1
<アトリエ・ロワールの作品群> フランスのステンドグラス芸術家であるガブリエル・ロワール(1904-1996)と彼の子供や孫たちで作った集団「アトリエ・ロワール」の制作になる作品を紹介します。これは昨年11月に開催された「宮城学院女子大学創立130周年記念事業」の一環として開催された展示で、会場内での撮影は自由でした。そのお陰で私のブログでも、素晴らしい作品を紹介することが出来たのです。 ステンドグラスの作品は、やはり教会の壁面を飾ることが多くなりますね。ここもフランスの由緒ある教会なのでしょう。なおフランスでの信仰はカソリックが中心です。藤田嗣治もフランスに帰化してカソリックに改宗し、自ら教会のデザインを試みています。 礼拝堂の内部です。ここには光を取り入れるための大きな窓がたくさんあり、それがステンドグラスを飾る舞台装置にもなるのです。なお、これはステンドグラスを制作するための下絵みたいですね。 下絵と制作された作品の例 💛下のステンドグラスが、後で再掲されます。 ある建築物(恐らくは教会)と内部の作品群 制作のための下絵(右)と実際の作品(左) 広大で荘厳な礼拝堂内部の下絵 数々の作品群 I 数々の作品群 II 下の作品も含めて3点は、いずれも宮城学院大学礼拝堂のステンドグラスです。右はイエス・キリストの処刑の場面。左はその復活の場面でしょうか。 イエス誕生と東方の三博士ですね。構図の巧みさ、色彩の豊かさに目を奪われます。誕生、死、そして復活。イエス・キリストにとって最も重要な3つの場面を選んでステンドグラスにしたのでしょう。 ゴルゴタの丘で十字架にかけられたキリストの上半身です。先の💛と同じ作品ですね。 横長の作品 その1 横長の作品 その2 現物はとても巨大なものと思われます。 横長の作品 その3 とても現代的なセンスの作品ですね。 不敵な表情はサタンかな。それともキリストの苦難をあざ笑う市民でしょうか。 眼を光らせるミミズク。確かギリシャ神話では智慧の神だったような。 これで「ガブリエル・ロワールとステンドグラスの世界」の紹介を終わります。<完>
2017.03.07
閲覧総数 620
2
~朝鮮史と周辺諸国~ 「加害者と被害者の立場は千年経っても変わらない」と言った女性大統領がいた。「盗人猛々しい」と言い、天皇陛下の謝罪を要求した国会議長がいた。レーダー照射は実在せず、事実に反する従軍慰安婦を叫び、徴用工裁判を強行する国。数百人の高校生が溺死した「セォル号事件」はうやむやになり、大統領が辞職後に逮捕されるのはごく当たり前。あの国は赤化へ一直線に向かっているとしか思えない。 <中国、日本、朝鮮の時代区分対比図 その1> そこで朝鮮半島の歴史と、民族の特性に関心を持った次第。箕氏朝鮮及び扶余は中国がつけた名前で、韓民族ではないようだ。韓国はその存在を認めず、「檀君神話」を創作して歴史を6千年ほど遡らせたが、周囲の国は無視してるようだ。 <4世紀ころの朝鮮半島> 高句麗は満州族(騎馬民族)の国。このため中国は中国史に含めると主張し、韓国は反論している。楽浪郡、帯方郡は中国の管轄地。馬韓、弁韓、辰韓は韓人が住み農業に従事。弁韓には倭人が多数住み、後に倭国の朝鮮半島の根拠地になる。濊(わい)は本来北方の民。糞尿の意味で中国が付けた蔑称。なお倭は小人の意味。背が小さかったことから日本人をそう呼んだ。 <6世紀頃の朝鮮半島> 漢に進貢した倭の奴国は皇帝から金印を授かる。だが属国扱いの高句麗、新羅、百済は小ぶりの銅印しか下されない。隋の時代半島で動乱が生じる。隋は隣接する高句麗を滅ぼすため新羅と手を結ぶ。だが新羅は出兵中に百済に襲撃されることを恐れ、まず百済を滅ぼすことを提案し隋は了承。驚いた百済は倭国に援軍を求める。だが白村江の戦いで大敗し百済は滅びる。新羅は高句麗を破り、半島を統一する。 <月桂洞2号墳> <三国史記> 時代が前後するが、近年韓国で前方後円墳が発見された。韓国人は大いに喜び、「それ見ろ。前方後円墳は朝鮮半島から日本へ伝えたのだ」と主張。ところが発掘調査の結果、我が国の前期の物より2世紀ほど新しいことが分かると口をつぐんだ。かつて倭国の軍が侵攻したことを記した「好太王の碑文」を改ざんした手口同様、10数基発見された前方後円墳の中にはその後変形されたものがあるようだ。 <歴史年表の続き> 明治時代、朝鮮半島に大韓帝国が誕生する。これは日清戦争で日本が勝利した結果、清国に朝鮮の独立を認めさせて出来た国家。それ以前は約2千年ほど中国の属国か、もしくは直轄地だった朝鮮。だからソウルにあった「独立門」は中国からの独立を意味するもので、日本からではないのだ。それまでは地方の王扱いだった朝鮮半島の国々。日本はとっくの昔に遣唐使を送るのを止め、法治国家になっていた。 <韓国の歴史ドラマ> <日本統治以前のソウル風景> 韓国の歴史ドラマを観ると、その艶やかさに驚かされる。だがそれらのほとんどは虚構。当時の李氏朝鮮は明や清に従属し、産業はほとんどない。儒教を重んじ、物作りを蔑視したのだ。だから針一本作れなかったのが真相。中国への進貢は人。数年ごとに美女を中国皇帝に差し出し、男は宦官となる運命。 右は日本併合以前の風景。都の南大門の真ん前に立ち並ぶ民家。色鮮やかな染料が日本から届いたのは併合以降。ハングルの復活も小学校を数多く建てたのも日本。それで識字率が10台%から60%に上がった。日本の統治下に入った朝鮮では不潔な環境が一掃され、人口が倍増している。日本は国家予算の2年分を朝鮮の振興に充当した。搾取どころではないのだ。その真実すら国民に隠している韓国。 <韓国の国花 ムクゲ> <日本の国花 桜> 以下は韓国の逸話。「お前は泥棒だ」と訴える者があったら、逆に「お前こそ泥棒だ」と言い返すそうだ。それが韓国式の論法。正しいか正しくないかは問題じゃない。大きな身振りで怒鳴り合い、怯んだ方が負けと言う論理に驚くが、それが実態ならばこれまでの疑問が解ける。恥を知る日本人とは精神構造も文化も異なるようだ。どれだけ意を尽くしても、これでは彼の国には通じまい。 <済州島の石像トルハンバン> 以下は韓国済州島の伝説。かつて独身の3男神が寂しく暮らしていた。それがある時、船に乗って3人の女神が島にやって来たと。3組の男女神は結婚し、島は栄えたと言う。この島は一時モンゴルの直轄地になったり、李氏王朝時代は罪人の流刑地になるなど悲惨な歴史があるのだが、世界でこの島と日本にだけ海女がいると言う不思議さ。娘3人は宗像大社の3女神か。石像が明日香村のものにそっくりだ。 実は朝鮮の正史である「三国史記」(写真掲載済)には、倭人が百済と新羅の王になったことが明記されているようだが、南北はその事実を隠匿している。 <日本書紀> <古事記> 韓国、朝鮮が否定する任那の日本府の存在と、半島における日本人の活動ぶりが古事記や日本書紀には事細かく記されている。一方韓国の歴史学者は真実を書くことが許されず、書けば学会と社会から白眼視されるそうだ。あの民族は古来どの大国に付いたら得かを第一に考え、自国の内乱さえ外国に鎮圧を依頼し続けた変節の歴史がある。そしてこれからも歴史のねつ造を続けるのだろう。 国会議長の暴言をきっかけに調べ始めた朝鮮の歴史だが、国家成立当初から今日に至るまで常に「虎の威を借るキツネであることが分かった。平気で嘘をつくのは民族の習性で、生き残るための「知恵」だったのだ。南北朝鮮は今後統一に向かうのか。それともまだしばらく混沌の時を過ごすのか。どちらにしても「コウモリ外交」では世界の信頼を得られまい。多くの政治難民が生まれないことを祈っている。
2019.03.02
閲覧総数 1383
3
