山形藩の最上義俊の改易の際にも宇都宮城主である本多正純と共に正使としてその任にあたりました。そして、宇都宮藩本多正純の改易の際には、所領没収の申渡しをする役目を果たしています。笠間藩政としては、元和6年(1620)前後に領内の検地を行いました。慶長2年(1597)と同13年(1608)に続いて3度目となりますが、その記録については、笠間市内には現存しておらず、旧岩瀬町(現桜川市)犬田にわずか1部が残るのみです。また、天正慶長期に武功のあった諸士を取り立て、領内境界地の守護に当たらせました。笠間藩移封時にはすでに没していた妻の菩提寺として、盛岸院を建立しました。現在、盛岸院の墓地には永井家に関わる墓石などは現存しておりません。直勝は元和8年12月に、下総国古河城7万2000石で移封しました。笠間藩主を務めたのは6年間でした。「浅野家 藩主:浅野長重、長直」元和8年(1622)から正保2年(1645)まで笠間藩主を務めたのが浅野長重・長直父子です。浅野家は、清和源氏頼光流土岐市の庶流の光時を始祖とし、戦国期の浅野長政は豊臣政権で五奉行を務めています。関ケ原の戦いで家康に従っており、慶長11年(1606)に隠居領として常陸国真壁・筑波両郡の内5万石が与えられ、真壁藩が成立します。長政の嫡子幸長は、紀州藩37万6000石で封ぜられたが、嗣子なく死去したため、長政の次子長晟が宗家を継ぎ、後に広島藩に移封します。下野国真岡2万石の真岡藩主となり、慶長16年に父長政が死去すると真壁藩5万石を継ぎました。長重は大坂の陣の活躍、江戸城半蔵門の修復、本多正純の所領没収時には宇都宮城守衛と古河城の守衛などの功績があり、加増転封の話がありましたが父の所領である真壁の領有を望むと、元和8年(1622)12月7日、真壁領の一部を含めた笠間藩に移封となります。寛永9年(1632)に死去すると長政と同様に伝正寺(桜川市真壁)に葬られました長重を継いだのは嫡子の長直です。長直は慶長15年(1610)の生まれであり、笠間藩主就任の前年に内匠頭に任じられています。長直の時代に、笠間城下町が完成し、この時につくられた区割りや道路は、現在の笠間地区の市街地の基となります。大町の西側に新町を新設し、町人町の「五か町」が完成します。山居は上中級武家屋敷にし、法華町にあった真浄寺を現在地に移して鷹匠町を作るなど、武家町も新設しています。浅野家時代の城下の様子は「常陸国笠間之城絵図」(正保城絵図・国立公文書館)に見られます。また笠間城整備の一環として、下屋敷を新設しました。笠間城は山城のため、政治を行うには不便なこともあったため、山城部分を残したまま、現在の山ろく公園に屋敷を建設しました。浅野家以後、この下屋敷において政務が行われました。正保2年に浅野家は赤穂藩に転封となり、長重・長直父子23年間の治世が終了します。「浅野家系譜」。浅野家の始祖 浅野弾正少弼長政(1545~1573.9.26)は秀吉の天下統一後、論功により甲斐国甲府に築城し 二十四万石の大名となる。 秀吉の没後、石田三成と不仲から関ヶ原の戦いでは長男幸長と共に徳川方につき参戦。長男 幸長 関ヶ原戦の論功で紀伊国三十六万六千五百石の大名になるが後継がいなかった。次男 長晟(ながあきら) 大坂夏と冬の陣で武勲を立て、幸長の後を継ぎ紀伊国藩主を経て、安芸国と備後半分の 四十二万六千五百石の広島城主となり明治まで続く。三男 長重 二代将軍秀忠の人質として江戸に住み小姓として仕えて寵愛され、慶長六年(1601)に 下野国真岡に二万石を賜り大名となる。 慶長十一年(1606)には隠居して常陸真壁五万石を賜るが元和八年(1622)に病没。 嫡男の長直が常陸笠間領主を継ぐ。■赤穂藩浅野家初代藩主 長直 名君と謳われる。 常陸笠間領主から正保元年(1644)一月十一日、赤穂五万三千石に転封となり赤穂浅野家が 誕生する。 長直の功績赤穂城の築城「一国一城令」発布後に許可を得て十三年かけて築城新田の開墾 新田を開墾して新田村をつくり、米を増産する塩田の拡張 江戸に於ける塩市場を独占する生産体制を確立する上水道の整備 江戸や福山と並ぶ日本三大上水道を造り上げる山鹿素行を家老待遇(1000石)で招き藩士の資質向上に努める 【https://akoinfo.com/akogisi/asanotosiro/asanoke.html】より「本庄家 藩主:本庄宗資、資俊」元禄5年(1692)から元禄15年(1702)まで笠間藩主を務めたのが本庄家です。本庄宗資は、寛永6年(1629)に摂関家の1つ二条家の家司本庄正宗の子として生まれます。異父姉の「お玉」(桂昌院)は、3代将軍家光の乳母「春日局」の部屋子となっており、5代将軍綱吉の生母です。宗資は綱吉に仕え、綱吉が館林藩主になると、家老次席になります。延宝5年(1680)に綱吉が将軍になると、宗資も江戸城に入り、元禄元年(1688)には、60歳で1万石の大名になります。異父姉が将軍の生母という縁もあり、大名に昇進してからわずか5年で城持ちとなり、元禄5年に笠間藩主になります。宗資の笠間藩における事積については、領内の寺社の保護が挙げられます。元禄8年、明暦の大火以後、笠間城内の寺院の失火や火災を恐れて禁止していた佐白山正福寺の参拝を37年ぶりに再開し50両を寄進して宝塔を修復させました。他にも、福田村の不動堂と阿弥陀堂を金30両寄進して修復させ、岩屋寺にも金30両を寄進して薬師堂を補修させ、大般若経を奉納しました。また、三所神社の社殿の再建を行っており、領民の信仰を高めようとしています。藩政の一環として、孝行を重視しました。領内の孝行者を調べて、表彰することで、領民に考養(親に孝行をつくすこと)を高めさせようとしました。宗資の子である資俊は、万治元年(1658)生まれで、延宝7年(1679)に館林城時代の綱吉に召されており、翌年綱吉が将軍に就任すると、父とともに江戸域に人ります。元禄12年に没した宗資の遺領を継ぎました。在封期間が短いため、資俊の藩政に関する記録については残されていません。家資の異父姉が将軍綱吉の生母であった事から、宗資は叔父、資俊はいとこにあたります。宗資の時代には、将軍の御成(将軍が臣下の邸宅に訪問すること)が度々あり、大変名誉なことでありました。資俊も将軍綱吉と桂昌院の御成もありました。また、家資が没した際には綱吉は2日間、江戸中の鳴り物を禁止し自らも3日間、喪に服していました。小大名に対するものとしては異例の事であり、綱吉と宗資の関係を物語っています。「牧野家 藩主:貞通、貞長、貞喜、貞幹、貞一、貞勝、貞久、貞直、貞寧」延享4年(1747)から明治4年(1871)の廃藩置県まで笠間藩主を務めたのが牧野家です。近世大名の牧野家は、宗家の越後国長岡藩、常陸国笠間藩などがあり笠間藩牧野家は、5代将軍綱吉の側用人となった牧野成貞の後裔であり、下総関宿藩、三河吉田藩、日向延岡藩を経て、笠間藩主になります。笠間藩牧野家の初代貞通、延岡藩時代に幕閣の一員として享保の改革に関わり、後に京都所司代となっています。貞長は大阪城代や京都所司代となっています。貞長は大阪城代や京都所司代を務めた後、老中になっています。寛延2年(1749)、山外郷百姓一揆(旧岩瀬町)が起こり、農民約千名が笠間城下町へ押し寄せています。藩政は次第に衰えていき、人口や米の生産高が減少し、上方の豪商や領内の有力農民、商人から調達金を出させて凌いでいましたが、加賀藩との対立が予測されたので、良水は責任をとって自刃します。文化6年(1809)、藩政改革を実施しました。農民を保護する政策を実施し、倹約令と取締りを行い、家臣の俸禄を削減し質素倹約をさせました。文化14年(1817)、人材育成の場として家臣の秋元純一郎の家塾「欽占塾」を昇格し、藩校「時習館」を創設します。貞幹は、父貞喜の藩政改革を引き継ぎます。藩校時習館を整備し、藩医長谷川宗仙の屋敷を医学所「博采館」として、武術の修行の場として「講武館」を創設します。貞勝の急逝後の天保12年(1842)、貞久を推す門閥派と、貞喜4男の布施重正の子舗三郎を擁立する改革派で相続争いが生じます。貞久は7歳で家督を継ぐと、改革旅は後見役に重正をすえて藩政を改革しようと、儒学者加藤桜老が中立派家老の牧野光保に直訴します。光保は門閥旅の解任と自身も藩政の混乱を招いたとして自刃しました。貞久は16歳で死去したため、舗三郎が養子になり、牧野貞明(後に貞直)として藩主になります。安政6年(1859)、現在の笠間小学校の敷地に「時習館」、「講武館」、「博采館」を統合した藩校「時習館」が開館します。貞寧は版籍奉還後に笠間藩知事に任命され、廃藩置県になると免ぜられました。「小野友五郎と咸臨丸」。安政2年(1855年)8月、測量・航海術および蘭語への精通を買われ、老中阿部正弘からの直命により、長崎に設置された幕府の海軍伝習所に入学した。測量術の実践を16箇月の間学び修了後、江戸へ戻り築地の軍艦操練所教授方となる。万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節派遣が決定されたが、その護衛および航海訓練として軍艦奉行木村芥舟を提督とする咸臨丸も派遣されることになった。小野も同僚で海軍伝習所の同窓生であった艦長勝麟太郎(海舟)を補佐する測量方兼運用方(航海長)となって、アメリカへ航海する。同乗した米国海軍の測量士官ジョン・ブルック大尉は小野の測量術の練達ぶりに感心し、以後親交を結ぶようになった。「小野友五郎年譜」👈リンク「小野友五郎(51歳) 1867年ワシントンにて」。「咸臨丸」のミニチュア。「小野使節団」幕末期の徳川幕府が海軍力を増強するため南北戦争直後のアメリカに軍艦や兵器を購入するため小野友五郎を正史とする使節団をアメリカに派遣した。使節団の顔触れは次の十名であった。正 使 勘定吟味役 小野友五郎副 使 開成所頭取並 松本寿太夫外国方 調役次席・翻訳御用 福沢諭吉 通弁御用出役 津田仙弥 通弁御用御蔵 尺(せき)振八海軍方 小十人格軍艦組一等 小笠原賢蔵 同 岩田平作勘定吟味方 下役 神野信之丞小野の従者 関某、石川某「友五郎使節団」。「小野使節団航路図」小野使節団行程(旧暦表示)慶応3年 1月23日 横浜発(米船コロラド号) 2月26日 サンフランシスコ着 3月19日 ニューヨーク着 3月22日 ワシントン着 5月10日 ニューヨーク発 6月5日 サンフランシスコ発 6月26日 横浜着 「小野友五郎と和算」小野友五郎は十六歳の時に笠間藩算術世話役の甲斐駒蔵に師事し猛烈に一般算術・量地術を学び、その実力を認められて江戸表に転勤を命ぜられ、益々算術に磨きをかけた。友五郎は数年独学で勉強して甲斐駒蔵の勧めもあり関流の一派である長谷川算学道場へ入門する。入門後も算術の進化は目覚ましいもので師の駒蔵と並ぶ伏題になる。ここで駒蔵とともに量地図説という測量の本を刊行する。その後、幕府天文方勤めを命じられる。こでは暦の編集や冬至・夏至・日蝕・月蝕などの天体観測を行う。ここで西洋数学をも学んでいる。この頃、友五郎の住む笠間藩下屋敷の近くに住んでいた江川担庵(太郎左衛門)に砲術や砲台の建設も学んでいた。友五郎は明治維新後も長谷川道場に籍を置き、斎長という最高位に挙げられている。この社有列名には甲斐駒蔵・小野友五郎の外に笠間藩士の富田彦蔵・黒木隆蔵・本郷興助の名前が見える。「(A.ジョンソン)大統領からの口上書小野友五郎松本寿太夫余は足下(資下より上の敬語)等の合衆国政府へ来れるを信実に喜び、且つ大君殿下が安全を祝し我が国民の幸福を祈るとの趣下より述べしは余(大統領)が感謝する所なれば其の意を大君殿下へ報告せらるべし、小野友五郎・本寿太夫合衆国と日本との間に親睦の交わりあらん事を貴国政府において信はますます信を固くし嫉妬は常に疑心より生るものなり、合衆国と日本とは強い友人たらさるを得んや、この両国の間は彼の所有を此れより羨むの理なく徒に事を起こして彼此相害するの趣意なし これ両国の相遠隔せる所なり余は当初に於いて日本国の名代人へ面会するを喜び明次件を告ぐ余が今言う所のことは遠く世界中に達して差し支え無きものなり合衆国の初めて日本へ入るを許されし時より余輩は双方の使を顧す足下の用向きは便利を計りて外国事務執政(国務省高官)へ談判すべし然る上は我が政府に於いては幸いに親友の国へ対する如く意を用い、礼を尽くして其の志願を達する様周旋すべし、且っ又我が政府の能する所にて事柄に差し支えなくば足下へ忠告し足下と相談し足下を扶助するは快とする所なり。」「漢字制限建言書日本では難しい漢字が多く子供の教育発展に支障を与えているので漢字数を制限しようとする建言書を明治ニ十三年十一月に栗本鋤雲とともに貴族院議長の蜂須賀茂韶に提言した。このことで明治三十三年文部省が漢字制限に着手した。」「小笠原群島実測測量小笠原群島実測し測量図を完成小笠原群島の領有権が英米の間で騒がれ始めたため、幕府は咸臨丸艦長として友五郎に小笠原群島の測量を命じ経緯度天測・海岸線測量・水深測量などで正確な実測図を作成した。このことが現在も日本の領土として残ったわけである。」「小野友五郎と鉄道友五郎はニ度にわたる訪米の際、蒸気列車を見てこれからの日本の富国殖産振興には鉄道が必須であると考えていた。明治新政府の民部省に移った友五郎は日本で最初の東京と横浜間の鉄道建設に際し、横浜と六郷川間の測量技師長として活躍した。その後、東海道線と中仙道線の調査測量を佐藤政養と共に行い、東海道線案が採用されている。東京青森間・九州炭鉱鉄道の調査測量も実施している。日本の鉄道史では友五郎を抜きには語れない。」左:東京青森間 { 東北本線 } の調査測量出仕命令書 壬申十一年二日 工務省右:中山鉄道建設調査測量出仕命令書 明治六年三月廿九日 工部省友五郎は東海道線も調査測量し東海道線案が採用された。「長崎海軍伝習所・咸臨丸幕府天文方から出来たばかりの長崎海軍伝習所一期生として派遣を命ぜられ39名の一人として学ぶことになる。ここでは航海術・造船術・機関術などの技術と西洋数学・物理学・天文学を学ぶ同期生には矢田堀景蔵や勝海舟など優秀な人材が多く明治になって活躍した者が多かった。伝習所を終えて幕府所有の蒸気艦観光丸で日本人のみの操船で江戸に戻る。友五郎は築地海軍操練所の8名の教授方になる。その中にはジョン万次郎もいた。1858年日米修好通商条約を締結する使節団を乗せる米艦ポウハタン号の護衛と幕府海軍の実施訓練を兼ね咸臨丸航海長として乗り組み真冬の荒れ狂う太平洋をセキスタント(六分儀)で天測しながら太平洋を横断する。帰国後、友五郎の活躍を知った将軍家茂は艦長の勝海舟を差置き単独で謁見し特別褒章を授ける。将軍へのアメリカ土産は皮の財布とカメラであった。この年友五郎は幕臣となる。咸臨丸乗り組員と荷物軍鑑事行 木村摂津の守喜毅艦長 勝第太郎教授方 佐々倉構太郎 ″ 浜口興右衛門測量方 小野友五郎蒸気方 肥田浜五郎 ″ 山元金次郎、通弁主務 中浜万次郎(ジョン万次郎)右の外、日本人九六名アメリカ海軍大尉 j・ブルック他十一名積み荷は米十一・四トン、醤油四一四リットル、味増六樽、漬物六樽、茶三十kg 砂轤七樽、鰹節一五百本、梅干四嚢 豚ニ匹、鶏三十羽、あひるニ十羽、石炭五十トン、石油一八〇リットルろうそく千本、炭ニ百俵、薪一三五〇束、西之内和紙三百枚、半紙七百枚、美濃紙三百枚、」「笠間城の絵図笠間城について描かれた絵図が多数残されています。大別すると、①笠間城とその城下を含めて描かれているもの、②自然災害によって被害を受けた破損箇所の修復のために幕府へ提出された絵図です。①で代表的なものは、正保城絵図にある「常陸国笠間之城絵図」です。この絵図には、城郭内の建造物や堀などの城郭各部の情報や城下の町割り、山川の形が描かれています。現在の地形測量図と絵図内の笠間城の曲輪の形状は、一致するところが多くみられます。また、江戸時代中期になると、城下まで含まれた笠間城の絵図がつくられています。②では、被害状況、修復箇所について記載されており、江戸時代中期の笠間城の姿が見て取れます。特に天守曲輪の石垣の配置については、現況と一致する所もあります。その他にも、岡山大学池田家文庫に所蔵される絵図や『從行日記』内の笠間城市略図に描かれたものも、笠間城を理解する上で重要なものと言えるでしよう。「常陸國笠間城」。「日本古城絵図 常州笠間城初」。「日本古城絵図 常州笠間城初」国立国会図書館蔵年代:寛文年間~元禄年間頃寸法: 78cm X81cm松平康重が笠間藩主を務めていた時代の笠間城の姿を描いたとされる絵図。旧鳥羽藩主稲垣家旧蔵の城郭絵図集の中の一つであり、笠間城初は松井松平家文書中にある慶長年間の笠間城絵図の精巧な写しと考えられる。笠間城が近世域郭として整備された当初の蒲生郷成時代から松平康重時代の笠間城の姿をうかがわせるものである。曲輸の規模が記載されており、大手口の向かいには正福寺が描かれている」「常陸国笠間之城絵図」。「常陸国笠間之城絵図国立公文書館蔵年代:正保年間寸法: 270cmX278cm (原寸)笠間城と域下町の様子が描かれている絵図。正保元年(1644)幕府が諸藩に命じて作成させた城と城下町の地図。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深など城郭各部の情報や、城下の町割・山川の位置、影が詳細に記載されている。絵図は上書きに「域主井上河内守」とあり正保2年に浅野家に代わって笠間藩主となった井上正利の時代に提出されたことがわかる。この絵図には、本丸南東に櫓があったことが描かれている。」「笠間城」のジオラマ。「笠間城の縄張り①笠間城の縄張りについては、近世の絵図からその範囲をうかがうことが出来ます。絵図から、笠間城の縄張りは佐白山山頂周辺に展開することが見て取れます。①天守曲輸:蒲生郷成によって整備されたといわれる天守曲輪では、残存状況の良い石垣が見られ、山頂には櫓を転用した佐志能神社が鎖座します。北東斜面には腰曲輪、南西斜面には腰曲輪と竪堀が見られます。②本丸:南西側に土塁が配され、特に鍵型に残存する土塁は大規模な高土塁です。土塁上に八幡台櫓の土台となった礎石が残り、玄関門跡にも礎石があります。③二の丸:本丸北側に位置する二の丸は、南北約70m、東西約50mの空間です。西側に土塁がみられ、北東側が窪むような地形は「常陸国笠間之城絵図」と一致します。④帯曲輪 :ニの丸の北西から北側斜面には、帯曲輪が展開します。残されている絵図と比較すると、北側の帯曲輪は道路により一部破壊されていることがうかがえます。⑤大手門辺:笠間城の大手口は、枡形を構築するように土塁が配されています。山城域とは、大規模な堀によって区画されており、木橋か土橋によって渡っていたものと考えられます。周辺には石垣が見られます。⑥的場丸(千人溜):大手門の北東側には的場丸という広大な空間が展開します。軍勢などを集めるための空間であったことが推測され、現在は駐車場として使用されています」「笠間城の縄張り②近世に城郭として把握されていた笠間城の範囲以外に、的場丸北東側や帯曲輪北西側にも城郭遺構らしきものが見られます。⑦笠間城跡北西側遺構二の丸斜面帯曲輪の北西側の尾根筋を利用した曲輪が展開します。一番北西側の曲輪には、土塁と空堀がみられ、虎ロらしき遺構も見られます。この場所は侍屋敷地として絵図に描かれていることから、中世の城郭遺構を引き継ぎつつ利用されたものと考えられます。⑧正福寺跡的場丸より道路を挟んだ北側のピークには正福寺があり、絵図上にも見られます。正福寺跡を取り囲む堀跡は、明らかに防御施設として捉えられるものです。⑨正福寺跡東側の遺構ー正福寺跡の東側にも城郭遺構らしきものが見られます。ピークの平場にはわずかですが土塁跡が確認され、複数の腰曲輸は配置されています。⑦同様に、近世には侍屋敷地として把握されていることから、中世以来の遺構を引き継ぎながら使用されていたものと考えられます」「笠間城の石垣笠間城の特徴の一つとして石垣があげられます。現在、笠間城跡では11ヶ所で石垣が見られます。天守曲輪では頂上の佐志能神社に至るまでに三段の石垣が見られ、笠間城で見られる石垣の中では一番整っています。東日本大震災により一部が崩落する被害に見舞われましたが、現在は応急処置を施しています。また、天守曲輪以外にも、本丸玄関門手前や大手門周辺などにもみられ、積み石の大きさや積み方等の違いから、構築された年代や用途の違いが推測されます。①天守曲輪の石垣笠間城の中で一番整っている石垣。上・中・下の三段があり、下段の隅角部(折れ曲がっている部分)では算木積という石垣の技法が見られます。②玄関門手前の石垣玄関門へ通じる通路にある石垣。切石を隙間なく積んでいることから、天守曲輪の石垣より時代が下るものと推測されるが、用途の違いによる可能性もあります。③大手門裏手の石垣高さ4m以上あり、比較的大きめな石を積んでおり、間詰め石を使用しています。笠間城内の石垣では古いものの一つと考えられます。④帯曲輪西に築かれた石垣敵が侵入のしやすい谷状地形を寸断し、防御するために築かれたと考えられる石垣。天守曲輪下段や大手門裏手の石垣の積み方と似ています。」「笠間城絵図」の複製展示品。「常陸笠間城之図(複製)」。発掘された「笠間城の瓦」。「木造弥勒仏立像 弥勒教会蔵」。「木造弥勒仏立像(国指定重要文化財)弥勒教会蔵年代:宝治元年(1247) 像高: 175.2cm指定:大正9年8月16日弥勒教会に伝わる弥勒仏立像。ヒノキ材の寄木造で、漆箔が施され、玉眼嵌入である。螺髪は各粒を大きめにつくり、各々に旋毛を彫出する。肉髻は低くて地髪の鉢が張り、その髪際はゆるい波形となっている。衲衣の衣文は複雑であり、この時代に流行した中国宋朝の様式と鎌倉彫刻の様式が確立された13世紀中頃の一典型である。光背は二重円光で頭光心八葉、台座は蓮肉一材で蓮弁は打付け、敷茄子は二枚矧であり、光背、台座ともに造立当時のものであるとされる。像内墨書銘より、造立の願主として笠間時朝の名前がみられ、右足柄の内側には「ロ時朝同身之弥勒」とあり、時朝と同じ背丈であることがわかる。」「笠間城跡の立地茨城県笠間市は、県の中央部に位置し、首都圏から約100km、県都水戸市に隣接します。笠間城跡は笠間市の北部、笠間盆地を東側から見下ろす標高207mの佐白山頂付近に立地し、独立丘陵の西端部の複雑に入り込む侵食谷により形成される尾根のピークを巧みに使用した山城です。北西には毎年5月に開催されるつつじまつりの会場となるつつじ山公園があります。笠間城は、中世にその起源を持ち、近世は笠間藩主の居城として機能した城郭です。中世、特に戦国時代は、多くの山城が機能していました。しかし近世になると、山城を廃棄して新たに平地に城郭を築くことが一般的であり、笠間城のように山城を使い続けることはまれなことです。笠間日動美術館の近くにある佐白山ろく公園は、かっての笠間城の下屋敷跡であり、笠間藩の政務はこちらで行われていました。笠間城の北側に位置する坂尾には、食い違いの土塁が残っており、坂尾の出入り口を守る虎口になっています。旧城下町は、佐白山の西麓、標高40 ~ 50mの涸沼川左岸に展開していました。現在は笠間稲荷神社の門前を中心とした市街地になっており、城下町の風情をわずかに残します。「五か町」と呼ばれる町人町については、旧町名などで確認することが出来ます。笠間稲荷神社の北側には、笠間時朝が居を構えたといわれる麓城のものと思われる土塁がわずかに残っています。中世・近世にわたって使用・維持された笠間城ではありますが、時代が経るにつれてその姿を変貌したと考えられます。」。「笠間城の歴史笠間城については正徳元年( 1711 )に井上氏の家臣久保整伯によって編纂された「笠間城記』(以下「城記』と省略)に記載されている事項が基礎情報となります。この『城記』に記載された情報を参考にしつつ、笠間城の歴史について見ていきます。笠間城は、承久元年( 1 219 )に築城が開始されたといわれています。築城者として伝わる笠間時朝は、宇都宮一族塩谷氏の出身です。築城以前の佐白山には、佐志能神社や正福寺などがあり、宗教的空間が展開していました。『城記」には、正福寺と徳蔵寺(東茨城郡城里町)との寺院抗争の際に、正福寺の生田坊は宇都宮頼綱に助力を請い、頼綱は甥の時朝を大将として軍勢を送り、時朝は徳蔵寺衆徒の制圧後に佐白山に取って返し、正福寺の伽藍を破却したとあります(築城後に六坊を再建)。同時に佐志能神社も遷座しています。このようにして笠間城の築城に取り掛かったとされ、嘉禎元年(1235)に完了しました。西麓には麓城と呼ばれる居館を構え、笠間氏の拠点となったと考えられます。南北朝争乱期の建武4年(1337)の「烟田時幹軍忠状写」に「笠間城」の文言が見られ、史料上で笠間城の存在が確認できます。実際に山上に城郭を築き始めたのはこの頃と考えられます。天正18年(1590)に笠間氏が没落するまで、笠間氏が城主を務めていたことから、笠間城は長期間にわたって整備・拡張されたものと推測できます。天正18年以後の城主玉生氏は、登城路の整備と町場の建設を行っています。慶長3年( 1598 )の蒲生秀行の宇都宮移封に伴い、蒲生郷成が笠間城主になると、佐白山頂付近の天守曲輪や登城路などの整備を行っています。関ヶ原の合戦後、徳川氏譜代の松平康重が初代笠間藩主となります。江戸時代中期までは藩主が度々入れ替わりますが、延享4年(1747)に牧野氏が藩主となると、牧野氏の下で明治維新を迎えます。元和8年(1622)から正保2年(1645)に藩主を務めた浅野氏の時代に、笠間城下屋敖を建設し、現在の町割の基となる城下町が完成されました。井上氏の時代に、天守櫓が改修されており、牧野氏の時代には、風雨によって崩落した石垣・堀の修復が行われています。明治3年(1871)、政府に笠間城の破却を願い出て許可されることにより、破却・廃城となりました。」来館者の「学習机」であろうか。「続日本100名城 笠間城」のスタンプを頂きました。この日は、このブログに各種説明書きを転記しながら、「笠間の歴史」「笠間の先人たち」、「笠間城」について多くを、頭から溢れ出しながらも学んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.12
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【海老名市歴史散歩】 目次そしてこの日の最後に「豊受大神」を訪ねた。石鳥居手前から見た参道。石鳥居は「神明鳥居」。垂直に立つ円柱の上に円柱の笠木を載せて下に貫を入れた直線的な鳥居。海老名市杉久保北2丁目22。「外宮(げくう)・豊受大神(とようけおおかみ)(食物・産業の守護神)海老名市杉久保北二ー二二ー一一、御祭神 豊宇気毘亮大神(とようけびめおおかみ)(天照皇太神の御饌津神)一、御由緒、沿革 聖武天皇の神亀二年(七二五年)勧請、遠馬名神豊受大神と称す。 古来推古天皇の六年豊受皇大神騎馬のの御姿にてご降臨されてより、皇大神御尊行の 処として此地をその鎮の宮と定められた。 江戸時代幕末の社寺改めによって恩馬郷四ヶ村の鎮守豊受皇大神と尊称、明治元年新政府の 社寺分離令により社号を豊受大神と改称した。 始め御陵を御神体と定め拝殿のみであった。のちにこれを改めて内殿の創建が行われたが、 幾多の兵乱に類焼し再建を重ねてきた。 現在の御拝殿は昭和六十年十一月に御造営された。続いて御神輿殿、御神輿が奉献された。一、境内地 一町五反二畝二歩(一五、〇五四平方米)一、御社殿 本殿、幣殿、祥殿一、境内内建物 神楽殿、神輿殿、社務所、手水舎一、境内社 ・内宮社(天照大神)平成三年十二月御造営 ・末社(寄宮五社) ・天満宮 山王宮、琴平宮、三峰宮、厳島大神、秋葉大神一、祭事 歳旦祭、交通安全祈願祭 一月 一日 祈念祭(春祭り) 二月 十一日 例大祭、御神輿渡御 十月 吉日(二日間) 七五三祝 十一月 吉日 神嘗祭(秋祭り) 十一月二十三日 ・奉納絵馬三面(市指定重要文化財) ・例大祭恒例行事としての名物 生姜市施行 平成 八年 宮司 恩馬知秋 著 平成二十八年一月 恩馬菊枝 修復」 「外宮 豊受大神」碑。狛犬(阿形像 右)。狛犬(吽形像 左)。「造園記念」碑。「社務所」兼「杉久保自治会館」。「手水舎」。「神楽殿」。「神輿殿」。そして「社殿」。扁額「豊受大神」。「本坪鈴(ほんつぼすず)」の緒はコロナ禍の影響で上に上げられていた。内陣。「本殿」。賽銭箱には「菊 十六花弁」紋の中心に4枚の葉が。「海老名市指定重要文化財 絵馬(三面)江戸期作 昭和四十九年四月二十三日指定」有馬郷土誌に杉久保の金指桂山(狩野派・弘化三年五月ニ十三日没)が豊受大神に「源三位頼政鵺(ぬえ)退治ノ図」を納めたと記されているのがこれであろう。他のニ面は萩野出身の鳥居派の烏居経国とその門人鳥居経久のものとおもわれます。」「豊受大神」幟。「豊受大神縁起豊受皇大神は古来相模牧遠馬名神の霊跡でしたが推古天皇の六年豊受皇太神騎馬の御姿にてご降臨されてより皇太神ご東行きの処 として此地をその鎮の宮と定められた。これより後聖武天皇の神亀二年勧請遠馬名神豊受大神と称し相模国の名神大社に列せられ のち遠馬二郎時国のとき遠馬十二ヶ村の総氏神として崇められた。江戸時代幕府の社寺改めによって恩馬四ヶ村の総鎮守豊受皇太神と尊称、明治元年新政府の社寺分離令に従い社号を豊受大神と 改称した。御祭神は豊受毘売命またの名を登由宇気大神と申し本宮は伊勢国山田原に鎮座される。大神は天祖伊弉諾尊の御孫和久 産巣日神の媛神で始めは丹波国真井原に鎮座されたが雄略天皇のとき伊勢国に遷座されて豊受宮度会宮と尊称した。のち豊受皇太 神と称され五穀を司る大神として伊勢神宮の外宮に祀られ御饌津神として永く尊崇された。推古天皇の代にこの地は豊受皇太神の御鎮座によって五穀豊穣し丘稜は国華の牧肥馬の地として弥栄えて世に朱金千両黄金千両 と謡われた。また仁明天皇の承和八年後稜より天照皇太神を御遷座した。奉幣は重陽九月九日内宮は九月十日と定められた 当時の 御神域は後稜の伊勢山及び御神林御廟地をあわせて五万六千余坪といわれた御神殿は始め後稜を御神と崇め拝殿のみでしたがのち上宮寺義玄僧正のときこれを改めて内殿の創建が行われた。治承四年七月 渋谷重国と遠馬三郎時国公によって神門社殿其の他が新しく造営され別当上宮寺の七堂も再建された。しかし正平応仁の乱を経て幾多の 兵乱に類焼し再建を重ねてきた。上宮寺もまた義玄僧正、日○上人法印養祐によって法燈がかかげられ永録六年に袖主恩馬内記は本宮 奉持の功によって正六位を叙せられた。豊受大神は恩馬郷総鎮護の神として古来より衣食住等人間生活の根源を開発された親神であり悠久幾千年五穀の豊穣、家内安全、 安産縁結びの神学問の神と、その霊威あらたかなりと信ぜられ崇敬されている」内宮社・「天照大神」。近づいて。扁額「天照皇大神」。「内宮社 天照皇大神」碑。「天満宮」。「天満宮」。扁額「天満宮」。「天満宮」右の石碑群。「天満宮」左の石碑群。境内「寄宮五社」。社殿の横に末社・「山王宮」が並ぶ。祭神は日枝大神、稲荷大神、琴平大神、厳島大神、三峰宮、秋葉大神「おみくじ掛け」。「天照大神」を振り返る。そしてこの日の散策を終え、JR相模線・社家駅に向かって歩く。前方に見えた夕焼けに映える富士山の姿を楽しみながら進む。電線が・・・・・!!。山の端の上の雲も後ろに聳える山の端の如くに。刻々と変わる茜色の雲。県道43号線・藤沢厚木線を社家駅に向かって西に進んでいくと「永池川」が。国分尼寺の近くの浅井の泉が水源といわれ、寒川町で相模川に合流する川。「永池橋」を渡る。「上河内」交差点を渡って更に進む。辺りは暗くなって来た。箱根・二子山であろうか。「鳩川(はとがわ)」に架かる「上河内橋人道橋」を渡ると左手にあったのが「土地改良記念碑」。「鳩川」は、相模原市から流れ出し、古くは籏川(はたがわ)とよばれていました。市内を流れ海老名市で相模川に合流しています。鳩川に沿った一帯は昔から田畑が広がり、春には一面れんげ田となり秋は稲刈りの風景が見られます。このような風景が見られるようになったのは、たびたびはんらんする「鳩川」の改修とともに昭和二十六年から四年余りをかけて行なわれた流域一帯の土地改良事業によるものです。昭和三十九年にはこの大事業への人々の努力と完成を記念した「土地改良記念碑」が下宿の水門の近くに建てられました。」その横には道祖神を含む石碑群が。再び富士山の夕景をカメラで追う。「社家駅」の道路表示が現れた。「社家駅入口」交差点を左折する。そして右手奥に「社家駅」が現れた。「社家駅」入口交差点には信号はなかった。「社家駅」の駅舎。「社家駅」。「社家」の名前の由来についてネット情報から。「少なくとも江戸時代には高座郡社家村が成立しているので これ以前にはこの名前があったものと思われます。「社家(しゃけ)とは、日本の身分のひとつ。代々特定神社の神職を世襲してきた家(氏族)のことである。社家は奉職する神社の近くに家を構えることが多く、社家の家が集まった所は「社家町(しゃけまち)」と呼ばれた。」と。相模線社家駅付近には神社は1つ「三島社」だけ!昔はもっと別にもあったのだろうか?無人駅でありSuica改札機が設置されていた。「茅ヶ崎」行きに乗車。そしてJR相模線「茅ヶ崎」駅に到着。JR東海道線への連絡通路にはJR相模線の100周年ポスターが。「一富士 二鷹 三相模」と。「相模線 大正十年九月二十八日開業」と。「相模線はおかげさまで100周年」。そして湘南新宿ライン「籠原行き」に乗車し帰路についたのであった。藤沢駅で小田急線に乗り換えこの日の海老名市内の散策を終え帰宅したのであった。この日の海老名市内の散策ルート。そしてこの日は頑張り過ぎました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく(後日)・・・
