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2015年08月「世界の看板 1 (ミュンヘン・München)」のタイトルで載せた事がありました。それは変わった看板紹介の第一弾だったのですが、以来すっかりご無沙汰してました前回紹介した「大阪ミナミ」の紹介で載せる予定で落ちてしまった分ですが、せっかくなのでカテゴリーを「世界の看板」でくくる事にしました こんな巨大看板が並ぶ街なんて、世界広しと言えど、他に無い光景だと思います。世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)道頓堀通りの巨大看板フグ、カニ、タコ、ギョウザ、おじさんetc中座 と くいだおれ太郎 「くいだおれ」の由来 芝居小屋「中の芝居」(現 中座)市川家の十八番(おはこ)歌舞伎の不動(ふどう)について道頓堀通りの名物「めだってなんぼの巨大看板」が軒を連ねる不思議な世界巨大トラフグ提灯が下がる「つぼらや」はフグ料理専門店1920年(大正9年)創業の老舗。フグはトラフグ。最近は軽量化。元祖のトラフグ提灯は100kg近くあったらしい。戎橋(えびすばし)と道頓堀(どうとんぼり)通りの角にある「かに道楽」本店道頓堀には本店、中店、東店と3軒あるようだ。巨大で、しかも可動式のカニは白地に赤い、日の丸をイメージしたものだそうだ。(現)道頓堀本店がこの道頓堀通りに開店した1962年からあると言う。巨大看板としてはグリコの看板に負けるけれど、立体式の巨大看板としては元祖かも。ところでこのカニの種類は?どうもズワイガニらしい。 種類については明記されていないが「かに道楽」の社史に「1965年かにの安定供給のため、北海道漁場を開拓し、ズワイがにの仕入れに取り組む。 」とあるので、間違いない。巨大海鮮系、近年お目見えした巨大たこ看板。「たこ家道頓堀くくる」は白ハト食品(守口市)経営。会社の創業は1947年(昭和22年)。1970年代からたこ焼きが始まり、1992年(平成4年)に「蛸づくしくくる」から「たこ家道頓堀くくる」に名称変更。たこ焼きの「くくる」の看板であると同時に、ここではコナモンフードテーマパーク「道頓堀コナモンミュージアム」の名物看板でもある。この巨大看板は、中国上海にまで渡って親善大使をしていると言うから驚く。上海万国博覧会の日本産業館の壁面に展示される為にリメークされ、4本脚が可動、目にLEDが入れられ発光。墨に見立てたミストを口から出すなどの仕掛けが施され、船で中国まで渡ったらしい。大阪王将の巨大ギョウザ。これは看板と言うより、巨大食品サンプルですね。道頓堀に出店するのに巨大看板ははずせないアイテムなのでしょうか? 元祖串カツだるまの社長さん曰く「道頓堀は日本のエンターテインメント」らしいですよ。入り口の看板も見逃せない。なんか可愛い最近はこんな怒ったおじさんもいる。こちらは名物店主そのものを看板にした珍しいもの。6mあり、1000万円したらしい。怒ったおじさんが看板になっているのは「元祖串かつだるま」創業は1929年(昭和4年)と割と古い。お店の発祥は「新世界」(通天閣の近く)だそうで、串カツ発祥? とも言われる串カツ激戦地からの出店。モデルは串かつだるまの4代目会長兼社長上山勝也氏。どうも「ソースを二度づけしてはダメだ」と怒っている姿らしい。大阪では串カツ屋のソースはボトルでなく、ステンレスの容器に入れられて提供される事が多い。でもそれは、一人一ケースではなく、みんなで共有。だから食べかけをソースに入れる事が禁止なのである。(衛生上の問題)人の食べかけをつけられたら嫌だからね。たぶんこのシステムは物資が無かった時代のなごり。ボトルのような容器ができた昨今でも、続けられているのは、もはや伝統と化したから? なのか、この方が美味しいから? それともコストパフォーマンス? いずれもそうかも・・。特に串カツのソースはウスターソースと決まっているので、水のように流れるソースはボトルでかけても美味しくないのかも。何はともあれ、この看板は大阪での串カツの食べ方ルール「ソースの二度づけ禁止」をしっかりアピールする物らしい。