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大阪関連のBack numberも加えました。さて、今回は三度(みたび)大阪からの紹介です。大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村茶臼山(ちゃうすやま)真田幸村(さなだ ゆきむら)と真田 信繁(さなだ のぶしげ)二つの名前古戦場(天王寺)天王寺公園(てんのうじこうえん)「灯台もと暗し(とうだいもとくらし)」と言う諺(ことわざ)がありますが、いつもお参りに行っていた義理の両親が眠るお寺さんはどうも「大阪の陣」の合戦地だった事が解りました。※ 新しい寺だと思いきや、創建は1185年(文治元年)とかなり古かった。そして調べて見れば、すぐ裏の丘は茶臼山(ちゃうすやま)で、寺の正面ゲートの前方には安居神社がある事も解りました。知る人なら知る、そこは大阪冬の陣、夏の陣、共に武将らの本陣が置かれ、合戦場所となった曰く(いわく)の土地だったのです。近年の大河ドラマのおかげで真田幸村(さなだ ゆきむら)ブームが起きていて、それで知る所となりました。(関連場所には赤いのぼり旗が立っている。)私、日本の戦国物あまり詳しくありませんが「灯台もと暗し(とうだいもとくらし)」の縁で今回、真田 幸村(さなだ ゆきむら)(信繁)氏の合戦地と最後の地を紹介する事にしました。真田幸村(さなだ ゆきむら)と真田 信繁(さなだ のぶしげ)二つの名前ところで真田幸村(さなだ ゆきむら)の名で知れ渡った豊臣方の武将ですが、本名は真田 信繁(さなだ のぶしげ)(1567年~1615年)が正解です。「幸村(ゆきむら)」の名は後世、江戸期の軍記物「難波戦記(なにはせんき)」の中で付けられた名前らしく、反徳川の武将だった為に本名を敢えて控えた? ようです。いわゆる芸名が一人歩きして本名を食ってしまった感じです。茶臼山(ちゃうすやま)茶臼山(ちゃうすやま)と河底池(かわぞこいけ)共にここは現在、天王寺公園の敷地内になっています。住所は大阪市天王寺区茶臼山町1-108写真撮影の場所は慶沢園(けいたくえん)前。茶臼山(ちゃうすやま)と名が付いているが標高26m 小さい丘程度である。実は5世紀頃の古墳ではないか? と言う説もあるが出土品が出ていないので判らないが、大阪はヤマト王権時代からの歴史を持つ土地なのである。確かに前方後円墳のような形ではあるし近所の四天王寺(聖徳太子建立の寺)では埴輪棺が見つかっているので可能性は高い。天王寺公園の地図・・方位を北にあわせる為に横にして、さらに必要箇所を少し足しました。ピンクが茶臼山です。その周囲が大阪市立美術館もあるエリアです。グリーンは動物園。オレンジは最近できた天王寺駅前の芝生広場。茶臼山の北北西に一心寺があり、さらにその北に安居神社があります。さらにずっと北に行けば大阪城です。一心寺と安居神社に挟まれる道は逢坂(おうさか)で右(東)に登ると四天王寺があります。実はここは上町台地(うえまちだいち)と呼ばれる丘陵地の西の稜線に位置していて、このあたり「天王寺七坂」と呼ばれる有名な坂が並んで存在しています。茶臼山(ちゃうすやま)山頂ルートは天王寺ルートや一心寺ルートなど外からのルートは3つ。山へ登るのは5箇所。一心寺から見た茶臼山一心寺も高台になっている。本当にただの小山。名前がついている事に驚くが戦国の時代には茶臼山には城郭があったらしい。築年は1546年(天文15年)。細川晴元の家臣である山中又三郎が古墳の上に建てたとされる大塚城である。木が無ければ西方面の景色は一望できたはず。古戦場(天王寺)ところで天王寺と言う場所は数々の戦場になった場所なのである。その理由は地形による所が大きい。(次回詳しく)先ほども触れたが、上町台地(うえまちだいち)と言う小島のような丘陵が平たい台地の上に乗っていて、古来そこに人が住み着いたからだ。※ 上町台地(うえまちだいち)の北には大阪城が建っている。1576年(天正4年)4月石山本願寺(現大阪城の場所)が挙兵し、天王寺まで進軍。織田方の天王寺の砦が包囲されると京都より信長自ら少ない手勢で救援に向かい先陣の足軽に混じって駆け巡り危機を脱っした戦いが石山本願寺VS織田信長「天王寺の戦い」である。さらに戦国最後となる豊臣家VS徳川家の決戦の場所もここである。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では、ここを徳川家康は住吉から茶臼山に本陣を移し使用したと言う。徳川方はここより真田丸を攻めたのである。さらに翌1615年(元和元年)の大坂夏の陣では、反対に豊臣軍の真田信繁がここを本陣にして徳川の首をとるべく野戦に出たのである。(茶臼山砦や茶臼山陣城)一心寺側ルートからの茶臼山山頂へのアクセス山頂は狭い古戦場の戦線地図が置かれているのだが、ガラスで光って見えにくく。写真も全てダメでした。山頂登頂の証明書が欲しい人は、茶臼山ゲート前の一心寺存牟堂で発行してくれるらしい。9時~16時。一部100円の実費がかかるが・・。最近山頂には立て看板が建った。真田信繁(幸村)の人となりや名言が書かれている看板が幾つか。武将の鏡と称される名言が真田信繁(幸村)には数々あるらしい。上は豊臣方に受けた恩義を忘れない。