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天気が良いので、久しぶりに小樽に行ってみる。夫は小樽が故郷なのだが、親戚も減ったこともあり最近は行くことがめっきり減った。情報誌で「小樽手宮公園」には行ったことがないので、そこが一番の目的だった。…が、結論から書くと「ガッカリ!」とにかく、桜の手入れがされていないのだ。そのせいもあってなのか、はたまた病気や虫、あるいは寿命なのかわからないが、枯れた桜の大木があちこちで立ち枯れている。 咲いている木も勢いがなくて(これは適切な剪定がされていないためと思われる)いくら小樽市が財政困難だったり、市長の政治手法問題等でドタバタしていようとも、これは市民も含めた小樽市全体の問題だろうと思う。桜の木の手入れなどは、市民も積極的に関わらなくてはならないのに、小樽市の皆さんはどう考えているのだろう。ふと、石川啄木の短歌が浮かんでしまった。「かなしきは小樽の町よ 歌うことなき人々の声の荒さよ」私はこの歌を知った時、これでは小樽の人たちは悲しいだろうなと思ったのだけれど、詩人の直感は現代にも通じているのかと思ってしまった。観光客がお金を落としてくれることだけ期待していたりしちゃダメですよ。私たちも「ここが本当に手宮公園?」と感じたのだが、同じように感じた人2人に「手宮公園って、ここですか?」と聞かれてしまった。反省して下さい、小樽市の観光振興担当者さんと市民の人たち。その後は、気分なおしにと長橋なえぼ公園に向かう。こちらの方がまだ良かった。市民が家族連れで賑わっていて、公園を流れている小川には水芭蕉やおたまじゃくしもたくさんいて、子ども達の歓声も聞こえていた。公園はこうでなくちゃね。
2017年05月04日
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10月9日(月) 中二の孫の、〇〇中学校吹奏楽部定期演奏会。 第一部はクラシック系の4曲。第二部はポップス系の8曲。 孫曰く「おじいちゃんやおばあちゃんがよく知っている曲も演奏するから」。 アンコール曲含めて13曲も練習してきたんだなと、感心するばかり。 本当に楽しい半日となった。10月10日(月) 札幌で開催された「第三回自死遺族交流会」に参加。 自死遺族の会に参加している人からのお誘いで、知人と二人で参加した。 第一部の講演会は、札幌医大医学部、河西千秋教授のお話。 「自死対策・実践活動から北海道における課題を考える」という演題。 自死対策の動向や現状について色々知ることができたし、考えさせられるお話だった。 この先生が北海道に来てくださったことを感謝する。 その後、ご家族を自死で亡くされたお二人の体験談を聞く。 自死で亡くされたご家族もお一人お一人違うとは思うが、その苦しさの一端に触れ、 本当に胸が詰まる思いがした。 私たちが関わっている方も、まだまだ苦しみの中にいらっしゃる。 その苦しみを分かち合うことはできなくても、何とかそばに居続けていようと思う。10月11日(火) 夫が、「天気がいいから、支笏湖の紅葉の様子でも見に行くか」というので付き合う。 前日の研修会で心が重くなっていたので、ちょうど良いとも思った。 しかし、支笏湖はまだ紅葉には早く、夫は「じゃあニセコに行くか」と車を走らせる。 ルスツまで行ったところで、羊蹄が半分雲に隠れているので、洞爺湖に向かう事にする。 洞爺湖周辺もまだ、紅葉はこれからというところだが、ここはドライブには最高。 現在、東京オリンピックの会場のことで色々もめているが、 あの暑い時期に東京でマラソンなんて、地獄のマラソンになりそうだと思っているのだが、 思い切ってマラソン会場を洞爺湖にしたら、各国の参加者は喜ぶだろうねなどと話した。 洞爺湖温泉街にある「わかさいも本舗」のレストランで昼食を取り、 オロフレ峠を超えて登別温泉へ。 久しく地獄谷に行っていなかったので覗いてみたら、随分様相が変わっていた。 その後大湯沼から倶多楽(クッタラ)湖に行ったが、一軒あったレストハウスも閉鎖され、 文字通り「秘境」の湖になっていた。 静かで美しい湖で大好きな雰囲気があるのだが、そのうち道路も年中閉鎖されてしまったりして…。 そのあとは登別から高速道路に入り一気に帰宅した。
2016年10月12日
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秋晴れの24日、妹二人と私たち夫婦で富良野から美瑛へドライブ。一番の目的は、夫の姪の娘が焼いている自然酵母のパンのお店に行くこと。たまたま本州に住んでいる妹が来ているため、一緒に行けることになった。三笠から富良野に抜ける途中にある「芦別の三段滝」に立ちよる。何度か行ったことはあるのだが、随分周辺が整備されている印象。水量が多かったので、予想以上に迫力のある滝に、妹たちは大感激。やはり、滝は水量がなければ様相が随分違う。農家の空家をリノベーションしたパン工房は中富良野の畑の中にあり、ちょっと迷ってしまった。それでも、姪が手塩にかけた自然酵母と地元の小麦や豆・かぼちゃなどなどのこだわりパンに、私たち三姉妹はワイワイ言いながら次々と購入。「あんな田舎でやっていけるのだろうか」と彼女の母親は随分心配していたが、元気そうに清々しい笑顔は、充実した日々を感じさせてくれる。ずっと行きたかったので、やっと念願かなった思いであった。その後は、本州の妹が行きたいと言っていた「四季彩の丘」へ。ここに来たのはいつ頃だったのか忘れてしまったが、その時よりも随分敷地面積が広くなっているような気がした。以前来た時にはなかった「アルパカ牧場」というのもあった。この広大な花畑を管理するのは、本当に大変なことだろうと思う。(15ヘクタール、東京ドーム6個分とここでは説明されている。このような風景は、やはり北海道ならではでしょう。爽やかな風景を堪能したあとは、岐路へ。途中で中富良野の郊外型ショッピングセンターの一角にあるPOKHARA Dining中富良野店見つけて入る。こんなところにネパールカレーと思って入ったのだが、ランチメニューを見て嬉しくなった。ランチセットは、飲み物付きで780円なのだが、ナンが食べ放題だという。参考「食べ放題のナンだから、そこそこのサイズかもね」などと話していたら、ドーンとビックサイズ。はっきり言って私たち高齢者は、一枚食べるのでやっとであった。サイドメニューも色々あって、ちょっと食べてみたいものもあったけれど、注文しなくて良かった。カレーは中辛で頼んだのだが、私にはちょうど良い辛さで味わい深い味であった。以前はよく、札幌にあるインドカレーのお店に行ったけれど、最近はとんとご無沙汰。だから、味の違いは正確には比較できないのだが、辛さがマイルドというか甘みがあるというか、多分日本人好みの味にしているのだろうと思うが、ランチには値段といい満腹感といいおすすめ。私たちはドリンク付きにしたが、ドリンクなしなら680円。こまめにお水を注ぎに来てくれる(多分ネパール人の)スタッフも、笑顔で感じが良い。次に行くときには、息子や孫たちも連れて行ってあげたい。みんなカレーが大好きなのです。満腹でドライバーの夫以外はウトウトしているうちに、息子たちのぶどう畑に着く。ちょうど長男のお嫁さんと孫も、ぶどう畑作業に来ていたので、大量に購入してきた自然酵母パンをおすそ分け。その後はまっしぐらに、実家経由で我が家に帰る。高齢の母が留守番してくれているので、早く帰らないと母が気を揉むのです。秋晴れの北海道日和の一日でした。
2016年09月25日
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北海道には次々と台風が押し寄せて、各地で大変な被害になっているというのに、台風の本場の石垣島・西表島・竹富島のツアーに申し込むなんて、よく考えたら大馬鹿者の夫婦である。実は、同じ日程で別の国内旅行に申し込んでいたのだが、催行人数に満たないということで中止になり、せっかく旅行のために日程をあけていたのにということで、このツアーに申し込んでしまった。9月4日~7日の三泊四日だったのだが、前後の日はほとんど飛行機の中で、正味二日半というコースである。行ってみてびっくりしたのだが、例年は台風が次々にやってくる石垣島は、今年はまだ台風に見舞われていないという。北海道から来たというと、みなさん「北海道は大変ですね。大丈夫でしたか!?」と心配されてしまった。結果的に、三日目の川平湾だけは雨で残念だったが、一応全コース無事に観光してきた。雨模様でもこれほど美しいのだから、晴れていたらどんなにか素晴らしい景色だろうと思ったけれど、この季節に行ってしまったにしては、本当にありがたいことだと思うばかりだ。ちょうど三日目に石垣島周辺で温帯性低気圧が発生し、沖縄に移動しながら台風に発達したようだが、結局は石垣島はまだ台風に見舞われてはいないということ。今度は、台風の心配のない三月あたりに行ってみたいと思うが、多分思うだけで終わってしまうのだろうな。帰宅して、テレビで利尻や稚内が記録的な大雨による被害の映像を見て、びっくり。こんなことが毎年起きないように祈るばかりだ。
2016年09月08日
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時前に、長岡駅からJRで新潟市へ。夕方の飛行機の時間まで、新潟市内をブラブラすることにした。信濃川ウォーターシャトルというのがあると知り、それに乗ることにする。その前に、荷物を駅のコインロッカーに入れることにしたのだが、今のコインロッカーは、単純にお金を入れて鍵をかけるというものではなく、デジタルでカードなども使えるようなタイプで、戸惑ってしまった。料金を投入する場所が一箇所で、私の先に料金を支払おうとしていた人も何度も首を傾げていて、私の後にいた若い男性が見かねて教えてくれたので助かった。そこから川沿いの「万代シティ乗り場」から、「新潟ふるさと村」へ。花壇が美しい庭園を抜けてアピール館に向かい、新潟の歴史や文化に触れたあと、バザール館で名物という「へぎそば」で昼食。その後物産館をブラブラしてお土産などを買い、早めに再度ウォーターシャトルで万代シティへ。新潟駅から乗り場への途中にある「新潟日報メディアシップ」に行く。そこに会津八一記念館があることを前日知ったので、それが一番の目的。正直なところこれまで彼については何も知らず、前日友人のパソコンで初めて知ったのだが。それにしても、マルチな才能の持ち主がいるものだなと感心した。最上階の20階からは、新潟市が一望できる。この日はとても良い天気だったので、その眺めを堪能。新潟市は、想像以上に大都会だなという印象であった。その後、早めに空港に向かい、4時半の便で千歳空港へ。帰宅すると、なんと長岡花火大会の中継をやっていてびっくり。前日よりも晴れているようで、花火の全体も見ることができて、その感動を新たにすることができた。しかし、あの打ち上げの音や花火が降り注ぐような感覚は、現地に行かなければ味わえない。テレビ中継では色々と説明もあるので、花火についての理解も深まった気がする。できれば、もう一度夫や家族とも行ってみたいと思う。一泊二日の慌ただしさはあったけれど、Hさんとも久しぶりに色々と話すことができて、本当によかった。彼女は、この日と次の日は大学院のスクーリンクに行き、その後海外旅行に直行と行っていた。何でも、永年勤続のご褒美でまとまった夏休みがとれたので、一人で出かけることにしたのだとか。彼女はスクーリングの英語で私に助け舟を出してくれた人なのだが、それだけにツアーには頼らず自分で宿も見つけて、一箇所でゆっくりと過ごすのだという。私とは色々な意味でレベルの違う人なのだが、そんな人と出会えたのも通信教育のおかげです。
2016年08月03日
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楽しみにしていた「長岡まつり大花火大会」。通信教育のスクーリングで出会った長岡在住のHさんとの再会と、全国三大花火大会の一つの長岡の花火大会が目的で、一泊二日で新潟県の長岡市へ。前日まで長岡市内のホテルでキャンセルがないかと淡い期待を抱いていたが、やっぱり無理。スケジュールぎっしりのHさんのマンションに泊めていただくのは心苦しかったけれど、ここはお言葉に甘えさせていただくことにして、息子のワイン一本と、地元の放牧豚で作られた無添加ソーセージや、道内のチーズなどを手土産に、9時すぎの飛行機で新潟へ。この飛行機50人乗りだそうで、バスみたいだとびっくりしている私に、「このような飛行機が安全なのですよ」と声をかけてくれたのが、前日まで札幌大丸の「日本の職人展」に出店していたという、「染・織きのした」の木下さん。日本の伝統の染物である、天然藍染にこだわっていらっしゃる職人さん。新潟までの一時間少しは、ずっと「天然の藍」についてのお話をお聞きし、市販されている藍染には、いわゆる「天然の藍染め」は本当に少ないことを知り、そこから派生して、日本の伝統工芸の伝承が本当に困難な状況にあることを知った。本当に「美しい日本」をめざしているのなら、この方面に本気で力をいれてください、安倍さん。というとであっという間に新潟空港へ。(と、ここまで書いていて時間がなくなったのに気づく。続きはまたということで、とりあえず項目のみ)長岡に行く途中のファームレストランで、野菜中心のバイキング。(場所とお店の名前を失念)シルバー割引があったので、ラッキー!その後、長岡市にある新潟県立歴史博物館を見学。市内が混むのでゆとりを持って彼女のマンションに行き、少し休憩後花火会場へ。ずっと空模様が怪しく心配だったが、花火打ち上げ開始の頃には重い雲も会場上空から消え、想像以上に素晴らしい花火を堪能し、本当に来てよかったと思ったし、また家族や親しい友人と一緒に見たいと思った。
2016年08月02日
