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Break Time (一休み)しばし旅に出てきます ( ^ 。^ )久しぶりに欧州に出かけるので一休みどころか、しばらく更新をお休みさせてもらいます。たくさんのネタを仕入れてきますね ☆⌒(*^-°)v ドイツ、シュタイフ社のお店の大きなテディーベアこれは何百万とかするのだろうな・・。では行って来ます C= C= C=C= C= C= (((((( *≧∇)ノノノ
2013年05月06日
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Break Time(一休み)一休みどころか、かなり空けてしまいました m(_ _)mいろいろ忙しかったのはあります。大阪にも行っていました。そして、あちらでマッサージに行き逆に体を壊してしまいました。、もう1週間近く、まだ動くのも座るのも辛い状況です。さらに前にも言いましたように楽天ブログが大幅にサービスを減らした為にブログ上のアバターが消えてしまったのです。今はその対応途中でやりとりが続いています。楽天いろいろ腹立たしいです。さんざんお金を遣わせていたアバターの突然中止。別の運営会社に移行すれば続けられる・・と言われ新契約をしたにもかかわらず消えてしまった・・。フタをあければアバターは使えるけど従来のようにブログに載せる事はもうできない・・との事。騙されたようです。それでも新アバター会社の方の方が何とか載せられるよういろいろ策を凝らしてくれて、今指示の元に頑張っている所ですが、絵が出ていないのです。なかなかうまくいかないので、もうめんどくさくなってしまいました (v_v`)はぁ・・・。さて、ビショップの続きと行きたい所ですが、簡単ネタで1クッションおく事にしました。実は明日、ネットのブロバイダーを変更する為の工事が入ります。その後、パソコンを設定しなおさないと接続できなくなるような事態もあるので・・。そんなこんなと細々忙しいのです。大阪 お初天神 美人絵馬近松門左衛門 曽根崎心中先週、大阪の北区、曾根崎警察署の近くにあるイタリアンに石窯ピザのランチ・ブッフェを食べに行きました。野菜も豊富で焼きたてのピザが食べられて何より安いのです。(1200円)店の紹介・・と思ったのですが、肝心のピザの写真が無いので今回止めました。その代わり、その店のすぐ裏がお初天神だったので、ピザのついでに天神様参拝。面白いものを見つけたのです。曽根崎のお初天神お初天神は通称で、この神社の正式名は露天神社(つゆのてんじんじゃ)。実は近松門左衛門の「曽根崎心中」の舞台として知られる場所なのです。現在の姿からは想像さえできませんが、1300年以上前に創建された古社だそうです難波八十島祭旧跡の一社として数えられると言うこの神社は、かつて大阪湾に浮かぶ小島の一つ(曽根洲)であったそうです。正式名称、露天神社(つゆのてんじんじゃ)は、菅原道真公が筑紫へ左遷配流される途中に参詣の道すがら詠まれた詩「露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば」に因む・・と伝えられているそうです。しかし、元禄時代からは違う意味でこの神社は有名になってしまい、「お初天神」と呼ばれるようになったのです。近松門左衛門 曽根崎心中学生時代に国語の時間に一度は聞いた名前だと思いますが、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、江戸、元禄期に活躍した人形浄瑠璃や歌舞伎の作者です。その彼の作品の1つが「曽根崎心中」なのですが、これがなんと実話をモデルにしたノンフィクション(non-fiction)戯曲だったのだそうです。事件は元禄16年(1703年)4月、大阪堂島新地天満屋の遊女(はつ21歳)と内本町醤油商平野屋の手代、徳兵衛(25歳)二人の心中事件です。この悲劇を近松は戯曲にして翌月5月には道頓堀の竹本座で発表。すでに歌舞伎の向上でも使われるほど人々の関心を集めていた心中事件は、この演目で、より広く皆の知る所となり、事件のあった件の露天神の森には二人を偲ぶ参拝者が続出したそうです。このブロンズ像は平成16年4月地元曾根崎商店街からの寄付などでできたようです。因みに近松はこの反響を契機として、心中作品を次々発表。(「心中天網島」も有名。)ところが心中を真似する者が続出した為に、幕府は享保8年(1723年)心中物の一切の上演禁止したと言います。いつの時代もすぐに乗っかる人がいるものですね。お初天神の名は遊女はつの名に因んだ呼び名だったわけです。さて、面白い物・・とは、美人祈願の絵馬があるのです。どうもお初と徳兵衛の悲しい恋物語に、いつしか? 近年? 最近? お初天神は「恋愛成就のパワースポット」と呼ばれるようになったとか・・。たぶん雑誌か何かで誰かが持ち上げたのかもしれないが、恋愛成就を願う女性の参拝者がにわかに増えたのだそうです。そこで商魂? これも正確な確認はしてませんが、「昨年夏から500枚の絵馬が奉納されている。」と言う書き込みから見て、昨年夏に美人絵馬が作られ、さらにその絵馬目当てに美しくなり、恋愛を成就させたい女性がたくさん集まって来ている・・との事です。顔の部分は自分で描くようになっています。だからいろんな顔が・・。「14日のバレンタインデー前に女性が殺到している。」らしい・・。これも誰かが乗せたのか? ニュースでも取り上げられてさらに美人祈願の絵馬の人気が急上昇?でも、但し書きにありました。間違えてはいけません。容姿美しきは一時の花。心根美しきは一生の宝。心美人になれますように。心美人になって恋愛を成就させましょう・・・と言う事のようです。それにしてもお初と徳兵衛の物語とは関係ないような・・。でも儲かればいいのか・・
2012年02月29日
