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菊川坂の石畳を下り「間の宿 菊川」へ。4/3(水) 10:39山間の花咲く「間の宿 菊川」へ入る国道473号線のバイパスの橋脚深むし茶の工場10:40高麗橋を渡り暫く歩くと右手にあった小さな堂は『秋葉山常夜燈』。 御堂には、青銅製の秋葉山常夜燈が安置されていたそしてその先左手に、夢舞台東海道道標「菊川の里」。日坂宿 宿境まで一里(4km)、金谷宿 宿境まで十八町(2.4km)10:43菊川神社の石鳥居所在地:静岡県島田市菊川711旧街道を左に曲がると鳥居と満開の桜が迎えてくれた茶畑が広がる東海道道標の先に建屋の壁全面に描かれた『昔をしのぶ 間の宿 菊川』案内絵図が。間の宿(あいのしゅく)は、日本の近世に当る江戸時代の主要街道上で発達した施設の一種で宿泊は禁止されていた。宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設である(一部例外あり)。 宿場間の距離が長い、峠越え等の難路である等、旅人に多大な負担を強いる地勢があると、係る地点には需要に応える形で便宜を図る施設が自然発生的に興るものであるが、その様にして宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設が「間宿」である。ただし、宿場としては非公認であって、公式には宿ではなく村若しくは町とされ、旅人の宿泊は原則禁じられていたので旅籠(はたご)は存在しないし、駕籠や人足、伝馬を扱う問屋場もなかったがあくまでも名目上・表向きの事であった間宿として異例であるが、東海道の金谷宿 ー 日坂宿間にあるここ菊川宿の様に、徳川幕府による宿駅整備以前から存在していたものが何らかの理由で指定から外され、間宿となった場合がある。この場合もやはり、宿泊だけは許されなかったが、大井川の川留めなど諸事情により旅人の宿泊施設が足りなくなった時等は、宿泊が公認された。 尚、間宿より小規模な施設を立場(たてば)と言い、所謂“峠の茶屋”等がそれである。 間の宿のなかには立場が発展したものもある10:45案内絵図の斜向かいに広場が「さんぽ茶屋菊川の里会館店」所在地:静岡県島田市菊川643-2間の宿、菊川。間の宿は、本宿と本宿の中間にあって、人足の休憩所や旅人の休憩に便宜をはかって作られました。普通、2宿間の距離は3~4里に及ぶ時に間の宿を置きますが、金谷宿と日坂宿の間のように1里24町でも、急所難所が続く場合は特別に間の宿「菊川」 が置かれました。 間の宿では、旅人の宿泊は厳禁されていました。川止めの場合でも、菊川では金谷宿の許可がないと旅人を泊めることは出来ませんでした。また間の宿では、尾頭付きの本格的な料理を出すことも禁じられていました。そこで生まれたのが菊川名物の 「菜飯田楽(なめしでんがく)。大井川の激流を渡り、金谷坂を登りきった旅人には、ひなびた里の味でもさぞかしおいしかったことでしょう。なお、下菊川おもだか屋・宇兵衛の茶屋の菜飯田楽は格別おいしかったと言われています。この店には御殿と呼ばれた上段の間があり、尾州家からの下賜品があったそうです宗行卿詩碑 日野俊基歌碑。源頼朝の死後、鎌倉幕府の力が弱まり公家と幕府の対立は表面化し、承久3年(1221) 後鳥羽上皇は幕府追討の院宣を出し軍事行動を起こした。京都方はあえなく敗れ計画に加わった中御門中納言藤原宗行は捕えられ、鎌倉へ送られる途中の七月十日菊川の宿に泊まり死期を覚って宿の柱に次の詩を書き残した。 「昔は南陽県の菊水 下流を汲みて齢を延ぶ 今は東海道の菊川 西岸に宿りて命を失う」承久の変から約百年後の、正中の変で日野俊基は捕えられ鎌倉への護送の途次、菊川の宿で、宗行の往事を追懐して一首の歌を詠んだ。 「いにしえも かゝるためしを 菊川のおなじ流れに 身をやしづめん」 間の宿菊川は史跡とロマンの里である広場の入口に昔を偲ぶ多くの石碑や案内板が設置されていた上記写真の中央の石「菊川由来の石」その昔附近から菊花紋の石が数多く出土されました。その石は菊石と呼ばれて、川の名前を菊川と名付け、地名も生まれました。 白菊姫の伝説による菊石は北之11km位の処にある佐夜鹿公民館の傍にあります金谷宿の昔ばなし』のボード。・「八挺鉦(やからかね)」 (八挺鉦を打ち鳴らして投げ銭を受ける大道芸をする美少年と少女のお話)・「与茂七越し」 (東西の急坂を難なく行き来する与茂七、権七という名コンビの駕籠かき名人のお話)名物「飴の餅」のこと近くで工事中の国道473号線バイパスの案内板も広場から旧東海道を10:49旧東海道を進んでいくと『小夜の中山 登り口』が現れた四郡の辻から僅かな石畳を登った先に『青木坂』の登り口があった旧東海道の道標『歴史ろまんコース』、『小夜の中山』、『火剣山』の案内板が、青木坂の入り口に10:51陸・海・空をつなぐ国道473号線バイパスの工事、遠くに国道一号線10:54青木坂の左の山斜面には茶畑が広がる。登り口からは、これまでの峠ではあまりなかった心臓破りの急坂が続いていた10:56上って来た道を立ち止まり振り返ると11:02更に上り坂が続いていた日坂の宿と菊川の里の境界表示板。すなわち、ここが島田市と掛川市の市境である。ここから先には「小夜(さよ・さや)中山峠」にちなんだ和歌や俳諧の碑が続いていた11:03阿仏尼歌碑。 登り坂の途中にある島田市と掛川市の境標を越えると右手の民家前に鎌倉中期の歌人 阿仏尼の歌碑があった碑には、阿仏尼が記した紀行文 「十六夜(いざよい)日記」 の一節 。『雲かかる さやの中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月』 。雲のかかる 小夜の中山を越えたと、都の子供らに伝えておくれ、有明の月よ11:06更に坂を上り、坂の左手は緑一色の茶畑が広がっていた11:08急坂を登って行くと、左手の木の間に鎌倉時代の歌人衣笠内大臣の歌碑があった。衣笠内大臣(きぬがさないだいじん)歌碑『旅ごろも 夕霜さむき ささの葉の さやの中山 あらし吹くなり』。旅姿に夕霜が身に凍みるここ小夜の中山の峠道は一面の笹原で、笹の葉をならして木枯らしが吹き渡ることだよ11:09世界農業遺産「茶草場の里 日坂」右手に『久延寺(きゅうえんじ)』の表示があったので訪ねる11:11久延寺の山門所在地:静岡県掛川市佐夜鹿291 掛川市指定文化財『久延寺境内』。久延寺は、真言宗の寺院で山号は佐夜中山。本尊は聖観音で、昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、子は成長して親の敵を討つことができた。これはひとえに本尊の加護によるものである」という夜泣石の伝説に因み、子育て観音と称される。 慶長5年(1600)、掛川城主山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大坂から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。 右の絵は、天明6年(1786)に尾張藩士 高力種信が東海道の風物を描いたものの一枚である。久延寺とその西に並ぶ飴屋などが描かれていて、当時の風景を知ることができる山門からの、高野山真言宗大学山久延寺 本堂。 天平年間、三位中将良政が勅命によって蛇身鳥を退治して当寺を建立したと伝えられる。 開基は行基菩薩と伝えられるが、戦国時代の度重なる兵火により古文書はなく寺暦は定かでない鐘楼、手水舎、地蔵堂夜泣き石伝説 小夜の中山夜泣石。その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣石」と言った。 傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刀研師の弟子となった。そこへ轟業右衛門が刀研ぎにきたおり、刃こぼれがあるので訊いたところ、「去る十数年前 小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。その後、弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。 文化元年 滝沢馬琴の「石言遺響」より茶亭跡の碑。これは 松平土佐守が、家康を接待した山内一豊の史実を後世に伝えるために建立した茶亭跡慶長5年(1600)掛川城主 山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大阪から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。 関ヶ原の合戦の後、山内一豊は功績を認められ、土佐二十万石に栄転したと山門と本堂11:15久延寺の前の駐車場の奥に在った『接待茶屋跡』からの茶畑鎌倉時代・永仁年間(1300)頃から旅人の求めに応じて茶等を接待し、旅人の憩いの場となっていたという。芭蕉の「馬にねて 残夢月遠し 茶のけむり」の句も この辺りで詠まれたものといわれています11:16旧東海道五分咲きの桜ズームアップ 金谷宿から掛川宿ー続く
2019.06.08
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金谷坂の石畳を登り切り、廻りに茶畑が広がる「旧東海道 金谷坂 石畳下り口」。4/3(水) 9:41明治天皇御駐輦阯(ゴチュウレンアト)所在地:静岡県島田市金谷坂町明治天皇休憩所跡の碑は今までも何ヶ所もあったが、この「輦(レン)」の字を使っていたのは初めてか?。いやこの「輦(レン)」の字は初めて見ました。明治天皇遷都行幸の際、行列を停めて富士の眺めをご堪能された地なのだと。街道は「金谷お茶の香通り」金谷お茶の香通り沿いにある『芭蕉句碑』『馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟(けぶり)』(野ざらし紀行より)。これは芭蕉41歳のときの句で「金谷宿を夜明け前に発って 馬上で夢うつつの状態のとき、中山峠にさしかかる辺りから 茶の香りがしてきて ハッ!と目が覚めた」と。松尾芭蕉は江戸時代の人間なので、この金谷坂の石畳は馬に乗って通る事ができた事になる9:43明治天皇御駐輦阯の碑の先から、牧の原大茶園が始まった。この茶園を明治維新に徳川の旗本や川越人足達が開墾した場所であると。茶葉に霜の被害が及ぶことを防ぐ目的で設置される多くの送風機・防霜ファン(ボウソウファン)が立ち並んでいた。この台地の下をJR東海道本線が走る場所である4月になりお茶の芽も出し、5月の八十八夜には茶摘みが始まる、今年は5月2日!9:46金谷お茶の香通り沿いにある「諏訪原城跡」の案内標識諏訪原城跡(スワハラジョウアト)所在地:静岡県島田市菊川1174番地今年3月23日(土)にオープンしたばかりのビジターセンター。開館時間:10:00 ~ 16:00 休館日:月曜日 入館料:無料施設内には諏訪原城のジオラマ何故か、施設内に掲示されていた「佐柿国吉城(サガキクニヨシジョウ)」所在地:福井県三方郡美浜町 続日本百名城 NO.139朝倉氏の侵攻を退けた国境の城続日本百名城の全てを回るつもりはないがネットで購入した。因みに私は日本百名城は、2016/11/18(金)に岐阜城で全国統一し、1,292番目の登録完了者。所要年数は約3年を要した続日本100名城のスタンプ置き場続日本100名城「146 諏訪原城」国指定史跡「諏訪原城跡」そして正面に深い大掛かりな『空堀』が姿を現した。 武田流の「三日月堀」なのであった外堀が続く石鳥居が正面に諏訪神社武田氏の守護神である諏訪明神を場内の一角に祭ったことから、諏訪原城と呼ばれるが、史料には、城の変遷を示す牧野(原)城・金谷城・扇城という呼称が見られる諏訪原城跡 諏訪原城は天正元年(1573)武田勝頼の臣馬場美濃守氏勝を築城奉行として築かれた 規模雄大は山城であり、当時の東海道武田領の最前線牧之原台地の東北角を占めた 天然の要害であった。遺構は、本丸・二の丸・三の丸・大手郭・帯郭・西の丸・搦手・亀甲曲輪の八郭から成る特徴のある縄張りにより配置形態のうえから「扇城」とも呼ばれた。 自然掘と人工の大小掘が十三本あり、いずれも深くて急斜面を呈しているが、石垣は用いられていない順路に従い、『二の曲輪』『本曲輪』方面に進む大手北外堀静岡県において現在発掘が進められている、興国寺城とこの諏訪原城は、武田氏(興国寺城の場合は北条氏も含む)が静岡県下で活躍した段階と、徳川氏が活躍した段階とで、大きく城の造りが異なっている(具体的には、堀や土塁の大規模化)ことを私たちに示してくれるのではないかと真新しい『史跡 諏訪原城跡』の石碑。天正3年(1575)、徳川家康によって攻め落とされたのち、牧野城と改名され、今川氏真や松平家忠らが城番になった。『家忠日記』には、堀普請や塀普請などの度重なる改修が行われたことが記されている。天正9年(1581)に、高天神城が落城し翌年、武田氏が滅亡するとこの城の必要性はなくなりました。その後、徳川家康が関東に移ったことから、天正18年(1590)頃廃城になったと言われています国指定史跡「諏訪原城跡」諏訪原城は、武田勝頼・徳川家康時代の堀、丸馬出が良好な形で現存し、戦国時代史の過程を理解する上で見逃すことのできない重要な遺跡として国の史跡に指定されている諏訪原城の縄張図 本丸から同心円状に曲輪と空堀を巡らせているが、この「丸い縄張り」こそが武田流上空から見る諏訪原城遠景二の曲輪中馬出(三日月堀)武田流築城術の特徴と言われている丸馬出右側は外堀、一番奥に「二の曲輪北馬出」二の曲輪北馬出の門(復元)発掘調査で確認された門の礎石から復元した。門の形式は薬医門二の曲輪北馬出から望む島田市街地と富士山ズームアップ二の曲輪北馬出諏訪原城の馬出は、広大な台地上からの敵方の攻撃を想定し、台地側にのみ7ヶ所構えられ、すべて半円形で前面に三日月掘を持つ「丸馬出」である。中でも、南北に配置された長さ50mにも及ぶ巨大な2基の馬出が防衛ラインの拠点であった。二の曲輪北馬出は最北端に位置し、南側二の曲輪中馬出と土橋で接続する「重ね馬出」で、北側の防備を固めるために付設された曲輪になる大井川に架かる大井川橋(先週3/27に渡った)二の曲輪北馬出には真新しい門があり、「薬医門」と呼ばれていると。 薬医門を訪れた際には、扉を閉めてみましょうと。 左右の扉を閉めると3cmほどの隙間ができるのだと。この隙間こそ重要で、例えば槍を持った敵兵が扉に迫った時、扉を閉めたくても槍で邪魔をされて、扉を完全に閉められなくなると。しかし、扉の間に槍が入るほどの隙間があれば、槍を向けられても閉扉し、閂を差すことができるのだと。これぞリアルな戦国の知恵!!ニの曲輪諏訪原城は、本曲輪を扇の要にたとえ、扇状に曲輪が広がっているため、江戸時代には 「扇城」と呼ばれることもあった。ニの曲輪は、南北315m、東西約75mの広さを誇る城内最大規模の曲輪である。平成22年度の調査で、ニの曲輪中馬出との通路が土橋ではなく、通路中央が途切れ「木橋」となることを確認した。虎口部分では、城門(間口約2.4m、奥行き約1.5m)の礎石(建物の土台となる石)4ヶ所を、曲輪内の調査では、外堀と平行する土塁の基底部(幅約20m)と土を突き固めた版築が確認されている。