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最後に、内容的にはおまけ程度にしかならないのだけどDoctoratに1年だけ在籍していた時の事、というよりもLMD改革後の個人的感想を書いておきましょう。何度かちらちらっと書いてきた通り、フランスの大学システムが2005年秋から変わりました。私にとってはDEAを修了した夏までが旧制度の時期で、Doctoratに登録した同年の秋以降からが新制度のLMDに切り替わった時期です。詳しくは知りませんが、それまでフランスの大学制度(学年の数え方)が他国の大学制度と異なっていたので足並みを揃えたい、というのもLMD制度導入の狙いの1つ・・なのだと思います。なのでLMDになってからは学年の呼称や要綱があちこち変わりました。月並みな事しか書けないけれど、LMDになってから学生は一層大変になったな~という感じです。たとえば、私の場合。私達の学年はLMD制度が導入されてから初めての、Doctorat1年生でした。前年度までの同学部のDoctoratの学生は授業やゼミを履修する義務が一切なく、最後に500枚前後の論文さえ提出して試問を受ければ博士号が取れたというのに、私達は初年度に25時間分のゼミに出席する事が義務付けられました。そこで映画学科では週2時間のゼミが12週に渡って行われる事になったけれど、これはDoctoratの学生にはキツかったんじゃないかと思います。平均年齢が上がってきているだけに昼間はお勤めをしたりで2足のわらじを履いている人も居たはずだし、人によっては論文のために旅行に出かけたり研修を受けたりしているんじゃないかと思うのに・・・。もちろん他の学部のゼミに出席するのもアリだったので、こちらのゼミでは都合がつかないという人はよそのに行けば時間調整を出来た訳だけど・・・研究重視の生活を送るべきDoctoratの学生を縛るこの制度に私は内心驚きました。(別に、実際に身近に困っている人が居たわけではないのだけど、ね。)あと、日本的な私は最初から気になっていたんだけど、「2時間×12回」だとどうしても規定の「25時間」に満たないんですよね。この話は年度末あたりにようやく(ゼミの担当教授も含めた)みんなの前で大々的に話題に上ったものの明確な回答が公表される事はなかったし、その後どうなったのかはDoctoratを1年で辞めてしまった私には分かりません。とにかく新制度導入直後で学校側の対応が追いつけていないのかもねという印象が残りました(^^;話は変わるけれど、2004年の秋に文学部のMaitriseに編入した知人が居ました。今まで語学学校で勉強してきたのに急にパリの大学に編入したのでとっても大変そう。それでもものすごく頑張って、見事その1年後の秋(=2005年の秋)にはMaitriseのディプロムを取得しました。それからしばらくして彼女から聞いたのが、こんな言葉です。「やっぱり頑張って、大学のシステムが変わる前にMaitriseのディプロムを取っちゃって良かったわ。だってLMDになってからあの学年の必修科目数が増えちゃったから、もしも今年もあの学年にいたなら今年は追加分の単位を取得しないといけないところだったのよ」えええええーー!!同じ2004年の秋にスタートしても、2005年の秋に終えるかそれとも翌年に回すか、で必要授業数も変わっちゃうんですか!!だったらほんとに、LMD導入前にディプロムが取れてよかったですね。・・という訳で、前回までつらつら書いてきた私の個人的体験と2005年秋のLMD導入以降の状況は随分と異なっているんじゃないかと思います。なので私の体験談はあくまで参考程度にしてくださいね。フランスの大学に編入するならMaitriseかDEAからにした方がまだ少しは楽なんじゃないか(思い返せばその中でも、MaitriseはDEAに比べると楽でした)、パリの大学と地方の小さな大学だったら(刺激や満足度が下がるかもしれないけど)後者から始めた方が着実なんじゃないか、などと言う事を具体的に書こうとしたらどんどん長くなってしまったこのお話、これにておしまい!ランキングに参加しています。投票(をクリック)していただけると、嬉しいです。写真は秋の並木道。これはちょっと前に撮ったもので最近はもっと散っています・・・。
2008.09.26
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3つ前の記事の続きでパリの映画学部のDEA在席時に受けた感触を書きます。(注:学年名の表記に関する注意書きはこの日記の最初の部分を読んでください。)1年目でレポート群をこなした後は2年目をゆったりと論文にかけるつもりでいたのに、はっと気づけば大誤算が起きていました。話が逸れるので理由は割愛するけれどこの時も結局、夏休みが近づいているのにまだまだ論文が書けていない状態に陥ってしまったのです。精神的により追い詰められたのは初めてフランス語で論文を書いたMaitriseの時の方かもしれないけど、この時は肉体的にもっと辛かったかもしれません。(トシも余分に2つ取ったしね・・。)それでもまたもや苦しみながら何とか完成させギリギリに提出しました。(この表現を書くの、一体何回目なんだろう???ちなみに、その時に教授が利かせてくれた機転とフランスの大らかさについては、こちらに書いてます。)論文を提出したら、今度は試問。Maitriseの時は指導教授と副査の教授の前で行われた試問も、今回は6・7人の教授陣の前で執り行われました。(横で見守ってくれたディノとK子さんには感謝!この時の様子もいつか詳しく書けたら・・と思います。)笑いあり、冷や汗ありだった試問はなぜか私とディノの思っていたよりも高い評価を得る事ができたけれど、残念な事にDEA論文自体の評価はMaitrise論文の時よりも少し(20点満点中、0.5点)下がってしまいました。電話で点数を教えてくださった指導教授の説明によると前学年度よりも点が落ちてしまったのは、副査の先生が「第一章の内容の一部が、前回の論文と重複している」と言って、譲らなかったからだそうでした。(確かにあの教授は試問の時もそこを指摘していました・・。)Maitrise論文で書いた歴史的側面をDEA論文で掘り下げたいと思っていた私は、いざ論文を書いているとどうしても前回書いた事をもう1度なぞるところから始めなくてはならない事に気づきました。それは良くないのではと思い指導教授に相談すると「Maitrise論文と重複する部分があっても、むしろそこから引用する事になっても全然構いません」とおっしゃってくださったので、私は第一章の中の各章の最初の部分でまず前回書いた事をもう1度おさらいするカタチにして筆を進めていました。・・・あぁ・・・。・・・指導教授と副査の先生の主義が全然違っていたのね・・・。副査の教授も全体的には褒めてくださっていたのに、これだけが凶と出てしまったなんて・・・。惜しいけど、もう仕方ありません。本当は執筆時にもう少しだけ頭をひねって、「繰り返し」に見えない書き方を目指せば良かったのでしょう。だけどその技量が無かったのも時間が無かったのも、私の落ち度。「あの教授は評価に厳しい」という噂は本当だったのかもと最後の最後になって気付いた感じだけど、それでも総合点ではディプロムを取った学生達の中では上位3分の1以内には入れた事が分かったので、留学1年目のLicenceがギリギリでの及第だった私にしては快挙だったと思う事にします!!(ちなみに、Maitriseの時は総合得点が何人中何位だったのかは分かりませんでした。DEAの時は偶然掲示されていたので、知る事が出来たけど。いい加減な事務室・・・。)そんなこんなで、DEAで受けた授業はMaitriseと同じものだったけど時間数は倍だったし、レポート数も倍に近かったし、DEA論文への評価もMaitriseに比べると厳しかったし、私自身の経験としては、DEAはMaitriseと中身はほとんど同じでただ大変さと求められる水準だけが違うのだなという印象でした。ランキングに参加しています。投票(をクリック)していただけると、嬉しいです。次回はおまけとしてLMD導入直後にDoctoratに1年だけ在籍して感じた事を書いて、このシリーズを終わりにしたいと思います。
2008.09.25
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Maitriseとあまり代わり映えしないのだけど一応DEAの感想も書いておきます。(ここで私が使っている学年呼称についての説明は2つ前の記事の初めの部分を参照してください。)私はDEAまで来て初めて、「今回はディプロム取得に2年かけよう」と決めました。それまでのLicenceとMaitriseはどちらも最短の1年で修了させてきたけれどそろそろ息切れが・・・。せっかくパリに住んでいるのだからもっともっと毎日を楽しみたいし、2年かけた方がMaitriseの時よりも楽にしかも良い論文が書けるはずと、踏んでいたのです。さてこのDEAの時も前年同様まずは講義に出席してレポートを提出する事によって必要単位を取得するのが、論文を発表できる前提になっていました。・・・ただし必要単位数はMaitriseの時の倍になっていて前期と後期で各4科目ずつ履修しなくてはいけない事になっていたけれど・・・はぁ・・。よし!慎重に授業を選ぼう。私は少し考えて、8教科のうち2教科分をLicenceの科目から取ることにしました。(Licenceの授業は「1つ」しか履修しなかったけど、その講義が通年コースだったので「2科目」として換算されたのです。)なぜ今頃Licenceの講義を受ける事にしたかと言うとMaitrise論文の試問の際に副査を引き受けてくださった教授がLicenceで日本映画をテーマにした講義を行っていらして、私にはそれが自分の論文に1番役立つ(かも?)と考えられたからでした。この大学の授業案内には、MaitriseやDEAの学生は教授達の承認さえ得られれば他学年や他校の授業を受けそれを単位として認定してもらえる、と明記されていたのでそれの制度をうまく利用したカタチです。木曜の朝8時から始まるそのLicenceの授業、冬は特に辛かったです。まだ暗い中毎回ギリギリに駆け込むと(有り難い事に先生もギリギリで来てました^^)まだ朝早いのに教室はもう混みあっていて、熱気を感じます。眠気と闘っている人も居たに違いないけれど・・・でも大半が真剣なのが伝わってきたのです。だってこの学校でうかうかなんてしていられないもんね・・・。事務室の前に時々Licenceの学生達の採点済みレポートがどーんと無造作に積んである事があったけれど(これってひどいと思う)、人目が無い時にこっそりと見てみたら教授によっては容赦無い赤点を付けたり批判を書き残している事があるのが分かって、去年の自分はよくまぁ及第点が取れたものだと感心してしまったぐらいなのです。毎回毎回ギリギリまで苦しんで書いていたけれどそのぐらいでちょうど良かったのかも・・。(ま、時にはすごく頭の良い子が居てそんな人はいかにも授業にあまり出ていなくても要領よくサラサラッといいレポートを書けそうな印象を受けたけれど。また逆に、「アナタさぁ、この状況からして、もう少しだけマジメにやったら単位なんて簡単に取れたんじゃないの?」と突っ込んでしまいたくなる輩もいましたが・・。)あっ、話がズレたのでDEAに戻しましょう。この日本映画の授業は本来Licenceの学生向けなので私以外はみんなペーパーテストの出来に応じて点や単位がもらえる事になっていました。でも私はもちろん、レポートを出す様に言われました。前期と後期で計2つのレポートを提出するつもりだったのに教授は前期が終わる時点になって初めて、しかも急に「後期分は出さなくていいです」と言ってくだったのでラッキー!(私の前期のレポートが長くなりすぎたから、先生も読むのが嫌になっちゃったのかしら・・なんてね。)これ以外の科目には授業中のエクスポゼ(みんなの前での発表)が採点対象の一部になっているものもあったけれど、それでもやっぱり最後には必ずレポートを出す事になっていました。授業数がこれだけあると、まぁ大変。うまい具合にそれぞれの提出期限がズレていたり、私もこの頃にはこの学校特有のやり方に慣れて教授の事前許可もなしに(!)オフィシャルの期限より2週間も後にレポートを提出したりで何とかやりくりしていました。それでも最後の課題を完成させたのは夏休み明け。(・・・だってたった1年で合計150ページぐらいのレポートを書いたんだもん・・・。)あれ、もう既にDEAを開始してから1年経っちゃってるじゃない!!確かに今までの留学生活の中では1番のんびりした瞬間の多かった1年かもしれないけど、「2年かければ余裕」という読みが見事に外れたのに気づいた状態で、私はDEA2年目に突入したのでした。さぁ論文こそは、少しでも前回よりうまく行くかな・・。(ちなみに、この続きはこちらです。)ランキングに参加しています。投票(をクリック)していただけると、嬉しいです。パリはもうすっかり秋。二週間ぐらい前からこんな感じです。
2008.09.23
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今回は2002年秋に開始して2003年秋に取得したMaitriseで感じた事を書きます。まぁ、私の場合Licenceのみを地方大学でそしてそれ以降をパリで修了したので所属していた学校が異なっている以上、LicenceとMaitriseの単純比較はできないのですが。(注:この時にはまだLMDが導入されていなかったので学年の名称が現在のものとは異なっています。この点については1つ前の日記の初めの方を読んでください。)私が通っていた大学のMaitriseでは前期と後期で2科目ずつ好きなものを選択できる様になっていました。映画学部と一口に言っても、学校によって特色があります。私の行っていた学部は(製作などではなく)評論や分析がメインでバリバリ文系。なので単位を取得するには1科目につき週2時間の授業に出席し、学期末にレポートを提出する事が前提になっていました。(そういえば、出欠を取る先生とそうでない先生とが居たなぁ・・。)前年度とは違ってペーパーテストが無いのは嬉しかったけど慎重な私は事務室に行き、「もしもレポートの点数が悪くても、再提出の機会はない」という情報を得て震え上がりました。どう見ても去年の大学よりも高い水準を要求されるこの学校で私の書くレポートって一体何点ぐらいもらえるのだろうと不安に思っていたのに、失敗が許されないなんて!!(今になれば、あの全てが適当な大学ではもし悪い点を取ってしまっても先生とうまく交渉すれば、そして本当に運が良ければ、2回目のチャンスぐらいはもらえたのかもって気もしないではないけれど。)こうなったら、まずは授業命!!授業で教授の言わんとする事を理解してこそ的外れでないレポートが書けるのだから一生懸命聞きます・・・が、科目や先生によっては全てを理解するのが苦しい授業もある。「仕方ない、去年同様に誰かからノートを借りよう」と思っても、前年度よりも学校に居る時間が短くて顔見知りが少ないのでいい人(ノート内容のポイントが分かりやすくて字もキレイな人)が見つけづらい・・・。何度か試みたけれどせっかく借りたノートが役に立たない事が続き、去年の作戦を諦めるしかないのに気づきました。そして結局この年からはノートを借りずに自力で対応せざるを得なくなりました。科目数が少なくて本当に助かった・・・。自分なりに授業を消化して、参考文献も読んで、パソコンで文章を何度も推敲し、10~20ページのレポートを書くのに毎回とてつもなく時間をかけていたあの頃。Maitrise取得のためにはレポートだけでなくて80ページ以上の論文も書かなくてはいけないというのに10月から5月あたりまでは(一応調査はしていたものの)、論文を書き進める事がままなりませんでした。という訳で、この年は地獄の夏!!とにかく毎日必死必死でしかもこの年フランスは記録的な猛暑にも見舞われ提出する頃には体のあちこちが不調になっていました。それでもディノに励まされて論文も試問も無事終了させ(試問に関わる逸話はこちら)、教授からはDEAも期待していますとの言葉と心からの笑顔をもらい、苦しい日も多かったMaitriseも大団円。心身ともに最後が辛かったけど満足いく論文が書けた私は希望に燃えるとともに、「今回は初めての論文だから大変だったんだ。DEA論文は今回と同じ長さなんだし、次こそはきっと楽にそしてもっともっといいものが書けるに違いない」と、思っていたのです。その予測は2年後に裏切られるのだけど・・・。私は前回、日本人がフランスの大学に編入する場合は学年が上になればなるほどいいのではないかと書いたけれど、今ここまで回想して、ちょっと分からなくなってきました・・・。だって、体調不良になるまで頑張らざるを得なかったのはLicenceではなくて、Maitriseの方なんだもの。だけど私の場合は上の方にも書いた様にLicenceとMaitriseを違う学校で修了した事や、(良くも悪くも私らしく)レポート準備に時間をかけ過ぎたり、論文に気合を入れすぎたのも原因だと思います。う~ん・・・やっぱり・・・Licenceから編入するよりはディプロム取得の観点から見ると難度が少し低い上、勉強も本格的になってくるMaitriseから編入する方がいいんじゃないかなぁ・・・・・。じゃあMaitriseとDEAを比べたらどうなのか、という話だけどこれは正直、私の場合あまり変わらなかった気がします。あまり参考になる話は出てこなそうだけどDEAの体験も一応次回書きますね。ランキングに参加しています。投票(をクリック)していただけると、嬉しいです。今思えば、Mairiseに2年かけたならもっともっと余裕を持っていられたのでしょうね。ま、いいか。