つまり深読みすれば、メッセージ型の広告看板と言えるのでしょう。因みに、3代目で閉店の危機を赤井英和が救ったらしい。4代目となったのは高校のボクシング部の後輩(現会長兼社長)。この立体看板(フイギュア)のおじさんですね。そもそもおじさんフィギュアのルーツは「難波本店」のオープン時に赤井英和 氏からプレゼントされたものだったらしい。同じおじさんでもこちらは優しいほのぼの系 明治製菓の「カールおじさん」「カール」の発売40周年記念で設置されたものらしい。カールおじさんの横にあるモニター画面には、リアルタイムで向かいを通行する人達が映し出されている。〇時00分。毎時ジャストアワーに帽子が上がってカエルのケロ太くんが登場するそうだ。今度は古くから道頓堀に居着いている年齢不詳のおじさん。くいだおれ太郎 フィギュア看板。中座と くいだおれ太郎チンドン屋らしき姿で太鼓をたたくちょっとやかましい「くいだおれ太郎」の誕生は1949(昭和24)年。道頓堀の飲食店「大阪名物くいだおれ」の看板人形として登場したらしい。どんな店だったかの資料が無いが、コンセプトは家族で来れる飲食店だったらしい。実際、子供の気をひくのが目的の太郎人形だったようだ。しかし、店は2008年(平成20)年に閉店。惜しまれながらの太郎引退であったが、現在の「中座くいだおれビル」のオープン(2009年7月)に合わせ、再び道頓堀に復活している。(元の店ではない。)姿はいわゆるチンドン屋である。若者は聞いた事も見た事も無いだろうが、まれに今でも商店街のイベントなどの時に見かけたりする。(天神橋筋商店街で今年見た気がします。)チンドン屋とは、チンドン太鼓と呼ばれる楽器を鳴らし派手な出(い)で立ちで街を練り歩き人目をひいてお知らせや宣伝をすると言うパフォーマンス広告である。その存在は、明治初期にはすでにあったらしい。因みにくいだおれ太郎の個性的な頭部は、どうも文楽(ぶんらく)人形を意識したものらしい。なぜなら、太郎誕生前に宣伝に使われていたのは文楽人形その物だったらしいから。「くいだおれ」の由来江戸時代から「京は着て果て、大坂は喰て果て、堺は家で果てる」と、言いまわしがあったそうだが、古事ことわざとして「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」がある。要するに京の人は着る物に財産を使い、大阪の人は食べ物に財産を使い道楽すると言う気質を現した言葉。「くいだおれ太郎」の生みの親は大阪人の気質をそのまま太郎人形に与えたのだろう。尚、「三倒れ」と言ってそれらに、「江戸の飲み倒れ」が加わる場合も・・。※ 「江戸の飲み倒れ」は酒代で身上(しんしょう)潰す事ですね。正面からだと見えないが、後ろにはチンドン太鼓らしきものが・・。因みにこの衣装は昭和天皇崩御の時に白黒になり、平成天皇即位の時にバンザイ人形(弟分 くいだおれ次郎)になったらしい。さて、下は道頓堀通りの現在の地図ですが。ピンクで囲ったのが現「くいだおれビル」。現在「中座くいだおれ」のビルのある場所が、江戸時代に芝居小屋「中の芝居」があった場所。※前回「大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)」の中、「道頓堀周辺図(幕末頃)」 に昔の位置がありましたね。芝居小屋「中の芝居」(現 中座)1661年(寛文元年)「中の芝居」落成。名代は塩屋久郎右衛門。それは角の芝居 (現角座) とともに大坂の代表的な歌舞伎小屋であったそうだ。当時5棟あり現在残るのは松竹となった中の芝居(中座)のみ1920年から松竹の経営。1945年には「戦災で焼失。再建後は松竹新喜劇の本拠地となったそうだ。市川家の十八番(おはこ)歌舞伎の不動(ふどう)についてふと思った事が・・。1697年(元禄10年 )、初代團十郎が創出し 、1742年(寛保2年正月)、大坂 佐渡嶋座において二代目市川海老蔵(二代目市川團十郎)が完成させた歌舞伎の「不動」がある。大詰めに役者が不動明王に扮してにらみを効かすと言うもの。二代目市川團十郎が演じた「不動」の舞台 二代目が舞台で演じるお不動さまは、「不動の見得」という表現が有名となり、あまりの人気に「不動の見得」でにらまれると、あらゆる病が治るとまで噂されたと言う。