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知っている音楽家がSNSでこんなことを言いました。「パラリンピックの開催に反対します。」なぜそうなのかわかりませんが、五輪と同様に感染を広げるということかもしれません。五輪が感染を広げるのではなく、感染するのは集まった人の意識の問題です。五輪で感染が広がるのであればコンサートはもっとできません。自分が感染したらどうしてくれるんだという意識で他を批判する輩は多いようです。政府批判も多いですが、政府のいうとおりに予防して感染していない人がどれだけ多いか!仕事の都合で人との接触を続けるか自重するかは本人の自由です。自分が感染したくないから人に自粛を強要するのはダメです!仕事だからやむを得ない状況で感染してしまうこともあるでしょう。しかし、自分は仕事の都合で動くけれども、人流は抑制しろというのはおかしな話です。感染しておいて感染が広がるのは政府の対策のせいだというのもおかしいです。テレビのロケは仕事だから許されると言いたいのでしょうが不要不急だと思います。仕事であろうがそうでなかろうが不要不急は人それぞれで、工夫できのであればすべきです。テレビのコメンテーターは誰もが想像できるような予想や批判はする必要がありません。医師は不安を煽っている暇があれば一人でも多く人の命を救うべき時ではないでしょうか。前にも書きましたが、世の中は矛盾だらけです。仕事上で感染しても顧客を濃厚接触者だとは言えないでしょう。2週間も仕事を休んだら失業や廃業する職業はたくさんあると思います。綺麗事ばかり言っても現実はそうではないのです。こんな世の中でも本当に逼迫していて筋の通った現実があれば皆協力するはずです。医療従事者や潜在看護師が新型コロナ現場に向かわない理由は何でしょうか。テレビ局社員であっても自己実現は感染しないことではなく他にあるのです。感染者数は減りつつありますが、メディアはまた次の不安を煽ります。全ての病気においていつ重症化するかなどはっきりしたことはわかりません。ですから、ある程度の年齢になれば皆生命保険や医療保険に入ります。重症化することは不幸な出来事ではありますが、他者のせいにはできないと考えます。基礎疾患や持病持ちの特にお年寄りは生き甲斐を我慢して自己管理しています。五輪はもとよりパラリンピックを見て非日常的な感動は絶えません。出場している選手も自分の生き甲斐をかけて準備してきたわけです。何が起ころうがいきなりやめろと言える権利は誰にもありません。開催した日本への芸術的なリスペクトの数々に生きていて良かったとすら思います。
2021.08.31
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自分が必要とされるかどうかは自分のいる環境によります。人は他人のことを印象として捉えてはいても積極的に知ってはくれません。第1印象が変わる瞬間は一つの出来事で変わることもあります。どのようなシチュエーションで最初の出会いが起きるかも重要です。まだインターネットが殆ど普及していなかったパリに住んでいた1995年頃のこと、日本から続々と友人や知り合いがパリを訪れてくれました。また、自分もヨーロッパの国々をあちこち訪れていました。気がかりはいつも行った先々で言葉が通じるかどうかでした。ある時、職場(大学教員)の先輩が1人でパリに直接来られました。数日間共に観光をしましたがその後に、その方の日本の友人夫婦が合流するということでした。イタリアから電車でパリまで来る旅行は日本人の中でわりと流行っていました。主要な観光地でツアーを組むことはスリに気をつければ何とかなりましたが、都会を外れて自力で旅をするとなるとその国の母国語以外は通じなかったり、レストランも店もない、ホテルもあまりなく電車は数時間おきにしか来ず、TGV以外は時間どおり走らず重要な乗り越えがうまくいかないなど茶飯事でした。イタリアから乗り継ぎでパリにやってきた日本人が、ボロボロになり泥のように疲れ果てているのをよく見ました。その時に会った夫婦もいろいろあったようで疲れ果て初対面なのに不機嫌でした。