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鴨都波神社(かもつばじんじゃ)奈良県御所市513鴨都波神社・公式HP。。■御祭神 積羽八重事代主命(つわやえのことしろぬしのみこと) 配祀 下照比売命(したてるひめのみこと) 建御名方命(たけみなかたのみこと)大国主命(大物主命)の御子神を祀ることから、大神神社の別宮とも言われる。古くは律令体制下において、名神大社という高い社格を誇った神社。下鴨社とも呼ばれ、鴨三社の一社であり葛木鴨族が祖神を祀った重要な神社。高鴨社(上鴨社)高鴨神社中鴨社 葛木御歳神社2018年以来、6年ぶりの参拝。前回の参拝では本殿修復工事中だったため、境内の撮影は断念した。。本 殿。。手水は人が近づくと水が出るようになっています。最近こういったセンサーが設置された手水舎が増えました。ただコロナ禍以降、柄杓が置かれていないのはちょっと寂しいですね。。。境内には紫陽花がたくさん咲いていました。この神社に参拝した日、村屋坐弥冨都比賣神社にも参拝。出雲系の神が祀られている神社が多いことに、あらためて気づかされます。「鴨三社」の高鴨神社も大国主命の御子神を祀る神社ですし。。祓戸社稲荷神社神農社天神社・猿田彦神社・火産霊神社。拝 殿。駐車場はありますが、少し注意が必要です。国道168号線を奈良市内方面から「済生会病院前」交差点を左折しますが交差点付近は下り坂でかなり狭い道です。特に帰りには停止位置に注意が必要なのでお気を付けください。。
2024.07.14
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伊香具神社(いかぐじんじゃ)滋賀県長浜市木之本町大音688■御祭神 伊香津臣命(いかつおみのみこと)御祭神は神社では天児屋根命第七代目の子孫と伝えられており、中臣氏(藤原氏)の祖とされている。記紀には登場しないが、「近江国風土記」にある余呉湖の羽衣伝説に登場する天女を妻とした伊香刀美と同一人物と言われます。式内社で、社格は「名神大社」御祭神の十六代目にあたる神職、伊香厚行という人は菅原道真公と親交があったとか。現在のご神職も「伊香氏(読み不明)」であり、その社格もさることながら「由緒ある神社」という感じ。。。境内入口にある鳥居は独特のもの。大神神社の三ツ鳥居と、厳島神社の両部鳥居を合わせたような形ですが稚児柱が通常の倍の八本ある「伊香式鳥居」と言う鳥居。。拝 殿。伊香式鳥居をくぐると見える、茅葺屋根の拝殿。しかしこの拝殿は、現在はもうありません。参拝日は2018年8月9日。この記事の写真はすべて、壊れたPCから数年ぶりに救出したもの。参拝日の約1か月後の2018年9月4日、非常に強い勢力の台風21号が神社を襲いました。あの台風の強風の凄まじさは、今でもよく覚えています。その台風により、樹齢三百年以上と言われる杉を含む大木など20本以上が倒れたそうです。その倒木が拝殿の屋根を倒壊させ、倉や神馬なども被害を受けたそうです。。神 馬。なのでこれらの写真は、被災前の最後の姿ということになります。拝殿は昨年に再建されましたが、銅板屋根となっています。。。本 殿。参拝時には気づかなかったのですが、ちょっと不思議なことがあります。「瑞垣門」と言っていいのでしょうか、本殿前の門の屋根にも千木と鰹木があります。この神社の御祭神は男神です。多くの場合、男神を祀る神社の千木は外削ぎで、鰹木は奇数。伊香具神社の本殿もそうなっているのですが、なぜか門の屋根は内削ぎの千木で鰹木は6本(偶数)です。。。招魂社三の宮神社。境内には他に、立派な招魂社がありました。日清戦争以降の、この地域の英霊が祀られています。三の宮神社の御祭神は本宮・御祭神の御子神(長男)の臣知人命(おみしるびとのみこと)で、縁結びの神として信仰されているそうです。ここには是非再訪し、千木と鰹木の謎をご神職にお尋ねしたいです。再建された拝殿や境内の様子も気になります。それとご神職の名字の「読み」も。おそらく、「いかぐ」さんだと思いますが。。
2024.02.11
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太宰府天満宮福岡県太宰府市宰府4■御祭神 菅原道真公。2023年10月、久しぶりに九州に行きました。太宰府天満宮は32年ぶり3度目の参拝。上の写真は「心字池」前に立つ石鳥居。南北朝時代の建立と伝えられ、九州最古の石鳥居と言われます。。。心字池にかかる 3つの赤い橋はひとつめが過去で ふたつめが今…ここに来ると、さだまさしの「飛梅」という曲を思い出します。みっつめの橋は、未来です。。。。手水舎の手水鉢は、宝来山の一枚岩で作られたもの。中央には神亀が彫られています。。。。本殿前に至る楼門は「二重門」とも呼ばれ、内側と外側の造りが異なる珍しいもの。そんなこと、言ってくれなきゃ気が付きません。。。。。社殿は改修工事中でした。完成は3年後だそうです。しかし、さすがは全国天満宮の総本宮の太宰府天満宮。仮殿もハンパじゃありません。。。。仮 殿。3年間限定の「仮殿」は、関西の有名建築家の設計によるもの。社殿内のモダンな造りもさることながら、屋根の上に緑を湛えるユニークなデザイン。仮殿とは言え、期間限定で見られる貴重な光景とも言えそうです。屋根の上の緑は、社殿完成後は「天神の森」に移植されるそうです。。。。。現在は仮殿の裏にひっそりと佇む、飛梅。「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて春な忘れそ」京の都で菅原道真公が愛でた梅の木が、一夜にして大宰府に飛んだと伝わる「飛梅」32年ぶりの参拝で、社殿が工事中だったのは残念ですが今でしか見られない仮殿への参拝も、ある意味で貴重な体験でした。社殿修復完了後、必ず再訪したいと思います。。
2024.01.23
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科長神社大阪府南河内郡太子町山田3778■御祭神 級長津彦命(しなつひこのみこと) 級長津姫命(しなつひめのみこと)太子町唯一の式内社。御祭神は風の神。元は二上山に鎮座していたと伝えられているようです。付近は古くから「磯長谷(しながだに)」と呼ばれています。蘇我氏の本拠、石川に近く「磯長谷」は王陵の谷とも称され蘇我氏と関係が深い天皇などの古墳が集まっています。「しなが」に「磯」という字が使われているのは謎。。。「金平大明神」と書かれた境内社。ここに海上交通の神が祀られていることも謎。磯長谷の「磯」に関係があるのだろうか。この地は蘇我氏だけでなく、海人族も移住していたのかも知れません。。。境内は広くはありません。ただしそこそこの本殿があるようですが、見落としました。なぜここに風の神?境内ではただただ、そんなことを考えてしまっていました。近くに小野妹子墓がありますが、やっぱりそれも謎。。。「本殿を見落とす」という、神社ブロガーにあるまじき失態を誤魔化すように小野妹子墓のご紹介を付け足します。この地に小野妹子墓がある理由は不明です。。。この小野妹子墓は池坊によって管理されているそうです。小野妹子が朝夕仏前にお花を供えたことから華道池坊がはじまったからだとか。しかし華道家元 池坊の管理としては、微妙なお姿と言えなくもないかも。塚らしきものは崩れ、お供え物も見られません。しかし小野妹子の命日である毎年6月には、池坊関係者と科長神社の宮司により「小野妹子墓前祭」が執り行われているそうです。。。上の画像は、小野妹子墓前から富田林市方面を見下ろす眺望です。この地に小野妹子墓があることも謎なのですが、この場所はいかがなものかと。王陵の谷を見下ろす位置にあるというのはどうかと思います。付近にあるのは推古天皇陵、用明天皇陵、聖徳太子墓など。妹子は当時の官位としては最高位を得ていました。しかし天皇陵を見下ろす位置は小野妹子の墓としては少々、畏れ多い場所のような気がします。小野妹子は近江の出身と言われています。大津市北部、琵琶湖西岸に小野氏の本拠があったとされ、小野という地名も残っています。周辺には小野神社やその境内にある小野篁(おののたかむら)神社、境外摂社の小野道風神社など小野氏ゆかりの神社が点在しています。この地にある丘陵には、小野妹子神社と小野妹子墓との伝承がある7世紀前半の築造とされる唐臼山古墳があります。大津市 小野神社・小野篁神社・小野道風神社。
2023.10.02
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茨木神社大阪府茨木市元町4番3号茨木神社・公式ホームページ■御祭神 建速素盞嗚尊 誉田別命 天児屋根命この神社との出会いは、ネットで知り合った神社仲間の紹介がきっかけでした。「茨木市に、参道の長い神社がある」神社巡りを始めたばかりの頃、そう聞いて参拝に出かけたのです。以来、仕事で茨木市に行く度に必ず立ち寄った、北摂で最も好きな神社です。しかし今回は12年ぶりの参拝。拝殿が建替えられたと聞いて、久しぶりに参拝しようと思ったのです。。。。。。。上の写真は旧拝殿です。この茨木神社は、実は奥宮である天石門別神社を護った神々を祀っています。戦国の世、織田信長は天下統一の道具としてキリスト教を利用し、各地の神社・仏閣を焼き払いました。高槻城主・高山右近もそれに倣い、北摂地域の神社などを焼き払っていたとか。しかし信長は「天照大御神、春日大神、八幡大神及び牛頭天王(素盞嗚大神)の諸社は焼くべからず」そうお達しを出していたため、天石門別神社は「牛頭天王を祀る神社」と詐称し焼き討ちを免れたのだそうです。どういうことかは、茨木神社公式HPの「御由緒」をご覧ください。。。。。東 門。。。茨木神社・東門は茨木城の搦手門(からめてもん)を移築したものと言われています。城主はいろいろ代わっているそうですが、建てたのは楠木正成だそうです。城郭の跡などは残っておらず、この門が唯一の城跡の証のようです。。。。。本 殿。。令和4年、拝殿と幣殿の造替が行われ同時に本殿の修復と屋根の葺き替えも行われたそうです。この本殿のすぐ裏に、奥宮があります。。。。。奥宮・天石門別神社(あめのいわとわけじんじゃ)。。■御祭神 天手力男命(あめのたぢからおのみこと)天手力男命は天照大神がお隠れになった天の岩屋の扉をこじ開けた神です。しかし神社名となっているのは天石門別。天石門別神というのは天手力男命とは別の神さまなので、ちょっと混乱しそうになります。天石門別神は天の岩戸を神格化したものと言われており、この神社の名称になったということなのではないでしょうか。この奥宮・天石門別神社は、本宮を差し置いて(?)式内社です。。。。。。。なんとも美しい社殿です。神明造ですが、伊勢神宮とは違って妻入りの社殿。あまりにもこの神社が好きすぎて、同じようなアングルで何枚も写真を撮ってしまいました。久しぶりに訪れた大好きな神社なのに、この位置と正面しか見ていません。そう言えば、今までも裏手や他の位置からこの神社を眺めた記憶がありません。あまりの美しさに、いつも舞い上がってしまうからかも知れません。男神を祀っているので千木は外削ぎですが、鰹木は不思議なことに2本(偶数)。。。。。天石門別神社・正面(2007年)。。2007年に撮った写真を見て気が付いたのですが、この社殿は「本殿」ではなく覆い屋的なものかも知れません。社殿の中に祠のようなものが見えるからです。タイトルに「北摂で最も好きな神社」と書きましたが、本宮ではなく、大好きなのはこの奥宮のことです。。。。末社・皇大神宮御祭神 天照大御神手水舎:末社・手前から順に多賀神社、御祭神 伊射那岐命主原神社 、御祭神 天児屋根命・応神天皇天満宮、御祭神 菅原道真公事平神社 御祭神 大物主神・崇徳天皇・金山彦命。。。。末社・厳島神社御祭神 市杵島姫命。。皇太神社御祭神 天照大御神。。。他に事代主命・大国主命を祀る恵美須神社や愛宕神社 稲荷神社などがあります。奥宮の前で舞い上がってしまったせいか、ちゃんと全ての境内社の写真を撮りそこなってしまったようです。【参考】龍水御朱印帳・掲載寺社索引。
2023.06.03
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天神社 茨木市野々宮2-1-8。■御祭神 菅原道真公鳥居の扁額は「天満宮」となっています。神社庁には属さない神社ですが、地元の方々の信仰は篤いようです。。社号標は「乙神社」と読めそうですが、この「乙」っぽい文字は実は「天」を最も崩した文字なのだそうです。。拝 殿。およそ15年ぶりの参拝。一見なんの変哲もない小さな天満宮ですが、個人的に思い出深い神社。私は天満宮との相性がいいと思っていた時期がありました。娘や親戚の子、友人の御子息たちの受験のとき私が北野天満宮などに「代理参拝」をして、全て第一志望校に合格したのです。唯一、失敗したのは私自身の受験でした。。。私の「失敗」はずいぶん前のことではありますが。。。拝殿と本殿・覆い屋。。「小さな天満宮」と書きましたが、ご覧のようにそこそこの大きさ。本殿の大きさはわかりませんが、覆い屋は意外なほど大きく感じました。灯篭などは江戸時代のもののようでしたが、境内の木々を見ると古くから信仰の場だったことが感じられます。。。。鎮座地の「野々宮」という地名ですが、この神社ゆかりの地名かも知れません。他に周辺に神社が見当たらないからです。現在は「天神社」で、菅原道真公を祀る神社ですが、「野々宮」と言えば他に意味がありそうです。調べてみるとここは「難波三所野々宮」のようなのですが、その「難波三所野々宮」が何なのかよくわかりませんでした。やはり伊勢神宮の斎宮に関係があるようです。この地が斎宮が伊勢に行く前の禊場なのか、帰京の際の祓除の場なのかそれもよくわかりませんでした。意外な場所で伊勢神宮とのご縁を感じました。。。。。境内のクスノキなどは、茨木市の保存樹林に指定されています。また境内入口付近には、珍しい「乳」のあるイチョウもあります。15年前にはこれらは目に入っていませんでしたが。参拝時には「もう来ることもないかも」と思いましたが、「難波三所野々宮」については、もう少し調べてみようと思います。。
2023.06.01
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松下社(まつしたやしろ)三重県伊勢市二見町松下■御祭神 素盞鳴尊 菅原道真 不詳一座素盞鳴尊 菅原道真 という男神を祀っていますが、千木は内削ぎで鰹木は偶数。この地の伝承から、皇大神宮摂社の神前神社の旧地とする説があるそうです。千木と鰹木は内宮の摂社の名残でしょうか。この神社も伊勢神宮と同じく、20年毎に社殿の造替が行われます。。。。境内入口にも境内にも、狛犬がありません。これも伊勢神宮と同じです。境内のお隣に「民話の駅 蘇民」という、道の駅のような施設があります。そのため十分な駐車スペースがあり、参拝に便利。この「民話」とは、「牛頭天王(素戔嗚尊)と蘇民将来」の話。。。。。。伊勢市では1年中しめ縄を飾る風習がありますが、それは「蘇民将来」にちなんだものです。しめ縄には「蘇民将来子孫家門」と書かれてあり、裏には安倍晴明ゆかりの「セーマン・ドーマンの印」も描かれているそうです。蘇民将来のしめ縄は伊勢市内の神具屋さんにもあるそうですが、この松下社が本家本元と言えそうです。【参考】蘇民将来伝説(二見町)蘇民将来のしめ縄について。蘇民祠(通称・蘇民社)。境内に入ってすぐ左手にある、蘇民祠。社地はけっこう広いのですが、鎮座しているのは小さな祠。祀られているのは、蘇民将来です。。。。。蘇民祠。祠の下にある木の束は「榊巻(さかきまき)」と呼ばれるもの。本殿の床下など境内に全部で14カ所ある、榊の枝を束ねて重ねたもの。榊は毎年巻き重ねられていき、20年毎の社殿の建替え時に榊巻も新しくするそうです。榊巻神事は毎年12月31日に行われる、この松下社独特の神事。。拝 殿。前述のように境内には狛犬がなく、拝殿前の「狛犬の定位置」に榊巻が置かれていました。場所は夫婦岩で有名な二見興玉神社から約1km。境内には三重県指定の天然記念物、樹齢2千年とも言われる大クスがあります。。。
2023.05.26