2008.09.22
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(1つ前の日記の続きです。)さて、もう1つの問題『どの学年から編入するのがベストか』、これは答えを簡単に出せないので個人的経験と感想を数回に分けて書いてみます。(ちなみに私が留学生だったのはLMDという教育改革がなされる前の事なので、私がここで使っている学年の呼称も旧制度のものです。旧制度とLMDの互換性は私が偶然見つけたこのページで確認できますがLMDになってからはもちろん学年名だけでなく、ディプロム取得条件《必要単位数など》も変わっている様です。なので私の経験はあくまでも参考程度にしてください。)私はLicenceとMaitriseとDEAとDoctoratに在学してDEAまでのディプロムを取得しました。当時の「Licence(リサンス)」とは今で言う「Licence3」、学部生にとっては最終にあたる学年です。2001年9月にスタートした私のLicenceでは前・後期とも9科目ずつが必須でした。ものすごく大まかに言えば1科目=週2時間の授業という感じだったので授業時間が多いのがとにかく大変。(DEUG《現在のLicence1とLicence2》に比べたら少ないのでしょうけど・・・。)単位のためにレポートや作品の提出を要求する先生も居れば学期末のペーパーテストを課す先生も居ました。当時はどれもこれもがものすごくプレッシャーだったけどこの学校の方針なのかそれとも他の大学でもそうなのか、もしペーパーテストで基準点をクリアできなくても夏休み明けに追試をしてくれるという事だったのである意味安心でした。でもやっぱりLicenceで1番の難関だったのは時間もかけながらゆったり書き、しかもネイティブチェックを受けられるレポートとは違って、短時間・実力勝負のペーパーテストです。私の通った大学はかなりユルかったしアットホームだった上外国人もほとんど居なかったので何とか及第点をもらえたけれど(当時の私は絶対に「外国人」としておマケしてもらってたと思う!)厳しいパリの大学でLicenceを取る日本の人って本当にすごいなって感心します。逆に言うと私にも、パリの大学のLicenceに登録したもののディプロムを取得できなかったらしい知人がいるし似た様な話をよそでも聞いた事があるのだけどたぶんこういう人って多いんじゃないかなっていう予測が簡単に立っちゃうんです。だってパリの大学って外国人が多くて、その中にはフランス語がものすごく上手な人が結構いるから。(私には、誰がフランス人で誰が外国人なのか分からない事も多々あったぐらい・・・。)「外国人だから」という事を理由に(語学ハンデを考慮して)内容を重視して採点してもらえる事なんて無数の留学生の集う都会のLicenceでは、かなり少ないのではないでしょうか。一見ネイティブにすら見える外国人と同じラインに立ってペーパーテストを受けたら・・・フランス語とは全く異なる形態の言語を話す私達日本人はものすごく不利なんだろうなと思います。それに文系要素の強い学校にはただ「意味が通じる」文章では物足りず「綺麗な」文章を求めている先生も居るし・・・。(これほんと大変でした。)なので私は、日本人がフランスの大学に編入する場合はある程度上の学年から始める事を勧めたいと思います。(または、私の様にまず地方で学んでからパリに来るのも場合によってはいいかもしれません。)おそらく学年が上がれば上がるほど専門性が深まって授業数も少なくなり、ペーパーテストの数もグッと減るはずなのでレポートや論文をじっくりと用意すればいいのです。(特に、「編入」ではなくて1年次からフランスの大学で学びディプロムを取得するには日本人離れしたフランス語能力と根性と運が必要なのではないかと・・。)もちろんその分野における基礎がないまま高い学年に編入する事も良くはないのだけどそこは事前に専門書を買うなりして予習しておきましょう!!(私は・・そういえば初年度にはこの作業をしていなかったかも・・。)次回は、Maitriseの感想を書いてみます。ランキングに参加しています。投票(をクリック)していただけると、嬉しいです。
2008.09.21
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フランスの大学に編入準備中の方から質問をいただいたので結婚準備の話はいったんお休みにして、こちらに関する私見をのべてみます。当たり前といえば当たり前だけど日本の大学を卒業していれば「1年生からの入学」ではなくて「編入」をする事が可能です。その時に問題になるのはどの学年に編入できるのか、また、どの学年に編入するのが自分にとってベストなのか、という事でしょう。まず最初の『どの学年に編入できるのか』についてですが、もしも今までの勉強を継続したい場合(たとえば日本で仏文科を出た人が今度は現地でフランス文学を研究したいケース)には日仏間で決まっている互換性に従えばいいのだろうからあまり悩まないで済むんじゃないかと思います。けれど、私みたいに『日本では仏文科(に近い学科)を出たけれど、フランスでは違う学部(=映画学科)に入りたい』という場合どの学年から入れるのか、正直推測不能です。というのはここがとてもフランスらしいところで、その辺の基準が学校によって異なるから・・・。これはもう、めぼしい大学1つ1つに問い合わせたりとりあえず願書を送ってみるしかないですね。(私は後者の方で試しました。)同じ学部でも、学校によって違う学年を提示してくる事ウケ合いです・・。・・・この続きを書いていたのだけどかなり長くなりそうなのでもう1つのテーマ『どの学年に編入するのがベストなのか』は、次回以降数回に分けてアップする事にします。ランキングに参加しています。投票(をクリック)していただけると、嬉しいです。私が2001年に編入準備をしていた頃のことはこの日記から始まる一連の記録を読んでくださいね。それから私の考える「映画学部」の定義はこの日記を参照してください。写真は相変わらずセーヌ沿い。空の青さが大好きです。歌詞は忘れたけど、かつてよく聞いたフランソワーズ・アルディのアルバムの中に「L'heure bleue」という曲があったのを思い出します。
2008.09.20
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だいぶ以前に留学生時代の思い出を書いていましたが(分かりにくいけどスタートはここから)掲示板にいただいた書き込みを読んで頭の中でごっちゃになってきた事があるのに気づいたのでここに補足しつつ、自分の頭も整理したいと思います。(フランスの映画学部に留学したいと思っている人にしか興味の沸かない話だけど必ず誰かしらの役に立つと思うので。結婚準備の話は、次回から再開しますね。)私が大学で真面目に勉強していた4年の間には、学生証に書いてある学部名と時間割やカリキュラムに書かれている学部名が一致していない事が多々ありました。そこをしっかりと突き詰めるのが面倒でそのままにしていたら今や全てが曖昧になってきてしまったのでまずは、過去にもらったディプロムを参考に各学年の正式名称を書き並べてみます。Licence(当時は《注・参照》学部生として最後の学年でした。) Arts du Spectacle mention Etudes Cinematographiques et AudiovisuellesMaitrise(当時は、日本でいう修士課程に該当すると言われていました。) Arts du Spectaclemention Etudes Cinematographiques et AudiovisuellesDEA(当時は、日本の博士課程第一学年相当とみなされていました。) Recherches Cinematographiques et Audiovisuelles(注:私がこれらのディプロムを取得してからフランスの大学のシステムが変わったため、今なら日本の大学の学年とフランスの学年をどう対比させているのかは分かりません。)・・と・・・あ、あれれ??今これを打っていてすっごくびっくりしたのですが、地方大学で取得したLicenceの学部名称とパリで取得したMaitriseの学部名称って同じだったんですね・・・。あんなにも専門色の強い授業ばかりで一般的に言えば権威がある方のパリの大学のあのMaitriseの名前ではてっきり、もっともっと「CINEMA」という言葉が前面にでてきていたのではないかと思っていたのだけど??私の経歴の場合、あの地方大学とパリの大学を比べるとどう見ても勉強内容に雲泥の差がありました。まず、私のとったLicenceではArts du Spectacleという1つの学年(というか全部で40人ぐらいしか居なかったので「クラス」と言った方がいいかも)の中に「映画専攻」の人と「演劇専攻」の学生が混じっていました。そして一週間9コマ程度の授業があるうち6コマが合同で、残り3コマが「演劇」と「映画」に分かれて行われていました。合同の授業の中には「演劇史」など映画と全く関係ない訳ではないけれど専門外なものも含まれていたし、なぜか社会学的なものもありました。(Licenceと言えば「学部生」なので一般教養の一環なのかなと軽く受け流していましたが。)それに対し、パリに来てから履修したMaitriseには演劇専攻の人達と合同の授業は一切ありませんでした。(たぶん演劇の人達とは校舎自体が違っていたのではないかと思うけれどそれすらも未確認の状態です。)その理由はまず何と言っても、その大学の「Arts du Spectaclemention Etudes Cinematographiques et Audiovisuelles」の学生数が、全世界から留学してきた学生で膨れ上がっているからだと思います。(人数的にパンク寸前なのに演劇専攻の人と「合同」なんて無理無理!!)そのぶん、好きなものを選択できる講義は多種多様で著名な教授のもとで興味深い授業を受ける事ができました。それから、Licenceに比べてMaitriseでの専門性がぐっと増した2つ目の理由としてはもちろん、ただ単に学年が上がったからというのもあると思います。日本の大学でも学年が進めば進むほど一般教養などが減ってその学部ならではの研究がメインになる訳だし。そしてその3つ目の理由はただ単に、勉強内容はその学校の規模やカラーにもよって相当左右されるのだと思います。なぜかというとパリの大学のMaitriseに入ってからそれまでもこの大学の同学部で勉強してきたという友人の話を聞くと私の前年度とは比べ物にはならないぐらい、映画の勉強をたくさんしてきている事が分かったからです。「私も去年から専門的な勉強をたくさんできていたなら良かったのになぁ」と羨ましく思い、私がしてきた勉強を他の子に話すとその子は少し驚いて「あら、私も去年は地方の大学で同じ名前の学部にいたけど映画の勉強をいっぱいできたよ」と、言っていました。なので今思うに、「Arts du Spectaclemention Etudes Cinematographiques et Audiovisuelles」などと言う曖昧な名前の付いている学部の中には(パリの大学の様に)極めて特殊な勉強をできるところもあれば、(私の最初に行った大学の様に)専門性の低い勉強しかできない学校もあるのだと思います。そして、この「Arts du Spectaclemention Etudes Cinematographiques et Audiovisuelles」の1行目の部分は非常に訳しづらいし全体としては異常に長いのですが、日本の書物などでは私が出たパリの大学のこの学科も2行目だけをいかして「映画学科」と訳されている事もあればもっと厳密に「映画・視聴覚学科」と訳されている事もある様です。ちょっとややこしいけれど結局のところポイントは、いずれにしても訳された際の学科名に「映画」が付く事と勉強内容がバッチリ映画である事だと思います。(確か当時のパリ第八大学にはその名もずばり「Cinema」という学部があったと記憶しています。こういう分かりやすいネーミングだと解釈も楽なんですけどね)映画の勉強を重点的にしたい場合はきっとその名もずばり「Cinema」の学部を選べば1番間違いがないのでしょう。だけどそれだけだと選択肢が減ってしまうので「Arts du Spectaclemention Etudes Cinematographiques et Audiovisuelles」という学科のある大学にも資料を請求して時間割表を見て映画関連の授業の占める割合をチェックしてみてもいいのではないでしょうか。ちなみに私は適当に選んでしまったあの最初の大学に1年弱通った事は後悔していないし、自分にとっていい選択肢だったなと思っています。映画以外の勉強も多かったのは残念だけど人間関係も家探しも全てがパリに比べて容易くて求められているレベルも生活費も低くて済んだので、翌年からの本格的な勉強に備える入門編としてはとても良かったからです。なにしろパリはほんと厳しかったので・・・やりがいも大きかったけど、かなり緊張した日々を送っていたものです。ランキングに参加しています。投票(をクリック)していただけると、嬉しいです。書き込みをもらってから頭が混乱していたけれど、この記事を書いてみてスッキリしてました。良かった・・。1番上の写真は2日前にアップしたものの、アングル違いです。追記『どの学年に編入するのがベストなのか』をテーマにこちらで書き始めたので、興味のある方はどうぞ。
