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ラストにBack number追加しました。今回写真はエフェソスを中心にしました。最古のコインを造ったリュディア王国がエフェソスを支配していた時代があった事とその後ペルシャを経てローマの都市となったエフェソス(Ephesos)ですが、その立地から長らく港湾都市として繁栄した古代都市の跡を残しているのです。さらに、特筆するのは、其の外観だけでなく、宗教的にも大きな転換を持った都市なのです。古来エフェソスではアテナイ神が祀られていたのですが、ローマ帝国がキリスト教を国教にし、431年にはこの地でエフェソス公会議も開催。エフェソスの荒廃はこれらにも関係している。ローマが多神教を禁じると遺跡は資材として外に運び出されて行ったのです。アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス西洋最古のコインギリシャの都市国家の銀貨リュディア王国とデルポイの神託古代都市エフェソス(Ephesus)エフェソスを揺るがした事件簿繁栄の象徴 Celsus(セルシス)図書館エフェソス(Ephesus)の地母神貨幣のない時代の交易は、もちろん物々交換から始まっている。当然それにはお互いが納得する商品同士でないと売買は成立しないから、商品は皆が欲しがる、穀物とか、家畜、武器、毛皮、など他にも回す事のできる流動性のある品が取引の中心に・・。中でも塩は人間にとって必要な要素である為に重要な品だったらしい。そうしたお金代わりになる品を物品貨幣と呼ぶそうだ。実際、ローマ時代には軍人の給料は塩で支払われていたそうで、サラリーマンの語源がラテン語のサラリウム(salarium)(塩を支給する)から来ているらしい。しかし、物品貨幣の取引の場合、商品の状態によっては日により変動があったであろうし、食品であれば鮮度により同じ量でも変動があったはずだ。つまり毎度お互いが納得する割合で商品の交渉をしなければならず、数とか、重さとか、毎回売買が成立するまでは大変であったろう。交易と言う観点から考えればもっと解り易く、持ち運びに便利で変動の無い品にこした事はない。物品貨幣は、やがて変質の無い金属類に移行して行く。金属が貨幣として最初に利用されたのはメソポタミアだそうだ。有名なバビロニアのハムラビ法典 (Code of Hammurabi)には賠償金の額についての金額が定められ、記されている。※ ハムラビ法典はバビロニア第6代王ハムラビ(Hammurabi)王(在位:BC1792年~BC1750年)が制定した法律。金属貨幣の誕生は物品の価値を見出しやすく解り易くした。何より価値の統一は商取引をスムーズにさせたであろう。当然、その流通により交易は急速に広域に拡大。文明は短期間に広まって行ったのである。西洋最古のコインBC1400年頃、アナトリア(現トルコ)でヒッタイトはすでに炭を使って鉄鉱石から鉄を鋳造する技術を開発。彼らは鉄で鋳造した武器によりエジプトにも優るオリエントの大国にのしあがっていく。それ以前の鉄器は主に鉄やニッケルを含んだ隕石から打ち出した単純な製法であったからだ。だから熔解、鋳造は革新的技法であった。ヒッタイトが滅亡するとその技術は世界に拡散。アフリカでは溶鉱炉による鉄の精練技術を獲得している。この鋳造の技術はあらゆる金属に利用できる。現在発見されている西洋の最古のコインは、BC670年頃に、やはりアナトリアに現れたリュディア(Lydia)(BC7世紀~BC547年)王国で造られたエレクトロン貨(Electrum)である。リュディアの首都サルディス(Sardeis)はボス山(Mt.Bos)の北の渓谷に広がるアクロポリス。山から流れるパクトロス川は山から市中まで砂金を運んで来たらしい。この砂金は金と銀が含有していたのでエレクトロン貨は天然合金。その色が琥珀(こはく)色していた事から付いたネーミングらしい。エレクトロン貨(Electrum)についてはウィーン美術史美術館にて撮影していましたが、写真がボケていたのでウィキメディアから借りてきました。そして同じくリュディア(Lydia)王国で造られ発見された金貨をメトロポリタン美術館のサイトから借りてきましたBC7世紀頃国王は重さの均一の硬貨を発行し、裏に刻印をしたがエレクトロン貨(Electrum)はその素材が金と銀のミックス(合金)であった為に価値を見極めるのが難しかったらしくすぐに製造されなくなったそうだ。※ まがい物が出たらしい。下はライオンと雄牛が格闘している図のリュディアの金貨。Lydian Gold stater BC560年~BC546年Medium:Gold 1.5×1.2cm年代からリュディア最後の王、クロイソス王の時代のようだ。下の金貨と銀貨はウィーン美術史美術館のコインコーナーで撮影。ガラスケースの上に、間隔が開きすぎていたのでコインの画像を寄せています。Eはエレクトロン貨(Electrum) Dはダレイコス金貨ペルシャのダレイオス1世(BC550年頃~BC486年)は金貨(ダレイコス金貨)と銀貨(シグロス銀貨)を製造。その金と銀の比率は1:13と3分の1と定めた。この比率は標準となり、以降2000年間各地で利用されたそうだ。そう言えば、以前、日本の幕末維新の時に日本の金流出事件を紹介した事がある。「大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局」小判の流出事件。日本は 1金対5銀。当時 外国は 1金対15銀だったので、両替で損して持って行かれた(金の国外流出)のである。リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局ギリシャの都市国家の銀貨BC600年頃、ギリシャで良質な銀貨が造られると、それは地中海沿岸の国際通過となっていく。BC500年頃からギリシャの各ポリスも自国の銀貨の発行を始める。やがてそれは地中海沿岸(イタリア、シチリア、小アジア)の都市国家にも伝播。アルカイック期のコインは極めて芸術的。そして古典期の貨幣は、ポリスの中でもアテネのような大国のコインが広い範囲で流布。少額コインとして青銅のコインも誕生。アレクサンドロスのペルシ征服後は帝国内の金や銀を集めて、それまでバラバラであった貨幣の大きさや重さなど規格を一定に定めたそうだ。金と銀の交換比率なども決められ統一化が計られた。こうして貨幣社会の基礎もまたアレクサンドロスによって造られていた。ヘレニズム期はオリエントの各地ばかりか、古代インドまでコインの鋳造が始まり、それは波及したそうだ。下、「貨幣でわかる世界史」から図を借りてきました。ヘレニズム期のコイン(ウィーン美術史美術館) こちらもコインの画像を寄せています。画象も拡大しているので画質も悪いですH はマケドニア時代。アレクサンドロス王のステーター金貨。図柄はギリシャ神のヘラクレス(裏はアテナイ神)No5もマケドニアのステーター金貨。絵柄はアテナイ神Aはアレクサンドロスの肖像? プトレマイオス時代、右隣もプトレマイオス時代。※ ディアドコイ戦争で後継者となったリュシマコスやプトレマイオスが発行している。リュシマコスが発行したアレクサンドロス王の肖像が入った4ドラクマ銀貨上の写真はウィキメディアから借りてきました。アレクサンドロスの肖像は彼の亡き後に刻印されるようになった。以降、肖像は権力の象徴となっていく。ローマ時代は肖像が増えるが、現役で最初にコインに肖像が付いたのがユリウス・カエサルだそうだ。※ ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)(BC100年~BC44年)共和制ローマの政治家。Eと記したの銀貨と同じ物がエフェソス(Ephesos)から出土している。エフェソス(Ephesus)はアナトリア(現在のトルコ西部)にあった古代都市で、ヘレニズム期から古代ローマ時代にかけて非常に盛況であった港湾都市である。※ 今、出土されている遺跡のほとんどはローマ時代の物。リュディア(Lydia)王国でクロイソス(Croesus)(BC595年~BC547年頃?)が王位に付くと真っ先にエフェソス(Ephesus)を攻めたと言う。エレクトロン貨で紹介したリュディア(Lydia)人の話しはヘロドトスの「歴史」書の中で詳しく語られている。※ リュディア(Lydia)(BC7世紀~BC547年)王国の首都はサルディス(Sardeis)。エフェソス(Ephesus)は非常に近い。リュディア国とデルポイの神託リュディア最後の王がクロイソス(Croesus)王(在位:BC560年~BC547年)である。当初リュディア人はハリス河以西を独裁的に支配していたらしく、ギリシャ系の人々に朝貢を求めるなど上から支配。しかし、デルポイ( Delphoi)の神託によりギリシャのポリスで最強のスパルタと友交関係を結んでいる。リュディア王はギリシャ人では無いがデルポイ( Delphoi)の神託を信頼していたのである。※ メルムナス家のギュゲス(リュディアの初代王)は異邦人として最初にデルポイ( Delphoi)の神託を受け王となった。神託が欲しければ、アテナイ神殿の再建をするよう言われるとリュディア王は再建した。下は同じ頃、やはりクロイソス王がエフェソスに再建したと思われるアルテミス神殿。それはかつてない巨大な立派な神殿であったそうだ。この神殿はBC356年に放火で消失。アレクサンドロスは其の夜に誕生。アレクサンドロスの為に女神アルテミスはマケドニア行っていたので火災当時神殿にいなかった。と言う伝説もある。その因縁からアレクサンドロスが遠征中に神殿に来て再建資金を出したいと言うのをエフェソスの人は断ったらしい。その代わりアレクサンドロスは彼らがペルシャに納めていた税を再建の為にまわしたとも言われているが・・。今は瓦礫の一部が点在するばかり。クロイソス王(在位:BC560年~BC547年)もあちこちに神託を試したようだが、神託では、デルポイ( Delphoi)を一番信頼したらしい。しかし彼は神託の解釈で失敗する。ペルシャのキュロス王を攻めて負けたのである。ギリシャ、デルポイ( Delphoi)のアポロン神殿パルナッソス山の麓にあるアポロン神殿でのアポロン神の神託は、BC8世紀頃から始まり、ギリシャの勢力が落ちるまで1000年近く権威を持っていたと言う。海を超えてクロイソス王が神託を伺ったように何か大きな節目に当時の王達は貢ぎ物を持って神託を受けに来たと言う下は巫女の付けて居た装飾と思われる。こうした金も神託を受けた王たちのお礼によるものだろう。クロイソスは特にたくさん金を奉納している。リュディア国の首都サルディスでは砂金が取れるから豊だったのだ。神託は詩的な言葉で出されたようで、その解釈はいろいろとれたのかもしれない。だからクロイソスは自分が勝利して王になれると信じてしまった。キュロスがリュディアの首都サルディス(Sardis)を攻め陥落。負けたリュディアはペルシャの属国となる。クロイソスは捕虜となり火刑にされたが、助命された。ヘロドトスの歴史にそのあたりも詳しく書かれている。(クロイソス王の人柄に少し感動した。)古代都市エフェソス(Ephesus)さて、リュディア国がエフェソスを得たのは最もである。今でこそ内陸になってしまったが、エフェソスは地中海にそのままつながる港湾都市であったからだ。その盛況ぶりは今に残る遺跡群から十分測り知れる。Theater(劇場) ヘレニズムからローマ時代アレクサンドロス以後、トラキアはリュシマコス(Lysimachos)(BC360年~BC281年)がしばらく統治。トラキア王(在位BC306年 - BC281年)。この円形劇場はリュシマコスの時代に造られたらしい。彼はマケドニア王(在位BC306年~BC281年)でもあった。