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今日は最後に上陸した寒風沢島(さぶさわじま)の話です。塩釜市の4つの有人島の一つで、丸で囲んだ島が寒風沢島です。 大きさは4つの島の中で最大の1.45平方km。人口は230人です。 これが野々島から寒風沢島へ向かう渡し船。料金は無料で、4往復して全員が島へ渡りました。 2つの島の間の「寒風沢水道」です。海上に何かの施設が見えます。 これは水道の潮の満ち干を利用した、潮流発電所なのです。 結構大がかりな施設でしたが、この実験装置で発電出来るのは、島の漁協の冷蔵庫1年分の電気を賄うくらいだとかニュースで聞きました。 文部科学省の補助金をもらって実験をしているのは、東京大学生産技術研究所。戦時中は確か「第二工学部」として兵器の開発に当たっていたと聞きました。戦後は工業技術の革新を目指す研究所として生まれ変わったようです。 港のすぐ傍で行われていた「東日本大震災」による津波被害の復興工事現場です。島内では、他でも復興工事を行っていました。 島の展望台にあった「方位石」です。風雨で石に刻まれた文字が消えていました。 この苔むした石仏も島の展望台に立っていました。きっと漁船の安全を祈っていたのでしょうね。 これは展望台の「縛り地蔵」です。大事なお地蔵さんがここから逃げ出さないように縛り付けたのでしょうか。それとも約束を果たさなかったために、島民に縛られたのでしょうか。ともあれ、こんなお地蔵さんを見たのは初めてでした。<補記>昔この寒風沢島は船運の中継地として賑わい、島には遊郭があったそうです。海が穏やかであれば船乗りが帰ってしまうため、遊女達は天候が悪くなることを願ってこの石仏を荒縄で縛ったとのこと。願いが叶った時は、縄を解いたのでしょうか。引率者のF田さんなそのような話をしてたのを、思い出しました。なお、願いの内容は異なりますが、仙台市青葉区米ケ袋の広瀬川河畔にも「縛り地蔵」があるようです。 「方位石」や「縛り地蔵」が立つ展望台からは、松島湾に浮かぶ島々が眼下に見えました。 寒風沢島を訪れたのは6月20日のこと。島の山道には筍が生えていました。右は廃校になった小学校の前に立っていたポスト。これも今では使われてないようで、淋しく立っていました。 島の東部には、広い田圃が広がっていました。でもあの大震災で海水が浸入して泥田となり、かなりの部分を埋め立てていました。津波の被害で島民が減り、耕作が不可能になったのでしょうか。浜辺の沖の防波堤も、新たに造り直されたようですね。 島の高台の共同墓地にあった「六地蔵」です。この島で亡くなった人を昔から守って来たのでしょうね。 私達60名の仲間達はこの島を後にし、再び連絡船に乗って塩釜観光港へと帰って来たのです。この日3つの島で歩いた距離は12km。梅雨のさ中でしたが、雨に降られなかったのが幸いでしたね。<明後日に続く>
2015.09.05
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~猛烈に面白かったドラマが終わって~ NHKのBSで放送されていた「コウラン伝」がつい先日終わった。~始皇帝の母~のサブタイトルがついたこの中国の歴史ドラマの面白さには、毎回強く惹かれるものがあった。ほとんどが史実なのだろうが、細部には脚色があるのだろう。実話が基礎になってるせいか話の展開がスリルに満ちている。日本では全34回だが、中国では60回の長編。半年間日曜日の夜9時から、息を殺して画面に見入っていた。 趙時代の登場人物相関図 主な登場人物は4人。秦の王族で人質として趙に送られた子楚(しそ)、趙の貴族の娘で継母の策謀で奴隷になったコウラン。彼女を買って自分の愛人とした呂不韋。彼は出世を願う趙の商人で、その野望を抱いて子楚に近づく。ところが呂不韋の愛妾であるコウランを一目見た子楚はコウランに恋して、呂不韋に譲れと申し入れる。野望に燃える呂不韋は止む無くコウランを手放す。 秦時代の登場人物相関図 数年後子楚は出身地の秦に帰国する。祖父の皇帝が実権を握り、父が皇太子になったためだ。だが趙に置き去りにされたコウランは子楚の子を産み、苦労しながら密かに育てる。何度も迫る危険から知恵を使って逃れ、呂不韋も彼女を助ける。やがて時が来てコウランと王子、呂不韋の3名は何とか秦に潜入する。だがそこでも宮廷内での果てなき権力闘争に巻き込まれる。毎回手に汗握る展開だった。 阿房宮(復元) 秦の皇帝となった子楚だったが、その地位にたのは4年ほどだが、子の政を皇太子とする。コウランは皇后となり、呂不韋は丞相(じょうそう=総理大臣)に出世していた。政は13歳で皇帝となり、自ら始皇帝と名乗る。後に天下を統一した暴君。ドラマは秦の滅亡までは描かず、最後にナレーションが流れる。呂不韋は皇帝から死を賜る前に自ら毒杯を飲んだ由。皇帝子楚の死後、コウランは愛人との間に2人の子を産んだ由。彼女は50代まで生きたようだ。 秦が統一した天下 壮大なドラマは途中で終わったが、成人した始皇帝は他の6国を攻めて服従させ、初めて天下を統一した。諸国を4度巡回し、5度目の巡回中に部下の反逆によって死す。天下統一から滅亡まで(紀元前221年~紀元前206年)を秦朝と呼ぶが、秦は紀元前905年から同206年まで36代続いた王朝で、決して短命ではなかったのだ。 始皇帝 中国の歴史は悠久だ。それにしても良くあれだけの歴史ドラマを制作出来るものだ。セットも大がかりだし出演する俳優も多く、衣装や化粧、皇宮内での凄まじい確執など、韓国の安っぽい歴史ドラマとは一味も二味も違っていた。だが「中国」と言う名の国家が誕生したのは現代になってから。それ以前は個々の民族が起こした「王朝」で、何度も国の名が変わっている。 焚書坑儒 始皇帝は暴君で自分に意見するものは、皆殺しにした。いわゆる「焚書坑儒」(ふんしょこうじゅ)で、自分に都合の悪いことを書いた本は燃やし、意見した者は穴を掘って生き埋めにした。だが、彼が天下を取って統一したものがある。それを以下に示す。 意外と思うだろうが、彼が統一したものが1)漢字 2)度量衡(どりょうこう)=長さ、量や重さの単位 3)貨幣。そして法律を作ってそれに従わせ、各王朝が築いた「長城」を繋いで「万里の長城」とした。滅亡時に放火された阿房宮(あぼうきゅう)は、その巨大さゆえ、全焼するまでに1か月を要した由。この阿房が阿呆(あほう)の語源と言う俗説があるくらいだ。次回は彼の墓と兵馬俑を紹介したい。ではご機嫌よう。<続く>
2021.06.11
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5月15日(日)仙台市内台原(だいのはら)森林公園を舞台に、仙台鉄人会が主催する「5時間走レース」があり、6年ぶりに私も参加したのです。1周3kmのアップダウンのあるコースを、朝6時から10時間走とシニアフルマラソンの部がスタートし、午前10時から3時間走、フルマラソン、5時間走がスタートします。私が参加したのは5時間走でしたが、年老いた今はコースを歩くのがせいぜいでした。レースの模様は既に紹介済みですが、今日はコース風景を紹介しますね。 森林公園のシンボル『茉莉花』像です。マツリカと読み、アラビアンジャスミンの意味なのだとか。像の向こうに見えるのが大会本部。コース1周することに、ここでチェックを受けます。またここはAS(エイドステーション)にもなっており、飲み物や食べ物を摂ることが出来ます。 10時間走に出場中のNちゃん。突然カメラを向けたのでビックリしたような表情を見せています。彼女は6月12日(日)開催の『いわて銀河』に向けての練習で、この日は25周75kmを走破したようです。これは私の66歳の時の記録と同じです。 1周3kmのコースでは、ランナーだけでなく色んな人に出会います。こちらは愛犬と散歩中の市民の方です。 公園の芝生で寛ぐ家族連れの方です。 公園内の池で遊ぶ家族連れの方です。 中には芝生にテントを張って、中で休んでいる家族連れも見かけました。 日曜日の朝から静かな公園で楽器の練習をしてる方がおりました。 公園内のツツジの花に、走っているランナーも癒されますね。 かつてはここの厳しいコース(1周するごとに70mの高低差があります)を一定のペースで走れた私も、今は歩くのがせいぜいになってしまいました。それでもまだ何とか体を動かせるのは有難いことです。 園内にはこんな池もありますよ。 まさかとは思いますが、この池ではホタルを育てているのです。 ここは地下鉄南北線の「旭ケ丘駅」。「あおば祭」の当日だったこの日は、駅前の広場で「すずめ踊り」の練習をしていました。それが終わると地下鉄に乗って、会場のある仙台市内へと向かうのです。 これは仙台市科学館です。古代ゾウの化石などがあり、小学生が学習のために訪れます。また近辺には「仙台市文学館」もあり、公園内を通って訪れることも出来ます。ここは市民にとって、静かで素敵な散歩道になっています。 結局この日私が歩いたのは全部で8周。距離は24kmに達しました。アップダウンの激しい坂道を手を振って歩いたせいか、翌日から激しい腰痛に苦しめられました。老体にはかなりの負担になったみたいです。 茉莉花像その1 茉莉花像その2 園内の鳩の彫刻です。 公園内の芝生には、こんな彫刻も立っていました。 山羊(ヤギ)と少女の像1 山羊と少女の像2。レース中のランナー達は園内にあるこんな彫刻を横目に眺めながら、長時間走っているのです。でも私は写真を撮りながらののんびりウォーク。来年もこんなスタイルで気楽に参加出来たら嬉しいなあ。 これまでも何度か登場した私のゴール風景。今回も記念に顔を出しました。皆さん応援ありがとうね~♪
2016.06.07
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<縄文の漆文化を見直す> 縄文人が漆を使用していたことは、三内丸山遺跡から出土した漆塗りの櫛で知っていた。だが漆が土器にまで使用されていたことを知ったのは、昨年訪れた青森県立郷土館の展示物を観たのがきっかけだった。 今回の旅で八戸市の是川遺跡を訪れ、ここでは漆は住居の近くに植えられ、きちんと管理されていたことに驚いた。そして見事な漆製品がたくさん発掘され、展示されていたことにさらに驚いた。 漆は英語で「Japan」と呼ばれる。もちろん中国大陸にも漆文化はあるが、日本の漆とは若干DNAが異なると聞いた。どうやら日本の漆文化は、独自に発達したようで、その萌芽が既に縄文時代の東北地方にあったのだ。何はともあれ、先ずは是川遺跡の漆製品をご覧いただこう。 赤い色の土器と黒い色の土器には漆が塗られ、光って見える。ひょっとしたら後の1本もそうなのかも知れない。縄文人の暮らしには、ここまで漆文化が浸透していたのだ。 漆が塗布された注口器型土器。美しいだけでなく、強度が一層増すのも漆の特徴だ。 到底土器とは思えない重厚さが感じられる作品。だがこれは生活用品であって、芸術作品として作ったわけではない。 中の材質は竹で編んだザルだが、それを補強するために漆を塗っている。これらは籃体漆器(らんたいしっき)と呼ばれ、軽くて丈夫なのが特徴だ。 木の皮で作った容器に漆を塗ったもの。私は今回初めて観た。 浅鉢の底部。本体は木製で、その上から漆を塗布してある。(☆後出の復元品を参照されたい) 容器の蓋(ふた)で材質は不明だが、木製品のようにも見える。 弓2張り。このような武具にまで漆が使用されていることに驚く。恐らくは強度を上げるためと思われる。 湾曲した木の枝。私見だが、これに網を取り付け、漁具として使用したのだろう。 腕輪と思われる装身具。 櫛(上)と土製のイヤリング(左下)。 漆器に描かれた紋様。 漆が塗られた土器類の総合展示風景。 ここからは縄文時代の技法を使って復元された漆製品の展示物。木製の木地に漆を塗っているが、到底「ろくろ」を使用したとしか思えない作品だ。 ☆前出の木胎漆器(鉢)の復元品。見事な完成度に驚かされる。 木胎漆器による深鉢。復元品とは言え、縄文時代のものとは思えない出来栄えだ。 台付き皿。現代の作品と比較しても、何の遜色もないように見える。 縄文時代の技法で復元された4本の櫛。当時の暮らしぶりが偲ばれる。 これは私の推測だが、漆が塗料として使用されたのは、偶然のことがきっかけだったのだはないだろうか。だが賢明な縄文人は長い間かかって研究を重ね、塗料として漆を使う技術を完全にマスターし、代々子孫に伝えて行った。 土器も石器の製造も同じ。先人が確立した技法を子孫が継承し、さらに発展させて行った。縄文人の精神性、宗教性の深さや、文化の高さには驚くことばかりだ。明日は是川遺跡の目玉である国宝指定の「合掌土偶」ほか、優れた「遮光器型土偶」の数々を紹介したい。<続く>
2016.07.05