9月22日月曜日。私は自転車に乗ってある所へ向かった。それは長年探していた古墳。前日地底の森ミュージアムを案内してくれたのは、ここでボランティアをしてる我が町内会のK副会長。その彼が古墳が載った地図を見せてくれたのだ。ずっと見つからずにいた幻の古墳に、今日こそ会える。そう思うと、私の胸は知らず知らずに高鳴った。 捜し続けていた古墳の名は「王ノ壇古墳」。四角い形をした方墳らしい。かつては周濠(墓を取り囲む堀)もあったようだ。この古墳の名が、やがてこの地区の名前である「大野田」に変化したとも聞く。この周辺にはかつてかなりの古墳があった。だが埋蔵文化財調査の後はことごとく埋め戻され、その上にビルや住宅が建っている。ここは20年以上も発掘調査を続け、たった一つだけ残されたのが地区の名の元となった方墳なのだ。 それらしい場所をグルグル廻っているうちに、あるマンションで見つけたのがこれ。「王ノ壇古墳」がこの周辺にあるのは確か。だが幾ら捜してもそれらしいものはない。古くから住んでそうなお宅を訪ねたが、住人の小母さんは知らないと言う。虚しく戻る途中、2人の自転車に乗った高校生に出会った。「ダメ元」で彼女達に古墳の場所を尋ねた。すると意外や意外。そのうちの1人が知っていて、私を案内してくれたのだ。やったー!! それがこの場所。何だ何だ~っ?これが古墳だって?ここはさっき私が通り過ぎた場所。てっきり何かの工事現場だと思ったのだ。残土をブルドーザーでかき集めたような小山。どうしてもこれが古墳とは思えない。高校生にお礼を言って、私はその「現場」に近づいてみた。看板があった。どうやら王ノ壇古墳に関する案内のようだ。とすると、この場所が古墳であることは間違いないが、なぜこんなことになったのかが謎。 これが古墳の在りし日の姿。私が捜し求めていた古墳はこんな姿だったのだ。それが開発ですっかり形を変えた。古墳の東側は新しく出来た道路に削られ、元の姿を失った。発掘調査後に周囲を再整備するため、一旦古墳を破壊したのだと思う。 こちらは発掘調査時のもの。私も何年か前、この付近での現地説明会に出たことがあった。ここは東北地方でも珍しい古墳群があった場所。それを開発の名の元にことごとく破壊した。埋蔵文化財調査なんて、言って見れば行政側の言い訳みたいなもの。私達の遠い祖先達が眠る古墳。当時の文化や歴史を伝える重要な手掛かりが、全ては闇に葬られてしまったのだから。 横長の説明板を撮ったが、くっつけても読めるかどうか。この古墳がこの地の名前の興りになったことなどが記されていた。その貴重な古墳が何と無残な姿だろう。恐らくは元の状態に復元するはずだが、それはもう古墳ではなく、ただの土山ではないのか。 こちらは古墳の頂上に建てられていた板碑(いたび)。恐らくは鎌倉時代の仏教遺跡だと思う。頭部に刻まれた梵字は古代インドのサンスクリット語。現在は会話では使われず、文字としてしか用いられていない。本来は薄い石に刻むのだが、これらは笊川(ざるがわ)の河原石みたい。 私は虚しい気分で再びペダルを漕いだ。帰る途中に小さな神社があった。名前は春日神社。ここにも説明板。元の神社は西北の方向150m離れた場所にあった。それが土地整備のために移転したのだ。埋蔵文化財調査を行った結果、地下に古墳があった。そこから見つかったのが右側の「隼人の革盾」(はやとのかわだて)だ。 これは宮中を警備する時に用いるもの。当時この地方を支配していた権力者はかなり大和朝廷とも親しい関係があったのか、親睦の証としてこの盾が朝廷から贈られた。盾はその後土の中で腐ったが、色と紋様が土に付着して残った。復元写真は前日博物館でKさんが見せてくれたもの。私もこの話は聞いたことがある。 隼人の革盾が発見されたのは東北地方ではここだけで、全国でも数か所しかない由。その貴重な古墳すら壊される文化行政とは一体何なのだろう。この地区は多賀城以前に国府があったとされる郡山遺跡(仙台市太白区郡山)に近く、そこに勤務した官人の住居だった由。古代東北文化の最先端の地が跡形もなく壊され、近代的な街に変貌してしまう理不尽さ。 10月12日日曜日。私はランニングの途中にここを通った。あれから19日。周囲の様子がすっかり変わり、荒々しい工事現場が公園風に治まっていた。台風が去った14日、私は再度デジカメ持参で訪れた。小山は整えられ、古墳らしく変身していた。多分これから芝生を張ったりするのだろう。 立ち入り禁止の柵を越えて中に入ると、片隅に石が転がっていた。そのうちの幾つかは、前回の写真に載っていた石。左側はその細部だ。消えかかっているが、微かに梵字が読める。右側は江戸時代の天保年間に建てられた雷神石のようだ。この地区にたった一つだけ残った古墳。周囲の様子がかつての風景とはすっかり変わってしまったが、やがて小山の頂上には石碑が戻されるはず。 さて、私の近所には長年の開発で姿を消した古墳が数多くある。そのうちの一つをかつて東京国立博物館で見たことがある。何と、石棺は雨ざらしになっていた。1500年後にまさかそんな扱いをされるとは、古代の勇者も考えてなかったはずだ。嗚呼。
2014.10.16
閲覧総数 342
4
旧仙台城三の丸の入口である。大型連休期間中の5月2日に、ここを訪れた。 元々この場所には藩祖政宗公のお屋敷などが建てられていた由。だが別の場所に新たな二の丸が造られると、ここは三の丸に変わったようだ。 この閑静な三の丸跡に、仙台市博物館が建てられている。私がこの日、博物館を訪れたのは特別展「黄金のファラオと大ピラミッド展」を観るためだった。そのことは既に紹介した。 今日紹介するのは博物館ではなく、その敷地に建てられている小さな茶室である。以前から何か建ってるなとは思っていたのだが、何気なく通り過ぎるのが常だった。 これが残月亭への道。案外雰囲気は良い。 敷石は茶室に向かって続いている。三の丸は歴史的な文化財なので、本来ならば恒久的な施設は造れないはずなのだが。 茶室が見えて来る。日頃は無人なので、とても静かな佇まいだ。 うっすらと亭の名前が残る扁額は、江戸時代のもの。きっと長い風雪に曝されて来たのだろう。 説明板によれば、扁額の文字は仙台藩の第5代藩主伊達吉村が、藩祖政宗公の筆跡を摸刻させたもののようだ。そしてこの茶室は明治期に入ってから民間人が、江戸時代の古材を使用して再建したみたい。今では仙台市民へも貸し出されている。 そう言われれば、江戸の風格を感じないわけでもない。かつては藩主も使った茶室のような。 これが残月亭の間取り図。四畳半の茶室、三畳の次の間、一畳分の水屋。後は濡れ縁があるだけの簡素な造りだ。 これが茶室の東側に当たる、三畳分の次の間部分。 そしてこれが茶室の北側の濡れ縁部分。かなり風雨に曝された感じを受ける。 亭の東南隅に当たる壁と塀。 庭の一角の井戸は封鎖されたが、かつての雰囲気は残っている。 今は小さな石灯籠が、残月亭を見守っている。 エジプトの秘宝を観た興奮が、この茶室を訪れているうちにすっかり鎮まったのは言うまでもない。私が暫く眺めていたら、警備員が怪しんで駆けつけて来たのには笑えた。文化財を損傷するとでも思ったのだろうか。 < 本日のO川さん情報 > 「本州縦断レース」(青森~下関間1512km余)に単独挑戦中のO川さんは、昨日の第26日目も無事ゴールしたようで嬉しいです。昨日は島根県西端の津和野町をスタートし国道9号線を西行、ゴールの県都山口市まで52kmを10時間での走破でした。 県境のトンネル内は赤色灯(フラッシャー)を点け、反射材がついたタスキを肩にかけての通過。無事トンネルを抜けて「山口県」の標識を観た時は感激したそうです。それは当然でしょうねえ。青森、秋田、山形、新潟、富山、石川、福井、京都府、兵庫、鳥取、島根と連日走破し、とうとうゴール下関市のある山口県に入ったのですから。山口県は彼にとって実に12番目の県なのですよね。凄いなあ!! 最後の県である山口県に入った時、そして県庁のある山口市内では、大会本部に無事到着をメールした由。これは決められたルールで、本部からチェックを受けるためのものとか。峠から下り切った時は、疲労と空腹で走れなくなり、一時休憩して予備のパンを食べたそうです。きっと嬉しくなって下り坂を飛ばしたのかも。 今日は山口市をスタートして小野田市の厚狭(あさ)駅前がゴールの予定。いよいよ明日はゴールのある下関市へ向かいます。残り2日。ゴールは当初の予定通り6月1日(水)の午後2時から3時ごろと飽くまでも冷静なO川さんです。きっと今日も慎重に走ってくれることでしょう。O川さんガンバ~!!そしてファイト~!!安全と健康に注意して前進してくださいね~♪
