全13件 (13件中 1-13件目)
1
タイトル 発表日綾瀬市の神社仏閣を巡る その12 2021.02.17 蓮光寺2/2綾瀬市の神社仏閣を巡る その11 2021.02.16 蓮光寺1/2綾瀬市の神社仏閣を巡る その10 2021.02.15 御岳神社~妙法稲荷大明神~落合稲著社~正一位稲荷大明神~熊野社綾瀬市の神社仏閣を巡る その9 2021.02.14 神崎遺跡2/2綾瀬市の神社仏閣を巡る その8 2021.02.13 神崎遺跡1/2綾瀬市の神社仏閣を巡る その7 2021.02.12 綾瀬市役所~綾瀬ふれあい大釜~せせらぎ広場~吉岡・わさび田~吉岡神明社~正福寺綾瀬市の神社仏閣を巡る その6 2021.02.11 日吉山王社~蟹ヶ谷公園~示現寺綾瀬市の神社仏閣を巡る その5 2021.02.10 日枝神社~長龍寺~大法寺綾瀬市の神社仏閣を巡る その4 2021.02.09 報恩寺綾瀬市の神社仏閣を巡る その3 2021.02.08 龍洞院~五社神社~尾ノ井~(早川城)~子育て観音綾瀬市の神社仏閣を巡る その2 2021.02.07 小園子之社~東光山延命寺~お銀さまの墓~東名公園~長泉寺~大六天神社~済運寺綾瀬市の神社仏閣を巡る その1 2021.02.06 弁財天~蓼川神社~安産子育出世地蔵~風車公園~子之神神社~目久尻川綾瀬市・早川城跡へ(その2) 2020.09.12綾瀬市・早川城跡へ(その1) 2020.09.11
2021.05.25
コメント(0)
【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク更に「蓮光寺」の境内散策を続ける。「十三重塔」。そして「水子地蔵」。「赤子像」。「本堂」前には8体の仏像が並ぶ。左から阿弥陀如来 西方極楽浄土にあたってすべての人々に往生を約束する。不動明王 優しい導きを拒む愚かな者をおそろしい顔付きで𠮟り、救う。左から大日如来 宇宙の果てを突き抜けてあらゆるものを照らし続ける。勢至菩薩 智慧の光であまねく人々を照らし智慧の力で救う。左から普賢菩薩 幸福を四方八方に行き渡らせあらゆる御利益をもたらす。文殊菩薩 「三人よれば文殊の智慧」優れた智慧で教えを説く。左から虚空菩薩像 人々の罪を取り除き、幸福と智慧 超人的な記憶力を授ける千手観音菩薩 千本の手と千個の眼であらゆる願いを見届け、かなえる。そして「子育延命地蔵堂」。内陣。本堂は昭和62年改築され、内陣にあった欄間彫刻など地蔵堂内に保存されていたのであったが・・・・・。ネットより「欄間彫刻」を。 【https://www.city.ayase.kanagawa.jp/hp/page000018300/hpg000018230.htm】より。「子育延命地蔵縁起堂内のお地蔵さんは江戸時代に信心深い人々が相寄リ造像され廻リ地蔵として上土棚の地域戸数およそ百戸を戸毎にニ、三泊ずつしては人に背負われて巡廻し、地域の人々の厚い信仰を得ていた。昭三十年代後半よリ地域の開発が進み戸も増加し、戸毎に廻ることが困難となリ本堂内に安置されていた。昭和六十三年に本堂が改築され勝縁によリこの地蔵堂が建立されここに安置された。〇堂内には市指定文化財である旧本堂内陣欄間が収納されている。」「薬師如来堂万病を治し、寿命をのばし衣食を満たす願いをかなえる。」「合妃墓 月影之苑」。「合妃墓 月影之苑についてどなたでもご利用できます。お気持ちのある方は、寺までご相談下さい。」阿弥陀如来像。ズームで。「無縁仏」の墓石群であろうか。「本堂」を横から見る。「蓮光寺七福神恵比寿天、大黒天、毘沙門天、弁財天、市袋尊、寿老人、福禄寿の神様の総称です。「七難即滅、七福即生」の説に基づくように、七福神を参拝すると七つの災難が除かれ、七つの災難が際かれ、七つの幸福が授かるといわれてます。七福神の信仰は、室町時代の末期の頃より生じ、当時の庶民性に合致して民間信仰の最も完全な形となって育てられてきました。特に農民、漁民、商人の信仰として今日まて継承され、今もなお素朴な信仰として私たちの生活の中に生き続けています。」「恵比寿天七福神の中では唯一の日本の神様。 鯛を釣る姿は元々豊漁の神だったが、やがて海上交通の護り神として商家などにも信仰が広がり後に商売繁盛の神として信仰されています。」「大黒天全身真っ黒な福の神。元々古代インドのシヴァ神の化身だったが日本に伝来すると大国主命と神仏集合し、大地を掌握する農耕の神として、また福徳開運の神として信仰されています。」「毘沙門天四天王の一人(多聞天)で古代インドの神。唯一武将の姿をしており七福神の護衛役として七福神の一員として迎えられた。邪気を追い払い、疫病、災害を除く神として信仰されています。」「弁財天七福神唯一の女神は、元々古代インドの水の神。川の水音が音楽にたとえられ、古代の神になり、音楽の神になり、雄弁な語り口からやがて智慧、学問、幸運、財宝、子宝を授ける神として信仰されています。」「布袋様中国時代の禅僧。弥勒菩薩の化身とされ、いつも笑顔を絶やさず、大きな袋にお布施を入れていたからこう呼ばれるようになる。笑門来福、夫婦円満、子宝の神として信仰されています。」「寿老人不老不死の仙術を極めたとされる神。中国の道教が起源とされ、右手に長寿のしるしの桃を持ち、同じく長寿を象徴する鹿を連れている。長寿延命、富貴長寿の神として信仰されています。」「福禄寿人生の三大目的とされる福(幸福)・禄(出世)・寿(長寿)のすべてを持つ道教の長寿神。右手に経巻を結びつけたり杖、左手に宝珠を持ち、招徳人望の神として信仰されています。」「七福神」を振り返る。七福神のうち唯一日本の神は土着信仰の神である恵比寿だけ。仏教の布袋、道教の福禄寿・寿老人などは中国から。そしてインドのヒンドゥー教から大黒天と毘沙門天。紅一点の弁才天(弁財天)もインドのヒンドゥー教から。よって室町時代以降、人々は別々に信仰されていた7つの福の神を集め、七福神としてグルーピングして信仰を始めたのだと。再び「本堂」を見る。巨大な「本堂」の屋根。徳川家の用いた「丸に三つ葉葵」が。「観音菩薩」。「観音菩薩 この世に有って無限に変身して人々の願いを見、聞き入れ救う。」そしてこの日の最後に「蓮光寺」の墓地を訪ねた。「市指定文化財 遠山氏累代之墓石群」碑。「遠山氏累代の墓碑群清水山徳泉院蓮光寺は、遠山佐左衛門安則により文禄三年(一五九四)に建立された浄土宗の寺院で、遠山氏累代の菩提寺です。当寺には安則をはじめ、歴代の当主及びその妻子等の墓碑が三十七基あります。遠山安則は徳川家康に仕え、天正一ハ年(一五九〇)九月、上土橋村など三百石の所領を与えられ、その後、二代安次の代には五百石の所領を持っ旗本になり、それ以後、幕末まで上土棚村全域を支配しました。遠山氏累代の墓碑群は昭和五十六年より市の指定文化財です。」遠山氏略系図安則ーー安次ーー安忠ーー安算ーー安速ーー安英ーー景澄ーー景寿 ❘ー利安 ❘ー景之ーー景利 「遠山氏累代の墓碑群」。そしてこの日で「綾瀬市」内の主要神社仏閣等の散策をほぼ制覇終了し帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2021.02.17
コメント(0)
【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンクそしてこの日の最後に訪れたのが「蓮光寺」。綾瀬市上土棚中2丁目15-43。「宗歌「月かげ」月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ 法然上人御作」以下 ネットから。ある時、子どもさんが「月かげというのは、お月さまにより出来る影ですか」と聞いてこられました。「月かげは、月の光という意味で影ではありませんよ」というお返しをすると、「いたらぬさとはなけれども、はどういう意味ですか」と。「届かないところはないという意味だよ。山も丘も私達の村も、みんな月に照らされているのだよ」と答えました。すると「影になるところは光は照らしていないのではありませんか」と。良い質問だなあと思いました。「その通り。この光というものは必ず影を作りますね。ところが、このお歌の月かげは遮ることができない光で、影のできない光です。だから私達のいのち・こころの一番奥にある、日ごろ気づかない世界まで、この月の光は照らしてくださっているのですよ」と。道路脇の「お掃除小僧」。この「お掃除小僧」は左利きなのであろうか?「浄土宗開宗八百年記念 浄土宗 蓮光寺」碑。「六地蔵」。六地蔵縁起仏祖釈迦如来が入滅されてから弥勒菩薩があらわれるまで、多くの苦しむ者を救ってくれた仏として地蔵菩薩は信柳されている。六体の菩薩を六地蔵と言い、六道のそれぞれのところで苦しんでいる者をお助けくださり、また子育て延命地蔵として人々をお守りくださる仏とされ、お地藏さまは多くの人に信仰されている。 六地蔵菩薩(持ち物) 六道 一、大定智悲地截(錫状) 地獄道 ニ、大誌清浄地截(加意) 餓鬼道 三、大光明地截(数珠) 畜生道 四、清浄無垢地截(合掌) 修羅道 五、大清浄地截(春炉) 人道 六、大堅固地截(衣服) 天道 掲示板には「小さな継続 大きな実り」と。コッコッど日々努力を続けること。その先にはきっよい結果が待っています と。「清水山といい浄土宗芝増上寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来てす。文禄三年(一五九四)地頭遠山佐左衛門安則により開基され、僧念誉上人を迎え開山されました。境内の地蔵堂には子育て延命地蔵(回り地蔵)が安置されてあり、市指定文化財の旧本堂の内陣欄間彫刻もこの堂内に保存されています。また、地蔵堂の上にある遠山氏累代の墓碑群も市指定文化財になっています。」