2021.10.30
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【海老名市歴史散歩】 目次「妙元寺」を後にして、西に進むと駐車場の角に石碑が二基。海老名市大谷南4丁目5。右側の石碑には「道祖神」と。その直ぐ先にあったのが「真鯨稲荷社」。「真鯨」という小字名も、丘の形が鯨に似ているからだとか、小丘をくじと言うとか、いろいろな説や解釈はあるが、昔、この地にあったという鯨竜山大谷寺の伝承や、出土した石碑がこの地に鯨が上がったことを裏づけているのだと。海老名耕地が入り海であったころというから、国分寺建立前後のことであろう。入り海説は「尼の泣き水」や「船をつないだ杭が根づいた大けやき」などの伝説によって人口に膾炙しているが、相模川の本流はその昔、東側の台地下を流れていた時代があったとみてまちがないのだと。過去2万年間の神奈川県の海岸線の変化。縄文時代前期(6000~5000年前)には海岸線が海老名近くまで入り込んでいたのを理解したのであった。 【https://www.asahi-net.or.jp/~pu4i-aok/walking4/french/pleinsj.htm】よりこの先の坂「清水坂」に向かって西に進む。そして「清水坂」入口まで下って引き返す。「清水坂」。海老名市大谷南4丁目1−3。「清水坂この坂は、かって坂の上りくちの左手から清水が湧き出て、一坪(三.三平方メートル)ほどの泉が清洌な水を湛えていたのが、坂の由来となっています。」その先にあった石碑群。左は角柱型「道祖神」、「道路改修記念/昭和四十五年四月二十五日建立/大谷杉久保講中」の文字が。その右に山状角柱型「道祖神」、「大正九年十一月建設」(1920)。そのさらに右に舟形光背型「双体道祖神像」、右「延享三歳」(1746)左「寅正月惣氏子十八人」。その先にも「道祖神」があった。「清水坂」を上りきり進むと右手には一面のキャベツ畑が。そして右にカーブして行くと正面に「東名高速道路」が姿を現した。高架の下の隧道(トンネル)入口には地元の杉久保小学校の生徒の絵画作品が。下り方面のその先の隧道(トンネル)を歩く。右手に折れ進むとあったのが「善教寺」の「山門」。海老名市杉久保北2丁目5−7。寺号標石「浄土宗久光山 善教寺」。「掲示板」。「本堂」。浄土宗寺院の「善教寺」は、久光山浄安院と号す。「善教寺」は、高橋又兵衛尉久教が開基となり、明誉光善大和尚が文禄元年(1592)に開山したとのこと。相模七福神の布袋尊の寺。扁額「善教寺」。内陣。ご本尊は阿弥陀如来像。境内の「シュウメイギク」。シュウメイギクは漢字で書くと「秋明菊」となり、菊に似た白やピンクの花を咲かせる宿根草。シュウメイギクは「貴船菊」、「秋牡丹」などの別名でも呼ばれ、欧米ではボーダーガーデンや日本風のガーデンには欠かせない植物となっている。英名や学名も日本の植物のように表記されているが、実は中国が原産となる帰化植物で、野山に多く自生しているのだと。「聖観音像」。「この世には、墓もなければ位牌もない。流産、中絶など悲しい迷える水子の霊がたくさんあります。子供の家庭内暴力や、体の病弱な人、心配事の絶えない人、安産、子育、受験の合格など、聖観音様に願(がん)をかけて下さい。苦しみや悩みから必ず救われるでしょう。 合掌 」お顔をズームで。そして「東名高速道路」沿いを「海老名SA (下り)」方面に進むと右手にあったのが「不動明王堂」。海老名市杉久保北2丁目7。「不動明王堂」を正面から。江戸時代、大山は、関東一円の人々から信卿を集め登山客で賑わった。そのため大山への参詣道の辻々には大山道を示す標が建てられた。大山は不動明王を本尊とする寺で、道標にはこの像がしばしば刻まれているのだ。不動明王は厄難除災と煩悩を断ち切ると言われ、その姿は左手に羂索をとり、右手に剱、背に火炎を背負っている。海老名市内にはいくっかの特徴的な不動明王像と多くの大山道標が残っていたのであった。昔は露座で立っていたのであろうが。石仏「不動明王」像。近づいて。更に。そして次の「杉久保富谷横穴墓群」に向かって東に進む。西の空は赤く染まりだしていた。林の横の道を東に向かって進むと前方に小高い山が。そして前方の「杉久保富谷児童公園」に到着。「自然と歴史のさんぽみち」ここが「杉久保富谷児童公園」、「杉久保遺蹟」。「杉久保遺蹟」・「富谷横穴墓群」案内板。「この周辺一帯は杉久保遺跡と呼ばれ、縄文時代の大規模な集落跡が確認されています。発掘調査では縄文時代早期~後期の竪穴住居跡が、約300軒も確認されました。この中でも中期の竪穴住居跡が多く発見され、その形状は中央広場を住居群が囲む環状集落と呼ばれるもので、この時代の典型的な集落形態です。集落は発掘調査区以外にも広がることが確認されており、総数は600軒以上の住居跡があると推定され、この地域の拠点集落であったと考えられています。」「杉久保遺蹟調査全体図」。「発掘調査空撮写真」。「富谷横穴墓群また、古墳時代後期(7世紀代)の杉久保富谷横穴墓群がありました。発掘調査では6基の横穴墓が確認され、その中の第3号横穴墓の奥壁からは線刻画が発見されましたが、意味は不明です。」「出土土器写真」。「杉久保富谷横穴墓群」があった「杉久保富谷児童公園」を望む。そしてこの日の最後に「豊受大神」に向かって進んで行った。夕焼けの色が刻々と変わって行った。「豊受大神」の鎮守の森が森林浴コースになっているようであった。大山三峰山(おおやまみつみねやま)の姿であろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.29
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【海老名市歴史散歩】 目次海老名市大谷南3丁目の住宅街を進むと右手前方に緑の鳥居が見えて来た。「山王社」海老名市大谷南3丁目25−12。正面から。境内の「堅牢地神」碑。大地をつかさどる地神で、大地が万物を載せて堅固不動であるところから、堅牢の名がある。 万物を生育し負載するはたらきを神格化したもの。社殿の内陣には庚申等が並んでいた。中央の庚申等は笠付角柱型 日月 青面金剛像 三猿(三面)。下部の三猿は横両面にも有るように見えたが。左の石碑は板碑型 日月 「奉庚申待供養/二世安楽」。次の目的地「妙元寺」に向かう途中にあった、大農家の温室にはスイトピーの花苗であろうか?摘心を行い、わき芽を伸ばすようにしていないようなので豆の栽培か。そして「妙元寺」に到着。海老名市大谷南3丁目29−16。題目碑「南無妙法蓮華経 長秋山妙元寺」。山門右手の石碑群。一番右の石碑には「南無日蓮大菩薩」と。山号は「長秋山」。「妙元寺」。「山門」を入り参道を進む。左手に「手水舎」。「手水舎」横に立っていたのが「水子地蔵尊」。近づいて。お顔をズームで。本堂前に立っていたのが「観世音菩薩」像。近づいて。「観世音菩薩」左手で蓮の花を持って。お顔をズームで。「本堂」前の「常香炉」。「本堂」正面。扁額「長秋山」。「客殿」。「遠忌之碑」。「日蓮大聖人の孫弟子に当たる長興長榮両山三世九老僧日輪上人偶当地に錫を留め豪士秋元刑部大輔に本化の大法を説く刑部一族郎党を率いて聴聞す日を遂うて妙法値遇の大縁を肌に感じ輪上と師弟の契を結び名を改め秋元院日長と賜う。剃髪染衣一宇を創立す。茲に開山輪上自ら払を執り長秋山妙元寺と名付け式を督す日長二世を襲い雲集する信徒と共に法華経廣宣流布の道場と為す時に元弘元年比企谷門流に列せらる。星霜六百余年を閲し時に消長あり。先代日保聖人來往半世紀に及ぶ公務の傍ら門・石塀・書院等を造榮せり。晩年疾を得て再起する能わず。総代法類に後事を託す。熟議の上協力一致し宗祖第七百遠忌を期し、本堂書院庫裡を新建碑文に託し以て後昆に傅持せんとす。一同総力を傾け浄業を支援し乃ち竣る尊き哉。」「日蓮聖人像」。「日蓮聖人御眞筆 立正安国」。近づいて。お顔をズームで。「宗旨名稱 日蓮宗宗祖 日蓮大聖人開宗 建長五年四月二十八日(鎌倉時代西暦一ニ五三年)本尊 久遠の本師釈迦牟尼佛題目 南無妙法蓮華経教義 日蓮宗はお釈迦様の説かれた最高の教えである法華経をよりどころとする宗団です。 この法華経を身をもって読まれ布教をせられた日蓮大聖人を宗祖を仰いでおります。 本宗の教義は法華経の魂をお題目にこめられた宗祖の教えに導かれて私たちが信行に励み この教えを弘めることによってやがて世界の平和と人類の幸福ひいては個人のしあわせに つながる事を確信できる教えであります。経典 妙法蓮華経(法華経) 本堂のご本尊さまに先ず合掌」。「この日蓮聖人像は、昭和六十ニ年当時総代であった尾山兼氏が建立したものですが、尾山氏は農家のニ男として生まれ、小学四年修了後豪農に作男として住込み、正月の小遣い一銭から貯金をはじめ、明治、大正、昭和と米寿を迎えるまで貯めた浄財を先祖供養の為に使いたいとの思いから建立に至ったものです。先祖の墓参りの前に先人の偉業に感謝し、宗祖への合掌をお願い致します。」。「六地蔵」。「米寿を迎え墓地完了し墓参り振り返り見し先祖の姿」。「大黒天」像。「大黒天は縁結び、福徳円満の神です。」お顔をズームで。「開山日輪聖人」供養塔。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.28
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【海老名市歴史散歩】 目次次に「今福薬医門公園」に向かって進むが、途中にあったのが「大島記念公園」。「大島記念公園」は、海源寺の開祖である大島氏の末裔の方から寄贈された土地を公園として開園した。公園内には大島家16代当主・大島正博が嘉永元年(1848)に行った花火興行の折に「硝煙解毒材」として植えたと伝わるイスノキの大木がある。このイスノキは地元では「ひょんの木」と呼ばれ、虫によってつけられた葉の穴を使って「ヒョンヒョン」と鳴らしたことからこの名がついたとの説があるのだと。「大島記念公園」と大島家の由来が刻まれた石碑。そして「今福薬医門公園」に到着。海老名市中新田1丁目9−1495番地5。嘉永6 (1853 )年建築の「表門」と「塀」が歴史を感じさせるのであった。「自然と歴史のさんぽみち」。ここが「今福薬医門公園」。「今福薬医門公園」の「表門」を正面から。今福の表門として十ニ代武軸(元芳)により嘉永6 (1853 )年に建てられました。間ロ9尺の比較的小規模な薬医門で、この門の形が「今福薬医門公園」の名前の由来となっています。門は総欅造で両側に袖塀を持ち、左袖塀には潜り戸を設けています。屋根は切妻造桟瓦葺ですが、建築当初は茅葺きでした。今福家の記録から明治27 (1894 )年に瓦葺に改修されたものと思われます。垂木先と破風先は銅製の金具が取り付けられています。妻壁には笈形(おいがた)をかたどった透かし彫りの板を嵌(は)めていることや、天井に鏡板を張っていることが特色です。門の両脇に連なる板塀の建築年ははっきりしませんが、基礎石の風化状況から、当初かそれに近い時期に作られ、後に改修されたものとみられます。土台に柱を立て、柱背面に控えをとっています。目板打ちの縦板壁に、上部は襷掛けの欄間となっています。屋根は波板鉄板ですが、これは大正期に改修されたもので、当初は板葺だったと考えられます。門と板塀が一体となって、旧家の表構えの格式を伝え、景観の形成に多いに役立っています。「今福薬医門公園利用案内」。「国登録有形文化財 旧今福家住宅」のパンフレットを頂く。今福家海老名市中新田は、相模川中流域左岸の低地にあたり、その地名の由来は、「海老名上郷と海老名下郷の間に新しく開拓された田を持つ村」といわれています。今福家は、戦国時代に活躍した甲斐武田氏の家臣てあった今福氏が先祖といわれ、江戸時代には名主も務めた旧家です。寛保3 (1743 )年から農間に酒受売・太物類(綿織物・麻織物)・荒物類(雑貨)・薬種などの商いを始めたとされています。今福家の屋号は「大坂屋」で、寛政11(1799 )年からは質屋も始め、文政8・9 (1825・1826 )年は、相模国高座郡内の近村13箇村(現在の海老名、綾瀬、藤沢の一部)に26名の送り質屋(元質屋からの資金により質物を取り、手数料を取って質物を元質屋に送る質営業のこと)を抱えるほどになりました。十一代当主今福武兵衛(元朝1806ー1879は、天保7 (1838 )年の大凶作の時に困窮した村人に救助米を配り、天保12 (1843)年6月には江戸・湯島聖堂(江戸幕府学問所)に敷石を献上して老中・堀田正睦から紋付小袖を賜るほどの有力者でした。その後今福家からは、自由民権運動に携わり高座郡長を務めた今福元頴( もとひで 1843-1924)や晢学者の今福忍(1873ー1923 ) 、NHKアナウンサー今福祝(しゅく 1912ー1978 )などの政治家・文化人が輩出されています。大正12 (1923 )年の関東大震災て、今福家の主屋や米蔵などは損壊し、その後再建された家屋も今は残っていませんが、嘉永6 (1853 )年建築の表門や塀、弘化4 (1847 )年建築の文庫蔵、大正期の裏門が今も残されています。これらは屋敷林とともに江戸時代の豪農の屋敷構えを残す希少な建築物として、平成30 (2018 )年7月20日に文化審議会から文部科学大臣に国の登録有形文化財に登録するよう答申され、同年11月2日に登録となりました。参考:『海老名市史3 資料編 近世Ⅱ』、『海老名の地名』。「今福薬医門公園」案内図をパンフレットから。今福家の敷地の一部は市に寄贈され平成1 9 (2007 )年に公園として開園しました。園内には、月桂樹や栴檀(せんだん)山茱萸(さんしゅゆ)、黒文字、木大角豆(きささげ)、泰山木(たいさんぼく)、錦木(にしきぎ)、石榴(ざくろ)、三島柴胡(みしまさいこ)、貝母(ばいも)など歴代当主が植えに貴重な樹木や草花が多くあり,四季を通じて楽しむことができます。左手に基礎部分のみ遺されている「米蔵跡」。井戸には手動井戸ポンプが残されていた。反対側(東側)を見る。東側にの母屋跡方面にはフエンスがあり、公園ではないので進めなかった。「今福家 表門 文庫蔵」案内板。「今福家 表門 文庫蔵今福家は、甲斐武田氏の家臣・今福氏が先祖といわれ、江戸時代には名主も勤めた旧家です。寛保3 (1743 )年頃から農業の合間に酒や荒物、薬種などの商いを始めて繁盛しました。屋敷内に貴重な建物や樹木、植物などが残ることから平成16(2004 )年5月に今福美雄氏より1400.38m2の敷地と建物の寄贈を受け、平成19年2月に今福薬医門公園として開園しました。」◯表門【年代】 嘉永6 (1853 )年5月(新築上棟、棟札による) 【規模】 桁行4間9尺(約2.7m )、梁行1間5尺(約1.5m ) 【構造】 薬医門形式、切妻造桟瓦葺(当初は茅葺)、総欅造 ※薬医門 主柱を控柱の中心からずらした位置に棟束を置く建築形式。総欅造りで、9.5寸(約29cm ) x6.5寸(約20cm )角の主柱を冠木でつなぎ、5.8寸角(約17.5cm )の控柱で支えています。梁に棟束の妻飾り、妻壁には蟇股を透かし彫りした板をはめています。内側に鏡天井をはり、内開き板扉と北脇の袖塀に潜り戸を設けています。妻壁に蟇股を透かし彫りするのは珍しい形式です。」「文庫蔵」。◯文庫蔵 【年代】 弘化4 (1847)年(棟札による) 【規模】 桁行24尺(約7.2m )、梁行15尺(約4.5m ) 【構造】 三階建て土蔵、切妻造桟瓦葺、外壁白漆喰 今福家12代・武助により弘化4 (1847)年に上棟された土蔵で、登り梁形式の小屋組で、 長さ24尺(約7.2m )の太い欅材の棟木を両妻の梁に渡し、それと軒桁の間に登り梁を架けた 簡潔にして力強い構造となっています。入口には鳥居形に木眉と方立を造り出し、その間に 外開き土扉を設けています。 内部の壁は各階とも柱に彫った板じゃくりに杉の厚板(厚さ7分:約2cm、幅9寸:約27cm )を 落し込んだ胴羽目で、板の突き合わせは本実継ぎ(ほんざねつなぎ)です。1階の入口脇に 階段を設け、2階と3階には商品を収納できるように戸棚が造られています。 江戸時代の3階建て土蔵はあまりなく貴重な遺構です。「文庫蔵」の前には「く」の字形の小さな池もあった。「蔵跡」。隠蓑(かくれみの)の木。「隠蓑」案内板。葉が3裂するのが特徴。厚く革質で光沢あり大きな葉で「隠れ蓑」がわりにしたのが名の由来らしい。「古記録」明治41年の今福家屋敷図。「主屋と文庫蔵(明治期)」の写真。「用水路と裏門(大正期)」の写真。明治41 (1908 )年の屋敷図には「瓦葺 居宅 七拾九坪」の主屋や土蔵、物置などがみられます。かっては東側水路に橋があり、裏門から出て水路を渡ることができました。敷地北側の半分弱が現在の公園部分てす。そして「今福薬医門公園」の「表門」を出て裏側(東側)を歩く。右手奥に「裏門」が見えた。「裏門」をズームして。「6寸角の凝灰岩の石柱に、同し石材の冠木を乗せ,その上に「今福」の「今」の字をアールヌーヴォー風にデサインした鉄製飾り金具を取り付けています。冠木の背面には藁座の造り出しがあり、かっては両開きの鉄製門扉が取り付けられていましたが、第二次大戦時の金属供出により失われました。門柱の両側には、大正期の写真では竹垣、昭和初期の写真ては板塀が見受けられます。」そして稲刈りの終わった田園風景を楽しみながら南下する。「海老名市立中新田小学校」の角を左折して進み「中新田小学校東側」交差点に。突き当りの先には「いこいの広場 三日月地」。キバナコスモスが満開。そして「大谷水門」交差点を右折。「高座郡海老名町耕地事業竣功記念碑」。「東西2㎞乃至(ないし)0.7㎞、南北約5㎞に及(およ)び櫛状(くしじょう)をなす広大な海老名耕地は、1300年前大化の改新の際、条里制(じょうりせい)を施した湿田(しつでん)であったが、昭和15年3月相模川左岸用排水改良事業の完成により、古来の旱水害(かんすいがい)を全く防止し得るに至ったので、町民は更に暗渠排水(あんきょはいすい)区画整理等を施行して耕地の乾田化(かんでんか)を計った。時、偶々(たまたま)相模川河川統制事業の進捗(しんちょく)に伴い、相模湖底に沈む勝瀬(かつせ)部落の移転とも関連し、同16年1月海老名町耕地整理組合を設立し、県営を以て本工事を進める事となった。然るに忽ち(たちまち)こう古の大戦(太平洋戦争)に際会し、資材の欠乏と労力の不足に依る作業の困難は筆舌(ひつぜつ)につくし難いものがあったが、県営事業所長 船戸廣次(ふなとこうじ)氏、組合長 望月珪治(けいじ)氏初め関係者の不屈の努力は、よくこの困苦を克服し同20年3月 52萬(まん)2千円の経費を以てその工を竣わった。次いで直ちに組合営を以て各田区の整地及び254ヵ所の架橋並びに井堰(いせき)掛桶(かけおけ)伏越等の工事に移り、戦後の苦難に堪えつつ、7年の日子(日数)と急激な物価騰貴(とうき)によって増大した工費1075萬(まん)余円を要して、同27年之を終わり換地登記等の事務も今年8月を以て完了したのである。斯く(かく)て487町2段歩に亙(わた)る海老名耕地は、舊態(きゅうたい)を改めて一大沃田(よくでん)となり、生産の増大は永く郷土の民生を豊かにし、国家の発展に寄与する事となった。茲に(ここ)に沿革の概要を誌して本事業完成の記念とする。」「蔽畔稔泰」の文字が。貫抜川と貫抜川水門「相模川左岸・右岸幹線用水路」案内板。「この水路は、相模原市磯部から茅ヶ崎市室田までの20Kmに及ぶ農業用水路で、昭和の初期に先人達が築き上げた歴史のある水路です。この水は、田植えの時期の4月から9月まで相模川の磯部頭首工から取水して、田んぼを潤すため水を送っています。また、かんがい用水としての目的以外にも、地下水への涵養や地域用水として、私たちの生活環境を守ってくれる重要な働きをしています。」相模川へ流れ込む水路用の水門。茅ヶ崎市室田方面への水路の水門。茅ヶ崎市室田方面への水路に沿って南下する。海老名洋蘭園の角を左に曲がり進むと海老名プライムタワー・107.8m高が左手に見えた。そして県道407号線の「坂下」バス停前を通過。大きく右側に曲がると「坂」があった。「沖の坂」大昔、海老名耕地が入海であった頃、遠くの沖の方まで見える坂であったからだといわれています。6000年前( 縄文時代前期)の神奈川の大地。平塚、茅ヶ崎は海の下であり、海は寒川、海老名まで入り込んでいたのだ。 【https://nh.kanagawa-museum.jp/kikaku/ondanka/pdffile/wt_v101.pdf】よりそして「沖の坂」を上り海老名市大谷南4丁目5−8の住宅街を進む。更に東に進むと右手に緑の鳥居の神社が現れた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.27
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【海老名市歴史散歩】 目次「中新田小学校入口」交差点の横断歩道を2回直角に渡り、県道46号線・産業道路を北に進む。これから訪ねる「東興寺」の白塀に沿って進む。白塀の角には「南田の道祖神」碑が。そして「東興寺」に到着。海老名市中新田1丁目13 。山号は「諏訪山」。「曹洞宗 東興寺」。「禁葷酒」。隣は昔の六地蔵の名残りか?「六地蔵」。影が白壁に映り込んで美しかった。「山門」。扁額「諏訪山」。「本堂」への参道。右側には「無縁塚」の中央に五輪塔。「水子供養地蔵尊」。「水子供養地蔵尊」に近づいて。お顔をズームで。「観世音菩薩」像。近づいて。二体の化仏を配置した千仏光の美しい光背の造形。お顔をズームで。石仏群。「お掃除小僧」。墓地。「南無慈悲観世音菩薩」像。「南無慈悲観世音菩薩 真言 おんあろりききやそわか」。近づいて。お顔をズームで。「客殿」。「手水舎」。「本堂」。曹洞宗寺院の東興寺は、諏訪山と号す。東興寺は、等光道覺(応永6年1399年卒)が開基し創建、眞良紋達(弘治3年1557年寂)が開山したと。江戸期には、中新田諏訪神社の別当を務めていた。本尊は釈迦如来像。常香炉には「五七の桐」と「久我竜胆」が重なっていたが。曹洞宗寺院であるので、両本山である總持寺・五七の桐(左)と永平寺・久我竜胆(こがりんどう)(右)の両山紋が施されているのであろう。「報恩塔(十三重塔)」。「報恩塔」。「寺務所」。「佛の十戎一、生きとし生けるものの命を大切にしなければならない。ニ、盗みや不正を犯してはならない。三、夫婦の道を乱してはならない。四、うそ偽りを云ってはならない。五、迷いの酒や思想に溺れてはならない。六、他人の過ちをいゝ触らしてはならない。七、おのれの自慢ひとの悪口をいってはならない。八、物でも心でも与えることを惜しんではならない。九、激しい怒りで自分を失ってはならない。十、佛院(ほとけ)の教えを疑ってはならない。」「東興寺」を後にして、寺の横の道を東に進む。「客殿」の裏側を見る。そして次の目的地「今福薬医門公園」まで50mを確認。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.26
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【海老名市歴史散歩】 目次「諏訪神社」を後にし南下すると直ぐ右手角にあった朱の鳥居のある神社。海老名市中新田2丁目27−50。正面から。内陣には石祠が。そして西に進むとを小さな橋が。相模川に流れ込む水路の名は?左にカーブする場所にも水路が。こちらには水が流れていなかった。そして右手にあった「伊勢宮大神宮 (いせのみやだいじんぐう) 」に到着。海老名市中新田3-7。「伊勢宮大神宮」は、延宝6年(1676)に創祀以来、天明6年(1786)・明治10年に修理され維持されて来たが、神社整理令により明治43年中新田諏訪神社に合祀された。昭和25年氏子中の希望により元の鎮座地に還座したのだと。「社殿」。祭神は天照大神。扁額「伊勢宮大神宮」。内陣。「伊勢宮大神宮」を後にして、南東に向けて進む、左手にも神社が。海老名市中新田3丁目8−20。これも稲荷社であろう。「伊勢宮下」交差点を直進する。次の路地を右に進むとあったのが大きな石碑。「蠶神」と刻まれた石碑。裏面には「神奈川縣蠶業試験場 創立ニ五周年記念昭和十年十一月 神奈川蠶友會建之」。「神奈川県蚕糸技術 発祥の地」碑。神奈川県蚕業試験場の創立25周年を記念して神奈川蚕友会が建立した記念碑。蚕業試験場は明治43年神奈川県農事試験場養蚕部として藤沢町に設置され(本碑の「創立25周年」はこれを指している。)、大正11年、蚕業試験場と改称された。大正14年、支場が中新田に作られ、昭和24年、本所が藤沢町から中新田に移転した。その後、県の養蚕関係機関の再編に伴い昭和42年、蚕業センターに統合され、本所は中新田に置かれた(神奈川県養蚕センター『要覧』1968年)。しかし養蚕業の衰退により、平成7年、神奈川県農業技術センター(本所は平塚市上吉沢)に統合され、跡地は宅地、および公園となっている。その先にあったのが火の見櫓(ひのみやぐら)。「中新田自治会館」。海老名市中新田3丁目25−1。「カンバーランド長老キリスト教会海老名シオンの丘教会 牧師 玉井幸男」案内板。そして次に「川寿稲荷神社」を訪ねた。海老名市中新田3丁目17。入口には松の手入れをされる職人さんの姿が。「社殿」。倉稲魂(うかのみたまのかみ)をご祭神とし、文政8年(1825)、京都の伏見稲荷神社の神霊を勧請し、中新田の河原宿のとうかの森に鎮座する。川は川原、寿は長寿に由来する。扁額「川寿稲荷大明神」。内陣。境内の「ケヤキの木」。「海老名市自然緑地保存樹木第267号 令和2年9月15日指定樹木名 ケヤキ幹の周囲 1.88メートル」「六刀碑天正十八年七月豊臣秀吉小田原城を」攻略北條氏を降しました。次いで八月関八州の統治を徳川家康に任命され其の家臣高木主水正清秀が伍阡石の海老名郷を治められました。私共先祖六名はその家臣であります。高木主水正正次は元和九年九月河内河南壹万石の領主となり赴任されましたが六名は随行せす此の稲荷の森に刀を納め此の地に土着し農業に精進したので有ります。爾来荏苒(じんぜん)三百六十余年を経た今日その痕跡を明らかにすべく茲に碑を立て永く記念するもので有ります。昭和四十一年丙午師走 子孫敬白」現在も残る「六刀碑」は、その言い伝えを残すために昭和41年(1966年)に子孫の人たちによって建てられたと。碑の末尾からも解るのであった。「郷土かるた 「ろ」」「六刀碑 武士すてさりて 農となる」。「川寿稲荷神社」を後にして、海老名市中新田3丁目の住宅街を北に進む。そしてこの先右手で県道45号線に通じる道を横断。角にあった「稲荷森の道祖神」碑。更に直進する。再び水路を横断。そして次の目的地「東興寺」まで200mを確認。「中新田小学校入口」交差点が前方に見えて来た。そして歩道橋の先に「東興寺」の屋根が見えたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.25