2016.05.31
閲覧総数 507
5
TVの人気番組「笑点」の司会者が変わった。初回以来のメンバーだった桂歌丸が病気で引退し、春風亭昇太にバトンタッチされた。昨夜はその初めての会で、珍しく生放送となった。歌丸は病気でやせ細り、まるで骸骨のような容貌になりながらも、50年間出続けた唯一のメンバー。後継者は円楽だと思われていたのに違った。これは東京に在る3つの落語団体から順番に起用するとのルールを適用したためのようだ。 そして新メンバーには林家三平が入った。親父ほどの芸はまだないのだろうが、暫く見ないうちにやはり大人になっていて、それなりの雰囲気は備えていた。第一明るいのが良い。きっと盛り上げてくれると思う。そして24時間TVのランナーとして走るのが林家たい平。緊張した面持ちで抱負を述べていた。 NHKの番組「ブラタモリ」がこのたび国土地理院の賞を受賞した。地理や地形に関して国民の関心を大いに深めてくれたと言うのが受賞理由。私も良く観るが、タモリの地理や地形に関する洞察は並み大抵のものではなく、解説の専門家も舌を巻くほどだ。それに雰囲気がフランクで洒脱だから、内容が堅くならないのも良い。全国の色んな箇所に出かけ、風景や地形の成り立ちを丁寧に案内してくれる。それに歴史、文化、暮らしぶりの紹介と相まって、良い味を醸し出している好番組だ。 NHKの「トットてれび」も愉快だった。昭和20年代から30年代初めにかけてのTVの黎明期に、燦然と現れた国民的アイドル黒柳徹子が主人公。若き日の彼女は怖い物知らず。当時は全て生放送だったため、彼女の度胸や機転が何度も番組の進行を救ったのだ。「ブーフーウー」、「ひょっこりヒョウタン島」、「夢で逢いましょう」などの撮影現場が次々に現れて、とても楽しくかつ懐かしい。 黒柳徹子役の満島ひかるが良い。若さと美貌と型にはまらない自由奔放な姿、そして飽くなき挑戦心。まさに適役だった。また森繁や渥美清、坂本九などを演じる俳優も適役だったと思う。思えばあの時代、TVは茶の間の主役だった。力道山の空手チョップに酔い、「バス通り裏」や「ジェスチャー」や「私は誰でしょう」に夢中になった。戦争で敗れた日本人が、あれで笑いと自信を取り戻した時代だったのだ。後半戦は対象の時代を変える由。ますます面白くなりそうだ。 ディズニーのアニメ『ズートピア』を観た。動物王国に起こった恐るべき陰謀の話だ。黒幕は実に意外な動物。恐らくは誰もの予想が外れただろう。それが動物の国を我が物にしようと企み、陰で魔の手を伸ばす。いやいやたかがアニメ、たかが動物王国の話と馬鹿にしてはいけない。まさかと思うような陰謀が渦巻いていたのだ。「絵」はさすがにきれいで観惚れた。夢もあった。そして楽しさだけに終わらず、何かを感じさせるものが心に残った。 『スノーホワイト ~氷の王国~』を観た。ご存知グリム童話『白雪姫』の翻案で、これは「大人の童話」と言うべき作品だろう。だが原作とは似ても似つかない。美女の姉妹がそれぞれ女王となって戦う話。中には戦慄を覚える場面も多い。実写とCGを組み合わせた美しいシーンが次々と展開され、観客は不思議な世界へと引きづり込まれて行く。 数年前、やはりグリム童話を翻案した映画『マレフィセント』を観たことがあった。あれは『眠れる森の美女』が原作だったが、あまりの迫力に驚いたものだ。素晴らしいCGの世界を垣間見て、こんな壮絶な場面が創れるのかと戦慄したものだ。今回の作品もそれに劣らず極めて芸術性の高い作品に仕上がっていた。世界には美女がいるものだ。 映画『海よりもなお深く』を観た。離婚した夫が別れた後もなお、息子の成長を心配し続ける親馬鹿の話。その息子の心情を想う老母の愛の深さにも感じさせられるものがある。私は離婚家庭に育ち、早くから両親を失っているだけに、特に切ないものがある。人が出会って愛し、訳あって別れて暮らすようになる。愛が憎しみに変わる時、人はどんな行動を取るのだろう。父親と母親の愛情は違う。実は私も末っ子の少年時代のユニフォームを、今も大事に隠している。 主な出演者は似顔絵の通り。これにリリー・フランキーや小林聡美、橋爪功、小澤征悦など。探偵助手役の池松壮亮が私は印象に残った。監督は『そして父になる』の是枝裕。リリー・フランキーや真木よう子も同作品に出ていたっけ。夫婦とはなんだろう。家族とは何だろう。そして愛とは一体何なのだろう。そんなものを殺伐として生きる現代人に対して、改めて問いかける作品だ。 「本州縦断レース」(青森~下関間1512km余)に単独挑戦中のO川さんは、昨日の第24日目も無事ゴールされたようで、ホッとしています。昨日は島根県浜田市三隅町から同県最西部の津和野町までの53kmを11時間30分で走破した由。午前11時からは雨になって合羽を着用。津和野まで後7kmの地点で、ようやく合羽の上着だけ脱いで走れた由。途中では地区の運動会も見たそうですよ。 さて、昨日の激走で走行距離の累計は1429.2km(私の計算による)に達しました。それを差し引くと、残りは既に100kmを切ったことになります。今日の第26日目は国道9号線をひたすら西行し、山口市がゴール地点。9号線に沿ってJR西日本の山口線が走っており、ここは時折観光用のSLが走っている箇所ですね。連休中は運行していたのでしょうが、果たして今は見られるかどうか。 今日も中国山地のアップダウンのきついコースです。安全と健康には十分注意して、県都山口を目差して欲しいものですね。O川さんファイト~!!今日無事にゴール出来たら、明日には念願の下関到達ですよ~!!油断しないでこのままのペースを守って走ってね~。ファイト、そしてガンバ。前進あるのみだよO川さ~ん♪(笑)
2016.05.30
閲覧総数 134
6
~「世界自然遺産」への登録に向けて~ 南西諸島 かなりボケているが、鹿児島(右上)から台湾(左下)まで連なる南西諸島の島々。冒頭にこんな地図を載せたのは、奄美大島、徳之島(鹿児島県)、沖縄本島のやんばる地方、西表島(沖縄県)が近くユネスコの「世界自然遺産」に登録予定なのを知り、これらの島々をブログの話題にしようと考えたのだ。 左の地図は鹿児島県の薩南諸島で、右は屋久島の南西に位置する口永良部島で、煙を上げているのが新岳。有史以前からつい最近まで、ひっきりなしに噴火を繰り返している火山。平成、令和になっても噴火と地震が起きて、時々ニュースになる。地図の左側上部(西側)に続く島々がトカラ列島で、十島村に属している。最近のコロナ騒動で、鹿児島からフェリーでワクチンを運び、7つの島民に無事注射出来たことが話題になったばかり。 この列島の宝島とその右(東)にある悪石島との間に生物学上の境界線「渡瀬線」がある。ここは海深が千mあり、南西諸島と九州が一度も繋がってないためここを境にして動植物の生態がまったく異なる。津軽海峡の「ブラキストン線」と同様だ。 さて、奄美大島(上)と徳之島にしかいない固有種が右のアマミノクロウサギ。国の天然記念物だが、かつて大陸とつながっていた時代にアジアから渡って来たもの。その後隆起と沈降を繰り返して、島に閉じ込められた「生きた化石」となった。耳、尻尾、手足が他のウサギに比べて極端に短いのが特徴だ。 左上は奄美大島の最高峰である湯湾岳(ゆわんだけ694m)から見える焼内湾の「あまみブルー」。右上は湯湾岳にある神社。沖縄の始祖神はアマミキヨ(アマミク)だが、奄美の始祖神は(アマミコ)。奄美はかつて記紀に「海見(あまみ)」と記された。九州南部の「海部(あま)族」だったのだろう。縄文土器が沖縄に渡来してることも含め、沖縄の神と神話がどこから来たかが窺える。ただし琉球王朝時代の1458年に、奄美諸島は琉球王朝の支配下に入り、その150年後に再び島津藩に奪還される。 沖縄本島北部の山原(やんばる)には豊かな森(左上)があり、琉球王朝時代から戦前までは、薪や木材を山原船で那覇や首里に運んでいた。第二次世界大戦の激しい沖縄戦でも大きなダメージを受けず、今日まで動植物の貴重な固有種が保たれている。