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~なまはげ太鼓集団・恩荷(おんが)~ 今日ご紹介するのは男鹿市(男鹿半島赤丸がついた箇所)のなまはげ太鼓集団「恩荷」(おんが)です。実は旅の初日の一番目に向かったのがここでした。男鹿半島の北(上)側の海岸にほど近い場所。確か「男鹿温泉郷」の一角の小さなホールに案内されたのですよ。へえ~っ。太鼓の演奏ねえ。一体どんなものなのだろう。私は極力前の席に陣取りました。出来るだけ良い写真を撮りたかったものですからね。 私たちにこのなまはげ太鼓集団「恩荷」のことを説明してくれたのが、この女性。メンバーで唯一鬼の面をつけずに演奏していました。どうやらなまはげ太鼓の演奏グループは幾つかあるようで、その夜の「なまはげ柴灯(せど)まつり」でも太鼓の演奏があるようです。きっと日ごろから厳しい練習をしれいるのでしょうね。それは激しい演奏を見れば分かります。では、張り切ってどうぞ。 客席の後ろから3人のなまはげが登場します。本物のなまはげは、藁(わら)の装束を身に着けているそうですが、それだと演奏が出来ないため、軽い毛糸の装束にしているとか。それにしても迫力がありますねえ。 いよいよなまはげ太鼓の演奏が始まります。力強いばちさばきとパフォーマンスに圧倒されます。 女性の方も負けてはいませんよ。堂々たる演奏。たくましいエネルギー。まさに女丈夫です。 実は秋田の男鹿半島だけでなく、かつて佐渡島にも「鬼太鼓(おんでこ)座」と言う集団がありました。ランニングなどを交えた訓練を重ね、演奏の場を世界へと広げて行ったのです。その後確か「鼓童」(こどう)と名前を変えたようですが。 それにしても「恩荷」(おんが)とは何なのでしょう。実はこの辺りを根拠地にしていた古代の蝦夷(えみし)の名前が恩荷だったのです。地元民は「おが」と言った積りが都の人には「おんが」と訛って聞こえ、それに充てた漢字が恩荷だったと私は推察しているのですがね。 「それにしても、よくそんな名前を付けたものだ」。私は感心しました。何せここ秋田は古代阿倍比羅夫が蝦夷を征伐した地。その征伐された蝦夷の名である「恩荷」を集団の名前にしたのですから、東北人の意地を感じた次第。 そしてもう一つの思い出。それは数年前、仙台近郊の「国立みちのく杜の湖畔公園」の催しの際に、確かなまはげ太鼓の演奏を見たことがあるのです。無理やり前へ行って写真を撮っていたら、係の人に注意されて建物から出されたことがありました。まあ十分撮った後でしたがね。 そんなわけで、懐かしい気分になった私でした。 この後、彼らは仮面と衣装を脱いでアンコールに応えます。それが3人ともすらりとした体格の青年ばかり。きっと激しい稽古で、無駄な体脂肪が一切ないのでしょうねえ。それは見事な肉体でした。 さらに驚くことには、この激しいパフォーマンスを、その夜に行われる「なまはげ柴灯まつり」で披露することです。その圧倒的な体力に万雷の拍手。こうして今回の秋田の旅は、強い感動から始まったのでした。<不定期に続く>
2019.03.07
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≪ 裸参り編 2 ≫ 裸参りの参詣者は次々にやって来て、参道を粛々と進んで行きます。 男性の参詣者が多いのですが、中には白装束の女性が混じっています。その女性の中に、さらし姿の勇ましい方がおりました。良く頑張りましたね。 どんとの火を横目で見ながら列が進みます。前回の裸参り編で、裸で行列した後、何をするのかとの質問を寄せた方がお2人居られました。答えは参詣とお祓いを受けることです。裸になって神前に詣で、無病息災や家内安全などを祈るのです。 「長床」を過ぎ、社務所の前を列が通ります。この後、御社殿(本殿)に入るのですが、順番が来るまでの間、寒空の下でじっと待っています。夕方5時ともなれば、既に気温は0度近くまで下がっています。 透明なビニールシート越しに、本殿内でお祓いを受けているグループの姿が見えます。 こちらはそのアップです。 こちらは左側から撮ってみました。 参詣とお祓いが済んだ女性達が帰る姿です。安心してホッとしたような後ろ姿です。この後、どんとの火に当たるグループもあれば、往路とは別な階段を下って帰るグループもいます。 こちらは階段を下りて帰るグループです。まだ私語を慎んでいます。この日、裸参りをしたのは122団体で、人数は約3千人とのことでした。1グループの平均人数は24.6人です。実は裸参りのグループは、同じ企業や団体の方がほとんどです。この日はテレビ局が数社境内の中で陣取り、ベストショットを狙っていました。 私が八幡宮に居た時間は約1時間。寒さ対策はバッチリして来た積りですが、これが限界。結局この日撮った写真は100枚ほど。私も一緒に階段を下りて帰路に向かいます。 裸参りの方達が口を開いたのは、国道に出てから。「今年はまだ良いね。去年は大雪で寒かったよ」。そんな声が聞こえて来ました。裸参りの列が鐘を響かせながら、次々にやって来ます。中には夫婦2人だけの姿もありました。ご主人が1人裸で、奥様がその後から提灯を持って従っていたのです。なかなか微笑ましい姿でした。 裸参りから帰ったグループの姿が急に消えました。きっとこの近辺に着替えする場所があるのでしょうね。昔は中心部の繁華街から来て参詣を済ませ、そのままの裸姿で中心部まで歩いて帰るグループが多かったのですが、女性が混じるようになった今では、少し形を変えたのでしょうか。 ともあれ、1月2日の豪華景品がつく「初売り」、1月14日の「裸参り」、そして8月6日から8日までの日本一豪華な「七夕祭り」の3つが、江戸時代から続く仙台の伝統行事と言えるでしょうか。いずれも伊達男仙台人の心意気を示すものだと私は考えています。明日の最終回は「おまけ編」をお届けします。どうぞお楽しみに~。<続く>
2014.01.21
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~朝鮮史と周辺諸国~ 「加害者と被害者の立場は千年経っても変わらない」と言った女性大統領がいた。「盗人猛々しい」と言い、天皇陛下の謝罪を要求した国会議長がいた。レーダー照射は実在せず、事実に反する従軍慰安婦を叫び、徴用工裁判を強行する国。数百人の高校生が溺死した「セォル号事件」はうやむやになり、大統領が辞職後に逮捕されるのはごく当たり前。あの国は赤化へ一直線に向かっているとしか思えない。 <中国、日本、朝鮮の時代区分対比図 その1> そこで朝鮮半島の歴史と、民族の特性に関心を持った次第。箕氏朝鮮及び扶余は中国がつけた名前で、韓民族ではないようだ。韓国はその存在を認めず、「檀君神話」を創作して歴史を6千年ほど遡らせたが、周囲の国は無視してるようだ。 <4世紀ころの朝鮮半島> 高句麗は満州族(騎馬民族)の国。このため中国は中国史に含めると主張し、韓国は反論している。楽浪郡、帯方郡は中国の管轄地。馬韓、弁韓、辰韓は韓人が住み農業に従事。弁韓には倭人が多数住み、後に倭国の朝鮮半島の根拠地になる。濊(わい)は本来北方の民。糞尿の意味で中国が付けた蔑称。なお倭は小人の意味。背が小さかったことから日本人をそう呼んだ。 <6世紀頃の朝鮮半島> 漢に進貢した倭の奴国は皇帝から金印を授かる。だが属国扱いの高句麗、新羅、百済は小ぶりの銅印しか下されない。隋の時代半島で動乱が生じる。隋は隣接する高句麗を滅ぼすため新羅と手を結ぶ。だが新羅は出兵中に百済に襲撃されることを恐れ、まず百済を滅ぼすことを提案し隋は了承。驚いた百済は倭国に援軍を求める。だが白村江の戦いで大敗し百済は滅びる。新羅は高句麗を破り、半島を統一する。 <月桂洞2号墳> <三国史記> 時代が前後するが、近年韓国で前方後円墳が発見された。韓国人は大いに喜び、「それ見ろ。前方後円墳は朝鮮半島から日本へ伝えたのだ」と主張。ところが発掘調査の結果、我が国の前期の物より2世紀ほど新しいことが分かると口をつぐんだ。かつて倭国の軍が侵攻したことを記した「好太王の碑文」を改ざんした手口同様、10数基発見された前方後円墳の中にはその後変形されたものがあるようだ。 <歴史年表の続き> 明治時代、朝鮮半島に大韓帝国が誕生する。これは日清戦争で日本が勝利した結果、清国に朝鮮の独立を認めさせて出来た国家。それ以前は約2千年ほど中国の属国か、もしくは直轄地だった朝鮮。だからソウルにあった「独立門」は中国からの独立を意味するもので、日本からではないのだ。それまでは地方の王扱いだった朝鮮半島の国々。日本はとっくの昔に遣唐使を送るのを止め、法治国家になっていた。 <韓国の歴史ドラマ> <日本統治以前のソウル風景> 韓国の歴史ドラマを観ると、その艶やかさに驚かされる。だがそれらのほとんどは虚構。当時の李氏朝鮮は明や清に従属し、産業はほとんどない。儒教を重んじ、物作りを蔑視したのだ。だから針一本作れなかったのが真相。中国への進貢は人。数年ごとに美女を中国皇帝に差し出し、男は宦官となる運命。 右は日本併合以前の風景。都の南大門の真ん前に立ち並ぶ民家。色鮮やかな染料が日本から届いたのは併合以降。ハングルの復活も小学校を数多く建てたのも日本。それで識字率が10台%から60%に上がった。日本の統治下に入った朝鮮では不潔な環境が一掃され、人口が倍増している。日本は国家予算の2年分を朝鮮の振興に充当した。搾取どころではないのだ。その真実すら国民に隠している韓国。 <韓国の国花 ムクゲ> <日本の国花 桜> 以下は韓国の逸話。「お前は泥棒だ」と訴える者があったら、逆に「お前こそ泥棒だ」と言い返すそうだ。それが韓国式の論法。正しいか正しくないかは問題じゃない。大きな身振りで怒鳴り合い、怯んだ方が負けと言う論理に驚くが、それが実態ならばこれまでの疑問が解ける。恥を知る日本人とは精神構造も文化も異なるようだ。どれだけ意を尽くしても、これでは彼の国には通じまい。 <済州島の石像トルハンバン> 以下は韓国済州島の伝説。かつて独身の3男神が寂しく暮らしていた。それがある時、船に乗って3人の女神が島にやって来たと。3組の男女神は結婚し、島は栄えたと言う。この島は一時モンゴルの直轄地になったり、李氏王朝時代は罪人の流刑地になるなど悲惨な歴史があるのだが、世界でこの島と日本にだけ海女がいると言う不思議さ。娘3人は宗像大社の3女神か。石像が明日香村のものにそっくりだ。 実は朝鮮の正史である「三国史記」(写真掲載済)には、倭人が百済と新羅の王になったことが明記されているようだが、南北はその事実を隠匿している。 <日本書紀> <古事記> 韓国、朝鮮が否定する任那の日本府の存在と、半島における日本人の活動ぶりが古事記や日本書紀には事細かく記されている。一方韓国の歴史学者は真実を書くことが許されず、書けば学会と社会から白眼視されるそうだ。あの民族は古来どの大国に付いたら得かを第一に考え、自国の内乱さえ外国に鎮圧を依頼し続けた変節の歴史がある。そしてこれからも歴史のねつ造を続けるのだろう。 国会議長の暴言をきっかけに調べ始めた朝鮮の歴史だが、国家成立当初から今日に至るまで常に「虎の威を借るキツネであることが分かった。平気で嘘をつくのは民族の習性で、生き残るための「知恵」だったのだ。南北朝鮮は今後統一に向かうのか。それともまだしばらく混沌の時を過ごすのか。どちらにしても「コウモリ外交」では世界の信頼を得られまい。多くの政治難民が生まれないことを祈っている。
2019.03.02
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思わぬ寒波襲来で、各地に大きな被害が出ている。私が住む仙台でも、珍しく3日連続の雪の朝になった。JR仙山線や高速道路の山形道では、事故のため一時通行止めとなったが、皆さんの地区ではいかがだろうか。そしてセンター試験の受験生たちも雪で苦戦したようだが、大丈夫だっただろうか。 一昨日読んだ新聞にある俳優が随筆を書いていた。私より11歳年長の方。いかにも温厚で、何不自由なく暮らしていると思われた人が、意外に厳しい述懐を漏らしていたことに驚いた。 彼が書いた文章だが、老人の死は決して安らかなものではないと言う。それは願望であって実際とは異なると言うのだ。曰く、老人は自分の肉体や精神が少しずつ衰えて行くことを知らされ、不安に苛まれながら孤独で苦しみながら死を迎えることを覚悟すべきと言うのである。 そう言えば女性社会学者が書いた「お一人様の老後」とか言う本もあった。昔なら病気であっさり死んで行った老人が、医学が進歩し栄養豊富な今は誰もが長生きする高齢化社会。だからその先にある「死の形」もこれまでとは異なるとの論法だ。確かに核家族化と高齢化が進めば、たった1人で死んで行くケースが増えるのは間違いない。これからは覚悟を持って生き、覚悟を持って死ぬ勇気が必要なようだ。 雪こんこんこの世は常に会者定離 雪十度苦しみ抜きし先の春 雪の山幾度見ても冬の山 足跡の何処に向かふ雪の径 *いずこ *道 新雪の轍の横に犬の足 *わだち 雪しんしん空き家の庭に雪しんしん 雪の朝団地も白き雪の中 雪降れば枯れ野も夢に包まれて 校庭に人影もなし雪の山 冬の畑白菜雪と戦ひつ 雪除けの笹も震へる寒さかな 雪の畑未だ小さき葱の苗 *ネギ 山頂の病院雪で消へにけり 蝋梅の香りも雪に消されたる <不定期に続く> ≪103歳の言葉≫ 現役の前衛芸術家、篠田桃紅さんの著書『103歳になってわかったこと』から抜粋。 曰く。「親子といえども、伝ええぬこともあったのではと想像する」。 これは篠田さんが自分の父親について語った言葉。本文には「家ではたいへんに怖い存在でしたが、父の遺言を思うと、私に言っておきたいと思ったことは、たくさんあったのかもしれないけれど、なにも言えなかったのかもしれない。折に触れて表現していたのかもしれないけれど、私には伝わっていなかったことがずいぶんあったのかもしれない、と想像することがあります」。 母親の愛情はとても具体的で子供にも直ぐ伝わる性質のものだ。だが父親の愛情は抽象的で、なかなか子供には伝わり難いものだと思う。3人の子供の父親である自分も、今そのことを強く実感している。