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溝咋神社(みぞくいじんじゃ)大阪府茨木市五十鈴町。■御祭神 玉櫛媛命 (たまくしひめのみこと) 媛蹈鞴五十鈴媛命 (ひめたたらいすずひめのみこと) 相殿神 溝咋耳命 (みぞくいみみのみこと) 天日方奇日方命 (あめのひかたくしひかたのみこと) 他玉櫛媛命 は媛蹈鞴五十鈴媛命 の母、溝咋耳命は祖父、天日方奇日方命は兄。この一帯が本拠地だったとされる三嶋溝咋一族を祀る珍しい神社。鎮座地の「五十鈴町」という町名は、この神社の御祭神媛蹈鞴五十鈴媛命に由来すると思われます。。神 門媛蹈鞴五十鈴媛命は神武天皇の后となった「神の子」(古事記)丹塗りの矢に化けて、玉櫛媛命と結ばれた三輪山の大物主神が父親。一方、日本書紀(神代 上)では鰐に化けて玉櫛媛命のもとに通った事代主命が父親だと記されています。。初参拝は2005年か2006年。2011年までの間に3回ほど参拝し、今回は12年ぶりの参拝。以前は少し荒れた感じの境内が気になりました。宮司死去後、神事の継続が危ぶまれる時期もあったそうです。詳しい事情はわかりませんが、SNSなどで神社存続の危機を訴える投稿を何度か見たことがあります。。。。上の写真は2011年に撮ったもの。摂・末社の覆い屋がつっかい棒で補強されていました。さらに平成30年の大阪北部地震や、大型台風の被害を受け摂・末社の周辺は立入禁止にされるほど倒壊寸前になってしまったようです。。拝 殿神社の危機を訴えていたアカウントのフォローを辞めたのでその後の経緯はわかりませんが、現在は摂・末社の覆い屋は建替えられ氏子さんたちの努力によって、神事も維持されているそうです。。写真は覆い屋が建替えられた事代主神社(手前)と手力雄神社(奥)。少々近代的な感じがしますが、何年かたてばきっと境内の風景にとけ込むでしょう。。本 殿現在の社殿は1742年(寛保2年)、地元出身の両替商米屋喜兵衛の寄進によるものだとか。明治の終わり頃までは、上宮と下宮に分かれており現在の社は式内社の下宮で、上宮は合祀されたそうです。。溝咋神社・上宮跡 石碑溝咋神社の北北東、約300m。茨木市学園町のマンション街の一画に、上宮跡の石碑があります。上宮には媛蹈鞴五十鈴媛命・溝咋耳命・天日方奇日方命が祀られており下宮には玉櫛媛命が祀られていたと言われています。。境内にはちょっと目を引く木々がありました。他の木の根を鷲掴みにしているような木。末社に祀られている手力雄命が、岩屋戸から天照大神の手を引く場面を想像…。うーーん。なんか、ちょっと惜しい。「巾着の木」と呼ばれるタブノキも、なんか「惜しい」感じ。でも、想像力豊かな人がそれなりの演出をすればちょっとしたパワースポットに出来るかも知れません。巾着の木の向こうの家々は、2011年には見られなかったもの。故宮司宅は撤去されたそうですが、跡地、あるいは社地の一部などが宅地として売却されたのかも知れません。今後、境内が整備されていくことを期待します。。
2023.05.18
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裳掛天満宮(もかけてんまんぐう)岡山市東区金岡東町2-11-22■御祭神 菅原道真公境内のご由緒書きより昌泰4年(901年)1月菅原道真公九州大宰府に左遷の途次 犬島付近にて暴風雨に遇いこの地の観音堂に難を避けるその後 観音堂は寶琳寺となり菅原道真公神社を鎮守として祀りあり後岡山藩主池田光政の代寛文年間 藩命により分離独立せしむ菅原道真公避難の際衣装を境内の松に掛け乾かしたるに因り裳掛天満宮と称す.本 殿。宮司が常駐していないどころか、社務所さえない境内。少なくとも50年前からこういう状態でした。私は子供の頃、この近くに住んでいました。氏神さまではなかったようですが、自宅から最も近い神社でした。小学校の同級生たちと、この境内で缶蹴りやボール遊びをしました。みんな「天神さん」と呼んでいました。社殿は当時のままなのだろうと思います。しかし境内の雰囲気は、あの頃とは全く違います。..現在の境内にある2本の木。ちゃんと確認はしていないのですが、おそらく手前は松でもう1本は楠と思われます。松は「御由緒」にちなんだものかも知れません。。。こちらは2006年に撮った写真。幹の太さから同じ木とは思えませんが、この木は楠のようです。間違っていたらすみません。私はずっと、この木は欅(ケヤキ)だと思っていました。この木はかつてここにあった大木の子孫だと聞いていたからです。この神社と隣の寶琳寺山門の間には、かつて大木がそびえ立っていました。天神さんお境内は常にその大木の「木陰」で夏には数えきれないセミの声が、早朝から数百メートルさきにまで響き渡っていました。最近になって知ったことですが、郷土史の資料によれば、かつてここにあった大木は榎(エノキ)で樹齢は400年、高さはおよそ20メートル。昭和の末期に枯れたと記されていました。父からはあの大木は雷の被害を受けた後枯れたと聞いていました。高さ20メートルがどのくらいの大木なのか想像できますでしょうか。だいたい7階建てのビルの高さに相当するようです。私が子供のころ(今でも周辺はあまり変わっていませんが)、2階建てより高い建物はありませんでしたので、その大木の存在は御神木と言うよりは、その地の主のような存在でした。。。境内社は見たことのない造り。人の手入れがないことを想定して、耐久性を考えたものでしょうか。一部にコンクリートが使用されているようでした。。。あの大木がないせいでしょうか。境内を見ても、境内に立っても全く懐かしさが感じられませんでした。。「龍水御朱印帳・裏ばなし」かつてあった大木が欅だったと思ったワケ(Comming Soon).
2021.04.08
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大将軍八神社京都市上京区一条通御前西入西町大将軍八神社公式HP■御祭神 素盞鳴尊桓武天皇は「王城鎮護」のため、四方に大将軍神社を建てたと言われています。東 岡崎 (現在の平安神宮の北あたりか)西 紙屋川南 不明北 紫野大徳寺門前 諸説あるようですが、現在は移設されるなどしたのでしょうかそれぞれ下記の神社がそれらに充てられているようです。東 東三条大将軍神社 東山区西 大将軍八神社 上京区南 藤森神社境内摂社 大将軍社 伏見区北 今宮神社境内摂社 紫野大将軍社など 北区大将軍と言うと、武将を御祭神とする神社みたいですが「大将軍」とは、陰陽道における方位を司る八将神のひとつ。元々の御祭神は「大将軍」だったそうです。現在の御祭神が素盞鳴尊なのは、御神格が似ていることやここが長く祇園社(現在の八坂神社)の管理下にあったことに由来するようです。拝殿前に見えるのは方位盤でしょうか。星型の石盤も北斗妙見信仰のあらわれと思われます。現在でも方除厄除の神として信仰されているようです。ご神職にそのあたりのことを尋ねたかったのですが、コロナ禍のため自粛しました。しかしこの神社の御祭神の神格は、いただいた御朱印を見ればわかりやすいですね。参拝日はコロナ禍が世界中で問題となる直前の2020年2月2日と最初の緊急事態宣言が解除された直後の2020年5月24日。(神社境内の撮影は5月24日)ところで、当ブログを始めて15年目になります。この「龍水御朱印帳」にとって大将軍八神社は曰く因縁のある存在であったことを思い出しました。(そのわりに、境内の写真がたったの2枚とは…)➡ 「龍水御朱印帳・裏ばなし」 最初の取材神社での大試練に撃沈.
2021.02.28
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新井崎神社(にいざきじんじゃ)京都府与謝郡伊根町新井■御祭神 徐福ナビでは検索出来なかった小さな神社。しかしGoogleで検索してみると、思いの外情報が多くて驚きました。Wikipediaをはじめ、じゃらんネットなどの観光案内サイトが見つかります。御祭神の徐福は秦の始皇帝に不老不死の薬を探すよう命じられ日本に渡って来たと伝わる人物。その伝承は全国にあるそうですが、徐福を主祭神に祀る神社はあまり多くはありません。私がよく使っているアプリでは、この神社を含め3社だけでした。また「徐福=素戔嗚尊」とする伝承もあるようです。本殿は東向き。海に向かって建てられています。神社にあった案内板によれば、創建時は別の場所にあったそうです。しかし前を通る船に異変が続いたため、神意に逆らうとして現在の地に東向きに建てられたとのこと。神社の正面は上の写真のような光景が広がっています。右上にうっすらと見えるのは若狭湾に浮かぶ冠島。徐福の思想を表した島とも言われ、別名を常世島、竜宮島とも言うそうです。冠島は丹後国一之宮・籠神社の御祭神が降臨した地とも伝えられています。境内社この地に残る「徐福伝説」によれば徐福はこの地で「九節の菖蒲と黒茎の蓬」を探し当てたが秦には戻ることがかなわず、この地で亡くなったとのこと。神社下の海岸付近は、徐福が上陸した場所と伝えられその象徴が「ハコ岩」と呼ばれる岩。この付近の黒い岩は火山岩なのだそうだ。※参拝日 2020/8/2龍水御朱印帳・掲載寺社記事索引.
2021.02.21
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浦嶋神社(宇良神社)京都府与謝郡伊根町本庄浜191浦嶋神社公式HP■御祭神 浦嶋子 配祀 月讀命 祓戸大神浦島伝説ゆかりの神社。浦島伝説はいろいろな地域に残っているそうですが、それらの中でも最古とされる、 丹後国風土記に記されたのがこの地域のもの。社伝によると、淳和天皇の天長二年の創建で浦嶋子を筒川大明神として祀ったのが創始とのこと。日本書紀・雄略天皇22年、浦島子が亀の化身である女を妻として海に入り、蓬莱山に行ったという記述があります。そして伝説によればその浦島子が戻って来たのが淳和天皇の時代ということのようです。拝 殿私たちになじみのある「浦島伝説」といえば助けた亀に乗って竜宮城に行く浦島太郎のおとぎ話。この地の伝説では亀に乗ったのは浦嶋太郎の息子である浦嶋子で、亀に連れられて行ったのは蓬莱山とされています。そしてその太祖は月讀命とのこと。この日は回れなかったのですが(参拝は2020/8/2)、周辺には月讀命を祀る神社がいくつかあるそうです。 本殿は茅葺屋根の神明造。拝殿・中殿・本殿は国指定の登録有形文化財。本殿の足元に見える小さな屋根の下にはあるサイトの記事によれば井戸のようなものがあるらしいのですが私は気づかず確認できておりません。写真は境内にある「蓬山(とこよ)の庭」この庭は浦嶋子が行ったとされる蓬莱山を再現したものらしい。丹後国風土記などの文献と浦嶋明神絵巻(重文)に基づいて作られたそうです。神社前には「水の江里浦嶋公園」があります。浦島伝説をモチーフにしたモニュメントや浦嶋館がありました。なんだかこの地に似合わないイタリアンレストランの看板も・・・。周辺には広い駐車場もあり、場内にはバス専用のスペースもありました。時間がまだ午前9時前ということもあってかそれともコロナ禍の影響か、ひっそりとした感じ。普段はもっとにぎやかなのかも知れません。浦嶋神社がある伊根町と言えば、舟屋が有名です。道の駅・舟屋の里伊根からは伊根湾を見下ろし舟屋の町並みを眺めることが出来ます。◆龍水御朱印帳・掲載寺社検索◆龍水御朱印帳・伊勢神宮125社巡り.
2021.02.14
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本宮・多度神社(たどじんじゃ)三重県桑名市多度町多度1681多度大社公式HP■御祭神 本宮・多度神社 天津彦根命(あまつひこねのみこと) 相 殿 面足命(おもだるのみこと) 惶根命(かしこねのみこと)御祭神・天津彦根命は天の安河原での天照大神と須佐之男命との誓約で天照大神の持ち物から生まれた天照大神の御子神。別宮・一目連神社(いちもくれんじんじゃ)■御祭神 天目一箇命(あめのまひとつのみこと)御祭神・天目一箇命は本宮の御祭神の御子神。天目一箇命が神威を発揮出来るように、別宮の社殿には扉がない。本宮である多度神社、別宮、摂社・末社を合わせて「多度大社」と呼ぶのだそうだ。本宮の御祭神が天照大神の御子神であることや、伊勢神宮に参詣するための街道沿いにあることから伊勢との関係が深いと考えられていた。「お伊勢参らばお多度もかけよ お多度かけねば片参り」とも謳われ、北伊勢大神宮とも呼ばれたそうだ。静謐な境内に、清流のせせらぎ音が心地いい。参拝日は2020年11月28日。次は是非、新緑か緑の元気な季節に訪れたい。境内入口、この石段の手前に御神木があり、横には「上げ馬神事」が行われる上げ坂がある。ちなみにこの鳥居は第三鳥居なのだそうだ。上げ坂は実際に近くで見るとかなりキツイ。ここを駆け上がる馬が気の毒な気もしたが、御神事当日は成功しやすいように手が加えられるそうだ。末社・皇子社皇子社の御祭神は本宮に祀られている天津彦根命と市杵島姫命以外の天の安河原の誓約で生まれた神々六柱。 近隣の英霊を祭る招魂社摂社・美御前社(うつくしごぜんしゃ)御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。社殿の前に穴のあいた石が奉納されていた。この神社は「子授け・安産」の神として信仰されているようだ。この石は女性器を表しているのかも知れない。於葺門(おぶきもん)この門の先にある橋を渡ると、本宮・別宮の神域。その手前に天照大御神を祀る神明社がある。神明社ちなみに第三鳥居をくぐった左手に神馬舎があり、中に白馬がいた。多度山の神々の使いだと言われているのだとか。餌のニンジンは一篭100円。 かなり「ウルウル」した目でニンジンを乞われたものの財布を持参していなかったのであげられなかった。財布を持っていた妻は、私とも馬とも目を合わせなかった。 龍水御朱印帳・裏ばなし 「お伊勢まいらば・・・」.
2021.02.08
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伊射奈岐神社大阪府吹田市佐井寺■御祭神 伊射奈岐大神この吹田市の伊射奈岐神社は、既にここで記事にしたことがあります。しかし使うカメラが違うとういうだけでなく、以前とは少し事情が異なります。1年半ほど前、私はこの神社の近所に引越してきたからです。神社巡りを始めたばかりの頃、私は瓦葺はもちろんのこと銅板屋根の社殿もあまり好きではありませんでした。ましてやこの伊射奈岐神社のように鉄筋コンクリート製の社殿にはほとんど魅力を感じていませんでした。以前の私は、神様と向き合いご挨拶をさせていただくという参拝ではなく観光的な訪問で神社をブログネタの撮影対象と見てしまっていたのかも知れません。でもこの伊射奈岐神社の社殿は不思議と「美しい」と思いました。伊射奈岐神社大阪府吹田市山田東■御祭神 伊射奈美之命佐井寺にある伊射奈岐神社の北東約1.5kmの丘の上にも伊射奈美之命を祀る伊射奈岐神社があります。伊射奈美之命を祀る神社なのに伊射奈岐神社というのは、佐井寺の伊射奈岐神社と対の神社なのだからでしょう。鎮座地の「山田」という地名ですが、伊勢神宮・外宮の鎮座地に由来するという興味深い社伝がご由緒書きにありました。長い参道の途中には珍しい狛犬があります。狛犬というよりは狛恐竜みたいな感じです。これが伊射奈美之命のご眷属というわけではないのでしょうが、なんとなく伊射奈美之命が行ってしまわれた黄泉の国の生き物のようでもあります。私の勝手な想像なので悪しからず。この神社に参拝するのは数年ぶりなのですが、ちょっと残念なことがありました。平成30年6月の地震の被害で損傷を受け、鳥居がこんなことになっていました。ところで伊射奈岐命を祀る神社と言えば近江の多賀大社と淡路島の伊弉諾神宮。これら二社と吹田の伊射奈岐神社の鎮座地は、興味深い位置関係にあります。ただの偶然かも知れませんが、近江の多賀大社と淡路島の伊弉諾神宮もおもしろい位置に鎮座しています。興味のある方は、「裏ばなし」の方の記事をご覧ください。➡「龍水御朱印帳・裏ばなし」『琵琶湖と淡路島』※「龍水御朱印帳」掲載寺社検索ページ◆2021/7 追記令和元年12月。鳥居は再建されました。.参拝した日はコロナ禍での緊急事態宣言発令中。拝殿前の狛犬もマスクをしていました。.