ニの曲輪を南北に仕切る土塁は、西側に設けられた土塁との接点で幅約1m弱の大人一人が通れる程度の開口部が検出され、二の曲輪南北間を繋ぐ通路跡と推定される二の曲輪の「東内馬出」「南馬出」「東馬出」の案内板木立の中に諏訪神社大手南外堀諏訪原城の台地側前面に方形に突き出した曲輪が大手曲輪で、その位置や構造から、城の最終段階に付設されたと考えられる。大手曲輪は、大手北外堀と大手南外掘によってコの字型に囲まれ、古絵図では、西側前面に巨大な丸馬出と三日月掘が描かれている。この三日月掘の一部が、発掘調査で確認され、その存在が証明された。現在、大手南外堀の大半は茶園となり、全容を見ることはできない諏訪原城址は広かったので約30分間の城内散策であった。10:15諏訪原城ビジターセンター前にある民家の茶摘み機械。人が乗り自走しながら茶摘み、高さ&幅は調整できるのか右方向の山肌に「茶」10:15金谷お茶の香通りと県道234号線(吉沢金谷線)が交差。正面に「珈琲と雑貨の店 こもれび」。旧東海道はここから「菊川坂石畳」を下る茶畑が広がる「東海道菊川坂、下り口」菊川坂と金谷坂の説明板だが判読しづらく江戸時代、東海道を行き交う旅人たちにとって、金谷の峠越えは、粘土質の山道であったため大変難儀をしていました。このため、近郷近在からの助郷役により、石畳を敷いて旅人の難儀を救ったといわれています。・・・・・・・・・・10:17菊川坂の石畳を下り始める急な坂を下る、確かに粘土質ではたまらないムスカリが咲き10:21茶畑もきれいに、菊川茶の産地旧東海道菊川坂石畳普請助郷役芳名。以上、525名 東海道400年祭「平成の道普請」 平成13年1月21日10:24菊川坂の途中から「間の宿 菊川」を見下ろす、そこから再度上る山並みを望む菊川坂石畳この菊川坂石畳は、平成十二年の発掘調査により江戸時代後期のものと確認されました。江戸時代は、様々な仕事が助郷という制度によってなされましたが、この石畳も近隣十二か村に割り当てられた助郷役の人たちによって敷設されたものです。 この長さは、三百八十間(約六百九十メートル)あったともいわれています。 しかし現在では、昭和三十年代から四十年代にかけての工事により、一部破損されたところもありますが、このように長さ百六十一メートル、最大幅四・三メートルを残しております。かつては、江戸と京都を結ぶ主要な街道としてこの石畳も多くの旅人たちで賑わったと言われ、往時をしのぶ文化遺産として大切に後世に伝えていかなければなりません 島田市教育委員会弥次さんも写真を撮りながら下る10:29石畳を踏みながら菊川坂の急な坂道を下ると、谷底に菊川の集落が見えて来た舗装路横断 茶畑の中の石畳を下って行くと途中で舗装路を横断する。 ここで下から、旧東海道を大阪から歩いており、この日は連続10日目で今朝掛川から歩いて来たという男性の方が上がって来られしばし道中談義。この後は、日本橋まで行き、帰路は中山道で帰りたいとのことバイパス工事の橋脚と花桃菊川坂石畳と間の宿菊川菊川坂石畳は平成12年の発掘調査において江戸時代後期の石畳として存在が確認されました。旧東海道の中では箱根に次ぐ二例目として徳川家康が定めた五街道の中でも数少ない現存する石畳として高い評価を受けております。 菊川の里は吾妻鏡の中の建久元年源頼朝上洛の記事に「一三日甲午於遠江国菊河宿・・・」とあり、これが菊川の里の初見です。 承久3年(1221)の承久の乱で鎌倉幕府に捕らえられた中納言宗行卿が鎌倉へ送られる途中この菊川の里で詩を残しています。 更にその百年後、元弘元年(1331)の元弘の変で捕らえられた公卿日野俊基が鎌倉への道すがら、この里で歌を残しています。 江戸時代には、西の日坂宿・東の金谷宿の間にあって、いわゆる「間の宿」として多くの旅人たちの利便を図ってきました。 このように、菊川の里は、昔から時代の変遷の中で東海道の駅として大切な役割を 果たしながらロマンと重みのある歴史を刻んできました10:36掛川方面から江戸へ向かう旅人にとっての『東海道菊川坂 上り口』 金谷宿から掛川宿-続く
2019.06.07
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青春18きっぷを利用しての延べ16回目の弥次喜多道中です。この日も天気が良いとの情報でいつもの電車でJR金谷駅へ向かった。4/3(水) 6:37国府津駅過ぎ辺りからの富士山、列車内は学校も新学期前で学生も少なく7:20JR三島駅手前からの富士山(車窓)今回が4回目で、後一回4月10日までに使用する必要がある。列車内には我々と同じような高齢者?が乗車8:57三島、静岡駅で普通電車を乗換。先頭車両に乗車してしばし鉄撮りに熱中島田駅手前の踏切8:57JR島田駅舎島田駅のホーム下に咲く花は?正面は新東海製紙の煙突9:01JR金谷駅手前の桜も満開に9:03一週間ぶりのJR金谷駅に到着、茅ヶ崎から2時間48分を要したホームにはポスターが「しずおか満腹旅」どれも美味しそうだが我々は旅を急ぐので、無縁か?9:06改札口へ向かう、大井川鉄道のりかえ案内9:08JR金谷駅を出て、今日も静かな国道473号線を下り「金谷一里塚跡」へ向かう9:09国道473号線の左手に「巖室神社(イワムロジンジャ)」の鳥居。 地域の人々に「姫宮さん」と呼ばれ親しまれる神社民家の庭先に咲く花4月に入りいろんな花が咲き乱れている9:10JR東海道線のガード下近くに『金谷一里塚跡』と『金谷宿』道標。旧東海道はここを左折してガード下をくぐり金谷坂の石畳へ向かう金谷宿金谷は東に大井川、西に小箱根といわれた金谷坂、菊川坂、小夜の中山と難所を控えた交通の要衝であった。日本橋から24番目の宿場。島田と同じ規模で大井川の川越し業務を行っていた。大井川を無事に渡った旅人は金谷宿で「水祝い」の宴を開いた。また川留めになると金谷の旅籠だけで足りず、旅人はその先の間の宿・菊川や日坂宿で逗留した宿の町並みは、八軒屋橋の東の入り口から金谷坂手前の現不動橋のところまで、16町24間(約1.8km)の長さで、江戸から京に向かう際には全体に緩やかな上り坂の町並みである。人口は4300人ほどで対岸の島田宿より少なかったのは、平地が少ない地理的な事情によるものと考えられる。金谷宿には本陣が三軒あり、西本陣の柏屋は先祖の功によって家康より屋敷を拝領した家柄で、名主を務め宿場の有力者であった9:12長光寺下の枝垂桜は先週(3/27)来た時も咲いていたがまだ待ってくれていた満開の枝垂桜をズームアップ9:14民家の前に咲く花「???」9:15金谷大橋(西入口土橋)跡。現在の不動橋は、江戸時代には「西入口土橋」(金谷大橋)と呼ばれ、金谷宿の西入口となっていました。規模は長さ6間(約10m)横幅2間半(約4.5m)橋桁は三本立四組の土橋でした。土橋とは橋桁の上に丸太を組み、上に小枝を敷き、さらに表面に土を搗き固めて造られた橋をいいました。「御普請所」となっていて約3年目毎に代官所の負担で修理や掛け替えが行われました。金谷坂を下ってきた大名行列は橋の北側にあった休み茶屋(たばこ屋善五郎)で休息し、身なりや隊列を整えてから、宿場に整然と入りました。 またここから上りは金谷坂の登り口となり、牧之原台地と小夜の中山峠の急坂を連続して上り下りするという東海道の難所の一つでした。大橋の東側袂には「どじょう屋」という一膳飯屋があり、そこが「駕籠仕立て所」となっていて、坂を上下する公認の駕籠かき達の詰め所になっていました金谷大橋(西入口土橋)跡からJR金谷駅を9:17緩い坂を上る「大井川鉄道沿線ウオーキング」の案内9:18緩い坂道にある「秋葉神社?」上り坂の途中から大代川&大井川方面を振り返る。遠く、新東名高速道路の高架橋も見えた。残念ながらこの時は富士山は雲に?隠れていた9:19国道473号線を横切り「旧東海道石畳」へ。国道を上ると富士山静岡空港&御前崎市方面へ向かう9:21国道沿いに駐車場があり、ここから「旧東海道石畳」へ駐車場にあった「島田市観光案内」「meguri 石畳茶屋」の案内9:22東海道金谷坂、石畳上り口。石畳は金谷から牧ノ原台地を抜ける場所にあった。急坂で尚且つ粘土質であることから滑りやすく、大名行列や旅人が苦労したため、幕府が石を敷き詰めさせた歴史があります。一旦は舗装されたが、平成3年に町民の手で石畳が復元されたと石畳茶屋所在地:静岡県島田市金谷坂町2482-1 Tel:0547-45-5715まだ時間が早くオープン前であったが、テラス席もあり居心地が良いと評判Lunch 11:00~14:00 ランチセット \1200造りは古民家の風情もありランチも美味しいと。ケーキ、クッキーも販売している9:24先程は見えなかったが富士がきれいに山の斜面には茶畑も桜は五部咲きか東海道 金谷坂の石畳。 この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩き易いように山石を敷き並べたものであると言われています。近年、僅か30メートルを残す以外は全てコンクリートなどで舗装されていましたが、平成3年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430メートルが復元されました。いま、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の三個所だけとなりました9:27石畳茶屋の上に『仁誉地蔵尊』お足地蔵の説明で「昔、足の病に苦しんでいた仁一という方が、坂の入口にあった地蔵尊を毎日拝んでいたと。ある日、夢枕に地蔵尊が現れてお告げがあり、旅人の足の無事を祈っていたところ、仁一の足の病もよくなっていた」と 何故か祠の横に「第89回全国高等学校野球選手権大会」の看板が掲示。因みにこの大会の優勝校は「佐賀北高校」が初優勝。準優勝が広島の広陵高校で今でも鮮明に記憶がある。8回まで4:0で勝っていたが9回に逆転された。敗戦投手は現在広島カープで活躍している野村選手。静岡県からは、常葉菊川高校で11年ぶり2回目の出場であった9:28左に「鶏頭塚」奥に「庚申堂」鶏頭塚鶏頭塚は旧東海道の石だたみの坂道の途中にある塚の名のいわれとなった。 「曙も夕ぐれもなし 鶏頭華」 の句と「六々庵巴静寛保甲子四年(一七四四)二月十九日没」と刻んだ自然石の碑である。 巴静というのは蕉風をひろめた江戸時代の俳人で、その教えを受けた金谷の門人たちは、師の徳を慕って金谷坂の入口北側の辺にこの句碑を建てた。この碑石は道路工事等に伴いその都度移動したが風雅の心ある地元の人々の心配りによって保存が図られて現在に至っている。なお塚の裏に位置する庚申堂は昔から土地の人々に信仰され徳川時代の大盗日本左衛門がここを夜働きの着替え場所としていたことが口碑として残っている庚申塔三猿良き事は大いに広め 悪しきをば 見ざる聞かざる言はざるが良し庚申堂の由来旧東海道の上り下りの旅人達が、道中の無難息災、家内安全を祈願して街道筋に点在する効験あらたかな庚申堂に立寄り誠意を込め願望の成就することを祈念して旅立ったもので、堂宇に猿田彦命および、その主従を合詞して歴年四月「カノエ・サル」の日に追善を施行しております9:30ウグイスが鳴く、石畳をさらに登る9:34前方に赤い幟が並んだ場所が現れたすべらず地蔵尊所在地:静岡県島田市菊川1213長寿・すべらず地蔵尊『六角堂・鞘堂』長寿・すべらず地蔵尊 このお地蔵様・六角堂・鞘堂は、町民の手により据えられたものです。 すべらず地蔵のいわれは、ここの石畳は「すべらない」という特徴から、受験や商売など、何事も願いが叶うということからきています。多くの「すべらずに合格」祈願の絵馬が掛けられていた石畳の脇には『シャガ』の花がかわいいスミレが咲き9:40そして石畳の坂を一旦登り終えると、そこには様々な案内板が。旧東海道 金谷坂 石畳下り口 金谷宿から掛川宿ー続
2019.06.06
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新金谷駅廻りで蒸気機関車を撮影後、今日のゴール点金谷宿のJR金谷駅へ向かう。3/27(水) 16:00宇布賣神社所在地:静岡県島田市金谷天王町石段を上り神社本殿へ、既に今日の歩行数は28,000歩この石垣の石も川越人足が運んだ石なのか?上っても何もないとのことで私はここで引返す16:10人通りの少ない旧東海道(国道473号線)に戻り、JR金谷駅へ向かう。金谷宿金谷は東に大井川、西に小箱根といわれた金谷坂、菊川坂、小夜の中山と難所を控えた交通の要衝であった。日本橋から24番目の宿場。島田と同じ規模で大井川の川越し業務を行っていた。大井川を無事に渡った旅人は金谷宿で「水祝い」の宴を開いた。また川留めになると金谷の旅籠だけで足りず、旅人はその先の間の宿・菊川や日坂宿で逗留した宿の町並みは、八軒屋橋の東の入り口から金谷坂手前の現不動橋のところまで、16町24間(約1.8km)の長さで、江戸から京に向かう際には全体に緩やかな上り坂の町並みである。人口は4300人ほどで対岸の島田宿より少なかったのは、平地が少ない地理的な事情によるものと考えられる。金谷宿には本陣が三軒あり、西本陣の柏屋は先祖の功によって家康より屋敷を拝領した家柄で、名主を務め宿場の有力者であった佐塚屋本陣(本町・佐塚佐次右衛門)寛永12年(1635)参勤交代制度とともに、各宿に本陣が開設されましたが、その当初より、佐塚家は佐次右衛門の名を継いで金谷宿本陣を務めた。建坪263坪、門構え、玄関付で、門の屋根には対の鯱が付いていたので「鯱の御門」と呼ばれていた。表の間口は13間、奥行は35間半で、現在の佐塚家と東隣の住宅の敷地にあたる。慶応4年(9月8日明治改元、1868)10月5日明治天皇御東幸のおり、ここで天皇がお昼休みをとられた16:13緩やかな坂の旧東海道(国道473号線)をJR金谷駅方面へ歩く。バス停は「金谷本町」金谷宿柏屋本陣跡所在地:静岡県島田市金谷本町柏屋本陣(一番本陣)跡柏屋は代々河村八郎左衛門を名乗り「金谷六人衆」と呼ばれた名家の一つ。代々本陣と名主を務めていた。先祖の河村弥七郎が徳川家康に忠節を尽くしたことで信州に知行地を与えられ、金谷宿・島田宿にも屋敷を与えられた。江戸初期には柏屋と佐塚屋が本陣、山田屋は脇本陣だった。寛政3年(1791)の「竹下屋火事」と呼ばれた大火によって本陣二軒・脇本陣一軒・旅籠屋五十二軒の全ての宿泊施設が焼失した。・・・・・・・・・尾張徳川家、紀伊徳川家の定宿となっていた。嘉永7年(1854)の「東海大地震」で壊滅し本陣を廃業。その後は旅籠屋を営んだと本当に人通りが少ない旧東海道(国道473号線)の緩い坂を、今日のゴール点へ向かう脇本陣(角屋・金原三郎右衛門家)跡。脇本陣とは、参勤交代の大名や、勅使(天皇の使い)、公家(朝廷に直接仕える人)などが休泊する本陣の予備的な宿泊所です。普段は上級武士の休泊所となっていましたが、本陣が重複したときなど、格式の低いものが格式の高いものに本陣を譲り、脇本陣に移りました。 元禄~正徳(1688~1715)ころの屋並図によると本陣は柏屋・佐塚屋の二軒で山田屋が脇本陣となっています。 寛政3年(1791)の大火(竹下屋火事)で本陣・脇本陣を含む金谷宿のほとんどが焼失して しまいました。それから十年後の享和2年(1802)の記録では、幕府からの拝借金で、玄関・門構などは仮設ながら三つの本陣が復興しています。しかし「脇本陣なし」となっています。 天保14年~安政6年(1843~1859)「東海道宿村大概帳」には三本陣とは別に脇本陣が建坪105坪(346.5㎡)玄関付(門構えなし)と記録されています。