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11月26日当たり前のようだけど、仏教は1つの鍛錬なのだと改めて思い至る。だから"修行"なのだ。考え方の修行なのだ。それによって苦しみを乗り越えていくための。そしてものの見方、とらえ方の修行でもある。不断の鍛錬。何かにすがって救われるなどという簡単な構造のものではない。自己のものの見方、とらえ方を常に見直し、徹底的に"空(くう)"となることで、自己を救う。やっと少しだけ、仏教の根本的な"信心""自己救済"といったものが知識としてではなく、感覚としてわかったきたような気がする。11月27日仏教のこと。これまでぴんと来なかった事柄が、何か急に実感としてわかるような気がしてきて不思議な感じ。ゴータマ・シッダールタが、生死や時間など哲学的命題に答えなかった、ということも、今、急にわかってくる。腑に落ちてくる。それから中道についても。それらは知識として知ってはいても、どういうことかわかっていなかった。また仏教の本を読み返したくなっている。何故だろう?Kの死は大きく関係ある。そしてその苦しみが。また、メルロ=ポンティや現象学の本を読んでいることも関係ないようで実は関係あるように思う。なぜか現象学の本などを読んでいると脳の後ろのほうでは、仏教のことが浮かんでいて、何かを考え続けているような感覚があったどの部分が自分の中でリンクしたのかはわからないけれど
2009.11.27
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寝る前に禅語の書の本をぱらぱら眺める。示唆を受ける禅語がいくつかあった。莫妄想(まくもうそう)、非思量(ひしりょう)など。悩み事の90%は妄想だ、といつも自分でも思っているのに、今また妄想にとらわれていた。今、今しかない。今に想いをこらし大事にし、純粋にそこのみに生きればいいのだろう。そう思ったときに、先日書家のYさんが書いてくれた、「今ここでがんばり、今ここで楽しみ・・」というメッセージがにわかに思い出された。つながっている。今、ここ、が大事だ。それを忘れがちになるとき、私は虚無に陥るのかもしれない。先を考え過ぎたり、過去を考えたり、それらにとらわれるとき、今、ここ、の価値が薄くなり、見えなくなってしまう。生きているということは、今、ここ、しかないのに。今、ここで流動するもの、流動する時間、変わりゆくもの。全てが変わりゆくのだから、いちいち怒っていられない、哀しんでいられない、しがみついていられない。
2009.11.26
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Gと禅の話などをした。Gが禅の本を買っているのを見て、私も来年はより体系的な本を読もう、と思った。何故一番身近な人に言葉で傷つけられなければならないのだろう?来る日も来る日も。何故それを日々身体に脳に浴びなければならないのだろう?しかし受容する以外、方法がない。そういう病気なのだから。それでも理不尽さに怒りと哀しみがわく。体中からわく。旅に出たい。心の旅。実際の旅に出るわけではない。心がどこへ行けばなにかつかめるのだろうか。思いをどこに向ければ、癒され、気力がわき、息を吹き返すのだろうか。息を吹き返す。そうだ、窒息しているようなのだ。今頃気づく。しかし、考えないほうがいいのかも。身体に聞いたほうがいいのかも。たゆたいたい。Gの言う浮遊ってそういうことなのだろうか?自由になりたい。心の弾力がすっかり失われている。迷っているときは身体にきけ。
2009.11.24
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「体を変えると心もかわる」そういう書のメッセージの色紙をGがプレゼントしてくれた。体を変えると心も変わる。本当にそうだ。毎日目に入るベッド脇に立てかけた。2010年の指針にしよう。やっぱりバレエをやりたいな。軽いストレッチのあと、カウンターをバーの代わりにして、背筋を鍛えるために苦手だけどアラベスクのポーズを取り、キープしたり、シュス、アンオーで立ってみたりする。むしょうにバレエをやりたくなった。今、心の指針さがしで哲学や仏教のことを考え、さぐっているが、バレエは一種、身体の信仰だ、とさえ思えた。身体の指針なのだ。
2009.11.22
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今、高尾山へ向かう電車の中。予報とは異なり、まばゆいほどの晴天!紅葉がさぞきれいだろう。世界は、光にみち、色彩にみち、穏やかな空気にみち、美しい。
2009.11.21
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人から投げかけられるマイナスの言葉。何を学ぶべきか。人の言葉は確かにその人の意図を超えて様々に受け取られる。逆に受け取り方によって、影響の内容や力が変わってくる。嫌なことを言われても、相手の真意を汲み取り、理解しようとすること。逆にあえて真意は汲み取らず、自分の糧とすべくいいように受け取ること、曲解すること。そうでなければやりきれないときもある。うまくバランスよく使い分けられるといいのだけれど。
2009.11.17
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先日書いた「触発する思想 メルロ=ポンティ」なかなか興味深い。西洋哲学の流れからメルロ=ポンティの時代まで、なるほど、と思えることがあったり、木田元先生の「反哲学史」と比べてみたり。日本との思想や感覚との違いを考えてみたり。また、フランス実存哲学のこの周辺の事情がひどく懐かしかったり。神の不在を確かめたかった、10代の頃の自分。今改めてこの本を読みながら、その頃の心境を思い出す。そして今年3月、新潟へ行ったことなども。変わりゆくことを受容する日本。不変なものを見定めようとする西洋。この本に触発されて木田元先生の「現象学」を読み返したくなったり、回りまわって本居宣長を読んでみたくなったり。"触発する思想"だけあって、いろいろ触発されている。