2019.06.02
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素盞烏尊神社(片山神社)吹田市出口町3-3片山神社公式HP■御祭神 素盞烏尊 (スサノオノミコト) 相殿 天照皇大御神 (アマテラススメオオミカミ) 住吉大神 (スミヨシノオオミカミ)正式名称は素盞烏尊神社なのですが、その神社名を言っても誰も知らないくらい片山神社という通称名が近隣では浸透しています。お札や御朱印にも「片山神社」と記されています。鎮座地は片山丘陵。周辺には公園、図書館など吹田市の施設が建ち並んでいます。境内は歴史を感じさせるものはありませんが、上品な北摂の神社という感じ。現在の鎮座地の地名は「出口町」ですが、元々は片山村と言いこの神社以北は「片山町」という地名です。ゆるやかな上り坂の参道は紅い灯篭が立ち並び、清々しい気に包まれています。ここは神社の参道にしては珍しく、桜並木の参道です。実はこの地域に昨年まで17年間住んでいました。通勤や買い物の通り道ではなかったため、毎日のように参拝というわけにはいかなかったのですが最も身近にあった神社のひとつでした。「産業道路」を挟んだ向かいにはアサヒビール吹田工場があります。ここにビール工場が出来たいきさつを鑑みれば工場の隣にある泉殿宮という神社もご縁がありそうなのです。しかし片山神社の方がこのビール工場から崇敬されている感じがします。そのあたりの事情はわかりませんが、アサヒビールは信心深い会社だと思います。会社 業績 大躍進の秘訣?.
2018.06.26
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柿本神社(かきのもとじんじゃ)葛城市柿本162■御祭神 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)葛城市にある柿本神社。「歌聖」とも呼び讃えられる柿本人麻呂を祀る神社です。柿本人麻呂と言えば万葉集ですが古事記や日本書紀だけでなく、万葉集も貴重な歴史資料だと思っています。もちろん万葉集は歌集なのですが、記紀と違って権力者の影響が少ない分、歴史の真実が隠されている可能性があります。その一例が大伯皇女(おおくのひめみこ)の歌。・うつそみの人なる吾や明日よりは 二上山を弟背(いろせ)と吾が見む日本書紀には大津皇子が「訳語田の舎で死を賜わった」としか記されていません。しかし「大津皇子墓」が二上山にあるのは、この大伯皇女の歌が根拠となっています。ただし真の大津皇子墓は現在宮内庁が管理しているものではなく麓近くにある「鳥谷口古墳」の可能性が高いのですが・・・。古文や短歌など解さぬ私です。それでも幾度か目にしているうちにわからないなりにも歌のすばらしさが垣間見えます。その中で特に好きな歌人が額田王と柿本人麻呂。詩歌を楽しむ風流はなくとも、美しい文章には憧れるのであります。雪の吉野・宮滝・見れど飽かぬ吉野の川の常滑の 絶ゆることなくまたかへり見む 柿本人麻呂宇陀・万葉公園かぎろひの丘より望む山々・東の野にかぎろひの立つ見えて かへりみすれば月かたぶきぬ 柿本人麻呂柿本人麻呂が亡くなったと言われる石見や、一時住んでいた明石にも柿本人麻呂を祀る神社があります。葛城市にある柿本神社がその本宮というわけではないのですがやはり柿本人麻呂には大和が似合うような気がするのです。しかし「歌聖」とも呼び讃えられるあの柿本人麻呂を祀る神社としては、ひっそりと地味な感じがしました。ところで最近、古事記を書いたのは柿本人麻呂だと説く本を読みました。決して「トンデモ本」ではありません。既成概念に疑問を持っている古代史に興味ある方は読んでみてください。大元出版「古事記の編集室」.
2018.06.19
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吉備大臣宮(きびだいじんぐう) 岡山県小田郡矢掛町東三成3864-1 ■御祭神 吉備大臣の神(吉備真備公) 吉備真備公園の隣に鎮座。 ご由緒、創建年代は不明。 それほど古い神社ではなさそうです。 のどかで静かな地域にあるのですが、以外にも訪問者が多くて驚きました。 あとで判明したのですが、その訪問者の大半は 吉備真備を偲んでやって来た人たちではありませんでした。 吉備真備(きびのまきび)は奈良時代の学者、政治家。 「ミスター遣唐使」とも呼ばれ、 二度の渡航で合計19年間も唐で学んだとされています。 吉備真備像(吉備真備公園) 地方の一豪族の出身で学者として名を馳せ、 その後は政治家として右大臣まで上り詰めた人物。 その才を認められて学者から右大臣まで出世したのは、 吉備真備と菅原道真だけなのだそうです。 ここは吉備真備ゆかりの地とのことですが、 生誕地は現在の倉敷市なのだそうです。 生誕地付近は吉備真備由来の町名で真備町(まびちょう)。 遣唐使であり、学者でもあったため 受験シーズンには受験生の参拝で賑わうそうです。 古代日本の文化や政治への貢献度から言えば、 吉備真備は菅原道真に勝るとも劣らない存在だと思います。 しかし残念ながら「知名度」の面では菅原道真に劣ります。 それは菅原道真が「怨霊」として怖れられ、鎮魂のために天満宮に祀られ やがて「天神信仰」の隆興で全国に天満宮・天神宮が広まったからでしょう。 ネットで検索してみた限りでは、 吉備真備を主祭神とする神社は当社以外には見当たりませんでした。 ただ、以前から気になっていたのですが 京都の上御霊神社の祭神の一柱として吉備真備が祀られています。 「平安京の神社に、なぜ奈良時代の吉備真備が?」 とも思いますが、御祭神の顔ぶれからすれば不思議なことではありません。 上御霊神社には早良親王(崇道天皇)、井上大皇后 、他戸親王など 奈良時代末期の人物も祀られているのです。 私の勝手な想像ですが、 吉備真備はそれらの神の「監視役」として配されたのかも知れません。 と言うのも、吉備真備は「陰陽道の祖」とも言われているからです。 吉備真備公園には、遣唐使にちなんでか 唐風の建物が並んでいました。 参拝はちょうどお昼時にかかっていました。 吉備大神宮に参拝する人もなく、 吉備真備公園の吉備真備像前にも人影は見当たらないのに なぜか続々と駐車場に車が入って来ました。 最初は公園内にコミュセンでもあって、地域の寄り合いでもあるのかと思いました。 しかしやって来た人たちは皆、 この「館址亭」と呼ばれる建物に入って行きました。 怪訝に思いながらも一旦は駐車場に戻り、車のエンジンをかけました。 しかし思いとどまって、私もその館址亭に入ってみることに・・・。 ★吉備大神宮 駐車場 有 トイレ 有 御朱印 可(要 問い合わせ) 吉備大神宮Facebookページ 「館址亭」それは吉備真備公園のディープな○○だった! 「龍水御朱印帳・裏ばなし」 「何もかもが不思議な空間・館址亭」 .
2018.06.04
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木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)京都市右京区太秦森ケ東町50■御祭神 天之御中主 大国魂神 穂々出見命 鵜茅葺不合命天照御魂神社シリーズ第5段。当社には上記の御祭神との説明書きがありますが、「木嶋坐天照御魂神社」と称するからには「木嶋に鎮座する天照御魂神の社」という意味で、 他の「天照御魂神社」と同じように本来は「天照御魂神」を祀る神社そう考える方がしっくりきます。この神社の鎮座地は秦氏の勢力範囲として知られていますが、秦氏が山城の地を開拓する以前には尾張氏が居住していたという説もあります。だとすれば、秦氏色が濃くなるにつれて御祭神が替えられたのかも知れません。とは言え、上記御祭神も秦氏を連想させるものとは思えないのですが。本 殿この神社で有名なものと言えばこの三柱鳥居。中心にある磐境(いわさか)は天之御中主の依代とも言われているそうです。非常に珍しい鳥居で、京都三珍鳥居のひとつとして知られています。この三柱鳥居がある場所は「元糺(もとただす)の池」と呼ばれかつては清らかな水で満たされていたとか。周辺の森は「元糺の森」と呼ばれています。ここの禊の祭祀が賀茂御祖神社(下鴨神社)・糺の森にうつされたためこちらが「元糺の森」と呼ばれているという説があります。現在の池は水が枯れてしまい祭祀用にホースで水を引くようになっているようです。その水源は不明ですが。個人的な感想ではありますが、境内は排他的な雰囲気が漂っています。社務所はありますが、御守りや御朱印がいただける授与所はありません。近くには国宝第一号として有名な弥勒菩薩半跏思惟像のある広隆寺や東映の映画村がある「太秦」にありそこそこ知られた神社なのに観光客を受け入れる姿勢もありません。神社庁にも属していない単独神社のようです。神社の経営には疎いのですが、この神社は「京都の名所」と称されるつもりはないように思えます。「天照御魂神社」という名も御祭神も秦氏につながらないようですが、やはりここが秦氏の拠点であったことが連想されるものが二つあります。養蚕神社ひとつは瑞垣内にある境内社「養蚕神社」です。この養蚕神社の存在が当社が「蚕の社」と呼ばれる由縁です。当社の一の鳥居の社号扁額は「天照御魂神社」ではなく「蚕養神社」です。秦氏は渡来系の技術者集団とも言われ、とりわけ織物の技術者として知られています。そしてもうひとつが境内にある稲荷社です。境内に入ってすぐ、左手にある保育園裏の一画に複数の稲荷社があります。上の3社は全て稲荷社です。おそらくはかつて周辺にあった稲荷社が、この一画に集められたのでしょう。稲荷社の総本宮と言えば、伏見稲荷大社。伏見稲荷大社は秦氏分家の創建と言われています。秦氏は聖徳太子の時代の、秦河勝以外はあまり歴史の表舞台には登場しません。しかし技術者集団として、天皇家を支えた氏族であったと言われています。日本書紀に欽明天皇は夢のお告げによって、山城国・深草の秦大津父という人物を側近に向かえたという記述があります。深草というのは、伏見稲荷大社が鎮座している地域名です。この「稲荷社」の一画で特に異彩を放っているのがこの「白清社」です。洞穴のような場所の中にお社があります。実はここは古墳の石室を再現したもの。積み上げられた岩の中には文字がびっしりと刻まれたものもあって、本当にお墓だったものを移築したようにも思えるほど。近くにある天塚古墳の石室に稲荷神を祀った祠があります。その稲荷社がこちらに遷されたものが、この白清社だそうです。現在はまた天塚古墳内に戻されていますが、引き続き分霊をお祀りしているものと思われます。天塚古墳は秦氏の有力者の墓だと言われています。初訪問のときは恐怖で鳥肌が立ちました。他の稲荷社も傾いたものもあって、荒れ果てたおどろおどろしい雰囲気でした。今では写真のように、きれいに整備されていますが私的にはあまり足を踏み入れたくない一画です。➡「龍水御朱印帳掲載寺社索引」☆印は画像がデジイチで撮った記事です.
2018.06.02
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鏡作坐天照御魂神社(かがみづくりにいますあまてるみたまじんじゃ)奈良県磯城郡田原本町八尾816■御祭神 天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと) 石凝姥命(いしこりどめのみこと) 天糠戸命(あまのぬかとのみこと)新屋坐天照御魂神社に続き、天照御魂神社シリーズ第4段。御祭神の石凝姥命と天糠戸命は、八咫鏡(やたのかがみ)を作った神とその父。八咫鏡は伊勢神宮の内宮に祀られている御神体。崇神天皇6年。宮中に祀っていた天照大神と倭大国魂神の勢いを畏れ、天皇は宮外の別々の場所に祀ることにした。古事記にはない記述ですが、日本書紀にはこのような記事があります。その後、伊勢に鎮座するまで約60年。天照大神が巡幸された地は「元伊勢」と呼ばれています。余談ですが、この記述はちょっと不可解です。「天照大神と倭大国魂神の勢いを畏れ」たのであれば、どちらか片方を宮外に出せばいいと思うのですが、両方とも遷したことには意味があるのだと思います。「宮中」とは崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)のこと。三輪山の麓にあったとされ、その伝承地には現在、志貴御県坐神社(しきのみあがたにます)があります。崇神天皇は大物主大神を畏れたのでしょうか。崇神天皇紀には他にも大物主大神の祟りを畏れその子孫に祀らせたという記述があります。※参考 大直禰子神社 拝 殿話がそれてしまいましたが、そんなわけで八咫鏡は天皇の宮の外へ。社伝によれば宮中を出た八咫鏡の代りに内侍所に安置する神鏡を鏡作部に命じて鋳造させ、それを天照大神の御魂としたとのこと。天皇に献上するその鏡を作る際に試鋳した鏡が当社の神宝であり天照御魂神と讃えて御神体としたとのことです。本 殿「試作品」が宮中に納められた天照大神の御魂と同じでは畏れ多いということなのか、この神社の御祭神は天照御魂神とされたのでしょうか。つまり天照御魂神も太陽信仰の神ということなのでしょう。この鏡は三角縁神獣鏡という鏡で、とある古墳から出土した三角縁神獣鏡の同笵鏡という指摘もあります。同笵鏡とは、同じ鋳型から作られた鏡のことです。社伝の通りであれば、三角縁神獣鏡は国産の鏡ということになります。(三角縁神獣鏡は、邪馬壹国畿内説を唱える論者の多くが卑弥呼が魏から下賜された鏡だと主張しています)境内にある鏡池。鏡の秘伝を授かる池として、鏡作部たちがここに集まったと伝えられています。鏡職人がこの池で鏡を洗い清めていたのだそうです。現在でも鏡作神社は、鏡業界や硝子業界からの信奉が篤いそうです。この「鏡石」は江戸時代に鏡池から出土したものだそうです。鏡作成の仕上げに使われたものだと伝えられています。この付近には、銅鏡の製作を業としていた鏡作部が住んでいたのです。鏡作坐若宮神社つまり「鏡作坐」とは、「鏡職人が居住していた地に鎮座する」そういう意味なのでしょう。この神社の近くには唐子鍵遺跡があります。この楼閣が本当にこの遺跡にあったかどうかはは別として、この遺跡からは銅鐸の鋳型などが出土しています。この地には、古くは弥生時代から銅製品の技術者が住んでいたのですね。➡「龍水御朱印帳掲載寺社索引」.
2018.05.31
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新屋坐天照御魂神社(宿久庄)大阪府茨木市宿久庄5-17-1■御祭神 天照皇御魂大御神(中央正殿) 天照国照彦火明大神(左座) 天津彦火瓊瓊杵大神(右座)天照皇御魂大御神(あまてらすすめのみたまのおおかみ)とは天照大神なのでしょうが、なんとなく違和感を感じる御神名です。他の二社の新屋坐天照御魂神社と同様の御祭神「天照御魂大神」のカモフラージュかと想像してしまいます。先の記事でも書いたように、高山右近の「焼き討ち」を逃れるための策かも知れません。同じ茨木市内にある神社のサイトによれば、高山右近は織田信長に倣って牛頭天王、天照大神、春日大神、八幡大神の神社は焼かなかったのだとか。拝 殿織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちなどは有名ですが、織田信長が神社も破壊したとか、高山右近が寺社を破壊したかどうか伝承はあるようですが、実際はどうだったのか。ただし中世・戦国時代には兵火の被害や領主の政策により衰退した神社は多いようです。天皇陵と思しき古墳に城が築かれた(高槻市・今城塚古墳)そんな時代だったようですから。邪馬壹国畿内説の人たちが卑弥呼の墓だと騒いでいるあの箸墓古墳にも「山越え」の径があって、途中に茶屋もあったという話もあります。高山右近はキリスト教徒だったため、後世になって特に「悪役」にされたのかも知れません。社 殿御祭神の天照皇御魂大御神がカモフラージュではなく、本当に天照大神のことであったとしても身を護るために御祭神を変えた可能性は高いのではないでしょうか。何も知らない「よそ者」である私が勝手な想像ばかりしてはいけませんが、この神社は他に特に語ることがありません。住宅地の中にある小さな神社で、境内の一部は児童公園になっています。参拝日は日曜日でしたが、子供の姿はありませんでした。境内は清掃が行き届いており、この日もご年配の女性が黙々と落ち葉を拾い集めていらっしゃいました。社殿裏★新屋坐天照御魂神社(宿久庄) 駐車場 無 トイレ 無「龍水御朱印帳・裏ばなし」「サイ苦リング」30kmほど自転車で走って神社巡り.
