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もうひとつのアメリカの底力 2009年1月20日 アメリカ合衆国大統領にアフリカ系黒人のバラク・H・オバマが就任した。47歳という若さである。 大統領就任演説の全文(日本語&英語)が報道されているが、この演説を聴くと(読むと)その演説の内容の壮大さに深い感銘を受ける。何よりも、現実のアメリカの危機を、資本主義の市場(Market)の暴走にあり、監視を怠たったため制御不能となり、富めるものだけが益々富む社会となったことに起因すると指摘している。それは、一部の者の強欲(greed)と無責任(irresponsibility)に起因すると、はっきりと言い切ったことは、すごいことである。つい数時間前のアメリカの指導者たちとは、質的に異なる価値観で歩み始めることを世界に宣言したことにもなる。そして、その社会の繁栄の指標を、GDP(Gross Domestic Product)の規模で測るのではなく、繁栄(prosperity)がどこまで及んでいるか、その到達範囲に成功か否かを置くべきと述べている。 そして、その祖先の人々の歩んできた歴史を旅(journey)にたとえ、Our journey has never been one of short-cuts or settling for less. It has not been the path for the faint-hearted,for those that prefer leisure over work,or seek only the pleasures of riches and fame. 先人たちの旅には近道も妥協もなかったし、勤労よりもレジャーを好み、富や名声の快楽をだけを求める臆病者の道ではなかった、と。むしろ、彼らは、危険にさらされることを厭わぬ者、実行する者、物を作る者たちである。有名になった者もいたが、たいていは目立たぬ日常のなかで懸命に働く男女たちである。彼らが、繁栄と自由の長く険しい道へと私たちを導いてくれたのだ。そして、繁栄と自由は、このような先人たちのたゆまぬ努力によって獲得されてきたものであり、与えられたものではない。先人達が成し遂げたのだから、我々も必ずこの難局を乗り越え新しい社会を創り上げることが出来る。All this we can. All this we will do. そして、すでに足元で大地は動いている、と言い切っている。 What the cynics fail to understand is that the ground has shifted beneath them, that the stale political arguments that have consumed us for so long no longer apply. 新自由主義者たちが死守してきた陳腐な議論・思想と決別することを高らかに宣言している。 But our time of standing pat, of protecting narrow interests and putting off unpleasant decisions - that time has surely passed.昨日までの狭い利害のなかにとどまることを今こそ拒否し、アメリカの再生に奮い立つべき時が来た。Starting today, we must pick ourselves up, dust ourselves off, and begin again the work of remaking America. 黒人で初の44代・オバマアメリカ大統領の誕生は、人類歴史の歩みを人民の側へ一歩すすめた記念すべきことであるにちがいない。 アメリカの国民の底力のすごさだ。民主主義的に訓練された人々が国民のなかに大きなうねりとなって存在していることの証明だ。さすがアメリカ!民族のエネルギーの混沌、狂乱。民族のるつぼアメリカ。ますます面白くなるアメリカの歴史だ。 オバマ大統領の演説が今後どう実現されていくかは、まだまだ曖昧模糊としている。困難な道のりになるであろう。しかし、アメリカ国民には、その道を切り開く底力がある。エネルギーがある。それが苦難に満ちていようとも、必ず切り拓く。それがアメリカだ。 日曜日の朝・民放テレビに田原総一郎の「サンデープロジャクト」という番組がある。 1月25日のその番組に、オバマ政権の経済担当のブレインであり、ノーベル経済学賞の受賞者でもあるクルーグマン博士が登場した。