と、同時に金品に目がくらんで恩義を忘れるヤツは人ではないと罵倒。確かに真田信繁(幸村)は豊臣方に忠義を尽くしたが、彼の兄は徳川方に忠義を尽くした。そして兄弟で敵対したわけだが、そもそも真田の家を残す為に敢えて二方に別れたのが本当だ。※ どっちが勝っても家名が残るからね。下も茶臼山にあった看板この図ではJR環状線の内(豊臣方、赤)と外(徳川方、青)で対峙して戦った事になっている。まさに真田信繁(幸村)は上町台地(うえまちだいち)の上手側から攻めている。※ 赤い甲冑は真田信繁(幸村)のトレードマークである。天王寺公園(てんのうじこうえん)茶臼山は左。河底池(かわぞこいけ)にかかる赤い橋は和気橋。西から東方面を撮影。四天王寺は茶臼山の向こう側。その写真右方面にアベノハルカス写真右に見切れているのが大阪市立美術館。大阪市立美術館美術館エリアから天王寺駅前の芝生広場に出る歩道橋からまさにこの当たり徳川の陣前の合戦場所。次回、真田信繁(幸村)最期の地を紹介Back number 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村リンク 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)大阪については以下も書いています。リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪 造幣局 桜の通り抜けリンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎リンク 四天王寺庚申堂
2017年04月26日
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9日日曜朝まで降っていた雨が上がったので大阪城公園の桜の様子を見に出かけてきました。チョット遠回りでしたが、天満の天神さんを通りぬけして天神橋(てんじんばし)から天満橋(てんまばし)に戻る形で西外堀を歩いてめざし、大手前から大手門に回り込み入城。西外堀に着いたのはちょうど昼頃。天気はそこそこ晴れて来た事もあり、そこまで来ると城を目指す人がだんだんに増えてきていました。恐らく花見をするには最後の日曜日。毎夜の雨で夜桜が見られ無かったので皆さん待ちに待っていたのでしょう。大手前から大手門まで、すでに桜並木が満開で(日当たりが良いので)、そこで満足している人もいましたが、とりあえず、西の丸庭園を目指してみました。大阪城は幾つかのブロックに分けられていてエリア毎にそれぞれ楽しめるのですが、天守閣の西に位置する西の丸庭園は1995年11月アジア太平洋諸国の首脳級が参加する国際会議「APEC'95」きに迎賓館が建てられて芝生広場とそれを囲む桜や四季の花が楽しめるように整備されているのです。(有料ですが・・。)今回は西の丸庭園中心に桜を拾って見る予定でしたが、大手門にもこだわってしまいました ※ 2011年09月「空からの大阪城」で天守閣はちょこっと紹介しています。2017年4月 大阪城公園 大手口と西の丸の桜徳川幕府の城大手口 枡形門(ますがたもん)西の丸庭園北政所(寧々)の屋敷跡?大阪城アクセスマップピンクで囲んだのが西の丸庭園→が大手門紫の星印が石山本願寺推定地の碑大手口(大手門)大阪城の表玄関になるのが大手口の門(大手門)である。城には幾つか口(出入りの門)があるので今ならどこからアクセスしてもかまわないが、城の防御の為に堅牢な造りになっているので大手門から観察しながら入るのがお勧めです 西の丸の坤櫓(こんやぐら)から大手口を撮影ゲートまでのストロークは長く左右は堀。門手前の櫓が千貫櫓(せんがんやぐら)である。左が千貫櫓(せんがんやぐら)右が大手口を形成する枡形門(ますがたもん)の一画、多聞櫓(たもんやぐら)徳川幕府の城大阪城と言うと、豊臣秀吉の城と言うイメージがあるが、現在の城は徳川家康により再建された城1620年(元和6年)~1629年(寛永6年)の遺構となっている。※ 秀吉当時の城の残骸は地下に多少残っている程度。秀吉の城を完全に消し去って新たな城を築いたと思われる。大手口の門は寛永5年(1628年)、大阪城再築の、徳川幕府により建造されたもので、幕府による命令で諸大名が城壁を形成する巨大な石を運び込んで造られたものなのである。大手口一の門 高麗門(こうらいもん)大手口枡形内 高麗門(こうらいもん)内側から大手口枡形内 大手門南方塀(写真右が一の門)壁の穴は鉄砲用。 侵入者に対する攻撃用の壁となっている。大手口枡形内 多聞櫓(たもんやぐら)の一部? 壁の巨石に驚く大阪城ではとんでもない巨石があちこちに使われている。中でもこの大手門の巨石は城の威容を誇示する為に表22畳(35.82m2)から29畳(47.98m2)の表面積の石が採用されている。採石地は瀬戸内海小豆島と推定。当時舟にしてもここまでどうやって上げたのかいつも思う所だ。大手口 枡形門(ますがたもん)大手口は防御の為に枡形(四角)構造になっていてL字に門が二つある。(一気に進入できないような造り)一の門は高麗門(こうらいもん)、二の門は櫓門(やぐらもん)と言うのが枡形の一般的な形だそうだ。大手口枡形内 二の門 櫓門(やぐらもん)多聞櫓(たもんやぐら)の一部である。今まで秀吉VS家康の戦いがあった所だと思っていたがそうではなかった。