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【海老名市歴史散歩】 目次そして次に「浄土宗 増全寺(ぞうぜんじ)」を訪ねた。「脇門」を通過し「山門」に廻り込む。山号は「龍池山」。「浄土宗 増全寺」。「掲示板」。「目に見えなくとも大切なもの」。「目に見えなくとも大切なもの現代社会は科学の発展と共に合理的で目に見えるものばかりを追い求めて、目に見えない・非科学的なものは否定される傾向を強く感じられます。しかしながら仏教が説く多くのものは、仏さま、ご先祖さま、ご供養、ご縁、死後の世界・・・「目に見えない」ものばかりです。もし宗教の無い世界であったならば、先祖はただの遺伝子継承にすぎず、「死」は「無」でしかないという、これはど悲しく怖いことはありません。浄土宗のお念仏の教えでは、南無阿弥陀仏とお念仏を称えたならば、この命が尽きた時には必す阿弥陀さまが極楽浄土へお救いくださり、先立たれた大切な方々とも再会させていただくことができるのです。「目に見えない」が、このよりどころがあればこそ私は安心してこの世を送っていけます。今年もコロナ渦で自粛を求められるお彼岸となりますが、秋分の日は国民の祝日に関する法律にも「先祖をうやまい、なくなった人々をしのぶ」とあります。私たちに命のバトンをつなげてくださったご先祖様に感謝のご供養をするとともに、自身もより一層「目に見えない」ものを大切にする期間として頂きたいと思います。」「本堂」。浄土宗関東十八檀林の武州滝山大善寺末寺で、本尊は弥陀三尊、阿弥陀如来は江戸期初期から中期の作とみられる。 開山は因公学円上人で、嘉応元年7月15日寂(1169)、開基は鎌倉末期の領主・海老名源八衛広綱とされ、法名の無量院殿龍池増全大居士から山院寺号が付けられ、龍池山無量院増全寺と号す。開山当時は密教系寺院であったようであるが、浄土宗へ改宗した時期・経緯等は伝えがなく不明である。境内入口には岩船地蔵享保4年(1719)があり、飢餓に苦しむ村民の延命地蔵として祀られた。 また近年、相模七福神の一つに属し福禄寿を祀る。様々な変遷を経て平成28年に本堂・客殿・庫裏を新築改修し現在に至る。扁額「増全寺」。「本堂 内陣」。本尊は弥陀三尊、阿弥陀如来。境内の石仏、石碑群。「動物霊之碑」。うさぎが持つベンチ。「延命水子地蔵尊」。近づいて。お顔をズームで。「福禄寿尊天」像。中国の道教で理想とされる幸福・俸禄(ほうろく)・長寿命。 七福神の一。 背が低く長頭で長いひげをもち、杖(つえ)に経巻を結び、鶴を従えている。 幸福・俸禄・長寿の三徳をそなえるという。近づいて。長頭で長いひげをもち。「歴代諸上人供養塔」。「納骨堂永代供養」。内部をネットから。「本堂」裏の墓地。この地域の名家の墓なのであろうか。「先祖累代之墓」。「客殿」。「震災横死者之靈碑」碑の正面中央には、大正拾貮年九月一日震災横死者之靈とあり、その両側に氏名年齢順として28人の氏名が刻まれています。氏名末尾には男には君が付加されていますが、女には子が付加されているのでしょうか?碑の背面には、施主 玉城莊全とあり、三十四世と三十五世であった当時の住職が建立したことが分かります。なお、当時の住職が三十四世と三十五世の二つの世を務めたかは分かりませんが、「当山歴代先師尊霊」という墓誌によると、三十四世 ……莊全和尚、三十五世 同右とあります。現在の海老名市は、明治の町村制施行時の海老名村と有馬村がもとになっています。震災当時、増全寺のある中新田は海老名村に属していました。海老名村の被害は、全壊住宅461戸(このうち5戸焼失)、半壊住宅290戸、死者33人(滞在者2人を除く)でした。(海老名市史 8 通史編 平成21年 より)震災横死者之霊碑には、28名の犠牲者名があり、海老名村の犠牲者数の55%程度になります。海老名村は、上今泉、下今泉、柏ヶ谷、望地、国分、上郷、河原口、中新田、大谷から成り、碑の犠牲者は檀家信徒あるいは地区で区切られた犠牲者なのかは判然としません。犠牲者には大島と今福の姓が目立ちますが、両家は中新田の名家と言われています。震災横死者之霊碑が中新田の犠牲者に限られた碑であるなら、中新田は大きな人的被害を被っていることになります。「増全寺」から次の「諏訪神社」に向かう途中、直ぐ左にあった小さな神社。「稲荷社」であろうか。そして「諏訪神社」に到着。海老名市中新田2丁目19−14。社号標石「諏訪神社」。「石鳥居」。扁額「諏訪神社」。「拝殿」に向かって参道を進む。「社務所」。「神輿社」。「掲示板」。「手水舎」。狛犬(右)。狛犬(左)。「拝殿」ご祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)。大化の改新の後、海老名耕地の中央部の開墾に伴って、少なくとも、室町の頃、諏訪明神を勧請して以来、中新田の地域及び住民を守護する産土神社(うぶすなじんじゃ)として、「お諏訪様」と尊称されています。この神社は、風の神・水の神という農業神であり、例大祭のみならず、雹祭・虫除祭・風祭という農事祭が執り行われています。この祭りにあたり、独特な儀式がなされます。案山子(かかし)祭りも有名。見事な彫刻。扁額「諏訪神社」。「諏訪神社御由緒」。「お諏訪様 諏訪神社(すわじんじゃ)は、建御名方命(たけみなかたのみこと)をご祭神とし、海老名市中新田1549番地に鎮座する。 古来、中新田の地域及び住民を守護する産土神社(うぶすなじんじゃ)である。人々はお諏訪様と尊称する。お諏訪様は、武将からの信仰もあったが、本来、風の神・水の神として信仰されて来たものであり、中新田という土地を開発した 農業をはじめとする産業の神といってよい。神社の祭事として、毎年七月二十七日の例大祭、歳旦祭・祈年祭・新嘗祭の外にも、雹祭・虫除祭・風祭という農業祭を斎行する。境内地は、一千坪を超える。右手に手水舎、また、左手に切妻造の神楽殿と社務所を配し、流造桧板葺の本殿を覆う覆殿・両流造 の幣殿・日吉造の拝殿の三棟一宇からなる社殿が真ん中に佇む。御由緒 創建 大化の改新の後、海老名耕地の中央部の開墾によって、中新田の地域は誕生した。その地名は、大縄崎村から 中新田村へと変遷した。この地の草創の頃、住民は、農業の安全と繁栄を祈り、諏訪大明神の神霊を勧請し、諏訪神社をご創建した。室町 永享年間(1429-1440)以前から、厳然として、諏訪神社の鎮座する事を鷹倉社寺考は古志を基に伝える。爾来、中新田の 鎮守社として、別当寺の諏訪山東興寺と共に、住民や領主の崇敬の念篤く社運は隆昌するに至った事を新編相模風土記稿は記す。 明応年間(1492-1500)太守の大島豊後の守正時による社殿造営を社寺考は棟札を基に伝える。江戸 元和六年(1620)、地頭の高木主水政次による社殿造立の棟札が残る。また、元禄十五年(1702)九月、地頭の秋元小左衛門 成朝による宮鐘の寄進を風土記稿は鐘名を基に伝える。社殿の再建及び修理について、明暦元年(1655)、貞亨三年(1686)、享保十三年 (1728)の棟札が残り、慶応二年(1866)の銘が向拝殿の装飾彫刻の裏面にある。明治から大正へ 明治元年(1868)の神仏分離令により、諏訪神社は、東興寺と分離し、明治六年(1873)十一月、村社に列せられた。 明治十五年(1882)、社殿を再建し、明治四十二年(1910)、その設備を完成した。大正四年(1915)九月、神饌幣帛料供進社に指定された。大正十二年(1923)の関東大震災により社殿をはじめ悉く倒壊したが、 翌年には、社殿と鳥居が再建された。 昭和から平成へ 第二次世界大戦の後、諏訪神社は、宗教法人となり神社本庁に所属する。氏子は、心の拠所として尊崇し、昭和 二十八年(1953)七月、境内を西側に拡張し、神楽殿を建築し、また、平成八年(1996)、社務所の再建、平成十六年(2004)、 社殿の修理及び幟竿・狛犬の整備、平成十七年(2005)、神楽殿の再建等、次々と境内の整備を進めた。摂社・末社 境内末社 江戸の頃から「疱瘡神」(ほうそうがみ)を祀る。大戦後、事情により、近辺の稲荷社へ遷座された。伊勢宮大神宮 天照大神をご祭神とし、延宝六年(1678)八月のご創建以来、諏訪神社への一時の合祀を除いて、中新田の 伊勢宮下に鎮座する。川寿稲荷 倉稲魂(うかのみたまのかみ)をご祭神とし、文政八年(1825)、京都の伏見稲荷神社の神霊を勧請し、中新田の 河原宿のとうかの森に鎮座する。川は川原、寿は長寿に由来する。山王日枝社・稲荷社 日枝社は、大山咋命(おおやまくいのみこと)をご祭神とし、宝永五年(1708)の創建以来、諏訪神社への 一時の合祀を除いて、稲荷社と共に、中新田の山王原に鎮座する。」大正十二年(1923)の関東大震災で被災した石鳥居。「神輿社」を別の角度から。上空には海上自衛隊機が飛行。「秋篠宮悠仁親王殿下誕生記念植樹」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.24
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【海老名市歴史散歩】 目次そして「海源寺」の「山門」前に到着。海老名市中新田1丁目1−22。寺の玄関口の「山門」は本堂正面に当たる南側に設けられていた。山号を「長髙山」、身延山久遠寺(山梨県身延町)の末寺とされている。「海源寺」。「掲示板」「施して報いを願わず 受けて恩を忘れず」人に施しや親切を行っても、そのお返しを願ってはいけない。また、施しや親切を受けても、その恩を忘れてはいけない と、大隈重信の言葉ではなかったか。境内の欅(ケヤキ)。「海老名市自然緑地保存樹木第67号 昭和63年8月1日指定樹木名 ケヤキ幹の周囲 2.80メートル所有者又は管理者住所 海老名市中新田1-1-22氏名 海源寺」「本堂」への参道を進む。右手に小さな御堂。「手水舎」。「本堂」。「海源寺」は、海老名広治が田邑宗友と領土争いをしていた際、甥の大島豊後守正時に助太刀を依頼、房州より移り住んだ大島豊後守正時は、子のいなかった海老名広治の死後、当地の領主となった大島豊後守正時が長禄・寛正年間(1457-1466)に当寺を創建、身延山11世日朝(明応9年1500年寂)が開山したと。慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領9石の御朱印状を受領した。本尊は阿弥陀如来像。中央には目が光って、迫力ある睨みをきかせる龍の彫刻が「本堂」正面に。扁額は「海源寺」。木鼻の側面は珍しい?象の彫刻。正面は唐獅子の彫刻(右)。木鼻の側面は珍しい?象の彫刻。正面は唐獅子の彫刻(左)。別の角度から。唐獅子の彫刻はかなり手が込んでいたのであった。「本堂」にはこの寺の開基「大島豊後守正時像」の木像がまつられていると。 【https://ebina-kankou.com/%E6%B5%B7%E6%BA%90%E5%AF%BA/】より大島豊後守正時像室町時代、当市は海老名弘治の領地でしたが、隣りの田邑の領主田邑宗友と領域争いをしたとき、房州(千葉県の一部)にいた甥の正時に応援を頼み、これに助けられました。広治の病死後、正時の後継のなかった弘治のあとを継いでこの地を冶め、長禄の頃(十五世紀中頃)海源寺を建てました。正時が死んて当寺に葬られた永正二年(一五〇五)、この木像か置かれたと思われますが、江戸時代に罹災し、現存する座像は宝永七(一七一〇)年につくり直されたもののようです。なお、本市に実在した式将の像としては唯一のもので、この意味において大変貴重と考えられます。大島正時は、室町時代の安房国(千葉県)の武将でしたが、海老名を領有していた海老名広治の招請により、領地争いの救援のために海老名にやってきたといわれています。この合戦の後、血筋が絶えた海老名氏に代わって海老名を領有するようになったとされます。大島正時は、海源寺の開基とされ、正時の死後、永正ニ(一五〇五)年にその坐像が造られたと伝えられています。現存の坐像は、宝永7年(1710)に造られたものです。「天水桶」には日蓮宗の宗紋「井桁に橘」が。「客殿」であっただろうか。御堂の中に祈りの石仏が。近づいて。「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」碑。境内の「日蓮聖人像」。お顔をズームで。ここにも石仏が。お掃除小僧。「清浄心掃けば散り拂えばまた塵つもる 人の心も庭の落ち葉も」「神明宮 八幡宮」。扁額「神明宮 八幡宮」。内陣。この社は?「鐘楼門」は市指定重要文化財。上層階には元文2年(1737)に鋳造された鐘が懸けられていた。この鐘は戦時中にに軍に供出され、現在は復元されたものが懸けられているのだと。西側の入り口から望む「鐘楼門」この鐘楼門は,記録によると大島家第十一代正晴が大願主となって、元文二年(1737年)に寺に銅鐘を寄進し、その後すぐに築造された。関東大震災による倒壊などで改築・修理を余儀なくされたが、旧部材を用いたこともあって創建当時の特徴を残している。建物の概要は、桁行22尺(約6メートル60センチ)、梁間12尺(約3メートル60センチ)の三間鐘楼門で、屋根は入母屋造り、銅板瓦棒葺。軸部や斗栱などに欅材を多用し、上層の台輪以上が新材に替えられたが、他は当初の部材をよく残している。軸部と斗栱に禅宗様の技法を用いているが、細部装飾は少なく、衣装は簡素。外観は、下層軸部の丈が高く、軽快である。海老名市内における近世社寺建築の代表的な遺構である。「海源寺鐘楼門修復記念碑當山の鐘楼門は、記録によると十八世紀中期に創建されたものでありますが、大正十二年の関東大震災によって倒壊しました。幸い災火の難を逃れましたので、旧財を用いて昭和十三年に再建されました。旧部材を用いた事もあり創建当時の特徴を残した近世社寺建築の代表的遺構として平成六年十月に、海老名市の重要文化財に指定されました。しかし、永い年月を軽て来た為、痛みも相当ひどくなっており、文化財指定を機会に、山門の修復を計画しました。修復に際し、本来の姿であろう鐘楼門に戻そうという事となり、元文ニ年(一七三七)に鋳造され太平洋戦争の時に供出となリ消失した梵鐘も再度鋳造する事となりました。修復工事は、日蓮大聖人立教開宗七百五十年慶讃、並びに海源寺開山、行学院日朝上人五百遠忌御報恩を記念して行なわれ、檀家の皆様の浄財寄進と御協力により、約一年半の修復期間をもって完成しました。ここに日蓮大聖人か立教開宗の時に立てられた我 日本の柱とならむ我、日木の眼目とならむ我、日木の大船とならむとの誓願を受持し、法華経の御題目を弘め、衆生を佛道に導く事を誓い、立正安国、世界平和、寺門興隆、伽藍相続 殊には檀徒皆様の家門繁栄、家内安全を祈念いたします。」「海源寺鐘楼門この鐘楼門は、記録によると大島家第十一代正晴が大願主となって、元文二年(一七三七)に寺に銅鐘を寄進し、その後すぐに築造されました。関東大震災による倒壊などで改築・修理を余儀なくされましたが、旧部材を用いたこともあって、創建当時の特徴を残しています。建物の概要は、桁行二二尺(約六メートル六〇センチ)、梁間一二尺(約三メートル六〇センチ)の三間鐘楼門で、屋根は入母屋造り、銅板瓦棒葺です。軸部や斗栱などに欅材を多用し、上層の台輪以上が新材に替えられましたが、他は当初の部材をよく残しています。軸部と斗栱に禅宗様の技法を用いていますが、細部装飾は少なく、意匠は簡素です。外観は、下層軸部の丈が高く、軽快です。海老名市内における近世社寺建築の代表的な遺構です。」「海源寺鐘楼門」の構造と名称。扁額は「長髙山」。上層階には元文2年(1737)に鋳造された鐘が懸けられていた。この鐘は戦時中にに軍に供出され、現在は復元されたものが懸けられている と。境内の外から。境内から。「日蓮聖人像」と「本堂」。白亜の漆喰壁に屋根瓦」が。題目塔「南無妙法蓮華経 長髙山 海源寺」。「常殿院宗仁日喜菩提」碑。この方向が「中新田かかしまつり会場」のようであるが、今年もコロナ禍で中止になった模様。 田んぼ一面が黄金色に輝き出せば、いよいよ刈り取りの季節。左手に「中新田コミュニティーセンター」。そして次の訪問地「浄土宗 増全寺」入口が見えて来た。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.23
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【海老名市歴史散歩】 目次「大谷観音堂」を後にして、「観音通り」を北上して「根下バス停前」交差点まで来る。左側に「観音堂」らしきものがあった。海老名市大谷北2。少し戻り、田んぼの中の道を西に進む。収穫間近の田んぼが拡がっていた。「中部営農組合」に稲刈りを依頼しているのであろうか。手で刈り取られた稲が数束道路脇に。そして別の田んぼにも同様な表示が。右手奥にあったのが「アツギ(株)」のビル。日本の繊維製品の製造・販売メーカー。旧厚木ナイロン工業(株)。海老名市大谷北1丁目9-1会社の所在地は海老名市であるが、社名に相模川対岸の町である「厚木」の名前を使用したのには次の理由がある と。会社設立前に近隣にある厚木基地に連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーが降り立った。そこで創業者の堀氏は「世界中に知れ渡った厚木の名を社名にすれば、いちから宣伝しなくても済む」とひらめいたことから と。ただし厚木基地は厚木市内ではなく、綾瀬市と大和市にまたがった地域にある。所在地に近い厚木駅も厚木市内ではなく海老名市にある。ちなみに発明学会前会長豊沢豊雄の著書によると厚木ではないからアツギ株式会社と命名したとあるのだ と。そして「海老名高校東側」交差点を通過し「海老名市役所」に向かう。更に北に向かって進むと左手にあったのが「海老名市消防庁舎」。海老名市大谷816。「海老名市消防庁舎」の入口玄関。台座に「和」と刻まれた消防士像。玄関から中に入ると様々な消火機材が展示されていた。腕用ポンプ(手押し消火ポンプ)。長岡市から譲り受けたものであろうか。ミニ消防自動車。纏(まとい)。そして様々な種類のミニ消防自動車。梯子車。救急車。交差点の角にあったのが「神奈川県警察 海老名警察署」。更に進むと左手にあった「海老名市役所」に到着。海老名市の市章旗がはためく。「海老名市役所」の駐車場側の玄関から内部に入る。 海老名市イメージキャラクター 「えび~にゃ」が迎えてくれた。名前 海老名市イメージキャラクター えび~にゃ性別 女の子誕生日 平成23年(2011年)1月28日(い~にゃ~の日)住所 神奈川県海老名市勝瀬175番地の1 海老名市役所性格 やさしい性格で、こどもから大人まで仲良くなれる! やんちゃで、楽しいことが大好き!特徴 あたまは「えび」、からだは名産の「いちご」の白ねこ特技 ダンスを踊ること 『EBINAダンス』をいっしょに踊ろうにゃ! 海老名市内をリポートすること その名も“えび~にゃリポ~タ~”!好きな 海老名で採れるいちごや梨などの果物、トマトやレタスなどの野菜食べ物 海老名はおいしいものがたくさんにゃ!えび~にゃのひみつ おなかからいちごの香りがする… ハイタッチをすると、なぜか笑顔になり、幸せが訪れる…経歴 『ゆるキャラ®グランプリ2012』 865キャラ中、第19位 『ゆるキャラ®グランプリ2013』 1,580キャラ中、第18位 『ゆるキャラ®グランプリ2014』 1,699キャラ中、第16位 ※女の子キャラとしては、全国1位!!内部の壁には市民の作品であろうか、絵画等の作品が展示されていた。「七重の塔」のミニチュア。市民からの寄贈品のようであった。「住みたい 住み続けたいまち 海老名」。絵画がここにも。「ともに認め合うまち・海老名宣言 ~かかわり・つながり・ささえあい~海老名市は、 あらゆる障がいへの差別をなくし 、人としての権利が守られ、障がいがあってもなくても、誰もがその人らしく安全・安心に暮らすことができるように、ともに認め合うまちをめざして、次のことを宣言します。一 「障がい」は決して特別なことではなく、誰にでも起こり得ることです。 私たちはお互いに、多様な人格と個性・生き方を認め合い寄り添う社会、偏見や差別のない 共生社会をめざします。一 「障がい」ゆえの生きづらさを抱えながら生活している人が大勢います。私たちはお互いに 勇気を持って言葉かけをしていきます。一 海老名市は、「障がい」について関心を持ち、理解を深め、寄り添う気持ちが持てるよう、 ともに認め合うまちづくりを推進します。 」「海老名市の花 PR中!」。「海老名の特産品」も展示されいた。日本酒「いづみ橋」、「えびなの里」。海老名市内で栽培された米、「山田錦」100%を原料とした、吟醸酒。「七重最中」。「杏の実」と「苺風味の牛皮」の2種類で、国分寺の七重の塔がかたどられた、風味豊かな最中である と。「吟味豚」。豚肉は、国内産で、専門家がじっくり吟味したもの。味噌は、アレンジを加えた特製オリジナル味噌。お肉に味噌の味と香りがしっかりとしみ込み、おかずに、ビールにぴったり と。そしてこちらが正面玄関なのであろう。海老名市庁舎の落成記念として市の発展と繁栄を願って制作されたこの記念像。台湾の彫刻家の朱銘氏の作品で、人が両手を広げ大きな心で温かく迎え入れる姿を太極の十字手に倣って表したものであると。「海老名市役所」を後にして、来た道を戻る。途中「コメダ珈琲海老名大谷店」の角を右折して西へと進む。左手にあったのが「神奈川県立海老名高等学校」の正門。相模川に繋がる水路を渡る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.22
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【海老名市歴史散歩】 目次「観音通り」を南に進むと左手にあったのが「大谷観音堂」。入口左には「大谷はやし連屋台収蔵庫」。「大谷立木観音」と書かれていたが・・・。この日は蓮座のみが。ネットによると本来はこの様に。改修中なのであろうか?住職が二年がかりで彫り上げたとのことであったが。「立木観音像の由来義功和尚の知り合いに霊感豊かな女性がいた。ある日のこと、お堂にお参りに来た。そして、境内に有縁無縁の観音さまがあるといいねといって立ち去った。平成十八年、境内の元の木を枯らしてしまった。枝を伐り過ぎたのである。「すまないことをした」と和尚は悔やんで、この元の木を見ると「すまん、すまん」と手を合わせて謝っていた。ある日のこと夢に立木観音が現れた。「そうだ 観音様を彫るのが元の木の供養になる」と二年かかって完成させた。その後、霊感女性の言葉を思い出した。「この立木観音は、この境内に必要だったのだ」と。不思議なご縁である。」このお地蔵さんの首から上は、復元されたものであろうか。石段の上に「大谷観音堂」。「大谷観音堂」を正面から。「大谷 如意輪観世音の由来今より八百年前、治承四年(一一八〇年)一月一九日、吉岡太郎光重の妻麻子が霊夢に感じて、この地に観世音を祀り、その信仰によって授かった六人の男子は成人して、いずれも智勇兼備の武将となった。一族の知恵袋といわれた四男重茂は大谷四郎と名乗り現在の大谷中学校所在地に館を構え深く如意輪観世音を信仰して朝夕礼拝を怠らなかった。また攻守の備えを万全に施し、自ら大谷城と称した。麻子は後に尼となって堂宇を守り、当観音堂の山号を麻尼山と称した。光重は宝治二年(一ニ四八年)重直のみ渋谷の庄に残し、五人の男子と一族を引き連れて薩摩の新領地に移ったが、麻尼山如意輪観世音はその後も渋谷一族の尊信厚く、代々一族の女子が住職となった。元亀天正の頃、このお堂は小田原の北條を攻めるため相模に兵を進めた武田信玄の兵火にかかり焼け落ち、慶長年間に再建されたという。本尊如意輪観世音は奈良時代の僧行基の作と言い伝えられ、古くより安産と子育ての守り本尊として信仰され、毎月十九日の縁日には近郊近在は無論遠く甲州、武州方面からの参拝者も多かった。正面、虹梁上の竜は彫匠入神の作といわれ、夜毎に池の水を飲みに下りるので、眼に釘を打って虹梁上に止めたという。隣の十王堂の前の疣とり地蔵尊はその足元の石で疣をこすると知らぬ間に疣がなくなるというので祈願する人が多い。疣が取れたら新しい清浄な石を添えてお礼のお参りをすると言い伝えられている。左手の藪の中には、別に当時、清願寺があったが、明治の初期に廃寺となり、その建物は、中河内の吉祥寺に移されて現存している。」「大谷観音堂」。「新編相模国風土記稿」では、寺名を清眼寺、山号を摩尼山、総持院(海老名市河原口)の末寺としています。本尊を地蔵とし、観音堂があったことが記録されていて、現在はこの観音堂のみが残っています。作風から江戸時代作と考えられる如意輪観音坐像が2体、江戸時代中期作と考えられる地蔵尊像が安置されています。また、「笑う閻魔様」として親しまれている木造閻魔王坐像は寛保3年(1743)に江戸中橋一丁目の仏師・渡部によって造立され、天保12年(1841)に江戸浅草の仏師・舛上儀平國信が修理し、嘉永2年(1849)に鎌倉扇谷の仏師・三橋永助も修理したことがわかっています。大谷観音堂には1.水飲み龍、2.枕返しのお地蔵様、3.のぞき小僧、4.相生の榧、5.笑う閻魔様、6.乳房のイチョウ、7.イボトリの地蔵様といった「摩尼山の七不思議」という話が伝えられています。ガラス戸の中には様々な手書きの短歌、俳句が。扁額は「摩尼山」。安置されている、江戸時代中期作と考えられる地蔵尊像、同じく江戸時代作と考えられる如意輪観音坐像、不動明王、弘法大師の写真が展示されていた。「大谷観音堂」の壁には多くの有名人の言葉が、手書きで掛け軸のごとくに。左の3本は住職の手のものであろうか?達磨の姿が。「子供を叱るな来た道じゃ年寄り笑うな行く道じゃ来た道行く道ひとり旅 みんな来た道行く道じゃこれから通るきょうの道 通りなおしのできぬ道」「子供の世話にはなりたくないが、子という字が懐かしい」。「大谷観音堂」の正面の上部には天女の舞う姿が(右)。以前はもっと色彩が豊かだったのであろう。「大谷観音堂」の正面の上部には天女の舞う姿が(左)。「掲示板」。「NHKのテレビ・ラジオで放映・放送された大谷観音堂小林義功住職の法話」の放送年月日が記載されていた。「大谷観音堂のカヤ」このカヤは二股に分かれて聳えている相生のカヤ。その傍らには銀杏の大木もあり、秋には「九里の土手」を背景に黄葉が映え、美しい光景を作り出してくれると。「かながわ名木100選大谷観音堂のカヤ 和名:カヤ(イチイ科)」幹が2本に分かれた珍しい巨木で、樹林の中にあってひときわ堂々とそびえている。「相生のカヤ」とも言われて親しまれている。樹高 20メートル胸高周囲 7. Oメートル樹齢 約400年(推定)カヤは、宮城県から屋久島の山地に生える常緑高木で、幹は直立し、よく分枝し、横枝は水平に出る。樹高35メートル、胸高周囲8メートル、樹齢約1000年に達するものもあると言われている。」「海老名郷土かるた 「ね」」「根を張った 相生の榧(かや)に 観音堂」。隣りにあった「えんま堂」。正面左の疣(イボ)とりの地蔵様。足元にある小さな石でイボをこすると、イボが取れるとのことであったが小石が見つからなかった。台座には「天保十三壬寅歳(1842)十二月吉日」と刻まれていた。堂内の閻魔様。近づいて笑う閻魔様の姿を。「笑う閻魔様」として親しまれている木造閻魔王坐像は寛保3年(1743年)に江戸中橋一丁目の仏師・渡部によって造立され、天保12年(1841年)に江戸浅草の仏師・舛上儀平國信が修理し、嘉永2年(1849年)に鎌倉扇谷の仏師・三橋永助も修理したことがわかっているのだと。「笑う閻魔様」。観音様の隣りにある閻魔堂には、不思議な閻魔様があります。閻魔様は、うそをつくと舌をぬく、とよくいわれますが、ここの閻魔様は、悪いことをしてもいないのに、悪いことをしたと疑いをかけられた人が無実を訴えると、その人に笑いかけるので「笑う閻魔様」といわれ、昔から村人たちに親しまれています。江戸時代に、天保の大飢饉といって農作物がとれない年が五年も続いたことがありました。大谷に住むまずしいお百姓さんのせがれが、実った稲を盗んだというので、年老いた両親といっしょに村を追い出されることになりました。身におぼえのない若者は、「私はやっていません」と無実を訴えましたが、閻魔堂の前でみんなの裁きを受けることになりました。若者は閻魔様の前に進むと「本当にうそを見破って裁く閻魔様なら、私が稲を盗んだかどうか裁いてください」と訴えました。この時、閻魔様は、大口をあけて笑い、「本当の悪人を今あぶりだしてやる」そういうと、口から火を三メートルも吹き出しました。その炎は一番後ろにいた、いつも「正直者よ」といわれているお百姓さんの髪の毛をぢりぢりと焼きました。その男は苦しみながら「盗んだのは私です」と言うと気絶してしまいました。現在は古くなってしまって、閻魔様の木像も昔のおもかげは見られませんが、そのお顔は、やましい心を持った人が見ると怒っているように見え、心正しい人が見ると笑っているように見えると言い伝えられています。」「直司さんが書かれた話」。閻魔様は、うそをつくと舌をぬく、とよくいわれますが、悪いことをしたと疑いをかけられた人が無実を訴えると、その人に笑いかけています。江戸時代に天保大飢饉といって農作物がとれない年が◯◯・・◯れが実った稲を盗んだというので、年老いた両親といっしょに村を◯◯・・◯せん」と無実を訴えましたが焔魔堂の前でみんなの裁きを受け◯◯・・◯って裁く閻魔様なら私が稲を盗んだかどうか裁いてください」と訴え◯◯◯・・◯やる」そういうと、口から火を三メートルも吹き出しました。その炎は一番後◯◯・・◯ました。その男は、苦しみながら「盗んだのは私です」と言うと気絶して◯◯・・◯見られませんがそのお顔はやましい心を持った人が見ると怒っている◯◯・・◯っては目元口元が何となく笑っているように見えるのは不思議なことです。」「いぼとり地蔵いぼは厄介なもので、なかなか取れないまま数も増えていく。このお地蔵様の足元にある小石を一つ持って帰り、いぼをこすっていると、そのいぼが自然に取れる。取れたら新しい小石をもって御礼を申し上げて地蔵さんの前に置いておくのだといつの頃からか信じられてきた。」。「閻魔堂」と「大谷観音堂」を見る。境内の石仏。こんなアートなものも。'84 す・き・まシリーズ あ・うん 井上玲子 2001年設置 アルミニウム。アルミの芸術作品越しに「焔魔堂」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.21