「唯物是真」と刻まれた石碑。世間(せけん)虚仮(こけ)唯仏是真(ゆいぶつぜしん)の一部。この世にある物事はすべて仮の物であり、仏の教えのみが真実であるということ。天寿国曼荼羅 (てんじゅこくまんだら) に記されており、聖徳太子の言葉という。 「弁財天堂」。案内板。内陣には弁天様が。左手に石仏群。一番左の「徳本六字名号塔」文化十四(1817)年七月徳本の石塔を境内に建立。徳本上人(1758~1818)は文化十二年・十四年相模国を巡回。中央は「地神塔」であろうか。「五穀護神」等の文字が。右は「清水山蓮光寺 南無阿弥陀仏」の文字が確認出来た石碑。そして「山門」。扁額「清水山」。「仁王像 阿形像」。お顔をズームで。「仁王像 吽形像」。お顔をズームで。「金剛力士(仁王)は、いつもお釈迦様の身近にあって釈迦の身辺を護る単身の守護神でした。後に、中国で寺門の左右に安置されて一対(ニ王=仁王)のものとなり寺院の守護神となりました。金剛力士は門前にあることから私たちの目に触れることが多く「仁王さま」と呼ばれて親しまれています。健康の象徴として病を治すために、紙つぶてを自分の患部と同じ箇所に投げて当たれば願いが叶うとか、健脚の神とし崇められ、大きな草履を奉納するなどの庶民の信仰を集めている。口を開いた像が「阿形」、口を閉じた像が「吽形」で「阿」はすべてのものごとの始まりを「吽」はものごとの終わりを意味し、「阿吽」で宇宙全体を表しています。ちなみに、息がぴったり合うことを「阿吽の呼吸」という言い方は仁王さまの「阿形」、「吽形」からきたものです。仁王さまは「素直な心をもって、仏の教えに帰依するように」と門前から私たちに説かれているのです。」「蓮光寺」の大きな「本堂」。中央に「ただ一向に念佛すべし」と刻まれた石碑。合掌している手の姿であろうか。この灯籠は・・・。「南無阿弥陀佛 佛子源空」の文字が。「源空」は「法然」の諱(いみな)・実名。「この灯籠は浄土宗開祖法然上人八百年遠忌を迎えるに当り、法然上人のご遺徳を偲び「念仏のみを教え、報恩のともしび」を檀信徒の皆様にお伝えいたしたく、建立したものです。制作は造形美術家・日展参与三橋國民先生の創作によるもので、神奈川県内三十カ寺の浄土宗寺院に建立された貴重な灯籠です。法然上人のご命日に当る二十五日夜には、ろうそくに明かりを灯し、私たちの心に明るさと暖かさを灯し続けていきたいものです。」「摩尼車」。「摩尼車摩尼とは摩尼宝珠とも如意宝珠とも言い宝珠(摩尼)には不幸災難を除き、濁水を清澄にするなどの徳があると言われています。そこから、宝珠は仏さまの徳やお経の徳にたとえられるようになりました。摩尼車を一回転させるとお経を一巻読んだのと同じ功徳が得られるといわれています。この摩尼車には『般若心経』が刻字さされています。摩尼車に軽く手を当てて、手前に回して下さい。その時、次の経文を唱えて下さい。『羯諦 羯諦 波羅羯諦(ぎゃーていぎゃーてい はーらーぎゃーてい) 波羅僧羯諦(はーらーそうぎゃーてい) 諦菩提薩婆訶 般若心経(ぼーじーそーわーかー はんにゃしんぎょう)』「旅立ちの法然さま」像。「法然上人像」。お顔をズームで。蓮華弁から流れ落ちるニ条の清水の「手水場」が「本堂」前にも。湧き水を循環していると下記の如くに。反対側には石碑も。「当寺は清水山徳泉院蓮光寺と称し、文禄3年(1594)徳川家康公の家臣で旗本遠山佐左衛門安則によって創建された浄土宗の寺です。依頼、法然上人の専修念仏の法灯を受け継ぎ今日まで約410年の歴史を刻んでいます。「清水さん」の山号の由来は、400年来枯れることなく湧き出している清水に依るものと思われます。平成17年初夏、渾渾と湧き出る清水を循環、濾過させる全国の寺院でも例を見ない天水桶・手水鉢の寄進の縁を得、ここに竣工の慶事を見る事ができました。御参拝の皆様、蓮華弁から流れ落ちるニ条の清水で心身共に清々しい気持ちになられてご本尊阿弥陀様、ご先祖様にお参りをなされますように。」「本堂」にお参り。扁額「南無阿弥陀佛」。「本堂」の内陣。中央にご本尊の「阿弥陀如来」。本尊の脇侍は聖観世音菩薩像と勢至菩薩像。彫刻も見事。木鼻(右)。木鼻(左)。禅宗寺院の花頭窓(花灯窓)、鐘、風鈴も。本堂前から境内、山門を見る。それにしても境内に、仏像、石碑が溢れている「蓮光寺」。まだまだ続くのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.16
コメント(0)
【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク「神崎遺跡」を後にして「御岳神社」に向かう。吉岡交差点角にあった神社。綾瀬市吉岡東5丁目5-33。鳥居の奥に社殿が見えた。鳥居横にあったのが、ネットフェンスに囲まれた安政3年(西暦1856年)建立の「不動明王像」とその隣に「庚申塔」。「不動明王像」。長年この場所に鎮座しているのであろうか?道路脇であるために排ガスの影響があるのだろうか、像の腐食・劣化が激しいのであった。「不動明王像」の台座部。「不動明王」と刻まれていたのであろうか。「庚申塔」。造立は天保九年(一八三八)で、「東江戸道・南ふしさハ(藤沢)道・西大山道・北ほしのや(星谷)道」という文字が刻まれていると。「社殿」の前に「御神木」。小さな「社殿」と「境内社」。「御岳神社」の「社殿」。「境内社」。「御即位紀年樹 楠五本 大正四年十一月十日」と刻まれていた。「御岳神社祭神は大己責命(おおなむちのみこと)ら六柱で、明治ニ十七年(一八九四)に遷宮・造営されました。鳥居の右にある不動明王は、安政三年(一八五六)の造立です。その手前には庚申塔があり、造立は天保九年(一八三八)で、「東江戸道・南ふしさハ(藤沢)道・西大山道・北ほしのや(星谷)道」という文字が刻まれています。」そして吉岡交差点角の反対側奥にあった「妙法稲荷大明神」へ。綾瀬市吉岡東2丁目11付近。覆い屋正面から。鞘堂の中の「妙法稲荷大明神」御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたま)。隣の境内社。そして「落合稲著社(おちあいいなつきしゃ)」を訪ねた。一の鳥居の石鳥居の扁額は「稲著社」。ここ下落合には、1662年寛文2年5月大吉に建設され、約350年に渡り地域の守り神である「稲著社 (いなつきしゃ)」が鎮座。「落合稲著社」への石段から境内を見る。綾瀬市落合南5。右手に「手水舎」。社号標「落合稲著社」。細かい文字の書かれた石碑。「鳥居保存之碑一八五四年、嘉永七年九月吉日参道先端に鳥居として当時の氏子中にて奏献せられたるものなり。何時の日か倒れ永年に亘り放置されていたるを天皇御即位を記念してここに保存する。平成二年十一月 氏子中」これが先代の鳥居。「稲著社祭神は蒼稲魂命(うかのみたまのみこと)で、穀物の神とされています。ほかに猿田彦命・大宮売命が祭られています。棟札には、寛文ニ年(一六六ニ)比留川左近と山田ハ左衛門によって造立されたと書かれています。昔は古道がこの地を東西に通っていたといわれ、また中世の在地領主渋谷重国の孫、落合六郎重貞の居館は、このあたりにあったと伝えられています。」境内の横には「キツツキの森」が拡がっていた。「落合キツツキの森」案内板。「明治百年ヲ祝福 御即位記念植木」碑。正面に「社殿」。近づいて。扁額「稲著社」。「神楽殿」。そして神社の横の林にあった「綾瀬市の貴重な野草」案内板。「希少野草の開花予想時期」案内。そして次に訪ねたのが坂の途中に鎮座していた「正一位稲荷大明神」。綾瀬市上土棚中1丁目9。「内陣」。石碑「正一位稲荷大明神」。そして次に「熊野社」を訪ねた。綾瀬市上土棚中5丁目11-18。石鳥居の扁額は「熊野社」。石鳥居の下には多くの石碑が。「庚申塔」。造立:天保八丁酉(1837)年林吉日(右面)正面:文字庚申塔 庚申塔台座正面:講中「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」。「青面金剛」。造立:寛政五癸丑(1793)天(正面右面)正面:文字庚申塔 青面金剛正面左側:十二月吉日弁財天か…?合掌した天女のように見える。右側面:文政九戌(1826)十一月吉日とある。左側面には廣田治郎エ門「拝殿」への石段を進む。正面の拝殿。狛犬(阿形像)。享保六年(1721)の銘があった。このあたりでは、かなり古いものだ。狛犬(吽形像)。「手水舎」「鐘楼」。「銅鐘」。「拝殿」は、茅葺であった。御祭神は・伊邪那美命 ( いざなみのみこと )・黄泉津事解男命 ( よもつことさかのおのみこと )・速玉男命 ( はやたまおのみこと )頭貫 上の彫刻も見事。扁額「熊野社」。「賽銭箱」には三色の団子、お神酒が奉納されていた。内陣。境内社「豊川だ枳尼眞天」。扁額「奉納 正一位神寿」。「社務所」。「神輿殿」であろうか?「神楽殿」。境内の眺め。「熊野社概要」。「御祭神 ・速玉男命 ( はやたまおのみこと ) ・伊邪那美命 ( いざなみのみこと ) ・黄泉津事解男命 ( よもつことさかのおのみこと ) 御神紋 丸ニ左三ッ巴 御社殿 御本殿 神明造り 幣殿 拝殿 神楽殿 境内地 四八〇九平方米 境内社 八坂神社 祭神 須佐之男命 稲荷社 祭神稲葵魂命 由緒 当社は天文八年に当地の鈴木内匠たるもの発起して和歌山県本宮町熊野本宮大社より 御合霊をこの地にお祀り申し上げ、御社殿をご造営したと伝えられている。 その後、寛文十一年に再建があり、現在の御社殿は文政十三年の九月にご造営なった ものでありまた昭和五十七年に拝殿の改築があり、昭和五十九年には御本殿、社殿の 増改築を幣殿の屋根の葺変りがなされている。 鐘楼は昭和四十一年に、鳥居は昭和四十六年にそれぞれ再建されている。 相模風土記依れば上土棚鎮守とあり、地頭遠山清右ェ門 先祖佐左衛門一門の寄進の 灯籠があり、他狛犬の石像もある。 明治六年に村社に列せられ、現在は神社本庁傘下の宗教法人の神社である。 新年祭 二月十八日 新穀感謝祭 十二月三日 大祭九月二十七日 七五三祝祭 十一月十五日」そして「丸山大神宮」を訪ねた。綾瀬市上土棚南5丁目1付近。境内左の石碑群。奥羽出羽三山の供養塔。「享保十七年(一七三二)造立の青面金剛像(庚申塔)」。その隣の石碑。更に右にも台座のみが。「社殿」。「丸山大神宮恵比須大明神とも呼ばれ、祭神は恵比須神てす。昭和九年(一九三四)、上土棚の現やぶね公園付近にあった丸山の大神宮をここに移築したものてす。境内には享保十七年(一七三二)造立の青面金剛像(庚申塔)や、奥羽出羽三山の供養塔があります。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.15