これ以後の金谷宿脇本陣は、本町の角屋・金原三郎右衛門家が勤めました。金原三郎右衛門は享保19年(1738)金谷宿の年寄(門屋職の補佐役)を勤めました。また、文政年間(1818~1830)から明治3年(1870)の大井川川越し関係の記録の中では、代々川庄屋(川会所の長)の役職を勤めていました定飛脚問屋(三度屋)跡。田町の南側に「浅倉屋何右衛門」、北側に「黒田屋重兵衛(治助)」という定飛脚の問屋がありました。定飛脚とは、「三都定飛脚」ともいい、江戸と上方の京・大坂を定期的に往復した民間の飛脚で、月三度(二日・一二日・二二日)出したところから「三度飛脚」、取扱所を「三度屋」とも言いました。またこの飛脚がかぶった笠を「三度笠」と呼びました。並便は昼間のみの往来でしたが、昼夜兼行の早便(特別急行便)は、江戸・大坂間の到着期限を六日としたことから「定六」ともよばれました。明治4年(1871)郵便の制度が施行されるまで、書類や信書、金銀の郵送もこの定飛脚で取り扱われました東海道金谷宿案内絵図現在いる場所は中央の一里塚16:21夢舞台東海道道標「金谷宿」日坂宿 宿境まで???。← 破損していた島田宿 宿境まで三十三町(3.7km)一里塚跡 金屋町新町延享3年(1746)の「東海道巡覧記」によれば「金谷一里塚榎木」とある。 里程 江戸へ五十三里 嶋田へ一里 日坂へ一里廿四町 金谷宿道路標識JR東海道本線のガード下を通りJRのガードをくぐると斜面に枝垂桜が咲き満開に近いのか日蓮宗 本遠山長光寺へ、右はJR金谷駅。所在地:静岡県島田市金谷新町2253長光寺本堂天保元年(1644)、慈善院日悦(ニイエツ)上人が身延山二十六世智見院日暹(ニッセン)上人を開山に開いた日蓮宗 本遠山長光寺天保十四年の「宿明細書」によれば、「御除地高二石、凡建坪六拾五坪右は往還より南の方四拾二間程入り、往還差支の節は御休泊相勤め申し候」とあり、金谷宿唯一の日蓮宗寺院であったと鐘楼と松尾芭蕉の句碑松尾芭蕉の句碑伊賀国上野に生まれ、俳号桃青ともいう。芭蕉の号は深川の庵の周りに芭蕉が植えてあったのでそれを号とした。芭蕉の俳諧の特色は、日本文学の伝統的要素を振興文学たる俳諧の中に生かしたこと。つまり古い美と新しい美とを融合した点にある。『道のべの 木槿は馬に 喰はれけり』 道ばたに咲いていた木槿の花は、私の乗っている馬にパクリと一口食われてしまった。 何事が起ったというわけではないが、ついさっきまで咲いていた花はもう影も形も無い。唐突のようでもあり、当然のような気もして、なんだか瞬間に幻を見たような思いである。意識・心情の深さから、平凡な事柄に深遠な悟りにも似た禅機的心象を感じる句である。注「野ざらし紀行」中の一句である境内の桜も満開に、来週も来るがもう終わっているか?枝垂桜は見頃になっているか楽しみ長光寺境内から下り長光寺側にはJRの改札がなかったので引き返し「一里塚跡 金屋町新町」から、旧東海道(国道473号線)の金谷宿を振り返るJR金谷駅前のロータリーロータリーにあるモニュメントは「ユメオン〜夢音〜」という愛称が公募によってつけられており、未来に向かって大きく躍進し、夢のある町づくりを目指してほしいという願いが込められているのだと。モニュメントは輪が垂直に重なったようなものの中に、鐘がいくつか(カリヨン)設置されていた。これはおそらく時報としての機能なのでしょうが、いろいろな曲が流れるように設定されているようです。聴いてみたかったが!JR金谷駅と左奥は大井川鉄道金谷駅バスロータリーの壁面には、長さ25m、高さ2.5mの「金谷茶まつり」の陶板彫刻が一面に刻まれていた。 銘茶の産地「金谷」で二年に一度行われる「金谷茶まつり」。新茶の季節の到来を告げる祭り。祭りのメインはやはり茶娘道中。茶摘み衣装をまとった茶娘約1000人が華麗な踊りを披露すると。夕方からは法被姿の若者が威勢良く引き回す屋台道中、力強い川越し太鼓の演奏などが行われると。夜間に行なわれる創作踊りも圧巻とのことようこそ、空港のあるまち島田市へ駅舎からのJR金谷駅前改札を入るJR東海道本線の下り方面はすぐトンネルに上り静岡方面金谷駅近郊の名所案内次回(青春18きっぷの有効期間4月10日)もここまで電車で来て、掛川駅を目指す予定遠くに先程渡った大井川橋が見える16:54JR車窓から上流の大井川橋JR藤枝駅から、ひたすら歩き『箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川』の島田宿大井川を渡る。今日の歩行数は、JR藤枝駅からJR金谷駅まで7時間半、約3万歩でした。江戸時代の大井川の水量がどの程度であったのか? JR藤枝駅から金谷宿ーEND
2019.05.29
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島田市博物館から大井川橋を渡り新金谷駅。『箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川』3/27(水) 15:00大井川の河川敷に降りる。江戸時代まではこの辺りから、徒渡しで対岸の金谷宿へ。右上の大井川堤は県道342号線の河原大井川港線河川敷に咲く・・・・・15:07夢舞台東海道道標「島田宿」と石碑金谷宿 宿境まで???、藤枝宿 宿境まで???。判読できず県道342号線の河原大井川港線を振り返る15:09県道342号線の大井川橋東交差点、県道381号線と合流。ここまでの歩行数は、自宅から23,800歩大井川橋:2003年 土木學會選奨土木遺産に指定。大井川橋は、昭和3年に架設された鋼製のトラス橋。下部は井筒型の基礎と門型の橋脚により構成されている。当時の技術力を結集して建設された最大級の道路橋である。いまなお建設当時の姿をよく残していることから、土木学会選奨土木遺産として認定された大井川橋概要。道路の名称:一般県道島田金谷線(旧国道一号線 → 県道381号線)所在地:静岡県島田市稲荷 ~ 金谷町金谷河原橋 長:1026.4m橋の形式:17径間下路式プラットトラス橋下部工:橋台2基、橋脚16基建設期間:対象13年 ~ 昭和3年風が強く、上流を望む大井川の下流方向、江戸時代と違い現在はダム等の建設で水量が少ない富士川橋、安倍川橋と同じような構造国道一号線の橋とその上流に新東名高速道路の橋が見える15:14下流の新東海製紙の煙突ズームアップ水量が少ない、江戸時代の水の量を見たいものですネJR東海道本線の陸橋JR東海道本線の陸橋を貨物列車が走る歩道橋に旅姿のタイル15:24大井川橋西側、橋を渡り終えて、25,200歩に。橋を渡るのに1,400歩を要した。大井川橋の石碑15:25大井川橋を渡り県道381号線の東町交差点15:28この先に「新金谷駅」の道路標識があるが手前を左折して路地へ入る15:33歩いて数分で「宅円庵(タクエンアン)」所在地:静岡県島田市金谷東2-13-2宅円庵と日本左衛門首塚の看板。境内にいると何故か湯けむりが上がり石炭を燃やしている匂いが。この辺りに金谷宿の川会所があるのでは?宅円庵宅円庵 由来。慶安4年の開創。宅円大徳上人の御名を記念せんがため、宅円庵と号す。後、知る由もなく伝記によれば、上人この附近を巡湯のみぎり、某家の旅宿にて自身の負わし薬師如来の夢に現れて『大井川は、水難多く、通行の旅人等の悩めるを救わんがために一宇を建立せよ』との霊告あり。附近の庄屋と相はかりて勧化せられしに浄財集りて堂宇の建立をはたしたり。本尊は薬師瑠璃光如来を奉祀したりと宅円庵の六地蔵日本左衛門首塚。日本左衛門は江戸中期の大盗賊、尾張藩の下級武士の子で、若い頃から放蕩を繰り返した人物。本名は浜島庄兵衛。盗賊団の頭目となり、遠江国を本拠に東海道周辺を荒らしまわった結果、全国指名手配となる。逃亡していた日本左衛門は安芸国宮島で自分の手配書(初の盗賊手配書)をみて逃げ切れないと観念し、京都で自首。延享4年(1747)処刑された。享年29歳首は遠江国の見付に晒されたが、金谷宿の愛人・お万こと三好ゆきが首を盗みだし、宅円庵に葬った。後に日本駄右衛門として歌舞伎『青砥稿花紅彩画』に白浪五人衆(白浪=盗賊)の題目として描かれた警笛がしたので墓地へ行くと蒸気機関車が。先程の湯けむり、石炭を燃やしている匂いはこの蒸気機関車だったのだ15:37宅円庵の裏は、大井川鉄道 大井川本線の「新金谷駅」であった転車台で方向転換中。鉄撮りのカメラマンが立ちここの転車台は電動? 手押ししているところもあるがズームアップすると蒸気機関車は「Ⅽ56 44」。製造:三菱 神戸造船所、製造:昭和11年(1936)。この車両は札幌近郊や千歳線等で使用されていたが、太平洋戦争の開戦と同時にタイ・ビルマ方面の軍隊に供出され、戦時輸送のためタイへ送られた。太平洋戦争激化により大破した車両が多い中、とても運の強いSLといえる。昭和54年(1979)6月、タイから31号機と44号機が日本に帰国。31号機は東京・靖国神社に、44号機は同年6月29日に大井川鉄道へ入線した 転車を終える蒸気機関車は大井川本線の新金谷駅から千頭駅まで毎日一往復運行。 新金谷駅発:11:52 かわね1号 千 頭 駅 着:13:09 千 頭 駅 発:14:52 かわね2号 新金谷駅着:16:09観光シーズンには三往復運航しているようだ。因みに運賃は、新金谷駅から千頭駅まで、乗車券 1,720円+SL急行券 800円古い電気機関車、近鉄特急新金谷駅前には多くの観光バスが待機、右は宅円庵の墓地16:09着のツアー客を待っているのか15:42鉄道会社の古い電気機関車、車両が15:48県道230号線(住吉金谷線)の跨線橋から新金谷駅15:49大井川鉄道は蒸気機関車を4両現役で運行している15:53県道230号線(住吉金谷線)を歩き金谷宿へ大代川県道230号線(住吉金谷線)に架かる「ふれあい橋」15:55ふれあい橋から丘を望むが茶畑? 藤枝駅から金谷宿ー続く
2019.05.28
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島田宿の大井川 川会所から島田市博物館へ。川越制度(カワゴシセイド)と川会所(カワカイショ)。慶長6年(1601)徳川家康は東海道に宿場伝馬の制を定め、街道整備を行った。しかし、大きな河川には橋がほとんど架けられず、旅人は船か徒歩で渡るほかなかった。特に大井川は渡船も禁止され、流れが急で不慣れな旅人が渡るには危険であったため、川越しの手助けを職業とする人々が現れた。そして、街道の通行量の増加とともに渡渉の方法や料金などを統一する必要が生じた。3/27(水) 14:05川会所からの島田大堤。そのため、元禄9年(1696)に幕府により代官所を通じて川越制度ができた。その管理のために川庄屋の役職と業務の拠点となる川会所がおかれた川会所には、川庄屋のもとに年行事、待川越、川越小頭などの役職をおいてその日の水深を測り川越賃金を定め大名から庶民まですべての通行人に対する渡渉の割り振りや諸荷物の輸送配分などの運営をはかる仕事が行われた川会所からの街道。川越制度は明治維新まで続けられていたが、明治3年(1870)に大井川の通船が許可されたことに伴い廃止された川会所からの満開の桜と「そば玄」川会所内に貼られた説明書。連台越しの手順 旅人は、前夜島田宿の旅籠に泊まり、早起きして早朝出立する。すでに川方では 川庄屋によって「何十何文川」であるか定められ、宿中に触れ歩いてあるので、 旅人は出立前に、当日「何文川」であることを知ることができた。・・・・・越立の方法 普通大井川を渡渉するには、川越人足の肩車で越す場合と、連台で渡渉する場合 とがあった。・・・・・・・・・現在の川会所の建物は安政3年(1856)に建てられたもので、制度の廃止後、大井川通船の事務所や学校の校舎などに利用されて移転を繰り返した。そして昭和41年(1966)8月に島田宿大井川川越遺跡が国の指定を受けたことに伴い、昭和45年(1970)8月現在地に移築された島田大堤。天正の瀬替え以降、島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が、慶長の大洪水(1604~1605)で決壊し、建設まもない島田宿のすべてが押し流された。その後、大堤完成までの確かな記録は不明だが、島田代官長谷川藤兵衛長勝の頃、向谷水門を堀抜き、宿内に三本の灌漑用水を完成させて、復興が本格化した。これらの治水・灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の二十倍にも増えた。大堤の規模は、高さ二間(約3.6m)で向谷水門下から道悦島村境までの、長さ3150間(5733m)と記録されている川会所前の松の下に松尾芭蕉「馬方は しらじ時雨の 大井川」の句碑がある。他にも「さみだれの 空吹きおとせ 大井川」など、数多くの句が残されている14:10八重枠稲荷神社。川越人足たちが京都の伏見から勧請して建てた昔、ここは大井川の出し堤防があり、洪水の時には蛇龍に石を詰めて杭で固定し、これを幾重にも並べて、激流から村を守った。八重枠稲荷の名前はここからきている。宝暦十年(1760)に川越衆の安全と事故の排除を祈願して建立されたとここで水をくいとめた「せぎ跡」。水をくいとめたにしては少々せぎの高さが低いが・・・・・・・大井川の堤下にある「朝顔の松公園」島田市博物館前にある「いたずらがきの碑」14:13島田市博物館。 所在地:静岡県島田市河原1-5-50ここまでの歩行数は、22,300歩島田市博物館分館との共通観覧券で館内へ入る.一階では「川留め文化」をわかりやすく常設展示。二階では特別展や企画展を開催している。この日は二階は閉鎖中で一階のみを見学東海道 宿場人口ランキング1位:53番目の大津宿(大津市) 14,892人 中山道の宿場を兼ねターミナル宿場2位:19番目の府中宿(静岡市) 14,071 徳川家康隠居の城3位:41番目の宮宿(名古屋市) 10,342 熱田神宮に近い、桑名宿への海路4位:42番目の桑名宿(桑名市) 8,8485位:43番目の四日市宿(四日市市) 7,114旅籠では相部屋もあたりまえ。はじめは木賃宿といって食事の提供がなく素泊まりであった農民を苦しめた助郷制度。助郷とは、江戸幕府が宿場付近の農民に課した夫役のこと。島田宿は他村と異なり、大井川の川越し助郷があったため、川留めなどの場合、助郷人馬は幾日も留め置かれることから、余分な出費までかさみ、農繁期には農民にとって大変過酷な制度でした旅 姿旅の用心集、飯盛女。旅といえば、昔も今も先立つものはお金。道中では巾着切りや枕さがしといわれる道中師にやられたり、山道では追い剥ぎに出合うかもしれないと・・・・・・・。飯盛女は、旅人の食事の世話や接待をした、享保3年幕府は、旅籠一軒につき飯盛女二人と決めたが、守られなかったと、飯盛女のいる旅籠はとても繁昌した天下に知られた島田の刀鍛冶水の深さと川幅で違ってくる値段、大井川川越賃銭:寛政年間無理に渡った大名安永8年(1779)3月、尾張藩主が江戸から名古屋への帰途、大井川にさしかかった時、ちょうど大井川は増水していた。この日は、御状箱瀬といって人馬の渡渉は一切中止のはずですが、無理に渡渉を強行した。その理由としては、いつ川明けになるかわからないことと、滞在する経費が著しく軽減されると思ったからでしょうと川越しをとりしきるのは川会所の組織銭枡、寛永通宝、大井川の川札、大井川の台札常設500台がスタンバイ:充実の輦台(サンダイ)ラインナップ東海道川越大井川の図(広重画)川越し人足の仕事と生活。