それが故、江戸中に不動尊信仰を広めて行ったらしい。 前回紹介した法善寺の水掛不動であるが、その水掛の不動明王ブームは、もしかしたら市川家の歌舞伎「不動」に由来するのではないか? 芝居小屋「中の芝居」(現 中座)のすぐ南側に法善寺があるのだ。ところで市川家の菩提寺は成田山新勝寺である。もちろんその御本尊は不動明王である。さて、ラストにグリコの看板を載せておきます。下は戎橋(えびすばし)からの撮影。もちろん道頓堀のグリコ看板(道頓堀グリコサイン)です。江崎グリコが設置。2014年10月LEDを採用された6代目グリコ看板に。約14万個のLEDを使用し、映像が流れるのが特徴。因みに初代は(1922年~1927年)。戦前である。顔が怖いと言う事から2代目(1928年~1944年)に変わる。下は道頓堀通りにある撮影スポットです。実際のオリンピック選手のゴールの姿が参考になっているらしい。ランナーのゴルインマークは元気の象徴らしいですが、どう見てもおじさん。今更だけれど、もう少し若くできなかったのかな?もっとも子供の頃はおまけしか見ていない。箱なんか見てなかった気がする。道頓堀の看板とりあえず終わります。まだ他にも巨大なのあるんですけどね。
2017年11月07日
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天神祭りの事を調べていたら面白い事がわかりました。(私だけかもしれないが・・)僧から還俗して豊臣秀吉の祐筆(ゆうひつ)として仕え、秀吉の活躍を記録する軍記物「天正記」を書かされていた大村由己(おおむら ゆうこ)の最後が、大阪天満宮会所の社僧だった・・。同じく織田信長公の伝記的記録「信長公記」を書いた太田牛一も天満に住んでいたのを思いだし ( ̄。 ̄)ホーーォ と思ったのだ。さて、今回はミュンヘン(München)オデオン広場界隈で見つけた変わった看板の紹介です。これから時々挟む予定です ついでに近辺の情報も入れました。世界の看板 1 (ミュンヘン・München)フロイデンハウス(Freudenhaus)の看板オデオン広場(Odeonsplatz)とフェルトヘルンハレ(Feldherrnhalle)ルートヴィヒ1世(Ludwig I)とヴァルハラ神殿(Walhalla)オデオン広場(Odeonsplatz)近くルードヴィヒ1世の騎馬像の前当たりで見つけた鋼鉄のワンコ。後々写真を拡大してみたら首輪の前のプレートにお店の名前が・・。こんなに控えめな看板初めてかも・・。何しろそこが店の入り口だとも気付かないでスルーしてましたから・・。なんとなく可愛いから撮影していたけど・・お水のボールと首にはお店の名前が・・。ミュンヘンを本拠にするアイウェアブランド(メガネ屋)フロイデンハウス(Freudenhaus)のロゴが入っていました。確かにワンコのメガネは奇抜です。ちょっと「紅の豚」っぽいけどね。フロイデンハウス(Freudenhaus)ステファン・フラッシャー(Stefan Flatscher)とウヴェ・ピンハマー(Uwe Pinhammer)の2人により1991年に創設。日本にも進出していますが、保守的なドイツのメガネを脱した新進気鋭のメガネブランドだそうです。欧州では地区により景観を守る為に店とわからないような対策がされているのは知っていましたが・・。ドイツでもそれは地区によって異なるようです。ワンコの見つめる先はルードヴィヒ1世(Ludwig I)の騎馬像。(ホーフガルテンの向かい側である。)かつては貴族の邸宅だったこのあたり、今は官庁街のようです。ルードヴィヒ1世(Ludwig I)(1786年~1868年) 第2代バイエルン国王(在位:1825年~1848年)フランス王ルイ16世が命名者でルイ(Louis)をドイツ語読みするとルードヴィヒ(Ludwig)。ここはオデオン広場(Odeonsplatz)からルードビッヒ通りの始まる一角。この界隈はルードビッヒ1世が即位と同時に都市改革を行った通りで都市の改造かららミュンヘンを欧州の中でもいち早く近代化に導いた象徴の場所だそうです。ルードヴィヒ1世は、芸術を奨励し大学を創設。