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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次「大曲神社(旧十二神社)」を後にして次に訪ねたのが「正一位お稲荷さん」。神奈川県高座郡寒川町大曲1丁目7−12。立派な社殿。南に進むとT字路の角に石仏が。「道祖神」であろう。神奈川県高座郡寒川町大曲1丁目18−38。そして次に訪ねたのが「大曲地蔵堂跡(大曲共同墓地)」。東福寺(廃寺)地藏堂(廃堂)があった場所とのこと。神奈川県高座郡寒川町大曲1丁目17。当初の札所地蔵堂は宝永4年(1707)円心が建立したもので、東恵山 東福寺(今は廃寺:古義真言宗岡田村安楽寺末、本尊薬師)持ちであった。新編相模国風土記稿に「地蔵堂、宝永四年(1707)四月僧円心建、東福寺持」とあるとのこと。現在、大師石像は共同墓地の一角の小堂に六地蔵と共に一番右端に納められていた。相模国準四国八十八ヶ所札所第14番の「弘法大師坐像」。六地蔵 享保5(1720)年:6体の地蔵が六道を巡り、六道衆生を救済すると信じられている。第1:地獄・・・大定智悲地蔵 第2:餓鬼・・・大徳清浄地蔵第3:畜生・・・大光明地蔵 第4:修羅・・・清浄無垢地蔵第5:人道・・・大清浄地蔵 第6:天道・・・大堅固地蔵観音講供養塔(右) 不動明王坐像(左)再び現在の「大曲共同墓地」を見る。「大曲地蔵堂跡(大曲共同墓地)」を後にして県道45号線・中原街道を南方向に進む「大曲地域集会場」の敷地内にあった石碑群。この場所は「下大曲神社跡」であると。「下大曲神社の碑」。「下大曲神社の碑昔は下大曲の地は下大曲村として独立し一七〇〇年に大岡忠相が領主となり 氏神様として「下大曲神社」が建立された 当時は十戸足らずの小さな集落であった その後 明治に入り田端の貴船神社と合祀されたものの大正時代に入り再び下大曲 の地に戻された 昭和四十九年(一九七四年)七月「大曲児童館」建設のために境内敷地の一部を寒川町に貸与し 今般 同 施設の老朽化に伴い「大曲集会所」として 建て替えることとなり地域発展の為に協力することとなったしかし境内の相当部分を提供することとなり、また下大曲神社の建物も老朽化が進み 更に神社前の道路は交通量が急 増し境内で祭典を催すことは非常に危険な状況となった 一方 大曲地区の世帯数は壱千世帯を超えたものの氏子の数は減少を 続け 将来的に神社の管理運営が困難な状況に陥る可能性も出てきたた等々を勘案し氏子の同意の元に 今般 合祀すること となった」「庚申塔」碑。「庚申塔寒川町指定重要文化財第十四号」昭和六十二年六月三十日指定承応ニ年(一六五三)九月銘のこの石塔は、四臂の青面金剛像と二猿、雌雄の鶏が刻まれた庚申塔としては全国で最も古く、茅ヶ崎、藤沢、平塚、寒川で確認されている七体の中でも最古のものである。石造笠付角柱型 塔高九十センチメートル」。ネット情報によるこの庚申塔は現在、この庚申塔は寒川神社方徳資料館で保管されているとのこと。 【http://chikyodokai.wp.xdomain.jp/?p=10592】よりそして「大曲地域集会場」。更に東に進み、「聖天橋(しょうてんばし」の手前の住宅街の路地を左に折れて進んだ場所の墓地の中にあった「地蔵尊」。墓地の隅には宝篋印塔や多くの石仏が並んでいた。小出川の堤防の下にあった「地蔵堂」。神奈川県高座郡寒川町大曲2丁目6−28。「舟型光背地蔵尊 寛文3年(1663)」(右)「地蔵尊 明和8年(1771)」(左)「光明真言供養塔 文化7年(1810)」塔身の正面上部に弘法大師坐像が陽刻されていた。陽刻された弘法大師坐像に近づいて。「小出川」の堤防側から「地蔵堂」を見る。「東福寺跡 大曲共有墓地」碑。「地蔵尊・舟形光背地蔵尊 右 江戸時代(寛文三年・一六三三) 舟形の光背をそなえた地蔵菩薩立像です。 風雨にさらされていたにもかかわらずきれいに遺っていた。・地蔵菩薩立像 中央 江戸時代 明和八年・一七七一)・光明真言供養塔 左 江戸時代 文化七年・一八一〇) 塔身の正面上部に弘法大師坐像が陽刻されていた。東福寺跡新編相風土記稿に「東恵山と号す。古義真言宗岡田村安楽寺未、本尊薬師」とあります墓地が聖天橋の北側にあり、歴代住職の墓石(無縫塔または卵塔)も残っています。」堤防上から「小出川」を見る。そして「小出川」に架かる「聖天橋」を渡る。「小出川」銘板。「半夏生(はんげしょう)」 夏至から数えて11日目(もしくはその日からの5日間)「半夏生」と呼ぶが、その頃に花が咲くことから「半夏生(はんげしょう)」 の名が。上の方の葉っぱが、ペンキをべったり塗ったように 白くなるのがおもしろいのであった。白い葉っぱと花をズームして。「聖天橋」を渡る。この橋に「聖天橋」の名前がついた理由は?そしてこの日の散策、そして「寒川町」の全ての散策を完了し、「香川駅」に到着したのであった。「寒川町」の散策では、この香川駅から2度スタートしたのであった。そしてこの日に、私の住む神奈川県藤沢市と市境を接している6市1町鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、茅ヶ崎市、寒川町、の寺社旧蹟巡りを全て完了したのであった。以下にその散策リストをリンク付きで。★藤沢市歴史散歩(116)★横浜市泉区歴史散歩(39)★大和市歴史散歩(16)★綾瀬市歴史散歩(13)★鎌倉市歴史散歩(175)★海老名市歴史散歩(50)★茅ヶ崎市歴史散歩(84)★寒川町歴史散歩(27) ・・・もどる・・・ ⛩⛩⛩ 寒川町 完 ⛩⛩⛩
2022.07.29
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次「生往寺」を後にして、県道44号線・伊勢原藤沢線に出て「田端南」交差点を渡る。上部の高架は圏央道。県道44号線・伊勢原藤沢線に沿って西に進むと左側には墓地が。更に進むと左手奥には教会があった。「日本ホーリネス教団 萩園キリスト教会」。茅ヶ崎駅から一番近いプロテスタントのキリスト教会。Googleマップでは「萩園キリスト教会」の100m弱の場所に「大山灯籠」があると示されていたが何も見当たらなかった。ネットで調べてみると下記の如きページがあった。「かつて寒川に複数あった大山灯籠が、昨年の夏に岡田4丁目(中町)だけになった。7月25日から8月17日まで、地域住民が輪番で夕暮れに灯籠に火を入れているのだと。江戸時代の大山詣りには20万人が参拝、参詣者の夜道の安全のために地元住民が立てるようになったとも言われる。数年前までここ田端神之倉や田端宿、田端東、岡田の東守神社前(上下町)にも立っていたが、高齢化などの影響で減少。一昨年は岡田の中町と上下町の2基だけが灯され、このうち上下町は昨年夏を最後に終了し、東守神社に納められた。」と。この「田端神之倉の大山灯籠」はどの神社に納められていつのであろうか。「田端神之倉の大山灯籠」をネットより。 【https://ameblo.jp/samukawa-kankou/image-12354364144-14135272929.html】より再び県道44号線・伊勢原藤沢線まで戻り、道路を渡り次の目的地の「医王院」に向かって進む。途中右側には圏央道の高架とその下に、先程訪ねた「萩園キリスト教会」が見えた。道路脇のアジサイを楽しみながら進む。ここ「田端宿」交差点を右折して進む。「田端宿」交差点の角にあった「田端薬師 医王院」案内板。そして右側に「医王院」への参道が現れた。正面に「医王院」の「山門」と「本堂」。「田端山 醫王院」碑。「本尊藥師如来」碑。「寺務所」。「手水舎」。「本堂」。田端山医王院は、田端にある高野山真言宗、もと古義真言宗の寺院。山号を田端山といい、岡田の安楽寺末。本尊は薬師如来。「医王院縁起」によれば、承和元年(834)、摂津(せっつ)の僧龍海による開山とするが、『新編相模国風土記稿』は、永禄3年(1560)に再興した伝誉を中興とする。江戸時代は鎮守貴船大神と稲荷社を支配したが、神仏分離にともない医王院は寺院として存続し、貴船大神は斎藤龍太夫に管理させる旨の願書が明治2年(1869)に作成されている。扁額「醫王院」。「内陣」。本尊は「薬師如来」。墓地を見る。医王院本堂東側墓碑。田端山医王院境内最古の墓石と思われる。開山した伝誉に関連した石仏。「三猿庚申塔」 元禄3年(1690) 正面と左右に各一匹の三猿が。「醫王院」を後にして、「神奈川県立寒川高等学校」に向かって農道をひたすら歩く。農道脇のアジサイ。近づいて。「グリーンガーデン寒川」案内板。「神奈川県立寒川高等学校」の南側にある「グリーンガーデン寒川」は、さがみ農協寒川町青壮年部の皆さんが、遊休農地解消対策事業の一環として世話をしている農地。秋のコスモス畑は、地域の秋の風物詩として定着していると。次の目的地は「高安善塚(こうあんぜんづか)」であったが、なかなか見つからなかった。そして何とか発見。下寺尾にあった七堂伽藍に纏わる尼伝説が残っていると。内陣には位牌が安置されていた。「高安善塚之諸霊位」と。「高安善塚 ~伝説 美女塚物語~榎戸(えのきど)ここより三十m南側の旧大山街道沿沿いに一軒の茶屋かあり、洒あるいは雑貨を売る旅人の休み所でした。そこに昔から大きなき榎があるところから「榎戸」と呼ばれ、現在も昔の面影を残す何代目かの榎がある。~むかしむかし、その大きな榎の木の下に、海老名の国分尼寺よりつかわされた美人の若い尼さんが榎堂と呼ばれるお堂を建て、下寺尾の海円院(七堂術藍)の堂守りとして、毎日通っていましたが、ある日、七堂伽藍の輝きで魚がとれず困っていた漁師を助けたい一心で見守ってきた人達のことも考えす焼き払ってしまい、その罪で火あぶりの刑を受け悶死したという伝説がある。その尼さんを供養したものが、昔この東方にあった美女塚であり、あまりの荒廃ぶりに有志の方によって現在この地に移され、「高安善塚」と呼ばれ供養されている。供養碑は、妙光寺境内に安置されている。」民家の庭にあったのは「スモークツリー(煙の木)」であろうか。次に訪ねたのが「大曲神社(十二神社)」。裏口には「道祖神」碑と「庚申塔」碑が。神奈川県高座郡寒川町大曲1丁目16−9。その横にも「石祠」等があった。そして「大曲神社」入口に到着。神奈川県高座郡寒川町大曲1丁目16−10。社号標石は「大曲神社」。狛犬(右)。狛犬(左)。「社殿」。祭神 国常立神 ( くにのとこたちのかみ ) 豊雲野神 ( とよくもぬのかみ ) 宇比地迩神 ( ういじにのかみ ) 須比地邇神 ( すいじにのかみ ) 角杙神 ( つぬくいのかみ ) 活杙神 ( いくくいのかみ ) 意富斗能地神 ( おおとのじのかみ ) 意富斗乃弁神 ( おおとのべのかみ ) 淤母陀琉神 ( おもだるのかみ ) 阿夜訶志古泥神 ( あやかしこねのかみ ) 伊邪那美神 ( いざなみのかみ ) 伊邪那岐神 ( いざなぎのかみ ) 天照大神 ( あまてらすおおみかみ ) 天忍穂耳命 ( あめのおしほみみのみこと ) 瓊瓊杵命 ( ににぎのみこと ) 彦火火出見命 ( ひこほほでみのみこと ) 鵜草葺不合命 ( うがやふきあえずのみこと )扁額「大曲神社」。新編相模国風土記稿に「十二天社 社頭に安永八(1779)年の鐘あり、岡田村宝幢院持」とある。明治維新の際、十二天社を十二神社と改称。明治末年の神社合祀の際、単独で神社を存続させる財源確保のため、こちらの神輿を180円で茅ヶ崎の八雲神社へ売却したといわれている。平成22年、下大曲神社と合祀され、大曲神社となった と。過去の「十二神社」碑。この社号標石は下大曲神社と合祀前は鳥居脇の大曲神社号社標石の位置にあったのだと。狛犬の台座の側面には「氏神の 守りはかたし 七十余年 けうぞ謝すなり えりをたゞして」と。狛犬の台座の側面には「唐獅子や みたまと共に とこしえに まもりつゞけよ このみやしろを」と。「大曲神社」を後にして進むと、見事に手入れされた広い庭を持つ民家が。栗の実の赤ちゃんの姿を。別の民家の立派な門。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.28
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次次に「貴船大神」に向かって進む。「貴船大神」横の「稲荷社」が手前の路地を右に曲がって進むと鎮座。神奈川県高座郡寒川町田端。朱の鳥居には「正一位」と。社殿に近づいて。「ガクアジサイ」👈リンク。「墨田の花火」に似ていたが。「西洋アジサイ」とのコラボ。そして「貴船大神」に到着。神奈川県高座郡寒川町田端824。石鳥居前から拝殿を見る。「手水舎」。「田端地域集会所」。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「拝殿」。「宗教法人 貴船大神鎭座地 高座群川町田端八ニ四番地御祭神 加具土命(かぐつちのみこと、責船大神) 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)(稲荷大神) 譽田別命(ほんだわけのみこと) 大雀命(おおさきのみこと)(若宮八幡宮) 大山咋命(おおやまくいのみこと) (日枝大神) 日本武命(やまとたけるのみこと)(御嶽大神)境内地 一、ニ四六平方米由緒沿革建久年間の創建と傳ふ往古に於ける社殿の規模は明らかてないが現存する萬治ニ年 社殿再興の楝札及び其の後の修覆再建等の棟札造營の沿革を知ることが出来る 社名については文政七年の差出帳に「鎮守貴船宮社地十五間四方釣鐘一口云々」と記し新編風土記には「貴船社鎮守なり例祭九月ニ十九日云々」とあり又棟札には貴船大明神と記し区々であるが明治ニ年村社に列格の際 貴船大神と改稱す 明治四十一年田端地内の無格社若宮八幡宮並に境内三社稲荷大神・日枝大神・御嶽大神を合併 大東亞戦後社格改廃に依り現在 神社本庁所属となる御祭事 元旦祭 一月一日 祈念祭 ニ月十七日 雹祭 四月初寅 虫送祭 七月十六日 例祭 九月ニ十九日 感謝祭 十一月ニ十三日」見事な鳳凰、龍の彫刻。木鼻(右)。木鼻(左)。扁額「貴船宮」。先代の石鳥居。関東大震災で倒れた鳥居を使った、震災記念碑。「田端土地改良完成記念碑」。「殉国碑」。横から「拝殿」、「本殿」を見る。「鐘楼」。「梵鐘」。別の角度から。「貴船大神」を後にして、鳥居の前のT字路を東に進むと、右手にあった2基の石碑。右手に折れるとあったのが「生往寺」近くの「稲荷社」。神奈川県高座郡寒川町田端759。もとに戻り東に進むと左手にあった民家の立派な門。民家の屋敷の中にも稲荷神社が鎮座。バス通りに出て右折し進むと神奈中「田端」バス停横にあった石碑には「左なんこ道」と。伊勢講成就の碑碑には「伊勢講成就」「右馬入みち」とも彫られていた。伊勢講とは伊勢参宮を目的とした講で、江戸時代以前から多くの人々に広く信仰されていました。この碑の側面には「左なんご道」、「右馬入みち」と彫られており、道標でもあったことがうかがい知れます と。神奈川県高座郡寒川町田端。道路の反対側には大きな墓地が拡がっていた。これもこの後に訪ねた「生往寺」の墓地であっただろうか?細長い社の中に石仏が並んでいた。右側の石仏群。左側の石仏群。社の左側の外にも。墓地を望む。茅ヶ崎駅方面の神奈中「田端」バス停。そして次に訪ねたのが「生往寺(しょうおうじ)」小田原城を築城し初代小田原城主となった大森氏の子孫、泰次が慶長元年(1596)に開創した寺。明応4年(1495)、北条早雲に小田原城を奪われた後、一時甲斐国に逃れ、後、寒川へ来ました。大森泰次・泰定父子の墓が生往寺にあります。また、慶長2年(1597)泰次は一之宮へ車地蔵を建立しました。(小田原城主時代の大森氏の墓は、郷里の駿東郡小山町乗光寺にあり、小山町指定文化財です。)生往寺には茅ヶ崎市萩園村領主、遠山氏初代安吉から9代安親までの墓もあります。遠山氏の屋敷は萩園の常顕寺の南西にありました。今でも「殿屋敷の道」が残っています。第5代安誠は、萩園十二天社を勧請したり、満福寺を再建したりしました。(初代安吉の次男安則は、上土棚村(綾瀬市)を知行し、「蓮光寺の遠山氏累代の墓」👈リンクは綾瀬市指定文化財です。)寺号標石「浄土宗 東岳山 生往寺」。「生往寺 檀信徒駐車場」。入口にあった地蔵菩薩像。境内の蓮の花も開きかけていた。「寺務所」。「本堂」山号は東岳山、院号は永法院という。本尊は阿弥陀三尊像で、室町時代の作。慶長元年(1596)の創建といい、開山は文賀、開基は菊地下総守泰次と伝えられます。菊地泰次は、後北条氏以前の小田原城主大森氏の末裔といわれ、境内に宝篋印塔の墓碑が残されています。扁額「東岳山 生往寺」。寅の姿であろうか。「本堂」の「内陣」。「掲示板」。愚かな人は他人に害を与えることをしないで奪うことをする 釈尊心穏やかな人は勝負を捨てて安らかに過ごす 釈尊」と。「本堂」西側の広い墓地を見る。後ろは「圏央道」の高架。「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」。生往寺(しょうおうじ) 新編相模国風土記稿に「東岳山と号す。浄土宗増上寺末、本尊阿弥陀、開山文賀元和中 (1615~1624)卒」とあります。文賀和尚は小田原の人、開基は菊地総守泰次 (藤原姓大森一族)です。宝篋印塔(ほうきょういんとう) 左 大森泰次墓 東岳院殿往誉生西居士 中 大森泰次妻墓 円鏡院殿生誉妙西大姉 右 墓碑 永法院殿天誉妙道大姉●永山(遠山)安重墓(萩園の旗本)」「永代供養塔」と「無縁墓所の遠山氏」。「永代供養塔」台座には「倶会一処」と。「無縁墓所の遠山氏」「永代供養塔阿弥陀如来の意 仏法を不明ならしむる塵垢や災禍の因業を遠く離れて、清浄無垢なる世界へいざなわん倶会一処阿弥陀中の一節倶に一つの処(極楽浄上)でお会いできるという意味無縁墓所の遠山氏茅ヶ崎市萩園村の領主、徳川家に仕え、初代安吉は天正18年(1590)家康と共に関東へ入国。三代安重の時には530石を知行した。以降幕末まで代々徳川家の元で萩園村を治めた。生往寺には初代から9代までの墓石碑が残る。」立派な墓地であったが・・・。墓地の前には「本墓所において、使用者と連絡がとれず護持会費・出来抜も未納となっております。墓地使用もしくは関係者の方は寺務所まで申し出て頂たくお願い申し上げます。また令和四年八月六日までに本墓地使用者、もしくは関係者からの申し出がない場合には墓地の返却手続きをさせていただき、それにかかわる費用は祭祀継承者に講求いたします。令和三年八月五日 生往寺 住職」と。「歴代上人之墓」。東岳山永法院生往寺歴代上人開 山 貞蓮社大譽上人頑石文賀大和尚 元和二年二月十日五 世 本蓮社性譽上人崇公大和尚 寛文七年十一月十一日六 世 頓蓮社相譽上人玄達和尚 寛文十二年四月十九日 ・ ・二十九世 見蓮社敬譽上人得阿大慶宗順大和尚 平成二十八年九月十三日 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.27
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次県道44号線・伊勢原藤沢線沿いの「南部文化福祉会館」の角の松戸橋交差点を右折した場所にあったのが「松戸橋跡」碑。神奈川県高座郡寒川町一之宮5。「松戸橋」碑。かつては「松戸橋」があり、川が流れていたが、今は川は埋められているようであった。「南部文化福祉会館」の駐車場を囲む垣根に埋もれるような場所に、高さ1メートル程度の小型の石碑も建っていた。「寒川町南部教育発祥の地この地付近は江戸時代大山街道の 宿場として大いににぎわい明治六年 (一八七三年)に至りこの地に博習学舎が設けられ明治九年一之宮学校と改称された 現在の一之宮小学校の前身であり寒川町南部の教育発祥の地である」元、「松戸橋」の袂には寒川町立「南部文化福祉会館」があった。「南部文化福祉会館」は、公民館と老人福祉センターとの複合施設で、教育文化活動の学習の場として、また高齢者の健康増進、生きがいの創造の場として広く町民の教育文化の向上、増進に資することを目的として設置された二つの機能をもつ施設。この日は「南部文化福祉会館」は休館していた。7月10日に開催される「鎌倉殿の13人 スペシャルトークin寒川」のポスター。2022年6月4日(土曜日)に行われた「鎌倉殿の13人 スペシャルトークin茅ヶ崎」👈リンクに旅友と一緒に参加したのであった。出演は梶原景時を演じている中村獅童さん。そしてこの寒川町の催しにも旅友と応募したのであったが「応募多数の場合は、抽選のうえ、当落結果を2022年6月27日頃に返信はがきで結果を発送予定」とのことであるが競争率が高そうなのである。そして先日、落選通知が届いたのであった。現在位置。敷地内には「湘南エコウェーブ」と書かれた「EV(電気自動車)」があった。茅ヶ崎市・藤沢市・寒川町の2市1町により地球温暖化防止対策を推進するための「湘南エコウェーブ」プロジェクトによる、「EV(電気自動車)ネットワークプロジェクト」の一環として、2市1町で湘南をイメージした統一デザインのラッピングを施しているとのこと。そして「南部文化福祉会館」の先の住宅街の路地を右折して進むと朱の鳥居が姿を現した。稲荷神社であっただろうか。社に近づいて。そしてその裏にあったのが「両替子育地蔵尊」。神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目。立派な屋根の社であった。「両替子育地蔵尊」柱。社に近づいて。「案内板」等が設置されていないので由緒等は不明である。内陣には「子育地蔵」が納められていた。道路を隔てたその前にも社があった。正面から。「妙法大神」と刻まれた石碑があったが。次に訪ねたのが「花川用水」。神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目4−30。50cm幅程度の水路には水量豊かな流れがあった。「花川用水」👈リンク 案内板。ピンク色の地図は江戸時代のものと思われる「花川用水絵図」。絵図は残念ながら判読できず。説明文の内容を下記します。「花川用水は、基幹用水路として、江戸時代から利用されています。当時は、宮山村地内に設けられた大柳堰(現在のクリーンセンター付近と考えられている)から目久尻川の水を取り、宮山村以下、小谷村、大蔵村、岡田村、中瀬村、大曲村、一之宮村、田端村と茅ヶ崎市内の萩園村の九ケ村に供給していました。そのため九ケ村用水とも呼ばれていました。用水を利用するにあたって、施設の管理・運営、利害を調整した用水組合があり、江戸時代では用水を分流する堰をめぐって用水組合内部で争いが多く起こっています。当時、用水の確保がいかに重要だったかがうかがえます。その後、昭和15年(1940)に相模川左岸用水路の一部として再編されましたが、現在も基幹用水路として利用されており、町内の多くの水田に用水を供給しています。」「花川用水と用水組合」👈リンク をネットから。その横には三猿が陽刻された板碑型「庚申塔」があった。三猿の上に文字が刻んであったが風化していて読めません。右端の文字はかろうじて「寛文四甲辰 四月吉日」と読めた。家綱の治世1664年造立とかなり古い「庚申塔」なのであった。中央にはネットによれば阿弥陀の心呪「オン ア ミリ タ テイ セイ カ ラ ウーン」だとのこと。「オン ア ミリ タ テイ セイ カ ラ ウーン」は真言宗などで唱えられる阿弥陀如来の御真言であると。オンは帰依、ア ミリタは徳の不滅、テイ セイは無量の光、カ ラは捨てない、ウーンは徳を表す言葉であるとネットから。三猿をズームして。「道祖神」碑も並んでいた。「花川用水」の先の東側の林の中にあったのが「入沢家弁財天堂」。入沢家が最も繁栄していた明和・安永年間(1764~1781)に建立されたのだと。神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目5。「入沢家弁財天堂」を正面から。「入沢家弁財天堂寒川町指定重要文化財第十五号昭和六十三(一九八八)年八月二十六日指定この建物は、財宝をもたらす幸福の神といわれる弁財天を祀るためのお堂である。総欅造で随所に彫刻を飾り化粧面漆塗とするなど近世の装飾性豊かな建築の特徴をよく示していると共に、この地域に於ける建築水準を理解する上での基準的な建物として貴重である。堂内に保存されていた棟札から天明二(一七八二)年の建立と推定される。」昭和63年(1988)8月26日、一之宮の入沢家弁財天堂が町指定重要文化財第15号になりました。写真はこれを報じる「#広報さむかわ」。入沢家は江戸時代、江戸で薬種問屋を営むなどした豪農で、この弁財天堂は同家の敷地内にあります。内部に残された棟札から天明2年(1782)以前の建立と推定されています。 【https://twitter.com/samu-archives/status/1430678993284440064】よりそして「花川用水」に沿って南に進む。道路脇左側にあった「双体道祖神」 、 享保2年(1717)と。以前はここに「西町自治会館」があったようだがこの時は空き地になっていた。神奈川県高座郡寒川町田端907。そして次の目的地の「万部寺」に到着。神奈川県高座郡寒川町 805。題目碑「南無妙法蓮華経」。「日蓮宗圓妙山 萬部寺」。ここにも新しそうな題目碑「南無妙法蓮華経」。「黨山は明暦元年(一六五五)七月江戸谷中瑞輪寺第六世圓妙院日桂上人が故郷の地、田端部落に隠退し郷士たりし木内與兵門慰吉定(上人の父)を教化改宗し萬部庵を建立す。萬部寺の始めなり。日桂上人は、九才にして、伯父日遼師について得度剃髪し、字を休應と号し、十三才にして下総の里檀林に学び、更に、三十六才寛永七年身延山二十六世智見院日暹に学び、延山未、出羽ノ國普廣山寺に入り、零落類破したるを再建立、後に甲州小室の徳栄山妙法寺に入山し在山十七年五十四才の時寺日遼遷化により六月瑞輪寺六世として入山す。後に、延宝元年(一六七三)七月廿三日遷化す。法壽八十一才なり。第二祖 正覺院日勇上人法華経読誦壹萬部を成就す第三祖 善通院日順上人元禄八年五月十五日身延山第三十一世一圓院日脱上人より寺号公称の 奠定大曼茶羅を授與され、圓妙山萬部寺と称し今日に至る。」「妙經二萬部」碑。「円妙山万部寺」の掲示板。「今月(2022年6月)の聖語」「何ぞ煩(わずら)わしく他の処を求めんや」と。=失敗は貴重な宝もの=誰でもしくじることはあるものです。ごめんなさいですむものならその場で解決できます。でも長い人生においては、簡単に一件落着とはいかず、落ち込んでしまうこともあります。そんな時、あなたはどうしますか。思い出したくもない。さっさと忘れてすっきりしたい。それも悪くはないでしょう。ただそれでは真の解決にはなりません。現実から逃避しても一時しのぎにしかなりません。それよりも、貴重な体験と見てはどうでしょう。失敗の原因を探り活かすことです。原因が分かれば失敗を繰り返さずにすむ方策が見つかるでしょう。自分一人で抱え込まず、時には同僚や先輩あるいは頼れる人に相談することも必要でしょう。こうすれば将来の自分、そして今後の人生をより良いものにできるはずです。失敗は今在る自分の姿を見つめるチャンスなのです。日蓮聖人ご遺文『守護国家論』『立正安国論』と共に聖人初期の代表的な著述で、末法の時代における衆生救済と国家の安泰は法華経のみに限られることを説き明かしています。正元元年(1259) 聖寿38歳「万部寺」の「山門」。正面に「本堂」。「寺務所」。日蓮聖人像。台座には「立正安國」と。ズームして。さらに。「本堂」の扁額「円妙山」。内陣。槇(まき)の生け垣の新緑が美しい住宅街を進む。芍薬畑が拡がっていた。切り花として出荷したのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.26