自分を見て、世話を焼かせそうな変な奴がいるくらいに見られていると感じました。とりあえず4人でレストランに入り、そこで先輩が自分を夫婦に紹介してくれました。パリに住んでいることを知った途端、夫婦の自分に対する態度が豹変しました。フランス語が話せるかどうかは一般的なレストランでは死活問題になることがあります。その不安が払拭された途端に、機嫌が直り敬われる存在に一気に変わりました。自分としては最初の見られ方に悲しくなってしまいましたが、フランス人と普通にコミュニケーションできるかどうか緊張するのは変わりません。実際は人によるわけですが、相手はこちらを見た途端にすでに印象を持っています。日本人を好きか嫌いかはそれまでに会ってきた日本人の印象にも影響されます。当時、フランス人が日本語を話せるとはまったく思っていませんでした。しかし、パリ三越のフランス人の店員さんが凄く流暢に日本語を話した時の感動、日本人同士でレストランに入り前菜のアンティチョークの食べ方がわからず、どうやって食べたらいいんだろうねと話していたら、隣のテーブルに座っていたフランス人ファミリーが日本語をわかる人だった時、パリ市内で歩く速度が少し遅かったり、ぼっ〜としていると「パルドン」と、自分の後ろからはっきりした口調で言われて道を譲ることが多い時に、日本人のように優しく「パ〜ルドン」と言われた時、とてもホッとして和めるのです。人はプロフィールや写真、また会った途端に概ねの印象を持ちますが、ちょっとした一言が印象を一変させることがあります。自分は何もしていないのに何故か酷い扱いを受けやすいことがよくあります。そんな時こそ言霊で起死回生をはかれるようにしたいと心がけています。
2021.08.29
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少人数であっても組織ができればルールが存在します。しかし、ルールがあっても守らない人、基本的なルールやマナーを無視する人、なぜそのようなルールがあるのか考えない人が増えてきたと感じています。「守っても意味がない」と安易に感じることが大きな要因です。例えば、「日本はなぜロックダウンできないのか」と漠然と考えていたり、基本的な自由を奪うことを容易く言えることはすでに毒されていると思います。遅刻をすれば弁解することよりも、まずは待たせた相手に謝ること、約束したことがそのとおりいかないとわかったら直ちに連絡するのがモラルです。このようなモラルはある程度の年齢と経験を重ねることで身につくこともありますが、 高齢者の運転をはじめとして良識のズレで糾弾されている現状があります。しかし、その老害がはっきしている代表はテレビに昔からよく出ているタレントで、それとは別に今の時流に乗っているお年寄りはもっと他にたくさんいます。東京五輪は素晴らしいものだったと思います。そこに垣間見られたのはこれまでのルールとVRによる確認との闘いでもありました。今後の世の中で人がAIに取って変わられるとすれば審判は早いと思われます。また同時に昔のルールをどのようにより良くしていくかもたいへん重要な課題です。「柔道」は、これまでのルールを新たに変えたことにより注目されました。通常の審判とは正面から別の審判団が主審に物言いをつける厳格さが印象的でした。また、主審がVR判定を求めたり、怪しい判定は審判団がVRで確認していました。主審の判定が結構覆りますが、これは過去に誤審がいかに多かったかを表しています。「バレーボール」は、ワンタッチとタッチネットというネット側の反則について、もはや動体視力では判断がつきかねるにも関わらず今まで審判が判断してきました。五輪では審判に対する抗議として”チャレンジ”ができVR判定で確認できますが、その回数は限りがあり柔道よりも審判のジャッジが優先されます。今までは選手は反則をしたとしても自分やチームに不利になる申告はせず、審判が気づかなければ自分たちの有利になる判定に従っていたと言えます。この習慣は子供の頃から知恵として、モラルの形成に大きく影響したことでしょう。しかし、今ではVR判定によって黙っていても暴かれてしまうのです。米大リーグや日本の「高校野球」はすぐにVRが映し出されても審判が絶対で、例え判定が間違っていても審判の判断は絶対だと教え込まれるわけです。