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2008.06.05
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カテゴリ: Movie
<きのうから続く>

マレーが演出・装置を担当した『ブリタニキュス』にはまた紆余曲折があったが、それは後日に譲るとして、結果からすると大成功に終わった。ジャン・マレーはこれによって、古典劇における悲劇俳優としての評価を確立する。

そして、それが仕事の面でもマレーとコクトーの距離をますます離れさせることになる。私生活でも彼の演劇の詩神(ミューズ)に去られたコクトーは戯曲の執筆から離れ、南仏でデルミットとともに絵画制作に力を入れ始める。

だが、『バッカス』はもともとマレーのために書いた作品だった。マレーに演じてほしい――コクトーはその後もずっと、何年にもわたって手紙でマレーに切々と訴えている。

「1952年9月 デュッセルドルフとベルリンで『バッカス』が上演されます。ジャン・ルイ・バローのところがあの芝居をくすねるような真似をするなら、台本をひきあげて、ぼくたちで上演できるまで取っておきましょう」
「1952年10月 ぼくの夢は、君が『地獄の機械』と『バッカス』をもって一大公演旅行に出るのを見ること」
「1953年6月 『バッカス』の再演はどうしても実現したい。衣装はジャン・ルイのものですが、すべてをぼくたちに譲るそうです」
「1955年12月 再演のこと、君に考えてもらいたいのですが、お願いできるでしょうか。新たな雰囲気作りや、モーリヤックとガブリエル・マルセルの説得は、ぼくが約束します」
「1956年7月 ぼくの夢は、君が『バッカス』を再演してくれることですが、残念なことに、君はもうあの作品に関心がない。あれはぼくにとって、『機械』とともに、もっとも重要な作品なのです」
「1957年1月 君はぼくの夢がわかっています。『バッカス』の本当の初演です。いつの日か、この芝居が君のものとなる喜びを味わえる日が来たら、バッカスをうんと若くしてみたらおもしろいのではないでしょうか。そして君が枢機卿をやるのです。枢機卿こそ、あの作品の主人公です(万一君がハンスを演じるのに不安があるようなら)。ハンスは君のことを考えて書いた役です。その事実が、ぼくの精神にヴェールをかけていたのでした。素晴らしい優雅さをそなえた若い枢機卿、それがいいと思いました」
「1957年8月 どうしてぼくは『バッカス』を机の中にしまっておけなかったのでしょう。愚かでした。あの役が君に若すぎるなら、枢機卿をやってもらえばよかったのです」
(『ジャン・マレーへの手紙』より)


だが、マレーは役の年齢だけでなく、どうも『バッカス』は作品自体に「のれない」ものを感じていたようでもある。『地獄の機械』(1934年)はもともとはジャン・ピエール・オーモンが初演した作品で、コクトーと知り合う前にマレーが観て、「 コクトーの作品に出演できるなんて、この俳優たちはなんて運がいいんだろう 」と憧れた、いわば初恋の戯曲だった。マレーはこれを何度も自発的に再演している。1950年代のコクトー自身は、「今の客は『機械』などわけのわからない謎々のように思っていて見に来ない」などと言っていたのだが、なんのなんの。そう観客も捨てたものではなかったらしく、『地獄の機械』は現在に至るまで、さまざまな演出で繰り返し再演されている。作者の思い入れとは別に『バッカス』のほうが人気がない。

しかし、『機械』も『オルフェ』も、もともとはオーモンのための作品だったのに、マレーが横取りしてしまった感がある…… ジャン・コクトーの愛と一緒に。

ともあれ、『バッカス』がマレーにやんわりと拒否されてからは、コクトーはマレーをキャスティングしたオリジナルの戯曲を書いていない。詩神(ミューズ)は明らかに、詩人の世界から出て行ってしまったのだ。

それでもコクトーは、常に精一杯マレーに寄り添おうとしている。マレーにつらい出来事が起こるとすぐさま、全力で慰めるのもコクトーだった。

1951年の9月にマレーの愛犬 ムールーク がとうとう死んでしまう。マレーは健康状態が思わしくなかったムールークのために庭付きの家を建てるべく土地を取得するのだが、間に合わなかった。