人足達は、口取、待川越、本川越、水入、弁当持ちなどの階級区分があり、一番から十番までの10組にわかれていて、その時々の交通量によって、必要な人数に動員がかけられた。この川越人足達は、番宿に待機していた。また、人足に出ない日は、農業などでくらしていた島田大祭:神輿渡御行列一覧図東海の奇祭 -島田大祭ー元禄年中、大井神社が現在の地に遷座されて以来、3年に一度秋の豊穣を感謝して、大名行列、大奴、みこし、鹿島踊り(県の無形文化財指定)、特に屋台の長唄は、昔から江戸歌舞伎の登竜門として位置づけられてきた。三日間の祭りの華やかさは元禄絵巻そのものです。25人衆の大奴が、安産祈願の帯を木太刀にさげ、行列をつくってゆっくり進むさまは、日本三奇祭の一つに数えられている。その行列の総勢は三千人とも言われ、豪華絢爛で大勢の人々が見物に来ている日本三奇祭について。『年中行事辞典』によると日本三奇祭として、山梨県富士吉田市の富士浅間神社火祭静岡県島田市の大井神社帯まつり愛知県稲沢市国府宮裸祭 いろいろ説があるようですが島田の帯まつりの大奴14:30 から、ジオラマビジョンを20分見る。約40分間博物館内を見学して、川越文化を知ることができた。14:54館外に「大井川の通船で使われた川船」が展示されていた明治時代に入ると、大井川の川越制度は廃止され、明治4年(1871)には、本格的な船による物資の運搬事業「大井川通船事業」が始まった。船着場は、島田市向谷、家山、川根本町千頭などに設けられ、向谷から家山までは3日終点千頭までは5日間の航路だったようです。この川船はその通船に使われたもの。川をさかのぼる時は、人が押して進んだので、船頭の苦労は大変なものであった。そのため、昭和の初めには高瀬船、飛行艇へと移っていった松尾芭蕉の句碑。「ちさはまだ 青ばながらに なすび汁」。この句は芭蕉が元禄7年(1694)5月中旬、島田宿へ二度目の逗留をした時の句であるこの句は、もはや初夏なのに目の前のお膳の汁には、春野菜であるちさ(チシャ菜)が、花もでない青葉のまま、そのうえ盛夏のものである茄子までがはいっていて、青々として香り高いちさと色鮮やかな紫の初茄子とをご馳走をしてくれた主人如舟に対する感謝の意をあらわしたものであると。この句から江戸時代でも、ちさと茄子を汁に入れていたのだと・・・・・14:56島田市博物館前から川越遺跡を振り返る。右前方に「せぎ跡」朝顔の松の由来浄瑠璃『朝顔日記』では、恋する人を慕って流浪する盲目の娘深雪が大井川のほとりで、川留めの悲運に泣くが、その時、奇跡的に目が治るくだりがあり、当時江戸で大評判となった。このことから大井川河畔の巨松を「朝顔の松」と名付けた朝顔堂。しかし昭和のはじめに枯れたので、その樹幹を朝顔の松公園内の朝顔堂に木碑として保存している。句碑は巌谷小波の「爪音は 松に聞けとや 春の風」川越場の絵図14:58お馴染みの夢舞台東海道道標「島田宿」。金谷宿の宿境まで???。戻ると藤枝宿の宿境まで???島田市博物館を後にする15:00県道342号線の河原大井川港線から『箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川』へ 藤枝駅から金谷宿ー続く
2019.05.27
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大井神社を引き続き参拝してから、大井川の「川越遺跡の川会所」へ向かう。3/27(水) 13:05大井神社拝殿の南側に位置する、静霊神社、春日神社、大井天満宮の各社静霊神社前方左に「大井神社拝殿」正面に、江戸時代に建造され平成16年に復元された「常夜燈籠」大井神社境内に隣接する、結婚式場がある「大井神社宮美殿」弥次さん、帯祭の装束を身に着けて13:09弥次さんが御朱印を頂く13:15旧東海道(県道34号線)の本通りを歩き、右側に「大善寺」所在地:静岡県島田市向島町2919本堂と梵鐘大善寺の梵鐘当山の鐘は、天明4年(1784)「時の鐘」として備え付けられた(旧鐘銘)。それ以後、昼夜六時(二時間おき)にこの鐘によって宿民は刻を知らされ、明け六ッ(日の出時刻)と暮れ六ッ(日の入り時刻)の鐘の音は、大井川川越の始まりと終わりの合図ともなっていた。しかし、この鐘は昭和19年(1944)太平洋戦争の際、供出され現在の鐘は昭和48年(1973)に新しく造られたもので、毎月1日・15日と大晦日に撞かれています13:18大善寺を出て、来た方向を振り返る13:23旧東海道(県道34号線)の本通りを歩き「新東海製紙㈱」所在地:静岡県島田市向島町437913:28お馴染みの夢舞台東海道道標「島田宿」。金谷宿の宿境まで六里(0.7km)。戻ると藤枝宿の宿境まで二里十六町(9.5km)島田市博物館、大井川川越遺跡の道標大井川流域は、太古の昔より人が暮らし、江戸時代には東岸に駿河国島田宿、西岸に遠江国金谷宿を擁し、東海道の要衝として豊かな文化を育んできた。この先を左側に入り、新東海製紙の塀に沿って歩く13:34川越遺跡島田宿の川越の拠点となった場所で、当時の街並みが復元・保存されている。川幅12町(1.3km)もある大井川は、幕府により架橋、通船を禁じられていた東海道最大の難所で「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」といわれたほど流れが急だった。そのため、不慣れな旅人が歩いて渡るには危険だと川越の手助けを職業とする者が現れた。江戸時代初期の万治年間(1658~1661)頃の東海道名所記によると、馬方が川越人足と結託してわざわざ深い所を渡って高い料金を取り、水かさが多いときは法外な料金を要求してくると記されている等のトラブルが発生した。島田宿大井川川越遺跡案内図川越遺跡(カワゴシイセキ)に入り「上段の間が現存する塚本家」「上段の間」とは、奥の一室が一般の座敷より一段(約20cm)高くなっていて、身分の高い人をお迎えする特別な部屋のこと。江戸時代、大名や公家などの宿泊する本陣には必ず備えられていた。塚本家に伝わる文書によると、九州肥前(長崎県)で古い家柄を持つ大名、大村藩(二万七千九百石余)によって建てられた家です。そして大村藩の参勤交代や大村藩とゆかりのある諸大名や武家が、大井川を渡る時に特別の便宜をはかり、川越しの準備や手続きを代行した。その間大名を座敷の上段の間にお通しして接待し、・・・・・・・・トラブル発生の為、島田代官・野田三郎左右衛門は元禄9年(1696)川越制度を整え、川会所を設置した。川会所はこの制度に基づき、川越業務の管理・運営を行った。業務内容は、その日の水深による川越賃銭のの決定、川札(切符)の販売、通行人の渡河順序の割り振り、荷物の配分などだった。昭和41年(1966)に国の史跡に指定13:37島田市博物館分館所在地:静岡県島田市河原2-16-5島田市博物館との共通券とのことで300円で購入して、中に入る300円の観覧券中に入り分館の奥にある「島田市民俗資料室」各種のこぎりおの、かんな等の大工工具懐かしいいろんな工具が展示畑作業の農工具郵便ポスト、ウナギをとる籠昭和初終戦後の膳と石臼13:50 約15分の見学で島田市博物館別館を後にする13:52大井川川越遺跡の街並み案内。往時の島田宿大井川の渡し場近くの街並みに、川越しを取り仕切る「川会所」や川越人足の詰所「番宿」などが復元されている13:53法被(ハッピ)「大井川連台越」を着る川越人足もいっぷく。川越人足は法被を着て、腰に二重廻しと称する前垂れ平日の水曜日だが観光客が少ない、旧街道。番宿と川越人足。川越人足の数は、はじめ大井川両岸の島田・金谷にそれぞれ350人と定められていたが、幕末には約650人に増えていた。人足たちは、裸で腰に二重廻しと称する前垂れをしめ、お互いに川越取と呼びあい、関取に一脈通じると自負していた。人足たちの集合場所が一番宿、二番宿と呼ばれる番宿であり、年配者になって、川越業務を直接やらないようになった人たちが集まった立合宿や仲間の宿、川札をお金に換えた札場などがあった仲間の宿現在、人は住んでいないが?一応住所登録はされているようだ。主に年をとった川越し人足たちの集まった宿。ここは、人足たちの仕事上の意見交換や、各組どうしの親睦の場として使用されたといわれている札 場川越し人足が川札を換金する所で、昔ながらの位置に保存されている。一日の川越が終了すると、それぞれの番宿において川札を回収して、札場で現金に換えた後、人足たちに分配した14:00そば玄と大井川川会所10割蕎麦が美味しいと旧東海道 大井川 川会所(カワカイショ)川越しの料金を決めたり川札を売ったりしたところ大井川の川越(カワゴシ)江戸時代の初期、慶長6年(1601)に幕府は江戸と京都を結ぶ東海道に宿場伝馬の制を定めて街道交通を整備するいっぽう、大井川や安倍川、酒匂川など主要な河川は江戸城の要害として、架橋や渡船を認めず川越人足に旅人を担いで川を渡らせた川会所前の桜川越賃銭と越し方大井川を渡るには、川札(川越札・油紙ともいい、人足一人を雇うために札1枚が必要)を川会所で買い、川越人足に手渡ししてから、人の肩や連台に乗り川を越した。この川札の値段は、毎朝、待川越(マチカワゴシ)が水の深さと川幅を測って定めた。水深は股通や乳通と呼び、股通の場合は川札1枚が四十八文であった。また、大井川の常水は帯通二尺五寸(約76cm)、脇通四尺五寸(約136cm)を越すと川留になった。川越しに必要な川札の枚数は・・・・・・・・・。役人の「年行事」川越人足の経験者の中から選ばれ、9~11人が交替で詰めた。 「川庄屋」島田宿の問屋場で伝馬業務に従事する人の中から選ばれた川札のねだん(カッコ内は現在の値段):寛政年間(1789~1801)。脇通:九十四文(約2820)、乳通:七十八文(約2340)、帯上通:六十八文(約2040)、帯下通:五十二文(約1560)、股通:四十八文(約1440)大高欄連台(ダイコウランレンダイ)担ぎ手16人、手張4人に台札(川札の32枚分)の計52枚半高欄連台(半手すり2本棒)担ぎ手は、並連台と同じ4人で4枚と台札(川札の4枚分)の計8枚平連台(並連台)一人乗りの場合、担ぎ手4人で川札4枚と台札(川札の2枚分)の計6枚14:04肩車と手張(補助者)川越人足の肩にまたがって越した。川札は1枚。常水以上は、手張1人がつくので川札が2枚必要だった広重「東海道五拾三次之内 嶋田 駿岸大井川」(保永堂版) 藤枝駅から金谷宿ー続く
2019.05.26
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島田宿本陣跡から大井川手前の大井神社へ。島田宿は「箱根八里は馬でも越すが越さぬは大井川」と詠われた、東海道の難所の一つで、大井川の増水時には足止めを食ったために人々で賑わっていた宿場。3/27(水) 12:36この場所は旧東海道の宿場の中心で、この通りは平成20年度国交省の美しいまちなみ優秀賞を受賞している。「美しいまちなみ優秀賞」を競っただけにきれいな街並みであるが、活気が感じられないのが残念! 南方向を見る島田御陣屋(代官所)跡の碑には代々の代官名と任命時期が記されている。江戸時代島田宿には、駿河国志太郡や遠江国榛原郡などの幕領(天領)を支配する御陣屋(代官所)が設置されていた。島田御陣屋は、駿河国府中城主徳川頼宜の代官であった長谷川藤兵衛長親が、元和2年(1616)に建てた屋敷がはじまりで、その子藤兵衛長勝が寛永19年(1642)、幕府の代官職に任命され、その屋敷が御陣屋となった昼時だが人が少なく活気が感じられないのが残念だ、南方向おび通りを進むと「御陣屋跡」があり駐車場になっている、北方向12:38旧東海道側に戻り「からくり時計塔」。角のパン屋からパンを焼いているいい香りが漂い、お客さんが訪れていたベーカリーのマーク12:40旧東海道(県道34号線)の本通りを歩き、この先を左折するとJR島田駅。右折すると島田市役所カラーの「しまだおすいマンホール」島田市は「帯まつり」が奇祭として有名である12:41街道沿いに松尾芭蕉の「駿河路や句碑」があちこちに立つ。芭蕉は島田宿の俳友塚本如舟を二度訪ねており、ニ度目は元禄7年(1694)5月で芭蕉最後の旅となった。その際、大井川が川留になっており4日間も如舟の家に、滞留することになった碑面には「するがの国に入て するがぢやはなたち花も ちゃのにほひ はせを」 はせを:芭蕉の俳号12:42旧東海道(県道34号線)の、本通り2丁目交差点12:44㈱大村屋酒造場所在地:静岡県島田市本通1-1-8美味しい静岡県の伝統の地酒! 「おんな泣かせ(純米大吟醸)」は、静岡地酒の中で、盛も全国的に名を知られた商品のひとつではないだろうか。日本三大奇祭のひとつ「島田帯まつり」が有名な島田市で唯一の酒蔵である12:45街道脇に村境の石柱。東:六合村境、北:???旧東海道を振り返る。西:大井川渡船北???、北:???石柱の交差点に立つ道標12:47旧東海道(県道34号線)の本通り沿いに「大井神社」ここまでの歩行数は、18,900歩12:47反対側に、日蓮宗正覚寺の山門正覚寺山門所在地:静岡県島田市本通1-4704山門横の枝垂桜正覚寺境内枝垂桜はこれからが見頃に12:51正覚寺を参拝後「大井神社」へ。所在地:静岡県島田市大井町2316島田の参土神(ウブスナガミ)で、洪水を鎮め安産をもたらすとして信仰が篤い神社。元禄年間(1688~1704)に始まった「帯まつり」は3年に一度開催される。由来はいくつかあるが、嫁入りの丸帯を神社の大祭の際、行列に供する大奴の大太刀に掛けて宿内へ披露するようになったのが始まりともいわれる。県の無形文化財に指定されている升形跡(宿西入口)。島田宿の西入口には、川沿いに土手で囲い、東側は正覚寺入口の小路で囲った、例の少ない升形の見付が設けられていた。ここに宿場の番人を置いたという記録はないので、宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所だったようですと鳥居をくぐり、江戸時代より鎮護の社。大井川川越安全・道中無事祈願「大井神社」鳥居横にある「道中飛脚奉納燈籠」江戸時代安政3年(150年前)江戸ー京都ー大阪の飛脚達が道中及び大井川川越の無事を祈って奉納した燈籠参道の石垣の石は、江戸時代に大井川から土手(堤)石垣 ← 参道の石垣。江戸時代大井川の川越稼業の人達が、毎日の業を終えて帰る際に、河原から石一つ選び持ち帰り、それを蓄積してこの土手(堤)を築いたものである福徳開運の神様「大井恵比寿神社」の案内手水舎安産祈願「帯塚」使った帯を供養してこの塚に納め一家の平安と安産を祈る。昔からの島田の信仰大井神社最古の奉納燈籠。寛文3年(1663)、大井神社の現在地遷座前の燈籠という事になる。お旅所から移したものかと福徳開運の「大井恵比寿神社」福寿の手水鉢。享保21年(1736)、武州玉川の治水工事にあたっていた川崎平右衛門らが奉納した大井神社拝殿常夜燈籠再建について。大井神社常夜燈籠は江戸時代に建造されたが長い歳月を経て風雨による損傷が甚だしく倒壊のおそれもあったので、平成15年2月解体その後島田の宮大工佐野覚氏の献身的な精進努力により一年有余ヶ月の時を経て此度竣工した。一部は流用し・・・・・。大奴・鹿島踊像大井神社の大祭「帯祭り」の大奴・鹿島踊の姿を後世に伝えるブロンズ像。「帯まつり」は日本三奇祭として有名である。日本三大奇祭をWikipediaで検索すると下記の10があるようです。御柱祭:諏訪大社、なまはげ:秋田県男鹿市、吉田の火祭り:山梨県富士吉田市、その他諸説として、島田帯祭:島田市、会陽(裸祭り):岡山市、・・・・・・・大奴像・鹿島踊像 建立記念碑島田鹿島踊 先導 三番叟像(サンバソウゾウ)この三番叟につづき鏡持、杓子、鼓、ササラ、稚方の諸役が華麗な装束をつけて続き舞いながら供奉する島田の帯祭 大奴日本三奇祭の一つに数えられ、寅・巳・申・亥・歳三年に執り行われ大名行列と共に25人の大奴が供奉する大井神社御由緒大井神社は、貞観7年(865)授駿河国正6位上大井神と三代実録に記載の見える古社。昔、大井川が乱流し度重なる災害に悩まされた里民は、子孫の繁栄と郷土の発展の為に御守護を祈るべく大井神社を創建した。幾度びかのご遷座の後、島田宿が東海道53次の要衝として宿場の固まった元禄初年、当地に正式に遷座し、元禄8年より御神幸の神事が始まり、下島(現 御仮屋)の旧社地は御旅所と称せされ、日本三奇祭「帯祭」と讃えられるようになった大井神社拝殿13:00大井神社拝殿 藤枝駅から金谷宿ー続く