つまりこの劇場は最初ギリシャスタイルで造られたのである。25000人収容。劇場の奥に真っ直ぐ伸びる道がアルカディアン通りで、かつての港につながる道は一面大理石が敷き詰められていた。アルカディアン通りから劇場を見た所エフェソスのローマ時代の模型(ウィーン王宮にあるエフェソス美術館で撮影)右に港。青い矢印がアルカディアン通りへの道。かつてクレオパトラも通った道である。ピンクがTheater(劇場)赤い矢印が図書館でその前の四角いのはアゴラ。ヘレニズム時代の市等の建つ広場である。反対から撮影していなかったのでこの写真であるが、図書館より山手の方が高級住宅区。一般の観光はあちらから入り劇場あたりを通って終わる。本来のエフェソスは非常に広域だったのである。最も今はほとんど瓦礫であるが・・。古代ギリシャでは劇は神事の1つで、劇場には祭壇もあったらしいがローマ時代になると祭壇ははずされた。エフェソスを揺るがした事件簿17年,355年,365年,368年とエフェソスは度々大きな地震に襲われている。しかし、地震以上にこの街を揺るがす事件があった。AD54年、12使徒の1人、聖パウロがこの円形劇場でアルテミス神を否定した時だ。「人の手で作り出された神はもはや神ではない」それに対してエフェソスの人々は「エフェソスのアルテミス万歳。偉大なるアルテミス万歳」と劇場に押し寄せ、聖パウロは命からがら逃げ出したと言う。だが、時の流れはローマ帝国がキリスト教を公認。紀元313年コンスタンティヌス帝が信教の自由を認めるミラノ勅令を発布。392年テオドシウス1世はキリスト教をローマ帝国の国教とした。これが後にキリスト教以外の神の排斥につながる。エフェソスではアルテミス神含む異教の神は破壊の対象に。431年には聖パウロ事件の因縁か? この地でキリスト教会の大会議であるエフェソス公会議も開催されている。※ ミラノ勅令については「サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)」で書いています。リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)※ コンスタンティヌス帝とキリスト教については「クリスマス(Christmas)のルーツ」で書いています。リンク クリスマス(Christmas)のルーツ※ キリスト教とローマ帝国に関しては続編で書いています。リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)劇場から微かに見える図書館の建物。エフェソス遺跡の最大の見物ポイントがCelsus(セルシス)図書館なのである。繁栄の象徴 Celsus(セルシス)図書館 ローマ時代情報を整理すると、105年就任したローマの執政官ティベリウス・ユリウス・カンディドゥス・マリウス・ケルスス(セルシス) IIが、エフェソスに首府を置くアジアの執政官であった彼の父の偉業の印に建てた霊廟兼図書館のようだ。完成は117年。皇帝ハドリアヌス時代の特徴を示す建築様式だそうだ。※ 帝政ローマの執政官は、毎年1月1日に就任して1年。ローマの長であり、元首となる。実際、セルシスの棺は大理石(中に鉛棺)でてきていて、図書館壁の下に埋められていたそうだ。オリジナルはウィーンに運ばれているらしい。因みに、こうした遺跡にある彫像などは全てレプリカであり、オリジナルはどこかの美術館に置かれている。(保護の為に)。下段4つの彫像はセルシウスの知識(ソフィア),学識(エピステイム),聡明さ(エンノイア),高潔さ(アレーテ)を象徴するものだと言う。蔵書は12000ロールの巻物である。最大の蔵書を誇ったエジプト、アレキサンドリアの図書館同じくトルコ、アナトリアのベルガモン図書館、そしてこのエフェソスのCelsus(セルシス)図書館は世界3大図書館と呼ばれ蔵書を誇った図書館である。理由は蔵書の多さだけではない。その蔵書を目当てに来る学識者がどれほどいるか? このエフェソスには哲学学校もあったらしい。いずれも街の繁栄に比例している。※ アレキサンドリアの図書館の創建者はプトレマイオス1世orプトレマイオス2世の可能生からBC3世紀頃。2010年、「パピルス紙と最古の図書館」で紹介しています。リンク パピルス紙と最古の図書館ウイーン王宮のエフェソス美術館から Celsus(セルシス)図書館のペディメント(pediment)一部マゼウスとミトリダテス帝の門 ローマ時代奥がアゴラ(Agorá)※ アゴラ(Agorá)はギリシャ時代からのスクエア型した公共の広場。集会をしたり、市も立つ。そのアゴラから出土したのが独特なスタイルのアルテミス神エフェソス(Ephesus)の地母神我々の知るアルテミス神とはかなり違う。豊穣の女神? ともちょっと違う。※ 豊穣は穀物に使う言葉。髪飾りにはヤギ、シカ? 牛。首には女神、ブドウ、12星座の首飾り。肩にはライオン。胸には謎の卵型の乳房?ドレスの飾りも上からライオン、ヤギ、ロバ?、ヒョウ、鹿?、ウシこれらを相対的に読むと人に関わる動物をシンボルとしている。動物たちの神様?確かにアルテミス神は狩猟の女神だけど、ここでは人の食につながる所で豊である事を願う女神に見える。そもそもアルテミスと考え無ければ良い。彼女は、BC7000年頃誕生してアナトリアに根付き、メソポタミア、アラビア、エジプト、スカンジナビアまで多大な影響を与えた存在だったと言う説もある。因みにメドゥーサも元は豊穣の神様として、東地中海からエーゲ海に至る地域で信仰されていた女神だった。ギリシャ世界の中で異教の神々は怪物にされたのであるが、キリスト教下ではギリシャの神々もまた魔物となった。メドゥーサ(Medousa)については「メドゥーサ(Medousa)の首」で書いています。リンク メドゥーサ(Medousa)の首こちらはもっとクラッシック。こちらはラズベリーの首飾りや魚の首飾をしている。よくよく考えると、女神像はアゴラで発見された。つまり市場の神様だったのではないか?ハドリアヌス神殿ローマ皇帝ハドリアヌス帝に捧げられた神殿ゲートは女神ティーチェ と本に書かれていたが、海の女神テティス(Thetis)の誤りではないか? 次のペディメントは魔除けとしてのメドゥーサとの説がある。まだエフェソスの遺跡写真はありますが、長くなりすぎたので遺跡の紹介はこの辺でやめます。港湾都市として長らく繁栄したエフェソス(Ephesus)。それを示すように時の権力者は首府にしたりしている。東ローマ帝国の下でも、エフェソスはアジア属州の首都として繁栄。政治や経済の中心であり続けたし、国教であるキリスト教の司教座聖堂が置かれる重要な地として存在。ただ、度重なる地震による被害は大きかったかもしれない。また先に触れたが、ローマがキリスト教を認めた事は異教の神々ににとってはありがたくない話し。異教の神殿は資材の調達場所となり荒廃。さらに西ローマのコンスタンティノープルの建築ではエフェソスから資材が採られて行った。7世紀頃より湾は山から流れる土砂の堆積により沈降が進む。追い打ちをかけるように8世紀よりイスラムの攻撃をたびたび受けついに東ローマ帝国はエフェソスを放棄。港が完全に埋まったのはその後らしいが・・。港湾都市時代にはサルディスで採掘された金が取引されたであろうし、金に伴う高級品も取引された事だろう。エフェソスはセレブなニオイのする街(遺跡)である。次回いよいよローマです。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方 アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2019年12月06日
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改めて造幣局の写真を見返すと、今欲しい写真が足り無い事に気がつきました。今月末か来月頭に大阪に行くので造幣博物館にもう1度立ち寄って写真を撮って来なければ・・と思ったのですが、写真が足り無くても、このまま続けてしまう事にしました「Gold standard」を日本では「金本位制(きんほんいせい)」と訳しますが、国の貨幣の基準を金に置いて価値を決めるやり方です。金本位制を採用している国同士の場合、流通している通貨が異なっても「金」を主体にしているので事実上共通の通貨と同じ扱いができるわけです。幕末当事、アジアではメキシコ銀が流通していた事から国内ではメキシコ銀(8 レアル銀貨)と同質量の本位銀貨を発行した方が良いと言う「Silver standard(銀本位制)」の考えが圧倒的。※ アメリカではメキシコ銀貨は米1ドル銀貨と同等に扱われていた。米1ドル銀貨もほぼ貿易用です。しかし、世界の多勢では金本位が圧倒的?日本の「Gold standard(金本位制)」を強く押したのは伊藤 博文(いとう ひろぶみ)(1841年~1909年)だったそうです。※ メキシコ銀とは、もとはスペイン時代に南米が開拓され欧州に流入したメキシコ産出の銀である。(1821年メキシコは独立)。しかし、南米からの多量の欧州への銀の流入は欧州経済を乱し1816年にイギリスは金本位に移行すると他国も銀本位からの離脱が進む。結果、伊藤 博文の言うように明治政府は「Gold standard(金本位制)」を採択。補助銀貨としてメキシコ銀と同質量の一圓銀貨を発行し、貿易決済用銀貨として使用される事に決まったそうです。※ 伊藤 博文は英国に留学して文化や作法を習っていたからね。つまり明治政府は本位貨幣を金貨にし、新たに日本の金貨及び補助貨幣として銀や銅の製造を決めたわけです。そもそも、江戸時代から幕府が金本位であったのは確かです。各藩が発行する金貨も存在。ところが幕末には各藩も財政難となり、偽造貨幣まで造られ市場は混乱したのだそうです。何しろ金や銀は、含有量をちょろまかしても簡単には解らないので・・。かくして、1871年(明治4年)、新貨条例(明治4年太政官布告第267号)が発布され、最初に銀貨、そして金貨が発行される事になった。本位金貨は、1円、2円、5円、10円、20円。1871年(明治4年)8月から金貨が鋳造・発行。(3年銘も存在。)同時に1円銀貨と貿易銀貨(一圓)が発行される。※ 当初は金平価1 円=金1.5g=1ドル。また旧1両は、新1円と等価となる。さらに補助貨幣として、補助銀貨(5銭、10銭、20銭、50銭)。補助銅貨幣(2銭、1銭、半銭、1厘)。が発行されることに決まった。大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話Gold standard(金本位制)明治初期の貨幣の柄 錦旗(きんき)・日章(にっしょう)と 龍金貨の流通なき金本位制種印(たねいん)ギザの話明治初期の貨幣の柄 錦旗(きんき)・日章(にっしょう)と 龍明治3年発行 20円金貨 写真はウィキメデイアから借りてきました。直径35.06mm 量目33.33g 品位 金90 銅10 表 龍 裏 錦旗(きんき)・日章(にっしょう)上の写真と下の写真のコインは同じ金貨でも額面が異なる。つまり、大きさも重さも異なる。現在と異なり、明治初期の金貨2円、5円、10円、20円の絵柄はサイズが違えど額面以外は同じなのである。では何が違うか? 絵柄の出方である。小さくなればなるほど絵柄は不鮮明になるのが実状。原盤(種印)も小さくなればプレス(圧印)にも支障がでる。当初の貨幣製造では、綺麗に製造できない貨幣も結構あったらしい。例えば、明治3年の5銭銀貨(15.15mm)は素材の問題もあるが、龍の鱗が不明瞭で出来が悪いのがほとんどだったらしい。明治4年銘の硬貨は作り直した極印を使用。それでもほとんど綺麗に製造できなかったらしく、再度、明治5年に造り直し。龍図をあきらめて「五錢」の文字に改正したと言う。