2008.09.16
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(1つ前の日記の後日談です。)それから私は地方大学で期末試験の残りの科目を受け、7月の初めにはパリのホテルに泊まりながら家を探しました。在パリ中に友人からの電話で私が今年度の学年を修了できたと教わり、とても安心したのを覚えています。この時はまだ要領が悪くて部屋を見つけるのにとても苦労しましたがそれでも何とかクリアし、地方の自宅に戻る前に「滑り止め」のつもりで、第二志望の大学に「とりあえず」の学生登録もしておきました。(これには2~3万円しかかからなかったのですが、後日、期限内に入学をキャンセルしたら全額返してもらえました。)7月末には荷物を全部郵便局まで運び、私自身はテレビと一緒に(!)列車に乗り、遂にパリへお引越し。とても親切だった大家さんとお別れの挨拶をしてから涙が止まらなくなったのは一生忘れません。パリではまだ知り合いがほとんど居なかったものの、7月末から9月の間に日本の友人達が2組パリへ遊びに来たり、また数少ないフランス人友達のそのまた友達を紹介してもらって一緒に飲んだりしていました。そしてその間に滞在許可証を更新しに行くなどの事務的な手続きをこなし、また、引越し先の住み心地が最悪で色々気を揉んだりで、いい事も悪い事も含めて毎日があっという間に過ぎていきました。9月半ばには本命の大学から編入許可の手紙が届き、10月4日には正式な登録が完了!そこは今まで漠然と「入ってみたい」と思っていた大学で、しかもここで私は、ずっと名前だけしか知らなかったけれどお会いしてみたらサイコーだった教授の指導を受けながら、論文を書く事ができる・・・信じられないくらいだけど・・・夢って叶うんだな・・・。1年目にはあらゆる人達のお世話になりっぱなしで、でもそのおかげで色々乗り越える事ができました。もちろん思い出したくない様な辛い出来事だってあったけど実際問題、この時期から数年の私は本当にツイてたのだと思います。私は自分の事をずーーっとあまり運が良くないと思っていたのですが・・・なので日本を経つ前に母がカードに書いてくれた「自分をラッキーな人間だと思って頑張ってね」という言葉もどこか他人事だったのですが・・・今ならそう思う事が、できます。ひたむきに行けば道は開けるものだ、とも。(ただしここ数年はぬるま湯に浸りっぱなしですけど・・・。)それも留学生活の収穫の1つかな。本当はパリに来てからの方が私の留学生活の本番なのですが、序章部分がとてつもなく長くなってしまったので、そのお話はまたいつかにしようと思います。この記録は、留学前に不安だった自分を思い出してこの経験が誰かの役に立てばと思い、また、自分の人生の大事な一時期を振り返ってみたいとも考えて、書き始めました。なかなか難しかったですが、でもとにかく、これ以上忘れる前に記せておいて良かったです。読んでくださった方々、ありがとうございました。投票(をクリック)していただけると、励みになりますです。人気ブログランキングへ
2008.02.20
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(1つ前の日記の続きです。)こうして面談はとても穏やかに、でも双方がなんとなく興奮しながら進みました。1週間前まではただの「夢」だったものが「近い現実」に変ったのに驚きつつも、その実現性にようやく確信を持てた私は、数日後の期末試験対策のために今日これから地方の自宅に帰るという事を告げ、来月にはパリに来て家探しをするとも宣言し、握手をして教授宅を後にしました。今になって一層不思議に思うのは、教授がこの最初の面談時から私を100%信頼してくださった事です。私自身はフランス語で100枚前後の論文を書けるのかどうか不安で仕方なかったのですが、先生の頭の中にはそういった考えが存在しない様子でした。(ちなみに私が「フランス語で書くのは大変」と言ったら「もしも英語で書く方が楽ならそれでもいいですよ。私が翻訳してあげます」とおっしゃってくださいましたが・・・それはさすがに本当だったのかな)その時の私には「論文の完成」という1年後の課題よりも、目先の「期末試験のクリア」や、「書類専攻をパスして正式に編入許可を得る」などの課題が山積みだったのですが、その話をしても教授は「大丈夫」という確信を持っている印象を受けました。もちろん、他人事だからというのもあるのかもしれません。でも教授からは一度もそういった態度が感じられなくて・・・私はその後も何度も精神的に救われるのでした。さて話を戻して・・・先生のおうちを出た私は晴れた空の下の美しいパリの町並みを歩きながら、心が舞っている様な不思議な感覚を受けました。今でもその界隈を歩くと、この時の気持ちが蘇ってきます。公衆電話を見つけたので日本の母に今日の様子を報告し、さらに嬉しい気持ちになりました。・・・とはいえ、先生のお宅から数分のところに郵便局を見つけると、パリから3時間もかかる自宅から持ってきた封筒をおもむろに出し「万一」の場合の滑り止めにする為の他大学の願書を送付したのですが(笑)。この時はなにしろ毎日本当に時間がなくて、私は地元の郵便局にさえ行きそびれていたものですから・・・。(このシリーズはあと1・2回だけ続きます。)上の写真は昨日に引き続き、ノートルダム寺院です。ヒコーキ雲がお気に入り。投票(をクリック)していただけると、励みになりますです。人気ブログランキングへ
2008.02.19
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(1つ前の日記の続きです。)そこで、教授に私の論文指導を引き受けていただけるのかどうか(=私の大学院編入がかかっている)を聞いてみました。するとやはりその気でいてくださったらしく、ここから急に編入に関する事務的な話が始まりました。この頃になって私は、この先生は研究者肌で興味のある話(今回で言えば論文の計画など)が出るとそこにのめり込んでしまう方なんだなと実感していましたこの段階の私にとって、論文の内容を煮詰めるのももちろん大事ですが、指導教授を確保する事と、その教授の在籍する大学から編入を承認してもらう事は必須でした。指導教授は見つかったので、今度はこの先生が教鞭をとっている大学から編入を承認してもらう必要があります。この大学の願書最終受付日は9月、正式な編入許可が出るのはもちろんその後なのでずいぶん先になります。早く安心したいのになぁ・・・。・・・それにしても、願書を受け取った大学は一体何を基準に学生を選別するのでしょう?せっかく前々からお名前だけ知っていて(これも何かの縁でしょう)、しかも私の論文にとても乗り気で親切な方に論文指導をお願いできる事になったのに、大学側の書類審査で落ちる事もあるのでしょうか?(これはその前年に、一足先に大学院留学を始めた私の友人も抱いていた不安です。そして当時の彼女が言うには、誰1人としてこの質問に対して明確な答えを言えなかったらしい・・・。日本ではどうなのか知りませんがこういったところがどうも不透明です、フランスは。)私が不安になってこの質問を投げかけると、教授ご自身もこういった事務的な事には詳しくないらしく、ちょっとだけ考え込んでいました。(少なくとも、私にはそう感じられました。)でもすぐに「大丈夫です。大丈夫なはずです。私が論文指導をすると決めているのですから」とおっしゃいました。私もそう聞いて「そうだな」と何となく納得しました。そして、願書に教授からの推薦文を添付する事を考えつき、用意していただける様お願いしました。先生は私の目の前でサラサラッと手紙を書いてくださいました。(続きます。)こうして私のパリ生活がほぼ確定したワケですが・・・上の写真はある意味パリの象徴(?)のノートルダム寺院です。投票(をクリック)していただけると、励みになりますです。人気ブログランキングへ
2008.02.18
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(1つ前の日記の続きです。)ついに見知らぬ、でも親切そうな教授のご自宅のドアの前に立つ私・・・そう、なんとこの日私達が会う約束をしていたのは、大学ではなかったのです。面識のない方に論文指導をお願いしに来たのでもちろん緊張していたのですが、着いたのが待ち合わせ時間ギリギリになってしまったのでためらうヒマもなく呼び鈴を押しました。すると出てきたのは・・・背が高く細身で清潔感あふれる、広いおでこの下の眼鏡の奥の優しい瞳が印象的な方。(ずいぶん経ってから、私の母と同年代と分かりました。)玄関を入ってすぐ左手の小綺麗な居間に通された私は勧められるままにソファーに腰掛け「何か飲みますか?」と聞かれたので一瞬迷ったものの、お水をお願いしました。お天気が良いこの6月の日に急いで歩いたせいで汗ばんでいたし、いざ座ると急にドキドキ緊張してきたので、とにかく「何でもいいから」「何か」が欲しくって・・・。教授がお水の入ったコップを持ってきてくださると私は改めて簡単な自己紹介をし、論文の計画について話し始めました。とはいえ、この間計画書を送って以来なんの進展もないので「書いた事を繰り返すだけになってしまうなぁ・・・」とちょっと困っていたのですが、なんと教授が私の論文にかなり乗り気で、ご自分が今までに吹き替えや字幕について気づいていた事についてペラペラと話し始めるではありませんか。私としては正直、とても助かりました。この教授とお話ししている間に私の不安感はどんどん、予想外なぐらいに拭われていきました。以前にも書いた通り私は「資料の少なさ」にもちょっと困っていたのですが、先生はご自分の著書の中に映画吹き替え用の翻訳をしている人達について書いた章があるからと言って、題名を教えてくださいました。ある種の偶然で私が論文計画書をお送りしたこの教授、実はすでに吹き替えに興味を持っていらしたのね私って本当にラッキーだなと思いました。資料の少なさを補う為にも、そしてせっかくフランスに居るのだから、私はやはりできるだけ自分の足で調べていきたいと思っていたのですが、先生はその考えに賛成して、映画字幕や吹き替えの為の翻訳をしてきた方達の連絡先を教えてくださいました。すごく幸先がいいわそんな調子であっという間に1時間半が過ぎました。教授が(まさにお手紙に書かれていた通り)私の論文を手助けしたいと思ってくださっているのがとっっっても良く分かったので、今日の時点で話し合うべき事と言えば、あとは実質的な事、つまり私の「指導教授」になっていただけるのかどうかを確認するだけになりました。実はかなり盛り上がって話していた割に、この点については一切話題に上っていなかったのです・・・。(続きます。)上の写真は私が大好きなサン・ミッシェル界隈です。投票(をクリック)していただけると、励みになりますです。人気ブログランキングへ
2008.02.17
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(1つ前の日記の続きです。)封筒の消印や当時のスケジュール帳から推測するに、このお手紙を受け取ったのは6月10日の出来事だったのではないかと思います。それはちょうど後期試験の真っ最中で・・・そう、試験最終日は6月17日だったのです。なので編入準備に時間を取られて試験対策が思うように出来ていなかった私は、お手紙を読んだ時反射的に「今、片道3時間もかけてパリまで会いに行くのはキビシイから来月にお会いしよう」と思っていました。以前にも書いたけれど、せっかく編入先が決まってもこの学年を留年する事になってしまったら意味がないですからね。(夏休み明けの追試を受けるという手段もあるにはありましたが・・・。)でも面会を先に延ばしたいという気持ちの裏に「自分に自信がないけど、お会いするのを来月に持っていけばその間に色々準備できる」という気持ちもあったのは確かです。なのに・・・それからすぐ日本の母に報告の電話をして気持ちが更に興奮してくるにつれ、そして先生からのお手紙の「その前後」という文字の「前」の字の真下にアンダーラインが引いてあるのに気づくにつれ、やはり「善は急げ」で、試験があろうがなんだろうが今週中の面会をお願いしようと思うに至りました。思い切って教授のおうちに電話してみると、落ち着いた温かみのある声の男性が出てくれました。なんとそれがご本人!!もちろん私の事を覚えていて、ご出発の前にお会いしたいと言うととても乗り気でした。(ほっ。)そしてその週の14日(金曜日)を提案いただいてからいったん電話を切り電車の時間について調べに駅に向かいました。その道すがら私は、お天気のいい日にすごく嬉しいニュースを抱えていたので、もしも走ったならスキップになってしまいそう。窓口でパリに向かう列車数本の時刻を教えてもらってからまっすぐ帰宅し教授にもう一度お電話して会う時間を最終決定しました。そしてその4日後には・・・パリの中心部にあるお洒落なアパルトマンの4階のドアの前に立っている私が居たのです。(続きます。)上の写真は、先日RER(郊外電車)の駅を降りた時に目に映った光景です。相変わらず影が長いのでうまく伝わらないのですが・・・鴨もいてとっても素敵駅前がこれだなんてさすがは高級住宅地ねぇ。投票(をクリック)していただけると、励みになりますです。人気ブログランキングへ
2008.02.16
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(1つ前の日記の続きです。)びっくりした私はすぐに封筒を開けました。(今でもこのお手紙はもちろん、幸運を運んできてくれた封筒も大事にとってあります。)早速読んでみるとこんな内容でした。「お手紙ありがとうございます。あなたの計画はとても興味深いので、手助けをしたく考えています。この研究は多くの人々に有用なものになると思いますよ。つきましてはアポイントを取るために、私にお電話をいただけますか。私は6月15日から30日までパリを留守にしますので、その前後にお願いします」やったぁーー!!落ち着いて読み返すと、この手書きのお手紙にはな部分がありました。手紙の頭にはフランスの手紙作法にならって、差出人(=教授)と受取人(=私)の名前と住所が書かれていて、教授はご自分の住所の下に電話番号とメールアドレスも明記してくださっているのですが・・・なんと教授は手紙の2枚目の最後の文章の後に、もう一度改めてご自分の住所と電話番号を書いているのですおそらくたぶん急いで書かれたせいで重複してしまったのでしょうが、私にはそれがまるで教授が私からの電話を真剣に待ってくださっている証拠の様に思え、励まされました。忘れられない瞬間の訪れたこの日はいいお天気で、私は大好きだった自室に居たのをよく覚えています。(続きます)投票(をクリック)していただけると、励みになりますです。人気ブログランキングへ
2008.02.15