2017.01.17
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~死と再生~ 菊の御紋は天皇家の紋章である。それがテーマと何の関係あるの。と聞かれるだろう。菊の原産地は中国。日本へは遣唐使がもたらしたと言われる。中国で菊は割と重要な役目を果たした。「重陽の節句」つまり旧暦の9月9日は菊の花を飾って祝った由。薫り高い菊は日本人にも好まれ、朝廷に献上されてついには天皇家の紋章となった。宮家の家紋は全て菊をアレンジしたものとなっている。 ところが菊を愛したのは中国や日本だけではなかった。これは古代エジプトのファラオの黄金の椅子だが、何と背もたれのデザインはまさに菊の御紋ではないか。すると菊が中国からエジプトへ伝えられたのだろうか。それは不明だが、実はこの「菊」は太陽を表したものなのだ。しかし古代エジプトの王室とアジアの東外れにある日本の皇室で、同じデザインを用いていたとは。天皇の祖先である天照大神は太陽神で、国旗は日の丸。すると菊の紋章を太陽と見なすことも可能なのかも知れない。 古代エジプト「太陽の船」 それならなぜ古代エジプトでは太陽を聖なるものと考えたのか。それは太陽が不滅であるからだ。夕方になると太陽は西に沈む。だが翌日の朝には東の空から再び姿を現す。古代エジプトの民は太陽を復活と再生のシンボルとして崇め、その太陽を舟が運んでいると考えた。上の絵は太陽神を舟で運んでいる姿。それは絵だけでなく、巨大な船が発掘されたことで実在が証明されている。 発掘された「太陽の船」 エジプト考古学の専門家である吉村作治早大名誉教授は、かつて巨大ピラミッド付近の地下には巨大な空間があることを地磁気センサーで探知し、巨大な船が収められてる可能性があると「世界ふしぎ発見!」で語っていた。その後、エジプト考古庁が発掘して吉村説が真実だったことが証明された。彼は他にもう1艘分の空間があると言っていたが、古代エジプト人の信仰や知識、技術の高さが理解出来よう。 秋田県大湯環状列石 これは秋田県鹿角市にある大湯環状列石遺跡。縄文時代のストーンサークルだ。巨大な石の輪が2か所あり、その中に写真のような石組が幾つかある。この遺跡には住居はなく、祭祀専用の空間だった。石組をどかして掘ると人骨が出て来たことから墓だったことが分かった。同時に、この石組は太陽の位置を正確に捉える日時計で、毎年春分の日には、同じ位置から太陽が現れることが確認された由。墓は死者の埋葬施設だが、「日時計」はその復活と再生を願っての施設。二重の意味があったのだ。 第二琉球王朝尚育王肖像 さて、沖縄では太陽を「てぃーだ」「てだこ」と呼ぶ。第二琉球王朝の最初の王都であった浦添城と、次に移動した首里城からは、東方の久高島から昇る太陽を遥拝したことが知られている。久高島は琉球の始祖神であるアマミキヨとシネリキヨが上陸した聖地で、城(ぐすく)には必ず祭事を執り行う御嶽(うたき)があった。まさに卑弥呼や、日本の原始神道を彷彿とさせる祭政一致の姿だ。死と再生は人類共通の願いであり、それゆえ縄文、古代エジプト、琉球王朝と形を変えつつも太陽信仰が出現したのだろう。 (1) (2) (3) さて最後に古代の三美神を紹介しよう。(1)はトルコから出土した「地母神」。豊かな胸と腹部から妊婦であることが分かる。(2)は長野県茅野市の棚畑遺跡から出土した「縄文のビーナス」。どうやら縄文時代中期の土偶のようで、国宝に指定されている。腹部から、妊婦だと分かる。(3)は(2)と同じ茅野市棚畑遺跡出土の「仮面の女神」で国宝指定。妊婦なのか「出べそ」状態だ。同一の遺跡から出土した土偶が複数点国宝に指定されるのは恐らく初めてのはず。 亀甲墓 これは「亀甲墓」と呼ばれ、沖縄のお墓の形態の一つ。名前の由来は形が亀の甲羅に似ていることからだが、これは琉球王朝時代に進貢していた中国福建省の墓制を倣ったもので、「母胎」との説もある。つまり死後は母の胎内に還り、いつの日か再生する願いがあったのだろうと。かつては火葬せず遺体は墓の中の「しるひらし」(汁減らし)に安置し、数年後に取り出して洗骨した。洗骨は女性の仕事だった。 この墓も風葬募の一種。温度と湿度の高い沖縄では最も自然な葬制だったのだろう。一族はみな同じ墓に葬られた。いわゆる「門中墓」(むんちゅうばか)で、今でも一門の結束は強い。墓の入口を「産道」と見なすことも出来るが、遺体を入れた後は漆喰で固め部外者の侵入を防いだ。墓は集落のすぐ傍に在り、死者は子孫の繁栄を見守っていた。そのため家も墓も風水によって場所を決めたのだ。 唐草文 「唐草模様」と呼ばれ、日本の風呂敷のデザインの主流はこれだった。かつては中国由来の忍冬(スイカズラ)の蔓を模したとされたが、今では空想の植物をデザイン化したパルメット紋と呼ばれる。古代ギリシャやエジプトの神殿の石柱などにも彫られた。まさに「文化は伝播する」見本。「東京凡太」が背中にこの風呂敷を被っていたが、そんなことを知る人はもういないだろうなあ。 <横山大観 「生々流転」の一部> 横山大観の名作に因む「名前」を借りたシリーズも最終の10回目。我ながら頑張って難しいテーマに挑んだと思う。「生と性」についてはまあまあ書けたが、「死と詩」のうち「詩」はさっぱりだった。次はいずれ「詩」をテーマに書きたいものだ。なお、この「生々流転」を観たのは島根県の足立美術館だった。ツアーで行った際にたまたま「院展100周年記念展」だったかをやっていたのだ。 ただし展示点数が驚くほど充実し、日本画にあまり興味のない私は大急ぎで見回り、庭園や他の美術品に心を動かされたのだった。偶然だが上の絵を見ると、足立美術館の有名な庭園に雰囲気がとても良く似ていることに気づいた。長い間のご愛読、どうもありがとうございました。心から御礼申し上げ、このシリーズの結びといたします。亭主謹白。<完>
2021.05.10
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~「ヤルタ会談」と「ヤルタ協定」そして日本と中国の戦後~ NHK「映像の世紀プレミアム」を観て書き始めたこのシリーズ。甲子園の高校野球も、後半戦に入ったプロ野球も、そして昨日から競技が始まったパラリンピックも観ず、シリーズを書こうとしている。学校で習わなかった現代史の面白さを知ったからだし、真実に近づきたいと言う私の想いからでもある。理解を深めるためにネットで検索し、新たな知見と同時に、自らの認識を修正することも度々だった。 皇居前で玉音放送を聞く人々 日本人が初めて自国の敗戦を知ったとされる、昭和20年8月15日の「玉音放送」。思い出すのがこの写真だが、これは不自然との意見があるようだ。当時、皇居に一般人が立ち入ることは許されていない。また皇居前に拡声器や放送設備はない。土下座する前方に立っている人物が不自然などがその理由。ただしこの日重要な放送があるとの通知はあった。日本は前日に「ポツダム宣言」を受諾していた。 ミズーリ号上での調印 1945(昭和20)年9月2日。東京湾に進入した米国艦船ミズーリ号の船上で、敗戦国日本と、連合国代表との間で、停戦に関する協定が結ばれた。日本の全権は東久迩内閣の外務大臣である重光葵(しげみつまもる)、連合国の代表はアメリカのマッカーサー元帥。ミズーリ号が停泊したのは、江戸末期に「日米和親条約」を結んだ同じ場所。アメリカはその「位置的効果」を計算済みだった。 <日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン大統領> ポツダムはドイツの一都市。そしてポツダム宣言とは、イギリスのチャーチル首相、アメリカのトルーマン大統領、中華民国の蒋介石主席の名において、日本に対して発せられた13か条からなる降伏要求の最終宣言。正式には「米英中三国共同宣言」と言う。ソ連は後に加わり追認した。 ミズーリ号上での調印は日本がポツダム宣言を認めたことを意味し、即刻同日に発効した。ミズーリ号では戦勝国を代表してマッカーサー元帥が署名したが、後日日を改めて中華民国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの代表も署名した。 <ヤルタ会談の参加メンバー(左)とヤルタの位置(右)=クリミア半島先端の宮殿> このように日本の敗戦は前もって連合国側によって綿密に準備されており、ドイツやイタリアと結んだ軍事同盟など何の役にも立たなかった。驚くことに激しい戦争のさ中に戦後処理まで協議されていた。メンバーは左からイギリスのチャーチル首相、アメリカのルーズベルト大統領、そしてソ連のスターリン書記長。この会議ではソ連の対日参戦、戦後の国際連盟設立など。知らぬは日独伊の枢軸国のみだった。 1) 2) 3) 枢軸国のドイツ、イタリア、日本の占領地を戦後どう処理するかを協議したのが1)ヨーロッパ 2)朝鮮半島 3)日本列島をどう分割するかが上の3つの分割図で、図にはないがバルカン半島、台湾、樺太などの北方領土も関係する。もしもこの案が実施されていたら、わずかに近畿を除いた地域が全て外国領となっていたわけで、幸い実行されなかったのは、共産主義に対する不信感からだろうか。 日本が敗戦を認めた後に、ソ連が満州や北方領土に侵入し、日本兵をシベリアや中央アジアに連行して強制的に過酷な肉体労働をさせたこと、北方領土を未だに返還しないのを非難しても、ロシアは戦勝国として当然との考えだろう。だが「朝鮮戦争」の勃発などで、その後の世界情勢が大きく変化し、日本も遅まきながら「サンフランシスコ講和条約」の締結によって国連に復帰し、再出発出来た。 それでは中国はどうか。内戦で国民党に勝利した中国共産党は、中華人民共和国を建国し、共産主義を国是とする。一方敗れた国民党の蒋介石(右)は、日本が利権を失った台湾に入る。その台湾が戦後間もなくは国際連合の正式メンバーで、理事国でもあった。だがその後「中共」は「一つの中国」を標榜して台湾を国連から追放、資金援助したアフリカ諸国の力を借りて、安保理常任理事国の座を手に入れた。 アメリカがアフガンから撤退すると聞いたこの国は、タリバンの指導者を北京に呼んだ。協議したのはアメリカ軍に対する攻撃作戦の伝授と、資金援助の約束。アフガンから撤退する米軍は、対中国包囲網を強化する予定でいた。だが、その計画がもろくも破綻した。今年の北戴河会議(中国共産党幹部のOB会)で批判を受けた習近平は、「黙れ。台湾と尖閣は必ず獲る」と怒鳴った由。ああ怖っ。 ロシアの国旗は白青赤の三色。で国旗に込められた願いは、白=高貴と率直さ。青=名誉と純粋さ。赤=勇気と寛大さ。なんですって。そんな風には全然感じないけど。国家としてオリンピックに参加出来ない腹いせにサイバー攻撃を。北方領土では軍事訓練をやりたい放題。「国後島から泳いで来た」と言うロシア人が、先日北海道警察に拘束された。だが服は濡れておらず、小さなリュックを背負っていたらしい。難民だろうか。う~む。しかし、どう考えても変な国だ。<続く>
2021.08.26