合戦後に全て新しくされているので・・。徳川の時代に新設されたこの枡形大手口内は、江戸時代には商人が定期的に入城。城詰めの大番衆が商人から日曜品など購入する為の市が立ったそうだ。少なくとも江戸の時代は大阪城は長く平穏。しかし落雷による火災が度々。1665年(寛文5年)には落雷によって天守が焼失。徳川慶喜が大阪城を追われた戊辰戦争(ぼしんせんそう)(1868年~1869年)時の大火災。明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用。その為に昭和20年の空襲で破壊。城はいつのまにかコンクリートのビルになっていた。(昭和の天守)昨年姫路城の天守に登ったが、景色以外大阪城の天守に魅力が無いのが残念だ西の丸庭園さて、本来の目的であった大阪城公園の桜の紹介です。広大な芝生広場の前。写真の場所は恐らくかつての城代屋敷のあたり。徳川時代の西の丸跡地とその南に位置していた城代屋敷と合わせて昭和40年(1965年)、総面積約64,000m2の芝生庭園として西の丸庭園は開園。ソメイヨシノを中心に約300本の桜が植えられた桜の名所となっています。※ 大阪城公園全体では3000本。入園料は本来大人200円だが観桜ナイター期間中は350円になっていた。でも中学生以下無料。(大阪在住の)シニアも無料だそうです。お金取るけど価値はありました。何よりタダの所より人が少なくて静かです。天守から内堀一つ隔てた西の丸は豊臣時代に多くの御殿が建ち並んだ場所だそうです。秀吉没後慶長4年(1599年)豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の寧々(ねね)様が一時住んでいた場所でもあり、慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦まで徳川家康も住んでいたらしい。※ 豊臣秀吉(1537年~1598年)※ 北政所(寧々)(1548年~1624年)寧々様はその後京都に移り住み、1605年伏見城から化粧御殿と庭園を移築して方丈を造り晩年の19年をそこで過ごす。それが近日紹介の圓徳院である。※ 秀吉と寧々様の霊廟のある高台寺は、昨年紹介済み。リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)芝生広場からの天守閣左見切れているのが迎賓館。京都二条城の二の丸御殿の白書院をモデルにした純和風建築だそうだが建物が微妙。写真撮らなかったのです。(後からあれが迎賓館だと知った)「APEC'95」で建てられた迎賓館は今は結婚式場とかに利用されているそうだ。大阪城は今回はこれにておわり
2017年04月12日
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今年も天神祭りの予定で大阪に来る予定でしたが、姉が突然買い出しの為に日本に帰って来る事になり、天神祭りどころではなくなってしまいました(今回は京都にも行けずでした。)m(_ _)m ゴメンナサイ 祭りに興味のない姉。今回祭りはスルーしてちょうど配信された「ポケモンGO」をダウンロード。ポケモン探しの旅(ウォーキング)を始めました。大阪城ではガーディをゲット。しかし、ほとんどポケモンは出ない。そして気が付いたのが、歩き回るよりも近所の公園に行った方が合理的だと言う事。近所の扇町公園は、常にほぼ入れ食い状態のポケモン祭りだったのです。しかも扇町公園はポケストップが10箇所あり、周辺も含めるとその倍。一箇所の場所で3つのポケストップのレーダーを関知できる場所があり、課金しなくても、歩きまわらなくても常にボールは補給可能なのです。しかも扇町公園はレアな大方のポケモンをゲットできるのではないか? と言う出現の種類の多さ。レアと言われる物もたくさん出ています。もちろんピカチュウの出現率も高い。1時間で5回出て3回ゲット(2回は戦闘中に消えた)。そんなわけで今回は扇町公園のポケストップの位置とレーダーの関知する場所を地図を添えて紹介する事にしました。初めて来た方でも解るように取材しました 大阪限定で申し訳ありませんが・・。ポケモンGO大阪 扇町公園 アンテナmapポケストップのアンテナ危険な場所扇町公園地図(上が北)市の看板をベースにアンテナの位置など書き加えました。赤い円がポケストップに指定されたオブジェなどのある所です。黄の円が3箇所のレーダーを関知しやすい場所で、みんなが特に多く集まる場所です。赤い円でピンクになっているのが、桜吹雪が常に舞っている場所です。また北側のバツのついた円は、さくら吹雪はよく舞うけれど夜は危なさそうなのであまり行かない方が良いと思った場所。関西テレビと手前が北区役所。天神橋筋通りから関西テレビは天神橋筋通り側と公園側とで2箇所のポケストップになっている。因みに撮影場所は、前の関西テレビと後方の天神橋筋四丁目のテントウムシの看板(ポケストップ)のレーダーがとれる。地下鉄扇町駅の上あたりが扇町公園の東のゲート。赤い矢印はポケストップのある場所地下鉄講裏の「案内地図」がポケストップ。公園側からの関西テレビ撮影場所は最も人が多く。ピカチュウもよく出るスポット。危険な場所関西テレビの裏口前の通路には立方体の石の椅子? がランダムに固定されている夜になるとこれが見えなくなる。