コメント(0)
【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク更に「神崎遺跡」の散策を続ける。「1号住居跡」前から南方向を見る。右手奥に「神崎遺跡資料館」を見る。「7・8・9・13・14号住居跡」案内板。「平成2 1年以降に発掘調査したこの一群の住居跡は遺跡保護のため、発掘調査は最少限にしました。そのため、住居跡の大きさなどの詳細は明らかになっていません。しかし、13号住居跡は確認のため、一部を掘り下げたところ、予想外の発見がありました。3種類の形の土器が住居の床の上から出土したのです。弥生土器は使い方により形が異なりますが、主に甕形土器(煮炊き用)、壺形土器(貯蔵用)、高坏形土器(供え用)の3種類からなります。13号住居跡の床からは、当時の生活の復元に必要なこのセットが発見されたのです。残る未調査部分には何が眠っているのか期待できる資料にもなりました。出土土器は資料館に展示しています。」「現在地」。前方に「13・7・14号住居跡」が発掘調査終了後に埋め戻され、コンクリートで養生されていることが理解できた。「15・16・17・18・19号住居跡」案内板。「平成2 5年に環内の南端部の状況を確認するため発掘調査したところ5件の住居跡が見つかりましたが、遺跡保護のため発掘調査は最少限にしました。そのため、住居跡の大きさなどの詳細は明らかになっていません。しかし、この確認により、環濠内全体に住居が作られたことが明らかになりました。また、19号住居跡は古墳時代後期のもので、弥生時代とは異なり、かまどが備えられています。神崎遺跡は弥生時代後期以降、近世まで無人の地であると考えられていましたが、この住居跡の発見により、環濠集落廃絶後、500年ほどして一時期人が住んでいたことがわかりました。」「現在地」。「16・19号住居跡」。「移住者のムラ」案内板。「今から1,800年前、前方に見える東海道新幹線の向かって右方向200先(駅名でいうと浜松、豊橋あたり、現在の愛知県から静岡県にかけての地域)に住んでいた人々が、集団でここに移住し、環濠集落と呼ばれるムラをつくったことが発掘調査により明らかになりました。発掘調査により土器等モノの移動が明らかになることはよくありますが、人の移住を証明できることはほとんどありません。神崎遺跡は出土した土器の95 %以上が東海地方の土器に酷似していること、しかも、その土器は神崎遺跡周辺の土でつくられていたこと、さらには、竪穴住居の形も「横長型」という地元のものではなかったことから、日本列島内での集団移住が明らかになりました。」「神崎遺跡」👈リンク に棲み着いた神崎住民の故郷はなんと、『発掘された土器の特徴から、東海地方(今の浜松・豊橋付近)から集団で移住した人々が作った集落である』という事まで判ったのだと。この説明板では、海上に点線があるが、海上を移動して来たのであろうとのこと。「静岡県浜松市伊場遺跡出土土器」(左)と「神埼遺跡出土土器」(右)「神崎遺跡AR体験。神崎遺跡ではAR (拡張現知)による復元CGを楽しむ事が出来ます。遺跡内でスマホをかざしながら歩くことで、弥生時代の生活を見たり、当時の住居の中をのぞくことが出来ます。」「神崎遺跡」の東側からの風景。前方に以前訪ねた藤沢市内にある「寿昌寺」の大きな屋根が見えた。手前の「目久尻川」の中央が藤沢市と綾瀬市の境界。そして「11・12号住居跡」手前から復元された「1号住居跡、2号住居跡」を見る。「11・12号住居跡」案内板。「長期間にわたり同じ場所に住み続けると、人々は古い住居を壊して新しい住居をつくります。発掘調査では、このような場合、新旧の住居跡が重なっ確認されます。これを住居跡の重複といいます。神崎遺跡からは平成25年の発掘調査で初めて居跡の重複が確認されました。出土土器からは時間の変化が読み取れなかったため、集落の継続期間は短いのですが、住居を建て替える必要があるくらいの年数は、人々はこの地に住んでいたようです。」更に、墓域が形成されていないことから比較的短期間で廃絶したと考えらているのだと。「現在地」。「10号住居跡」の復旧状況。柱が有った場所等が判るように復旧されているのであった。そして「神崎遺跡資料館」の裏側を見る。「国指定史跡 神崎遺跡公園」案内板。そして閉館していた「神崎遺跡資料館」の内部の様子をネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.14
コメント(0)
【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク次に県道22号線・横浜伊勢原線の近くにある「神崎遺跡公園」内にある「神崎遺跡(かんざきいせき)」を訪ねた。綾瀬市吉岡3425-5。「神崎遺跡資料館」の前の駐車場に車を駐めて「神崎遺跡」の散策を開始する。「神崎遺跡資料館」入口。しかし「新型コロナウイルスの感染予防のため、2月7日(日)まで、臨時休館します。」と。そして3月8日(月)まで延長されているのだ。「綾瀬市 神埼遺跡資料館」パンフレット(1/2)「綾瀬市 神埼遺跡資料館」パンフレット(2/2)そして「神崎遺跡資料館」の後ろにある「神崎遺跡」に向かう。神崎遺跡は今から約1,800年前の弥生時代後期の環濠集落。環濠集落とは弥生時代特有の周囲に深い溝を巡らしたムラのこと。平成23年2月7日に市内で初めての国指定史跡になったとのことであるが、今までこの「神崎遺跡」については全く知らなかったのであった。「国指定史跡 神崎遺跡」案内板。「1 名称 史跡神崎遺跡 2 指定年月日 平成23年2月7日 3 指定理由 国家の成立にむけて日本列島が揺れ動く弥生時代に、東海地 方から関東地方へ200以上を人々が集団移住したことを示 す遺跡であること、及び、環濠集落全体がほぼ完全な形で残っ ていること。 4 遺跡の内容 弥生時代後期(約1 ,800年前)の環濠集落。集落の形は楕円形で、 規模は南北103m、東西65m、面積は約5 , 000m2。 環濠(周囲を巡る溝)は幅、深さともに約2mで、断面はV 字形。これまで実施した発掘調査は遺跡の一部で、確認できた 弥生時代の竪穴住居跡は18軒。 5 その他 史跡の隣接地に神崎遺跡資料館が平成28年5月に開館。 館内には出土遺物や環濠の復元模型が展示されているほか、 2階からは環濠集落を一望できる。「遺跡全体図(赤線内が指定範囲)」「神崎遺跡復元想像図(環濠の内側に竪穴住居がつくられている。」「神埼遺跡公園」案内板。「現在地」。「神崎遺跡公園神崎遺跡は平成元年に初めて発掘調査され、ここに弥生時代後期(今から約1800年前)の環濠集落があったことが明らかになリました。環濠集落は周囲に深い溝を巡らせたムラです。弥生時代特有のもので、各地から発見されていますが、当時、ムラ同士が緊張関係にあったことを示しています。さらに神崎遺跡の環濠集落は東海地方からの移住者によリつくられたこともわかり、日本の歴史を考えるのに必要な遺跡とされました。また、遺跡全体が良好な状態で保存されている点も高く評価され、平成23年2月に国史跡に指定を受け、遺跡公園として整備されました。これまでの発掘調査から、1 8軒以上の住居跡があることがわかっています。現在では住居跡や環濠は地中に保存されています。公園には全長270mにわたる環濠(ムラ周囲の溝)とこれまでに確認された住居跡の位置が表示されています。」発掘中の「神崎遺跡」全景。【https://www.city.ayase.kanagawa.jp/hp/page000029900/hpg000029895.htm】より「史跡 神崎遺跡」石碑とその先に「神崎遺跡」の復元された「竪穴住居」の姿が。「環濠」跡。「環濠弥生時代になると、日本列島にムラの周囲に溝を巡らした環濠集落が出現します。環濠集落は弥生時代特有のムラですが、環濠は攻撃から自分のムラを守るための防御施設と考えられています。集落間の争いの原因は、弥生時代になって使い始められた鉄製品が、国内で生産できない貴重な輸入品だったために、入手をめぐり、争いが多発したと言われています。しかし、関東地方では武器などの直接的証拠が見つかっていないため、住民が一致団結するために環濠をつくったという考えもあります。神崎遺跡の環濠は地点によって異なりますが、幅、深さともに2mほどで、断面はV字形ですので、外部からは容易に侵入できませんでした。なお、未調査部分に橋などの出入口施設があった可能性があります。神埼遺跡資料館には実物大の環濠復元模型が展示されています。」「環濠復元模型」展示。 【https://ojisanpo.blog.ss-blog.jp/2018-05-04】より「現在地」。復元された「竪穴住居」が2棟。