金貨の1円に関しても同じ、小さすぎて龍図は入れられずデザイン変更。それのみ「一圓」の額面入り。明治3年発行 2円金貨 写真はウィキメデイアから借りてきました。直径17.48mm 量目3.33g 品位 金90 銅10 表 龍 裏 錦旗(きんき)・日章(にっしょう)錦旗(きんき)錦の御旗(にしきのみはた)の略. 天皇(朝廷)の軍、つまり官軍である事の旗印。朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に与える慣習により生まれた軍旗であるが、定まったスタイルがあるわけではなかったらしい。明治維新の際には、赤地の錦に日月紋、または菊花紋を描いた二種、「菊章旗」と「日月旗」がある。日章(にっしょう)太陽をかたどったしるし。日の丸のしるし。白地に赤の日章をあしらったのが現在の日本の国旗。1870年(明治3年)太政官布告で日本の商船が掲げるべき旗と定められ、後に上国旗となる。因みに、日章(太陽)がさんさんと輝くように光条(旭光)が付いた意匠を「旭日(きょくじつ)」と呼ぶ。龍(りゅう)元首の象徴である龍。実は外国の貨幣と同じように国家君主の肖像を・・と言う話が外国人よりあったらしい。しかし天皇陛下の肖像など恐れ多くて無理。と言う事で代わりに元首の象徴として龍が描かれたそうだ。デザイナーは彫金師 加納夏雄(かのう なつお) 造幣博物館で撮影加納夏雄(かのう なつお)(1828年~1898年)明治維新後に皇室御用人となり、明治天皇の太刀の金具を彫刻した加納夏雄(かのう なつお)に1869年(明治2年)、白羽の矢が立つ。彼のデザインした貨幣の原画はお雇い外国人らも感嘆し、当初イギリスに発注するのを取りやめて採用。1875年(明治8年)、退官。値付けなどの彫彫金師に戻るが、明治期の貨幣のデザインは加納夏雄とその門下生(益田友雄)の仕事だそうだ。1876年廃刀令が交付されても彼の人気は衰えず海外でも人気となり1890年第3回内国勧業博覧会では作品が受賞。この年東京美術学校の教授に就任。さらに第1回帝室技芸員に選ばれている。明治以降の貨幣 明治4年から明治11年までの金貨と銀貨の詳細(造幣局資料一部に手を加えました。)黄色・・金貨 青色・・銀貨 赤色・・龍の絵柄 オレンジ・・ 錦旗(きんき)・日章(にっしょう)※ 上の資料は見学ツアーの時にもらったもの。コインの重さや品位などはこの資料から紹介しています。本家ですから間違いないでしょう。明治3年発行 1円銀貨 写真はウィキメデイアから借りてきました。直径37.57mm 量目26.95g 品位 銀90 銅10 表 龍 裏 日章(にっしょう)明治7年発行 1円銀貨 写真はウィキメデイアから借りてきました。直径37.57mm 量目26.95g 品位 銀90 銅10 表 一圓 裏 龍下は上と同じ明治7年発行 1円銀貨 造幣博物館で撮影こちらにはサイズ質量とももっと詳しく書かれていた。量目26.957g 直径37.575mm 品位 銀90 銅10明治8年発行 1円銀貨 (貿易銀) 造幣博物館で撮影量目27.216g 直径37.575mm 品位 銀90 銅10※ 明治8年発行の貿易銀に関しては、気持ち量目が多くしてアメリカ貿易銀と同量に。「貿易銀」と銘が入るのは明治8年から。しかし、この事が海外でつぶしの対象になってしまい明治11年に元に戻したらしい。金貨の流通なき金本位制実は金の回収率が悪かったらしく、そのほとんどが海外に流出して戻って来なかったらしい。冒頭に「Gold standard(金本位制)」の話をしましたが、実際には金貨が足り無くて銀貨が代わりを務める自体になるのである。旧金貨は発行高の8割以上、新金貨も発行高の7〜8割が海外に流出。国内残高も、その大半が正貨準備として日本銀行に保管され市場で流通したものはごく一部。その為に1878年(明治11年)から日本国内でも一円銀貨の流通が認められる事になったのです。金準備が不足し名目と化した金本位制の下で、銀が事実上の本位貨幣になっていたのである。因みに、それら金貨は、近年、未使用や美品の状態で海外から多く戻ってきているらしい。明治13年発行 1円銀貨 造幣博物館で撮影量目26.957g 直径37.575mm 品位 銀90 銅10ところで、3枚は表を紹介している。明治の段階では表裏が公式にあったらしい。明治7年と明治11年からの貿易1円銀貨は龍図と額面の裏表が逆転している。種印(たねいん)と極印(こくいん)ところで、コインを造るのに圧印機でプレスする機械の話はしたが、コインの絵柄の原図から原盤となる種印(たねいん)を造り、種印から極印(こくいん)を造っている。当初種印はコインのサイズと同じ小さい物。前出の加納夏雄(かのう なつお)を筆頭にする彫刻所で、直接タガネから手作業で掘り出していたそうです。信じられ無い事に本当に彫金作業だったようですね。因みに、当初、種印は海外に発注する予定が加納夏雄(かのう なつお)の腕前に日本で造る事が決まったようです。上・・直彫(じかぼり) 10円金貨併用極印(こくいん) サイズは29.42mmくらい?下・・一銭銅(手彫り) 直接、銅円板に彫刻した高肉彫り。作者は宮内勘三郎。明治2年になっているので試作品か? サイズは27.27mmくらい?下は直接鋼鉄に手彫りした極印(こくいん) 右が加納夏雄 左が益田友雄(夏雄の門下生)1877年(明治10年)第一回内国勧業博覧会で授与するメダルの極印(こくいん)。1904年(明治37年)、フランス・ジャンビエ社から縮彫機(しゅくちょうき)を購入。種印の製造が画期的に変わる。下の機械は1925年(大正14年)購入されたもの。パンタグラフの原理を応用して大きな原画から小さな種印を製作する機械である。とは言え、当初は賞牌(しょうはい)のみに利用。硬貨に利用するのは1918年(大正7年)が最初。実物より6倍くらい大きな大きな原画を作成し、縮彫機(しゅくちょうき)に取り付ける縮彫原板を作成。縮彫機(しゅくちょうき)で原板を縮彫した種印(たねいん)を造る。現在の硬貨の極印(こくいん) 造幣工場内で展示されているもの。100円の極印(こくいん)ここでコイン製造の工程を簡略に紹介。熔解(ようかい)→熱間圧延(ねっかんあつえん)→面削(めんさく)→冷間圧延(れいかんあつえん)→圧穿(あっせん)→圧縁(あつえん)→焼鈍(しょうどん)→洗浄(せんじょう)→圧印・検査(あついん・けんさ)→計数・封緘(けいすう・ふうかん)圧穿(あっせん)焼鈍(しょうどん)洗浄(せんじょう)圧印・検査(あついん)圧印済み貨幣計数・封緘(けいすう・ふうかん)ギザの話貨幣の縁には通称ギザと呼ばれる模様が入れられている。下はそのギザの模様3種である。そもそもギザや穴の主な目的は目の不自由な人が手触りで判別できるようにする事であったそうだ。また、10円硬貨の平等院鳳凰堂のような細かなデザインは、当初高額硬貨であったため偽造防止の意味も含めて決められたものらしい。偽造防止と言う観点で言うと、現在最高額である500円硬貨は、旧500円硬貨の大量変造事件を受けて材質をニッケル黄銅とし、潜像・斜めギザ・微細線・微細点などの偽造防止技術を施しているそうだ。それ以外にもギザを縁に付けた理由はある。当初は金や銀の貨幣である。削り獲られる事を防止する意味でギザは必要だったらしい。ギザが消えていれば削られた事がすぐに解るからね。※ 五銭以下の銀貨や銅貨には入っていない。薄すぎて入れられなかったのかも。造幣局の人が言うには、基本ギザは一番高額なコインに入れられる印だそうだ。ここで確認をおこたったのだが、現在は、50円以上のコインにギザが付いている。一番高額なら500円だけになぜしないのだろう? と疑問が残った。発行当時からデザインが変えられていないからかな?ギザ10コレクターの間で稀少性が言われているギザ10の話であるが、現在の10円にギザは無い。ギザが付いて入るのは、1951年(昭和26年)~1958年(昭和33年)の10円である。※ 1956年(昭和31年)は発行数0要するにかつて10円の縁にはギザギザが付いていたが、1959年(昭和34年)には消えたのである。だから今や幻ともなったギザのついた10円に希少価値を持ってサイフの中を探す人がいるのだ。しかし、サイフの中にあるコインに実は価値はありません。基本、価値のあるコインはどれも未使用品のみです。造幣局で売られているその年のコレクション用のミントセット(通常貨幣セット)かプルーフセット(特殊加工)に収められているコインと言う事になります。では毎年コインセットを買おう・・と思ったのですが、額面666円なのにミントセット(通常貨幣セット)でも3倍以上のお値段がしています。なぜ?因みに発行数0は当然無いわけですが、発行数の少ない年も、セット販売用がほとんどで、市場に回らない事もあるようです。だからサイフの中を探しても駄目なのです。基準は10円が最も高額のコインであった時代の事である。しかし、50円が1955年(昭和30年)から発行されている。さらに、100円が1957(昭和32年)から発行されている。その理論で言えば50円が登場した1955年(昭和30年)から消えても良いはず。なぜ3年も猶予があったのだろうか?この辺の話は宿題にさせてもらって、造幣局で確認して来る事にします。また、コインの年度別、発行枚数についても紹介する予定でしたが、宿題がわかった時まで持ち越しです。それにしても、コイン製造工程を紹介するつもりが、なんとなく、幕末と経済の話になってしまいましたね (*^-'*)> ぽりぽりback numberリンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話関連リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)
2018年05月12日
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鎖国時代に、幕府が海外の情報を聞いて記録した「オランダ風説書」と言うのがある。何気に見ていたら1852年送付の末尾に「ペリー来航予告情報」なるものがあった。アメリカが日本と貿易関係を結ぶ為に近々施設団を日本に送る・・と言うウワサが流れている。と言う内容だ。驚くのは内容がかなり詳細で、アメリカは貿易の為に港を幾つか開いて欲しい。さらに中国とカリフォルニアを結ぶ汽船の為に石炭を貯蔵できる港が一つ欲しい・・と言う要望だ。また、それにはすでに中国海域にいる蒸気フリゲート艦サスケハナ号とコルヴェット艦のサラトガ号、ブリマス号、セント・メアリ号及びヴァンダリア号がいて、彼らが使節を江戸に送るよう言われている事。さらに、最近の情報で、遠征軍指令軍オーリック准将とペリー准将が交替する事。それに伴い中国海域の船は蒸気汽船ミシシッピ号、プリンストン号、ブリック艦ペリー号、運送船サプライ号などで増強されるだろう事。ただ上陸用並びに包囲網の資材はすでに積み込まれたものの艦船の出発はかなり遅れるだろう・・と言うもの。どうもこれらは新聞による情報らしいが、日本はこれを聞いて驚愕しただろう事が思い浮かぶ。わざとビビらせて・・と言う所だろうし、オランダもアメリカより先に日本と条約を結びたかったのでオーバーに知らせたかもしれない。まあ、それはともかく、重要なのは、幕府の上層は黒船の来航を事前に知っていたと言う事実である。何も知らない市民は驚いただろうが、幕府の方は覚悟していたのだろうな・・と言う事が解った事だ。実際ペリーの来航は翌年である。だからペリーの艦船が来ても慌てずに武力行使する事もなく、幕府側が艦船を誘導して浦賀に接岸させたのだろう。※ 2016年11月「2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)」の冒頭で「オランダ風説書」の事を書いています。