人が座っていれば解るが、みんなスネなどぶつけたり転倒する人が出て非常に危険な石の塊となっている。しかし、この場所はいろいろ出るのだ。夜になればなるほど人混みが凄くなる場所。桜は舞ってもあまりよろしくない場所がある。先ほど触れた北側のバツをつけた円」あたり。そこは昼間ならともかく、丘があり起伏がある。林もある。足下が危ない。丘の周りは林が多い.今は人が多くなっているとは言え女性は一人では近づかない方が良い場所です。特に夜は北側の通りは路駐車が増えているので連れ込まれないよう注意して下さい。ライトも少ないかもしれない。「石の門」と言う名のポケストップ左手奥が扇町プールこの道が梅田方面、南西のゲートに向かう通路として生活道路にもなっている。日中は自転車も多いが、いまは恐ろしいほどの人がたちどまったりする。場所がプールと池の前なのでコダックやコイキングは多い。昨夜はアーボばかりだったが・・。一昨日はピカチュウも出ていた場所昼の写真驚くのは、みんながほぼスマホを片手に歩いている事。しかも老若男女、世代の幅が広い。何より中高年が多いのには驚く。昼間は車イスの人もスマホ片手に来ている。赤い矢印はポケストップです。手前人が座っている「動物のベンチ」もポケストップです。南西のゲート前のライト? 右がグラウンド。初期の頃より皆さんポケモンが出ると端っこによけて通行の道を空ける人が増えている。マナーの悪いのは自転車で来る人だ。真ん中に止まりスマホをいじりだす。かくして渋滞になるのである。昨日、夜8時頃ポケモンが出る時は、周囲と連動していて、皆、ほぼ同じのが出ている。ここでは3匹くらい常に同時に出る事も多々。この時間は少ない方。深夜10時過ぎてからの方が賑やか。この夏休み中は混むのではないか?先の人だかりは南西の梅田方面のゲート右の「グラウンドのライト?」と通路反対に「時計塔」がポケストップになっている。南西ゲート前の「渦巻き」のオブジェもポケストップになっている。つまりこの場所も3箇所常に同時にとれるので、皆ここでストップしているのだ。場所変わって北のゲートから入った丘。撮影場所がポケストップの一つ「大地の声」。丘の頂(いただき)。ふもとの大地で発した声が聞こえるパイプのオブジェがあちこちに。この丘の上から全てがアクセスできれば良いが、そうでもない。写真後方下にも「都市展望の座」と言うポケストップがあり、さらのその下の方に「大阪の森」の碑が建っている。深夜のグラウンド光景。GPSレーダーを見ているとほぼ真夜中でも桜が舞っています。現在6時。桜吹雪が減ってきた気がする。ピークは祭りの日だったかもしれない。本日東京に戻ります。家の方は東京でも田舎の方。扇町公園のような場所が近くにあると良いけれど・・。
2016年07月30日
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3日からまた急遽大阪に行く事になりました。行ったらまた京都などでかけてくるつもりではありあますが、ザルツブルグの資料を持っていけないので、ヘルブルン宮殿は中旬以降になると思います。<(;_ _)>ごめんなさいザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)ミラベル宮殿と庭園(Schloss Mirabell und Mirabellgarten)セントピタリス要塞(St. Vitalis-Bastei)跡地クアガーデン(Kurgarten)残念ながら今回宮殿の内部は撮影していません (締まっていて入れなかったのだと思います。)ミラベル宮殿は現在ザルツブルグ市の役所として、また市公営の結婚式場として利用されていて、海外ウエディングとして日本からも参加でき、人気だと言います。かつてバロック建築家ヨハン·ルーカス·フォン·ヒルデブラント(Johann Lucas von Hildebrandt(1668年~1745年) の設計した宮殿は1818年の火災で焼失していますが、焼け残った西翼北のゲオルグ・ラファエル・ドナー(Georg Raphael Donner)の階段と大理石の間は、結婚式やコンサートなどのイベントで絶えず利用されているそうです。宮殿南西面宮殿南面のバラ園周りにに置かれている17基の大理石の壺最初にバロックの庭園を設計したヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エアラッハ(Johann Bernhard Fischer von Erlach)(1656 年~1723 年)が置いたもの。しかし、現在のものは本物か? 周りが溶けてしまったのか? 大理石には見えない。宮殿南側ローズガーデンを西面からこのローズガーデンはかつてはオランジュリー(オレンジ園)だったようだ。ミラベル宮殿裏(西側)、ペガサスの泉転々としてここに落ち着いたペガサス像当初カピテル広場に設置されていたペガサスの像は1700年頃移設。フィッシャー・フォン・エアラッハがバロック庭園を手がけた時に移設されたものか?あるいは宮殿をバロックに変えたフランツ・アントン・ハラッハ侯(Franz Anton Fürst von Harrach)(1663年or1665年~1727年)(在位1709年~1727年 )が大司教になった時に移設したのかも・・。