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次そして次に訪ねたのが「梶原景時館跡(一之宮天満宮)」。一宮という地名は、相模国一之宮寒川神社が鎮座していることによる。神奈川県道44号線線(伊勢原藤沢線)沿いの南側にあった。神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目6−6。この碑には「従是一之宮明神道」と。ここが寒川神社表参道の起点?かと思ったが、文政9年(1826)に土地改良で現在地に移されたものだと。「梶原景時館跡 👈リンク梶原景時は治承四年(1180)八月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救いました。翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献しました。一宮を所領としており、この地に館を構えたとされています。図に示すとおり館の規模は広大だったとの説もあり、現在も当時の堀のなごりを留めていると伝えられています。天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したとも伝えられています。景時は和歌もたしなみ文武両道で秀でた武将でした。頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199)十一月、鎌倉を追放され、一族郎党を率いて一宮館に引き揚げました。その後、景時は再起を期し、上洛するため、翌正治二年正月二十日午前二時頃ひそかに館を出発しました。一行は清見関(静岡市清水区)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最期を遂げました。館の留守居役の家臣も翌年尾張(愛知県)に移ったと伝えられ、また物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。」「一宮館跡案内図」。「浩宮徳仁親王殿下 御成記念 昭和五十四年九月二十一日」碑。学習院大学在学中の1979(昭和54)年9月11日、当時の「浩宮さま」はご学友40人らとともに寒川神社と梶原景時館跡(一之宮)を訪れた。この研修旅行では、中世の文献「吾妻鏡」のゼミをお受けになられた宮様とご学友が4泊5日の日程で史跡を見学され、その最初の見学地が寒川町だったと。「梶原景時館跡」碑。「梶原景時」と書かれた幟が横に。「梶原景時」は、1180年(治承4年)の石橋山の戦いで平家方でありながら源頼朝の命を救ったと伝えられ、頼朝の鎌倉体制を固めるための中心人物として活躍した。ここ相模国一宮(現在の寒川町)を所領とし、「梶原景時館址」の石碑が建てられている場所は、物見のあった所といわれている。2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも、頼朝を支えた「13人」の御家人のひとりとして登場中なのである。小さな太皷橋を渡る。参道の石灯籠。「記念樹 梶の木梶原公顕彰会 建立」。右手にあったのが「角落とし」。角落し石板が並んでいた。「角落とし両側の堰柱(せきばしら)の溝に、角材や板を落と入れ、水流の調整をしたり、堰き止めなどする装置。西側の産業道路沿いにあった相模川防水堤に設けられ増水時には板を落とし、土嚢(どのう)などで補強して洪水から西町を守った。」左手に手水舎。この四角い場所は?祭事を行う場所か?正月のお焚き上げ、どんど焼き等の場なのであろうか?後日、下記の如き書き込みを頂きました。『子供のための砂場ですペットの糞尿防止のために囲いがしてあります野良猫には効果はほとんどないかと』「天満宮遺蹟碑」。この石碑には「海軍中将正四位勲二等男爵肝付兼行篆額偉哉菅神文勲赫照萬代矣此地當在聖祠創建由緒共未詳也傅曰梶原景時之勤請焉続稱西之天満宮祠宇朽廢明治四十二年合祠子一之宮八幡宮也因爲存此舊蹟有志相議而營梅林記念之以大正四年一月二十五日建碑傅後見昆云爾國幤中社寒川神社禰宜提箸亀男撰尋常一之宮小学校校長中島忠蔵書」と刻まれていた。「天満宮」の祠は、和歌をたしなむなど教養のあった景時の風雅を称え、里人が当時の館の物見台跡に創建したものといわれる。「天満宮」の祠の隣は小さな公園になっていて、ブランコと滑り台が。「天満宮」を正面から。木名「ヒトツバタゴ」と。別名は「ナンジャモンジャノキ」。「ヒトツバタゴ(一つ葉タゴ、一つ葉田子)」とはモクセイ科ヒトツバタゴ属の一種。同じモクセイ科のトネリコ(別名「タゴ」)に似ており、トネリコが複葉であるのに対し、本種は小葉を持たない単葉であることから「一つ葉タゴ」の和名がある。奥にも小さな社が鎮座していた。「天満宮」を横から。再び「鎌倉本体の武士 梶原景時 ゆかりの地」と書かれた幟。青地に白抜きの幟も。「梶原景時館跡」から県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)を東へ進むと直ぐ右側にあったのが「西町集會所(薬師堂)」神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目6-31。広場(駐車場?)の横には大きなパネルが。正面から。「梶原景時と一宮館址」案内板。「梶原平三景時(生年不明~1200)は「鎌倉本體の武士」といわれ、源頼朝を補佐し鎌倉幕府の基礎を築いた文武ともに優れた武士です。梶原氏は、桓武平氏の流れをくむ鎌倉党の一族とされ、同族には大庭氏、俣野氏、長尾氏らがいました。治承四年(1180)伊豆に流されていた源頼朝が挙兵しましたが、八月二十四日、石橋山(小田原市)の合戦で大敗して椙山に逃れ、「鵐(しとど)の岩屋」(湯河原町・真鶴町の両説あり)に潜んでいました。大庭景親率いる平家方の一員として参陣していた梶原景時は、頼朝を発見したものの討たずに救いました。これが景時と頼朝の出会いでした。翌年一月景時は、関東を平定し鎌倉に入った頼朝に土肥実平の仲介により面謁し、「言語を巧みにする」と高く評価され、家臣として認知されました。以来、源平合戦で多くの功績をあげたほか、頼朝の片腕として侍所所司をはじめさまざまな重職に携わりました。頼朝の死後、正治元年(1199)十月、結城朝光謀反の疑いを将軍頼家に讒言したとの理由で御家人六六名の連署をもって弾劾され、弁明の機も得られぬまま一宮に下向。再度鎌倉に戻るものの、十二月鎌倉追放が正式に決まり、鎌倉の館は取り壊されました。正治二年一月二十日、景時とその一族は、朝廷や西国武士団の支援を軸に再起を図ろうと、一宮館をあとに京都へ向け出立します。その途中、駿河国狐ケ崎(静岡市清水区)で在地の武士吉川小次郎らに迎え討たれ、交戦の末、梶原山にて最期を遂げました。幕府内の主導権を手中にしたい北条氏と、頼朝の側近として職務に忠実すぎた景時を快く思わなかった御家人たちとの思惑が一致したことが背景にあったと言われています。」「梶原景時公像」。2022年放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に、源頼朝を支えた「13人」の御家人のひとりとして登場する「梶原景時」。「梶原景時」を演じているのは「中村獅童」さん。「梶原氏の足跡治承四年(一一八〇) 石橋山の合戦で敗退した頼朝を助ける。治承五年(一一八一) 上肥実平の仲介により頼朝に面謁。家臣として認知される。 小御所御厩の地の奉行寿永一年(一一八二) 政子安産祈願奉幣使として二男景高が相模国一宮(寒川神社)に遣わされる寿永三年(一一八四) 宇治川の合戦。長男景季「名馬麿墨」にて佐々木高綱と先人を争う 一ノ谷の合戦。平重衡を生け捕りにする 播磨国大山寺に大般若経典読料として田一町二段を寄進元暦一年(一一八四) 播磨国の守護に任ぜられる元暦一年(一一八五) 屋島の合戦。義経の奇襲により景時、合戦に遅参 壇ノ浦の合戦。義経と先を争う文治五年(一一八九) 衣川で討たれた義経の首実検を腰越で行う 奥州制圧軍勢着至奉行。一族あげて従軍、途中和歌を多く残す 新造の御厩別当建久一年(一一九〇) 頼朝上洛の奉行。景時、景季、景高供奉して入京建久三年(一一九二) 頼朝征夷大将軍に就任。鎌倉幕府開府建久四年(一一九三) 富士の巻狩。一族あげて頼朝に供奉する建久六年(一一九五) 頼朝上洛の随兵奉行建久十年(一一九五) 頼朝死す。 将軍頼家「吉書始」に十三宿老の一員として列席、侍所別当と傍注あり。正治一年(一一九九) 景時公弾劾の署名を六六人の御家人が提出、一宮館に下向。正治二年(一二〇〇) 一宮館を後に京を目指す。途中、駿河国狐ヶ崎(静岡市清水区)にて合戦、 一族滅亡」。「一宮館址案内図」。梶原景時館址[ー之宮天満宮] (昭和3年.寒川名所絵はがき)。「(伝)七士の墓(昭和30年頃.臼井彦太郎氏撮影)」。「集会所となっている薬師堂」。扁額「西町集會所 薬師堂」。集会所の入り口横に地蔵尊。「水無月大祓式 並 茅の輪神事」ポスター。「濱降祭駐輿記」碑。「相模國一宮國幣中社寒川神社濱降祭有里古例爾依里七月十五日神輿茅ヶ崎南湖濱爾渡御在良世良留此乃日近郷近在十数社乃神輿供奉志縣下唯一乃盛儀奈里還幸乃途次一ノ宮當所爾御休憩御發輿爾當里清淨乃地爾栽培世志麥莖爾火乎點自神輿爾投牙掛久留故事有里當地乃舊家川崎家爾氏代々奉仕世里茲爾其乃所以乎刻志永久後世爾傳閉牟登須留爾當里需爾依里記須事斯久乃如志」と。1933年に建立された石碑。石碑がある場所は、寒川神社の神輿(みこし)が浜から戻る際に小休止する御旅所。御旅所を出発する際、地域の人々が麦の茎を燃やして神輿に投げ掛ける習わしがあったと、石碑には刻まれていた。この習わしには、海の塩で清めた神輿をさらに火で清める意味があったとされると。裏面は逆光で・・・。「濱降祭駐輿記」碑の近くにあった「梶原伝七士の墓」案内板。奥に入っていくと「梶原伝七士の墓」が姿を現した。「梶原伝七士の墓」。「梶原源太景季公」。「箙(えびら)の梅」で知られる景時の長男・景季(かげすえ)が描かれている。一の谷(生田の森)の戦いで、勢いあまって敵陣深く入り込み、矢が尽きてしまった景季は、箙(えびら)(矢をいれる籠)に梅の枝を挿して奮戦した。その姿に、「吹く風を何いとひけむ梅の花 散りくるときそ香はまさりける」という和歌(凡河内躬恒『古今和歌集』)を重ね合わせた平家の公達は、雅を解する坂東武者を称賛したと。「梶原源太景季(かげすえ)は景時の長男で、勇猛果敢歌道にも秀でた弓取である。寿永三年(1184)正月、宇治川の合戦で佐々木高綱との先陣争いで愛馬「麿墨」共に武名をあげる。同年2月、生田の森・一ノ谷の合戦では、折しも咲き誇る梅が枝を箙に挿しかかれば花は散りけれど匂いは袖にぞ残るらんと戦陣を馳せる景季公の風雅を平家物語など諸本が伝え、今日でも能や歌舞伎で「箙の梅」が演じられている。八月、一之宮八幡大神例祭の宵宮の屋台巡行に加わる「西町」の屋台は館址にふさわしく、梶原氏に因む彫刻で飾られ、碑の景季公は一部を模写したものである。」「伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓」中央の墓をズームして。「伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓この石造物群には次のような言い伝えがあります。正治二年(1200)正月、梶原景時一族郎党が一宮館を出発、上洛の途中清見関(静岡市清水区)で討死してしまったので、一宮館の留守居役であった家族、家臣らが弔ったといいます。また、景時親子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害し、それを祀ったものという説もあります。なお、後ろの水路は当時の内堀の名残ともいわれています。」すなわち、2つの説とは1.他の御家人から追放された景時は、一族とともに一之宮の館を出発し、上洛の途中に討死して しまいます。そこで一之宮館の留守番を務めていた家族、家臣がこの地に弔ったものという説。2.景時父子が討死してからしばらく後のこと。景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣7人が、 世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵(領有権を認めること)を願い出た。 しかし許されず、七士はその場で自害しこの地に弔ったという説。後ろの水路は当時の内堀の名残ともいわれている。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.25
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次高座郡寒川町一之宮4丁目の住宅街進むと右手にあったのが「一之宮公園」。「一之宮公園」は「一之宮緑道」と一体となった公園。「一之宮緑道」内には旧国鉄の相模支線の線路の一部が、現在も姿を残すめずらしい公園であった。日本国有鉄道(国鉄)相模線寒川支線用の車輪と踏切跡が遺っていたのであった。神奈川県高座郡寒川町一之宮3丁目21−1。列車の車輪を正面から。ここが「西寒川駅」前の踏切跡のようであった。神奈川県の「橋本~茅ヶ崎」間を走る相模線の「寒川駅」からかつて1本の支線が出ていて「西寒川支線」と呼ばれていた。この線路は全長1.9Kmの路線で非電化であった。西寒川という名前は昭和19年に改称された名前で以前は「四之宮」と言う駅名であった。開業は大正11年で当時は相模川の砂利を輸送するのが目的の貨物線であったが昭和19年に旅客営業を開始しています(この時に西寒川駅に駅名変更)。後に砂利採取が禁止され貨物営業を廃止し旅客路線となったが昭和59年3月一杯で廃止となってしまった。赤線---が「西寒川支線」である。「一之宮公園」内の「一之宮緑道」を「西寒川駅跡」に向かって南西に進む。右側には「西寒川支線」の当時の線路が100m程遺っていた。駅名標を模した看板。「はっかくひろば」に向かって進む。地元の方々は、この公園・緑道を抜け道として、或いは散歩道として利用しているようであった。近所の方が立ち話している様子も多く見られ、コミュニケーションの場としても有効活用されているようであった。線路跡には雑草が生い茂っている場所も。「フゲンゾウ(普賢象)」。「フゲンゾウ(普賢象)室町時代から知られたサトザクラの最も古い園芸品種で、四月下旬。、30 ~ 35枚ものたくさんの花弁をもつ大きな花をさかせます。(バラ科)」「フゲンゾウ(普賢象)」をネットから。 【https://item.rakuten.co.jp/hana-online/niwaki_sakura_fugenzou/】より「一之宮公園」の遊具広場。池には水は無く。更に「一之宮緑道」を進む。この踏切跡にも列車の車輪があった。高座郡寒川町一之宮3丁目の住宅街を進む。早朝散歩の人はこの辺は少なかった。「八角広場」に向かって神奈川県道47号藤沢平塚線を横断し更に進む。左に行くと「丸太の広場」と書かれていた。支線が廃止された1984年の6月に一之宮公園の一部が開園した。当時、寒川青年会議所により設置された「丸太広場」があったことから、一之宮公園は「丸太広場」とも呼ばれていたとのこと。そして「八角広場」が前方に現れた。反対側から「八角広場」を見る。平成元年(1989)3月、相模線寒川駅跡地を整備して閉園したもので、西寒川支線の線路跡を利用した一之宮緑道の終点にあたる。その名の通り、八角形にタイルが敷き詰められた噴水広場。八角広場として整備されたのは「寒川神社」の八方除信仰に由来するのだと。八角形の八方には十二支の文字が。真北の方角を示す「子」の文字。南を示す「午」。広場には、旧大山街道の「田村の渡し」の様子(江戸時代)をあらわした双六の碑が建っていた。台座には「鎌倉江ノ嶋大山 新板往来雙(双)六」と。北斎唯一の双六絵。柳亭種彦の撰に従い、北斎が描いた52駒の名所絵。武蔵・相模両国の名所旧跡をめぐる双六絵である。江戸から東海道六郷の渡し~川崎~神奈川と来て保土ヶ谷で一泊。戸塚から大道~円覚寺~建長寺、鶴岡八幡に詣で、雪の下で一泊。露座の大仏、長谷観音、極楽寺から七里ヶ浜へ出て、弁財天の江ノ島に宿泊。片瀬~藤沢~四ツ谷から大山道に出て、相模川を田村の渡しで越え伊勢原へ。良弁の滝で身を清めて、大山に詣でて坊に一泊。愛甲~厚木で相模川を越え、河原口~鵜の森~鶴間宿泊まり、大山街道の長津田~谷本~荏田、国道246号を馬絹~溝の口と来て二子宿泊まり、多摩川を二子の渡しで越え、三軒茶屋~渋谷~赤坂見付けを通り、歩いて6泊7日の大旅行の上がりになっていると。「一の宮 田村へ十八丁 三十五」「村の◯人ぜにをもらふ」と。「西寒川駅」跡にも線路が遺されていた。錆びて見えにくいが、「1909」の記号が残されているとのこと。これは、開業間もない八幡製鉄所(創業1901年)で1909(明治42)年に作られたレールであることを示すもの。このほかに、「2605」「2606」など当時使われていた「皇紀」で記された珍しいレールも残されていると。「一之宮緑道」案内板。「ー之宮緑道は、緑のネットワークの一環として旧国鉄相模支線跡地を利用して、昭和60年度より整備を行ったものです。延長は約900mあり、広場及び3つのタイプの園路から構成されています。みなさんでご利用ください。」「神奈中バス停 八角広場前」もあった。「旧国鉄西寒川駅相模海軍工廠跡」碑が西側にあった。かつてはこの先にも線路が続いていたのだと。これは国有化される前の「相模鉄道」時代の話でこの西寒川駅の次に「四之宮駅」という駅があった。国有化と同時に廃止されたのは1944(昭和19)年の事と。裏面を見る。「ここ旧国鉄西寒川駅跡に佇んで東を望み、更に南に目を転ずるとその視界に工場群が迫る。そこは、かつて多くの仲間が営々と働いた相模海軍工廠(昭和20年 敷地704,000m2)の跡地である。往時を偲べば、先人や友の姿が彷彿と甦り、懐旧の想いひとしおである。第二次大戦後、工業立地に恵まれた跡地は町発展の礎となり、今日の繁栄をもたらした。いま、大地に深く根差した縁に世界の平和を願い、国土の安穏を祈る。」碑文から戦時中は西寒川駅が海軍工廠で働く人たちの足として、また寒川町HPによると戦後は跡地が工業団地となり昭和35年工業団地で働く人たちのため旅客輸送を再開し(一日4往復)、昭和59年3月 西寒川支線廃止まで通勤客を運んでいたことが分かるのだと。そして次に訪ねたのは「西寒川駅跡」から北に200mほどの場所にあった「一之宮不動堂」。神奈川県道47号・藤沢平塚線が「目久尻川」に突き当たり、右に大きくカーブする場所にあった。神奈川県高座郡寒川町一之宮26。「不動堂」を正面から。堂の扉の横には「一之宮河原集会所」の木札があった。扁額「一之宮不動堂」。「大山街道と一之宮不動堂江戸時代、大山講と称する講が関東一円にひろがり、大山阿夫利神社へ幾本かの大山街道が発達しましたが、最も隆盛を極めたものが東海道という一番安全な道を利用し、昔語りの名勝地となった鎌倉や行楽地の江の島を訪れてのコース 〜 東海道藤沢の西、四つ谷から西方に進み、大曲、中瀬、一之宮から田村の渡しを経て大山に通じる 〜 この道でした。この不動堂の、堂内には不動明王が安置されています。堂の外には、江戸の人が奉納した力石や不動をかたどった道標があり、当時の街道の隆盛を今日に伝えています。」不動堂からほど近い相模川の岸辺は、有名な「田村の渡し」のあった場所。江戸から西への街道は、東海道、中原街道、矢倉沢往還の三つがあり、大山街道はこれらの街道を横切っている。黒の実線が「大山街道(田村通り大山道)」。「「大山街道(田村通り大山道)」は現在の神奈川県藤沢市から大山へ向かうものである。大山道の中で最も主要とされ、起点の藤沢四ツ谷に置かれた石造の「一の鳥居」は、万治4年に木造で設置された後、昭和35年に大改修され、鳥居の正面に天狗の面がかけられた。「御花講大山道」や「御花講道」とも呼ばれ、東海道と藤沢宿で接続し、藤沢宿を挟み対面の江の島道にも通じるため、最もにぎわいをみせた経路である。神奈川県道44号伊勢原藤沢線や神奈川県道611号大山板戸線が近似したルートを辿っている。経路:東海道藤沢宿四ツ谷(神奈川県藤沢市) - 一ノ宮(高座郡寒川町) - 田村の渡し(相模川)- 横内(平塚市) - 下谷(以降、伊勢原市) - 伊勢原 - 〆引 - 石倉 - 子易 - 大山」と ウィキペディアより。「内陣」。「河原不動尊本尊は、不動明王坐像と二体の眷属(けんぞく)(お供の仏像)からなる不動三尊像です。不動明王坐像は江戸時代初期の作とみられ、宝暦3年(1753)に江戸芝口(東京港区)の初音屋平吉が修理した、との「胎内納入名札」に記されています。この坐像と眷属一体の制咜迦(せいたか)童子像は、共に寄木作りの非常に上手な技巧による佳作と評されています。お堂の前にある力石や道標も江戸の人達が、二百三十年頃前に奉納したものです。このようにこの不動尊は、江戸とのつながりが深く、江戸時代には観光ルートとしても著名であった。目の前の大山道を、多くの道者達が往来し、大山参詣が栄えた様子を物語る史跡といえましょう。「新編相模国風土記稿」にこの不動尊について、「村民持ち大山道にあり」と記され、村人達が安寧を願い、寄り合い所として長い年月にわたり大事に守り続けて来たことがうかがえます。また同稿には「田村(相模川対岸の現平塚市田村)にあり(旧一之宮村の)現在地に移された」とも記されていますが、詳細は定かではありません。」本尊は、中央の不動明王坐像、そして二体の眷属(けんぞく)(お供の仏像)からなる不動三尊像。「右大山道」と刻まれた石碑。側面には「江戸淺草黒船町 大黒屋傳四郎 同久右エ門」と刻まれていた。帰って調べたら、昭和初期まで浅草に黒船町という地名があったそうである。江戸時代、そこの大黒屋さんが寄贈した石標なのであろう。右横には「力石(六十貫)」もあったが。裏面には「天明六丙午歳(1786)九月吉日」と。この石碑は解読不能。県道44号線を戻り東に進むと右手にあったのが「ニコン 相模原製作所 湘南分室」。そして左手にあったのが「浄土真宗 浄徳寺 湘南分院」。神奈川県高座郡寒川町一之宮3丁目28−13。下の看板がなければ普通の民家の如くであったが。詳細は不明である。右には「SOPHIA CHIGASAKI」E棟。神奈川県高座郡寒川町一之宮7丁目4。ここは茅ヶ崎市ではないが・・・?。右手にあったのが「天神下第2公園」。神奈川県高座郡寒川町一之宮7丁目4。色鮮やかなアジサイの姿。「寒川町立一之宮小学校」の花壇にはグラジオラスの花が。その先に「居酒屋 つるっぱげ」の看板。明日は我が身!!なのであるが・・・。ウチワサボテンの黄色い花。近づいて。そして「一之宮小入口」交差点を通過する。道路脇右手にあった「地蔵尊」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.24