田原総一郎キャスターは、「100日してもアメリカ経済に変化が出てこなかった場合、オバマ人気にかげりがでてくるのでは。今後の経済の見通しは?」などを質問した。クルーグマン博士は「100日では、何をやろうとしているかの政策は少しづつ明らかになってくるだけだ。むしろ景気は悪くなっている。アメリカ国民は忍耐強く待つ。2年間では景気は回復しない。どう進むべきかの道筋が具体化されてはくるが。」更に、住宅の値下がりにいつ歯止めがかかるかという質問には、「アメリカの住宅不況は、今現在まだバブルであり、今後さらに値下がりする。オバマの政策は4年後ぐらいに具体的に景気への影響を及ぼであろう。」というような意味のことを答えていた。長い道のりが必要であることを述べていた。更に「アメリカ国民が消費に駆り立てられ、世界の経済の景気を支えてきたのだ。中国の好景気は、アメリカの消費によって作り出されてきたものだ。その意味で、この経済危機はグローバルな問題であり、アメリカが消費をささえないでも繁栄する経済の仕組みをつくりあげて、好転させていくには、時間がかかる」とまで言い切っていた。この発言は、これからの世界経済(日本経済のことでもある)のあり方を示すものとして、意味深い。 ところで、日本の麻生首相は、このオバマ大統領の演説について、記者団に次のように述べている。「経済危機に関する認識が一致している。国民の潜在力を引き出す手法も基本的には同じ。こういう感じであれば、世界一位、2位の経済大国が一緒に手を組んでやっていけると改めて確信した」と。余りにも恥ずかしい日本の首相の発言。この人、本当にオバマ大統領の演説聞いたのかしら?深く読みこんだのかしら?経済危機に関する認識など日本の首相とは全く一致していない。むしろ反対なのだ。経済成長率に対する考え方も全く相容れていない。麻生首相は、経済が回復したら消費税をあげることを強く主張しているが、経済の回復の指標も、多分、これからはアメリカとは全く異なるものになる。アメリカの後追い、真似だけで生きている自民党には、このオバマ大統領の演説は理解不能なのだ。麻生首相は、日本の経済はアメリカに比べ、経済危機からのダメージが少なく、日本人はもっと日本に誇りを持つべきとさえ言っている。日本の経済界でさえ、もっと厳しい認識をしているというのに。先日、トヨタの新しい社長になる予定の豊田章男氏は、記者会見で「自動車産業が市場に必要とされているかどうか、もう市場からは出て行けといわれているのかどうかの点にまで踏み込んで、今後の方針を考えなければならない」と言っていた。日本のリーディグ・カンパニーのトップの認識にくらべても、麻生首相には、今回の経済危機は全く対岸の火事、他人事なのである。 私たちも、大地を動かすべき時だ。 ここで日本は、アメリカに、日本の憲法のすばらしさ、世界に誇る日本の憲法の先進性とその歴史をオバマ流に壮大に語って、論陣をはり、独自の国のありかたをアメリカに主張することが必要だ。日本の先人達が、いのちを賭して勝ち取って来た、人権や平和の理念がそこには刻まれている。いまこそ、日本の立場をきっぱりと主張し、相手にその道理を認めさせる外交を展開すべきだ。アメリカだけが、人権や法のもとでの自由を獲得して繁栄を築いたのではない。オバマ大統領は、その自国の先人たちの苦難の道に学び、奮い立てよ!と国民を鼓舞しているが、どの国にも独自の人権の道のりがあり、アメリカが世界の唯一の物差しではないことを知るべきだし、その上で、外交を展開すべきだ。そうすれば、世界の戦争や貧困はもっと異なる様相で解決へとむかうはずだ。そのためにも、日本はもっと毅然と物申す時がきた。 オバマ大統領の就任演説は、壮大で格調高い。とりわけ、英語で聞くと思わず、その力強いリズムに引き込まれる。英語ってこんなに美しい言葉だったっけ、と浅薄な知識の私めも感銘をうけた。そのスピーチ・ライターのチーフが27歳の青年とはまたまた素晴らしい。
2009.01.24