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今年中に留萌線の留萌-増毛間が廃線になるというので、その前に一度乗車しようと出かけた。深川駅前に車を置き、深川駅から乗車。土曜日だったので一日散歩切符を利用。予想通り、鉄道ファンや私たちのように廃止になる前に一度乗っておこうと思う人たちで、一両だけの電車は満員。私たちの住む地域では、窓が開く電車が走らなくなって久しいが、ことらはクーラーはついていないようで、窓も開くし扇風機が回っている。それが珍しいのか、扇風機をカメラで撮っている人も何人か。JR留萌本線 路線図を見ていただければわかるが、同じ北海道に住んでいても知らない地名が次々と…。漢字のままでは絶対に読めない地名もある。北一已なんて、見当もつかないですね。「きたいちゃん」と読むのですが、アイヌ語でしょうけれど、誰がこんな字を当てたのでしょうか。それ以外も、読めないわけではないけど、読み方を確認しなければ正確にはわかりません。山を越えて留萌までは無人駅ばかり。その先の増毛までが、今年廃線になる路線。このような賑わいがいつも続いていたら廃線にならなかったのでしょうが、ここの生活圏の人たちが利用するかといえば、…無理でしょうねえ。増毛町には何度か行っているが、いつもドライブの途中なので、ここで三時間も過ごすのは初めて。まずは、今まで気になりながら時間の関係で入ったことがなかった、旧商家丸一本間家へ。想像以上にすごい建物でビックリしたのだが、それ以上に驚いたのが、この家で育ったのが、日本点字図書館の創立者・本間一夫だったとは。北海道に住んでいながら、全く知らなかったことが恥ずかしい。「女中頭」という役職の人に色々説明していただき、ここに来ただけでも来た甲斐があったと思う。現在は増毛町が管理している建物だそうだけれど、これを維持してゆくのもなかなか大変なことだろうと想像する。増毛には、最北の酒蔵「国稀酒造」があり、増毛に行った時には必ず立ち寄るのだが、ここも丸一本間家が始めた酒蔵だそうだ。ここは酒蔵で試飲ができるのだが、今回購入したのは初代本間泰蔵の名前を冠した地域限定酒、「初代泰造の北じまん」。国稀酒造のお店の中には、地域のさくらんぼやパンなども販売されていて、夫が気になって買ったのは「さくらんぼ」。私が気になったのは、スカンピンというパン屋さんの「ルル・ロッソ本食(雑穀と発芽玄米入り)」。「ルル・ロッソ」って、この地域で栽培されているパスタ用の小麦だそうで、試食するとフワフワ・モチモチでとても美味しい。この食感はいつまでもつのかと尋ねると、「時間と共に少し固くなるんですけど、トーストしたらまた違う美味しさがあるんですよ」とのこと。でも、「僕は美味しいと思うんですけどねえ」とやや控えめ。ちょっと高めの値段だったけど、この食感と彼の控えめながら自信ありげな言い方に、「じゃあ、試してみようかな」と購入。実際、次の日に「そのまま」と「トースト」を両方食べてみましたが、そのままでもフワフワ・モチモチはさほど変わらず、トーストは香ばしさが増して美味しかったです。彼が焼いているのかと思ったら、パン職人は奥さんだったことをネットで見て知りました。その後、遅い昼食を食堂で取り(昼食時はどこも混雑して並んでいたので避けた)夫はザル蕎麦、私はにしん蕎麦。最後は漬物屋さんで、あれこれ試食して二種類ほど購入。帰路も満員の電車に乗って深川まで。それにしても、鉄道ファンが持っているカメラのすごいこと。私たちから見たら、「何を撮ってるの?」と聞きたくなるような、ただの草ばかりの風景も、本州から来た人の目には珍しいものがあるのかもしれない。言葉から関西から来たような人も何人もいた。隣に座った人に声をかけたら、やはり関西からというので、「北海道は涼しいでしょう?」と問うと、「いや、寒いです」とのこと。この日はとても夏らしい日だったのだが、半袖のTシャツ一枚ではやはり寒いでしょうね。深川からは、「深川ライスランド」に立ち寄った以外は一直線に一部高速を利用して帰宅。JRを利用した旅は、「旅行したな」という気分になってなかなか良かった。(7月26日記)
2016年07月23日
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日本ハム、本拠地500勝&球団タイ記録14連勝 新記録達成も現実味Full-Count 7月11日(月)7時12分配信 5時間10分の死闘制し、メモリアルな1日に メモリアルな1日を、劇的な勝利で飾った。北海道日本ハム10日、千葉ロッテに延長12回にレアード選手のホームランでサヨナラ勝ち。札幌移転後、本拠地の500勝を達成させるとともに、2007年に記録した球団記録の14連勝に並んだ。(後略) 前夜、急遽ネットでチケットを購入し、札幌ドームへ。大谷の二刀流や記念すべき日にドームで応援したい人が詰めかけたのか、開始時間の頃からドームはファンで一杯。ファンの応援も最初から力が入っているようだったが、肝心の大谷は投手一本。なのに、最初からどうも不安定で一回目に早くも先制される。打席は、相手投手に抑えられて淡々とアウトが続く。それでもなんとか6回までは抑えていたが、7回で死球や四球で谷元と交代したけれど、谷元もバッタバタにされて鍵谷に交代。あっという間に5対0になってしまった。この時点で夫は、「今日は負けだ。帰るか」なんて言い出す。私は、「せめて一矢報いるまで見てから帰ろう」と押しとどめる。本当にここで帰らなくて良かった。その回の裏で、岡君のホームランで打線がつながり、4点を返したら一気に球場は盛り上がり、夫も帰る気持ちは完全に消えて、隣の若い男性達二人と盛り上がり始める。なんとか同点にしてくれ、と祈る思いが続いていた9回。なんと田中賢介のホームランで同点。「これは勝てるぞ!」と日本ハムファンはみんな思ったと思うが、それからホームベースが遠かった。しかし、いよいよ最終回の12回裏、頼れる男レアードがやってくれました。本当に、こんなことってあるんですね。今までも何度か勝利ゲームを観戦したことはあるけれど、この私が野球で興奮するなんて信じられないような劇的な逆転勝利でした。私はその時まで、「本拠地500勝」の記念すべき日だなんて知らなくて、帰りには「ホーム500勝達成記念観戦証(チケット購入やグッズ抽選会に使えるクーポン券付)」まで貰って、本当に嬉しい一日となりました。5時間越えの試合は見ているだけでも疲れましたが、今日ばかりは行ってよかったの一言です。北海道日本ハムファイターズHP
2016年07月11日
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【日本ハム】レアード弾がトドメで13連勝!球団記録まであと1スポーツ報知 7月10日(日)8時2分配信 昨日は、孫の学校祭見学に行っていたので、帰宅してからテレビを見ると…勝ってる!これほど勝ち続けてくれるとは、正直なところ想像していなかった。興奮した夫は、「明日、野球見に行きたいな!?」と同意を求める。そうだねえ、何も予定はないし、大谷くんの二刀流を見て、同時に14連勝の瞬間を見るのも悪くないと、慌ててネットでチケットを取る。残念ながら(当然だとは思うが)周辺の駐車場は満車で予約できなかったので、バスや電車で行く事にした。大谷、球団タイ記録14連勝へ「気にせずいく」スポニチアネックス 7月10日(日)8時19分配信 勝利の感動と喜びを、お願いします(^人^)
2016年07月10日
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5月9日の新聞で、平岡梅園の梅が近年になく美しいと出ていたので、午後から夫と妹との三人で出かける。今まで何回も行っているが、今年の梅は本当にびっくりするくらい美しかった。大抵、白梅が満開の時は紅梅がまだこれからというように、紅白揃って満開ということは、初めてのような気がする。ちなみに、駐車場周辺の桜も満開で、山林の中には辛夷も咲いている。新聞で紹介されたせいか、人でも多くて広い駐車場に自動車がびっしり。でも、園内が広大なので、それほど人が混雑している感じはなかった。ちなみに、駐車場周辺の桜も満開で、山林の中には辛夷も咲いている。それでも、「梅ソフト」には長蛇の列。私たちは、隣で寂しそうな「桜ソフト」を購入。こちらもなかなかの美味でした。
2016年05月09日
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連休最終日(となるのかな?)のこどもの日は、夫と山菜のピョン(あずき菜)を採りに行く。場所は、千歳から支笏湖に向かう国道沿い。駐車場に車を止めてしばらく歩いて行った場所が、私たちが毎年行くピョン畑。北海道では「ピョン」と呼ぶことが多いのだが、私の実家では「あずき菜」と呼んでいて、子供の頃は裏山周辺にもたくさんあって、春になると野菜代わりに食卓に上っていた。結婚してから、近所の主婦が「ピョン食べるかい?」と持ってきてくれて、それがピョンというものだと知った。呼び名は色々あるらしく、本州では「雪笹」とか「ナンテンハギ」とも言うらしい。ナンテンハギと呼ぶのは、今ネットで検索して初めて知った。リンクした写真の景色は、まさに昨日行った場所の風景とそっくりだけれど、ピョンが群生しているところはみんなこんな場所なのかもしれない。小一時間も採ると、我が家と実家の分は十分になったので、支笏湖に向かう。あいにく曇り空だったので、支笏湖の色もどんより。樽前山も風不死岳も恵庭岳も、頂上は曇に隠れている。それでも休日ということで、支笏湖畔の駐車場には結構自動車が並んでいた。そこは駐車料金も取られるのでスルーして、ポロピナイ湖畔に向かう。ポロピナイは、中学生の頃からの思い出が重なる場所である。初めてのキャンプは、ポロピナイキャンプ場での中学校学年キャンプだったし、高校生の頃にはここから恵庭岳登山とキャンプが学校行事としてあった。中学生の頃は、湖畔からポロピナイへの交通手段は連絡船だった。その後も、なにかにつけて支笏湖には足を運んでいるので、私にとっては心の故郷のような場所である。私が海よりも湖の方が好きなのは、そのせいかもしれない。晴れている方が湖も山々も美しいに決まっているけれど、曇り空でも小雨が降っていても、支笏湖の湖面を見ていると本当に心が落ち着くのだ。それも湖畔ではなく、ポロピナイや美笛の方が静かで大自然を感じることができて好きだ。まあ、湖畔にはお店やホテルがあるし、私たち家族の好きな揚げ芋も湖畔の方が色々ある。日帰り温泉も湖畔に何軒かあるが、ポロピナイから少し外れたところに、「丸駒温泉」があり、ここの露天風呂は湖と直結している感じで、湖の水位によって露天風呂の水位も変わる。なかなか野趣あふれる温泉なので、近くに行かれた時にはオススメである。詳しくは支笏湖温泉旅館組合のホームページからどうぞ。ちなみに、支笏湖の桜はまだまだこれからという感じであった。その後は、支笏湖から札幌に抜ける道路を進み、途中で恵庭渓谷の方へ。ここには滝がいくつもあって、その中でも有名なのが「白扇の滝」。数日前の新聞で、雪解け水で水量があり豪快だという記事をみていたので立ち寄る。確かに水量が増していて豪快な感じではあったが、この滝は上から見下ろす感じのポイントのみ。この滝を下から見上げることができたらどれほど素晴らしいかと思うけれど、渓谷が深くて下りる場所もないので危険である。私が子供の頃はこれほど整備されていなかったので、もう少し下まで降りれたような気がするが、今ではその道の痕跡もない。その後恵庭市街に向かったのだが、ゴルフ場近くまで行くと桜も咲き始め、パークゴルフ場あたりでは満開だった。恵庭湖(ダム湖)では、つぼみが少し膨らんだ程度に見えたので、少しの違いで随分開花が違うものだと思う。ということで、今年も恒例の我が家の春の行事が無事に終わったことに感謝する。
2016年05月05日
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昨日は天気が良かったので、旭川市にある「男山自然公園」にカタクリの花を見に行く。カタクリは道内あちこちに群生地があるが、男山のカタクリはまだ見たことがなく、夫が「今日は午前中は晴れるようだから、行くぞ!」ということで、午前7時半に家を出る。カタクリは太陽が出なければ、花を開かないのである。10時頃に到着したのだが、期待以上に広大な園内にカタクリの花とエゾエンゴサク、福寿草、イチゲなど、可憐な花たちの絨毯が広がっていた。その帰途に、以前から行きたかった後藤純男美術館に向かう。以前から、この美術館のことは知っていたのだが、今まで後藤純男の作品を直接見たことがなく、写真などで見て「きれいな作品だな」と思っていた程度である。(というより、写真で見ると美しすぎるという感じがして、日本画というより油彩や水彩の写実画のような印象があった。しかし、今年の日本芸術院の恩賜賞を受賞したことを知り、これは一度行ってみなくちゃと思っていたので、ちょうど良い機会だった。通常は入館料1000円なのだが、恩賜賞のお祝いとして五月中旬まで半額とのことだった。そして、一歩展示室に足を踏み入れた瞬間、私の後藤純男の絵の印象は、写真で見たものとは180度変わった。というより、そのスケールの大きさと迫力と精神性に圧倒されたのである。大作もすごいけれど、海外旅行で描いた小品もまたすごい。あの小さな絵の中に、教会の荘厳さや町並みの空気感が凝縮されている。ホームページには代表作品もアップされているが、やはり本物を見なければこの作品の素晴らしさはわからないと思う。平山郁夫の展覧会を見に行った時、スケールが大きいなと思ったけれど、後藤純男のスケールの大きさと深さには凄みを感じた。後藤純男は真言宗のお寺の生まれで、僧侶になるための修行もしたという。彼の作品から立ち上る荘厳さと、厳しさと優しさが満ちているのは、そのような背景があるからだろうか。音声ガイドには、後藤純男の声による「ご挨拶」が入っていたのだが、その声は本当に優しいおじいちゃんの声だった。この美術館にあるアトリエで、今も絵を描き続けていらっしゃるらしいが、いつまでもお元気で素晴らしい作品を描き続けて欲しいと思う。ところで、私はなぜこの美術館が上富良野の高原にあるのか不思議だったのだが、彼は若い頃から北海道が好きで、何度も何度も足を運び、冬の層雲峡や知床などの北海道を描き続けていたという。その縁でこの地にアトリエ兼美術館を建てたのだそうだが、このような素晴らしい作品を気軽に見に行ける北海道民は幸せだと思う。それなのに、今まで行かなかったことが本当に悔やまれる。残念ながら、交通の便は良くはないので自動車で行くしかないのだが、レンタカーで道内旅行をされる方は、ぜひ足を運んでいただきたい。この美術館のロケーションも、実に北海道らしい風景である。昨日は、まだ雪で真っ白に輝く大雪山系と、日々緑の色を増している木々、そして目を後ろに転じれば、富良野盆地が広がっている。ラベンダーなど、花たちが競い合ううに咲く季節は、もっと美しい風景が広がることだろう。本当に心洗われるような一日となった。
2016年04月29日
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3月8日~10日まで、友人と二人で国内ツアー。彼女とは17年くらいの付き合いで、活動絡みで研修や大会などに行ったことはあるが、プライベートで二人だけの旅行は初めて。色々とハプニングもあったけれど、良い思い出となる三日間だった。あとは秘密日記にて。
2016年03月11日
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友人三人とで、道立近代美術館に平山郁夫展を見に行く。以前にも、もう少し小規模な展覧会を見に行ったと思うが、過去のブログを見ても書いていなかった。やはり、記録として残しておこうと思った次第。平山郁夫は広島の現在の尾道市に生まれ(瀬戸田町)、中学生の頃に被爆している。彼が、後年シルクロード周辺にある紛争地域の文化財の保護や収集・修復に力を入れたのも、紛争により長い歴史の中で育まれてきた歴史や文化が根こそぎ破壊されることへの怒りや、文化を守ることが平和につながるという信念の表れだったようだ。写真等でよく見知っているものも、本物を見ることで受ける迫力による感動は比較にならない。本当に良いものを見せていただいた。札幌周辺にお住まいの人でまだ見ていない人は、ぜひ美術館に足を運んでいただければと思う。絵画だけではなく、彼が保護のために収集したアフガニスタン等の文化財ども展示されているので、考古学に興味のある人は違う視点で楽しめると思う。
2016年03月03日