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次「寒川神社」の参道を南に進むと「大鳥居(二之鳥居)」が姿を現した。神奈川県高座郡寒川町宮山。鉄筋コンクリート造で、明治五年(1872)に老朽化によって撤去されたものの、氏子崇敬者の浄財によって昭和四十一年(1966)に再建されたもの。「大鳥居(二之鳥居)」を見上げて。アジサイの青の色の変化を楽しむ。そして参道はこの先で、それぞれ一方通行に。「いこいの広場入口」交差点を右折する。前方に現れた橋は「目久尻川」に架かる「いこい橋」。橋の袂にはユニークなモニュメント?が。意味するものは?水の一滴?その先、右手にあった「石祠」。左手に「水道水質センター」。さらに「寒川浄水場排水処理施設」。JR相模線の踏切を渡る。「水道第三踏切」と。茅ヶ崎駅方面を見る。前方に見えたのが「活性炭注入設備」。油の流入などの水質事故や、かび臭などが発生した場合に、粉末活性炭を注入することにより、においなどを除去する設備である。「寒川浄水池[災害用指定配水池]概要 構造 鉄筋コンクリート造大きさ 第2浄水場 56. 0mX28. 0mX3. 0m X2池 第3浄水場 (72. 0mX 13. 0m X4. 0m十 72. 0mX 6.3mx2.2m ) X4池容量 28 , 376m3( 6池)確保水量 (災害時) 1 9 , 620m3この浄水池は、寒川浄水場で浄水された水を貯えて、湘南・西湘及び県央地域の皆様に供給するために築造されたものです。また、この浄水池は地震などの災害が発生した場合に、応急給水に必要な飲料水を貯えておく施設として指定されており、浄水池に貯えられた水は給水区域内の市や町の給水車などに注水します。道端の草地に見つけた「ネジレバナ」。昔、我が家の芝生の庭にも生えていたが。「寒川取水ポンプ場」。左手に「寒川受電所」。右手に「第3浄水場」の沈砂池。沈砂池とは、水資源を扱う取水・浄水・排水・下水処理施設や発電所の最初の処理工程として設置される池である。 設置の目的は、水を利用するのに不要な浮遊物や固体を沈殿により取り除くことである。「取水ポンプ場」の車両入口であろうか。再びアジサインの花を楽しむ。右手に折れて「さがみ縦貫道路」の下を潜り一段高い道に上って更に相模川に向かって進む。更に「川とのふれあい公園」と「川とのふれあい公園 野球場」の間の道を進むと前方左側にあったのが「相模川八景 寒川宮山の富士」。相模川八景は1.みどりの中の相模湖2.津久井湖と津久井城址3.美しいアーチの小倉橋4.水郷田名と高田橋5.八景の棚と河岸段丘6.三川合流点と大山7.寒川宮山の富士8.湘南潮来と河口 であると。中央にレリーフがあった。「相模川の交通江戸時代以来、相模川を渡るには、渡し舟が利用されていました。この地には寒川と田村(平塚)を結ぶ「田村の渡し」があり、大山道や中原街道の往き来に利用されました。昭和28年に初めてコンクリートの神川橋が完成するまで、渡し舟は人々の足となっていました。また、相模川の上・下流を結ぶ水上交通としては帆掛け舟が利用されました。陸上交通がまだ十分に発達していない大正の頃までは、帆掛け舟が行き来するのどかな風景が見られたといわれています。明治末頃から昭和39年まで、相模川では砂利採取が行われており、良質の砂利を船で運んでいました。これを大量に早く運ぶために大正10年、相模鉄道(現在のJR相模線)が敷設されました。当時、川岸に「川寒川」と「四之宮」という停車場があり、輸送の拠点となっていました。「川寒川」の駅はちょうどこの公園の位置にあたります。」「相模川八景寒川宮山の富士この地には寒川神社が鎮座し、その昔田村の渡しや砂利採取で賑わい、今日県民の命の源である水を送る寒川取水堰があります。川の歴史と文化が薫り、川辺の水鳥や富士山、大山丹沢の眺めは四季の彩りを豊かにします。」「9月21日(木)17:15頃 川とのふれあい公園より100m程上流地点」とネットから。 【https://samukawass.exblog.jp/25635740/】この日は前方に大山の姿が見えたが富士山の姿は残念ながら。「寒川取水施設」が前方に。「神奈川県企業庁 寒川取水施設」と。フェンスの隙間から「寒川取水施設」を見る。「寒川取水施設概要」案内板。「寒川取水施設は、取水せき、取水口、導水路、沈砂池、等の構造物からなっており、神奈川県、横浜市、横須賀市の各水道事業者に安定した水を供給するために建設されたものです。●取水せきの高さは6m、長さは全長270mあり、せきには洪水吐水門幅20mx高さ2.5mが3門、 土砂吐水幅13mx高さ3mが1門あります。●魚道はH10年度に、より多くの魚類が遡上できるよう、船通しデニール式(流水幅7.2m )に 改修しました。●取水口には流芥よけのスクリーンが5門取付けられ、取水ゲートが4門あります。●導水路は2本あり、長さが約300mで最大毎秒18.155m3の水を導水し沈砂池に連絡しています。●この施設は各水道事業者の共同事業として建設され、神奈川県企業庁が委託を受けて管理して います。」水利権水量。取水せき断面水利使用標識。洪水吐水門幅20mx高さ2.5mが3門を見る。そして「神川橋」から「寒川取水施設」を見ることとし、「神川橋」に向かって進む。「神川橋東側」交差点を渡る。右手後方に「圏央道」の高架が。上段が茅ヶ崎方面、下段が厚木方面。再び大山の姿を見る。「川とのふれあい公園 野球場」を見る。「神川橋」の中央部に向かって進む。展望台であろうか。「大山街道」「田村の渡し」「至江の島」と書かれたプレートや渡しの様子がデザインされた欄干が見られたのであった。橋を渡ると平塚市に。「神川橋」から「寒川取水施設」を見る。ズームして。洪水吐水門幅20mx高さ2.5mが3門、土砂吐水幅13mx高さ3mが1門。土砂吐水幅13mx高さ3mが1門をズームして。Googleマップより。取水口には流芥よけのスクリーンが5門取付けられ、取水ゲートが4門あります。魚道はH10年度に、より多くの魚類が遡上できるよう、船通しデニール式(流水幅7.2m )に改修。橋の反対側を見る。「宮山の富士」と書かれた銘板が右に。そして「神川橋」を戻る。「目久尻川」を渡る。橋の名は「鷹匠橋」。途中、県道44号線を右折して、寒川町一之宮4丁目の住宅街を進む。民家の庭のガクアジサイ。「チロリアン・ランプ」、別名「ウキツリボク」。提灯のような特徴的な花。ノウゼンカズラ。そして寒川町の汚水マンホール蓋。町の花「スイセン」を描いたデザイン。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.23
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次この日は6月20日(月)、早朝に鵠沼の「はす池」を訪ねた後、茅ヶ崎駅からJR相模線で「宮山駅」で下車し、「寒川町の寺社旧蹟を巡る」の最終回に向けてスタートする。ホームから階段を降りた所に木造の駅舎が置かれていた。駅舎には自動券売機が1台設置。2014年12月26日まで営業していた出札窓口では、長距離乗車券なども発売していた。2016年2月21日より茅ケ崎駅の遠隔管理の下で無人化。無人化前は茅ケ崎駅が管理する業務委託駅(JR東日本ステーションサービス委託)であった。簡易Suica改札機が設置されている。「宮山駅」前の道路を南・「寒川神社」方向に向かって進む。右側の道を進む。ピンクのアジサイが迎えてくれた。右手にJR相模線の「台畑第一踏切」。この先の一軒の大きな民家のみの為?の踏切か。次に「台畑第二踏切」。そして前方に「目久尻川」に架かる「宮山橋」。「みややまばし(宮山橋)」。「めくじりがわ(目久尻川)」。この川の名の由来はいくつかの説がある。一説には、この川が座間市栗原にあった寒川神社の御厨(みくりや)のあたりから流れてくるために下流で「御厨尻川」と呼び、それが転じて「目久尻川」となったという。一方、海老名の伝承によると、昔この川に河童が住み着いて悪さをしていたため、地元の人々はこの河童を捕らえて目を穿り(くじり=抉り)取ってしまった、という出来事から、この川は「目穿川」と呼ばれるようになり、それが転じて「目久尻川」となったという。この伝承にちなんで、海老名市内の目久尻川に架かる「伊勢下村橋」👈リンク には河童の像があしらわれている。「目久尻川」の下流側。この先、平塚市内の相模川に合流する。上流側。先に見えるのが「寒川大橋」。歴史を感じさせる「宮山橋」碑。「宮山橋」を渡り終えると右手にあったのが「地蔵堂」。神奈川県高座郡寒川町宮山3812−2。社殿の前、右側にあったのが「道祖神」。社殿の前、左側にあったのが「庚申塔」。「双体道祖神」。左側の二基の石碑。左の石碑には「安政」の文字が確認できた。「縁起地蔵堂内にニ体の地蔵立像がある。地蔵は一般的に安産、育児、信仰の願いをきいて下さるという。この地蔵も「子育て地蔵」として広く崇敬されており、年ニ回の地蔵講には講中が集まり、町内の子供たちもお詣りをする。道祖神道祖神は、村内に疫病なとが入らないように祀ったもので、他に、交通の神、夫婦和合の神ともいわれる。ここにあるのは文政十一年(一ハニ九)に建てられたもので、一月十四日には団子焼きを行っている。庚申塔庚申の日に徹夜をする習俗を庚申講、庚申待などというが、この講中で建てる石塔が庚申塔である。この塔は嘉永元年(一ハ四ハ)に雷の人々が建てたものである。「右なんご 左あっ木・ハ王子」と刻まれ、道標も兼ねている。馬頭観世音人のために働いた牛馬の供養や、無病思災を願って造立するもの。これは天保十三年(一ハ四ニ)に建てられた。雷の歴史宮山は七つの町内で構成されており、雷はその一つである。南湖よりハ王子へ向かう道が町内を抜けている。寒川神社の社人のうち数軒がここにあり、その家系は天正年間以来、四百年余り続いているといわれ、他の家も同社を崇敬してきた。明治ニ十年頃までは祭礼の時に山車を曳いたといい、その頃の戸数はニ十一戸ほとであったという。大正年間には十三戸に減ったが、平五年一月現在、六十戸を数えるようになった。(昭和五十ニ年三月ニ十四日、寒川町老人文化教室雷グルーフ・皆川起司・金子潔之氏作成の文章をもとに作成した。)」堂内のニ体の「地蔵立像」。「宮山橋」、「寒川大橋」を振り返る。さらに南下すると右手に見えたのが「寒川神社」の「参集殿」。「八重紅枝垂」桜も花を終え新緑豊かに。前回、訪ねた時には満開だった「八重紅枝垂」。そして「寒川神社」の太鼓橋「神池橋」、「三の鳥居」の前から。「神池」の噴水の先には「石橋(しゃっきょう)」が。「寒川神社」👈リンク 内の散策は前回に済ませたのであった。南下すると右手にあったのが巨大な「目久尻川水道管」。横浜・横須賀水道局連名の標語。「限りある水を大切に! 横浜市水道局 横須賀市上下水道局」と。横須賀水道共同施設「寒川取水事務所」で取り入れた水道原水を「小雀浄水場」へ送る導水管。支間長38.5m、口径200cm。銘板が貼ってあった。「目久尻川水管橋 横浜市水道局 昭和39年1月竣工 三菱日本重工業 横浜造船所製作」。共同施設ですが設計施工は横浜市水道局が担当した と。昭和39年と言えば前々回の東京オリンピックの年。その横にあったのが「たんごばし(端午橋)」。橋の袂・東側にあった石碑群4基。一番右の石碑には「◯明橋」と。昔の名前なのであろうか?それとも移設されたもの?庚申塔であろうか?下部に三猿の姿?が。享保7年(1722)の銘。石祠。道祖神碑。「寒川神社参道」バス停近くにあった巨大な「石灯籠」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.22
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次この日は4月20日(水)、「寒川町の寺社旧蹟を巡る」を継続中であるが、訪問場所が点在している場所があるので、この日は平塚での仕事の帰路に我が愛車で立ち寄ったのであった。最初に訪ねたのが「信玄芝原(しんげんしばら)公園」。狭い農道の如き道を進んだ。神奈川県高座郡寒川町宮山1666。「信玄芝原(しんげんしばら)公園」の入口。下記の案内板に書かれている通り、武田軍が小田原北条を攻める際に戦勝祈願をするために寒川神社に立ち寄ったときに兵を休めたところだと。現地には信玄芝原公園という公園があり、その中に新装なった案内板がありました。寒川神社の入口から東に向かって最初の信号(健康センター前)を左に曲がり、少し行ったところを斜め右側に入る狭い道を進んだところにその公園はあった。道が狭いので大きな車では入れないのでは。「信玄芝原公園」。園内には何もなく大きな木が1本と奥にあったのが藤棚。「信玄芝原永禄12年(1569)、武田信玄が小田原攻めの途中、戦勝祈願のため寒川神社に立ち寄った際に、兵を休めたところと伝えられています。この時奉納されたと伝えられる、天文六年(1537)明珍房宗作の六十二間筋兜は寒川神社に保存され、平成十一年(1999)神奈川県指定重要文化財となりました。」天文六年(1537)明珍房宗作の「六十二間筋兜」。 【https://samkajyoho.exblog.jp/23621047/】より藤棚の満開の藤が迎えてくれた。藤の花を独り占めし、カメラで追ったのであった。そして次に訪ねたのが北東に500mほど走った場所にあった「福泉寺」。神奈川県高座郡寒川町小谷3丁目2−16。入口にあった銀杏の巨木には多くの「乳垂(ちだれ)」が。乳房状のものがいくつも下がってるもので、乳垂(ちだれ)あるいは気根(きこん)といい、空中に伸びる根である。乳垂は雌木、雄木ともに樹齢が長ければできるのだと。ただ、雄木はギンナンがならないので伐採されてしまうので、乳垂は雌木に多いのだと。日本ではイチョウは神社や寺に多いのだが、乳房状の突起に縁起をかついで、母乳がよく出るように、あるいは安産など効能があるとのことで各地で信仰の対象になっている。「福泉寺」のこのイチョウも同じご利益があるのだ。寺号標石「曹洞宗 福泉寺」。山門から本堂を見る。「福泉寺」は清源院(現厚木市)の末寺で、本尊は地蔵菩薩坐像で、室町時代の作。境内には徳川秀忠に仕えた旗本土屋権十郎の墓や、江戸時代初期の石造阿弥陀三尊像がある。神奈川県高座郡寒川町小谷3丁目2−16。白壁塀のある参道を進む。「本堂」前に狛犬が鎮座。阿形像(右)。「吽形像」(左)。「入り母屋造りの本堂」正面。宗派:曹洞宗開山:英顔麟哲大和尚創建:天正14(1586)年本尊 :地蔵菩薩札所 :相模国高座郡南部地蔵二十四札所 第16番御詠歌「法(のり)の花 咲くべき時の 至りまで 光の谷や 山もかがやく」開山の英顔麟哲は、当寺のほか宮山興全寺・東富岡龍珊寺、長津田大林寺、大曾根大乗寺、小山保寿院を開山しています と。1703年に発生した元禄大震災により大殿と門が破損したが、住持七世の密端和尚によって再建。また、この寺には寺子屋が置かれており、明治6年(1873)に学制発布時は当寺の堂宇に「雍和学舎」が設立され明治9年小谷学校と改称し小学校教育が行われた。そして明治18年一之宮学校に合併されたのだと。扁額は山号の「東谷山」。「本堂」の「木鼻」。内陣。本尊の地蔵菩薩坐像は像高17.7cm、室町時代作。正徳3年(1713)と天保7年(1836)に修理された。作風は宋元風を伝え、量感豊かで彫技も丁寧。加えて童子形を踏襲する尊顔、優しい顔だち、肩部の衣文表現、大きさが興全寺本尊の作風と似ているそうだ。右手に「寺務所」。「寺務所」の奥には石庭があった。左手には大きな墓地が拡がっていた。「六地蔵」。「無縁之霊塔」。左手に「宝珠」を持つ「地蔵菩薩像」。右手に持つのは「錫杖」。ズームして。さらに・・・・・。その下には水子地蔵菩薩(子安地蔵菩薩) が。場所を変えて六地蔵を。本堂手前左手に昭和47年(1972)に整備された「土屋氏二代の板碑」。左:土屋重貞 中央:土屋重正。延宝4年(1676)まで、ここ小谷村は土屋家の領地であったと。境内右手には「石灯籠」が並ぶ。ここにも「地蔵菩薩像」が。近づいて。その横にも。ご先祖二人の戒名が。ここにも石仏が。「地蔵菩薩像」と「本堂」の巨大な屋根を望む。「福泉寺護持會結成記念専禱」碑。五層塔。見事に刈り込まれた境内の生け垣。そして「福泉寺」を振り返る。更に北東に進むとT字路にあったの露座の「不動明王」。神奈川県高座郡寒川町小谷3丁目9−1−2附近。次に訪ねたのが「小谷十一面観音像」があったとされる「観音堂跡」。「木造十一面観音坐像この地は、もと観音堂があった所で、真言系の修験場であったといわれる。本尊である坐像は、細おもての尊顔、胴長な尊体、狭い膝張など中国明風の影響がみられ、胎内文書によって元禄10年(1697)に修理されたことがわかる。像高 32.5cm 膝張 19.5cm 像奥 18.0cm 光背高 43.5cm 台座高 26.3cm 桃山時代作 一木造 玉 眼(面部矧)」脇にあった石仏群。次に養護老人ホーム湘風園の場所にあったのが「大蔵東原(おおぞうひがしはら)遺跡」。神奈川県高座郡寒川町大蔵800。「大蔵東原遺跡」案内板。「寒川最古の遺跡! 大蔵東原遺跡時代 :旧石器時代、縄文時代前期、弥生時代後期、中世発掘調査:昭和60年(1985年)の学術調査から養護老人ホーム増築に ともなう調査などこれまでに計10回主な選構:旧石器時代の礫群 4基、縄文時代の住居跡 4軒、弥生時代の住居跡 11軒、 環濠1条、方形周濠墓 15 ~ 16基主な遺物:石器、弥生土器」以下の写真は、ネット👈リンク から。「方形周溝墓:弥生時代から古墳時代初期にかけて造られた墓の一つの形です。中心に遺体を埋葬する主体部を設け、その周囲に方形の溝をめぐらせて造られました。「環濠:弥生時代の集落は周囲に防御のためと考えられる環濠(空掘)をめぐらすようになりました。これは環濠集落と呼ばれています。」「旧石器時代の礫群:旧石器時代(1万年以上前)の礫群4ヶ所が確認され、寒川町では最古の人間の足跡が残された遺跡ということで注目されました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.21
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次「南泉寺」を後にして、更に北に進むと右手にあったのが「第六天神社」の石鳥居。神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目16-25。境内に社殿の姿はなく「一之宮北町集会所」と書かれた大きな木札のある建物のみ。これが昔の社殿であったのだろうか。そして「大山街道」まで戻り横断する。次に訪ねたのが「金刀比羅宮」。神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目1−20。参道左手にあったのが「第八十四代 出雲大社宮司千家尊祐氏御参拝記念」柱。参道の手前にあったのが「金毘羅会館」。「社殿」。「金刀比羅宮」を後にして「北西」方向に向かって進む。駐車場の奥に小さな神社が見えた。朱の鳥居には「正一位」と書かれていた。稲荷社であろう。神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目23。更に進むと「妙光寺」案内板が。「日蓮宗 妙光寺」。掲示板には「今月の聖語 仏くようの功徳莫大なり日蓮聖人御遺文 「法華証明鈔」」と。「ー功徳ー今月は春のお彼岸を迎えます。皆さんが「仏さま」と呼ばれるのはどなたですか? お釈迦さま、阿弥陀さま、薬師さま…?しかしその中でもご先祖さまを「仏さま」と呼んでいませんか。実はこの思いは先祖供養に重きを置く日本人の宗教観の表れといわれています。その「ご先祖さま」があの世で安らかに過ごせるのは、ご本仏釈尊がご先祖さまを見守り導いて下さっているからなのです。皆さまがお彼岸でご先祖さまを供養することはそのご本仏釈尊にも届いており、想像を遙かに超える大いなる功徳をご自身が積んでいることにもなるのです。 『法華証明鈔』本鈔は日蓮聖人に生涯深く帰依した南条時光氏に宛てたものです。時期は聖人が亡くなる年の2月末でした。ご自身重病の床にありながらも大病する時光氏に対し、日頃の堅固な信心を讃え、その功徳で必ずや病気は平癒すると励まされました。そのお言葉通り時光氏は見事全快し、その後90歳の長寿を全うしたのです。弘安5年(1282)聖寿61歳」正面に「山門」。題目碑「南無妙法蓮華経」。「日蓮宗」。「如日山 妙光寺」。境内の「稲荷社」。扁額「正一位 稲荷大明神」。石碑と石祠。石仏。正面に「本堂」。妙光寺は、僧日念が開基となり天文元年(1532)に創建、唯常院が開山。左手に「日蓮大聖人尊像」。銅燈籠(右)。銅燈籠(左)。扁額「妙光寺」と龍の彫刻。「宗旨名稱 日蓮宗宗祖 日蓮大聖人開宗 建長五年四月二十八日(鎌倉時代 西暦一二五三年)本尊 久遠の本師釈迦牟尼佛題目 南無妙法蓮華経教義 日蓮宗はお釈迦さまの説かれた最高の教えである法華経をよりどころとする宗団です。 この法華経を身をもって読まれ布教をせられた日蓮大聖人を宗祖と仰いでおります。 本宗の教義は法華経の魂をお題目にこめられた宗祖の教えに導かれて私たちが信行に 励みこの教えを弘めることによってやがて世界平和と人類の幸福ひいては個人の しあわせにつながる事を確信できる教えであります。経典 妙法蓮華経(法華経) 本堂のご本尊さまに先ず合掌」寺務所。「日蓮大聖人御幼児 善日麿之像」。日蓮大聖人は安房の国(現在の千葉県)小湊にお生まれになる。父貫名重忠・母梅菊の子として御誕生になり、幼名を善日麿と名付けられた。墓地。左手に民家の立派な門が。そして「南台畑」交差点を直進した。途中で左折して進むと右手にあったのが「車地蔵堂」。神奈川県高座郡寒川町一之宮2丁目16。寒川町一之宮車地蔵(田端生往寺持)は、木像の地蔵尊を祀ったお堂です。供車(ともくるま)地蔵とも言います。「車地蔵沿革史」によれば、堂宇の建立は、慶長2年(1597)3月15日、江戸初期に一之宮に居住していた大森菊地泰次とその家老の秋元金平によると言います。秋元は、人びとの模範となるような忠臣でしたが、あいにく嗣子がありませんでした。そのためこのままでは家が衰微すると察した主君の泰次は自らの長子、菊之丞を養子とし、併せて禄高の一部を分知してその後継としました。このことで主君に対する金平の忠誠心は益々深まりましたが、泰次もその至情を承け、安産子育地蔵尊を共に祀ったと言います。明治初年、堂宇の衰微により、本尊は日向薬師(伊勢原市)へと移管されましたが、明治27年(1894)火災により焼失したそうです。昭和11年(1936)、後裔の霊夢を契機に堂宇の再建が企てられ、また本尊も再刻され今日に至ります。講中奉納による前立の石の地蔵尊は江戸期のものです(左:1715年(正徳5年)作、右:1665年(寛文5年)作)。毎月24日の縁日には、地蔵講中による奉仕が現在も続いています と。朽ち果てた石碑。この場所に「宝篋印塔」があったのだろうか。「金量院殿菩提 (菊地泰次妻)宝篋印塔コノ地ヨリ田端生往寺ヘ遷ズ」内陣。「車地蔵堂この地蔵堂は、小田原城主大森実頼の孫菊地泰次(田端生往寺開基)が慶長ニ年(一五九七)三月建立し、安産子育地蔵を祀ったと伝えられている。霊験あらたかな子育地蔵として江戸期には講を組織して参詣する人も多かった。」「文化財愛護シンボルマーク」。「文化財愛護シンボルマーク」は、文化財愛護運動を全国に推し進めるための旗じるしとして、昭和41年5月に定められたものです。このシンボルマークは、ひろげた両手の手のひらのパターンによって、日本建築の重要な要素である斗栱(ときょう=組みもの)のイメージを表し、これを三つ重ねることにより、文化財という民族の遺産を過去、現在、未来にわたり永遠に伝承してゆくという愛護精神を象徴したものです。これが本物の斗栱(ときょう=組みもの)。そしてこの日の予定を全て完了し、JR寒川駅に向かって寒川町一之宮2丁目の住宅街の庭に咲く花を楽しみながら進む。山吹の花赤い八重椿の花。スノーフレーク。近づいて。先端には緑色の斑点のついた白い小さな花。ピンクの花桃赤の花桃。庭梅の花。エリカの花。そして「寒川駅」南口に到着。JR相模線で茅ヶ崎駅へ。このポスターは「これぞ日本!新倉山浅間公園で見る桜・忠霊塔・富士山の大絶景!」。そして18時前に帰宅したのであった。この日の歩数は34,438歩なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.15
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次「中瀬大神」を後にしてさらに西に進むと右手にあったのが「一之宮八幡大神」の石鳥居。扁額には「八幡大神」と。「一之宮八幡大神」碑。石鳥居の下にあった「いちのみや 大山道」碑。石鳥居の前の県道44号線は、江戸時代の大山参拝の「田村通り大山道」なのである。神奈川県、丹沢山地東部にある大山は阿夫利山、雨降山(いずれも、あふりやま)とも呼ばれ、阿夫利神社が祀られている。古くから山岳信仰の山で、江戸時代には大山講が盛んになり、大山への参詣者が急増した。大山道とは大山への参詣者が通った、関東、甲州などから大山へつながる複数の街道の総称である。主要なものは8道あるとされる。ここ「田村通り大山道」は大山道の中で最も主要とされ、最もにぎわいをみせた経路とされている。東海道藤沢宿の西方、旧辻堂村四ツ谷から分岐して西へ進み、相模川を田村の渡しで越え、伊勢原を通って大山へ通じる。この街道がにぎわった理由は、大山への参詣を終えた後、江ノ島の弁財天に詣で、鎌倉、金沢八景などの景勝地を巡る経路が当時一般的になった事による。大山からの田村通大山道は、藤沢宿をはさんで江の島に続く江の島道に通じるためなのだ と。石鳥居を潜り「一之宮八幡大神」の参道を進む。正面に「二の鳥居」と「拝殿」。左手に「神輿殿」。「手水舎」。「八幡大神」案内板。「宗教法人 八幡大神 一、鎮座地 高座郡寒川町一之宮一丁目二十一番地十号 一、御祭神 誉田別尊(ほむだわけのみこと) 大日貴神(おおひるめむちのかみ) 倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 大山咋命(おおやまくいのみこと) 奥津比古命(おきつひこのみこと) 奥津比女命(おきつひめのみこと) 大雀命(おおささぎのみこと) 菅原天神(すがわらてんじん) 一、由緒 元禄十(一六九七)年八月の創立と伝えるが、平安時代の和名抄に「佐牟河波伊知乃 三夜牟良(さむかわいちのみやむら)」と記されていることから、古くより奉祀されて いたと推定される。爾来武門・上下の尊崇をうけ、明治元年の神仏分離令により妙光寺 持より村持となり、社格制度制定により同六年、村社に列せられ、更に村内の数社を 合せ祀り、一之宮の氏神様として姿を整える。 大正十二年、関東大震災により建物一切倒壊するが、同十五年、本殿他を再建す。 昭和二十年の終戦により宗教法人となる。 同五十九年、境内整備事業により社殿の改修、神楽殿、社務所の新築を奉行する。 平成二十一年一月二十一日、明治の御代に合祀されてより正に百年目に当たる吉き日に 八幡大神に縁深き氏子等参列のもと、合祀百周年記念奉告祭が斎行された。 八月一日例祭、宵宮に氏子三町より奉納される屋台巡行は明治より連綿と受け継がれ 殷賑を極める。 一、祭事 歳旦祭 一月一日、 節分祭 二月節分、虫送祭 六月夏至に近い日曜日、 浜降祭 七月第三月曜日海の日 例祭 八月一日、七五三祝祭 十一月上旬、 煤払祭 十二月二十八日 月次祭 毎月一日」「記念 社務所神楽殿新築落成及社殿屋根葺替竣工竝神輿殿奉製」碑。「二の鳥居」前から「拝殿」を見る。狛犬(右・阿形像)。狛犬(左・吽形像)。「拝殿」。唐破風屋根の下の彫刻。「拝殿」の内陣。扁額「八幡大神」。「大震災紀念碑」(右)と大正4年の「玉垣建造碑」(左)。「大正十二年九月一日午前十一時五十八分 大震災紀念碑」と。背面の碑文には、寒川村一之宮総戸数百七十六戸内全壊百六十四半壊十二 此損害高約二十四萬六千圓以下に殃死者18名の氏名と年齢、発起人22名などの氏名、などが記されていた。「玉垣建造碑」「御大典奉祝記念」碑。「大鳥居並玉垣建造の碑」。「故陸軍歩兵一等卆鈴木庄蔵君之碑」。境内社の「稲荷大明神」。「社殿」。石碑群。「常夜燈」と刻まれた石燈籠。「堅牢地神塔」「二十三夜供羪塔」この石碑は?「双体道祖神」。「拝殿」の右手の広場と建物。次に訪ねたのが近くにあった「南泉寺」。神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目23−1。「大師霊跡 南泉寺」碑。「南無阿弥陀佛」碑。「山門」。「南泉寺 高野山真言宗 山王山・明王院・南泉寺天正元年(一五七三)、贈善清による開山、「村民五右衛門の先祖」による開基(『新編相模国風土記稿』、「社寺明細帳」より)。本尊は不動明王。堂字に薬師堂(現寒川町薬師会館)、天神社があった。江戸初期より、十三仏信仰を奉持する檀家寺として、各檀徒の回忌法要を執行して来た。本堂に十三体の十三仏像を祀置する。境内には宝永六年(一七〇九)の六地蔵像、明和五年(一七六八)の宝篋塔、相模国八三番札所を示す弘法大師石坐像、三界万霊墳、守護本尊八体仏、徳本行者足跡碑等の他、無宗派合祀供養塔がある。」「高野山 真言宗」。「山王山 明王院 南泉寺」。境内右手に様々な仏像が名前入りで並ぶ。手前から「千手観世音菩薩」。「虚空蔵菩薩」。「文殊菩薩」。「普賢菩薩」。「勢至菩薩」。「大日如来」。「不動明王」。「阿弥陀如来」。「本堂」側から。「本堂」前は敷石の工事中であった。「不動明王像」。「聖観世音菩薩」。「六地蔵尊」。「本堂」。本堂の扁額「南泉寺」。「本堂」前の「遍照金剛像」。宝永六年 (一七〇九) の六地蔵像。これも「聖観音菩薩像」あっただろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.14