しかし、1818年の火災の後に撤去され、オークションにかかるなど数奇な運命を辿り再び戻ってきたらしい。ここで式を挙げた多くの新婚さん達がこの前で記念撮影するそうだ。北門の階段とその向こうがクアガーデン(Kurgarten)北門の階段にはユニコーンの像が置かれている。クアガーデン(Kurgarten)からのペガサスの泉越しのミラベル庭園とホーエンザルツブルグ城クアガーデン(Kurgarten)公園ローズヒルの向こうにかすかに見える建物がシェラトンホテル。ここは丘になっているセントピタリス要塞(St. Vitalis-Bastei)跡地この北西エリアには30年戦争(1618年~1648年)の頃、ミラベル宮殿を守る砦が建設されていたようだ。装備が築かれるのはパリス・ガルフ・フォン・ロドロン(Paris Graf von Lodron)大司教(1586年~1653年)(在位 1619年~1653年)の時。ミラベル宮殿を守る砦、セントピタリス要塞(St. Vitalis-Bastei)跡と印されている。30年戦争で使用される事は無かったかも知れないが、ホーエンザルツブルグの要塞同様、ザルツァッハ川に面したこの宮殿の防衛の為に堡塁が築かれていたのは間違いなさそうだ。その跡地の遺構が後半紹介するドワーフの広場である。クアガーデン(Kurgarten)時代が代わり、ザルツブルグ市の所有が大司教からオーストリア皇帝に移るとフランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)(1830年~1916年)がここの整備を始めて1854年、ミラベル庭園とクアガーデン(Kurgarten)の一般公開を始めている。現在もシェラトン・ホテルに隣接してコンベンション・センターとクア・ハウス(スパ)が存在しているが、これがフランツ・ヨーゼフ1世時代に造られたクア・ハウス(温泉施設)の名残なのではないかと思う。(シェラトンに宿泊していて全く気付かなかった)※ 少なくとも第一次世界大戦(1914年~1918年)まで市民の憩いの場としてこうした施設も存在していたようだ。クアガーデンからのミラベル庭園方面ミラベル庭園ペガサスの泉の後側ライオンの階段がある。そこを上がると橋があり面白い像がたくさん置かれている広場? があった。この橋に据えられた像を見る限りでは戦争のイメージこれが要塞の堡塁につながる橋と思われる。全景はないのだが、堡塁跡と思われる広場は、ほぼ完全な円形の丘の上にあり、270度くらいの角度をカバーする事ができるだろう。橋を渡ると円形の広場にぐるっとドワーフの像が設置されている。これらドワーフは復元作品で、実はバロックの時代からこのドワーフは存在していた・・と説明している所もあるが、ちょっと疑問である。少なくともこの場所ではなかっただろう。どう見ても作品は1600年代ではない。風刺か? 変なおじさんの像もある。ドワーフ(dwarf)・・トールキンのフアンタジーでもお馴染みの伝説の小人族。人ではなく、妖精の種とも?ミラベル宮殿正面(雨の日の写真ですが・・)普通に役所なのである再度になりますが、バロックの宮殿と庭園に造り上げたのはフランツ・アントン・ハラッハ大司教の時代(1710年頃)で、ヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウ大司教の時(1606年)ではありません。つまり宮殿のルーツは愛人の為の邸宅であったが、その後の所有者により増改築され、立派になっていった・・と言うのがこの宮殿です。しかし、1818年の火災でバロックの宮殿は焼け、後年、少し質素なネオクラシック(新古典様式)で建て直されて現在に至るわけです。(その立て直しの年代がはっきりしていない。 断定できるのは、フランツ・ヨーゼフ1世の時代である事。)また、ぶっちゃけ、現在の庭園の彫刻はどれも撮影するほどの品ではなく、近景ではほとんど載せませんでした。(後年の安いレプリカか?)ザルツブルグは第二次世界大戦のおりに近くの駅舎が爆撃され、未だ不発弾がうまっているかもしれない場所です。(その時に被害が及んでいる可能性はあります。)近年庭園などは整備されつつありますが、昔の豪奢なスタイルに戻ったとは思えません。何しろ入園はタダ。財源は市から出ているわけですから、維持管理にそんなにお金はかけられないのでしょう。たぶんバロック時代の宮殿はもっと素晴らしいものだったに違いない・・と言う感想で「ミラベル宮殿と庭園」終わります。Back numberリンク ザルツブルグ(Salzburg) 1 (塩で繁栄した都)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 2 (メンヒスベルクの丘)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 3 (ホーエンザルツブルク城)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 4 (ザンクト・ペーター修道院)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 6 (カタコンベとトラップ一家)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 7 (ミラベル庭園 1)ザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)リンク カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)