工業化も進め、ドイツ初の鉄道もひいた彼は革新派でありながら古典を愛した人。ルートヴィヒ通りは、彼が好んだが古典ギリシャをモチーフにした新古典様式の建築が立ち並ぶ通りです。確かに時代は古典、古代への懐古的ブームがあり、特にギリシャ礼賛。新古典主義はそれらを模範にしてかつ洗練された建築をうんでいる。ホーフガルテン (Hofgarten)の門オデオン広場(Odeonsplatz)とフェルトヘルンハレ(Feldherrnhalle)オデオン広場(Odeonsplatz)側 ルードビッヒ通りから写真左の建物がフェルトヘルンハレ(将軍堂)その右隣の教会がテアティーナー教会です。修復中だったテアティーナー教会(Theatinerkirche)写真は2014年7月のものです。7月と言うのに天気も雨続きで寒くてみなさんコートを着てました。オデオン広場(Odeonsplatz)からフェルトヘルンハレ(将軍堂)正面フェルトヘルンハレの左に続く建物が王宮(レジデンツ)であり、宝物館もその内部にある。ロッジア(Loggia)と呼ばれるアーケード形式で建てられた新古典様式のフェルトヘルンハレ(Feldherrnhalle)は将軍の像が置かれている事から日本では将軍堂と訳されているようだ。ルートヴィヒ1世の命で建築家フリードリッヒ・フォン・ゲルトナー(Friedrich von Gärtner)が設計。1841年~1844年に建設。都市改造の中で勝利の門と繋がるルートヴィヒ通りの末端のポイントとして建てられたようです。中の像を鋳造した青銅は大砲を溶かしたものだとか・・。1923年、ヒトラーのLudendorffの反乱で行進中この前で警官隊と衝突。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)にとってここは最初の戦いの場所だったようだ。ヒトラーが権力を掌握するとフェルトヘルンハレはナチ党の宣伝の中でシンボルとなる場所となる。そんな体勢下の一時期フェルトヘルンハレ前を通過するときにはナチス式敬礼が義務づけられたと言う。フェルトヘルンハレの裏側にくっついて建っているプレイジング宮殿(Palais Preysing)ルートヴィヒ1世(Ludwig I)とヴァルハラ神殿(Walhalla)「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所」の所で第4代バイエルン国王ルードビッヒ2世はロマン主義に傾倒・・と紹介しましたが、ヴィッテルスバッハ家の人々はみんな趣味人です。第3代国王マクシミリアン2世(ルートヴィヒ2世の父)は中世の騎士道に傾倒。その半端ないのめり込みによりホーエンシュヴァンガウ城を建設。(ルードビッヒ2世はこの城で少年期を過ごしている。)第2代国王ルードビッヒ1世(ルートヴィヒ2世の祖父)は先に述べた様に古典ギリシャに傾倒。新古典様式の街造りのみならず、極めつけはヴァルハラ神殿(Walhalla)の建設です。これには驚きました。白鳥城より凄いかも・・皇太子時代に構想し、建築家レオ・フォン・クレンツェが新古典様式でヴァルハラ神殿を建設。(1830年~1842年)。ギリシャのパンテオンに近い感じです。どれだけギリシャ好きだったか良く解ります ヴァルハラと言えばワーグナーのオペラ「ニーベルングの指輪」最終章のラグナロワ(神々の黄昏)の中のヴァルハラ炎上が思い浮かびますが、内容はワーグナーの創作です。そしてその初演は1876年。ルードビッヒ1世のヴァルハラ神殿の方が先に建築されています。ヴァルハラ(Walhalla)は古ノルド語圏で伝承された戦死者がたどり着く神話の中の地です。北欧神話ではオーディンの宮殿とされ勇敢な戦士の魂がたどり着く聖なる地。ルードビッヒ1世はヴァルハラ神殿(Walhalla)にドイツの偉人達の銘板と胸像を納めてドイツ人の誇りとしたようです。ルートヴィヒ2世のように独り占めしなかった所が苦情の来なかったところでしょうね。それにしてもロマンティストなのは血統のようですね。おわり
2015年08月16日
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