右上は良い香りを放つイジュの花。ヤンバルテナガコガネなどの昆虫や、ノグチゲラなどの野鳥が棲む森でもある 天然記念物のヤンバルクイナ(左上)やセマルハコガメ(中央)を守るための道路標識を設置し、道路を動物が潜り抜けるためのトンネル、また落ちても登ることが出来る側溝を作って貴重な動物を保護している。飛べないヤンバルクイナの天敵であるマングース(右上)を捕獲する檻(おり)を設置するなど自然を守る活動を展開して来た。それらの活動が「世界自然遺産」指定に繋がったのだろう。 左上は奄美大島、徳之島、沖縄本島のやんばると共に「世界自然遺産」に指定候補の西表島。右は同島の固有種で天然記念物のイリオモテヤマネコを守るための道路標識。普段は深い森の中にいるが、夜道路に飛び出して車に轢かれる事故が増えている。餌にしているイノシシの子供のウリボウが減ったことも、個体数が増えない理由だ。この島には近畿大学と龍雄大学の研究施設が別個に置かれている。 日本国内でこれまでに「世界自然遺産」に登録されたのは、知床半島、屋久島、白神山地(秋田・青森)、小笠原諸島。私は白神山地は訪れ、知床半島は観光で行って走った。私の国内ランニングの最北端と最東端が知床。北海道は色んな箇所を走り、キタキツネ(上中)やエゾシカ(右上)と出会った。そして国内で走った最西端と最南端が西表島だった。ここでは水牛や蝶々のアサギマダラと出会った。 沖縄本島 奄美大島は行ってないが、上空から何度か見た。沖縄に勤務し、旅したお陰で南西諸島の上空を70回は飛んだだろう。地図も好きだしフライトマップ(航路図)も見るので、島の形を見れば大体どの島か見当がついた。そしてブログを書くためにネットで検索し、その地の歴史や文化を改めて知る。楽しみにもなり有難いことだ。なお走った最東端はシドニーで、最南端はメルボルン。出張の際ランニングシューズを持参したのだ。各地で走った思い出が増え、走破距離は42年間で10万km以上。地球3周目に入っている。
2021.05.13
閲覧総数 463
7
~蓮池潭・竜虎塔・慈済寺その1~ お待たせしました。ここは台湾高雄市にある蓮池潭(れんちたん)。人工の大池の畔に、なにやら異国情緒たっぷりな寺院が見えます。それが池の周囲に幾つも見られるのですからビックリ。 参考のため、蓮池潭付近の地図を載せておきます。私たちが最初に訪れたのが⑥の龍虎塔ですが、その上方(北)に色んな寺院とその付属宗教施設があるのが分かります。これらは全て信者の寄進に拠るもの。湖上に目立つ塔などを設けて、それぞれの寺院の宣伝にしているのだそうです。一番北の①に、「孔子廟」の名が見えます。 これが最初に訪れた龍虎塔。龍の口から入って虎の口から出ます。でもこれも寺院の付属施設なので、敬意を表するため、順番を変えてお寺の方から最初にご案内しますね。 龍虎塔の目の前にある寺院は物凄く巨大な建築物です。これも信者さんが建てたとはねえ。 「扁額」(へんがく)をアップすると「三鳳宮」と読めます。でもここは通り過ぎただけでした。 現地ガイドの陳さんが案内してくれたのは、こちらの寺院。何やら東南アジアの雰囲気が。陳さん曰く。この様式は中国本土福建省から来たのだとか。かつての琉球、日本、東南アジアの国々も福建省の港で交易をしていたのです。だから南方の雰囲気がプンプンなのも理解出来ますね。 ここでも扁額をズームアップ。どうやら寺院の名は「慈済宮」(じさいぐう)で、祀られている対象が「保生大帝」(ほせいたいてい)なのでしょうね。 一番手前のお堂の天井です。煌びやかな装飾で埋まっていますねえ。 梁(はり)には中国伝統の龍の装飾。そして堂宇には様々なお呪いの言葉が。 この寺院も儒教、道教、仏教などが絡み合っているみたい。これは荘子と孟子かな。 孔子もいるのかも知れませんが、見分けがつきません。でも聖人の風格は分かりますね。 「神徳は明らかである。者どもよ信じなさい」。きっとそんな風の意味なのでしょうね。 中庭の天井に吊り下げられた無数のランタンが、異国情緒を誘います。 円柱に施された龍の彫り物。これを「龍柱」と呼び、首里城正殿にも何本かあります。<続く>
2019.08.12
閲覧総数 120
8
~週刊誌ネタから~ いやはやぶったまげた。この愛くるしい福原愛ちゃんが、何と台湾にご主人、二人の子供、そして自分のお母さんを置いて来日してるさ中の行動が女性週刊誌にすっぱ抜かれたようだ。それによれば愛ちゃんは長身の男性と一緒にホテルに宿泊し、自宅へもこの男性を泊まらせたとか。週刊誌に出たことで記者会見に臨んだ愛ちゃん。「でも同じ部屋には泊まってません」と答えたそうな。あれ? 週刊誌によれば、愛ちゃんはかねてから夫君の「モラハラ」に悩まされていた由。夫君は台湾の大金持ちのボンボンで何の不自由もない暮らし。だが、愛ちゃんにはそれが重荷だったのか。日本で起業し、社長でもある愛ちゃんは親権を失うことを覚悟し離婚に踏み切る模様と伝えられる。仙台出身で幼児の時から彼女を見て来た者としては、とても複雑な気持ち。それに婚家に預けたままの病気のお母さんは、一体これからどうなるのか。 しかし世の中にはトンデモナイ女がいるものだ。この48歳の福岡県の女。ママ友の女性を脅して離婚させ、生活保護費や児童手当や車を売った代金まで全部巻き上げ、挙句の果てはママ友に指示して5歳の幼児を虐待していた由。10日間に与えたのは水だけ。とうとう幼児は衰弱死してしまった。自分の背後には暴力団がいると偽り、洗脳で詐取したお金はパチンコなどの遊興費に充てたと言うからまさに鬼だ。 しかし脅かされた女性も女性。すっかり洗脳されて、もう自由を奪われてしまったんだろうね。しかし、最近は児童相談所が全く役に立たないケースが多いことに驚く。きっとそれだけ人間関係が希薄になり、他人の生活には口出ししない社会になったんだろうね、きっと。しかし食べ物を与えられずに死んで行った子供があまりにも憐れ。この飽食の時代に何と言う悲惨な事件だったのだろう。 スキージャンプの葛西紀明選手がやりました。3月3日開催の「札幌オリンピック記念スキージャンプ競技大会」ノーマルヒルの部で見事3位入賞でした。1回目のジャンプは94mでしたが、2回目に98mを飛び、3位に並んだようです。48歳の彼は実業団「土屋ホーム」の選手兼選手。冬季オリンピック8回出場、ワールドカップ569回出場は個人最多記録で、共にギネス記録とか。全く凄いですねえ。 しかし年齢だけならもっと凄い人がおりますよ。サッカーJ1リーグ横浜FC所属の三浦知良選手は54歳。もちろんプロのサッカー選手としては最年長です。今年も頑張って現役を続けるみたいで、トレーニングに励んでいます。しかしサッカーは運動量が物凄いので、54歳の現役選手は驚異的ですね。奥様は確か三浦りさ子さんだったかな。きっと美味しくて栄養たっぷりの手料理で労っているんでしょうね。 しかし世の中には長命な方がいるもんですなあ。芸術家の篠田桃紅さんが先日107歳で逝去されました。彼女は5歳の時に父上から書を習い、以後独力で書道を究めます。戦後は「字」を解体し、墨を用いて抽象的な作品を創造します。版画(リトグラフ)家やエッセイストとしても活躍され、ニューヨークを拠点としながらボストン、シカゴ、パリなどで個展を開催。104歳で個展を開いたと言うのにも驚きですね。きっと常に探求心を失わない人生だったのでしょう。謹んでご冥福を祈ります。合掌。 <白石かずこ> <岩下志麻> ついでにネットで調べたら、映画監督の篠田正浩さんは従弟のようですね。その篠田監督の最初の奥様が早稲田大学の学友で詩人だった白石かずこさん。若い時は大変な美人で、しかもド迫力のシュールな詩を書いています。離婚後は黒人のセフレがいたとかでぶっ飛んでいました。2番目の奥様が女優の岩下志麻さんだったかな。こちらも大変な美人ですものね。2人の若い時の写真を載せました。ではまた。
2021.03.10
閲覧総数 347
9
