朝露に垂れて咲く萩
(子供たちの朝の通学路に咲き乱れる萩の花)
知性を育てる真の学力がなぜ身につかないか。
《ある日の塾風景(テスト勉強)から》
9月ばかり、夜一夜降り明かしつる雨の、今朝はやみて、朝日いとけざやかにさし出でたるに、前裁の露こぼれるばかりにぬれかかりたるも、いとをかし、で始まる「枕草子」(130段)の過去問題を使って、テスト勉強をしていた時のこと、この次の段落は、
すこし日たけぬれば、萩などのいと重たげなるに、露の落つるに枝のうち動きて、人も手ふれぬに、ふとかみざまへ上がりたるも、いみじうをかし、と言ひたることどもの、人の心にはつゆをかしからじと思ふこそ、またおかしけれ。
この本文の下には、口語訳がつけられており、その現代語訳と照らしつつ問題を解くのが、公立高入試の定番なのであるが、
中学生たちは口々に「何を言っているにかさっぱりわからない」、「現代語訳を読んでも分からない」と言うのである。
子供たちの質問の一つに「萩ってなんですか」 があり、全員が「萩」を知らないのである。
さらに、「露」というものを見たことがないと言う。
これでは、枕草子の「をかし」を味わうどころではない。
試験問題の一つに、「ふとかみざまに上がりたるも」とあるが何が上がったのか、原文中の言葉を使って、3字で答えよ。とあるが、情景を思い浮かべることの不可能な子供たちにとっては、答えはちんぷんかんぷんで訳がわからないのである。
最近の子供たちの「言葉」の貧困は、子供たちの幼い時からの実体験の貧困からきており、感性そのものが「変質」している。
いくら言葉を暗記して、その場で覚え、テストで答えたとしても、ここで獲得された言葉は、子どもの血肉となりえず、すぐに忘れ去られてしまう。
蓄積ということが出来ないのである。
今の子供たちはこの意味で、無意味な、徒労だけの勉強に膨大な時間を費やしている。
ただ疲労だけが堆積する勉強である。
学ぶことが子どもの世界を広げ、感動となるような勉強をしている子どもは極めて少ない。
「萩」などは、子どもの通学路に今、咲き乱れている。
部活の朝錬で、早く家を出る子どもは、朝露にきらめく萩に、毎朝遭遇している。
しかし、誰もその萩に関心を示していないばかりか眼中に入っていない。
このような子供の生活のありようは、すべてに渡っており、「学ぶ」子供たちの基盤、土台が作られぬまま、かなり高い知的レベルの学習を強要されている。
中学生の学習に必要な語彙、かなりの抽象度の高い言葉を獲得せぬまま、中学の勉強をしている。
以前の生徒は、教科の学習を通して、言葉を獲得できるものが多かったが、近年の中学生は教科の学習を通して言葉が獲得できないのである。
言葉が貧困という事は、自分の思いを言葉にすることが出来ず、会話が成立しないことにも通じている。
これは、幼い時からの育ち方に関係していると思わざるを得ない。
その親たちは「勉強」の意味を「何点取れたか」に目標を置いている。
学校で「何点取れるか」で一喜一憂して、「勉強」を点をとる事に矮小化している。
それでいて低い点数しか取れない子どもを育てている。
子どもに何を望んでいるのかとても疑問に思っている。
子どもをどのような大人に育てたいのか。
「下流に転落していく階層」が話題になっているが、今まで中流を自認していた大衆は、このままでは、非常に退廃した知性を欠いた群集になるのではないか。
刹那的に楽しく気楽に生きておれば満足している大群が出現するのではないかと危惧せざるをえない。
大学入学も、この階層が目指しているレベルは、何も勉強しなくとも入学を許可する大学が、すでにかなり出現している。
これが少子化高齢社会を担う子どもたちの現実である。
低学力の実態は 2009.07.02
麻生太郎首相の日本語 2008.11.22
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