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(3つ前の日記の続きで、留学生時代の回想です。)ようやく(ここまで読んでくださった方もお疲れさまです)、手紙・論文計画書・履歴書・返信用封筒などのセットをパリの大学の教授4人に送り終えると、大仕事をした様な気分になりました。・・・が、ゆっくりしている時間はありません。実は、肝心の後期試験は私が教授達に送る書類を準備している間にもとっくに始まっていました。・・・たとえ編入先が決まっても、この学校のこの学年を今年いっぱいで終わらせないとそのイミが全くなくなってしまうのだから、なんとかしなくては。がんばるぞそんな私の手元に、1通の封筒が届きました。それを見た瞬間に「これは私が教授達に送ったものだ」と認識して、私の胸は高鳴ります。差出人は偶然にも、1年以上前に私が飯田橋の日仏学院の図書館で映画について書かれた本のコーナーを見ていた時に唯一、名前を覚えた教授でした・・・。(続きます。)1番上の写真ですが・・・晴天続きだった今週のパリ。気温はまだ低いものの、急に春めいています。桜に似た花が咲いていたので撮ってみました。投票(をクリック)していただけると、励みになりますです。人気ブログランキングへ
2008.02.14
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ここのところずーーっと「論文指導をしていただく教授探し」についてばかりを書いていたのですが、大学編入をする為には、それ以外にもすべき事があります。各大学から願書を取り寄せ、必要書類とともに期限内に事務室へ送り返す作業です。なので私も論文計画書の準備と並行して、映画学科のあるパリの各大学に手紙を書き、願書を送ってもらっていました。その頃は指導教授探しと後期試験の準備で頭がいっぱいいっぱいだったので受け取った願書にはちらっとしか目を通さずにいたら・・・ある日パリ第8大学への願書返送期限がその4日後に迫っている事に気づいてびっくり!(この学校だけ、ずば抜けて締め切りが早かったのです。)しかも面倒(失礼!)な事にこの学校の願書は自分で記入するだけでは済まされず、なんと「現在在籍している学校」に埋めてもらうべき欄もあったので、不本意だったけど急遽授業を休んで事務室に向かいました。向こうは慣れている様であっという間に必要事項を書いてくれたのが幸いでしたが・・・願書に対してのんびりしすぎでしたね・・・私。それから急いで始めた願書を埋める作業は論文計画書の作成に比べたら楽でしたが、それでもいざ外国語で書くとなると自信のない箇所があったりで、いっぺんに数校に対応するのはやっぱり大変でした。細かい質問が多くなりクラスメートに聞くだけでは回せなくなってきた私は、大家さんが私の部屋の真下で開いている猟具屋さんを訪ねて質問したり、これまた知人のリボン屋さんにも足を運んだり・・・本当にたくさんの人にお世話になりました。さて、パリの大学から願書を送ってもらうと大体の場合、学部の説明や教授陣の経歴が簡略に書いてある用紙も同封されていたので、私はどの方に指導教授をお願いすべきか選ぼうと、目を皿の様にしてリストを眺めました。もちろん「字幕」や「吹き替え」なんてマニアックな部門を専門にしている教授なんてどこにも居ないので、ジャンルとしては少しでも近そうな「台詞」や「台本」について研究されている先生達をピックアップ。私は自信がなかったので元々は「ヘタな鉄砲、数うちゃ当たる」戦法で行こうと思っていました。つまりパリの(映画学科のある)全大学から1人ずつ教授を選び、その全員に「手紙・論文計画書・履歴書+返信用封筒」の「3点+α」を送りたかったのです。でも時間の関係もあり、まずは4人の教授達のみにそれらを郵送する事にしました。その中の1人の名前だけは知っていたものの、もちろんどの教授とも面識が無かったのでこれまた一種の賭けでしたが・・・。それは今思えばまさに、ルーレットが回りだした瞬間でした。今日の写真は、たまにはベタベタにという事で「凱旋門」です。投票(をクリック)していただけると嬉しいです。人気ブログランキングへ
2008.02.11
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2つ前の記事の続きです。拙いフランス語を駆使してようやく論文計画書を書き終わった私。その他に簡単な志望動機書と履歴書も作成し、ネイティブの友人達に文章をチェックしてもらえば用意はほぼ完了です!ここまでが長かったので、この時には我ながら「よくやった!」と思いました。さて、私はせっかくチャレンジするなら、失敗しても悔いが残らない様に最良の策を取るべき努力をしようと決めていました。そして頭を巡らして思いついたのは・・・今在籍している大学の先生に推薦書を書いてもらう事でした。これが一般的な方法なのかそれとも異例な手段なのかは分かりません。でも、一切面識のない私からいきなり郵送で「手紙・計画書・履歴書」の3点セットを受け取る教授達の身になって考えると、推薦書も無いよりは有った方がプラスに働く気がしますよね?どの先生に推薦書を書いていただこうかと考えて結局なんと、以前に来年の論文指導をお願いしてしまっていた社会学の教授に白羽の矢を当てました。急に話を覆して「パリの大学に行きたいです」なんて言ったら気を悪くされるかなという恐れもあったけど、この先生なら私の気持ちを理解してくださる気もしたので(&私に特別に執着している訳でもないのは分かっていたので)、思い切ってお話ししました。「以前は本当に、この大学に残って先生の指導の下で『天井桟敷の人々』について調べたいと思っていました。でも今は『字幕と吹き替え』について書きたいという気持ちがとても強くなったんです。そしてまだ文献の少ないこのテーマについて書く為に、首都のパリで実地調査をしたいと考えています。・・・それに私は外国人なので、やはり1度は首都に住んでみたいという気持ちがあります・・・。(この最後の1文、自分勝手ですね・・。)」これを聞いた先生は嫌な顔1つせず「頑張ってください」と言い、推薦書の作成を引き受けてくださいました。出来上がったのを見ると、私がいかに熱心な学生で・・・うんぬんの優しい事ばかりが書いてありましたよ。ありがとうございました、先生こうして無事、社会学の先生に私の気持ちの変化を告げる事と、推薦状を書いてもらう事の2つがいっぺんに叶ってほっとしたのですが、安堵すると同時に「これで、もしもパリの大学への編入が叶わなかったとしてもこの大学には残りづらくなっちゃったな」という気持ちもありました。パリの大学の映画学科が大人気で希望者が多ければ倍率も高いのは去年の経験で知っていたし、選考基準があまりに不透明なので、私の心の片隅にはこの不安な気持ちが、学生証を手に入れるまでいつもずーーーっと棲み続ける事になります。(あと少し続きます。)上の写真は、私達の家のそばにある教会(?)の窓です。写真では伝えられないのが残念ですが、時々夜9時くらいに中から賛美歌が聞こえてくる事があって、「寒い寒い」と急ぎ足で歩く私を和ませてくれます。投票(をクリック)していただけると嬉しいです。人気ブログランキングへ
2008.02.10
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留学時代1年目の思い出の続きです。フランス語での資料を探している間に、日本の母から本が4冊届きました。論文計画書を書くにあたり少しでもヒントになればと思い、字幕関連の本などを適当にみつくろって送ってもらったのです。(この時、和書まで自分で探す時間は全くもってありませんでした。ちなみに母は吹き替えに関連のある本は見つけられなかったみたい。)そのうち1冊は雑誌だったのでパスし、残り3冊を2日かけて読破しました。(あぁ、日本語で読むのってなんて楽なんでしょう・・・。)その中にあった「字幕仕掛人一代記 -神島きみ自伝ー」という本は戦後からずっと字幕製作をしている「テトラ」という会社の社長さんが書いた珍しいもので、そのガテン系のお仕事ぶりに驚きながらも興味深く読めました。(アマゾンの紹介はこちらです。)そしてとりあえず何でもかんでも論文計画書に取り入れたかった私は、「フランスにおける日本映画の字幕と吹き替えをメインに据えながらも、日本におけるフランス映画の字幕・吹き替えについても触れたい」という一文を加えようだとか、この3冊の本のタイトルを「参考文献欄」に載せようだとか、決心しました。後になって考えると結局、私は論文内で日本におけるフランス映画についてはほとんど言及しなかったのでこれらの日本から届いた本はあまり役立なかったのですが・・・読んでいて面白かったし元気が出たので良かったです。さて、自分に可能な範囲内でできる限りの資料集めをした後、ようやく「論文計画書」を執筆するタイミングになりました。ここでとまどったのが、友人Aが「論文計画書というものは、A4の紙1枚に収まっていないといけない」と言うのに対し、友人Bは「そんな事ない。数枚書く方が普通だと思う」と言っていた事です。迷ったけれど、自信のなさを隠そうとして無理矢理様々な要素を寄せ集めてきた私の場合、計画書を1枚にまとめるのは難しいし、友人Bは前年度にフランスの大学で指導教授を見つけたという実績のある人だったので、私も彼女と同じく3枚程度の計画書を書く事にしました。そういえば彼女「恥ずかしいから門外不出にしてね。でも、もし参考になれば・・・」と言って、自分が前年に書いた計画書をメールで送ってくれたのよね・・・。・・・本当にありがとう・・・。計画書の執筆はまさに「無から有を生む」感じで楽ではなかったので、終えた時にはひとまずホッとしました。(ちなみに論文計画書をA4の用紙1枚にまとめた友人Aも、その年無事に指導教授を見つけていました。枚数に関しては、どちらでも良かったのですね。)上の写真は、いいお天気が嬉しくてパリ16区ポルト・ド・サン・クルー(Porte de St-Cloud)で何となく撮影しました。まだ影は長いけど、ここ数日のパリの日中は明るい日差しに恵まれています。投票(をクリック)していただけると嬉しいです。人気ブログランキングへ
2008.02.08
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1つ前の記事の続きで、留学時代1年目の思い出です。論文計画書の下準備のため、ある土曜日私は街の本屋さん3軒に向かいました。本屋さんに「映画の字幕か吹き替えについて書かれた本を探しているんですけど」と伝えると「は?」という反応が戻ってきます。もしも日本の本屋さんで同じ事を言ったなら、とりあえず戸田奈津子さんの「字幕の中に人生」などを勧められる気がします。・・・が、こちらでは字幕や吹き替えについて堂々と書かれた本はないのでしょうか?どこの本屋の店員さんも私の要望を聞くと不思議そうな顔をするし、映画コーナーを探してみてくれても1冊しか見つかりませんでした。それが、上の写真の本です。これは吹き替えや、撮影後の音声処理のテクニックについて説明してくれるものなのですが、フィルムとフィルムがおしゃべり(交信?)している表紙がなんとも可愛いと思いませんか?この本はかなり真面目で、中には写真はあってもこういった絵は一切ないので、なぜこの表紙なのか不思議といえば不思議です。本屋さんで1冊しか参考文献が見つからないのを見て、「調べ物は自分の足でしたい」と思っている私もさすがにこれはマズイなぁと感じました。自分に欠けている知識をまずは本で補う必要があるし、数人の見知らぬ教授に送らなくてはいけない「論文計画書」にも幾つかの「参考文献」を書かない訳にはいかないのに・・・。(面識のない方に論文指導を引き受けてもらうには、「この人の計画は面白そう」と思わせるだけでなく「この調子なら書けそうだな」と納得してもらう必要もあるので。)「ここならどうにかなるかな~?」と思いながら、本だけでなく論文も探そうと大学の図書館に向かいました。それまでの私の大学図書館の用途といえばコピー機を使うか(クラスメートのノートを借りた時など)、自習コーナーに座って勉強するか、それとも映画ビデオを借りるかしかなかったのだけど・・・そして常々「せっかく留学したけど、図書館の本や資料を活用しないうちはまだ本当の学問じゃないよね」と思っていたのだけど・・・ついに、その時がやってきた感じ(注:今だからこの部分にハートマークをつけちゃいますが、別に当時ウキウキしていた訳ではありません。念のため。)やっぱり本は見つからなかったけど、過去に2人の学生がフランスの大学で映画の字幕や吹き替えについての論文を書いていた事が分かりました。それらはミクロフィッシュという機能で保存されていたので早速その見方を教えてもらい(論文の1ページ1ページがスライドの様なものに焼き付けられています)、論文に軽く目を通す私。2つある論文のうち1つは字幕と吹き替えの両方について書かれたもの、もう1つは吹き替えのみを扱ったものでした。そしてどちらも題材としては、英語圏の映画を取り上げています。すぐに読みきれる量ではないしその頃の私には後期試験の準備も控えていたので、自分に役立ちそうなページのみを印刷して図書館を後にしました。「その気になれば『字幕と吹き替え』で論文は書けそうだな」という安堵感と「まだ『日本映画の』字幕と吹き替えについては誰も書いていないんだな」という、もう1つの安堵感を胸に。そう、私はまだ誰も扱ったことのないテーマで論文を書きたかったのだから。もちろんその一方で、とても臆病な私には前例が無いテーマを論文の軸に据えるのが無謀な賭けに見えて、とても怖くもあったのですが・・・。投票(をクリック)していただけると嬉しいです。人気ブログランキングへ
2008.02.07
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2つ前の記事の続きで、留学生時代の思い出です。なんだかんだ言ってこの時期の私はとってもツイていました。いつも悩みに悩んだ後に答えが向こうから勝手にやってきてくれる感じで、私が探していた「論文の主題」にはなんと母がアイディアを貸してくれたのです。母がメールに書いた「映画字幕について調べてみたら面白いんじゃない?」という言葉。私はそれを読んですぐ、ただ単純に「いいかも!」と思いました。そしてフランスに居る以上、「フランス映画につく日本語字幕」ではなく「日本映画の仏語字幕」の方が調べやすいだろうと思い、日本映画数本を題材にする事に。・・・が、これではコンセプトがまだあまりにも漠然としています。字幕だけで100ページ近く書くのはムリかもしれないと思い、論文では吹き替えも扱ってみる事にしました。(字幕と吹き替えを比較する事で発見もありそうだったしね。)さて、どこかの大学の教授に論文指導を引き受けていただくためには、納得してもらえる様な「計画書(projet)」を用意しなくてはいけません。そしてまともな「計画書」を書くには、過去にどんな研究がされてきたのかを探っておく必要があります。「どんな結果が出るだろう」とドキドキしながら、さっそく大学の図書館と小さな町の本屋さん数件をあたってみる事にしました。(続きます。)上の画像は本文とは関係なくて、今日ご馳走になった貝類の盛り合わせです。大量すぎて5人で取り掛かったのに食べ切れず、一昔前の恋愛ソングにありがち(?)な「幸せなのに苦しい」状態になりました・・・・。(ちなみに私が今回幸せなのは「舌」で、苦しいのは「お腹」ですが。)今は消化を助けるハーブティーを飲みながらこの記事を書いてます。)投票(をクリック)していただけると嬉しいです。人気ブログランキングへ
2008.02.06