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Break Time (一休み) 写真追加今日も、朝7時前からかんかん照りにお日様があがっていました。外回りの仕事の人は気の毒ですね。特に工事をしている方々は、ヘルメットで頭の温度も上がるから、熱中症に要注意です。さて、私も暑さで日中の機動力も気力も思考力も落ちて駄目気分です。今回はちょっと手抜きです実は2日前に、すずしい国から手紙が配達されてきました「ムーミンより愛を込めて????」 それをネタにしました。送り主はともかく・・・手紙はフィンランド西スオミ州のタンペレ(Tampere)から届きました。 (聞き慣れない地名です。)フィンランド(Finland)、タンペレ(Tampere)ムーミン谷博物館(Moominvalley)ここには作家であり画家であるトーベ・ヤンソン(Tove Jansson)(1914年~2001年)のムーミン・トロールなどの原画を収めたムーミン谷博物館があるそうです。そう言えば昨年のちょうど8月に「シリヤライン(バルト海クルーズ) 3 (船内)」のクルーズ船の紹介の時にムーミンが出迎えてくれたので、その時少し触れてました。ムーミンは北欧の伝説に現れる妖精トロール、「ムーミントロール」をモチーフにした漫画で、当初は英国の新聞イブニング・ニュース紙に掲載されていたものだそうです。ですから元は、子供ではなく、大人向けだったようで、しかも、初期の作品は少し怖い感じ? ムーミンは、実はちょっと不気味なトロール妖精なのです。ハガキの絵 1 ムーミン一家ムーミンパパとママの出会いは、嵐の夜に海で溺れて助けを求めていたママを救出したからだそうです。でも、なぜ嵐の夜に海に?日本のアニメになったムーミンの方が絶対可愛いけど・・・。現在は40カ国語に翻訳されて子供から大人まで広く愛されている作品だそうです。ムーミン谷の踊り・・・現在テーマ展示されているようです。ムーミンママは薬剤の調合と言う秘技を持っています。・・・もしかして魔女系?命の次に大切なハンドバックは、調理をする時もけっして手放さないといいます。さて、今時は、手紙と言えばほとんどEメールでなので、かえって新鮮です。郵便で送られた理由は、実は切手と消印にあったようです。ムーミン谷博物館はタンペレ私立美術館の中にあるそうです。日本人が多いのでしょう・・・説明書も日本語用があるようです。(それだけで親近感・・)でも、中は撮影禁止だそうです左にポストが・・。このポストに入れるとムーミンの消印を押してくれるそうです。(ここだけ)切手の購入はムーミン谷博物館以外、ヘルシンキの中央郵便局にもあったそうです。切手は6枚綴り・・シートに値段は書いていないようですが、一枚80セント。6×80セントで4.8ユーロです。つまり、日本まで航空便でこの値段(80セント・・今は約80円)5日で届いたようです。トーベ・ヤンソン(Tove Jansson)の原画彼女が所蔵していた品や原画が2000点ほど展示されているそうです。(それらは本人からの寄贈品。)博物館はトーベ・ヤンソンの描くムーミンの世界を表現しているそうです。それは穏やかで、思慮に満ちた人生のとらえ方や冒険を愛するワクワク感。人情味あふれる陽気でユーモアなキャラに囲まれた「満ち足りた世界」なのだそうです。博物館前のブロンズの像は化石の石に乗っている。それは石博物館が隣接しているかららしい・・・。
2010年08月04日
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Break Time (一休み)今日も昼からお出かけだったので、グランドティートンのトレッキングは本日もお休みです。実はとても楽しい所に行ってきたのです夕方雨が止んだので撮影出来たのですが、雨風で傘が壊れそうな中の探検でした合羽橋道具街通り道具街の起源は、1912年(大正元年)頃。ここは東京の下町風情の残る合羽橋商店街です。写真は台東区、合羽橋道具街通りから撮影で、浅草側の路地の一つです。見えるのは話題の電波塔、東京スカイツリー。(この界隈ではどこでも良く見えましたが、東京スカイツリーの場所は墨田区なのです。)今時めずらしくなった電柱と電線が交錯しています。(雨上がりの夕刻なので写真も微妙ですが・・。)食に関する道具の専門問屋街が合羽橋です。食器、調理器具、調理備品、食品サンプル、のれん看板、調理衣装など飲食店を経営したい人の店舗素材の調達場所です。何でも揃う品揃えで、面白い品がいろいろありました合羽橋道具街通り・・・先が浅草通りいたって普通の通りです。ここが合羽橋なの? と言う印象です。合羽橋商店街は浅草通りの菊屋橋の交差点から言門通り(ことといどおり)までの大通りを南北軸にして東側が西浅草で西側が松が谷になっています。電車の場合、最寄りは銀座線の田原町ですが、浅草まで歩ける距離です。通り沿いにかっぱ河太郎がまつられています。2003年、道具街誕生90周年のモニュメントのようです。商売繁盛とか・・。さて、メインはこれから・・お土産は食品サンプルです。食品サンプル日本特有の食品見本の細工物です。昔は蝋細工だったようですが、今は塩化ビニール材で感触にも柔軟性が見られます。サンプルは思いの外、値段がお高いので、最初はこんな物しか買えない・・と思っていました。後々考えると、良い品はあったけど、かなりこの店は高かったのです。品揃えは最高でしたし、マグロの大トロは超素晴らしかったのですが・・。店には寿司屋? のおじさんが買いに来ていて、リアルサイズは「本物より高い!」と言ってました。(商売人には業者価格があるのだと思いますが・・。)同種の店はたくさんありますが、浅草通り界隈の店は全般に高いようです。見比べて買うと良いですよお買い得品を発見・・・・・バナナ・クレープ・キャラメル添えです。これがなんと1000円他の店では3000円はするぞ・・。(皿は自前です)エビスの黒ビール、本物グラス付きこれはオーダーが流れたいわく品らしいです。これも上と同じ店で1000円。他の店では4000円以上すると思う。さて、下の超お買い得品。寿司パックで売られていて、家で並べ替えたサンプルです。寿司は、やはり外人受け一番の品だそうです。(ハワイの甥にギフトする予定です。)本物が2つ紛れていますこのお買い得の店先には80cmくらいある巨大エビの握りが横たわっています。そして表看板には軽車両くらいあるカブトムシが貼り付いています。この商店街は屋根があちこち途切れているので雨はとても辛いのですが、楽しかったですよ。