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この日は、以前から申し込んでいた「日帰りバスツアー」に夫と二人で参加。地元の駅が集合場所になっているということと、近年注目度が上がっているらしい美瑛の青い池に行くので、夫が「たまにはバスツアーもいいかな」と申込んだのである。旭岳は、ロープーウェイでほとんど山頂まで行けるので、今までに何度も行ったことがある。一番最後に行ったのは、まだ父も健在だった頃だから、もう十年にもなるのかな。シルバーウィーク前半はすごい混み方だったらしく、添乗員さんがとても心配していたけれど、この日は不思議なほど混雑もなく、天気も黒岳の時のような快晴とはならなかったが、紅葉はこちらの方が綺麗だった。黒岳での筋肉痛も想像より辛くはなく、姿見の池までを周回するコースも40分程度で周り、我ながら体力あるなーと自信が持てた。その後行った「青い池」は、かつては許可証が必要だったそうだが、今では外国からの観光客も押し寄せているようで、舗装こそされてはいないが広い駐車場に車が沢山停車していた。しかし、添乗員さんによれば「空いている」そうで、確かあの駐車場が満車になったときは、池を見るのも大変だろうなと思う。この池が青い理由はまだキチンと解明はされていないそうだが、確かに神秘的な色で、自然の不思議さを感じる場所であった。その後、ふらのマルシェに立ち寄り、帰宅は午後7時半過ぎ。土曜日なのでもっと混雑しているかと思っていたが、予想以上にスムーズに帰宅できて良かった良かった。世界では生きるのにも大変な人たちが多いというのに、私はなんて平和で穏やかな暮らしをしているんだろう。このままでは申し訳なさすぎるので、もっと社会へのお返しをしなくちゃね。
2015年09月26日
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晴天に恵まれたこの日、黒岳に夫と息子夫婦とで行ってきました。実は、黒岳には20年前に夫と妹とで行ったのですが、当時は今よりも体力がなくて、その上に更年期に入っていて体調が悪く、ロープーウェイとリフトを乗り継いだあと、頭痛に悩まされながらやっと登頂したまではよかったのだが、石につまづいて転倒し、額をパックリと切ってしまい、やっとの思いで下山し、救急車に搬送されて十数針縫合したという散々な体験がある。ということで、今回はそのリベンジと、北海道に嫁いで来ながらまだ大雪山を体感したことのないお嫁さんに「どうしても、黒岳の紅葉を見せたい」という夫の誘いで出かけたわけである。これから出かけるので、結果だけ記録として書いておこう。途中で多少息が切れたり頭痛はしたけれど、無事に全員山頂に登ることができて、山頂からの絶景を堪能することができた。山頂は信じられないほどの「無風状態」で、こんな日もあるんだと驚いた。多分、これが人生最後の黒岳になるとは思うが、最高の黒岳を体感できることができて大満足である。
2015年09月24日
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9月1日から三日間、「おわら風の盆」へのツアーに夫と行ってきました。越中八尾のおわら風の盆を知ったのはいつごろだったか…。でも、随分前から一度行ってみたいと思っていたので、やっと念願かなったというわけ。出発日の一日は金沢どまりだったのですが、夕方からすごい雨。添乗員さんの話では、三味線や胡弓などの楽器を使うので、雨が降ったら流し踊りはないとのことで、とにかく二日が雨にならないことを祈るのみ。でも、本当にありがたいことに、二日の日は曇り空ではあったが雨は降らず、ツアーの中に組み込まれていた白川郷や高山、次の日の五箇山も晴天に恵まれ、私はやっぱり守護神に守られていると確信した次第。行ってみたいとは思っていたけれど、実際に行くまでは「おわら風の盆」について詳しくはほとんど知らず、やはり伝統のあるお祭りはすごいなあと、その伝統を守り続けている八尾町の人たちに感動した。詳しく書くことも難しいので、今日はとりあえず覚書のみ。
2015年09月03日
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吉川、105球完投勝利 強気に1球目から勝負(13日北海道新聞 06/14 05:00ドーム一面ラベンダー満開 日本ハム、限定ユニホーム配布06/14 05:00この三日間は、ファンサービスの一環として、当日観戦したファン全員に限定ユニフォームがプレゼントされるというので、夫と二人で札幌ドームへと向かった。夫はファンクラブ会員になっているので、今まで私が観戦するのは無料チケットをもらった時だけだったが、今回は全席指定ということで、初めて慣れないインターネットでの座席購入であった。行ってみると、その場所はビジター応援席の隣のエリアだった。連敗中の横浜のファンが「打て、打て!」と必死に応援する中、こちらは「何とか抑えてくれ!」と祈っているわけである。結果は、相手のエラーに助けられた勝利という感じ。吉川君は最初の三回くらいまでは完璧で、中田のホームランもあり、「今日も勝つね!」と周囲の人達と喜び合ったのだけれど、途中何度もハラハラする場面があったのだが、相手の二度のエラーに救われた。こっちは盛り上がって喜ぶが、隣のエリアの人たちの気持ちを考えたら気の毒で仕方が無かった。昨日の観客は41,138人ということで、久々の満員御礼。札幌ドームはラベンダー色に揺れて、とてもきれいだった。吉川投手も三年ぶりの完投だったのだが、夫は「ちょっとスッキリしない試合だったなあ」と言っていた。私は「何はともあれ勝利して完投だったんだから、良かった良かった(´∀`)」である。やっぱり勝ち試合はいいですね。それに比べて、横浜ファンは連日本当にお疲れのことだろうとお察しする。でも、きっと今日も日ハムは勝ちますよ。
2015年06月14日
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昨日は、 「寿都港かき・おさかな市」に夫とドライブがてら行ってきました。寿都にはあまり行く機会もなく、このようなイベントを開催していることも知らなかったのですが、数日前の新聞でこのイベントを知った夫が、「天気がよければ行こう!」という話となりました。寿都港に着いたのは午前11時くらいでしたが、会場の「牡蠣、ホタテ売り場」は長蛇の列。並ぶのが好きではない私たちは、「後で買えなければそれもやむなし」と、ズラリと並ぶ屋台テントで、「蒸し牡蠣、牡蠣飯、串焼き牡蠣、エビの味噌汁」などを食べ、お腹が一杯になったところで、先程は長蛇の列だった牡蠣売り場へ。一段落したのかさほど待ち時間もなくて、ホタテや牡蠣が買えました。その時まで値段がよくわからなかったのですが、大きい牡蠣が一個100円、少し小さめで80円だったので、「こりゃあ、安い!」と大を30個ゲット。小型のクーラーボックスを持参したのですが、牡蠣と保冷用の氷を詰めると、やっと蓋がしまる状態で、それ以上は買えませんでした。会場で息子たちに「牡蠣を買ったから食べに来ない?」と電話をすると、長男一家が来るというので遅くならないように帰路へ。途中の豊浦で今が旬の苺を買い、白老で新鮮卵を買って帰宅。夕方やってきた息子家族に、お腹いっぱい蒸し牡蠣と卵かけご飯、親子丼、やはり寿都でつかみ取りしたわかめの味噌汁、いちごのデザートで大満足。想像以上に大きかった牡蠣は、蒸してもなかなか口を開かずに汗だくでしたが、寿都港の牡蠣は最高でした。また、来年も行きたいと思います。
2015年06月01日
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昨夜夫が、「明日は天気が良いから、函館に行くぞ!」と言うので、早朝4時半に自宅を出発。時間が早くて道路も混んではいないので、一般道で函館を目指す。実は、前日某集まりがあり、そこで色々な悩みや苦労を抱えながら頑張っている人の話をたくさん聞き、布団に入ってもそんな話が脳裏をグルグル巡ってしまい、約三時間ほどしか眠ることができず、「いいや、車の中で寝よう」と思っていたのだが、朝焼けの美しい景色を見ていると函館まで眠る暇もなかった。ということで函館到着はなんと八時半前。まさに満開でした。多分連休まではもたないでしょう。函館五稜郭公園は、土塁の上から見ると桜の海の上にいるようで、本当に圧巻なのです。何年か前に行った時にその光景に感激した夫は、「もう一度行きたい」と言っていたので、今年行かずに後悔しては大変と思った次第。夫も70代なので、いつまで自分で運転して遠乗りできるかどうかわかりませんから。公園を一回りして五稜郭タワーに行くと、もうそこは観光客でいっぱい。中国あるいは台湾からのお客様もたくさんいらっしゃいましたが、その様子からは中国からかな。きっとこの方たちも、あちこちで「爆買」してくださるのでしょうか。でも、添乗員さん、くれぐれも一般的なマナーはちゃんと教えてあげて下さいね。入る時はスムースに入れた駐車場も出る時は満車状態でした。続いて、インターネットで見ていた「法亀寺のしだれ桜」を見に行く。ここはまだ満開ではなかったので、多分連休には美しい姿を見せてくれることでしょう。北海道でこのようなしだれ桜があるんだとちょっと驚きました。同じ北斗市には「松前戸切地陣屋跡の桜」があるということなので、次はそちらに移動。しかし、ここはまだまだこれからということで、桜については「残念!」でしたが、この陣屋跡については知らなかったので、見学してとても良かったと思います。いわゆる「四稜郭」なのですが、重機もない時代にこのようなものをたった四ヶ月で築いたなんて、現場の人たちはまったくどんな仕事をさせられたのでしょうか。箱館戦争の時に、建築物は焼き払ってから敗走したということで、残っているのは基礎石とその説明版だけですが、色々と想像が膨らむ場所でした。桜が満開になった時には、桜のトンネルも見事なものだろうと思います。いつか、ここが満開の時に来てみたいと思った場所でした。同じ函館周辺でも、桜の開花時期は随分違うのだと実感し、あと何か所か寄ろうと思っていた場所も、絶対に桜は開花していないだろうし、行ったこともある場所だったので、その後はズンズンと帰路につきました。途中、森町の道の駅で昼食をとり、(ここのオニウシ公園も桜の名所ですが、日当たりの良い場所の桜が少し開花しているだけでした)途中、一部高速道路に乗って帰宅は6時半。私は昼食後はさすがに睡魔が襲い、大半はウトウトしてましたが、ウトウトできない夫はさぞ疲れたことでしょう。お疲れ様でした。今年は桜の開花が例年より早すぎて、各地の桜まつりの主催者は気をもんでいるようです。桜満開早すぎる!?29日から北斗と松前で催し北海道新聞 04/24 05:00確かにねえ。「桜まつり」なのに桜が散ってしまっていては、お客さんも来ませんよね。そうなったら、大損害でしょう。
2015年04月25日
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今日こそ、簡単でいいから最後まで書いてしまおうと思う。【7月6日】ポンペイ→ナポリ→ローマ午前中はアルベルベッロからポンペイへ、340kmを5時間のドライブ。★ポンペイポンペイは、以前から興味があった遺跡である。この日も暑い日だったが、遺跡を歩きながら噴火があった日のこの町の人たちの恐怖を想像すると、ゾクゾクッとする。日本の弥生時代に、神殿があり、公衆浴場があり、そこには美しい壁画(フレスコ画)や彫刻がありと、当時の高度な文化に圧倒されてしまう。とはいえ、日本は石の文化じゃないから残っていないだけで、ひょっとすると決して負けない精神文化はあったのではないかと、ガイドさんが「日本は弥生時代です」という言葉に多少反発も感じていたあまのじゃくな私であった。そんな中で、やっぱり「ヘーッ」と思ったのは、パン屋さんのパン焼きがま。今のピザを焼く窯ととほとんど同じじゃないか。当時完成形ができたのがすごいというか、その後ほとんど発達しなかったというか、うーんどっちだろう。逃げ残った人の石膏の人型は、その時の彼らの恐怖や苦痛をそのまま今に伝えていて、やはり言葉を失ってしまう。いつの時代も、自然の力の前には人間なんて本当にちっぽけで無力なんだと。その後、カメオのお店に立ち寄ってからナポリへ。★ナポリ(車中観光)「ナポリを見て死ね」という言葉があるのだから、きっと美しい町なのだろうと思っていたのだが。ナポリに近づくにつれて、道路脇にゴミが目立つようになってきた。高速道路の脇にすら、ゴミが散乱している。ナポリで思い出すのは、とにかく「ゴミが散乱していて汚い」ということだけ。色々建物などを見たのだろうけれど思い出せないのは、あのゴミの光景の印象が強すぎた。だから、この町は車中観光だったのかな。今、ネットでゴミ状況を検索してみたら、今は以前よりずいぶんきれいになったそうで。でも、やはり今回のツアーで回った観光地の中で、一番ゴミが目立つ町でした。その後ローマへ【7月7日】ローマ観光→帰国ローマ観光は、ご存じ「スペイン広場」「トレビの泉」「コロッセオ」など。残念ながら「コロッセオ」は外観のみである。印象に残っているのは、スペイン広場の情景。大きな階段から下を見ると、ブランドのお店が並ぶショッピング街が見えるのだが、蟻の行列のように人が行き来しる通りを、何と自動車も通るのだ。通行止めをしないってところがすごいなあと思う。と思えば、観光馬車なんかも行き来して、私のようなボンヤリには危ない危ない。★オプショナルツアー「もう一つのローマ観光」今回のツアー参加者全員が、このオプショナルツアーにも参加。まず「パンテオン」から「真実の口」とそれのある教会。この「真実の口」には長い行列が続いていて、私などは見るだけでいいのだが、その口に手を入れて記念写真を撮らなくては教会に入れない感じ。この時間が結構長くて、もったいない気分であった。その次が「サンタンジェロ城」だったのだが、ここに向かうあたりから空が暗くなってきた。雨が降りそうだから早く行こうとバスを降り、少し歩き始めたら雷が光り始め、あーっと思う間もなく「経験をしたことのない豪雨」に襲われた。その間、本当に何分もなかったと思う。叩きつける雨から身を守るため飛び込んだのは、土産物屋のテント。お店の人には申し訳ないけれど、ほかに逃げ込む場がなく、テントの軒先でおしくらまんじゅうである。それでも、雨は上から下から激しく全身を襲い、暑いので薄着だった衣服はあっと言う間にずぶぬれ。少し雨の勢いが弱まった時、あと5分くらいで着く「サンタンジェロ城」に行く人と、バスに戻って濡れて冷え切った体を温めたい人とに分かれた。もちろん私達は、せっかくここまで来たのだからお城を見たいとまだ雨が降り続く中をサンタンジェロ城に向かって突進である。結果的には、行って本当に良かったと思う。お城を見学しているうちに雨も上がり、雨上がりのローマの町やサンピエトロ寺院も素敵だったし、何より、内部は想像以上に良かった。私達は現地ガイドのイオーレさんと冗談を言い合った。「サンタンジェロ城ではなくて、サンタンタル(惨憺たる)城だね」と。「でも、このお城のことはローマのどこよりも忘れられないね」とも。その後、ローマ空港に行き、帰国の途に就いたのである。ハーッ、とにかく書き終えました。
2013年08月10日