「1号住居跡・2号住居跡」案内板。「現在地」。「1号住居跡と2号住居跡は平成元年の最初の発掘調査で発見された竪穴住居跡です。1号住居跡は4.6mx3.5mの隅が丸い長方形で、ほかの住居跡よりも小型です。炉跡は見つかりましたが、柱穴はありませんでした。2号住居跡は6.3mx5.4mの隅が丸い長方形です。炉跡と4本の柱穴がありました。出土遺物には神崎遺跡の住民の故郷であった東海地方に特徴的な「ブランテーグラス」と呼ばれる土器、使いみちがはっきりしない球形土製品、儀礼(まつりごと)に使われた銅鏃(銅製のやじり)が出土しています。出土遺物は神崎遺跡資料館に展示されています。「1号住居跡・2号住居跡」に近づいて。「1号住居跡」。「2号住居跡」。「入口」から内部を見る。「10号住居跡」案内板。「1 0号住居跡は平成25年の発掘調査で確認された竪穴住居跡です。神崎遺跡の主な調査は、平成元年の市史編集事業に伴う調査、平成22年の国史跡指定にむけての調査、平成25年の史跡整備による調査となります。平成25年の発掘調査は、それまでの調査では不明だった、環濠集落中央部の様子を確認することが目的でした。そのため、中央部を東西に横断する4m幅の発掘調査を実施し、発見されたのが10号住居跡です。この住居跡の発見により、中央部は広場ではなかったことがわかりました。平成22年以降の発掘調査では、住居跡が確認できた場合、掘り上げないで発掘を終了しています。したがって、IO号住居跡の規模は推定となりますが、7.5mx5.5mほどの隅が丸い長方形と思われます。」「現在地」。上空には海上自衛隊の飛行機が海上自衛隊 厚木航空基地から飛び立って行った。「3号、4号、5号、6号住居跡」案内板。「3号・4号・5号・6号住居跡は平成元年の最初の発掘調査で発見された竪穴住居跡です。3号住居跡は5.9mx4.8mの楕円形です。炉跡と4本の柱穴がありました。4号住居跡は6.3mx6.2mの隅が丸い方形です。炉跡と1 0本の柱穴が確認されました。一見、不整形に見えるのと、柱穴が他の住居跡より多いのは住居の建て替え(増築)のためです。5号住居跡は5.2mx4.7mの隅が丸い長方形です。炉跡と4本の柱穴がありました。6号住居跡は遺跡保護を優先としたため、住居跡の有無の確認にとどめました。そのため、規模は推定となりますが、5.5mx5.5mほどの隅が丸い方形と思われます。」「現在地」。「4号住居跡跡」横から「1号住居跡・2号住居跡」を見る。「土器捨て場」案内板。「平成元年の最初の発掘調査で、この周辺(南北約15m、東西約6m )から土器の破片が多量に集中して出土しました。一般に、多量の遺物が出土すると、住居などの建物跡が確認できることが多いのですが、ここからは発見されませんでした。出土した土器には完全な形のものはないため、破片を廃棄した場所と推定し、「土器捨て場」と呼んでいます。ここからは多量の土器の破片に混じり、鉄鎌も発見されました。出土遺物は神崎遺跡資料館に展示されています。」「現在地」。「土器捨て場」横から「1号住居跡・2号住居跡」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.13
コメント(0)
【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンクそして「綾瀬市役所」前を通過。「綾瀬市」は全域が相模川の河岸段丘にあり、丘陵の起伏は比較的穏やか、気候は比較的温暖である。「緑と文化が薫るふれあいのまち あやせ」を市の標語に掲げている。神奈川県内では最も新しい市で、市内の18%強が在日米軍と海上自衛隊の厚木基地になっており(同基地総面積の約78%に相当)、市長選では常に騒音問題が争点となる。一般国道と鉄道駅はないが、市南端部には東海道新幹線、北部には東名高速道路が通っており、小園地区に綾瀬スマートインターチェンジが設置される予定である。現在の人口は約84,000人。そして近くの道路脇の広場にあった「綾瀬ふれあい大釜」。屋根付きの建物の下に巨大な鍋が鎮座。五右衛門風呂の如き異様な大きさ。「綾瀬ふれあい大釜一、容量・・・2160リットル(ドラム缶約12本分)一、寸法・・・内径1350mm一、深さ・・・1260mm一、重量・・・釜0.7トン 釜戸2.60トン一、材質・・・鋳鉄一、由来この大羽釜はまわし型という手法で型が鋳造されたもので、畜産をはじめ歴史ある綾瀬農業の発展を願い、市内畜産農家60名から寄せられた浄財をもとに、全国でニ番目の大きさを誇る大釜として、平成2年9月に完成したものです。同年10月のあやせ市民まつりにおいてこの大釜の名前を募集し農家の人々とのふれあいのシンボルとしての願いを込め「綾瀬ふれあい大釜」と命名されました。市氏まつりの日には、この大釜で綾瀬地場産の新鮮な豚肉や野菜をふんだんい使ったとん汁を作りまつりの名物として多くの人々に喜ばれました。」そして山道の脇にあった「江川天神社」へ綾瀬市早川8812-2近く。「社殿」。「江川天神社祭神は菅原道真と平成輔。享保十五年(一七三O〇)に建てられた古碑があり、それには「平宰相成輔卿祠社」と彫ってありました。平成輔は京都の公卿て、後醍醐天皇の親任を受け、鎌倉幕府討滅を計画しましたが、失敗して捕えられ、鎌倉に護送される途中、元弘一一年(一三三二)五月、早川河口て殺害されました。その故地は小田原市に現存し、同市指定史跡となっています。早川という昔の村名が、たまたまこの早川と同名なのて、後世ここにも祭ったものと思われます。境内の涌き水は社によって大切に保護され、飲料水や農業用水として利用されてきました。」そして「せせらぎ広場」へ。綾瀬市吉岡1763。「新武者寄橋」より見る「目久尻川サイクリングロード」と「せせらぎ広場」。「せせらぎ広場」案内板。「目久尻川」に架かる「新武者寄橋」。その名の示す通り、橋が架かる場所は近くに早川城があったころの武者の集合場所であったと。現在の橋の構造は、4径間連続鋼鈑桁橋で、橋長134mの道路橋。昭和59年に建設された。欄干に取り付けられた橋の銘板に、往時をしのぶことができるのであった。そして南に下り、「吉野橋」の袂に車を駐める。この近くにあった清流「清水川」。流れに沿って進むと右側にあったのが「わさび田」。綾瀬市吉岡1296付近。ネットにはこんな記事が。「高座郡綾瀬村(現・綾瀬市)の篠崎源蔵は明治年間に養蚕指導員として県内各地を歩き、指導に当たっていました。その時に、愛川村半原の染矢九一、成井泉に出会い、綾瀬村にワサビを導入しました。そして、綾瀬村吉岡地区では明治時代半ばから、篠崎源蔵らは4戸の農家と共に栽培を始めました。篠崎家には、1915(大正 4)年に行われた「高座外四郡農会聯合農産物品評会」で入賞した賞状が自宅に飾ってあります。ワサビ田は、綾瀬市早川の台地の裾を流れる目久尻川の側流「清水川」沿いに、最盛期には 40㌃ありましたが、現在は、 篠崎家のみが 7㌃程度栽培しています。導入当時の品種は、愛川から導入し、青軸の系統(半原種?)や紫の系統でしたが、収量性などの問題から伊豆から 品種を導入するようなり、現在は「達磨」などを購入しています。仲間と共に生産に励み、築地のワサビ問屋に出荷し、 品質の良さと伊豆での不作時には高価で取引されたそうです。最近では源蔵の孫・徳治さんの長女・玲子さんが父親の 情熱を受け継ぎ、共に栽培に励んでいます。そして、販売は、JAさがみ・わいわい市寒川店と海老名グリーンセンター で主に花ワサビとして、2~4月に販売しています。 栽培管理は、日照の管理が重要で、夏期は黒寒冷紗で遮光し、秋には落ち葉の堆積を防ぐためにネットに張り替えて います。2014 年春の豪雪時にはネットに積もり、ネットの骨組みが倒壊する出来事もありました。」とやや古い情報ではありますが。目久尻川周辺には湧水が流れ出す個所がみられ、今では貴重になりつつあるわさび田。湧水を集めて流れる「清水川」の水面も陽光を反射して。「清水川の自然を大切にしましょう」と。そして再び目久尻川に架かる「吉野橋」を渡り4~500m先にあった「吉岡神明社」へ。綾瀬市陵西1808。社号標「吉岡神明社」。吉岡神明社は、小島左衛門尉源忠重が当地土着に際して康和4年(1102)に勧請したとも、元和2年(1616)春日局が伊勢神明天照太神宮を勧請して創建したともいい、いずれか確かか不詳ながら、江戸期には吉岡村の鎮守社であったと。「吉岡神明社」掲示板。「配置案内図」。鳥居。参道脇の「大松樹記念碑」。参道の先に「社殿」が見えた。そして参道右側に「手水舎」。「手水鉢」には「洗心」の文字が。その先に小さな「弁天池」。その横に「弁財天社」。「弁天様もどはインドのサラスバティ川の女神。仏教では弁舌、音楽、学問、智慧、財福などを司る神とされる。手には琵琶や武器を特っ。七福神の一つとして知られている。俗に紅一点の才能のある女性。」「神明社辨天池改修記念碑」。御神木の杉の大木。正面に「社殿」。「神楽殿」。「社務所」。そして「社殿」。「社殿」の「内陣」。扁額「神明宮」。「神明社神明社は、天照大神、豊受大神がられています。社殿は本殿・覆殿、拝殿、及び幣殿で、他に社務所と神楽殿があり・境内社に琴平神社、稲荷社、弁財天社があります。元和二年(一六一六)に、三代将軍物川家光の乳母であるお福(春日局)が勧請したとされる棣札が残されています。昔は当社の付近に、瀧岡寺(ろうこうじ 寿宝院)という別当寺がありました。」「神明社屋根替奉賛御芳名」碑。「神楽殿造営工事落成奉祝記念碑」。「石垣改修 社寺拂下 記念」碑。相模鉄道(株)の境内整備「記念碑」。先代の鬼瓦であろうか。境内の左手にあったのが「琴平神社」。「琴平神社」。「琴平神社」の「内陣」。