また、今回の五輪から採用された「空手」はまず技の有効か無効かが分かりにくく、中継解説者の解説が拙いために判定の尺度が視聴者に伝わりませんでした。「フィギュアスケート」「アーティスティックスイミング」は技の難易度で採点されますが、音楽の質やチョイスが幅広く、音楽との同調性や芸術的表現をどのように採点するのか?「バレエ」「ダンス」のような音楽との同調性は全く期待されていないと感じます。だから採点基準の明確さが必要で、技の難易度とその確かさで評価されてしまいます。では、音楽ではどうなのか?コンクールで感じることは、審査員がよくわかる選曲が好まれるのです。音楽的であっても半音でのぶつかりが多かったり斬新な表現があると、楽譜どおりなのかミスしたのか審査員がわからないので好まれないのです。規定の演奏時間にはまるように曲が当然のようにカットされたりもしますが、それは採点の対象には入っておらず、あくまで響かせ方やピッチなど演奏技術が対象です。しかし、芸術性の評価が伴わないのであればカラオケの採点と同じでAIのほうが正確です。審査員や審判は芸術性を問わないのであれば、人が行わないほうが公正なのです。
2021.08.26
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あれだけ五輪反対してたんだからパラリンピックも反対するんだよな? 多様性だのマイノリティだの普段言ってる口で障がい者スポーツを邪魔して見せろよこれは1週間ほど前にTwitterに投稿された朝のワイドショーに向けての批判です。あまりにも的確な指摘だったので引用しました。五輪は感動する瞬間がいくつもありました。開催できて本当に良かったと思います。ウイルス対策であるバブルについて何かと批判が集まりましたが、反省するのであればそこではないと思います。今回は開催を踏み切ったIOC、日本政府、東京都、ボランティアが素晴らしいです。メダリストが自画自賛することは控えめが良かったと思います。「子供たちに夢を与えることができてよかった」と言うのではなく、反対も多い中「開催していただいてよかった」ことに尽きる気がします。もう少し書くと「子供たちに夢を与えることができてよかった」は、今時の日本人のコメントであって海外の選手が日本の五輪で金メダルをとっても、そんな大それたことを言う人はいない気がします。もっと海外の人の温かくも率直、だから伝わるコミュニケーションを見倣うべきかと。「多様性と調和」と言うテーマから考えると何でもあり感がありますが、例えば、開会式のジャズピアノと歌舞伎のコラボも多様性はあっても調和したかは疑問です。また、閉会式での日本の伝統的な古式舞踊が鎮魂に結びつくとは日本人の多くが知らず、最後は応援歌の東京音頭に繋げる構成でしたが、趣向が地味で偏りを感じてしまいました。閉会式でもっとも印象に残ったのは次期開催国フランスのVTRです。日本の演目と何が違うかと言えば国際的な明快さです。誰が見てもいいと思ったのではないでしょうか。残念ですが、日本とフランスの違いの比較ができてしまったと思われます。話をもとに戻して、パラリンピックへの反対が聞かれないのはなぜでしょうか。新型コロナウイルスの感染者数はオリンピックの時より3倍になっています。それにも関わらず開催の可否についてメディアは触れずSNS上だけのようです。どんなに選手をリスペクトしたとしてもこの差はおかしいと皆が思うでしょう。
2021.08.15
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今日の上室性頻拍の発作は結構大変でした。いきなり血流が止まるような感覚から軽い目眩が合図です。いつもは♩=200くらいの細かい頻拍ですが、今日は♩=180くらいでいつもよりアクセントがついていました。迷いなく頓服薬をすぐに服用しましたが、あまりにも辛いので効くまで横になりました。血圧や体温がかなり下がるのですが、今日は最初暑かったです。身体は徐々に楽になるのですが、頻拍が治らないとやはりきついです。早く治らないかなあと考えながら病院に行こうかとも考えました。