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(前回の続きです。)来年もその同じ大学で『天井桟敷の人々』について書く事が可能になってほっと安堵した私は、その後も考えあぐねました。そして、気づかないフリをしたかった気持ちにどうしても気づいてしまったのです。それは・・・「やっぱりパリに住んでみたい!」という本音。パリに行きたいという気持ちはクラスメートに影響され、都会好きの母にも後押しされ、ついには「もうこのままこの学校に留まっていられない!」と思うほどになりました。それまでに数々の日本人の留学体験記を読んでどうも私が当時通っていた地方大学よりもパリの大学の方が厳しい事は分かってきていたし、また全てがゼロからのスタートだと思うと面倒で、不安で、どうしても「もしこのままここに残っていたら辛い思いをしないで済むのに・・・学位もこっちの方が確実に取れそうなのに・・・これでいいのかな・・・」という心の声もしょっちゅう聞こえてきたけれど(一体どっちちなんだ?私・・・)そんな時も「今、パリの大学へ行こうとしなかったら後で後悔する」と思う様に頑張る事にしたのです。その当時、もう1つ考え悩んだ事があります。それは「やっぱりできれば、自分ならではの事を書きたい!」という事。もちろん「天井桟敷の人々」について論文を書くにしても、最終的に求められるのは自分なりの考えと視点です。だけどそこに至るまでには、まず今までに様々な人々が記した書物にあたる事から始めなくてはなりません。そういった研究はもちろん大切なのだけど、学者にも教授にもなる気のない私は「せっかくフランスに居るのだから、今まで誰も書いた事がなくてだからこそ自分の足で実地に調べられる事をテーマにしたい!」と考えました。同時に「そんな主題って・・・一体何があるっていうの?」と自分で自分をツッコんでしまうものがあり、独り言が増え、おでこにはシワができそうな毎日でしたが・・・。かくして私は後期試験の足音が聞こえてくる頃、またも手探りで新規の受け入れ大学と指導教授と論文テーマを探す事になったのでした。投票(をクリック)していただけると嬉しいです。人気ブログランキングへ
2008.02.05
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来年も、次学年にあたるメトリーズで留学生活を続けようと決めた私。ほとんどの文系学部のメトリーズでは、最後に論文を提出する事になっています。なので、もちろん今回も1年前の様に「願書を入手して提出する」という事務手続きを行わなくてははならないのですが、それに加え、論文のテーマを決めて指導教授を見つけるというステップも踏む事になります。(後になって、学校によってはメトリーズの学年度が始まってから指導教授を探してもいい事になっていると分かったのですが、当時の私は「何が何でも、新学年が始まる前に指導教授を見つけておかないといけない」と思い込んでいました。)もしこの大学に残るとしたらどの教授について何を書こうかななんて思っていたある日、解決策(?)が向こうからやってきました。いつもにこやかな社会学の教授が講義中、長々とマルセル・カルネの「天井桟敷の人々」について論じていたのです。これはいけるかも実は私の日本の大学での卒論テーマは「天井桟敷の人々の背景と源泉を巡って」でした。その大学では映画学部に在籍していた訳ではないのだけど、この曖昧なテーマが受理されたのを幸いと何度もビデオを観、日本語・仏語・英語で書かれた本を無理矢理読み、とにかく長々と書き連ねていったのです。作品自身の映像が素晴らしくてただ美しいだけでなく1つ1つに意味があり、シナリオが秀逸で作中人物と役者のコンビネゾンにも興味深いエピソードがあったり、またたとえば登場人物の「舞台」に対する姿勢を比較するだけでも発見が盛りだくさんだったり、撮影当時の状況と映画を比較すると隠れたメッセージが込められていたり・・・・・映画が奥深かったので調べたり考えたりするほど謎が沸くところもあったものの、その重厚さに助けられてとても楽しく論文を書けたのが記憶に残っています。いま目をやると髄分と輪郭がぼやけているなぁという感じですが、急いで作成した割には(当時の)自分としては勝手に納得できるぐらいのものにはなっていました。「この先生は親切だし、『天井桟敷の人々』についての論文を書けばゼロからのスタートにはならないで済む」と思いついた私はその次回の授業が終わった後、教授に来年は論文指導をしてほしいとお願いしました。すると先生はいつも通りにっこりしながら「いいですよ」と即、良いお返事を!今と同じ大学に居続ける訳だから事務的な手続きも簡単だろうし、論文テーマの大枠も指導教授も決まったし・・・と安堵した私は、その同じ先生に数ヵ月後、全く違う方向のお願いをする事になるとは思ってもみなかったのでした。(続きます。)投票(をクリック)していただけると嬉しいです。人気ブログランキングへ上の写真は本文とは無関係で、パリのシテ島(Ile de la Cite)にあるメトロの入り口と、植物を売っているマルシェ(?)の屋台です。滞在許可証更新の為に訪れた警察庁は、このちょうど真向かいです。
2008.02.04
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時事ネタ(どこが?)を書いたところで、留学生時代の思い出に話を戻します。前期試験が終わってから、よくクラスで一番いい点数を取っていた男の子に話を聞いてみました。すると彼は答案用紙の小論文には授業で聞いた事を書くだけでなく自分なりの知識を思いっきり盛り込んだり、教授の意見を発展させたりしている事が分かりました。考えてみたらそうですよね、先生だって新鮮な意見が欲しいはず。もちろんそれからは私も、事あるごとに自分なりのオリジナルな考えを入れる様にしましたよさて前期試験の結果も出揃って「なんとかこの学年は留年しなくて済みそう」と少し安心してきた頃に私は、今後をどうしようかと考え始めました。「最短1年・最長2年」のつもりで始めた留学生活。この調子だと1年目は学校の授業にヒイヒイ言っている間に終わってしまいそう。やはり2年間はフランスに居たいと思い、来年度も留学を続ける事に決定そこで考えなくてはいけないのは「来年の学校をどうするか」でした。外国人である私がこの国に留まる為には学生という大義名分が必要だし、私自身にももっと勉強してみたいという気持ちがあったのです。悩みに悩んだ後おもいきってフランスの見知らぬ土地にポンとやってきて、そこの学校での勉強がようやく軌道に乗ってきたと思ったらまた次の事を考えなくてはならない・・・弱虫の私は既にヘコみそうに・・・。なのでとりあえず、まずは1番無難な「この大学の次学年(=メトリーズ=Maitrise=当時は日本で言うところの「大学4年」と捉えられていました)に上がる」というプランをあたってみる事にしました。この頃にはこの地方大学の雰囲気はだんだん掴めてきていて、もし来年メトリーズに登録してもまたストレートで学位が取れそうな感じがしていましたからね投票(をクリック)していただけると嬉しいです。人気ブログランキングへ上の写真は本文とは無関係で、先日行ってきたパリの警察庁と同じ広場にある最高裁判所(Palais de Justice)です。
2008.02.03
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前期と後期に幾つもあったペーパーテスト、これが色々な意味で大変でした。今まで何度も書いてきた通り授業内容の把握さえままならなかったのが第一の原因ですが、ある程度理解できた科目でさえどうやって対策を立てればいいのか分からなかったからです。日本の学校での筆記試験と言えば(特に中学・高校では)授業内容を理解&暗記しておくのがテスト勉強の要だった気がします。・・・が、よく聞く話によるとこちらの学校の試験は記述式がメインのはず。一体どんな試験問題が出て、どう応えればいいのかしら・・・?実は年度初めに「もしも前期試験&後期試験の点数が足りない場合は夏休み明けに追試を受ける事が出来る(=留年を避ける為のチャンスがある)」という情報をゲットしていたので「いざとなったら夏休みに猛勉強よ!」という覚悟もしながら、前期試験を受けに行きました。実際に試験が始まると「○○について述べよ」といった感じのシンプルな出題が多かったです。前期試験では、まず授業で言われていた事を出来るだけ全て思い出して箇条書きにし、それを順番に並び替えてから文章作成に入っていました。(後になって「これだけじゃ足りない」と気付くのですが、それはまた今度書きます。)2時間の試験は長いけど短い・・・私はいつもギリギリまで書いていました。最後の方がメチャメチャ乱筆だった事もあったなぁ・・・。そう、こちらは授業も2時間ぶっ続けなら(先生によっては休憩を入れてくれますが)、試験も確か2時間が基本だったのです。なので1日に2つとか3つ試験がある時は悲惨でした。2時間ごとに休み時間もあるものの、4~6時間も集中していなくてはならないのだから。こんな大変な目に遭うのは、留学前にDALF(外国人向け仏語検定)の4科目をいっぺんに受けた時(2時間×3&30分×1)で最後にしたいと思っていたのになぁ・・・。さて気になる前期テストの結果ですが、驚いた事に予想以上にいい点数がいただけました。・・・とは言え留年覚悟ですらあったその時の私には、20点満点中で10点(=合格点)が取れているだけで、「いい点数」に感じられたのだけど・・・。もちろん苦手な科目は10点を切っていたけれど「3科目平均で10点が取れればOK」とか「この科目は前期と後期で平均10点が取れれば進級可」などのとても有り難いシステムがあったので、後期で追い上げればこの学年を1年で、しかも追試なしで修了させる事も夢ではなくなってきたのでした。投票(をクリック)していただけると嬉しいです。人気ブログランキングへ上の写真は本文とは関係なくて、パリのカルチェ・ラタンにある建物です。1階には大型古本屋「ジベール・ジュヌ」が入ってます。
2008.01.31
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今回は留学1年目に受けた「テスト」について書いてみたいと思います。毎日授業にヒィハァ言っていましたが前期試験が近づいてきたので、無い知恵を絞るべき時期になりました。私がまず実行したのは各科目の先生に挨拶をする事です。なにしろ地方の小さな大学なので、ほとんの授業には20~50人しか学生がおらず、その中で外国人は私も含めて2人(もう1人も日本人)でした。どう頑張っても私達が表現力ではビリに違いなく、答案を見た先生達に「なんだ!この文章力の無さは!」などとお茶を噴かれても困るので、ほとんど話した事のない教授にも「そうか、このクラスには外国人が2人居たのか」と認識しておいてもらった方がいいだろうと思いました。そこでそれぞれの授業が終わった後、先生にテストに関する質問をしがてら「できる範囲で頑張ります!」という挨拶(?)も一応してみる事に。この方法がどこまで有効だったのかは分かりませんが・・・教授達の中にはいつも生徒達をよく見ている方もいればそうでない方もいらっしゃるので、1度でも話をしておいたのはどちらかと言えば良かったのではないかと思っています。また、いつもとても愛想のいい社会学の教授が居たのですが、確かこの先生は後期試験の手助けをしてくれた・・・はず。(具体的には覚えていませんが、たぶん試験の命題を前もってこっそり私達2人に教えてくれたのだと思います。)図々しい様で恥ずかしい事も、やってみるものですね!でも試験準備と言えば、やはり勉強しておく事が一番大切。それまでにクラスメートから写させてもらっていたノートを新たにまとめ直したり、少しでもその内容を覚える様に努力しました。当日は、寝不足ででっかいクマを作って登校する私・・・。いよいよテストです!!投票(をクリック)していただけると嬉しいです。人気ブログランキングへ上の写真は本文に関係なくて、パリのオベリスクです。
2008.01.30
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1つ前の日記の続きで、今でも思い出せる当時の授業についてもう少しだけ書いてみます。昨日触れたのはどうも理解できなかった授業中心でしたが、逆に今になって「受けていて良かった」と思えるものももちろんあります。それは「実験映画」と「現代芸術」の授業です。昨日書いた通り、私は「現代ダンス」の良さが分からないタイプの人間です。なので実験映画にも現代芸術にもやはり興味がなかったし、今でもこの2分野を大好きになった訳ではありません。(・・・というか、「実験映画」とか「現代芸術」とかって、「くくり」が大きすぎですが・・・。)どちらも知識ゼロでスタートした点や、元々あまり興味がなかったという点では「現代ダンス」や「演劇」と同じなのですが、それなりに関心を持って取り組めたのは教師達の熱意や気遣いが大きかったのでしょう。「実験映画」の授業を行っていた教授は映画への愛情溢れる方でそれが伝わってきたので、こちらも自然と身を乗り出してしまうものがありました。白くなりつつある髪を長く伸ばして、低い声でボソボソと熱く語るちょっとイカつい顔つきの先生・・・(男性として惹かれた訳ではないのだけど)雰囲気がなんともカッコよかったなぁ。膨大なコレクションの中から選んだビデオを毎回上映してくれるので、慣れてくると授業内容が分かりやすくなってきました。(それに「現代ダンス」で見せてもらったビデオよりは印象に残るものが多かったし。)「散々迷って、でもフランスに来たからにはできるだけ何でも吸収したい」という私のニーズと最もマッチした授業だったのかもしれません。それにひきかえ、何故か美術専攻の学生達と一緒にホールで受けさせられた「現代芸術」の講義は分かりづらく、退屈でさえありました。・・・が、我が映画学科の学生の一部が「美術専攻の子達と同じものを聞かされてもついていけない」と講義したらしく、最後の授業が近づく頃になって、それまで講義中にスライドで紹介された作品をCDーROMに焼いたものが貸与される事になりました。クラスメートから借りたノートはちょっと分かりにくいところもあったけれど(この子は字が綺麗だったけれど、他人様が急いで書き取ったものってどうしても意味が分からない事があります)、このCD-ROMを見つつ、かつ授業中に自分なりに理解して殴り書きしておいたものも加算して、テスト前日は苦しいながらも一応楽しむ事ができました。(テスト当日にはもちろん相当ハラハラしましたけど・・・作品数もやたら多かったし。)専門的な勉強内容ではなかったけれど、この時に覚えた監督名やアーチスト名は今でもテレビなどで耳にすると「あぁ、あの分野で活躍している人か」とか「こんな作風の人だったかな」と思い出せるので、この授業は結構役立っている事になります。(今こうして当時の思い出を書いていて、名前をあまり思い浮かべられない事に気づいてがっかりもしましたが・・・・。)よその大学ではどうなのか分かりませんが、私がフランスで第一年目に登録していた学校の「リサンス」という学年では、一部を除いてほとんどの授業が(「芸術」を中心に据えてはいるものの、そしてできるだけ映画と演劇の周辺に滞まってはいるものの)一般教養的なものでした。本当の意味で「学問」をしたのは2年目にパリに来てからなのですが、まだ仏語能力もいまいちでフランスでの学生生活に不安もいっぱいだった1年目は、毎日顔見知りの人達と授業を受ける事になる地方の小規模な大学で過ごして本当に良かったと思っています。2年目・・・いつも疲れていて時々辛くて、でもたまに精神が高揚させられたあの日々・・・留学2年目の生活については、もう少しだけ留学1年目の出来事を書いてからにしますね。投票(をクリック)していただけると嬉しいです。人気ブログランキングへ上の写真はパリのPont-Saint-Michel(ポン・サン・ミッシェル)です。「N」マークは確かナポレオンから来ているのよね?