ムールークが死んだ日、マレーは丸一日かけてチーク材の棺桶を作り、埋葬した。コクトーが昼食に来たが、ムールークのことを尋ねなかったので、マレーも「死んだ」と言い出せなかった。1週間後にコクトーがまた昼食に来た。今度は、
「ムールークは?」
と聞いた。先週にはすでに死んでいたことを打ち明けると、コクトーは、
「どうして黙っていたの」
と悲しそうに言う。
「言い出せなくて……」
とマレー。マレーはコクトーにムールークの死を世間に隠してくれるよう頼む。
「ムールークのことでインタビューされるのが怖い。たかが犬一匹って、みんな思うだろ? でもきっとインタビューされたら、泣かずにすませる自信がない。まるで人間が死んだみたいに、ムールークの話をするなんて、変なことだよね」
「ジャノ、変じゃないさ」
「おまけに、『ああ、犬ね! 犬は人間の最良の友達ですよね』なんて、決まり文句を言われたら、『いいえ、ぼくにとっての最良の友はジャン・コクトーです』なんて答えてしまいそうだ。バカみたいだろ。ぼくは変わり者なんだな。もし、人を救うためにムールークを犠牲にしろと言われたら、相手が誰でもきっとそうする。でもそのあとで、きっとそいつを憎むよ」
脈略のないことを言いながら泣き出すマレーを、コクトーは黙って抱きしめた。

日をおかずにコクトーは南仏へ。飛行機の中で傷心のマレーへ手紙を書いている。

「人にせよ、動物にせよ、友人たちのさまざまな死が、ぼくを打ちひしいできました。死は当然のこととわかっています。でも、みんなして一緒に死ねたら、愛するものが船端を越えて海に消えるのを見ずにすんだら、どんなにかいいでしょう。これでもうムールークはぼくのもとを離れません。あの子のことを強く強く思うあまり、あの子が今もここにいて、君をあちこち捜しまわっていると、そう思えるようになりました。ぼくは悲しんでいます。君を愛しています」(『マレーへの手紙』より)

また、1952年になると、マレーはほとんど休暇や旅行をジョルジュと共に過ごすようになった。マレーの足が遠のき、ごくたまにしか会えなくなると、コクトーの手紙は悲しみに満ちたものになる。

「1952年7月 君のそばで数日を過ごせたぼくの幸せ、君には想像もできないでしょう。(君の乗った)飛行機が山々の彼方へ消えていくのを胸ふさぐ思いで見送りました。そのあと、車中で泣きたくなりました」

そのあとすぐの手紙。

「1952年7月 君がサント・ソスピールにいてくれたら天国なのですが。相変わらず、君のいない穴がぽっかり、どうやっても埋めることはかないません」

ちょうど、このときマレーには映画でのイタリアロケが入った。コクトーのあまりの寂しげな文面に、イタリアへ行く途中でマレーはまたサン・ジャンに立ち寄っている。ロケ先へ発ったマレーへあてたコクトーの手紙。

「1952年8月 映画のほうはどこまで進みましたか。詳しいことが知りたいものです。君がどこにいるのか、どこで仕事しているのか、それがわからないのはいやです」「どれほど君と一緒にヴェネチアに行きたかったことか。ぼくたちのルイ・ブラスのときと同じですか」

そして、コクトーはマレーが、そして自分が、他の誰といようと、常に2人が「誰も知らない2人だけの場所」でつながっていることを強調している。

「1952年10月 孤独なのは、君もぼくも同じこと。これもまた、ぼくたちが精神的な血族であり、慣習的モラルなど気にかけることがないからです。ぼくたちの愛は無人島にある。そのことがぼくたちの愛の力になっているのです」(すべて『ジャン・マレーへの手紙』より)

この「無人島」こそ、コクトーもマレーも一切公けにすることのなかった、2人だけの思い出の場所だった。

7月8日のエントリー に続く>







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最終更新日  2008.07.09 00:23:34


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