2018.05.27
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新屋坐天照御魂神社(にいやにいますあまてるみたまじんじゃ)大阪府茨木市西河原3-1-2新屋坐天照御魂神社HP(by氏子さん)■御祭神 天照御魂神(天照国照彦火明命・あまてるくにてるひこほあかりのみこと)関西にはあちこちで「○○坐」を冠する神社名を見かけます。「○○」は鎮座地の地名。関東などではこういう神社名は見かけないそうなので、関西特有の神社名なのかも知れません。たとえば明日香村にある※1飛鳥坐神社、薬井戸や三輪山登拝の起点として知られる※2狭井坐大神荒魂神社(狭井神社)、平城宮跡にある※3宇奈多理坐高御魂神社 などがあります。※1あすかにますじんじゃ※2さいにますおおみわのあらみたまじんじゃ※3うなたりにいますたかみむすびじんじゃそんな神社名の中で、私が特に注目していたのが「○○坐天照御魂神社」という名前の神社です。この新屋坐天照御魂神社の他にも「蚕の社」の通称名で知られる京都の「木嶋坐天照御魂神社」や奈良の「鏡作坐天照御魂神社」などがあります。「天照御魂神」という神社名、これもどうやら関西だけのようです。関西各地にある天照御魂神社はそれぞれどんな共通点があるのか、ずっと疑問に思っています。国宝の『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本紀』(通称「海部氏本紀」)は丹波国一ノ宮に伝わる貴重な歴史資料ですが、そこには以下のように記されているそうです。「始祖彦火明命 亦名天火明命 亦名天照国照彦火明命 亦名天明火明命 亦名天照御魂命」つまり「火明命」と「天照御魂命」が同一の神であると明記してあるのです。たとえば木嶋座天照御魂神社(蚕の社)は秦氏の拠点にあるのですが、「火明命」と秦氏はなんとなく結びつきがないような気がします。天火明命は尾張氏の祖神と言われていますから。さてこの新屋坐天照御魂神社ですが、延喜式神名帳に「新屋坐天照御魂神社三座」と記載されており、現在もこの西河原と福井、宿久庄に新屋坐天照御魂神社があります。ただし「新屋坐」が地名だとすれば、「新屋」に鎮座するのはこの西河原の新屋坐天照御魂神社だけのようです。今では社務所もなくひっそりとしていますが、かつては名神大社という社格を誇っていました。名神大社は大阪では住吉大社など数社しかない高い社格です。10年以上前のことですが、初参拝のときの境内は荒れ放題という感じで参道は一面に落ち葉が層をなすように積もっていて、「遺跡はこやって地中に埋もれて行くのだらうな」と思ったほど朽ち去って行く過程を見ているような気分になりました。今回の参拝では境内はきれいに掃き清められていました。氏子さんによるHPも運営されており、祭祀も行われているようです。こうした歴史ある神社の祭祀が続けられることはうれしく思います。まだまだひっそりと寂しい境内ですが、時間をかけてでも修復と整備が続くことを期待しています。本殿は鉄筋コンクリート造りの覆い屋の中にあり、ほとんどその姿を見ることが出来ませんでした。 ついでに撮ったような写真ですが、実はこちらの覆い屋にある神社が新屋坐天照御魂神社の本宮だそうです。右手前に見えているのは拝殿です。先に掲載した大きな覆い屋は「東之社」で応神天皇(八幡神)住吉神、磯良神(磯良神社参照)が祀られているそうです。この東之社の方が大きく、拝殿の前に陣取っているのは江戸時代頃は本宮よりも八幡神の方が人気があったからだとか。せっかくなので、あと2社ある新屋坐天照御魂神社や他の「天照御魂神社」についてまとめてみようと思います。★新屋坐天照御魂神社(西河原)駐車場 無トイレ 無すぐ北にある西河原に駐車場・トイレ有「龍水御朱印帳・裏ばなし」「サイ苦リング」30kmほど自転車で走って神社巡り.
2018.05.27
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磯良神社(いそらじんじゃ)通称 疣水神社(いぼみずじんじゃ)大阪府茨木市三島丘1-4-29■御祭神 磯良大神(いそらのおおかみ)御祭神は関西では馴染みの薄い神さまかも知れませんが磯良大神は海人族として知られる、九州安曇氏の祖神。安曇氏の足跡は全国に見られ、長野の安曇野や滋賀の安曇川(あどがわ)また「渥美」や「熱海」も安曇氏に由来する地名と言われます。この地も安曇氏に関係するのかと思いきや、数年前に参拝したときにご神職に伺ったところ、そうではないようです。《磯良神社の伝承》神功皇后が朝鮮に出向く前に、天照御魂神社に祈願。社頭に湧く「玉の井」で顔を洗ったところ、疣や吹き出物が出て醜い男のような顔になってしまった。皇后は「これは御神慮のおかげ」と言って、男装して出発。そのため敵から「女性」と侮られることなく戦果をおさめることが出来た。凱旋後、再び玉の井で顔を洗うと、元の美しい顔に戻ったとのこと。ご神職のお話によれば神功皇后の新羅遠征の際、水先案内人を務めたのが安曇氏であったご縁により新屋坐天照御魂神社に安曇氏の神を祀ったとのこと。磯良神社はかつては新屋坐天照御魂神社の境内社だったそうです。・新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)戦乱などにより天照御魂神社は衰退し、江戸時代に遷座したそうです。新屋坐天照御魂神社(三座)については後日ご紹介する予定です。「写真上」は神社の南側。こちらが本来の神社入口なのでしょう。しかし、少し頭を下げないとぶつけてしまいそうなほど小さめの鳥居です。「写真下」は西側、バス通りに面した入口の鳥居。すぐ前が「疣水神社前」というバス停になっています。疣水拝受所上記のような伝承から、御神水「玉の井」は「疣水」と呼ばれ古くから疣・黒痣や諸病平癒の霊泉として知られるようになったそうです。この神社が「疣水神社」と呼ばれるのはこの御神水によるもの。江戸時代に出版された「摂津名所図解」には、次のように記されているそうです。(前略)よるべの水は社頭の神水なり 世人此水を疣水といふここに来て疣黒痣を濯ふ時は忽に抜落るとぞ 天照御魂神社の神水なれば・・・(後略)※磯良神社由緒略記よりつまりこの「疣水」は磯良神社ではなく、新屋坐天照御魂神社の御神水だったようです。「玉の井」を守る人々によって、新屋坐天照御魂神社に代わってこの地に残った磯良神社が信仰されたのでしょうか。この日も「疣水」を汲む参拝者が途切れなく訪れていました。この麗しい社殿は昭和54年に改築されたものだそうです。少し変わった構造で、側面から内部に入り本殿の真裏でも参拝出来るようになっています。ここの「お百度」は正面で参拝後、側面から裏に回り反対側の側面から出て正面に戻る形で行うようです。この日、おひとりの方が「お百度」をされてました。本殿の裏からも参拝すると言えば、えびすさまを連想します。「えべっさん」は耳が遠いという伝承があり、本殿の裏からも「念押し」の祈願をする慣わしがあります。大阪だけかも知れませんが。ひょっとしたら磯良大神さまも耳が遠いのかも知れません。神奈備さまのサイトによれば、「磯良大神とは古代の海人族である安曇氏の祖神であり、対馬の和多都美神社(豊玉町仁位)の原初の御神体が「磯良エビス」と呼ばれる霊石である」 とのこと。「えべっさん」と磯良大神とは何か共通点があるのかも知れません。それほど広くはありませんが、清々しい境内です。近くには交通量の多い幹線道路があり、工場や民家が建ち並ぶ場所とは思えないほど。周辺を見ると、「ここの地下水(疣水)って大丈夫かな?」と心配になります。境内にちょっと気になる石碑がありました。「桜ぼい」ってなんだろうと思いましたが、どうやら「いぼ桜」だったようです。かつて境内には天然記念物に指定された「井保桜」という桜の木があったそうです。戦前に枯れてしまったのだそうですが、この石碑は「井保桜」があった場所なのかも知れません。境内にある「桜姫稲荷神社」こちらも「井保桜」にちなんだものなのでしょうか。こちらは「住吉社」でしょうか。御祭神は住吉大神・神功皇后と書かれてありました。神功皇后ゆかりの地ですから、大切な場所なのだと思います。この磯良神社の北、およそ100mの所に元の「本宮」であった、新屋坐天照御魂神社があります。10年くらい前だったでしょうか。初参拝のとき、境内は荒れ果てていました。「こうやって遺跡は地面に埋もれて行くのだろうな」と想像するほどそんな過程を見るような境内でした。現在はどうなのでしょうか。磯良神社参拝後、新屋坐天照御魂神社に向かいました。★磯良神社(疣水神社)駐車場 有 トイレ 有御朱印可【参考】新屋坐天照御魂神社.
2018.05.20
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高天彦神社(たかまひこじんじゃ)奈良県御所市高天■御祭神 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)社務所もない、ひっそりとした境内。金剛山東麓に鎮座するこの小さな神社は、延喜式では名神大社という高い社格が与えられています。付近は三輪山麓の崇神天皇以前に、葛城王朝があったという説もあります。「御所」という地名も気になります。御所市はWikipediaによれば、南葛城郡御所町が秋津村を編入掖上村を編入、などといった沿革が書かれてありました。日本書紀に、神武即位後 次のような記述があります。 夏四月朔日、天皇(神武)の御巡幸があった。腋上のほほ間の丘に上られ国の形を望見していわれるに「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれど蜻蛉(あきつ)がトナメ(交尾)しているように山々が連なっている」これによって初めて秋津島の名ができた。 現在も御所市には掖上、秋津、本間(≒ほほま)などの地名が残っています。現在の御祭神は高皇産霊尊ですが古くは高天彦神だったとも言われています。ただし、高天彦神は高皇産霊尊の別名とする説もあるようですが。この「高天」というのは金剛山の古名「高天山」に由来するものと思います。10年前、大阪側からロープウェイを利用して金剛山に登りました。山頂付近から大和三山を見下ろしたとき、私は「ここは高天原だ」と思いました。参道の両脇には現代の風景が広がっているのですが、この参道だけは異空間のような雰囲気が漂います。今ではたった数十メートルの参道ですが、かつてはここが特別な場所だったことを想像させるに十分な神聖さ。いつ来てもひっそりとした境内ですが、不思議なことに駐車場はいつでも満車に近い状態です。農業施設のようなものもありますが、そこにも人の気配はありません。おそらく、神社前の登山道から金剛山を目指す登山客のものなのでしょう。★高天彦神社駐車場 有 トイレ 有御朱印は高鴨神社でいただけます。龍水御朱印帳・裏ばなし「新緑の葛城」高鴨神社境内の鳥のさえずり拝殿下石垣の幻の灯篭.
2018.05.16
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高鴨神社(たかかもじんじゃ)奈良県御所市大字鴨神高鴨神社公式HP■御祭神 阿遅志貴高日子根命(あじすきたかひこねのみこと・迦毛之大御神) 事代主命 阿治須岐速雄命 下照姫命 天稚彦命鎮座地は葛城山(金剛山)山麓の高台。この付近は鴨一族発祥の地と言われ、ここから平地に移った鴨一族が祀った神社が葛木御歳神社、そして鴨都波神社。当社を「高鴨」葛木御歳神社を「中鴨」鴨都波神社を「下鴨」とも呼ぶそうです。京都の上賀茂神社、下鴨神社など、高鴨神社は全国賀茂社の総社と称しています。拝 殿本 殿御祭神の阿遅志貴高日子根命と下照姫命は兄妹で大国主命と多紀理毘売命の子。事代主命も大国主命の御子神です。大和盆地を挟んで対峙する三輪山の神とともに日本最古級の大和にある神社の御祭神が「出雲系」であることは興味深いです。ところが当社公式サイトによれば、ここの宮司・鈴鹿家は中臣連で祖神は天児屋根命とのこと。古代史ファンとしては、若干違和感を感じるところです。参拝日は2017年5月5日。ここには何度か参拝していますが、この境内には新緑がよく似合います。境内の森では新緑とともに、小鳥のさえずりも心地よく思わずスマホで録音したほどです。境内は東西に広がっており、多くの境内社がありました。それらをこのブログでご紹介することはほとんどないので、重要なもの以外はほとんど写真も撮っていません。将来、神社巡りのHPでも作る気になった時は後悔するかも知れませんが。西神社(西宮)御祭神 多紀理毘賣命 天御勝姫命 鹽冶彦命 瀧津彦命東神社(東宮)御祭神 天兒屋根命 天照大御神 住吉三前大神市杵嶋姫命神社御祭神 市杵嶋姫命ところで神社好きの方々のブログやSNSの投稿で拝殿下の東側の石垣に「灯篭が埋め込まれている」という話題を目にしました。こうして見ると、あるようなないような…。まぁ、次回参拝時のお楽しみということで。★高鴨神社駐車場 有 トイレ 有近くの高天彦神社の御朱印もここでいただけます。龍水御朱印帳・裏ばなし「新緑の葛城」高鴨神社境内の鳥のさえずり拝殿下石垣の幻の灯篭.
2018.05.15
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葛木御歳神社(かつらぎみとしじんじゃ)奈良県御所市東持田269葛木御歳神社公式HP■御祭神 御歳神(みとしのかみ) 相殿 大年神(おおとしのかみ)高照姫命(たかてるひめのみこと)全国「御歳神社」の総本社。とは言え、宮司不在の時期も長く今世紀はじめ頃までは荒れ果てた状態だったようです。この神社を引き継ぎ再興させたいと決めた現宮司(女性)は40歳を超えてから神職の資格を取ったそうです。現宮司が就任されてからは、地元の方々の協力を得ながらそれこそ手作り感覚で修復や再興の努力をされたそうです。それ以前に、地元の方々にこの神社に戻って来てもらうことからのスタートだったそんな地道な活動が宮司のブログに綴られています。そういった活動のせいなのか、宮司のお人柄を反映したものなのか境内は「お茶の間」にいるような、アットホームな暖かさを感じます。本殿の屋根は銅板ですが、江戸時代に春日大社から譲り受けたもの。いわゆる「春日移し」の本殿です。この付近は古代の氏族、鴨氏の本拠地だったと言われています。その鴨氏ゆかりの神社、高鴨神社、当社、鴨都波神社は「鴨三社」と呼ばれています。それぞれ「高鴨社」「中鴨社」「下鴨社」とも呼ばれるそうです。これらの神社を創建した鴨一族とはどういう氏族だったのか。同じく葛城を本拠地とした葛城氏との関係はどうだったのか。鴨氏は京都の賀茂氏の祖とも言われますが、別の氏族だという説も。高鴨神社では京都の上賀茂神社、下鴨神社など全国「加茂社」の総本社と称しています。旧社格は「名神大社」三社とも高い社格が与えられていました。葛木御歳神社の御祭神は須佐之男命の孫とされています(古事記)。高鴨神社と鴨都波神社の御祭神は大国主命の子。いずれも出雲系の神と言えます。大和盆地を見下ろす古代王朝発祥の地に、出雲系の神々。そして東の三輪山の神も出雲の神です。これはいったい何を意味するのでしょうか。★葛木御歳神社駐車場有 トイレ有御朱印は宮司経営の「カフェみとしの森」でいただけます。開店はAM10時のようです。.
2018.05.10
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摩気神社(まけじんじゃ)京都府南丹市園部町竹井宮ノ谷3■御祭神 大御饌津彦神(おほみけつのかみ)御祭神は「農業・食物の神」とも言われ、神社名の「摩氣」は「御食」が語源とする説もあるようです。また御祭神の大御饌津彦神は天児屋根命の御子神・天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)の別称とも言われます。神門をくぐると、圧巻の境内が目に飛び込んできます。これだけの規模の茅葺屋根の社殿は、伊勢以外ではなかなか見られるものではありません。ただし社殿はほとんどが江戸時代以降のものだそうで、画像手前の拝殿は昭和初期に建てられたものだそうです。本殿の茅葺屋根は覆い屋。TOPの画像は2013年のものです。昨年の秋に撮影したものが下の画像。屋根の葺き替え時期を迎えた感じがします。これだけの社殿の維持・管理はたいへんだとは思いますが、いつまでもこのお姿を継承していただきたいものです。社殿は非常に珍しいことに北向きに建てられています。方位にはあまり頓着しないのですが、写真重視のこのブログとしてはこれは困ったこと。ただでさえ撮影が難しい明暗が混在する神社境内なのに、「順光」での撮影が不可能な立地条件だからです。北向きの理由はわかりませんが、胎金寺山(たいこんじやま)の山裾という立地条件のせいかも知れません。当社は胎金寺山を御神体山としていたという説もあるようです。胎金寺というのはかつてあった摩氣神社の別当寺のこと。明治の「神仏分離」で廃されたそうです。本寺は九品寺というお寺で、摩氣神社は九品寺の鎮守だったとのこと。 九品寺・山門九品寺も衰退し、重文の山門を残すのみ。本尊や寺宝などは他寺や外国の美術館等に散逸しているそうです。とにかく、「北向きの社殿」という状況では「キラキラ輝く境内の緑」とか社殿の背後の「透き通るような蒼空」といった写真撮影は不可能です。まぁ、そんな個人的なボヤキはともかく神社好きにはたまらない光景であることは確か。7年近く前にこの神社のことを知ったにも関わらず、なかなかここの記事に出来なかったのは納得の行くレベルの写真が撮れなかったことが最大の理由です。拝 殿写真撮影の際に心掛けているのは「このブログに訪問された方々に『参拝してみたい』と思っていただけるようなそんな光景を切り取りたい」という思いです。なのでこういう神社はいち早くご紹介させていただき、神社ブロガーとして「自慢」したいところ。しかしこのブログは「神社好きのためのデータベース」には程遠くただ私個人の「参拝記録」に他なりません。なので、あまり内容にこだわる必要もなさそうなものですがけっこうバカげたことにこだわっています。そのあたりのことは、「裏ばなし」の方でご紹介します。神門の向かって右に見えているのは、おそらくは宮司さんのご自宅を兼ねていると思われる社務所。ただし、御守りなどがいただける授与所はなく普段は御朱印等はいただくことは出来ないようです。神社前の道は少し狭い箇所もありますが、参道の右側に2~3台分の駐車スペースがあります。本殿の裏側に回ることも出来ます。神社の裏手は芒が群生していました。この芒が茅葺屋根の材料になるのかも知れません。 困ったこだわり「龍水御朱印帳・裏ばなし」.