2008.01.29
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留学の回想が書きかけになっているので、久々に進めたいと思います。(今までに書いたものは画面右の「カテゴリー」の「留学記・1年目」からご覧ください。)私は留学を映画学科の「リサンス」という学年から始めたのですが、私の行っていた大学ではこの学年になってもまだ映画に関係のない授業がたくさんあって、苦労しました。だって、「現代ダンス」の授業もあったんですよ!!(もちろん実際に踊る訳ではなく、分析です。)私には全然良さの分からない世界だと思って今までまともに観た事なかったのに。ビデオを多数見せてくれたのでイメージは沸きましたが、なかなか辛いものがありました。クラスメートから借りたノートを見ても要点が分からず困ってしまったので、結局同じクラスの日本人の子の知人に手伝ってもらって、テストは何とかクリアーしましたが・・・。それから演劇史」!!これは本当にちんぷんかんぷんでした。後期はブレヒトについてだったのですが・・・演劇知識ゼロ・観劇経験ほとんどナシの私には難しすぎです。この先生は珍しくもプリントを作成して配ってくださったのですが、ビデオなどで実際の劇を見ながら説明してくれる事がほとんど無かったので、私は文字を追いながら勉強した感じになってしまいました。レポートは頑張ったけれどペーパーテストの結果が悪かったはずなので、成績は他の科目と比べても特に劣っていたんじゃないかな・・・。「歴史」と言えば「映画史」の授業はまた違う意味で困りました。興味はあるし、トリュフォー作品の話なども出てきたのでイメージが沸きそうでしたが・・・先生の話が全然理解できないのです。でもしばらくして、それは私だけでなく周りのフランス人学生も同じだと分かりました。先生の授業内容は「歴史」というよりも「哲学」的で、難解だったのです。(この年にはこんな具合に、授業タイトルとその内容がズレているものが幾つかありました。)お昼休みの直後だったので眠ってしまった子も結構居たはず・・・。これまたクラスメートのノートを見てもちんぷんかんぷんだったけれど、何度も読んだりしているうちに、最後に幾つか要点が見えてきたのを覚えています。(でもその内容はもう忘れてしまった・・・)それから辟易しそうになったのは経済学の先生です。とにかくやる気マンマンの方で、授業が濃密でした。もう、喋る喋る!内容や先生の話し方が割と聞き取りやすかったのは救いでしたが、この頃の私は「メモをとるつもりで聞かないと、ついボーっとしてしまう」癖に「いざメモをとると、ペンが動いている間は耳がお留守になっちゃう」という状態なので毎回本当に疲れ果てました・・・。その上この先生、自分の授業進行が年度頭に配った予定表よりも遅れていると気づいてからは、授業を延長する事もありました。確かもともと2時間ぶっ続けの授業だった、これはすごく痛かった・・・。ノートの量も半端じゃなく多くなってどうしようかと思っていたら、なんと後期のテスト前になってこの先生「試験範囲は第○章と第△章と第×章だけにします」というではありませんか!それまで一生懸命全ての授業をカバーしてきたのに、半分以上はテスト範囲から除外されてしまいました。これって助かるし嬉しいけど、空し過ぎ・・・とまぁ、なにしろ科目数が多かったので思い出せない授業もあるけれど、今覚えているだけでも色々な先生・様々な講義がありました。短く書こうと思ったのに長くなったので、続きは次回にします。投票(をクリック)していただけると嬉しいです。人気ブログランキングへ一番上の写真は本文とは関係なく、昨日我が家から見えた夕日です♪
2008.01.28
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現像作業は、「ラボ」とは名ばかりの学校の地下室の様なところで、例の色々教えてくれた友人と一緒に始めました。撮影作業はあんなに難航したのに、一番最初の現像作業は割に簡単に成功。あれれ?(期待通り)白黒写真に納まった大聖堂がなかなか格好良かったので肩の力が抜け、この作業は撮影よりも気楽にできました!ふぅ。でも、フィルムの画を感熱紙に焼き付ける作業は私には難しかったです。私はものすごく不器用なので、画像が感熱紙に収まりきらない事がしょっちゅうで・・・・。この最終段階で多数の失敗作が発生した為ラボにも数日間通い続けてしまったけど、それでも「成功か失敗か」がすぐに分かるぶん心臓に優しかったし、うまくいった時は一人で静かに感動していました。しかも嬉しい事に、たくさん撮った写真の中には「通行人が動いている(=つまりブレている)」ものもあれば「人物が静止している(=つまりブレていない)」ものもあり、また「手前にあるものに焦点が定まっている」画もあれば「奥にあるものに焦点が定まっている」画もあり、先生が授業中に説明していた様々な写真のパターンがほとんど全て、再現されていたのです。(もちろん全部ではありませんし、へたっぴなものも多数混じっていましたが。)私に技術があるからそういう写真が撮れた訳ではなく、ほとんど全てが偶然の産物なのですが、私は意図的に様々なスタイルの写真を撮ったという事にして、提出しました。後でもらった点数ははっきりと覚えていませんが、(私にとって)そんなに悪くなかったのは確かです。よかった~・・・・。執念を持って取り組めば、何とかなるものなんですね♪(せっかくスキャナーを買ったので、今度写真を探して数枚アップしたいと思います。)この年にあった実技系の他の課題といえば映像作品もあったのですが、「グループワーク」が思う様に行かず、残念な気持ちを味わいました。その時に思った事もまた書きますね。
2007.10.06
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ある日曜の朝私は街の真ん中を通り過ぎ、カテドラルに向かいました。「軽い」とか「動く」とかにうんざりしてしまった私が選んだのは、その地方名物の大聖堂だったからです。大聖堂なら絶対に動かないので、私でも安心して心ゆくまで撮れます。それにその大聖堂は長年の汚れも手伝って表面の模様が浮き立っていたので、白黒写真になったら格好いいかもしれないと目論んでいました。人の写らないアングルを選んだり、かと思えば通行人の入っている写真を撮ろうとしたり、「下手な鉄砲数うちゃ当たる」の精神でバシバシ撮影しました。日曜の礼拝が終わり出口に佇む人々の姿もカメラに収めて、いったん帰宅。夕方にはフィルムを交換してもう一度出かけました。大聖堂の写真ばかりを撮っていたので地元の悪ガキに観光客と思われた様です。やたらからかわれてイライラしつつも、なんとか撮影終了。今度はいよいよ自分で現像する時がやってきました。
2007.10.05
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カメラが直って一安心したので、翌日から再挑戦の日々が始まりました。白鳥の写真は全然うまく撮れないと悟ったので、まずテーマ変更をする事に。「『映画批評』を書くべきなのに『映画分析』をしてしまった為に低い点数をもらった」という苦い記憶があるので、今度こそは(まさに)ピントのズレている事はしたくないと思って、先生が何を求めているのかを考えてみました。そして思い当たったのは、先生が配布していた表に書いてあった明度やピントなどの話。当然の事だけど、シャッター速度を上げればブレの無い写真を撮る事ができ、逆にシャッター速度を落とせば動きのある作品を残せます。そしてこれまた当たり前だけど、手前にあるものにピントを合わせれば奥にあるものはボケる(事が多い)し、その逆もアリです。(今となっては詳細は忘れてしまいましたが)先生は確かこんな事を、1時間以上かけて説明していた事があるのです。動きのある物を撮ってみようと思ったものの、動物だと先日の白鳥の様に動作が速すぎて私の手には負えないので、家にはあったIKEAのお徳用キャンドルに灯した火を撮影してみました。そしてまだ自分で現像する自信がなかったし「これはただの実験だから」と考えて、フィルムを写真屋さんに持って行きました。でも仕上がりを見てがっかり。お徳用キャンドルについている炎は写真で見ると案外小さくて、(私が横から流す風によって)動いている時も、じっとしている時も、ほとんど変わりがありません。撮影する際には様々なシャッター速度を試したみたはずなのに、どの写真も同じに見えます。なんだか、疲れてきました。「自力で現像をできるか」という懸念もまだ残っている上、他の授業のペーパーテストの準備もまだ終わっていません。もういい!やっぱり欲を張るのは辞めよう!「『動きのある写真とない写真』、『手前にピントのある写真と後ろにピントのある写真』を対にして撮る」なんていう野心は捨てて「ただ美しいもの」を撮ってしまう事にしました。「動きがあって」「軽い」白鳥にうんざりした私が選んだ、全くもって対照的な題材とは・・・・(続く)。
2007.10.04
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写真撮影を始めたのは朝だったのに、小さな街のめぼしいお店をどんどん当たっているうちに夕方になってしまいました。でもこのままじゃ眠れな~い!何とかしなきゃ!!更に焦りを募らせて暗くなってきた道を急いだものの、今度のお店もNG。(こういったカメラは扱えないお店が多いのでしょうか?どういう理由で、どこもかしこも「直せません」と言っていたのかは忘れてしまいました。)でもちょっと困った顔をした店員さんが、郊外に住んでいるという職人さんの連絡先を紹介してくれました。全く馴染みのない路線のバスに乗って、聞いた事もない地区に出向くのは心細かったけど、他に方法がないので翌日行って見ました。勉強や生活の役に立たない事なら何でも覚えている私なのに、この「指定された住所」というのがどんなところだったのか、民家だったのか、それともお店だったのかは、不思議な事に全く思い出せません。初老でちょっと暗い感じの小柄な男性が、カメラを見て直しくれた時の安堵感は一生忘れないと思うのに。そしてもう一つ絶対に忘れられないのは、私が最後に「私は一体どうやって、カメラを壊してしまったのでしょうか」と聞いた時に返ってきた言葉です! 「?? だってこのカメラ、もとから壊れていたみたいですよ?」!!!!!私の動揺は一体何だったのーーー!この謎と後悔に満ち溢れた24時間は、それまでの数ヶ月の留学生活の中で最も辛い瞬間ですらあったのに・・・。修理代はたぶん2~3000円くらいでした。あまりにもヒドイ事件だったので、カメラが元々壊れていた旨を学校に説明して、せめて返金ぐらいしてもらおうかとも思いましたが、あの先生にこれ以上偏見を持たれるのも面倒だし、マイナスに働くと困るので、この件はこのままにしておく事にしました。ふぅ・・・・。
2007.10.03
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どうしたものかと思っていた時、同じく写真素人の同級生がアナログなカメラの取り扱い方を知り合いに教えてもらったとの事で、私にもその情報を分けてくれました。ありがとう!(一体何人の人にお世話になってるんだ?私・・・。)それでも分からないところはネットで調べ、何とか情報を補足しました。写真を撮りに、いざ行かん!クラスの誰よりも早くカメラをレンタルしてきた私は、さっそく川辺まで出かけました。時は冬。川辺は寒いけど美しい白鳥がたくさんいて、いかにも映しがいがありそうだと思っていました。ところが・・・白鳥達がじっとしていてくれないのでフレーム内に収めるのが難しく、あまりいい写真は撮れていないのではないかという嫌な予感がしてきました。「とにかく今回は『撮影→現像』の作業を「試し」でやってみよう。出来が悪くてもまた取り直せばいいだけの話なのだから」と自分に言い聞かせ、帰宅早々にフィルムを取り出す作業に挑戦。ところが、おかしい。カメラの上部に付いている金具をくるくると回転させればフィルムが巻き取られるはずなのに、途中から回す事が不可能になったのです。焦って例の友人に電話して状況を説明してみたら、知り合いから借りてきたというカメラをすでに使用したという彼は、私のやり方は間違っていないはずだと言います。・・・・・という事は、このカメラ壊れちゃったのね・・・学校にたった一つしかないカメラなのに、私が破壊しちゃったのね・・・・。先生に事実を報告すればいいのかもしれないけれど、次の授業までにはまだ日にちが在り過ぎる。このカメラを使いたい他の人にも迷惑をかけてしまうのかと思うと申し訳ない気持ちに、あの偏見に満ちた先生に「野蛮な日本人」というレッテルを貼られるのかと思うと嫌な気持ちになります。先生は気分屋さんにも見えたので「カメラを壊した」という事実があるだけで、これから撮るつもりの作品の評価が地に落ちそうな気がしてきて、私はすぐに決心しました。この問題は何とか自力で解決して、学校には黙っておこう!居ても立ってもいられなくなり、街に飛び出していくつかの電化製品屋さんと写真屋さんを回る私。でもNG。もうじきテスト期間だから、試験勉強もしなくてはいけないのに。今は時間がとても貴重なのに、どうしてこんな事に駆けずり回る羽目になってしまったのだろう。一体何がいけなかったのかしら。きっと私の操作が悪かったのだろうけど・・・でも私は全ての手順を正しく進めたという自信があるのに・・・一体どうして・・・・?この授業の単位を落としたら、留年が決定してしまう。あんなに頑張ってきたのに・・・。こんな気持ちが頭の中をぐるぐる回っている状態で、小さな町をぐるぐると歩き回ったこの時間は、今でも苦しい思い出です。(続きます)
2007.10.02
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留学生時代の回想の続きです。私はArt du Spectacleという学部の映画専攻だったので前期は週に一度「写真」の必修授業がある事になっていました。先生の都合やらラボが完成していないという都合やらで実際には授業は数えるほどしか行われませんでしたが・・・。ちょっと余談だけど、この授業の先生には忘れられないとんでもない思い出があります。この授業を受けているのはいつも通りフランス人ばかりで外国人と言えば私ともう一人の日本人だけだったのですが・・・・ある日、写真を現像する方法を説明してくれている最中にこの先生は何を思ったのか、私達日本人に向かって「水道の使い方」を教えてくれようとしたのです!!!つまり「蛇口をひねる」とか、そんな説明です。(もしかしたら少し近代的な装置だったのかもしれないけれど日本にもよくあるタイプのものだったのはしっかりと覚えています。)私があっけにとられている間に、憤慨した周りの学生が「日本にも水道はありますよ!」などと騒いでくれたので先生はすぐに説明をやめたけど・・・・私には怒る気もしないほど、意味不明な出来事でした。さて、実技の全く伴わない口頭での説明ばかりの授業を数回受けたのち、前期末までに写真を提出しろというお達しが出ました。カメラはもちろん電池などを使わないアナログなもの(何ていうのでしょう?)を使用しなくてはならず、現像も自分でしろという事でした。私の様にカメラを持っていない人には貸してくれるという事だったけれど私にできるのかなぁという疑問符が頭にたくさん浮かんでしまいました。(続きます)ランキングに参加しています。投票(をクリック)していただけると、嬉しいです。