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【海老名市歴史散歩】 目次「妙常寺」を後にすると、右手にあったのが「旭たちばな幼稚園」。「妙常寺」が運営する幼稚園のようであった。「大谷小学校西側」交差点を右折して進む。「自然と歴史のさんぽみち」。少し進むと右手にあったのが「宇賀神」。海老名市大谷北4丁目13。内陣の石仏。「宇賀神」とは古来、福徳をもたらす福の神たちの総称で、食物神、農業神ともされる。幸福、利益、知恵、財力の神とされている弁財天と合体して宇賀弁財天とも呼ばれ。「宇賀神」はしばしば弁財天の頭部に小さく乗る。海老名市大谷北4丁目4の住宅街を進むと竹藪の中にあった神社。稲荷神社であろう。更に西に進み、南に折れて進むとあったのが「海老名市消防団 第貳(ニ)分団」。海老名市大谷北3丁目32−21。その奥にあったのが「大谷公民館」。海老名市大谷北3丁目32−22。「大谷公民館」案内板。「大谷公民館」前にあった「庚申塔群」。海老名市大谷南2丁目8。カーブの左手、一段高い場所にあった石塔。手前に石祠。更に西に進むとここにも小さな社が。これも庚申塔であろうか。下部に三猿の姿が。さらに次の目的地「大谷八幡宮」に向かって進む。右手に見えて来たのが「大谷八幡宮 (おおやはちまんぐう)」。階段下にあった「鐘楼」。「梵鐘」には「平和の鐘」と。「御大典記念」と。その横にあったのが「招魂碑」。「村社八幡」と刻まれた石碑。石段を上って行った。「社殿」大谷八幡宮の創建年代等は不詳ながら、元禄年間に創建と推定され、下大谷(大谷南)の鎮守として祀られていた。明治維新後の社格制定に際して明治6年村社に列格した。「大谷八幡宮について祭神 誉田別命(ほむだわけのみこと・応神天皇)本殿は宝暦七年(一七五七年)七月に建立されたものですが、創立は元禄年間と思われます。明治の初め、京都男山八幡宮(石清水八幡宮)を勧進し、下大谷の鎮守として再建されました。明治六年(一八七四年)十二月村社に列せられました。大正四年(一九一五年)九月十五日に村社八幡宮となり、昭和六十一年三月二十四日に大谷八幡宮と神社本庁より改称許可がありました。」「内陣」。「社殿」の左横にあった石碑群。かなり歴史のありそうな石碑が並んでいたが。地神塔(右)・第六天(真ん中)。「神楽殿」か。コロナ禍前にはこの場所で毎年地元の方々による「大谷歌舞伎」が行われていると。農村素人歌舞伎は、少なくとも江戸時代後期には始まり、各地区で盛んに地芝居が行われていた。昭和初期に中断したが、終戦後昭和21年頃、蛭間座の女形・中村時次を師匠に戦地から復員してきた大谷地区の青年たちが、「文化の灯を」」と復活させた。昭和44年10月に、歌舞伎のほか、囃子と舞踊の3つから構成される「大谷芸能保存会」が結成された。また、昭和50年には「大谷歌舞伎」として市重要無形民俗文化財に指定され、昭和52年には「かながわの民俗芸能50選」にも選ばれた。大谷八幡宮、大谷神明社例祭等での奉納のほか、隔年で「市民文化祭」にて公演されている と。「本殿」を見る。境内には銀杏が所狭しと。「道祖神」碑。「社務所」。道路脇には石祠が。5円玉が奉納されていた。そして県道407号線・杉久保座間線に出て右手に折れると右側に石鳥居が二基並んでいた。石鳥居の奥に石碑群が置かれていたが社の姿はなし。隣側には小さな社が。詳細は不明であるが。ここが「神遊苑(大六天社を含む)」と呼ばれる場所であろうか。海老名市大谷南2丁目3。「内陣」。そして道路の反対側にあったのが「鈴木三太夫霊堂」。貞享元(1684)年大谷村の名主鈴木三左衛門(三太夫は諡号=おくりな)は領主の旗本町野幸重の厳しい年貢に村人が苦しんでいることを見かねて、幕府に直訴を企てましたが、事前に発覚し捉えられ、今里にある代官所で斬首されました。この話は、大谷村で語り継がれてきました。昭和13(1938)年地域の方が「鈴木三太夫頌徳碑」を建てることになり、郷土史家中山毎吉氏が撰文を草稿しましたが、戦時下の当局の圧力で刻まれませんでした。中山氏の撰文は当地の児島家に残され、これを元に小島直司氏が分かりやすくまとめたものにより昭和48(1973)年に大谷自治会によって現在の頌徳碑が建立されました。処刑場跡は、中央農業高校内にあり、記念碑が残されています。その横に石碑と案内石板が。「義民 鈴木三太夫翁之碑」。「義民の伝記この大谷の土地は、昔は海老名郷大谷村と言い、江戸開府以来幕府の直轄地で、水田ばかりでなく肥沃な畑にも恵まれ又平地林も多く、村人たちは富裕で平和な暮らしをしていました。ところが延宝2年、町野壱岐守幸宣が領主となってからは年貢の割り当てが重くなり、その取立ても厳しく、農民の生活はだんだん苦しくなりました。その子幸重の代になると加徴(かちょう)は更に重くなり、打ち続く凶作に苦しむ百姓から情け容赦もなく米を取り上げ、領民は草の根や木の皮で飢えをしのいでいましたが、体力のない老人や子供はばたばた死んでいきました。鈴木三左衛門(三太夫は諱号(しごう))という方はその時の大谷村の名主で、度々殿様に農民の苦しさを訴えて、年貢の取立てを待って貰いたいと嘆願されましたが、聞き入れて貰えず、却って年貢の納められない者は入牢という厳しさとなりました。万策尽きた名主は強訴(ごうそ)という非常手段を計画されましたが、密告する者があって事前に捕らえられ、二之助三之助という幼い二人の子供と共に、貞享元年4月27日今里の処刑場で(現在県立中央農業高等学校々地内)で斬首の極刑を受けられ、夫人は自害して果てられました。菩提寺妙常寺の住職は赦免の嘆願に馬を駆って刑場に走ったが間に合わず、後に父子三人の遺体を寺内の墓地に厚く葬りました。しかし天命というか因果応報というか、まもなく領主幸重は領民を苦しめた罪で領地を没収され家名は断絶しました。そうして元の平和な生活ができるようになった村人達によって、一家をあげて村のために命を捨てられた事実は涙と共に語り伝えられました。一身一家を犠牲にして郷土のために尽くされた鈴木三左衛門翁の功績をしのんで昭和13年大谷の有志が翁の屋敷跡であるこの地に碑を建て、更に昭和27年には霊堂を建ててその霊を祭りましたがこの度浄財を募り霊堂修復するに当り、翁の徳と義挙が正しく後の世に伝わるようその一部を割いてこの碑を建てました。」「郷土かるた 「の」」「農民を かばって義民 三太夫」「義民 鈴木三太夫翁之碑」の裏の民家の庭には子供一同からの「長寿の碑」が置かれていた。「長寿の碑児島スギ 明治三十一年五月十日長年にわたり困難なる時世を乗越えて家業に精励し九十歳の星霜を経たり慈に祝碑を建て之を記念するものなり昭和六十三年十月吉日 子供一同平成十八年三月二十三日 スギ 百九才」「大谷八幡宮入口」を渡り更に南に進む。そしてバス停「大谷宿」前を通過する。この場所は「観音通り」と呼ばれているのであった。大山の山頂がかろうじて見えて来たのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.20
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【海老名市歴史散歩】 目次そして次に訪ねたのが「大谷神明社」。入口には大きな銀杏の木が。海老名市大谷北2丁目13−22。笠木に当たる部分が苔むした石鳥居。「神明社祭神 天照大御神 豊受大御神このお宮は大永八年(一五ニ八)本願勧進井田入道浄源、大檀那地頭代、須田與三左門吉平等の創立によるものである。往古は渋谷荘大谷郷総社であった。慶安ニ年(一六四九)社領八石の御朱印を附せられ、明治6年(1873)村社に列せられた。創立以来社殿は6回建て替えられている。現在の本殿は昭和4年に再建されたものである。」石鳥居を潜ると右手には「鐘楼」があった。小ぶりの梵鐘であったが。急な石段を上って行った。境内。「掲示板」。建物の中に安置されていた「境内社」。須賀神社、稲荷社、住吉神社、東照宮。こちらにも境内社・「三峰神社」が。「大谷神明社」の社殿。扁額「神明社」。「内陣」。「神楽殿」。「松壽舎」。扁額「松壽舎」。「内陣」。次に隣りにあった「天照寺 福壽院」を訪ねた。寺号標石「大谷山 天照寺 福壽院」。石段を上って行った。「本堂」。慶韵(天文8年1539年寂)が開山となり、当地に創建したと伝えられる。本尊:正観音像海老名市大谷北2-13-25。扁額「福壽院」。「宝篋印塔」。「功徳聚塔」。「仙波乗正殿」碑。「寺務J所」(左)と「神明神社」?(右)。Googleマップには「神明神社」とあるが。裏の墓地の前にも石仏が。観音像。弘法大師像であろうか。「本堂」を墓地から見る。「天神社」。小さな社殿。そして次の目的地の「妙常寺」に向けて海老名市浜田町22−9の住宅街を進む。花が溢れる民家。そして「妙常寺」の墓地側から境内に入る。「貞享元年(1684年)四月二十七日 義民 鈴木三太夫翁之墓」への案内碑。ここにも案内碑が。ここが「鈴木家」の墓。鈴木三太夫は、この相模国海老名郷大谷村の名主であった。本名は鈴木三左衛門であり、死後にその偉勲を称えて三太夫と号せられたとされている。延宝2年(1674年)、もともと幕府領であった大谷村は旗本の町野幸宣に下賜されたことにより、町野幸宣が領主となった。町野幸宣の政は厳しく、増え続ける年貢により民百姓の暮らしは困窮したものの、10年近くたった天和3年(1683年)には子の町野幸重が家督を継ぐが、年貢徴収はさらに厳しいものとなり、凶作となってもその苛烈さはとどまらず多くの餓死者まで出る有様であったという。これを見かねた鈴木三左衛門は、江戸幕府に直訴を企てた。しかし、何者かによって事前に密告されてしまったためにあえなく捕えられ、貞享元年(1684年)4月、現在の中央農業高等学校の校内に位置していた今里代官所で斬首の刑に処せられたのである。これが鈴木三太夫の墓石だったのだろうか。鈴木三左衛門には子が2人いたが、いずれも同罪として同じく処刑され、事前に離縁していた妻も自害してしまったとされ、鈴木三左衛門父子の亡骸は近くの妙常寺の住職に引き取られてねんごろに葬られ、今でも墓が残されているのを見ることができるのであった。「妙常寺」の「本堂」。長現山と号す。妙常寺は、常住院日任が文明元年(1469)に創建したと。「掲示板」。「報恩感謝社会のしくみは、自分ひとりではなにもできない。同時に、衣食住のすべてに自の恵みがなかったら一日も生活ることはできない。つつましい心で社会や自然に接する心をそだてよう。」「日蓮聖人像」。近づいて。厳しいお顔。題目塔「南無妙法蓮華経」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.19
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【海老名市歴史散歩】 目次「鳳勝寺」を後にして、すぐ隣りにあった「八坂神社」を訪ねた。「移住記念碑」。八坂神社の創建年代等は不詳ながら、旧津久井郡日連村勝瀬(現在の相模原市緑区日連)で祀られていたが、相模川上流域のダム建設(現在の相模湖)により昭和17年から19年にかけて住民が移住し、旧津久井郡日連村勝瀬で祀られてきた当社も昭和20年に当地へ遷座したと。石段を上って行った。石段の上には石鳥居が。右手にあったのが「八坂神社由緒」。「八坂神社由緒祭神 須佐之男命当神社は、流行病、自然災害、大火等にたびたび見舞われ、これを鎮めるため、また住民の心の支えとして、江戸時代後期に旧日連村勝瀬の地に創建(創建年月は不明)されました。本殿は、一間社流造り柿葺きで、総欅木地仕上げの建物であり主屋両側と背面の壁を日本神話より採った彫刻で、正面両脇壁は上り龍と下リ龍の彫物などて飾られ、大変貴重なものです。明治四十一年一村一社の府令により、日連神社に合祀いたしましたが、神川県河水統制事業の相模ダム建設により、住民の移住が昭和十八年までに終了したことによリ、当神社も昭和ニ十一年五月三十日 日連神社よリ分祀され、神川県高座郡海老名村(現、神奈川県海老名市勝瀬九番一号)に遷座されたのであリます。昭和五十三年覆殿老朽のため改築され、同時期に移住記念碑を建立いたしました。平成三十一年三月十九日宗教法人の認証を受けて宗教団体勝瀬八坂神社より、宗教法人八坂神社として、本来の形式を整えることができました。宗教法人に認証されたのて、氏子一同の厚い信仰と教義の普及に努めるど共に、目黒流太鼓や里神楽等を伝承し、住民の精神文化を伝える役割を果たしてまいります。記一、境内整備工事 (擁壁・階段・参拝通路・駐車場他) 千七百九十万円 同 測量設計費 百四十八万円一、覆殿新築工事 六百八十万円 同、設計管理費 五十六万円一、鳥居建立工事 三百十八万円一、手水舎新築工事 三百七十万円一、神輿舎新築工事 三百四万円一、水道工事 二百五十万円一、外棚設置工事 百八十七万円一、神社用備品他 百二十五万円一、諸経費 四百四十万円一、水神社再建工事 百八十四万円前記工事は、旧勝瀬共有財産管理組合からの寄付 令和元年十一月吉日」石鳥居を潜る。扁額「八坂神社」。「手水舎」。「海老名市指定重要有形文化財八坂神社本殿勝瀬地区は、相模川上流域のダム建設(現在の相模湖)により移住を余儀なくされた旧津久井郡日連(ひづれ)村勝瀬 (現在の相模原市緑区日連)の住民約三十戸が昭和十七年から十九年にかけて当地に移住して村落を存続させた場所で、村社であった八坂神社本殿も、昭和二十年に旧地より移転されました。本殿は、一間社流造り柿葺き、総欅・木地仕上げの建物で、屋根の正面に千鳥破風と軒唐破風をつけ、壁面と小壁を日本神話や物語、龍や松に鷹といった動植物の彫物で飾っています。このような細部意匠などから、江戸時代末期、 十九世紀中頃の建築と推定される良質の建物であり、産土の地である日連村勝瀬より移転した住民の精神文化を伝える貴重な建造物です。」境内にある「御神木 赤松」を見上げる。「御神木 赤松」。「社殿」。扁額「八坂神社」。「旧勝瀬共有財産管理組合の経緯」。「百万遍」碑。郷土かるた 「う」「移り来た 勝瀬とともに 鳳勝寺」。石段を下り、「鳳勝寺」山門入口前を通過すると右手にあったのが「水神社」。「鳳勝寺」、「八坂神社」を後にして「八坂神社」の脇の坂道を上って行った。「山王坂」を上り、先程訪ねた「浜田三塚公園」の前の道に出て、ここを右折して進み次の目的地の「浜田歴史公園」に到着。「自然と歴史のさんぽみち」、ここは「浜田歴史公園」。相鉄バス停「浜田歴史公園」。海老名市浜田町六丁目の「住居表示街区案内図」。「県指定史跡 上浜田中世建築遺構群」案内板。「県指定史跡 上浜田中世建築遺構群この建築遺構群は、南北に伸びた丘陵東側斜面の谷戸地形を利用して、ニ段の造成面に掘立柱建物跡8棟・竪穴状遺構1基・溝状遺構6本・井戸1基・柵列5本・土杭等が造られていました。これらの建物跡は、三回の建替えが行われており、時代的には、中国や朝鮮からの輸入品や国産の陶磁器類等の出土品によって、鎌倉時代から室町時代(1 3世紀中葉~15世紀中葉)にかけて営まれていたことがわかりました。特に掘立柱の建物跡は、主屋・附属屋・厩屋等から構成された複数の建物配置をなしており、これらは当時の武士階級の住居であることを示し、中世建築史を遺構から知るうえでも貴重な遺跡です。また、この地域が中世の渋谷荘に属し、渋谷一族の大谷氏との関連性もうかがわせます。なお、丘陵には、縄文時代の遺構や古墳、奈良から平安にかけての集落跡がありました。」「発掘調査状況」の写真。「15世紀中頃~後半の建物配置」図。建築跡遺構は主屋、付属屋、厩で構成され、鎌倉時代から室町時代にかけての武士階級の住居跡。Googleマップから。「主屋」跡。「主屋」。「厩屋」跡。「厩舎」と表示されていた。「附属屋」跡。「附属屋」上空には海上自衛隊・厚木航空基地へ向かう海上自衛隊航空機の姿が。芝生の中に「柵列」。「柵列」。「井戸」。「井戸」。「えびな郷土かるた 国分寺台・大谷コース案内」板。そして「浜田歴史公園」の角にあった「浜田町」交差点を横断し西方面に坂を上って行った。海老名市浜田町8の住宅街を西に向かって進む。海老名市街が正面に見えて来た。そして左折して「上浜田古墳5号墳(太鼓塚古墳)」に向かったのであったが、案内板は全く無く、角には荒れ地が残っていた。この奥に「上浜田古墳5号墳(太鼓塚古墳)」があるはずであったが・・・。海老名市大谷北2丁目25。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.18
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【海老名市歴史散歩】 目次「上浜田古墳群」を後にして、前にある「鳳勝寺」の墓地への入口(裏門)から入る。寺号標石「曹洞宗 春日山 鳳勝寺」。墓地の中にある坂道を下って行った。裏門は小高い丘の上にあるので見晴らしが良かった。「本堂」は傾斜地の下にあり、傾斜地は棚田のような墓地になっていた。左手にあったのが竹塀の山門。寺の奥の院であろう。垣根は「大徳寺垣」であろうか。孟宗竹の枝を綺麗に左右に裁いて、一ヶ所節を揃える竹穂垣の最高峰の一つ。「随流居」。こちらは「鎧垣根」の如き姿のものが展示されていた。そして左手には「本堂」の屋根が。右手の墓地の高台に「鐘楼」。「鐘楼」に近づいて。「梵鐘」。仏の姿が刻まれた多くの石塔が並んでいた。「五重塔」。「六地蔵」。「鳳勝寺百観音」。「鳳勝寺百観音」碑。「観音像」。宝珠ではなく玉を持つ観音像。お顔をズームで。そして左に折れると左側にあったのが「鳳勝寺」の「本堂」。「水子地蔵尊」。お顔をズームで。「覚道水子 妙道水子 法道水子」の文字が。「本堂」。昭和17~19(1942~1944)年、相模湖ダム建設により水没する旧津久井郡日蓮村勝瀬(現・相模原市緑区藤野町)が海老名に集団移転することになった。鳳勝寺は、勝瀬の住民とともこの地に移転。「新編相模国風土記稿」では、山号を春日山、功雲寺(相模原市緑区根小屋)の末寺とされている。本尊は、木造釈迦三尊像で、釈迦如来坐像、文殊菩薩坐像、普賢菩薩坐像いずれもその作風から江戸時代前期に造像されたと考えられている。また、宗風の宝冠釈迦の形態をもちその作風から室町時代南北朝期(14世紀)に造像されたと考えられる木造釈迦如来坐像、江戸時代後期に仏師宗女によって造像されたと考えられる阿弥陀如来坐像、いずれも江戸時代と考えられる達磨大師像や大権菩薩像、韋駄天像、十二神将像なども安置されている。創建時代は不明だが、開山は法泉(?~1521)と伝えられることから室町時代中頃に建立されたと考えられる とのネット情報。扁額「鳳勝寺」。賽銭箱には「福聚海」の文字が。仏語。観世音菩薩の福徳が広大無量であることを、海にたとえた語。「五重石塔」を境内から。台座の彫刻を追う。自然の姿が描かれていたが・・・。「寺務所」。「春日山鳳勝寺の碑」。「当山の開創縁起倶に審かならず 僅かの記録と伝承とによってその一端を記す 今より約四百五十年前大永年間法泉庵主と稱する人湘南村(現津久井町)より一族を率いて日連庄勝瀬村に移り草庵を結ぶ 庵主輜素の別弁ぜずと雖もこの日とを以って開基と為す 百三十年後本能恵松和尚当寺を建立す開基悟空清頓居士一柑妙純大姉とはこの時の寄進者の芳名なるが 松和尚津久井根古屋功霊寺十一世達燈州演和尚を開山に請す これより当山は曹洞宗に属す 十世大翁峰全和尚の砌り岡部政右衛門氏の寄進により現存の本堂並びに開山堂鐘楼山門を建立す 昭和十六年第二次世界大戦勃発の前後相模人造湖達成の為勝瀬の大半湖底に埋没しこの地海老名に強制移転せしめらる 十四世近藤担山和尚の時なり 担徒三十戸の協力により辛うじて本堂のみを移す この時担徒の七割は離担す 昭和四十五年十七世横浜市法昌寺より普住 直ちに寺有の田地を処分して債権の事に当る本堂の修復並びに書院庫裏を完成す 昭和五十年十月なり次いで相模湖畔に残存せる旧境内地墓地山林を整理して若干の資を得第二期工事に入り山林を造成して新墓地を作り更に本堂の再修復並びに開山堂鐘楼の改築及び客殿東堂寮を新築す 昭和五十九年十二なり 今亦鳳勝寺百観音と五重壽量塔(北尾氏寄進)の建立を見る 本日を以って開眼 法要を営弁す 此れ当山の沿革の大略なり」寺紋であろうか。単弁八葉蓮華紋に似ているが。屋根の最頂部には「山号」の「春日山」が。蟇股には「丸に五三の桐」紋。境内から「鳳勝寺百観音」を再び。寺の女性?が境内の銀杏を拾っていました。どの様にされるのでしょうか?そして「山門」。「山門」の前には多くの石碑が並んでいた。「三界萬霊等」。「三界萬霊等」は、この世のあらゆる生命あるものの霊を、宿らせ供養するためのもの。「三界」とは、私たちが生まれかわり死にかわりするこの世界のことで、「欲界(よくかい)」、「色界(しきかい)」、「無色界(むしきかい)」の三つの世界。「欲界」は、もっとも下にあり、性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲を有する生きものの住む世界。ここには地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人・天の6種の生存領域である「六趣(ろくしゅ)」、「六道(ろくどう)」があり、欲界の神々(天)を六欲天という。「色界」は、前記の三欲を離れた生きものの住む清らかな世界をいう。絶妙な物質(色)よりなる世界なので色界の名があり、四禅天に大別される。「無色界」は、最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界をいう。ここの最高処を「有頂天(うちょうてん)」という とネットから。小さな社。別の小さな御堂の中の石仏。隣にも。「小野澤徳太郎之碑」。「禁山門葷酒」碑。こちらにも石碑が並ぶ。右側。左側。首のない地蔵や馬頭観世音等に交じって自然石の「百万遍供養塔」や文字塔「日本廻国六十六部供養塔」等があった。「馬頭観世音」碑。明治三十年四月の銘が。「百万遍」碑。「岡部翁頌徳之碑」「故舟戸廣次氏頌徳の文」碑。相模川左岸の農業水利開拓に貢献した人物のようであった。「廿三夜」塔。旧暦23日の夜、すなわち二十三夜に講員が宿に集まって飲食をともにしながら月の出を待つことをいう。三夜様とも三夜供養ともいい、月待行事のなかでも最も盛んに行われた。月待のマチは,神のかたわらに待座する意味らしく、この夜には神の示現があると信じられていた。講は、村の小字、村全体、任意の者などを単位としていたが、女性、とくに嫁仲間で結成されることが多い。地方によっては、二十二夜を女性、二十三夜を男性の集りとする所もある と。そして寺号標石「曹洞宗 鳳勝寺」。「山門」を振り返る。左に石碑群。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.17
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【海老名市歴史散歩】 目次「自然と歴史のさんぽみち」は、ここが「ひさご塚公園(市指定史跡瓢箪塚古墳)」であることを教えてくれた。海老名市国分南3丁目30。海老名市国分南3丁目~4丁目の「住居表示街区案内図」。右手前方に「ひさご塚公園(市指定史跡瓢箪塚古墳)」への石段が現れた。「ひさご塚公園」案内板。石段を上って行った。正面に「瓢箪塚古墳」が現れた。海老名市国分南3-1055。「瓢箪塚古墳相模川とその両岸の平野を見下ろす、ここ座間丘陵上には、7基の古墳が確認され、上浜田古墳群を形成しています。上浜田古墳群は、円墳、方墳・前方後円墳からなる4 ~ 5世紀代にかけての古墳群であり、瓢箪塚古墳は同古墳群内で現存する唯ーの前方後円墳で、市内最大の古墳です。瓢箪塚古墳は、地元では「ひょうたん山」と呼ばれ、古くから親しまれてきました。また、明治4 3年には郷土史家中山毎吉(つねきち)によりその著作『神社名勝古蹟誌』のなかで、瓢箪塚古墳の計測結果が記されるなど、古墳としても古くから認識され、大正8年には、当時の海老名市村が墳丘部分を保存のために購入し、村有地としました。平成8年の発掘調査の結果、神奈川県内では最古級とみられる埴輪片が出上し、4世紀から5世紀初頭にかけて造られた古墳であることが判明しました。造られた当時は前方部がもう少し南に延び、墳長80メートル級の規模であったろうと推定されます。」「瓢箪塚古墳推定復元図」。全長約80m、海老名市内最大の前方後円墳。1996(平成8)年の発掘調査で埴輪片が見つかっている。「郷土かるた 「ま」」「松風に 豪族ねむる 瓢塚(ひさごづか)」。「瓢箪塚古墳」を上って行った。苔が生えて滑りやすかったが。そして「瓢箪塚古墳」の頂上へ。秋葉山古墳群のあとに造営されたとみられる県下でも有数の規模を誇る大規模な前方後円墳。眺めの良さから古墳築造の地に選ばれたものと考えられていると。1933年以降東側を中心に削り取られ、現在前方部先端は失われているのだと。「海老名芸術プロジェクト・甘利真美」のオフィス。「リーフィアタワー海老名ブリスコート」&「同アクロスコート」が見えた。地上31階建て、海老名市最高層タワーマンション。そして次に右手前方の「上浜田6号墳」を訪ねた。県道のひさご隧道の上に位置し、住宅地の中の路地を入ると袋小路になったところにフェンスに囲まれてかろうじて残っているといった感じであった。「上浜田古墳群第6号墳(上浜田6号墳)この付近には瓢箪塚古墳を始めとする6基以上からなる古墳群があり、字名から「上浜田古墳群」と呼んでいます。上浜田古墳群には7号墳の北側や5号墳の南側にも古墳があったといわれ、相模川流域では屈指の古墳群です。上浜田6号墳は、発掘調査により周溝の一部が見つかり、一辺が22m程度の方墳であったと推定されています。出上した壺形上器から4世紀に築造されたこの地域の豪族の墓と考えられています。」上浜田古墳群全体図(地形図は1965年当時)6号墳平面推定図。6号墳の頂上の発掘跡はシートで覆われていた。左手に「海老名プライムタワー」・地上25階、107.8m高。更に南下して「浜田三塚公園」に向かって進む。「自然と歴史のさんぽみち」はここが「三塚公園」であると。「大山」の頂上は依然として雲に隠れていた。ここが、この後に訪ねた「曹洞宗 春日山 鳳勝寺」の墓地への入口(裏口)。左手に目的の「浜田三塚公園」入口があった。「浜田三塚公園」。そして正面が「上浜田1号墳(馬捨塚)」。「三塚(上浜田古墳群 第1~3号墳)」案内板。この付近には瓢箪塚古墳を始めとする上浜田古墳群があります。上浜田古墳群は、4 ~ 6世紀にかけて築造された相模川流域屈指の古墳群です。-------このうち1 ~ 3号墳が近接していたことから「三塚」と呼ばれ、浜田町区画整理事業のなかで1・2号墳が現状保存されて「浜田三塚公園」となっていますが、1号墳(馬捨塚)、2号墳ともに未調査のため墳形や年代は不明です。3号墳は、昭和48 (1973 )年の発掘調査の時にはすでに墳丘が失われていましたが、直径約35 ~ 36mの周溝が確認されました。この周溝から径30m前後の円墳と推定されていますが、出土遺物は無く、築造年代は不明です。平成14 (2002)年の発掘調査て2号墳の西側にあった4号墳は、中世の塚てあったことが確認されています。浜田三塚公園の南側には上浜田遺跡があり、浜田町区画整理事業に先立って発掘調査が行われました。この発掘調査て縄文時代早期の土坑基3基と滑石製缺状耳飾が埋葬した時の状態で出土し、使用方法がわかる事例として貴重であることからこの耳飾6点が神奈川県指定重要文化財になっています。また、奈良~平安時代の竪穴住居跡116軒、掘立柱建物跡1 6棟も見つかり、相模国分寺で使われていた瓦や「進入」と書かれた墨書土器なども出土しています。谷戸の部分からは鎌倉~室町時代の武家屋敷跡と推定される建物群が確認され、中国や朝鮮からの舶来品の陶磁器、国産品の陶磁器などが出土しています。この建物群は、中世武士に関わる貴重な遺構として神奈川県指定史跡(浜田歴史公園)として保存されています。」「上浜田古墳群」の配置図。「上浜田遺蹟」の発掘調査状況と出土品。こちらの「1号墳」を上って行った。「1号墳」の頂上に。1号墳の頂上の発掘跡も土嚢とシートで覆われていた。そして巨大な「鳳勝寺」の墓地が見えた。そしてこちらが「2号墳」。「2号墳」の頂上もシートで覆われていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.16