2015年05月02日
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各都道府県の特徴を極めて簡略化したざっくり地図が若者の間に流行っているそうです。作者がそれぞれ違うので、統一性は全くありませんし、極めて制作者個人の主観が強く個性的。観光協会は絶対認めないシロモノではありますが、「なんとなく解る解る」と言う所が受けて笑える? そこが人気なのでしょう。さて、地図はほどほどにシンプルな方が解りやすい。目的別に熟考された日本の地図はどれも非常に解りやすくできています。しかし海外では? 必ずしも解りやすい地図ばかりでは無いのです。特に今回旅行したベルギーやオランダでは、国単位で疑問に持つほどレベルが低かった。(理解不能で目的地にたどり着けずあきらめた場所もあったのです)そもそもベルギーは特に街に標識がなさすぎるのが問題でした。たとえ地図を見つけても目印になる現在位置のポイントも書かれていなければ、通りの目印となる建物の表記も無かったりする・・。要するに探す人の身になった地図造りになっていないのです。地図製作のノウハウが無いのかもしれません。結局役に立ったのは日本のガイドブックについている地図です。大ざっぱだけど地元の地図よりまだ信頼できた・・と言う事です ブリュッセル(Brussels) 9 (芸術の丘・ Mont des Arts)芸術の丘(モン・デ・ザール・Mont des Arts)ブリュッセル中央駅の南、ランペール大通りにアルベール1世の騎馬像が置かれた公園広場があります。そこから東方面、王宮のある丘陵地がクーデンベルク(Koudenberg)の丘です。クーデンベルク(Koudenberg)の丘の西斜面が芸術の丘(モン・デ・ザール・Mont des Arts)になります。なぜ芸術の丘と呼ばれるようになったのか?その界隈に美術館や博物館、コンサートホールが点在しているからです。今回は芸術の丘からの写真を紹介します。まずは位置確認でクーデンベルク(Koudenberg)の丘の地図からピンク星・・・王宮(Palais Roya)(王宮前のブリュッセル公園はかつては王室の庭園)王宮より西の方(写真左)が芸術の丘(モン・デ・ザール・Mont des Arts)赤星・・・アルベール1世の騎馬像青星・・・公園高台の階段黄星・・・楽器博物館などのアールヌーボー建築の建物群と奧がコンサートホールA~B・・・ラーベンシュテイン・ギャラリー(Galerie Ravenstein)いわゆるショッピングモール芸術の丘(モン・デ・ザール・Mont des Arts)に絞り込んだ地図写真上の青星から赤星方面の景色写真奧に見える尖塔はグラン・プラスの市役所の尖塔。ちょうど西の方面になるので夕日が綺麗らしい。フランス式庭園の左手がアルベール1世図書館右手スクエアは2009年オープンフランス式の幾何学庭園は造園家ルネ・ブリュール(René Péchère)(1908年~2002年)の作品。1956年から1958年製作。もともと公園は国王レオポルドIIによ19世紀末から土地の買収がされていたようだ。ブリュッセルは王の肝いりのせいでとかく博覧会が多く開催されていた。1897年、1910年、1935年、1958年そして1910年の万国博覧会の体裁を整える為にロワイヤル広場から緩やかな傾斜を利用して今の位置に公園や記念碑的な階段を建設。その後都市再生プロジェクトの中心として再び公園の再編が行われ今の庭園は1958年の博覧会に間に合うように新たに造園されたもののようです。公園下のアルベール1世(Albert I)の騎馬像公園下から王宮広場(ロワイヤル広場)前の聖ヤコブ教会が見える。アルベール1世(Albert I)(1875年~1934年)第3代ベルギー国王(在位:1909年~1934年)第2代ベルギー国王レオポルド2世の甥。ドイツの領内通過の時、永世中立国である事を押して戦った強い意志のある王は一方で趣味が登山と車の運転と言う庶民派。家庭的な人柄もあり国民に特に愛された国王なのだそうだ。ランペール大通りからのアルベール1世の騎馬像今や市民の憩いの場となっている。日本では考えられない・・ただボーっと座っている人が多いです。騎馬像の下からグラン・プラスの方を臨む。公園前ランペール大通りと写真中央がブリュッセル中央駅舎。実は芸術の丘(モン・デ・ザール・Mont des Arts)の地下はブリュッセル国鉄が走っている。このあたりはちょうど地下にもぐっている区間なのだ。最初に紹介した地図のA~B・・ラーベンシュテイン・ギャラリー(Galerie Ravenstein)は丘の上から駅に向かう人の最短通り抜けコースでもある。最初の写真はこの大階段のずっと上から撮影写真中央にちょっと見切れているのが楽器博物館。さらに丘を登ると王宮前広場に出る。次回もクーデンベルク(Koudenberg)の丘の上からリンク ブリュッセル(Brussels) 10 (ロワイヤル広場界隈)