2019.05.25
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蓬莱橋の「蓬莱橋897.4茶屋(ヤクナシチャヤ)」で休憩後、島田宿本陣へ。3/27(水) 11:30蓬莱橋897.4茶屋からの蓬莱橋。店名の「897.4」は、蓬莱橋の長さが「897.4m」であり、「厄なし」と厄払いのご利益スポットになっていることに由来する江戸時代の大井川川越風景茶屋で「抹茶ソフトクリーム」を食べる。弥次さんの自宅そばにある横浜薬科大学との共同開発店内の黒板にはメニュー描くのは専門家だと観光案内河川敷に咲く花桃茶屋の裏に建設中のモニュメント記念碑のイメージ大井川は、明治15年(1882)国の直轄河川として改修工事が開始され、平成4年(1992)で110周年を迎え記念としてここに碑を建立した。中心の柱は大井川を表し、その柱をとりまく輪はそこに暮らす人々の街をイメージしています。上に伸びる川と斜の輪には川と人と街の安全と調和の土台になっているのは堤防であるという事を表現している。輪と柱をつないでいるパイプを9本使用することで、大井川周辺に位置する3市6町を表し、パイプとパイプの空間は、大井川周辺各市町の面積比で表現している。碑の高さは、河口までの流路延長160kmの約10万分の1、円の面積は周辺市町の行政面積149.809haのおよそ1千万分の1に表現されている蓬莱橋を望む11:55昼時だったが時間がないので先を急ぐことにして、旧東海道へ戻る民家の玄関先、来年はわが家でも植えたいものだが12:04JR東海道本線の「第一相良街道踏切」12:08旧東海道(県道34号線)本通りへ戻る江戸時代の島田宿一、島田宿の成立 慶長6年(1601) 徳川家康により、東海道の「伝馬駅」として指定される。 慶長9年(1604)頃 大井川の大洪水で宿駅施設はすべて押し流され、北の「元島 田」で仮に継立てを行った。 元和元年(1615) 元の島田宿に戻り復興した。一、宿内家並東西長さ 九町四十間(約1.1km)。一、宿内人口(天保14年・1843) 6727人 内 男:3400人 女:3327人 当時の静岡県内では、府中に次いで人口が多かった。一、宿内総家数(天保14年・1843) 1461軒12:09島田宿一里塚の石柱島田宿一里塚は、天和年間(1681~1684)に描かれた最古の「東海道絵図」の中で、江戸から五十里と記され、北側の塚しか描かれていません。幕末の文献「島田宿並井両裏通家別取調帳」では巾五間二尺で北側のみ、塚の上には榎が植えられていたことが記されている12:10反対側の歩道沿いに「甘露の井戸水」ご自由にどうぞと12:12旧東海道の本通り、製茶処「佐の幸茶店」。店の横にお地蔵さんお地蔵さん(七商会)「金運上昇」所在地:静岡県島田市本通7丁目12:13旧東海道の本通りから路地を入り。曹洞宗 佛殿山林入禅寺所在地:静岡県島田市祇園町8512-1林入禅寺本堂12:17林入禅寺の東にある「須田神社」須田神社鳥居と本殿須田神社の境内に「大井川の川越し」のポスター2019.4.6(土) ~ 5.26(日)須田神社の境内と本殿12:23旧東海道に戻りJR島田駅方面へ12:24刀匠 島田顕彰碑と島田刀鍛冶の由来碑島田の刀鍛冶は、室町時代より江戸時代末期にいたる約400年間の歴史をもち。繁栄期には、この島田に多くの刀工が軒を連ね、鍛冶集団を形成していたという。その系譜は、義助・助宗・広助を主流とし、作風は、相州風・備前風などのみえる業物打ちであった。・・・・・・・島田鍛冶集団は、中世末期から近世にいたる島田の歴史のなかでも、とりわけ燦然と輝いている12:26現在の地図における江戸時代の史跡場所旧東海道の島田の宿場の様子が案内図により説明12:27旧東海道(県道34号線)の本通りはモール化しまだ おすいマンホール「帯祭」12:29おび通りに建つ「からくり時計塔」。所在地:静岡県島田市本通4丁目。この通りは平成20年度国交省の美しいまちなみ優秀賞を受賞している。この場所は旧東海道の宿場の中心で、下本陣があった場所。からくり時計塔の下に「下本陣跡」「島田宿本陣跡」がある。からくり人形出演時間:午前10時~午後8時までの1時間ごとにお出まし島田宿本陣跡島田宿には、西から上本陣村松九郎治家、中本陣大久保新右衛門家、下本陣置塩藤四郎家の三軒がありましたが、脇本陣は有りませんでした。参勤交代の行列は、数百人から千人以上に及び、戦のときの行軍と同じと考えられていたため、大名の泊まる宿を戦場と同じく「本陣」と呼んだといわれた下本陣を示す碑で置塩藤四郎家跡からくり時計塔12:31天野屋横に「本陣跡」の碑12:32上本陣 村松九郎治家跡の石柱ホテル割烹 三布袋に上本陣の碑がある。「サンポテイ」と読み150年の歴史がある俳聖芭蕉翁遺跡・塚本如舟邸跡12:33芭蕉は島田宿の俳友塚本如舟を二度訪ねており、ニ度目は元禄7年(1694)5月で芭蕉最後の旅となった。その際、大井川が川留になっており4日間も如舟の家に滞留することとなった。碑にある句には如舟のもてなしへの謝辞がこめられている 藤枝駅から金谷宿ー続く
2019.05.24
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今日23日は、私の「??回目」の誕生日。島田宿のJR六合駅近くから蓬莱橋へ向かう。3/27(水) 10:48旧東海道(県道381号線)の大津谷川に架かる「栃山橋」栃山橋から大津谷川下流両岸には桜並木、JR東海道本線静岡空港(富士山静岡空港)の標示10:49栃山土橋。大津谷川と伊太谷川が、この橋の川上で合流して栃山川と名を変える。昔は「島田川」とも呼ばれていた。享和3年(1803)に書かれた「島田宿書上控」によると、江戸時代の「栃山橋」は土橋で、長さ17間(36.6米)、横幅3間(5.4米)、橋杭は3本立て7組で支えていた。土橋とは、板橋の上に柴(木の枝)を敷き、その上に土を貼ったもの。この橋の東端が、当時の道悦島村と島田宿の境となっていた道路脇に咲く???10:51監物川と監物橋寛永12年(1635)、島田宿は田中藩の預所となり、田中城主であった水野監物忠善の支配下にはいった。志太郡一帯を支配することになった監物は、水不足に悩む栃山川以東の村々のために、灌漑用の水路を作ることを計画した。そして島田宿の南(横井)に水門を設けて大井川の水を取り込み、そこから栃山川まで水路を開削して大井川の水を引き入れた。感謝した農民たちは、その名前を後世に残そうと、この水路を「監物川」と呼び、東海道に架けた幅三間、長さ二間の短い土橋を「監物橋」と呼んだ10:52旧東海道(県道381号線)の御仮屋交差点10:53夢舞台東海道道標「島田宿」金谷宿 宿境まで三十三町(3.6km)。藤枝宿 宿境まで一里二十三町(6.6km)10:54旧東海道(県道381号線)の御仮屋交差点。旧東海道はここを直進して「本通り(県道34号線)」へ11:04升形跡(宿東入口)宿場の出入口には「見付」と呼ばれた施設がありました。もともとは城門の見張り施設のことをいった。宿場の見付は、上に柵や竹矢来を設けた石垣や土手で、街道に直角や駒の手に区画したり、または三方をコの字型に囲った升型の見付もありました。島田宿の東入口には、例の少ない升型の見付が設けられていた。広さは五間四方(約80m)ほどです。ここに宿場の番人を置いたという記録は有りませんので、宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所だったようです旧東海道(県道34号線)の本通り11:07本通り商店街を歩くがここもシャッター街歩道のマンホールには江戸時代の侍が描かれていた11:08中村菓子舗所在地:静岡県島田市本通7-7739もともとは和菓子専門だったが、現在の店主から洋菓子を創作するようになったと。ここを右折して約500m先の「蓬莱橋」へ向かう11:10JR東海道本線の「第一相良街道踏切」を渡る、この地点は東京から206K923MJR島田駅方向しまだ おすいマンホール「蓮台越 大井川」11:13高野山島田教会、高野山蓮花院別院の石柱所在地:静岡県島田市宝来町2-18境内には右側にふじ棚こじんまりした三重塔修行像11:16蓬莱橋へ350m交差点を渡り11:20ショッピングモールの「アピタ島田店」所在地:静岡県島田市宝来町8-2こちらには多くの車が訪れていた、本町通りがシャッター街になるのも当然か11:21県道342号線(河原大井川港線)の蓬莱橋交差点アピタ島田店と県道342号線(河原大井川港線)沿いの蕎麦屋11:22蓬莱橋(ホウライバシ)所在地:静岡県島田市南二丁目地先。明治12年(1879)対岸にある牧之原台地を茶畑に開墾した農民の出資により、大井川に架けられた木造の橋。その名残りで今でも橋を渡るには、料金がかかる。ここまでの歩行数は、14,300歩蓬莱橋 通行料金表大井川蓬莱橋渡橋記念:渡橋料 100円を購入 NO.071185英国ギネス社認定 世界最長の木造歩道蓬莱橋通行止めのお知らせ。蓬莱橋上部工架替工事のため、2019年3月31日まで途中までしか行けない橋の手前の広場に立つ「勝海舟之像」。何故ここに、勝海舟の像があるのか?ギネスブック世界記録認定証書。「世界一長い木造歩道橋」。橋の長さ:897.422m 橋の幅:2.700m。蓬莱橋は、1997年12月30日英国ギネス社より、人が歩いて渡る「世界一長い木造歩道橋」として認定された橋の下に降り見上げる太い木が地中に、どのくらい入っているのか橋は大きな木で組み上げられている勝海舟は、咸臨丸の船長として渡米し、この時にお茶が世界的な商品価値を秘めていることを認識する。帰国後、新政府の要職を歴任、明治2年(1869)勝海舟たちの命を受け、中條景昭、大草高重が指導する旧幕臣たちが、牧之原で1425haの茶畑の開墾を開始した。この時、海舟は様々な問題に関して相談を受け、経済的な援助も惜しまなかった明治8年(1875)に官職を辞した後も、陰に日なたに牧之原開拓士族を物心両面で協力し続けた。また、明治6年(1873)には、仕事を失った川越人足たちも約30haの茶畑を開墾し始め、明治11年(1878)には約41haに拡張された。この過程で対岸の島田から開墾に参加する者や、牧之原から大井川を渡って島田と交流をもつ旧幕臣が増えた。当初は小船を利用して大井川を渡ったが、あまりにも大変であったため、許可され架けられたのが「蓬莱橋」である大井川の上流側、河川敷にはたくさんの流木途中まで行けるとのことで渡るが、風が強く欄干がないので怖い弥次さんも風で帽子が飛ばされるので、手に持ち引き返す下流側には東海道新幹線の橋梁も。近年は上流にダム等が造られて、水嵩も減っている大井川風が強く怖いので早々に引き返す11:28大井川の上流側前方土手下に島田球場の照明塔が見える 藤枝駅から金谷宿ー続く
2019.05.23
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千貫堤・染飯伝承館から島田宿へ向けて歩く。千貫堤の側にJR東海道本線の瀬戸踏切があり、昭和34年(1959)新幹線の開発と実現を目指し「こだま高速度試験」が藤枝~島田間で実施され、瀬戸踏切付近で狭軌線世界最高速度の「時速163km」を記録。さらに一里山踏切西~陣屋踏切東の間に試験線(第3線)を敷設して広軌化に向けて各種試験が続けられた。当時私もこのニュースを聞いて当時の国鉄学校へ行こうかと思ったが!3/27(水)9:48千貫堤・染飯伝承館近くで、芝桜がきれいに咲き始めていた旧東海道(県道222号線)へ向かう9:51旧東海道(県道222号線)沿いの「育生舎跡」明治初年の学校「育生舎」。明治5年8月 2日:学制発布明治7年4月14日:上青島村、下青島村、内瀬戸村、瀬戸新屋村、久兵衛市右衛門 請新田村の五ヶ村が聠合し、上青島村一番地(庄屋 小沢家の所地) に公立小学校を創設、育生舎と名づけ開校した9:54旧東海道(県道222号線)の松並木9:55旧東海道の左手前に立杭が田中藩領牓示石蹟の石柱と説明板。江戸時代は細かく藩を区分して行政をしき、田中藩も他領と入り組んでいたため、藩境に境界を示す牓示石を立てた田中藩領土青島は、横須賀藩領の下青島村と複雑に接し、また、この標石を立てた少し前、上青島村の一部が旗本日向銕太郎の所領となっている。この標石は一丈余(約3m)の石柱で「従是西田中領」と書いてあった。これと対になるのは田中藩領細島村の西端と考えられる。市内には瀬戸新屋村と鬼島村に田中藩領の牓示石があった9:56このような松並木を見ると昔の東海道情景を思い出す。心癒されるこのような風景をいつまでも残してほしいものですネ!9:57松の根も浮き上がり10:01旧東海道(県道222号線)の青島焼津街道10:02青島酒造㈱「喜久酔(キクヨイ)」所在地:静岡県藤枝市上青島246番地喜久酔ブランドで有名、一説には皇族もご愛飲とか朝比奈川、瀬戸川、大井川水系の伏流水に恵まれ、水・米・杜氏の三拍子が揃う藤枝は昔から銘酒を生み出してきた。四つの蔵元が造るお酒はどれも華やかな香りと、やわらかなうまみ、さわやかなのど越しで飲む人を楽しませると。テイクアウト専門の「東海道 写楽」店がある道路をはさんで、路地を入ると酒蔵がある酒蔵と、手前の壁の落ちた土蔵旧東海道沿いの店舗軒先にぶら下がる杉玉10:07旧東海道(県道222号線)の青島焼津街道の東光寺谷川の瀬戸橋を渡る瀬戸橋の横にある広場、枝垂桜が植えられ「御小休所阯」の石碑10:12旧東海道(県道222号線)の松並木(青島焼津街道)を歩き島田宿へ向かう松並木の先に夢舞台東海道道標と石柱。松並木が旧東海道の姿を醸し出している10:14夢舞台東海道道標「上青島の一里塚跡」 道標には島田宿 宿境まで二十九町(3.2km)藤枝宿 宿境まで一里五町(4.5km) 日本橋から51番目の一里塚、ここまでの歩行数は、7,520歩所在地:静岡県藤枝市上青島右側の写真は昭和57年に発掘調査され、塚のかたちを表す円形の石積みがみつかった10:18旧東海道(県道222号線→381号線)と合流「一里山交差点」10:20旧東海道(県道381号線)沿いの唐揚げ専門「はっぴ商店」所在地:静岡県藤枝市上青島660-1おいしそう!!!10:21道幅の広い旧東海道(県道381号線)を進む10:23島田市へ入り「島田宿」。