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【海老名市歴史散歩】 目次次に訪ねたのが「国分八景公園」。海老名小学校の南にある公園。台地の一番上にあることから、見晴らしが大変良く、海老名の市街地や遠く大山・丹沢山を望むことができる眺めのよい場所。公園の名前は、この近くにあった龍峰寺に元禄年間に滞在した鉄牛和尚がここから見える景色を「龍峰寺八景」という漢詩にしたことに由来している。海老名市国分南3-1173-1。「自然と歴史にさんぽみち」公園の入口には四阿が。園内には龍峰寺に元禄年間に滞在した鉄牛和尚がここから見える景色を「龍峰寺八景」という漢詩・八景詩を記したモニュメントプレートが8枚あった。「大山の夕照」、「島間の春耕」、「鴨沢の瞑煙」、「菅社の秋月」、「清水の鐘声」、「湘浦の渡船」、「土峰の晴雪」、「祇林の緑樹」。「大山の夕照」。「大山の夕照遠野煙生晩色濃 遥看大麗夕陽春半如錦纈半如黛 滿目滄瓏千里重遠野けぶり生じて晩色こしはるかに見る大麓にタ陽のうすずくを半ばは錦織のごとく半ばはまゆずみのごとし満目滄瓏として千里かさなる訳大山を臨む夕ばえの景は春のように思われる。野末遠く夕もやが立ちこめて夜のとばりはおりようとしている。見はるかす遠方大山の山麓は夕日が沈むのをためらうがごとく半ばは錦や蝋けつ染めのように美しい色彩を呈しながら、はや半ばはまゆずみのように山の端が黒く細く薄れてゆく。見る見る中に見渡す限りの広い野は青黒く変わって行ってその濃淡が幾重にもかさなりつつ全ての景象を暗黒の中に包み込んで行く。」「島間の春耕」。「島間の春耕漠々平田接縁蕪 春鴻落處秩初敷憑誰乞與ニ三頃 兩笠煙蓑了晩途漠々たる平田、縁蕪に接す春鴻落つるところ 秩はじめて敷く誰によってか ニ三頃を乞い与えられなば、雨傘煙蓑 晩途をおえん訳果てしなく広がる、天平の昔を偲ぶ一帯の水田は緑の森につづいている。春になると雁がねが田に下り立つと田仕事がはじまるのである。誰か私に二三頃の田をくれる人があれば、私は雨の日も蓑笠を着て耕作に従事し晩年をおえようが、まさかそんな人もあるまいて。「鴨沢の瞑煙」。石には「雁」の姿が。「鴨沢の瞑煙 鳴澤渺茫沙路脩 夕陽瞑色一堆愁 曾從圓位遺歌詠 千古令人傷素秋鴫(立)沢渺范として沙路ながしタ陽瞑色一堆の愁かって円位の歌をのこせしより千古人をして素秋をいたましむ訳鴨立沢は遥か霧の彼方に薄れて定かにはわからないが、そこに向かうらしい砂浜の道が一すじ長く見える。夕日が沈むにつれて景色はほのぐらくなって秋のかなしびが胸にしみる。昔、西行法師が「心なき身にもあはれば知られけり鳴き立つ沢の秋の夕ぐれ」と和歌を残してから、後世いつまでも俗人の心にまで秋を悲しませている。」「菅社の秋月」。石には「三日月」が。「菅社の秋月海嶽雲收轉桂輪 上方秋色最清新欲求佳句寫幽賞 蘋潦先羞菅姓神海獄雲おさまって桂輪転ず、上方秋色もっとも清新、佳句を求め幽賞を写さんと欲し、蘋潦まずすすむ菅姓の神に。訳海上の彼方の雲も山のべの雲もすっかり消えうせて、まん丸い月のみ中天に輝く、まことに秋の中空は清新そのものだ。よい句を作ろうとこの月夜の幽賞をほしいままにする道すがら、私はこの天神様まで来てしまった。それでまず浮き草やにごり酒といった粗末な供物を捧げてどうかよい句が出来ますようにとお祈りをする。」「清水の鐘声」。「清水の鐘声清水樓臺遠近晴 隔山聽得□華鯨何人能解發深省 送盡百年是此聲清水(寺)の楼台、遠近晴れ山を隔てて聴き得たり□華鯨(華鯨を鏗くを)なに人をかよく解し深省を発する送りつくす百年、これこの声。訳清水寺水堂観音の堂宇のあるあたりは遠く近くよく晴れて、この竜峰寺からは一山隔てているがその梵鐘の音に耳をかたむけることが出来る。この鐘の音で多くの人々が深い反省を以て信心の念をいだいていたことであろう。まことにこの鐘の声はもう百年も鳴り続いているのである。(さぞ多くの人々を度脱させたことだろう)」。「湘浦の渡船」。「湘浦の渡船溶漾滄□水拍天 行人幾度渉湘川早知世路風波嶮 來往可愛艶預船溶漾たる滄ロ 水 天をうつ行人いくたびか 湘川を渡りしつとに知る 世路風波の嶮なるを来往 愛すべし艶預船訳これは夏の景であろう。相模川は水かさも増し、天を打つ程に流れは激しい。旅人達はさぞ幾度かこの川を渡渉したことであろう。この川をかち渡りするのを思うにつけても、世の中をわたる道のまことに風波けわしいことが思いやられるのである。しかし今は幸いに渡し船があって行くも来るもエンヨエンヨとこの急流を難なくおし渡ってくれる。まことに愛すべき存在だ。」「土峯の晴雪」「土峯の晴雪西嶺千秋積雪繁 雲間湧出到銀盆無涯景況一清絶 倚遍欄干占暁昏西嶺千秋積雪しげく雲閭に湧出しては 齦盆に至らんかぎりなきの景況 いつに清絶なり欄千に倚偏して 暁昏を占む訳これは冬晴の早朝の富士の眺めである。西の峯のいただきには千年の雪が降りつもり、その純白の峯は雲の間を抜け出して丸いお月様にまで届きそう。さえぎるものとてないその景色はまことに清絶の一語につきる。寺の欄干によりそうて暁の暗さの中にくっきりと浮かび上がっているその姿。」「祇林の緑樹」。 「祇林の緑樹鬱密幽叢祇樹林 薫風殿閣滴清陰區々紫陌紅塵外 來此應須洗客心うつみつたる幽叢 祇林の林薫風殿閣 清陰したたる區々たる紫陌 紅塵の外ここに来たりて まさにすべからく 客心をあらふべし。訳うっそうと緑樹におおわれた聖域。今やさつきの快い風が寺の建物を包んで木陰も清く緑したたるばかり。市街地の紅塵万丈の雑踏から遠く隔たったこの境内こそ、ここに来ればきっと旅にけがれた心もすっかり洗い落とされることであろう。」次に訪ねたのが「尼の泣き水跡」であったが、その場所は綺麗に整地されていた。[朝日さし 夕日輝く 国分寺 いつも絶えせぬ 尼の泣水]誰が歌ったものかはわかりませんが、この歌とともに「尼の泣き水」伝説が語り継がれています。天平13(741)年、聖武天皇は人々の平和な生活を願って、国ごとに国分寺と国分尼寺を建てるように命じました。相模国では、風光明媚な土地である海老名の地に建てられることになりました。やがて天をつくような七重塔がある国分寺が建てられ、そこから北に500mほど離れた場所に国分尼寺も建てられました。その頃、国分寺の下を流れる相模川で、魚を取って暮らしていた若い漁師がいました。その漁師はいつしか国分尼寺の尼さんと知り合い、たがいに愛し合うようになりました。尼さんは結婚が禁じられていましたので、2人は人目を忍んで逢瀬を重ねていました。ある日のこと、若者が困った顔をしているので尼さんは何か心配事があるのですか、とたずねました。若者はなかなか口を開かなかったのですが、やがて決心し、七重の塔を含めた屋根の飾りがあまりにまぶしく輝くので魚が逃げてしまい、漁をしても魚が取れないと話しました。尼さんはどうすることもできないので、だまってしまい、2人はさびしそうにその場は別れていきました。その夜のことです。「火事だー。火事だー。国分寺が燃えているぞー」漁師のことを思うあまりに尼さんが国分寺に火をつけたのです。一度燃え始めた国分寺は、消すこともできず、一晩のうちに焼けてなくなりました。尼さんは捕らえられ丘の上に生き埋めにされ、竹のこぎり引きの刑に処せられてしまいました。その後、不思議なことに、その場所から一滴二滴と湧き水が流れ出ました。村人は尼さんが罪をわびて流している涙といって、その湧き水を「尼の泣き水」と呼びました。尼の泣き水は海老名小学校の上の台地にあって、昭和40年代頃まで清水が湧きでていましたが、いつとなく枯れてしまいました。またこの場所に供養塔が建てられましたが、薬師堂(現国分寺)境内に移されています とネットから。海老名市国分南1-25-38。書きながら思い出したが、先程訪ねた「相模国分寺」境内にあった、「尼の泣き水」👈リンクと言われる如意輪観音と尼の供養塔が祀られている四阿(下の写真)が、以前はこの場所にあったが、移されたのであろう。「尼の供養塔」。元に戻って、整地された場所の奥には墓石が並んでいた。墓地の左側。墓地の右側。更に南下していくと右手に高さ108.7mの「海老名プライムタワー」が現れた。1995年6月竣工で、地上25階、塔屋1階、地下1階建ての高層オフィスビル。「海老名市立海老名中学校」手前の右手角にあった石碑群。道祖神を含む3基の石塔。そしてその先にあったのが「龍峰寺跡」。龍峰寺自体は先程訪ねた国分北に移転しており、現在は墓地のみがこの場所にあるのであった。海老名市国分南3丁目10。墓地への参拝者用の駐車場の奥には石仏群と石祠が。石鳥居の奥に「大六天社」があった。「六地蔵」が刻まれていた石碑。こちらにも「六地蔵」が並んでいた。その左にも石仏が。この裏の墓地周辺が「龍峰寺跡」であった。そして「海老名市立海老名中学校」の校舎とグランドの間の道を北上した。このグランドのある場所が「真福寺跡」であると。「真福寺」についてネットで調べたが不明。グランドの広さから大きな寺であったことは想像できたが。Googleマップではこの方向が「幻想城」であるが・・・。「幻想城」とは??「海老名市立海老名中学校」の校門。「吹奏楽部」が活躍中である様子。そして引き返し「海老名中学校入口」交差点を左折して坂道を上って行った。「海老名中学校」バス停を通過。「南原隧道」を歩く。上部は公園になっているようであった。「南原隧道」を抜けて石段を上る。「自然と歴史のさんぽみち」次の目的地の「瓢箪塚古墳」まで120mを確認。「海老名キリスト教会」に寄り道し教会前を通過。「四十坂」を上って行った。「四十坂」の案内柱を探したが・・・。古東海道にかかる坂で、相模国分寺志という書に「古老の伝ふる所によれば、往昔はここに関門の設があって銭四十文を徴し、人馬の通行を許したといふ とネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.15
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【海老名市歴史散歩】 目次「海老名の大ケヤキ」の脇道を入り進むと50mほどで「国分寺」への入口の石段が現れた。寺号標石「高野山真言宗 國分寺」。海老名市国分南1丁目25−38。掲示板には「ありがとうの一言が幸せの扉を開く」と。「自然と歴史のさんぽみち」案内板。ここ「国分寺」の下には、これから訪ねる多くの旧跡の名前が並んでいた。石段の入口左に「郷土かるた」の擬木柱があった。「る」、「瑠璃光の 如来あらたか 薬師堂」。境内に向かって石段を上って行った。歴史を感じさせる石塔。この碑は?左に折れると正面に「本堂」と「回向柱」が見えた。本堂の手前、右側の光景。「尼の泣き水」と言われる「如意輪観音」と尼が祀られている東屋風の御堂。常香炉には「輪宝紋」の如き紋があったが・・・。「尼の泣き水」は、漁師と恋に落ちた国分尼寺の尼僧が、国分寺のまぶしい輝きが元で付近の川魚が逃げてしまうとの訴えに、国分寺に火を付けてしまい、刑に処せられてしまいます。その後、不思議なことに、その場所から一滴二滴と湧き水が流れ出し、村人は尼さんが罪をわびて流している涙だと云って、その湧き水を「尼の泣き水」と呼んだと云われています。「如意輪観音」。「如意輪観音」のお顔に近づいて。「尼の泣き水 供養塔」こちらは祈りの姿が。右手には「郷土かるた 「わ」」の「若き尼の 恋物語尼の 泣水(なきみず)」。その左には「六地蔵」。「六地蔵」を正面から。正面に見える鎌倉時代に作られた「梵鐘」は、国の重要文化財に指定されている。「郷土かるた「つ」」「釣鐘は 国分季頼(こくぶすえより)の 銘残す」。「梵鐘 国指定重要文化財国分寺建立の頃薬師堂もこの丘陵の上に設けられ、のち火災等の災害により、この地に移転されたのは、室町時代であったろうといわれています。鎌倉時代の末頃、国分に居館を構えていました海老名氏の一族国分季頼が當時の名工物部國光(もののべのくにみつ)に鋳造させ正應五年(一ニ九ニ年 七〇ニ年前)国分寺国分尼寺が薬師堂に移されていた時寄進されたのが、この鐘であり大正十二年八月重要文化財として國の指定を受けました。尚、鋳工物部國光は鎌倉円覚寺の鐘(国宝)をも鋳造した人であり、この鐘楼は昭和五十一年三月に完成したものであります。」コンクリート製の鐘楼。国の重要文化財の「梵鐘」。海老名氏の一族国分季頼が當時の名工物部國光(もののべのくにみつ)に鋳造させ正應五年(一ニ九ニ年 七〇ニ年前)国分寺国分尼寺が薬師堂に移されていた時寄進されたのが、この鐘。国分寺が徳川幕府から朱印状を賜っていたことが関係しているのか?朱印状と共に葵紋の使用許可が出されていた?「本堂」を見上げて。山号は東光山。院号は醫王院。本尊は薬師如来。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、相模国国分僧寺(「金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)の後継寺院にあたる。扁額は「国分寺」。聖武天皇の発願によって建立された国分寺の1つで、奈良時代の8世紀中期の創建とされる。10世紀には衰えたが、鎌倉時代に入って一旦修復されたと見られる。しかし室町時代から戦国時代にかけて再び衰微し、安土桃山時代から江戸時代にかけ、ようやく再興された。そして幕末から明治初年にかけて三たび衰えたが、明治時代に復興し現在に至っている と。寺務所であろうか。そして境内の裏にあった「相輪(そうりん)」。なぜ「相輪」のみがここに??そして「相模国分寺」を後にして「相模国分寺」前の道を南下し厚木街道の跨道橋を渡る。海老名駅方面を見る。南に向かって細い坂道を上っていくと道端にあった地蔵様。「正一位稲荷大明神」海老名市中央3丁目11。県道407号線に戻り進む。ここが「しんえむ坂」と呼ばれていた坂のようだ。このあたりの地主だった金子新右衛門という人の名を宛てて「新右衛門坂」と呼んだのが、いつのころからかこれが訛って、「新(しん)(右)衛(え)む坂」となったらしい。海老名市国分南1丁目22。厚木街道に出る。左手に折れ、坂道を上って行く。この坂が「音坂」。「国分坂下」交差点から海老名小学校の北西端までの坂。歩道橋の階段下にあった「音坂」案内柱。「この坂道付近に車井戸があり、朝夕それとなく水を汲む音や油の切れた車の音が、竹林を通して良く聞こえる坂だから「音坂」の名が生まれたと伝えられています。」この付近に「稲荷社」があるはずであったが、この日にはマンションに変わっていた。そして再び「相模国分寺」前を通過。そして次に訪ねたのが「薬師堂跡(旧国分寺)」であったが。草むらのみであった。「薬師堂跡(旧国分寺)」は上の台廃寺とも呼ばれ上の台廃寺は、国分寺跡の南東約150メートル、現在の相模国分寺の裏手にあたる丘陵地にあった寺院跡。近年の開発などで本格的な発掘調査が行われることなく失われてしまった遺跡であるが、わずかに瓦などの遺物が残されている。1963年にわずかに行われた調査などから、相模国分寺の塔跡と同じような礎石跡があったことがわかっており、かなりの規模の寺院があったのではないかと推定されている。そのため上の台廃寺は、878年の地震とそれに伴う火災後、相模国分寺が再建されたものとの説もある。上の台廃寺のあった場所には、かつて薬師堂と呼ばれる建物があったと言われている。薬師堂は戦火や災害によって失われることなく古代のままの建物が残っていたと伝えられており、多くの貴重な寺宝、例えば聖武天皇の宸筆との伝承のあった「金光明四天王護国之寺」と書かれた額が遺されていたといわれている。薬師堂はやがて現在の国分寺がある場所に移築され、現在の国分寺の基となったとされるが、1910年の火災によって焼失した とウィキペディアより。「薬師堂跡(旧国分寺)」の裏には、墓地が拡がっていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.14
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【海老名市歴史散歩】 目次「相模国分寺」を後にして直ぐに「厚木街道」の左にあったのが「海老名市消防署第一分団」。海老名市国分南1丁目19−32。消防器具置場のシャッターには「相模国分寺史跡 七重塔」が描かれていた。その先には石碑群・「法塔様」。左から「相模国分寺址保存指定地」碑。次に国分の辻の「文字庚申塔」。1850年(嘉永3年)造立の庚申塔に「西 大山 あつ木」と刻まれていた。次に「堅牢地神塔」次に「馬頭観音」。「相模国分寺址保存指定地」碑と国分の辻の「文字庚申塔」。信号を左折し直ぐ右折して進むと路地の角に小さな社が。「稲荷社」。海老名市国分南2丁目8−10。「内陣」。多くの狐様が安置されていた。そして更に進むと道の脇にはコエビソウ(小海老草)、別名ベロペロネが咲いていた。その先には「伊勢山自然公園」があり「伊勢山大神宮」が山の中腹にあった。「伊勢山自然公園案内図」。近づいて。クスノキやヤマザクラ、ツツジなど多彩な木々があり、整備されていた。鳥のさえずりにも癒されたのであった。この鉄製の階段を上がった場所に「伊勢山大神宮」があった。錆ついた鉄製の階段を上がって行った。「鳥居」と「社殿」。「伊勢山大神宮」の「社殿」。内陣。「国分は相模国分寺の所在により天平文化の華開きし処にして何時の頃よりかこの地一体を伊勢山と称す けだし我等の遠き祖先が守護神として伊勢神宮をここに勧請せしに拠るならん爾来 谷戸 日久保 滝之下辻逆川の五最寄その神徳の宏大無辺に崇敬措く能はざりしも移る世の開発の波にに災ひされその安泰も危殆に頻せり たまたま社地の所有者森下一郎君の理解と協力により全敷地永久無償貸与の特志を得たり ここに於て氏子一同相議し相謀り社殿の修復 階段設置の再建事業を完成するに至れり 依ってここに碑を建てもつて後昆に伝ふと爾云ふ」境内にあった石碑。以前は別の場所にあったがここに安置されたと。五角の石柱で、正面に「天照大神」右から「倉稲魂命」「埴安媛命」「少名彦命」「大己貴命」と刻まれていたとネットから。五穀豊穣の地神(ぢじん)様と呼んでいたと。更に東に進むと左手に「御狸堂」があるはずであったが。アルミ梯子を上って行ったが・・・。その上の小屋は壊れていて竹笹に覆われていてこの先には進めなかった。墓石も下から見えたが・・・。そして「伊勢山公園前」交差点まで進む。「伊勢山公園前」交差点の角にあったのが「史跡逆川」碑。逆川は、かつて相模国分寺と相模国分尼寺の中間を流れていた運河。逆川は目久尻川から分水して、国分寺と国分尼寺の間を南東から北西側へと流れ、それから相模川東側の平野部の水路の1つとなっていた。1949年頃に樋口清之らが発掘調査を行い、逆川は奈良時代に造られた運河で、国分寺と国分尼寺の中間付近には船着場とみられる遺構があり、平安時代中期には運河としての機能を失ったとした。その後1990年に行われた発掘の結果、やはり逆川は奈良時代に掘られた運河であり、国分寺と国分尼寺が衰えて寺院として機能しなくなった平安時代中期以降、運河としての機能を失った可能性が高いことが判明している。昭和40年代まで水が流れていたそうだが、現在は埋め立てられてしまっているのだ と。「逆川の由来」碑。「逆川の由来逆川は大化の改新が行なわれたころ、条里制による海老名耕地のかんがい用と運送用に掘られた川といわれています。その全長は約二.五キロメートル、ここから凡そ一キロ上流で目久尻川を堰き止めて分水し、この地点で相模横山をよこぎり西北方に流れをとり、今泉境で耕地に注ぎ出ました。このような逆の流れ方をしていたので「逆川」の名が生まれたのでしょう。なお、舟着場と呼ばれたところから下流は日本最古の運河として平安中期まで利用されていたようで、その遺構は今なお地下に眠っています。後世、流れの向きを変えて「新堀」といい、昭和十五年ごろまで国分 ・大谷 ・今里・杉久保・上河内・中河内・本郷・門沢橋・倉見・宮山などの田をうるおしていました。現在この地点より先は埋め立てられ舟着場付近のみわずかにむかしの面影を残しています。」「逆川」周辺の水路図。ズームして。「この石はその昔大山街道の交通の便をはかるため、目久尻川にかけた石橋の石で大正十二年の関東大震災のとき川に落ちたものを昭和五十二年十二月河川改修のとき引き上げたものです。これには宝暦七年(1757)に國分の重田七三郎翁の企てた石橋勧進帳の木版が残っておりこの架橋のありし日を物語っています。」更に「目久尻川」方面に足を延ばし「目久尻橋」の手前を左折するとすぐ右側、堤防の上にあったのが「石橋供養塔」。「目久尻川」を渡り、ガソリンスタンド横の脇道を左に入ると左奥にあったのが「郷土かるた 「も」」「望地(もうち)から 国分へ架けた 石の橋」。「今から約250年前の宝暦の頃(1751~1764)、国分の谷戸に重田七三郎という翁がいました。目久尻川を望地から国分にかけて渡る木橋がよく朽ちて、旅人が難儀しているのを見かねて、石橋を架けようと「望地村、国分村境石橋勧進帳」として近郷近在に浄財の寄附を募りました。そのかいがあって石橋が完成し、翁の永眠後27回忌の時に、国分村の名主忠兵衛が石橋供養塔を建てたと伝えられています。この供養塔は現在残っていませんが、平成元年に目久尻川護岸工事の際に別の「石橋供養塔」が発見されました。これは文化10年(1813)に改めて建てられたものです。この供養塔は、かつての矢倉沢往還の道筋を示すとともに、翁の義挙を不朽のものとしています。」とのネット情報。そして引き返して、県道40号線・厚木街道を西に坂道を上って行くと道路脇に小さな社があった。社の中には地蔵尊が。更に進むと左手奥に朱の鳥居が。「新道稲荷社」。海老名市国分南1−26−8。江戸期の大山道(矢倉沢往還)が社前を通っていたとされる。扁額「稲荷社」。「内陣」更に厚木街道を進む。左手、「国分寺」入口にあったのが「海老名の大ケヤキ」。海老名市国分南1丁目23。廻り込んで。樹齢580年前後といわれている大きなケヤキ。満身創痍の感はあるが、頑張って欲しいのである。郷土かるた「け」。「県央に さすが海老名の 大欅」。「神奈川県指定天然記公物海老名の大ケヤキ昭和ニ十九年三月ニ十九日指定このケヤキは、かつて船つなぎ用の杭として打ったものが発芽して大きくなり、以来、人々が保護し育ててきたものと伝えられている。根回り十五・三メートル、目通り七・五メートル、樹高二十メートルに達する大木である。ケヤキはニレ科の温帯性落葉高木で、県下でも沖積地や台地斜面などに自生しているため昔から親しまれてきた。屋敷内に植栽されることも多く、しばしばケヤキの見事な屋敷林も見かける。もともとこのあたりでは、ケヤキ林が自然植生として栄えていた。昔の人が生活の知恵から打ちつけた杭も、ちょうどこの土地に合ったものを使ったため、現在見られるほどの見事なケヤキに生長したものと推定される。郷土を代表する木として、永く保存する必要があり、県指定天然記念物に指定したものである。」目通りとは、目の高さに相当する部分の木の幹の太さのこと。かつて船つなぎ用の杭として打ったものが発芽して大きくなり現在に至るとは信じがたいのであった。そしてこの奥にあったのが「高野山真言宗 相模 国分寺」。「自然と歴史のさんぽみち」。「国分寺」まで100mと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.13
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【海老名市歴史散歩】 目次右手に拡がる「相模国分寺跡」を見る。「相模国分寺七重塔跡」の基壇を見る。「史跡相模国分寺跡環境整備事業相模国分寺は、741年(天平13)の「国分寺建立の詔」によって全国に建立された寺院の一つです。819年(弘仁10)と878年(元慶2)に相模国分寺が被災したという記録が残っていますが、940年(天慶3)には相模国分寺の仏像が汗をかいたという記録があることや発掘調査の結果等から、平安時代中頃までは修理や再建が行われていたようです。しかし、平安時代後期には荒れ果て、やがて現在の国分寺の場所に移転したといわれています。相模国分寺跡は、江戸時代に書かれた「新編相模国風土記稿」の挿し絵にも遺跡が描かれているほど古くから知られていました。明治時代後半から大正時代にかけて尋常高等海老名小学校 (現在市立海老名小学校)の校長であった中山毎吉が相模国分寺跡や国分尼寺跡などの遺跡を調査して、矢後駒吉とともに「相模国分寺志」という研究書にまとめました。こうした中山毎吉等の調査研究や保存運動により1921年(大正10) 3月3日に相模国分寺跡は「国指定史跡」となりました。海老名市では貴重な文化遺産である史跡相模国分寺跡を現状のまま保存するだけではなく、復原・整備をする環境整備事業を平成元年度(1989)から始めました。1966~67年(昭和41~42 )の発掘調査結果をもとに、1990~1996年(平成2~8)にかけて塔跡、中門跡、南面廊跡、僧坊跡等の発掘調査を行い、史跡整備に必要な資料をそろえました。基本的な整備計画は、相模国分寺の創建時の遺構を整備することにしました。具体的には、塔・堂・講堂の基壇復原、中門・廊跡・僧坊跡等の位置表示を行い、現存する礎石は現位置で保存する計画です。」「新編相模国風土記稿」の「国分寺併旧跡図」(天保年間1830~1841年)。天保年間1830~1841年には相模国分寺跡は田園と化し、国分寺も奈良期の相模国分寺址から南東200m程の高台に移転していたことが解るのであった。「史跡相模国分寺跡 整備予想図」。「国史跡 相模国分寺跡」案内板。「国史跡 相模国分寺跡」。「相模国分寺復元図」👈リンク。「奈良時代、聖武天皇は仏教のカで国の安寧を図るため諸国に国分寺の建立を命じました。相模国分寺もその一つで、8世紀後半には建築が始まったとみられます。七重塔と金堂を東西に、講堂を北側に配置する法隆寺に似た建物配置をとり、回廊と築地塀で周囲を囲んでいます。その外側は素掘りの溝で区画され、寺の範囲は東西240m、南北300m以上と諸国の国分寺跡の中でも有数の規模を誇ります。七重塔や僧房などの建物は、多くの瓦が出土していることから瓦葺きだったとみられます。瓦は乗越瓦窯(のりごしがよう 横須賀市)、その後、瓦尾根瓦窯(かわらおねがよう 東京都町田市)など焼かれたものが使用されています。また、塔跡や金堂跡などの礎石は中津川上流から運ばれています。相模国分寺跡近くの逆川(さかさがわ)跡は、これらの資材を運ぶために人工的に開削された運河とみられています。通常国分寺は国府の近くに建立されますが、相模国では、国府は大住郡(おおすみぐん 平塚市)国分寺は国府から約12キロも離れた高座郡(海老名市)に置かれました。これは大住郡と高座郡の郡司が壬生(みぶ)氏という同じ氏族であったからではないかとされてます。ここから500mほど北には、相模国分尼寺も置かれ、ニ寺が並び立つ様子は壮観だったことでしよう。相模国分寺は平安時代中頃まではこの場所で存続していたとみられますが、中世には判然としなくなります。江戸時代には現在の東光山国分寺の場所へと移り、その法灯が受け継がれています。」「史跡相模国分寺跡の整備状況(2019」。「伽藍配置図」。国分寺の主要伽藍(建物)配置は、奈良県にある法隆寺と同じ、東側に金堂・西側に塔、北側中心部に講堂を配し周囲を中門・回廊で囲む「法隆寺式」という配置をとる。全国の国分寺では大変珍しい配置で数例しか確認されていない。「史跡相模国分寺跡周辺マップ」。「相模国分寺七重塔跡」の基壇を西側から見る。国分寺のシンボルともいえるのが塔跡。ここ相模の場合は、高さ1mほどの基壇上に建てられている。塔跡は現在整備され、当時の基壇の様子が復元されていた塔は古代建築学から復元すると七重で高さが65mもあったと。「相模国分寺七重塔跡」の基壇を正面から。石段右に「案内板」。近づいて。「塔跡こは741 (天平13 )年の「国分寺建立詔」をうけて建てられた七塔の跡です。国分寺の塔には、国家の平安を祈る金光明最勝王経が安置されていました1966 (昭和41)年と1992 (平成4 )年に行った発掘調査で基壇(建物の基礎となる土盛)は、一辺の長さが20.6m、高さは1.3mの規模であったことが確認されました。残存する礎石から、塔の初重の広さは、10.8m四方で、塔の高さは約65mあったと推定されています。塔跡のまわりからは屋根瓦(布目瓦)や水煙等の遺物が出土しています。また、基壇周辺で発掘された石敷や盛り土から2回の修理もしくは建て替えが行われたことも分かりました創建時の基壇は、現在復元されているように、四辺ともに切り石積み(壇正積)でしたが、後に北側の辺だけが川原石積み(乱石積)につくりにつくり替えられています石質調査の結果、切り石は相模川上流から、礎石は丹沢方面から運ばれたものと推定され、両方とも凝灰岩質の石です。10個の礎石は当時のままですが、失われた礎石は国分寺跡から運び出されたといわれる礎石3個と新たな石4個を使って復原・補充しました。基壇の高さは、基壇周辺の遺構を保護するために盛り土したので、創建時の基壇よりも約35cm低く復原しました。」「相模国分寺七重塔想定復元図」。「塔相輪部分(相模国分寺模型・部分)」昨日も説明しましたが・・・。「金銅製水煙の破片(塔跡出土)」。「壇正積基壇の模式図」。「発掘された塔跡(平成4年、南上空から)」。基壇上面の礎石。角から。17個の礎石が確認できたが。中央部分。西側から「相模国分寺」の「回廊跡」を見る。中門の東西の回廊の想定CG図。 【http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/zisya,teienn/kanagawa/sagamikokubunnzi/sagamikokubunnzi.html】よりここが中門のあった場所。中門の想定CG図。 【http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/zisya,teienn/kanagawa/sagamikokubunnzi/sagamikokubunnzi.html】より石碑と案内板。石碑「史跡 相模国分寺阯 大正十四年三月建造」と。側面には「史跡名勝天然紀念物保存法に依り大正十年三月内務大臣指定」と。「中門・回廊跡」案内板。「ここには、塔・金堂など主要な建物を囲む回廊とその中に入るための正門である中門がありました。1966年と1993年に行われた発掘調査の結果、中門は東西21 m x南北11m程の土台(基壇)上に建つ瓦葺きの建物だったと推定されています。廊跡からは、礎石上に柱の痕跡があものが7基みつかり、周辺から瓦が多く出土しまた。回廊は一般的に東西南北に廻らされますが、相模国分寺では東面が築地塀であったことが確認さており、西面についての詳細は不明です。現在、遺構は地下に埋め戻して保存し、その上に中門と回廊の範囲を表示しています。」「中門跡の発掘調査の様子」。「回廊跡の発掘調査の様子」。「礎石に残る柱の跡」。「回廊跡南側で出土した瓦」。「回廊・中門跡」を東側から見る。手前に見えるのは「金堂」の礎石であろうか。「金堂」は塔の東側にあり、塔と同じく版築工法で作られた基壇に礎石が残っており、礎石の上に金堂の建物が建っていたことがわかる。金堂も塔と同じく基壇を切石で覆っていたものと考えられていたが、2005年に行われた金堂発掘の結果、石積みであったことが判明した。また、金堂の建物内に幅2.2メートルの高まりが存在した。これは須弥壇であったと見られていたが、やはり2005年に行われた金堂発掘の結果、高まりは須弥壇ではなく、後世相模国分寺跡が畑地として耕作されていた際に耕作されずに残された場所であったことが判明した と。金堂の礎石の中に石碑が。七重塔と金堂の想定CG図。 【http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/zisya,teienn/kanagawa/sagamikokubunnzi/sagamikokubunnzi.html】より 「相模國分寺遺蹟」碑。この石も礎石だったのだろうか?黄色のカンナの花。西洋ミツバチ?も訪花していた。登校する子供達の姿。一列に整列して。コロナ対策からの学校&父兄の指示事項か。おしゃべりしない、密にならない!! 東側から西側に向かって「相模国分寺」を見る。手前に「金堂」の礎石、そして「相模國分寺遺蹟」碑の奥に「七重塔基壇」その先に「温故館」が見える。2011年まであった海老名市温故館跡。巨木が東側に。南東隅にあった「史跡相模国分寺跡歴史公園案内板史跡相模国分寺跡とは相模国分寺跡は、天平13 (741 )年に聖武天皇の詔によって諸国につくられた国分寺の1つです相模では、発掘調査や出土遺物の分析によって8世紀後半には創建されていたことが分かっています」8世紀後半の時期に、聖武天皇は何故、「海老名」のこの場所に「相模国分寺」を建造したのか、その理由について更にその詳細を知りたいと思いながら「相模国分寺跡」を後にしたのであった。「相模国分寺」は元々は現在の小田原市にある千代廃寺であるとして、その後海老名の地に移転したとの説も出されているとのことだが真相は如何? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.12
