全3件 (3件中 1-3件目)
1

旧料理旅館九重旧となっているが現在も食事処として営業しています。大正十三年(1924)二軒の町家を料理旅館として創業(最後の写真の東西の通りに面した町家)昭和十八年(1943)土地を購入して一部三階建て四十八畳敷の大広間を持つ建物を本館とした。(この写真が本館)平成三十年(2018)五月十日国登録有形文化財に登録された。一部三階建ての、その三階建て部分庭から見た玄関広間から裏庭越しの別館広間の掛け軸裏側の平屋の別館数寄屋風の造りになっている。別館も同時に国登録有形文化財に登録された。別館は別々の玄関をもち「竹」、「翁」と名付けられた2室の座敷からなり、丸窓や竹を用いた天井などをもつ数寄屋風の造りとなっています。現在は使用されていないようです。これが最新に購入し料理旅館にした元町家。東西通りは町家の外観を残しつつ南北通りは前庭をもつ屋敷風として趣を異にしています。
2021年08月13日
コメント(0)

波多岐神社 伊賀市三之宮神社 『式内社調査報告』には 昔、境内に、真っ直ぐな樫の木があり、 これを朝廷に献上して、旗木(ハタキ:旗竿)にしたという話が載っています。 波多岐神社の名前の由来です。 秋の例祭では特殊神事として神事相撲が行われるそうで、 拝殿前の4本柱が土俵です。 拝殿内部には相撲の絵馬が掛けられていました。 神事相撲では村一番の大男が小さい男に負ければ、 豊作の祈願が適うとされたそうです。 式内社とは『延喜神名式』927年(延長5)(『延喜式神名帳』ともいう)に登載された当時の官社3132座(一社で複数の祭神が登載された神社もあり、社数では2861社)のことで、したがって1000年以上の歴史的生命のある宗教施設となる。 境内社は、宇都可神社、府中神社、英霊殿があります。 伊賀三之宮 伊賀一之宮、二之宮、三之宮は全て東西南北3,km位の府中地区内にあります。 次の国庁跡も同地区です。 伊賀国庁跡 三重県伊賀市坂之下(さかのした)字国町(こくっちょ) 史跡名勝天然記念物 平成元年の県営圃場整備事業の際に掘立柱建物の遺構が発見され、國厨(くにのくりや)と記された墨書土器が出土したことから、伊賀国庁跡と断定されました。 国府の所在地については、柘植川対岸の沖積地が推定されていたましたが、三重県埋蔵文化財センターと上野市教育委員会による発掘調査で判明しました。 それまでは、数百m南西の「さしがね」という地名の場所と推定されていました。 しかし国庁は大化の改新の詔(みことのり)645年で建立されたとされていますがこの国庁建立は発掘調査では百年位後になりますので最初は言い伝えの「さしがね」だったのかもしれません。 伊賀国庁に建てられた建物は、当初は掘立柱建物でしたが、10世紀になって礎石立(そせきだて)に変化しています。 伊賀国庁の存続時期は8世紀末〜11世紀中頃で、字名の国町(こくちょう)は、国庁の転訛と推定できます。 伊賀国は、天武天皇9年(680年)に伊勢国から分立して誕生。 国庁跡の真南、5kmに伊賀市西明寺に伊賀国分寺跡があり、その東にある国の史跡「長楽山廃寺跡」が伊賀国分尼寺跡だと推測されています。 国司が築いた総社は不詳ですが、伊賀市一之宮の敢國神社(あえくにじんじゃ)が伊賀国一之宮です。 木津川の支流、柘植(つげ)川右岸の段丘上に位置する国庁跡。 遺構については変遷があり、東西約41m、南北も同程度の掘立柱塀で区画された政庁域の中に、正殿・前殿・脇殿等が配される。主要建物は当初は掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)であるが、10世紀前半から後半にかけて礎石立(そせきだて)建物に建て替えられる。出土した墨書土器(ぼくしょどき)の中に「国厨」(くにのくりや)と書かれたものがあり、遺跡の所在地に「こくっちょ(国町)」と称する地名が残ることから、検出された建物群は伊賀国府の中枢部分である伊賀国庁を構成するものと考えられました。 このように、伊賀国庁は主要な施設の配置関係がほぼ判明し、遺構の残存状況も良好です。存続時期は8世紀末から11世紀中頃で、下国(げこく)「伊賀国」の国府中枢である国庁の造営と変遷の実態を良く示すとともに、古代伊賀の政治情勢を示す上でも貴重です。 現在の状態は史跡としての保存整備に入っています。 保存整備工事中 完成予定は令和6年度(2024)となっています。
2021年08月09日
コメント(0)

大村神社 伊賀市阿保 国指定文化財の本殿 伊賀国造の一族ともされる伊賀国を治めた豪族阿保氏が 祖人の息速別命を祀ったものと推定されます。 祭神:息速別命(いこはやわけのみこと) 日本書紀、古事記によると祭神の息速別命は垂仁天皇と薊瓊入媛(あざみにいり)の皇子です。 薊瓊入媛(あざみにいり)は丹波道主(たんばのみちぬし)の五人娘の4番目の娘で、 五姉妹とも垂仁天皇に嫁ぎましたが末子の竹野媛だけが器量が悪いとして里へ帰され、自害したといわれます。 伊賀天正の乱の折に以前の本殿が焼失、天正15年(1587年)に本殿として 建てられました。現在の本殿が明治23年 に建てられる以前までは本殿でした。 一間社(正面の柱間(はしらま)が一間のもの。)入母屋造、妻入、檜皮葺の建物で桃山形式の様々な彫刻と極彩色が施されています。 こちらは新しい明治23年(1890年)建立の本殿、 桃山時代の本殿の東側に並んでいます。 虫喰い鐘 神社に釣鐘があるというのは珍しいが、明治の初め頃までの、神仏習合で、この鐘は 大村神社の宮寺、今の駐車場のところにあった禅定寺(ぜんじょうじ)のもので、明治 3年(1870)神仏分離による廃寺の際に、大村神社のものとして残されたものだそうです。 鐘乳(こぶ)が落ちていて虫喰い鐘といわれる。 この要石は、地下深く広がり、大地を揺るがす大なまずをしっかりと押さえていると伝えられています。又大村の森全体が大きな岩盤におおわれ、この地域をしっかりと護っていると伝えられています。毎年、9月1日の防災の日に地震除災祈願大祭が斎行され、又秋祭り には大なまずが街中に引き出されます。 「巳の神木」とされる大杉 ふるくから白く見えると幸福が来るとあります。
2021年08月02日
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1