2010年06月23日
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Break Time (一休み)アメリカ・インディアンのオジブワ族(Ojibwa)に伝わる装飾品にドリームキャッチャーと呼ばれる「日本の護符」のようなものがあります。前々回インディアンの夢の話をしましたが、インディアンにとって夢は信仰の対象にもなる大切なものです。ドリームキャッチャーは悪い夢を捕らえる魔除けとなるものです。今はオジブワ族以外のインディアンにも広まって、それが制作されて売られているようですが、本来はオジブワ族独自の伝統にのっとって作られる彼らに意味のある魔除けだったようです。(1950~1970年代のパン・インディアン運動 (民族のアイデンティティーを軸に連帯を図る運動)の間に他の部族に広まったらしい。)夢を選別それは寝室の頭に近いベットのそばに掛けられ、悪い夢を蜘蛛の巣状に編まれたネットで捕らえて浄化させてしまう機能を持っています。必然的に良い夢だけがキャッチャーに残るので、当人はすがすがしい朝を迎えることができると言うものなのです。言いようによっては「夢をふるいに掛ける」とも言えるかも知れませんが、「悪夢となって入ってくる魔を浄化する」と言った方が考えは近いと思います。本物は柳の枝を曲げて作った輪に鹿の腱をくもの巣状に張りめぐらして作られていたようです。ネットについているのはターコイズ(トルコ石)です。ターコイズはインディアンが好んで使う貴石です。この石も浄化にかかわっているのかもしれません。良い夢は下に降りて羽根を伝わって眠っている者に入り込む・・とか・・。これは本物に近いですが、あくまでお土産品です。残念ながらこのキャッチャーには何のパワーもないようです(一応頭の所につる下げていますが・・)本物のインディアンの作った物にはすさまじいパワーが宿っているのです以前紹介したハワイアンの神様もそうですが、超自然の神様の力はとんでもなく強いのです。(日本の神様とは相性が悪いようですよ。)家には本物のインディアンが作った人形があるのですが、紹介はできません。あまりにパワーがありすぎて、怖くて封印してあります。私、多少、霊感が強いようです海外でもホテルや観光地で怖い思いをしたり、買うのを辞めた物などありますが、自分の意図以外に家にやってくる物に就いている物もあったりして・・。以前ベルリンで買って来たソ連兵の帽子は、枕元に男が立ったり、首を閉めた・・とかでしたが、インディアンの品物の場合、普通の霊よりもっと強い何かがあるようで、昼間でもその部屋に入るのがためらわれた・・ので、丁寧に紙に包んで眠ってもらいました。(まだ家にありますが・・。)ボルテックスはともかく、彼らに宿るインディアン・パワーは本物です。でも、インディアンではない私たちにそのパワーの使い方はきっと解らないと思います。
2010年06月05日
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フランス(France)、ベル・エポック(Belle Epoque)アール・ヌーボー(Art Nouveau)のポスト・カードポスト・カードのはじまりフランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のシンボルとしてエッフェル塔は建造されました。その時発行されたエッフェル塔のイラスト入りの絵はがき(ポスト・カード)が本格的なポスト・カードの始まりだったと考えられるようです。(エッフェル塔のボスト・カードは、それを塔の980フィート(300m)の地点に設置されているポストに投函すると言うパフォーマンス付きで人気だったようです。)万国博覧会は、世界中から人や物が集まり物見遊山の観光客も多くやってきましたが、博覧会以外にも、情報に飢えている大衆にとってポスト・カードは今の雑誌に近い情報メディアとして人気を呼んだようです。タイトル「芸術の日本」 どこが・・・・間違った日本観はこの頃植え付けられたのかもね・・。写真は1830年に開発されていますが、ベル・エポックの時代は写真、印刷技術もより発達した時代であり、華やかなポスト・カードや劇場のポスターなどが現れるのです舞台「テオドラ」の衣装を着るサラ・ベルナールいわゆる役者のプロマイドに近いですね。白黒写真に彩色をした写真ですが、「テオドラ」は贅の限りを尽くしたベル・エポックを代表する舞台だったそうです。身に付けている宝石も本物とか・・。それらは全て散逸。この衣装や舞台装置で彼女の劇場は火の車だったとか。ラ・ベル・オテロベル(美しい)・オテロ・・ショービジネスの世界で定冠詞の「ラ」が付くのは最大の賞賛で、神様のような位置「雲の上の人」?・・・らしい。彼女の為に世界の王侯貴族が豪華な衣装や宝石、城までも贈ったと言う。貢ぎすぎて財産を失って自殺した者も多かったそうだ。女スパイと知られていた美しいマタ・ハリ1876年オランダ生まれ。41歳の時、スパイとして処刑されてしまったが、本当は無罪だと今になって言われている。マタ・ハリは「褐色の瞳」の意。子供の頃読んだ本に彼女が紹介されていて、「女スパイ」かっこいいな・・と思ったっけ・・・。