2007.10.01
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フランス式理論の展開を知らない自分、そしてそのハンディキャップを埋めるための時間も実力も持っていない自分に気付いて苦しみかけた私が思いついた即効性のある方法、それは・・・・・・高校生が書いた「批評」を参考にする事でした。カイエに執筆している専門家の批評なんて逆立ちしても真似できないけれど、一般の高校生のなら私にも出来そう!そう思って早速インターネットで検索すると、どこかの高校の生徒達の書いたお芝居の批評文が4つほど掲載されているサイトが見つかりました。アップされている批評文はどれも、その高校の中では評価の高いものの様です。まずは印刷して、辞書も引きつつ読んでみました。ふむふむ、なるほど。次にその中から1つの文章を選んで、それがどういった展開になっているのか研究しました。その文章で扱われているお芝居は私の課題とは何の関係もないから「完璧に真似」をする事はできないけれど(それにもし本当にそんな事をしたら盗作になってしまうし)それでも「全部で幾つの段落があるうち最初の段落はこういう切り口で始まり次の段落ではこういう展開があり・・・」と一連の流れを、自分で文章を書く時の骨組みとして模倣させてもらったのです。結果安心できたし、戻ってきた点数も前より上がっていました。(確か13点ぐらいだったと思います。)この大学のLicenceに在籍した一年の間には、その後も何度か映画やお芝居の批評を提出しなくてはなりませんでしたが、その後はある程度安定した点数が取れる様になりました。「『お芝居の批評文』を批評する文章」を書く事もありその時は元になる「お芝居の批評文」の読解自体が難しくて困りましたが、クラスの子が複雑な部分の説明を快く引き受けてくれたので助かりました。(でも、かなりサボリぐせがあったその子は自分自身のレポートは書かなかったらしく、単位を落としそうになっていました・・・コラコラ・・・。)ハラハラしつつもレポート系の提出物はなんとかこなせる様になった私にはだんだんと欲が出て、出来る事なら学士を最短の一年で修了させたいという気持ちが強くなってきました。でもその為には、下準備がしっかりでき提出前にネイティブに文章チェックもしてもらえるレポートよりもずっとハードルの高そうな筆記試験や、映画テクニックの知識ゼロの私にはどうしていいのかすら分からない実技系の提出物を何とかしなくてはなりません。かくして、私の苦悩と努力は続くのでした・・・。(この続きはこちらです。)ランキングに参加しています。投票(をクリック)していただけると、嬉しいです。
2007.09.27
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「映画批評」の授業の第一回目の提出物をしくじりかけた私。 それでも今後の希望が見えたので次の提出物はもっと頑張る事にしました。と同時に、急にコンプレックスを感じる様になりました。というのも、それまで長い期間とは言えちょびちょびとしかフランス語の勉強をしてこなかった私は、テキストの組み立て方をきちんと学んだ事がなかったのです。日本で大学に通っていた時もレポートを書かないといけない事は多々ありましたが、「レポートの書き方」といったマニュアルの様なものなんて読まないまま、いつも自己流に作成していました。そしてそれなりに(良くも悪くも)納得のいく点数をもらっていました。そう、日本語で書くのなら、私は別に悩まないのです。でもフランス語でまともな文章を書こうと思ったら不安が押し寄せてきました。まず(今でも、実際のところどうなのかは分からないのですが)「フランス」といえば、「理論の国」だった様な気がしてきました。そういえば高校などの試験もフランスでは記憶力を競う日本のそれとは違って記述式のものが多く、「どうやって論を展開していくのか」を重視すると聞いた事がある様な・・・。私が席を並べているみんなは高校時代、いや、中学時代からそんな練習に励んできた人達なのね・・・私とは大違いだわ・・・なんて思ってしまいました。せめて在仏の語学学校に数ヶ月でも通っておけば良かったのかも・・・と不安は増す一方です。同じ時期に違う都市で留学を開始したAちゃんに「フランス風に書くにはどうしたらいいの?」と相談すると「う~ん・・。フランスでは『テーズ・アンチテーズ・テーズ』の三段論法の展開が一般的らしいけどね」との事。Aちゃんは日本で大学院にも通っていたので私より知識も経験もあったけれど、フランスの院に通うのは初めてなので彼女も不安の中を頑張っているところだったのでした。でも、この言葉は私の頭に刻まれその後ずーーーっと使わせてもらっています。ありがとう。さてAちゃんから有難いアドバイスはもらったものの、それだけでは「批評」の書き方が分からない。一番いいのはカイエ・デュ・シネマなんかを読んで参考にする事なのだろうけど、私には理解するのも大変な状態。自分ではそんなに高度な文章が書けない以上、カイエを読むのは「今すぐ」「なんとか」「急場を切り抜ける」手助けにはならない。(長い目で見れば真の実力に繋がるのに違いないけど、私には時間が無いの・・・・・。)周りのみんなは前々から鍛えられてきた人達なのに・・・・と悶々としていた時、いい考えが浮かびました!(続く)ランキングに参加しています。投票(をクリック)していただけると、嬉しいです。
2007.09.26
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最初の試練は新学期早々にやってきました。忘れもしない「Critique(評論)」という授業の第一回目で「来週までに映画の評論を一本書いて来い」という課題が出たのです!リサンスから編入したのでうまく行けば一年で学士を修了させる事が可能だった私ですが、当時は自分が最短期間で学位を取れるという自信はありませんでした。フランスの大学は日本と違って留年する人が多いと聞いていたし・・・。もちろんできる事なら一年でディプロムを取りたいけれど無理なんじゃないだろうか・・と揺れていた初期にそんな宿題が出てしまってさあ大変!焦りつつも、早速用意に取り掛かる事にしました。まずは映画を選ばなくてはなりません・・・が、私は何も考えず友人のススメに従い、一緒に当時公開中だった「女はみんな生きている(コリーヌ・セロー、2001年)」を観にいきました。(今思えば意外な選択だなぁ・・・。)それまでフランス映画を字幕無しで観た事がほとんどなかったので批評を書くほど理解できるか不安でしたが、テンポが良くあらすじの分かりやすい映画だったのでなんとか把握できました。第一関門突破!ふぅ・・。それから数日後、学部が違うながらも顔見知りだったローランというフランス人男性とカフェで待ち合わせ、A4用紙一枚分の文章を読んでもらいました。フランス語の間違いなどをチェックしてもらうつもりだったのです。ところが・・・どうやら「間違いをチェックしてもらう」以前の問題がある様でした。それには、理由が2つ。1つ目の問題・・・・それは文章の一部が意味不明であるという事でした。話している分にはほとんど問題なく通じている私のフランス語がいざ書くとなると、こんな問題を抱えていたなんて・・・・私もびっくりしたし、ローランも驚いていました。それは私が自動詞と他動詞の区別をきちんと行っていなかったから(なんと未熟な!!)だと、後に自分で理解するに至るのですが(この事もいつか書きたいと思ってます)、その時はまだ理由が分かりませんでした。「今ナゾを解明している時間はないから、今回はとにかくまずいところを指摘してもらおう!」と覚悟を決めて文章の修正も手伝ってもらい、この問題はとりあえず(表面上)クリア。が、この時致命的だったのは2つ目の問題。私の説明を聞いて、私の書いた事が全て分かったローラン。少し困った顔をしています。そして、一言。「君の言いたい事は面白いけど『評論』とは違うんじゃないかな?」・・・・・!そうなのです!数年ぶりの「提出物」と、生まれて初めて書く「映画関連のテキスト」に、私は必要以上に舞い上がっていました。時間が無く急いでいたのも、勘違いを後押ししたかもしれません。私はなぜか、「批評」ではなくて「分析」をしていました・・・・・おバカ過ぎる・・・・。ローランの指摘でこの事実に気付けたものの提出期限は目の前でゼロから書き直した文章を再度彼にチェックしてもらう時間がなかったので、この時は観念して「分析」を出す事にしました・・・。でも結果が戻ってきて、少しほっ。フランスでは試験は20点満点でその半分の10点を取れれば一応及第という事になっているのですが、この時私がもらったのは、まさにその「10点」でした。お情けでギリギリの点数をくれたのだろうなと察しがついたものの、次はもう少しまともなものを書けるはずなので、希望が見えてきました。2回目の提出物の準備の時には、もっと頭を使って「批評」らしきものを書いたのは言うまでもありません。(ちなみに先生のコメントは字が雑過ぎて、私だけでなく周りのフランス人にも読めませんでした・・・。)自分の馬鹿さ加減が恥ずかしい限りだったけれどこの失敗をバネに、これからは授業の意図や先生の狙いをもっと考えてから課題に取り組もうと肝に銘じたのが、その後の私の原点になりました。(続く)ランキングに参加しています。投票(をクリック)していただけると、嬉しいです。
2007.09.25
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以前書いた通り、留学開始当初は授業についていくのすらままならない状況でした。それはもちろん想定内だったので新学期初日から録音可のMDウォークマンと小型マイクを使って講義を録音していたのですが・・・・数日後には、それをやめる事にしました。なぜかというと、当時私が通っていたリサンス《Licence=学士の最終学年》には毎日平均2・3コマの授業があり、それらを聞き返す時間も気力もなかったからです。(なのでマイクが活躍したのは後々のことです。)ではどうやって切り抜けたのかというと・・・講義を録音しない代わりに私は、ネイティブの子の授業のノートを毎回写させてもらっていました。留学生の中には「ノート貸して」の一言を発するのに気がひけるという人も居る様だけど(そして私にもその気持ちは分かるけれど)、とにかく必死だったのでここはオバちゃんに成りきってしまう事にしていました。(この学校のこの学部には高校からそのまますんなり来た感じの子ばかりで、私が学年で最年長といった感じだったのです。)この小さな大学のArts du Spectacleのリサンスには生徒が4・50人しかおらず半分以上の授業が同じメンバーで行われていた為、毎日顔を合わす学生とは(たとえそんなに仲が良くない人とでも)それなりに親近感が沸き、お願いしやすかったのは幸運でした。(失礼な言い方だけど)「さすが田舎!」と思ったことにクラスにはいわゆる「留学生」が少なく、ほとんど全員がフランス人(=ネイティブ=きちんとノートをとる能力のある人達)だったので、誰に頼んでも基本的には問題がない予感がしていました。ところが・・・最初に貸してもらったある女の子のノートは可愛らしい丸い文字で書かれていたけれどその丸さ故に読みにくく、とても苦労しました。それにその子はオシャレだったけどとても真面目で(私もそこに好感を持っていたのですが)やる気があるので、2時間の授業の間になんと8ページ分のノートを取ってしまうのです。ギャッ!まだまだ余裕のない私だから補足的な情報は横に置いておいて、授業のポイントだけを手っ取り早く要領良く掴みたいのに。(借りておきながら心の中でこんな注文をつけるなんて図々しいのだけど・・。)なので、彼女の素晴らしすぎるノートは私には不向きと判断するに至りました。でもその失敗(?)からすぐ、「読みやすくてシンプル」という理想的なノートを貸してくれる人を数人見つけました。それはサボってばかりのふまじめな若者も多い中で、毎日真剣に授業を聞いている子達です。滅多に学校に来ない学生から「ノート貸して」と言われると嫌そうな顔をしている事もある彼らだったけれど、私にはいつでも気持ち良く貸してくれました。私が出来るだけ皆勤を目指し、一番前の席に座り、「ノートをとると耳がお休みになってしまう」という難しい状況にもメゲず自分なりに殴り書きのメモ(?)を取っている必死さが通じたのだと思っています。ちなみに私が一番前の席に好んで座った一番の理由は、後の方の席に座ると集中力が続かないからでした。真面目な他のみんなも前の方に居る事が多かったし。それに決して媚びるつもりではなかったけれど、語学ハンデのある自分でも一生懸命取り組んでいる事を先生に理解してもらい、少々の平常点をもらいたいと考えてもいたのです。日本で大学に通っていた時は全くフツーのありがちな学生生活を送っていた私ですが、今回はガリ勉になってやるぞ!と強く決心していました。思い切ってフランスに来た事を後悔したくなかったから。(続きます・・・というか、書き溜めておいた分をこれからまとめて更新する予定です。)ランキングに参加しています。投票(をクリック)していただけると、嬉しいです。電子辞書を持っていなかった当時は「新スタンダード仏和辞典(大修館書店)」の革装のものを使いこんでいました。私は会社を辞める時に所属部署からの餞別として、この辞書と授業を録音する為の超小型マイクをもらっていたのです。後輩から「送別会で渡すプレゼントは何がいいですか?」と聞かれた時に実用的なこの2品を即答できた私は、既に貧乏留学生として生き抜く素質が十分だったのですね。掲載語数がこのサイズのものの中ではダントツで多い大修館のこの辞書は説明も細かいので気に入っています。
2007.09.23