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「寒川町観光協会」から50mほどで「寒川駅北口」に到着。「寒川駅北口周辺案内図」を見る。「現在地」周辺をズームして。「寒川駅北口」駅前に設置された裸婦像。タイトルは「遥か」。空に伸ばした手が、遥か先の夢をつかもうとしているのであろうか。彫刻家・故 原田純成さんの作品であると。その先、公衆トイレの手前の花壇にはスイセンの花が一面に。「JR寒川駅」の「橋上駅舎」を見る。島式ホーム1面2線を有する地上駅で、「橋上駅舎」を有している。「橋上駅舎」は1985年に完成したもので、建設費1億5300万円のうち寒川町が5800万円、寒川神社が3000万円を、残りを国鉄が負担して建設されたのだと ウィキペディアより。駅前を線路に沿って北東方向に進む。右手にあったのが「相模稲荷神社」。神奈川県高座郡寒川町岡田298。「正一位相模稲荷大明神商売繁盛 家内安全 五穀豊穣 交通安全 安産祈願」と フルパワーの神社。小さな社殿。狛狐(右)。狛狐(左)。「社殿」。右折して県道45号線に出てJR相模線の「用田踏切」を渡る。県道45号線・中原街道は用田へと続いているので、この名前なのであろうか?それとも、この周辺は寒川神社の御用田だったので「用田」とよばれていた場所だったのであろうか?。茅ヶ崎駅行きのJR相模線が通過。右手奥に「JR寒川駅」の「橋上駅舎」を見る。「中瀬」交差点を直進する。そして200mほど進み、「景観寺前」交差点を右折すると直ぐに「景観寺」の「山門」が現れた。神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目18−15。「窪田山 景観寺」。この石碑には「十一面観世音菩薩」と。「山門」。「景観寺本尊 十一面観世音菩薩立像(じゅういちめんかんぜおんぼさつりつぞう)寒川町指定重要文化財第一号昭和四十五年十一月ニ十日指定」室町時代の作と推定される。座高 一〇五・三センチメートル木造割矧造玉眼(もくぞうわけはぎづくりぎょくがん)宝篋印塔(ほうきょういんとう)景観寺の僧回国行者念求(かいこくぎょうじゃねんきゅう)は享保八年(一七ニ三)から三年半をかけ全国の霊場を行脚して、願文や四百もの社寺の巡礼帳を塔内に納めた。享保十ニ年(一七ニ七)七月十日願いが成就してこの塔は建立された。」「景観寺本尊 十一面観世音菩薩立像ご本尊は通常御扉内に収められ、ご本尊の前立像としての十一面観世音菩薩立像(正徳元年(1711)造立)が御扉前に安置されています。毎年10月16日の十夜会(じゅうやえ)のみご開帳となり、ご本尊を直接拝むことができます(日中のみ) と。伝教大師・最澄像「一隅を照らす 此れ即ち国宝なり 伝教大師聖句」「相模国準四国八十八ヶ所巡り」の第54番札所の「弘法大師坐像」が安置されていた。こちらの「弘法大師坐像」は「南泉寺」から移されたものであると。「手水場」。そして正面に「本堂」。天台宗寺院の景観寺は、窪田山明王院と号す。景観寺の創建年代等は不詳ながら、天平年間(719-749)に行基が創建したと伝えられる。高畠大納言の家来窪田万五郎が至徳2年(1385)に再建、窪田山と号し、江戸期には代々小泉家が当寺を守ってきた。当寺本尊十一面観世音菩薩立像は、室町時代の作と推定され、寒川町重要文化財に指定。「本堂」の扁額「景観寺」。「本堂」の内陣。中央に「前立十一面観音像」のお姿が。「南無阿弥陀佛一万日回向」供養塔。右側面には「光明遍照 十方世界 念佛衆生 摂取不捨((こうみょうへんじょう じゅうぽうせかい ねんぶつしゅじょう せっしゅふしゃ))」と。「仏徳の明るい光は広く世の中を照らし、念仏を唱える人々を救いとって、けっして見捨てることなどない」と.左側面には「願以長時 称名功徳 法界衆生 共生浄利」と。裏側には「享保十九甲寅歳七月廿三日 願主當寺現住寂明空阿」と。「宝篋印塔景観寺の僧回国行者念求(かいこくぎょうじゃねんきゅう)は享保八年(一七ニ三)から三年半をかけ全国の霊場を行脚して、願文や四百もの社寺の巡礼帳を塔内に納めた。享保十ニ年(一七ニ七)七月十日願いが成就してこの塔は建立された。」と再び。「水子観世音菩薩」像。小さなお子さんを腕に抱えた観音様。そして足下にも。境内の桜。鐘楼。鐘楼と桜。別の角度から。梵鐘には「南無阿弥陀仏」(右)と「十一面観世音菩薩」(左)と刻まれていた。鐘楼の彫刻。そして「景観寺」の隣にあったのが「中瀬大神」。中瀬大神の創建年代等は不詳ながら、天平年間(719-749)創建と伝えられる景観寺の鎮守として、寺建立と同時期に創建したとされ、その後中瀬の氏神として尊崇されるようになったといいます。明治2年村社に列格、中瀬大神と改称している。石段の上にあった石碑群。石祠。「双体道祖神」。「文字庚申塔」、下部台座に三猿、文化十二年(1815)。「社殿」。近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.13
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次右手に「寒川神社」の「一之鳥居」が現れた。右手には「寒川神社参道」碑。神奈川県高座郡寒川町宮山340−7。JR相模線の踏切脇にあった「寒川神社」の「一之鳥居」。「一之鳥居」の手前にあったJR相模線の踏切。「大門踏切」。相模線 5K736M 巾員13.4Mそして「一之鳥居」を潜って寒川神社方向に進む。左手には「かながわの美林50選 寒川神社の森」柱。一方通行の道路の歩道を北に進む。次の目的地の「水道記念館・水の広場」の案内板に従い左折。「水道記念館・水の広場」の案内板。利用時間 午前九時三〇分~午後四時三〇分休みの日(1)月曜日(ただし祝日・休日の揚合はその翌日)(2)二月の第四週(月~金)(3)年末年始 十二月二十九日~一月三日「水道記念」碑。近づいて。「湘南ノ地タルヤ、氣候温和ニシテ名勝史跡ニ富ミ且ツ帝都ニ近ク将来益其ノ發展ヲ期待セラル而シテ葉山ニハ既に畏クモ御用邸御設置アラサラレ常ニ行幸啓ヲ仰キ御駐輦ノ長キ他ニ其ノ◯ヲ見ス従テ聖域附近ノ衛生状態ヲ改善シ防火保安ノ完備ヲ期スルハ最モ緊要ト為シ水道布設ノ議ハ夙ニ官民ノ間ニ提唱セラレ縣ハ蘆ノ湖利用調査ヲ遂ケ或ハ横濱市ト共同ノ計畫ヲ講シ其ノ他各種ノ立案ヲ試ミタリシカ◯レモ實現スルニ至ラス然レトモ當局者ハ斷エス本問題解決ノ為ニ益技術ニ財政ニ調査研究ヲ重ネ關系市町村亦縣營水道期成同盟會ヲ組織シ熱烈ナル運動ヲ開始セリ時ナル哉縣ハ昭和六年遂ニ給水區域ヲ平塚市外九箇町トシ別ニ既設横須賀市水道ニ對シ上水供給ノ目的ヲ以テ水源ヲ相模川下流ノ伏流水ニ求メ唧筒送水ニ依ル最モ經濟的水道布設ノ案ヲ定メ通常縣會ノ議決ヲ經テ八年三月主務局ノ認許ヲ得五月水源地寒川村ニ於テ起工式ヲ擧ケ爾来日夜工事ヲ薫督シ十季八月全線ノ通水ヲ見本季四月竟ニ工事ヲ完成シタリ工費實ニ五百五拾五萬圓内百四拾七萬餘圓ヲ横須賀市ノ負◯ト為セリ抑本水道ノ給水區域タルヤ東ハ茅ヶ崎藤澤片瀬腰越鎌倉逗子葉山横須賀浦賀ノ各市町ニ及ヒ送水管延長四萬壹千六百餘米西ハ平塚市大磯町ニシテ其ノ延長九千八百餘米ニ達ス蓋シ縣營水道ハ我カ國水道史上曽テ類例ナク全ク之ヲ以テ◯矢ト為ス顧フニ本事業ハ本縣宿年ノ懸桉ニシテ調査開始以◯季ヲ関スルコト十有三其ノ間幾多ノ波瀾曲折ヲ經タリト雖克ク所期ノ目的ヲ達成スルコトヲ得タルハ洵ニ本縣ノ誇リトスルニ足ル爰ニ其ノ沿革概要ヲ石に勒シテ永ク後◯ニ傳フ昭和十一年四月神奈川縣知事従四位勲三等 半井 清 撰」。裏面を見る。「縣營水道既成同盟會建之」と。「水道記念碑についてこの水道記念碑は、わが国最初の広域水道として行われることになりました「神奈川県営水道事業」の最初の工事が、昭和八年五月の起工以来、昭和十年八月の全線通水を経て、昭和十一年四月に完成したことを記念して、県営水道期成同盟会によって建てられたものです。この文面からは、当時の人々の県営水道にかける決意、水道管布設に当たっての努力、また、完成した県営水道に対する誇りが感じられます。「碑に刻まれている文章を現代文に直したものです。湘南の地は、気候が温和で名勝史跡に富んでおり、かつ帝都に近く、将来ますますその発展が期待できます。しかも葉山にはすでに畏れ多くも御用邸を設置いただき、常に行幸啓を仰ぎご滞在の長いことは他にその比を見ません。従って聖域付近の衛生状態を改善し、防火保安の完備を図ることは最も緊要であり、水道敷設の議論は、はやくから官民の間で提唱されており、県は芦ノ湖の利用調査を遂げ、あるいは横浜市と共同の計画を講じ、その他各種の立案を試みましたが、いずれも実現するには至りませんでした。しかしながら当局者は絶えず問題解決のためにますます技術に財政に調査研究を重ね関係市町村もまた県営水道既成同盟会を組織し、熱烈な運動を開始しましたところ、県は昭和六年についに給水区域を平塚市外九ケ町とし、別に既成の横須賀市水道に対し、上水供給の目的をもって水源を相模川下流の伏流水に求め、ポンプでの送水による最も経済的水道布設の案を定め、通常国会の議決を経て八年三月に主務省の認許を得ました。五月に水源地寒川を挙げ、それ以来、日夜の工事を監督し十年八月全線の通水を見て、本年四月についに工事を完成しました。工事は実に五百五十五万円で、うち百四十七万余円を横須賀市の負担としました。そもそも、本水道の給水区域たるや東は茅ヶ崎、藤沢、片瀬、腰越、鎌倉、逗子、葉山、横須賀、浦賀の各市町の及び、送水管延長四万一千六百メートル、西は平塚市、大磯町にしてその延長九千八百余メートルに達します。おそらくは県営水道は我が国史上かって類例なく、全くこれをもって先駆けとなしたのです。かえりみますとこの事業は本県の宿年の懸案にして調査開始以来、年を経ること十三年、その間に幾多の波乱曲折を経ましたけれども、所期の目的を達成することを得ましたことは、まことに誇りとするに足りここにその沿革と概要を石にきざみこみ永く子孫に伝えます。神奈川県知事従四位勲三等 半井清 撰 」「水道記念館・水の広場」への正門。昭和8年(1936年)に県営水道が創設され、寒川に浄水場が作られた。当時のポンプ場は水道記念館として一般に公開されているのであった。「水の広場」と。ここが当時のポンプ場の正門であったようだ。桜の老木が花をこれでもかと付けて迎えてくれた。右手には水の流れる岩の水路・池そしてその奥に四阿が見えた。池の先に「水道記念館」そして前庭には巨大なポンプが展示されていた。せせらぎの流れが「水の広場」に。「水道記念館」の入口に向かって進む。巨大な横型渦巻きポンプ。「神奈川県企業庁 水道記念館」と。 神奈川県高座郡寒川町宮山4001。館内に入ったが見学者は私のみ。1Fにはアクアプレイランド・水源体験ゾーン・水道まるみええゾーンなどがあった。右側にあったのが「アルキメデスのポンプ」。ハンドルを回すだけで水を上までくみ上げられる「アルキメデスポンプ」。アルキメデスポンプは、今から2300年くらい前に古代ギリシアのアルキメデスという哲学者(てつがくしゃ)が考えたといわれる発明。パイプの中には軸(じく)があって、らせんとなったうすい板がついています。この軸をクルクル回すと水がそのらせんにすくわれて、しだいに上まで運ばれるしくみ。アルキメデスポンプは、今でもコンクリートミキサーの中などに使われているのだ。ただし、この日はコロナ禍の影響でハンドル操作は禁止であった。展示されているその他の遊具も操作禁止であった。水を入れたガラスの管が音階を奏でる「水のシロホン」。水の循環をイメージしてボールが館内をかけめぐる「ボールコースター」「水道記念館」の前庭の「水の広場」の円形の池には「河童」の像が。「水の広場」の先にある四阿の方向に向かって歩く。水遊びもできる川が流れていた。何とも涼し気で癒されるのであった。実はこの小川、相模湖から相模湾に流れるまでの相模川の川の流れを表現していると。周りには県営水道の給水区域の木々が。楽しく学べる工夫がいっぱいなのであった。別の場所から。桜の下で談笑するオバちゃん達の姿も。桜をズームして。そして「水道記念館」を後にしたのであった。再び「一之鳥居」に向かって進む。銅製の「一之鳥居」。JR相模線に沿って「寒川駅」に向かって歩く。民家の庭の木瓜の花。そして「寒川町観光協会」に立ち寄る。神奈川県高座郡寒川町岡田1丁目2−31A。多くの観光用パンフレット。鎌倉時代風「鎧兜」。太刀も履物も揃っていた。ボランティアが、長年息子さんの端午の節句で飾ってこられたという立派な「鎧兜」。「岡田遺跡と釣手土器東京国立博物館で開催された特別展「縄文-一万年の美の鼓動」が連日大盛況だったことは皆さまご存知かと思います。また、北海道・北東北の縄文遺跡群が世界遺産候補として世界遺産暫定一覧表に表記されるなど、世界的評価も高まっています。映画「縄文にハマる人々」、縄文女子の出現等、今縄文時代が注目を集めています!そんな熱い縄文時代の遺跡がこの寒川町に、それも、あの有名な三内丸山遺跡にある意味匹敵するほどの日本最大級の縄文時代の集落があることをご存知ですか?日本一の巨大集落 岡田遺跡👈リンク岡田遺跡(寒川町No. 4 5 )は、相模川の支流にあたる目久尻川と小出川に挟まれた標高24mの相模野台地上、現在の岡田もくせいハイツ及び、その東側の畑に位置する遺跡です。昭和57年より9回ほど大規模な発掘調査が実施され、今からおおよそ5.000年前の縄文時代中期の巨大な集落址が発見されました。縄文時代の集落は、環状に住居を配置する環状集落で、勝坂式期から加曽利E式期の竪穴住居址が重複等含め600軒以上確認されており、未調査部分も合わせると、推定1000軒から1500軒の規模になる可能性があり、神奈川県内で最大規模、全国的にみても屈指の住居址数を想定しうる遺跡です。環状集落(かんじょうしゅうらく)とは、中央の広場を中心として、その周りを環状に住居が配置された集落です。お墓と思われる墓坑や、貯蔵用の穴と思われる土坑が中心によった形で配置されたりしています。縄文時代中期ごろによく見られます。岡田遺跡では同時期に3つの環状集落が展開していた鼎立(ていりつ)型環状集落と想定されています。これは全国的にみても数例しか見られないものです。さまざまな土器や石器が発見されており、その数はひと教室まるまる収蔵されていて、整理箱800箱以上にもなりました!」「謎の釣手土器釣手土器とは縄文時代中期に出現した縄文土器の一種です。浅鉢形で胴体口縁部に把手が付けられた土器です。把手の部分に動物や人面などの装飾を伴うものや、祭祀に関連したものとの共伴で出土することもあり、その奇異な形から祭祀に関連した土器とも考えられています。把手には懸垂のためと思われる孔が設けられていることもあり、内面に炭化物等の付着や黒色変化が認められる出土例があることから、灯火具(ランプ)や防虫香炉であるとも考えられています。釣手土器は、どの遺跡からも発見されるわけではありません。またあったとしても、一つの遺跡に一つが普通です。それが、岡田遺跡からは5点も釣手土器が発見されています。これは県内で最多の出土数、全国的に見ても数例しかありません。特に116住居から出土した釣手土器は、平成24年3月に岡田遺跡を代表する土器として、寒川町指定重要文化財第20号に指定されました。116号住居から出土した他の土器はもっと新しい時代の土器と思われ、釣手土器は何世代かにわたって大切に伝えられたものと考えられます。ほぼ完形であり、その見た目は人間や動物の顔や仮面などを思いおこさせます。また真上から見ても顔のように見えます。はたして釣手土器の本当のモチーフはなんだったのか?縄文人の芸術とは?何のために大切に守られていたのか?みなさんも想像してみてください。町指定重要文化財になっている116号住居出土の釣手土器や、1999年調査時の6号住居出土の釣手土器は、ほとんど完形であり大切にされていたことがわかります。これに対し1999年調査1号土坑出土の釣手土器は、バラバラの状態で土坑(穴)から発見されました。他の2点の釣手土器も一部しか発見されておらず、同じ釣手土器なのに取扱い方が正反対とも言えます。釣手土器は祭祀や儀式に使っていたとも考えられます。何世代かに渡り大切にされていた釣手土器もあれば、対してバラバラの釣手土器もあります。バラバラの釣手土器は役目を終え穴に捨てられたのか?それとも何か呪術的目的で封印されたのか?なぜこんなに沢山の釣手土器が岡田遺跡には存在しているのか?謎は深まります。」岡田遺跡出土の釣手土器(116号住居出土)。寒川町指定重要文化財第20号。 【https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/206871】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.12
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次「寒川町役場」を後にして、バス通りを南東に進み、「旧中原街道」を横断し高圧線の下を通過。次に訪ねたのが「大塚古墳公園」。神奈川県高座郡寒川町岡田51−1。「大塚古墳公園(大神塚周辺古墳群E号噴について)「大塚古墳公園」の名称につきまして、この周辺の小字の「大塚」と、古墳が発掘されたことに由来しています。平成17年から平成23年にかけて、寒川駅北ロ地区土地区画整理事業に伴い、発掘調査が実施されました。この公園はその、岡田西河内遺跡の北東部分に位置しています。その中でも、この公園では、明治期に調査がされ記録しか残っていなかった、古墳時代後期( 7世紀ごろ)の古墳(大神塚周辺古墳群E号墳)の石室及び周溝が再発見され、フェンスで囲まれている部分に、調査された古墳の石室が保存され、貴重な文化財を後世に残しています。この他、岡田西河内遺跡では、弥生時代中期の大集落や、近世の溝や道状遺構など多くの遺跡が発見されました。」「大神塚の周辺には、5基の古墳があったと記録されています。そのうち、D , E号墳は発掘され、D号墳はレプリカが作成され、文化財学習センターで展示され、E号墳は公園内に保存されています。」「保存されている古墳の石室です。石室は遺体が安置されていた場です。切り出した石を組み石室の壁としました。本来は壁は高く、天井石や土盛りもありましたが既に無くなっており、石室と古墳のまわりをめぐらせた溝(周溝)のみ発見されました。」E号墳、石室の位置が示されていた。「古墳は6世紀末から7世紀のものと推定。同時期の古墳がこの周辺には5基あったと考えられる。古墳の石室の形態が、切り石積横穴式石室は神奈川県内では川崎、横浜市を中心とする多摩川・鶴見川流域でよく見られ、相模川流域ではあまり見られない」と。そして「大塚古墳公園」の前にあったのが「安楽寺」の墓地。墓地の中を歩いて、「安楽寺」に向かう。大きな「護国霊塔」👈リンク。寒川町の戦没211柱を祀った慰霊塔で、昭和26年11月18日に遺族後援会によって建立された と。左手に「詩碑」「戦後五十余年が経過し 戦争を知らない世代が大半を占める今日平和とはごく当たり前のことであり 戦争とは歴史上の出来事でしかない遠い存在になっておりますこの戦争によって多くの犠牲者を出し 悲しみに耐えながらも残された家族が一丸となって生活を支え今日に至る方が多数おいでになること そして復興再建の労苦もよって現在の平和日本が存在することも忘れかけているのが事実でありますさて 護国霊塔は昭和二十六年に寒川町遺族後援会によって 国の為に心魂を捧げられた寒川町に在住した英霊をお祀りし戦争の悲惨さを後世に伝え同じ過ちを二度と繰り返さない教訓を培うことを目的に建立されましたが 歳月と風雨によって傷みも著しく老朽化が目立ってきておりましたそこで寒川町遺族會におきましては 護国霊塔建立五十年を記念し 諸先輩方の思いをさらに後世に伝えるため 平成十三年度に修繕をいたしました」と。「護国霊塔修繕寄付者名簿」も。次に訪ねたのが「安楽寺」の「本堂」の裏にあった「大(応)神塚古墳」。左側に美しい形状の「古墳厳探記念碑」。左に「寒川町指定重要文化財第十九号 大(応)神塚」と右に「大神塚」案内板。「大神塚全長約50メートル、後円部径約30メートル、同高さ約5メートルの帆立貝形を呈する大きな前方後円墳である。明治41年4月、寒川神社宮司の提唱で坪井正五郎博士により発掘調査が行われた。出土した和鏡二面、漢鏡一面、直刀三振や、陪塚から出土した金銀環、勾玉、管玉等は寒川神社に展示されている。古墳の築造は5世紀と推定される。」「大神塚」の頂きに上って行った。頂にあった石碑。近づいて。「發掘記念碑」。「往尓神社由緒調査事業乎企留尓方利斯乃塚上傅説寒川大神廟屈乃碑銘在尓基伎明治四十一年四月發掘乎遂氣調査上最母有益奈留副葬品遠得多利詳細波神社志尓悉世利嘻能久是難事業乎完了令為波全久寺院止村民止乃贊翼乃令被然䖏爰尓安樂寺檀徒惣代事蹟乃堙滅乎憂比此碑乎建留尓迨比有志亦克久其業乎資久允尓有有終之美止云布可伎哉明治四十四季三月一日 寒川神社社宮司蒐田茂丸撰并書」「大(応)神塚周辺小型古墳発掘記念碑この記念碑は1908年(明治41年)に大(応)神塚周辺の小型古墳の発掘調査を記念して建てられたものです。この調査は、大(応)神塚の発掘調査と同時に行なわれたもので、東京帝国大学教授坪井正五郎氏が調査を担当しました。小型古墳は5基の円墳があったと考えられておりいそのうち3基が調査されました。1基からは理葬施設である石室が検出され、内部より数体分の人骨と副葬品として耳環、勾主、管玉、切子玉等の装身具と直刀、鏃(やじり)等の鉄製品が出土しました。この記念碑はその古墳の付近にありましたが、区画整理にともない、平成19年2月にこの場所に移設されました。「大神塚」を下る。そして「安楽寺」の入口に廻り込む。寺号標石「高野山真言宗 安楽寺」。参道左手に石仏群。右側の二体。参道を進む。湧水による池であると。中央付近に石祠もあった。「弘法大師坐像」が三体。「相模国準四国八十八箇所」の弘法大師坐像であり、中央は第6番である安楽寺、右は廃寺となった末寺の観護寺(第71番)、左は同じ末寺であった宝塔院(第75番)の「弘法大師坐像」がそれぞれ安置されていた。「安楽寺本尊 大日如来像寒川町指定重要文化財十二号昭和六十一年六月二十日指定大日如来は、古くは寒川神社の別当であったと伝えられる安楽寺の本尊です。穏和な全体感、浅めでおとなしい彫技などの特徴から、平安時代の作と考えられています。寒川町内最古の仏像です。」像高一〇一・五センチメートル 木造寄木造」「安楽寺の御詠歌後の世と おぼつかなくも たのみしか この世うさぞ 安くたのしき」「このお寺は◎宗旨は高野山真言宗です◎御本尊は大日如来◎御本尊の御真言はオンアビラウンケン バザラ ダドバン◎総本山は高野山金剛峯寺です真言宗の◎根本の御本尊は大日如来であリます◎大日如来の御真言はオンアビラウンケン バザラ ダドバン◎宗祖弘法大師(御名は空海)宝亀五年(七七四)六月十五日 香川県 善通寺に御誕生 承和ニ年(八三五)三月ニ十一日 高野山に入定◎宗祖大師御宝号は 南無大師遍照金剛◎立教開宗は大同ニ年(八〇七)◎根本の経典は大日経 金剛頂経であり 宗祖大師の御著作とともに教義の基本とします教義と信仰いきとしいけるものは字宙の根源的な大生命である大日如来の顕現であり すべての仏・菩薩・明王・天神などは 大日如来の御徳の一面をあらわしておられますこの大日如来を中心とした胎蔵・金剛界の両部曼荼羅は 整然とした宇宙の秩序と 永遠なる宇宙の生命をあらわし 現実世界のそのままが理想世界となることを示しております(蜜源国土)わたくしたちは 大日如来に帰一するために 手に印を結び(身密)口に真言を唱え(口蜜)心を本尊と同じ境地におく(意密)三密行を実践することによって この身に本来仏性がそなわっていることを自覚し その体現につとめます(即身成仏)宗祖弘法大師は みずから大日如来すなわち遍照金剛となられて 社会の安泰と人びとの福祉のために尽力され 未来永劫にわたって衆生を救済しようという御請願のもと 高野山奥の院に御入定なされておられます大師御入定の聖地である高野山祖廟を信仰の中心に置き 大師のみ救いを信じ 大師のみ教えを現実社会の中に生かすことがわたくしたちのつとめであります」白い桜の花。枝垂れ桜。ズームして。「水掛観音像」。参道の桜を振り返る。「本堂」。高座郡寒川町にある高野山真言宗の寺院。元中本寺。相模国準四国八十八箇所第6番。境内本堂裏手には大神塚古墳(前方後円墳)がある。古くは寒川神社の別当寺であった。現在は高野山高室院の末寺。国分寺の創建より古い718年(養老2年)開基と伝わる古刹であり、相模國一之宮である寒川神社の別当寺として創建された。寒川町内では最古の寺院で、御本尊である木造の大日如来坐像(平安時代作)は寒川町の重要文化財に指定されている。江戸時代には中本寺格の寺院として発展し、現在の寒川町、海老名市、藤沢市にまたがる18ヶ寺の末寺を持ち、「一之宮門中」、「大塚門中」と称された。1633年(寛永10年)の『関東真言宗古義本末牒』には「法談所」と記されており、この地域における真言宗僧侶の養成機関としての役割を担っていたと考えられる。また、1821年(文政4年)には「相模国準四国八十八箇所」の霊場として弘法大師坐像が安置された。「本堂」に近づいて。扁額「安楽寺」。内陣。脇間にあった牡丹の絵柄が美しいステンドグラス。この付近はこの日が満開か。花に近づいて。赤とピンクの花の共演。そして「安楽寺」を後にして、南に進むJR相模線に沿って「寒川神社」の「一之鳥居」に向かって進む。ミモザの花であっただろうか。JR相模線の電車が通過。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.11