2009.11.11
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虚しい、と言っているのは、自分のことしか見えていない証拠だ。何が信じられるか、ではなく、何を信じるか。美しい時間。美しい空間。美しい世界。美しい人生。
2009.11.10
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1ヶ月ぶりにジムに行き、HIPHOPのクラスに出た。最近の心の不調、エイジング・コンプレックスや体力・回復力の低下、そういったものを払拭するには、動き続けなければだめだと痛感して。HIPHOPは楽しかった。アップ&ダウンのリズム、懐かしいステップ、胸のコントラクション、身体を動かして空間を踊るのが楽しい。気持ちいい。軽くマシンで筋トレをし、その後3km走った。久々だったのに、ダンスレッスン後に3km走れたのは嬉しかった。我ながらがんばった。でもさすがにかなりへとへとになった。もう少し慣れてきたら5km走ることにしよう。くたーっとした身体でストレッチをした。最近回復力の低下がひどく気になっていたので、スタッフにすすめられたクエン酸のサプリを予約した。ジムのお風呂に入り、脚をマッサージしたり、ジャグジーでほぐしたりした。これからはメンテナンスにも気をつけよう。平日の夜、バレエのクラスに出られるという条件でジムを選んだのに、10月からそのクラスがなくなってしまい、ひどくがっかりしてジムから足が遠のいていた。しかし、身体を動かさないとついつい頭でっかちになりがちな私。このところ心身ともに停滞し、調子を崩していたのを何とか立て直したかった。迷うとき、悩むときは身体の声に耳を傾けよう、と改めて思えた。頭では答えが出ないことでも、身体が答えを知っているときがある。また自分の身体と向き合って、身体づくりをしていこう。
2009.11.07
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先日デカルトの「方法序説」を読み終わったので、加賀野井先生の「触発する思想 メルロ=ポンティ」を読み始めた。ブログで交流させて頂いているサイトウさんおすすめの本で、こんなそそられるブログ記事に読まずにはいられなくなって、すぐ注文した。今年の目標に「月に1冊、哲学や関連の本を読もう」と掲げ、5月6月にちょっとブランクはあったけど、ニーチェ、ドゥールーズ、ヴィトゲンシュタインの回想録、ショウペンハウエル、エーリッヒ・フロム、プラトン、デカルト、と少しずつ哲学やその周辺の本(入りやすいもの限定だけれど・・)を読んできた。11月は先に挙げたメルロ=ポンティに関する本、12月は世阿弥の「風姿花伝」を読むつもり。ちょうど今フィジカルについて考えていたところだったので、11月、メルロ=ポンティはぴったりかもしれない。
2009.11.05
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11月2日今朝だるく、腰が痛く頭痛もするし、頭痛薬を飲んで仕事に出かけた。あまりよくない状態だ。何だろう?急に。デザインフェスタが終わったからかもしれない。夏のときのまま、封印されていた虚無感が再生したのだろうか。気が抜けて。Hちゃんと話していて、少し気がまぎれる。いろいろアドバイスをもらい、現実的なことに目を向けていると、虚しさも薄らぐ。疲れも取れてきたのかもしれない。今日の帰りは雨が冷たく風が強く、歩いているのが辛かった。どうしてこんなに辛いのだろう、と思いながら歩いていた。いつまでも雨はやまず、冷たい風が吹きつけ、冬のように寒くて。いつまでも家に辿り着けないような心細さ。11月5日迷子になっている、とGに告白した。「迷子になっている・・」とGがつぶやいたとき、本当にそんな感じだと改めて思った。それでよけい心身がすぐれないのかもしれない。11月6日指針を見失っている。虚無感と恐怖感。10代、20代の頃感じていたものが甦っている。大人になった分、いろいろ経験した分、ある程度対処できるようになっているから保てる部分と、知っているからこそ、よりリアルに怖ろしい部分と、ある。人生で絶対一度はやってみたいことを考えてみる。何だろう?
2009.11.02
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虚しさにとらわれている。ともすると全てが投げやりになってしまう。全てが何にもならない、と感じてしまう。私の絵がなんになろう、私の文がなんになろう。ダンスしてなんになろう。このまま朽ちていく妄想にとらわれる。砂が崩れるように、何かの想いも努力も考えたことも創ったものもなし崩しになっていき、何も残らない、慰めにはならない、手応えにならない、生きる理由にも励ましにもならない。Kの死が私の深部にひびいている。昔の人だとこうしたときに出家して尼僧になったりするのだろうか。死んだように生きるのだろうか。死を見つめながら。身を空(くう)にして。しかし自分を憐れんでいるくらいなら、まだましなのだ。自己憐憫に浸って日々をやり過ごすことは難しいことではない。そう客観的に自分をとらえるようにしてみる。生きる、力。生き生きとした流れるものを取り戻さなければいけない。今、表立っては別に当たり前のように仕事に行き、デザインフェスタに出展し、人と交流し、母と出かけたりし、来年はどうしよう、次のデザインフェスタはこうしよう、などいろいろ考えることはできる。ところが一枚皮をめくると、虚しさの渦が巻き、全てがまた薄氷の上の出来事だということがわかる。まるで10代の頃の自分に戻ってしまったようだ。輝かしい午後は過ぎ去り、夕刻になった。風はあいかわらず強く、さっきまでの熱気は肌寒いものに変わる。暮れる。暮れていく。一日はこうして闇に没していく。私のある一日が没し、確実に過ぎ去る。
2009.11.01
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