≪ 裸参り編 2 ≫ 裸参りの参詣者は次々にやって来て、参道を粛々と進んで行きます。 男性の参詣者が多いのですが、中には白装束の女性が混じっています。その女性の中に、さらし姿の勇ましい方がおりました。良く頑張りましたね。 どんとの火を横目で見ながら列が進みます。前回の裸参り編で、裸で行列した後、何をするのかとの質問を寄せた方がお2人居られました。答えは参詣とお祓いを受けることです。裸になって神前に詣で、無病息災や家内安全などを祈るのです。 「長床」を過ぎ、社務所の前を列が通ります。この後、御社殿(本殿)に入るのですが、順番が来るまでの間、寒空の下でじっと待っています。夕方5時ともなれば、既に気温は0度近くまで下がっています。 透明なビニールシート越しに、本殿内でお祓いを受けているグループの姿が見えます。 こちらはそのアップです。 こちらは左側から撮ってみました。 参詣とお祓いが済んだ女性達が帰る姿です。安心してホッとしたような後ろ姿です。この後、どんとの火に当たるグループもあれば、往路とは別な階段を下って帰るグループもいます。 こちらは階段を下りて帰るグループです。まだ私語を慎んでいます。この日、裸参りをしたのは122団体で、人数は約3千人とのことでした。1グループの平均人数は24.6人です。実は裸参りのグループは、同じ企業や団体の方がほとんどです。この日はテレビ局が数社境内の中で陣取り、ベストショットを狙っていました。 私が八幡宮に居た時間は約1時間。寒さ対策はバッチリして来た積りですが、これが限界。結局この日撮った写真は100枚ほど。私も一緒に階段を下りて帰路に向かいます。 裸参りの方達が口を開いたのは、国道に出てから。「今年はまだ良いね。去年は大雪で寒かったよ」。そんな声が聞こえて来ました。裸参りの列が鐘を響かせながら、次々にやって来ます。中には夫婦2人だけの姿もありました。ご主人が1人裸で、奥様がその後から提灯を持って従っていたのです。なかなか微笑ましい姿でした。 裸参りから帰ったグループの姿が急に消えました。きっとこの近辺に着替えする場所があるのでしょうね。昔は中心部の繁華街から来て参詣を済ませ、そのままの裸姿で中心部まで歩いて帰るグループが多かったのですが、女性が混じるようになった今では、少し形を変えたのでしょうか。 ともあれ、1月2日の豪華景品がつく「初売り」、1月14日の「裸参り」、そして8月6日から8日までの日本一豪華な「七夕祭り」の3つが、江戸時代から続く仙台の伝統行事と言えるでしょうか。いずれも伊達男仙台人の心意気を示すものだと私は考えています。明日の最終回は「おまけ編」をお届けします。どうぞお楽しみに~。<続く>
2014.01.21
閲覧総数 3381
10
卓球の福原愛選手が結婚した。お相手は台湾のリオ代表選手だった江さん。同じ27歳のイケメンで、新居は既に台湾に購入済みらしい。愛ちゃんは現役を続行する予定とか。子供の時から天才卓球少女ともてはやされ、テレビの試合でさんまにあしらわれ、大泣きした場面が思い出される。その後繰り返し露出した彼女の姿が、やがて石川佳純選手などの誕生にもつながったんだって。愛ちゃん、本当におめでとうね。 テニスの錦織圭選手、頑張ってますね。リオオリンピックでは確か96年ぶりのメダルゲットでしたもんね。その彼が、全米オープンではリオで優勝したマレー選手を破ったんですから大したもの。最後は疲労が出てベスト4に終わったけど、世界ランキングは2つ上がって第5位に。次の試合は大阪で行われる国別デビスカップなんだとか。体調を調整して頑張って欲しいね。 サッカーのモスクワW杯アジア最終予選。日本は初戦のUAE戦に敗れてしまった。入ったように見えたゴールが認められなかったり、相手にはペナルティーキックを与えたりと、「中東の笛」が目立った試合だった。初戦に敗れたチームは本選に進めないとのジンクスがあるけど、第2戦の対タイ戦は2-0で勝ち点3をゲット。U22の手倉森監督を再度コーチに呼び寄せる案も浮上。何とか頑張って欲しいな。 リオパラリンピック。日本の選手たちも頑張っていますよ。車いすバスケット男子では、前回優勝のカナダチームに圧勝し、初めて白星を上げましたね。柔道など連日頑張ってメダルを獲りました。パラリンピックで驚くのは、高齢の選手がいることや、1人で多種目に出場することなど。何と先日は68歳の女性卓球選手が出場していました。もちろん日本の選手です。残念ながら負けてしまったけど、実に爽やかな笑顔でしたね。 これも卓球の選手。両腕がないのでトスは足で上げ、ラケットは口にくわえています。パラリンピックはメダルの競争よりも、自分の障害との闘いが大切なのかもね。知的障碍者の方の水泳も見たけど、皆さん良く頑張ってますよ。純粋な彼らの姿に、胸が打たれます。 さて日本のプロ野球ですが、セリーグは広島カープがいち早く優勝を決めました。15年ぶりのリーグ優勝とのこと。今季は前田投手が大リーグにって苦戦するかと思いきや、かえって選手が一丸となりました。中でも中心となったのが昨年莫大な年俸を蹴って古巣に戻った黒田投手。選手層の厚い巨人を圧倒してのリーグ優勝には頭が下がります。 コボスタ 一方わが楽天イーグルスが所属するパリーグの方は、ソフトバンクがダントツの勢いだったのが失速し、微差で日本ハムが首位に立っています。残り試合はもう20もないので、今後も厳しい戦いが続きそう。楽天がCSに出られる確率は極めて低そう。何せエースの則本が10勝9敗と貯金1つ。ここ1ケ月以上勝ち星が無いんではねえ。でも最後まで諦めずに頑張って欲しいな。 大相撲の秋場所が始まりました。連続3場所で「綱取り」がかかっていた大関稀勢の里が初日から黒星スタートだったのには白けたね。腰が高いまま体を預け、土俵際で逆転の突き落とし。ガッカリしたなあ。休場明けの横綱鶴竜の2連敗にも驚いた。モンゴル出身の貴ノ岩が強くなったね。幕尻でなかなか勝てなかった力士が、ようやく力をつけて来た感じ。師匠の貴乃花親方も喜んでるんじゃないかな。 最後に水を差すようで悪いんだけど、あの感動の24時間TVはどうなんだろう。第一チャリティーを標榜する番組が、出演者に高額の謝礼を出してるなんておかしいよね。あの100kmマラソンの報奨は何と1千万円なんだって。 人気番組でたくさんのスポンサーがつき、TV局には大金が入る仕組み。出演する芸能人にはそこからギャラが支払われるそうだが、「障害」や「美談」を金集めの手段にしてほしくないんだよね。15年間ウルトラマラソンを走り、200km以上のレースを3回(フル以上のレースは101回)完走した私にしたら、たった数か月のトレーニングで100km走るのは到底無理だと思うんだけど。実際はどうだったんだろうね、たい平さん。
2016.09.13
閲覧総数 154
11
映画『沈黙 ~サイレンス~』を観た。「おや?」と思われるだろうが、監督はマーティン・スコセッシ。アメリカの人である。従って映画の中で話される言葉は英語。そして時々日本語が混じる。時代は江戸初期。場所は肥前長崎。ここに消息の知れない師を捜しに、2人のポルトガル司祭が密入国して来る。当時は「キリシタン禁止令」が出た後。見つかったら処刑は免れない運命だ。 原作者は遠藤周作で、昭和41年(1966年)出版。遠藤は三浦綾子、曽野綾子らと並ぶクリスチャン作家でカソリックの信者。カソリック文学研究のためフランスにも留学している。その一方で「狐狸庵」を名乗ってユーモアを解する度量があり、マスコミにも顔が売れていた。この作品は篠田正浩が出版の5年後に映画化され、大きな話題になった。 「踏み絵」の銅板 テーマは信仰と棄教。信仰を捨てない村人たちは「隠れキリシタン」となるが、追及の手は極めて厳しい。試されたのが「踏み絵」だ。中には命惜しさに「転ぶ」者も出る。つまり棄教だ。心ならずも踏み絵を踏みつつ、信仰を続ける者もいる。ポルトガル人の司祭の間でも、信仰と懺悔をどう捉えるかで意見が分かれる。 取り締まる側の頂点にいるのが幕府大目付で宗門改(しゅうもんあらため)役の井上筑後守。演じるのはイッセイ尾形。普段彼は長崎の奉行所にいるのだが、時には取り締まりの現場にも赴く。日本語で話すこともあるが、ほとんどがユーモラスな英語での会話。