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【7月4日】アマルフィこの日は、ポメッツィアのホテルを出発してから、一路アマルフィへ。移動距離300キロで、約5時間。ドライバーは一人だから、大変なことでしょう。このドライバーは、添乗員によると「典型的なナポリの男性」とのことで、時々、急に歌いだしたりするし、添乗員が話している時に日本語がわかりもしないのに何か突っ込みを入れてるらしい。とても明るく楽しい、私達のイメージするイタリア男性?イタリア人と言っても、縦に長い国だし、当然ながら地域性の違いもあるらしい。南部の方が明るいというのは、世界的にそうなのでしょうね。彼を前の方の席で観察していた人によると、「眠気がさしたら、眠気覚ましに歌いだすようだ」とのこと。それで安全運転をして下さるなら、いくらでも歌ってください。さて、いよいよアマルフィである。このツアーを申し込んでから、DVDの「アマルフィ女神の報酬」で事前学習をした。この映画のことは良く知らなかったので、外国映画と思って借りたら邦画だった。アマルフィだけではなく、ローマなどの観光地も入っていたので内容も面白かったけれど、一石二鳥の映画でした。映画での光景そのままのアマルフィ海岸を見た時は、やはり感動した。なんてったって、あの断崖絶壁にへばりつくように家を建てていった人間の執念というかなんというか。ベネツィアもそうだったけれど、外敵から身を守るための努力を、様々な争いの中に生きてきた人たちは続けてきたんだなと思う。港町アマルフィで自由時間があり散策したのだが、そこはまさにリゾート地という風景。この日もお天気が良く、海岸にはたくさんの人たちが甲羅干しをしていた。北海道の海水浴場などではピーチパラソルや日傘などが人の数ほどあるけれど、こちらの人はどうしても日焼けがしたいようだ。道すがら、巨大な柑橘類がたくさん実っていたのを見たが、それはレモンだそうだ。お土産屋さんを見て歩くと、レモンのお酒「レモンチェッロ」がたくさんある。イタリアの国の形をした長靴型の容器に入ったものがあったので、何本か買ってきた。その後、「エメラルドの洞窟」観光。暗い洞窟の中に海底から光が差し込んでエメラルドに輝くというのだが、本当に不思議で神秘的。ここの若い船頭さんが楽しかった。「ニッポン、ガンバレ! センドウサン、ガンバレ!」なんて言いながら船をこぎ、歌まで歌ってくれたりして…。うーん、南イタリアの男性は明るく楽しいんだなと、ドライバーと重ねて納得。この日は、アマルフィ海岸沿いのサレルノという町に宿泊。まさに、リゾートホテルという感じのホテルだった。【7月5日】マテーラ→アルベルベッロサレルノを出発して、次の目的地マテーラへ。マテーラは洞窟住居の町とは、事前にガイドブックで見ていたが、やはり読むだけではわかっていなかったことばかり。最初に洞窟に住みついたのは、イスラム勢力から逃れてきたキリスト教の修道僧たちだったようだが、その後、様々な事情でここに逃れてきた人たちが住みつき、歴史の変遷の後に最後まで住んでいたのは、貧しい小作農民たち。なんと、たった60年くらい前まで、ここで生活していた人たちがいたとは!暑い地方なので、飼っているいる動物たちを暑さから守るために奥の場所に入れて、手前の方で家族がひしめきあって生活していたようだ。不衛生のために子ども達は病気で亡くなることが多かったとか。復元された住居に入ってみたが、確かに洞窟なので外よりは涼しいが、ここで生活をしていたと考えると…。それも、私が生まれる頃までそうだったとは。昼食後は、アルベロベッロへ。テレビなどでアルベロベッロのとんがり屋根の風景を見ていたが、まさにその街並みの中に自分がいると思うと、何とありがたいことよと思ってしまう。このとんがり屋根はトゥルッリといって、平らな石を積み重ねたものだそうである。15世紀頃、ナポリ王は伯爵から家の数によって税金を取っていたのだが、この地域の領主は税金対策のために、この屋根に接着剤を使うことを許さず、国の役人が来る時は屋根を壊させて、「これは家ではない」と税金逃れをして、住民は毎回屋根を作っては壊しを繰り返していたという。とうとうたまりかねた町の7人の有志が国王に直訴し、やっと屋根に接着剤を使えるようになったとか。現在もこの可愛い屋根の下に暮らしている人たちがいて、その一軒で老夫婦と写真を撮らせてもらった。多くのトゥルッリは、観光客向けのお土産屋さんやレストランなどになっているが、その中に日本人の女性がやっている「陽子の店」があった。せっかくだからと、ここでいくつかのお土産を買い、屋上に上らせてもらい写真撮影も。残念ながら陽子さんは日本に帰国中とのことでした。この日は、アルベロベッロ駅の近くのホテルに宿泊。せっかくだから夕食前に駅に行くと、一両だけの列車が到着したのを見ることもできた。今日はここまでにいたしましょう。
2013年08月06日
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【7月2日】フィレンツェ前夜はベネツィア郊外のメストレで宿泊し、この日の午前中はフィレンツェへの250キロをバス移動。フィレンツェの歴史地区観光ということだったが、本当にその地区全体が美術館という感じである。それは、今回のツアーで歩いたところほとんどでそのように感じたのだが、日本とは全く異なる歴史と美なので、そのように感じるのだろう。きっと、ヨーロッパの人達が日本の観光地を訪れた時、似たような感覚になるのではないか。まず、ウフィツィ美術館で様々な絵画や彫刻鑑賞。この美術館はメディチ家歴代の美術コレクションを収蔵する美術館ということだが、「メディチ家」ってどれだけの大富豪だったのか、金銭感覚の乏しい私には想像もつかない。これだけの富がここに集まったということは…と、私の想像力は別の方に広がってしまう。でも、絶頂期があればやがて没落期もあり、様々な歴史的変遷を経て今は世界中の人達を集める場になっている。結局は、メディチ家の子孫はいないのかな。ツアーの日程表に「ヴェッキオ橋」とあったので、ひょっとして行けるのかと期待していたが、残念ながらこの美術館の回廊のような場所から見ただけ。ちょっと残念でした。その後は、フィレンツェを一望できるミケランジェロ広場や、ドゥオモとドゥオモ広場散策。(ドゥオモには希望者だけ入場。現地ガイドの案内で一般観光客とは別の入口からスムーズに入場。どのような仕組みになっているのかよくわからないけど)このドゥオモは、体力と時間があれば鐘楼に登れるそうだが、体力はあれども時間はないし、なにより暑かったので広場で楽しみにしていたジェラートを味わう。色とりどりの種類の中から、好みのものをコーンかカップの入れ物にチョイス。もちろんとっても美味しかった。ちなみに、イタリアの食事はどれも想像の範囲内のもので、とても美味しいと感じました。その後、革製品のお店に連れて行かれて、小さな小銭入れと、キーホルダーだけ購入。とにかく「何とかの店、免税店」などは、製品は確かだろうけれど、貧乏人には価格が合わない。どこでも「目の保養」に専念の私達でした。この日はフィレンツェ郊外のカレンツァーノのホテルに宿泊。【7月3日】ヴァチカン市国とローマ観光この日も朝から暑かった。それでも、湿気がないので暑苦しさはさほどなく、日陰はさわやか。この日の現地ガイドさんは女性で、とてもおしゃれなんだろうけれど、真夏にノースリーブの服装に革の長ブーツってどうなんだろうとちょっと不思議。私達北海道人の感覚では、長いブーツは絶対に「冬靴」なんだけど。まあ、それは個人のファッションの趣味でどうでもいいけど…。バチカン市国は、もちろんカトリックの総本山。今年は新教皇が選ばれたということもあるのか、それは関係なくいつも混んでいるのか、ここでもガイドが高く掲げる、ハートの飾り付きの目印の旗を必死に確認しながらバチカンの美術館やシスティーナ礼拝堂などを巡る。何しろ、最初の日に迷子が出たこともあってか、それとどこも混雑していることもあり、毎度毎度「迷子にならないように、持ち物には気をつけて」と言われるので、ここまで言われて迷子になったりスリに遭ってはならじと、私たちも真剣である。それでも、どれ一つをとっても「ウワーッ!」と足を止めてしまいそうな絵画や彫刻ばかりで、私は歩行は早い方なのでちょっと遅れ気味になってもすぐに追いつけるけれど、年配の人たちにとっては大変なことだろうとお察しする。きっと、ゆっくり絵を見ることもできずに、人ごみと目印ばかりを追いかけていたのでは?今回もつくづくと感じたのだが、やはり海外旅行は足腰の丈夫なうちに行かなくちゃ。そうでなければ、高齢者や障害を持つ人でも参加できるようなツアーを探すかである。階段や石畳が多いので、足腰が悪くなくても疲れてきたら躓いて転びやすくなる。今回の参加者の中にも、石畳の凸凹に躓いて転倒し目の上を打ち、それが次第に青あざへと変色してきて心配した人がいる。まったく、他人事ではありません。この日の夕食は、カンツォーネ・ディナーショー戸外のテーブルで、ワインと食事を楽しみながらカンツォーネを楽しむ。とっても、ぜいたくな気分でした。うーん、今日も二日分だけでおしまい。肝心の絵画や彫刻の印象までは書けませんが、やはり本物の力はすごいなと思うばかり。人間の想像力や信仰の力というものの力強さ感じました。
2013年08月05日
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6月30日から7月8日まで、夫と二人でイタリアツアーに参加。いつのまにかもう一カ月も経ってしまった。かなり忘れているけれど、ザッと書いておこう。【6月30日】新千歳空港午前9時発ソウル経由でイタリアのミラノへ。ソウルで乗り継ぎの待ち時間が約2時間あったが、合計14時間以上の飛行機の時間は、やっぱり長い。それでも、着いたらホテルで体を伸ばして寝られたのは良かった。(飛行機内では時々コックリコックリする程度しか寝られないので)【7月1日】ミラノ→ベネツィアミラノでは有名なドゥオモや、ガッレリア(ショッピングモール)を見学。やはり、木の国日本とは全く違う石造りの重厚さやガステンドグラスなどの美しさに圧倒される。その後、バスでベネツィアへ。今回の添乗員は、ベテランで頼りになりそうなK.miyakoさん。イタリアは「スリ集団」が観光客を狙っているので、気をつけるようにと毎日注意していた。それと、観光地ではぐれて迷子にならないようにとも。一人で30人の旅行客を無事に連れ歩くのは、大変なことだろうとお察しする。ヴェネチアは干潟に大量の丸太の杭を打ち込み、それを建物の土台とした町とは知っていたのだが、そのような作り方をした町がこんなに広大だとは想像以上。人間の力ってすごいなあと感服する。この町で、昼食のためのレストランに行ったのだが、とにかく細い路地のような道を、世界各地からの観光客の合間を縫うように、迷子にならずに歩くのは大変。やっぱりというか、昼食後ゴンドラ乗り場に行く途中で、ツアーメンバーの3人が迷子に。添乗員と現地アシスタントが、私達がゴンドラに乗っている間に探し回り、結局は見つかったのだが(見つからなくちゃ大変だ!)その人達はゴンドラに乗れなかった。私たちも、ゴンドラを楽しみながらもその人達のことが心配だったので見つかったと聞いた時は本当にほっとした。もしも自分だったら、どれほど心細く不安なことだろう。ベネツィアも、地盤沈下や水位上昇などで水没の危機を迎えつつあるようだ。うーん、どうすりゃいいのか想像もつかない。とりあえず、今日はここまで。後は徐々に追記の予定(ちゃんと最後まで書きたいものですが)
2013年08月03日
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昨日は、世話人をしている某会の例会で帰宅は4時過ぎ。その後、まったく手をつけていなかった旅行準備を始めました。真夏のイタリアなので、着るものは洗濯が楽なものを準備。多くの女性は旅行のために洋服など新調したりするのかもしれませんが、私はまったくそんなことはせず、いつもの普段着がベース。とにかく、「楽なもの」が基準。ということで、私の旅行の時の服装はいつも同じようなものなので、以前の写真を見るとき、「えー、こんな頃からこれ着ていたんだ!」と、自分で驚いてしまうほどです。今回もまた、同様のものになってしまっているようです。その次に大事なのは、常備薬。といっても、私は薬は常用していないので、まずは「便秘薬」。もともと便秘がちな体質なので、野菜を多食しているため、海外旅行で野菜が不足すると辛いのです。粉末タイプの「食物繊維」と、やはり粉末タイプの「緑茶」も用意しました。その次に必要なのは、寝付けない時の「眠剤」。以前持参したものが残っているので、それでいいことにしましょう。(効かなかったら…バスの移動中に寝てしまうだけと割り切ろう)忘れてならない、パスポートと現金。今回はユーロを少し準備して、日本円も少々。私達は買い物はあまりしないので、チップやトイレのお金、小物程度のお土産くらいの予定。少し値の張るものだったらカードでいいから、カードも忘れちゃなりません。旅行会社から送られてきたスケジュール表では、「革製品」と「カメオ」のお店に連れて行かれるらしい。どっちも、お高いんでしょうねえ。色々見せられながら時間つぶしをするのが辛いかも。という感じで、とりあえず必要なものは準備したかな。今朝は、慶應通信時代に出会った友達と、8月の再会の予定についてメールが入ってました。彼女は、札幌で開催される日本災害看護学会に参加するため来道するのです。彼女との出会いは、スクーリングの英語ライティングの教室。私が、英語オンリーのアメリカ人の先生の言葉にフリーズしていた時、助け船を出してくれた人です。英語(4) 夏スク「ライティング」その時も彼女は、仕事での別の用事との掛け持ちで受講していました。私のように、必死で単位を落としたくないと頑張る者とは、雲泥の差でした。(仕事で海外にも行ったとかで、英語ペラペラでしたから)その後は、一度やはりスクーリングで再会しただけで、お会いするのは3度目になるかな。だから、実は直接ゆっくりとお話ししたことはほとんどないかも。スクーリングの時は、どうしても学業関係(卒論や単位の進捗状況など)ですしね。彼女の通信での学びの目的ははっきりしていて、「大学卒業資格取得」。彼女はバリバリの看護師で、その時すでに指導的な仕事をしていたはずですが、さらなるステップアップのためには、大卒資格が必要だったらしい。卒業後は地元の大学院で修士か博士課程を修了し、今は…どうなっているのかな。もう、私から見たら本当に憧れの女性です。私の子どもの頃からの夢は、バリバリと社会的に大切な仕事をするキャリアウーマン。しかし、自分の力不足で夢はどんどんしぼんで現在に至りますが、彼女との再会で少し刺激を受けて、せめて現在やっていることへの意欲を掻き立てたいなと思います。学会終了してホッとした彼女と、旭山動物園や富良野を巡るバスツアーに参加し、色々とお話ができることを本当に楽しみにしているところです。
2013年06月29日