2018.04.26
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多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)奈良県磯城郡田原本町大字多字宮ノ内569 ■御祭神 第一社 神倭磐余彦尊(神武天皇:神八井耳命の父) 第二社 神八井耳命 第三社 神沼河耳命(綏靖天皇:神八井耳命の弟) 第四社 姫御神(玉依姫命:神八井耳命の祖母)拝 殿通称・多神社とも呼ばれるこの神社は古事記を編纂した太安万侶(おおのやすまろ)を輩出した多氏ゆかりの神社です。多氏は安万侶の頃から氏を「多」から「太」に改めたのだそうです。初参拝は2012年。「古事記編纂1300年」の年だったのですが、せっかくの「タイムリーなネタ」のはずが今日までお蔵入りとなっていたのには理由があります。本 殿本殿に祀られているのは多氏ゆかりの祖神であり、肝心の太安万侶を祀る摂社への参拝を失念していたからです。2012年の参拝時も再訪時も気づかなかったのですが、この本殿の後方には「神武塚」という小丘があり、古墳あるいは古代の祭祀遺跡だと考えられているそうです。これほど立派な神社ではありますが、観光コースから外れているせいか参拝者の姿はなし。また、御朱印や御守りなどがいただける授与所もありませんでした。これだけの神社が人知れず鎮座している古都はやはり奥が深いと言うべきなのでしょうか。多神社のすぐ南にある小杜神社(こもり)。御祭神は太朝臣安萬呂。拝殿はなく、少し大きな「祠」といった感じですが、式内社です。いつも参考にさせていただいているサイトの写真には鳥居は写っていませんでした。古事記編纂1300年に合わせて建てられたのかも知れません。近くには祈念の石碑も建てられていました。龍水御朱印帳・裏ばなし.
2018.02.16
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美保神社島根県松江市美保関町美保関608美保神社公式HP ■御祭神 三穂津姫命 事代主命 三穂津姫命は大国主命の后。事代主命は大国主命の御子ですが、母は神屋楯比売神(かむやたてひめ)です。実の親子ではない二柱の神のとり合わせは不思議な感じがしますが事代主命は美保岬と縁深いこと、そして三穂津姫命の神名と「美保」の関連でしょうか。いつ頃からこの二柱の神が祀られているのでしょうか。ひょっとしたら出雲国造が杵築の出雲大社に移った頃かも知れません。記紀神話によれば、出雲大社は大和建国前の創建というイメージですが、実際は8世紀頃の創建の可能性があります※。美保神社の本殿は大社造を二殿つなげた独特のもの。この本殿が造られたのは江戸時代。「美保造」あるいは「比翼大社造」と呼ばれるそうです。 ※龍水御朱印帳・裏ばなし~「出雲大社創建は8世紀頃???」~ 向かって右側の「左殿(大御前)」に三穂津姫命、左側の「右殿(二御前)」に事代主命が祀られています。現在の御祭神は記紀神話に合わせて代えられたものとも言われています。「出雲国風土記」の島根郡条・美保郷に次のような記述があります。 所造天下大神命(あめのしたつくらししおおかみ=大国主命)と越の国の娘・奴奈宣波比売命(ぬなかわひめ)の子、御穂須須美命(みほすすみのみこと)という神が鎮座する。だから「美保」と云う。 御穂須須美命は建御名方神(たけみなかたのかみ)と異名同神と言われます。つまり「出雲国風土記」が編纂された8世紀までは、現在の御祭神ではなかったことが想像されますね。 この大きな拝殿は昭和3年の造営。「昭和」と言えば最近のことのようですが、100年近く経っています。江戸時代に造られた本殿共々、山陰の気候と海の近くという立地条件を考えると日本の木造建築の素晴らしさを感じます。 境内社若宮社・今宮社・秘社(2016/3現在 境外社・糺社御同座中) 境内社宮御前社(みやみさき)・宮荒神社・船霊社(ふなたま)・稲荷社 御霊石(おたまいし) 御霊石は地之御前(後日ご紹介予定)付近で見つかった2つの丸い石。うち1つはお告げにより海に返されたそうです。この石をなでると健康な子が生れるという信仰があるそうです。 社号標と二ノ鳥居 神 門 地之御前・沖之御前~美保神社その2~に続く(Coming Soon) 結婚以来初の温泉旅行? 龍水もたまには普通の旅もする8年ぶりの出雲の旅「龍水御朱印帳・裏ばなし」玉造温泉の巻.
2016.03.27
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多賀大社滋賀県犬上郡多賀町多賀604多賀大社公式サイト ■御祭神 伊邪那岐大神 伊邪那美大神 伊邪那岐大神(イザナギ)は三貴神(天照大神・月読尊・素盞嗚尊)を生んだあと、隠退して淡海(近江)の多賀に祀られたと古事記に記されています。一方、日本書紀には「幽宮を淡路に造って、静かにお隠れになった」とあります。淡路島にも「多賀」という地に伊弉諾神宮があります。多賀大社と伊弉諾神宮は、どちらがイザナギの真の幽宮(かくれみや)なのかはともかくこの両社は興味深い位置関係にあります。そのことについては「龍水御朱印帳・裏ばなし」の方でご紹介しています。関西以外の方にはピンと来ないかも知れませんが、 滋賀県には本当にすごい神社がたくさんあります。 二十二社に列せられた日吉大社が湖西の代表なら湖東の代表格がこの多賀大社。今回で3回目の参拝ですが、 何度来ても感動するほど荘厳で神聖な社殿です。 寿命石多賀大社は長寿祈願の神としても信仰されています。東大寺再建に携わった鎌倉時代の僧・重源が伊勢神宮に参拝したときに「寿命を延ばして再建事業を成功させたいなら多賀社に祈願せよ」との神託を受け多賀社に参拝して東大寺再建を20年かけて成功させたとの伝承があるそうです。境内にある「寿命石」は、重源が事業成功後にお礼参りをした際に座った石だと言われています。能舞台大 釜神仏習合時代の名残・鐘楼◆多賀大社と伊弉諾神宮の興味深い位置関係 「琵琶湖と淡路島」 (龍水御朱印帳・裏ばなし)◆伊弉諾神宮 「伊弉諾神宮」 (龍水御朱印帳).
2016.02.25
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大野神社滋賀県栗東市荒張896大野神社公式HP ■御祭神 菅原道真公社伝によれば、当社が天満宮として信仰されるのは当社に菅原道真公が滞在された由縁と、後の天神信仰の隆興によるもの。元々は龍王山の山頂にある古祠を本神(山の神)とする里の神の社で当初は天之水分神(あめのみくまりのかみ)を祀る神社だったようです。 その「里の神」天之水分神は、現在は境内末社・水分社(みくまりしゃ)に祀られています(写真・向かって右)。向かって左は摂社・三社殿(御祭神:出雲大神・恵比寿大神・八幡大神)。本殿の御祭神とともに「学問の神」「農耕の神」「勝ち運の神」などとして信仰されているそうです。近くにJRA栗東トレーニングセンターがあり、有名ジョッキーたちもこの神社の御守りを身に付けているとのこと。 楼門はそれほど大きなものではありませんが鎌倉時代初期に建てられたもので、楼門遺構としては県内最古だそうです。落ち葉1枚ない境内は、ここが森の中の神社であることを忘れてしまうほど。まるで街中の神社のような「あか抜けた」感覚はJRA関係者の信仰かそれとも…。そのあたりのことは「裏ばなし」の方でご紹介します。 幣 殿 神紋は天満宮の「星梅鉢」で、境内には神牛も奉納されています。確かに「天神さん」なのですが、何か違った雰囲気の境内。絵馬には5色の「梅」も描かれていて古社なのにやはり「あか抜けて」いるのです。 とは言え、神聖で凛とした風格ある本殿。滋賀県の神社には本当にいつも驚かされます。社殿は当たり前のように檜皮葺だったり、茅葺の楼門があったり、奈良や京都の神社より歴史を感じるくらいです。 手水舎 枯葉1枚落ちていない境内は、神聖で静謐と言うよりはなぜか現代の神社らしく「あか抜けている」と感じてしまうのは「ある理由」からの先入観かも知れません。近年この神社は、一部の若い女性たちの「聖地」となっているのです。 「龍水御朱印帳・裏ばなし」 嵐ファンの聖地・大野神社 メンバー5人にイメージカラーがあることなんて おじさんは知らなかった・・・.
2016.02.22
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晴明神社京都市上京区堀川通一条上ル晴明神社公式HP ■御祭神 安倍晴明公 この神社についてもご祭神についてもいまさらここで解説など必要ないかと思います。このブログでご紹介するのも初めてではありませんし。私が神社巡りを始めたばかりの頃から、まだデジカメも持っていなかった頃から何かとご縁を感じている御祭神です。 小説、漫画、そして映画での「陰陽師ブーム」を経てパワースポットとしても注目された晴明神社。この狭い境内にある小さな神社は少なくともこの10年、その恩恵によって随分「発展」してきました。数か月毎に参拝していた時期がありますが、行く度に何かしら新しい「オブジェ」が増えていました。上の画像は現在の社殿です。 こちらは2007年に撮った社殿。晴明さまの座像はまだなく、設置されたばかりの「厄除桃」が輝いています。 さらに遡って2006年の写真には「厄除桃」もありません。この写真の手前に写っている植え込みは2005年頃にはありませんでした。 こちらは現在の晴明井。地面は舗装されて北斗七星が描かれています。 この写真は2004年10月、初参拝の時に携帯のカメラで撮った「晴明井」です。ちなみにこの写真は縮小もトリミングもしていません。当時の携帯電話のカメラはこの程度の写真が精一杯だったのです。地面は土。白く真新しい御影石の石板は、五芒星の部分が黒く塗られています。しかしこの「晴明井」はこのあと予想外に大変な状態になります。この当時は手水舎には屋根がありませんでした。 2006年4月。石板の黒い塗装ははがれ落ち、代わりに緑の苔が付き始めています。「晴明井」は千利休が茶の湯に使ったという伝承があるそうです。その井戸は現在は枯れており、この「晴明井」は平成になって再現されたもの。「晴明井」というくらいなので井戸水なのでしょうが、どこかに設置されたポンプで汲み上げられているものです。 2007年1月にはとうとうこんな姿に…。石板上はもちろん、台座の部分までびっしりと苔が付いてしまっています。こうまで放置されていたのには事情があったのかも知れません。流れ落ちた水は下水道に流されるのではなく、再び井戸に戻されて循環させていたのかも知れません。だとすれば洗剤も使えませんし、苔を洗い落とすことも出来なかったでしょうから。 再び現在の「晴明井」ですがどうやら石板も台座も苔が付きにくいものに作り替えられたようですね。 2004年の初参拝の時にはなくて、その後に設置されたものを並べてみます。 先ずは手水舎の屋根。建てられた当時、下は土の地面でしたが。 「厄除桃」現在は社殿向かって右にありますが、設置された当時は先にご紹介したように左側にありました。 堀川通に面した入口にある鳥居。この五芒星の扁額も最近になって設置されたものです。 そして境内入口に設置された扉。 御神木の周囲に設置された「スピ系御用達」のハグ台。意味もなくいろんな人にハグされてさぞかし御神木さまも迷惑されていることでしょう。 そして安倍晴明座像。この他、境内周辺の桔梗や苔などの植え込み。舗装された地面。順番は多少違っているかも知れませんが、この10年の間にこれだけのものが「整備」されました。 「陰陽師ブーム」や「パワースポットブーム」にあやかる。これも神社経営のひとつの形だと思います。参拝者も御祭神に思いを寄せながらそれを楽しめばいいと思います。この神社は雑誌の「パワースポット特集」だとかパワースポットの本などに必ずと言っていいほど紹介されている神社ですが、私はここがパワースポットだと感じたことはありません。「安倍晴明のテーマパーク」と言った方がしっくりきます。さらに最近、この神社に関してがっかりする事件もありました。その事件に関しては「裏ばなし」の方でご紹介します。 いろいろ異論もあるとは思いますが、私はここが聖地だと感じたことがありません。しかし、安倍晴明公はこの神社の参拝者をちゃんと見ておられます。いえ。参拝する前から見ておられるのだと思います。映画で晴明公を演じた野村萬斎さんの、あの飄々とした表情そのままにいろいろな悪戯をされたりするかも知れません。この箱庭のようなご自分の「テーマパーク」を面白がっておられるかも。とは言え、晴明公とつながる「窓口」としてはここなのでしょうね。あくまでも私の個人的な感想ですので悪しからず。晴明公が大好きなばかりに、逆に少々辛口になってしまいました。 晴明公にご縁を感じられたら、次のような場所も訪ねられてはいかがでしょうか。 安倍晴明墓(嵐山) 土御門家(安倍家・安倍晴明の子孫)三代の墓(若狭・名田庄) 安倍晴明神社(大阪市阿倍野区)伝・安倍晴明生誕の地 信太森神社(通称・葛葉稲荷神社)安倍晴明の母親の里 晴明神社(福井県敦賀市)安倍晴明修行の地との伝承■追記(2019/6)晴明神社の近況など、裏ブログの方に「追記」としてご紹介しました。「晴明神社騒動記」その結末はどうなったのでしょうか。 ここには書けない龍水のホンネ「龍水御朱印帳・裏ばなし」晴明神社その1神社とお店のアホなケンカ「晴明神社騒動記」 晴明神社その2晴明公は悪戯好き?「晴明神社参拝は覚悟して行け…」 .
2015.11.25
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東大寺春日神社 大阪府三島郡東大寺 ■Google地図 ■御祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと) 天児屋根命(あめのこやねのみこと) 経津主命(ふつぬしのみこと) 比売神(ひめのおおかみ) ガンバ阪神タイガース、SMAP48、GLAY×EXILE(これは本当にあった)みたいな神社名。 別に東大寺と春日大社のコラボではありません。 現在でも「東大寺」という地名が残っているように、 この辺りはかつて東大寺の寺領で、東大寺村と呼ばれていたのだそうです。 かつては渋滞のメッカだった名神高速の天王山トンネル付近。現在では車線が増やされて、渋滞はほとんどなくなったようです。 その付近だけ名神高速は、上下線それぞれ「右ルート」「左ルート」の4つに別れています。その別れた高速道路の間にちょこんと鎮座している東大寺春日神社。名前は「たいそう」なのですが、実際は小さな神社でした。 元々は東大寺村の産土神として祀られたそうなので、 もう少し下にあったのだと思います。 昭和38年に水無瀬滝の近くに遷座され、 平成4年に名神高速の拡張工事にともない再び現在地に遷座されたのだとか。 手水舎の水はその水無瀬滝から引かれているそうです。 それにしてもビッグな名前ですね。 「龍水御朱印帳・裏ばなし」こちらは名前ではなく、「ある意味スゴイ場所」 .