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2001年9月末フランスで4年半ぶりに学生に戻った私は最初の数ヶ月を、本当になんとも感慨深い気持ちで過ごしていました。何が感慨深かったのかというと、それは自分の日々の第一目標が久々に変わったという事でした。ほんのちょっと前まではOLだった私。(お金をもらっているのだから当然だけど)会社勤めをしている以上、どんなにつまらない仕事でも興味のない業務でも任された以上はとにかく黙々とこなすしかありませんし、それが美徳とされていました。幸運なことに同じ部の女性陣は気のいい人ばかりでしたが、同時にみな有能だったので私も負けじと真面目にお仕事をこなし、毎晩それなりに疲れきって帰宅していました。だけどこの、学生に戻ってからの気持ちはなんなのでしょう。授業を聞くと、分からない表現にぶち当たります。休み時間にクラスの子に質問するとそれはフランスの歴史を理解していないとついていけない話だったり、世界のある名画に関連した表現だったりするので、帰宅してから復習の為、大家さんに借りている百科事典やインターネットで色々調べてみます。本当に小さな事だけど、私にはそれがすごく楽しいのです。もちろんその気になれば会社員時代にだって、教養を深める事はできたはず。でも面倒くさがり屋で毎日疲れている私にはその気力が欠けていました。それに毎日一番長い時間を過ごしていた会社で私に期待されているのは、業務を的確に進める堅実なお嬢さんで居る事だったのです。恐ろしいといえば恐ろしいことに、私も周囲のそんな期待に染まっているところがあったと思います。そんな風にここ数年私には無用とみなされていたかもしれない文化的知識を磨くべき状況に置かれ、それが自分にとっても日々の最大目標になっている・・・・この感覚は長い間忘れていたので、本当に新鮮に感じられました。今でもあの感覚を思い出すとワクワクします。(私は頭がザルの様な構造になっている上今はまた好奇心を失った大人に戻ってしまったので、結局教養人にはなれませんでしたけど・・・。こういう事にはすぐ飽きてしまう私です。)こういったわけで精神的には良好だった私の勉強ですが、現実はといえば、語学の壁に阻まれ苦戦を強いられている状況でした。何しろ当時の私のフランス語能力といえば、テレビのニュースを見ても消化しきれない程度だったから・・・。ニュースキャスターのフランス語ですらまだ100%聞き取れていたか分からない私にとって、声が小さかったり、やたら早口だったり、分かりにくい表現をわざと入れたりする教授達のフランス語は理解の範囲を超えていました。なのにこちらでは板書をしたり事前に作ったプリントなどを配ってくれる先生なんて稀なので、授業を理解するには耳を頼りにする他はないのです・・・。その上、授業は2時間続きます。(たまに、途中で10分休みをくれる先生も居たような?記憶が曖昧です。)なので最初は頑張っていても途中から疲れてきてどうしても違う事を考えてしまったり、眠くなってくることも多々ありました。それでも工夫をし、努力を積み、一年後には何とかディプロムをもらえるところまで漕ぎ着けたのだから、自分もかなり頑張ったし、運も相当良かったのだと思います。(続きます。)ランキングに参加しています。投票(をクリック)していただけると、嬉しいです。
2007.09.21
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(続きです)ある日どうしてかは覚えていませんが珍しくも、残業中に母と電話をしていました。するとなんと、パリ郊外の大学から手紙が届いていると言うではありませんか。(もしかしたら、母がこの件で電話をくれたのかもしれませんね。)早速開封してもらうと、編入OKの返事が書いてあるとの事。不安でいっぱいの日々だったので自分を受け入れてくれる学校のあった事がとても嬉しくて、上司に報告したのを覚えています。それを皮切りに少しずつ編入希望への返事が届いてきたので学校選びもいよいよ、最終段階に到達しました。(9月になってから《つまり私が渡仏してから》返事をくれた学校もあった様な気がします・・・。遅いってば!!)最後に迷ったのが、パリ郊外の文学部(最初に返事をくれた学校だったかも?)と、地方の大学のArt du spectacleという、映画もオプションで学べる学部でした。パリ郊外の大学は市外に位置しているとはいえ、とにかくパリに近いというのが魅力。その一方でもう一つの大学は、日本で買えるガイドブックに掲載されている事もあれば掲載されていない事もある、小さな地方都市にあります。私はその土地に行った事もなかったし情報もほとんど無かったので、そこに行って一人で住むのは心もとなく思われました。それに映画の勉強をしてみたいというミーハーな気持ちがあったもののそれがどういうものなのか想像もつかず、文学部にした方が無難なのではないかという計算もあったし、パリ郊外の文学部は私をMaitrise《メトリーズ=当時は「修士」》に編入させてくれるのに、その地方大学だとLicence《リサンス=当時は「学士」の最終学年》から始める事になっていたので、ついつい前者に惹かれてしまうのでした。そんな私が最終的に地方大学の映画学部を選んだのは東京で偶然再会した、幼い頃フランス語を教えてくれたフランス人女性の言葉がきっかけです。「日本で学べない事をした方がいいと思うよ。それに勉強をしっかりしたいなら、地方の方がお勧めね。」彼女からもらった一言に押されてした決心が自分にとっていかに正しかったかが分かったのは、留学生活二年目になってからの事でした。(準備編は終了です。次回からは、留学一年目の事を書きます。)ランキングに参加しています。投票(をクリック)していただけると、嬉しいです。日本を出る二週間くらい前に、同時期に留学を開始した友人に進められて急いで買った「地球の暮らし方」シリーズのフランス編です。出発前は時間が取れなかったのでシャルル・ド・ゴールに向かう飛行機の中で読み、後の家探しにおおいに役立てました。色々あった家探しの思い出も、いつか書きたいです。
2007.09.20
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(昨日の続きです。)その頃5年目に差し掛かっていた私のOL生活はなかなか忙しいもので、残業もそれなりにありました。ある日残業を終えてから同期の男の子に留学の準備をしてはいるものの自分一人で手配しているので心細いという話をしました。(退職したいという事は既に上司に伝えてあったので、私は留学の事を割とオープンに話していたのです。)学生時代にアメリカの大学に一年留学していた彼の最初の一言は、「なんで業者に頼まへんの?」彼は編入手配などを全て留学エージェンシーに任せたので心配は一切なかったと言うのです。目から鱗が落ちた気がしました。私は留学斡旋会社は語学留学しか取り扱っていないと思い込んでいたけれど、彼はそんな事はないと断言してくれます。もしかしたら・・・と藁にもすがる思いで数日後メジャーな会社2社に電話をしてみました。が、やはりNG。もしかして英語圏なら話が別だったのかもしれませんがフランスについては語学留学しか扱わないと断言されてがっかりしたものの、手続き全てを自分でやってみようという覚悟が再度できました。大急ぎで資料請求に返事をくれた大学へ願書と必要書類を送る準備を始めましたが、これがなかなか大変でした。「必要書類」の中に戸籍謄本や日本の学校の卒業証明書などを法廷翻訳したものが含まれていたのも面倒でしたが、それらを揃える以上に時間のかかったのが、願書を埋めたり志望動機書を書く作業です。なぜその大学のその学部で勉強したいのかという理由だけでなく、編入希望を出す学年によっては書きたい論文のテーマなども説明しなくてはならず、勉学から遠ざかっていた私には頭痛の種でした。(これから勉強しに留学するのに、こんなんでどうするんだという感じですが・・・。)ちょっと余談ですが、フランスには国立大学しかないのでどこも同じ運営方針だと思っていたのに、なぜかレンヌの大学(だったと思う)だけが検定料の様なもの(2~3000円くらい)を求めてきたので郵便局に行き、為替みたいなものを送ったのが印象に残っています。フランス全国にたくさんある大学の中から志望校を選ぶのは難しかったのですが、私は返事をくれた大学をまず「パリ郊外の映画学部」「地方にある、映画を学べる学部」「パリ郊外の文学部」「地方の文学部」の4つのカテゴリーに分けてそれぞれのカテゴリーから代表を2校くらいずつ選び、なんとか願書などを送り終えました。采は投げられたのです!ランキングに参加しています。投票(をクリック)していただけると、嬉しいです。
2007.09.19
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さて、もう6年以上前の事で記憶が怪しくなってきているのですが、これ以上忘れる前に留学準備をしていた頃の事を書いてみようと思います。OLを辞めてフランスの大学に行こうと決心してから、まずは情報収集をしました。順序は覚えていないのですが、・ 「成功する留学」という本を買い、・ 在日仏大使館からフランスの大学のリストを送ってもらい、・ インターネットで検索し、・ 駒場にあった留学情報センターなどで資料を閲覧させてもらい、少しずつ調べていきました。今ならEdufrance(エデュフランス)が便利なのでしょうか。そして、私の場合日本で四年制大学を卒業しているので(当たり前といえば当たり前だけど)日本で勉強した事と関連のある学部になら「編入」できる事が確認できました。ただこの編入の基準がとても曖昧で、自分はどの学部の何年生に編入できるのかが分からず(どうやらケースバイケースらしいので)頭を悩ませました。たとえばですが、日本でフランス文学を専攻していた人ならフランスでも文学部を選択するといった様に、日本での専門と留学中の専門を同じものにするのがきっと自然な流れなのでしょう。でも私が日本で在籍していた学部の名前が特殊な上に、私自身は漠然とパリの大学で映画の勉強をしてみたいと思っていたので不安でいっぱい。ただ調べれば調べるほど、いい加減そうなイメージのあったフランスが実にアバウトである事が確認でき、結局は当たって砕けるしかないのだと行動を起こしました。フランス大使館からもらったリストや大学のホームページを頼りにめぼしい学校に資料請求を開始。手探り状態の私にとって「めぼしい大学」なんて本当はなかったのですが、パリ市内の映画学科、パリ郊外の文学部、地方の文学部か地方の映画学科などに手当たり次第に『編入したいので資料を送ってほしい』という旨の手紙を送ったのです。(その時はOLをしていて自由になる時間が足りなかったので、お昼休みに自分のデスクでネット検索をしたり、郵便局に行ったりしていました・・・。)それからしばらくして、大学から少しずつ返事が届いてきました。(返信用封筒を入れておいたにも関わらず返事をくれない学校もあった一方で意外や意外、一週間以内に応えてくれた学校もあったと記憶しています。)届いた資料によって、パリ市内の大学の映画学科は既に映画の勉強を専門的にしてきた人か、映画関連の仕事に携わってきた人しか編入させてくれない事が分かりました。残念だったけれど、ダメな物はダメとハッキリと知っておく事ができたので助かりました。(後に、映画の勉強をした事がなくても運よく編入できた日本人も居る事が分かったから可能性もゼロでは無かったのかもしれません。でも今となっては私の場合、一年目からパリの映画学科に在籍しなくて本当に正解だったと思っています。その理由はいずれ書きますね。)外国人がフランスの大学に編入する場合まずは書類審査が、その後にフランス語能力を試す為のペーパーテストが実施されるのが一般的です。なので留学準備の次のステップは、送られてきた資料の中に混じっていた願書に住所や志望動機などを記入し、必要書類を添付して返送する事でした。ランキングに参加しています。投票(をクリック)していただけると、嬉しいです。本文に出てくる『映画学部』の私なりの解釈とその実態は、これよりちょうど1年ほど後に書いたこの日記を参照してください。それからこちらでは『どの学年に編入するのがベストなのか』をテーマに書いているので、良かったらどうぞ。留学準備の際に買った「成功する留学・フランス」です。学校情報は残念ながら語学学校のみですが、生活情報はなかなか参考になったし、なによりも読みながらフランスでの留学生活のイメージを思い描くのが楽しかったです。なので私は、古い版を2種類(年度違いで)持っていました。今でも家のどこかにあるはず・・・。
2007.09.18
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2001年9月4日、私は4年半ぶりにフランスの大地を踏みました。新調したばかりの大きなスーツケースを腕に、期待と不安を胸に抱えて。(なんだか陳腐な言い回しだけど、まさにその通りだったのです・・・。)フランスに留学する事に決めたのは、幼い頃住んでいたフランスという国をもっと知りたかったから。というのも、7歳で帰国してから感じたあの違和感はフランスという国が日本とはずいぶん異なっている事によるのだろうと、ずっと考えていました。祖国日本とは大違いなのに幼少時の自分がすんなりと受け入れていた国、そして自分を受け入れてくれていた国、フランス。年齢を重ねるにつれ日本に慣れ東京での生活にもすっかり馴染んでいた私ですが、フランスにもう一度住む事は自分のルーツを探す事でもありました。そして、留学にはもう1つの目的がありました。それはずっと中途半端だったフランス語を極めること。フランスの小学校に1年少々通った私は日本に帰ってきて以来ずっと周りから「フランス語ができる」と思われていたのですが・・・小学校一年生のフランス語能力しかつけないままの帰国だったので、実際はお粗末なものでした。帰国してからも家庭教師をつけてもらったり、大学でフランス語を真剣に勉強してみたものの・・・まだまだなのは分かっていました。(実際、留学前は仏検準一級しか持っていませんでした。頑張っただけの成果は出ているものの、まだまだ相当の頑張る余地がある事が伺えます。)大学時代もOL時代も日仏学院に通ったりしていましたが、真の実力をつけるにはフランスに行って仏語漬けの生活をするのが一番だと思いました。こんな私ですから、フランスの大学に行ったとしても学位が取れるか分かったものではありません。私は保守的な性格なのでとても迷いましたが母に応援され、後押しされ、説得(?)され、決めました。留学の為にフランスでの生活を再スタートさせた時に買ったのが、クオ・バディスの「Universitaire(大学生用)」という手帳です。写真だと見えにくいと思いますが時間軸があらかじめ印刷されているのが便利で学生ではなくなった今でも同じものを毎年買っています。(というか、本当は全く同じ作りの「Affaire《だったかな?もしそうなら「ビジネス」という意味です。》」という手帳に切り替えてもいいのですが、「Universitaire」は毎年8月から始まっていて、「Affaire」は毎年12月から始まっているので、タイミングの問題でいつまでも乗り換えられないのです・・・。ちなみにこんな派手なデザインのものを買ったのは去年だけで、普段は真っ黒なカバーのものにしています。)これももう7冊目。1年か2年のつもりで始めた留学生活がまず5年に長引き、更にフランス人と結婚する事によってこの地に半永住する事になるとは思ってもいませんでしたが、気付けばこの前の9月4日で私のフランス生活も満6年を迎えたのでした。7年目に突入です!幼い頃フランスに住んでいたのは3年弱だと思うのですが、それを大ざっぱに括って「3年」という事にしてしまうと計9年住んでいる事になり、10年目に突入したという計算に。こういう事になったのはもちろんフランス人の彼(現・夫)と結婚したいと思ったからなのですが、彼に出会う前、そして出会ってからも、勉強自体が何とかうまく行っていたから、というのもあります。これからしばらく、留学が自分なりに成功した理由を振り返ってみたいと思います。ランキングに参加しています。投票(をクリック)していただけると、嬉しいです。
2007.09.17
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