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ブログはすっかり放置状態ですが、元気でいます。かなり過ぎたことですが、8月の終わりから9月初旬は、東北を夫とドライブ旅行してきました。まだまだ暑かった青森、岩手、山形、秋田、ちょっぴり宮城を、ぐるりと一回り。そして一ヶ月もたたないうちに、エジプト・ギリシャ・トルコの15日間ツアーに夫婦で参加。今までなかなかできなかった旅行を、一気にやってしまった感じ。夫婦で長期間旅をするには、いくつかの条件が必要です。時間とある程度のお金、健康、そして家族などに心配事がないこと。あともう一つ、夫婦の仲が悪くないことでしょうね。私たちにとっては、今がその時のようなので、行きたいところは行ってしまおうと・・。春には、私の同級生が急死し、初夏には夫の兄が癌手術をし、60代後半から70代にかけての夫の知人を何人か見送り、私と同世代の何人かは、親の介護などでたった2~3日の旅行もままならず・・。あるいは、まだ現役で仕事をしていたならば、長期間の休暇はお預け状態。私たちも、それらのどこかがひっかかって、なかなか長期間の旅には出られなかったのでした。人生、いつおしまいになるのか誰もわからない。やりたいことは、ちょっと無理してもやっちゃおう。最近は切実にそう思います。夫婦での海外旅行は、夫が最初の退職をした直後の中国旅行(もう8年前)と今回の2回目。トルコは私が行ってみたい国でした。おかげさまで体調も崩さず、他の参加者の何人かのように「食事が口に合わない、食べるものが無い」ということもなく、色々な感動や感想を抱いて帰国しました。3か国の中で一番しっくりとしたのは、やはりトルコでしたね。トルコなら、もっと滞在してもいいなと感じたものです。エジプトのピラミッドやスフィンクス、カイロの考古学博物館のツタンカーメンのマスクを始めとする秘宝、そして王家の谷から移されてケースの中に眠るミイラにも驚きましたが、やはり砂漠地帯には住めないなあというのも実感。文明の発祥の地は、古代と現代、美しさと汚さ、富と貧しさがゴチャゴチャでした。でも、どこの世界にも人間の営みがある。それぞれが与えられた環境で必死に生きている。そして、みんなどこかでつながっている。さて、来年もどこかに行けるかな?それより先に、行きたいところを絞っておかなきゃ。こんなことを考えられる幸せを感謝しつつ・・。
2010年10月16日
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幸いなことに私の親族には、アルコール依存症とおぼしき人は今のところいない。しかし、私の母方の祖父は「大酒飲み」だったという話だし、私の父も、つい10年くらい前までは、「酒豪」と言われる部類だった。私の次男も、多少はその血を受け継いでいるのかお酒は大好きである。だから、もう一歩度が過ぎて「アルコール依存症への道」に迷い込まなければ良いがと、今のところそれだけがちょっと気がかりである。先日亡くなった中川昭一氏も、最後までアルコールはやめられなかったようだ。「だめとわかっていてもやめられない」のは、依存症にかなり近いだろう。20年ほど前に、仕事で断酒会の人とよく話す機会があった。彼にアルコール依存症のことを聞いて、「ヘーッ、知らなかった!」と思ったことがいくつかある。多分、今でも身近に依存症の人がいなければ、多くの人はこのことについてちゃんと知らないのではないか。まず第一に、アルコール依存症は病気だということ。そして、この病気に「完治」はなく、断酒しか救われる手段はないということ。たとえ一滴でもアルコールを口にしたら、元の木阿弥になってしまうのだということ。その話をしてくれた人は、当時断酒会の会長だったが、物静かで温厚なおじさんだった。お酒で地獄のような日々に明け暮れ、家族に暴力をふるい、2度の離婚経験があったなどと、その口から聞いても、なんだか信じられない思いがした。そして、その時には仕事も生活も、すべてアルコール依存症に苦しんでいる人たちに捧げているように見えた。3度目の奥さんが支えてくれているから、それができるのだとも。「この病気は、一人では決して回復はしない」「仲間と家族の支えが、絶対に必要」そんなことを、何度も何度も言っていたことを思い出す。当時の私はまだ30代後半。その言葉に耳を傾けつつも、(家族の支えったって、お酒飲んで暴力ふるう夫をどう支えるの?)(私なら-当時はまだ、子どもが小中学生くらい-、迷わず離婚するだろう)なんて思っていたものだ。現代は、色々な依存症に苦しむ人が多い。アルコール依存症に関して言えば、女性や高齢者にも増えているらしい。高齢者のアルコール依存症が増加(一部転載)◆依存症の診断基準 世界保健機関(WHO)の基準では、過去1年間に次の項目のうち3項目以上該当するとアルコール依存症と診断される。 〈1〉飲酒したいという強い欲望あるいは強迫感がある 〈2〉飲酒の開始、終了、あるいは量に関して、行動を統制することが困難 〈3〉飲酒を中止したり、減らしたりしたときの生理学的離脱状態(禁断症状) 〈4〉より少量のアルコールで得られていた効果を得るために、飲酒量を増やさなければならなくなる 〈5〉飲酒のために、ほかの楽しみや興味を次第に無視する。飲酒せざるを得ない時間や、回復するための時間がかかるようになる 〈6〉明らかに有害な結果が起きているにもかかわらず、依然として飲酒するお酒が好きで、上記のことに心当たりがある人は、すぐに専門医を受診し、もしアルコール依存症だったら、迷わずに近くの断酒会に参加してほしい。この病気と、鬱病や自殺との関係も深いようだ。関連サイト 全日本断酒連盟
2009年10月06日
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今日は用事が何もないので、思い立って札幌に出かけた。札幌駅JRタワーのホールで開催中の無言館「祈りの絵」展である。一枚一枚の絵から、「もっと描きたかった、生きたかった」という声なき慟哭が聞こえるような気がして、鳥肌が立つような、胸が詰まるような思いに何度も突き動かされた。来場者は、やはり私以上の世代が多いようだ。いつか、長野県の無言館に行きたいと思う。
2009年09月30日
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≪17日≫7:50発の便で羽田へ。午後一時から、千葉の市町村アカデミーで、全国から集まった自治体職員45人を前に、行政と連携しながら行っている「子育て支援活動」の実践発表的なことを話す。なんとか無事にお役目を果たした後は、大急ぎで東銀座に向かい「歌舞伎の夜の部」鑑賞。今回は贅沢して、花道が見える席。特に「勧進帳」は、大好きな幸四郎と吉右衛門兄弟の弁慶と富樫、染五郎の義経だなんて、夢のような配役。最高の夜でした。≪18日≫今回の旅のもう一つの目的は、銚子電鉄に乗ること。銚子までのJRの旅ものんびりして良かったし、もちろん、銚子電鉄の一両のみの古びた電車も、旅情をかきたてるものでした。犬吠駅で名物の「ぬれせんべい」やつくだ煮を買い、犬吠岬で風にあおられ、終着の外川では「外川ミニ郷土資料館」を見学。ここでは、館長さんである島田泰枝さん、島田正典さん親子に外川や銚子の歴史をお聞きし、故郷への熱い思いと、歴史を伝えなければという使命感に触れて感動。その後は、銚子に戻り佐原へ。この町の街並みは、北海道の人間にとっては、何とも風情があり「先祖の故郷」にでも行ったような気分になる。いくつかの古い商店を立ち寄り、伊能忠敬記念館や伊能忠敬の旧宅、その目の前の「ジャージャー橋」など、時間があればもっとゆっくり歩きたい町だった。その夜は、柏市に住む旧友と西船橋で会う予定だったので、ちょっと心残りながらこの町を後にする。旧友Kさんとは、共通するボランティア活動をしているので、そんな話も含めて話が弾み、楽しい時間だった。≪19日≫この日は浅草に出て、かねてから気になっていた「大衆演劇」とやらを見ることにしていた。最近は、中高年のみならず、若い女性にも人気が出てきたと何かで聞いたことがあり、上京の話のタネにしたいと思い木馬館に向かう。この日は「たつみ演劇BOX」の公演。私はこの劇団については全く知らなかったのだが、若い座長「小泉たつみ」と彼の弟「小泉ダイヤ」が花形役者らしい。一言で言えば、とても楽しかった。お客さんに楽しんでもらおうという思いが舞台から伝わってくる。この若さで、芝居の脚本を書いたりもするらしいし、踊りや演技もなかなかのもの。何より驚いたのが、何日もこの木馬館に出演しているらしいが、毎日出し物が違うということ。歌舞伎でもミュージカルでもお芝居でも、連続した公演は同じ出し物だというのが私の認識だったのだが、彼らは、お客さんが毎日来ても楽しめるようにと舞台を組んでいるようだ。1500円で三時間半、思い切り笑ったり泣いたりできるなんて、大衆演劇を見直した。というより、大衆演劇について全く知らなかった不明を恥じる気持ちにすらなった。小泉兄弟、これからもがんばってね。機会があったらまた観に行きます。その後は急ぎ羽田空港へ。帰宅したのは9時ころでした。≪20日≫図書館に行き、今回の目的のアカデミーでの講義の報告。まずは、無事にお役目を終えたという気分でホッとする。次に、実家にお土産持参で行って、久しぶりに従兄弟と再会。思いがけない話もできて、また次のネットワークになりそう。人の縁って、つながりあっているのだとということを実感。≪21~22日≫連休で息子一家がやってくる。約36キロを、息子と孫二人(一年生と四年生)が、自転車で走ってきた。お嫁さんは、自動車で様子をみながら伴走。車なら45分くらいの道のりだが、子ども用自転車でのサイクリングでは約4時間。それでも、泣き言も言わず、車に乗るとも言わず、頑張って完走した孫たちに拍手だ。私の手作りの「表彰状」と、ひいじいちゃん・ひいばあちゃん・おじいちゃんからの「副賞」をもらい、孫たちも大喜び。たくましく育っている二人が、敬老の日の最大のプレゼントかも。ということで、21日に途中まで書いたこのブログ、結局23日に書いてます。
2009年09月21日
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ちょっと報告が遅くなりましたが、8月22日に開催された「大曲花火競技大会」に行ってきました。数年前に、この大会のことをテレビで知り、一度行ってみたいと思っていたのです。たまたま、旅行会社のパンフレットを見ていたら、この花火競技大会に行く一泊二日のツアーがあったので、夫と妹、そして次男と私の4人で申し込みました。ツアーは、花巻空港に着いてから中尊寺を見学後、大曲に向かうというものでした。ガイドさんから、大曲に向かう高速道路の渋滞について説明を受け、ある程度の予測はしていたものの、北海道での渋滞なんかとはスケールの違う渋滞に、まずびっくり。そして、やっと会場に着いて、指定の桟敷席に着くまでの人ごみに、第二のびっくり。昼花火の部が始まるまでのちょっとの時間に、出店などの様子を見に行くと、お店に並ぶのとは違う長い列が・・。それはなんと、ずらーっと並んだ仮設トイレに向かって並ぶ何本もの行列。そういえば、ガイドさんが「トイレには早め早めに行かないと間に合いません」と言ってたっけ。こりゃ、途中でトイレに行くなんて時間のロスが大きいだろうと、私たちも並びましたよ。トイレから自席に戻るまでに、30分は経過していたはずです。なにしろ、あの会場に76万人がいたというんですから、どれだけトイレを設置したって間に合うはずはないでしょう。飲兵衛の息子に言わせれば、「花火にはビールでしょう」というわけで、ビールを入れれば体は水分を排出したくなるものですし。というわけで、私は水分を取ることを控えることにしました。さて、目から鱗だったのが「昼花火」。昼に打ち上げる花火なんて、イベント開催と終了の合図くらいしか思い浮かばなかったのだけど、なるほど、こんな花火もあるんだー。開催前には頭上に大きな雲の塊があったのだけど、昼花火で吹き飛ばされたのか、いよいよ夜の花火が始まる頃には、絶好の花火日和になりました。詳しく書くときりがないので書きませんが、とにかく今まで体験した花火大会とは、スケールもその内容も別格。創作花火は、音楽と花火のコラボなのですが、もう感動・感激の連続。さらに、文字やキャラクターが夜空に浮かび上がるなんて、花火の今までの概念も変わりましたね。それになにより、頭上一杯に広がる花火とその音響は、桟敷席のコンパネに共鳴し、体がお尻から揺れるのですよ。昼花火が5時からで、終了が9時半。始まるまでは、いかに凄くてもそんな長時間じゃ飽きるかもと思っていましたが、全く飽きることなく、もっともっと見ていたいと思いました。そうそう、大会提供花火「新世紀維新・武士道」は、本当に凄かった。もう、言葉がないというのはあの状態という感じでした。終了後がまたまた大変。桟敷席から降りるのに20分以上。そこからバスまでたどり着くのに1時間。さらにそこから、その日のホテルのある安比高原に着いたのが翌日の3時。ほとんどの人はバスの中で寝ていましたが、元来不眠症傾向のある私は、うとうとはしても眠れず、ホテルに着いてシャワーを浴びて、眠剤を飲んでベッドに入ったのは4時ころ。そしてなぜか、いつも通りの6時には目が覚めてしまったというわけで、完全に寝不足のまま、次の日は十和田と奥入瀬を巡って青森空港から帰宅。疲れはしましたが、とにかくあの花火競技大会を見ることができたので、大満足です。「一度は見てみたい」と思って行きましたが、「また見てみたい」と思う今日です。それにしても、日本の花火の技術は素晴らしい。(外国の花火は知らないけれど)日本に生まれて良かったと思いますね。
2009年08月26日
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一度行ってみたいと思っていた「雨竜沼湿原」に、やっと行くことができた。北海道は、ずっと梅雨のような状態が続き、晴れたとしてもその日は都合が悪かったりで、「今日しかない!」朝6時に自宅を出発。我が家から雨竜沼のゲートパークまで、車で約3時間。ガスがかかったような天気だったが、ゲートパークに着く頃には雲が上がってきて青空も見えてきた。事前にネットなどで状況をチェックしていったので、結構な山道を歩くことはわかっていたが、これが想像以上に険しい登山であった。日ごろから運動などをあまりしない私と妹は、次第に気温が高くなってきたこともあり、心臓がバクバクしたり、のぼせて貧血になりやすい気配になり、元気でどんどん先を行きたい夫には悪いが、途中で何度か休憩をしながら、3時間近くかけて湿原入口にたどりつく。(そうです、湿原まで私のようなものは3時間かかるのです)それでも、湿原の光景を目にした時は、別次元の世界に立ったという感じになった。あんな山の上に、「東西4km、南北2kmを超える広さ(HPより)の湿原があるなんて、やはり実際に見てみないとその広大さはわからない。雨竜沼湿原・花ごよみを参照していただきたいが、タチギボウシ、エゾノシモツケソウ、ヒオウギアヤメ、ワタスゲなどなどが、私たちをやさしく迎えてくれた。エゾカンゾウは、もう季節が終わったのかちらほらと・・。(以下、湿原に咲く花 2005を参照のことチシマアザミ、エゾクガイソウ、えぞボウフウ、クルマユリ、クロバナハンショウヅルコガネギク、ナガボノシロワレモコウ、ハクサンチドリなどなど・・。特に、エゾノシモツケソウの鮮やかなピンクは、可憐で華やかで本当に素敵。これらの花々の名前、今、ネットで調べて再確認している次第。湿原をぐるっと回る木道は一方通行(約1時間)だが、中間地点あたりに展望台へ上る道がある。私と妹の足は、平地で歩くのには問題はないが、もう山登りは辛いという状態だったが、追い越して行った人が「15分くらいですよ」と言うので、「もう来ることもないだろうから」と頑張ることにした。しかし、やはり我々の足では20分以上もかかり、「ゼーゼー、ハーハー」と登ることになる。しかし、頑張ったかいがあった。湿原全体が見渡せて、大小のたくさんの沼が湿原の中に輝く光景は、これまた決し下界では見ることのできない光景。湿原を十分に堪能し、下山し始めたけれど、登るよりは楽に違いないのだが、やっぱり1時間半はかかってしまった。登山道にはガクアジサイがたくさん咲いていて、これもとても可憐で美しい。ほとんどが水色の種類のガクアジサイだったが、木に絡まり這い上っているツルアジサイは、私は初めて見た。(見てても、気付かなかったのかもしれない)九時に登り始めて、ゲートパークにたどり着いたのは午後三時半。これはやはり、ある程度元気な時でなければ行けない場所だということを実感した。そういえば、つい先日、途中にある「白竜の滝」で心臓発作を起こして亡くなった人がいるとか。受付をする場所にAEDがあるのを見かけたので、「ここにも置いてあるんですね」と聞いたら、「先日、これを持って滝まで走りました」と教えてくれた。結局だめだったということだが、これを持ってあの山道を走るって・・と、それも心配になってしまった。くれぐれも、雨竜沼湿原をハイキングコースと甘く見ないように、これから行こうと思う人は、体調管理してからお出かけください。とはいっても、ゆっくりと無理しなければ、さほど体力はない私でも、6時間半で展望台まで行って来れましたけど。とにかく、これで心残りの一つはなくなりました。行って良かったです。