(昔からマニアックな本読んでいたみたいね)ポスト・カードは当世流行のモードを紹介するメディアの役割もあった。ファッション雑誌のはしりかもしれない。ベル・エポックの時代はこんな大きな帽子をかぶるご婦人方でいっぱいだったようです。飛行機を紹介するポスト・カード人類初の動力飛行を成したのは、1903年のライト兄弟ですが、1910年には女性初のパイロットが誕生。フランスのラ・ローシュ男爵夫人だそうです。欧州の歴史の中で、文化の切れ目にはたいてい戦争等の大きな騒動があるようです。戦争か何もかも奪う・・とは良く聞きますが、人の考え方も変えるので文化も大きく変わってしまうのでしょう。(線引きしやすくなるのだろうな・・・)ベル・エポックはフランスにとっては贅沢な時代でした。しかし、第一次世界大戦は戦勝したもののフランスの被害は大きく、一気に経済的苦境に陥ります。しかも戦争による人口の激減は復興に大きな傷手となったようです。前後・・と言うより実は1910年頃から新しい文化の波は来ていましたが、第一次世界大戦 (1914年~1918年)を境に産業構造も変化し、嗜好も変化。装飾を否定する低コストなモダン・デザインが好まれ、普及しました。それかアール・デコです。(実際良いものはそんなに低コストではないけれど・・・)それはまたいつか・・・。関連リンク モンマルトル 8 (ベル・エポックとアール・ヌーボー)
2010年04月19日
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アルカサル(Alcazar)はまだ終わったわけではありませんが・・・。「Break Time のPart 2」を先に片付けてしまいます。「扇の間」 Sala de Abanicos Part 2アルカサルのアバニコ(扇子)(Abanico)とフラメンコを生んだロマ人発想としては扇→フラメンコ→ロマ人 とたどり着いたわけです。バリージャ(骨)はべっ甲です羽根は駝鳥にみえますが・・。ロマ人(Roma)フラメンコを生み出したロマ人のルーツをたどってしまいましたロマ人はヨーロッパ人ではなく、アラブ人でもないのです。スペインではジプシーのことをヒターノgitano(女性はヒターナgitana)と呼びますが蔑視した表現なので近年はロマ人で共通させているようです。貝の螺鈿細工に見えます。非常にスペイン的な派手さですが・・お土産用に見えますね。これも貝でそこそこすると思うのですが、絵柄は家族の肖像でも入れたのかな?ロマ人はどこから来たか?驚きました結論から言うと、彼らもまた発祥はインド・ヨーロッパ語族のインド・アーリア語派でした。(限りなくインド人に近い)紀元前6500年くらいにバルト系とインド系に分岐しているのですが、(バルト系に入るのがケルトやゲルマン語派にはいる民族です。)インド・アーリア語派は209言語から成り、ロマ語もその中に含まれます。インドから北アフリカ、ヨーロッパへ移住した少数民族ロマ(ジプシー)が使用する言語と紹介されていますが、移動民族なのであちこちの言語がまざり地域差はあるようです。彼らが欧州に入ったのは、モンゴル人の欧州侵入により押されるように14世紀末頃・・と、考えられるようです。(ロマ人の多くはバルカン諸国におり、今はほぼ定住しているようです。)螺鈿細工に細密の絵付き・・・・ロマン派時代の扇と言う感じですね。象牙細工に絵付きこの形は今もあります。(絵付きではないですが・・。)移動の民国境のなかった時代です。もともと彼らは定住地を持ちながらも生計の為に馬や馬車に乗って地方巡りをして商いをしていた移動の民です。毎年一定の時期に一定の村々をまわっていたと考えられます。シューマンの「流浪の民」のせいで放浪のイメージが付いていますが、基本、冬の定住地を持ち、春になると商いの為に小さなコミュニティーで鍛冶、鋳掛け、木工、桶造りの技術を商売にしたり、祭り等で歌や踊りを披露したり、占いをしたりと、地方周りの行商生活をしていたようです。(だから村はずれにテントを張って滞在していたのね。)行き先の方面は、グループでかぶらないように長老達の指示で地方分けさけていたようです。ロマ人の生計ロマ人は馬の扱いがとても上手で、馬を見つけてきては調教して売る等、それがかなりの収益をあげていたようです。(生活の糧の大半は馬の取引だったようです。)当時は軍用、貴族用、馬車用、農耕用、と馬の商いも広く、特に中世の戦時下では馬の調達と共に、彼らは重宝がられる存在だったと言います。また、流浪の民のイメージから街に侵入しての諜報活動に使われ、1480年から始まるグラナダの陥落における彼らの役割は大きかったと言います。そのグラナダ陥落の功績を讃えて、1492年イザベラ女王はロマ人にグラナダのサクロモンテの丘に居留する事を許されたと言います。現在スペインにロマ人が多く居留しているのはその為です。近年になって社会が変わると、彼らの生業のほとんどは駄目になってしまいました。日用品も、農機具も樽も桶も安い工業製品が出回り、修理も減り、自動車の発達により馬も必要なくなり、残ったわずかなエンターテイメントでは生きていけなくなったのです。彼らの多くは工場などに働きに行ったり、季節労働者になったと言います。取りざたされるスリの問題などは彼らの中の一部の者による犯罪ですが、ロマ人自体が地域と同化しないで長らくロマ人の世界で生きていたので、道徳観が違いすぎるのです。周りとの違和感はどんどん広がり、受け入れられない存在になってしまったようです。象牙にホワイト・レースべっ甲にブラック・レースを上張り音楽の才音楽に関しては、彼らの才能は誰もが認め、惹かれるところで、奔放な楽想で、自由に即興する。リズムが支配する彼らの音楽は時にアップ・テンポで激しい感情を表現。また、歌(カンテcante)で彼らの嘆きや叫びがせつなく表現されたりする。彼らのたいていは、優秀な音楽家で、歌い手で、舞踏家のようです。フラメンコ(Flamenco)は、アンダルシアに根付いたロマ人が、自らの音楽とアンダルシア土着の音楽をミックスして作り上げたものとされています。イベリア半島の民族の複雑さは、やはり簡単には解けないようです。次回は乙女の中庭のムデハルのデザインから