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今日は勤務を少しだけ早めに終わらせてもらい、ようやく別の整形外科を訪ねた。職場から100mくらいのビルの5階にその病院はあった。エレベーターを降りるとそこが病院内。どうやら5階全体を改装して、受付、診察室、レントゲン室、運動療法室、作業療法室、手術室などを作ったようだ。実に本格的な病院だった。 保険証を出し、問診表に症状を記入して提出。そこまでは良かったのだが、待ち時間が2時間から3時間とのこと。待合室には既に35名ほどの患者。ちらっと見えた運動療法室にも数人いたから、午前11時30分現在で40人以上の患者がここにいるわけだ。きっと評判が良いのだろう。昼食のため外出したいと言うと、13時までに必ず帰ってカードを出すようにと、そのためのカードを手渡してくれた。デパ地下で弁当を買い、現場の休憩室で仲間と昼食を共にする。 約束どおり午後1時まで病院に戻り待合室へ。その間トイレに行きながら院内を観察。医師は院長以下3名。うち1名がスポーツ整形外科医に認定されていた。これは嬉しい。やっぱりここへ来て良かった。看護婦5名、運動療法士2名、作業療法士4名、事務員が4名とスタッフも充実。小さなビルの1フロアだけだが個人病院ではなく法人化されていたことにも驚く。 実はここの病院の名を聞いたのは初めてではない。目と鼻の先に在る現場のビルで立哨時に、この病院の場所を通行人から30回ほどは訊ねられていた。また通っている整骨院の先生からも評判は聞いていたのだが、それほど医療技術が優れていたのだろう。まさに「灯台元暗し」とは良く言ったもの。 診察が始まる前にレントゲン室に呼ばれた。忙しいのか若い女性のレントゲン技師も、指示がてきぱきとしている。聞かれるままに症状を話し、左足を2方向、左膝を1方向から撮った。それから待たされること1時間20分。最初に訪れてから既に2時間半近い。診察室の中には比較的若い医師がいた。どうやら彼が、スポーツ整形外科医に認定された医師のようだ。 レントゲン写真が既にパソコン内に取り込まれ、医師はそれを見ながら私の症状を聞く。左足底部の痛みとこれまでの経過、そして左脚裏側の神経痛だと思われる痛みについて説明する。医師は左足を触りながら痛みがある部分を確認。直ぐに原因が分かったようだ。左脚裏側の痛みには首をひねる。膝関節に変形はない由。坐骨神経痛の原因は腰から来ているけど、それではないようだ。医師は特に問題にはしなかった。<続く>今月の参加レース:DNS 走った回数:6回 走った距離:47km 歩いた回数:毎日 歩いた距離222km 年間走行距離:1481km 年間合計:3343km これまでの累計:64、865km
2008.10.31
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先日の日曜日、博物館まで歩いて行った。その途中、仙台城(青葉城)を通った。前職を辞めてビル管理会社でパートをしていた時は、勤務後に自宅まで走って帰ったコースだが、今はこんな坂道を走るのは無理。天守台に寄ると、以前と様子が違う。 政宗の胸像(三の丸跡にて) ご存じの通り仙台城を造ったのは伊達政宗。戦国時代の風雲児で、片目が見えなかったことから「独眼竜」と呼ばれて恐れられた男。伊達氏は鎌倉武士で、本貫は常陸国(現在の茨城県)であった。それが会津若松(福島)、米沢(山形)、岩出山(宮城)と本拠地を変え、当時千代(せんだい)と呼ばれた寒村に城下を構えたのである。 発掘後の天守台 仙台城は眼下に広瀬川を見降ろす丘の上にある。東側の山裾には広瀬川が流れて高さ50mの崖、南側は深さ50mの深い峡谷(竜の口)、西側は鬱蒼とした森。そして天守への登城口に当たる北側には二の丸と三の丸を置いた。 仙台城古図面 城の南側と西側には深い森があり、ここに無断で近づくと番人に切り殺された。江戸時代のその森が今でもかなり残っていて、そのために仙台は大都会でありながら自然豊かな都市となっている。 大広間模型1 大広間模型2 それほど堅固な城に天守閣は不要。そこで代わりに置かれたのが書院造りの大広間だった。 驚いたのは、その天守台に大広間の跡が復元されていたことだ。この場所を数年かけて発掘調査していたのは知っていたが、まさかこんな風になったとはねえ。 実は仙台城の石垣も何度か修復されている。 城の下には亜炭(あたん)と言う石炭のなり損ないの地層があり、かつてこれを燃料などにするための坑道が、この付近一帯の地下に張り巡らされていた。その地盤沈下と相次ぐ大地震によって、石垣が緩んで危険になったのだ。 そのために石垣の石が一つずつ外されて、他の場所に移動された。石垣の先端に赤い○で囲んだ部分がある。 その発掘で、石垣が三重構造であることが分かった。上の写真の赤い○の部分と比べて見ると、そのことが良く分かる。一番外側の石垣が一番新しい時代の築造なのは当然のこと。一番内側の古い石垣の摘み方は粗末。当時はまだ戦国時代の名残があり、築造を急いだためだ。その後の城主が2番目、3番目の石垣を築いて補強した。きっと天守台を広げる意味もあったと思う。 ガラスの器 ガラス製のコップ 飾り金具1 発掘品 飾り金具2 飾り金具3 これらは大広間の跡からの発掘品を元に復元したもので、大広間跡の傍にある資料館(無料)に展示されている。政宗は臣下の支倉常長をイスパニア(スペイン)とローマに派遣した。イスパニアの支配下にあった当時のメキシコと密かに通商するのが目的だったが、「奥州王」の肩書が信用されたかっただけでなく、王者イスパニアの落日期にも当たっていたのだと思う。これらの出土品(復元品)からも、当時の仙台藩の様子が偲ばれる。 そしてこれが当時の大広間を飾った襖絵(模造)だ。 天守台から下って博物館のある三の丸跡に向かう途中に、こんな清水が湧いている。ここは仙台城の酒造所跡。遥々と伊勢国(三重県)から杜氏を招き、この場所で日本酒を造らせたようだ。博物館の裏手に当たる。 三の丸跡の一角に、林四平のレリーフがある。仙台藩士の彼は幕末に「海国兵談」を著した。四方を海に囲まれた我が国は、外国の脅威に負けぬよう軍備を急ぐべきとこの本の中で主張したのだ。だがそのことが幕府を非難したとの罪に問われ、蟄居閉門となった。やがて彼は世を恨んで狂死する。今ならごく当然の主張も、当時は余りにも時代より早過ぎた天才の過激な思想だったのだ。「妻なし子なし版木なし。金もなければ死にたくもなし」。四平の嘆きが聞こえて来そうだ。 三の丸跡の石垣。ここが博物館の入口。博物館で開催していたのは奈良薬師寺の国宝などを展示する特別展「国宝吉祥天女が舞い降りた!」だが、そのことはいずれ紹介することにしたい。<続く> さて今日は「伊達なマラニック」の当日。これから朝食を摂った後、仙台湾に浮かぶ3つの島を訪ねる。そこで15kmのウォークを大勢の仲間たちと楽しむ予定。帰宅は夕方。従って留守中にいただいたコメントへの返事は遅れるので、了解してほしい。また、ブログ友への訪問も、以上の事情により無理な場合があるので悪しからずご了解を。では、行って来ま~す!!
2015.06.20
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≪ 縄文の形と祈り2 ~新潟県立歴史博物館の展示から~ ≫ 縄文時代の遺物には、驚くような形のものが多い。今日も不思議な「作品」を紹介しよう。 青龍刀型石器 これは形状から青龍刀型石器と呼ばれているが、何に使われたのかは分からない。私は宗教儀式用だと考えている。 御物石器 これも何のための物かは不明。形が珍しいため、明治時代に同じような形状のものが宮中に贈られたことから「御物石器」と呼ばれる。 土偶 土偶には違いないが、一体何なのだろう。説明板には「動物云々」とあるが、実に不思議な形だ。 石版 これらは石に彫刻を施したもので、「石版」(せきばん)と呼ばれている。上の2つは目があり人物像のようだが、強い呪術性を感じる遺物だ。南米大陸アステカ文化の彫刻にもどこか似ている感じがする。 土偶 これらの土偶には乳房があるので、女性像だと考えられる。 女性器を象ったもので、豊穣と多産を祈ったと考えられる。 石棒 これらは石棒と呼ばれているが、男性器そのものだ。中には炉端に立てられたものもあったようだ。平均寿命が30歳以下(一説によれば27歳とか)である縄文人にとって、男女のシンボルを祀る行為は生命の再生と子孫の繁栄を願う神聖で切実なものだったろう。 王冠型石器 これは王冠型石器と呼ばれるが、やはり男性器を模したものだろう。チベット仏教の歓喜仏は男女の和合そのものの姿だし、インド仏教(本来はヒンズー教)の歓喜天も同じ思想に基づくもの。ヒンズー教のご神体であるリンガは男性器の形状。このような性器崇拝は時代と地域を超えて、豊穣、多産、子孫の繁栄、生命の再生を願う人類共通の願いなのだ。 我が国の道祖神は本来性にまつわる素朴な信仰だが、明治新政府によって卑猥なものとして外国人の目に触れないよう、「無難なもの」を除き大部分が破壊された。それでも「本来」の石像が各地に幾つか散見される。 さて、博物館の展示の紹介が長く続いたが、明日からは通常の旅日記に戻る。「雪国の暮らし」の残りは、来年の正月にでも掲載したい。<続く>
2013.12.13
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超大型台風8号が九州へ上陸しようとしています。これから皆様のお近くでも、風雨が強まることでしょう。どうぞ十分に注意してお過ごしくださいね~!! さて、今日も東北歴史博物館(宮城県多賀城市)で開催された特別展、『日本発掘』の展示物を紹介しますね。それらは日本でも有数の遺跡から出土した立派なものばかりで、普段はこんな風に一堂に会して観ることはとても無理なのです。考古学ファンにとってはまさに垂涎の的。幸いにも撮影が許可されていたため、こんな風に紹介することが出来ました。では、早速ご紹介しますね~!! 佐賀県吉野ヶ里遺跡出土の甕棺(かめかん)です。 弥生中期(2千年前) 吉野ヶ里遺跡は我が国を代表する弥生時代の遺跡で、私も23年前に訪ねたことがあります。その頃はまだ展示スペースなどが十分に整備されていませんでしたが、それでも大変重要な出土品が多いことに驚いたものです。ひょっとしてここが卑弥呼がいた「邪馬台国」と考えられたのも無理はありません。写真の甕棺は2つの大きな甕を合わせて、その中に遺体を安置する棺として用いています。 佐賀県吉野ヶ里遺跡出土甕棺内部の写真 同上 これは甕棺の内部に葬られた遺体です。良く見ると頭部がありません。この時代は稲作が始まり、富の集中が起こり、それを束ねる権力者が出現して小さな国家(クニ)が誕生しています。そのようなことを考えると、被葬者はクニ同士の戦いで首を切られた戦士と考えるのが普通でしょうね。「魏志倭人伝」の世界を彷彿とさせる写真です。 吉野ヶ里遺跡出土の筒型器台 同上 これは上部に器を載せる台です。器を直接床に置かず、このような器台に載せたと言うことは、よほど重要な儀式、特に宗教儀式に用いたと考えても差し支えないでしょうね。まさに祭政一致のこの時期を、思い起こさせる一品です。 吉野ヶ里遺跡出土の把頭飾 同上 小さくて良く分かりませんが、これは青銅製の剣の把手(取っ手)部分の飾りです。つまり手で持つ部分です。権力者の出現には武器が付きもの。原料である青銅はおそらく中国本土か朝鮮半島由来のものでしょう。武器は戦いで使うもの。その結果首を討たれた戦士もいれば、このように剣先のない取っ手だけが残った武器もあったのでしょうね。 吉野ヶ里遺跡出土の貝輪 同上 これは貝殻をスライスして作った貝輪です。腕などに装飾としてはめました。原料はイモガイです。沖縄などの南の島でしか採れません。この時代以降に日本列島で装飾品として使われたスイジガイ(水字貝)、ゴホウラガイ、タカラガイ(宝貝)などは全て南島から届いたものです。既にこの時代から「物流」があったことが分かります。卑弥呼の腕にも、このような貝輪がはめられていたのでしょうか。 茨城県常陸太田市泉坂下遺跡出土人面つき壺型土器 弥生中期(2千年前) いわゆる「弥生式土器」ですが、珍しいことに壺の上部に人の顔がついています。 これは上の写真を部分的に拡大したものです。口の周囲と目の周囲にギザギザが刻み込まれています。これは刺青(いれずみ)を表現したものと考えられています。「魏志倭人伝」にも、当時の倭人(日本人)が顔などに刺青をして水没(潜水)して魚を獲っていたいたことが記されています。 茨城県常陸太田市泉坂下遺跡出土人面つき壺型土器 同上 これも同じ遺跡から出土した人面がついた土器です。これをどんな風に用いたのでしょうね。私には呪術性が高いように思えるので、宗教的な儀式に使ったのではと考えているのですが。 これも上の写真を拡大したものです。口と目の周囲に刺青と思われる線刻があります。これが当時の風習だったのでしょうね。実は沖縄にも近世まで刺青の風習が残っていました。潜水漁法は今でも沖縄で行われていますが、顔などの刺青はその際に魚を鎮めるための呪術だったと思われます。常陸太田市は少し内陸部にあるので、多分海の漁とは関係ないはずですが。 和歌山県日高町荊木遺跡出土銅鐸 弥生中期(2千年前) この銅鐸には「六区袈裟襷紋」が施されています。6つに区切ったスペースの中に、袈裟(けさ)のような斜めの襷(たすき)が架かっている紋と言う意味です。銅鐸の使用方法はまだ十分明らかになっていませんが、収穫時にこれを鳴らして祝ったとも言われています。つまり楽器として使った訳です。銅鐸の中には、「べろ」のようなものが残っていたものがあり、ちょうど「風鈴」のような使い方だったとも言われています。 徳島市国府町西矢野遺跡出土銅鐸 弥生中期(2千年前) これも和歌山県出土の銅鐸と同じ紋が刻まれています。