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携帯小説「恋空」の「恋」と夏目漱石「こころ」にみる「信愛」 高校の国語の多くの教科書に掲載している小説の一つに夏目漱石の「こころ」がある。現代文の授業では、この教材は必ずといっていいほど取り扱われている。 しかし、現代の高校生の多くは、この漱石の「こころ」に感銘していないばかりか、「何を言っているのかさっぱり分からない」とか「面白くない」いうのが、彼らの感想である。教科書に掲載されているのは、「こころ」のごく一部。即ち「こころ」は上・「先生と私」、中・「両親と私」、下・「先生と遺書」の3部から成り立っているが、どの教科書も下・「先生と遺書」をとりあげている。しかもその中からさらに抜粋して、先生とその友人「K」が下宿先のお嬢さんをめぐっての「恋のもつれ」から、Kが自殺へと傾斜していく場面を取り上げている。即ち、恋敵「K」との心理的な葛藤、「K」を窮地へと追い詰めていく先生の卑劣な行為・言動などの部分が教科書には採用されている。要するに「お嬢さん」「先生」「K」の三人の三角関係のラブスト-リーなのである。これでは、夏目漱石にあまりにも申し訳ない気もするが。 漱石の文章には「理解不能」を連発している高校生ではあるが、彼らにとても人気があり、とりわけ女子には、絶大な支持をえている青春恋愛ものに携帯小説「恋空」がある。「夏目漱石の『こころ』は面白くないけど、『恋空』には興味深々、映画を観に行ったけど、泣けて泣けてしょうがなかった」とのたまう、女子高校生の勧めで、この冨士子婆も「恋空」を読んでみた。(携帯で発表された小説「恋空」は、後に書籍化されミリオンセラーとなり、テレビドラマ化、映画化され大ヒットした。) 「恋空」を読み終えた。携帯のあの狭い画面では、読みづらく、とてもじゃないけど、こんなもの読めないと思っていたが、パソコン画面で、一応、前編・後編全761ページを読み終えた。これを読むにはかなりの忍耐力がいったが、色々学ぶことはあった。まず画面の使い方である。余白部分と記号(♪)を使って、視覚的に工夫があり、さすが携帯やパソコンに慣れている若い子の作品だと感心。高校生と等身大の主人公が、日常会話そのままで、その心情を書き綴っている。ほとんどが「口語会話体」で、ストリーが展開する。地の文が皆無といっていいほどなのである。まさに電車のなかで、恋花に夢中の女の子たちの会話である。この作品の日本語の語彙数の少なさには驚く。もし、数えたら、数百語程度で書けているのではないかとさえ思われるほどである。情景描写や感情描写は、すべて記号や字体・画面余白のなかにあり、視覚的に「感じる」ことが要求されている。 (ブログの文体に工夫を施し、作文のルールを破って、読みやすくすることに努力しているこの婆さんにも、この携帯小説の文体の革新性?は真似できない)このように見れば、現代の中高生たちが言葉の壁を感じることなく、すいすいと読めるのが携帯小説というものらしい。しかも、等身大の自分たちがそこにおり、主人公に感情移入しやすく、益々のめり込んでその世界に入っていける。では、この小説の内容はどうか?「恋空」は青春恋愛小説というジャンルということである。そのストーリーは、意外と古臭い。従来の少女小説のセンチメンタルジャーニーといったところか。それを現代の社会風俗のなかで描いているので、若い女の子たちにはちょっと危険でスリル満点。ドキドキなのである。少女から大人になっていく時、女の子たちは、このような小説に感涙して、大人へと成長して行くのではないだろうか。この点では、昔も今も変わっていない。このように考えれば、現代の女の子たちが、慣れ親しむ「携帯」という媒体で、このような大衆文化が生み出される事はある意味で必然である。まさに「庶民文化」。このストーリーに登場する高校生・大学生たちは、庶民的なバイタリテーにあふれている。エネルギッシュなのである。恋の仕方といい、三角関係の解決の仕方といい、セックスのありようといい、まさにエネルギーにあふれている。おおげさに、「苦しい」とか「寂しい」とか「つらい」などと何回も書いているが、『こころ』の先生のように、うじうじと自己内省をし、「人間とは」とか「生きるとは」と根源的な問いかけへとは発展しない。個としての人生を生ききる時の恐ろしいほどの「孤独」を垣間見ることなどはないのである。あくまで即物的で明るい。あくまで、強くたくましく一途なのである。現実に「生きること」を謳歌している。喧騒と退廃とドンチャン騒ぎのなかで、あくまでも「たくましい」。これが爛熟した消費オンリーの社会で育った「庶民」というものではないのだろうか。まさに「恋の空騒ぎ」なのである。そして、それは、現代の多くの中高生が、今、置かれている位置でもある。ここから、どうやって大人へと成長していけるか。幼い若者、大人になりきらない親世代が多い今、これは、親世代にも求められている子育ての課題でもあるように思える。 瀬戸内寂聴さんは、「ぱーぷる」というハンドルネームで「あしたの虹」(全188ページ)という携帯小説をお書きになった。私も拝読させていただいたが、やはり20代の書き手が書いた携帯小説とは、質的にちがう。