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【海老名市歴史散歩】 目次この日は9月27日(月)、2回目の『海老名市の寺社旧蹟を巡る』に向かう。小田急線、相鉄線を利用して海老名駅に7時前に到着。海老名駅東口に出るが、工事中であった。相鉄線海老名駅(海老名市)の新駅舎について、2026年度に完成予定と。これに先立ち、小田急線・JR相模線への乗り換え時の迂回(うかい)路は、2022年12月に解消。北口の新改札は2022年度末に供用開始するようであった。ビナウォーク「ViNAWALK」案内図。 ビナウォーク「ViNAWALK」は、神奈川県海老名市に所在する小田急SCディベロップメント運営の複合商業施設。2002年(平成14年)4月19日に開業。施設名称「ビナウォーク」の「ビナ」 (ViNA) は自然礼賛を意味する"ViVA NATURE"の略語であり、ロゴマークの英字表記"Rambling Terrace"(ランブリングテラス)のRambling(ぶらぶら歩き)と組み合わせて「歩いて楽しめる界隈」を意図しているとのこと。また、「ランブリングテラス」は海老名駅と2番館以外の各店舗棟の2階部分を連絡する面積8,000m2の公開街路の名称でもある。単に駅と施設を連絡するだけではなく、海老名中央公園や施設外の市街地も繋ぐ回遊性の高い街路となっているのだ。ランブリングテラスのうち、5番館部分には単なる雨避けにとどまらず、開放的な感覚を生み出す目的で翼をモチーフとした大屋根が配されているのであった。正面に1番館「デイリーセレクトショップ/生鮮市場」、3番館「アミューズメント&ロードサイドレストラン」。3番館をズームして。1番館に向かって進む。1階は生鮮食品等を扱う店舗が5店舗出店している。2002年の開業以来「ビナウォーク生鮮市場」というフロア名称であったが、2012年10月23日に「ViNA ONE FoodS」としてリニューアル開業した。このほか2階にはドラッグストアなどが、3階にはCD販売店などが、4階には書店が出店していると。そして右に折れ3番館方面へ。駅舎方面を見る。そして左手下に「海老名中央公園」を見る。大きな石段を下り「海老名中央公園」へ。「海老名中央公園」を歩く。直径10mの屋外円形ステージ。長引くコロナ禍で人工の小川には水は無く。「ビナウォーク」のタイル壁の絵画。「かたらいの広場」にあった球形の「モニュメント」。作品名は?正面「いこいの広場」にある「七重の塔」が見えて来た。右手には5番館「ファッション&ライフスタイルショップ」が。生活雑貨・ファッション・レストランなどが出店。奈良時代の海老名にあった相模国分寺の七重の塔を1/3に縮小して再現したもの。これは高さ21.97mであるが当時の七重の塔は65mあったと伝えられていると。この後に、この相模国分寺跡の七重の塔の遺蹟に向かったのであった。平成4(1992)年に市制20周年を記念して観光の象徴として建てられた。1/3に縮小したもので、本物の規模の巨大さに驚いたのであった。「海老名市観光シンボルモニュメント七重の塔七重塔は、七四一(天平十三)年聖武天皇の「国分寺建立の勅」をうけて建立された相模国分寺の伽藍の一つです。国分寺の塔には、国家の平和を祈る金光明最勝王経が安置されていました。過去2回行なわれた発掘調査によると基壇(建物の基礎となる土壇)は、一辺の長さがニ〇・四m、高さは一・三mの規模で、残存する礎石から塔の初重の広さは一〇・ハm四方、塔の高さは六五mにも及ぶものであったと推定されています。また、基壇周辺で発掘された石や盛り土から、2回の修理もしくは建て替えが行われたことも分かりました。この塔は、故大岡實氏の復元図を基に実物大の約三分の一のスケールで建設したモニュメントであります。」「歴史のさんぽみち 周辺案内」。これからの散策予定を再確認したのであった。「十五周年記念 贈ヤマボウシ 国際ソロプチミスト海老名 一九九八年 二月」碑。国際ソロプチミスト(SOROPTIMIST INTERNATIONAL)は、4つの連盟(アメリカ連盟、ヨーロッパ連盟、グレートブリテン&アイルランド連盟、サウスウェストパシフィック連盟)で構成され、約121の国と地域に2,947のクラブ、71,199人の会員を有する、女性の世界的な奉仕団体。国際ソロプチミストは、国際親善と理解活動及び友情を通じて・女性の地位向上・高い倫理基準・万人の人権・平等、開発、平和を求めて努力することを目的としている と。「七重の塔」の周囲を廻りながら。反対方向から。「相輪(そうりん)」をズームで。双輪の構造は上から順に・宝珠:仏舎利(釈迦の骨)が納められる。・竜車:奈良時代から平安時代の高貴な者の乗り物・水煙:火炎の透し彫り。火は、木造の建築物が火災に繋がるため嫌われ、水煙と呼ばれる。 お釈迦様が火葬されたことをあらわす。・九輪(宝輪):五智如来と四菩薩を表す。9つの輪からなる・受花(請花):飾り台。蓮華の花。以下は写真に写っていないが・伏鉢(覆鉢):鉢を伏せた形をした盛り土形の墓、ストゥーパ形。お墓を表している。・露盤:伏鉢の土台。「海老名中央公園案内図」正面に見えたのが6番館「アミューズメント&ロードサイドレストラン」。2階には10スクリーン・2,278席を有するTOHOシネマズ、ゲームセンター、鉄道模型店などが出店するほか、1階にはラーメン店7店舗が集結する「ビナウォーク らーめん処」がある。鉄道模型店「ポポンデッタ with 小田急トレインギャラリー」は小田急電鉄の鉄道資料展示スペースを併設。「天平通り」を北に進みこの先「中央公園前」交差点を右折して「飛鳥通り」を東に進む。交差点の角にあった案内板。向かっている「国史跡相模国分寺跡」まで0.4kmとの表示が。「国分坂下北」交差点を渡り、細い道に入る。坂道を上って行った。前方に「郷土資料館「温故館」(旧村役場庁舎) 国指定 相模国分寺跡」案内板。更に坂道を上って行った。そして「相模国分寺跡」の西側の道に出て左折して北に向けて進む。右手に見えて来たのが「相模国分寺跡」。「相模国分寺跡」の前にあったのが「郷土資料館「温故館」(旧村役場庁舎)」。「市立郷土資料館 海老名市温故館」。「海老名市立郷土資料館 海老名市温故館(旧村役場庁舎)この建物は、大正7 (1918)年に海老名村役場庁舎として建築されたものを一部移築保存し、復元したものです。明治22 (1889)年の市制・町村制の施行により「海老名村議会」が発足し、国分に「海老名村役場」が設置されました。しかし、明治43 (1910)年の国分大火により建物が焼失、薬師堂(現・国分寺)の庫裏を仮庁舎としていましたが、大正5 (1916)年頃から新庁舎の建築が計画され、大正7年に竣工しました。木造2階建て桟瓦葺、外壁は、ドイツ下見張り(※注)で飾り柱を設け、南正面に切妻造りの玄関ポーチがありました。柱には特徴的な柱頭飾り、玄関ポーチにはバージボードと呼ばれる飾り破風、垂飾り、装飾的な方杖が取り付けられ全体として直線的で素朴な装飾の建物となっていました。この建築様式は、郡役所様式と呼ばれるもので明治から大正時代にかけて役所などによく用いられ、海老名村国分の大工・藤井熊太郎が棟梁とな。て建築されました。外観を洋風建築とする一方で、小屋組みや土台、軸組などは日本古来の建築を踏襲した和洋折衷の建物でした。※注 増築部分は、南京下見張りでした。移築後は全面ドイツ下見張りとなっています。●利用案内●開館時間 9 : O O~ 1 7 : 1 5 (人館は1 6 : 4 5まで)休館日 年末年始( 1 2月2 9日~1月3日) ※展示入替などで臨時休館することがあります。所在地 神奈川県海老名市国分南一丁目6番3 6号※入館される方は、次の事項を守ってください。(1)郷上資料館の資料及び施設等を損傷し、又は滅失しないこと(2)資料の模写、模造及び写真撮影を許可無く行わないこと(3)他人の迷惑となるような行為をしないこと(4)その他郷上資科館の職員の指示に反する行為をしないこと※次に該当する場合は、入館をお断りすることや退館していただくことがあります。(1)他人に危害又は迷惑を及ぼすおそれがあると認められる方(2)郷上資おト館の資料・並びに施設及び設備を損傷し、又は滅失するおそれがあると認められる方(3)その他管理上支障があると認められる方」玄関には「海老名市立郷土資料館 海老名市温故館」と。開館時間 9時から17時15分まで (当面の間、感染症予防対策実施のため最終入館は16時30分とします。郷土かるた「と」「土器・石器 瓦や板碑 温故館」。「史跡相模国分寺指定100周年記念展示100年かけて 相模国分寺の謎にいどむ」ポスター。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.11
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【海老名市歴史散歩】 目次「安養院」を後にして、相模川沿いを高架で走る首都圏中央連絡道・圏央道の下の道に向かう。相模川に架かる「あゆみ橋」の姿が見えた。その先にあったのが「弁財天社」。朱の鳥居の奥に石の祠が。海老名市河原口2丁目5。相模川に架かる「あゆみ橋」をズームで再び。この橋の位置には、もともと「相模橋」と称する橋があった(詳細は相模大橋#歴史👈リンク を参照)。現在の相模大橋の開通とともに、相模橋は廃橋となったが、地域住民の要望により、流されてもすぐに架け直せるような簡易な構造の沈下橋「相模小橋」を架けることになり、1966年(昭和41年)5月24日に開通した。それ以後、潜水橋に由来する「もぐり橋」という通称で、地域住民に親しまれた。大雨で橋の一部が流れてしまった場合、海老名市と厚木市が毎年交代で費用を負担することになっていた。しかし、台風が多い年は予算超過となる上、毎年交代での費用負担は不公平に見えることもあった。また、夜間は危険なため、午後7時から午前5時までは人も含めて全ての通行ができないことになっていたが、これは地域住民には不便であった。また、一方通行であり海老名から厚木方面のみに限り通行可能である為に、厚木市民側からは不公平だと言う意見も多かった。このような理由から、恒久的な橋に架け替えることになり、1992年10月から着工、1996年2月1日に開通した。なお、「あゆみ橋」は接続路も含めて、大型車の通行が禁止されており、これら車両は相模大橋に迂回する必要がある とウィキペディアより。「あゆみ橋」からの道を東に進んでいくと路地の角にあった「庚申塚」。海老名市河原口2丁目4。「自然と歴史のさんぽみち」。県道51(46)号線・相模原茅ヶ崎線に突き当たりここを左折して進む。右手に「ハイム河原口」。「海西中入口」交差点を右折して東に進み「JR相模線」の踏切を渡る。「海西中」の前を通過し、敷地の角を右折し、水路に沿って進む。前方に「海老名市民活動センター」が現れた。「海老名市民活動センター」は、市民の自主的で非営利的な活動を支援するとともに 各種活動を通じ相互の交流を深める場として設置される施設。 市民交流、生涯学習、健康増進、レクリエーション等の多種多様な市民活動の場として利用可能。センターは、 ホール・会議室・和室・調理室・実習室などを備えた「ビナレッジ」(交流館)と、 プール・大小多目的室・トレーニングルーム・レクリエーションルーム等を備えた「ビナスポ」(レクリエーション館)の2つの施設で構成されているとのこと。こちらが「ビナレッジ」入口。「海老名市民活動センター」前の道路から「ビナレッジ」の建物を見る。向かい側にあったのが「ビナスポ」。「海老名市民活動センター」前の道路から「ビナスポ」の建物を見る。「海老名市民活動センター」前の道路を北に進み突き当りを右折して進む。前方に見えて来たのが「小田急・小田原線」の高架。高架の手前を左折して小田急の線路に沿って進む。左手の折れ、進むと正面に「海老名市文化会館」。「海老名市文化会館」は、約1,100席の大ホールをはじめ、335席の小ホール、サロン、練習室、リハーサル室などを備え、多目的利用のできる文化施設。そして来た道まで戻り、小田急線の下を通過し「海老名駅」方面に向かう。前方左に「小田急線・海老名駅」のホームが見えた。厚木街道を「海老名駅入口交差点」まで進みここを左折する。すると前方に海老名駅の東口自由通路2階が姿を現した。東口自由通路2階から「ビナウォーク1番館」を見る。「ビナウォーク3番館」を見る。海老名駅(東口)。小田急線・中央通路改札口。更に中央通路を進むと左手に「ロマンスカー ミュージアム」があった。中央通路をJR相模線方面に向かってみる。「リーフィアタワー海老名アクロスコート」。31階建の高級マンション。小田急線とJR相模線の海老名駅間に広がる開発エリア「ViNA GARDENS」内で建設中の、地上10階建て「(仮称)サービス棟」の建物。そしてその先にJR海老名駅。この日は相鉄線で帰ることにする。2019年11月30日に開通した特急新宿行き。専用車両「12000系」が入線中。相鉄線・海老名駅ホーム。「海老名」。そして大和駅から小田急線で帰路についたのであった。この日の散策ルート。この日は久しぶりの40000歩越え、頑張りました。 ・・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.10
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【海老名市歴史散歩】 目次そして次に訪ねたのが「安養院」。海老名市河原口2丁目4。「安養院鎭守三眼六足稻荷社縁起」碑謹んで茲に相模國海老名郷河原口安養院鎮守稲荷明神は其の起源を尋ぬるに極めて古く平安の頃から相模二十三座の式内社として 有鹿岡に鎮座し延喜式内有鹿神社の霊域で其舊蹟は今も尚當院境内に一堆の浄域を存す 往昔この岡に年久しく棲み馴れし白狐あり 常に郷中の田園を守護し時に姿を農夫に化身し諸所の障害を驅除し數々の竒特を具現せり里民その神變不可思議を神使と感得し 畏敬の念を岡邊に集ひて祠を建て稻荷明神と奉祀した これが当社の草創でありこの故事を里人の口碑と共に相模國風土記残本に 明文を傳う有鹿岡有社之南出怪嚴常有數尾之白狐土貢逢蝗蟹之災之時白狐變田夫除其災如神禮立俗崇之如神鎌倉時代地頭海老名尾張守李貞深く信仰し累代守護所と崇め三貫六百文の神田を捧げ加て祭祀を厚くす 降って寛永年間格雲守存 大和尚當院開山に念し右稲荷明神を境内鎮守と仰ぎ即ち稲荷山安養院と號す 其後文化十年山城國紀伊郡稻荷本宮より分霊を奉載し 社格を正一位に進め奉る正一位稻荷大明神安鎮事右於本宮雖爲奥秘因懇望式外神複修行奉勧遷大明神於其清地 相州高座郡河原口村安養院鎮守 斎場○祭祀莫怠於尊信者 豊饒萬福可有守護者仍如件 城州紀伊縣 稻荷本宮祠官 文化十年初春吉辰 從四位○総鎮守奉○親寔 印 印依て新たに今の社地を卜し寶殿の規模を改め恭しく遷宮を遂げ爾来毎歳二月初午の祭祀を盛大にし家内安全五穀豊饒所願成就 商賣繁昌交通安全の祈檮を嚴修し奉り護符を拝受し近来社頭弥栄へ霊験また日々新たにして檀信徒と共に誠に随喜景仰に堪えぬ 次第なり 安養三十一世 壽山德翁敬白」なんともユーモラスなお顔の布袋様が鎮座。「曹洞宗管長 勅賜正應天真禅師 大本山總持寺貫主 岩本勝俊猊下御親化記念 従六位五等瑞寶章受賞 大本山總持寺贈顧問權大教師 黨院三十一世重興壽山 徳翁大和尚品位」碑。山号は「稲荷山」。寺号「安養院」。清源院(厚木市三田)の末寺とされていると。「安養院」の参道。「新編相模国風土記稿」では、山号を稲荷山、清源院(厚木市三田)の末寺とされている。本尊は、木造阿弥陀如来立像で嘉永3(1850)年に修理された記録があることと作風から江戸時代中期に造立されたと考えらる。また、江戸時代後期作と考えられる韋駄天像も安置されている。格雲守存(?~1634)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられると。そして前方右手には石の鳥居一基と朱の鳥居が二基が。扁額「正一位 三眼六足稲荷大権現」。「三眼六足稲荷社」の社殿。さらに近づいて。扁額「稲荷山」。狛狐(右)。狛狐(左)。「三眼六足稲荷大権現」碑。正面蟇股に彫られている三眼六足(両側と頭の上に三眼、前足4本後足2本の六足)の彫刻。三眼六足の名の通り、三つの眼と、前四足後ろ二足の狐が彫られていた。稲藁についたバッタのような虫に牙を向けているが、この虫はおそらくイナゴであろう。神社由緒によれば、このあたりの田圃を守護していた白狐を奉って祠を建てたと。なお、三眼六足という名称は、鎌倉時代に一帯を治めた海老名李貞が、三貫六百文の神田を寄進したことから、三貫六百文が転訛したのではとも。そして「安養院」への参道を進む。「慈母観世音」像。お顔をズームで。赤子には毛糸の帽子が。その先は無縁塚であろうか。多くの墓石が並んでいた。中央上部に「五輪塔」。左手には「六地蔵」が向き合っていた。「六地蔵」を正面から。狛犬(右・阿形像)狛犬(左・吽形像)。「聖観世音菩薩」像。「聖観世音菩薩真言 オン アロリキャ ソワカ」碑。真言とはいつわりのない真実の言葉。密教で、仏・菩薩 (ぼさつ) などの真実の言葉、また、その働きを表す秘密の言葉をいう。明 (みょう) ・陀羅尼 (だらに) ・呪 (じゅ) などともいう。「手水舎」。水盤の奥に石仏の姿が。「安養院」の「本堂」。「十三重石塔」。「大般若塔」の文字が。「安養院 堂宇」。境内の「だるま像」。境内の池。寺務所であろうか。玄関の見事な彫刻(右)。玄関の見事な彫刻(左)。唐三彩馬俑(とうさんさいばよう)の如き置物。海老名郷土かるた「へ」。「ヘラ鹿の 化石を残す 安養院」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.09
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【海老名市歴史散歩】 目次「總持院」の境内の見学を続ける。「本堂」前には「八角燈籠」があった。「八角燈籠」。「東大寺形 八角灯籠平成6年建立 唐金製 高さ2.40m(8尺)この八角燈籠は奈良東大寺大佛殿前の金銅八角燈籠(天平時代建立・国宝)を基に精巧に鋳造製作されました構造は上から宝珠・笠・火袋・中台・竿・基台となり火袋は菱格子を透彫りに四方の扉に獅子をその間の四面には音声菩薩と宝相華唐草を浮彫りにしてあります音声菩薩はそれぞれ笙(しょう)・鈸子(ばっし)・縦笛・横笛を手にそよ風に衣をなびかせ音楽を奏でています」正面から時計廻りに。四面には音声菩薩(おんじょうぼさつ)が菱形格子の透し地に浮彫りされ、その姿は しなやかな体つきで楽器を扱う指先や 風を受けてなびく天衣などが、立体的に表現されていた。「横笛」を奏でる音声菩薩。様々な姿の獅子の透かし彫りが。尺八の如き「縦笛」を奏でる音声菩薩。様々な姿の獅子の透かし彫りが。「鈸子(ばっし)」を奏でる音声菩薩。小さなシンバルの如き楽器。様々な姿の獅子の透かし彫りが。「笙」を奏でる音声菩薩。「本堂」。754年(天平勝宝6年)に海老名の郷司・藤原廣政が虚空蔵菩薩を本尊として創建。創建当時の宗派は不詳。 鎌倉時代の地頭・海老名源八(季貞)ゆかりの「源八矢立の杉」があったとされる。1591年(天正19年)に徳川家康より寺領十石の朱印を拝領。 江戸時代には近隣の相模国分寺、座間の星谷寺、厚木の飯山観音など19末寺を有した。 明治初期に海老名氏の菩提寺であった宝樹寺を併合した。神仏分離までは有鹿神社の別当寺であった。宗派 高野山真言宗宗祖 弘法大師(空海)本尊 虚空蔵菩薩開創 天平勝宝6(皇紀1414・西暦754)年開山 弘吽大徳《略縁起》総持院は天平勝宝6 ( 754)年に海老名の郷司藤原廣政が有鹿明神の霊夢により虚空蔵著薩を本尊として創建したと伝わっています。周目に豪を巡らせた大伽藍で12の坊舎が甍を並べ棟を競っていたため近年まで付近ー帚(現河原口三丁目辺り)は「坊中」と字で呼ばれていました。また明治元年の神仏分離までは有鹿神社の別当寺でありました。元弘の乱(1331 )に鎌倉を攻略した新田義貞の兵火によりそれらの坊舎も尽く焼失し、また永享の乱(1348)では足利持氏がこの地を本陣としたために再び大兵火の及ぶところとなりました。しかし天正年間(1570年代)に慶雄大徳により9間四面の大本堂や6間四面の大庫裡などが復興Eれ小田原北条長氏・氏康らの庇護を受けます。その後豊臣秀吉に小田原北条氏が滅ぼされるや代わりに関東に入国した徳川家康により天正19 (1591)年には早くも寺領10石の御朱印の奇進を受けています。江戸時代には幕府より「不入」「葵の紋所」を許され高座・愛甲・大住の3郡に末寺19ヶ寺を有し中本寺・法談所・古義真言宗関東檀林本寺(真言密教の教学中心寺院)として隆盛を極めていました。明治初年 廃寺になった隣接の末寺「宝樹寺」(現、海老名源八尊霊堂の辺り)を併合しました。然しながら明治維新の神仏分難・廃仏毀釈の嵐の中で数多の貴重な寺宝も失われ、更には関東大震災(1923)では江戸期の大本堂・大庫裡などの建物もほとんど倒壊し現存するのは山門のみとなりました。その時に廃材を利用して建立された旧本堂も役目を終え平成6 (1992)年には新本堂が建立され現在に至ります。と寺のホームページより。扁額「總持院」。「客殿」。「修行大師」像。近づいて。寺務所であろうか。屋根には寺紋?・「金剛杵印」が。旧本堂の獅子口。苔むした石庭。「牡丹」の花の飾り瓦。「無縁塚」。「子育地蔵尊」。石仏がニ体。「「子育地蔵尊」由来記この地蔵尊は、江戸初期の明暦四(一六五八)年二月に、地元の念仏講より宝樹寺の焔魔堂境内地(現在の旧宝樹寺墓地入口)に建立される。その後、閻魔堂は廃堂となり、宝樹寺も明治初年に總持院に合併して廃寺となるも、ご尊体は石仏のため朽廃をまぬかれ、念仏講に路傍に祀られ子育地蔵尊として三五〇年の長きに渉り親しまれ来る。いま、さがみ縦貫道建設に伴う市道新設のため尊堂の移転やむなきに至り、旧念仏講の懇請を黙し難く、にこの地を撰び尊堂を移設しご尊体を安置し永く祀り奉らんとす。平成二十一(ニ〇〇九)(年)六月吉日 海老山總持院第六十七世 現住 宥海記 ここにも歴史を感じさせる「六地蔵」が。「水子地蔵尊」。「水子地蔵尊」碑。近づいて。お顔をズームで。「本堂」前には開花を終えた蓮の鉢が並んでいた。「本堂」前の石庭。「不動明王像」。「六地蔵」、「不動明王像」を再び。「總持院」を後にして相模川方面と進むと右手にあった「有鹿幼稚園」。海老名市河原口3丁目10。次に訪ねたのが「海老名氏霊堂」。入口に「海老名市墳墓入口」碑。海老名氏は、源有兼が永久元(1113)年から4年間相模守として当地に在任し、その当時武蔵・相模の武士団であった横山氏と婚姻関係を結び、生まれた季兼が在地名の海老名氏を名乗ったとされている。海老名氏は「吾妻鑑」や「曾我物語」にも登場する有名な武将で、後に海老名氏、本間氏、国分氏、下海老名氏、荻野氏に分家する。海老名氏は、和田義盛の乱で和田方について敗北し、大きく勢力をそがれる。そして、永亭の乱で足利持氏方についたため宗家は滅んだ。「海老名氏霊堂海老名氏は,村上源氏の流れをくむ武蔵横山党の一派で、平安時代末期の十ニ世紀頃には海老名の地に進出して来ていたと考えられています.中でも海老名源八季貞は保元の乱で奮戦し、曾我物語などにもその名が出てくるなど有名な武士です.海老名氏の菩提寺は,現在は廃寺となっている宝樹寺と伝えられ,その跡地が霊堂のあるこの周辺一帯と考えられています。堂内には、海老名氏縁のものと伝わっている宝篋印塔や五輪塔が安置されています.霊堂周囲にある河原口坊中遺跡からは,十二~十四世紀の建物跡やかわらけなどの遺物が多く出土し、宝樹寺の存在と併せてこの辺り一帯が海老名氏の本拠地であったと考えられています。」霊堂には宝篋印塔や五輪塔の一部が納められているのであった。郷土かるた「え」「海老名市は 鎌倉時代の 名武将」「海老名氏霊堂」前の道路を東に戻って行った。そして有鹿神社から総持院の前を通り南方向に向かうと、すぐに右に向かう道路が分かれる三叉路に出る。この三叉路に次の様な石碑群があり、その一つに信州高遠の石工の名前があった。『風土記稿』河原口村の項に「往還、村の東西に貫くもの矢倉澤道なり、西北に係れるもの八王子道なり〈幅各三間〉」とあり、有鹿神社と総持院の前を南北に通る道は八王子道で、この三叉路を西に向かうと渡船場に通じ、厚木に渡るものと思われる。石仏は向かって左からの3基が元の姿を留め、他に部材の石材の破片らしいものもあった。左から●「角柱道標」正面 此方 厚木向かって左側面 此方 座間背面 此方 厚木 と書かれているのだろうか。●「角柱庚申塔」右側面 松尾大明神正面 庚申墳左側面 相州高座郡河原口邑 催主 中野源六 邑講中 寛政六年歳次甲寅秋八月日(一七九四) 石工信州高遠産秋山甚四郎●「角柱庚申塔(笠らしきものが上部に)」右側面 ??正面 庚申塔左側面 ??再び西に進むと「河原口神武社児童遊園」内にあった「神武社」。海老名市河原口3丁目3。海老名市総鎮守・有鹿神社の境外摂社とのこと。社号の通り「神武天皇」を祀っているこの社は「石碑」がご神体のようだ。石碑には黄金色の文字で「神武天皇」と。そして「海老名市立歴史資料収蔵館」前を通過。此の辺りは東西に行ったり来たりしてしまったが。海老名市河原口2丁目27−3。海老名市の歴史、文化等に関する古文書、写真、地図などの資料を収集、整理や保管を行い、郷土の歴史の理解を深める場を市民に提供するための施設として平成22年4月に開館。道端にあった「庚申塔」。この後、この先が通行止めになっていたため、引き返し「海老名市立歴史資料収蔵館」前を通過し次の道を右折し海老名市河原口2丁目10の住宅街を進む。「末日聖徒 イエス・キリスト教会」。いわゆる「モルモン教」の教会なのであろうか。海老名市河原口2丁目10−37。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.08