リンク 2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)とは言え、艦船の脅威を見ても開国反対派はまだたくさんいた。幕府内は揺れ動く事になる。薩摩藩や長州藩などは大政奉還(たいせいほうかん)よりも前に藩士らを留学させている。また幕府の方も外国奉行 池田 長発(いけだ ながおき)(1837年~1879)以下34名からなる遣欧使節団をパリに派遣(1863.12~1864.12)。(スフィンクス前のサムライ写真で有名)。そして欧州を見た彼らは開国の必要性を感じ、必死で勉強して知識を積めて戻って来たのである。大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場ペリー来航予告情報(オランダ風説書)ゼロからの造幣局オリエンタル・バンクとお雇い外国人お雇い外国人キンドル、ブラガ、ガウランド長州五傑(長州ファイブ)薩摩藩士 五代友厚(ごだいともあつ)コイン製造の為の機器とコイン製造工場ゼロからの造幣局日本初の近代工場と言っても過言でない造幣局の建設は何もかもが無い所から始まっている。まずはちょっと年表から1853年7月、黒船が来航1858年6月、日米修好通商条約でメキシコ銀ドル貨幣との両替レートが決定。1867年(慶応3年)11月、大政奉還(たいせいほうかん)1868年(明治元年)、政府は造幣工場の建設を決定。11月には建設が開始される。驚くのは大政奉還した翌年には造幣局の建設を決めている事だ。日米修好通商条約で決めた貨幣の取り決めに不都合があり、早急に欧米並みの日本国の通貨を造らなければならなかったからだ。造幣局の機械は、イギリスが香港に設立して廃局していた造幣所から中古の機械を購入した。創業時の設備機器(一式、6万両で購入)全設備の原動力となる20馬力の蒸気機関2基。金溶解用コークス炉6基、銀溶解用コークス炉12基、圧延機8台、圧穿機5台、圧縁機2台、仏トネリ社製圧印機2台、英ワット社製圧印機6台が可動。以前NHKの連続テレビ小説「あさが来た(2015年)」で人気急上昇したイケメン五代友厚(ごだいともあつ)氏(1836年~1885年)をおぼえているだろうか? 当事、大阪運上所(現在の大阪税関)の所長であった彼がその創建時、トーマス・グラバー(Thomas Blake Glover)(1838年~1911年)を通じて貨幣機の購入に尽力していたのである。※ トーマス・グラバーは1859年、開港間もない長崎に武器や弾薬も扱う貿易会社を設立。長崎観光でお馴染みのグラバー邸は彼の邸宅跡。建設は大阪でも水利の良い場所に決まった。18万㎡。(56000坪)。創設時の造幣局は現在の2倍の面積を持ち世界最大規模だったらしい。設計監督はグラバーの紹介で英国人のT.Jウォートルス(Thomas James Waters)(1842年~1898年)が決まる。彼は煉瓦造り、煉瓦積み、ペンキ塗りなど言葉の通じない邦人職人を熱心に指導。※ ウォートルスは造幣局完成後、銀座の赤煉瓦街、近衛師団兵舎、駅舎などの建物も残している。造幣局の建設にしても、設立後の指導にしても、また、他の分野においても、日本国は多くの外国人の専門家から教えを請うことになる。そもそも何を成さなければいけないのかもわからない状況の中、明治の新政府は、よくぞやりきったものだと思う。造幣局のお雇い外国人中央後部の3人、左からキンドル、ブラガ、ガウランド (たぶん)オリエンタル・バンクとお雇い外国人日本の文明開化は、やはり指導してくれる外国人がいたからなしえたのである。1869年(明治2年)、明治政府はオリエンタル・バンク(Oriental Bank Corporation)と条約を締結。造幣局の建設から創業に関するあらゆる人材をオリエンタル・バンクが調達している。※ 造幣博物館資料では英国東洋オリエンタル銀行バンクと呼称している。そのオリエンタル・バンク(Oriental Bank Corporation)は1841年インドのボンベイで創設された英国の植民地銀行であり、支局香港では初の銀行でもあった。明治政府は、江戸幕府から600万両の債務を継承。内訳は150万両が下関戦争の賠償金。450万両がオリエンタル・バンクやオランダ商館からの借入金だったそうだ。つまり、江戸幕府の時代から日本は借金があり、オリエンタル・バンクは幕末、明治期に日本の国債発行を積極的に行ってくれた銀行であり、明治初期の日本国のメインバンクだったのである。※ オリエンタル・バンクが失敗して1892年に清算されると香港上海銀行が台頭。お雇い外国人は日本国政府が給与を支払ってはいたが、オリエンタル・バンクが雇用契約して派遣される形を取っていたので彼らの給与は銀行側が交渉して決めていたと思われる。造幣博物館には当事の雇用資料が残っている。当時1 円=金1.5g=1ドル。※ 因みに近々の金のレートは1gおよそ5000円。大臣、次官クラスが500~800 円、局長クラス200~300 円、職工で5 円前後の中、お雇い外国人は局クラス以上の月給。特に造幣長としてヘッドハントされたキンドルは破格値だった。※ お雇い外国人は他に31人が雇用されている。外国人を合わせた当初の総職員数は220人。お雇い外国人キンドル、ブラガ、ガウランド造幣局のみならず、お雇い外国人は他の分野でも功績を残している。キンドルこと、トーマス・ウィリアム・キンダー(Thomas William Kinder)(1817年~1884年)元香港造幣局長。1870年(明治3年)に来日して造幣寮の首長に任命されたキンドルは大阪造幣寮の建設・機械据え付けなどを指揮した重要人物ではあるが、その給与は当事の太政大臣(現在の総理大臣)の月給800円よりも高い月給1045ドル(1045円)。それは破格の待遇で迎えられた事を意味する。1円のレートは金5000円で計算すると7500円。キンドルの月給は今の金の値段で換算すると783万7500円にもなる 昔より金は高くなっているだろうけど足下みられた金額ですね。確かに貢献度は大であったらしいが、キンドルの横柄さは人との争いを絶えずおこし、それが後の外国人を排した自国民だけの造幣局造りを目指すきっかけになったらしい。1875年(明治8年)解雇。因みに、1870年(明治3年)発足した神戸のフリーメイソンロッジの最初のマスターにキンドルは選ばれている。※ フリーメイソンは2013年9月「2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 秘密結社? フリーメイソン」で紹介しています。リンク 2013.9 クイズ 「このロゴは何 ?」リンク 2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 秘密結社? フリーメイソンV.E.ブラガ(Vicente Emilio Braga)(1840年~1911年)香港の元英国造幣局長キンダーの部下。1870年(明治3年)採用。大阪造幣寮勘定役(地金局計算方)となり,日本に初めて複式簿記法を持ち込んだ人である。造幣局の会計事務を整え1875年(明治8年)大蔵省に転じ官庁会計全般の指導にあたる。いわば日本の会計の父である。20年、神戸に在住。初代ポルトガル日本領事となっている。ガウランドことウィリアム・ゴーランド(William Gowland)(1842年~1922年)1872年(明治5年)、大阪造幣寮の化学兼冶金技師として着任。英国式反射炉の築造と操業を指導。造幣寮のお雇い外国人は通常3年契約で帰国する者が多いなか16年在職して貢献。1881年(明治21年)解雇。それは温厚で人望も厚かった人柄ゆえなのだろう。勲章や褒賞も与えられている。ブライベートでは古墳研究や地質の調査をして日本考古学の父と呼ばる研究者でもある。また日本に近代登山を紹介。「日本アルプス」の命名者でもある。他にも金銀地金及び貨幣の分析に当たったツーキー(Charles Tookey)は貨幣の信頼を担う「製造貨幣大試験」の第一回試験方(明治5年5月)を努めている。1873年(明治6年)解雇。機械技師のマンチニ(Napoleon Mancini)は、前回紹介した造幣局を描いた人でもある。1877年(明治10年)解雇。鍛冶・鋳造所の改築を設計監督したマクラガン(Robert Macklagan)らがいた。キンドルの騒動もあり、当初運営、指導していた「お雇い外国人」は1889年(明治22年)を最後に姿を消し、造幣局は日本人のみの運営に移行する。ところで、「お雇い外国人」から技術指導を受ける為には語学ばかりか、工学の知識も必要。その為に1872年(明治5年)、学校(日進学社)も開設され職員や子弟の教育も行ったと言う。長州五傑(長州ファイブ)お雇い外国人だげてなく、日本人も留学の必要性を知って渡英している。左手前から時計回りに井上馨(いのうえ かおる)(1836年~1915年)長州藩士。2代、4代、7代造幣頭。初代外務大臣。遠藤 謹助(えんどう きんすけ)(1836年~1893年)長州藩士。10代造幣局長(キンドルを解雇して復帰)。井上 勝(いのうえ まさる)(1843年~1910年)長州藩士。3代造幣頭。大蔵省に勤務してから鉄道敷設を推進。日本の鉄道の父。伊藤 博文(いとう ひろぶみ)(1841年~1909年)長州藩士。6代造幣頭。初代・第5代・第7代・第10代内閣総理大臣に就任。山尾 庸三(やまお ようぞう)(1837年~1917年)長州藩士。日本工学会の父。彼ら長州ファィブの5人、は1863年5月渡英。井上馨(いのうえ かおる)の発案で密かにロンドンに留学。国力の違いに驚愕。開国論に転じたと言う。それぞれ専門を学ぶと共に帰国すると語学をかわれて要職に就いている。特に造幣局は縁が深いようだ。※ 留学に際して使われたのが(元 東インド会社)ジャーディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings Limited)の船チェルスウィック号で密航し上海でホワイト・アッダー号に乗り換えて渡英。薩摩藩士 五代友厚(ごだいともあつ)(1836年~1885年)日米修好通商条約の前年1857年、長崎で海軍伝習所伝習生となりオランダ士官から航海、測量、砲術、蘭学、数学を学ぶ。1865年には、薩摩藩の英国派遣留学生団の副使として16名の若者を連れて渡英し、フランス、ベルギー,オランダなど欧州を巡り、視察と同時に紡績機械や武器の買い付けをおこなっていたそうだ。帰国した彼は薩摩藩の商事を扱う会計係に就任。戊辰戦争(1868年~1869年)では倒幕軍(薩摩藩、長州藩、土佐藩)として活躍。1868年(明治元年)、新政府の元で参与職外国事務局判事掛となり大阪に着任すると大阪運上所(後の大阪税関)の長官となる。造幣局の設置を進言し、大阪に誘致したのは五代友厚らしい。それは大阪が帝都になる可能性が大きかった事が上げられる。因みに大阪が首都にならなかったのは京都市民の大反対が大きかったのでは? 市民感情として、大阪より東京の方がまだマシだったのか? 前にも紹介したが実際の所、東京に遷都(せんと)されたのではなく、奠都(てんと)と言う言葉が使われているし・・。※ 2017年6月「琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)」の中「奠都(てんと)と遷都(せんと)」を紹介。リンク 琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)コイン製造の為の機器とコイン製造工場五代友厚が購入してきた圧印機(左)は造幣博物館前庭に置かれている。圧印機とは、淵(ふち)も含めて貨幣に模様をつけるプレス・マシンである。フランス・トネリ(Tonlli)社製 圧印機1871年(明治4年)の創業時には金銀貨幣の製造に使用されていた2台のうちの一つ。