Happy Valley Blog
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
2009
2008
2007
2006
2005
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
全1件 (1件中 1-1件目)
1
案内板によると平安末期に築かれ、江戸時代の一国一城で破城となった山城らしい。(鶴首城址の岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 戦国時代、三村家親が城主となり、備中全域に勢力を拡大してからは、家親は備中松山城に移り、かわって三村親成が城主となったらしい。 三村親成は、家親と並び、毛利からの信任が厚かったそうだ。家親が火縄銃で宇喜多直家の家臣遠藤秀清(後に浮田家久)に暗殺された際、親成は何事もなかったかのごとく兵を指揮し、宇喜多直家は暫く暗殺を信じなかったらしい。錬磨の武将であったようだ。 毛利が宇喜多直家と和睦したため、三村元親は宇喜多は宿敵として毛利から離反し、織田方についたが、三村親成は織田を信用できないとして毛利方にとどまり、備中兵乱を終えたらしい。 三村氏が滅んだが、三村親成は毛利から減封されるものの成羽城は安堵されたらしい。徳川の世になると城を追われ、福山で召し抱えられたらしい。 親の仇を貫くために毛利から離反した三村元親、信任の厚かった毛利に離反しなかった三村親成、いずれも戦国武将の生き様と思う。下克上の渦の中に信義の杭が二本のぞいているようだ。 鶴首城も備中松山城に劣らず立派な山城だったに違いない。 北側の成羽川対岸からの鶴首山。橋のたもとあたりが船着き場らしい。高瀬船の並ぶ姿を思った。太鼓丸。太鼓丸展望台の眼下には成羽小学校があり、その塀は廃城後にしつらえられた陣屋の壁で、細い武者走りが見える。二の丸もあり、大きな山城。谷が要害となり堅固な縄張り。尾根が続く南には深い堀切があった。曲輪がいくつも続いていた。破城により石垣はくずれ、苔むした石が散らばっていたが、主郭の一部残った石垣が確認できた。主郭から町と成羽川が見下ろせた。にほんブログ村
Feb 14, 2021
コメント(0)