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次次に訪ねた「寒川中央公園」の桜は満開が近づいていた。この日は2022年3月31日。神奈川県高座郡寒川町宮山275−283−1。「寒川中央公園」の中央には広い遊歩道があり、その両脇には桜並木が。「さむかわ中央公園」ご案内。<面積> 47,655平方メートル<供用開始日> 平成10年8月1日<特徴> さむかわ中央公園は寒川町のおおよそ中央部に位置しており、寒川町を代表する公園の一つです。 広大な敷地面積を活かし、通常の利用はもとより、大規模な催しや祭りが開催されています。 さらに公園内には、寒川総合体育館を併設しており、町内外問わず、多くの方が来園されて います。また、耐震性貯水槽や防災備蓄倉庫等を設置し、災害時の避難場所としても機能して います。 <主な施設内容> ・芝生広場 ・幼児広場 ・調整池兼自由広場 ・ビオトープ池 ・せせらぎ ・ジョギングコース(一周444メートル) ・屋外トイレ(2基) ・駐車場(195台)12月31日から翌年1月3日までは有料 ・駐輪場 ・寒川総合体育館 ・防災備蓄倉庫・非常用耐震性貯水槽遊歩道脇の芝生広場に花見の多くの市民の姿が。一段と色の濃い桜の樹。「陽光櫻」と。陽光桜(ヨウコウザクラ)は、「天城吉野(アマギヨシノ)」と「寒緋桜(カンヒザクラ)」との交配により生まれた、寒い地域でも暑い地域でも栽培可能な品種とのこと。鮮やかな紅紫色で一重咲き、大輪の花を下向きに咲いていた。花付きが良く、大きく成長すると大変美しく見応えがあるのであった。染井吉野(ソメイヨシノ)を背景に。更に桜を楽しみながら遊歩道を南に進む。桜の樹の下には、スイセンの花が一面に。白い花も混じっていた。「寒川総合体育館」を望む。「現在地」はここ。ビオトープ池には鴨の姿が。「芝生広場」の先の「寒川総合体育館」を望む。ズームして。コロナ禍の下、テントの中で楽しむ家族の姿も。「ロータリーの泉」。流れ込みの人工せせらぎ水路をたどると水源の「ロータリーの泉」へ。ポンプ循環であろう。「ロータリーの泉」。「さむかわ中央公園」の周囲の道路脇にも「陽光櫻」が。再びズームして。その先にはソメイヨシノが。近づいて。歩いてきた桜並木を望む。そして道路を渡り、「寒川町役場」の敷地内に裏側・北側から入る。中庭には裸婦像・「水辺」があった。「寒川町」の町鳥の「ダイサギ」の像。体長は 90cm ほどで、日本ではアオサギと並ぶ最大級のサギ。全身の羽毛が白色。白鷺の一種。神奈川県に2か所あるサギの集団繁殖地の1か所はここ寒川町にあるのだと。ズームして。「寒川行政センター」案内板。根元から大きく枝分かれした「ケヤキ(欅)」。「記念植樹 ケヤキ(欅)」ニレ科・落葉樹平成2年11月1日の町制施行50周年を記念し、植樹したものです 寒川町」入口のモニュメント。「翔(SHO)」と。入口脇には別のモニュメントも。「寒川町核兵器廃絶平和都市宣言」モニュメント。「三つの意志 1987」(原田純成 昭和62年制作)「寒川町核兵器廃絶平和都市宣言わが国は世界唯一の核被爆国であり、核兵器の廃絶と世界の恒久平和は、全国民共通の願いである。しかしながら、地球上には多くの核兵器が貯えられ更に増強の傾向にある。寒川町は、このような現状を踏まえ、国是である非核三原則の順守と、すべての核兵器の廃絶を強く訴え、恒久的な世界平和を願い、ここに核兵器廃絶平和都市となることを宣言する。昭和60年6月13日。駐車場も数か所に。「寒川町の町章は、昭和25年(1950)の町制施行10周年を記念して制定されました。 デザインの募集は全国に呼びかけられ、237点の応募がありました。審査の結果、 群馬県の人の作品が採用され、町議会において決定されました。寒川の「サ」の文字をモチーフに、町の平和を円、団結を「クサビ」で表してい ます。」と。「寒川町役場」の「本庁舎」を振り返りながら後にする。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.10
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次「寒川神社」を後にして、第1駐車場から「寒川神社」の東側の道路に出ると、正面にあったのが「寒川神社少年館」。神奈川県高座郡寒川町宮山3916。「寒川神社少年館」は、昭和五十二年に、いわゆる「鍵っこ」対策の一環として開館した。以来、多くの子どもたちが立派に成長し、巣立って行った。新聞やニュースで毎日のように取り上げられているいじめ問題や子供への虐待など、子どもたちを取り巻く社会環境は決して良いとはいえない。そんな子どもたちの居場所や交流の場の一つとして、歴史と伝統に包まれた鎮守の森の中で社会生活のルールを学びながら、自然を愛し、人を愛する豊かな心を育む伝いをしている」と。講座は、茶道・英語・美術・書道・神道入門・剣道・吟道・写真・俳句・音楽の科目を、毎週月曜から土曜の午後3時から5時まで開講しているとのこと。「寒川神社 相模塾」「寒川神社」では神道を通して日本の暮らしや伝統文化を再発見することを目的とした「相模塾」を開催している。普段は知ることのできない神社・神道について学ぶことが出来るのだと。「寒川神社」では、鎮守の森や大自然の中での体験を通して、青少年の豊かな心と健やかな体を育むボーイスカウトの活動を支援している。昭和四十八年七月に発団し、春夏のキャンプをはじめとする野外活動や地域住民との交流イベントなど、さまざまな活動をサポートしてきた。そして南に進むとT字路の角、「興全寺西門」案内の前にあったのが「馬洗戸橋」碑。歴史の古い寒川神社の流鏑馬は、まず初めに「馬洗いの儀」から始まります。ご神職が馬に乗り、神社の東側に有る花川用水に架かる「馬洗戸橋」前で馬の足を洗うのだと。寒川神社の流鏑馬は、一概には、鶴岡流鏑馬の系統とはみなすことができない古式の流鏑馬。そして「興全寺」の参道入口に到着。「とんがらし地蔵尊」案内板。「徳川家康公 寒川神社々僧歴代菩提所 とんがらし地蔵」と。明治時代前の神仏混淆(しんぶつこんこう/神仏習合)時代の名残で、昔は寒川大明神(寒川神社)を守護神とする神仏混淆の寺院だったのであろうか。寺号標石「曹洞宗 興全寺」相模国一之宮、寒川神社代々の神官が祀られており、徳川家康公とも縁(ゆかり)のある興全寺は寒川神社の東隣に創建された曹洞禅宗(そうとうぜんしゅう)の寺院。「悪い事をしない 善い事をしましょう三歳児にもわかるが 八十歳を過ぎたとしても成すことは なお難しきかな」「山門」。「龍寶山」。「興全禅寺」。「山門」の扁額「龍寶山」。そして「常香炉」の先に「本堂」。「常香炉」。「本堂」。「曹洞宗(禅宗)南無本師釈迦牟尼佛当山本尊 釈迦如来大本山 福井県 永平寺 御開山 高祖道元禅師 横浜市 總持寺 御開山 太祖瑩山禅師伝統 お釈迦さまより正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の曹洞の禅風として 開花し鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす。その教義は螢山禅師によって 広く全土に実践教化され今日に至る。教義 人は本来佛性 己に佛心の具え有り 正法の教典を讃仰読誦し、深く黙照して坐し、 脚下照顧して己の足下を見つめ、自然(宇宙)と一体なる自己を見極めて、活達なる 人生をいかしきるのが、禅の実践なり。経典 修証義 般若心経 観音経寿量品等を読誦する。本堂のご本尊に先ず合掌」「本堂」前の石仏。「内陣」。ズームして。境内にあった「相模地蔵尊」。子供たちが親や人生の先達を敬い、自分が人々の力によって生かされていることに感謝する心をもち、お互いを尊重し合い、心を養うことができるよう願いを込めて建立された と。お顔をズームして。「相模地蔵尊」と。「水子供養 子授け安産御祈祷 相模地蔵菩薩」。「相模地蔵尊 御案内子授け安産・学業成就祈願水子供養御祈祷を受け付けております。」そして「宝篋印塔」が二基。左をズームして。「宝篋印塔※右 貞治七年 北朝年号(一三六八)建立※左 貞治六年、北朝年号(一三六七) 建立寒川町指定重要文化財第十一号昭和六十年四月一日指定宝篋印塔は「宝篋印経記」によると応和元年(九六一)、中国より日本に伝えられたもので、「宝篋印陀羅尼経」を塔中に納め礼拝すれば生きている間は災害から免れ、死後は必ず極楽に生まれかわるという功徳が説かれていたが、鎌倉中期以降墓碑塔、供養塔に変化していった。この塔は地蔵信仰にかかわりのある宝篋印塔で、寒川町内最古のものである。」境内の「石碑群」。「畜霊碑」。「碑の由来についてこの畜霊碑は、寒川町内で飼育され人々の食生活のために貢献した家畜に対し感謝し、その霊を慰めるため昭和四十二年にこの場所に建立したものである。また、高座豚の元祖であるべンドレーバグルボーイ二世号の功績を讃えた碑が畜霊碑の隣に建てられているが、ペ号は昭和六年に全国に先駆けて当時の郡農会が品種改良のために英国から輸入したもので、寒川では昭和九年から管理され種付け頭数も六百余頭に及び全国にその名声を博せる高座豚の基礎を確立した。毎春、畜産会員及び関係者により供養のため畜霊祭をおこなっている。」「べンドレーバグルボーイ二世号」碑。そして別の日に再び訪ねた「とうがらし地蔵」。昔からいぼとり地蔵として有名で地蔵の前の線香の灰をイボにつけるとイボが取れるといわれており、合掌しながらじっと対面すると、心がなごみ、和らぎを感じられるそうです。イボが取れたお礼には、自分の年の数だけトウガラシを数珠にしてかけることになっています と。とうがらしが奉納されていたが赤い色は残っていなかった。「本堂」の西側には墓地が。墓地の最奥にあった「歴代住職の墓」。「本堂」を墓地の奥から見る。永代供養塔 白蓮之塔(合祈墓)。「東照公御遺訓」として今日に伝えられている「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如くいそぐべからず」。徳川家康ゆかりの寺とあるが具体的には?「水子地蔵尊」。そして「西門」近くにあった「子安地蔵」。そして再び「寒川神社」前の道を東に戻り、「根岸」交差点を右に折れて進んだ所にあったのが「寒川中央公園」内にある「シンコースポーツ 寒川アリーナ(寒川総合体育館)」。手前が「メインアリーナ棟」。右側が「サブアリーナ棟」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.09
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更に「寒川神社」の散策を続ける。寒川神社の「御神木」は、御本殿の脇にある二本の杉。ここには、御祭神の寒川比古命と寒川比女命が宿ると言い伝えられているのだと。そして「御神木」の奥の木は「梛(なぎ)」であっただろうか。「社務所」の玄関奥にあった絵画。コスモスの咲く細道が描かれていたが、ここ寒川の景色だったのであろうか。そして色紙には「希望」と。「神門」の下から「拝殿」を振り返る。外庭に出て「社務所」のガラスに映る日の丸と桜を。「南門」前の外庭から、神明造りの「本殿」の屋根を見る。「南門」・「旧神門」を外庭から。昭和四年(1929)の建立。「南門」の外側の下には木製の対の灯籠が安置されていた。境内売店では縁起物・参拝みやげが売られていた。「八福餅」の売店。餅をあんこで包んだお菓子。伊勢の餅・赤福は、五十鈴川の流れる姿、せせらぎをかたどり、三筋の形がつけられたものとなっているが、八福餅には、八筋の形がつけられている。八福餅の形は「八方除けの神さま」と呼ばれ有名な寒川神社の八方除けに因み八角形をしている。八福餅の「八」は、八方除の「八」と末広がりの「八」、「福」は招福、幸福の「福」に因み作られている と。売店「元祖 そば うどん」と。ソフトクリームでしばしの休憩。こちらは「人形奉斎殿」。古い人形を納める場所があり、焼却できる人形に限るが、1,000円からの志で納めることができるのだと。扁額「人形奉斎殿」。「南門」を参道側から振り返る。ズームして。参道の両脇には狛犬の姿が。「平安しだれ桜」はこれから。「御社殿御造営奉祝記念 奉納 平安しだれ桜」。そして「神池」まで戻る。噴水と桜のコラボ。再び 相模薪能「石橋」像(さがみたきぎのう「しゃっきょう」ぞう)寒川神社では、昭和四十五年(1970)から終戦記念日にちなみ、毎年8月15日に世界の平和を祈念して、相模薪能が演能されている。「石橋」は能の演目のひとつ。『石橋』「仏跡を巡る旅を続ける寂昭法師(じゃくしょうほうし)は、中国の清涼山(しょうりょうぜん:現・中国山西省)にある石橋付近に着きます。そこにひとりの樵(きこり)の少年が現れ、法師に、橋の向こうは文殊菩薩の浄土であり、この橋は狭く長く、深い谷に掛かり、人の容易に渡れるものではないこと(仏道修行の困難を示唆)などを教えます。そして、ここで待てば奇瑞(きずい:めでたいことの前兆)を見るだろうと告げ、姿を消します。法師が待っていると、やがて、橋の向こうから文殊の使いである獅子が現われます。香り高く咲き誇る牡丹の花に戯れ、獅子舞を舞ったのち、もとの獅子の座、すなわち文殊菩薩の乗り物に戻っていきます。」とネットから。「神池」の噴水と「神池橋」を見る。「神池」の鯉ものんびりと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.08
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「寒川神社」の散策を続ける。左手に「神門」を見る。「神門」(左)と「客殿」(右)。「客殿」を正面から。寒川ネ申社での厄除け、および八方除などの祈願の受付は、神門右にあるここ「御祈願受付」「八方除御祈念受付」の看板がある客殿で受け付けていた。地上二階、地下一階。平成四年(1992)の建立。唐破風の「社務所」。御朱印を頂きました。「客殿」前から「神門」と「御神木」を見る。「絵馬掛け」。「厄(八苦(やく))」落し絵馬。「厄」という字が逆さまになっていて、悪事・災難から免れるよう祈願された絵馬「厄」という字が逆さまになり「落とす」ことによって「厄落とし」となるというココロ。陰陽道の五芒星も赤く描かれていた。その左に「願掛け絵馬」。神職の方が祝詞をあげている様子が描かれている絵馬。「絵馬のいわれ古くは祈願の際 神の乗り物である生きた馬を神馬として奉納していましたやがて生きた馬の代わりに木版に馬を描いて奉納したものが絵馬のはじまりです」「旧神門」を見る。昭和四年竣功。元の神門を移築したもので、旧御本殿をしのぶ建物。狛犬(右)。狛犬(左)。桜を背に。正面に「神馬舎(しんめしゃ)」扁額「神馬」。昭和天皇在位50年を記念し作成された。中には、神様の乗り物である白馬と白馬を守る猿の彫刻が納められていた。彩色木彫家の平野冨山さんの作品。鞄の彩色が見事で、迫力があった。桜越しに「神門」を見る。狛犬も同様に。「神門」。近づいて。2001年から毎年1月1日~2月3日(節分)まで、この「神門」に青森のねぶたが飾られているのであった。今年・2022年の「迎春ねぶた」をネットから。今年の作品名は「風神雷神〜厄難消除」。風神雷神を祀り、疫病や自然の猛威に打ち勝つ思いを込めた。幅9mある作品は青森ねぶた師の北村蓮明氏が製作を手がけた。日没後に500個のLED電球で灯されたのだと。2021年12月20日~2022年2月23日(水)まで設置されていたとのこと。「風神」。「雷神」。そして下の写真は、2023年の迎春ねぶた(旅友の写真を転載)。制作を手掛けたのは、ねぶた祭で県知事賞等の受賞歴を持つ青森ねぶた師の北村春一さん。今年は「家族の絆」をテーマに、国家安泰と五穀豊穣の神様・瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと)と、安産と子授けの神様・木花咲耶 (このはなさくや) 姫を題材に制作したと。「神門」に掲げられた大きな「御紋提灯」。「菊花紋章」の提灯であった。「寒川神社」がかつて官幣大社という非常に格の高い神社であった名残なのだ。「神門」の扉には寒川神社の神紋である「巴紋」が。寒川神社の巴は、中心に三つある『頭』の部分が円形より反った形をしているのが特徴。そして「神門」を潜ると正面に「拝殿」。「客殿」を「拝殿」前の「内庭」から見る。反対側の「内庭西廻廊」では「学齢児図画展」が行われていた。寒川神社境内「内庭廻廊」で4月1日(金)から15日(金)、「第52回学齢児図画展」が開催されているのであった。この春から小学生になった町内3つの幼稚園に通っていた子どもたちの力作約150点をずらりと展示されていたのであった。「西側内庭回廊」から「神門」と「客殿」を。「回廊」には、「菊花紋章」の入った「吊り灯篭」が並んでいた。「拝殿」。御祭神をお祀りする社殿。平成九年十月竣功。総桧造りで、東西翼殿をはじめ附属施設があり、拝殿には二一六名が一度に着席、参拝できる席が設けられている と。大注連縄は長さ約14・5m、中心部の太さは2・1mになり、重さは1tに及ぶ と。近づいて。内陣。二一六名が一度に着席、参拝できる席が設けられている と。「拝殿」前から「神門」方向を見る。「神門」の左側は「授与所」。寒川神社のお守・お札を受けられる場所。「拝殿」を斜めから。「拝殿」の右側の「御神木」の手前に「渾天儀(こんてんぎ)」。古くから中国や日本で天体の位置や運行を観測するのに使用した機器。この「渾天儀」のレプリカは、本来天体の位置・星等を観測する器具。特に星の運行は、人々に方角を教えてくれるばかりではなく、国家の命運をもにぎると昔から考えられて来た。そのため、天体観測により暦が作られ、さらに暦によって日々の吉凶が占われたのだ。寒川神社の渾天儀には、龍は天空を支えるという故事にならい四隅に龍が配置されていた。四隅の龍をズームして。更に。「方位盤」。360度を8つに分けて45度。 それをさらに3つに分けて15度ずつ。 この方位盤を見ても、「裏鬼門」は「坤(ひつじさる)」の15度、 「鬼門」は「艮(うしとら)」の15度とされています。「方位盤」と「渾天儀」の台座の測面には四神が。上段には青龍(東)・朱雀(南)、下段には白虎(西)・玄武(北)。「方位盤と渾天儀寒川神社は、古くより全国唯一の八方除の守護神として信仰されています。八方除とは、地相・家相・方位・日柄等から起因する、すなわち方位神によるあらゆる悪事災難を取り除き開運をもたらす神様ですここに、方位盤・四神の彫塑・渾天儀という八方除に因む三つの構造物の構成による記念碑を製作しました。方位盤は四正(東・南・西・北) と四隅(北東、東南、南西、西北」の八方位と中央の九星・十干十二支を、八方には易の八卦を配当しています。一般的な気学方位盤とは異なり、八方位を均等に配置し正八角形の意匠でわかりやすく象られています。四神は天の四方の方角を司る霊獣で、東は青龍、南は朱雀、西は白虎、北は玄武を配します。渾天儀は、本来天体の位置・星等を測定する器具ですが、特に星の運行は人々ばかりでなく、国家の命運をもにぎると考えられました。天文観測により暦が作られ、さらに暦によって日々の吉凶が占われたのです。龍は天空を支えるという故事にならい、渾天儀の四隅に配置しています。寒川大明神を敬仰する氏子崇敬者の皆様には、この方位盤と渾天儀により方位除についてより深くご理解をいただき、八方除信仰の礎としてご活用下さいますよう祈念いたします。」「東回廊」を見る。再び「拝殿」を振り返る。「東回廊」前から「神門」を再び。「授与所」。「神門」を潜り外庭に出て「神馬舎」近くの「狛犬」そして桜を見る。「国旗掲揚塔」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.07
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次次に訪ねたのが寒川神社の参道の西側に鎮座する「末社 宮山神社」。道路を渡り石鳥居に向かう。社号標石「末社 宮山神社」。扁額「宮山神社」。ここにも太皷橋があった。「神池」から連なる水路。「寒川神社末社 宮山神社一 御祭神 八柱の神 (合祀神社名) (御祭神名) (旧鎮座地)琴平社(ことひらしゃ) 大物主神(おおものぬしのかみ) 神戸鎖座八劍社(やつるぎしゃ) 須佐之男神(すさのおのかみ) 八創鎖座雷社(いかづちしゃ) 健御雷之男神(たけみかづちのおのかみ) 雷鎮座若宮八幡社(わかみや 大雀命(おおささぎのみこと) 旭鎮座 はちまんしゃ) 祢岐志社(ねぎししゃ) 聖神(ひじりのかみ) 根岸鎖座郁荷社(いなりしゃ) 字運之御魂命(うかのみたまのみこと) 中洲鎮座三蜂社(みつみねしゃ) 伊邪瑯岐命(いざなぎのみこと) 上合鎮座 伊邪那美命(いざなみのみこと)一 祭典日月次祭 毎月一日 午前八時半例祭 九月二十九日 午前十時一 御由緒寒川神社末社宮山神社は、古くよりこの宮山各地区に鎮座しておりました七社の小祠を、現在の社地に御社殿を建て合祀いたしております。明治四十一年十二月琴平社に八劍社、雷社、祢岐志社、若宮八幡社の四社が合祀され、大正三年九月稲荷社が合祀されました。大正十二年の関東大震災により、社殿が半倒壊するなどの被害を蒙りましたが、昭和五年国費を以って復旧いたしました。昭和四十四年九月、三蜂社が合祀されております。一 御神徳宮山神社に白豆腐をお供えして祈ると母乳に恵まれる、と云われています。子供の安産の願い、母子の健やかな生育を願う祈願等の信仰が今に伝えられています。また、御祭神の御神徳は厚く、家運隆昌、家内安全、無病息災、商売繁盛、五穀豊穣の神として、宮山地区の人々はもとより、広く一般に崇敬されております。」「宮山神社」の「社殿」。近づいて。球体の御影石に「和光」と刻まれた石碑。「平和塔 和光」。「平和塔 和光今般、大東亜戦争終結二十年を迎え、宮山部落では往時を回顱し、今後戦争は絶対に之をさけ、永遠の平和をになう意味に於いて、この平和等「和光」を建立するに至りました。材料は総白みかげ、柱及び玉は磨きとし台は八方除けに因みて八角、柱は三本にて夫々戦没者・遺族・国民の三者を象徴し上に支える玉は平和を表すものであります。昭和四十年八月十五日 宮山区民一同この平和塔は、寒川神社神鹿苑内に建立されていましたが、神鹿苑整備工事に伴い平成二十一年十一月宮山神社境内のこの地に移設されました。」太鼓橋を渡り、寒川神社の参道に向かって戻る。「招霊木(おがたまのき)」。オガタマノキ(招霊木、小賀玉木)は、モクレン科モクレン属に属する常緑高木の1種である。和名は、招霊(おきたま)が転じて「オガタマ」になったともされる。オガタマノキ属に分類されることが多かったが、2022年現在ではふつうモクレン属に分類される。日本に自生するモクレン科の中では、唯一の常緑樹である。早春に直径3センチメートルほどの紫紅色を帯びた黄白色の花を葉腋につける。本州関東地方から台湾に分布する。神社に植栽され、ときに神事に使われる。「敬宮愛子内親王殿下 御誕生奉祝祝記念植樹 平成十三年(2001)十二月十日」愛子内親王は、日本の皇族。御称号は敬宮(としのみや)、お印はゴヨウツツジ(五葉つつじ)。身位は内親王。敬称は殿下。徳仁(第126代天皇)の第1皇女子。母は雅子(皇后)。明仁(上皇)と美智子(上皇后)の皇孫にあたる。2000年代に誕生した初の皇族であり、2021年(令和3年)12月1日現在、17名の皇室構成員のうち最年少の女性皇族で、内廷皇族である。参道右手にあったのが「旧一ノ鳥居」。元一ノ鳥居の笠木と柱のようであった。「一ノ鳥居 記この鳥居は当神社の鳥居で寛政八年(西暦一七九六年)木内善次郎の寄進により参道に建立されたもの。安政二年江戸大地震、大正十二年関東大震災、二度にわたり倒壊した。高さ一丈一尺(約三・三m)柱間一丈(約三m)明神鳥居。当時をしのびここに設置する。」参道を更に進む。右手に松、左に「梛(なぎ)」の木が。「天皇陛下御即位二十年記念植樹」。「黒松と梛松は日本を代表する木であり寿命が長く冬の寒さに耐え常に緑を保つことから長命の表象と仰がれております。梛は古来その葉に神霊が宿るとされこれを守り袋に秘めて災難除にするなど縁起の良い木として崇められております。この度は謂れのあるこの二本の木を記念植樹し皇室国家の弥栄と氏子参拝者の守護をお祈りいたします」「黒松」。「梛」👈リンク。その先にも「石灯籠」。「御祈祷のご案内八方除(はっぽうよけ)について八方除とは、東(卯)西(酉)南(午)北(子)の四方と東北(艮(うしとら)東南(巽(たつみ))西北(乾(いぬい))西南(坤(ひつじさる))の四隅のことで古来より、この八方を基本にして、これに陰陽五行・十干十二支・九星八宮等を配当して家相・方位・運勢等の吉凶が判断されております。現代社会において生活する我々にとりまして、理想的な方位の法則に従って行動することは不可能な場合が多くあります。八方除信仰は寒川大明神に御析念を捧げることによって建築・転宅・開業・縁組・旅行等、私たらの暮らしに関わる方位の不安を解消してわる方位の不安を解消しご家族皆様方の暮らしに無病息災・福徳開運をもたらす御神徳があります。寒川神社は唯一の八方除の守護神として、八方除祈祷と八方除神礼の授与を行っております。」「境内のご案内」。「寒川神社祭典一覧」寒川神社では、年間を通してさまざまな祭典や神事が執り行われています。私たちが見物できるものや地域の人を招く慰霊祭、神社関係者のみで執り行われるものなどさまざまですが、おもな祭典はこちらです。■1月1日午前0時新年の幕開けを告げる大太鼓を合図に、八方除祭、元旦祈祷祭が行われ、寒川大明神の新たな神威・ご神徳の発揚が祈念されます。青森のねぶた飾りが寒川神社で登場するため、神奈川にいながら、目の前で迫力あるねぶたが見られます。非常に混み合いますが、初詣として新年最初の参拝をしてみましょう。■2月節分の日立春を迎える前日、邪気・厄災を払う節分祭が開催されます。年男と年女の方は、外庭に設置された特設やぐらから集まった人に福豆撒きをして厄を祓うといったものであり、訪れた人が神社の行事に参加ができる機会になるでしょう。