同遺跡は弥生時代のものですが、周囲には古墳群があると聞いています。また奈良時代には阿波国の国分寺と国分尼寺が置かれています。そうすると少なくても弥生時代から奈良時代まで、この周囲は徳島県でも最先端の文化を保ち続けていた文明の地であったことが分かります。出土品には、遠い祖先の暮らしぶりが分かるものも多いのです。 応神天皇陵出土水鳥型埴輪 古墳時代中期(1600年前) 応神天皇は第14代の天皇で、実在の人物と考えられています。墓陵は大阪府羽曳野市にある前方後円墳です。天皇陵を発掘することはないため、この埴輪がどんな経緯で発見されたのかは不明ですが、恐らくは陵の表面に落ちていたのを拾ったのではないでしょうか。継体天皇陵である今城塚古墳から出土したのは鶏型埴輪で、応神天皇陵からは水鳥型埴輪。古代の天皇の傍には鳥がいたと考えると、微笑ましくなりますね。 奈良県御所市鴨都波1号墳出土三角縁神獣鏡 古墳時代前期(1700年前) 三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は、中国皇帝が卑弥呼の使者に下したと考えられている重要な鏡で、国内でもかなりの数が発掘されています。だが、中国本土では1枚も見つかってないのが謎です。鏡の断面で、縁が三角形をしており、裏面に神像と神獣が刻まれているのが名前の由来です。最近の学説では国内で鋳造されたのではないかとも考えられており、謎は深まる一方です。 御所市鴨都波1号墳出土勾玉 同上 めのう製の勾玉(まがたま)です。一説によれば勾玉は胎児の形を模したものと言われており、呪術的な要素が濃い装飾品です。巫女(みこ)や尊い身分の女性が身に付けたと考えて間違いないでしょう。琉球王朝時代の最高神職である聞得大君(きこえおおぎみ)も巨大な勾玉を身に付けていたことが知られており、一部は今でも残っています。恐らくは卑弥呼の体もこのような勾玉で飾られていたのでしょうね。 御所市鴨都波1号墳出土紡錘車 同上 これはめのう製の紡錘車(ぼうすいしゃ)です。紡錘車は糸を縒(よ)る際に、真直ぐになるよう整える役目を果たす装置です。貴人が直接使う道具ではありませんが、再び生き返った時暮らしに困らないよう、墓に入れた「ミニの道具」の一つです。私も高校時代に仙台市の遠見塚古墳の周辺で滑石製の紡錘車を拾ったことがありました。ツルツルした見事なものでした。今から50年以上も前のことですが、畑の表面には土器の破片が幾らでも落ちていたのです。<続く>
2014.07.10
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11月8日土曜日。斑鳩で法隆寺などを観た後、私達は奈良市の平城宮跡へ向かった。私がここを訪れるのは3度目で、今回は19年ぶりのこと。近鉄西大寺駅で降りて、朱雀門まで歩いて行った。2km以上は歩いただろうか。ようやく目の前に朱雀門が現れた。これは昭和63年に復元されたもので、私が見るのは初めてだった。 近づくと威風堂々の建物だ。平城宮跡は平成10年に世界文化遺産に登録された、我が国最初の考古学上の史跡。大正11年(1922年)国の史跡に指定され、平成3年には特別史跡に指定されている。 慶雲7年(707年)元明天皇が藤原京からこの平城京へと遷都した。平城宮は都の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏(だいり)と儀式を行う朝堂院、役人が執務する官衙(かんが)からなる。広さは120hで36万3千坪。これは東京ドーム25個半分に相当する。朱雀門はその正面入り口に当たり、羅城門とも呼ばれる。建物の上部に「朱雀門」と刻まれた額が見える。 これが建物の内部。朱色に塗られた鮮やかな柱が眩しい。 そしてこれが廂(ひさし)で、天平時代の面影を偲ぶのに相応しい。11月1日から9日まで、この平城宮跡地を会場にして、「平城京天平祭」が開催されていた。それをテレビで観て、急遽駆けつけたのだ。 これはシンボリックに思えて撮った扉と旗。スタッフの方に聞くと、間もなく東院庭園で行われているイベントが終了する由。 そこで慌ててこの門を潜って中に入り、東院庭園(特別名勝)へと向かったのだが、何せ東京ドーム25個半の広さ。なかなか辿り着かないのだ。それも当然、ここは近鉄の路線が走っており、踏切もある。いずれ2つの駅と線路は地下に潜るようだ。昭和3年(1928年)に発掘が開始され、その結果平城宮跡地であることが判明して順次国有地として買い占められ現在の広さになったが、茫漠たる原野が続く。ついにここで妻の辛抱が切れた。 仕方なく方向を変えて大極殿方面に向かった。ここにあったのが「天平花桟敷」。天平時代の衣装をまとった人形が花の中に立っていた。 こちらも同じで、咲き乱れる鮮やかな花々。 こちらは祭を盛り上げるための企画で、天平時代の衣装を身にまとった貴人達。ひょっとしたら天皇と皇后(妃)、皇太后(母)かも知れないね。 ここが天皇が執務した大極殿(だいごくでん:第一次)で、平成22年に再現された。もちろん私は観るのが初めて。かなり大きな建物だ。屋根の上に鴟尾(しび=両端)と宝珠(中央)が見える。このレプリカについては後述する。なお、第二次大極殿は基壇だけが復元されている。 斜め方向から見た大極殿 こちらは側面から見た大極殿だが、その巨大さが分かる。 大極殿の内部。奥に天皇の玉座である高御座(たかみくら)が見える。 高御座の正面。ここにかつて天皇が座っていた。 宝珠(左)と鴟尾(しび=右)のレプリカ。共に屋根の飾りで、鴟尾は鬼瓦と同じ役割を果たした宮殿用のもの。大極殿の最初の写真で、屋根に乗っている姿が分かる。 欄干の飾り 東寺五重塔の夜景 この後私達は京都へ向かった。だが平城宮跡でかなり手間取ったため、当初予定していた東寺へは入れなかった。真っ暗な空に立つ東寺の五重塔。その陰影を寺の外から眺めただけで終わった。ここでも怒りを爆発させた妻。観光が目的だった彼女に対して、私の今回の旅は歴史探訪と研究のため。その差が出たのだと思う。来年は何の気兼ねもない一人旅が良いかもね。京都駅では無事3日間の旅を終え、祝杯を上げた私だった。<完>
2014.12.04
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5月下旬のある日。私は街中の田圃でカルガモの親子を発見した。その翌日、田圃の隣にあるこの博物館を訪れた。 カルガモ親子を観た日に、こんなポスターが博物館に貼られていたからだ。私が住む近辺の古墳がテーマ。これは是非観なければならないだろう。 これは大野田古墳群の第10号墳から出土した土器。左側が円筒埴輪で、右側が朝顔形埴輪。大野田古墳群は、地下鉄富沢駅の東側にあり、土地区画事業に伴う発掘調査で44基の古墳の存在が確かめられている。古代東北の一大先進地だった訳で、付近には奈良時代の郡山遺跡がある。これは陸奥国府多賀城の前身と考えられる官庁だ。その官庁の付近にこれだけの古墳が存在したのだから、この地が早くから大和政権と深い繋がりがあったことが分かる。 今回の企画展では、古墳群の中から数か所だけ出土品などが紹介された。そして発掘後それらの貴重な古墳群は、残念ながら破壊されてしまった。理由は土地の再開発に伴う発掘調査だったからである。広大な土地を20年以上に亘って調査していたが、これ以上再開発を遅らせる訳には行かなかったのだろう。実に悲しいことだ。古墳時代の話など興味がない人が大部分だろうが、我慢して写真だけでも観てほしい。 これは古墳群の中の一つである春日社古墳(円墳)の発掘風景。名前の由来は、この場所に春日神社があったことによる。きっとここには大切なものが眠っているとの言い伝えがあったのだろう。 ここから驚くべき物が出土した。左側は土の上に残された盾の痕跡。右側はそれを元に再現した「隼人の革盾」(はやとのかわたて)。東北での出土は初めてで、全国的にも珍しいもの。恐らくは大和朝廷と深い関わりがあった豪族の墓だったのだろう。 左側は馬形埴輪で、右側は家形埴輪。このような物が古代東北の古墳でも出るとは驚きだ。やはりこの地が早くから開けた所だったことの証拠だろう。 少々見にくいがこれは副葬品の鉾。やはり権力の象徴で、墓の主がこの周辺を治めていた豪族であったことが分かる。 鳥居塚古墳(前方後円墳)の発掘状況。名前の由来は春日神社の鳥居があったことによるようだ。 王ノ壇古墳(方墳)の発掘風景。これが大野田古墳群で唯一残った古墳。以前にブログで紹介したことがある。この「王ノ壇」が現在の地名である「大野田」に変化したとの説がある。その大切な古墳も、今では単なる「土の山」となってしまった。古墳の面影を全く感じないただの公園なのだ。 左側は木棺墓の跡。墳丘部はなく、単に土を掘っただけのもの。右はここから出土した須恵器。 上の木棺墓の脇にあった袋状の副葬品。左側は埋納状態で、右側はその内容物だが見事なものだ。 ここからは西多賀地区の古墳。ここは原遺跡で方墳が2基、円墳11基があった。付近には三神峯古墳(私が時々走っている公園内にある)などの古墳が数多くある。いや、「あった」と言った方が適切だろう。今はその大部分が開発のために破壊されているのだから。現在古墳の跡地には、紳士服の量販店が建っている。 原遺跡からの出土品。左から人物埴輪、円筒埴輪、朝顔形埴輪である。 これは裏町古墳(前方後円墳)の発掘状況で、右は「乳文製銅鏡」の出土状況。私は20代の一時期、この周辺に下宿していたことがあり、古墳の名は聞いたことがあった。今は住宅地になり、古墳は残っていないはず。身近な場所にある古墳が、こうして次々に姿を消してしまうのが残念でならない。 裏町古墳から出土した須恵器(左)、樽形はそう(液体を入れる容器:中央)、台付き土器(右) 土手内横穴墓の玄室内の様子。ここから愛宕神社にかけては数多くの横穴墓があった。ここ土手内は郡山遺跡から最も近く、当時の官庁であった国府に勤務した役人の墓との説もある。 写真は同横穴墓から出土したはそう(左)、長頚形土器(中央)、土師器の碗(右) 自宅からあまり離れていない場所にあったこれらの古墳は、「王ノ壇」以外は全て地上から消えてしまった。私達の遠い祖先を知る手掛かりとなるものだけに、破壊されたことが残念でならない。発掘時の調査書と、遺物が残されていることがせめてもの慰めだろうか。今となっては貴重な郷土史の史料であるこれらの遺物を観ることが出来て、幸いだったと言えるのかも知れない。 小さな写真をたくさん詰め込んで、きっと見難かったと思う。また最後までお付き合いいただいたことに感謝したい。
2015.07.18
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<1枚のパンフレットから探る2つの藩の歴史> 11月23日。私は仙台市博物館で開催中の特別展「宇和島伊達家の名宝」を観ました。パンフレットには「政宗長男・秀宗からはじまる西国の伊達」と副題がついています。愛媛県宇和島市に、もう一つの伊達家があったのです。特別展の会場内は当然撮影禁止です。そこで今日はもらったパンフレットから写真を借用し、仙台、宇和島2つの伊達家の歴史を振り返ってみましょう。 <秀宗童体装束> 桃山時代の幼児用狩衣と袴。 秀宗は伊達政宗の長男として戦国時代に現在の宮城県村田町にあった村田城で生まれた。母は側室で飯坂氏の娘であった。 <伊達政宗甲冑椅像> 松島瑞巌寺所蔵 慶安5年(1652年)作 宮城県文化財指定。 父政宗は戦国時代の武将で、62万石の仙台藩祖。家来の支倉常長をヨーロッパに派遣するなど、江戸時代に入ってからも野望を持つ英雄だった。 <「青山」銘の琵琶> 桃山時代の作で政宗の正室だった愛姫愛用のものと伝わる。 愛(めご)姫は田村氏の出。2人の間には長らく子がなく、政宗35歳、愛姫34歳の時にようやく嫡男虎菊丸が誕生した。 <伏見御殿屏風(花鳥図)>の一部 桃山時代。 話は遡って、政宗の長男として生まれた秀宗は幼くして秀吉の人質となり、後に猶子となる。やがて誕生した秀頼の小姓として仕え「秀」の一字をもらった。 <上記屏風絵の一部> 秀吉亡き後、関ヶ原の戦いが勃発。この時秀宗は、西軍に加担した五大老の1人である宇喜多氏の人質となった。 <上記屏風絵の一部> 関ヶ原の戦いの後、秀宗は覇者となった徳川家康の人質として差し出された。これは当時の武将の子供の宿命でもあった。 <上記屏風絵の一部> 大坂冬の陣には父政宗と共に参陣。これが彼の初陣だった。 <豊臣秀吉画像> 慶長4年(1599年)狩野光信筆 重要文化財 やがてこの後、政宗に嫡男が誕生する。政宗は秀宗の扱いを家康に伺った。彼はかつて秀吉の猶子(養子のようなもの)であったためだ。家康は秀宗を、関ヶ原の戦いの報償として政宗に与えた宇和島10万石の城主とすることを許す。これが宇和島伊達家の誕生秘話であった。一方、嫡男の虎菊丸は元服後忠宗と名乗り、第二代仙台藩主となる。 <宇和島御城下絵図> 元禄16年(1703年)作 政宗は秀宗のお国入りに際し、自身の家臣を秀宗に与えた。