その文体、言葉の使い方、語彙、全てにおいて、長きにわたり文を書くことを修練し、完成させているプロの人のそれである。「携帯」画面用に文体を改変して、工夫はされている。内容も「恋空」のストーリー展開に似ているが、登場人物一人ひとりが、社会的に生活している生身の人間として「典型化」されており、その「恋物語」を貫く哲学は、あくまで瀬戸内寂聴さんその人のものである。高校生の等身大の生きざまとはちがう。 20代の書き手たちが書く「携帯小説」に登場する人物像からは、その親世代の生きざまは見えない。その世代間の葛藤があくまでないのは驚くばかりである。明るいハッピーな家族なのである。あくまで、現実に遭遇した出来事を乗り切ることに意義を見出している。生活や長期的な生きざま、生き方を創造しつつ、愛を育む、創造するという視点はない。あくまでセンチメンタル・ジャーニーなのである。親世代としては、そのたくましさには「感心」したが、あのなかに描かれる愛は、大げさに騒ぎたてるほど「切なく美しい」とは思えない。あれは、あくまで「恋愛道場」。しかし、今の若者たちは、この「恋空」の登場人物ほどにエネルギッシュでないという事実もある。庶民のたくましい生きるエネルギーを自らの中に育てていないという事実もある。 次々に日々生み出されているかなりの量の「携帯小説」。それは、その書き手も読者も、生きていくよすがとして、等身大の登場人物に憧れに似た共感でつながり、バーチャルな世界にさ迷っているのかも。 漱石の描く「こころ」の世界との距離は遠い。 先生はお嬢さんとの愛を「信愛」と言っているのである。
2009.01.19
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現代日本の貧困とは何か? 湯浅 誠 著 : 『反貧困』 - 「すべり台社会」からの脱出」 (岩波新書) この「反貧困」の著者・湯浅 誠氏は、反貧困ネットワーク事務局長として、又、NPO法人自立サポートセンター・もやい事務局長として、現代日本社会の貧困の現場に深く広く踏み込んで、日夜奮闘されている。 私がこの本を読んで、現代の日本社会の「貧困」というもの姿・実態について、私自身の無知に衝撃を受けた。「貧困」についてまさに目からうろこが落ちるである。 高度に発達した資本主義が生み出した「貧困問題」とは何か。この本は、貧困の実態を広い視野、深い洞察で私たちに静かに語りかけてくれている。 湯浅氏は、氏自身がその貧困の現場で遭遇しているさまざま事例と、豊富な研究資料や統計から、日本社会の貧困は益々増加し、深刻なものになりつつあることをこの本のなかで明らかにしている。頼るべき家族もなく、懸命に働けども生活保護基準(最低生活費)以下の収入しか得られず、安定した雇用さえ確保できない。選択肢が奪われ、自由に選択出来ない状態に追いやられている人々がいる。社会から排除され、挙げ句の果てに生きる意味がわからなくって「自分自身」からも排除され、浮遊している。明日、寝る場所もなく、食べるお金もない。このように「貧困状態」に追いやられた人たちは、彼らの「自己責任 」なのか、と問いかけ、現代の社会が生み出しているその必然を論証している。さらに、その「貧困」に追いやられた彼らを救う日本のセーフネットの特徴を論じ、(雇用ネット・社会保険ネット・公的扶助ネットの三層構造)彼らは、この三層のセーフティネットのどこにも引っかかることなく、最後まで滑り落ちてしまう。このような日本の社会を「すべり台社会」と呼んでいる。 このような切羽詰り、追い詰められた人々の声に耳を傾け、自立して生活できるようサポートする拠点・もやい。居場所を確保するなどし当事者に力をつけ、生活相談などで社会資源の充実を図り、その人が生きていくために「溜め」を拡大することを活動の中心にしている。湯浅氏は現代の貧困状態を解決するためには、生活保護制度や債務整理などの諸サービスの活用を支援する活動、あるいはサービスそれ自体を作る活動とともに、本人が「自分自身の排除」から回復できる居場所作りが平行して行なわれることが必要であると言っている。これを貧困状態にある人たちの「溜め」を増やす活動と位置付けている。 そして、湯浅氏は言っている。 現代の日本社会は、貧困状態に追い込まれた人々の「溜め」を増やすための組織的、社会的、政治的ゆとり(溜め)を社会全体から失なっている。国も地方自治体も、企業も、社会も、学校も、家庭も、今や誰もが「サバイバルを口にし、一瞬でも気を抜いたら負けてしまう危機感を煽っている。多少でも余裕のあることが何か罪深い「怠惰」の証であるかのように、焦り、切り捨て、切り捨てられ、挙句の果てに自分で自分の首を締めている。