最近出合った低学力の子供たちは、ほんとうに低学力なのか?
先週から今週にかけては、中学、高校ともに、1学期の期末試験期間となり、この婆さんも子供たちとねじり鉢巻で勉強いている。まさに、数学、英語、はたまた国語と教科勉強の頭をフル回転、脳の血管が働きすぎて破裂するのではと思うほどである。老い行く身にはこの頭の使い方は応える。過度の局部疲労は禁物禁物。
最近の大学、とりわけ地方の私立大学には、恐ろしい程の低学力の子どもがどんどん入学している。定員を充足させるためには、なりふりかまっておれず、指定校推薦という名のもとに、まったく大学の勉学に耐えない生徒もスイスイと合格させている。
私の所にも最近、今まで経験したこともないような低学力の子どもが、抜き差しならぬ状態に陥り、やって来ている。
私は、子どもたちが、知識不足で点数が取れないことは、余りたいした問題ではないと考えている。ないものは、いくらでもその気になれば補い身につけることができる。他人より遅いか早いかだけの差異である。
例えば中3生で、少数の割り算や分数計算(通分ができない)、掛け算の九九も覚束ないとなれば、そのつまずいたところまで遡ってやり直せば済むこと。(今までのこどもはそれで十分挽回して、立派に生きている)
しかし、最近出会っている低学力といわれる子供たちは、以前のそれとは、少し様子が異なっているように見える。
このような子供たちに出あって、私が驚いたことは、彼らは学力が低いということではなく、知識を溜め込む脳を今まで働かせた経験がなく、ほんの少しの作業(10分ぐらい)で、ぐったりと疲れてしまい、先に進めないということである。
プラクティスが全く出来ないのである。
今まで、この子供たちは、生活の全般にわたって、その年齢に応じた困難を自力で切り抜けた達成感を経験したことがないように見える。その精神的高揚の体験がほぼないと言っていい。
幼いときからの達成感や充実感の高揚した精神の積み重ねが、子どもを人として生きるときの粘りや忍耐力を育てている。そのことが、中学生レベルの子どもなら、乗りきることができるであろう困難を乗り切るエネルギー(気力)にもなっている。
このような生育過程を全くといっていいほど踏んでいない子どもたちが大量に存在し始めている。
スポーツも疲れる、面倒くさいといってやらないし、家事労働をしたこともないし、友達とぶつかり合って思いっきり遊びほうけた経験もほぼない。大人たちに与えられたものを一方的に享受する、結構な身分で幼い時をすごしている。好きなものだけを食べ、まずいと言って捨てること平気。欲しいものは、黙って待っておれば祖父母や親があの手この手で用意する。
幼い時期をこのように大人たちの消費的刹那的な生活の付録物として育ってられてきた子どもたちが、今、育ちそびれて、とても人間の精神構造とは、程遠い状態に置かれている。
しかも、社会のなかで層となってかなりの量存在している。
私が出会っている子供たちは、まだ比較的恵まれた子供たちだ。
崩壊した現状を構築し直そうと必死な大人たちが周りにいる子どもたちなのだから。
現実には、貧困と結びついて更なる悲惨で困難な状態に置かれている子供たちがかなりの数いるということだ。
彼らの得意分野はモノにたいする知識である。商品知識である。しかも、その知識も世間がコーマシャルしている程度のもの。ゲームやパソコンのサイトでは遊んでいるらしい。これが唯一の彼らのやっている生活といえる。
親のどちらかも、だいたい子どもと似たような生活をしている。親自身が幼児的なのである。順風のときは、これでやってこれたが、自分の親が死亡したり、生活が立ち行かなかったりすると、たちまちにその若夫婦の生活は行き詰まる。破綻する。
義務教育は、このような低学力の子供たちの問題を深く掘り下げ、それに見合った学習計画を立てて教育活動を行なうべきではないか。
通り一辺に「わからなかったら聞きにきなさい」式のやり方で、解決できるほど単純ではない。
何が分からないかも分かっていない子供たちに「質問に来なさい」では、なんの解決にもならない。
深刻な社会問題がそこには横たわっている。
極めて、21世紀的な問題であり、爛熟した資本主義社会がもたらしている問題でもある。
子供たちはここまで追い詰められている。
マイケル・ジャクソンが最近死んだ。
この天才的な才能の持ち主が、最期はあのように醜悪な容姿になって死へと向かっていかざるを得なかった悲惨は、何か今の社会の底辺で痛めつけられている子供たちの心と通じているものがある気がしてならない。
麻生太郎首相の日本語 2008.11.22
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