「金毘羅様カンジス川に住む鼻の長いワニがもとになった仏法の守護神。航海安全や大魚祈願また厄除けと、船舶関係者を中心に信仰を集めている十ニ神將のうちては宮毘羅(ぐびら)に当る。」宮比羅(くびら、ぐびら)は、仏教の水運の神で、天竺霊鷲山の鬼神で、薬師如来十二神将の筆頭である。宮毘羅、金毘羅、金比羅、禁毘羅とも書く。「済運寺」を訪ねた。綾瀬市吉岡1783。寺号標「吉岡山 済運寺」。「本堂」。「本堂」右手。境内池には「しょんべん小僧の姿が。大きな石灯籠。屋根には北条家を代表する紋「三つ鱗」が。鎌倉・建長寺の末寺であるので、建長寺の開基(創立者)・鎌倉幕府第5代執権・北条時頼から「三つ鱗」なのであろう。「済運寺済運寺は山号を吉岡山と称し、臨済宗建長寺の末寺です。本尊は木造釈迦如来坐像で。貞和五年(一三四九)卒の栢庵宗意禅師大和尚により開山され、中興開基は元和四年(一六一ハ)卒の渋谷平次郎某で渋谷庄司重国の子孫といわれています。三代将軍徳川家光の乳田である春日局が化粧料として吉岡・用田等に三千石の所領を与えられ、このあたりに屋敷を建て、大山参脂の宿泊所にしたといわれています。済運寺には春日局の御位版とともに、局が使用したと伝えられる茶臼・茶が寺宝として大切に保管されています。」「延命地蔵尊」。「延命地蔵尊」も防寒対策、コロナ対策も万全か。六地蔵尊。左から地蔵菩薩、宝掌菩薩、宝処菩薩。中央に釈迦如来坐像。左から宝印手菩薩、持地菩薩、堅固慧菩薩。そして次に500mほど南下した場所にあった「正福寺」を訪ねた。綾瀬市吉岡1006。浄土宗寺院の「正福寺」は、「廣養山 直到院」と号す。寺号標「浄土宗 正福寺」。参道左側には石仏群が。手前には「六地蔵」。「六地蔵縁起仏祖釈迦如来が入滅されてから弥勒菩薩があらわれるまで、多くの苦しむ者を救ってくれた仏として地蔵菩薩は信仰されている。六体の菩薩を六地蔵と言い、六道のそれぞれのところで苦しんでいる者をお助けくださり、また子育て延命地蔵として人々をお守りくださる仏とされ、お地蔵さまは多くの人に信仰されている。六地蔵菩薩 持ち物 六道一、大定智悲地蔵 (錫杖)……地獄道ニ、大徳清浄地蔵 (如意)……餓鬼道三、大光明地蔵 (数珠)……畜生道四、清浄無垢地蔵 (合掌)……修羅道五、大清浄地蔵 (香炉)……人道六、大堅固地蔵 (衣服)……天道勉強になりました。左から上記一から始まる「六地蔵」を。その先にも石仏が並んでいた。「本堂」。「浄土宗正福寺」は、白受(天正18年1590年寂)が開山、小田原北条氏に仕えていた加藤傳次郎某(法名光誉念信、永禄2年寂)が開基となり創建したと。境内左手に大きな「観音像」。お顔をズームで。勢至丸(法然上人)像。勢至丸の立像で「旅立ちの法然さま」。本尊は「木造阿弥陀如来立像」。「正福寺正福寺は山号を広養山と称する浄土宗の寺院です。本尊は木造阿弥陀如来立像です。善誉空阿白受上人を開山、小田原北条氏に仕えたという加藤伝太郎広信を開基として、天文元年(一五三ニ)に建立されました。その後、慶長三年(一五九八)を最初とし、元禄八年(一六九五)に二度目、現在の本堂は、天保十一年(一八四〇)に三度にわたり再建された建物です。開山以来の伝えが書き残された羽目板が大事に残されています。」「本堂」の扁額「正福寺」。「本堂」前の境内。再び山門から「正福寺」を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.12
コメント(0)
【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク次に「正福寺」の直ぐ南にあった「日吉山王社」を訪ねた。綾瀬市吉岡935。社号標「日吉山王社」。吉岡地区にある「日吉山王社」は、綾瀬市吉岡にある神社。吉岡山王社の創建年代は不詳だが、寛文13年(1673)再建の棟札があるといい、1673年以前の創建と推定できると。右手には竹藪が拡がっっていた。参道を進むと正面に「社殿」が。「社殿」祭神は天照大日孁命(あまてらすおおひるめのみこと) 豊受姫命(とようけひめのみこと)「社殿」の「内陣」。「山王社参道拡張記念碑当社の参道は狭隘にて毎年例祭の都度講中役員は参詣者の為、常に心痛の處篤志家加藤一由氏並びに下林茂氏の好意に依り、従来の参道を拡張することになり昭和五拾四年より順次着工、講中各位並びに篤志協力者の深大なる好意を受け順調な運びとなり、第一期工事を五拾四年に着手し仝五拾六年に第三期工事を以って完全竣工、現在の整備された参道となる。 昭和五十七年五月建之 山王社講中」。二つの境内社。「不動明王」。ズームで。素朴な石碑も。「山王社祭神は大山昨神(おおやまくいのかみ)で、安産・子育て、縁結びの神とされています。ほかに牛頭天王(ごずてんのう)が祭られています。寛文十三年(一六七三)六月再建の棟札があります。社殿・鳥居・神輿など、たびだび、改築や塗り替えが行われ、地域の人々に信仰されてきました。また、境内には文政ハ年(一ハニ五)造立の不動明王が安置されています。」そして次に訪ねたのが「蟹ヶ谷公園(かにがやこうえん)」。案内板は汚れていて・・・。ネットから。【https://www.city.ayase.kanagawa.jp/ct/image000030400/a.jpg】より低地部の湿生園では、吉岡地区から湧き出る湧水を水源として利用し、カキツバタやハナショウブなど約19,000株があり、見晴らし台からは富士山や丹沢が一望できる。ハナショウブが見頃になる時期は、毎年、6月中旬から7月上旬頃。また、ハスの見頃となる時期は、毎年、7月から8月頃に楽しめると。木道の遊歩道をしばしの散策。公園低地部の湿生園では、吉岡地区から湧き出る水を水源として利用した流れが。野鳥がツガイ?で。カルガモの雌であろうか?陸に上がって。そして再び水面をスイスイと。この蛇のような模様の鳥は「アリスイ」?そして次に訪ねたのが東海道新幹線の南側の「最上稲荷山 示現寺」。昔も見た景色であったが、今調べてみるとこの寺は綾瀬市の寺ではなく藤沢市の寺であった。以前も訪ねたことがある寺なのであった。藤沢市用田1035番地の43。入口の石仏、石碑。子安観音像であろうか?お顔をズームで。「五輪塔」。「善哉廟」と刻まれていたが。「最上位経王大菩薩交通安全守護○○」と刻まれた石碑。参道の石段を上って行く。「本堂」示現寺は永禄3年(1560年)10月8日、当時の豪族伊東孫右衛門祐矩公により永禄山観生寺(禅宗)として開かれ、人々の信仰を受けていましたが、第二次大戦後に継承者不在の為、衰退の道を辿りました。その後数十年間廃寺となっていたこの寺を、平成元年5月に前住職(自修院日得聖人)により新たに開山し寺号を示現寺(日蓮宗)として改宗復興、その後単立宗教法人を取得し、平成16年4月山号を法華山と定め「法華山示現寺」として歩んでいると。多くの石灯籠が境内左手に。「最上稲荷山 示現寺」。「お薬師さま」。「本堂」の「本陣」。「手水鉢」と「水口」には水はなく。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.11
コメント(1)
【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク次に訪ねたのが深谷通り沿いの高台にあった「日枝神社」。綾瀬市大上1丁目4-45。何故か鳥居と社殿が微妙にズレていたのであった。街の郊外にあった小さな「社殿」。「深谷通り」を南下し、そして右折し「市役所南通り」を西に進むと左手にあったのが「長龍寺」。綾瀬市深谷中4丁目3-1。曹洞宗深谷山長龍寺の「山門」。寺号標「曹洞宗 長龍寺」。「山門」の彫刻を見る。そして「山門」を潜り境内へ。左手にあった3体の地蔵尊。「六地蔵」。「大般若経」と刻まれた大きな石碑。江戸時代に深谷村を治めていた旗本の「大橋氏一族の墓碑群」。「大橋氏一族の墓碑群深谷山長龍寺は、室町時代に蛭川越後によって建立された曹洞宗の寺院で、大橋氏一族の菩提寺です。大橋氏は、寛永十年(一六三三)、深谷村などに知行を与えられ、寛永十六年(一六三九)には千石の加増があり、ニ一ニ〇石の所領を知行した旗本です。大橋五左衛門親善は、徳川秀忠に仕え、大阪の陣に従軍し、寛永十六年(一六三九)には千代姫(徳川秀忠の養女)の用人となりました。大橋氏は、宝暦ハ年(一七五ハ)まで旗本の細井氏(本家・分家)とともに深谷村を支配しましたが、当時勘定奉行であった大橋近江守親義が郡上藩(岐阜県郡上市)の宝暦騒動に関連して所領を失い、以後深谷村の大橋氏所領は幕府領になりました。大橋氏一族の墓石詳は昭和五十七年より市の指定文化財です。」隣りにあった「合祀慰霊塔」。「合祀精霊碑」。その横にも小さな社が並ぶ。境内の大きな銀杏の樹。「水子地蔵尊」。そして「本堂」。扁額「長龍寺」。「本堂」の「陣内」。ご本尊の「木造釈迦如来像」をズームで。「本堂」の雨樋の装飾も見事。「本堂」の向背を横から見る。もともとは、宗教建築に向拝は無かったのだと。中世頃の仏教の教えが庶民の心を引きつけ、仏教が生活の中に浸透していった事により、寺院に人の出入りが多くなって行く。そして、雨の日に参拝する方の為に雨除けの向拝を設けることが多くなっていったのだと。「鐘楼」。「梵鐘」。「本堂」前から境内を見る。「本堂」を斜めに見る。「寺務所」。そして境内の庭の前で「蕗の薹」を発見。「長龍寺」を後にし、「比留川」に沿って南下し「中原街道」沿いにあった「大法寺」を訪ねた。寺号標「大法寺」。日蓮宗の寺で、本尊は日蓮上人図顕大曼荼羅 。日蓮上人が佐渡流罪の時、この地に立ち寄ったという縁により、日叡上人が応永2年(1395年)に開山した寺と。「掲示板」には「新春の慶賀 自他 幸甚 幸甚」と。