慶長6年(1601)東海道設定と同時に宿駅となったが、その3年後に大井川が氾濫し、発足したばかりの島田宿は濁流に流され全滅した。元和元年(1615)堤防工事は完成し寛永12年(1635)に再建された10:24宿の西端の大井川は東海道一の大河だが橋も渡船もなく、人足の手を借りる徒渡しだった。梅雨時にはたびたび川留となり、島田村と対岸の金谷宿は足止めされた旅人であふれた。川留が長引くと暇つぶしに博打に明け暮れたり、飯盛女を呼んで騒いだり、客同士の喧嘩やトラブルも多かったが、宿場は大いに儲かり、東海道の中でも裕福な宿場だった。道路標識は国道一号線となっているが、現在は旧東海道(県道381号線)となっている。ガムテープを貼っていたが剥がれている10:25島田は室町から戦国時代にかけて刀鍛冶が多く集まり刀の生産地だった。江戸時代の初期でも刀鍛冶が十一軒あった。名物は小鰻頭、大井神社に伝わる「帯まつり」は、奇祭として有名であると。弥次さんが何か撮影?平成31年2月17日(日) 後午後5時。スーパーボランティア尾畠氏通過と。写真はリヤカーを引く尾畠氏ソウル ~ 東京。2015.5.14 「朝鮮通信使が通りました」と10:28旧東海道(県道381号線)、島田金谷線を進む10:28日本橋から206km、京都まではまだ半分も来ていないのだ!所在地:静岡県島田市道悦(ドウエツ)一丁目10:32道路キロポスト206.2kmの上は「国道一号線」とあるがシールが貼られて10:33街道沿いに「味処 魚一」。所在地:静岡県島田市道悦5-1-18明治元年創業というお店で、旅館だったこともあり、お店の雰囲気は他にはない貴重なもの。女将さんたちは着物姿で感じよく接待。料理も一品一品丁寧ですと10:34キロポスト206.4km 国道1号線がみえる。この先の交差点は「島田市道悦交差点」、旧東海道は右前方へ10:35旧東海道(県道381号線)から「JR六合駅」10:36JR六合駅前の、旧東海道(県道381号線)「島田市道悦交差点」10:37振り返り「JR六合駅舎」10:44旧東海道(県道381号線)の「道悦島西交差点」を振り返る10:45夢舞台東海道道標「道悦島」10:46旧東海道を振り返る、県道381号線は右方向へ 藤枝駅から金谷宿ー続く
2019.05.22
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延べ回数15回目の3/27(水)の弥次喜多道中記です。この日も天気が良いとの情報でいつもの電車でJR藤枝駅へ向かった。3/27(水) 6:00早朝の茅ヶ崎駅北駐輪場から駅へ向かう。朝は肌寒くジャンバーを着て6:08コンビニでパン&おにぎりを購入して改札口へ今回は青春18きっぷの3回目8:34静岡駅で浜松行きの電車に乗継ぎ、先頭車両に乗り鉄撮り、安倍川を渡る8:38安倍川駅を過ぎ用宗(モチムネ)駅、隣を東海道新幹線が走る8:39線路脇の菜の花がきれいに咲き8:418:44焼津(Yaizu)駅8:48昔仕事で訪れた「バスクリンのツムラ(旧 津村順天堂)」の静岡工場8:49JR藤枝駅が見えてくる8:50JR藤枝駅8:52約2時間半でJR藤枝駅へ到着。サッカーの蹴球都市、藤枝市「サッカーと時間を刻む」8:53藤枝駅北口駅前広場のふじ棚の下に建つ「青地雄太郎先生の像」。胸元にはたくさんの勲章がかかっている銅造である。ネットで調べると藤枝駅を誘致し地域に発展をもたらした功労者とのこと。志太郡前島村(現・藤枝市前島)出身の政治家。若くして志太郡青島村初代村長となり、村政に心血を注ぎ、地域の発展に大きく寄与したと藤枝駅北口駅前広場。藤枝駅ができる以前の青島地区は、東海道と田沼街道沿いにのみ集落が発達し、後は広大な田園の中に数戸単位の小集落が点在する散村が見られるだけだった。雄太郎の出生地である前島も、田沼街道沿いに集落があるだけで、後に駅となる場所は一面の田園地帯だったという。当初明治20年(1887)5月には藤枝宿を通るものとして、土地の買収が進んでいたが、6月になり突如取り消しの通達。この状況にあった明治19年7月雄太郎は東京専門学校を卒業し前島村に帰郷、鉄道敷設計画を知るや、その誘致に奔走した8:55現在の住居表示街区案内図その結果、明治22年(1889)4月16日、静岡・浜松間に鉄道が開通、前島に設置された藤枝停車場が開業した8:56駅北口の「お弁当・仕出料理 喜久屋」所在地:静岡県藤枝市駅前1-6-19県道222号線沿いにあり、藤枝名物の染飯がオススメとのことで立ち寄るが定休日名物の染飯は、クチナシで黄色に染めた強飯をすりつぶし薄く小判形に乾かしたもので、染飯と呼んだ。瀬戸山を越える携行食でもあり、茶店で食べる際は蒸し返して客に出したと。道中昼食で食べようと思ったが残念!当時の浮世絵8:59駅前神社9:11小さな「秋葉神社」9:12旧東海道(県道222号線)、懐かしい松並木9:15六地蔵尊堂所在地:静岡県藤枝市瀬戸新屋4この六地蔵尊は歴史的にも古く、東海道筋の霊験あらたかな由緒ある霊場としてよく知られており、人々の帰依も篤く尊ばれており、駿河国二十四番札所第九番の霊地に指定されている六地蔵尊のご利益は「災難削除」「延命長寿」「家内安全」「交通安全」等で、近郷近在からの参拝者は絶えることがなく、東海道に面していることから、著名な旅人が数多く祈願されたとも伝えられている。お堂の額の「鏡池堂」の文字は、儒学の大家渡邊崋山がこの地を行脚したときに揮毫したもの六地蔵尊は、このお堂の近くに神龍が棲んでいたと伝えられる鏡ヶ池から出現し、庶民の安穏祈願のため、玄昌行者の手によって今から八百年余りも前の承安3年(1171)に玄昌庵と称する祠で、鏡ヶ池の畔に祀られたといわれている六地蔵尊の縁日は、毎年8月23、24日に行われており、夜店が並び余興もあって、楽しく賑やかな場となっている9:18古東海道蹟。昭和30年代までは、ここから西に瀬戸山の丘が続いていた。この碑の所から細い道が瀬戸山の上を通って、山を下りると内瀬戸の部落へ通じていたこの道が中世からの瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道である。松並木の東海道ができた頃も、大井川の洪水が山裾に寄せたときは、旅人は丘の上の道を通った。島田から志太の山沿いに藤枝への道を通るようになったのは、鎌倉幕府を開いた翌年源頼朝上洛の帰路が初めてであるといわれる9:19旧東海道(県道222号線)の向かい側に「東海道追分」の石柱。ここには瀬戸山を越える中世の古東海道と、山裾に沿う旧東海道がある。瀬戸新屋や水上は池や湿地が多い所だったので、東海道が六地蔵の所を通るようになったのは、開拓が進んでからである。当時、東海道はこの碑の所から東へ竜太寺山をまわり、前島境で初倉からの道と合して南新屋(五又路)へ通っていた。東海道が瀬戸新屋を通るようになって、東海道とこの古道と分かれる所を追分と呼んだ。古道はその後も主要道路として、青島村当初の学校や役場が沿道に置かれた9:20東海道追分の石柱から、旧東海道(県道222号線:青島焼津街道)へ9:23旧東海道の松並木9:26右側に赤い看板の「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」9:27旧東海道(県道222号線)沿いに「瀬戸古墳群供養塔」所在地:静岡県藤枝市下青島社の横に「瀬戸古墳群供養塔」9:28旧東海道(県道222号線)沿いに「市指定文化財 瀬戸の染飯版木」の木柱旧東海道から路地を入ると案内板が立つ千貫堤(センガンヅツミ)。寛永12年(1635)田中城主となった水野監物忠善は領内を大井川の洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山(今はない)をはさみ本宮山(正泉寺裏山)まで約360米にわたり、高さ3.6米、巾29米の大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築したのでこの名がある昭和40年代の土地開発によって、池田山および藤五郎山は、中学校の運動場の造成や新幹線等の盛り土に使われ消滅した。現在は石野家の南側に、約40mの堤がそのままの姿で残っている9:33千貫堤・瀬戸染飯(セトノソメイイ)伝承館所在地:静岡県藤枝市下青島1006-3千貫堤・瀬戸染飯伝承館は、藤枝市指定史跡「千貫堤」と、江戸時代の名物「瀬戸の染飯」を伝承する目的で平成21年に開館した開館時間は10時からであったが、丁度ボランティアの方がおられて開けてもらう伝承館内でボランティアの方に説明してもらう。ここで「藤枝名物の染飯」を期待したが販売はしていなかったのが心残り!瀬戸の染飯は、東海道に面した上青島村瀬戸町(現在の藤枝市上青島付近)の茶屋で、戦国時代から売られてきたもので、東海道の名物として広く知られていた。染飯は、強飯(コワメシ)(餅米を蒸したもの)を、”クチナシの実”で黄色く染めてすりつぶし、小判型などに薄く延ばして、干して乾かしたものです。乾燥した”クチナシの実”は山梔子と呼ばれる漢方薬として知られ、消炎・解熱・鎮痛・利尿などの薬効があるとされていた。くちなしの汁で染めた染飯は、旅人にとって足腰の疲れを取る食べ物として評判が良かった。「名物 瀬戸御染飯」と彫られた壺型の版木(市指定有形文化財)は、染飯を入れた紙袋や包装紙を刷るのに用いたもので、明治中期まで染飯を商っていた石野家に残されている。江戸時代後期の俳人・小林一茶は寛政4年(1792)に句作修行のため、西国行脚の道中「染飯や我々しきが青柏」という句を詠んだ瀬戸は上青島村と下青島村の字名であり、藤枝宿と島田宿の中間に位置することから、江戸時代中期まで東海道の立場(旅人の休憩場所)でした葛飾北斎画(パンフレットから)。残念ながら「瀬戸染飯」の味は確認できず東海道藤枝宿9:48千貫堤・瀬戸染飯伝承館をあとにして、島田宿へ向かう 藤枝駅から金谷宿ー続く
2019.05.21
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藤枝宿から今日のゴール点、JR藤枝駅へ向かう。3/20(水) 16:21大慶寺本堂(祖師堂)。所在地:静岡県藤枝市藤枝4-2-7本堂屋根は入母屋屋根の正面流れに千鳥破風を取り付け、さらに向拝を軒唐破風としている。社殿様式権現造りの拝殿部分を模していて、優美さの中にも荘厳な雰囲気をかもしだしている本堂には田中城祈願寺の表札久遠の松と「道円・妙円の墓碑」。道円・妙円両夫婦のお墓は、本堂庭先の「久遠の松」の前に建つ石彫大宝塔の最下部に安置されている(鎌倉時代の墓)久遠の松(天然記念物)は日本名松百選の一つ。日蓮聖人お手植えの松で樹齢750年余年の黒松、樹勢旺盛で枝振りが四方に張り出て誠に見事である。松としては最高の樹齢で全国まれにみる大木で天然記念物に指定されている。高さ14間(26m)、根元周囲23尺(7m)、現在、板振り東西30m、南北30mまで成長している。昭和58年「日本名松百選」に選出された弥次さんが御朱印を頂く間に境内を散策。境内の史跡(田中藩士等の墓碑)境内には田中城主太田資直公、本多正供公姫君、本多正珍公側室、漢学者石井縄斎、国学者熊沢惟興先生の墓碑を初めとして家老(重富、高瀬、岡本、・・・・・・)以下武士のお墓があり、また地方文化発展・・・・・・・・の墓碑もある16:36夢舞台東海道道標「藤枝宿 上伝馬町」道標には島田宿 宿境まで二里四町(8.3km)岡部宿 宿境まで一里十九町(6km)16:38旧東海道(上伝馬通り:県道32号線)の歩道路面に「下本陣跡」。足元の路面にあるので見落とす可能性があるので要注意!16:39旧東海道(上伝馬通り:県道32号線)の歩道路面に「上本陣跡」所在地:静岡県藤枝市藤枝3-2人通りの少ない旧東海道(上伝馬通り:県道32号線)16:40旧東海道(上伝馬通り:県道32号線)の路面に「問屋場跡」16:42旧東海道(県道32号線)沿いにある「浄土宗 正定寺」境内にある「本願のマツ」。正定寺境内の本堂前にあるクロマツで、傘形に枝張りした美しい姿に整えられている。この場所は江戸時代の東海道「藤枝宿」の宿場町の西木戸口近くにあたり、古図などに描かれている。松は享保15年(1730)に田中藩主であった土岐丹後守頼稔が大坂城代となった時に寄進されたものであるという由来が伝わっている浄土宗 正定寺山門所在地:静岡県藤枝市藤枝2-3-27本願の松松の大きさは、目通:3米、樹高:六米三十、枝張東西:十一米五十、南北:十四米藤枝市指定天然記念物に指定されている「本願の松」。丹後守は境内の弁天堂に祭られている弁財天の信仰が篤く、大坂城代に登用されるに当たり報恩謝徳のために植えたといわれ、別名を延命の松という。弁天堂は老朽のため明治45年に解体され、昭和47年に再建された本堂と本願の松境内にある「弁天わらべ地蔵」16:48瀬戸川に架かる「勝草橋」所在地:静岡県藤枝市藤枝1-1-1瀬戸川の上流側。桜や彼岸花、金比羅山緑地の桜を見ることができる。明治8年(1875)11月に初代勝草橋が瀬戸川に架けられ開橋となった。勝草橋という名前は旧幕臣の伊佐新次郎岑満が付けたものといわれる。伊佐は江戸幕府の時代に下田奉行所支配組頭として外国との交渉に当たるなど活躍し、唐人お吉の物語にも登場している。彼は明治維新によって徳川家に従って駿府入りし、廃藩後には牧之原の茶園開墾に尽くすとともに、書道・漢籍に深く通じていたため・・・・・・・・勝草橋の名前の由来。由来には二つの説が伝えられており、一つはむかし田中城の兵が付近の河原で合戦して勝利を得たことから、勝軍橋といっていたのが縮まって、勝草橋になったという説。もう一つは志太という地名が植物のシダ(羊歯)の読みと同じで、シダの異名を勝草と称することから志太橋という意味で勝草橋になったという説16:51瀬戸川を渡り「志太一里塚蹟」へ奈良時代、官道の四里毎に駅を置く制度があり、中央からの里程を知るようになっていた。主要街道の一里毎に里程標を置くようになったのは、織田信長の時代に始まるという。徳川家康は子秀忠に日本橋を起点に東海道に一里塚を築かせた。志太一里塚は江戸から約200kmで50里目に当たり、瀬戸川堤から西へ約50m・岡野歯科医院の裏と、熊切商店の前の街道の両側にあった。藤枝市内では志太の他、鬼島と上青島に一里塚があり、上青島には近年まで塚蹟が残っていた当時の宿並み「東海道藤枝宿 上伝馬町」瀬戸川に架かる「勝草橋」を振り返る16:52旧東海道を歩き、国指定跡「志太郡衙跡」16:53為善館について明治6年5月、志太村家地太67、68番地に為善館が創設された。この学舎は明治43年の、瀬戸川大水害のため流出して確認が困難であるが、現記念碑の建っているあたりと推定される。これは、寺小屋の・・・・・・・・16:58旧東海道を歩く。道路脇に松がはみ出し17:00旧東海道を振り返る17:01岡野繁蔵(1894~1975) 出生地の石柱。「裸一貫から南洋のデパート王」となった繁蔵は明治27年青島村のこの地に生まれた青島小学校、育英学校に学び、21歳でインドネシアのスマトラ島に渡り大信洋行を興し雑貨貿易商として成功し、更にスラバヤに千代田百貨店を経営し隆盛を極めましたが太平洋戦争でやむなく日本に引上げた。戦後、衆議院議員に当選し、国や郷土のために貢献したが、昭和50年81歳の生涯を終えたと17:03旧東海道を歩き「青木交差点」へ17:04青木交差点は、県道381号線と225号線の五差路。正面が旧東海道の島田宿方面、ここまでの歩行数は35,500歩17:07青木交差点から県道225号線を南下して、JR藤枝駅へ17:15県道225号線を歩き正面にようやくJR藤枝駅が見えてくる歩道面に「FUJIEDA」17:17JR藤枝駅北口へ到着、ここまでの歩行数は、36,970歩であった17:19改札へ向かうが、その前にビールとつまみを購入ここの駅舎も新築されていた改札を入る17:29の熱海行きに乗ることにホームへ17:29熱海行き電車が到着丸子宿では「とろろ汁」は食べれず。宇津ノ谷峠を越え、ひたすら歩いた道中記でした。今日の歩行数は、JR安倍川駅からJR藤枝駅まで8時間40分、35,000歩でした。帰りは、青春18きっぷにて普通電車で帰るが約3時間を要し遠い。電車内で疲れを癒すためにビールを飲み、地元に帰ってからも居酒屋へ立ち寄り、自宅へは21:30 丸子宿から藤枝宿-END