1200人の家臣団のうち、2割が政宗の家臣だった由。さらに支度金として6万両を貸与した。宇和島城は海城で、濠は海水だった。現在は地続きとなり、小さな櫓が天守閣代わりに残っている。 <香木> 銘柴舟 政宗が秀宗に与えたもの だが、政宗が家老として帯同させた山家(やんべ)氏一家が、何者かによって暗殺される。秀宗はこのことを政宗に知らせなかった。政宗は激怒し、困り果てた秀宗は山家氏を祀る和霊神社を建立した。これが今でも和霊祭として続いている。また鹿踊りなど東北の祭が伝わっている。 <黒塗御紋散梅に竹文蒔絵香道具> 江戸時代中期 仙台藩と宇和島藩には、それ以降も幾つかの確執があった。6万両の貸与の件や、仙台藩の分家ではないとの主張も宇和島藩内で起きた。だが両藩両家の交流は続き、血筋が絶えた際は養子となって幕末まで継いだ。 <指面> 第3代仙台藩主綱宗作 江戸時代中期 仙台藩においてもお家騒動が起きた。3代藩主であった綱宗は若くして藩政を怠り、芸能などに溺れた文化人。藩の危機と感じた家臣は、綱宗の隠居を幕府に願い出た。これが許されて、幼い第4代の藩主が誕生する。この補佐役だった原田甲斐らがこの機に権力を延ばそうと画策する。これが世間を騒がせたお家騒動となって原田甲斐らは断罪される。いわゆる「千代萩」として戯曲化された事件がこれだった。 <花菱月丸扇紋散蒔絵三棚> 安政3年(1856年)佳姫婚礼時所用品 幕末には宇和島藩の血筋が絶えた。この時に第8代藩主となったのが旗本吉田家から入った宗城公。英明な彼は西洋文化を取り入れ、西洋医学を学んだ医者を藩内に置いたり、蒸気機関を製作させたりした。やがて戊辰戦争が勃発すると、宇和島藩は官軍に就いた。 一方の仙台藩は奥羽越列藩同盟の旗頭として幕府側に就いた。結果はご存知の通りで、朝敵となった東北各藩は、明治に入っても長らく冷や飯を食う立場に置かれたのだ。 <伏見御殿屏風図(唐人図)> 桃山時代 明治後期、明治維新の際に功労があった宇和島伊達家は侯爵となるが、仙台伊達家は伯爵のままに置かれた。爵位が逆転したのだ。かつての「本家」の土地と「分家」の土地が「和解」したのは昭和50年(1975年)。仙台市と宇和島市は「歴史姉妹都市」を締結した。今年は40周年に当たり、記念事業としてこの特別展が開催されたのである。
2015.12.05
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<釜房の家2> 宮城県川崎町にみちのく杜の湖畔公園と言うのがあります。国土交通省管轄の国営公園です。南ゾーンには東北各県の古民家を集めた「ふるさと村」があり、その一角に釜房ダム湖の湖底に沈んだかつての集落から移築した「釜房の家」が再現されています。今日はその家に置かれていた民具とかつての集落の暮らしぶりを紹介します。 障子を通して自然光が入って来ます。そのすぐ傍に布製の背負子(しょいこ)がありました。 長持(ながもち)です。金具に棒を通して担いで運べるようになっていました。箪笥と似たような使い方をしたのでしょう。これを嫁入りの際に持参したようで、東北の各地には、それぞれ目出度い「長持歌」が残されています。 「あんか」の入ったコタツです。この「釜房の家」ではダム湖に沈む前の昭和30年代の暮らしを再現しています。 コタツを入れるまでもない寒さは、火鉢で凌いでいました。冬の朝はコタツや火鉢の火を熾(おこ)すのが一番初めの仕事で、私も小学生の頃にやっていましたね。 アイロンです。「煙突」があるので、中に炭火を入れていたのかもね。 電話器です。ダイヤルはなく、交換手を呼び出す「交換式」なのかな? 座敷の隅に晴れ着が掛けられていました。婚礼の準備でしょうか。 祝いの酒を入れる桶のようです。 酒を注ぐ道具です。考古学では「注口器」と呼ぶものですが。 お祝い用のお膳と杯です。 ここからは「釜房の家」に張られていたかつての暮らしぶりを写した写真の紹介です。最初は馬を使った農作業の様子です。耕運機がまだない頃、農家では馬や牛が重要な役割を担っていたのです。 木こりも男達の仕事。そして重要な収入源だったのではないでしょうか。 農家では女性達も重要な働き手でした。これは豆の選別作業のようです。 「念仏講」と呼ばれるものです。当時の農村での伝統的な宗教行事だったのでしょう。 「いづめこ」と呼ばれる藁製の容器に入った幼児です。農繁期は子供の面倒を見ている暇がなく、安全性の見地からこのような道具が発明されたのでしょうね。まさに「必要は発明の母」です。いよいよ明日は最終回になりました。<続く>
2016.02.29
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<素晴らしい縄文土器1> 遮光器型土偶 昨日私はこれまで専門書を読んで来たと書いたが、そのほとんどは忘れている。ただ、「自分が何を知らないか」は分かっているので、調査も簡単だ。昨年は岩手県盛岡市の志波城公園、遺跡まなびの館、もりおか郷土館、秋田県鹿角市の大湯環状列石(サークルストーン)、青森県五所川原市の十三湊遺跡(中島資料館)、亀ヶ岡遺跡(縄文館)、青森県立郷土館を訪ねた。 また今年は岩手県遠野市の「とおの物語の館」、遠野城下町資料館、遠野市立博物館、青森県八戸市立是川縄文館、むつ市の恐山、秋田県秋田市の旧久保田城(千秋公園)、秋田県立博物館を訪ねた。基礎知識はほとんどないまま現地に赴き、遺物や城跡などを自分の目で確かめている。そして帰宅後にネットで事実を確認し、ブログに書くのがほとんどだ。写真は是川縄文館で見た遮光器型土偶の再掲。 これは是川縄文館で見た装身具で、翡翠(ひすい)製の玉。恐らくは新潟県糸魚川市姫川産の翡翠だと思う。ここからはまだ公開してなかった写真を掲載している。 これは胸飾り(ブレスレット)だろうか。メノウ製の勾玉などからなる豪華な作りだ。(是川縄文館) 土製の耳飾り(イヤリング)で細かい装飾が施されている。耳たぶに穴を開け、これを嵌めるのだが、かなり重そうだ。まるでクッキーみたいに見える。(是川縄文館) 縄文土器の深鉢。釉薬はかかってないと思うのだが艶があり、まるで青磁のようだ。装飾も実に見事。(是川縄文館) 縄文土器の壺。これも見事なデザインだ。口縁部には小さな突起が見られ、呪術性を感じる。(是川縄文館) 「人面」のある壺。是川縄文館のパンフレットから借用。 上の写真を一部拡大した。人面が良く分かるだろう。 香炉型土器と呼ばれるもの。呪術性、宗教性を強く感じる。右のものには注口部があるようにも見える。(是川縄文館) 深鉢など。黒く焼けた痕があるので、煮炊き用に使ったのだろうか。それにしてもこんなに深い(長い)鉢を、どんな風に使用したのだろう。(是川縄文館) ここからは秋田県立博物館所蔵の縄文土器です。最初は人面のある壺の破片。 香炉型土器。独特の装飾から宗教儀式に使用したのではないか。どこか人面にも見える。 これらは「銅鐸型土器」と呼ばれるものです。小さな鈴のような形をしており、実用性はあまり感じない。おそらくは宗教行事に利用されたのではないか。 これは「キノコ型土器と呼ばれているもの。本当にキノコそっくりなので、キノコを模したのだろう。それにしても縄文人の精神性には謎が多い。 説明板には「三角溝形土製品」とある。これはユニークな郵便受けのようにも見えるし、ロールケーキのようにも見える。縄文人は一体これをどんな風に使ったのだろうね。謎が深まる。少々退屈かも知れませんが、明日も縄文土器の紹介の予定です。<続く>
2016.08.29
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<イタコとユタ その2> 私がお会いしてお話ししたイタコさんはこの方で、宮城県出身だそうだ。子供の時から霊感が強く、人が見えないものが見えた由。成人してイタコさんについて修行され、ご主人を亡くされた後は、開山期間中は盛岡出身のイタコさんと一日交替で恐山にいるとのこと。 降霊(口寄せ)は一霊につき4千円と壁に張られていた。遠くは沖縄からも来られ、ユタのことも知っていた。お話を聞いたのは30分ほど。とても貴重な体験だった。 このシリーズを始めるに当たって、ネットで画像検索をした。ヒットした一枚がこれ。再度名前で検索すると盛岡の方らしい。恐らく私が会ったイタコさんと交代で勤めているのはこの方だろう。かつて恐山には20名を超えるイタコがいたが、今はたった3名と聞いた。昔は盲目の方が多かったそうだが、現代のイタコさんは携帯電話を使うモダンな方だった。 こちらの写真は昨年の一人旅で訪れた「青森県立郷土館」の民俗コーナーに掲げられていたもの。どうやら「口寄せ」の最中で、亡くなった方の霊を呼び起こしているところ。かつては民間宗教の一種で、「お山信仰」や「おしら様信仰」とも関係してると聞いた。だが現在は恐山の一角にある修行棟に常時(降雪期の閉山中は除く)常駐していた。 これに対して沖縄のユタは霊感の強い人が自然発生的に就くようで、「探し物」などの相談にも応じる一般的な職とも思える。それだけ沖縄ではユタが暮らしに関わっていたのだろうし、貧しさゆえにインチキも紛れている理由なのかも知れない。 写真は青森県立郷土館で撮影したイタコの所持品。お経、祈祷の際に弦を鳴らすための弓、数珠などが見える。弓はアイヌの儀式にも通じるものがありそうだ。 エイサー ここで沖縄の言葉と東北の言葉を比較してみたい。 (女) 東北:おなご 沖縄:いなぐ (イタコ) 東北:いたこ 沖縄:ゆたぐわー (芋) 東北:いも 沖縄:うむ 言葉の響きから、元は一緒の語源だったことが推定出来よう。2段目。東北の「こ」も沖縄の「ぐわー」も可愛いと言う意味の接尾語だ。3段目。芋の古語は「うも」で、本土ではこれが「いも」に、沖縄では「うむ」に変化したと考えられる。琉球語が日本語の古語に近く、一方言と考えられるのは、共通の語源を持つためだ。私が沖縄に赴任した時に「古い日本」を直感したのも、きっとそのためだろう。 再び東北の民間信仰に話を戻す。写真はおしら様。ご神体は桑の木を削って作り、その上からきれいな布を被せてある。2体1組で、1体は馬か男。もう1体は娘の姿をしている。主として岩手県、青森県で農業の神、蚕の神、馬の神として信仰されている。この祀りにはイタコも関わっていたようだ。この写真も青森県立郷土館で昨年撮影したもの。 最後に青森県立郷土館にあった「祭文語り」の写真を載せておこう。これは門付芸、大道芸の一種で、ほら貝を吹きながら「説教祭文」を語るという芸能。江戸初期には三味線を伴奏に歌謡や浄瑠璃を取り入れた芸能となり、浪曲の源流となったそうだ。琉球王朝時代の叙事詩「おもろさうし」も本来は歌謡で、節をつけて歌っていた由。<続く>
2016.09.26
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先日病院に行った際、山道を走って帰りました。その途中に仙台城(青葉城)があります。当日は積雪がありましたが、新雪なので走れるだろうと判断してのことです。今回は詳しい説明は省略し、写真を中心に紹介しますので、ご了承くださいませ。 旧二の丸の城壁(右)下方から隅櫓方面を観ています。 隅櫓です。「岩手宮城内陸地震」と「東日本大震災」で2度被害を受け、2度修復工事を行いました。仙台城で唯一復元されれている建物です。 隅櫓の全容です。この建物と二の丸との間にかつては大手門がありました。 戦災で焼失する以前の大手門です。車も通れたんですねえ。(仙台市民俗資料館所蔵) 在りし日の大手門の偉容(ネットから借用) 隅櫓の背面です。この横を通って本丸へと上ります。 本丸へ上る途中にある中門跡(右手奥も)です。震災で崩壊し、修復しました。 本丸(天守台)北面の石垣です。地震で崩落し、修復工事を行っています。 これらの石垣も数年間をかけて全て修復工事を行っています。面白みのないのはそのためです。 修復工事の概要図です。この工事中に中から築造当時の石垣と、その後に天守台を拡張した際の石垣が出て来ました。土の色が異なる部分と考えて良いでしょう。元々の地山は肌色の部分と思われます。 これが内側に埋まっていた古い石垣の見本です。天守台に展示してあります。 石垣の上部をズームしてみました。 北面の石垣を逆方向から見ています。 石垣の西面を観ています。手前側に登城のための石段があります。 天守台の復元図です。手前(東)及び左側(南)は深い崖のため堅固で、天守閣を設ける代わりに「大広間」を置きました。 これが復元された大広間の内部です。(ネットから借用) 今年は藩祖伊達政宗公の生誕450年に当たります。徳川家康も一目置いた東北の英雄は、遠くスペインやローマにまで使節を送る実力者でした。<続く>
2017.02.19