日蓮聖人の佐渡配流が赦免となり、身延山にお入りになられた翌年の正月、信者に出された手紙の書き出しには「新春之御慶賀 自他幸甚々々」と述べられていたのだと。山門横には「宗祖六百五十年 遠忌報恩 南無妙法蓮華経」と刻まれた大きな石碑が立っていた。「山門」を潜る。手水場の水鉢にが「洗心」の文字が。「開山六百年 本堂、客殿、庫裡 建立記念碑」。「鐘楼」。廻り込んで。「梵鐘」。「開山六百年記念 本堂、客殿、庫裡 建築篤志者連名」「本堂」を見る。反対側から。そして青面から。扁額「法鏡山」。向背の見事な彫刻を追いかける。木鼻(右)木鼻(左)。「日蓮聖人像」。見上げて。お顔をズームで。「真観清浄観 (しんかんしょうじょうかん)と台座に刻まれた石仏。お顔をズームで。「真観清浄観」。「淡島明神堂」。「日蓮上人が江ノ島で処刑される際、首を切ろうとした侍の刀に雷が落ち一命を取り留め、日蓮上人が佐渡に流される途中で休まれた『淡島明神堂』が、大法寺の由来」と。「南無日蓮大菩薩碑」。「十三重塔」。「客殿・庫裡」であろうか。そして「瀬谷通り」と「中原街道」の交差点角にあった巨大ピラミッドが大小2基。日蓮宗大法寺(菊池重忠住職)が建立した永代供養塔で、内部に納骨室と礼拝空間があるのだと。明るい色の白河石を百段(5メートル)積み上げ、地下には逆三角すいの穴(非公開)を設けるなど実際のピラミッドに見られる特徴も取り入れているのだと。傍らにある小型のピラミッドはペット用の納骨塔と。駐車場から墓地越しにピラミッドを観る。半世紀ぶりのエジプト訪問?であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.10
コメント(0)
【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク「子育て観音」前の比留川沿いの道を北上し次の「報恩寺」へ。曹洞宗寺院である「陽廣山 報恩寺(ようこうさん ほうおんじ)」。綾瀬市寺尾南2-10-1。見事に手入れされた生け垣のある「宝恩寺」の参道を進む。入口の2本の銀杏の大樹も完全に葉を落として。正面に「本堂」、左に「鐘楼」。生け垣の間にはいくつもの石柱が。その中の削り込んだ空間に石仏が安置されていた。これも「おたすけ観音」なのであろう。ズームして。反対側にも。ズームして。「山門」前。左手の門柱には「おたすけ観音」の文字が。山門横の掲示板。「前後際断人は過去、現在、未来という時間の中で生きています。それらは連なっているように見えますが、じつはそうではありません。それぞれ断たれているのです。現在という瞬間は過去の「後」ではないし、未来の「前」でもないのです。できることはその現在を精いっぱい生きることしかありません。過去を悔やんだり、未来を憂いたりしていたら、肝心の「今」がおろそかになります。」「山門」前左側の石碑群。解読不能。「南無阿弥陀仏」碑。右側にも石仏と六地蔵碑が。「六地蔵」角柱の三面に二体ずつ肉彫りされており、ひとつの蓮華座に乗った地蔵は持ち物以外は同じ衣の模様ですっきりして印象的。文化九壬申四月吉祥日。「石仏」。「本堂」前には手入れされた松が。「手水場」はこじんまりと。「おたすけ観音」。日中戦争・大東亜戦争の開戦とともに「おたすけ観音」「弾除け観音」として信仰を集めた。これも「回向柱」と言うのであろうか。「本堂」報恩寺は、慶長7年(1602)8月28日曹洞宗の寺院として開山されました。御開山は朝岩存夙大和尚(ちょうがんそんしゅく)(1618卒)、開基は後藤右近(ごとううこん) 心宗永伝居士(しんしゅうようでんこじ)です。御開山の朝岩存夙大和尚は、本寺 藤沢市遠藤の宝泉寺の六世であり、当山二世悦堂存怡大和尚(えつどうそんい)(1648卒)は宝泉寺七世になります。報恩寺の開山は小田原北条氏の家臣であったとも伝えられ、当山の末寺 大和の宗昌寺、寺尾の常久院の開山である、当山三世林室宗茂大和尚(りんしつしゅうも)(1648卒)は、師匠とその師匠を勧請開山とし三世になられたと思われる鎌倉時代の領主渋谷氏の法音寺を継承した寺と考えられている。慶安2年(1649)には江戸幕府から寺領8石の朱印地を寄進されている。境内にある蓼川観音堂は、もとは蓼川にあったが、昭和14年(1939)厚木基地の新設に伴い当寺に移築された。ここには五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の位牌がまつられている。さらに石造観音像も多く現存しているが、第二次世界大戦中には「弾除け観音」として参詣する人も多かったと伝えられている。扁額「金毘羅」?。境内には数えきれないほどの「おたすけ観音」が集められ、その多くは神奈川県内の様々な場所から集められたと。寺の27世となる太嶽洞源(たいがくとうげん)和尚は幼少の頃から非常に観音信仰が篤かった方だと。しかし多くの国民の例に漏れず軍隊へ徴兵されて台湾へ出征された。その際、多くの戦友が敵の銃弾に斃れていく中で、観音様のご加護を受けて無事に帰還出来た事に感激され、「おたすけ観音」を建立されたのだと。「平和観音」。「寺務所」。「弾除け観音」。台座には「報恩」と。「鐘楼」。「梵鐘」。「歌碑」。「みめくにの ふかきおたすけ かんせおん 大悲の恩に 報いまつらん」。右手に六角形の「観音堂」。2009年12月24日(木) 午前1時50分ごろ、観音堂から出火、木造平屋約30平方メートルを全焼し建て直されたのだと。ここにも大きな「観音像」が。お顔をズームで。尋常高等綾瀬小学校初代校長「笠間友作先生頌徳碑」。「喜色動乾坤(きしょくけんこんをうごかす)」。「喜びに満ちあふれた天地を動かすほどの力があるという意味です。誰でも腹の虫の居所が悪いときがある。そんな人と関わるときこそ、この「力」を活用してください。喜びがにじみ出てくるような穏やかで明るい態度と接したら、その雰囲気が相手を包み込んで不機嫌さの源になっている心のしこりを溶かしてしまします。素直な心の交流がそこに生まれるのです。」境内から「本堂」を振り返る。墓地への坂道の左側にあった石仏群。「地蔵菩薩」。反対側にも。「永代供養墓」であろう。永代供養墓正面の梵字は(サ)聖観音さまの梵字。「釈迦如来像」。「鐘楼」越しに銀杏の大木を見上げる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.09
コメント(0)
【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク次に訪ねたのが「龍洞院 (りゅうどういん)」。綾瀬市早川1766。曹洞宗寺院の「龍洞院」は、一澤山と号す。「龍洞院」は、香山重菰が開山となり慶長5年(1600年)に創建したと。「本堂」に向かって進むと左手に「蠟梅」の黄色い花が。香り豊かに。青空に映えて。そして「本堂」への山門。かつての愛甲郡玉川村龍鳳寺の末寺として慶長年間に創建された。明治12年(1879年)に火災で本堂が焼失したが、昭和3年(1928年)に建て替え前の本堂が再建され、現在は市内外合わせ300件の檀家を抱えていると。「龍洞霊園」と刻まれた石碑。「龍洞院復興紀年」碑。「本堂」。「本堂」の「内陣」。「本堂」前の観音像。大きな「龍洞院観音」。お顔をズームで。「龍洞院観音」の裏にも。横にも小さな観音様が2体。「龍洞院観音」を横から。ズームで。そして次に訪ねたのが「五社神社」。神奈川県綾瀬市早川1603。「神奈川県神社庁 献幣使参向神社 五社神社」碑。「献幣使というのは神社本庁よりの幣帛(神前へのお供え物類の総称)料をお供えするための役目で、ご神威を発揚しご神徳の宣揚と神社の興隆を願う目的を持って参向すること」であるとネットから。入口にあった「道祖神」碑。「郷社 五社神社」碑。明治~昭和21年まで、神社は国の管理下のものであったと。おおまかに社格制度の格で表すと下記の図の通り。社格は官社と諸社に大きく分類されますが、登録されていない(登録されようとしていない)無願神祠(無願神社)もあり、3つに分類されていた。官社は神祇官(国家機関=今でいう国家公務員に近い)が祭ることになっており、諸社は地方官=今でいう地方公務員に近い)が祭ることになっていた。なお無格社は格が無い神社ということになり厳密には社格制度からは除外すべきだが、神社であることは認められていた(認定されていた)神社となると。認定されていないと無願神祠(無願神社)となったと。 【https://sapporo-jinja.com/shakaku/】より「鳥居」。扁額は「五社神社」。「玉垣造成記念」碑。「五社神社 由緒五社神社は、日本武尊東征の折に当地に五朶の榊を樹て、地神五代を創祀して五頭の宮と崇められたのが創始だと伝えられ、正和2年(1313年)、三井の門徒浄覚大徳が社殿を再建、五社明神社と称したといいます。慶安2年(1649)には江戸幕府より社領13石の御朱印状を受領、明治6年村社に列格、昭和12年五社神社と改称・郷社に列格したといいます。」。「御神木 銀杏」。江戸時代中期に植樹されたものと。樹齢300年?参道を進む。途中、参道の左手にあった「境内社八坂神社」。「八坂神社」社号標。その向かいには日本武尊の腰掛石、石標と石を祀る社があった。石標「日本武尊 腰掛石」。「腰掛石」。景行天皇の四十年夏、日本武尊が天皇の命により東征。東方に五色の瑞雲が激しく動き、亀居山(現在の五社神社)で雲気が収まり辺りを見ると五朶の榊と大石があり、石に奇瑞を感じ息を休め、五朶の榊の因縁にまかせ地神五代の神霊を草創し五頭の宮とした。この大石が日本武尊腰掛石といわれ、五頭の宮は五社神社のことです。「手水舎」。自然石を刳り貫いた水鉢には水がなく。正面に「拝殿」が見えて来た。ご神木の楠木がその前に立つ。