2019.05.17
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シャッタ―街の藤枝宿を散策しながら今日のゴールJR藤枝駅へ向かう。失礼!水曜日で休日だったのか?郊外に大型モールがあるのでどうしても客筋は車を使用してそちらへ!!3/20(水) 15:20旧東海道(さわやか通り)の藤枝市本町三丁目。電柱には「サッカーエース最中」15:22恵比寿大神 大黒天恵比寿大神 大黒天15:23東海道藤枝宿。藤枝市には名所史跡が点在している。伝統と歴史を今に伝える「ふじえだ」。藤枝宿は他の宿場のようにひとつの町や村が宿場になったものではなく、街道に面した志太群、益津群の一部の町がそれぞれの親村に属しながら宿駅の役割を担ってきた。そのため町並みの長さは2kmと長かった。宿場の西には老中・田沼意次の領地の相良に通じる田沼街道があり、藤枝は交通の要衝でもあった藤枝宿の名物は、クチナシで黄色に染めた強飯をすりつぶし薄く小判形に乾かしたもので、染飯と呼んだ。瀬戸山を越える携行食でもあり、茶店で食べる際は蒸し返して客に出した。東海道藤枝宿の左車町、下伝馬町、白子町15:27旧東海道(さわやか通り)のシャッター街を歩く15:30シャッター街を歩くと歩道の路面に徳川家康 ゆかりの町の看板が目に入る白子由来記の石碑。所在地:静岡県藤枝市本町2-6-1天正10年(1582)、本能寺の変に際し、追ってから逃れるため伊賀から伊勢に入った家康は、野武士に襲われたところを三重県鈴鹿市白子町出身の百姓・小川孫三に助けられた。孫三は藤枝に白子町を安堵され、諸役免除の朱印を与えられた凡今より三百九十年前本能寺変の折、伊勢白子の住人・・・・・・・小川孫三の紹介家康は伊賀路を越え野武士に襲われたがどうにか逃れ、伊勢の国白子に着いた。家康はこの町の住民小川孫三に、海を渡る船を手配することを命じた。孫三は、夜にまぎれて小船に家康を乗せて、若松の浦より漕ぎ出して夜を徹して海を渡り、尾張の国床鍋に船を着けた。重ねて家康の仰せに従い三河の国大崎まで送り届けた。孫三はここより伊勢の国に帰った。その後の事情により岡崎城に来て、家康に仔細を話した。家康は孫三の話を良く聴いた後、当地に移住することを許可し、この地芝間を新白子町と名づけ、地子諸役免除の御朱印を賜った 天正14年8月14日(御朱印)15:37旧東海道(長楽寺通り)のシャッター街を歩くと歩道に案内15:39臨済宗・妙心寺派 青龍山長楽寺所在地:静岡県藤枝市本町1-10旧街道から参道を歩き境内へ。藤枝市七福神巡りのお寺にもなっている長楽寺、数々の伝説・由緒あるお寺山門を入ると広い境内が広がり長楽寺本堂15:47旧東海道(長楽寺通り)の蓮華寺池公園入口バス停蓮華寺池公園入口バス停。夢舞台東海道道標「藤枝宿」15:49浄土真宗 熊谷山蓮生寺所在地:静岡県藤枝市本町1-3-31田中藩藩主・本多氏の菩提寺。由来には源氏の武将・熊谷直実の伝説が絡んでいる。直実は、源平一ノ谷の合戦で自分の息子と同じ年頃の平敦盛を討ち取ったことで悩み、出家し「蓮生」と名乗った。故郷の熊谷に帰る途中、藤枝の長者に路銀を借りようとして、、十念(念仏を十篇となえること)質草とした。(下へ続く)すると長者の庭の池に十本の蓮が生え、花が咲いた。後日、蓮生が長者にお金を返し長者が質草の返却にと念仏を唱えると、念仏一篇ごとに蓮が消えはじめた。長者は驚き最後の一本を残してもらった。長者はこの奇跡に感服し仏門に入り、屋敷を念仏道場としたのが寺の始まりという。蓮生寺本堂本堂前の枝垂桜枝垂桜が一分咲き境内に「親鸞聖人の像」本堂の鬼瓦。蓮生寺本堂は明治37年の藤枝大火により焼失後、大正2年に再建され、平成15年に屋根瓦と白壁が全面改修された。この鬼瓦は本堂屋根に飾られていたもの本堂裏にある天然記念物の「蓮生寺のイブキ」。根廻:1.65m、樹高:6.8m、樹齢:約700年蓮生寺のイブキイブキは、ヒノキ科の常緑高木でビャクシンともいわれ、幹がねじれる性質もある。雌雄異株であるが、蓮生寺のイブキは雄株である。球果は熟して紫黒色となる。蓮生寺のイブキは、明治36年1月木町から出火した大火のため一部類焼したが、その後樹勢を復活し今日に及んでいる鐘 楼15:56蓮生寺裏にある「蓮華寺池公園」。この先にコーヒーのスターバックス店がある蓮華池の周りは桜の木があったがまだ蕾は硬く。蓮華寺池公園は、市の中心に位置する花と水と鳥をテーマにした総合公園である。園内には200本を越えるふじの木が植えられ、ふじの名所としても知られている桜の木もたくさんあり桜の開花時が楽しみ15:58野外音楽堂やジャンボすべり台などさまざまな施設が整備され、市民の憩いの場として親しまれている16:12旧藤枝製茶貿易会社社屋所在地:静岡県藤枝市藤枝5-3お茶が輸出品として栄えていた時代を象徴する建物16:15旧東海道(ちとせ通り)の千歳交差点へ戻り、ここを右折して旧東海道を歩く旧東海道(ちとせ通り)の千歳交差点16:17旧東海道(ちとせ通り)を歩き、歩道の路面に「大慶寺」日蓮宗大慶寺・久遠の松(ダイケイジ・クオンノマツ)。田中城主の祈願寺で、本多氏の頃には家老以下藩士の大半が檀家になり「さむらい寺」と呼ばれていた。境内には日蓮上人のお手植えと伝わる「久遠の松」がある。樹高25m、推定樹齢約750年といわれる大慶寺の鐘楼堂と本堂(祖師堂)。所在地:静岡県藤枝市藤枝4-2-7円妙山大慶寺の由来。日蓮聖人京都遊学往復お立ち寄りの霊跡本堂内16:20本堂から境内の「久遠の松」を望む 丸子宿から藤枝宿ー続く
2019.05.16
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美濃國の岩村藩の飛び領地横内村を歩き、藤枝宿へひたすら歩く。3/20(水) 14:21旧東海道(県道81号線)を歩く民家の玄関先に屋号「興助さん」14:22右上に『 ⇒ 東海道横内村 ⇒ 』の木板左下に『仮宿區入口』岡部庁 、朝比奈 の石碑14:25旧東海道(県道81号線)、藤枝市狩宿歩道橋中央松並木の下に、「東海道横内」「是東岩村領横内」入口の道標(左側へ)岩村藩領傍示杭(岩村藩の飛び領地横内村)。岩村藩は美濃国の岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城とした3万石の藩。享保20年(1735)岩村藩主・松平乗賢が老中に出世し、横内村など周辺十五の村、計五千石の領地をもらった。このように本領から離れた領地を「飛び領地」という14:27藤枝市狩宿歩道橋上から焼津森線の焼津方面ここまでの歩行数は自宅から、24,300歩狩宿歩道橋上から焼津森線の森方面14:29従是西田中領従是西田中領の石碑この牓示石は田中領と岩村領との境界牓示標である。14:31旧東海道から県道208号線に合流14:32道標は、日本橋から197km「藤枝市八幡」。旧東海道はこの先を左方向へ、右は県道381号線。中央に「藤枝警察署 広幡交番」14:34旧東海道沿いに「廣幡尋常小学校跡」の立杭14:35旧東海道(県道208号線)の松並木、県道208号線は以前は国道一号線?14:42旧東海道(県道208号線)は、葉梨川に架かる橋を越える橋を渡り葉梨川の土手には桜並木14:46旧東海道(県道208号線)に建つ「常夜燈」常夜燈の下に「旧東海道 鬼島の建場」の石碑。石碑には、十返舎一九・道中膝栗毛からの文章が。「街道の松、枝を鳴らさず往来の旅人、互いに道をゆずり合い、泰平をうたふ。大井川の川留めが解けたので、岡部に帯留せし旅人・駕・馬と共に弥次郎兵衛、喜多八の二人も、そこそこに支度して、朝比奈川をうち越え、八幡・鬼島に至る。ここは宿場間のお休み処茶屋女「お茶まいるサアお休みなさいマシ」と進められるまま、昼間っからイッパイ・・・・・・・・・・・。わがまち藤枝のマンホール、県道208号線は「藤枝静岡線」14:48社軍司神社の鳥居14:50須賀神社所在地:静岡県藤枝市水守3丁目水守17ここまでの自宅からの歩行数は、26,500歩須賀神社の鳥居須賀神社のクスこのクスは樹齢およそ500年で、県下でも有数の大きさを誇り、御神木として大切にされてきた大木です。旧東海道の脇にあって、古くから往来する人々を見守ってきました。近くには「東海道中膝栗毛」などにも名所として登場する鐙ヶ淵(アブミガフチ)など、東海道ゆかりの史跡がある静岡県指定天然記念物のクス(数値は平成13年時)樹高:23.7m、根廻:15.2m、目通:10.9m、枝張:東西 21.2m、南北 27.9m御神木指定証大きくなりすぎて、幹の一部が空洞化してしまっているようで、覆いが被せられ露出しないようになっている須賀神社奥にある忠魂碑14:56須賀神社境内を後にする14:58旧東海道(県道208号線)と県道381号線の水守交差点へ向かう。建設中の「水守中央公園」水守交差点手前にある新設の水守中央公園15:08県道381号線を少し歩き、道を逸れて旧東海道(さわやか通り)へ。右側前方に藤枝成田山が見える15:09藤枝成田山所在地:静岡県藤枝市本町4-5-24成田山の歴史と左車(サグルマ)狭い境内にはいろんな像が水かけ不動尊ボケ除の像。心配なところを撫でてくださいとあり、光っているおでこを撫でる。何故、かぼちゃが光っているのか?15:12旧東海道(さわやか通り)を望む15:17旧東海道(さわやか通り)を歩き、街道脇に石柱。「従是西下傳馬」、「従是東左車」と彫られ上記石柱の横に「布袋和尚の石像」布袋和尚の説明板があったが、字が薄くて判読できなかったのが残念 丸子宿から藤枝宿ー続く
2019.05.15
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旧東海道の「サッカーロード岡部」を歩き藤枝宿へ。3/20(水) 13:02日蓮宗 見珠山正應院の山門弥次さんが御朱印を頂く13:04日蓮宗 見珠山正應院を出て旧街道を歩く。サッカーロードおかべ藤枝の手まりの館13:05旧東海道を歩き静岡県はサッカーが盛んでJリーグには次のチームが登録されている。 J1:ジュビロ磐田、清水エスパルス J3:藤枝MYFC、アスルクラロ沼津長谷部 誠は、藤枝市出身で藤枝東高校出身 1984年1月18日生まれ(35才)13:06藤枝手まり工房サッカーボールを手まりでアレンジ飾りに軒下に飾り13:08曹洞宗 瑠璃山光泰寺(ルリサンコウタイジ)所在地:静岡県藤枝市岡部町内谷424木喰仏 聖徳太子像五行菩薩はこの聖徳太子像を三日間で完成させている。丸みに満ち、おだやかな表情をもった像からは、日本廻国の大願成就を間近にし、83才にしてますます円熟味を増していく五行菩薩自身の心の表れが感じられる。現在、光泰寺本堂本尊脇に准胝観音菩薩像とともに安置されている13:11好光人形 岡部工房所在地:静岡県藤枝市岡部町内谷130岡部宿の大旅籠柏屋で「好光作 等身大雛人形」が展示されていた店頭のシャッターに貼り紙。「本年度は静岡店のみでの営業ですと」13:13道路面の「東海道 岡部宿」13:14県道208号線に合流枡形跡(マスガタアト)曲尺手(カネンテ)ともいう。本陣めがけて敵がたやすく侵入できないように宿場の出入り口に設けたもので、ここは道が直角に折れ曲がっている。また、ここには木戸と番小屋が設けられ、木戸番が毎日木戸を明六ツに開け、暮六ツに閉じた(朝夕6時)13:15旧東海道(県道208号線)13:16旧東海道の反対側に「五智如来公園」所在地:静岡県藤枝市岡部町岡部29ここまでの歩数は、21,400歩五智如来像向かって右から「阿弥陀如来」「釈迦如来」「大日如来」「阿閦如来」「宝生如来」田中城(藤枝城)城主であった内藤弌信の姫は、口が不自由であったが、岡部宿にあった誓願寺の本尊である阿弥陀如来に、願をかけると完治したという。成就のお礼に田中藩家老がこの五智如来像を寄進したといわれる。元は誓願寺の境内にあったが、寺が移転し、如来像だけがこの地に残された。五智とは大日如来が備える五つの智慧のことで、密教の金剛界曼陀羅で五智に対応する五尊の如来を五智如来という13:18トイレもあり休憩できる五智如来公園13:20池めん 岡部店所在地:静岡県藤枝市岡部町内谷641-3旧東海道(県道81号線)沿いのラーメン屋で、昼食をとることに店内のカウンター、ビールが欲しかったがまだ歩くので我慢!愛想のいい女性店員が対応してくれた私は、台湾ラーメン 850円 をオーダー。スープ、キムチ等の漬物類が食べ放題。また、ラーメンライス用のライスも無料弥次さんは「まぜそば」をオーダー。食べ方の説明、麺を食べた後、ライスを入れて食べると美味しいと!らーめんの食べ方14:00昼食をとり、旧東海道(県道81号線)旧東海道の松並木を歩く14:02松並木の根元にムスカリが咲いていたボケも咲き14:05東海道岡部宿の松並木は一直線、この先で国道一号線と交差国道一号線(藤枝バイパス)の高架下を通り島田方面へ。この先から旧東海道は、県道81号線から381号線に替わる14:06国道一号線の高架下にある石碑「これより東海道岡部宿」。来た道を振り返る、通ってきた松並木が見える14:08旧東海道は県道381号線から脇道へ入る道路脇にある「従是西巖村領?」の立杭岩村藩領傍示杭(岩村藩の飛び領地横内村)。岩村藩は美濃国の岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城とした3万石の藩。享保20年(1735)岩村藩主・松平乗賢が老中に出世し、横内村など周辺十五の村、計五千石の領地をもらった。このように本領から離れた領地を「飛び領地」という横内歴史案内14:11寺の塀に「油街途(アブラガイト)」と立杭曹洞宗 西了山慈眼寺(セイリョウザンジゲンジ)」所在地:静岡県藤枝市横内179御本尊:阿弥陀如来(平安時代)。開 創:慶長4年(1599) 開基の龍谷秀泉和尚が横内村の人々の協力を得て伽藍を建立し、藤枝市高田常楽院 六世学翁宗参大和尚を御開山に拝請して開創された境内に祀られている尊像。14:13旧東海道沿いにある立杭「高札場跡」郷蔵跡(ゴウグラアト)西村小路 代官屋敷14:17旧東海道沿いの町案内旧東海道沿いの町内会館。右側の歩いてきた街道を振り返る横内あげんだい。横内歴史研究会が、毎年8月16日開催している、盆送り火法要あげんだい「夏祭り川原供養祭」地元の有志により、平成20年度に復活された。慈眼寺から火を採って朝比奈川までもっていき、朝比奈川をたいまつ行列、迎え火専用船「慈眼丸」檀信徒による手作りの舟。こうして夏のお盆を迎える14:19朝比奈川の上流を望む 丸子宿から藤枝宿ー続く