2015.11.18
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この神社のことを書く時、どうしてもスピ系の参拝者(というか、訪問者)への愚痴になってしまいます。ここでセミナーをするグループは参集殿を使い、正式参拝や朝拝などにも参加するそうです。宮司の指導などもちゃんと受けているのだと思いますし私なんかよりちゃんとした参拝をして、この神社にも詳しくなって帰られるのだろうと思います。 ただ、一部のスピ系と思しき人たちは手水や参拝の作法を知らなかったり(私もかつてはそうでしたが)それどころか、境内をうろつくだけで参拝しない人すら見かけました。今回の参拝時にも数名の女性グループが参拝していましたが、参道の真ん中で大声で談笑したり拝殿前でスマホで電話したりと、やりたい放題でした。 「ここで音楽が奉納されるのよ」 とか「パワースポットが…云々」などと話していたようです。拝殿にあるのは音楽ホールではなくて「能舞台」ですし、神社で「パワースポット」という言葉を聞くと興醒めです。またまた愚痴っぽくなってしまいました。私は私で気持ちよく参拝させていただけばいいことで、あれこれ部外者が言うのもおこがましいことですね。 境内から10分ほど歩いた川沿いの場所にある禊殿。この社殿は天河神社の旧本殿だと聞きました。高倉山を御神体としているそうなのですが、「禊殿」という名称も気になりますし、「鎮魂殿」とも呼ばれるそうです。「鎮魂」から南朝の天皇を連想したのですが、後醍醐天皇などが祀られているわけではないようです。 天河神社は南朝との関わりも深く、神社の裏手には「南朝黒木御所跡」の石碑もあります。現在(2015/10/16)は山の斜面のひび割れのため、立入禁止になっています。 この禊殿は高倉山を拝するようでもあるのですが、川向かいにある「六角岩」との関係も気になります。いったいどういう施設なのか、祀られる神さまはどなたなのか御朱印をいただくときに巫女さんに質問したことがあります。弁財天さまがどうたらこうたら、かしこまった語調で説明を受けましたがさっぱり要領を得ないため、諦めて「はぁ、そうですか」と答えて終わりにしました。結局あの巫女さんも知らなくて、それを後輩の巫女さんの前で露見されたくなかったのかも知れません。 2011年の水害のため、以前とは地形が変わってしまったようです。その水害のあと、この辺りで赤い岩が出土するようになったそうです。禊殿の横にも祀られていましたが、あまり気乗りがしなかったので撮影はしませんでした。 鉄鉱石ならスゴイ発見ですが、そうではないようです。地元の方のお話では「マンガン石」だとか。どうにかして「お金にならないの?」と思う下世話な小市民。まぁ、あちこちに無造作に転がっているところを見ればたいした価値はないのでしょうね(笑)いつか正式参拝などさせていただき宮司さまからいろいろなお話を聞かせていただきたいです。 天河神社の拝殿の下の左右にも「磐坐」がありますが、こちらは赤い石ではありません。禊殿も大切な場所だと思いますし、これら境内の磐坐が「重要な意味がある場所だ」と言う方もいらっしゃいます。しかし、私にはイマイチしっくり来ないのです。精神世界を学び、10年も神社や聖地巡りをしています。しかし私はまだまだ左脳派なのか、意味を知らなければありがたみを感じられません。 私が天河神社で最も大切な場所だと思うのがここ。何も書かれてありませんが、ここは行者堂だと思います。祠の前をご覧いただけばわかると思いますが吊るされているのは「鈴」ではなく、「鐘」です。つまりここは神社ではなく、お堂なのです。神仏習合の名残がある寺社は少なくありませんが、お寺の境内にある「鎮守社」と違い神社境内にある「お堂」は比較的珍しいものだと思います。やはりこの天河神社の開祖が役行者と伝えられていることから大切に祀られているのだと思います。 私は一時期「役行者ゆかりの地」を回っていたこともありここに役行者さまが祀られていることを知ってからは必ずここに参詣しています。本殿の裏手に下りた場所にあるためか、ここまで来る方はほとんどありません。時折ここまで来る人を見かけても、このお堂には見向きもせずに帰って行かれます。天河神社には何度も参拝しているという(自称)セラピストに聞いたことがありますがここ「行者堂」のことは知りませんでした。 「神さまに呼ばれた」と言ってやって来るスピ系の人たちですが、ここまで呼ばれていなければ「本物」じゃないかも知れませんよ。 お寺の境内にある神社たち「龍水御朱印帳・裏ばなし」「東大寺・二月堂の守り神」.
2015.11.03
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天河神社(大峯本宮天河大辨財天社)奈良県吉野郡天川村坪内天河神社公式HP ■御祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) 配祀 熊野坐大神 吉野坐大神 南朝四代天皇の御霊 他 厳島(宮島)竹生島とともに日本三大弁財天とも言われますが、その「日本三大弁財天」には諸説あるようです。御祭神の市杵島姫命は宗像三女神の一柱で、仏教の「弁財天」と習合した神。かつては寺院としての性格が強かったようです。現在はどうなのかわかりませんが、90年代のはじめ、ここの般若心経が精神世界系の本で紹介されていました。私自身、本殿前で宮司が般若心経を唱えていたのを見たことがあります。開祖は役行者と言われ、大峯山開山の拠点と伝えられています。空海もここで修行したと言われているそうです。 「天河神社」で検索すると、だいたいTOP画像のような写真が出てきます。社殿は小高い丘(一説では「磐坐」とも)の上に鎮座されており、そのお姿の全景を見ることが出来ないからです。「被写体」としては、はっきり申し上げて「つまらない」境内です。 91年頃から憧れていた神社でした。しかし初参拝以来ずっと、あまりいい印象がありません。ここを知ったきっかけは「パワースポット」として紹介されていたからなのですが、当時は「パワースポット」「癒し」「ヒーリング」という言葉はまだまだ一般的ではありませんでした。初参拝のときは、手水の作法も参拝の作法もおぼつかず軽い「アウェイ感」を感じたと記憶しています。 以降、境内で見かける参拝者の多くは「スピ系」で「パワー」だとか「気」だとか言いながら手水の作法も参拝の作法も適当で御祭神の御由緒すら知らないようすでした。「保守的な神社好き」に転じていた私は、かつての自分は棚に上げスピリチュアル系の参拝者たちを見下していました。彼ら彼女らの方も明らかに勝ち誇ったような表情で「あなたたちにはわからないけど、私たちにはここのパワーが見えるのよ」的な優越感で磐坐に手をかざしたり木々に触れたりしていました。 私はと言えば心の中で、「それ以上神を冒涜すれば、ただじゃおかんぞ」といった怒りを感じていたのです。天河神社に限らず、スピ系の人たちの一部には御神木にハグしながら、根っこを踏んづけて木を傷つけるアホがいましたから。 そんな状態でちゃんとした参拝が出来るはずがありません。過去に記した参拝記録を見ても、ネガティブなものばかりです(笑) しかし今回の参拝は少し違いました。他の神社と同じように心地よかったのです。神社巡りを始める前から何度も訪れ、弁財天さまとのただならぬご縁を感じる私ですが天河神社で清々しい気分を味わったのは今回が初めてでした。過去のブログ記事を含めスピリチュアル系の方々には批判的なことばかり書いてきましたがこの神社で最も重要な場所はどこだと思いますか? ここでは言えない龍水のホンネ今回は「本家」の方が毒舌だったかも「龍水御朱印帳・裏ばなし」「天河神社は来る者こばまず・・・?」.
2015.10.27
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橿原神宮 外拝殿 橿原神宮では10月5日から11月30日まで「橿原神宮 御本殿 特別参拝」が行われています(2015年)本殿檜皮葺屋根の修復工事にともなうものですが、この一般公開は橿原神宮125年の歴史で初のこと。本殿は現在も檜皮葺のため、40年毎に修復あるいは葺き替えが行われるそうです。 表参道 東向きの社殿と大参道。贅沢なほど広い敷地で、青空がとても似合う境内です。 南神門 初の本殿公開のため、大勢の参拝者が訪れているかと思いましたが平日ということもあってか、お昼過ぎの参拝でしたが静かな境内でした。(参拝日時:10月16日13:00)「癒し」とか「和み」ではなく、この境内はいつ来ても凛とした気に背筋が伸びる思いがします。 普段の一般参拝は、上の写真のように外拝殿(げはいでん)からの参拝。外院斎庭と内拝殿の向こうには千木が見えています。外拝殿からの撮影は可能です。今回の特別参拝では、内拝殿の外側までは撮影が許可されていました。 ■御祭神 神武天皇 媛蹈鞴五十鈴媛皇后 奈良県橿原市 久米町934橿原神宮公式HP 内拝殿の屋根の向こうに見えていた千木は本殿のものではなく、幣殿の屋根のものです。橿原神宮では幣殿に千木と鰹木が付けられています。写真のように工事用の白いテントに覆われた本殿は明治天皇より下賜された京都御所の賢所(かしこどころ)を移築したもの。天皇から下賜された建物を改装することは畏れ多いため、千木と鰹木は幣殿に取り付けられたのだそうです。そのためか、今回の修復工事でも手が加えられるのは一部のみ。屋根の葺き替えも表面の部分だけで、下層部は残すそうです。金具も取り外されていましたが、磨き直して再利用するのだそうです。 内拝殿 創建は明治23年。橿原神宮の建設は当時としては特別な国家プロジェクトだったそうです。国中から橿原にちなんだ樫の木などの献木が奉納され、全国から大勢の勤労奉仕も実施されたと伝えられています。これだけの用材は国内だけでは集まらず、台湾から輸入されたそうです。少し赤みがかっているのは台湾檜の特徴だと、ご神職から説明を受けました。 今回の「特別参拝」では、毎時ちょうどにご神職が同行して社殿の説明をしていただけます。先にご紹介したように本殿の一般公開は、橿原神宮125年の歴史上初のことだそうです。伊勢神宮などのように式年遷宮があるわけではなく、檜皮葺屋根の葺き替え工事なので40年に1度の機会のようです。次回そういった工事が行われても、その時の宮司が決断しなければ今回のような一般公開は実施されないそうです。期間は11月30日まで。神社好きの方なら、この機会を逃す手はありません。婚礼や七五三などのため、参拝出来ない日があったり参拝可能な時間も日によって違うようです。詳しくは橿原神宮公式HPで事前にご確認ください。 橿原神宮公式HP ここでは言えない龍水のホンネ「龍水御朱印帳・裏ばなし」橿原神宮の子宝の木?ここに行けば男の子を授かるのだとか.
2015.10.22
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飛鳥寺の北東にある小高い丘の上に鎮座する神社。元々は飛鳥神奈備山に鎮座していたそうですが、平安時代に現在の地、鳥形山に遷座されたそうです。その飛鳥神奈備山は「雷丘」や「甘樫丘」など、どの山のことだったのかは諸説あるようです。2月の第一日曜日の御田植神事、「おんだ祭」が奇祭として有名。豊年を予祝する夫婦和合の神事です。一昨年、「かぶりつき」で拝見させていただきましたが、確かにそれは奇祭でした。何度か飛鳥坐神社や「おんだ祭」をご紹介していますが、いつも祭事のあとになっていました。そろそろ来年のカレンダーや手帳が出回る今日この頃、是非とも来年2月の第一日曜日にチェックを入れていただきたいと思います。その御神事については、別サイトでご紹介させていただきます。 鳥居から階段を上ると迎えてくれるのが、男根の形をした「マラ石」たち。以前はもっとたくさんあったそうですが、参拝者などが持ち帰ってしまったそうです。密かなたくらみがあってのことでしょうが、盗んだもので御利益があるとは思えません。よほど切実な悩みがあってのことだったのでしょう。その悩みもわからないではありませんが、私なら「持ち帰る」のではなく、逆に希望するサイズのそれなりの石を探してきて奉納します。もっと若いときにそうしておけばよかったと後悔しています。 石段正面に鉄籠で保護された石があります(上の画像)。これはマラ石ではなく「力石」と呼ばれるもの。男性は左手、女性は右手で持ち上げることが出来れば幸福をつかめるとの言い伝えがあります。 飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)奈良県高市郡明日香村飛鳥707番地1 申し遅れました。この明日香村の古社は飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)。御祭神は事代主命、 高皇産霊神、大物主命、飛鳥甘奈備三日女神。この神社の本殿は、ダム湖に水没するため遷座することになった丹生川上神社上社から譲り受けたものだそうです。 境内にも陽石(男根型)がたくさんあります。むすびの神石は陰石(女陰型)と陽石が一対になっています。私のような現代の紳士、そして淑女には多少抵抗がある境内ですが、古代には「性」は今のような「秘め事」ではなかったようです。古事記においても、「性」はとてもおおらかに書かれています。古代人にとって陽石・陰石は、子孫繁栄・五穀豊穣のシンボルだったのでしょう。この神社の御祭神である「高皇産霊神(タカミムスビノカミ)」は、男女のムスビの神(高皇産霊神は男神)、生成の神と言われています。 この神社、意外と知られていないのが「元伊勢」伝承地であること。近世までは「元伊勢」と呼ばれていたらしく、近所に石標もありました。宮中を出て初めての鎮座地「倭笠縫邑」と考えられていたようです。現在はその倭笠縫邑は大神神社摂社・檜原神社という説が一般的です。 その「元伊勢」とは、天照大神と豊受大神を祀る飛鳥坐神社の境内社・奥の社のことだと思われます。その奥の社の奥にあるのが、御皇産霊神を祀る「奥の大石」です。下にこっそり画像を載せておきますが、解説は省略させていただきます。通常はこういう撮影はご遠慮させていただくのですが、この神社のこの石神さまは特別ということで。 社務所には、最近の草食系男子に身に付けてもらいたいような御守がずらり。関西で有名なテレビ番組でも紹介されたようです。モザイクなしで大丈夫だったのでしょうか? 拝殿下に咲く、正に「むすびの神社」らしい源平桃。1本の木にピンクと深紅の花や、1つの花に両方の色の花びらを持つ木です。初めて見た時は「奇跡」の木だと思いました。(撮影は2014年4月11日)物部も蘇我も藤原も天智天皇も天武天皇も、厩戸皇子も葛城皇子も吉野に坐すよんどころないお方の都への思いもこの国を思う共通点でひとつになって飛鳥坐神社に咲く「源平桃」のように違う色でもひとつの木に仲良く咲く。現代の明日香はそんな場所の象徴であって欲しいと思うのです。 「龍水御朱印帳・裏ばなし」ここでは言えない龍水のホンネみんな大好きムフフ♡な神社のムフフ♡な御神事「天下の奇祭・おんだ祭」.
2015.10.14
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自凝島神社(おのころじまじんじゃ)兵庫県南あわじ市榎列下幡多415おのころ島神社公式HP ■御祭神 伊弉諾命(いざなぎのみこと) 伊弉冉命(いざなみのみこと) 合祀 菊理媛命 淡路島にある神社。悪天候の中、伊弉諾神宮とともに「ここだけは」との思いでなんとか参拝することが出来ました。 朱塗りの大鳥居は高さ21.7mあるそうです。日本三大鳥居のひとつとも言われます。この「日本三大鳥居」は諸説あって、どれが一般的なのかよく知りませんが。鳥居の高さで言えば、熊野本宮大社の大斎原(おおゆのはら)のものが約34m、大神神社の大鳥居が約32m、最上稲荷(妙教寺)大鳥居が27.5mそして平安神宮のものが24.4mなどに次ぐ規模。これらの大鳥居はいずれも名だたる有名寺社のものであり、そのことを考えればおのころ島神社の大鳥居は破格の大きさだと思います。 本 殿 神社は小高い丘の上に鎮座。この丘が国生み神話の「おのころ島」と伝えられています。記紀神話によれば、おのころ島とはイザナギノミコトとイザナミノミコトが天の浮橋に立ち、天の沼矛の先から落ちた潮の滴が凝り固まってできた島。その島に宮を建て、夫婦の営みをされて多くの国と多くの神々を生んだことになっています。神話の舞台なので実在した島かとうかは不明ですが、この他の伝承地としては淡路島の南にある沼島や九州の能古島などがあります。 本殿前にある「鶺鴒石(せきれいいし)」社伝によればこの石の上にいた鶺鴒の交尾を見て夫婦となったとのこと。新しい出会いを願う場合は白縄、赤縄の順に握り、今の絆を深めたい場合は赤縄、白縄の順、そしてカップルで参拝の場合は手をつないで男性が赤縄、女性が白縄を握り思いを込めて祈願するとよいのだそうです。 摂社・八百萬神社 境内散策は小さな丘をぐるりと巡る形。裏手には昭和57年に大鳥居が出来るまでの鳥居だったと思われるものが石段みたいに置かれていました。本殿方向から見たときは、石のベンチかと思いました。 国生み神話では、最初につくられたのが淡路島。この神社の丘「おのころ島」は今では淡路島の一部というわけですね。 上の2枚の写真は、道向にある駐車場からみた「おのころ島」神社前にとめられた車からも、鳥居の大きさがわかると思います。瓦葺の建物はこの神社の社務所です。 龍水御朱印帳・裏ばなし「おのころ島神社でまさかの失態???」あとから気づいた夫婦の危機神話の裏ばなしetc.