2010年03月16日
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実はアルカサルにコレクションされている扇子、スペインではアバニコと呼ばれるのだが、それを紹介しようと思っただけだったのに・・・。とんでもない方向に調べ物は進んでしまった。話が長く2回に分けました。写真はアバニコです。Break Time (一休み)「扇の間」 Sala de Abanicos Part 1アバニコ(扇子)(Abanico)扇子と言うのはもちろん日本にもありますが、スペインでは、フラメンコ舞踊用の小物としてアバニコ(扇子)は存在しています。(アバニコは日本のものとは少し違います。)紹介するのは、個人の収集家が寄贈した品だそうです。総べっ甲のアバニコ実用向きではないですね。持っていて口元を隠すだけに使ったのでしょうか。アバニコのルーツは、おそらく、かつてそこで栄えたイスラムの王国から、あるいはイスラムの商人によって、中国からもたらされた品のようです。(折りたたみ式の扇子は8世紀に日本で考案されて中国経由で欧州にもたらされた・・とウキペディアには書かれていますが、その信憑性はわかりません。私的には腑に落ちない点があります。)大航海時代中国は明(1368年~1644年)でした。中国の皇帝が描かれています。時代は新しいのでは? 前に紹介したように、ペドロ1世(1333年~1369年)がイスラム・オタクだったので・・、その頃、支配下にあったグラナダ王国から数々のご機嫌取りの品が、度々ペドロ王の元に運ばれたといいます。おそらくその中で美しいアバニコ(扇子)がカステーリャの宮廷にもたらされた・・と考えるられます。なぜか? それは今回紹介するアバニコは決して庶民の持てるような品ではないからです。初期にもたらされたアバニコは宮廷の女性でも特に身分の高い者にしか持てないような極めて高額な装飾品であったからです。(日本から由来したような素材ではない。)骨の部分をバリージャと呼ぶようです。べっ甲や貝で美しく造られていますが使用したらすぐに壊れそうですね。扇部分の縁の部分はバイス。扇の両端の太い骨の部分をカベセラ。上のが白鳥貝で下が黒鳥貝でしょうか。バリージャは象牙細工のようです。装飾用のすかし穴をカラド。これも貝ですね。貴族女性が夜会で使う扇子のコレクションのように見受けられます。大航海時代に交易が進むと東洋より、アバニコもかなり輸入されたようです。そして、独自に職人がオーダーを受けて造る事も増えたのではないでしょうか。いずれにせよ、素材が普通の木材と言うのが無く、ほとんど象牙やべっ甲、貝といった宝石に類する素材で造られています。フラメンコのアバニコとはかなり遠いもののようです。結局、ロマ人(ヒターノorジプシー)発祥のフラメンコの中で何故使われるようになったのかは解りませんでした・・・。仮説として、ロマ人は生業の1つとして上流階級のパーティーに呼ばれ、その音楽を披露していたと言います。フラメンコが今の形におちつくのはかなり近年になるのですが、最初は宮廷で開かれたカンテ(Cante)歌の会からロマ人の歌や踊りがだんだんに注目されたのかもしれません。そして、後年どこかでアバニコ(扇子)を褒美にもらった・・・とか?あるいは誰か見物者のアバニコを借りて踊った・・・とか?・・・と、言う所かもしれませんね。因みにフラメンコのカラコレス、グアヒーラなどで使われるようです。まだ扇の写真も紹介したいのでPart 2 とロマ人についてをする予定です。今日は長電話のじゃまが入り大幅に遅れました。
2010年03月16日
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Break Time (一休み)新しい所に行く時は、写真の仕分けなどを行う為に結構見えない所で時間をかけているのです・・。今回は用事も重なったのでまだ仕分け途中なので休みたい所ですが、せっかくのぞきに来て下さる人もいるので、変わった物を紹介しておきます。日本では一般にはあまり? お目にかからないものを紹介です。吊されたもの・・・所変われば・・・最初はスペインの街から、ショーウィンドに飾られているオブジェから・・・。外の景色が写り込んで見にくいですが・・何だと思いますか?多分このサイズは牛だと思いますが・・・。ケーシング(Casing)と言われる動物由来の腸等内臓の袋で、ソーセージ等の原料肉を詰めたりする料理の素材に使われるものです。今は人工ケーシング(Artificial Casing)もあるようですが、天然ケーシング(Natural Casing)には下のようなものがあります。私たちはせいぜい羊腸や豚腸のソーセージくらいしか見ませんよね。(フランクフルトは豚腸らしいです。)羊腸ケーシング・・羊腸・羊盲腸豚腸ケーシング・・豚大腸・豚小腸・豚直腸・豚官腸・豚膀胱・豚胃牛腸ケーシング・・牛大腸・牛小腸・牛直腸・牛官腸・牛膀胱・牛食道馬腸ケーシング・・馬小腸さて、スペインと言えば生ハム(ハモン・セラーノ)です。とは言え私はイタリアの生ハム(プロシュット)パルマ産の方が柔らかくて好きですが・・・よく店内で見かける生ハム吊りです。生ハムは燻製するものと、塩漬けと乾燥で燻製しないもの(プロシュット、ハモン・セラーノ)に分かれるそうです。プロシュット(Prosciutto)がイタリア式の燻製しない生ハムのことを指し、ハモン・セラーノ(Jamon Serrano)はスペインの生ハムで、。「ハモン」は熟成したハムで、「セラーノ」は「山の」という意味だそうです。