■8月15日相模薪能は、終戦記念日にちなみ、世界のへ庭を祈念して昭和45年より始められました。観覧者全員で黙祷をしたあと、能・狂言といった日本の伝統芸能を見ることができます。■9月天下太平と五穀豊穣を祈念して、流鏑馬神事(やぶさめしんじ)が行われます。流鏑馬神事は鎌倉時代にははじまっていたとの記録が残っており、現代においても歴史が継承されています。大東亜戦争後の翌年の元旦に昭和天皇が詠まれた大御歌(おおみうた)「御製 松上雪ふりつもる みゆきに耐えて 以呂(いろ)かへぬ 松ぞ雄々しき 人もかく阿禮(あれ)」深い雪に覆われても時が来れば青々と茂る松の木を、雄々しき日本人に例え、今の苦しみを耐えて再び隆盛とならんと鼓舞されたもので、同時に日本人が日本人らしさを失わぬようにと願われた大御歌。左手に「手水舎」。「今上陛下御製世界との 往き来灘かる 世はつづき 窓開く日を 偏に願ふ」。「手水の作法感染症于防の為、柄杓を撤去しております。流水でお手をお清め下さい。」左側に「おみくじ結び処」。おみくじを結わく細縄があり、たくさんのおみくじが。「神門」前の広場に到着。写真左に「客殿」、右に「社務所」。「国旗掲揚塔」と「君が代」の歌碑。。「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」。現代語訳から、「男性と女性が共に支えているこの世は 千年も 幾千年もの間 小さな砂がさざれ石のように やがて大きな盤石となって 苔が生じるほど長い間栄えていきますように』と。もともと君が代の歌詞は905年に奏上(そうじょう)された古今和歌集に収録されていた歌が元となっている。そして、この歌は905年の時点で「詠み人知らず」となっているくらい、「昔から歌われていた歌」とされているのだ。つまり、平安時代には「古い歌」であったのだ。世界の国歌の中で、作詞者が最も古いといわれている。当初は上記のごとく「祝福を受ける人の寿命」 を歌ったものだが、転じて「天皇の治世」を奉祝する歌となった。1880年(明治13年)に宮内省雅楽課が旋律を改めて付け直し、それをドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルトが西洋和声により編曲したものが、1893年(明治26年)の文部省文部大臣井上毅の告示以降、儀式に使用され、1930年(昭和5年)には国歌とされて定着した。1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に日本の国歌として法制化された とウィキペディアより。「さざれ石」。「さざれ石(天然記念物) 岐阜県伊吹山産出この石は学名「石灰質角礫岩 」といい、石灰岩 が永い年月かけて雨水 で溶解され、その粘着力の強い乳状液 (鍾乳石 と同質)が小石を凝結 しながら次第に巨巌に成長し河川 の浸蝕によって地表に露出した後に苔むしたものです。「君が代は 千代 に八千代 に さざれ石 の 巌となりて 苔のむすまで」と平安時代 に編纂された古今和歌集 に納められ詠まれたのがこのさざれ石であり、日本の国と国民が共に千代に栄える様願った慶賀の石です」「彬姫櫻(あきひめざくら)」は花を終えて。「彬姫櫻(十六夜桜新種)」植藤造園(京都市)の第十六代当主佐野藤右衛門四によって発見された十六夜桜の新種です。薄紅色の花をつけるこの桜を彬子女王殿下のお名前の一文字を入れた「彬姫櫻」と命名することを藤右衛門氏がご提案され、快くご了承いただきました。平成ニ十九年十ニ月ニ十一日に彬子女王殿下の御台臨を仰ぎ彬姫櫻植樹式が盛大に挙行され女王殿下がお手植えされた慶賀の桜です。」開花の姿をネットから。【https://ameblo.jp/abiraunken-0618/image-12366091026-14164715905.html】よりこちらは「はまごう(蔓荊)」。「花名「はまごう」(蔓荊)クマツヅラ科の落葉低灌木 暖地の海浜砂地に自生し幹は砂土を横走 夏季に深紫色の唇形花を短穂状につける ハマホウ ハマボウともいう七月海の日 茅ヶ崎海岸での「浜降祭」にはこの「はまごう」を寒川神社神輿の下に敷き祭典を行うほど関係の深い花である。」「はまごう」の花。 【https://kobacho-niwaijiri.at.webry.info/201909/article_16.html】より「客殿」を見る。「⬅おふだ納め所」案内が右手に。「納札殿」。神社よりお頒けした御神札・御守りをご返納いただく所。総桧造り・銅板葺き。平成二十四年(2012)建立。巨大な「社務所」。ピンク色の濃い桜の花が。ズームして。「横浜緋桜ヤマザクラの変種の兼六園熊谷と寒緋桜との交配種です。赤みが強く、一重咲。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.06
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次そして「寒川神社」の散策に向かう。「寒川神社案内図」。本殿及び拝殿の手前には神門がある。参道は当社境内から南に1kmほど進んだJR相模線の踏切近くにある一之鳥居から始まり、参道途中には二之鳥居(大鳥居)、境内入口には最後の鳥居となる三之鳥居がある。2001年より新年から2月の節分まで、神門に神話にちなんだ迎春ねぶたが飾られるようになり、夜にはライトアップもされている。 2012年まではその年の干支にちなんだねぶたが飾られていたが、干支が一巡した2013年からは神話ねぶたが飾られている。最初に「寒川神社参集殿」を訪ねた。ツツジの植栽の中の遊歩道を歩く。「寒川神社参集殿」には、結婚式場、披露宴会場、宴会場・会議室 、その他レストランあおば等が設けられている。「寒川神社参集殿」。「鎌倉本体の武士 梶原景時 ゆかりの地」と書かれた幟。上部には梶原氏の家紋「丸に並び矢」が。梶原 景時(かじわら かげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されている。源義経と対立した人物として知られるが、頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。鎌倉幕府では頼朝の寵臣として権勢を振るったが、頼朝の死後に追放され一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では日本の歌舞伎役者、俳優・声優の「二代目 中村 獅童(にだいめ なかむらしどう)」氏が「梶原景時」を演じている。そして7月10日に「中村 獅童」氏出演の「鎌倉殿の13人 スペシャルトーク in 寒川」が行われるとのことで、申し込んだのであった。しかしながら、落選の通知が届いたのであった。茅ヶ崎市で行われた「鎌倉殿の13人 スペシャルトーク in 茅ヶ崎」👈リンク には参加できたのであったが。やはり「中村 獅童」氏の競争率は高いのであった。そして「参集殿」前にあったのが、「浄明正直(じょうみょうせいちょく) 寒川神社宮司 竹内武雄書」の銘がある銅像。お顔をズームで。台座の裏には「寒川神社中興の宮司竹内武雄大人彰徳像竹内大人は明治三十一年二月十七日京都府船井郡瑞穂町に出生、大正六年京都府皇典講究分所を卒業、常に神社神道を究め祀職の道を精進され、生来至誠圓満實直にして正直を旨とし人に親しまれること慈父慈兄の如し、昭和十三年六月官幣大社平安神宮禰宜より當國幤中社寒川神社宮司に任ぜられ、昭和十八年九月別各幤社護王神社宮司に任ぜらる。昭和二十一年官國幤社職制が廃止され國及地方公共團體よりの經濟的援助を断ち切られた全國の神社は、維持經營に困窮を究め、特に寒川神社は一名の神職すら置く能わず、日々の御祭事は勿論御社頭の衰微は日に増す状態となり、時の責任役員、氏子總代町長等憂慮に耐えず再三神社本廳に請願して竹内大人の再任を乞う。大人は氏子の切望に應え、京都の私財を整理し死を決して家を擧げ、昭和二十六年十月再び當神社宮司に赴任す。爾今全國神社の範たることを期し、自ら御社頭の清掃に勤め、信仰を興して全國に八方除けの御神徳を恢弘し、報賽者年を追うて増し昭和三十六年崇敬者は數十萬に至れり。斯く衰微せる御頭社を興せし功績は廣く世の稱贊する所となり、昭和三十七年三月神社本廳より浄階並神職身分一級を授けらる。更に竹内大人は御社頭の隆昌に伴う施設の狭隘を憂い参集殿の建設を計畫、將に設計の運びとなりし時、俄に病を得て昭和三十八年十一月二十六日急逝せらる。然し大人の遺せし大望を達成し、生前の恩顧に報いむと氏子崇敬者一つ心に参集殿建設奉贊會を結成して工を起し美事短年月を以って完成す。慈に竹内大人の十年祭を執行するに當り参集殿の邊りに尊像を建立し以って寒川神社中興の遺徳を偲び、永久にその功績を讚えるものなり。」「寒川神社参集殿」の内部に入ると正面には、ねぶた「「箙(えびら)の梅」梶原景季(かげすえ)」が展示されていた。近づいて。ここ寒川ゆかりの武将で、大河ドラマで注目されている梶原景時。その嫡男で源平合戦に従軍した景季(かげすえ)の雄姿。刃を構える背には梅の枝が。ねぶた師の諏訪慎さんが制作と。景季は木曾義仲と源義経が宇治川(京都)で戦った時に先陣争いを繰り広げたり、生田の森(神戸)での平家との戦いでも奮戦、梅の枝を箙(えびら=矢を運ぶ道具)に挿して戦ったエピソードなどがあるとのこと。正治元年(1199年)正月に頼朝が死去すると梶原一族の運命は暗転。同年11月に景時は三浦義村、和田義盛ら御家人66人の連名の弾劾を受けて、鎌倉から追放され、所領の相模国一ノ宮へ退いた。正治2年(1200年)正月、景時、景季は一族とともに相模国一ノ宮を出て上洛を企てた。途中、「駿河国清見関」👈リンク で在地の武士と諍いになり、弟たちは次々と討ち死にしてしまった。景季は景時とともに山中に退いて戦い、ここで一族とともに自害したのであった。享年39。鎌倉市笛田の「佛行寺」には、景季の片腕を埋めたと伝わる「源太塚」👈リンク が残っているのである。「人力車」も展示されていた。結婚式の記念撮影や境内移動用に使われているものであろうか。神前結婚式場。 【https://nihon-kekkon.com/party/sansyuden/】より「寒川神社参集殿」を後にすると正面の道路の分岐場所には大きな石灯籠があった。もともと、石灯籠は、奈良時代から僧侶が使い始め主に寺院で用いられていたようです。仏像に灯をともすために、仏道の前に置かれた。仏教の考え方の1つに、灯が邪気を払うという意味があるようです。その後、神社の献灯として使われるようになったのだと。神奈川県高座郡寒川町宮山3929。「寒川神社参集殿」の前の道路の南、一の鳥居方向を見る。そして「寒川神社」方向には「相模國一之宮 寒川神社」案内塔が。三角ロータリーの中には、巨石その奥には淡いピンクの桜の花が。「八重紅枝垂(やえべにしだれ)」と。寒川神社神嶽山神苑開苑10周年を記念して、2020年2月に植樹された「八重紅枝垂」。枝垂桜の中でも特に人気の高いエドヒガン系の園芸品種。江戸時代から栽培されていて、別名:「遠藤桜」「仙台八重枝垂」「仙台小桜」「平安紅枝垂」とも呼ばれる と。薄紅色の小輪で八重咲きの花を枝いっぱいにつける枝垂れ桜で、たいへん優雅なのであった。そして「寒川神社前」交差点に。横断歩道の先に太皷橋「神池橋」と「三の鳥居」が現れた。社号標石「相模國一之宮 國幤中社寒川神社」。近づいて。その先の「神池」の噴水の先には「石橋(しゃっきょう)」が見えた。ズームして。昭和45年から、毎年8月15日に開催される「相模薪能」の20回目を記念して作成。寒川町在住であった彫刻家、原田純成さんの作品であると。横の石橋から太鼓橋「神池橋」を見る。「神池橋」とその先に「三の鳥居」。「神池橋」は「神池」にかかる太皷橋。平成二三年老朽化により架け直され「神池橋」と命名された。神様がお渡りになる橋と。正面から。横の橋とその先には「神池」の噴水が。「三の鳥居」。「三の鳥居」は、境内にある桧造りの明神島居。平成ニ年・皇紀二六五〇年奉祝記念事業として建て直されたとのこと。「寒川神社」案内板。「寒川神社(さむかわじんじゃ)御祭神 寒川比古命(さむかわひこのみこと)・寒川比女命(さむかわひめのみこと) ニ柱の神を奉称して寒川大明神と申します。例祭日 九月ニ十日(九月十九日 例祭宵宮祭・流鏑馬神事)由緒 当神社は総国風上記によりますと、雄略天皇(四五七年~四七九年)の御代に奉幣(天皇より 神社に献上品がされること)の記録かあり、神亀四年(七ニ七年)に社殿建立とも伝わり、 一六〇〇年以上の歴史を有しています。 以後、延暦十六年(七九七年)桓武天皇を始めとして歴代奉幣の記録があり、承和十三年 (八四六年)に神階従五位下を始めとする神階授与もなされています また醍醐天皇の御代に制定されました延喜式神名帳によれば相模國十三仕の内、明神大社と されており、関東地方の信仰の中心をなしていました。 中世においては源頼朝、小田原北条氏累代による社殿造営や社領寄進がなされており、 武田信玄からは武運長久を祈願して鉄錆地六十ニ間筋兜(神奈川県指定重要文化財)が奉納される など特に崇敬の念は篤く、徳川家代々においても社殿再建、社領寄進など古来より武家からの 崇敬は極めて篤いものがありました。 明治期になりますと、明治四年五月に制定されました官国幣社制度によって、例祭におきて 国費から幣帛料が奉納される「国幣中社」に列せられました。 その後、大正時代における関東大震災、昭和の御大典という時代を経て、昭和ニ十年八月十五日、 大東亜戦争の終戦後、同年十ニ月の神道指令によって、神社の国家管理制度が廃止されました。 昭和ニ十一年ニ月、神社神道の宣布と祭祀の執行による氏子の教化育成を目的として、全国の神社 及び神社関係者を統合する神社本庁が設立され、当神社も神社本庁による包括神社となって おります。 戦後、日本全体の復興とともに、八方除信仰を中心とした御神徳の宣揚に努め、全国の崇敬者 からの御崇敬と多くの御参拝をいただいております。社殿 平成の御大典記念事業として平成九年に御本殿、幤殿、拝殿、翼殿、廻廊等の増改築が 行われました。境内 神聖なる神嶽山を背に、約一万五千坪を有しており、平成ニ十一年には御本殿奥庭の禁足地を 「神嶽山神苑」として開苑致しました。」「境内のご案内」。主要な建物が案内されていた。「定一、魚鳥ヲ捕ルコト一、樹木ヲ伐ルコト一、車馬ヲ乗リ入ルコト右境内於禁止」。「神池」の噴水を再びズームして。参道を見る。左手に大きな石碑と下部には詳細な案内碑があった。「重修寒川神社太鼓橋記」碑。「重修寒川神社太鼓橋記 陸軍大将大勲位熾仁親王篆額相模國高座郡の寒川神社は、平安朝の延長五年(九ニ七)、延喜式に大社と記載される国家公共の祭場であるあり、明治四年(一八七一)六月に天皇の大命によって國幤中社に列せられた。古記によって創建を考えると神亀四年(七ニ七)、或いは天平神護元年(七六五)とも言われるが、何れとすべきか詳らかではない。承和十三年(八四六)九月に始めて神位を授けられ、その後、斉衡・貞観・元慶年間に累進していった。源氏が鎌倉に開府してより、常に武家の崇敬する所となり、奥深い神域と壮麗な社殿とをみるに至った。また各時代に幤帛や神田が奉られ、春秋の祭礼を順調に営まれた。天正(一五七三~)以後、時々に殿舎から回廊まで修繕されたが、それらは頗る縮小して附属の小社も多く荒廃し、昔日の景観も見られなくなってしまった。さらに明治初め、神田百石を政府のために割き、玉垣他の地五町余りを上納した。加えて鬱蒼とした老樹を伐り、粗末な民家が建てられるなど、神域の雑然たる有様もここに極まった。宮司丹羽与三郎はこれを深く嘆いて、郷里の人々に相談し土地を眺めて、帝室御料林に関する委託林の規定に副って願い出で、明治二十四年(一八九一)三月に許可が下りた。そこで民家を撤して花木を植え、広く敬神家を募って大いに復旧のことを計画した。天下四方に応じる者は数多く、社殿を大改修せんと欲して、往時の荘厳さを見事に取り戻したのである。その費用は巨額にのぼり、容易なことで工面できるものでは無かった。よって先ず長さ三十三尺の橋を修理し、その形を皷に似せて太皷橋と称し、次に玉垣六十三間を石で築き、堅牢にして麗しく修復した。その工事は明治二十五年(一八九ニ)六月に始まり、十一月に完成して、経費三千円・職工三千人を要した。人々の中心になったのは菊池小兵衛・左藤平兵衛・伊東祐吉・真田喜三郎・金子四郎右衛門である。十二月一日に神輿渡橋の盛儀が斎行され、遠近の奉拝者が数千人にも及んだ。この日、内務大臣の特使として社寺局長の國重正文が臨席した。私も神奈川県庁に在官しており、かって奉幣使として奉仕した際、橋の壊れた状況を観ていただけに、その盛衰の迹には感慨一入のものを覚える。古今にわたる人心の移り変わり、祭祀を重んじる歴代の祭典や礼式、神祇を敬う國民精神の美徳が、この壮挙を今に有らしめた。小兵衛などが政府の方針をよく理解して、人心を振い興したものと言えよう。皆人が誠意をもって怠りなければ、神社本来の真姿を回復するのも、遠い先のことでは無いと想われる。丹羽与三郎が石碑を建てようと欲し、私に案文を求めてきたので、これを深く諒として記文を刻ませるものである。明治廿六年一月 神奈川県書記官従五位勲六等 田沼 健 撰 正五位 日下部東作 書 井亀泉 刻」「相模國一之宮寒川神社「神池橋」記「重修寒川神社太鼓橋記」によりますと、鎌倉時代以降、多くの武将たちの崇敬をあつめ、広壮な御神域と御社殿を有した寒川神社は、天正年間以後次第に御神域が荒廃し、明治の初めには、昔の姿を留めていなかったとあります。それを嘆いた宮司丹羽与三郎は、明治二十四年三月から御神域の整備に取り掛かり、神社復旧の手始めとして、明治二十五年六月には、長さ三十三尺、本石造りの太鼓橋の再建に着手し、同年十一月に完成いたしました。しか大正十二年九月一日に関東地方南部を襲った関東大地霎により、太鼓橋の橋桁が水路に落下するなど、甚大な被害を被りましたが、昭和六年には、それまでの本石造りの太鼓橋から、長さ十六尺・幅十五尺の鉄筋コンクリート造りの太鼓橋に架け替えられました。その後、平成二十三年までの約八十年にわたり氏子崇敬者の皆様をお迎えしてまいりました。平成二十二年十一月には、宮司利根康教により境内整備事業工事委員会が招集され、老朽化が進んできていた太鼓橋の改築並びに周辺整備事業の施工が決まりました。平成二十三年二月に、太鼓橋工事が始まると共に、改築される太鼓橋の名称が公募されました。同年九月に多数の応募の中から、厳選の結果「神池橋」の名称に決定しました。同年十二月には神池橋と周辺整備工事が完了し、白御影石で整えられたその姿は、参拝者を迎えるにふさわしい清浄で重厚かつ麗美な佇まいとなりました。」「寒川神社太鼓橋記」上記と同様な内容が漢文で刻まれていた。「明治二十五年の様子」。「明治六年の様子」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.05
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次「宮山遺跡」から50mほどの場所にあったのが「宮山緑地」。神奈川県高座郡寒川町宮山1303−1。「宮山緑地」は高座郡寒川町にある周辺の自然環境と景観を守るためにつくられた都市緑地。昭和後期につくられた公園である。正面に「根岸弁天池」。手入れの行き届いた松とその下に巨石が。「根岸弁天池」に架かる太鼓橋の先に「根岸弁財天」。「根岸弁財天由来根岸弁天池は、寒川町のほぼ中央にあって、その発祥の年代は定かではないが、土地の古老より伝え聞くところによれば、天正年間というから、今から約500年前と推察される。当時の湧き水の豊富なこの池は、これより下流新橋地区(現在の役場庁舎付近)までの水田の用水として永年利用されていた。徳川の代に入り、元和6年(1616)より、このあたり宮山村1,177石を知行していた旗本杉浦正次氏により、池の整備と弁財天を造ったのが始まりと云うことで、以来、明治年代杉浦大八郎氏まで杉浦氏の下に在った。明治22年に石造りの社が建立された。昭和60年に寒川町より公園緑地として整備される機会に、有志合寄り、根岸町内住民を中心に昭和61年3月弁財天石像を建立して古き良き時代を忍びつつ、地域住民の連帯と協調の輪を広げるべく、ここに由来を記すものである。昭和62年6月吉日根岸弁財天保存会祭神 弁財天例祭日 4月初巳日功徳商売繁盛、学問・技芸・音楽の発達。又、女人には愛嬌を授け美人となり、良縁を得、子宝を授かる」朱の鳥居の扁額も「弁財天」。「根岸弁才天」碑。太鼓橋を渡る。正面に「弁財天」。商売繁盛、学問、諸芸能の発達の神様としても有名だが、女性には愛嬌を授け、美人となり、良縁を得て子宝にも恵まれるとも言われている。近づいて。「蛇の像」。弁財天の使いとして、富をもたらす存在として知られる。「根岸辨才天建立記念碑」。由緒をみると、湧水があり田を潤していたとあるが、東側には小出川との間の丘があるので、そこに降った雨が湧水していたのだらう。しかし現在はポンプにて循環しているのであろう。園内の柳の新緑も美しく。左手に見えたのが「寒川総合体育館」その右は「シンコースポーツ 寒川アリーナ」。右手にあったのが「茅ヶ崎市消防本部 寒川分署」。さらに「産業道路」を渡り「寒川神社」前に向かって進む。左手に折れ「寒川 冬のひまわり」の場所を訪ねる。この空き地が「寒川 冬のひまわり」の場所であるようだ。11月下旬~12月上旬にはこんな光景が。 【https://www.townnews.co.jp/0604/2021/08/27/589065.html】よりそして次に訪ねたのが「寒川神社前」交差点の前にあった「西善院」。寺号標石「高野山真言宗 靈信山西善院」。神奈川県高座郡寒川町宮山3925。「靈信山西善院」の「山門」前。「高野山真言宗」。「靈信山西善院」。掲示板。「人の道苦しみの声を聞いていこう悲しみの声を聞いていこうたとえ力になれなくても人間らしいやさしさをもちつづけていこう」。境内の隅には、歴史を感じる古そうな石仏・墓石が残されていた。地蔵菩薩の梵字と立像、その両脇に「智運童女」「享保十五庚戌年(1730)十二月廿日」と刻まれていた。享保十五庚戌年といえば第八代将軍、徳川吉宗公による享保の改革がなされた頃。両手を静かに合わせて合掌する地蔵菩薩の足元には、華麗な蓮華座の下に花弁が彫り込まれて文字通り華々しさを添えているのである。「童女」の文字から、恐らく幼くして亡くなった愛娘に対する、せめて死出の旅を花で飾ってやろうという切なる親の願いを表したものであろう。この石仏、文字は解読不能。「観音講供養」の文字が。「西善院本堂・客殿・庫裡建設寄附者芳名」碑。「六地蔵」。「本堂」。寒川神社の供僧寺として創建され明治維新の神仏分離令により 神社から独立その際、寒川神社の別当寺薬王寺、供僧寺の神照寺の本尊や檀家を引き継いだと。御本尊の木造阿弥陀如来像薬王寺の本尊であった 木造地蔵三尊像神照寺の本尊であった如意輪観音半迦像 が安置されている と。「靈信山西善院御本尊 阿弥陀如来宗派 高野山真言宗 立教開宗は大同ニ年(八〇七)総本山 高野山金剛峯寺 和歌山県伊那郡高野町宗祖 弘法大師(空海) 宝亀五年(七七四)六月十五日香川県善通寺市で御誕生 承和ニ年(八三五)三月二十一日高野山奥之院に御入定御法号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは、大日如来のいのちの顕れであり、このいのちの世界をあらわして いるのが曼荼羅(まんだら)です。 高野山真言宗の教えは、いのちの平等と尊厳をさとり、大日如来の智慧(ちえ)をこの世に 実現するために、生かせ いのちを実践し、共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の 御宝号念誦運動(ごほうごうねんじゅうんどう)は、弘法大師の 共利衆生 (きょうりしゅじょう) の精神に立って、すべてがいのちを共にしている社会の福祉をめざす 具体的な活動です。 弘法大師は、未来永劫(みらいえいごう)にわたって衆生を救済すると御誓願され、高野山 奥の院に入定留身(にゅうじょうるしん) されています。 同行二人(どうぎょうににん)の信仰のもと大師の御教えをこの世に生かし実現することが、 私たちの努めであり喜びです」「木造地蔵菩薩及両童子立像 (附胎内納入地蔵菩薩坐像) 寒川町指定重要文化財第十三号 昭和六十一年六月ニ十日指定この立像は、寒川神社の別当寺であった薬王寺の本尊でした。中尊は通常の尊容であり、脇として掌善、掌悪両童子を伴っています。地蔵善薩の像容は右手に錫杖、左手に宝珠を持っ一般的な姿です。何度か改修されたようであり、中世から近世の作と思われます。胎内に地蔵菩薩が納人されています。坐像で南北朝時代(一三三ニ~一三五六)の作と考えられます。また、両童子は明和八年(一七七一)江戸時代の作です。像高・・・中尊 八十・五cm 掌善童子 四十四・七cm 掌悪童子 四十四・〇cm 胎内納入像 十一・三cm品質・構造・・・地蔵 寄木造・玉眼・漆箔(新補) 胎内仏 一木造・彫眼・彩色・金泥・文様入」「木造地蔵菩薩及両童子立像」をネットから。頭体部とも前後矧ぎで、両肩・臂・手首・足先などを別材で矧ぐ。脚部も別材。玉眼を嵌入し、後補を漆箔を施す。「本堂」正面から見事な彫刻を見る。ズームして。木鼻(右)。木鼻(左)。扁額「西善院」。内陣。「本堂」前の「握手大師」像。弘法大師様と握手をして 縁を結んで参りました。「こうやくん」。平成27年の高野山開創1200年に向け、平成の高野聖として「こうやくん」が誕生した。高野山の広告塔として、日本全国を行脚し、高野山の魅力を多くの人に伝えてまわる。職業:高野聖(こうやひじり) 高野山の魅力を全国の人々に伝える。性格:明るく、賢く、しっかり者・・・時にうっかり者特技:出会った人全てを笑顔にする趣味:人とのふれあい好きな食べ物:高野どうふ、ごまどうふ性別 :男の子出身地:和歌山県誕生日:平成21年3月21日「本堂」の左横に「修行大師」様の像があった。「南無大師遍照金剛」。墨染の衣を裾短(すそみじか)に着て檜笠(ひのきがさ)をかぶりゴザを背負う特徴的な姿。お顔をズームして。「本堂」を横から。「大師堂」。「薬王寺」と「神照寺」にあった大師像のようだ。近づいて。「本堂」前から境内を見る。「本堂」裏の墓地を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.04