2009年08月06日
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やってしまいました。一泊二日の旅日記を直接ブログに書いていて、あともう少しで消しちゃった時間がないので、感想は追加できたらすることにして、その場所だけ書いておきます。有島記念館西村計雄記念美術館木田金次郎美術館岩内町郷土館有島武郎とこの地方との密接な関係や、そこで撒かれた種が育ち開花した経緯、そんな郷土を愛する人たちの思いを、それぞれの場所で強く感じた旅でした。文化とは、その地に根付いたものが本物なのでしょうね。でも、文化の花は雑草ではないので、その大切さを知り愛する人たちが、大切に守り続けなくてはやがて絶滅危惧種になるかもしれない。そんなことも感じています。どんなに素晴らしい施設となったとしても、その思いを熱情をもって伝え続ける人が地元にい続けてほしい。単に「客寄せ」として考える人ばかりでは、やがて廃墟になる可能性だってあるのですから。今回の旅は、毎年恒例の「父のお供の旅」でした。宿泊は雷電温泉の「ホテル観光かとう」日本海に沈む夕日の美しさ、浴場からは日本海丸抱え。新しい施設ではないけれど、穴場かもしれません。
2009年07月13日
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土曜日の夜、久しぶりに帰省した幼馴染(もどき)のN氏を囲んでの集まりに、共通の友人であるO氏から呼び出されて顔を出した。N氏の中学の同級生がメインなのだが、田舎の中学校だったので、クラスが違ってもさほど違和感はない。どんなメンバーが集まるのかちゃんと聞いていなかったので、行ってからやっとメンバー構成がわかったという次第。結局、男10人、女3人という顔ぶれだった。ちょっと男女のバランスが悪いけれど、まあ、N氏の希望優先だったから、そういうことになったらしい。肩の張る集まりではないと思っていたので、私はTシャツとソフトジーンズ、ジャケットといういでたち。でも、行ってびっくり。後の二人は、なんと和服姿でした。つまり私は、完全な引き立て役じゃないですかN氏とは、小学校の低学年の頃の同級生で、その後クラスは違ったままで、高校・大学も別だけれど、共通の友人が(男女ともに)いるのと、青春の頃にその友人知人を交えての三角・四角関係のドタバタがあって、私も心ならずも巻き込まれ、約20年くらいは意識して距離を置いていたこともありました。50代になって、それぞれが家庭を持ちそれなりに人生を重ね、やっと最近になって、こだわりなく(それぞれの本音は知りませんが)顔を合わせられるようになった感じ。今回の集まりには、そのドタバタの渦中にあった二人がいて、私は彼らの顔を見たら、ついその頃のことを思い出してしまうわけです。今回の集まりでは、多分生まれて初めてちゃんと話した人もいて、縁がないと思っていた人とも、いつか縁の糸の端っこが触れ合うこともあるんだなと思ったり。人生はやっぱりできるだけ長く生きてみた方が良いようですね。さて、今回ブログのテーマを「おぢさんワールド」にしたのは、この7人のサムライならぬ、7人のおぢさんたちの話に付き合って、なかなか面白かったということを書きたかったわけで・・。それぞれ、そろそろ定年間近、あるいは早期退職して第二の仕事についていたりのお年ごろ。健康面でもメタボや生活習慣病が気になるのはもちろんのこと、すでに病気を患ったり、ストレス性の難聴になったり、今回は来れない人の中には、入院していたりうつ病で自宅療養していたりと、みんな大変なお年ごろだとつくづく感じました。(私たち女性三人は、更年期も乗り越え、子育ても一段落で元気回復状態かな)。そんな中で、昔馴染みとの再会は何とも心休まるというか、ホッとするというか、それぞれにとても大切な時間のようなのです。そこで語られる思い出話の数々は、暗い夜空を照らす月の光か、はたまた北斗星のような人生の道しるべのような存在のようで・・。男性みんながそうだとは思わないけれど、その話を聞いていると、ちょっと突っ込みたくなることが多くて・・。一番突っ込みたいのは、私のことをNもOも、「Mちゃん」と呼ぶこと。青春の頃までの私は、少しとっつきの悪いタイプだったので、女の子からは、「Mちゃん」と呼ばれていたけれど私を名前や愛称で呼ぶ男性いなかったのです。(いつも、名字のYさんでした)それなのに、なぜかいつの頃からか、私は「Mちゃん」と呼ばれるようになり、私はいまだにそれに慣れることができず、かなりの違和感を覚えてしまう。でも「その呼び方やめて」とも言えず、そのままにしている私の自業自得ともいえます。今回発見したのは、次第に高齢者に近付いている現在、どうも「心のときめき」を彼らの何人かは求めているらしいこと。話題が「不倫」のことになって、それへの話しぶりや反応から、ひょっとするとそれに近い状態にあるやもしれない人もいて・・。まあ、男女の恋はどうしようもない部分もあるから、真っ向否定する気もないけれど、それなら一層、家庭や奥さんを大事にしてあげてよねと思うしかない。そしてまた、この世代の男性も女性も、それこそ「青春時代」に、率直で明るい恋愛ができた人は少ないのかもしれないとも。その頃、心に秘めて抑えていた感情を、少しでも解消したい願いもあるのかもしれません。それは男女共通するものだけれど、女性の方は「巣作り本能」が強いようで、せっかく苦労して作った巣を壊すことになるのは怖くてならない。しかし男性の方は、巣は妻がちゃんと守ってくれているので、ちょっとばかり外で羽を伸ばしたり、昔の思いを遂げたいと思ったり・・。でもねえ、そんなことでバタバタしていたら、自分の帰る巣がなくなっちゃうかもよ。それでも不思議なことに、そんな色気は諦めたようなタイプより、まだ外に向かうエネルギーを感じる人の方が、ちょっぴり魅力的にも見えたりして。(それも、男女共通)ある人が、「学生時代までの友達とは、素の自分でいれる。 仕事の関係の人との付き合いの自分は、全部『演技』といえる。」と言っていた。だから、このような集まりでは本当にリラックスして元気ももらえるのだと。それをウンウンと聞きながら、私は思っていた。(小中学生の頃から、ずっと仮面をかぶったり演技している子だっているよ)と。でも、彼は、目の前の私がそんな青春時代だったということは想像もしないだろう。続けて、「社会に出てからは親友はできない」という彼に、とうとう私は言ってしまった。「そんなことないよ。そんな言葉は脅しだよ。大人になってからだって、親友はできるよ」私の強い口調に、彼はちょっと驚いたようであったが、それ一つとっても、彼が幻想や思い込みを持っているような気がした。私が、小学校・中学校時代の思い出話を、しばしば「忘れちゃって・・」というのに、ある人は「冷たいなあ」と言う。忘れていることもあるけれど、付随する思い出が辛い時には、人は忘れたふりをするってことあるんだよ。完全に別のクラスだったM氏とは、共通する思い出話もないので、現在の話をすることができた。このほうが、ずーっと有意義だった気がする私はやっぱり冷たいか?いえいえ、思い出話で癒されたい人とは、ちゃんと付き合っている私が冷たいはずないでしょう(苦笑)仕事の都合で二次会から合流した人がいたので、結局一時半くらいまで付き合ってしまった。なにせ、女性が三人しかいないので、一人だけ逃げることもできず・・。和服を着た二人は、さぞかし暑かっただろうし疲れたことだろう。着物を着ていなくても、結構疲れましたから。
2009年06月29日
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ちょっと遅くなったが、覚書として書いておこう。私は三姉妹の長女なのだが、すぐ下の妹が退職したので、三人で三泊4日の沖縄の旅に行ってきた。二月になると旅費が高くなるというので、1月23~26日までの、レンタカー付きフリープランであった。その旅行代金が四万円以下なのだから、申し込み時点でビックリである。いつも思うのだが、ツアーでの航空運賃ってどうなっているんだろう。私と二番目の妹は何度か沖縄に行っているが、末の妹(本州在住)は初めてということで、初心者コースといおうか、一般的な観光地を中心として計画した。役割分担としては、旅行会社の選択や申し込み、金銭管理は私。次女は旅行計画立案と運転、三女は食事場所などの選択やナビゲーターであった。最初の二日間は寒かったけれど、北海道から出かけた私たちにとっては、寒いといってもやはり沖縄。寒緋桜は満開で「桜まつり」なんてやっているし、美ら海水族館は戸外でイルカショーですからね。三姉妹での旅行は、十数年ぶりのこと。三人の性格などは全然違うと自分達は思っているのだけど、(実際、違うと思うけど)同じ親からの遺伝子をもらっているせいか、根本的なところでの感性は似ているようで、話していて共感度が高いということはあらためて気付いた。羽田空港で末の妹と別れたのだけど、異口同音に「またどこかに行こうねっ!!」。三人姉妹に産んでくれた親に感謝します。ちなみに、今回遊んだ場所は下記の通り。(順不同)首里城、識名園、美ら海水族館、今帰仁城跡、万座毛、金剛石林山、琉球村、東南植物楽園、ひめゆりの塔、沖縄わーるど、中城城跡、海中道路その周辺の「道の駅」を何箇所も。今回行けなかった場所で、私個人が行ってみたい場所は「斎場御嶽」「沖縄陸軍病院壕跡」あたりかな。
2009年02月02日
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今年は、もう大雪山に紅葉が始まったとのことで、この日は朝から「北海道晴れ」とのことだったので、実家の両親を誘って旭岳に出発。父はこのところ視力も体力も弱まってきたし、母も腰が悪いので長時間立っている事も辛くなっている。しかし、車で移動して、旭岳のロープーウェイに乗れば大丈夫だろうと出発。富良野から美瑛に入ったあたりで、色鮮やかな花畑が見えたので、休憩を兼ねて立ち寄った。実は、今までも何度かこのあたりは通ったことがあるのだが、道路沿いの花畑が見えるだけだったので、いつもスルーしていたのだが・・。いやー、足を踏み入れてビックリ!!「ぜるぶの丘」というその場所は、広大な敷地に色鮮やかな花々が咲き競っていて、その間をバギーやカートで回ることもできる。カートに乗って園内を一周する間、花が大好きな母は歓声をあげつづけていた。ここを楽しんだだけで、今日のドライブは十分かもしれないと思ったほど・・。「ぜるぶの丘」を後にして、いよいよ本当の目的の旭岳へ。この山はロープーウェイで気軽に登れるし、ロープーウエイを降りたところから、自分の体力に合わせて散策も出来、山頂はもとより、他の連山をめざしての本格的な登山もできる。何年か前に、まだ残雪が残る時期に、姿見の池から登山道をゆっくりと下山し、ミズバショウの群生を楽しんだこともあった。今回は、母はロープウェイ乗り場からはとても動けそうもないので、そこから眼下に広がる雄大な景色を楽しんでもらい、父は少しだけ一緒に上ってみたけれど、やはり足元が危ないのですぐに駅まで連れて帰った。夫は、「もうちょっと上の方まで行って来る」とさっさと行ってしまったのだが、両親と待合室でボーっと待っているのもつまらないので、私も少しだけ散策コースを展望台の方まで行ってきた。快晴で風も無かったので、本当に爽やかで美しい光景を楽しむことが出来た。私は、本州の人たちには絶対に大雪山には登ってほしいと思っている。この雄大な美しさを知らずして、北海道を語ってほしくないとさえ思う。さて、紅葉は少しは始まってはいたが、まだ「色づき始めた」という程度。多分、北側の方はもっと紅葉が進んでいるのだろうと思うが。両親とも、「また冥土の土産ができた」と喜んでいたが、私は内心「冥土の土産が重すぎて、多分まだまだあちらの世界には行けないだろう」と思っている。帰路に、息子のブドウ畑にも立ち寄った。私たち夫婦はしょっちゅう行っているが、それこそ足腰の弱いひいじいちゃん、ひいばあちゃんは、ひ孫の畑にはなかなか行くことができないのだ。「このぶどうでできたワインが飲めるまで生きていられるかな」とつぶやく父だが、多分、「孫のワインを飲むまでは死ねない」と生きてくれるだろう。そう考えると息子の夢は、私たち親世代、祖父母世代の夢にもなっているわけだ。ともあれ、天候に恵まれ、本当に気持ちの良い一日を過ごすことができた。
2008年09月09日
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とてもよい天気だったので、孫達を誘って長沼のハイジ牧場へ。ここは、体験・触れ合い型の「家畜・家禽・小動物の動物園」。子ども達が小さい頃も連れてきたので、歴史は結構古いのかな。もう、夏休みも終わりで日曜日ということもあり、駐車場はとても混んでいたが、とにかく広いので人の密度はそれほどでもなく、子ヤギ、子羊、ウサギなどへの餌やりも十分堪能したようだったし、風も適当にあったので、無料貸し出しの「凧揚げ」も楽しんだ。トンボがたくさん飛んでいて、風も「秋風」のような心地よい涼しさ。やっぱり、北海道はいいなあと思う一日だった。画像は、展望台近くで携帯で撮ったもの。小さくてよく見えないけれど、並んでいるのは「白雪姫と七人の小人」のお人形。
2008年08月17日
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8月3日から三日間、東北の祭ツアーに行ってきました。青森のねぶた祭り、盛岡のさんさ踊り、秋田の竿灯祭、どれもすばらしいものでした。日本っていいですね。とりあえず、メモブログです。
2008年08月06日
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今日から三日間、父のお供で九州の旅です。が、東京の悪天候で乗り継ぎが大幅に遅れて、羽田で待機中。波乱の旅にならなきゃいいけど(^_^;)
2008年04月18日