ショーウィンドに飾られている生ハムヘーと思って良く見れば・・・蹄付きなのね・・・リアルです いつも切り身しか見ないから・・・痛々しいかも・・・。見本に・・生ハムスライス。総じてスペインのは固い。さて、次が今回の超目玉の吊しものです。チュニジアのチュニスのバザールの肉屋の軒先です。市場を通り過ぎていて・・・ん? ・・・・え? 凄すぎる・・・・ 香辛料まで添えられて・・・・・このまま買う人って・・・素人じゃないですよね・・・。怖くて裏側は見られませんが、なぜ血がしたたっていないのか不思議です・・・。所変われば品変わる・・と言いますが・・・。歴史の長いこちらの国では昔から変わらずこうして売られているのでしょうか・・・。そう言えば、闘牛士の本を読んでいて・・・闘牛が庶民の間に広まったのは、もともと屠殺場で屠殺をする牛を相手に屠殺士が見せ物をしたのが広まったようです。(屠殺場の脇にはそう言う所があったようです。)ですから、初期は勇猛な牛ではなく、普通の食用の牛だったと言う事です。見せ物が本格化すると、そこそこプロが現れます。闘牛士の祖と言われるロメロ・ファミリーも、そうした所に呼ばれて闘牛を見せる事もあったようです。ペドロ・ロメロは「スペイン・ロンダ 5 (闘牛発祥の地とロメロ・ファミリー) 」で紹介ではおやすみなさい
2010年03月12日
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アニメの方の福音書、エヴァンゲリオンは、アニオタや特定の人にしかわからない話ではありますが・・・。Break Time (一休み)昔深夜デレビ枠で放映されていて、爆発的なヒットアニメとなった新世紀エヴァンゲリオンはその後映画にもなりましたが・・・。深夜のアニメ枠がメチャクチャ増えるきっかけになったアニメでなのです。最近はパチンコ界にも進出していて、パチオタの友人から「しゃべるフィギュア」をバースデーに頂いた事もある。深夜枠の時から見ていたので、そこそこファンを公言していた結果である。決して言い回っていたわけではないけど・・今回、ひょんな事から小田原の友人にエヴァンゲリオン・ファンが知れ、気を遣ってもらってしまったのである。先程宅配で届いた物は箱根土産、エヴァンゲリオンなのでした。第3東京シティー・箱根の街おこし箱根町はエヴァンゲリオンの中で第3新東京市として登場しているのです。そもそもは、芦ノ湖北岸付近に位置する架空の都市ではありますが、近年箱根の街おこしにそれが利用されているのです。 舞台は西暦2015年。2000年9月13日、南極大陸マーカム山に隕石が衝突して起きた地球規模の危機(セカンド・インパクト)で総人口の半数近くを失った人類は使徒と呼ばれる侵略者に脅かされている・・・と言う設定で始まり、その戦いの本部が第3東京シティーの地下にあるのです。とにかく事情通でないとわからない話や場所なのですが、箱根の観光協会のたぶん若手の誰かによって、それを街おこしの材料に取り上げて奮闘しているようです。箱根でしか手に入らない限定エヴァンゲリオン饅頭オリジナル・ステッカー入りだそうですがまだ開けてないです。これを手に入れる為に友人が奔走。極めて限られた場所にしか取り扱いがないのです。箱根湯本の改札前にある観光物産のコーナーで手に入れた饅頭は1050円。他にUCCコーヒーがタイアップして箱根限定のオリジナル缶も発売。これもまた饅頭と同じように街の観光物産の店にしか置いていないらしい。残念ながら「綾波レイ」が入っていなかった・・・ペンペンばかり・・・・写真中央の彼女「綾波レイ」はほぼ主役に近いキーパーソン。アニオタの好きなアニメには絶対美女か美少女が出ていて、主人公はたいてい冴えない男の子と決まっているのです。この作品はまさしくそれなのですが、他のアニメと違って内容は、案外奥の深い作品だと言う所にアニオタではない、違うファンもついているのです。昨年6月には箱根観光協会が「聖地巡礼マップ」を無料で配布して大反響をよんだそうです。そして今回「箱根17湯めぐり」とャンペーンをしていてパンフに綾波レイちゃんが登場しています。3月31日までにA、B、Cに分けられた温泉から各ブロックを1つ制覇して終了すると綾波レイちゃんがプリントされた「箱根湯めぐり修了証」をもらえるらしいですよ一見地味なパンフの中にうまい具合に使われています。箱根以外でも買えると思いますが、こんなお菓子もありました。「名言詞」ベスト・セレクト・クッキーは、フォーチュン・クッキーの中のおみくじが「名言詞」になっています。良く考えるな・・・と言う品ですが、クッキーは美味しかったです。饅頭になったエヴァンゲリオンて・・・実はチョット微妙かと思った・・・でも売ろうという努力は称賛です。箱根町偉いぞでも、もっと他のも出してね。以前箱根町ではポスターも発行したそうで、その増刷が出たら欲しいな・・・
2010年02月06日
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Break Time (一休み)パリからの写真が届きました昨年クリスマス前からパリのコメディー・フランセーズ前の公園に飾られているクリスマス・ツリーはリサイクルのオブジェでした。ツリー・オブジェは全部で4体写真左がコメデイー・フランセーズ。次がホテル・デュ・ルーブルで、その奥にかすかに見えるのがルーブル美術館です。良く見ればペットボトルをぶら下げているだけの物ですが・・・夜はとても綺麗だそうです。ボトルの質が日本のものと違うようです。パリの市役所がメインで協賛はコカコーラでした。余談ですが、前出のホテル・デュ・ルーブル(Hotel du Louvre)は、1855年創業の老舗ホテルです。社交界や政界、芸術界からのゲストを魅了するこのホテルの顧客には作家アーサー・コナン・ドイル( Arthur Conan Doyle )もいたようです。彼は、あの「シャーロック・ホームズ」の中で、度々このホテルを取り上げていた事から、今日、世界中のシャーロック・ホームズ協会の定期的会合がここで開かれるそうです。日本人のエピソードも聞かれます。1867(慶応3)年のパリ万国博覧会のおり、幕府・薩摩藩・佐賀藩が日本より出品した時、このホテルに滞在したようです。長旅故、フンドシの洗濯を頼んだら、フンドシが、シーツのように固くのり付けされて、アイロンがけされて戻ってきてビツクリだ と言うお話です