個人の「溜め」を増やせないのは、その組織や社会が「溜め」を失っている証拠に他ならない。 湯浅氏は、この「もやい」の活動を起点として、そこでぶつかった諸課題や派生する問題意識を他の分野のさまざまな人々と連携させて、より広いネットワークを構築し、「反貧困」のもと、さまざまな人々や組織を結集させて、社会を変革する大きなエネルギーに変えようとしている。 誰に対しても人間らしい労働と生活が保障できる「強い社会」への変革、創造にむけて、運動を展開していくという壮大で骨太な目標に向かって進もうとしている。貧困は「彼らがかわいそうだから、何とかしてあげましょう」という問題ではなく、私たちの社会をどうしていきたいのかという問題として運動を展開しようとしている。 何よりもこの運動理論と実践の高さ深さには感銘を受ける。現代の日本社会に、このような若い理論家・実践家が出現していることは心強い。素晴らしい。彼は、東京大学大学院法学政治学研究科博士課程に進み、日本政治思想史を専攻している。その学び、研究が、湯浅氏の論理性、思想性になって、彼の実践を支えている。これこそが「学ぶ」こと「勉強する」ことのお手本ではないか。歴史の変革者として、現実を深くとらえ、新しい社会を構築していく道筋を模索しながら「実践」と深く結びつけて政治学を学んでいる。現在の日本の政権を握っている政治家とは全く質的に異なる実践家が出現している。未来を託すにふさわしい頼もしい存在だ。 「いかがなものか」ばかりをオウムがえしに繰り返し、まともな日本語さえしゃべれない者を政権の座に居座りつづけさせることは、日本の社会にとって「いかがなものか」。「ご存知のように」と「いかがなものか」の2語しか自分の言葉を持たない者に、この難局を託すのはいかがなものでしょうか。 反貧困ー「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書、税込み777円) 湯浅誠氏のこの本は、今年度の第8回大佛次郎論壇賞を受賞した。 閉鎖的な社会のなかで悲観的な気分になりがちな2009年、この湯浅誠氏の論文はしっかりと地に足をつけ、事実をしっかりとしたした構成力で概念化し、現実を深く本質的に暴き出している。さらに、社会をどう変革していくべきかの展望まで示している。単なるアジテイトする運動家の絶叫ではない。骨太な論理性に貫かれ、しかも平明でわかりやすい日本語で語りかけている。 若い人々にぜひ読んで欲しい1冊である。学ぶことはどうあらねばならないか、学ぶとは何かを具体的に示している。 この本を読んで、私は、「貧困」というものに対する見方が大きく変わった。「自己責任」で「貧困状態」に追いやられたので、それはその人にも問題がある、とまでは思っていなかったとしても、それに近い認識が私の中にもあった。例えば、自分の人権が辱められているのに、「どうして彼らは自分で立ち上がらないのか」やられっぱなしでどうして黙っているのか、そ人間としての感性の欠如は彼らの責任、教育の責任ではないかと私は思っていた。しかし、この私の見方は、「貧困」というものの姿・実態をよく見ていなかった気付かされた。さらに、現代の「貧困問題」は、若者たちの「ひきこもり」や「欝」で社会の中に入っていけない。挙句の果に「自殺」で自らを絶つ行為。40歳になっても「結婚」せず、親元で暮らす人たちが層となって存在しているなどなど(親も苦しんでいる)、これらの現代の若者の問題は、根っこのところで「貧困状態」に追いやられた人たちと同じ問題で繋がっているいるということが分かった。ホームレス状態の彼・彼らと共通の「溜め」を失っている人間の姿であるのではないかと思うようになった。「貧困問題」を突き詰めていくと、わが身の問題と結びつく。 更に、これからは老人人口が急増する。一度、病気になったり、身内の誰かが死んだりすれば、忽ちに「すべり台」をころがりすべって、最低辺の貧困状態に追いやられる高齢者はどんどん増加する気配である。明日はわが身なのである。まさに「貧困」を可視化することは、社会のさまざまな問題を根本からとらえるのに不可欠である。いかに努力しようとも、個人に力では這い上がれないのである。この本のなかで始めて知った事。「最低生活費」憲法25条に定める「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の具体化として、生活保護法があり、生活保護法に従って、厚生労働大臣告示で毎年生活保護基準が改定されている。世帯ごとに、10円単位まで最低生活費が決められている。