「神輿殿」が左手に。「境内社」。左から「渋谷神社」と「疱瘡稲荷社」。「狛犬」阿形像。「狛犬」吽形像。「拝殿」。御祭神は・天照皇大神 ( あまてらすすめおおみかみ )・天忍穂耳尊 ( あめのおしほみみのみこと )・天津彦火瓊瓊杵尊 ( あまつひこほのににぎのみこと )・彦火火出見尊 ( ひこほほでみのみこと )・鵜草葺不合尊 ( うがやふきあえずのみこと )社名は上記5柱の神を祀るという意味で、何らかの理由により5社を統合した神社や、元々1社に5柱の神が祀られている神社などにつけられているのだと。棟札によると、造営の大工は鎌倉の円覚寺大工高階隼人道直であり、鎌倉大工の伝統的技術を窺うことができるのだと。向背の見事なの彫刻。ズームで。水引虹梁の上の中備(なかぞえ)に龍の彫刻が。「木鼻」の彫刻。拝殿内。御神体の「鏡」。神社における「鏡」は一般的に太陽を指していると。理由は「鏡」で太陽の光を反射するのを正面からみると「鏡」が太陽のように光り輝いて見えるから。日本では太陽神である「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」を最上の神としてお祀りするので、太陽を象徴する「鏡」をご神体として神社に祀るのだ。また、「鏡」に映った自分自身の姿から自分の行動を自覚するという意味もあるのだと。「神楽殿」。無人のおみくじ販売場所。おみくじが結んである「おみくじ掛け」。「祈願受付所」。境内右手から見ると「本殿」とその奥の森が眺められた。「拝殿」屋根を横から。懸魚(げぎょ)の彫刻も見事。再びご神木の楠木を入れて。次に「五社神社」の裏にある「尾ノ井」を訪ねる為に坂道を下る。坂の途中左にあったのが「尾ノ井」。「尾ノ井五社神社の境内の形が亀の形に似ており、池がその尾の位置にあるので、亀ノ尾ノ井が尾ノ井と呼ばれるようになりました。高い所にある湧き水の池で、古くは飲み水になったり、田の用水になったり、雨乞行事に用いられたりしました。また、これにまつわる昔話なども伝えられています。」池には金魚の姿も。池の上の斜面には小さな祠があった。石灯籠も置かれていた。次の「城山公園」は昨年「早川城」👈リンク を訪ねた際に一通り散策したのでこの日は訪ねなかった。そして「子育て観音」へ綾瀬市深谷13-4205-1。「IIMURO GLASS 綾瀬市民スポーツセンター」の近く比留川西側の御堂。「子育て観音」碑。「子育て観音本尊は十一面観音坐像です。本尊の胎内にも小さな十一面観音坐像が納められています。生まれた子供が元気に育って欲しいという願いを込めて「子育て観音」と呼ばれています。胎内の観音坐像は明治三十年、鎌怠扇ヶ谷の仏師、後藤斎宮慶廣の作です。数回の移転を経て、当地へ安置されました。毎年、釈の誕生日である四月ハ日に開帳され、地域の人が集まり大数珠を回しての念仏が奉納されます。」「本堂」。扁額「子育観音」。本尊の「十一面観音坐像」をネットから。観音像は1897年、鎌倉の仏師・後藤斎宮慶広の作。坐像の胸の中に本尊となる小さな仏像が安置されているのだと。 【https://rarea.events/event/28114】より子育て観音前の庚申塔が左に。造立は寛政四年(1792)と。三猿に主尊の青面金剛は六臂で日輪、月輪、武器を持ちショケラをぶら下げていた。「本堂の裏にも朱の鳥居が。」。石造りの社。「平成十四年九月十六日 区画整理事業之為 此処ニ移転」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.08
コメント(0)
【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンクそして次に訪ねたのが「小園子之社(こぞのねのしゃ)」綾瀬市小園273。長い急な石段の参道の先に鳥居が。ユニークな形状の社号標「小園子之社」と「道祖神」碑。社号標「小園子之社」。長い石段を上がると正面に立派な鳥居。扁額は「子之社」。「庚申塔」。「地神塔」。その年の稲の豊作を願い、農業に関係の深い土地神様(とちかみさま)を祀る為のもの。参道を進む。木々に囲まれ右側には小さな広場が。「本殿」。小園子之社は金子重昌が願主となり、慶長10年(1605)に勧請された。本殿は小規模な宮造りの建物であり、彫物は精緻で、各部の造りも丁寧で質の高い建物。「本殿」に近づいて。「本殿」の「内陣」をガラス越しに。「子之社小園の鎮守様で、大国主命(大己貴命)が祭られています。社殿は本殿をおおう覆殿と拝殿、それと幣殿が連なっています。他に神楽殿と社務所ガあります。子とは北の方位をいい、子之神とは北方をつかさどる神のことをいいます。慶長十年(一六〇五)に勧請されたという棟礼ガあり、現在の本殿は文久元年(一八六一)に建造され、さらに大正十五年(一九ニ六)に再築されたものです。」「神楽殿」。「社務所」。「神輿殿」。「本殿」左手の「境内社」。右手に「正一位稲荷大明神」。そして近くにあった小さな寺「東光山延命寺」を訪ねた。正式名称は「東光山延命寺」で、小園地蔵堂とも呼ばれ、相模国分寺の末寺として建てられた物。相模国分寺の隠居の僧が住んだと伝えられている。約1200年前に建立されたものと。現在の地蔵堂は昭和47年に老朽化改築されたもの。過去には江戸時代初期再興、明治時代に焼損再建が行われたと。「東光山延命寺 寺子屋跡」の表示板。相模国分寺の隠居寺とつたえられていますが創建年代は不明。本尊は木造の地蔵菩薩坐像(じぞうぼさつざぞう)でそのために地蔵堂の名で通っている。像の台座裏には「中尊運慶之作」と墨書銘があるが、作風からみて室町後期の作と思われ、市内に残る中世の本格的な作例であると。同じく堂内の木造涅槃釈迦如来(ねはんしゃかにょらい)像は江戸時代の作で、寝釈迦様(ねじゃかさま)と呼ばれて親しまれていると。扁額「延命寺」。東光山延命寺の「本堂」の「内陣」。観音扉が閉まっており地蔵菩薩坐像(本尊)のお姿は見ることが出来なかった。「釈迦涅槃像(小園の寝釈迦様)」。江戸中期の作で、当時の僧が霊夢によって、東京・芝の増上寺より、奉遷(移された)されました。250年以上前とのこと。「本堂」の隣りにあった「いぼとり地蔵」。小さな祠の前に石があるが、その石で、いぼをこするといぼが取れるという伝えがある。いぼが取れると違う石を納め、お地蔵様にお礼参りをする。(戦前には、丸い石がたくさん置かれていたと)。「いぼとり地蔵」。そしてその隣に歴代住職の墓。「相模國分寺の末寺 東光山延命寺歴代住職之墓」碑。そして近くにあった「お銀さまの墓」を訪ねた。お墓の下にあった小さな公園には「お銀さまの墓」の説明板があった。「お銀さまの墓この上の墓地の中に、お銀さまの墓があります。お銀さまは本名を「まち」といい、江戸時代後期に早川村の佐藤家に生まれました。後に江戸の田原藩下屋敷に奉公に出て藩主三宅康友の寵を受け、友信を生みましたが母の急死で帰郷し、その後小園村の大川家に嫁ぎました。渡辺崋山が少年期に世話になった、この「あこがれのお銀さま」を天保2年(1831)に訪ねた様子は「游相日記」として今に残っています。」後に家老にまでなる、田原藩士であり画家でもあった渡辺崋山は、少年期に世話になったお銀さまにあこがれていたと。そして崋山はお銀さまを訪ね、涙涙の再会を果たしたのだと。反対側の目久尻川沿いに回って民家の脇を上り一段高くなった墓地に向かう。墓地には多くの墓石が。「お銀さまの墓石」には「皈元開外全修大姉」文久2年11月15日と読めたが・・・・。小さな墓石の裏には碑が。「お銀さまの墓」と書かれた碑。そして次に訪れたのが東名高速道路下にあった「東名公園」。入口には可愛い小鳥のモニュメントが。ネットで調べて見ると「柵を製造・販売しているサンポールに確認してみると、商品名は確かに「ピコリーノ(小鳥付きアーチ)」。そもそもこのピコリーノは、1981年にサンポールから車止め商品第1号として発売されたロングセラー商品。ピコリーノという名前の由来は「とても小さくてかわいらしいもの」という意味のイタリア語「piccolino(ピコリーノ)」。小鳥のモチーフはスズメだと言われますが、特に種類は決まっていません。」江ノ電の江ノ島駅にも同じものがあった事を想い出したのであった。東名公園の片隅に神社があった。綾瀬市早川2980-160。東名高速道路に向かって建つ神社。フェンスとの間に回り込んで。稲荷社手前の写真右側の木角柱に「奉 合祀 藤美神社稲荷社二社 蚕影社一社」平成四年二月十二日 初午 内藤組合の銘 があった。この近くにあり、東名高速道路建設時に移設し合祀されたものなのであろうか。横幅が広い?神社。そして次に「長泉寺 曹洞宗 崇福山 長泉寺」を訪ねた。綾瀬市早川3146。「長泉寺山号を宗福山といい曹洞宗(禅宗)の寺てす。本尊は釈迦如来で、寛永十一年(一六三四)亡の僧格雲守存により開山されました。かってここには、中世の在地領主渋谷氏の菩提寺と伝えられる祖師山菩提寺という寺がありました。渋谷庄司重国の孫、曽司五郎定心(入来院氏)とのゆかりも考えられる一帯と言えましよう。」「山門」。「崇福山」。「長泉寺」。山門を入った右側の石仏群。左側の石仏群。「半跏思惟像」に似て。こちらは「六地蔵」であろうか。<青面金剛庚申塔であろうか。境内への石段の参道を上る。階段上から「本堂」と「石灯籠」を見る。「本堂」。扁額「崇福山」。「本堂」の「内陣」。本尊は釈迦如来。この建物は?建物の「内陣」。「寺務所」。「客殿」であろうか。そして次に訪ねたのが「大六天神社」横浜市綾瀬市早川1875付近。正面鳥居と扁額「第六天神社」。社号標「第六天神社」。「社殿」。「社殿」の「内陣」。「第六天神社祭神は神道でいう天神六代目にあたる、面足尊(おもたるのみこと)、惶根命(かしこねのみこと)の夫婦神であろうと思われますが、創建年代はわかりません。