2015.09.05
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■猿田彦神社(末社)・御祭神 猿田彦大神 大鳥居をくぐってすぐ左手にある猿田彦神社。ここの狛犬は、胴体に文字がぎっしりと刻まれてありました。 九 社 の 宮(写真手前より)■劍神社[つるぎじんじゃ](末社)■金神社[かねのじんじゃ](末社)■林神社[はやしのじんじゃ](末社)■鏡神社[かがみのじんじゃ](末社)■天利劔神社[あめのとつるぎじんじゃ](摂社)式内社■天伊弉奈姫神社[あめのいざなひめじんじゃ](摂社)式内社■天伊弉奈彦神社[あめのいざなひこじんじゃ](摂社)式内社■擬領神社[おおみやつこじんじゃ](末社)■伊佐々別神社[いささわけじんじゃ] (摂社) ■神明両宮(末社) 九社の宮のさらに奥にある神明両宮。 御祭神 天照皇大神 豊受大神 ■大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)末社 式内社(手前) ・御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)■兒 宮(このみや)末社 ・御祭神 伊弉冊尊(いざなみのみこと) ■角鹿神社(つぬがじんじゃ)摂社 式内社 ・御祭神 都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと) 古殿地遥拝所 現在は小学校のグランド内にある、氣比之大神降臨の地と伝わる「土公」を遥拝。 ここの狛犬もタテガミのようなものがある、変わった形をしています。 .
2015.06.06
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常神社(つねじんじゃ)福井県三方上中郡若狭町常神10-2 ■御祭神 神功皇后 若狭彦神・若狭姫神・鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト) 天照皇大神・柳原神・渡津松神・神留間神・三望大神 景勝地として名高い福井県の三方五湖。そこから海に突き出る形で常神半島があります。その先端部にある常神という地区に鎮座する小さな神社。元は常神半島の北にある御神島(おんがみじま)にあったものを現在地に遷座したものだそうです。「常神」そして「御神」と意味深な地名ですが、そこに至る途中にも「神子(みこ)」という集落もあります。それらの地名から、スピリチュアル系の人や一部の神社好きには人気があります。 御神島 神社好きでも、神話や有史前の歴史に興味のない方は「わざわざ行くほどの場所ではない」と言う人もいます。実際、三方五湖あたりから常神社まではおよそ20kmの狭いワインディングロードを走らねばなりません。それでも前回の参拝時(2007年)に比べるとずいぶん楽なドライブでした。難所と思われる場所を避けるトンネルがいくつか建設されていたからです。 若狭という地域は、古代においては朝鮮半島との交流があったと伝えられています。「ワカサ」という地名も、朝鮮語で「行き来」を表すものだそうです。同じく神功皇后を祀る神社が敦賀半島にもあります。越前国一ノ宮・氣比神宮の奥宮とも称される常宮神社(じょうぐう)です。しかも古くはその常宮神社の神官が常神神社の祭祀を行っていたとも伝えられています。常宮神社の社名については、神功皇后のご神託にちなんだもと言われていますが常神社と共通の「常」に、なにか特別な意味があるような気がします。これも朝鮮語に関係するものかも知れません。 神功皇后と言えば、別名・息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)。近江国東北部を本拠地とする息長氏の出自です。息長は潜水を意味していて、古くは海洋族だったとも言われます。若狭という土地は、九州や朝鮮半島から日本海をまたにかけた海洋族が大和朝廷が出来る遥か前にたどり着いていた場所なのかも知れません。三方五湖の近くに宇波西神社(うわせ)があります。御祭神は鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)で、宮崎の鵜戸神宮からの勧請と伝えられています。またその地域の伝承では、御祭神が日向から出雲を経てやって来たとも言われます。三方五湖のひとつに日向湖があり、宇波西神社は元はそこにあったとのこと。神社の伝承によると、と日向湖辺りの方言は九州日向の漁村のそれと同じだと言います。 常神社は神社庁の資料では「つねじんじゃ」となっていますが、地元では「つねかみしゃ」とも呼ばれているようです。手つかずの神秘的な社叢に囲まれた神域なのですが、排他的で長居出来ない雰囲気がありました。 ここには書けない龍水のホンネと毒舌「龍水御朱印帳・裏ばなし」.
2015.05.11
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奈良県吉野郡吉野町喜佐谷423 ■御祭神 大己貴命・少彦名命・天武天皇 壬申の乱前夜、吉野入りした大海人皇子(天武天皇)が近江側の兵に追われたとき このあたりの桜の木に身を隠して難を逃れたという伝承があります。 この「桜木」という神社名が、その伝承に由来するものかどうかは不明。 しかし天武天皇が即位後もたびたび行幸した記録が残る吉野宮に近く 天武天皇ゆかりの神社と言えそうです。 八咫烏神社の記事でも書いたかも知れませんが、 吉野から宇陀にかけての神社でおなじみの本殿が高台にある配置。 山が多い地域ならではの境内なのかも知れませんが、 京都では東山などの山麓でもこういう形の神社は思い当たりません。 拝 殿 吉野町設置の案内板より 万葉の香り高い象(きさ)の小川のほとりに鎮まるこの神社は、大己貴命・少彦名命、それに天武天皇をお祀りしています。大己貴命・少彦名命は、古くから医薬の神としての信仰があつく、特に初代紀伊藩主大納言徳川頼信公は、たびたび病気平癒を祈願しています。 天武天皇がまだ大海人皇子といわれていたころ、天智天皇の近江の都を去って吉野に身を隠しましたが、あるとき天皇の子、大友皇子の兵に攻められ、かたわらの大きな桜の木に身をひそめて、危うく難を逃れたいう伝説があります。のち大海人皇子は勝利を得て(壬申の乱・六七二)明日香の浄見原に都を定めて、天武天皇となられたのです。 このあと吉野の宮(宮滝)に行幸されると、篤くこの宮を敬われ、天皇なきあとは、ゆかり深い桜木神社へお祀りしたと伝えられています。 皆人の恋ふるみ吉野今日見ればうべも恋ひけり山川清み と万葉集にもあるように、そのかみの大宮人は、吉野川を舟競い、あるときは草摘みに、又あるときは神に祈るため、この辺りへもたびたび歩を運んだことでしょう、そう思うだけでもこの辺りのたたずまいは、万葉の抒情がそくそくとせまって来るではありませんか。 境内の御神木は桜ではなく、樹齢7、800年と言われる杉。 高さは40mほどあるそうです。 象川(きさがわ)という小川を渡って境内に入ります。 象川に架かる橋には屋根が設置されています。 上の写真は神社側から見た木末橋(こぬればし)。 み吉野の 象山(きさやま)の際(ま)の 木末(こぬれ)には ここだもさわく 鳥の声かも 万葉集 巻7-924 山部赤人 この象(きさ)の小川は、すぐ下の吉野川に流れ落ちます。 その深い淵になったあたりは「夢(いめ)のわだ」と呼ばれ、 万葉の歌人たちの憧れの場所だったようです。 夢のわだ 言にしありけり うつつにも 見て来るものを 思ひし思へば 万葉集 巻7-1132 読み人知らず 我が行きは 久にはあらじ 夢のわだ 瀬にはならずて 淵にもありこそ 万葉集 巻3-335 大伴旅人 私はこの宮滝に来ると、柿本人麻呂の歌を思い出します。 私はどこでどう勘違いしたのか、 しばらく「夢のわだ」のことを「 常滑(とこなめ)」と思っていたほどです。 持統朝の宮廷歌人だった人麻呂は、きっとこの辺りのことを詠んだのだと思います。 天武天皇の皇后でもあった持統天皇も、 度々この辺りにあったとされる吉野宮に行幸した記録があるのです。 見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の 絶ゆることなく またかへり見む 万葉集 巻1-37 柿本人麻呂 何度見ても飽きることのない吉野川。その常滑(水苔)のように絶えることなく何度も見に来よう .
2014.07.03
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産田神社(うぶたじんじゃ) 三重県熊野市有馬町814 ■御祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、軻遇突智命 この神社はイザナミノミコトがカグツチノミコトを生んだ場所との伝承があります。古事記などによれば、イザナギノミコトとイザナミノミコトの国生み神話においてイザナミノミコトは火の神、カグツチノミコトを生んだあと火傷して亡くなります。そして亡くなったイザナミノミコトのお墓が花窟神社(はなのいわや)と言われています。花窟神社はすぐ近くの海沿いにある神社で、古い祭祀形態の本殿がない神社です。 日本書紀・神代、国生み神話の終盤に「一書にいう(第五)」として 次のように記されています。 伊弉冉尊が火の神を生むときに、からだを焼かれてお亡くなりになった。それで紀伊国の熊野の有馬村に葬った。土地の人がこの神をお祭りするには、花のときに花をもってお祭りし、鼓・笛・旗をもって歌舞してお祭りする。 本 殿 花窟神社が伊弉冉尊の墓所なのですが、ここは軻遇突智命を生んだ場所なので 「産田」と名付けられたのだそうです。 軻遇突智命を生んだ場所ということは、 伊奘冉尊が亡くなった場所でもあります。 それだけではありません。 神話によれば、愛する妻の死の原因となったことに怒った伊弉諾尊は 生まれたばかりの軻遇突智命を切り殺してしまうのです。 ここが軻遇突智命の生まれた場所だとすれば、 軻遇突智命が亡くなった場所でもあるのです。 軻遇突智命は生まれると同時に母を焼き殺すという深い傷を負い 同時に父親から切り殺されるという、やり場のない悲しみと怒りを背負った神。 子供が受ける心の傷では、これ以上深い傷はないでしょう。 裏を返せば、これほど人の痛みをわかる神はいないとも言えるかもしれません。 私たちが軻遇突智命を祀るとき、その悲しみや怒りを炸裂させるのではなく 私たちに温もりと光を与えてくれる火の神として祈りを捧げたいです。 軻遇突智命はサラマンダーではないのです。 ここは古くから祭祀の場所だったと考えられています。 境内からは弥生時代の土器も見つかったそうです。 また地元の言い伝えでは、 崇神天皇の命によりこの神社の神を遷したのが熊野本宮大社のはじまりだそうです。 江戸時代までは両社で同じ巫女舞が伝承されていたとのこと。 また現在でも、熊野本宮大社の巫女舞に「有馬」が表されるとも。 ただし現在の巫女舞については未確認情報です。 東紀州の特産品のひとつに、さんま寿司があります。 産田神社はそのさんま寿司発祥の地と称しています。 産田神社前にある熊野市の案内板の説明によればこの神社での直会で出されたものが「さんま寿司」の原点なのだそうです。 ※参考・別解説ブログ 「 熊野古道 ~伊勢路~」 「東紀州のさんま寿司」 .
2014.06.29
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手向山八幡宮 楼門 寺院にはその守護神として勧請された鎮守が祀られています。 また、清水寺(地主神社)や高野山(丹生明神)などのように多くの寺院では 建立前からの地主神を改めて祀っています。 東大寺の鎮守社は手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)です。 天平感宝元年(749年)、宇佐神宮より勧請された八幡神。 現在では全国に4万数千社あると言われる八幡宮。 手向山八幡宮は総本宮・宇佐神宮から勧請された最初の神社だそうです。 つまり石清水八幡宮や鶴岡八幡宮よりも歴史が古いということ。 本 殿 手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)奈良県奈良市雑司町434 ■御祭神 応神天皇 姫大神 仲哀天皇 神功皇后 仁徳天皇 手向山八幡宮の場所は三月堂とも呼ばれる法華堂の南。多くの参拝者は大仏殿→二月堂→三月堂からの流れで境内に入るようです。しかし平日でも多くの参詣者でごった返す大仏殿に比べ手向山八幡宮の境内はいつでもひっそりとしています。「お水取り」で有名な二月堂でさえ、訪れる観光客の数は大仏殿の百分の一にも満たないのではないでしょうか。しかも手向山八幡宮の参拝者の多くは、「たまたま見つけたから参拝した」という人ではないかとも思います。 参拝者のほとんどは二月堂方面からの観光客なのですが、 鏡池の北東に大きな朱の鳥居があり、立派な参道がまっすぐに神社に向かっています。 この参道の先に冒頭の画像、楼門があるのです。 神社正面の参道には手水舎はなく、楼門をくぐった境内にあります。 しかも拝殿よりもやや北にあり、二月堂・三月堂(法華堂)方面からの参拝者に配慮された位置。 狛犬のような石像から水が出ている手水は、ちょっと珍しいと思いました。 ・神社御由緒より(抜粋) この手向山八幡宮は、奈良時代聖武天皇が大仏の造営をされたとき、これに協力のため749(天平感宝元)年に宇佐から八幡宮を迎え大仏殿近くの鏡池(八幡 池)の東側に鎮座したのに始まる。そして以後東大寺を鎮守したのである。鎌倉時代の1250(建長2)年に北条時頼によって現在地に鎮座した。 いつ来てもひっそりと静かな境内。 いかにも奈良公園内らしい、鹿の姿も見られました。 ちなみに春日大社では、楼門内に入ってきた鹿はご神職たちが追い払っておられました。 この神社では、写真に見えるロープを張った柵がその鹿対策なのでしょう。 手向山は紅葉の名所だそうです。 「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」 古今和歌集には菅原道真の歌も残っています。 その縁により、ここからもみじの苗木が北野天満宮に奉納されたのだとか。 境内にはその歌碑と「菅公の腰掛石」がありました。 若 宮 拝殿を持つ若宮は大鷦鷯命(仁徳天皇)を祀っています。 その左右には高良神社(御祭神・大伴健将)若殿神社(御祭神・菟道稚郎子)があります。 新緑の中にひっそりと佇む檜皮葺の住吉社(鎌倉時代)は 国の重要文化財の指定を受けています。 この辺りには小さな橋が架けられています。 水量の多い時期には、手向山から流れ落ちる水をたたえているのかも知れません。 元は東大寺境内にあったと言われる東照宮も安置された神楽所。 奈良公園内では、東大寺、興福寺、春日大社の存在が大きいのですが ここは「日本で二番目の八幡宮」とも言えます。 歴史的にも古い神社ですし、もう少し注目されて欲しい神社ですね。 東大寺周辺の神社 .
2014.06.22
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八咫烏神社(やたがらす)奈良県宇陀市榛原高塚42 八咫烏神社公式HPhttp://www.yatagarasujinja.net/■御祭神 建角身命 神武東征の際、熊野から大和への道案内をしたと伝わる八咫烏(やたがらす)。賀茂氏の祖、建角身命の化身とも言われます。神社御由緒によれば、宇陀の地元氏族に八咫烏伝承があったとのこと。元々は地元氏族の祖を祀った神社だったかも知れません。御祭神が建角身命とされたのは、8世紀以降に山城の賀茂氏が有力となったためとか。だとすれば、宇陀の人々にとっては不本意だったかも知れません。 本殿は拝殿の後方、高い位置にあります。気のせいかも知れませんが、丹生川上神社や桜木神社などのように宇陀や吉野にはこういう造りが多いようです。本殿は春日造。ご覧のように屋根は銅板。同じ宇陀市にある室生龍穴神社本殿などのように、いわゆる「春日移し」ではありません。八咫烏はJリーグのシンボルマークになっています。そのためか境内にサッカーボールを頭に乗せた八咫烏の石像があります。 陸上自衛隊中部方面情報隊の隊章も八咫烏をデザインにしており毎年、同隊は参拝しているそうです。 .
