移民の子たちの日本語教育
先日、名古屋の地下鉄に乗っているとき、保育園児が20名余り乗り込んできた。私の娘や息子たちが幼いとき通っていた懐かしい保育園児スタイルの子供たちだ。思わず声をかける「年長さん?」。「うん」と肯く。「何処にいってきたの?」と私。「保育まつり」と答える。電車に乗り込んだ保育園児ひとりひとりを見回して驚いた。その中の12名ばかり(数えた)は日本人ではない。南米やイラン系の可愛らしい顔、顔、なのである。
私の住む隣の市は、自動車世界一を自慢する自動車の街・豊田市である。その市の西保見小学校は、全校生徒195人中、107人が外国籍の子供たち。特に今年の1年生は77%が、外国籍、大半がブラジル人の子供たちである。
日本の製造現場や、肉体労働を支えている移民の労働者の数は、近年その比率を増している。
日本の外国人登録者数は、07年、年末、法務省調査では215万人を超え、人口100人あたり、1.7人が外国人ということになる。
私の住む地方は、製造業が何層にもなって(下請けのさらに下請け)存在しているので、他の地域に比べて移民比率は高い。
6/29付けの朝日新聞の記事に、移民の子の教育問題をルポしたものがあった。(ルポにっぽん)
豊田市・西保見小学校は、自動車だけでなく外国人教育でも「日本一」と言われる公立小学校だ。
27名の1年生のクラスの国語には、担任の教師を含めて大人が5人配置されており、ひとりひとりに見合ったきめ細かな「ことばの学習」が展開されている様子が紹介されていた。
移民の子供たちの日本語教育の難しさを、現実の場で経験している教師たちが、そのひとつひとつを解決するために、苦闘している現場の姿は、外国語を獲得することの道すじはどうあるべきかのお手本を見ているようでとても興味深い。
とりわけ日本人としての生活習慣や、体験が乏しい子どもたちが抽象語を獲得していくことの困難や、母国語も不安定、未熟なままで、言葉の核となるものが育たず、日本語教育もうまく行かないという現場の発言には、とても頷くものがある。共感する。
日常会話は1~2年で身につくが、学習言語能力の習得には、5~7年が必要だ、と指摘している。
これは、日本に在住して生活している外国人の日本語教育の話であるが、そっくりそのまま日本人の中高生にもあてはまる。日本人でありながら、日本語の学習言語能力が極めて乏しく、とても日本人とは思えない中高生がかなりの割合で存在している。
低学力の子どもが蔓延しているのは、この国語力の貧困にあることは、自明のこと。
日本の子どもたちにも、この移民の子供たちにしているような手厚い熱心な言葉教育を必要としている。
来年度の新学習指導要綱の実施から、小学校での英語が義務化される。日本人が、早期に英語に慣れ親しみ英語力を向上させることは、望ましいことであり、異論はないが、現在の公立小学校の英語指導のあり方や国語教育のあり方をみて、本当に子供たちは、言葉の力を伸ばすことが出来るのか危うい。
公立の英語教育は、どのような英語力を身につけることを目標にしているのか、はなはだ曖昧である。
自分から発信できる深い考え、物を述べる論理性など、子ども自身が持たなければ言葉は、上達しない。そのための基礎的な学力が必要だ。外国の観光地に行った時、買い物したり、道を尋ねたり、「元気?」とか挨拶を交すだけの英語を習得するために、小学校から英語を義務化しようとしているのでは、まさかないと思うが、そのようになる可能性疑いたくなる。
きっちりした思考する言葉、中高の学習に耐える母国語をもたずして、国際社会のなかで、使える英語など身につかないと思うのだけれど。
私が、高校生に英語を教えていて一番困難を感じるのは、それを説明する言語(日本語)を高校生が持っていないということである。説明の仕様がない。説明しても、その説明の日本語が理解不能なのである。
英語で説明したら、もっとわけが分からない。
こんな状態で、子供たちに、どんなレベルの英語を身につけることを国は、目標としているのか。
移民の子供たちの日本語教育には、豊田市の教育委員会は、特別に追加配置した教員5人、指導員4人、国語と算数には全学年に、6年生には、社会科でもこのような指導者の配置をして、教育している。さらに、逆に遅れている子には、数人を「別教室」に「取り出し」して、教えるという手厚さなのである。さらに年2回、日本語力テストで理解度を調べ、指導法を個別に決める検討会があるという徹底ぶりである。
このように、丁寧な指導をしても、日本語力がついたと思って、「取り出し」指導をやめると、「授業をみんなで聞くのは難しい」という能力にとどまってしまうという。
これは、日本人の子供たちにもあてはまる。「中位」ぐらいの高校から下の学力の子供たちは、ほぼ「授業をみんなで聞くのは難しい」日本語力しかない。高校や大学で授業が成立しない原因はいくつかあるが、そのひとつに「授業をみんなで聞くことが難しい」国語力にあることは、確かなことである。
この移民の子供たちに、なされているような手厚い言葉指導こそ、日本の子供たちに、今一番求められていることである。高いレベルの日本語を身につける教育、これこそ、これからの社会の主体者として、生きて社会の構成者になるためには必要なこと。そのような個人の育成なしに、民主的な社会など出来ないし、豊かな国を創造することは出来ない。
移民の子どもたちが、日本の社会のなかで、生きていく能力を形成する教育の精神こそ日本の子供たちにも通ずるもの。そのための手厚い教育予算をくむことが必用である。あまりにも貧しすぎる日本の国の教育費。
今の子供たちに何が必要なのか。何が子供たちの成長を阻む原因か。現実に即した解明こそ必要である。
英語教育も、この点での子供たちの現状を踏まえて、方針や目標を立てるべきではないか。
低学力の実態は 2009.07.02
麻生太郎首相の日本語 2008.11.22
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