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次次に訪ねた「岡田遺跡」案内板が左手に。 神奈川県高座郡寒川町岡田7丁目1。発掘跡は埋め戻され公園になったのであろうか。その先には「寒川もくせいハイツ11号棟」が見えた。ここは、現在「越公園」。現在の「寒川さくら幼稚園」や「菅谷神社」の裏側(北側)の越公園に「岡田遺跡」に関する案内板が建てられていた。「日本て最大級! ?縄文時杙の巨大集落ー岡田遣跡ーこの岡田もくせいハイツの足下に、縄文時代に多くの人々が暮らしていた村がありました。それも、日本でも最大級の縄文時代の村と知ったら、みなさんどう思いますか?昭和57年、県営岡田団地の立て替えと共に、発掘調査がはじまり、平成元年まで、延べ8年にわたり行われました。その結果、縄文時代中期(今から約4000年~5000年前ごろ)の巨大な集落址が発見されました。確認された住居の数は、実に500軒を上回るものでした。しかし、確認された500軒をこす住居址も、遺跡全体からすれば1/2から1/3ほどで、全体の住居の数は1000軒から1500軒を推定することができ、全国的にみても縄文時代の住居址としては最大級の遺跡だと言うことができるでしょう。住居の他にも、お墓であると思われる墓壙(ぼこう)(円形または楕円形に掘られた穴)や埋甕(うめがめ)(甕を土中に埋めたもの)等も発見されました。遺跡からは、土器や石器といったものもたくさん発見され、矢じりなどの狩りに使う道具や魚を取る時に使った網のおもりと思われる石錘(せきすい)や土錘(どすい)といったものなども多く出土しました。また、弥生時代後期(3~4世紀ごろ)の住居址や方形周溝墓なども同遺跡からは確認がされています。現在、これらの土器や石器、住居のレプリカ等は寒川町文化財学習センター(一之宮小学校内)で見ることができます。」第7次の調査区全景、調査風景、出土土器の写真。[規模]現在地から100~150mほど東の場所、現在駐車場、畑になっている場所の周囲に3つの環状集落があったのだと。a環状集落址:直径100m~170m程度b環状集落址:東西200m、南北150m程度c環状集落址:東西180m、南北130m程度推定全体住居址数(a+b+c)は、1000軒~1500軒1軒の大きさは、直径4m~6m程度縄文前期は、現JR相模線の北側、岡田遺跡の近くまで入り江が入り組んでいたと思われます(縄文海進)ので、海で魚や貝類を捕っていたと思われます。[岡田遺跡出土品]👈リンク石器、土器、貝類に加え、魚の骨も発見されています。大半は炉内から出土し、すべて焼けて灰白色です。量が多いものは、エイ類、サメ類、イワシ類、コイ科、カツオ、タイ科の魚などです。そして次の「越の山横穴墓群」に向かって東に進む。道路脇には芝桜が。Iphoneの案内に従って進む。山の斜面にあった案内板を見つける。「越の山横穴墓群厚い関東ローム層が浸食されてできた小出川の谷に面する斜面につくられた墓群である。昭和ニ十八年八月、赤星直忠氏による発掘調査でここより北側ニ百メートルの丘腹中程に六基発見された。また、昭和六十年十ニ月の調査によりこの三基の横穴が出土したことから、一キロメートルに及ぶ斜面一帯に墓が分布する可能性が強くなった。この墓は膨張アーチ型横穴とよばれ七世紀のものと推定される。昭和ニ十八年の調査出土した直刀、耳環、刀子、勾玉等は町民センターに展示されている。」「越の山横穴墓」👈リンク を探したが・・・・。昭和60年調査全景、第7号~第9号横穴墓の写真をネット から。本来は横穴はもっと長く、天井もあったが、入口や天井部分の多くが後世の掘削のため失われていたと。古墳時代、第7号横穴墓全景 をネット から。次に訪ねたのが「東守神社(とうずじんじゃ)」。神奈川県高座郡寒川町岡田4丁目17−1。「社殿」。御祭神は「天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)」。扁額「東守神社」。内陣。「東守神社(とうずじんじゃ)(跡地)新編相模風土記稿に「東守権現社 村の鎮守なり、祭神詳かならず、例祭九月九日観護寺持云々」とあります。神社明細書に御祭神は「天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)」と記されており、明治四十二年に菅谷神社に合祀されました。その昔、郷内に疫病がはやった折、村人が祈願を執り行ったところ、たちまちに治った故事があり、 以来疫病平癒の霊験あらたかなる神として信仰されてきました。近年は東守権現の御神徳を慕う人々により、毎年九月十八日にお祭が行われています。」「大山燈籠」に向かって高座郡寒川町岡田4丁目の住宅街を進む。民家の立派な門。この場所に「大山燈籠」があるはずであったが、姿はなかった。神奈川県高座郡寒川町岡田4丁目8−26。これを探していたのであったが、ネットにて調べてみると、『毎年、大山夏山の時期、7月27日頃~8月17日頃にかけて、町内数カ所に、「大山灯籠」が建ちます。』と。普段は「東守神社」等に奉納されているのであろうか。 【https://ameblo.jp/samukawa-kankou/entry-12617169466.html】より大山詣での旅人の道しるべとして、関東圏を中心に、遠くは福島や新潟、長野などにも残っています。寒川町の灯籠は、夕方6時を過ぎたあたりから灯がともり、夜の帳が降りた後も、道行く人をやさしい光で導いてくれます。特にここ岡田の灯籠2基は昔ながらのろうそくの明かりで、時折、風にかすかに揺らめきながら静かに輝きます と。 【https://ameblo.jp/samukawa-kankou/entry-12617169466.html】よりさらに高座郡寒川町岡田4丁目の住宅街の坂道を上って行った。次に訪ねたのが「等覚寺跡」。石碑と石仏が並んでいた。神奈川県高座郡寒川町岡田3丁目6。一段下の場所には広い墓地があった。古い無縫塔・石碑が並ぶ。「元等覚寺先師尊霊」の文字が卒塔婆に。多くの墓石が。「元禄六年癸酉(1693年)正月廿八日」と刻まれた石仏。錫杖と宝珠を持つ石仏。直ぐ近くにあった「塔の塚」。「塔の塚 寒川町指定重要文化財第十号 昭和五十五年十一月一日指定平成十三年・十九年に行われた発掘調査で、中世に造営された塚であることが明らかになりましたが、築造の目的などはわかっていません。地域では、江戸時代に観護寺(安楽寺末、明治三十七年一九〇四年廃寺)の僧が入定した塚と伝えられ、入定塚の別名があります。また、塚の頂に建っていた塔が日光に反射して、相模湾の魚が捕れなくなるので、南湖(茅ヶ崎市)の魚売りが倒しに来たとの伝承もあります。」「塔の塚」を見上げる。別の場所から。この塚の頂に塔が建っていたと。左奥に見えたのが「寒川キリスト教会」。ズームして。「中原街道」に出る。「中原街道」を横切り直進する。前方に「道祖神」と「庚申塔」が現れた」。神奈川県高座郡寒川町岡田2丁目20。「山状角柱型道祖神」左側面には「岡田村氏子中」「世話人」と。風化が進み確認できなかったが右側面に「文政拾年亥十二月吉日」(1827)の銘があったようだ。「庚申塔」。嘉永4年(1851)と刻まれていた。一段上が「大塚児童遊園地」になっていた。ここにあったのが「日枝・八坂神社合祀記念碑」 神奈川県高座郡寒川町岡田2丁目20。手前に蛇の姿の像が。さらに北西方向に進むと現れたのが「寒川小学校前」交差点。その先に「寒川小学校」。交差点の角には水仙の花が。ラッパスイセン。そして「寒川小学校」の桜も開花を始めていた。ソメイヨシノ。「寒川小学校裏」交差点を通過。「高木清方の墓」。この石碑は、当初根岸緑地(宮山36-4)に設置されていたが、区画整理事業にともない、根岸緑地がなくなったため、平成17年(2005)8月に、七堂伽藍跡の礎石と一緒に、寒川小学校に移設されたとのこと。寒川町宮山934。「天正19年(1591)、旗本高木清方は倉見村680石余を与えられると、ここに東西42間(約76m)南北24間(約43m)の屋敷を建て移り住みました。のちに江戸に移住しますが、慶安2年(1649)に没すると、倉見に葬られました。自然石を用いた大きな墓です。」と。右手にあった「宮山遺跡」を振り返る。神奈川県高座郡寒川町宮山。入口には「オリーブの丘公園」の表示板が。「宮山遺跡時代 : 弥生時代後期~古墳時代前期、中世発握調査 : 平成9年( 1997年)マンションの建設工事に伴う発掘調査 : 平成14年( 2002年)宅地造成にともなう発掘調査主な遺構 : 方形周濠墓19基、住居跡 8軒、V字溝 1条主な遺物 : 弥生土器、石器、銅銭、かわらけ※出土土器の一部や遺跡の写真パネルは、一之宮小学校内にある文化財学習センターで見る ことができます。方形周溝墓:弥生時代から古墳時代初期にかけて造られた墓の一つの形です。中心に遺体を理葬する主体部を設け、その周囲に方形の溝をめぐらせて造られました。写真のものは大型のもので、古墳時代になって築かれたものと考えられます。V字溝 : 断面の形がアルファベットのVの字に見えることからこの名が付けられました。弥生時代には集落を囲う「環濠」として盛んに造られました。弥生土器 :出土した土器は、東海地方で用いられたものとよく似た特徴が認められ、当時、この地に住んだ人々が東海地方と深い関わりをもっていたことがうかがわれます。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.03
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次寒川町小谷四丁目の細道を西に向かって歩く。前方に「寒川町立小谷小学校」の校庭の周囲の満開の桜が現れた。満開の桜の下を歩く。校庭内に置かれた非常用倉庫?に描かれた子供たちの絵画を楽しみながら進む。校舎の壁には山の姿が描かれていた。桜並木の先の大山の姿を見る。三叉路にあった小さな社。神奈川県高座郡寒川町小谷1丁目12−28。六臂青面金剛像、下部には三猿が刻まれていた。寒川町小谷1丁目の住宅街を進む。中原街道に出て「セブン-イレブン 寒川小谷1丁目店」で水分補給。「セブン-イレブン 寒川小谷1丁目店」の向いには旧家の立派な門が。城の如き住居がその隣に。神奈川県高座郡寒川町大蔵850−1近く。中原街道を右に入り旧家の横の細い路地を進む。はなずおう(花蘇芳)に似た真っ赤な花が。それとも花桃であろうか。右に曲がると前方に大きな墓が現れた。道路沿いに小さな社が見えた。Googleマップには「阿弥堂跡」と。神奈川県高座郡寒川町大蔵。社の中には石仏が鎮座。「四国八十八箇所之内 第六十四番 南無大師遍照金剛」と。四国八十八ヶ所霊場第64番札所は「前神寺」👈リンク であるが・・・。正面から。歴史を感じさせる石仏群。墓地を振り返る。どこの寺の墓地なのであっただろうか?この近くには寺はなかったが。そして再び「中原街道」に出て、JR寒川駅方面に向かって進む。左手にあったのが「日本一たい焼 湘南寒川店」。この辺りが「十三塚(亀の子塚)」であったが。通称「中原街道」・主要地方道丸子・中山・茅ヶ崎線に沿って点在する塚で、現在は5基ほどが残っている。中でも最大の規模をほこるのが、小谷交差点南側にある「おこり塚」とよばれるもので、塚を盗掘した者が瘧(おこり)、という病にかかったという言い伝えがある。昭和62年(1987)、発掘調査が行われたのだと。十三塚は、日本各地に分布する民間信仰による土木構造物。起源は定かではないが、13人の落武者を葬ったとか埋蔵金を埋めたとかいう伝承が多いと。一般には13基の高塚で構成されているが、必ず13というわけではないようだ。当地の十三塚も元々は15基の塚で構成されていたとの事。「小谷」交差点を通過。十三塚(おこり塚)。別の場所から。最大規模の塚で塚を盗掘した者が瘧(おこり)という病にかかったという言い伝えが名称の起源のということ。昭和62年に発掘調査が行われていて、中世から戦国時代頃に造られたらしいと。ここにも塚が。これも塚か? 神奈川県高座郡寒川町岡田7丁目近辺の「住居表示街区案内図」。そして中原街道を左折し南東に進むと前方に見えて来たのが「菅谷神社」。神奈川県高座郡寒川町岡田4丁目20−39。脇門から境内を見る。「天保神輿 寒川町指定重要文化財第七号 昭和五十四年十ニ月十五日指定天保九年(一八三八)国府祭(こうのまち)の帰路、馬入で馬入の若衆と喧嘩となり川に流され、茅ヶ埼南湖(なんご)の浜で孫七にひろわれた元寒川神社の神輿を改装したものです。」「天保神輿」👈リンク をネットから。 【https://www.townnews.co.jp/0604/2021/11/05/598836.html】よりこちらが「菅谷神社」の入口の石鳥居。社号標石「菅谷神社」。手水舎。「神楽殿」とその奥に「神輿殿」。縁結びの木・梛(なぎ)が社殿前中央に。葉のカタチをみると広葉樹のような幅の広い葉を持っているが、実は針葉樹。その葉脈は独特で、主脈が無く、縦方向にのみ平行に伸びている。この葉脈の方向に引っ張っても葉がなかなか切れないことから、縁結びの願掛け・お守りにするようになったと。その昔、女性が鏡の裏側にナギの葉を入れ、夫婦の縁が切れないように願ったとのこと。御神木のようであった。社殿祭神・天照大神(アマテラスオオカミ)・建御名方神(タケミナカタノカミ)・大山咋命(オオヤマクイノミコト)・倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)・天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)・素盞嗚命(スサノオノミコト)石灯籠狛犬(右)石灯籠(左)狛犬(左)。「記念碑」。「當神社はもと神明宮(通称天宮)と称し岡田小谷大蔵の鎮守として往昔よりこの地に鎮座せらる明治四十ニ年七月二十三日各部落内の五社を合祀して社号を菅谷神社と改む 今年偶々合祀並に社号改称五十年記念大祭を執行するに当りこれが由緒の堙滅せんことを虞れ鎮座地等を刻み以てこれを後昆に伝う」鎮座地 社号 御祭神 例祭日 岡田 神明宮 天照大神 七月二十三日 小谷 稲荷社 倉稲魂命 十月十一日 大蔵 諏訪神社 建御名方神 八月二十七日 西岡田 八坂神社 素盞嗚命 七月十五日 東岡田 東守権現社 天忍穂耳命 九月九日 岡田 日枝神社 大山咋命 九月二十九日 大蔵 第六天神社 大蔵総鎮守大蔵山王社」内陣中央に扁額「菅谷神社」。ご神体の「鏡」。神社における鏡は一般的に太陽を指しているといわれている。理由は鏡で太陽の光を反射するのを正面からみると鏡が太陽のように光り輝いて見えるかするので、太陽を象徴する鏡をご神体として神社に祀るのだ。また、鏡に映った自分自身の姿から自分の行動を自覚するという意味もある。内陣の左側。太皷や奥に神具が。石碑・石像群。庚申塔は5基?あったが、風化、損傷が大きいものが多く残念な状態。中央に「ショケラ持ち六臂青面金剛立像庚申塔」、角柱平頭型、文化13年(1816)。左下の手に裸で合掌した女の髪の毛をつかんでぶらさげている。 これは「ショケラ」と称する。 これは仏教用語の「障碍」(しょうげ)からでたもので、障碍等(しょうげら)がなまってショケラになったものであるとのこと。「ショケラ」は人間を罹病させることを始めとし、さまざまな悪いことをするものである。そこで庚申さんが、それがあばれださないように、頭髪をつかんでおさえているのである、という説があるとのこと。文化13年(1816)8月山伏角柱月日・「庚申塔」・道標右側面「文化十三子八月吉□ 右 こくふんじ」左側面「左 なんがうミち」文化13年(1816)11月角柱日月(手持)・青面金剛像(合掌・六臂)右側面「文化十三子十一月吉日」左側面「大藏村 施主栗田彦左□」享保11年(1726)5月29日笠付角柱(笠なし)月日・ウーン・青面金剛像(合掌・六臂)・三猿右側面「庚申供養講中」左側面「小谷戸村 享保十一午天五月廿九日」嘉永2年(1849)9月駒型・道標日日・青面金剛像(剣人・六臂)・邪鬼右側面「嘉永二己酉歳九月吉日」左側面「右一の宮 左あつ木 みち」天明8年(1788)7月山伏角柱・道標青面金剛像(合掌・六臂)右側面「右り馬入 天明八戊申七月吉□」左側面「左り 藤沢 南郷」「菅谷神社」の「社殿」の裏には大きな樹が茂っていた。手水舎を横から見る。鳥の彫刻。社務所天の宮合祀百周年紀念碑。「菅谷神社」の境内を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.02
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次「目久尻川」に架かる「旭橋」を渡る。「目久尻川」の下流側を見る。堤防の内側斜面には菜の花が一面に咲いていた。いやセイヨウアブラナ又はセイヨウカラシナであっただろう。やはり南面の堤防の花の密度が高いのであった。この川の名「目久尻川」の由来はいくつかの説があるのだと。一説には、この川が座間市栗原にあった寒川神社の御厨(みくりや)のあたりから流れてくるために下流で「御厨尻川」と呼び、それが転じて「目久尻川」となったという。一方、海老名の伝承によると、昔この川に河童が住み着いて悪さをしていたため、地元の人々はこの河童を捕らえて目を穿り(くじり=抉り)取ってしまった、という出来事から、この川は「目穿川」と呼ばれるようになり、それが転じて「目久尻川」となったという。この伝承にちなんで、海老名市内の目久尻川に架かる「伊勢下村橋」👈リンクには河童の像があしらわれていた。大山の姿が見えた。レンギョウ(連翹)も開花中。そして目的地の「念宗寺(ねんそうじ)」が左手に現れた。境内の桜が満開で迎えてくれた。神奈川県高座郡寒川町小動765。入口右手に寺号標石。寺号標石「浄土宗 念宗寺」。「念宗寺本尊 木造阿弥陀如来座像 寒川町指定重要文化財第十七号 平成四年九月一日指定上品下生印を結ぶ来迎尊です。抑揚の少ないゆったりとした尊体は彫技も浅めに整えられており、割矧ぎ(わりはぎ)の構造や材質の古さ等と相まって藤原期の作風を伝えます。また、引き締まった体つきや両膝間の写実的な着衣表現などには室町時代の作風も認められ近在における古仏の一尊として貴重です。像高・・五十三.四cm構造・・割矧造・彫眼・肉身郵漆箔(しっぱく)(後期)・着衣部漆塗(後期)」「木造阿弥陀如来座像」の上にあるマークは全国の史跡や重要文化財を示す看板などに、必ず記されているという「文化財愛護シンボルマーク」。この「シンボルマーク」は日本建築の重要な要素である「斗栱(ときょう)」のイメージであると。「斗栱」とは、下の写真の如くに、木造の寺院建築などで、「斗(ます)」と「肘木」との組み合わせたもので、主に柱上にあって軒の荷重を支える組み物。升組(ますぐみ)、斗組(とぐみ)とも呼ばれると。「シンボルマーク」は、これを三つ重ねることにより、文化財という民族の遺産を「過去、現在、未来」にわたり永遠に伝承してゆくという愛護精神を象徴するものとして、昭和41年5月に定められたのだ と。 【https://green.ap.teacup.com/naraha/801.html】より境内の桜を見上げながら本堂に向かって進む。 ズームして。石柱の先に「本堂」。右手に石仏、石碑が。左手に蓮の花を持つ石仏。「南無阿弥陀仏」碑。左側にも石碑と石仏が。「西國 奉順禮坂東観世音大 ・・ 秩父」と刻まれていた。西国三十三所・坂東三十三所・秩父三十四所を合わせた日本百観音の巡礼記念碑か?「本堂」。清浄山成仏院と号す。念宗寺は、西光寺の光蓮社念誉笈道(慶長14年1609年寂)が開山となり創建したといいます。当寺の本尊木造阿弥陀如来坐像は寒川町文化財に指定されている他、当寺の稲荷は雉子稲荷と称され、「かながわのむかしばなし五十選」に選ばれた昔話の発祥の稲荷だと。「本堂」の手前、左側にあったのは「念宗寺歴代上人之墓」。その横に「水子子育地蔵尊」。正面から。「父母の縁に随いて 母胎に宿り日に月に 発育しつつある間 親の慈愛を楽しみに その慈愛にも背かれて 娑婆に出ずべき身を亡くす 寄るべその身を失いて 中有に迷うたましいは 抱きかゝえる者もなく 添寝を頼む親もなし 墓も位牌もあらざれば 今日はいずこに宿るべき 明日はいづこをさまよわん ここに大慈の地蔵尊 父母に代りて抱き上げて 愛の衣に包みつゝ はぐくみ育て彼の岸に導き給うぞ有難き」その隣にあった「村社御嶽大社跡地」碑。「社殿間口ニ間三尺、奥行三間、境内地坪数八拾弐坪、現在の小動神社に合社(村社御嶽大社無格社稲荷大神無格社日𠮷大神)当時の役員 蛭田文次郎、脇英太郎、脇岩治、神奈川県知事中野健明氏の許可にて明治廿九年三月三日に合社し移転する。」そして「雉子(きじ)稲荷」。「雉子稲荷雉子稲荷にまつわる昔話は、念宗寺の和尚さんと狐の伝説がもととなったもので、昭和五十六年度に『かながわのむかしばなし五十選』👈リンク に選ばれています。この稲荷は以前、寺のそばの三抱えもある洞に納められていたと伝えられています。」『昔、念宗寺の和尚さんが境内を掃いていると、一匹の狐が草むらから鳥をくわえて飛び出してきた。和尚の「どろぼう」の声に驚き、くわえた鳥を落として狐は逃げ去った。抱き上げてみると狐がくわえていた鳥は雉子であった。「鳥と獣の違いこそあれ同じ山の生きものが・・・」和尚は寺の辻に雉子を埋め、お経を上げて成仏させた。それを隠れて見ていた久兵衛、太七、茂十の若衆は雉子を掘り出し料理をはじめた。「久しぶりのごちそうだ」と舌なめずりをしていると、茂十が「和尚が供養した雉子をおれたちだけで食べたら祟り(たたり)がある」「でも、和尚は受け取らないぞ」「じゃ、鶏の肉といって置いてこよう」。三人が寺に肉をもっていくのを『苦労してつかまえたオレの雉子なのに』とくやしがって狐が見ていた。和尚は「わしは仏に仕える身、このような生きものはいただけない」と受け取ろうとしなかったが、若衆は肉を置くと逃げるように寺を出ていった。つぎの夜、「食うやった、食うやった雉子の肉を食うやった」と境内で歌いはね回るものがいる。和尚が出てみると昨日の狐だった。「わしは雉子などは食わん」と怒ったが、毎夜狐が寺に来ては「食うやった、食うやった雉子の肉を食うやった」と歌われ和尚も困り果て、「もうその歌はやめて下され。そのかわり、おまえと雉子を祭る稲荷さまを建ててやるでのう。すれば、おまえは神さまの使いじゃ」。狐は神様の使いになれるといわれ喜び山に帰り、それっきり寺へは来なかった。』こうしてつくられたのが念宗寺のこの「雉子稲荷」である と。 石祠の「雉子稲荷」。次に訪ねたのが、300mほど先にあった「小動神社 (こゆるぎじんじゃ)」神奈川県高座郡寒川町小動480。石鳥居前から拝殿を見る。手水舎と石灯籠。拝殿に向かって進む。拝殿前の狛犬(右)。拝殿前の狛犬(左)。社号標石「小動神社」。裏面には「明治三十七八年之役寒川村小動住人中従軍◯陸軍歩兵上等兵脇善五郎同一等兵脇愛司同〇〇等兵市川豊吉三人齊凱旋◯是偏依於神明之〇〇護明治三十九年四月氏子協力建之以為紀念◯」拝殿。小動神社の創建年代等は不詳ながら、小動に鎮座していた御嶽社(大嶽社)、日枝社(山王社)、稲荷社を合祀して小動神社と改称したと。境内地は日枝社のあったところ。現在の社殿は平成2年(1990)に建替えられた。祭神:日本武尊、倉稲魂命、大山祇命例大祭:10月17日扁額「小動神社」。内陣。「拝殿」右手にあった石碑、石仏群。庚申塔(天保10年(1839))。左手で掴んでいるものについて、「赤子」という説や「障碍等(ショケラ)」という説があるのだと。「障碍等(ショケラ)」は人間を罹病させることを始めとし、さまざまな悪いことをするもの と。そこで庚申さんが、それがあばれださないように、頭髪をつかんでおさえているのである。」という説がある と。全国の青面金剛像を見ると多くが六臂(ぴ、腕のこと)で、二臂は少ない。ショケラ持ちの青面金剛庚申塔も同様に少ない のだと。従って、二臂で「障碍等(ショケラ)」持ちの青面金剛庚申塔は極めて貴重である と。「障碍等(ショケラ)」をズームして。台座に三猿。左から「見ざる言わざる聞かざる」。「地神宮」碑。右側には石祠が二基。横に廻って「拝殿」、「本殿」を見る。境内の御神木か?樫の木であろうか?夫婦木!!拝殿前から鳥居を見る。「小動神社前」バス停から「小動神社」の境内を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.01