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【海老名市歴史散歩】 目次海老名市上郷1丁目28の住宅街を進むと右手にあった「石碑群」。海老名市上郷1丁目28−12。この丸い石柱は?「水神八大龍王」碑?右から二番目は「庚申墳 文政二年己卯 村講中」。三番目は「馬頭観音 天保十五甲辰年」。こちらは??舟形光背型「双体道祖神」。??????以上、散在していた石像をこの場所に集めたのであろう。そして「鳩川」沿いの道を進む。上郷一・ニ・三丁目 下今泉一丁目の住居表示街区案内図。右手の橋は「馬船橋」。その袂にあったのが「上郷地蔵尊」。海老名市上郷2丁目1。近づいて。地蔵尊とその横に石碑。後ろには色彩豊かな千羽鶴が。その先の左の空き地の奥にも小さな「祠」があった。近づいて。詳細は不明。更に「鳩川」沿いの「相模三川公園」敷地内にある緑あふれる遊歩道を進んで行った。「鳩川」とその先の「相模川」の間には広大な「相模三川公園」が拡がっていた。橋が見えて来た。「相模三川公園」内の緑地広場のベンチで食事を楽しむ女性達。「鳩川」に架かる「さくら橋」。その袂にあったのが「大藪稲荷神社」。海老名市上郷1丁目21。小さな社殿。「大藪稲荷神社」の前は「神奈川県立相模三川公園わくわくランド」広場では、水遊びも楽しめるのだ。毎時10分間ほど、ミスト状の噴水が散布されていた。水が出てくると、子どもたちが歓声を上げて、広場に集まって来たのであった。様々な遊具を楽しめる公園。「神奈川県立相模三川公園わくわくランド」の東側の道路沿いにあったのが「大日如来堂」。「大日如来堂」を正面から。そして次に訪ねたのが「龍昌院」。「不許葷酒入山門」と刻まれた石碑。正面に「山門」。「山門」に向かって進む。「山門」前の能山雲元石碑。かなりの歴史を感じさせるのであった。「龍昌院 坐禅会」のご案内。「山門」を潜って境内へ。酔芙蓉の花が咲いていた。「本堂」。曹洞宗の龍昌院は、上郷山と号す。龍昌院は、能山雲元(元和6年1620年寂)が開山となり創建したと。ご本尊は釈迦牟尼佛像。扁額「龍昌院」。墓地の前面にあった「開山 能山恵雲大和尚品位」碑。この建物は?「龍昌院」を後にして海老名市上郷1丁目の住宅街を南に進む。200mほど歩くと左側にあったのが「有鹿神社中宮(あるかじんじゃちゅうぐう)」。石鳥居の前の石碑には「有鹿之池(あるかのいけ)」と。海老名市上郷1丁目12。正面から。「石鳥居」。石造りの「有鹿神社中宮」は、新編相模国風土記稿に「天正三年四月別當総持院現住慶雄夢中に神靈の告ありて、神祠の東北池中に於て、石一顆を得たり」と記載される有賀神社の神体が出現した池の地である と。水の流れはなかったが石造りの小さな太鼓橋があった。中宮はかつて座間市入谷の諏訪明神付近(座間市入谷1-1568)にあったといわれ、衰退して当地に遷座した。安土桃山時代に御神体が出現した池(有鹿の池)は、ここにあったが現在は涸れている。伝承では有鹿比女命が後述する有鹿の井戸で化粧をし、池の水面で姿見をされたという。「有鹿の泉」から湧き出た水は鳩川の流れに通じ、そこから引かれた用水は「有鹿の池」「有鹿の井戸」の水とも繋がり、本宮近くの海老名耕地に注ぐ。有鹿の池から御神体が出現するのも当然の流れなのだ と。更に150mほど進むと同じく左手にあった「三王三柱神社」。海老名市上郷1丁目3。社号標石「三王三柱神社」。「社殿」。三王三柱神社の創建年代等は不詳ながら、山王社として祀られ、当地の総鎮守有鹿神社を守護していたといいます。江戸時代末期には、当地で武州三峯講・伊勢講が組織されたものの、講中全員の参拝が叶わなかったことから三峯社・皇大神宮を勧請して創建、明治末年三社を合祀し三王三柱神社と改めたといいます。「内陣」。「三王三柱神社御由緒」碑。当神社は三王三柱神社と称す。山王明神社を基に三峯神社、皇太神宮の三社からなる総鎮守有鹿神社の下 上郷の鎮守である。当神社は有鹿神社に西向、有鹿明神を守護す。此地に存する有鹿井は、有鹿池と共に、有鹿明神に御縁深き社地である。かくて、山王明神社の御創建は頗る夙く山王信仰に鑑み、鎌倉を下ることはない。現に、江戸期、此地に鎮座することの確証が遺る。新風土記稿及び延宝八年建立の、山王権現の文字塔に示される。江戸末、火難盗難除の為 武州三峯講、又伊勢詣の為、伊勢講の組織を見た。講中全員の参拝を望めず、本社遙拝の為、三峯神社及び皇大神宮の御創建となった。明治末年、此地に鎮座する三社を合祀し、三王三柱神社と社名を改めた。爾来八十有余年を経、当初の御社殿既になく、昭和初年造営の御社殿も老朽化す。平成三年、かかる事態を憂慮し、上郷の氏子は、真心より浄財を以て、御社殿造営並びに鳥居、玉垣、神社碑、敷石等、境内整備をなし、これを記念して石碑に刻む平成三年三月上郷氏子中有鹿神社宮司 謹書「有鹿井有鹿池から出現した神体石をこの水で洗ったので、有鹿の化粧井戸という。いずれも、往古、有鹿森に湧く泉という。 有鹿神社」これが「有鹿井」であろう。境内にあった「道祖神」碑。更に西に進んで行く。道路脇にはケイトウの真っ赤な花と彼岸花が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.06
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【海老名市歴史散歩】 目次「足折坂」を上りきり、「浅井の水」手前を左折して進むと「JR相模線」の踏切・今泉踏切があった。「今泉小学校前」交差点を直進する。更に進むと右手にあったのが「神奈川県産業技術総合研究所・KISTEC」。海老名市下今泉705−1。県道46号線・相模原茅ヶ崎線に掛かる「下今泉歩道橋」を渡る。相模大野方面を見る。厚木方面を見る。2差路の先端に道祖神があったがパスした。そして更に西の相模川方面に進み突き当りを左折すると左側にあったのが「宗珪寺(そうけいじ)」。平成20年(2008年)に圏央道建設のため海老名市河原口から現在の海老名市下今泉へ移転して来た寺であると。海老名市下今泉1丁目22−1。「山門」を正面から。山号は「天王山」。「宗珪寺」。「山門」に近づいて。扁額「天王山」。曹洞宗の寺院。「山門」を潜ると駐車場になっており、中央参道には紅白のサルスベリが開花していた。そして正面にあったのが、門の上に鐘楼堂を設けた門「鐘楼門」。2階建ての門で、一階部分に屋根(下屋)を持たず、2階部分には高欄が配置されていた。「鐘楼門」の扁額は「宗珪寺」。「鐘楼門」前の駐車場広場の壁の角には「記念灯籠建立供養塔」碑。四方を囲む壁の前には見事に灯籠が並んでいた。「禁葷酒入門」碑。そして「鐘楼門」の一階の向かって右には「仁王像(阿形)」が。別の角度から。金剛杵を右手に持って。「鐘楼門」の一階の向かって左には「仁王像(吽形)」が。角度を変えて。こちらも金剛杵を右手に持って。「仁王門」とも言える「鐘楼門」を潜る。「六地蔵」。右手にあった「手水舎」。水口の龍。右手に御堂が。扁額「覚王院」か?境内の見事な松。こちらの大木は?境内の石仏。ズームして。美しい境内の植え込み。こちらは五葉松と巨岩のコラボ。そして「本堂」。近づいて。扁額「宗珪寺」。「内陣」。「天水桶」には「51枚笹?」の紋が。こちらが客殿か。玄関の向かって右側。「本堂」横を通り、裏の墓地へ。「大般若六百巻・・・」碑。石仏が並ぶ。「馬頭観世音」碑。墓地入口。墓地。「仁王門」前から「山門」を見る。再び「仁王門」を。そして「宗珪寺」を後にして、寺の横の道を東に進む。「仁王門」、「手水舎」「本堂」の屋根を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.05
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【海老名市歴史散歩】 目次「龍峰寺」の境内から右に折れ「石坂」を下り振り返る。突き当りを左折して海老名市国分北2丁目11の住宅街を南に向かって進む。広い坂道に合流した場所の先の左側の少し高い場所に石碑を発見。「源頼朝公」と刻まれた石碑。「黨山開基」と刻まれていたが。側面には「天明四甲辰載十月十八日 現住龍峯兼清水寺佑天渓志」と刻まれていた。この坂が「新吾妻坂」らしい。そして相鉄本線沿いの道と合流した場所にあった「自然と歴史のさんぽみち」案内板。相鉄本線と大きなマンション群を見る。そして相鉄本線の踏切を渡り直ぐに左折して坂道を上り振り返る。この坂が「吾妻坂(権現坂)」のようだ。昔は吾妻権現社への参詣の道だったが、今は坂の途中で相鉄線が通り、その先は消滅。右に直角にカーブして南に上っていた。「吾妻坂(権現坂)」が消滅した場所から相鉄線を見下ろす。右に直角にカーブして南に上って行くと左手には大きなマンション群が。グランドレジデンス「ルネ・エアズヒル RENAI AIRSHILL」入口。海老名市国分南2丁目の住宅街を進む。北に方向を変え進むと右手にあったのが郷土かるた「ん」海老名市国分南1丁目15。「運河では 相模最古の 逆川」。逆川跡は、人工の水路といわれ、市立杉本小学校の辺りから、目久尻川の水を取り入れ、伊勢山の南側を回って、国分の台地を経て国分尼寺の小谷戸から海老名耕地に流れていました。後に現在の相模鉄道の手前で西に流路が変更され、これが新掘と呼ばれるようになりました。発掘調査により平安時代以前に作られ、船着場と推定されるような遺構も確認されていることから、運河跡ではないかともいわれています。国分付近では南から北へ、目久尻川流域での低地から台地上へ流れていることから逆川と呼ばれるようになったとされていま昭和40年代までは流れていましたが、次第に埋め立てられ、ごく一部の地形などにその面影を見ることしかできなくなりました。逆川が北へ曲がっている地点に、由来と地図を刻んだ記念碑が建立されています とネットから。県道407号線・杉久保座間線を南に進む。そして右手の魚屋の角にあったのが「旧跡 庚申大権現入口」案内柱。「自然と歴史のさんぽみち」はここが「史跡相模国分尼寺跡」であることを示していた。進んでいくと道路の右手にあったのが「國分尼寺講堂阯」碑。残念ながら全面にロープが張られ立ち入りは禁止のようであった。講堂のあった場所はこの先であろうか?金堂と講堂の間には、東西二鐘楼と経蔵が配されていたと。そして反対側にも大きな緑地が広がっていた。住宅などに囲まれて敷地が保存整備されて残っていた。相模国分尼寺跡は、海老名市城の相模川左岸に延びる河岸段丘上に立地する。天平13年(741)の聖武天皇の詔により、全国に設置された国分寺・国分尼寺の一つで、相模国分寺跡の北方約500メートルに伽藍中軸線をほぼ揃えて配置されている。大正末年に中山毎吉が著した「相模国分寺志」には、当時中門跡は畑と化したが、明治末年頃までは瓦と石が塚状に堆積し、そこに2個の礎石が残っていたこと、金堂基壇上には埋没した16個の礎石が存在すること、講堂跡は明治末年に削平され、その際に礎石が一隅に移動されたことなどが記されている と。右側の白い四角は説明板。奥には庚申堂があった。「相模国分尼寺跡(金堂跡)この寺院跡は、相模国分寺跡の北方約600メートルに位置しています。近年、寺域内の発掘調査が数次にわたって実施され、この金堂跡のほか、講堂跡と鑛楼跡の基壇の一部が確認されました。その結果、中門・金堂・講堂が南北に並び、講堂の両脇に経蔵と鐘楼がつく伽藍配置をとること、規模は相模国分寺より一回り小さいことがわかりました。また、金堂跡の確認調査では、基壇上から桁行5間・梁行4間の大規模な礎石建物跡が検出されました。平成3年3月31日 海老名市教育委員会」金堂跡は、東西24.5m、南北19.5m、高さ1mの土壇として残り、基壇上には礎石15個が現存。礎石は1.5m前後の大型の花崗岩自然石を利用しており、金堂の建物は桁行5間(総長21.2m)、梁行4間(総長13.9m)で、正面5間のうち中央の柱間がとくに広く、6.3m。この柱間は東大寺大仏殿を除き、現在確認されている国分寺・国分尼寺の遺構としては最大規模で、金堂の構造上の特異さを示唆している。国分尼寺は国分寺とならび、律令体制下における仏教体制のあり方を象徴する施設として重要であることから、1997年(平成9)に国の史跡に指定され、2008年(平成20)に追加指定を受けた。 【http://www.ohoka-inst.com/sagamikokubuamaderaato.pdf】より「相模国分尼寺跡(金堂跡)」から「国分尼寺講堂阯」を振り返る。そして老木の下にあったのが「國分尼寺金堂阯」碑と「庚申堂」。正面から。横から。郷土かるた「に」「尼寺跡に 庚申塔と ひがん花」そして紅白の彼岸花が。「庚申堂」。扁額も「庚申堂」。内陣には「庚申塔」が安置されていた。板碑型、H108×W43全高118cmの文字塔碑文は、「寛文六季 夫神灵(霊?)必有感□□□同心ウン(梵字) 一揆之善男庚申観進結願造視箴聴箴言箴者発願益欲衛二世希望而己午丙三月十六日 三猿 十一人の氏名 国分村 柳田(左)」「庚申塔銘文の意味寛文六年 寛文六年(一六六六年)三四四年前十一人の男、みんなで庚申様をまつり、がんかけをして見ざる、聞ざる、言ざるの三猿(箴・・いましめ)を造る発心の望みは、二世(現世安穏後生善所)の望みを得たいからである。西暦一六六六年三月十六日造立」「庚申堂」前にあった石碑群。舟形光背 H70×W35全高79の庚申塔六臂合掌青面金剛像 邪鬼天保三癸亥(1683)年 三月吉日笠付角柱中区 H87×W25×D15全高106cmの文字塔正面は、(梵字)庚申供養 六人 三猿右側は、宝暦十庚辰(1760)天 金子源七 他2名左側は、九月吉日 金子武衛門 他2名今にも崩れ落ちそうな石碑。笠付角柱中区 H87×W24×D20全高107cmの文字塔正面は、(梵字)為庚申供養也 講中六人 三猿右側は、享保五庚子(1720)年左側は、 十一月吉日 であるようだ。赤の彼岸花。「庚申堂」柱。「庚申堂」を振り返る。近くにあった「相模国分寺跡」と比べると、案内看板も少なく、ちょっと寂しい感じなのであった。そして小田急線の座間15号踏切を渡り、西に進む。「浅井の水」を目指して住宅街を進むと電線工事のトラックの裏にあった「道祖神・庚申塔群」。中央に双体道祖神が。その後ろには文字庚申等が並んでいた。海老名市国分北1−24。そして次に「かがり塚」を目指したが案内板等は一切見つからなかった。「国分尼寺第一児童遊園」が右にあったがこの奥の木々の生い茂った丘が「かがり塚(灯塚)」であろうか。相模野台地の崖際に位置する塚で稲荷の社が乗っているようであった。「かがり塚(灯塚)」という名称は、昔、付近の小運河を通行する舟の目印のために常夜灯を置いた塚であったため「灯塚」または「かがり塚」と呼ばれたと。海老名市国分北1丁目24−7。そして来た道を戻り「浅井の水」に到着。海老名市国分北1−24。「鎌倉時代に清水寺が再興された時に堂前から清水が湧き出したことから清水寺の寺名となったと言い伝えられています。この清水が「浅井の水」と呼ばれ、その中央には水神塔がまつられています。冬の渇水期以外は水をたたえており、永池川の源流点とされています。清水寺は江戸時代に東の丘に移転しましたが、このような由来から地元の人は今でも清水寺本堂(龍峰寺観音堂)を水堂と呼んで親しんでいます。昭和35年頃に水道が引かれるまでは周辺の家の生活用水として利用されていました。」とネットから。池の中には水神塔と呼ばれている石仏の姿が。「浅井の水(浅井の井)」案内板。「「浅井の水」は、相模野台地西端の崖線にある湧水で、その名は元禄3 (1690)年に記された国分村の清水寺縁起にもみられます。この湧水は一級河川「永池川」の源流点とされています。相模国分寺の建立に大きくかかわった、古代の人工水路である「逆川(さかさがわ)」の流路にもつながっていたものとみられ、北西にある「かがり塚」にはこの付近を通る舟のための常夜灯があったとの言い伝えもあります。中央には国分尼寺の銘のある水神塔が建立され、昭和35年頃に水道が敷かれるまで付近の家の生活用水として大切にされてきました。近年は周辺の宅地化の影響か、冬になると水量が少なくなります。」当時の運河ルートと「相模国国分尼寺跡」と「相模国分寺跡」の位置図。「浅井の水」を後にして更に南下するとあったのが「前の坂」。この坂に面して五人組のうちの4軒の家があり、その家の前の坂ということでこう呼んだと。海老名市国分北1丁目14。「前の坂」の石段を上り振り返る。「内出稲成神社」。鎌倉時代の武士団である海老名氏の一族に国分氏がおり、国分の地に館を構えたのではないかといわれている。内出稲荷は、この国分氏の屋敷の鬼門除けとして建立されたとの伝承があるのだ。海老名市国分北1丁目5。入口左に「庚申塔」。社号標石「内出稲成神社」。朱の鳥居。扁額「正一位 稲荷大明神」。「本殿」は鞘堂に覆われて。「本殿」。そして「足折坂」を上って行った。昔はもっと短い急坂で転びやすく足を折るような坂だった。婚礼の際、花嫁は絶対に通らない坂だったのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.04
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【海老名市歴史散歩】 目次「龍峰寺」の散策を終え、隣りにあった「弥生神社」に向かう。「龍峰寺」を背にした参道から右手に入り石段を下る。石段下に右手にあった石碑群。「おみくじ結び」の後方右2基は「彌生神社境内整備記念碑」、「彌生神社改修工事記念碑」。「彌生神社境内整備記念碑」。「彌生神社改修工事記念碑」。「彌榮之碑」。「弥生神社」の由来について、漢字とカタカナで書かれていた。裏口から入ってしまったので、参道を「一の鳥居」まで歩いて、引き返し見学のスタート。扁額「彌生神社」。次の石段に向かって進む。左手に「鳥居再建記念碑」。石段を上り終えると、境内広場があり右手には「社務所」と次の石段下には「手水舎」が。左手にあったのは「舞殿」であろうか。「社務所」には「祈祷(きとう)受付」と。各種御札、御守、絵馬等が並んでいた。広場からは、雲がなくなり大山の山頂が姿を現していた。石段の先には「拝殿」の姿が。「手水舎」。「天皇陛下御在位六十年記念碑」。石段の途中から「一の鳥居」を振り返る。ズームして。「拝殿」への最後の石段を上って行った。石段を上り終えると狛犬が迎えてくれた。真っ赤な口を大きく開けた「阿形像」。「吽形像」。そして正面に「弥生神社」社殿。扁額「彌生神社」。「本殿」。「彌生神社の概略 一、 御祭神 誉田別命(ほむたわけのみこと) 猿田彦命(さるたひこのみこと) 高産霊命(たかみむすびのみこと) 日本武尊命 ( やまとたけるのみこと) 一、由緒 黨神社は明治四十二年三月旧四箇村に鎮座の四社を合祀してここに 創建された。 一、年中行事 歳旦祭 一月一日 紀元祭 二月十一日 祈年祭 二月十九日 勧学祭 三月 例大祭 四月十日に近い日曜日 天長祭 四月二十九日 夏越大祓 六月三十日 七五三 十一月◯日 新嘗祭 十一月二十三日 大祓祭 十二月三十一日 月次祭 毎月第一・第三日曜日」そして左手奥にあったのが「蚕影神社(こかげじんじゃ)」。かつて当地で養蚕が行われていた名残で祀られている小さな社。子授け・安産の神とされる。「蚕影神社」。「蚕影神社」の「社殿」。この「蚕影神社」は、当地の池田善六という人が、筑波山麓の蚕影山桑林寺から御分霊をいただいて祀ったといわれる。もともと山中にあったものを大正年間に崖上まで移した。毎年正月14日には、木の枝にさした繭玉団子が何組もさげてあった。しかし大正7年に所有者が養蚕をやめたため、弥生神社の現在地に移転。遷座の日は、お宮ごと神輿にして若い衆が担ぎ、各戸にお別れの意味で地域中を練り歩いて大変な賑わいだったという。(海老名むかしばなし第5集)ご神体は陰陽の石二組で、一組は弥生神社境内にあったものを後に納めたという。しかし 「決して開けてはならぬ」 と言われているそうで、権禰宜さんは 「見たことがないんですー」 と ネット情報から。扁額「蠶影神社」。「蚕」は「蠶」の略字であると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.03
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【海老名市歴史散歩】 目次「龍峰寺」の散策を続ける。「本堂」横にあったのが「本堂建設寄付者御芳名碑」。そして「観音堂」の裏にあったのが「吾妻大明神」。石鳥居と朱の鳥居が二基。社殿。「吾妻坂」の由来となった社。「吾妻大明神」碑。その隣りにあったのが「収蔵庫」。「重要文化財 千手観音立像(木彫) 昭和二十五年重文指定榧材の一木造り、玉眼嵌入、左右四十二臂は桧材。千手観音像のうちでも、もっとも例の多い十一面四十臂を持つものだが、左右の一本ずつを頭上に高く掲げて組み、その掌上に化仏一体を安置している。この形式を一般に清水式と呼ばれている。制作期は、全体に古様を模した特色が見逃せないので、鎌倉期再興説としている。像高・一九二センチメートル」「重要文化財 千手観音立像(木彫)」をネットより。 【https://otakaramap.up.seesaa.net/image/2015-01-012001.06.57.jpg】より郷土かるた「せ」「千手観音 仁王が守る 清水寺(しみずでら)」。「清水寺(しみずでら)」とあるが「清水寺(せいすいじ)」では?清水寺の千手観音は国分尼寺より以前にあった官寺の湧河寺に安置されていました。建久五年(一一九四)源頼朝が国分寺を修復の際湧河寺も修理しましたが、このとき清水が湧き出したので清水寺と改め、水堂の観音様として信仰されるようになりました。元禄十二年(一六九九)に現在の丘の上に移されました。木彫り一・九メートルの尊像です。ここの観音堂、仁王門、金剛力士像は市の重要文化財に指定されています。堂には歌川国経筆の絵馬もあり、ともに龍峰寺が保存管理に当っています。昭和四十五年千手観音立像の収蔵庫ができました。毎年、一月一日と三月十七日には開帳されます。この石碑は?「四通」であろうか?「観音堂」の裏にあった石碑群。中央に馬頭観世音碑と欠けた石仏。左にも「馬頭観世音」碑。「源頼朝公」と刻まれているのであろうか?源頼朝公の供養塔なのであろうか?「石工 信州住 伊藤新八」と。「天明四甲辰催十月十八日 現住龍峯兼清水寺〇〇◯・・」と刻まれていたが。「染井吉野桜百本寄贈」碑。「縁起」碑。千手観音像について書かれていた。「客殿」の塀には北条家を代表する家紋・「三つ鱗」が。「龍峰寺」の寺紋は「丸に笹竜胆」と「北条鱗」であるが、前者は清水寺、後者は龍峰寺の元々の寺紋を引き継いでいるのであろう。このように、清水寺と龍峰寺が混在しているのであった。「客殿」。扁額は「瑞龍殿」。「仁王門」の横には「寺務所」への冠木門が。「寺務所」であろうか。扁額「呈?々庵」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.02
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【海老名市歴史散歩】 目次そして「龍峰寺」の「仁王門」前に到着。「龍峰寺」は臨済宗建長寺派の禅寺として、1340(興国元)年開山円光大照禅師によって創建された。かつては少し南の台地、現在の市立海老名中学校敷地の一部にあり、北から南へゆったり流れる相模川の向うに秀峰大山を望む。鉄牛和尚(小田原、黄檗宗紹大寺)はこの絶景をたたえ、龍峰寺八景詩を残している。1928(昭和3)年現在の地に移築した。境内には旧清水寺の本堂であった観音堂があり、国の重要文化財である千手観音立像が安置されている。清水寺はいまからおよそ1300年の昔、国分尼寺境内にあった湧河寺がその前身である。鎌倉時代になって、1186(文治2)年、源頼朝公によって、千手観音立像と共に復興された。その後、1341(興国2)年に龍峰寺開山円光大照禅師によって再建され、さらに、1699(元禄12)年には現在の地に移築された。1989(平成元)年に解体修理が施されている。「龍峰寺」には清水寺の他に、真福寺(天文・南原)、林光庵(慶長・打出)、東福寺(長禄・望地)の末寺があったが、明治維新の廃仏毀釈に遭い、他の末寺は自ら廃絶に帰したが、清水寺だけは寺名や寺格を外されたのみで、境外の仏殿(観音堂)として残る法幸を得、古来より「水堂」の名で親しまれている。今日では、毎年正月元旦と大祭の3月17日の二回、一般公開されている。他に、観音堂、仁王門、仁王像、絵馬などが海老名市の文化財に指定されている と。海老名市国分北2丁目13−40。左手前の小高い場所には多くの大きな石碑が並んでいた。右から「田野口照蔵之碑西南役明治十年四月十一日◯肥後国山本郡萩迫村戦死」と。「芳名碑」日露戦争における戦没者28柱の慰霊顕彰碑文 戦没者の御芳名刻印 大正15年4月15日 建立 海老名村「忠魂碑」。戦没者24柱の慰霊顕彰碑文 本村出身殉国諸士の遺烈を仰ぎ 明治39年忠魂碑を建つ 大二は陸軍大将乃木希典閣下の 揮毫に係る 偶大正12年9月1日 関東大震災は之を倒壊粉砕せり 依て茲に再建の議成るや 幸に の将軍の原書を存せるあり 以て本碑に刻す 山田 嘉毅 謹書 明治39年 建立 大正15年4月15日 再建 海老名村 建立「義勇奉公」碑。碑文 昭和9年5月 海老名村 建立戦没者の芳名 刻印陸軍大将 林 銑十郎 書「英魂不朽」碑。戦没者 181柱の慰霊顕彰碑文 日華事変並びに太平洋戦争殉国諸士の遺烈を仰ぎ 広く町民の浄財に依り慰霊の碑を建立 英名を刻み後世に伝え 永く祭祀の誠を致さんとす。 昭和29年4月 海老名町 建立「従軍者氏名」。明治以来大東亜戦争終結までの従軍者の顕彰碑文 明治6年徴兵令が施行され国民皆兵となり 我等が先輩は各戦役に参加 大正15年4月15日 建立大いに国威を宣揚した。 昭和20年大東亜戦争の終結により70年の 歴史をとじたが、その遺勲を顕彰するため、有志相諮り明治百年記念事業として茲に従軍者の 名を刻し永く後世に伝える。 昭和44年7月 海老名町郷友会 建立参道の反対側には郷土かるた「き」「郷土史の 道をひらいた 中山翁」清水寺公園に、故中山毎吉先生の頌徳碑が建っています。先生は明治二十二年から大正十三年まで海老名の小学校訓導、校長をされ、また、青年の育成に努められました。そのかたわら郷土史の研究調査に尽力され「相模国分寺志」などを著し相模国分寺を中心とする郷土の史跡や文化財を顕彰され、わたしたちに郷土を大切にすべきことを示されました。「中山毎吉頌徳碑」。「中山毎吉先生ハ・・・・」と。「中山毎吉は、明治元年(1868)に高座郡国分村に生まれ、尋常高等海老名小学校長のかたわら、文化財や植物の研究を進め、相模国分寺跡などの保存に尽力した人物です。矢後駒吉とともに著した「相模國分寺志」は、国分寺研究の先駆的な研究・報告書として今日でも評価が高い学術書となっています。大正13年(1924)、56歳で小学校長職を退いた後、大正15年(1926)に海老名村が頌徳碑を建てました。撰文は大島正徳、書は鳥海幸助です。中山毎吉は、昭和17年(1942)に享年75歳で永眠されました。」とネットから。そして「仁王門」に向かって進む。寺号標石「臨済宗 建長寺派 龍峰寺」。「龍峰寺境内伽藍配置図」。「掲示板」「船頭が一人しっかりしていれば嵐が来ても船はしずまない」と。嵐=コロナ 船=日本 と読み替えたい!!船頭=新総理 に期待したい!!「気づかい気くばり思いやりそしてほどほどの距離」「子どもには親が望むような才能はなくても 親がわからないような才能があるものです」と。この寺にも「不許葷酒入山門」碑が。ここも禅宗の寺。そして朱の「仁王門」。「仁王門」とこの先にあった「観音堂」は一直線に並んでいた。「観音堂」と「仁王門」は元禄12年(1699年)にこの地に移ってきたときに建立され、現在の「観音堂」は元文2年(1737年)に再建されたものである。また、「仁王門」も寛延4年(1751年)に再建されたもので、かつての清水寺の「仁王門」だったと。「海老名市指定重要文化財 仁王門・仁王像」。「この仁王門は元禄十二年(一六九九)この地に観音堂と共に建立され、寛延四年(一七五一)に再建、昭和五十一年に解体修理されたもので、木造平屋建切妻造りの四脚門です。中の仁王像は密迹金剛力士(みっしゃくこんごうりきし)で共に魔を払い山内の鎮静を守護する像で像高約ニ一〇センチメートルです。寛延四年(一七五一)大仏師薩磨によって作られた忿怒形でよく整った容姿です。」藤の木が邪魔していて・・・なんとか解読できました。阿形像。下から見上げて。吽形像。下から見上げて。「鐘楼」。「梵鐘」。そして正面に「観音堂」が見えて来た。右手には「手水舎(水屋)」。水盤には「笹竜胆」の寺紋が。水口の龍。宝篋印塔の基部であろうか。こちらにも似たような「宝篋印塔」が。「句碑大山の 大きく坐る 刈田かな 九十五齡 竹ニ」。高台にあり眺めがよく、晴れていれば大山を望むことができるのであった。「十三重石塔」。「寶掌地蔵尊」。合掌した手の中に、宝があるのかもしれません。「寶掌地蔵尊」碑。お顔をズームで。「観音堂」がはっきり見えて来た。そして正面から「観音堂」を。扁額は「興徳山」。旧清水寺の山号であろうか。「海老名市指定重要文化財 観音堂(水堂) 江戸時代中期この建物は、相模国分尼寺に縁のある古刹で、旧清水寺の本堂で現在は龍峰寺の仏殿として使われています。元禄12(1699)年に清水寺が現在地に移転してきた際に建立され,元文2(1737)年に再建されたものです.総欅材で、身舎は単層、桁行・梁行ともに8.25mあり、屋根は向拝付入母屋造、内部天井は格式高い格天井となっています。昭和50(1975)年に市の重要文化財に指定され、昭和63(1988)年に解体修理が実施され現在に至ります。」「観音堂」の「海老虹梁」廻りの見事な彫刻。「観音堂」を横から見る。観音堂(旧清水寺本堂)裏。そしてこちらが「本堂」。石段を上がって。外の扁額は「瑞雲山」。内陣にも「龍峰寺」と書かれた扁額が。「本堂 内陣」本尊は釈迦如来坐像と迦葉・阿難像とのこと。手前の読経座。「内陣」の左側。「本堂」を斜めから。大きな花頭窓が確認できた。そして見事な木組みの下に「殿鐘」が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.01