なぜか発作が起こるのは土日が多く、病院に行くと休日扱いになり行っただけで1万円です。もちろん救急車を呼ぶのですが、今時は来てくれるのかわからないなど考えが巡りました。最近は長い我慢が効かず、しばらくして頓服薬をもう1錠飲む決心をしました。2錠目を飲むことは今までありませんでしたが、「もういいや」と。「これでどうだ」とばかりに飲んで横になった瞬間、突如として平静を取り戻しました。う〜ん、もう5分我慢していれば飲まなくても治ったんだろうかと少し反省。今まではドク、ドク、ドクって耳障りだったのが、治ると突然何も聞こえなくなります。このギャップがちょっとした達成感というか、それまでが嘘だったかのように感じます。いつも何をしたと言うの?と自問自答するくらい発症する原因がわかりません。確かに最近はストレスを感じる出来事が続いていました。だからヤケ食いして食べ過ぎ。おそらくこの両方が心臓に良くないのではないかと言うのが、今のところの結論です。薬を2錠消費したのは、また早く行きつけの病院に行く理由ができて実は嬉しいです。行きつけの病院に行けると嬉しいっていったい何と思われるでしょうが、以前にも書いたとおり好きな病院には少なくても自分の敵はおらず味方ばかりです。例えば、こちらが客であっても若者の店員はとても強かに接してくるように感じます。今までの教員経験が長すぎて、その裏を感じてしまうことは不幸なのかもしれません。新型コロナウイルスワクチンを打つかどうかは随分考えました。これまでの経験から言って感染することはないと考えています。また、副反応としてアストラゼネカ製に多い血栓ができる症例はかなり嫌です。感染しないと分かっていればワクチンを打つ必要はないのですから。それでも人と会うためには摂取するべきなのだろうと考えました。目黒区は医療機関ではない接種会場がたくさんあるのですが、自分としてはどうしても病院での接種を希望したために、予約がなかなか入りませんでしたが、やっと入れることができました。2回目は何と10月ですがそれでもよかったです。感染することよりもワクチンの副反応の方が怖いので、何かあった時でも病院であれば処置してくれるものと信じています。自分にとってワクチン接種の意味はそこにしかありません。
2021.08.14
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以前から書いている現況の根本的な話ですが、新型コロナに感染するのは止むを得ないが、感染拡大するのは政府の責任、というのがおかしいと考えます。さまざまな感染症や病気があるなか、なぜ今回は自己責任ではないのか。以前から書いていますが、感染するのは個人の意識の問題です。感染したら仕事上致命的となる人はたくさんいると思います。ただ、感染とは隣り合わせながら仕事をしている人もたくさんいます。そういう仕事をしているから感染も止むなしと考えている人もいるのです。ですから、例えば政府要人や知事は感染するわけにはいきません。日本だと責められます。海外では責められていません。日本では感染の責任を問われるために感染を抑制する発信をしているからです。そして、制限が与えられやりたいことがやりたいようにできない人が生まれます。それでも制限をされた中で仕事を全うしようとしている人がたくさんいます。その人たちは逆境の中で仕事を全うしても誰からも報いられません。若者は夢を抱いたにも関わらず制限を受け入れ中断せざる状況にあります。しかも感染したら全てが消え、職や前途を失うことになりかねない人もいます。だから、何かをやり遂げた時にせめてその祝杯をあげたいのではないか、自分たちがいなければ成しえなかったにも関わらず、それは当たり前に見られているのです。厚労省の官僚、テレビ朝日番組スタッフ、いずれも上層部は世間を批判する中、最前線の人は仕事上とてつもない重責を負っているのではないでしょうか。そういう人たちは自分が感染するわけにはいきません。例え宴会をやっても感染はしない自負は持っていると考えられます。それよりも感染が自己責任として捉えるならば、例え会社の方針であったとしても、感染した局アナが人流や路上飲み、一般人を批判することはできないと思います。今ある成果は自分の献身的な努力がなければありえなかったと確信する傍ら、それを評価してくれる人がおらず、全て上層の手柄として認識されていく世間に、自らを自らで供養する人たちがいて、図らずもそれが切り取られたことの悲しみを感じます。できるエリートたちが意味なく馬鹿騒ぎをしているとはとても思えないのです。美学