2014.06.15
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談山神社(たんざんじんじゃ)奈良県桜井市多武峰319 談山神社公式HP ■御祭神 藤原鎌足 今回この神社の記事を書くため、過去の記事を参考にしようと思いましたが索引のページで探しても見当たりませんでした。なんと意外なことに、今回が初お目見えのようです。 本殿前の楼門 元々は「多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)」という寺院。鎌足の死後、鎌足の長男で僧の定恵が父の墓を摂津安威よりこの地に移し十三重塔を建てたのが始まりと伝えられています。明治の神仏分離令により談山神社と改称。「談山」の神社名は、中臣鎌足と中大兄皇子が大化の改新の談合をこの多武峰にて行ったことからこの地を「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことに由来するそうです。 現在も神仏習合の名残を色濃く残しており、木造のものとしては世界唯一とされる 十三重塔はそのシンボルとなっています。 本殿 絢爛豪華な造りの本殿は、日光東照宮建立の際の参考にされたそうです。 645年の「大化の改新」と言えば、私が子供の頃は明治維新と並んで歴史上の大改革と教えられていました。しかし現在では、それほど大きな評価はされていないようです。天皇を中心とした律令制度が整ったのはもっと後の時代ですし厩戸皇子(聖徳太子)や蘇我氏が進めていた政治の方が開明的だったとの説もあります。現在の歴史の本には、単なるクーデターとして「乙巳の変」と表記されているのをよく目にします。 そういった歴史のせいではないのでしょうが、この談山神社は山の中にありながら、なかなか波乱万丈の歴史を持っているようです。同じ藤原氏の寺院である興福寺との争いが絶えず、興福寺衆徒勢の焼き討ちでことごとく消失し てしまったこともあったとか。 現在の談山神社は紅葉の名所として知られています。紅葉も確かに美しいのですが、私は新緑のモミジが大好きです。春の陽に輝く薄黄緑が、朱の社殿に映えてここが多武峰という山の上だということを忘れさせてくれます。 拝殿からの光景は、京の寺院から庭園を眺めているような気分になります。蘇我贔屓の私ですが、藤原鎌足を祀る神社で穏やかな気分にさせていただきました。 「乙巳の変」の発端の地は数々の争いの傷を負いどこの神社よりも争いを好まない神域へと浄化されたのかも知れません。 龍水御朱印帳・裏ばなし「神々の融和」ご神事をする知人によればかつて争った神々の融和が始まっているのだとかその融和が徐々に人にも降りてくる予感が・・・.
2014.06.03
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丹生神社・拝殿奈良県宇陀市榛原雨師366 ■御祭神 高靇神(タカオカミノカミ) 鎮座地の地名からもわかるように、雨乞いの儀式が行われていたのでしょう。ナビにも地図にも掲載されていましたが、それでも迷いました。簡単に行ける場所ではありません。 神社への入り口付近には「菟田川之朝原傳稱地」と書かれた案内板がありました。「宇陀川の朝原」とは神武東征・戌午の年9月、大和平定を占った場所として日本書紀に記されています。神社、またはこの地にそういった伝承が残っているのでしょうか。 日本書紀に書かれたその地は「神武聖蹟」として、もう一か所伝承地があります。しかも、こちらは戦前のお国のお墨付きです。 そちらについては、「副音声」の方でご紹介したいと思います。 すぐ下には小さいながらも集落があるのですが、周辺の光景も参道も別世界のような空間が広がっていました。ここは山で森の中なのですが、水を司る龍神さまの神域です。 『人声聞えざる深山に宮柱を立て祭祀せば、 天下のために甘雨を降らし霖雨を止めむ』 22社に列せられた丹生川上神社創建の 御神誨。タカオカミノカミ、クラオカミノカミ、そしてミズハノメノカミなどの雨乞いの神は稲作に関わる川に宿る神だと考えられていたのでしょう。 社殿までの参道の坂は、それほど険しくはありません。しかしサンダルなどで気軽に参拝出来る場所でもありません。階段の上に見えているのは、手水舎の屋根です。 この写真は、拝殿前から参道を見下ろしたものです。こういう場所に来ると落ち着きます。私は同じ龍神さまでも、海ではなく山の水の神にご縁があるのでしょう。そう言えばこの10年近く、森と水の写真ばかり撮ってきたような気がします。 拝殿がどうとか、本殿がどうとかではなくここは神社周辺全域が龍神さまの神域といった感じです。神社に「パワースポット」という言葉を充てるなら、こういう場所のことだと思います。しかしブームに踊らされた人たちも、ここまではやって来ないでしょう。 だからと言って、私たちも勘違いしてはいけません。ご神事に携わっている人であろうと、私たちのような神社マニアであろうとこの場は神の宿る神域であり、この神社はこの地域の方々の大切な祭祀の神社なのです。参拝させていただけることに感謝し、地域の方々のご迷惑にならないよう注意しなければいけません。 「これくらいなら、ギリセーフだろう」 そう言い訳しながらこういうアングルで撮影する私も勘違いの傲慢マニアかも知れません。 撮らせていただいた写真は、出来るだけ神様に喜んでいただけるような使い方をしたいと思います。 ※副音声チャンネルはこちら.
2014.06.01
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壬申の乱前夜、追手から逃れて吉野に入った大海人皇子(おおしあまのみこ・清見原天王=天武天皇)。皇子に老夫婦が根芹と国栖魚(鮎)を献上した。皇子が残した半身の国栖魚を賜った老翁が、吉兆を占うようにその魚を川に戻すと生き返って泳ぎ始めた。 これは謡曲「国栖」の一場面。私はこの能を観ていませんし、どこでこの逸話を知ったのか記憶もないのですが、この場面のことを覚えていて、そしてその舞台となった場所のイメージが正に上の写真のようなものだということを鮮明に覚えていました。 奈良県吉野郡吉野町南国栖 ■御祭神 天武天皇 神社名は御祭神の天武天皇に由来するのでしょう。天武天皇は壬申の乱に勝利した後、飛鳥浄御原宮で即位しました。上記謡曲の他、この地には天武天皇をかくまったという伝承があるそうです。天武天皇(大海人皇子)を探して嗅ぎ回る敵方の犬を殺し、皇子を守ったというもの。そのため国栖の里人は犬を飼わず、この辺りの神社には狛犬がないのだとか。 国栖の村人が犬を飼わないかどうかは定かではありませんが、この付近の神社に狛犬がないのは確かなようです。この浄見原神社にも狛犬は見当たりませんでした。 この神社では毎年1月14日に国栖奏が奉納されます。神社の近くにあった吉野町観光課の案内板によれば、その起源は応神天皇の時代とのこと。おそらくは天武天皇の時代からでしょうが、国栖奏は宮中で奉納されていたそうです。その後、宮中への奉納は途絶えました。しかし県の無形民俗文化財に指定されたことを機に保存会が結成されてこの伝統神事が受け継がれているそうです。 神社への入口付近から望む吉野川。この辺りは「天皇淵」と呼ばれているそうです。しかしこの天皇淵はおろか、神社への案内板などは一切ありませんでした。 ナビにも掲載されておらず、神社の位置が記されていた地図にも神社までの道順のデータはありませんでした。この辺りかと思しき場所の突当りに小さな駐車場がありました。無料の料金箱に500円投入して駐車。500円もとるのなら、「浄見原神社入口」の表示くらいあってもよさそうなのですが・・・。 少々不安に思いながら森の中に続く径を川沿いに歩きました。観光課の案内板はこの径の先にあるので、果たして見る人がいるのかどうか疑うような場所です。鳥居が見えたときはほっとしました。神社を見つけた感動よりも、500円が無駄にならなくてよかったという思いから・・・。 社殿も崖の岩陰にひっそりと建てられていますが、この辺りも隠れ里のような場所。観光課の案内板さえ森の中にあり、神社への案内等が付近にないのは、今でもこの地の人々が大海人皇子をかくまっていらっしゃるからかも知れません。 .
2014.05.24
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若狭彦神社福井県小浜市竜前 ■御祭神 若狭彦大神 (彦火火出見尊) 若狭・小浜は第二の故郷のような所で、この若狭国一宮にも何度も参拝しています。私にとってはあまりにも身近な感じがあって、あたりまえのような光景に映ってしまいますが若狭彦神社の参道も境内も、そして若狭姫神社の千年杉もあらためて見直してみると歴史と風格を感じさせる神聖さがあります。 若狭彦神社参道・二の鳥居 こういう素晴らしい場所に何度も来られることはありがたいことです。上宮とも呼ばれる若狭彦神社には、現在は社務所がありません。しかし、この参道に枯葉や小枝が落ちているのを見たことがありません。いつもは静かな境内ですが今回の参拝はGW中ということもあって、何組かの参拝者がいらっしゃいました。 湧き水を竹筒で引いた手水。この竹筒は定期的に取り換えられているようです。一見、間に合わせの素朴な手水のようですが、実はとても手間暇かけてあると思います。竹筒ではなく、塩ビのパイプ等を使えばもっと簡単で耐久性もあることでしょう。 若狭彦神社神門 若狭彦神社から北に約1.5km。下宮とも呼ばれる若狭姫神社があります。現在の祭事はこちらに移っており、社務所もこちらの神社にあります。社務所では若狭彦神社、若狭姫神社両方の御朱印がいただけます。 こちらは国道27号線に近いこともあって、若狭彦神社のような鎮守の森はありません。実はこの東に民家に囲まれて一の鳥居があるのですが、この10年間一度もくぐったことがありません。 福井県小浜市遠敷 ■御祭神 若狭姫大神 (豊玉姫命)元々この地に降臨された神は遠敷大明神(おにゅうだいみょうじん)ですが、若狭彦神社と若狭姫神社のご祭神は現在、山幸彦と乙姫さまということになっています。確かに若狭湾は竜宮がありそうな海。近隣の神社にも若狭彦大神、若狭姫大神を祀る神社があります。特に海沿いの神社に祀られているように思えます。 本殿横にある千年杉。若狭彦神社の直線的な杉と違って、女性的な曲線が母の強さを感じさせてくれます。一部の似非スピ系のバカどもが恍惚の表情でハグしそうな御神木ですが幸いこの千年杉に一般参拝者は触れることは出来ません。開放的な場所にある御神木は、人の手が届く範囲の幹が擦り切れ根本は踏みつけられてツルツルに木肌が露わになってしまっています。あれでは「木のパワーをいただいている」とは言えず「奪っている」としか思えません。樹木で最もパワフルなのは新芽が息吹く先端の部分なので巨木と語り合うのなら、こうして少し離れた場所がベストなのだと思います。木の幹に耳をあて、水分が吸い上げられていく音が聞こえると言う人もいますがのこぎりや斧を入れて、幹から水が噴き出してきたという話を聞いたことがありません。 木の話題になって、つい毒を吐いてしまいました。とにかく神社などの境内に限らず、自然や木をもっと大切にして欲しいものです。若狭国一宮とその周辺については過去の記事をご参照ください。・若狭彦神社・若狭姫神社・若狭国一之宮の神域.
2014.05.17
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外拝殿橿原市 久米町934 ■御祭神 神武天皇 媛蹈鞴五十鈴媛皇后 意外なことですが、公式HPは開設されていないようです。創建は明治23年。明治神宮や近江神宮などと同じように明治から昭和にかけて建てられた神社独特の荘厳さを感じます。 一の鳥居から真っ直ぐに伸びる大参道。両側には副道もありました。誰もいない参道を歩くことはどの神社でも気持ちいいものですがこれだけ大きな参道だと畏れ多い感じがします。 自称「明日香プロ」の私は、年に一度は明日香めぐりをします。その際、最初にここに参拝するのが恒例となっています。ただしこのあとの明日香村が気になって、いつだってゆっくり参拝出来ていません。北門の先にはほとんど行ったことがないくらいなのです。次回は丁寧に回ってみようと思います・・・。 南神門 参道も独特の神聖な雰囲気がありますが、ここから先はまた違った空間が広がるのです。服装を正し、背筋を伸ばさずにはいられません。橿原神宮は清々しい葵空が映えるのですが、この日は少しもやっていて残念でした。 鎮座地は畝傍山の麓、神武天皇が即位したと伝わる橿原宮跡。神門前から見ると、外拝殿の向こうに畝傍山が望めます。 香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相あらそひき 神世より かくにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬を あらそふらしき 中大兄皇子確かに畝傍山は、大和三山の中では最も存在感のある美しい山だと思います。 我々一般参拝者は外拝殿からの参拝になります。外院斎庭(げいんゆにわ)をはさんで向かい側に見えるのは内拝殿。その向こうに千木が見えています。以前このブログでは「本殿の千木」と書いていましたが、この千木は幣殿のものだそうです。本殿は明治天皇から下賜された、京都御所の賢所を移築したもの。外拝殿前の広場はもちろんですが、この外院斎庭も相当な広さ。やはりここは天皇の宮という感じです。今でも前つ君たちの魂が集っているのかも知れません。 外拝殿の隣にある神楽殿も、明治天皇から下賜された京都御所からの移築で元の神嘉殿だったそうですが、現在の神楽殿は平成8年に再建されたものだそうです。神楽殿から大きな太鼓の音が鳴り響いてきました。 時報ではないようでしたので、境内のご奉仕作業を終える合図なのかも知れません。なにか始まるのかと思いましたが、そうではなかったようですし。ここでは各種ご祈祷のほか、結婚式なども行われるそうです。 南神門、手水舎の南にある深田池。遅咲きの枝垂れ桜や水辺の鳥たち。ここは神門内と違ってのどかな光景が広がっていました。 深田池前にある朱の鳥居は、長山稲荷社。橿原神宮がこの地に鎮座する以前からの地主神だそうです。現在は橿原神宮・末社と御由緒には書かれてありました。 .
2014.04.13
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伊勢神宮は昨年、「式年遷宮」の年を迎えマスコミなどでも盛んに報道されて、大勢の参拝者で賑わいました。ただし「遷宮」を終えたのは内宮・外宮と荒祭宮、多賀宮だけです。今年に入ってもその他の別宮などが新しく建て替えられます。 外 宮 伊勢神宮は正式には単に「神宮」と称しますが現在は他の「神宮」のつく神社と区別するために「伊勢神宮」と呼ばれることの方が多くなっています。神宮司庁の公式HPでも、「伊勢神宮」と表記されています。伊勢の神宮は皇大神宮(内宮)、豊受大神宮(外宮)を中心に別宮、摂社、末社、所管社を合わせた125社の総称。 皇大神宮所管社・御稲御倉(みしねのみくら) それらの中には豊受大神宮所管社の上御井神社(かみのみいのじんじゃ)などのように一般には公開されていないものもあります。また、四至神(みやのめぐりのかみ)などのように社殿を持たない小さなお宮もあります。多くは伊勢市周辺にありますが、別宮の伊雑宮(いざわのみや)や瀧原宮(たきはらのみや)などのように離れた場所に鎮座するものもあります。 昨年の暮れに伊勢を回りましたが、その時に外宮にある「せんぐう館」にも行きました。■式年遷宮・せんぐう館伊勢神宮の歴史などがわかりやすく展示されていてなかなか見ごたえがありました。せんぐう館の展示物や映像などを見ながら家内が「125社回ってみたい」とつぶやきました。 月讀宮ほか 二十二社や大和国四所水分(みくまり)などのように、数字でくくられると制覇してみたくなります。しかし125社は数が多いし、一般人には参拝出来ないものもあって完全制覇は不可能。しかし、今年は参拝可能な神社をすべて回るつもりでチャレンジすることにしました。 元伊勢・篠畑神社(宇陀市) せっかくなので、125社周辺の「元伊勢」も含め明日から斎宮周辺と松阪市の所管社などに行くことにしました。既に参拝したものを数に含めるかどうかは思案中ですが、基本的には本日以降に参拝し、撮影可能なものはここに掲載しながらカウントします。神社参拝に「カウント」とは不謹慎かも知れませんが、無理をしないよう125社めぐりを楽しみたいと思います。 .
2014.03.02
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丹生都比売神社(にうつひめ)和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野 230公式HP ■御祭神 第一殿 丹生都比売大神( にうつひめのおおかみ ) 第二殿 高野御子大神 (たかのみこのおおかみ ) 第三殿 大食都比売大神( おおげつひめのおおかみ) 第四殿 市杵島比売大神( いちきしまひめのおおかみ )なんと、こちらにも弁財天さま。丹生都比売神社は高野山の鎮守とも言われており高野山関係者からの狛犬の奉納も見られました。 雪化粧の境内もなかなか乙なもんです。しかしここまでたどり着くのは大変でした。 橋本市側から山越えをして行ったのですが、その標高はおそらくは1000mほど。除雪はしてあったとは言え、かなり無謀な山越えでした。いつ車がボブスレーと化すかヒヤヒヤものでした。と言いますのも、わたくしの車はノーマルタイヤだったからです。 今回が2回目の参拝でした。前回は昨年の夏、猛暑の中を渋滞に悩まされながら半日かけてたどり着きました。ところが、カメラを忘れるという前代未聞の大失態。そして今回がこの積雪ですから、ここの神様とはただならぬ「御縁」を感じます。 前回の参拝時には、本殿の工事中でした。おそらくは新しい桧皮葺屋根になっておられるのでしょうが、すっぽりと雪に覆われておりました。「もう一度撮りに来い」ということなのでしょうか。 しかしこうして見ると、雪景色もなかなか素敵です。「雪と言えば金閣寺」などと、ベタな考えしか持ちませんでしたが雪の神社も、これからヤミツキになりそうです。 .
2014.02.11
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