それが憲法25条に基づいて国が1つ1つの世帯に保障している金額、「これを下回ったら国が責任を持つ」と宣言している金額なのである。 この「最低生活費」が自分の世帯はいくらか、ほとんどの日本人は知らない。(私も知らなかった)「もやい」のホームページに最低生活費の自動計算ソフトがあるので、我が世帯(60代の夫婦2人)の国に保障される最低生活費を計算してみたら、114530円であった。これが健康で文化的な生活を営むに足る金額かどうかはさておくとして、この最低生活費は国や地方自治体の決める、地方税や国民健康保険料や介護保険料などなどの最低基準金額をきめる基準となり、連動しているというから驚きである。生活保護基準の額を切り下げようという動きが政府のなかに強くある。切り下げることは、すべてこれらの連動する基準額に影響を及ぼす。生活保護を受けている人だけの問題ではないのである。このことは国民に広く知らされていない。自分の世帯の最低生活費などの計算方法など全く知らされていない。憲法25条の精神を生きたものとして豊かに充実させていくことは、法治国家として当然国の義務なはず。あまりにも私たち国民は無関心でありすぎる、と反省した。 湯浅氏はこの本の最後を次のように結んでいる。 《貧困が大量にうみだされる社会は弱い。どれだけ大規模な軍事力をもっていようとも、どれだけ高いGDPを誇っていようとも、決定的に弱い。そのような社会では、人間が人間らしく再生産されないからである。。。。 人間を再生産できない社会に「持続可能性」はない。私たちは、誰に対しても人間らしい労働と生活が保障できる「強い社会」を目指すべきである。》 2009年、私たちの進むべき道を社会のなかで着々と切り拓いて闘っている人々がいる。
2009.01.09
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Danjoseからの年賀状 Mr.&Mrs.Danjoseのお正月空の青が輝く東京のお正月 (千葉・市川市の自宅から見た富士山:東京近郊もさすがお正月の空は澄み渡る)1月2日朝抜けるように青い空澄み切った震える空気に雪の富士が浮かび上がる東京のお正月 ダンホセ夫妻の1月2日人と人、人の皇居の一般参賀に出かけました。 地下鉄大手町駅から馬場先門へ参賀する善男善女の列、延々と続くなかをダンホセ夫妻も群れのなか 木々の緑と空の青 澄み渡る皇居の空気は 牛歩の行列の群集を飲み込んで新春の陽光にきらめく 坂下門前のお濠には 青い水面に浮かぶ白鳥 春の光が池辺にあふれ ケヤキの裸木は その枝を ぬけるブルーの皇居の空に ざわめかせて 新春を寿ぐ 二重橋から見る大手町・ビジネス街のビル群もいつもは喧騒の中にある日本経済の心臓部、お正月は澄んだ青い高い空に静かに林立している。 ダンホセ夫妻二重橋から参賀所へこのとき11時10分 人人あふれ身動きできない群集のなかじっと立ったまま、待つこと30分 11時50分に天皇家ご一家のお出ましとのアナウンス 待つこと40分、やがてご一家のお姿バルコニーに 陛下から昨今の厳しい経済状況をを憂うお言葉。 (じっと待つ善男善女・日本人は何と我慢強い!!!) すぐ近くの日比谷公園では「派遣村」のテントでお正月をすごしている人々がいると、ちょっと頭をかすめるが。 延々と人の群れの中黙々と歩み続けて 参賀所に到着してから1時間余り 12時30分に皇居を出る. A Happy New Year!にぎやかで国際色あふれるお堀端 ここにも新春のやわらかな光あふれる それから浅草へ まずは「駒形どぜう」で腹ごしらえ 創業207年「駒形どぜう」江戸時代の庶民料理川魚「どじょう」 ここでまたまた先客数十組が待っていたので待つこと20分 ようやく入店して「どぜう鍋」を満喫 いざ浅草寺へお参りに 雷門の入り口はまたまた人人人でいっぱいまさに「牛」歩の行進よろしくのろのろ、ぞろぞろ。 仲見世の飾りもお正月 仲見世の飾りつけを眺めながら粛々と歩くこと50分ようやっとご本堂にお参りも お賽銭を遠くから投げるだけの押し合いへしあい 余り多くは願わず「家内安全」のみに留めた引いた御神籤は「末吉」 早々に退散と行きたいところだが お好み焼き、たこ焼き、焼きソバ、などなどのソース味がコートにしみこむほどの屋台屋台でひっくり返りそうな混雑のなかをくぐりぬけ帰途に着きました。待つ、待つ、待つ、まつ、松 「待つ」がテーマの1日でした。 そんな東京のお正月風景から 明けましておめでとうざいます。
2009.01.03
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