他にイギリス・ワット社製の圧印機6台の計8台のレバー式圧印機が稼働していた。翌年1872年(明治5年)大型高速の圧印機が購入されるとこれらは銅貨の製造にまわされた。ドイツ・ユロル(yhlorn)社製 圧印機1872年(明治5年)にユロル(yhlorn)社から10台購入された大型圧印機は一分間に60枚程度の圧印が可能であり、金銀貨幣の圧印にまわされたのである。現在の圧印機の写真(映り込みがあってボケ気味ですが・・。)ドイツ、シュラー(Schuler)社製。圧印能力150t。現在の圧印機では1台につき一分間に750枚生産。500円高価にして37万5000円。1台の生産枚数は272000枚。金額にして1億3600万円。高額なお金を造る事になるので、工場内は巨大な金庫にもなっているそうだ。下の窓の奧にマシンがある。見学者の為の廊下。見学ツアーは予約制でツアーには担当者がつく。ちょっと何の工場かわからない感じです。ところで最初に紹介したように造幣局はゼロからスタートしている。購入した工場の機械以外にも必要なものはたくさんあった。資材の運搬には鉄道馬車が必要であったし、地金の運搬の為には蒸気船の必要があった。電報が使えるように架線がひかれ電信設備も整えられ、精製や照明の為のガス製造窯や、コークス窯も造られた。金銀の分離精製や貨幣の洗浄には硫酸が必要で、工場内に硫酸製造所が造られる。さらに硫酸ソーダや炭酸ソーダの製造も始まる。小さな機器のほとんどは工場内の銅細工所、ろくろ所、鍛冶所で造られ、時計や秤、工場を建設するレンガも焼いて造ったらしい。また、帳簿をつける為のインクなども当初は自前で手作りしていたらしい。当然そこにはお雇い外国人の指導があった。が、そのお雇い外国人を感心させる素晴らしい職人もいた。オランダ留学の経験もある大野規周(おおののりちか) (1820年~1886年)は自作の大時計、天秤を製作している。大野規周の大時計大野規周の天秤大野規周の手回し計数機1870年(明治3年)に製作。1回で24枚数えられた。下は現在の計数機造幣博物館裏にある現在の貨幣工場工場では、熔解(ようかい)→熱間圧延(ねっかんあつえん)→面削(めんさく)→冷間圧延(れいかんあつえん)→圧穿(あっせん)→圧縁(あつえん)→焼鈍(しょうどん)→洗浄(せんじょう)→圧印・検査(あついん・けんさ)→計数・封緘(けいすう・ふうかん)と作業が行われている。かつては、この工場内で素材を造る所から行われていた。動力は当初は蒸気発電。1911年(明治44年)には火力発電に代わり、現在の場所に発電所がおかれていた。それがなくなったので土地も狭くなったのだろう。コイン製造過程も写真のせる予定でしたが終わります。Part3 or Break Timeの形で「ギザ」の話や「ギザ10」の製造枚数等を紹介する予定。リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話
2018年05月03日
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今回は「大阪天満の造幣局 2」はお休みしてショートネタ。造幣局で見つけた豊臣秀吉の金の話を単独にしました。1935年(昭和10年)、造幣局の前を流れる大川(旧淀川)からとんでもないお宝が発見された。シジミ獲りの漁師が見つけたお宝は、さらに遡る事1615年(慶長20年)の大阪城落城の際に逃げる船から落とした遺物ではないかと考えられている。それは大阪造幣局のお宝となって今に展示されている「竹流金(たけながしきん)」と「菊桐金錠(きくきりきんじょう)」と名の付いた豊臣時代の金塊。秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)竹流金(たけながしきん)と菊桐金錠(きくきりきんじょう)秀吉の金配りと鉱山開発法馬金(ほうまきん)秀吉の黄金趣味竹流金(たけながしきん)と菊桐金錠(きくきりきんじょう)冒頭紹介した川からの拾いものの金塊であるが、竹流金(たけながしきん)は文字通り竹のような鋳型に砂金を流して造られているのでそう呼ばれているが、室町時代末期から安土桃山時代にかけて作られた秤量貨幣(ひょうりょうかへい)の一つだそうだ。※ 重さが一定していないのは、使用に際して必要分を削ったり切ったりして使うタイプだかららしい。一方、菊桐金錠(きくきりきんじょう)の方は重さの一定したナゲットだったらしい。共に言えるのは軍用や恩賞用として主に利用されるタイプの金で、流通用ではなかったと言う事だ。それ故大阪城、落城の時に慌てていて落としたものではないか? と考えられたのだろう。竹流金(たけながしきん)秤量金貨(ひょうりょうきんか)として必要に応じて切ったり削ったりして使われる金。ちょっとした旅行に携帯するのに便利。菊桐金錠(きくきりきんじょう)竹流金(たけながしきん)と違って、こちらは丸ごと与えられた。こちらは平の家臣ではなく、大名クラスの褒賞用サイズですね。どちらにも菊(きく)と桐(きり)紋(もん)が刻印されている。金塊なのに着物の小紋のような素敵な柄入り。考案した人はオシャレな人だったようですね。その桐(きり)の紋ゆえに豊臣秀吉が鋳造した秤量金貨(ひょうりょうきんか)と推定されたようだ。そして、菊紋は完成品に刻印される印だったと造幣局の説明にはあった。しかし、その紋は、正確に言えば五三桐(ごさんのきり)と十六葉菊(じゅうろくようぎく)なのである。これは織田信長の使用した家紋の中の二つにあたる。左1番目が十六葉菊(じゅうろくようぎく。右2番目が五三桐(ごさんのきり)竹流金(たけながしきん)は永禄(1558年~1570年)、元亀(1570年~1573年)、天正(1573年~1593年)時代の頃、豪族や大名らが、備蓄の軍用金として鉄砲や火薬など武器の支払いや、人を雇う時などの賃金として使う目的でストック。時に武功をあげた家臣の恩賞などにも利用されていた金竿らしい。※ 平の家臣には一削りとか? 今日はたくさん削ってもらえて嬉しい・・とか? かな?まさしくそれは織田信長(1534年~1582年)の時代にピッタリあてはまるオシャレな人だったらしいから、ひょっとしたら織田信長が最初に考案したのではないか? と考えが及ぶ。確証は何も無いけどね。秀吉の金配りと鉱山開発秀吉はいろんな物を信長から継承しているので竹流金(たけながしきん)のルーツが信長にあった可能性はあるが、菊桐金錠(きくきりきんじょう)のような重量の固定されたナゲットは秀吉の頃からかもしれない。何しろ、秀吉は何かとこれら金を大名や家臣(配下の武将)や朝廷の貴族らに配りまくっているからだ。※ 有名な話では、1589年(天正17年)に身分のあるセレブおよそ300人に大判5000枚を配ったと言う「金賦り(かねくばり)」という催しがあったとか・・。それらは秀吉の下に彼らをひれ伏させる事は当然、秀吉の行う事業を円滑にする為の文字通り試金石(しきんせき)になったのだろう。それにしてもそれら金はどこから来たのだろう?なぜ、秀吉はそんなに金持になったのか?太田牛一が書かされた秀吉の軍記物「大かうさまくんきのうち(太閤様、軍記の内)」の一説。「太閤秀吉公御出世より此かた、日本国々に、金銀山野にわきいで・・・」太閤秀吉公の世になってから日本各地で金銀が山から湧くように掘り出されるようになった。※ 太田牛一は織田信長の記録「信長公記(しんちょうこうき)」を書いた人である。それ故に秀吉により白羽の矢が立ったのである。秀吉は全国の鉱山開発を進めたのだろう。おそらく鉱脈を見つける技(わざ)を知っていた?「秀吉は山の者を使っていた」と読んだ記憶がある。山の者が鉱脈を見つけて秀吉に報告していたのなら納得。山野を歩く山伏などは植生で鉱脈を探りあてると聞くからね。かくして、鉱山開発が進められると、そこは直轄領とされ、全ての金、銀、銅は秀吉の元に集まるシステムが造られたのだ。秀吉の後に天下を取った徳川家康は、秀吉のシステムのほとんどをそのまま踏襲している。鉱山ばかりでなく、金貨に至ってもほぼ同じ物が造られている。次に紹介する法馬金(ほうまきん)も秀吉が最初に造ったものである。但し、江戸時代の金貨は幕末に向かう程に金の含有量が減らされて行くのである。財源不足で・・。資料は造幣博物館から豊臣秀吉が天下を取って、スケールが違うなと驚いたものがある 次に紹介する超巨大な法馬金(ほうまきん)である。法馬金(ほうまきん)(分銅金)上は徳川時代に造られたもののレプリカだが、形は計測用の分銅に同じである。大事な事を紹介し忘れていたが、前回、両替秤用分銅で紹介した後藤四郎兵衛家であるが、分銅のみならず、金の造作(大判造りなど)も後藤家が行っていたのである。※ 後藤家繭型分銅(ごとうけまゆがたふんどう)について書ています。リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局後藤四郎兵衛家は室町幕府の時代から御用達彫金師として刀剣の装飾など織田信長にも仕えている。いつの頃から大判の造作に携わったのかははっきり解らなかったが、秀吉と言うよりは、やはり信長の時代あたりからかもしれない。後藤家は豊臣方についた事から当初徳川にじゃけんにされるが、許しをもらい、徳川の時代も大判の製造を続けている。つまり大判小判の製造は幕府直営ではなく、民間企業による委託生産だったと言う事だ。※ 江戸に出たのは後藤四郎兵衛家ではなく分家? の後藤(橋本)庄三郎らしい。因みに、江戸の後藤家屋敷には敷地内に小判の験極印を打つ後藤役所が併設されていた。その屋敷跡が現在の日本銀行本店がある中央区日本橋本石町2-1-1らしい。法馬金(ほうまきん)(分銅金)は大判1000枚で造られた千枚分銅金(約165kg) と大判2000枚で造られた二千枚分銅金(約330kg) と言う巨大な金塊「大法馬金」と重さ375gの「小法馬金」とがある。※ 現存しているのは「小法馬金」のみ。重さではサイズ感がわからないかもしれない。正確に計っていないが、「小法馬金」は最長部6cmくらい。「大法馬金」は最長部38cmくらい。法馬金は何に使ったのか?大法馬金の表には「行軍守城用勿用尋常費」の文字が鋳込まれている。戦争となり、城を守ったり戦に出る時の軍資金であり、通常は使ってはいけない。・・と言う意味で、非常用の備蓄金と言う事のようです。確かにこのビックサイズであれば容易には盗めないですしね。最初に秀吉が造らせた事から太閤分銅金(たいこうふんどうきん)とも呼ぶようだ。大阪城にはこの大法間金が積み上げられていたらしい。でも現存は一個も見つかっていない。一方、小法馬金の方は結構見つかったらしい。ふと、思ったのであるが、徳川埋蔵金、みんなは小判だと思っているが、もし大法馬金であったなら、地中探査レーダーだけでは見つからないのでは? 金属センサーも併用しないとね。もう一つ秀吉が造った大判金貨を紹介。とてもきれいです。天正菱大判上が表 現存は5~6枚と言われるこの大判もまた後藤四郎兵衛家の作品。無名の大判に埋め金して量目を調整してあるそうだ。墨字で十両(量目)と記され、その下に製造責任者の署名と花押(かおう)(サイン)がされている。さらにその下に菱形の中に入った五三桐(ごさんきり)の印が押されている。金の品位が740/1000ですからK18(75.0%)に近いですね。下が裏秀吉の黄金趣味豊臣秀吉は、何かと言えば金を使用する。よほど好きだったのだろうと思われているが、確かにとんでもなく金が産出されて黄金三昧になれば、金でいろいろ造ってみよう・・と言う気にもなるのかもしれない。いろんな物を黄金で作ったと聞くが、珍しい物として外国人に紹介されているのが金の茶室である。秀吉の金の茶室を再現した部屋が大阪城の西の丸庭園の迎賓館にありました。見るからにこれは造りがチープですが、黄金の茶室は運搬可能な組み立て式の移動式茶室だったようです。看板にはGolden Tea Ceremony Room (Chashitsu)と書かれてました。黄金三昧とは、ちょっと成金的ではありますが、法馬金を見てちょっと考えが変わりました。法馬金はいざと言う時に削ったり切り取ったり、あるいは全部溶かして利用する資金です。同じ事が金の茶釜にも言えるのかもしれない。いざとなったら茶釜だって戦費に変われるのです。金は永遠に再生可能な物質なのですから・・。蔵の中でずっと眠っている法馬金よりも金の茶釜はみんなの目を楽しませてくれる。金の茶釜も金の茶室も贅沢と言うより話のネタ? 単純に秀吉の遊び心? だったのかもしれないなーと・・。因みに金は物質的に何の作用も無い金属ですから、金の茶釜で点てたお湯を使った茶は混じりけの無い茶そのものの味がしたはずです。鉄分を補う意味でも使われた鉄の茶釜の湯で入れたお茶とはやはり味が違ったはずです。茶の味を味わうより黄金を愛でて飲んだ茶の方がやはり美味しかったのでしょうけどね総じて思ったのは秀吉が金が大好きだったと言うより、金を利用して宣伝効果をあげていたと言う方が真理なんじゃないのか? と言う事です。まあ、金が嫌いな人はいないと思いますけどね さて、次回は「大阪天満の造幣局 2」で現在のコイン製造を紹介予定です。リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話秀吉関連として豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の寧々(ねね)様の隠居した寺リンク 2017年京都 1 (圓徳院と石塀小路)リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)