2021.08.11
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五輪2020のテーマは「多様性と調和」です。これは1970年の万博「人類の進歩と調和」に似ていて、ちょうど50年の時を経て新たなテーマが設定されたと言えます。組織委員会が設定した「多様性」の趣旨は下記のようなものです。人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩。「多様性」が広く受け入れられることはいいことだと思います。これまでも言われてきたことですが、いつまで経ってもなかなか変わりません。若い頃についた価値観というのはなかなか変えられないこともあります。頭では理解できても多くの人は一度ついた好みを変えることは難しいです。例えば、同窓会という集まりも今と昔では随分変わりました。会えばタイムスリップしたような心持ちですぐに旧交を温められます。しかし、数十年前と今では世の中のあらゆる価値観が全く変わってしまいました。「昔は良かった」というのと「現実を生きる」ことは相反することなのです。時代の価値観があまりにも速く変わるため、もはや世代間の一致も難しいです。つまり、さまざまな世代が集まること自体が難しくなったと言えます。「多様性」をどのように受け入れるかということは世代によっても異なり、中高年は好みではなくもっともっと頭で時代を受容しなければなりません。例えば、五輪に向けての女性蔑視発言による要人の交代劇においては、言った本人は悪気は全くなかったのだと思います。一方で、河村たかし名古屋市長が金メダルをかじったことのほうが、弁解しようのない失態を出してしまったと感じます。また、五輪開催に反対していたコメンテーターがメダリストのレビューをしていますが、TBS系「サンデーモーニング」での張本勲氏の発言は問題だと感じます。「女性でも殴り合いが好きな人がいるんだね。嫁入り前のお嬢ちゃんが顔を殴り合ってね。こんな競技好きな人がいるんだ」理解し難いことを堂々と言う中高年はたくさんいて、それを見た若い世代は、時代についてこれない中高年をひっくるめて軽蔑するのです。逆に「若い世代に希望を与えたい」などと今風の自慢をする人々もたくさんいます。いずれにしても、世代間の壁はますます高くなっていると感じています。話が全く噛み合わないのは最近の「感染者の入院基準について」もそうです。病床を増やせるかどうかは医師会が主導すべきで、それが一気に増えないために重症患者から優先して入院する基準をつくろうとしたわけで、意味を考えればそんなにめくじらたてて反論することではないと思います。以前にも書きましたが、皆が感染を本当に怖れていれば人流は減るはずです。報道されていることに疑念を抱くのは社会が信用されていないからです。強制的に人流を減らすために日本でのロックダウンを提案する議員がいますが、日本が頑なに守ってきた自由と平等の精神を崩そうとするのはありえないと思います。五輪を開催したからと言って感染拡大はしていないと思います。五輪を開催していなかったら、「開催していたらもっと酷い状態だった」と言うでしょう。数ヶ月前、ワクチン接種が遅れているから感染が収束しないと言われていましたが、感染は拡大し重症者数も増えてきています。死者数は減ってきているようです。さまざまな考え方があっていい(多様性)と言っても調和することは難しいです。口で言うのは簡単、どうすれば結果を出せるのかを示してもらいたいです。ワクチンさえも不安を煽られたため、接種したくない人もいます。それは米国でも。前向きな案が出ても取り合われることがないことはよく見れば子供でもわかります。ただ、五輪は本当に素晴らしかったと思うのです。五輪反対の勢いが日本国内のみならず強く、極端な行動規制が強いられる中でも、それらを理解したうえで各国の選手は開催した日本をリスペクトしていました。この意味の深さを日本人よりも理解していたことは見事な調和だったと信じます。
