日々草

日々草

2009.04.26
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カテゴリ: 老いを生きる
生ききって満足して死んでいける人生とは
ペットと人間の医療を同じにしては問題かもしれないが、最近、私は父の死に遭遇した。その父の闘病と死直前の1週間の入院生活。
その前にわが家の愛犬ユメの腫瘍に最悪の場合を宣告され、すぐ手術しないと、ダメだと宣告されていた。
ともに、この2つのケースの共通項は、老いているということである。
老いと病気。
このような場合、医療機関とどうかかわることが、生き物としての生を全うするにふさわしいのか、命の尊厳を守ることなのかについて、あれこれ思い悩み考える機会を与えられた。そのような思いにいる時に出合って本が、中島みちさんの次の本であった。
中島みち(著)    「尊厳死」に尊厳はあるか    岩波新書
 2006年3月、富山県の射水市民病院で入院中の末期患者7人の人工呼吸器が取り外され、死亡していたことが明らかになった。マスメデアは、この人工呼吸器取り外し事件の実行者のX外科医師を「尊厳死」の実践者として祭り上げ、センセーショナルに取り上げた。
しかし、実際には病院のなかで何が起きていたのか?
著者・中島みちさんは、1年4ヶ月にわたる厳しい取材の末にたどり着いた現状を、この本のなかで、事実を積み重ねて、丁寧に追っている。
なかでも、人工呼吸器取り外しされた7人の患者ひとりひとりのカルテの分析、どんな医療が行なわれていたかの事実の解明の部分に全体の3分の2ほどを費やしている。
その一つ一つの事例のなかには、その当時、この医師によって行なわれていた高齢者患者に対する医療の現実に私は思わず「なんてひどいことを」、高齢の末期患者の「苦しみ、痛み」を思うと胸が張り裂けるほどであった。
要するに手術好きの医師が、外科病棟を取り仕切っていることによって起きていた医療の「退廃」をそこに見るばかりだ。患者の家族たちも、この医師の言うまま、医師の言葉に「ご無理ご最も」と納得している。まぁ、これは田舎によくあることではあるが。
自分で無用な手術を繰り返し、自分の都合で人工呼吸器を着けさせ、自分の都合で呼吸器をはずしていただけの現実なのである。
このような現実に、何も声を上げない周囲の医療従事者。
マスメディアには、この医師は「尊厳死問題に一石を投じた赤ひげ医師」として登場、院長や市と闘う姿勢を鮮明にした。
マスメディアは「尊厳死」の話題性にとびついて、連日センセーショナルに取り上げた。それによって、「尊厳死法制化」をめぐる動きにまで発展したのである。
この射水市の「人工呼吸器取り外し事件」の事件の真相が明らかにされないまま、ただ「尊厳死」という言葉だけが、ひとり歩きしているのである。
この事件のなかには、今の医療が抱えている問題、現代社会の私たちの病にたいする問題などすべてが含まれている。
真相を明らかにするとなしに「尊厳死」など語れない。
むしろこの医師やマスコミが騒いでいる「尊厳死」は尊厳な命の終末を意味していない、ということをこの『「尊厳死」に尊厳はあるか」という本の中で、中島みちさんは告発している。
 私の父の場合であるが、この本を読んで、改めて「あっぱれな死」であったと再認識した。
死の1年前、2008年3月 父は、解離性胸部下行動脈瘤57mm、腎動脈下腹部大動脈瘤47×57mm が見つかった。
この時の診断は、手術する危険と、このまま放置して残された命を生きていくかの選択肢を示された。医師は術後の危険、大変な生活を考えて、何もしないほうがより良いということを参考意見として述べた。しかし、選択は、本人家族にまかせる。といものであった。

この時点で、すでに父の受けた医療行為は、「人工呼吸器取り外し事件」の外科医師よりは、高レベルなものであったことは幸運なことである。

この時、この事件の医師なら、手術をするのである。

さて、父は、その後1年間、普通に生活しながら、闘病した。
最後まで自分に与えられた仕事をやり抜こうとするその意志の強さ、頑固さには、周囲のものも半ばあきれ、半ば迷惑に思っていたが、今から思えば、誰にでも出来ることのない、あばれな生活ぶりであった。
さて、死の1週間前、脳内出血が起きて入院した。
この時、父のベットの姿に私は少なからずショックを受け、このまま、ずーと何年もこのような状態なら、たまらないと思った。
しかし、残された機能をフルに回転させて、みんなにつぎつぎ別れの挨拶をして、し終えたら1週間目に静かに息をひきとった。入院に1週間は、皆に別れを言うためのものであったのだ。
周囲の者たちは、このような状態ではまだ死なないというので、のんびりしていたが、あっというまに逝ってしまった。
私が見舞いに行った時、たまたま主治医の往診に出くわしたので、父の病状について、談話した。
そのとき、私は、娘として、その若い医師に「これは、私自身についても思っていることですが、穏やかで静かに、自然に最期を迎えることが願いなので、過剰な医療はやって欲しくない。痛みなどで、苦しい場合は、緩和する治療はしてほしいのですが、とにかく、おだやかに最期を迎えたい」といったら、若い医師は「まだそのような時期ではない。これこれの治療をまだしなければならないが、もう治療がないという段階では、そうします」と言ってくださった。
私のこの言い分がどのような影響があったかは定かでないが、父の入院した病院は、まあこの点でも、全うな医療を追求している病院であった。今の病院のレベルはこれなのか。
(私がこのように医師にとっさに言えたのは、愛犬ユメの獣医師が、やたらに手術したがり、患部だけしか診ていない医者だったので、色々疑問感じ、悩んでいたので、人間界も同じことが起きているのではと思っていたからである。)
いずれにしても、父の直接の死因は肺炎であった。
最期まで、自らの意思で生を選びとり、死を自らの力で呼び込んで、静かに眠っていった。
なんというあっぱれな死。 父の死。
これこそが「尊厳死」ではないか。
私もこの父に学んで、死を自ら選び取って死ねるような「生」を生きて生きたい。
それに比べ、「人工呼吸器取りはずし事件」に登場する、高齢者の患者ちの最期は、医師の勝手によって傷つけられ、失敗し、治らず、人工呼吸器を取り付けられ、さんざん無理に生かされて、のた打ち回って苦しみ最期を迎える。まさに、生き地獄。
それに対して、有難がっている田舎の人の良さ。無知さ。

これを「尊厳死」と騒ぎ立てているマスゴミ。

一人ひとりの死を法律で線など引けるのか?
この中島みちさんの本は、私たちに今の医療の現実と命の尊厳とは何かを深く考えさせてくれる。





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最終更新日  2009.04.27 22:30:53
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