2018年04月23日
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金貨流出図の写真追加しました現在の為替相場は変動相場制で行われている。それは日本円を外国の通貨に両替する時、例えば1ドルを円に交換すると幾らになるか? と言う割合(rate)が一定していないのが変動相場制である。為替は一日の中でも刻々と変化するので朝と夕でも為替のレート(exchange rate)はそこそこ異なるのである。※ 因みに4月14日では、1ドルは107.10~107.70円の間で推移。※ 外国為替証拠金取引 FX(Foreign eXchange)をする人はその差益で利益を上げている。この変動相場制はドルの信頼低下に伴い先進各国が導入を決めたが(日本は1973年4月から。)それ以前はドルを基軸とする固定相場制(あらかじめ決められた交換レート)であった。固定相場制は第二次大戦後、1945年、国際間の通貨安定の為に国際通貨基金 IMF(International Monetary Fund)の始動と共に各国が採用。敗戦国日本では1945年9月から導入され最初の軍用相場は1ドル15円。1947年3月 1ドル=50円1948年7月 1ドル=270円1949年4月25日 1ドル=360円開始今は信じられ無い事だが、1ドル=360円時代は1949年4月~1971年12月まで続いたのである。当然だが、海外旅行なんてお金持ちしか行けなかったのである。この360円の固定相場は、基軸となるドルが強かったから可能だったのである。実際ベトナム戦争で疲弊したアメリカの国力は低下。変動相場制に移行する前に1ドル=308円時代が来る。※ 先に書いたが今日は、1ドル 107.10~107.70円の間で推移だからね 何にしてもこのように固定相場制から変動相場制へと国際間の為替のレート(exchange rate)は決められてきたのである。大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局変動相場制と固定相場制幕末期の貨幣制度(両替)小判の流出事件江戸期の貨幣制度と秤量貨幣(銀)造幣局の開局 旧造幣寮鋳造所建物とガス灯幕末期の貨幣制度(両替)冒頭説明した通り、国際間の取引で為替レート(exchange rate)は重要な項目だ。日本では鎖国時代の貿易では金、銀、銅と交換で品物を得ていた。ある意味物々交換に近い。なぜなら、以前紹介しているが、オランダは日本から純度の高い銀を持ち帰ってVOC用のコインを鋳造していた。そしてそれがアジアでの交易用のコインとなり長く流通。一番求めていたものは銀だった。※ 幕府は金銀の流出を抑えるが為に含有量を減らした品質の落ちる金貨を発行している。それで国内がインフレになるなど幕府の経済政策は駄目駄目。※ 2016年11月「デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)」の中で書いています。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)大阪造幣局内 造幣博物館から慶長丁銀 慶長6年7月(1601年)に鋳造開始博物館にはいろんな丁銀がありましたが、その文様が美しいナゲットだったのでこれを紹介。1853年7月黒船が来航し、日本も鎖国を解き、欧米諸国とも貿易を始める事になるとやはり為替レート(exchange rate)を決めなければならなくなった。1858年6月、日米修好通商条約でメキシコ銀ドル貨幣との両替レートが決定する。(当事の国際通貨はメキシコ銀ドル貨幣だった)幕末に日本との交易に利用されたメキシコ銀ドル貨幣1857年(安政4年) 量目 26.8~27g 品位 銀 862~886/1000日米修好通商条約 5条では「外国の諸貨幣は、日本貨幣、同量、同種を以て通用すべし」とあり、この条件を以てメキシコ銀ドル貨幣 1ドル(1枚) = 天保1分銀×3枚 と定められた。天保一分銀 1837年(天保8年) 量目 8.6g 品位 銀988.6/1000小判の流出事件ところが想定外の問題が起きた。金と銀の交換レート(金銀比価の比率)は 日本では 1金対5銀。 外国は 1金対15銀。金と銀の両替比率(価値観)が違い過ぎた。賢い人は気付くだろう。まずメキシコ銀貨を日本の天保一分銀に交換し、さらに金貨に両替すると金が多く手に入るカラクリに。こうして日本の金貨(小判)の海外流出が恐ろしい早さで始まったのである。1860年、万延の改鋳 明治政府が金の純量を3分の1に引き下げるまで流出は続いたそうだ。ところで、江戸時代の貨幣制度は四進法で行われていた。下は造幣博物館の資料から幕末期 1両=4分=16朱=4貫=4000文なぜ四進法なのか?昔は貨幣と言う塊よりも金や銀は重さが取引の基本。市中では両替商により秤(はかり)で計測されて取引がされていた。等分ずつ分けられていくのだから必然的に4進法に行き着いたのでは?江戸期の貨幣制度と秤量貨幣(銀)横道にそれるが・。上の表は江戸の末期に額面の固定された一分銀(表記貨幣)が発行されてからの話。一分銀発行以前は銀は重さにより価値が計測される秤量貨幣であった。つまり銀は毎日、微妙に公定レートが変わったのである。それは藩(都市)によっても違ったらしいので江戸時代の銀は変動相場制だったようだ。因みに江戸時代、大阪では銀が、江戸では金が主流であった。その為に江戸から大阪に取引に来た商人は金から銀への両替の必要があったのだ。後藤家繭型分銅(ごとうけまゆがたふんどう) 1686年製造。50両で1870g。1匁で3.78g。両替秤用分銅は、後藤四郎兵衛家のみが製造を許された。銀行の地図記号はこの分銅の型に由来するそうだ。 意味が解ったね下は大阪歴史博物館の資料から一分銀が出る以前、銀が秤量貨幣だった頃の貨幣制度江戸17~19世紀 金1両=銀60匁(もんめ)=銭4000文ついでに大阪歴史博物館の資料から国内鉱山の地図を紹介。大阪が銀、江戸が金の理由がわかる。さて、だいぶ横道にそれましたが、今回は造幣局の話でした。上は本局(大阪市北区天満)。桜之宮公園内の泉布館前から正面玄関方面を撮影。下は造幣局内の昔の正門昔は川が主な出入り口の為に正面は川に向かって建っていた。造幣局とは、現在日本で流通している貨幣(コイン)の製造と勲章の製造を行っている所。現在日本に造幣局は3軒あり独立行政法人となっています。本局(大阪市北区天満) さいたま支局(さいたま市大宮区) 広島支局(広島市佐伯区)造幣局の開局 旧造幣寮鋳造所建物とガス灯本局である天満の造幣局の歴史は幕末の乱れた貨幣制度を建て直す為、明治維新の政府が総力を挙げた近代化計画の一つとして始まった。コイン鋳造の為の造幣局が1871年(明治4年)4月4日に創業。(それは欧米からの要望でもあった。)1873年2月(明治6年)イタリア人のマンチニ氏の描いた造幣寮前景図の一部です。1873年、ほぼ全ての施設の建築終わった頃の作品。この旧造幣寮鋳造所正面玄関が、桜之宮公園内にある明治天皇記念館の玄関に移築されて残っている。我が国初の本格的西洋建築。旧明治天皇記念館の設計はアイルランドの建築技師トーマス・ウォートルス(Thomas James Waters)(1842年~1898年)。下は桜之宮公園内にある泉布観(せんぷかん)。旧造幣寮応接所。マンチニ氏の絵の右に描かれている。やはりトーマス・ウォートルスにより設計され1871年竣工。1872年(明治5年)6月、明治天皇が行幸の時に「泉布館(せんぷかん)」と銘々された。総レンガ造りの西回りコロニアルスタイルである。※ 泉布館と先の旧正面門は当事の位置にそのまま存在。1871年(明治4年)に金・銀貨幣の操業が開始。1873年に銅貨幣工場が竣工。当事の敷地は18万㎡。(56000坪)。現在の敷地は10万㎡。(30000坪)。※ 金属の鋳造工場が現在は他に移っている。1911年(明治44年)竣工の火力発電所(写真左)操業当事は蒸気機関で動力としていた。見える煙突はその名残。日露戦争1904年(明治37年)~1905年(明治38年)を背景に製造能力の倍増が求められ、1908年(明治41)~1912年(明治45)電化への設備拡張が行われた。(貨幣の製造能力は倍になった。)現在、造幣博物館となっているレンガ館は写真にある1911年(明治44年)竣工の火力発電所である。博物館は通常一般公開されている。桜の通り抜けの期間を除いて。欧米式に建設された造幣局のシステムは手探りで海外から導入。しかも技術のみならず、機械、科学、薬品、ガス、コークスなどの材料さえ、自給自足で調達せねばならなかったので結果的にそれらは日本に欧米の近代工場を紹介する事にもなったと言う。(あらゆる事において日本最先端工場だったのである。)我が国最古のガス灯(創業当初から使用されていた)構内にガス製造所が設置され石炭ガスを製造。1871年(明治4年)の創業当時、構内と付近の街路に65基設置。工場内621基。計686基もあった。因みに一般にガスが供給されるのが1905年(明治38年)。初めて灯った造幣局のガス灯に大阪市民は驚愕したらしい。この大阪の造幣局はいろんな意味で先端を行っていた。職員には断髪を指示。イギリス兵のような制服も造られ着用。オシャレな西洋建築とガス灯。ここだけ一気に文明開化 1863年浪速大川地図造幣局の立地は、大阪城の対岸。江戸時代には御破損奉行が管理する木材置き場あった場所。御破損奉行は、大阪城と蔵などの造営修理を専門にする役職。中心赤い円が造幣局に決まった場所。その上のピンクは大阪天満宮。レンガ館前の通り桜の通り抜けの時は建物が見えないほどに桜が満開。造幣局の風物詩、今年の桜の通り抜けは4月11日(水)~17日(火)まで。現在開催中。※ 桜の通り抜けに関しては、昨年紹介済み。 2017年4月「大阪 造幣局 桜の通り抜け」下は以前の写真毎年新しい桜が加わるのも愉しみ。造幣局次回に続く。リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)