かっては地域の人々に信仰が厚く、当社を中心としたここは桜の名所として、祭日には大変にぎわったところです。」「第六天神社」前の角の石碑。「不動講中供養塔」である。お不動さまだ。横には「相州高座郡土早川邑」とあり、左側面には「嘉永元戊申七月吉日建之」とも…1848年で江戸後期の造立による石塔である。神奈川県水道の消火栓マンホール蓋。イチョウ、ヤマユリ、ユリカモメのデザイン。そして山の中、竹藪の中にあった「稲荷社。」綾瀬市早川1802付近。昔からのムラの守り神なのであろう。そして「済運寺」へ。綾瀬市吉岡1783。「吉岡山済運寺」。臨済宗建長寺派寺院の済運寺は、栢庵宗意禅師大和尚(貞和5年1349年寂)が開山となり創建、渋谷庄司重国の子孫渋谷平次郎某が中興開基したと。吉岡・用田等は江戸時代に春日局の化粧料として充てられていたことから、春日局の御位牌、局が使用したと伝えられる茶臼・茶釜が残されていると。「本堂」。春日局の位牌及び茶臼・茶釜。三代将軍家光の乳母である春日局(かすがのつぼね)(お福)が、将軍家光から化粧料として吉岡・用田等8ヶ村に三千石の所領を与えられ、済運寺の南に春日屋敷を造ったときに、観音領として畑10石5斗と山林・竹林の地を寄進したと伝えられている。春日屋敷は局が大山参詣の際の宿泊所として利用していたと。相模川が雨で増水し、足止めとなったときは、春日局は済運寺に宿泊したといわれている。春日局は済運寺には7度ほど参拝に訪れている。済運寺には春日局の御位牌とともに、春日局が使用したと伝えられる茶臼・茶釜が寺宝として大切に保管されている。「寺務所」であろうか。境内の池には水はなく。「小便小僧」?大きな石灯籠。「本堂」の屋根には北条家を代表する紋・「三つ鱗」が。「済運寺済運寺は山号を吉岡山と称し、臨済宗建長寺の末寺です。本尊は木造釈迦如来坐像で、貞和五年(一三四九)卒の栢庵宗意禅師大和尚により開山され、中興開基は元和四年(一六一八)卒の渋谷平次郎某で渋谷庄司重国の子孫といわれています。三代将軍徳川家光の乳冊である春日局が化粧料として吉岡・用田等に三千石の所領を与えられこのあたりに屋敷を建て、大山参詣の宿泊所にしたといわれています。済運寺には春日局の御位牌とともに、局が使用したと伝えられる茶臼・茶が寺宝として大切に保管されています。」「延命地蔵尊」。防寒対策は十分、しかしマスクは?「六地蔵」。左から地蔵菩薩・・・地獄道から救済してくれる宝掌菩薩・・・飢鬼道から救済してくれる宝処菩薩・・・畜生道から救済してくれる本尊の「釈迦如来坐像」であろうか。お顔をズームで。左から宝印手菩薩・・・修羅道から救済してくれる持地菩薩・・・・人間道から救済してくれる堅固意菩薩・・・天上道から救済してくれる「本堂」を横から見る。墓地の入口にも「六地蔵」が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.07
コメント(0)
【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク私の住む藤沢市は、鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町、茅ヶ崎市の6市1町と市境を接している。コロナ禍で不要不急の外出の自粛要請の中で、自分の体力維持も同時に重要であるため3密(密集、密接、密閉)、そして飛沫感染によるリスクの少ない、屋外の散歩としてマスクの完全着用の下での隣接市の神社仏閣を訪ねることを始めているのである。先日は横浜市戸塚区、泉区にまたがる「鎌倉古道」を歩いたがこの日は、隣接する「綾瀬市」の神社仏閣を訪ねる目的で我が車で向かい無料駐車場に車を駐め散策のスタート。最初に訪ねたのは綾瀬市の最北に近い東名高速道路に近い「弁財天」。綾瀬市大上9丁目25。綾瀬市立北の台小学校の南側にあった小さな社の「弁天社」。鳥居の扁額は「弁才天」。「社殿」の扁額は「亀甲山白糸七面大天女」。「弁財天亀甲山白糸七面大天女といい、明治の末ころに造立されました。当時の綾瀬では養蚕が盛んであり、この下の低い場所に建てられた製糸工場に蛇が入り込み白くミイラ化したものを真綿でくるんで祀ったのが初まりといわれています。現在は、山野講中で大切にされています。」「お願い 賽銭を盗ないで下さい 弁天様管理者一同」と。何重にもチェーンが巻かれ南京錠が。その中に賽銭箱が納められていた。世知辛い世の中ですが、これも新型コロナの影響か。この写真を撮っている私の姿を、通りかかった自転車のオバチャンがじっと見ているのであったが・・・・。幸い尋問等はなかったのであった。東名高速に架かる橋を渡ると「蓼川神社(たでかわじんじゃ) 」が左手に。綾瀬市蓼川2-12-42。「社殿」。御祭神は大山祇命 ( おおやまつみのみこと )、菅原道真( すがわらみちざね )。「蓼川神社(たでかわじんじゃ)蓼川は上下に分かれていましたが、上分の鎮守は大山祇命を祭る山神社と素盞男命を祭るハ坂神社、下分は菅原道真を祭る天満宮てした。それが明治四十二年(一九〇九)に合祀されて蓼川神社となりました。境内には、享保二十一年(一七三六)造立の双体道祖神をはじめ数多くの石造物ガ安置されており、また庚申堂には正徳三年(一七一三)に造立された青面金剛像(庚申塔)が祭られています。」江戸後期天保十四年の「地神塔」が境内に。こちらは天保十五年の「地神塔」。そして道を戻り、次に訪ねたのが「安産子育出世地蔵」。「安産子育出世地蔵 願文山法正寺」の寺号標。扁額「願文山法正寺」。格子窓から内陣を。中央に「青面金剛像(合掌・六臂)・三猿」。寛政8年(1796)10月。多くの「庚申塔」を中心とする石碑が並んでいた。そして県道42号線・藤沢座間厚木線を南下し「風車公園」に立ち寄った。綾瀬市大上2丁目にある公園。複合遊具が揃う遊具広場、少年サッカーや少年野球などでも使うことができる多目的広場、テーブルベンチなど休養施設か設置されたふれあい広場の3つのエリアにわかれていた。「風車公園」案内板は・・・・・。遊具広場。遊具広場内で一番大きな遊具の頂上には風車がついており、ハンドルを回すことで子ども一人で自由に動かすことが可能とのこと。ツリー型のジャングルジム。ロープウェイ?。そして綾瀬市の雨水・汚水マンホール蓋。市の木「ヤマモミジ」を描いた雨水用マンホール蓋。下部に「あやせ」「あめ」の文字。こちらは、市の花「バラ」を描いた汚水用マンホール蓋。下部に「あやせ」「おすい」の文字。次に訪れたのが「子之神神社(ねのかみじんじゃ)」。綾瀬市寺尾中1ー3ー38。社号標「寺尾 子之社」。石段を上り参道を進む。「手水舎」。「本殿」と手前に「御神木」。「石灯籠と狛犬」(左)。「石灯籠と狛犬」(右)。「拝殿」。御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)[別名]大国主命(おおくにぬし)。綾瀬市早川にある五社神社の兼務社となると。慶長十年(1605)に勧請されたという棟札があり、現在の本殿は文久元年(1861)に建造され、さらに大正十五年(1926)に再建されたもの。向拝の見事な彫刻。木鼻の彫刻。扁額「子之社」。子とは北の方角をいい、子之神とは北方をつかさどる神のことを言うのだと。「拝殿と本殿」。「御大禮紀年改築碑」。「御大禮(ごたいれい)」とは、天皇の即位にともなう一連の儀式の総称。昭和天皇の御即位の時のものであろう。「神輿殿」。こちらにも御神木のクスノキ。「社務所」。歴史を感じさせる石碑。「子之神神社」を後にし、西に進むと「目久尻川」に架かる「伊勢下村橋」が。「伊勢下村橋」の欄干には河童が2体。「昔むかし、いつのころからか海老名市を流れる目久尻川(めくじりがわ)に河童(かっぱ)が住みつきました。目久尻川の河童はしだいに数を増やし、食料不足となってしまいました。そのため、河童たちは夜になると川の近くの農作物を盗むようになりました。始めのころは隠れて盗み食いをしていたものの、やがて手当たり次第に田畑を荒らすようになりました。しだいに河童による農作物の被害は拡大し、村人たちも頭を悩ますようになったところで、田畑を荒らしているのは河童の仕業だということがわかりました。怒った村人たちは手に手に鎌などを持ち、河童を退治するために目久尻川へと向かいました。村人たちは次々に河童たちをとらえ、最後まであばれていた河童の親分も取り押さえることに成功。処刑のさいには親分を川のほとりの砂の上に引き据えて、今までの恨みをこめて河童の目を刃物でくじり取り(えぐり)ました。この河童の目を「くじり取った」というところから、川へ目久尻川という名前がつけられたというのが、目久尻川の名前のひとつだといわれています。」とネットから。冬支度姿、マスクをかけた、河童とは判らない完全防備の姿で。こちらは男の子と。欄干には様々な姿の河童君の姿が。そしてこちらはカッパの「女の子」であると。町の方が四季折々、お色直しをされていると。橋の上流側の欄干の両端に。「目久尻川」とその先に「相鉄本線」の線路を見る。「目久尻川」を再び渡る。小園地区の目久尻川にかかる「小園橋」の脇にある「かっぱ伝説」。橋のたもとには3匹の河童たちの姿が。石の上で膝をかかえた河童と、その前で寝そべる河童。水面から半身をのぞかせている河童と、どの河童像も個性豊かなのであった。「小園橋昔は目久尻川改修前の位置に架けられ、国の費用で工事をしたので、国役橋と呼ばれていたようです。ここには浜田の駅(うまや)からひさご塚に出て、俗に四十坂と呼はれる急坂を下った古道が通っていました。」 ・・・つづく・・
2021.02.06
コメント(1)
全13件 (13件中 1-13件目)
1