2014年02月02日
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昨年5月の欧州旅行は8割が雨でした ブリュッセルに至っては9割が雨。時期が悪かったのかな?そんな時に撮影しているので美しい写真とはいきませんが、サンカントネールは2度程行ってきました。軍事博物館の屋上に上がれる・・と期待していたのですが、あいにくの雨と、フェスティバルに重なり、屋上はかないませんでした。が、変わりにフェスティバルの写真をのせました。ブリュッセル(Brussels) 8 (サンカントネール公園とフェスタ)王立軍事博物館サンカントネール美術館(王立美術史博物館)前回紹介した記念門の反対側からの写真です。こちら通常は関係者の駐車スペースにもなっているようです。向かって右の翼部は王立軍事歴史博物館左の翼部が一部、自動車博物館(オートワールド)で、裏手がサンカントネール美術館(王立美術史博物館)になっています。自動車博物館(オートワールド)は1886年から1970年までのクラッシック・カー400台以上が展示。ウィキメディアより模型の写真を借りてきました。全ては入っていませんが、上の左右対称の建物が、写真上部の建物です。写真左が王立軍事博物館側で、右がオートワールド。写真右の部分がサンカントネール美術館(王立美術史博物館)で入り口も裏手からになります。王立軍事歴史博物館王立軍事博物館は入場無料 但し昼休みは閉館するので外に出される。写真はF16。軍用機80機戦車や旅客機ヘリコプターなども展示。ちょっと驚くのはミサイルなど通常展示では外されて隠されている部分も結構オープンしている事だ。中世、近世の軍服やサーベル、大砲なども展示。(1880年以来のテナントらしい)サンカントネール美術館(王立美術史博物館)ベルギーの美術史を語るにふさわしい一品が数多く展示。入場料5ユーロ。別の回に中身を紹介予定。ベルギーの歴史を飾る美術工芸品のコーナーは内装もアンティックでとても広い。もう一方の美術館は、アールヌーボーの部屋、古代ローマの彫刻の並ぶホールやエジプトのミイラも保存されている。タペストリーの部屋普通の日のメトロMerode駅方面に抜ける公園庭メトロMerode駅からの公園入口から撮影おまけ写真フェスティバルの時の公園正式なフェスティバルのタイトルは解りませんが、中世の時代祭りのようでした。イベントがあるならお知らせがあればいいのにポスターもなく、到着して初めて混乱で気が付きました。しかもこの日は地下鉄の一部工事中で、この最寄り駅のShuman駅もメトロMerode駅も閉鎖工事に入り、地下鉄連絡は緊急のシャトルバスを手配する・・と言う大混乱だったのです。こんなイベントの日に地下鉄を止める事じたい日本では考えられない事です。しかもこの公園には日本のように常設のトイレはありません。イベントのこの日は有料のトイレが来ていましたがベルギーはフランス圏です。フランスと同じくトイレ事情は悪い国の一つです。因みに駅前の一流ホテルでもトイレは気安く入れません。フロントでトイレに入る鍵を借りてからでないと入れませんでしたし、大きな駅のトイレは全て有料で、小さな駅にはトイレはありません。移動の時は考えてからでないといけません。美術館で借りよう・・なんて思って、昼だから追い出され、朝は閉鎖中だとか、閉館30分前だから入れません・・。など予想外もたくさんでした 中世の居酒屋中世の鍛冶屋さんのデモストレーション木彫りのアート屋さん 店の主人も森の妖精みたい 木製の小型観覧車? など子供向けの遊具も出ていました。ほとんどが木製・・と言うところが今まで見たイベントと違う所です。この国では、中世が割と近くにあり、子供達と触れあっているようです リンク ブリュッセル(Brussels) 9 (芸術の丘・ Mont des Arts)
2014年01月19日
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今回はEU地区からサンカントネール公園を紹介します。(都合上公園は2回に・・。)写真左側ピンクに塗ったビルがEU関連の事務所のある所。右の公園がサンカントネール公園(Parc du Cinquantenaire)右の星・・・メトロMerode駅左の星・・・メトロShuman駅A・・・王立軍事博物館B・・・王立美術歴史博物館ブリュッセル(Brussels) 7 (EU とサンカントネール公園)欧州連合 (European Union)のルーツロベール・シューマン(Robert Schumann)サンカントネール公園(Parc du Cinquantenaire)ヨーロッパの首都・・と言われるブリュッセル。それはEU地区、と言われる欧州連合 (European Union) 関連のオフィスが集まった場所があるからだ。ベル・レモン(Berlaymont)EU委員会本部ビル。事務総局など欧州委員会のおもな部局、欧州委員会委員長と26人の欧州委員の事務所などが入居しているらしい。「メンバー国の条約遵守を監視」、「法令や規約の立案」、「予算の編成と実行」「議会へのアドヴァイス」を行っているのがここである。まさにEUの心臓部。欧州連合 (European Union)のルーツ欧州議会はフランスのストラスブール、欧州中央銀行はドイツのフランクフルト。