アメリカ映画なので仕方ないが、その軽妙さとは裏腹に彼が執行する処刑は極めて残虐なものだ。 処刑されるキリシタンと悲しむ村人たち。彼らは隠れキリシタンだ。 殉教する信者がいる一方、何度も「転ぶ」者もいる。その代表がキチジロウ。踏み絵を踏んだ後で必死になって司祭に救いを求めるが、役人と村人の双方から次第に信用されなくなる。演じるのは窪塚洋介。何年か前マンションの9階から墜落しながら、奇跡的に死ななかった男だ。彼はその時の記憶がないと言う。信仰と棄教。相反する行為を演じる姿には、鬼気迫るものがあった。 民衆がこれほど苦しんでいるのになぜ神は沈黙したままなのか。弱い人間が神を裏切り、仲間を裏切るのは罪なのか。遠藤が問いたかったのは、きっとそのことだろう。一頃彼はノーベル文学賞の候補者と言われたそうだ。だが小説の驚くべき結末が栄光の受賞を阻んだ。何と行方不明だった師は転んで日本人として生き、妻のいる身となっていたのだ。 遠藤は史実を下敷きにしながらフィクションも加えた。師を追って日本に密入国したポルトガル人司祭の一人も苦しみつつ転び、やがて江戸で日本人として妻を迎える。何十年かの日が過ぎ彼は死ぬ、その棺に収まった彼の懐にあったものとは一体・・・。 自らの弱さゆえに神を裏切るのは、宗教弾圧の時代だけとは限らない。現代人もまた然りだ。そして宗派の対立を深めて来たのも宗教の歴史、いや人間の歴史そのもの。神はなぜ沈黙して真理を示さず、弱い人間に試練を与え続けるのか。遠藤の作品は、恐らく人間にとって永遠のテーマだろう。
2017.02.16
閲覧総数 682
12
<ラスコー洞窟とクロマニョン人の芸術(1)> 今日は。クロマニョン人ってご存知ですか。現代ヨーロッパ人の直接の先祖に当たる人種で、先史時代の人たちです。5月中旬のある日、私は東北歴史博物館(宮城県多賀城市)で『特別展世界遺産ラスコー展』を観て来ました。サブタイトルに「クロマニョン人が残した洞窟壁画」とあるように、テーマは世界的に有名な壁画なんです。既にブログで紹介済みですが、今回は残った写真を掲載したいと思います。 これがラスコー洞窟がある村の風景です。洞窟は右手の渓谷沿いにあります。 これがラスコー洞窟の入り口です。1940年のある日、穴に落ちた愛犬を救おうとした村の少年が偶然洞窟を発見したのです。その後洞窟を探検した人たちが、おびただしい数の壁画を発見。学術的な調査の結果、今から約2万年前、先史時代のクロマニョン人によるオーニャリック文化であることが判明しました。1979年に世界遺産に登録され、立ち入り禁止となる代わりに、精巧なレプリカが展示されています。 <ネコ科の部屋> 洞窟内はとても広大で、壁と言う壁は彼らが描いた絵画で溢れています。展示された作品は全てレプリカであり、そのほとんどは撮影が許可されています。洞窟ごとに「テーマ」があるようです。クロマニョン人たちが住まいとして使用したのは、洞窟の入り口付近だけ。洞窟内は真っ暗で、彼らはランプの灯りだけを頼りに、次々と壁面を動物の絵で満たして行きました。 鹿の仲間でしょうか。しかとは分かりませんが。 物凄い絵心で、動物の特徴を良く捉えています。とても2万年前の作品とは思えませんね。 頭に突起のようなものが見えています。ウシ科の動物かな? *) 野牛に倒された人間のように見えますが・・。 * 説明板には「井戸状の洞窟」とありました。場所の名前です。 オオツノシカでしょうか。絵具も使って描かれています。 これは「現代の第3の洞窟」で、真っ暗な中でも分かるよう蛍光塗料で描かれています。 絵の具の色は何種類かあります。絵に対する執念が半端じゃないですね。 牡牛たちの躍動感が凄いです。エネルギーの塊ですね。 *)の絵を広範囲に見た図です。呪術性を感じる絵ですね。 輪郭を切り取った馬。デザインとしても秀逸です。 「牡牛の広間」と呼ばれる空間。人物と比べると洞窟の巨大さが分かります。 野生の馬でしょうか。家畜ではなく狩猟の対象だったのかも。 太った牛の群れは、きっとクロマニョン人たちの生命を繋いだのでしょう。 猟場は洞窟からかなり離れていたはずです。それでもこれだけ正確に動物たちの姿を描けたのは、クロマニョン人たちが素晴らしい観察力と芸術性を保有していた何よりの証でしょうね。<続く>
2017.09.15
閲覧総数 830
13
~鶴ヶ城の絵とうろう~ 会津若松城(鶴ヶ城)の広場で開かれた「絵ろうそく祭」ですが、広場の向こう側に明るく輝くものが見えました。よし、次はあそこへ行ってみよう。そう思って雪道を急ぎます。 見えていたのはこれでした。中にロウソクが点され、周囲の絵が明るく揺らめいています。きっとこれは「絵灯篭」とでも言うのでしょうね。 それにしても幼い絵。やがて見て行くうちに、会津若松市内の幼稚園や保育所の子供たちが描いた絵だと分かりました。これはきっと郷土玩具の「赤べこ」ですね。 四角形ですから、4面全部に絵が張られています。これは保育園の園児が描いたようです。 ハハハ。愉快愉快。この三角形のものは「起き上がりこぼし」ですね。それに自分の名前をつけていましたよ。 こちらはみんな仲良く、手をつないでいますね。 みんな笑顔で嬉しいな。 大きな💛を取り囲む笑顔、また笑顔。 どんぐり山保育園の年長さんが描いたみたいですよ。 みんなまるまるほっぺですね。元気で何より♬ 可愛い女の子の頭の上に、丸い穴が開いています。これは灯篭へ酸素を入れるためのもの。 ほら、これが灯篭の中の様子。9本のロウソクがしっかり燃えていましたよ。 また三角形の起き上がりこぼしが登場です。怒ってる子もいるけどね。 赤い丸は風船だけど、白の丸は空気穴なんだよ。 なるほど。これは桜の木の下で、お花見をしてるみたいですね。 「いとよ」は清流に棲む魚。「ほたる」も清流が住処。良い組の名をつけましたね。 あらまあ。パパや漫画の主人公まで登場してますねえ。 ミッション系のこども園には、ウイルソン君もいるみたい。みんな仲良いね。💛 う~ん。年小さんの芸術は爆発してますねえ。 どの子もみんな、きれいな花になりました。 みんな仲良しだね。雪の結晶も楽しいな。 みんな、たくさんの絵を見せてくれてありがとうね。ではおやすみなさ~い!! <続く>
2018.02.20
閲覧総数 94
14
~猛烈に面白かったドラマが終わって~ NHKのBSで放送されていた「コウラン伝」がつい先日終わった。~始皇帝の母~のサブタイトルがついたこの中国の歴史ドラマの面白さには、毎回強く惹かれるものがあった。ほとんどが史実なのだろうが、細部には脚色があるのだろう。実話が基礎になってるせいか話の展開がスリルに満ちている。日本では全34回だが、中国では60回の長編。半年間日曜日の夜9時から、息を殺して画面に見入っていた。 趙時代の登場人物相関図 主な登場人物は4人。秦の王族で人質として趙に送られた子楚(しそ)、趙の貴族の娘で継母の策謀で奴隷になったコウラン。彼女を買って自分の愛人とした呂不韋。彼は出世を願う趙の商人で、その野望を抱いて子楚に近づく。ところが呂不韋の愛妾であるコウランを一目見た子楚はコウランに恋して、呂不韋に譲れと申し入れる。野望に燃える呂不韋は止む無くコウランを手放す。 秦時代の登場人物相関図 数年後子楚は出身地の秦に帰国する。祖父の皇帝が実権を握り、父が皇太子になったためだ。だが趙に置き去りにされたコウランは子楚の子を産み、苦労しながら密かに育てる。何度も迫る危険から知恵を使って逃れ、呂不韋も彼女を助ける。やがて時が来てコウランと王子、呂不韋の3名は何とか秦に潜入する。だがそこでも宮廷内での果てなき権力闘争に巻き込まれる。毎回手に汗握る展開だった。 阿房宮(復元) 秦の皇帝となった子楚だったが、その地位にたのは4年ほどだが、子の政を皇太子とする。コウランは皇后となり、呂不韋は丞相(じょうそう=総理大臣)に出世していた。政は13歳で皇帝となり、自ら始皇帝と名乗る。後に天下を統一した暴君。ドラマは秦の滅亡までは描かず、最後にナレーションが流れる。呂不韋は皇帝から死を賜る前に自ら毒杯を飲んだ由。