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無事にニューヨークから帰ってきました。色々な意味で感動や発見の連続でしたが、ゆっくりとブログに書く時間がとれそうもありません。そこで、このデモンストレーション・コンサートに関する記事などを、ネットで見つけたものをリンクしてゆこうと思います。そのうちに、時間がとれたら思い出しながら書いてゆくつもりです。錦のたすき、障害者ピアノ演奏会参加者に 岩槻人形協同組合 ニューヨークの国連本部で三日に開催されるピアノ・パラリンピックのPR演奏会で、参加者が錦のたすきを掛けて演奏することになった。たすきを作ったのはさいたま市の岩槻人形協同組合(戸塚隆理事長)。演奏会を企画するNPO法人の依頼を受けて、人形が着る西陣織の錦を使って縫い上げた。同組合は「世界に日本、人形をアピールするまたとない機会」とたすき四十三本を寄贈した。 ピアノ・パラリンピックはNPO法人「日本障害者ピアノ指導者研究会」が中心となったイベントで、障害がある人たちがピアノ演奏を披露する。二〇〇五年に第一回大会が横浜で開かれ、〇九年夏にはカナダ・バンクーバーで第二回大会が予定されている。 今回の演奏会は世界障害者の日(三日)に合わせたもので、国連本部とカーネギーホールが会場。日本の十六人のほか、ポーランド、韓国など八カ国二十四人が演奏する。 同NPOが「世界の舞台で日本らしさをアピールしたい」と、知り合いを通して人形組合に相談。きらびやかな錦をたすきにして、演奏に花を添えようと考えた。 たすきは幅十五センチ、長さ百五十センチで、赤、黄色、オレンジ、緑の四色。中央に「ピアノ・パラリンピック」と、ひらがなと英語で書かれた白い布地を縫い付けた。演奏会やレセプションなどで参加者が身に着ける予定。 十一月二十六日に矢作人形店(さいたま市岩槻区)で行われた贈呈式では、演奏する戸田市立戸田中二年の清水麻由さん(14)が「布の色がきれい。赤とかオレンジがいい」と笑顔を見せた。参加者最年少の東京都江戸川区立清新第三小四年の重本安見さん(10)は「緊張しているけど、いつも通りの演奏をしたい」と話していた。 たすき製作が決まったのは十一月初め。経験のない作業だったが、留めひもなどに人形作りの技術が生かされた。矢作人形店の矢作恒良さんは「たすきを掛けることで演奏者が映える。日本文化のアピールになるはず」と話している。福祉ナビ:ピアノパラリンピックを知ってますか。◇障害越え、希望奏でる ◇05年横浜で第1回大会、15カ国100人が参加--認知度アップへ、12月NYで演奏会 オリンピックと同じ年に開催される身体障害者のスポーツ大会「パラリンピック」。それにちなんで世界各国のさまざまな障害を持ったピアニストが成果を披露する大会がピアノパラリンピックだ。 * 05年1月に横浜市で開かれた第1回大会には、指の欠損、全盲、難聴、ダウン症、自閉症など、さまざまな障害を持つ世界15カ国のピアニスト約100人が参加した。第2回大会は09年8月、カナダ・バンクーバーで開催される予定だ。 今年12月3日の「国際障害者の日」には、まだ海外で認知度の低いピアノパラリンピックを広く知ってもらおうと、ニューヨークの国連本部でコンサートが開かれる。参加するのは、第1回大会の入賞者を中心に、米国、スペイン、フランス、韓国、台湾、ポーランド、マレーシア、日本の9歳から55歳までの総勢24人。5日にはカーネギーホールでも演奏する予定だ。 * 第1回大会に参加し、連続出場を目指す東京都練馬区の中学2年生、岩崎花奈絵(かなえ)さん(14)もその一人。脳性まひによる四肢体幹機能障害で両足が不自由なため、日ごろは車椅子を使う。座りながら姿勢を保ち続けることも難しいが、わずかに動く指を使ってメロディーを弾き、母親の準子さん(46)が伴奏する。 ピアノを始めたのは6歳のとき。4歳上の姉のピアノ発表会を見に行ってから、姉と同じピアノ教室へ通うようになった。最初は姉妹で連弾していたが、姉が中学生になって忙しくなると、子どものころにピアノを習った経験のある準子さんと一緒に弾くようになった。音符を読むのは苦手なため、耳でメロディーを覚える。コンサートに備え、「エーデルワイス」や「星に願いを」「もみの木」などを練習中だ。 当初は、使える指が右人さし指1本だったが、右親指も使えるようになり、最近は2本の指で和音をひいたり、ハープのように指を鍵盤に滑らせるグリッサンドもできるようになった。準子さんは「ピアノと出合い、将来に希望が持てるようになった。障害があってもピアノは楽しめる。みなさんの励みになれば」と話している。 * ピアノパラリンピックは、武蔵野音大助教授として障害を持つ人たちに音楽の指導をしてきた迫田時雄さん(70)=現ピアノパラリンピック委員長=が「隠れた才能を引き出し、国際的な連帯を広げたい」と提唱したのが始まり。01年に音楽療法士や医師らと「日本障害者ピアノ指導者研究会」を作り、各地でコンサートを開きながら演奏者を発掘したり、指導を続けてきた。 迫田さんは「うまくなりたいという気持ちをうまく引き出せれば、技術も向上するし、その人しか出せない音が出せるようになる。無理だと思わず挑戦してほしい」と話す。【有田浩子】 このお二人の演奏には、表現できないほどの感動を覚えました。クライブ・ロビンズ博士、ロバート・ペース博士 の講義障害者の音楽 世界へ迫田時雄先生の情熱と〔音楽の力〕への信念がなくては、ピアノパラリンピックは実現しなかった。人間の力というものを、あらためて感じさせていただいた。そして、自分の与えられた能力を全身全霊で生かすことや、自らの内部から湧き上がる思いを形にしてゆく(音楽もその表現方法の一つ)ことの大切さと素晴らしさを、強く感じている。みなさん、本当にお疲れさまでした。そして、感動をありがとうございました。
2007年12月09日
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突然ですが、明日からニューヨークに行って来ます。「ピアノパラリンピック・デモンストレーション・コンサート」が、国際障害者の日に合わせて国連本部とカーネギーホールで行われる予定で、20年来の友人がそのコンサートに出場する。彼女の晴れ舞台をこの目に焼き付けたいという誘惑に勝てず、職場には思いっきり迷惑をかけてしまうが、ついて行く事にしたのだ。昨日までとても忙しくて何も準備しておらず、今日になってから「旅のしおり」を参考に旅支度。ツアー日程は、旅行会社のサイトの通り。さて、どのような思い出がつくれるのか、とても楽しみである。「ピアノパラリンピック」については、日本障害者ピアノ指導者研究会のHPをご覧下さい。
2007年12月01日
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札幌市月寒(つきさむ)にある農業専門学校「八紘学園」の花菖蒲園に行ってきました。薄曇の天気でしたが、色とりどりの花菖蒲やラベンダーが満開でした。学生さんたちが丹精込めて世話をしているのでしょう、本当にきれいでしたよ。遠方には「黄色い畑」が見えましたが、あれは菜の花なのか、最近緑肥としてあちこちに植えられている「黄がらし」なのか。それにしても、この学園の農地の広さには驚く。月寒グリーンドームは、この農場に囲まれているようなものなのね・・。
2007年07月14日
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支笏湖の、モーラップ湖畔。残雪の恵庭岳と鏡のような湖面。(以上携帯から書き込み)写真で、水面下の小石が見えるでしょうか。支笏湖の透明度はとても高くて、ボートに乗って湖底を覗くと、かなり下の湖底の枯れ木や石などが見えるんですよ。小石などをボートから落とすと、かなりの時間それが見え続けます。この日は、支笏湖周辺の原始林で「ピョン(あずき菜)」を摘み、その後、混み合っているであろう「支笏湖畔」を避け、対岸の、モーラップキャンプ場に行きました。通常、この時期はまだ寒くてキャンプをする人は少ないと思うのですが、今年は暖かかったので結構キャンプをする人が多かったということです。でも、さほど人も多くなくて、「これぞ北海道の湖」というような、自然の中の原始の湖を満喫することができました。来年サミットが開催される洞爺湖とは違い、ホテルや飲食店、歓楽街もなく、千歳空港から近いのですが、北海道を感じさせてくれる湖です。北海道にお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。(7日/記)
2007年05月06日
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13日~15日の三日間、父のお伴で山口県、広島県を巡るツアーに参加した。父が元気な頃から参加しているグループの、恒例の小旅行である。父はこのツアーに参加することをとても楽しみにしているので、今回もお仲間と一緒に、無事に楽しい三日間の旅を終えたことを本当に喜んでいる。私も、足腰が不自由になった母に代わって父のお供をするようになって、もう五年目になる。だから、もう顔なじみの人も増えてきているので、父のヘルパーであることをつい忘れそうになるほど、参加者の皆さんと楽しく過ごすこともできた。詳しく書く時間も無いので、記録としてざっと書きおいておく。《13日(金)》千歳空港集合7時10分。(早すぎる・・)羽田で乗り換えて山口宇部空港到着は12時過ぎ。昼食後、「秋吉台」→「秋芳洞」を見学し、萩市へ。足腰は丈夫なのだが、暗いところではあまりよく目が見えない父は、秋芳洞は足元がよく見えず、この時ばかりは私もヘルパーの役割を果たすことができた。萩では「城下町散策」→「松下村塾、松蔭神社」を見学の後、宿泊地の「萩本陣」へ。会食が終わらないうちに、私はかねてからの知り合いである切り絵作家の上田豊治さんのアトリエ「とよの庵(いおり)」へ。時間にゆとりがあったらツアーの参加者の人たちも誘い合わせて行くつもりだったのだが、事情があってホテルに着くのも遅くなり、父も皆さんもお疲れのようだったので、私一人で行くことにしたのだ。しかし、行ってみて素晴らしい作品の数々を間近で見て、一緒に行けなかったことが本当に残念。でも、上田さんのお母さんや豊治さんとお会いでき、短い時間ではあったが近況話なども交わすことができて、本当に良かった。今回の旅の私の密かな一番の目的は、上田さんに再会することだったのだから。また、北海道でもぜひ個展を開催することができたらいいのに・・。《14日(土)》8時にホテルを出発し、津和野へ。津和野でのメインは、「森鴎外記念館」の見学。色々興味深かったのだけど、彼の手紙が秀逸。展示物で彼の人生の足跡をたどりながら、「公人」としても「私人」としても、葛藤の多い人生であったであろうと実感した。記念館に行った人は、ぜひ彼の手紙類をじっくりと読むことをお勧めします。その後、鴎外の旧宅や和紙工房見学と殿町の散策。いずれもガイド役は、それぞれの御土産物店の店員さん。なかなかの名ガイドぶりでした。ここでビックリしたのが、「わさびソフトクリーム」。ワサビ味でツンと辛いソフトクリーム、想像できますか?最初は「エーッ、不味いんじゃないの?」と思ったけれど、これが以外にも美味。ワサビが苦手な人はダメでしょうが、私は美味しかった!津和野に行った時には、ぜひご賞味ください。その後は、「岩国錦帯橋」→「安芸の宮島」。とても天気が良く、なごり桜も見ることができて大満足でした。その後、広島市内のホテルへ。夕食は各自でだったので、父と私の共通の知人と一緒に近くの創作和食居酒屋ヘ。父にとっても私にとっても、楽しい時間を過ごすことができて良かった良かった。この日も朝早くから結構歩いたりしたので、父も疲れたのか私が浴室の準備をしているうちにもう寝入ってしまっていた。《15日(日)》この日は、広島市内見学。「広島平和記念資料館」→ボランティアガイドさんと平和記念公園散策。広島県立美術館→縮景園→昼食→広島市植物公園。広島の平和資料記念館は私は三度目なのだが、新館もできて展示物も以前とはずいぶん雰囲気が変わっていた。私としては、あまりにもきれいに整理されていて、原爆の悲惨さ・非人道的な色合いが薄まった感じがした。時間が少し短くて、じっくりと資料を見る(読む)ことができず少し残念。午後からの植物公園は、父も疲れていたので全部を見ることはできなかったのだが、ベゴニア館で見たベゴニアの数々には驚いた。その後広島空港に移動し、羽田経由で千歳空港に戻ってきたのだが、宇部空港といい、広島空港といい、どうして直行便がないのだ!父を送り届けて帰宅したのは午後十一時。疲れました。それでも、父の体調が悪くなりもせず、無事に旅行を終えることができてメデタシメデタシです。(16日/記)
2007年04月15日
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3月26~27日の二日間、札幌の道新文化センターで開催された、「保阪正康の昭和史入門-日本の進路を誤らないために-」を聞いてきた。多分私は、保阪正康氏の著書は読んだことはないように思う。しかし、時々雑誌や新聞などで彼の評論やコメントなどを目にする時、私なりに納得できるという印象を持っていたので、北海道新聞でこの講演会のことを知り、すぐに申し込んだのだった。参加者は、予想以上に中高年者が多い印象だった。主催者は、「若い人にも参加して欲しいとPRしたのだが・・」と、少々ガッカリしていたようだ。実際にこの私が、若い部類に入りそうな感じであった。保阪氏が札幌市出身であるということは、初めて知った。郷土愛の強い私は、それだけで親近感を持ってしまう。そのせいでもないけれど、お話の内容は想像通りにとても納得できるものであった。色々感じたことはあるのだが、その詳細を書くと「レポート」になってしまうので、印象に残ったことをいくつか・・。保阪氏は、昭和を「前期、中期、後期」と区分している。前期は昭和の始めから20年9月2日。 一般的には、8月15日が終戦の日と考えられているが、正確には降伏文書に調印した日であると聞き、確かにそうだなと再認識。中期は、昭和20年9月から27年4月。 アメリカを中心とした連合国によって占領統治され、国家主権を失っていた時代。後期は、昭和27年4月以降。 新憲法の下で、軍事的・経済的にアメリカに従属しながら経済大国への道を進んだ時代。この、どの時代に生きたかということで、「戦争を記憶している世代」「戦争を記録する世代」「記録したもので知る世代」と分かれるが、保阪氏は「記憶した人たちから事実を聞き、後の世代に伝えるべき世代」としての自覚を持ち、残っている資料、隠れている資料を探し、読み解き、体験者に聞きまわり、日本の歴史の事実を可能な限り詳しく記録し、語り継ごうとしているようだ。それが、「その時代に生きた者の責任である」というようなこともおっしゃっていた。彼は、ご自分の歴史観を「実証主義史観」と言っていた。史実の確認を基礎として機能的な解釈をし、そこから得られる教訓をこれからの時代に生かすことが必要なのだと。「記憶を父とし、記録を母とし、教訓を子とする」という言葉が、説得力を持って私の胸に響いた。記憶に頼るのも危ない、記録だけが事実とするのも片手落ち、その双方があってこそ、教訓は生まれるのだ。「記録」のことについては、敗戦直前の閣議で、「戦争に関する公文書は処分せよ」という決定がされ、通達されたという。その結果、膨大な資料や文書が焼かれてあちこちから煙や炎が上がり、米軍は「爆撃もしていないのに、どうしてあんなに煙が上がっているのか」と不思議がったという。最近「従軍慰安婦問題」で閣僚が「記録が無いので、軍の関与はなかったと考える」などととぼけたことを言っているが、当時の政府が資料隠しのために関係書類を処分したことは明白なので、保阪氏は「あんなことをあまり言っていると、日本が恥をかくだけ」というようなことをおっしゃっていた。また、太平洋戦争突入への空気は、満州事変のあたりから醸成されてきて、軍部の動きに対して国民が呼応し、それを後押しし、偏狭なナショナリズムが国内に充満した結果であるとのこと。そのあたりのことも、とても納得できる。当時の空気を私は知らないけれど、そのようなものがなければ、いくら国の命令だといったって、大衆が従順に納得して従うことはなかっただろう。今の時代の日本には、どのような空気が広まっているのか気になる。あー、ここまででずいぶん時間が過ぎてしまった。あと一つだけ、印象に残ったこと。それは、保阪氏は「天皇は徹底したマキャべリストだと思う」と言っていた。これも、聞いていると「なるほど・・」と思った。今度、保阪氏の本を読んでみたいと思う。