と、ある程度は分散されているが、欧州連合 (European Union)の本部はブリュッセルにある。つまりEUの実質的な中心部はブリュッセルなのである。ブリュッセルは地理的に真ん中・・と言う事もあるが、もともと現在のEU発足の前身となるルーツがここにあったからのようだ。単一欧州・・と言う合衆国作り欧州の経済同盟は、最初は同じ立憲君主国であるベネルクス3国(ベルギー、ネーデルランド、ルクセンブルク)によるベネルクス関税同盟(1948年)からスタートした。(1960年にはベネルクス経済連合が発足。)そうした経済協力は後にもっと多くの国が参加した広域な経済圏を目指す事になる。一方1967年ブリュッセル条約では欧州石炭鉄鋼共同体・欧州経済共同体・欧州原子力共同体)と言う3つの共同体を統合。1980年代の欧州共同体(EC)欧州委員会では欧州内の共通市場成立の可能性を考え単一欧州議定書を作成。(1987年発効)議定書にともない、欧州共同体(EC)が正式発足(1992年調印)。それは後に欧州内の市場統合を実現した。そしてシェンゲン協定により欧州国内の国境検査を撤廃。欧州連合条約発効後は、共通外交や安全保障政策にまで発展拡大。欧州内市場通貨の統合(ユーロの導入)を行った。欧州共同体(EC)(The European Community)は経済以外にも不具合な問題を解決すべく国境を払い、統合して、欧州連合 (European Union)を発足(2009年12月にリスボン条約)させたのである。メトロShuman駅からサンカントネールに向かう道Shuman駅の名はEUの立役者となったロベール・シューマン(Robert Schumann)からきている。公園入口にあるロベール・シューマン(Robert Schumann)の像ロベール・シューマン(Robert Schumann)(1886年~1963年)独仏を和解させ、欧州全体の和解を象徴するフランスの政治家。シューマン宣言により欧州石炭鉄鋼共同体の基礎を作り後に欧州連合に発展。欧州連合(EU)創立者の一人。そして「欧州の父」と呼称される欧州議会の初代(1958年~1960年)議長。1958年、アーヘン市から欧州の思想と平和に貢献した人に授ける「カール大帝賞」を受章。現在ヴァチカンにより列福の審査が行われていると言う。日本での知名度は無いが欧州では英雄の一人のようだ。サンカントネール公園(Parc du Cinquantenaire)1880年、ベルギー独立50周年を記念して開催された博覧会の会場として造園(敷地30ヘクタール)されたと言うこの公園には巨大な門を中心に翼を広げる宮殿のような3つのアーチ構造で建てられている。ベルギーの独立1839年、オランダとベルギーとの平和条約(ロンドン条約)が締結オランダがベルギーの独立を認める見返りに、ベルギーは永世中立国を宣言した。その独立50年になるお祝いのモニュメント構想の中この公園プロジェクトがレオポルド2世国王の元に始まる。フランス語で50周年記念をサンカントネールと呼ぶ事から50周年記念に作られた公園・・と言う意味でサンカントネール公園(Parc du Cinquantenaire)と呼ばれているが、英語で、ジュビリー公園(Jubilee Park)と言う別の名前がある。周辺の30ヘクタールの公園の遊歩道には、絵のような庭園、池や滝が配置され、パビリオンのほとんどはこの時に建築された。あまりに広く写真に収まらないので、ウィキメディアより借りて来ました。中心に目玉となる triumphal arch(凱旋門)? がベルギーの建築家ギデオン(Gédéon Bordiau)(1832年~1904年)により計画。ギデオンはベルギーの経済·産業のパフォーマンスを象徴する、鉄、ガラス、石を使いシングルアークと半円形の列柱で接続された二つの構造物を設計。決して本来の意味のtriumphal arch(凱旋門)では無いが、威厳に満ちた中心の記念門はこの公園の象徴となっている。しかし、ギデオンは1904年に死去。その後を継いで建築設計はパリのプティ・パレの設計監史の一人でもある建築家シャルル・ジロー(Charles Girault)にゆだねられた。はっきり確認できていないが、記念門はベルギー独立75周年イベントでシャルル・ジローにより完成したようである。最初になぜかベルリンの「ブランデンブルク門」を彷彿させた。その訳は頭頂部の青銅の飾り(四頭立ての馬車(クアドリガ)に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像)のせいだ。こちらは一人多く乗っているが、完全にブランデンブルク門(Brandenburger Tor)の頭頂部を飾るブロンズと同じコンセプトのデザインになっている。リスペクトしたのだろうか?向かって左の彫像・・来歴不明(ライオンは王家のシンボルだが・・)向かって右の彫像・・来歴不明(豊穣の女神か?)サンカントネール公園(Parc du Cinquantenaire) つづくリンク ブリュッセル(Brussels) 8 (サンカントネール公園とフェスタ)
2014年01月15日
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