2010年01月21日
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Break Time (一休み)実はアイアンワークの発展の年代史を調べていたのですが、どこにも見つからない。池袋のジュンク堂でもさんざん探したのですが、ここも写真集はあれど、それに言及している書物が無かったのです。で、もしかしたら鍛冶屋の歴史に関係するかとも思ってみたのですが、ヤフーでは日本の鍛冶屋しか出てこないし・・・。そこで、仮説を立ててみた。もしかしたら中世の甲冑(かっちゅう)から何か見つかるかな? と・・。結果、板金鎧であるプレートアーマー(Plate Armor)の成り立ちとか、それを負かす武器とかには詳しくなったけれど答えはやはり見つからなかったのです。すでにアイアンワークの写真を登録しているので、今回、見切り発車で一部紹介する事にしました。引き続き調べてみますが・・。アイアン・ワーク (iron work)中世の看板ドイツ圏で見られる鉄で細工された看板・・・鉄看板(iron signboard)はアイアン・ワークと呼ばれるものです。ドイツ、オーストリア、スイスの歴史の古い街では、今も中世の看板が生きていて、慣習か? 現代の新規の参入店も鉄細工の看板を造らせて下げているのです。鍛鉄製の看板は家々の2階あたりから道に突出して掲げられています。昔は文字の読めない人達が多かったので、それは店の商品を示すサインボードとして絵や図形といったロゴ化した美しい絵柄で示されているのです。ザルツブルクの目抜き通り図柄のパターンは3通り1. 屋号をゴロで合わせたタイプ店名ローター・ベア(赤熊屋)なら赤く塗られた熊の柄の付いた看板。2. 商売を現したタイプパン屋なら・・プレッツェルの図柄。3.その他何か意味合いのあるものといったように2番のものは私たち日本人にも解るのである。屋号をゴロで合わせたタイプの看板マクドナルド・・・・街に合わせて新規参入(ザルツブルク)商売を現したタイプパン屋のプレッツェル(ローテンブルク)傘屋(ザルツブルク)スペインの洋服屋ZARA(日本にも店はある)・・・街に合わせて新規参入(ザルツブルク)はさみとリボンと紳士淑女が図柄に・・。魚屋・Nordsee 1930年創業(ザルツブルク)その他何か意味合いのあるものホテル ティルマン・リーメンシュナイダー1559年創業(ローテンブルク)ライオンがローテンブルクの紋章をひっくり返してつかんでいます。ホテルはたいてい動物がマークに使われているようです。さて、やはり気になる歴史ですが、騎士の着用する甲冑の方から鋳物を見ると、中世11世紀頃には鉄の調達が増えた事と、水力ハンマーや足ふみ研磨機などの工業化が進み、様々な異なるサイズの甲冑の量産ができるようになったとあります。今まで、非常に高価なオーダーメイドの甲冑は金持ちしか着用出来なかったのが、少し安くなったので、兵士身分でも着用できるようになってきたと言う事です。そして、それは、鉄の値段だけでなく、鋳物のローコスト化が進んでいったと言う事も言えて、鉄は特別な人達のものではなくなってきつつあった・・・事を意味するでしょう。で、実際に街にこうした看板が出回るのは16世紀以降ではないか? と推察できます。15世紀には街の親方職人も市議参政権の資格を得るなど商人ギルドだけでなく、手工業ギルドの力が増している事が一つに挙げられるでしょう。もう一つは、看板の老舗ホテルの年代が16世紀中頃に多い事です。結論は、もう少し調べて見ますが・・・。
2009年12月29日
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Break Time (一休み)昔から秋は「芸術の秋」と言うようですが、なぜ秋がそうなのか疑問でした。日本の秋は「しみじみ」とするからでしょうか?程良い季節で、人々の足が美術館に向きやすいからでしょうか?展示ホールの貸し出しにもからくりがありそうですね・・・そこで、今回は珍品アート? の紹介です。思わず「ゲゲッ!!!」とする作品? です。人によってはじんましんが出るかも・・・・注意です。訂正ベルギーのブリュッセル(王立古典美術館)で見つけた作品? です。地球儀を思わせる大きな球体で、ピカピカと光って綺麗だったので、近づくと・・・・。「キャー!!!!」 の一品でした。(ほぼ実寸?)これは酷い・・・・。何匹昆虫を殺ろしたのだろうか? と、アートはすっ飛び怒りが・・・コガネ虫? 絶滅してしまうのでは? と思ってしまった・・・。作品を造った本人はアートだと思っているのでしょうが、ここまで来るとアートとして認める一線を越えてしまったと思います。これが偽物の昆虫を貼り付けたなら「なるほど・・。」の理解も出来たけど、「こんな作品? とかの為に昆虫が無駄死にさせられたのか・・・。」と思うと「造ったヤツ悪魔だな!」と思えてしまいました。アートとは、「見た人達が、豊かな気持ちになるものでなければ、独りよがりの駄作なのだ!」とつくづく思った作品でした。
2009年10月19日