2018年04月15日
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カテゴリーを「建築物・教会・墓地・墓石」から「お金」に変更しました。ロンドン、シティにあるテンプル教会は建物もさる事ながら、ロンドンを金融の街にした礎そのものだからです。テンプル騎士団とテンプル教会があったからこそ、金融の街ができあがった理由を紹介。案外今のシティの人達も知らないかもしれません。ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)シティ・オブ・ロンドンがなぜ金融の街になったのか?それはテンプル教会のロンドン拠点がそこにあったからに他なりません。結論から言えば、シティにあったテンプルそのものが巨大な銀行として存在していたからです。十字軍とテンプル教会偉大なるヘンリー2世とヘンリー2世の失敗シテイの礎を造ったテンプル教会Bankers to Europeちょっとおさらい・・十字軍とテンプル教会キリストの聖地を取り戻す為に教皇の公認の元に誓願(せいがん)を立てて「十字章」をつけた戦士が十字軍(crusade)です。注・・ 「十字章」は1095年11月28日フランスのクレルモンでの教皇演説の時に志願者に配られたワッペンのようなものです。その十字章より十字軍と呼ばれる訳です。1099年、聖地を奪還するもイスラムとの戦いは続く、そんな中に結成された修道誓願を立てたたった9人のグループは巡礼者が安全にエルサレムに辿りつけるようボランティアで巡礼路の警護を始める。その戦士の一団はやがて、かつてソロモン神殿のあった場所に拠を置く事を許された教皇公認の騎士修道会に認定(1129年)。それがテンプル(神殿)騎士修道会(Knights Templar)であり、この教会のルーツです。シティにあるテンプル教会何度も修復され、最初の姿はほとんど無いそうですが存在に意義のある教会です。テンプル騎士はすぐにロンドンにオフィスを作ったようですが、1160年の始めに現在のシテイに移転。ここはイングランドにおけるテンプル騎士団の本部となり、騎士や教会の財産管理をする本部事務所に発展。因みに最初の教会はホルボーン(Holborn)のリンカーン法曹院の東隣(現在のSouthampton Building) にOld Templeがあったと言う。「The New Temple' in London(ロンドンの新しいテンプル)」の創設は1185年。時の総長は10代目ジェラール・ド・リドフォール(Gérard de Ridefort)(1185年~1189年)と推定。欧州にかなりの土地の寄贈を受けていた事が解っているので寄進の受け口としてのオフィスや騎士募集の為の教会が必要だったのは確かですし、拡大する教団にかかわる諸々の事業者の事を考慮するとホルボーン(Holborn)は手狭になったのかもしれません。円形堂内部教会は無料で一般公開されています。円形の堂下には中世の騎士の墓。ダ・ヴィンチ・コード(The Da Vinci Code)ではこの堂内部で銃撃があります。遺物にあたったらどうするのだ? 実はここは先の大戦で空爆(1941年)されドームが崩れ破壊されここにあるのはレプリカのよう。偉大なるヘンリー2世とヘンリー2世の失敗教会移転の頃(1160年~1185年)はヘンリー2世(Henry II)(1133年~1189年)の時代です。ヘンリー2世と言えばコモン・ロー(common law)が確率したばかりのイングランドでさらに司法制度、裁判システムを創設(1154年)。現在に続く英国の司法の諸制度のほとんどは彼の時代に確立されたと言う。しかし、訴訟が国王裁判所に集中した為、王の権限はUPしたものの仕事は増えた。つまり、マグナ・カルタ(Magna Carta)以前のイングランドの王は国王裁判所と政務を取る宮殿との間を往復する忙しい生活だった・・と言うわけです。そんな頃、トマス・ベケット(Thomas Becket)(1118年~1170年)暗殺事件が起きる。ヘンリー2世は腹心の部下であり友、トマス・ベケットをカンタベリー大司教に推薦し、イングランドの総司教座にまで着かせた(1162年)が、教会の立場に立って王とことごとく対立。ヘンリー2世の部下にカンタベリー大聖堂で暗殺された時、トマス・ベケットは司教であった為、王はマズイ立場に・・。ローマ教皇に睨まれ、十字軍遠征を約束させられる。テンプル騎士団に騎士200人分の費用など資金援助し、彼らのバックアップをする関係が生まれた。因みにヘンリー2世は聖地に行けなかったが、腹心の側近、騎士のウィリアム・マーシャルが戦地におもむいているし、リチャードの十字軍、Richard the Lionheart(リチャード獅子心王)はヘンリー2世の3男リチャード(Richard I)の事である。イングランド王家とテンプルの密接な関係はこうしてでできあがった。テンプル・バーの中には、国王が滞在する為の建物や、貯蔵庫、厩舎なども建造され、王はよくそこに滞在していたと言われている。シテイの礎を造ったテンプル教会シティの街はテンプル騎士修道会が解散した後も発展をとげた。もともと戦地に送る鎧甲など軍需品の会社などいろんな業種の会社が集まって来ていた事もあるだろう。法曹界も債権や権利書など銀行に付随するものとして当時からテンプル周辺に集まって来ていた事もある。しかし、金融センターとしてニューヨークのウォール街と共に世界経済を先導してきたシティの基礎はテンプル騎士修道会の莫大な遺産と金融のノウハウだった事は間違いない。騎士修道会と銀行が結びつくとはとうてい考えられないでしょうが、当時最も崇敬されていた彼らの本部には莫大な献金があった。テンプル騎士団はその誕生から100年後にはエルサレムで最大の土地所有者になり、ヨーロッパ各地に広大な土地を所有。テンプルの事務局では、領地を売り払い債権にして遠征に参加した者達の銀行代わりもしたし、領地を寄進した貴族や経済状況が悪くて領地をテンプルに買い取ってもらいたい領主の面倒もみた。つまり資産運用と同時に預貯金業務も行っていたのである。円形ドームの壁は特殊な装飾が・・。奇妙な顔のレリーフが続くグロテスクな顔がたさん。魔除けか?Bankers to Europe(銀行家はヨーロッパへ)どんどんふくれあがる資産。潤沢な資金はエルサレムにいる者だけでなく、周辺の領主やヨーロッパの商人やヨーロッパ各国の王侯貴族にまで貸し付け。表看板は騎士修道会でありながら資産運用のサイドビジネスが成功し、独自の財務システムを発達させ銀行のような金融団体に成長してしまった。ではテンプル(神殿)騎士修道会が解散してその莫大な資産はどうなったのか?基本的にはテンプルの資産は聖ヨハネ騎士団が引き継ぐ事になっていたが、フランスだけは全てフィリップ4世が没収。イングランドではいったん王の管理下に入り、聖ヨハネ騎士団に資産が移るまで25年かかっている。テンプル(神殿)騎士修道会が解散させられた理由はやはりフランス王フィリップ4世(Philipe IV)(1268年~1314年)の資産ねらいだったと言うのが真実のよう。当時フランスの財政は逼迫していたし、かなりのお金をテンプルから借りていた? 借金踏み倒しだったのかも・・。イングランドではこのテンプルの資産が凍結されると王は王族や貴族の預金を抜き取ったと記録されている。それはまさに銀行の破綻前の行動?しかしテンプル(神殿)騎士修道会が解散後も彼らの事務機関は生き残りシティに息づいた。それは突然破綻させられたわけではなく、イングランド王の元に管理されて今まで通り運営されたから? なのかもしれない。それにしても聖ヨハネ騎士団に資産が移るまで25年の利子は誰の手に?※ 騎士修道会については以下に紹介。テンプル(神殿)騎士修道会(Knights Templar)の末路については「騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)」の中で紹介。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)リンク 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)ロンドンシリーズ Back numberリンク ロンドン(London) 1 (テムズ川)リンク ロンドン(London) 2 (テムズ川に架かる橋 1)リンク ロンドン(London) 3 (テムズ川に架かる橋 2)リンク ロンドン(London) 4 (タワー・ブリッジ 1)リンク ロンドン(London) 5 (タワー・ブリッジ 2リンク ロンドン(London) 6 (バトラーズ・ワーフ)リンク ロンドン(London) 7 (シャッド・テムズのカフェレストラン)リンク ロンドン(London) 8 (シティの紋章)リンク ロンドン(London) 9 (テンプル教会 1)ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)リンク ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)リンク ケルト(Celt) のドラゴン リンク シティのパブ The Edgar Wallace リンク ロンドン(London) の地下鉄(Underground)リンク ビクトリア& アルバート博物館 のカフェテリアリンク ユーロスター(Eurostar)リンク 英国のEU離脱の失敗 ・ ウェストミンスター宮殿
2013年08月31日
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Break Time (一休み)ちょっと忙しくて写真のチョイスができません。今日は別ネタでゴメンナサイ明日は久しぶりに弟の家の夕食作りに出かけるのです。甥の大好きなロールキャベツを先程17個作って冷凍した所ですさて、今回は時間もないのでユーロ(Euro)の札束と前回紹介できなかった100ユーロ札の紹介をしておきます。先日両替してきた所なのでユーロ(Euro) € Part 2100ユーロ札と20ユーロの札束と50ユーロの札束そろそろ下げ止まりか? と思いながらどんどん下がって行ってるのはドルだけではありません。ユーロも3年前のピークが165円くらい、本日17:00台で1ユーロ 108.68円~108.78円 を推移。書き込みは2010年9月です。私が買った時よりもさらに下がっています ( ̄_ ̄|||)どよ~んチャートはブルームバーグから1999年から2017年のチャートを参考にupし直しました。ユーロ札束7月「お札シリーズ 2 (ユーロ札と見本とコイン) 」の所で、持ち合わせがなくて実物が紹介できなかった分です。前回紹介していますが、ユーロは欧州の経済通貨同盟国で現在使用されている通貨です。ギリシャの経済危機のおかげでユーロも大暴落していますが、2002年1月1日に現金の流通が開始された時 1ユーロは80円台で始まっていた気がします。もともとそんなに価値があるとは思えなかったユーロがドルより高くなっていたのでむしろ疑問でした。私的には今後ユーロも80円台に突入するのでは? と見ています。ちょと張りぼて感のあったユーロが現実の姿を表してきた? ような気がするからです。20ユーロの札束 20×100 2000ユーロ分お札の柄については、前回の「お札シリーズ 2 (ユーロ札と見本とコイン) 」で掲載。50ユーロの札束 50×100 5000ユーロ分100ユーロ札50以上の紙幣の裏の額面はカラーになっている。光学的変化インクが使用されていて、紙幣を傾けるとその色が変化するようになっているしくみ。(確かにキラキラピンクの100は銀色に見えますね。)紙幣の偽造対策カラフルさのせいでしょうか、お札と言う実感のわかないお札ですが、実はそこに幾多の偽造対策があるようです。紙幣用の紙には、製造段階で蛍光繊維が、また中心部には糸が入れられているそうです。おそらくそれが100ユーロ札ならグリーンの蛍光繊維。20ユーロならブルーの蛍光繊維なのでしょう。図柄の部分は発光塗料で印刷され、紫外線が当てるとその部分が発光赤外線を当てると違う色が反射される。裏から光を当てると全体が黒ずむようになっているなど単純コビーの防止対策など、ユーロ紙幣は特殊な構造を持つ綿繊維で作られている・・と言う事です。確かドル札もかつてジーンズの繊維が入れられていた経緯で今も耐久性を増す為に繊維が混入されていましたね。因みにユーロ紙幣のデザインは全ての国で共通です。そのデザインは欧州連合で行なわれた公募から採用。デザイン・コンセプトはヨーロッパの歴史的な建築様式で、それぞれに代表されるべき建物が描かれていて、その裏面は全てその時代の橋になっています。5ユーロ紙幣・・・・古典建築 5ユーロの裏はローマ水道橋。10ユーロ紙幣・・・ロマネスク建築20ユーロ紙幣・・・ゴシック建築50ユーロ紙幣・・・ルネサンス建築、100ユーロ紙幣・・バロック・ロココ建築200ユーロ紙幣・・アール・ヌーヴォー500ユーロ紙幣・・現代建築200や500のユーロ札の現物を見る事は一生ないかもしれないけど「お札シリーズ 2 (ユーロ札と見本とコイン) 」の所に見本があります。次回のお金シリーズはどこにしましょう・・・。back numberリンク お札シリーズ 1 (アメリカ合衆国ドル・・ドルの札束)リンク お札シリーズ 2 (ユーロ札と見本とコイン)