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~庭の花を中心に~ これが南の畑で、庭の奥半分を占拠。左の畝からキュウリとミニトマト。その右がトマト10本。玉ネギ55本の畝。一番右側が雲南百薬3本で若干の余裕あり。上の横一列がジャガイモ。この他、家の東側にジャガイモ畑。家の裏側にネギの畝、三つ葉畑とニラの畑があります。雑草が出て来るこれからが大変。そして夏は蚊が刺しますからねえ。 そしてこれが我が家の狭い庭。この右手に畑があります。若草色の樹はカエデ。樹高はまだ1mほどの小さな木。その上方に梅の木があるのですが、写真では幹の途中でちょん切れて見えません。庭にはバラが4本ほど。でも結構草取りが大変なんですよねえ。 手前が小さな花壇で、その奥が居間の前庭。突き当りの角に柚子の樹を植えています。大きく繁ってるのがモッコウバラです。また東側の通路には、レンギョウ、梔子、ムクゲなど。そして西側の通路にはヤブツバキ、ハナズオウ、ユキヤナギなど。裏庭に渋柿。南側の畑脇に金木犀、オオデマリ、アジサイ、シャラなど。玄関脇にシャラと南天が植えてあります。では、目下の庭の花を以下に。🌸 株をもらって来た白花のスミレ。正式な名前は不詳。種が零れて増えてゆきます。 白花のイカリソウ。形が船の錨に似てることからの命名。元は山野草かも。 シバザクラ。ピンク色のは間違って根を抜いたら枯れてしまいました。 スイセンは5種類以上あるようで、順番に咲き出します。中にはもう終わったのも。 朱鷺(とき)色の木瓜(ボケ)。山形勤務時代の職場の一枝を挿し木したもの。 これは鳥の糞に混じった種が発芽、成長した白花のハナズオウ。 安物のチューリップが何本か、花壇で咲いています。 ユキヤナギは愛犬マックスのお墓の傍に。 ムスカリ(和名ブドウスイセン)は今が最盛期。 撮影者同様にボケてしまったドウダンツツジ。 可憐なハナニラも今や群落に・・。 冬の間はこの花しかなかったフユシラズも、春になって大成長。 セイヨウシャクナゲ(西洋石楠花)の蕾もかなり膨らんで開花寸前です。 ここ数日の仙台は夏日になるほど。北極海の1月の気温が平均で20度以上高くなってると言うから、やはり異常気象なのでしょう。このため開花がかなり早く、ツツジが咲き出しています。またシランはツボミ状態など、予備軍も続々待機中。庭の草取りや農作業が本格化しそうです。
2018.04.23
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~テレビと映画に観る日本の郷愁~ 何気なくTVを観たら、小津作品をやっていた。松竹の『お茶漬けの味』で昭和30年頃の制作のようだ。夫婦のちょっとした日常を描き、佐分利信が夫役、その妻を木暮実千代が演じていた。もちろんカラーではなくモノクロ。それもやけに暗い画面だ。暗いのはきっとその頃の時代も反映していたのだろうが、テンポもやけにスローモー。現代人ならきっと直ぐに飽きてしまうだろう。 翌日もたまたま小津作品を見た。今度は池部良と淡島千景の夫婦の物語。どうでも良い痴話げんかが延々と続く。映画の中で本人を観たのは初めてかも。そして若い女優の顔にビックリ。ひょっとして岸恵子じゃないかと思ったらやっぱりそう。淡島千景もきれいだった。昭和30年当時私は小学6年生。観ていた映画は東映の時代劇か日活の裕次郎で、松竹は大人の映画なのか、全く知らない世界だった。 小津安二郎は明治36年(1903年)東京生まれ。若くして映画に憧れ、戦前に松竹入社。助監督から監督を務め、一時戦地にも赴いた。復員後も映画を撮り続け、自ら脚本も書いた由。昭和30年当時は、日本映画監督協会理事長の要職にあったようだ。気に入った俳優や女優を使い続け、昭和38年(1963年)60歳で逝去。生涯独身を貫き、大勢の女優が監督の死を悲しんだ由。 3日目は『東京暮色」。父親が笠智衆(りゅう・ちしゅう)で、長女が原節子(左)、次女が有馬稲子。次女は最初、蘆川いづみと間違えた。男と女の感性の違いは、時代が変わっても同じようだ。貧しくて汚かったが、今日の繁栄はあの時代を乗り越えてこそのもの。強い郷愁を感じるのは、きっと私も同じ時を過ごしたからだろう。昭和も遠くなった。そして来年は平成も消える。 一方YouTubeで観たのがこの番組。ビックリするほど面白くて、結局5回分とも順次観てしまった。こちらは2001年の「NHKスペシャル」で取り上げたテーマだった由。その頃は現役で忙しく、観る暇がなかった。もし当時観ていれば最新の学説を知って認識を新たにしていたはず。それほど自分にとっては斬新でショックな内容。17年遅れでも観られて良かったと言うべきだろう。 遮光器型土偶 シリーズの構成は以下の通り。第1集:マンモスハンター シベリアからの旅立ち 第2集:巨大噴火に消えた黒潮の民 第3集:海が育てた森の王国 第4集:イネ 知られざる1万年の旅 第5集:そして日本人が生まれた。考古学ファン、いやいや日本人なら誰でも関心のあるテーマと内容。一体日本人はどこからやって来、日本列島に定着したのかの謎を解く手掛かりになるからだ。 「旧石器時代」の「日本」は、北は樺太経由で、南は東シナ海経由で大陸と繋がり、決して孤立してなかった。だから象やトラなどの動物を追って、人間も日本へとやって来た。ただし火山国の日本は酸性の火山灰に覆われて、当時の人骨の大部分は融けてしまう。かつて発掘されたと言う「明石原人」や「葛生原人」は失われ、「偽石器事件」で日本の旧石器時代研究が50年も遅れてしまった。 古代米 このシリーズで日本人のルーツ、列島での米作りは縄文時代から始まっていたこと、三内丸山遺跡が滅亡した理由、近隣諸国との文化の共通性や独自性などたくさんの新事実を知った。こちらは遥か遠い祖先たちの暮しだが、やはりどこかに懐かしさを覚える。恐らくは自分の体に流れている「日本人の血」が騒ぐのだろう。そして生きている限り、このテーマを追い続けるのではないかと思うのだ。
2018.10.14
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~わが内なる差別~ <ねぶた 阿倍比羅夫の蝦夷征伐> 東北に生まれたことで、東北の民が古来より蔑視されて来たことを知りました。蝦夷は「えみし」と読み、野蛮な民とされたのです。それは都から距離が離れていて実態を知らなかったための誤解で、彼らにも彼らの文化があった訳です。えみしはアイヌとは異なり民族的には全く一緒。強いと言う意味もあって、蘇我蝦夷のように有力な古代豪族の名にも用いられました。 古代東北の民、蝦夷と同様の立場が九州南部の熊襲(くまそ)や土蜘蛛(つちぐも)や隼人(はやと)でした。こちらも都から遠く離れていたため実態を知らずに蛮族とされ、日本武尊(やまとたけるのみこと)などによる征伐の対象となったのです。 四国に転勤したことで、東北にはなかった「部落問題」を知りました。何と子供たちが通う学校の直ぐ近くに、その被差別集落があったのです。「士農工商」と言う明確な身分確立の世の不満を解消するため、最下層の「えた、非人」と言う階層を作ったとの説を聞きました。 住井すゑの「橋のない川」は近畿地方のある被差別集落をテーマにした長編小説で、私はこれを読んで部落問題と部落解放運動の存在を知りました。東北人には全く異質な世界です。大阪に転勤して街に出ました。そこは有名な古寺の傍でしたが、とても異様な雰囲気でした。そこにはアンタッチャブルな空気が漂っていて、一角が被差別集落であることを直感したのです。 沖縄に転勤したことで、沖縄についてたくさんのことを学びました。歴史、文化、文学、風土、生態、宗教、芸術、言語などです。戦火で焼失した沖縄関係資料の収集が私の仕事の一つだったこともあって、ずいぶん本を読みましたが、琉球処分で沖縄が近代国家日本に組み入れられる過程についても学びました。近代日本にいち早く馴化させるため、琉球方言を標準語に変える努力を子供たちに強い、学校内で方言を使った子供の首に「方言札」と書かれた札をぶら下げることもあったようです。 東北出身の県令(現在の県知事)が貧しい沖縄に同情して善政を敷いたことも、琉球を支配した旧薩摩藩出身の県令が鹿児島県の商人を優遇したこともありました。貧しかった沖縄県民が当時開かれていた航路で移住した関西で、容貌や言葉で嫌がらせを受けたと聞きます。そしてハワイやブラジルなどへ県民は雄飛しました。勤務当時の部下が先祖は中国人と言ったことがありました。それだけ中国を敬い、誇りにしていたのです。でも彼が言ったことは嘘でした。沖縄では今でも通じる話です。同じ日本民族なのにねえ。 関東大震災 日本の古代史が好きだった私は、手当たり次第にそれらに関した本を読み、やがてその関心が幕末から明治期にまで至りました。その過程で歴史小説も読み始め、関東大震災当時朝鮮人が井戸に毒薬を投げ入れたとの噂を広めて、60名ほどの朝鮮人を虐殺したことを知りました。当時朝鮮は日本に併合され、白丁(ぱくちょん=奴隷)などの身分制度は解体され自由の身となっていたものの、半島では依然として蔑視は残っていたのです。 それで彼らは満州国や内地へと渡りました。そこでは同胞からの差別は無くなったものの、一部の日本人からの蔑視はありました。関東大震災当時は幸徳秋水らの社会主義者が捕らえられているので、きっと憲兵隊などによる思想取り締まりが強かったのだと思います。不幸で暗黒な時代でした。 博物館に勤務したことで、アイヌにも関心を抱くようになりました。アイヌの口承文学「ユーカラ」を読み、動画でそれを耳にし、幾つかの博物館でアイヌの衣装や民芸品を見、一度は北海道に出かけてアイヌ人初の国会議員萱野茂氏から直接アイヌ語の話を聞いたこともありました。それらの中で、明治新政府がアイヌの日本化を図った方策などについても知りました。日本語教育は沖縄と一緒ですが、アイヌからは無理やり土地を奪ったのが、沖縄と全然異なる点です。 広大な北海道の中の好猟場や良漁場を失ったアイヌたちの生活は困窮しました。固有の言葉を失い、宗教を失い、次第に彼らは追い詰められて行きます。その中で純粋なアイヌの血を引く人も激減して行きます。仕事を求めて都会へ出、差別や迫害を避けて道外へと移住したアイヌ。今でも彼らの暮らしは苦しく、日本人に同化することで辛うじて生き延びているのが現状です。そんな中での「アイヌ新法」であり、ウポポイなのでしょう。 この話をある親子の肖像を借りて記しました。女性の名は宇梶静江。詩人、古布絵作家、絵本作家、そしてアイヌ解放運動家です。男性の名は宇梶剛士。職業は俳優で、ウポポイの開設PRアンバサダーを務めています。上の写真はそれぞれの若き日のもの。静江の夫は和人。剛士は元暴走族のリーダーでした。母子が歩んだ道は、恐らく苦難に満ちた茨の道だったのでしょう。 親子はアイヌに対する蔑視と差別から、都会へと逃れて来たようです。その遥かなる苦難の道のりを思います。二人は今、アイヌの誇りと共に生きています。ちょっとしたきっかけから書き始めたこのシリーズですが、何とか書き終えることが出来ました。私は博物館もアイヌも歴史も大好きなので、是非ともウポポイでは真実を伝えて欲しいと願っています。北海道に嘘は似合いません。開拓のことも真正面から受け止め、是非取り上げて欲しいものです。それでこそ「民族の共生」だと思うので。 このシリーズを読むために私のブログを訪ねて下さった皆様。どうもありがとうございました。皆様のお陰で何とか最後まで書くことが出来ました。心から感謝します。もしもこれだけたくさんの方が来て下さらなかったら、きっと毎日は書けなかったと思います。私はアイヌに対する偏見は全くありませんが、もしも不適切な表現や間違った理解があったらお許しいただきたいと思います。 確かにアイヌと和人の交流の歴史を見れば、時には戦って血を流したこともあったと思います。気高いアイヌの魂同様に、純粋な魂を持って北海道での開拓に挑んだ和人がいたこともまた確かな事実です。アイヌと和人がこれからも共に心を通じ、共に歩むことが出来るよう願って筆を置きます。ではまた。感謝。<完>
2021.03.09