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2018年05月31日「新 世界で最も醜い植物 第4位 (ウェルウィッチア)」を公開しました。内容はかなりくわしいものになっての改訂です。下をクリックすると直接飛びますスマホも同じです。リンク 新 世界で最も醜い植物 第4位 (ウェルウィッチア)昨日に引き続きウェルウィッチアPart 2です。生態と長老を紹介します。世界で最も醜い植物 第4位 2 (ジャイアント・ウェルウィッチア)ウェルウィッチア(Welwitschia Mirabilis)1科1属1種の裸子植物である超珍稀植物。日本名が奇想天外。アンゴラ、ナミブ砂漠に群生する多肉植物とは書かれていますが、実は本当に多肉植物の定義に入るか? と言うと実はあやふやなのだそうです。多肉植物関係の人が係わったので多肉植物園芸の分野に落着く事になった? (実は行き場がない植物分類? )らしい。前回紹介した松かさのようなものからはがれたタネ。タネがひらひら飛んで、着床して芽が出たウェルウィッチアです。雄株のような気がします。まだ、葉は這いつくばっていませんが2枚葉が良くわかります。砂漠以外に着床したブッシュのウェルウィッチアは、地面を這わずに普通に天に伸びるので、環境適応は遺伝性ではないのかも・・。ブッシュの中で普通に生えているウェルウィッチアは、一見本当に万年青(おもと)です。ウェルウィッチアに非ずと言いたい別物ですね。(写真の容量の都合で載せません。)水分補給それにしても、砂漠で運良く着床できたウェルウィッチアも根が水源にたどり着く前に枯れてしまうので、なかなか生きていけないようです。前回も紹介しましたが、葉の気孔から大気中の湿気を吸収するか、長さ3m~10mにも達する根によって地下水を吸い上げていると言われています。ナミブ砂漠は年間の雨量が20ミリ程度で、大変暑く、砂漠の表面と空気は40~70℃に達する事もあり地表の水分も蒸発が激しく、植物にはとても過酷なのだそうです。が、海岸近くには年間100日ほどの霧の発生があり、年間50ミリ降雨量に匹敵する水分を得られるのだそうです。また、ウェルウィッチアの自生はナミブ砂漠の北に集中しているそうで、おそらく霧の発生にも関係しているのでしょう。絶滅しそうでガンバッテいるウェルウィッチア、自然の中に生きる物は強くたくましいです。下は砂漠の写真ですが、良く見るとウェルウィッチアが点在しています。ちょっと見づらいかもしれませんが、ウェルウィッチアは砂漠に一定の幅で一直線に生えています。Why?ウェルウィッチアは砂漠の下に走る水脈の上にきっちり着床して水を得ているのです。ウェルウィッチアの生ている所に「水脈あり」なのです。人間はウェルウィッチアを見る為に砂漠を走ります。おのずと道も水源に沿って走っていたわけです。実に面白い・・。ジャイアント・ウェルウィッチア(Giant Welwitschia)寿命は数百年から2000年と言われ、希少植物であることから、ナミビアでは厳重に管理されています。写真Bも実は石で囲われています。下、柵で囲われて保護されているのは樹齢1500年以上の雄の木だそうです。このあたりの最高齢の長老です。グランド・マザー・プラント? グランド・ファーザー・プラントですね。柵の横にやぐらがあり、上から見学するようです。アバウトですが、直径2.5mくらいで高さは1.2mくらい? の大きさがあるそうです。思った以上に大きいのです。でも、葉っぱは2枚なのだそうです。信じられないけど・・・。未知の国には神秘がいっぱい・・。
2009年08月23日
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2018年05月31日「新 世界で最も醜い植物 第4位 (ウェルウィッチア)」を公開しました。内容はかなりくわしいものになっての改訂です。下をクリックすると直接飛びますスマホも同じです。リンク 新 世界で最も醜い植物 第4位 (ウェルウィッチア)1859年オーストリアの探検家フリードリッヒ・ヴェルヴィッチュによってアンゴラの砂漠で発見された多肉植物は「世界で最も醜い植物 第4位」に選ばれた植物なのだそうです。(1~3位は何?)一生知る事も、ましてお目にかかる事も無い希少な植物を2回に分けて紹介します。世界で最も醜い植物 第4位 1.ウェルウィッチア(Welwitschia Mirabilis)和名 サバクオモト(砂漠万年青) 奇想天外の園芸上の名を持つ。一属一種の裸子植物で、アンゴラ、ナミブ砂漠に群生する多肉植物。界・・・・・・・・・・・植物界 門・・・・・・・・・・裸子植物 綱・・・・・・・・・グネツム網 目・・・・・・・・グネツム目 科・・・・・・・ウェルウィッチア科 属・・・・・・ウェルウィッチア属 種・・・・・ウェルウィッチアナミブ砂漠とウェルウィッチア一見ゴミが落ちているように見える・・・。何だ? これは????砂漠の暑さの中地面にへばりついて生えている。葉先から枯れて分解しているようです。葉は裂けやすく、一見何枚もあるように見える(裂けてる)が、短い茎から、生涯2枚だけの葉を伸ばし続けるそうです。(この2枚の葉は、最大4mくらいになるらしい・・。)葉の基部に分裂組織があり(基部で成長)、どんどん伸び続けるようですが、永続的に成長する葉は陸上植物界の中でもまれなのだそうです。そもそも、褐藻類のコンブ類の成長のように葉の基部で成長を続けるタイプは、陸上植物界では他に例がないのだそうです。茎の先端から細かい枝を出し、花序をつける。雌雄異株。ゴキブリでも張り付いているのかと思った・・。雌花は他の裸子植物の雌花の多くにも見られる松かさ状。だからこの株は雌のようです。葉の気孔から大気中の湿気を吸収し、長さ3m~10mにも達する根によって地下水を吸い上げているそうです。こんなに大きくなります。どうも大きいのは雄株らしいです。寿命は数百年から2000年。次回巨大なウェルウィッチアを紹介。
2009年08月22日
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