2007年03月28日
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札幌の大通り美術館で開催されている、長倉洋海写真展に友人と出かける。平日ということで、さほど来場者は多くはなかったが、その分だけゆっくりと見ることができた。土日は、長倉洋海さんも来てギャラリートークやサイン会もあるので、近くに行く人はぜひお立ち寄りを!彼の子どもの写真は、とても好きだ。今回の写真展の益金は、彼が続けているアフガニスタン山の学校支援活動に活用される。私は写真は買わなかったけれど「涙ー 誰かに会いたくて」を買ってきた。
2007年03月02日
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午前中は、息子が参加する「クロスカントリー大会」の応援。この日も、さほど寒くはなくしのぎやすい日。15キロに出場した息子を見送った後、会場脇の広い雪原で孫達と遊ぶ。暖かくて雪に湿り気があるので、雪で遊ぶにはもってこい。大体一時間くらいで戻ってくるような話だったが、やはり自分一人で走っているのと、大会で競争しているのとでは気合の入り方が違うようで、「そろそろ戻ってくるかも」とゴール近辺に行って、お嫁さんがビデオを準備したとたん、上の孫が「アッ! お父さんだ~!」。何とかゴールに間に合って、本当に良かった良かった。その後、私は慌てて帰宅して、午後から札幌にお出かけ。慶應通信仲間が、卒業後に始めたお稽古事の発表会があり、同じ通信仲間と応援がてら久しぶりに会うことになったのだ。これについては詳細には書けないが、色々なことを考えさせられた。何にせよ、次々と新しいことにチャレンジする姿は、とても素敵だと思う。時には、このような刺激もありがたいし楽しい。みんな同世代。まだまだ未知の自分に出会うための努力をする人、日々をのんびりゆったりと過ごすことに幸せを感じている人(どちらかといえば、私はこのタイプ)親や家族の介護などに追われ始めた人・・・。それぞれの与えられた環境の中で精一杯生きている。客観的に恵まれた状況が、必ずしも心の安定とつながるものでもない。客観的に苦労が多いだろうと思えても、それで生きがいを感じる場合もある。本当に人間って面白いものだと思う。それにしても、慶應通信で学ぶことがなければ、私とは全く別世界に生きる人と出会うこともなかったであろう。「福祉」というある意味では狭い世界のネットワークの中でしか、社会を見ることができなかったのではないだろうか。その意味でも、慶應通信で学んで本当に良かったと思っている。
2007年02月18日
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テレビで「支笏湖氷濤まつり」の様子を見た孫達に誘われて、一緒に夕方から出かけた。氷濤まつりも、もう28回目だという。息子達が小さい頃は毎年のように行っていたが、この数年はご無沙汰をしていた。「氷濤まつりは寒い」というのが私達の常識なので、このお祭りに行く時には防寒対策は念入りにする。着るものはもちろんのこと、ホッカイロも体に付けるタイプと、足先に付けるタイプをわざわざ購入して夕方から出かけた。やはりこのお祭りは、いくら寒くてもライトアップされた会場の方が雰囲気があるから。暖冬と言われているが、本当に気味が悪いくらい暖かい日が続いていて、この日も雪が融けて道路は水浸し状態から出発。支笏湖は原生林の中でしかも標高も少し高いのだが、午後五時頃に会場に着いた時に、駐車場も雪解けでシャーベットand水溜り状態。こんな氷濤まつりは初体験である。会場では食べ物コーナーは混んでいるだろうと思ったので、商店街で「たこやき、イモテン、ホットドック」などで少しお腹を満たす。会場に向かう道筋が、キャンドルの灯りで飾られて、とても楽しい。会場も、色とりどりにライトアップされて、孫達は大喜びである。そして、何と言っても彼らがエンドレスで遊びまくったのが「氷の滑り台」。ここで息子夫婦と手分けして、滑り台の上と下から滑り台の見守り役でかなりの時間を費やした。ついでに私も、二度ほど孫と一緒に滑ったりして・・。やがて、花火大会も始まったが、風も雪もなく、その上にさほど寒くもなく、こんな過ごしやすい氷濤まつりは初体験である。その後、一通りの会場を見て廻り、私は「アイスコンサート」も聴きに行ったりもした。子ども達も疲れてきたので、8時半には会場を後にしたのだが、何と、心配していたような路面が凍る「ブラックアイスバーン」にはなっていなかった。息子に「吐く息が白くなかったよね」と言われ、あらためて暖冬を実感した。用意していた「ホッカイロ」も、結局使うことはなかった。過ごしやすいのはありがたいが、これはやはり気味が悪い。支笏湖は、もともと氷らない湖ではあるが、2001年には全面結氷もしている。(その前は1978年)つまり、とてもシバレルのがこの季節の支笏湖なのに・・。この夏、その反動で冷夏にならなければいいけど。(19日/記)
2007年02月17日
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21日から23日まで、某旅行会社の「大相撲初場所と歌舞伎鑑賞、大江戸めぐり」というツアーに、夫と二人で参加した。まあ、色々と思うことやアクシデント、思いがけない楽しさがあり、詳しく書きたいところだけど、とりあえず覚書程度に書いておこう。《一日目、1月21日》10時半千歳空港発。飛び立って15分くらいで急病人が出たとのことで千歳空港に引き返す。それでも、一時間少しの遅れで午後一時過ぎに羽田に到着。人気のあるツアーだったようで、全道各地からバス三台の参加者がいた。本当は羽田で昼食を取れる予定だったが、その時間がないので「江戸東京博物館」に直行。の博物館は、夫も私も三回目だったので、《北斎展》と《からくり人形の実演》だけ見て、隣接する両国国技館へ。格安ツアーなので座席については期待していなかったが、想像通りの天井に近い席。ここで、国技館名物という「焼き鳥弁当」で遅い昼食。高いところからではあるが、それだけに会場の雰囲気は一望できたし、横綱の土俵入りもよく見えた。特に相撲が好きなわけではないし、最近は朝青龍の一人勝ちという感じだし、すでに優勝も決まっていたけれど、テレビではあまり見ることのない様子が色々と見ることが出来て楽しかった。最後の朝青龍と琴欧洲の取り組みは、仕切りの時から二人のオーラに差があった。私は「オーラ」は実際には見えないけれど、その「気合、気迫」が、朝青龍の体から立ち上っているような気がしたのは事実である。せっかく来たのだから最後まで見ようと、最後に行司が胴上げされるのまで見た。「胴上げ」とは言っていなかったが、ちゃんと聞いてなかった。これも千秋楽の儀式の一つらしい。いわゆる「胴上げ」はこんなところに由来があるのだろうか。屋外に出たら、正面玄関あたりに人だかりが・・。優勝パレードの始まるのを待っているようなので、私達も少し離れた場所で高くなっているところで待つ。見えるかどうかと心配していたが、オープンカーに乗っているのでよく見えた。それで満足して、「記念に」と国技館を背景に写真を撮っていると「キャー」という歓声。振り向くと、敢闘賞と技能賞受賞の豊ノ島がすぐ脇にいて、ファンにサインをねだられている。突然私達もにわかファンとなり、入場した時に貰った大相撲カレンダーにサインしてもらった。このサインがお宝になるように、豊ノ島の今後の活躍を期待しよう。夕食は、「駒形どぜう」で、200年の歴史の味を味わう。木製の下足札に歴史を感じた。両国第一ホテルに戻ると、東関部屋の打ち上げが終了したばかりのようで、エレベーターで東関親方とすれ違う。その巨体にビックリ。このホテルでは、錣山部屋の打ち上げも開かれていたようだが、寺尾に遭遇することはできなかった。《2日目、22日》浅草→隅田川下り→浜離宮→築地場外市場→旧岩崎庭園→皇居→歌舞伎座の日程。浜離宮は、いつもモノレールから見て一度覗いてみたいと思っていた場所。想像以上に広い庭園であることにビックリした。でも、周囲を高層ビルが囲んでいるので、まるでビルの中庭のような感じである。旧岩崎庭園も、昔の大金持ちはすごいなあという印象。いずれにせよ、東京にはこのような庭園やお屋敷が色々あるので、機会があればもっと行って見たいと思う。この日のメインは、何と言っても「壽初春大歌舞伎」鑑賞。今年最初の舞台ということもあるのか、大御所たちが勢ぞろい。ただ、若手役者達は新春浅草歌舞伎で出演しているので、それがチョッピリ寂しかったけど・・。しかし、幸四郎と吉右衛門兄弟、福助と橋之助兄弟勘三郎や玉三郎を見ることが出来たので、大満足である。いつも歌舞伎を見るたびに思うのだが、歌舞伎役者はもとより、鳴り物や長唄三味線など、歌舞伎を支える様々な芸事は、日本の宝物だと思う。まだあまり見る機会のない「狂言」や「能」なども、同じであろう。歌舞伎役者がテレビや映画で登場すると、その姿や風情の美しさや存在感では、他の役者達を圧倒していることが多い。特に時代劇には、彼らの存在抜きでは気の抜けたビールのような気がするのは、私だけだろうか。4時半から9時半までの長時間で、朝から歩き回ることが多かったせいもあり、結構疲れたけれど、本当に満足した一日だった。《三日目》この日はオプションツアーには申し込まず、二人でのんびりと行動。午前中は、上野の「国立博物館」へ。ちょうどこの日から「マーオリ、楽園の神々」(ニュージーランド国立博物館テ・パパ・トンガレワ名品展)が始まるので、これが一番の目的であった。博物館に到着した時に、ちょうど「カパ・ハカ パフォーマンス」が始まり、マオリの伝統芸能を堪能。想像していた以上に(マオリのみなさん、ゴメンナサイ)素晴らしいもので感動。その後展示品を見たのだけれど、これもなかなか見ごたえがあった。どことなく、北海道のアイヌ文化に通じるものも感じて、人間というものはさかのぼればみんな共通する精神性を持つのだろうとも思った。ニュージーランドでは、マオリの言語や文化を学校でも教えていると聞いたことがある。多分選択科目なのだろうが、北海道(日本)ではそんな学校なんて義務教育では全くない。私が、「日本の宝」と思っている歌舞伎や狂言などにしても、初等教育の時点では、少なくても北海道では「芸術鑑賞」で見る機会があれば御の字だ。私が初めて歌舞伎を見たのは19歳だったと思う。それまでは、「歌舞伎」と言う古典芸能があるらしいという程度。大衆の娯楽である「寄席」に初めて行ったのは、43歳で初スクーリングに行った時だ。言葉で「愛国心」を強要するよりも、日本人が伝承してきた文化を身近なものにすることの方が大切だと思う。博物館の他の展示を見ていたらアッという間に時間が経ってしまい、お腹がすいてきたので、根岸の豆富料理店「笹乃雪」へ。この店も、創業300年を越える老舗で、一度行ってみたいと思っていた。雰囲気もお味も結構でした。昼時だったので、お値段もお手頃だったし・・。その後、すぐ近くの「子規庵」へ。実は、ここの存在はこの時まで知らず、「笹乃雪」のリーフレットで知って足を伸ばしたのだ。というわけで、予定では午後からは上野の鈴本で寄席を楽しもうかと思っていたのだが、そんな時間もなくなってしまったので羽田空港に向かい、6時の便で千歳空港に向かった。アクシデントもなく予定通りの到着で、充実した三日間の旅行を無事に終えることが出来た。帰宅したら、妹に仕事帰りにストーブのスイッチを入れてもらっていたのだが、やはり家全体が冷え切っていたせいか、まだ十度くらいにしかなっていなかった。それでも、雪も降っておらず、ひどい冷え込みもなくて水道も無事に出てきてホッとする。北海道では、冬季の旅行は色々と心配事が多いのが難点である。
2007年01月24日
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12月16日から上映される映画「長い散歩」(奥田瑛二監督)の上映会後、パネルディスカッション。パネラーは奥田 瑛二 氏(俳優、『長い散歩』監督)青葉 紘宇 氏(NPO法人東京養育家庭の会 理事長)一場 順子 氏(NPO法人カリヨン子どもセンター 理事 弁護士)参加者のほとんどが日本フィランソロピー協会の関係者だと思う。参加費1000円で、映画と監督を含むシンポジストの話が聞けるというのに、私の印象では定員150人もいなかったのではないだろうか。こんなに地理的にも良い場所で開催するというのに、東京って何ともったいない場所だと思った。私の住む市でこのようなイベントを開催したら、大変なことになっただろうに。まあ、出席者の交通費などを考えたら、北海道の地方都市では絶対に開催できないセミナーである。感想を書きはじめたら長くなりそうなのでやめておくが、映画は様々なことを考えさせられるものであり、私は児童虐待やDV、その当事者の救済というか癒しということを考えるには、とてもよい映画だと思った。その後のシンポジウムでも、奥田監督の映画に託した思いや関係者の言葉の中に、示唆に富むものを感じることが出来た。言ってよかったと思うと同時に、もう少し首都圏に近い場所に住みたいと思った。
2006年12月13日
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東京最終日は、巣鴨周辺散策。おばあちゃん達の原宿といわれる「巣鴨地蔵通り商店街」は、想像以上に面白く楽しむことが出来た。名物の「塩大福」などの和菓子屋さんも多いし、乾物、漬け物、小物などのお店が並び、あれこれと見ているうちに時間が過ぎてゆく。衣料品も、北海道の農村地区のスーパーなどで並んでいるようなものも多く、本当にここは東京か? という不思議な気持ちになったり・・。ここで結構な時間をつぶし、揚げ饅頭と甘酒で体を温めてから、次の目的地、六義園へ。「六義園」は、紅葉が美しいと聞いていたので、それを期待してのもの。北海道では、すでに紅葉は枯葉となって散ってしまっているが、東京の紅葉はまだまだこれからのようであった。期待していたほどではなかったけれど、それだけに一部の紅葉が鮮やかである。それにしても、昔の大名屋敷というのは本当にすごい。このような庭園美を完成させた日本人の感性も素晴らしい。これこそが、「美しい日本」ですよ。北海道のような「自然のままの美しさ」もいいけれど、計算されて演出された、繊細な自然の美も素晴らしい。東京には、都会の喧騒のど真ん中に、このようなオアシスのような場所があちこちにあるようだ。一週間くらい滞在して、あちこちの庭園めぐりをしてみたいと思う。その後、巣鴨駅前で早めの夕食をゆっくりととり、それぞれの帰途についた。今回は、久しぶりに三人姉妹でゆっくりと話をすることができた。お互いに、色々なこともあったけれど、年とともに生来の楽天性に磨きがかかって、「私達って幸せだねえ」と言い合えるという、おめでたいほど幸せな三人姉妹であることを確認。幸せというものは主観的な感性でもあるので、幸せだと思ったもの勝ちなのである。
2006年11月26日
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