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次この日は3月31日(木)、2回目の「寒川町の寺社旧蹟を巡る」に向かう。小田急線の地元の駅に6時前に到着。JR藤沢駅で下りの電車を待っていると、小田急線のホームには赤色のロマンスカーが入線。そしてJR茅ヶ崎駅でJR相模線に乗り換え、「宮山駅」で下車。相模國一之宮である「寒川神社」の最寄駅である。・1931年(昭和6年)7月1日:寒川神社や地元住民の請願により、相模鉄道の宮山停留場 として開業。・1944年(昭和19年)6月1日:国有化。同時に駅に昇格し運輸通信省(後の日本国有鉄道) 相模線の駅となる。・1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、JR東日本の駅となる。・2001年(平成13年)11月18日:ICカード「Suica」供用開始。・2014年(平成26年)12月26日:出札窓口の営業を終了。・2016年(平成28年)2月21日:茅ケ崎駅の遠隔管理の下で無人化を実施。神奈川県高座郡寒川町宮山。「寒川町観光案内」。観光案内地図。神社仏閣案内。主な公共施設案内。「宮山駅」の前を通る道路を北に向かって進む。左手の「青木農園」の大きな温室の中ではスイートピー栽培が行われていた。ピンクの花をつけたスイートピーは出荷直前か?「直売 スイートピー つみ取り出来ます」と。そして「産業道路」の「中里」交差点に合流。交差点の花壇の黄色のパンジーも迎えてくれた。「産業道路」の横断歩道を渡り直進する。更に直進すると、直ぐに前方T字路にに朱の鳥居が見えて来た。「中洲神社」。鳥居の下から。「中洲稲荷●地蔵尊立像(子育て) 右 江戸時代 (ロ保五年) かっては、相摸川の河原にあったといわれてます。その後、交通安全を願い、この地に 移されました。そうしたところ、子宝に恵まれる家か出て、子育て地蔵と呼ぶようになり ました。●中洲稲荷 中央 かっては、相模川の中洲にあったものを、この地にうつしてきたため「中洲稲荷」と いわれています。●地神塔 左 江戸時杙(天保七年・一八三六) 地神講とは百姓の神、稲を持ってきた神といわれる「地神」を信仰する人々の講組織です。 春と秋の社日に床の間に三幅の掛軸を掛けかっては中里三八軒の農家で行われていました。●庚申塔 人り口左 江戸時代 (天保七年・一八三六)」●地蔵尊立像(子育て) 右 江戸時代 (ロ保五年)●中洲稲荷 中央●地神塔 左 江戸時代(天保七丙申年・一八三六)山状角柱型 「地神宮」と刻まれていた。横面には「相列高座郡」/「宮山村中▢▢」と。●庚申塔 人り口左 江戸時代 裏 面「天保七申年三月吉日・一八三六」 台 石「講中」横面には左側面「此方 一之宮 なんこ 道」右側面「此方 あつぎ 八王子 道」左側には小さな五輪塔の如き石碑が3基。境内の石碑群を再び見る。鳥居越しに再び。そして南に進むと左手にあったのが「けやきの森病院(朋友会)」。しかし、進路を間違えていることに気が付き、引き返す。梨畑の横を通過。寒川町の町花・スイセンをデザインした汚水マンホール蓋を再び。「ホルトノキ」。「ホルトノキ常緑高木。花は白色で、花弁の先が糸状に裂けます。果実は黒紫色に塾します。初夏に古い葉が紅葉しますホルトノキ科」弁の先が糸状に裂けた「ホルトノキ」の花。 【https://www.travel.taipei/ja/news/details/24031】より初夏に古い葉が紅葉。 【https://lab.syncer.jp/Tool/Webp-Converter/】より「メグスリノキ」。「メグスリノキ眼薬木。雄の木と雌の木がある落葉高木。日本国内にのみ自生します。若葉が薬用として用いられ、戦国武将、黒田官兵衛の生家は、代々それを生業としていたことで有名です。ムクロジ科(旧 カエデ科)」「メグスリノキ」の紅葉。 【https://naegiya.ocnk.net/product/21】より更に進むと目的の「旧目久尻川ふるさと緑道」が姿を現した。昔の目久尻川は蛇行していたが、水害を防ぐため昭和4年に現在の流れに変えられた。元の流れの名残を「ふるさと緑道」として整備されたのだと。そして「目久尻川」に架かる「寒川橋」の先、「旭保育園入口」近く右手に石碑が現れた。「三猿庚申塔」のようであった。享保2年(1717)と。更に北に進む。道路脇の林の樹の上には「アオサギ」の姿が。「寒川町 北部文化福祉会館」の角には石碑が。「大震災記念大正十二年九月一日午前十一時五十八分関東一帯ニ亘リテ大震災アリ 相武ノ沿岸被害殊ニ甚シク本村亦頗ル惨状ヲ極ム 當町戸数三十而シテ焼失三全潰二十六半壊一全キモノ更二ナク死者一名負傷者三名ヲ出ス 實ニ有史以来ノ火参事タリ 此ノ時二當リ大工職谷釋長藏君父子挺身家屋ノ復旧ニ従事シ孜々榮々未ダ周年ナラザルニ町民皆安住ノ所ヲ得タルハ一ツニ君ガ献身的行為ノ賜トイフべシ 此ニ町民ハ大震災ヲ記念シ君ノ徳ヲ頌センガ爲メ石ニ刻シテコレヲ後昆ニ傳フ大正十ニ年九月 國幣中社寒川神社宮司正七位河村政吉撰」と。碑文には、『旭町の戸数30戸のうち、焼失3戸、全壊26戸、半壊1戸で、被害のない家屋はなったこと、死者1名、負傷者3名を出したこと、このような状況下で、大工の谷澤長蔵氏父子が家屋の復旧という困難な作業に奮闘努力し、1年を待たずして町民は全員安心して住む場所を得たこと、町民は谷澤長蔵氏父子に感謝し、このことを石に刻んで後世に伝えることにした』ことなどが記されていた。東に向かって進むと、道端には白いスイセンの花が。ズームして。更に進むと民家の墓地の横に小さな社が建っていた。社の中には地蔵様が。地蔵様に近づいて。卒塔婆には「旭岩舟地蔵尊」の文字が。さらに東に進みこの先を右折する。右手に石碑群。庚申塔・「青面金剛像」享保□年(1716-1736)もあった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.30
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タイトル 👈リンク付き 発表日★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その1) 2022.06.29 倉見神社~行安寺~倉見才戸遺蹟~倉見観音堂~日吉神社~陣屋敷~JR倉見駅~湘南釣堀~ 寒川水族館~倉見水神宮★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その2) 2022.06.30 宮山駅~中洲神社~旧目久尻川ふるさと緑道~三猿庚申塔~大震災記念~旭岩地蔵尊~石碑群★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その3) 2022.07.01 念宗寺~小動神社★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その4) 2022.07.02 寒川町立小谷小学校~阿弥陀堂~十三塚(亀の子塚)~菅谷神社★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その5) 2022.07.03 岡田遺跡~越の山横穴墓群~東守神社~大山燈籠~等覚寺跡~塔の塚~寒川キリスト教会~ 日枝・八坂神社合祀記念碑~宮山遺跡★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その6) 2022.07.04 宮山緑地~根岸弁財天~寒川 冬のひまわり~西善院★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その7) 2022.07.05 寒川神社(1/4 ):寒川神社参集殿~石灯籠~神池橋~三之鳥居~重修寒川神社太鼓橋記碑★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その8) 2022.07.06 寒川神社(2/4 ):末社 宮山神社~旧一ノ鳥居~黒松と梛~手水舎~さざれ石~彬姫櫻~ はまごう(蔓荊)~客殿~納札殿~社務所~横浜緋桜★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その9) 2022.07.07 寒川神社(3/4):客殿~社務所~絵馬掛け~狛犬~神馬舎~神門~回廊~拝殿~渾天儀~授与所★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その10) 2022.07.08 寒川神社(4/4):御神木~南門~八福餅~人形奉斎殿~神池~石橋★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その11) 2022.07.09 寒川神社少年館~馬洗戸橋碑~馬洗戸橋碑~興全寺~シンコースポーツ 寒川アリーナ (寒川総合体育館)★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その12) 2022.07.10 寒川中央公園~寒川町役場★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その13) 2022.07.11 大塚古墳公園~護国霊塔~大(応)神塚古墳~安楽寺★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その14) 2022.07.12 寒川神社一之鳥居~水道記念館~寒川町観光協会★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その15) 2022.07.13 JR寒川駅~相模稲荷神社~景観寺~中瀬大神★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その16) 2022.07.14 一之宮八幡大神~南泉寺★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その17) 2022.07.15 第六天神社~金刀比羅宮~妙光寺~車地蔵堂~寒川駅~帰路★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その18) 2022.07.21 信玄芝原公園~福泉寺~露座不動明王~小谷十一面観音像~大蔵東原遺跡★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その19) 2022.07.22 宮山駅~宮山橋~地蔵堂~参集殿~寒川神社三の鳥居~目久尻川水道管~端午橋石碑群★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その20) 2022.07.23 寒川神社ニ之鳥居~いこい橋~寒川浄水場~相模川八景 寒川宮山の富士~寒川取水施設~ 神川橋★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その21) 2022.07.24 一之宮公園~一之宮緑道~八角広場~旧国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡碑~一之宮不動堂~ 浄徳寺~一之宮小入口交差点★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その22) 2022.07.25 梶原景時館跡(一之宮天満宮)~西町集會所(薬師堂)~濱降祭駐輿記碑~梶原伝七士の墓★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その23) 2022.07.26 松戸橋~南部文化福祉会館~両替子育地蔵尊~花川用水~万部寺★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その24) 2022.07.27 貴船大神横の稲荷社~貴船大神~稲荷社~田端バス停~生往寺★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その25) 2022.07.28 萩園キリスト教会~医王院~グリーンガーデン寒川~高安善塚~十二神社★寒川町の寺社旧蹟を巡る(その26) 2022.07.29 正一位お稲荷さん~大曲地蔵堂跡(大曲共同墓地)~下大曲神社跡~東福寺跡 大曲共有墓地~ 聖天橋~香川駅 ・・・以上・・・
2022.06.29
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次私の住む神奈川県藤沢市は、鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町、茅ヶ崎市の6市1町と市境を接している。我が藤沢市内の寺社旧蹟巡りはほぼ完了した後、長引くコロナ禍で国内旅行、海外旅行が制限される状況から、隣接する6市1町の寺社旧蹟巡りを決意したのであった。そしてこれまでに「横浜市泉区・戸塚区」👈リンクを制覇しその後「綾瀬市」👈リンクそして「大和市」👈リンク、「鎌倉市」👈リンク、「海老名市」👈リンク、「茅ヶ崎市」👈リンクを完了し、今回の『寒川町の寺社旧蹟を巡る』への〆の挑戦をスタートしたのであった。「寒川町の寺社旧蹟を巡る」のスタートは「海老名市の寺社旧蹟を巡る」の最終日の帰路に立ち寄ることから始まったのであった。正面に「倉見神社」の石鳥居。熊野社(くまのしゃ)と称していたが、明治2年(1869)に神明社(しんめいしゃ)と合併し、倉⾒大神となった。その後、昭和18年(1943)に倉見神社と改称された と。神奈川県高座郡寒川町倉見45−3。石鳥居の扁額「倉見神社」。「倉見神社御祭神 天照皇大神(あまてらすすめのおおかみ) 熊野加武呂伎命(くまのかむろぎのみこと) 倉見大神と称する御由緒 御創建は不詳であるが、小田原北条氏分国の頃、山中彦八郎が倉見村を知行していた折り、神明社・熊野社の両社を勧請し倉見の鎮守として奉斎したのが始りと伝えられる。以後この両社に倉見地域内の数社を合祀し、明治二年「倉見大神」と称す。同六年十二月村社に列せられ、昭和十八年「倉見神社」と改称し、同二十八年「宗教法人 倉見神社」となり現在に至る。往事に於ける社殿の規模などは詳らかではないが、神社所蔵の棟札によって安永三年(1774)六月、氏子一同の寄進を以って神明社の本殿修復並に熊野社の拝殿造営のことが知られる。現在の本殿は、明治二十七年寒川神社が本殿を造営するにあたり旧本殿を譲与され同二十八年移築したものである。尚この本殿は 寛保元年(1741)に造営されたものであり、昭和五十三年寒川町重要文化財に指定されている。拝殿は、平成四年、寒川神社「平成御造営」にあたり譲与を受けたもので、当社の「御大典奉祝記念事業」として建設委員会を組織し、 広く氏子崇敬者からの篤志を頂き、同六年九月に移築されたものである。」「夫婦欅」。「倉見神社本殿(くらみじんじゃほんでん)寒川町指定重要文化財第四号昭和五十三年十ニ月一日指定寒川神社本殿として寛保元年(一七四一)に造営されたもので、明治ニ十八年(一八九五)の寒川神社社殿造営に際し、村社倉見神社本殿として移築されました。十ニ支をはじめ花鳥及び獸等の江戸時代の彫刻が配置されています。夫婦欅(めおとけやき)寒川町指定重要文化財第五号昭和五十三年十ニ月一日指定樹齢三百年と伝えられ、根元から約ニmのところでニ股に分かれているところから夫婦欅とよばれています。幹回りは大きい方が五・ニm以上あり、高さは約ニ十m。天然記念物として寒川町内にその比を見ない巨木です。氏子が夫婦円満を願って育成したものと思われます。」正面に「拝殿」。狛犬(右)。狛犬(左)。左右両方とも歯が見えて、阿形像の如き姿であった。手水舎。社務所。拝殿。拝殿は平成4年(1992)の寒川神社の平成の御造営にあたり譲与されたもので、平成6年(1994)9月に寒川神社から移築されたもの と。扁額「倉見大神」。「拝殿」の正面。「本殿」。寛保元年(1741)に造営された寒川神社本殿(町重要文化財指定)を、明治28年に移築されたもの と。「神輿殿」。扁額「神輿殿」。茅ヶ崎西浜海岸で開催される「暁の祭典 浜降祭」に参加する神輿の姿をネットから。神輿製作年は昭和54年(1979年)と。境内社の「浅間大神(木花之佐久夜比賣命)」が。大きな石碑が正面に。浅間大神を護る大正5年生まれの「狛犬」。阿形像の下顎が欠けていた。阿形像は子狛を連れていた。吽形像は玉を持っていた。その奥に「浅間大神」碑。天正年間(1573年-1593年)、高木甚太郎が倉見村に陣屋を構えていたおり、浅間大神を勧請したと伝えられている。「浅間大神」は、明治16年(1883年)2月、社殿の損傷甚しく、石碑が建立された。昭和60年(1985年)10月には、石碑に亀裂が生じたので、修復されたのだと。「倉見神社」を後にして、次の「行安寺」に向かって進む。新幹線の架道橋・第ニ倉見BVを通過。架道橋とは道路を越える橋梁を指す。略称「BV」で、「Viaduct Bridge」が元になった。「Viaduct」とは高架橋の意。「B」が先、「V」が後として記されている。寒川町の汚水マンホール蓋。町の花「スイセン」を描いたもの。マンホールの円周を三分割したそれぞれの位置からスイセンが生え、中心に向かって伸びて花を咲かせている。円の中心で3個の蕾の先端が触れるが如くに。マンホールの下方には平仮名で「さむかわ」「おすい」と。そして次に「行安寺」の入口に到着。神奈川県高座郡寒川町倉見1873。参道の左側には無数の墓石が並んでいた。合掌する石仏。「子育地蔵尊」であろうか。寺号標石「浄土宗 寶積山 行安寺」。無数の墓石、石仏を振り返る。そして正面に山門。「木造阿弥陀三尊像寒川町指定重要文化財第16号平成3年(1991)4月1日指定中尊は、底部の銘により天正10年(1582)(*)の造立であることが明らかであり、古式の偏袒右肩(へんたんうけん)、典雅な尊顔と尊体、正統的で穏やかな彫技など、中央の桃山風の基準作として重要である。両脇侍(りょうわきじ)は江戸時代の丁寧な後補作とみられる。構造…各 寄木造・玉眼・漆箔(しっぱく)付属品…各 光背・台座」*: 後北条氏家臣の山中氏が倉見を知行していた時代。「木造阿弥陀三尊像」をネットより。像高:42.3センチメートル中尊阿弥陀如来坐像は室町時代の作。両脇侍の観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像は江戸時代の作。 山門を潜るとさらに両脇には墓地が続き、墓石が並んでいた。そして「本堂」。寶積山了覺院と号す。「行安寺」は、天正9年(1581年)に阿弥陀堂として創建、徳川家康の旗本高木甚太郎清方(法名寶積院願譽浄林居士)が当地の領主なった際、北条家の家臣で倉見の領主だった山中三河守の子形部少輔(行安院殿宗誉浄定大禅門、天正11年1583年没)の菩提を弔うため一寺となしたという。慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領9石7斗の御朱印状を受領している。大正七年四月建 と刻まれた六角形の石塔。よく見ると6面のそれぞれに異なった地蔵菩薩像が浮彫されていた。これは地蔵様は単独で立つものばかりではないことを表したもので、これを燈篭型六地蔵と呼ばれていると。「本堂」の扁額は山号の「寶積山」。内陣。墓地を見る。境内から「山門」を振り返る。「殉國」碑。「英霊奉斎の銘支那事変及太平洋戦争に一死以て国難に殉じ給いし英霊三十七柱を謹んでこの霊地に斎き奉る。」「孝 陸軍砲兵 勲八等功七級 柳下賢治之墓」と。「昭和十三年五月八日徐州附近ニ於テ名誉ノ戦士ヲ遂グ 享年 二十三才」と。徐州会戦(じょしゅうかいせん)または徐州作戦で亡くなったのであろう。日中戦争中の1938年(昭和13年)4月7日から6月7日まで、江蘇省・山東省・安徽省・河南省の一帯で行われた日本陸軍と中国軍(国民革命軍)による戦い。 日本軍は南北から進攻し、5月19日に徐州を占領したが、国民党軍主力を包囲撃滅することはできなかったのであった。そして再び新幹線・第一倉見川Bを通過する。橋りょう Bは河川や海を渡る橋である。「梁」は常用漢字ではないため、正式文書では「りょう」とひらがなで書かれる。略称のBはBridgeの略。そして「倉見才戸遺蹟」を訪ねた。社宅の建物の敷地内に案内板があった。神奈川県高座郡寒川町倉見2014。「倉見才戸遺跡」案内板。「倉見才戸遺蹟平成3年、社宅の建替え工事にともない発掘調査がされ、平成5年に範囲確認調査、さらに平成6年、平成11年にも住宅開発にともない発掘調査がおこなわれました。調査の結果、一番古いものは今から5,000年ほど昔の縄文土器が発見されています。弥生時代はこの遺跡の中心の時代で、中期から後期( 3~4世紀ごろ)の竪穴住居址が40軒以上も発見されました。なかでも中期の3軒は普通の住居より大型な住居で、県内でもこれほど大きい住居はめずらしいものです。環濠といった村のまわりをぐるっとめぐらせた溝も発見されました。その他、有角石斧や、勾玉、管玉、鉄器といっためずらしいものも出土しました。東海地方や東京湾岸方面に影響を受けた土器も出土し、当時の交易関係が伺えます。古墳時代の竪穴住居址や平安時代の住居址や井戸址や掘建穴柱定物址、溝址なども発見されました。さらに中~近世の溝址や土坑も発見されています。このように、倉見才戸遺跡は過去から現在にいたるまで、絶え間なく生活が営まれてきた場所ということができるでしよう。なお、出土した土器等は文化財学習センター(ー之宮小学校内)で見ることができます。」「大型住居(一次調査)」の上空からの発掘状況の写真。「出土石器〈左から3点目が有角石斧〉(一次調査)」。東に進み右に曲がるとフェンスの中にあった石碑群・「陣屋跡」碑。ここは、江戸時代初期(天正19年(1591))に倉見村を治めた旗本高木清方の屋敷跡周辺と伝えられている。その後同家は江戸に移り住み、この地は畑となりました。「未開の頃、開拓者達が原(はら)と才戸(さいど)の広い地域に「陣屋敷」という御倉屋敷を建て、その立ち並ぶ倉を遠方からながめ「倉見」という地名がついたと言われている。残る石像は、右より第六天、金比羅宮、堅牢地神(けんろうじしん)、道祖神、五輪塔の五つである。」と。中に入り込んで。右から第六天、金毘羅宮、堅牢地神、道祖神、五輪塔。近づいて。「陣屋跡この周辺に、江戸時代初期に倉見村を治めた旗本高木清方の屋敷(陣屋)があったと伝えられています。その規模は「新編相模風土記」によると、東西四十ニ間(76m)、南北ニ十四間(43m)とされています。現在は石造物が寄せられ、右から第六天、金毘羅宮、堅牢地神、道祖神、五輪塔が並んでいます。」大日製罐(株) 湘南工場の前を通過し、さらに今は使われていない住居前を通過。そして次に訪ねたのが「倉見観音堂」。観音寺は昭和28年(1953)~29年(1954)まで中倉見(倉見996番地)に存在した。その後、その地に観音堂として残り、現在に至っている。観音寺と観音堂は併存したのではなく、正式には観音寺だったと。しかし、観音寺があった辺りに「観音堂」という小字や地名が残っているので、地元では寺と堂を区別せずに使っていた可能性があるとのこと。「南無大悲観世音菩薩」碑と右側は解読不能。「観音堂(行安寺末 倉見山観音寺)観音堂は、かっては観音寺と称し、八王子街道と永池川の間、現在の水神宮付近に建てられていた。江戸時代の末頃、旅人の火の不始耒から火事になったが、本尊は焼けぬよう永池川に投げ込まれた。後に本尊は、岩田伝兵衛の網に入り、長崎喜兵衛が土地を提供して、現在の地に安置したという。またこの地は、徳島藩士の長崎玉淵が寺子屋を開き、明治初年まで手習師匠をしたところで、これが明治六年徳彊(とくきょう)学舎に発展、明治九年倉見学校と改称された。明治十年旭学校(現在の北部文化福祉会館の地)ができるまで、教育の場としてここて多くの子弟が育った。」「銅造千手観音立像(本尊)寒川町指定重要文化財第十八号平成四年九月一日指定本尊は、小像(像高ニ〇・八cm)にもかかわらず丁寧で、細面の尊顔、宝髻(ほうけい)、頂上仏面等がよく表現されている。また尊体には奥行があって均整よく、動きがあり近世作には認め難い味わいが感じられる。制作は室町時代と考えられる。」そして次に訪ねたのが「日吉神社」。倉見日吉神社の創建年代等、詳細は不詳、個人所有の社とのこと。その先に小祠があった。神奈川県高座郡寒川町倉見2215−5。そして進んでいくと新幹線の高架橋がありここを潜る。JR相模線の「倉見駅」に到着。「JR倉見駅・1926年(大正15年) 4月1日:寒川駅から相模鉄道線が延伸開業し、その終着駅として開業。 7月15日:貨物取り扱いを開始。相模鉄道線が厚木駅まで延伸開業。・1944年(昭和19年)6月1日:相模鉄道が国有化され、運輸通信省(後の日本国有鉄道) 相模線の駅となる。・1961年(昭和36年)2月1日:貨物取り扱いを廃止。 相模川の砂利採取用の専用線が厚木方へ(現在途中まで遊歩道になっている)、トロリー線が 茅ケ崎方へそれぞれ続いていた。トロリー線で運搬された砂利を貨車に積み込むホッパーも 駅構内にあった。・1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、JR東日本の駅となる。・2001年(平成13年)11月18日:ICカード「Suica」供用開始。・2016年(平成28年)2月12日:出札窓口の営業を終了。・2月21日:多機能券売機設置。同時に茅ケ崎駅の遠隔管理による無人化を実施。・2021年(令和3年)3月18日:エレベーターを設置。相模線を跨ぐように走る東海道新幹線には将来、当駅付近に新駅を設置する構想がある。また、相鉄いずみ野線(二俣川駅〜湘南台駅)が湘南台から当駅周辺まで延伸される構想もある」とウィキペディアより。「倉見駅相模線は、大正10 (1921)年9月、茅ヶ崎一寒川間で開業したのを皮切りに、大正15 ( 1926 )年4月に倉見まで、同年7月に厚木まで線路を延ばし、昭和6 (1931)年4月に橋本まで全線開通しました。このなかで、倉見駅は、大正15年に開業した当時の建物を今もそのまま使っていて、現存する相模線の駅舎の中で最も古いものです。駅舎だけでなく、ホーム、倉庫などすべてが鉄筋コンクリート造りでした。関東大震災直後ということもあって、地震や火事に備えるために建てられたのですが、補蓚費の軽減もねらい、当時としては大変画期的なことだったといわれています。」昭和6 (1931)年4月に橋本まで全線開通した時の写真であろうか。当時の「倉見駅」。「倉見駅」入口。有害図書追放ポスト「てんとうむしポスト」。有害図書を回収するために町青少年環境浄化推進協議会が40年ほど前設置したもの。名前の由来は、害虫のアブラムシを食べてしまうてんとう虫。寒川駅とここ倉見駅の「てんとう虫ポスト」が、役目を終え2月中旬に撤去されたとのこと。そして次に訪ねたのが「釣って見つけるぼうけんの国 湘南釣堀」。神奈川県高座郡寒川町倉見935−1。2020年7月リニューアルオープン。釣りとトレジャーハントを一緒に楽しめる、全天候型屋内施設。海水・淡水・カニ・ヤドカニなど、色々な魚釣りが楽しめる。海水魚は近くの寿司屋で調理してもらえる(別料金)小さい子供はヤドカニやカニ釣りが楽しめるのだと。料金表。原則はキャッチ&リリースであるようだ。「寒川水族館」にも立ち寄った。神奈川県内でも規模の大きい魚を含めたペットショップ。熱帯植物等も販売していた。様々な熱帯魚をしばし楽しむ。熱帯・観葉植物。この日の最後に訪ねたのが「倉見水神宮」。正面から。右側の石碑は草競馬の「名騎手 相模五郎」碑。更に近づいて。「倉見水神宮」。「水神宮(すいじんぐう)水神宮は水禍難を除くために川、泉などの水辺に祀られます。この水神宮は、相模砂利株式会社が昭和4年4月に建立したものです。この地はかつて、観音堂(現在は中倉見)が焼失した時の灰を集めた灰塚とよばれていた地です。「相模五郎の碑」は明治の終り頃、倉見にいた本名須田亀助という名騎手を記念して建てられた碑です。娯楽の少ない時代に馬力馬(農耕馬)による草競馬は楽しみで、「競馬の五郎親分」と人気がありました。」 ・・・つづく・・・
2022.06.29
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