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~エロス・諸行無常~ 歓喜仏 愛欲の業火仏も人もまた *ごうか まぐわひて人生まれける道理かな チベット仏教の仏像などには性〇為そのものと思われる形のものがある。大抵は「歓喜仏」(かんきぶつ)と呼ばれ、今も厚い信仰の対象である。その真意は到底凡人には理解し得ないが、あるいは生命の起源が真理につながるとの考えかも知れない。 クメールの女神の笑みに惑ひつつ <アンコールワット彫像> 東南アジアの女神たちもチベット仏教の秘仏に劣らず妖艶そのもの。アンコールワットの壁面一杯に浮き彫りされた女神像はいずれも豊満な肉体を有し、隠微な印象はどこにもない。実におおらかで、これを「祇園精舎」と考えたのであれば、日本人の感性とは異なるようにも思うが、多分そうではないのだろう。 縄文の石棒 道祖神 梵天祭り 縄文時代の石棒も日本古来の信仰である道祖神も、形は男〇器そのもの。梵天祭りの「梵天」もその代理で、子宮に見立てた社に梵天を突入させるのが祭りの本旨。形を変えた性〇為と見なすことが出来よう。これらに共通するのは種族の繁栄と長命の願い。ヒンズー教の「リンガ」も男〇器を模したと言われるので、長命と種族の繁栄は民族や時代を超えた希求なのだろう。 そそり立つ魔羅につながる人類史 *まら(仏教用語で男〇器) 天の岩戸の前で踊るアメノウズメ ほと出して鈿女踊れる大岩戸 *うずめ エロスとは生そのものと見つけたり 弟スサノオノミコトの乱暴に怒って姉の天照大神が天岩戸に隠れて以来、世の中は真暗になって人々は困っていた。そこでアメノウズメノミコトが大岩戸の前に進み出、踊りを踊った。皆は喜んでやんやとはやし立て笑った。外が賑やかなことに驚いた天照大神が戸を開いて覗いた途端、タヂカラオノミコトが一気に戸を開き、天照を外に引き出した。すると世の中はたちまち明るくなったと言う日本の神話。 この時、アメノウズメは「腰のもの」を外して「ほと」を露わにし、ストリップの発祥とも言われる。ほとは聖なるもので、呪術性を秘めていたと言われる。単なるエロスとは異なり、沖縄にも似たような話がある。 殷の紂王と妲己 さて、「酒池肉林」と聞いたら何を思い出すだろうか。男なら「ムフフ」なことと答えるかも知れない。だがこれは殷の紂王(ちゅうおう)の妃だった妲己(だっき)の行いに対しての譬え。彼女は贅沢を好み、毎晩のように宴を催し、池に酒を注ぎ、子豚の丸焼きを林のように立てて豪遊した由。挙句は裸の男女に鬼ごっこさせた由。その殷が周に攻められ、妲己は周王に殺害された。天下の悪女を成敗した積りだったのだろう。 四字熟語残し悪女は殺されぬ イヌイットの氷の家 北極圏に住むイヌイット(かつてのエスキモー)は氷の家を作る。昔は電気もストーブもない。おまけに近隣には家もない。だから遠来の旅人が訪れた際は、主人は妻を客に提供した由。心身の暖房のため。客は主人の配慮に感謝し、喜んで受け入れるのが礼儀だった由。また貧しい地域では兄弟が妻を共有することもあった。それもまた文化。文化に高低はない。あるのはその土地に応じた暮らしと人の生き方なのだ。 妻与え客をもてなすイヌイット オーストラリアの僻地に、集団で暮らす一族がいたそうだ。研究者が彼らの血統に関心を持って調査したしたら、彼らは4代から5代に亘って近親結婚を繰り返していたことが判明。その結果、身体的な障害のみならず、精神的な障害が数多く見られた由。あまりにも近い血族で何世代にも亘って婚姻したため、劣性の遺伝子が影響したのだろう。これは本当にあった話。きっとメンデルもビックリだろう。 メンデルもエンドウ豆なら分かったが 話はまだ続くのだが、こんな内容の話は書く方も草臥れるのでねえ。 <一応続く予定>
2021.05.05
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~わが家のTV画面を見ながら撮影した写真~ 上空から 真ん前から 病気に打ち克ってオリンピックに参加した池江璃花子さん。 スタート。何かが萌え出る様子。 会場の外に上がる花火 会場内ではマッピングが。 何かが動き始める・・。 オリンピック開催までの苦労を表現。 そんな状況を絆で解決、前進。 演じた方々、お疲れ様!! いよいよ国旗の入場。 富士山に見えたのは聖火の「点火台」。 掲揚台へと移動する日の丸の旗。 君が代を斉唱するMISIAさん 法被姿の真矢ミキさん。 貴賓席の天皇陛下ほか いなせな江戸木遣り節 「 点火台前の静かなパフォーマンス 巨大な提灯の入場 世界各国の木で作った五輪。1964年の東京オリンピックの際に各国が持参した種から樹を育て、その「間伐材」でこの大きな五輪を作ったそうです。今から57年前。私は20歳でした。部隊裏ではずいぶん長い間、色んな方々が準備を重ねて来たんですねえ。 和装でのタップダンス 無観客の中での演技 ギリシャを先頭に選手入場開始 会場内に広がる光の輪 オリンピックの発展に貢献された方に贈られたトロフィーは月桂樹の冠と五輪を組み合わせたもの。 今回の東京オリンピックへの参加国・地域は205.中には「難民選手団」もありました。 今回から各国の旗手は男女1名ずつ。日本は男子バスケットの八村選手と女子卓球の石川佳純選手でした。 行進を終えて喜ぶ選手たち 鮮やかな民族衣装のアフリカの選手団 大興奮の選手たち 日本の大選手団。夜8時から始まった東京オリンピックの開会式が終わったのは、深夜の12時近く。実質4時間に亘るイベントをカメラを構えてテレビの前に陣取っていました、写真は全て自分のデジカメで撮ったものです。安直ですが、見損じた方もいると思ってブログに載せた次第です。続きは次回以降に掲載する予定。退屈でしょうが、お付き合いいただけたら幸いです。<続く>
2021.07.25
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~祈る~ 首里城「京ノ内」の御嶽にて 首里城内の御嶽(うたき)の中で最も重要なものは首里森御嶽だったことは前述した。私はその理由を、首里城が建つ前に御嶽のある森があったからではないかと考えている。その森にあったのが首里森御嶽(すいむいうたき)だから首里城の正式な名も「すいむいぐすく」だったのではとの推察。城と祈りの場である御嶽は密接な関係。つまり城は神によって守られていたのだ。神女の髷(まげ)の後ろに大きな簪(かんざし=後述)が見える。 因みに最初の写真の低い塀の内側が御嶽の一つ。本来ならあの中で祈る。だが、この女性は琉球舞踊の踊り手で、テレビ撮影のため神女の服装をして御嶽の入口に立っただけ。そして御嶽自体も現在では信仰の対象でなく、ほとんど厳粛な雰囲気はない。第2回で載せた首里森御嶽も現在祭祀の対象になっていないが、風化した琉球石灰岩がいかにも古めかしく見えて、雰囲気はある。 これは2011年にNHKで放送された琉球歴史ドラマ「テンペスト」(嵐)で女優高岡早紀が演じた、琉球王国最高の神職である「聞得大君」「きこえおおぎみ)。琉球髷(まげ)を抑える大きな簪(かんざし)を琉球語で「ジーハ」と呼んだ。ジーハは身分により材料も形も違う。胸の赤い玉は「勾玉」。大君は王の血族で太古の卑弥呼や伊勢神宮の斎宮に当たり、国家の安泰を祈願するのが役目だった。 1) 2) 上は沖縄第一の聖地である斉場御嶽(せいふぁうたき)。「第一」の理由は琉球王朝時代、王や聞得大君がここで国の安寧を祈ったからだ。ここも世界遺産の一つ。御嶽の中には幾つかの聖地があり、それぞれ名前があって信仰の対象だった。 1)は巨大な岩が右側の岩にもたれかかって、きれいな三角形を作っている。大きな岩も三角形も日本古来の聖なるもの。2)は縄文時代の岩陰遺跡に良く似ている。多分縄文時代(沖縄では貝塚時代だったか)には縄文人が住んでいたと思われる。台風を避けるに好都合だったからだ。洞窟が聖なる場所であるのは古代日本も変わらない。 3) 3)は1)の三角の奥にある聖地で、ハート形の樹木の向こうの海上に見えるのが「神の島」久高島(くだかじま)。沖縄の神アマミキヨとシネリキヨが上陸した島であり、米などの「五穀」が漂着した島との神話がある。かつては琉球王が島に渡って神行事を行ったが、1600年代初頭に島津藩によって琉球が支配されると王が島に渡ることを禁じられ、ここは島を遥拝する「通し御嶽」となった。 それも王に代わって聞得大君が代参した。右の地図で見ると、斉場御嶽は知念半島の先端にあり、大君は色んな聖地を巡って首里からここまで来た。それを東回り(あがりうまーい)と呼ぶ。久高島はその沖5kmほどにある平坦な小島。この島の重要な神行事のことなどは改めて記すことにしたい。私は斉場御嶽が世界文化遺産に指定される前に3度、指定されてから1度訪れたが、指定前は観光客は誰もおらず怖いくらいで、とても神秘的な雰囲気が漂っていた。久高島へも1度船で渡ったが、とても不思議な経験をしたことがある。<続く> 昨日の金曜日、朝食抜きで消化器内科へ行って来ました。胃カメラの予約だったので朝食を摂っても良かったようですが、空腹でフラフラ状態ながら新たなことが分かって良かったです。ひょっとしたらセカンドオピニオンのために病院を変えるかも知れません。 そしてもうどなたもご存知のように、大リーグエンジェルスの大谷翔平選手が、下馬評通りアメリカンリーグのMVPに選ばれました。日本人のリーグMVPはイチロー選手以来偉業。しかも満票だったみたいですね。簡単ですがひとまずオメデトウと申し上げておきますね。やったね翔平!!
2021.11.20
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今年の9月半ば、私は東北歴史博物館で特別展を観たついでに、多賀城跡を訪れた。ここは古代の城柵で、陸奥国府と鎮守府が置かれたところ。奈良時代から11世紀半ばの平安時代まで大和朝廷の前進基地として機能していた場所だ。ここを訪れたのは確か5回目だと思う。 南門跡から長い坂道と石段を登って行くと、やがて政庁跡に辿り着く。手前が南側で入り口に政庁の南門がある。ここから石敷広場を経て正殿の跡地へと進む。 これが政庁の南門復元図。両脇に警護の兵士が立ち並ぶ中を、役人たちが出仕して行く。これから政務がはじまるのだろう。 これが正殿の跡地で基壇部分だけが復元されている。その前の平地が石敷広場だ。 これがCGで復元された正殿。見事なものだ。ここで国司たちが政務を執った。多賀城は全部で4回建っている。蝦夷の反乱で焼け落ちたり、平安時代の貞観地震で崩壊したため3度建て替えた。 これは政庁北殿付近から後殿を通し、その南側にある正殿方向を見ている。南門へ下る坂道はその前にあるが、ここからは見えない。それだけでも広大な城域が分かるだろう。 そこから歩いて東門方向に進んで行くと、何軒かの農家があった。さらに東方に進むと、東門の推定復元図が置かれていた。これらは全て発掘調査に基づいて推定されたもの。ただし第何期のものかは見落とした。 こちらの復元図は上記に色彩をつけたもの。東門の先には街道が連なり、塩釜へと通じている。塩釜は天然の良港であり、陸奥一宮である塩竃神社が鎮座している。塩竃神社は本来製塩の神で、多賀城を鎮守する神でもあった。その塩釜から国府多賀城へは、塩や魚などが届けられていたことが分かっている。 東門跡からさらに東方に向かうと、やがて左手に総社の宮が現れる。延喜式に載っている陸奥国に置かれた100の神社がここに分祀されている。参拝しているのはこの日私に着いて来た三重県の方。3か月以上自分の車で全国を旅している由。世界の山を登り、北海道の山も30座は登ったそうだ。その趣味が高じて奥さんとは別れたと話していた。世の中には不思議な人がいるものだ。 これは多賀城廃寺の跡。国府から東方へ2kmほど離れた林の中にあり、この日は行かなかった。私がここを初めて訪れたのは約50年ほど前のこと。粗末な建物の縁の下には、古代の屋根瓦が無造作に積まれていた。今ではとても想像つかないが、貴重な遺物だったのだ。 これが多賀城廃寺の復元図。この寺は国府多賀城の安全と古代東北の平安を祈願するために建てられたのだろう。当初は地名を取って「高崎廃寺」と呼ばれていた。それが多賀城の付属寺院であることが判明して以降、「多賀城廃寺」と呼ばれることになった。 やがて少し離れた域内から「観音」の名が記された土器が発掘された。そのことからこの寺の本来の名称は「観世音寺」であったことが推定されている。観世音寺は「遠の朝廷」大宰府の付属寺院の名でもあった。北と南の政庁付属寺院の名称は、きっと同じだったのではなかったのか。 政庁復元図 私は昨年岩手県のブログ友ニッパさんの案内で盛岡市の志波城跡を訪れた。東北にあった古代城柵の最も北端の城跡で、南門などが一部復元されていた。今年は秋田城への探訪を試みた。これも古代の城柵の一つで日本海側の最前線だった基地。残念ながら時間がなくて現地を訪れることは出来なかったが、秋田県立博物館で秋田城に関するたくさんの情報を得ることが出来た。 多賀城を訪れたのは今回で5度目。岩手県出身の小説家高橋克彦の歴史小説「火怨」や「炎立つ」では、古代東北における蝦夷(えみし)と朝廷側との戦いの様子を窺い知ることが出来た。多賀城から志波城や秋田城まで、中央政府の権力が徐々に伝わって行く状況が少しは分かって来た。こうして私が長年抱いて来た謎が、また一つ解明されたのが嬉しい。 さて女帝の寵愛を受けた怪僧、弓削道鏡は和気清麻呂の宇佐神宮参拝と下された神勅により、都から追放されて下野国(栃木県)に下った。だが埋められた石碑が地中から掘り起こされたのはその900年後。果たして藤原仲麻呂(恵美押勝)の名誉は、その後回復されたのだろうか。いや現在も彼の名が刻まれた石碑が多賀城の南門付近に立っているので、恐らくは怨念も鎮まったのではないだろうか。<完>
2016.11.09
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