2010年09月05日
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7月3日に紹介した「お札シリーズ 1 (アメリカ合衆国ドル・・ドルの札束)」の所で、ドルのトラベラーズ・チェックの高額紙幣、1000ドル券があると紹介しましたが、ちょっと修正ができました。ドル・トラベラーズ・チェック(T/C) の高額券最近アメックスのチェックに両替した所、500ドル券が最高額になっていました1000ドル券のトラベラーズ・チェックは、前回両替した昨年には確かに存在していたのですが・・・・、あまり需要がないからなのでしょうか? 実際はまだ存在していると思うのですが、一般の取り扱いでは無くなっているのかもしれません。トラベラーズ・チェックのメリットとデメリットもともとトラベラーズ・チェックは実際問題として、どこでも引き取ってくれる・・と言うわけではありません。ぶっちゃけ、使い勝手がとても悪いのです。(手数料も高いのに・・)使える店は大きい店に限られますし、田舎の方では使用が難しくなっています。(欧州では大都市以外はほとんど使用が難しい)特に高額紙幣の引き取りはほとんどしてくれないので、一般の旅行者には1000ドル券は必要ないのは確かです。ただ、万が一無くしたり、盗難にあった時に控えてあれば再発行ができる・・と言うのが唯一のメリットです。実物の(T/C) 500ドル券サインする前に撮影しておいた物で、シリアルナンバーの部分は付箋で隠しました。通常何枚か購入する場合は、このシリアルナンバーが連番なので、記録して万が一の時に備えておきます。サイン1・・・購入した時にすぐに自分のサインをする。 (名前を書いた時点であなたのT/Cとなり他の人は使えません。)サイン2・・・使用する時に自分のサインをする。 (両方書くと盗まれた時に使われてしまうので、必ず使う直前に・・・)尚、サインはパスポートと同じサインにして下さい。使用時にパスポートの提示の必要があるので、同じサインでないとややこしい事になります。これは、クレジット・カードのサインについても同じ事です。高額のトラベラーズ・チェックは、銀行でないと使用は難しいと思います。トラベラーズ・チェックの問題点トラベーズ・チェックは購入時に現金より高い手数料をとられます。さらに、チェックを現地で現金に両替したい時に再び手数料をとられます。つまりダブルの手数料を取られるわけです。ただ今キャンペーン中そんなあまり人気のないトラベラーズ・チェックですが・・・。2010年11月30日まで、購入者に金額に応じた手数料のキャッシュバックを行っているそうです。例えば、100万円なら10000円の手数料の返金をしてくれる・・と言うものです。但し、返金方法は、クオ(QUO)・カードか、銀行振り込みになります。
2010年07月23日
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Break Time (一休み)今回はユーロ(Euro)の紹介です。ユーロ(Euro) €ユーロは欧州の経済通貨同盟国で現在使用されている通貨です。但し、全てのヨーロッパの国が経済通貨同盟に加入しているわけではないので、加盟していない国は相変わらず、その国の通貨に両替する必要があります。2002年1月1日に現金の流通が11カ国で開始されてから、現在経済統合により導入しているのは16カ国に過ぎません。しかし、後発のユーロですが、今やドルに次いで、基軸通貨(国際間の取引に使われる通貨)になりつつあるお金です。オーストリア、ベルギー、ドイツ、フィンランド、 フランス、アイルランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ポルトガル、スペインギリシャ、キプロス、マルタ、スロバキア、スロベニア※ その他、通貨同盟などによって、相手国と同じくユーロを法定通貨とした小国などもあります。(アンドラ、モナコ、サンマリノ、バチカン)ユーロの導入について導入していない国の中にはイギリスなどの大国も入っています。導入しているかしていないか・・については、その国の経済理由があるからなのです。ユーロの導入は、「その国の財務状況、物価の安定性、為替相場の変動幅、長期金利などについて、決められたマースリヒト基準をクリアしていなければならない。」と言う条件があります。つまり、加入したくても入れない国が存在するわけです。また、クリアできても、国民投票で否決される場合もあるのです。今回問題になったギリシャについては、そもそもそれら基準をクリアしていないのに、インチキして達成している振りをして加入に漕ぎ付けた経緯が指摘されています。ユーロ紙幣さて、今回、ユーロを紹介するに当たって、手持ちのお金では高額紙幣の持ち合わせがありませんでしたもっとも200ユーロ札や500ユーロ札に関しては、高額故にほとんど市場に流通していません。しかし、今回奥の手を使って紹介します。ユーロ表側 5、10、20、50、100、200、500ユーロ札の7種類。ユーロの紙幣のデザインはすべての国で共通。ユーロ裏側???? 実は、これは見本紙幣なのです。この紙幣は、2002年1月1日に現金の流通が始まる前に、パリの某デパートが事前の訓練用に使用していた、限りなく本物に似せた偽物なのです。突然の導入ではお店が混乱します。従業員に、事前に紙幣を覚えさせて間違えないように練習していた時のお札ですが、どうもデパート用ではなく、公式の練習用のお札のようです。実際のお札とどう違うか? 上の段が偽物です。偽物の方が、わずかに小さく出来ていますが、柄は一緒で比べると色が微妙に異なるのと、ホログラムが本物には付いている事が違う程度です。5ユーロ紙幣・・・本物1ユーロ・・東京三菱BKの昨日の買いのレートはCASH 114.37円。5ユーロ・・・571.85円。10ユーロ紙幣紙幣・・・本物 10ユーロ・・・・1143.7円100ユーロ・・・11437円200ユーロ・・・22874円・・・高額過ぎて市場にはない500ユーロ・・・57185円・・・同20ユーロ紙幣紙幣・・・本物50ユーロ紙幣・・・本物ユーロのコインコイン、上段は全て練習用の偽物。下段は本物。左から2ユーロ、1ユーロ50セント、20セント、10セント、5セント、2セント、1セントお札の柄は全ての国で共通ですが、コインに関しては、裏側は加盟国が各々自由な柄で印刷しているのです。肖像もあれば、国を代表するような建物。イタリアはレオナルド・ダビンチの人体図などのせています。1ユーロと2ユーロの柄が同じ国もあれば異なる場合もありました。2ユーロの重さは500円玉と同じでした。
2010年07月22日
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Break Time (一休み)完成まじかに睡魔でダウン。載せる前のチェックができなかった・・・疲れが溜まりすぎていたようです。恥ずかしながら12時間も寝てしまいました起きたら体が痛い事・・。寝過ぎも良く無いのね・・。今回はイエローストーンではなく、思いつきでドル札の紹介です。昨夜テレビで池上彰 先生が世界のお札の話をしていました。米ドルの下りは最後しか聞けなかったのですが、たまたま昨日両替してきたドル札があったので今回はそれを紹介します。いずれ他のお札も紹介できたら・・とお札シリーズ1回目にしました。アメリカ合衆国ドル(United States Doller)アメリカだけでなく、国際決済通貨や基軸通貨として世界中で利用されている通貨です。今更米ドル札なんか? と思う方は多いと思うのですが、今回滅多にお目にかかれないものがあるのです札束の帯封です。表 帯封の中のシリアル・ナンバーがつながっている旨が記載されています。裏。赤い印は日本の担当者の印です。一万ドルの札束ですしかも新札です。100万円の札束より薄くて・・まるで人生ゲームのお金のようです。金曜の銀行の交換レートが90.69円(キャッシュ買い)だったので10000ドルで906900円です。1000000円で今や11000ドル交換できておつりも来るのです。今が替え時か? もっと下がるのか? 旅行者は嬉しいけど、企業にとっては苦しいですね。新札と寿命日本人が日本で両替をする時、たいてい新札のドル札に替えてくれるのですが、アメリカで新札のドルを見る事はほとんどありません。新札で支払いをすると店員さんに驚かれるくらいです。(あまり見た事ないようです。)昨日の池上先生の話によればお札の寿命が日本円は3年くらい? ドル札は7年くらいの耐久寿命があるからかもしれません。アメリカでは超ポロボロのお札がそのまま流通しています。寿命が長いのは、お札の中に繊維が入っているからだそうです。確かにカメラでは捕らえられませんが、虫眼鏡で見ると小さな赤や青の繊維が僅かに混入しているのが見られました。因みにキャッシュでは現在100ドル札が最高のようですが、トラベラーズ・チェックの場合1000ドル券があります。10000ドル替えるならサインは10枚で済みます。ドル紙幣の印刷ドル紙幣の発券管理は連邦準備制度が行っているそうです。紙幣の発行は、アメリカ国内に12行ある連邦準備銀行がそれぞれ発行。印刷工場はアメリカ国内に2ヶ所あるそうです。日本では日本銀行ただ1行が発行。紙幣1ドル札・・・ジョージ・ワシントンアメリカ合衆国の国章プロビデンスの目については次回・・追加で触れますね。5ドル札・・・エイブラハム・リンカーンリンカーン・メモリアル10ドル札・・・アレキサンダー・ハミルトン財務省建物20ドル札・・・アンドリュー・ジャクソンホワイトハウス50ドル札・・・ユリシーズ・S・グラント連邦議会議事堂100ドル札・・・ベンジャミン・フランクリン独立記念館次回、こぼれたプロビデンスの目、その次にイエローストーンに戻ります。リンク 神眼・・・プロビデンスの眼back numberリンク お札シリーズ 2 (ユーロ札と見本とコイン)リンク お札シリーズ 3 (ユーロ札束)
2010年07月03日
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