2021.08.08
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オリンピックの選手たちを見て日々感動に浸っています。この日にかけてきたものが言葉からも伝わります。また「開催していただきありがたい」という言葉がよく聞かれます。人生をかけてここまで準備してきたことですから気迫も伝わります。また、選手らは感染対策にはことのほか注力してきたはずです。個人であっても国の代表ですからもし感染してしまったら、惜しくも代表選手に選ばれなかった選手に対して顔向けできなくなります。以前にも書きましたが、意識が高ければ感染は防ぐことができると思います。意識や免疫力が高い選手や指導陣、審判が感染することはほぼないはずですが、PCR検査の気弱性によって陽性が出ることがあるかもしれません。しかし、それでも著名な選手が感染したために出場できなくなったとか、五輪が原因で東京に感染が広まるなどということは当初から考えにくいです。スポーツでは密集や接触、人の距離を保てないことはしばしば見て取れます。五輪が特別ということではなく、他の全ての競技で同様のことが起こっているでしょう。感染に最大限の配慮を行い、全ての人が自分の目標に向かっているのです。このような生き甲斐を誰がやめろと言えるのか、まったく疑問でしかありません。五輪開催を反対した蓮舫氏、枝野幸男氏、メディアの人たち、今は選手の勇姿にエールを送っています。これはおかしいと鈴木宗男氏は息巻きます。「平和の祭典オリンピックは、国民の安心、安全を考えた上でスタートしたわけですから、日本の底力として成功させる。」各所の人流について増えているという報道が増えています。各放送局やメディア関係者は数万人規模でもっとも移動をしている職種です。五輪開催に反対していた人が始まった途端に五輪を取材することもあるでしょう。しかし、仕事だから移動は仕方ないということ理屈は通らないと思えます。現在、首都圏では第5波と言われる嘗てない感染者が出ていますが、これは五輪を行ったからでしょうか?緊急事態宣言の発出が遅かったからでしょうか?ワクチン接種が遅れているからでしょうか?人流が増えたからでしょうか?路上呑みが増えたからでしょうか? どれも違います。答えは感染に対する意識が薄れタガが外れてしまった状態となったからです。嘗て学生がそれほど積極的には取り組まない理論系の授業をやっていた時の話です。30人程度の授業を行い注意事項を説明する場合、10人程度が真面目に言うことを聞き、10人程度は周りの様子を窺っていて、あとの5人は関係なくマイペースです。では、残りの5人はどうしたのでしょうか。そこにいないのです。実はいちばん話を聞かせたい相手に話が伝わらないのです。結局、真面目にやっている学生は問題ありませんが、様子を窺っていた学生は、その日の経過と共に注意を守らなくても何とかなると考えるようになります。新型コロナウイルスに感染しないようにすることが人生目標という人は極めて少なく、基礎疾患のあるお年寄り、または感染すると立場を脅かされる職種の人です。若者は別の目標がある中で周りの言うことを窺いながら行動を決めていて、いくら注意を守っても成果や褒められることがなく批判に晒されています。それでも真面目な人は何があっても真面目なので感染することはほぼありません。15%くらいの人は感染対策を優先して生きることはないとも言えます。この状況で皆に感染を抑えていくために誰かの批判をしても仕方ありません。成績の優れない人に追い討ちをかけてもこちらを向いてはくれません。対策としては、皆が良い意味で感染しないような意識を高めていくことが全てです。これまでの十数年、子供や若者の夢や目標を上げ持ち上げてきたのはメディアです。その結果、この10年で多くの若者がてっぺんばかりを見るようになってきました。しかしコロナ禍での報道は、必死に夢を追う若者の梯子を外したように思えるのです。
2021.08.02
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