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伊賀市島ヶ原西念寺の榧(カヤ)平成23年2月(2011)伊賀市指定天然記念物推定樹齢500年 三重県のみえの樹木百選のサイト資料三重県のカヤでは最大幹周の「西念寺のカヤ」幹周6,16m 樹高 16m約200年前の寺の再建以前からこの地にあったらしい。西念寺、明応年間(1493)にこの同じ郷に建立と伝えられる西念寺は江戸中期、落雷による火災で堂塔を焼失し現在の地に移る。とありますので江戸中期に移った時にはこの地にあったということでしょう。伊賀市島ヶ原 正月堂 観菩提寺正月堂の修正会(しゅしょうえ)は奈良東大寺二月堂のお水取り、修二会(しゅにえ)に先駆けて行われます。修二会と同じ達陀(だったん)と呼ばれる行法が伝えられます。国宝 観菩提寺 本堂 桜門国宝とは重要文化財の中から特に価値の高い物として指定されたもの。本堂は室町時代前期、14世紀後半の建築、入母屋造、檜皮葺、正月堂は奈良時代の聖武天皇の時代実忠和尚が開基と伝わります。実忠和尚(かしょう)は奈良時代中期の752年(天平勝宝4年)に二月堂を創建し、同年2月1日から14日間にお水取りとも言われる修二会を始めたと言われるひとです。(現在は3月1日~14日お水取りは12日深夜)著書には、815年(弘仁6年)一生のうちに自らがたずさわった事業を列記した『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』があるが観菩提寺に関係したことは確認出来ない開基後、三百年ほど荒廃していたと言われ後に島ヶ原一族が再興、鎌倉時代よりの伝承が続いていますが途中荒廃していたことで正確なことははっきりしない。本堂の屋根は檜皮葺(ひわだぶき)檜皮葺は、屋根葺手法の一つで、檜(ひのき)の樹皮を用いて施工する 日本古来の歴史的な手法ですが、日本国外には類を見ない。文化財を含む、古い建物の屋根で檜皮葺を見ることができます。 2020年「伝統建築工匠の技:木造建造物を受け継ぐための伝統技術」がユネスコ無形文化遺産に登録され、この中に「檜皮葺・杮葺」が含まれています。国宝 観菩提寺 桜門通り抜け可能山号 「普門山」の扁額、「観菩提寺」の扁額天正伊賀の乱では島ヶ原党は恭順の意を示したため織田信長方は襲撃せず事なきを得たと「伊乱記」にあるが村内に残る古記には本堂と山門以外焼き尽くされたとある。昭和二十八年(1953)八月十四日ににっぱち災害と呼ばれる伊賀市西山地区、島ヶ原地区を中心に土石流、崖崩れが襲った祈念碑。この正月堂のすぐ東を流れる川を中心に襲いました。正面碑文 昭和28年8月14日夕刻からの降雨は夜半に至り沛然(はいぜん)たる大豪雨となり激しき雷鳴と凄絶たる稲妻は間断なく大地を震わせ遂に15日未明俄然地鳴を伴い北部山崚一帯において山津浪を起し濁流は無数の巨岩と立木を交えて奔騰し瞬時にして多くの家屋を押し流し尊い人命を奪い去りぬ豊沃(ほうよく)なる田畑は砂礫の河原と化し道路は寸断され交通通信は全く杜絶(とぜつ)するなど大自然の暴威の下に惨憺たる荒廃の地に変貌し村民齊(ひとしく)しく呆然たるものありしが克く廃墟の中より立ち上がり国県の力強き援助の下に営々辛苦の末災害前にも優り整備せられたる平和郷の再建成る茲(ここ)に後世災害の再び起こらざるよう不断の対策を怠るなきを念じ災禍の恐るるべきを末永く伝えんとしてこの碑を建つ 昭和44年8月15日 島ヶ原村建之裏面碑文死者行方不明15人 負傷者86人 流出家屋22戸 全壊家屋16戸 半壊家屋7戸 田畑流出埋没140町歩 道路決壊150ケ所 橋梁流出39ケ所 堤防決壊10ケ所 鉄道不通3ケ所 山林崩壊338ケ所 殉難者(死者2人行方不明13人)大道 南ことゑ(90) 桂六三郎(63) きよ(28) 寿美代(4)中村 中島タキノ(43) 平吉(20) 一二(17) 山島ちか(75) 實枝(26) 尾登はなゑ(49) 岡崎彰秀(3) 谷森はずゑ(30) 正樹(1) 松並ますへ(62)中矢 藤田吉一(51)
2023年07月24日
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江戸時代の伊賀山城国境幕府裁定時に大河原地区が主張した「かう谷川限」の神谷川、今は小山川と呼ばれる場所です。島ヶ原村が主張した「浅子川限」とは現在のJR月ケ瀬口駅を西に2km程行った所です。この川とは5km程離れています、元禄十年(1697)の裁定で中間の現在の県境とされている場所になりました。新島ヶ原大橋を伊賀上野から越えた小山川を挟んで西側にある行者堂です。行者堂には自然石の岩屋の中に役行者(えんのぎょうじゃ)像が祀られています。同じ岩屋の左隣に不動明王が祀られています。山城国大河原村(現、京都府相楽郡)と伊賀島ヶ原村(現、伊賀市島ヶ原)の間で争われ国境として提示された柳生藩と藤堂藩の間で折衝が進められたが柳生藩は一万石の小藩で三十二万三千九百五十石の藤堂藩とは不利とみたのか京都淀藩に裁定を願い元禄十一年(1698)に幕府の評定所で裁決され結果妥協点として中間のこの地を国境とした。柳生は現在奈良県奈良市柳生町「従是東伊賀国」これより東伊賀国「従是西山城国」これより西山城国の二本杭、国境が定まった後二本の杭を合わせて杭されたとあります。伊賀側の主張した「浅子川限」の浅子川、山道に入り木津川との合流点(弓ヶ渕)を探しましたが途中の道までしか行けませんでした。押原地区を流れる「浅子川」この地区辺りは現在でも商圏域は伊賀市です。
2023年07月13日
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