皇帝子楚の死後、コウランは愛人との間に2人の子を産んだ由。彼女は50代まで生きたようだ。 秦が統一した天下 壮大なドラマは途中で終わったが、成人した始皇帝は他の6国を攻めて服従させ、初めて天下を統一した。諸国を4度巡回し、5度目の巡回中に部下の反逆によって死す。天下統一から滅亡まで(紀元前221年~紀元前206年)を秦朝と呼ぶが、秦は紀元前905年から同206年まで36代続いた王朝で、決して短命ではなかったのだ。 始皇帝 中国の歴史は悠久だ。それにしても良くあれだけの歴史ドラマを制作出来るものだ。セットも大がかりだし出演する俳優も多く、衣装や化粧、皇宮内での凄まじい確執など、韓国の安っぽい歴史ドラマとは一味も二味も違っていた。だが「中国」と言う名の国家が誕生したのは現代になってから。それ以前は個々の民族が起こした「王朝」で、何度も国の名が変わっている。 焚書坑儒 始皇帝は暴君で自分に意見するものは、皆殺しにした。いわゆる「焚書坑儒」(ふんしょこうじゅ)で、自分に都合の悪いことを書いた本は燃やし、意見した者は穴を掘って生き埋めにした。だが、彼が天下を取って統一したものがある。それを以下に示す。 意外と思うだろうが、彼が統一したものが1)漢字 2)度量衡(どりょうこう)=長さ、量や重さの単位 3)貨幣。そして法律を作ってそれに従わせ、各王朝が築いた「長城」を繋いで「万里の長城」とした。滅亡時に放火された阿房宮(あぼうきゅう)は、その巨大さゆえ、全焼するまでに1か月を要した由。この阿房が阿呆(あほう)の語源と言う俗説があるくらいだ。次回は彼の墓と兵馬俑を紹介したい。ではご機嫌よう。<続く>
2021.06.11
閲覧総数 2977
15
~「ヤルタ会談」と「ヤルタ協定」そして日本と中国の戦後~ NHK「映像の世紀プレミアム」を観て書き始めたこのシリーズ。甲子園の高校野球も、後半戦に入ったプロ野球も、そして昨日から競技が始まったパラリンピックも観ず、シリーズを書こうとしている。学校で習わなかった現代史の面白さを知ったからだし、真実に近づきたいと言う私の想いからでもある。理解を深めるためにネットで検索し、新たな知見と同時に、自らの認識を修正することも度々だった。 皇居前で玉音放送を聞く人々 日本人が初めて自国の敗戦を知ったとされる、昭和20年8月15日の「玉音放送」。思い出すのがこの写真だが、これは不自然との意見があるようだ。当時、皇居に一般人が立ち入ることは許されていない。また皇居前に拡声器や放送設備はない。土下座する前方に立っている人物が不自然などがその理由。ただしこの日重要な放送があるとの通知はあった。日本は前日に「ポツダム宣言」を受諾していた。 ミズーリ号上での調印 1945(昭和20)年9月2日。東京湾に進入した米国艦船ミズーリ号の船上で、敗戦国日本と、連合国代表との間で、停戦に関する協定が結ばれた。日本の全権は東久迩内閣の外務大臣である重光葵(しげみつまもる)、連合国の代表はアメリカのマッカーサー元帥。ミズーリ号が停泊したのは、江戸末期に「日米和親条約」を結んだ同じ場所。アメリカはその「位置的効果」を計算済みだった。 <日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン大統領> ポツダムはドイツの一都市。そしてポツダム宣言とは、イギリスのチャーチル首相、アメリカのトルーマン大統領、中華民国の蒋介石主席の名において、日本に対して発せられた13か条からなる降伏要求の最終宣言。正式には「米英中三国共同宣言」と言う。ソ連は後に加わり追認した。 ミズーリ号上での調印は日本がポツダム宣言を認めたことを意味し、即刻同日に発効した。ミズーリ号では戦勝国を代表してマッカーサー元帥が署名したが、後日日を改めて中華民国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの代表も署名した。 <ヤルタ会談の参加メンバー(左)とヤルタの位置(右)=クリミア半島先端の宮殿> このように日本の敗戦は前もって連合国側によって綿密に準備されており、ドイツやイタリアと結んだ軍事同盟など何の役にも立たなかった。驚くことに激しい戦争のさ中に戦後処理まで協議されていた。メンバーは左からイギリスのチャーチル首相、アメリカのルーズベルト大統領、そしてソ連のスターリン書記長。この会議ではソ連の対日参戦、戦後の国際連盟設立など。知らぬは日独伊の枢軸国のみだった。 1) 2) 3) 枢軸国のドイツ、イタリア、日本の占領地を戦後どう処理するかを協議したのが1)ヨーロッパ 2)朝鮮半島 3)日本列島をどう分割するかが上の3つの分割図で、図にはないがバルカン半島、台湾、樺太などの北方領土も関係する。もしもこの案が実施されていたら、わずかに近畿を除いた地域が全て外国領となっていたわけで、幸い実行されなかったのは、共産主義に対する不信感からだろうか。 日本が敗戦を認めた後に、ソ連が満州や北方領土に侵入し、日本兵をシベリアや中央アジアに連行して強制的に過酷な肉体労働をさせたこと、北方領土を未だに返還しないのを非難しても、ロシアは戦勝国として当然との考えだろう。だが「朝鮮戦争」の勃発などで、その後の世界情勢が大きく変化し、日本も遅まきながら「サンフランシスコ講和条約」の締結によって国連に復帰し、再出発出来た。 それでは中国はどうか。内戦で国民党に勝利した中国共産党は、中華人民共和国を建国し、共産主義を国是とする。一方敗れた国民党の蒋介石(右)は、日本が利権を失った台湾に入る。その台湾が戦後間もなくは国際連合の正式メンバーで、理事国でもあった。だがその後「中共」は「一つの中国」を標榜して台湾を国連から追放、資金援助したアフリカ諸国の力を借りて、安保理常任理事国の座を手に入れた。 アメリカがアフガンから撤退すると聞いたこの国は、タリバンの指導者を北京に呼んだ。協議したのはアメリカ軍に対する攻撃作戦の伝授と、資金援助の約束。アフガンから撤退する米軍は、対中国包囲網を強化する予定でいた。だが、その計画がもろくも破綻した。今年の北戴河会議(中国共産党幹部のOB会)で批判を受けた習近平は、「黙れ。台湾と尖閣は必ず獲る」と怒鳴った由。ああ怖っ。 ロシアの国旗は白青赤の三色。で国旗に込められた願いは、白=高貴と率直さ。青=名誉と純粋さ。赤=勇気と寛大さ。なんですって。そんな風には全然感じないけど。国家としてオリンピックに参加出来ない腹いせにサイバー攻撃を。北方領土では軍事訓練をやりたい放題。「国後島から泳いで来た」と言うロシア人が、先日北海道警察に拘束された。だが服は濡れておらず、小さなリュックを背負っていたらしい。難民だろうか。う~む。しかし、どう考えても変な国だ。<続く>
2021.08.26
閲覧総数 277
16
~人生の晩年・人間について想うこと~ 土曜日。朝ドラ「カムカムエブリボディ」を観て驚いた。何と稔と安子がいつの間にか結婚しているではないか。だが、15分間の「まとめ」で納得。稔の学徒出陣の前に、稔の父親が息子の願いを聞き入れて、和菓子屋の一人娘と結婚させることにしたのだ。純情だったあの頃。さて私がラジオで「カムカムエブリボディ」の音楽を聴いたのは戦後のこと。あれは「証城寺の狸囃子」と言う童謡だ。 庭のウメモドキ あの頃の音楽で覚えているのは「鐘のなる丘」、美空ひばりの「りんご追分」。そのうちテレビ放送が始まり、空手や相撲の中継に夢中になり、そのうち「バス通り裏」、「ジェスチャー」、「私は誰でしょう」、「ひょっこりひょうたん島」などが出て来た。黒柳徹子がまだ若い娘だった頃だ。 秋山庄太郎撮影の「秋田美人」 「鶴瓶の家族に乾杯」を観て驚いた。先日TVに出たのは104歳のお婆ちゃん。出陣する兵隊さんと急遽結婚したが、夫婦生活もないまま夫は戦争に行き戦死した。残された彼女は再婚することもなく、養子をもらって家を守り子や孫、ひ孫、玄孫までいる身だが、今でも夫を愛してると言っていた。手も握ったことなどないはずだが、良くその純情を貫き通したものだ。 