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【海老名市歴史散歩】 目次「常泉院」を後にして坂道を東に向けて上って行くと、カラフルな海老名市のコミュニティバスが私を追い抜く。右折して進むと左手に海老名市立上星小学校の校門。海老名市上今泉1丁目23−1。「自然と歴史のさんぽみち」右手方向が「かいな坂」であると。「かいな坂」を上って行った。途中には防空壕の如き横穴が埋まりかけて。誰もいない「かいな坂」。「かいな坂かって、中世の武将の姫とその家来が敵方の兵に追われこの坂あたりで討たれ、家族たちの不甲斐なさから「不甲斐ない坂」となり、これがつまって「かいな坂」となったといわれています。」途中路地の角、左手のにあったのは、道祖神碑であろうか?海老名市の防火用水槽マンホールの蓋 。はしご車と放水作業中の消防士の耐スリップデザイン。 上部に「耐震性貯水槽」「40」、下部に「海老名市消防本部」の文字。蓋面は黄色に水玉模様、受枠は黄色の地に丸模様が8個、鉄蓋色が交互に色分けされていた。その先をナビに従い左手に折れて進むと右手にあったのが「いちご遊園」。現在地は海老名市上今泉1丁目5。公園のパラソルは巨大なイチゴの姿。さらに海老名市上今泉1丁目12−4の住宅街を北東に進む。そして国道246号・大和厚木バイパスの跨道橋を渡る。国道246号の大和方面を見る。跨道橋を渡り直ぐに左折し、次の目的地の「杉本稲荷社」に向かって進む。途中、急な石段を下って行った。右手にあったのが「杉本稲荷社」。海老名市国分北4丁目6。正面から。社殿の扁額は「杉本稲荷社」。「内陣」。「海老名市立杉本小学校」の前の道に出てここを右折。「杉本小学校南側」交差点を左折し「目久尻川」に向けて進む。右手には石碑が。「振興記念碑」と。ここ杉本地区の土地開発の記念碑であろう。「杉本堰改築記念 大正十二年四月竣工」の文字が確認できた。そして「目久尻川」に架かる「弥生橋」を渡る。「目久尻川」の下流側を見る。その先の路地の先の坂の横にあったのが「子育地蔵」。海老名市柏ケ谷117。この坂道は「堂坂」と呼ばれていたのだと。坂途中の堂山と呼ばれる地に、享保元年(1716)創建の重宝院という修験道の寺院があった。明治5年の修験道廃止令により廃寺となったと。内陣。江戸時代(詳細不明)に作られたと思われる石造りの地蔵塔が祀られていた。横にあった「青面庚申塔」。右上に正徳三年(1713年)と刻まれていた。不動尊供養塔であろうか。ここは「講中」のみ刻まれていた。その横にも。双体道祖神であろう、文政二卯十二月吉日(1819年)と。女神の方は完全に剥離し、姿なし。そして来た道を戻り「杉本小学校南側」交差点を直進し進むと路地の角にも石碑群が。海老名市国分北4丁目3。「道祖神」碑。海老名市国分北4丁目3の坂を上って行った。海老名市国分北3丁目21の住宅街には急な長い石段が。「狐坂」の三角地帯には墓地が。「狐坂」。元は雑木林に覆われた丘の稜線をたどる2m幅の寂しい山道だった。右手(西側)の斜面を狐山といい、狐の穴がいくともあり昭和30年代まで猟師が狐を捕らえて引き返して行く姿をよく見かけたという。海老名市国分北3丁目22。海老名市国分北4丁目3の住宅街を進む。「龍峰寺」への石段を上って行った。海老名市国分北3丁目。こちらが「龍峰寺」の裏口のようであったが、正面から入ることとし更に進み廻り込む。こちらにも「龍峰寺」への石段があった。「清水寺公園」案内板。そして「龍峰寺」の「仁王門」に向かって進む。左手奥にあった観音像?は誰の作品なのであろうか?右手が「清水寺公園」となっていた。桜の名所で有名。公園の名前の由来は、かつてこの地に清水寺(せいすいじ)があったことから。4月になると。 【https://twitter.com/SO04_GORONEX/status/1243739116455378944】よりまた、長さ75mというローラーすべり台があり、子供達に人気の公園と。ここがローラーすべり台のスタート点。長さ75mのローラーすべり台。「自然と歴史のさんぽみち」案内板。「龍峰寺」まで100m、「弥生神社」まで130mであると。左手には池が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.30
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【海老名市歴史散歩】 目次「井戸坂」・「今泉氏の館跡」を後にして次の訪問地の「常泉院」に向かって海老名市上今泉2丁目7の住宅街を進み、県道407号線・杉久保座間線に合流。その手前の右側の民家の前にあった「道祖神」碑。ピンクの緒の草履が奉納されていた。海老名市上今泉2丁目6。そして県道407号線・杉久保座間線を横断し更に斜めに進むと前方に「小田急小田原線」の踏切が。自動車は入り込めない様にポールが立っていた。海老名市上今泉1丁目18と19の境の住宅街の道を進む。コミュニティバス停「17常泉院」を通過。その先、左手奥にあったのが「常泉院」。海老名市上今泉4丁目3−1。「常泉院」入口手前の道路擁壁の下にあった石碑群。寄付金の石碑であるようだ。隣には道祖神と庚申塔か。残念ながらかなり風化して。境内の桜の老木の下には彼岸花が。寺号標石「曹洞宗金龍山 常泉院」碑。「不許葷酒入山門」碑。くんしゅ【葷酒】 山門(さんもん)に入(い)るを許(ゆる)さず。臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。参道左側にあった石仏。山門に向かって参道を進む。正面に「山門」。「山門」の屋根瓦、特に鬼瓦がかなり凝っていた。扁額は「金龍山」。山門の手前にあった「曹洞宗金龍山常泉院」碑「黨院は文治年中(鎌倉時代)開基白翁法印により真言宗・今泉山福泉寺を創建す。その後廃絶せしを 天文十九年(室町時代、一五五〇年) 厚木市七沢曹洞宗広澤寺第三世勇安賢存大和尚により法燈を掲げ 今の山院号 金龍山常泉院(境内深谷中より、清泉常に湧出するをもって) に改められる。本尊は虚空蔵菩薩を安置し、元和年中(江戸時代) 青山伯耆守忠俊公を開基として伽藍を建立し、境内に青山家寄附により、十一重の寶経塔及び同家数代の位牌が現存している。後方の峰には三ヶ所の塚があり之を秋葉古墳と称す。」秋葉山古墳群は、3世紀後半から4世紀前半までの5つの古墳から成る。 当院から秋葉山古墳群を見ると、前にある3つの古墳しか見えず第4、5号墳は裏に隠れて見えないのである。「山門」を潜ると参道脇にはツツジが綺麗に手入れされて並んでいた。。左手にも風情ある石灯籠の後ろには彼岸花の群生が。ズームして。「宝篋印塔」と「六地蔵」。「宝篋印塔」はどなたかの供養塔であろう。「六地蔵」。「手水舎」。龍の水口。墓地の隅にあった無縁仏塚。立錐の余地なく無縁仏が安置されていた。「水子地蔵尊」。赤子を抱く「水子地蔵尊」。足元にも赤子たちの姿が。「鐘楼」。そして「梵鐘」。「社務所」と「客殿」。「白衣観世音菩薩」像が正面に。曲線が美しく。灯籠とのコラボ。鐘楼を背景に。「白衣観世音菩薩観音さまは、わが国の各地に数多く造立されている仏さまで、宗派に関係なく、親しみやすく信仰されております。観音という意味をわかり易く申しますと、世の人々のなやみや苦しみの声をきいて、慈悲をもって救うことなのです。このような有難いお恵みをいただく仏さまを観世音菩薩と申すのであります。奈良法隆寺の国宝又は重文である仏像のうち、現在東京国立博物館に献納所蔵されております宝物四十八体の仏像の中に、白衣観音像があります。」この地に造立されました観音像は萩原家に所蔵のお身丈二尺五寸の白衣観音像を原型として、京都にて拡大製作されたものです。白衣を頭からまとわれ、清純にして美妙な尊容をたたえられております。お顔は女性であっても男女の性別をこえた象徴的な存在なのでありまして、右手には観音経の巻物を掲げておられます。この観音経の中には人の道を説くすぐれた多くの経文が納められております。私たちはこの世に生まれ、常になやみや、苦労が多いものです。この白衣観世音さまにお参り下され、観音様のご慈悲により救済され、ご多幸な人生が迎えられましたら、まことに喜びにたえないと思います。」そして「本堂」前の青銅灯籠を見る。「本堂」。「内陣」。「本堂」前から「山門」方向に向けて境内を見る。「本堂」脇の墓地。境内から「山門」を背景に「水子地蔵尊」、「白衣観世音菩薩」を見る。白壁と曼殊沙華。今なお清水がわき出している「三日月井戸」と呼ばれる泉があった。常泉院の寺号はこの泉から来ていると。名前の通り三日月形をしており,底まで見透かせる澄んだ水をたたえていた。この井戸は別名「弘法様の井戸」と呼ばれていると。昔、弘法大師がこの地を通りかかった折,水飢饉に苦しむ村人を見かねて、持っていた杖で地面をポンとたたいたところこの泉がわき出たと。また、この付近の民家には井戸がないところが多く,太平洋戦争前ぐらいまではこの泉の水を使っているところが多かったといわれているとのこと。そして駐車場にあったサルスベリの花とその下に彼岸花が。ズームして。そして金木犀も香り豊かに。ズームして。シュロ(棕櫚)の葉の上に花も散り始めて。再び客殿を見る。「常泉院」を後にすると、近くにあった「自然と歴史のさんぽみち」案内板。坂道を上り始めて「常泉院」を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.29
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【海老名市歴史散歩】 目次「永珊寺」を後にして県道46号線を南に進む。標識には51号線とあるが?そして「下今泉中通」交差点を斜め左に折れ進むと路地の角に石仏の姿が。大山道標?であろうか。「嘉永ニ(1849年)」の文字が。不動明王像なのであろうか?正面から。右手にも石碑が。右:「此方大山いゝやま阿つキ」(大山、飯山、厚木)左:「此方ほしのや道」(星谷) とある とネットから。風化が激しくて読み取れないのであったが。そして近くにあった「三島神社」。海老名市下今泉5丁目8。社殿の右奥には「住吉神・・」と刻まれた石碑が。昭和45年、国道246線の建設に伴い、「住吉神社」と「三島神社」はこの横の「浅間神社」境内の一角に移り鎮座しているのであった。「三島神社」を斜めから。「三島神社」の横にも石祠と石碑が。そしてその先にあったのが「浅間神社(あさまじんじゃ)」。海老名市下今泉5丁目8−15。社務所。扁額には「浅間大神社務所」と。この石碑は??参道から狛犬、石鳥居を見る。扁額「浅間大神」。手水舎。鐘楼。梵鐘。多くの石灯籠が並ぶ先に拝殿が。「拝殿」。見事な龍の彫刻。拝殿の扁額「浅間大神」。「浅間大神 略詩」。一.鎮座地 海老名市下今泉九五一番地一.祭 神 木花咲哉姫命一.例祭日 八月一日一.神事・芸能 例祭日境内に設ける屋台にて神楽囃子を打つ一.由緒 沿革 延暦元年六月朔日、相模介橘永範富士浅間神社より勧請と傳う。 領主高橋 右近橘重信 別當海老山法印慶義の勧請文に、領主橘重信は住居家門の 辺りに道法三丁五十六間 を退いて神祇を卜すとある社地長さ二十六間、廣さ 九間余、 右に流れあり黄龍の渡るが如く左は 田野を構えて景趣計るべからざるものあり 當時の地点と余り変りはない。文永八年九月日蓮上人 佐渡配流の際、當大神の 加護を感謝し真筆の名號を授けられたので長く懸けてゐた。残存の棟札 に 享保三年再營、安政三年大破損翌年再建明治四十二年本殿修理大正十二年 関東大震災に因り 全社殿倒潰、同十四年再建昭和五十一年本殿改築併て幣拝殿も 銅板葺に替る。明治十三年再建の 鳥居は昭和四十八年再建、正徳元年鋳造の鐘は 戰時供出のため昭和三十九年再鋳奉納する。明治 六年十一月村社に列し大正九年 七月神饌幣帛料供進社に指定された 昭和六十一年十二月吉日 宮司 小島重治記 奉納者 坪井守三拝殿の奥に本殿。「凱旋記念」碑。明治三十七八年日露戦役の地元の出征軍人の名が刻まれていた。手前に「本殿改築・屋根替・鐘楼堂修理」記念碑。奥に參宮記念碑。境内に咲く赤の彼岸花。上から。そして近くにあったのが酒屋。海老名市下今泉5丁目5−1。「泉橋酒造」。創業1857年。神奈川県海老名市にある日本酒の蔵元。地元で山田錦などの酒米栽培から精米・醸造まで一貫して行う”栽培醸造蔵®"。古来より海老名耕地(えびなごうち)と呼ばれる地元・海老名をはじめ近隣地区での酒米作りに自ら取り組んでいるとのこと。入口には「杉玉」が。「杉玉」はおおむね2月~3月に飾られるが、この時期は新酒の季節であり、杉玉には「今年も新酒ができましたよ」という目印になる。吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。緑色(2月~6月頃)は新酒の季節、薄い緑(初夏~夏頃)は夏酒、枯れた茶色(秋頃)はひやおろしの季節というように、日本酒造りの時期と杉玉の色は同調しており、杉玉の色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を伝える。今日では、酒屋の看板のように受け取られがちであるが、元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったとされる。俗に一休宗純の作とされるうた「極楽は何処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門」は、杉玉をうたったものである。スギの葉は酒の腐敗をなおすからスギの葉をつるすという説もある。とウィキペディアより。酒蔵SHOP「酒友館」はOPEN前であった。奥に酒蔵、右手の白い蔵が「酒友館」。「酒友館」「いづみ橋」の文字が。特選生翫純米大吟醸の人気の酒であるようだ。工場。「いづみ橋」のシンボルマークになっている赤とんぼは、泉橋酒造の田んぼを飛び交う姿をイメージしており、酒米栽培における無農薬・減農薬栽培の約束として使っていると。直営レストラン「蔵元佳肴」であろうか。人気の酒「いずみ橋」が後日、海老名市役所を訪ねた折、地元の銘酒として展示されていた。そして近くにあった畳屋。我が家の畳もここ海老名市内の畳屋からのものであるが店の名前が異なっていた。田んぼの先の大きな建物は「神奈川県立産業技術総合研究所(KISTEC)」。海老名市立今泉中学校の横をJR相模線に向かって東に進む。ここは「おあしす通り」と呼ばれているようであった。オアシスあいさつ運動の一環として、「おあしす通り」を設置し、挨拶を通して子どもと大人のふれあいの場を提供。市内6つの中学校区にそれぞれ「おあしす通り」を設定し、自動・生徒が描画した啓発看板を取り付けたと。「今泉中学校前」交差点の先にJR相模線の踏切が見えて来た。踏切を渡るとその先に急坂が現れた。「井戸坂鎌倉時代、この坂の上に「今泉氏の館」があり、坂の下にその館で使用していた井戸があったという伝承からこの名がついたといわれています。」今泉中学校の東方、相模線の「井戸坂踏切」から東に向かって上る坂であり「今泉氏の館」の茶の湯の水を汲みあげた井戸であったと。武蔵七党の1つ猪俣党に属する「今泉氏の館」と推測されている。『吾妻鏡』には、承久三年(1221)の承久の乱で討ち死にした今泉七郎の名がみえる。しかし室町時代に入ると、今泉氏の名はみられなくなる。永享十二年(1440)、前年の永享の乱で自害した鎌倉公方足利持氏の奉行人であった一色伊予守六郎が、今泉館に立て籠もって抵抗を続けた。関東管領の両上杉氏は、家臣長尾憲景・太田資光を派遣し、今泉館を攻めさせた。伊予守は敗れて下野国へ逃れ、後の結城合戦へとつながった。落城に際して、伊予守の妻の護王姫にまつわる伝承が残っている。護王姫は、伊予守脱出後も館に残っていたが、このとき子を身籠っていた。護王姫も館を脱出して逃れようとしたが、途中で産気づいてしまい、そのまま出産した。その赤子は敵に捕まり、目久尻川へ投げ捨てられた。護王姫は何とか星谷までたどり着いたものの、そこで息を引き取った。この落城により、今泉館は廃城になったものと思われる とネットから。「井戸坂」を上って行った。坂の上の路地の角にあった石碑群。左手には道祖神碑、右手にあったのは庚申塔だろうか。上って来た「井戸坂」を振り返る。石碑群の角を北に進むと左手奥にあったのが「クリオ海老名参番館」この辺りが「今泉氏の館」があった場所のようであった。そしてその先には小さな社があった。この社は「今泉氏の館」と何か関係があるのだろうか?いずれにせよ「今泉氏の館」の遺構は残っておらず、「井戸坂」が唯一の名残なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.28
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【海老名市歴史散歩】 目次次の目的地「おしな坂」に向かって海老名市上今泉4丁目20の住宅街を進む。そして突き当りを左に曲がり進む。この道路は、海老名市と座間市の境界道なのであった。これは座間市の汚水マンホール蓋。平成元年に導入された、市の花「ヒマワリ」がデザインされたマンホール蓋。 カラー仕様は昭和44年に市の花として制定されたヒマワリの枝葉の深緑は、たくましく発展をつづける市を、また大輪の花は、市民が手を結び合い明るく健康なまちづくりを目指す姿を象徴している と。 こちらはノンカラー。小田急線の踏切が前方に。小田原方面を見る。「座間7号踏切」と。そして県道407号線・杉久保座間線を横断し更に進むと、突き当りに石碑が見えて来た。「おしな坂」碑。座間市入谷5丁目と海老名市今泉3丁目の境界にある坂。この坂は、「石名坂」とも呼ばれていたもので「おしな坂」はこれが変化したものと思われるが、地域では、相模川の氾濫から村を救った娘「おしな」の伝説とともにこの坂名が伝えられていると。この道は「府中街道」と呼ばれたと。海老名境の榎戸橋から,河岸段丘を東北に上る坂道。坂上で鎌倉古道と交差する。坂上に行き倒れの巡礼を弔ったと思われる地蔵尊の石仏がある。「お品坂」ともいうが,「いしな」「おしな」の語呂が似るからで、お品という美女がいたことになり、「お品伝説」が生まれたのであろう。「おしな坂」の 坂下方向に進む。更に進む。「ヤブミョウガ」がここにも群生していた。花が終わると初秋にかけて直径 5mm 程度の球状の実を付け、すぐに葉を落とす。実は若いうちは緑色で、熟すと濃い青紫色になるのだ。「おしな坂」の 坂下から歩いて来た坂道を振り返る。この先を右折すると前方にJR相模線の踏切があった。タイミングよくJR相模線の車両が通過。「榎戸踏切」と。18K018Mは茅ヶ崎駅からの距離であろう。JR相模線は茅ヶ崎駅と橋本駅間33.3kmを結ぶ。全線が単線で1991(平成3)年春までは、神奈川県を走る旅客線のうち唯一残っていた非電化路線だった。そうしたローカル線も2027年には橋本駅にリニア中央新幹線の駅ができる予定で一躍、脚光を浴びつつある。現在は全線単線でローカル線の風情を色濃く残すのである。相模線は今でこそJR東日本の路線だが、開業させた会社は相模鉄道だった。さらに現在の相模鉄道のメイン路線とも言うべき相鉄本線は、神中鉄道(じんちゅうてつどう)という別会社が開業させた路線だった。相模鉄道自らが造った路線がJRの路線となり、一方で別会社が造った路線が相模鉄道となっているのである。そして相模線はほぼ相模川沿いを走っている。相模線は相模川の川砂を運ぶことを目的に路線が敷かれた。相模鉄道は1917(大正6)年に会社が創立している。1921(大正10)に茅ヶ崎駅〜川寒川駅間にまず路線を開業された。川寒川駅は相模川に近い現在の神川橋付近にあった駅だ。その後、間もなく1923(大正12)年に関東大震災が起こる。相模線も被災し、路線の復旧まで1か月かかった。一方で復興のため、また東京の山手に新たな住宅地が求められたことなどで、多くの砂利が必要となった。その後に、寒川駅から北へ路線の延長が進められた。当時は砂利運搬用の貨物列車が多く走ったことから「砂利鉄道」と揶揄された時代もあった。とはいえ関東大震災からの復興を目指す東京、横浜には欠かせない路線だったのだ と。踏切横の水路には清流が勢いよく流れていた。この手前に「榎戸制水門」があった。ゲートの下流の白き流れ。その先にあったのが「お松地蔵尊」。海老名市上今泉3丁目4−15。樹木や花々に彩られた土地の中央で、お地蔵さまは微笑みを浮かべ両手を胸前で重ね合わせ蓮台にのる。その頭部は僧形でなく髪を縄状に編んでいるのが特徴で、大きな舟形光背を伴う。寛文2(1662)年鳩川の氾濫を防ぐため治水工事が行われた。この際、村の娘お松が人柱になったことから村人がお松の供養塔(地蔵尊)を建て、かたわらに榎を植えた。地蔵尊は1970年代になくなってしまっていたが、平成5(1993)年に地元の人が新たなお松地蔵尊を建立した。また、この地はお松の榎に由来した榎戸という地名が残っている。お松の碑の周辺の水田にはめずらしい小さなホシクサが生育しており、刈り入れの頃に咲く小さな花は白い星を思わせる と。郷土かるた「す」。「水害から村を救ったお松の碑」。田園越しに「海老名駅」方面を見る。相模川左岸幹線用水路・榎戸制水門を振り返る。彼岸花が咲く。田園の中の道を水路沿いに西に進む。田園風景を楽しみながら。稲刈りも間近に。ペットボトルのゴミ捨て場の如き畑の姿が。鳥避けなのであろうか?異様な光景なのであった。そして見事なシルバーマルチの畝の畑。カリフラワーの苗であろうか。私は黒マルチを使っているが、アブラムシ対策等にはシルバーマルチが有効なのであろうか。そして県道46号線・相模原茅ヶ崎線まで歩きここ「上河原」交差点を右折した。100mほど進むと左手にあった「弁財天社」。海老名市下今泉3丁目5。そして引き返し「上河原」交差点を過ぎて進むと左手にあった「地蔵堂」。海老名市下今泉4丁目2−33。道路を渡って。六基の石仏・石碑が並んでいた。幸いにも石仏・石碑の名前が書かれていた。左から「合掌の地蔵」。「馬頭観世音」。「庚申塔」。「子育地蔵尊」。「岩船地蔵尊」。そして右手前にも「庚申塔」が。「住居表示街区案内図 上四丁目 下今泉ニ・三・四・五丁目」そしてその先にあったのが「曹洞宗 金殿山 永珊寺(えいさんじ)」入口案内板。「永珊寺」入口。海老名市下今泉4丁目2−7。「本堂」と両脇に「仏旗」が。永珊寺の仏旗は「緑、黄、 赤、白、紫」の五色で古くから日本で使われている色。扁額「永珊禅寺」。曹洞宗の寺。「掲示板」。「慈母観音像」。お顔をズームして。赤い大きなよだれ掛けを着けた「六地蔵」。お地蔵さんは子供を守る神様として信仰される事が多く、自分の子供が元気に育つようにと、よだれかけを奉納するのだと。よだれかけだけではなく、丸い頭にかぶせる頭巾を奉納されることもある。このよだれかけや頭巾、なせ赤色なのか?赤という色は「清く」「正しい」そして「正直な色」と信じられており、魔よけとして赤ちゃんや地蔵さんに赤いものを着せる風習があるのだと。還暦でも赤いものを身につけるが、これは干支が一巡りして赤子に還るという意味で、地蔵さんや赤ちゃんが赤いものを身につけるのと同様の意味で贈られるのだと。右手に「交通安全祈願之碑」、中央に台座に「為供養」と刻まれた石仏、左手には「南無阿弥陀仏」。墓地。寺務所。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.27
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【海老名市歴史散歩】 目次「秋葉山古墳群」に向かって進む。大山の頂部には雲がかかって山頂の姿は確認できなかった。「中心荘第一・第二老人ホーム」の前を通り進むと前方に「秋葉山古墳群」の入口が見えて来た。正面に石碑と案内板が。「史跡 秋葉山古墳群」碑。「国指定史跡 秋葉山古墳群」案内板。「秋葉山古墳群は、座間丘陵の頂部に立地し、海老名市内で最も標高が高い場所(標高75~80m)にあります。北から第4号墳、第5号墳、第3号墳、第2号墳、第1号墳と5基の墳墓が地形に沿って連なっています。古墳群から西を望むと現在「海老名耕地」と呼ばれる水田と南北に流れる相模川が一望に見渡せます。また相模川の向こうには、丹沢山塊や大山を望むことができます。このような景勝地であり、交通の要衡であったことからこの辺りを治めていた首長は、この地に歴代の墳墓を築いたと考えられます。昭和63年(1988)から平成15年(2003)までの発掘調査によって3世紀後半から4世紀にかけて継続的に造られたことがわかりました。年代が古い順に第3号墳・第4号墳→第2号墳→第5号墳・第1号墳となり、不整形で低い墳墓から徐々に整った前方後円墳へと変遷していく様子をとらえることができます。中でも、第3号・第4号墳は弥生時代から古墳時代の移行期に造られたと考えれ、東日本では数少ない貴重な遺跡です。これらのことから、南関東における出現期古墳のあり方およびその時期の社会を考えるうえで重要と評価され、平成17年(2005)7月14日に国指定史跡となりました。」1~3号墳は前方後円形墳、4号は前方後方形墳、5号は方形墳であると。配置図。 【https://blog.goo.ne.jp/ueda01/e/19c8cbf20490f72f8805304b6dd20d15】よりまずは1号墳を見る。1号墳には山王社が祀られていたことから山王山と呼ばれていた。後円部に対して前方部が細長くなっているのが特徴で古墳群の中で最も遅い時期に築造された。1号墳は墳長59m、前方部長26m、後円部径33m。前方部の高さは2.8m、後円部の高さは6.3m。周濠は見られないが前方部正面にのみ溝が掘られている。1999年の発掘調査により、整った形の前方後円墳であることが確認された。後円部の大きさは第2号墳とほぼ同じですが、前方部が長くなっている。前方部の南側には古墳を区画する溝がみつかっている。西側のくびれ部からは小型で底の丸い柑(かん)とよばれる土器と、鉄製の鏃(やじり)が出土した。出土した土器から、第1号墳は4世紀代に造られたものとみられる。と海老名市のネット資料から。(以下同じ)【https://www.city.ebina.kanagawa.jp/shisei/profile/tankyusha/bunkazai/1006603/1000694.html】より、以下同じ。1号墳の脇の草むら。「史跡秋葉山古墳群利用案内」。郷土かるた「い」。「今泉 古墳群ある 秋葉山」。2号墳(秋葉山)は3世紀末~4世紀初頭に造られた前方後円形。後円墳の石段を上って行くと墳頂部の正面に大きな石碑が。2号墳頂上は、標高84.6mで市内最高峰であると。秋葉山古墳群は、明治時代頃から広く知られるようになった古墳群で、2号墳に秋葉社が祀られていたことから秋葉山と呼ばれ、これが古墳群の名称となったのだと。墳頂部にあった「憲政碑(けんせいひ)」。憲政碑は、昭和戦前期に立憲政友会に所属して衆議院議員を務めた胎中楠右衛門(たいなかくすえもん)を発起人として、日本近代の憲政における功労者の慰霊を目的に、ここ神奈川県海老名市上今泉の国指定の史跡秋葉山古墳群第2号墳墳丘上と、東京都台東区西浅草の浅草本願寺境内の2か所に建立された碑である。石祠も。2号墳から下り振り返る。2号墳を散策道側から。手前が前方墳、先が後円墳。2号墳は墳長50.5m、前方部長18.9m、後円部径33m。前方部の高さは4.6m、後円部の高さは7.7m。2000年の発掘調査で、後円部に対して前方部の短い前方後円墳であることが分かった。くびれ部を中心に、全国的に類例のない埴輪(はにわ)状の円筒形土製品や、水銀朱(すいぎんしゅ)の付いた片口の鉢などの土器が出土した。水銀朱は真っ赤な顔料で、とむらいの儀式に使われていたようだと。前方部南側には古墳を区画する溝があり、南側のくびれ部では焚き火の跡がみつかった。第2号墳は3世紀末から4世紀初頭に造られたものと。3号墳は3世紀後半に造られた前方後円形(現状は円形)。3世紀後半だから270年ぐらいか?魏志倭人伝によれば西暦247年に女王「卑弥呼」が死去しているので秋葉山古墳群初期の3号墳が造られた時代と大体一致。第15代天皇・応神天皇が即位した時期。こんな太古なものが残っているのであった。墳頂部にあった構造物。これも石祠だったのだろうか?見た目は焼却炉みたいな構造物。石祠の屋根は消失してしまったのか?旗掲揚台の土台。墳頂部を見る。ここにも石祠の如きものが。3号墳を振り返る。3号墳は墳長推定51m、前方部長不明、後円部径38~40m。大正時代の記録から前方後円形であったことが分かっています。現存するのは後円部のみであるが、古くは南西方向に前方部があったことが判明している。1988年~2002年の発掘調査の結果、後円部がいびつで、削平されたと見られる前方部の短い墳形と考えられる。後円部に棺を納めた墓穴がみつかり、マツリに使用されたとみられる水銀朱のついた片口鉢や高杯(たかつき)が出土した。後円部の周りの溝(周溝)からは壷も出土している。第3号墳は弥生時代から古墳時代の過渡期である3世紀後半に造られたものと。白の彼岸花が満開中であった。そして1~3号墳の見学を終え、裏口から出て振り返る。秋葉山古墳群は、昭和30年代までは樹木がほとんど生えていなかったが、現在ではコナラやクヌギなどの多くの落葉樹に包まれていたのであった。裏口の右手の先にはコミュニティーバス停「10 秋葉山古墳群」があった。そして道路を越え、石段を登ると「上今泉自然公園」内あったのが、5号墳で4世紀前半に造られた方墳。一辺約20m(周溝含まず)。周溝がある。小型丸底土器、小型器台、小型壺出土。出土した土器は1号墳と相似した時期とみている。「5号墳」5号墳は約27m×26m、周溝を含む。1988年の発掘調査では西側に浅い溝が確認された。溝からは土器がまとまって出土し、4世紀中頃に造られたことが分かった。4号墳。4号墳で3世紀後半に造られた前方後円墳とのことであるが、この古墳は前方後円墳には見えなかった。円墳に近いと。墳長推定37.5m。2002年~2003年の発掘調査結果から、秋葉山古墳群唯一の前方後方墳と分かった。第3号墳と前後して造られたものと。墳丘は第3号墳と比べて低く、より弥生時代の墳丘墓的要素の強いものであると。赤の彼岸花。そして、4号墳、5号墳のある「上今泉自然公園」を見上げる。直ぐ先左手にあったのが「えびな北高齢者施設」。民家に庭のには涼しげに薄紫の小さな花が咲いていた。初秋の暑い盛りにも爽やかな花にほっと出来るのであった。ルリマツリ(プルンバゴ)であろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.26
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