先日行ったK内科で隣に座っていたお爺さんと少し話した。92歳で89歳の妻と2人暮らし。買い物、用事、病院にはバスやタクシーを使っている由。一時は杖を突いて歩いたが、右肩に荷重がかかって大変だったそう。東京のお嬢さんが見かねて、電動歩行器を買ってくれた。それは椅子付きで、バスを待つ間は座れて良いとのこと。夫婦仲良く助け合っている老夫婦に、私は尊敬の念を禁じ得なかった。 三船美佳が高橋ジョージと離婚したのはかなり前の話。年の差婚で十代で結婚した美佳は、モラハラ気味の夫がウザったくなったのだろうか。最近では篠原涼子がかなり年上の夫市村正親を捨てて家を飛び出し、韓国の若いミュージシャンと恋愛中だとか。世の中は変わり、家族の形も、恋愛観も変わった。昔なら考えもしなかった不倫の時代。それだけ自由になったのだろう。わが家でも大金を持った認知症の妻が家を出て行った。どうやら付き合っていた男性いたようだ。知らぬは亭主ばかりなり。 久しぶりに眠れ、久しぶりに十分に食べ、久しぶりに好調と感じて散歩に出かけた。本当は5kmほど歩く積りが腰痛が発生、家の近所500mほどで終わった。農家の畑の柿は全て収穫してあった。きっと「渋抜き」にでもしたのだろう。わずかな運動でも気持ちが和んだ。健康であることの有難さを痛感したことだ。 Kさんが世話しているバス停前の花壇での皇帝ダリアが、青空に向けて大輪の花を開かせていた。実に見事な風景。世話する人の真心。それに応えて立派な花を咲かせたダリア。樹高は3m以上にも伸びてまさに「皇帝」の名にふさわしい雰囲気だ。間もなくこの花も霜でやられる。季節の移ろいは早い。夕方新聞屋さんが集金に来た。相変わらずのバカ話をして別れる。 先日その花の前で、近所の人に出会った。先方は2人連れで1人は夫を亡くした80歳くらいの女性。もう1人はその姑で90歳を超えているだろう。先方から話しかけられ「毎日3食とも自分で食事を作っています」と言うと、「じゃあ行く?」と女性。一瞬何のことかと思ったら、自分の姑に対して「それなら嫁に行きますか」と言うことだったのだろう。彼女は私が独り暮らしをしていることを知っていてそう言ったのだ。それは姑に対しても私に対しても失礼な話。世の中には色んな人がいるものだと痛感。 落ち葉 先日受診したK内科は7年ぶりで、診察券を作り直した。「ずいぶん丁寧に診察しますね」とドクターに話すと、「これくらいの時間を取らないと本当の診察は出来ないよ」と彼。そして新築移転したM内科のことを私に尋ねた。「土曜の午前と日曜日は2人のドクターで診察してますよ」と答えると、人を雇えば結局同じなんだけどね」と。私の暮らしぶりにも耳を傾けてくれ、その人柄を見直した私だった。 ドングリ 一方、14年ほど診察を受けているM医師。先日「体調が悪いので薬を減らしてください」と頼むと、「それなら薬は全部止めますか」と脅迫。私が服用している薬は強く、同時にかなり強い副作用を持つのが多い。それが数種だとさらに複合的に作用する。新築移転してかなりの借金があるのだろう。表情が以前よりも険しい。その体調不良の不安の私に「心療内科に行けば」の言葉は忘れられない。私の体調を最も良く知るドクターだが、この際セカンドオピニオンを求める気になったのも確かだ。 倒れたユリの種 薬を1種類減らしたお陰で、ふらつき感と不安感が減って集中力が増し、心が少しのびやかになった。たとえ錯覚だとしても今の私には嬉しい変化。そのお陰で散歩に行く気にもなった。「人間は社会的な動物である」。確か古代哲学者の言葉だと思うが、出来ればより長く正常な認知機能を維持したいものだ。今日もブログを書けたことに感謝し「予約する」をクリックした。
2021.11.21
閲覧総数 89
17
11月23日月曜日。私は雨の中を歩いた。仙台市博物館と宮城県美術館で開催中の催し物を観るためだったが、その際いくつかの銅像やレリーフに出会った。今日はそれらの作品を紹介したいと思う。 1 「仙台キリシタン殉教碑」深沢守三神父作 大橋のたもとの西公園内に設置。 藩政時代、大橋の下には水牢があった。元和10年(1624年)キリシタン禁止令によって、9人のキリシタンがここで処刑された。1人はポルトガル人宣教師のカルバリオ神父で、他の8人は日本人。九州や北陸など、いずれも他国の出身者だった。 1)の部分で中央に立つカルバリオ神父。日本式の名は長崎五郎衛門。彼は長く長崎で布教活動を行っていたようだ。この銅像はカトリック教団が、神父らの殉教を偲んで1971年に製作設置したもの。 神父の向かって左に立つのが武士で、右側に立つのが農夫。彼らは殉教者のシンボルとして、このような形をとった。仙台藩において、当初キリシタンに対する弾圧はなかった。支倉常長を遣欧使節として派遣したほどだ。政宗の正室である愛(めご)姫や長女の五郎八(いろは)姫はキリシタンとの説もある。現に五郎八姫の霊廟である天麟院(松島町)の厨子の中には、バラの花と十字架のデザインが施されている。 規制の緩かった仙台藩へは、キリシタン達が大勢逃げ込んで来たようだ。だが、禁止令が幕府によって出されると、藩も彼らを捕え、処刑せざるを得なかった。こうして約400年前の2月、厳寒の中で9人のキリシタンは広瀬川に沈められたのだ。 2 魯迅像 仙台市博物館裏庭 魯迅は中国の小説家、翻訳家、思想家。(1881~1936)。明治37年(1904年)医者になるため仙台医学専門学校(東北大学医学部の前身)に留学するも、自国民を救うためには文学者になるべきと考え方を変え帰国。中国で西洋の技法で小説を書いた最初の人。代表作に「狂人日記」や「阿Q正伝」がある。仙台滞在中は特に解剖学の藤野教授から手厚い指導を受けた。この恩師の話は、彼の小説にも登場する。 この銅像は魯迅の故郷である紹興市から生誕120周年を記念して仙台市に贈られ、平成13年(2001年)に現在地に設置された。 3 林子平レリーフ 仙台市博物館裏庭 林子平(元文3年1738年~寛政5年1793年)は元仙台藩士。父は幕府の書物奉行を務めた岡村良通。事情により叔父がいた仙台藩に寄留。種々藩に進言したが聞き入れられず、兄の部屋住み(居候)となり全国を巡る。長崎、江戸で学び、「三国通覧図説」や「海国兵談」を自費で出版。これが禁書に当たるとして幕府に発禁処置をとられ、兄宅に蟄居処分となる。 彼は西洋諸国の脅威、中でもロシアの脅威を恐れ、日本も防備に努めるべしと説いたのだが、幕末の黒船到来より70年近く早く、世間に認められなかったのだ。自ら六無斎と名乗った。「親も無し、妻無し子無し版木無し。金も無ければ死にたくも無し」と嘆いたことによる。また「寛政の三奇人」の一人と呼ばれたが、実態は天才。人よりも時代の先を読む力があった。 このレリーフは昭和43年(1968年)小笠原諸島が日本へ返還された記念に建てられた。子平の著書に、小笠原諸島が日本人によって発見されたことが記されていたのだ。小笠原は捕鯨基地でアメリカ人が居留していたが、彼らはそのまま日本に帰化している。 4 伊達政宗胸像 小室達作 仙台市博物館裏庭 制作した小室達は宮城県出身の彫刻家で、東京美術学校(東京芸術大学の前身)を首席で卒業した人。(1899~1953)後で出て来る青葉城の「政宗騎馬像」も彼の作品である。 伊達政宗は仙台藩の藩祖で、独眼竜として名高い。幼少の頃に天然痘に罹り、片目を失った。父輝宗は伊達氏第17代当主。母義姫(保春院)は最上氏の出で、山形を治めた最上義光の妹。正室は三春城主田村清顕の娘愛(めご)姫。 5 三世代 仙台市博物館前庭 5)の部分 長い間この銅像を観て来たが、あまり関心はなかった。良く観ると、肩からかばんを下げた郵便局員が3人いる。どうやらこれが3世代の家族なのかも知れない。制作者の藤原吉志子(1942~2006)は東京都出身で、東京芸術大学大学院鋳金科を修了した彫刻家のようだ。 これが一番下のポストマン。きっと三世代の中で一番若く、孫に当たるのだろう。ここまで書くのに、既に2時間を要した。撮影した作品はまだあるのだが、続きは明日に載せたい。<続く>
2015.12.02
閲覧総数 483