2019.05.14
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岡部宿の「大旅籠柏屋」「内野本陣」を見た後、今日のゴール藤枝宿を目指す。3/20(水) 12:26一階の本屋敷には身分の高い武士が、二階には身分の低い武士や、商人などの庶民が泊まったといわれている。狭く急な階段を上り、二階の展示場へ二階の「二の間(客間)」駄賃高札御上洛東海道 文久3年(1863)宇津の谷峠峠越えの様子鞠子(丸子)名物とろろ汁屋が軒を並べている安倍川当時の川越の様子がうかがえる府中岡部藤枝嶌田大井川を渡る大名行列金谷大井川を渡る大名行列当時の絵をジオラマで紹介柏屋今昔現在の建物は天保7年(1836)に建てられたもので、旅籠屋だけでなく、質屋や郵便局などにも使われてきた12:32一階の、本座敷に飾られた雛飾り。安政3年(1856)京都で製作された「雛人形御殿飾り」、寄贈:山内 様。岡部宿の山内家に伝わった京風の様式の雛飾りで、京都御所内の御殿をかたどった建物3棟に40体以上の雛人形を配する豪華なものです。箱書きには、安政3年(1856)の年号が記されている。雛人形は、男女一対の内裏びなを中心として、後宮に仕える官女や御所に参内する公家たちが、階段を上り下りする様子など生き生きと表現されている。また、牛車の行列や雛道具なども御殿飾に賑わいを添えている。江戸時代の終わりごろに製作された雛飾りとしては、保存状態がよく、京風の格調高い御殿飾りは、地方に伝わる例として全国的にも珍しく貴重なものであると他の雛人形嘉永5年(1852)製作の雛人形12:36主屋歴史資料館を出て裏庭へギャラリー なまこ壁(左棟)、和食処 一祥庵(右棟)。和食処 一祥庵は、地場特産品を食材にした、四季の小鉢膳(一日20食限定)をはじめ、松花堂弁当、とろろ汁膳(季節限定)、蕎麦など旬の岡部の味覚を賞味できるとギャラリー なまこ壁内に飾られた雛飾り。昔の土蔵を改装したもので、貸ギャラリーとして個人やグループで利用できる開館時間は、9:00 ~ 17:00階段にも多目的棟ふくろい遠州の「可睡斎ひなまつり」ポスター開催:2019年1月1日(火) ~ 3月31日(日)さるぼぼ2,000体を飾る。「さるぼぼ」はさるの赤ちゃんに由来し魔除けや子宝、安産を意味するそうです。赤色やカラフルな色とりどりの吊るし雛を演出した和の空間であると12:46岡部宿本陣址旧東海道(県道208号線)の丸子宿方面内野本陣史跡広場本陣とは江戸時代に大名や旗本、幕府の役人などが使用した格式の高い宿泊施設の事。内野家は、元禄年間(1688~1704)に本陣職を命ぜられてから、明治時代に宿場の制度が廃止になるまでの約180年間、代々本陣職をついだ。当時の建物は残っていませんが、敷地はそのまま残されており、昭和48年には「岡部宿本陣跡」として市指定史跡となった発掘調査を終え広場として公開。この本陣跡は現在、当時の建物間取りを平面表示し、歴史文化や街道のたたずまいを感じられるよう門塀をイメージ再現した「岡部宿内野本陣史跡広場」として整備した内野本陣内の展示品旧東海道(県道208号線)の岡部北交差点。「岡部宿」奈良時代の街道は海沿い(現:焼津市)を通り、日本坂を上って安倍川を渡り駿府に達していた。藤枝から岡部を経て宇津ノ谷峠を越える街道は、中世以降に発達したもので、建久5年(1194)に源頼朝が鎌倉と京都を結ぶ鎌倉道を整備し、岡部宿を設立した。慶長6年(1601)東海道の伝馬制度設定の翌年に、岡部は宿駅となった旧東海道(県道208号線)の丸子宿方面。宿の町並み長さは13町50間(約1.5km)。山間の宿場で、幕府の公用荷物や人゚を運ぶ人足や馬を出すことは大きな負担であった。大井川が川留になると岡部にも泊まる客が増えたが、参勤交代のような大規模な通行があると、隣の丸子宿や藤枝宿から夜具を借りねばならなかったという。広重の保永堂版「東海道五十三次 岡部」にも、薪を背負った木こりや女性が峠道を歩く姿が描かれ、ひなびた山間の様子がうかがえる12:48問屋場跡幕府の公用旅行者のためにつくられた施設で、人夫や馬を常備し次の宿場まで、旅行者や荷物を無料で継ぎ送りました。しかし、公用の仕事がない時には、一般旅行者や荷物を有料で送った。岡部宿には、岡部本町と加宿内谷の二か所に問屋場があった初亀醸造㈱所在地:静岡県藤枝市岡部町岡部744純米吟醸『べっぴん』を販売、評判がいいと!朝比奈川、瀬戸川、大井川水系の伏流水に恵まれ、水・米・杜氏の三拍子が揃う藤枝は昔から銘酒を生み出してきた。四つの蔵元が造るお酒はどれも華やかな香りと、やわらかなうまみ、さわやかなのど越しで飲む人を楽しませると12:50旧東海道は県道208号線から左に入る上記角に、夢舞台東海道道標「岡部宿」藤枝宿 宿境まで???(??km)。丸子宿 宿境まで???(??km)12:51小野小町の姿見の橋小野小町は絶世の美人であり、歌人としても有名であった。晩年に東国へ下る途中この岡部宿に泊ったという。小町はこの橋の上に立ちどまって、夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして、過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだと言う。こんな事があって、宿場の人たちはこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名づけたという12:54高札場跡高札場は、宿場内の目立つ所や、人々の多く集まる所に設置され、法度や掟(法律や条令)、犯罪人の手配などを木札に書き高々と掲げて、社会の人々に知らせた所です。高札が、四ツ辻(交差点)などに建てられると、そこを「札の辻」と呼んでいた旧東海道沿いの高札場跡近くに「弘法大師堂」12:54日蓮宗 見珠山正應院所在地:静岡県藤枝市岡部町内谷旧東海道から参道を入り山門へ。境内には桜がたくさんあり4月には桜が最高では日蓮宗 見珠山正應院12:58境内には桜、ツツジがたくさん本堂と多寶塔(タホウトウ)。多寶塔は駿河路唯一で、開基政薩院日勇上人の第50回忌記念として篤信家が発願され静岡県の名工に推挙された宮大工松浦茂治氏の手により、昭和54年に和様素木造りで7年間を費やして建立された 丸子宿から藤枝宿ー続く
2019.05.13
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宇津ノ谷峠を下り、岡部宿へ。3/20(水) 11:27坂下地蔵堂 延命地蔵尊坂下地蔵堂は、国道一号線の新宇津ノ谷トンネル岡部口の真下に位置し、蔦の細道と旧東海道が合流する場所の手前にある建立年代、建立者は不明ですが、元禄13年(1700)に、岡部宿の伊東七郎右衛門、平井喜兵衛、中野陣右衛門の三人が発願して地蔵堂を再建し、堂内の仏具をそろえ鴻鐘を新たに鋳して鐘楼も建立した。霊験あらたかたと村人や近隣の人々に信仰され、その霊験のあらたかさを示す二つの伝説「鼻取地蔵」「稲刈地蔵」残されている堂内には地蔵菩薩像が安置されており、この地蔵尊は宇津ノ谷峠を越えようとする旅人の安全を守り、また、堂前の木陰は旅人の疲れを癒した。今でも8月23、24日の大縁日には、串に刺した十団子をお供えして供養している。また、新盆供養のために遠方からも参拝客が訪れている旧東海道脇に咲くスイセン11:29左上は国道一号線、「つたの細道 西口」の石柱11:30東海自然歩道バイパスコースこの辺りの道案内11:31国道一号線に合流、先の山を越えてきた国道一号線沿いを歩く11:32新東名「藤枝岡部インタ」の道路標識11:37国道一号線を越える陸橋上から、「道の駅 宇津ノ谷峠」(藤枝側上り線)所在地:静岡県藤枝市岡部町岡部2190-1ネットで調べると、今まで訪れた静岡県内の道の駅としては、最低レベルと投稿されていたが・・・・・この先のトンネルを通過すると右側に「道の駅 宇津ノ谷峠」(静岡側下り線)がある。ここから東京まで195km陸橋上から国道一号線の「廻沢口交差点」11:39国道一号線沿いの旧東海道(県道208号線)を歩き、ここを右折しては「大旅籠柏屋 歴史資料館」を目指す11:51旧東海道(県道208号線)を歩き、道標の「大旅籠柏屋 歴史資料館」11:53ひたすら歩くが人との出会いもなく11:54旧東海道(県道208号線)沿いに「東海道岡部宿案内板」。岡部宿は東には宇津ノ谷峠、西には大井川という難所を控えていることから、平安時代後期より宿としての形を整え始めた。鎌倉・室町時代と発展を続け、慶長7(1602)年に宿の指定を受けた岡部宿は当初、川原町・本町・横町の3町で構成されていたが、交通量の増加から寛永年間に内谷村が加わり、明治5(1872)年1月の伝馬所廃止を機に宿駅制度が急速に機能を失うまで、東海道の要衝として栄えた。江戸時代の作家、十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』にも登場している11:56十石坂観音堂(ジッコクサカカンノンドウ)所在地:静岡県藤枝市岡部町岡部階段を上がった上にある、江戸時代末期に作られたお堂。内部には二基の厨子が安置されている。また、江戸時代に駿府地誌の編集で活躍した、河野蓀園(コウノソンエン)の碑文が残されている入母屋造りの瓦ぶきの観音堂で内陣、外陣の境の格子は非常に細かい技巧が施されている。江戸時代末期の作と思われ、この観音堂の中に二基の厨子が安置されている。厨子一。中央にある厨子で、宮殿造り。屋根は入母屋造り、柿ぶき(こけらぶき)で二重垂木、妻入りである。彩色がほどこされていて江戸もやや末期の作と思われる。厨子二。観音堂の向かって右側にある。宝形、板ぶき屋根、黒漆塗りで簡素ではあるが品格の高いものである。江戸も中期以降の作と思われると11:57菜の花が咲く旧東海道(県道208号線)を歩く11:59旧東海道(県道208号線)沿いに「枡形跡(マスガタアト)」の石碑曲尺手(カネンテ)ともいう。本陣めがけて敵がたやすく侵入できないように宿場の出入り口に設けたもので、ここは道が直角に折れ曲がっている。また、ここには木戸と番小屋が設けられ、木戸番が毎日木戸を明六ツに開け、暮六ツに閉じた(朝夕6時)12:03旧東海道(県道208号線)沿いに「笠懸松(カサカケノマツ)と西住墓(サイジュウノハカ)」ここは歌聖として有名な西行が、西住と東国へ旅をした時に起きた悲しい物語の舞台である。「笠懸松」は右手西行山の中腹にあったが、松喰虫の被害を受けて枯れてしまった。その根元には「西住墓」と伝えられる古びた破塔がある12:04旧東海道(県道208号線)の5km先に「道の駅 玉露の里」がある東海道岡部宿「立光山不動尊」12:05岡部川に架かる「岡部橋」欄干にある浮世絵12:05旧東海道(県道208号線)、直進して島田方面へ12:06旧東海道(県道208号線)から右側へ入り「浄土宗 専称寺」へ西行座像。西行法師の旅姿をした座像で白木彫りの作りである。像底裏に「享保11年(1726)江戸の湯島天神の西にいた柑本南浦(コウシモトナンポ)が最林寺(川原町、文化5年焼失)に奉納」の意味の銘がある。江戸時代後期の作と思われる。不動尊立像。一木彫り立像で忿怒の形相が力強く表現されている。鎌倉前期のものといわれている。二体とも当山専称寺にて保管されている浄土宗 専称寺。所在地:静岡県藤枝市岡部町岡部663江戸時代から伝承されてきた「一ト火」というお灸で有名なお寺専称寺本堂に掲げられた扁額石柱に「旧山門跡」12:10浄土宗 専称寺の旧山門跡の石柱12:11岡部宿、旧東海道の道筋、周辺案内図旧東海道(県道208号線)へ戻り「大旅籠柏屋(オオハタゴカシバヤ)」ここまで自宅から、19,000歩。所在地:静岡県藤枝市岡部町岡部817旅籠とは江戸時代の宿泊施設。柏屋はその規模から「大旅籠柏屋」といわれ、岡部宿を代表する旅籠でした。柏屋を経営していた山内家は、旅籠と質屋を兼業し、田畑の集積も進め、その富を背景に代々問屋や年寄などの宿役人をつとめる、岡部宿でも屈指の名家でした。柏屋は随所に当時の面影が残る、東海道筋の貴重な建物で、平成10年には国の登録有形文化財認定された柏屋の建物。延べ床面積は約331㎡(約100坪)。柏屋は、文政と天保の2回、岡部宿の大火で焼失していますが、当時の『類焼見舞覚』や『諸入用之覚』などの資料によれば、天保6年(1835)に「棟上げ」をしているので、江戸時代後期の建造物であることがわかると主屋歴史資料館かしばやの雛まつり「好光作 等身大雛人形」。雛祭りをしていたので、入館料を購入して「主屋歴史資料館」へ入る。弥次さん喜多さんも座り、いっぷく好光作 等身大雛人形 等身大の雛人形は、市内で雛人形を製作していた職人が、自らの技術向上のために等身大雛人形の製作を思い立ち、昭和44年に完成した。その大きさから段飾りで飾ったのは、お披露目のときの一回だけといわれている。その後雛人形は旧岡部町に寄贈されて、大旅籠柏屋で毎年飾られるようになった。等身大の雛人形として十五人飾りは珍しく、さまざまなメディアからも取材を受け話題となっている主屋歴史資料館「みせの間」。江戸時代に建てられた「大旅籠柏屋」は、当時の旅籠の様子や人々の暮らしぶりが一目でわかる貴重な資料館。一階のみせの間と二階の客間では、弥次さん、喜多さんがあなたのお越しをお待ちしていますと畳の「野郎畳(ヤロウダタミ)」縁(ヘリ)をつけない畳。坊主縁(ボウズベリ)の畳。坊主畳蔀戸(シトミド)蔀戸は、水平に吊り上げて開閉する、格子などを取り付けた板戸のこ。平安時代ごろから住宅建築で使われ始め、やがて寺社にも広まっていったと考えられてい資料館内から12:26主屋歴史資料館の中には旅姿の衣装が 丸子宿から藤枝宿ー続
2019.05.12
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宇津ノ谷集落から、旧東海道の峠を越えて岡部宿へ。3/20(水) 10:46道路標識。左方向:登録有形文化財 明治宇津ノ谷隧道(明治のトンネル)。右方向:国史跡 東海道宇津ノ谷峠越夢舞台東海道道標「宇津ノ谷」岡部宿 宿境まで二十六町(2.9km)。丸子宿 宿境まで十町(1.1km)10:48明治のトンネルへ向かっていくと。宇津ノ谷地区カントリートレイル案内図明治のトンネル入り口。一緒に登ってきた女性も一眼レフで撮影土木學會選奨土木遺産 2018宇津ノ谷隧道群(明治・大正・昭和)。宇津ノ谷隧道群は、ひとつの峠において、日本で2番目にできた明治の近代隧道(トンネル)をはじめ、大正、昭和の各時代に3つのトンネルが建設され、明治時代から現在に至るまで百数十年に渡り地域の重要交通路を担ってきた稀有な土木遺産群です明治宇津ノ谷隧道の登録有形文化財のプレート明治のトンネルの由来。宇津ノ谷峠(旧東海道)は、江戸初期東海道の駅伝制が整備され官道となった。明治のトンネルは、旧東海道を通行する人達のために、明治9年総工費24,800円で築造された日本最初の有料トンネルです。当時は、測量技術が発達していなかったため「く」の字型のトンネルになってしまい、見通しが悪いため照明用のカンテラを設置していた。このトンネルの構造は、静岡口の約20mは青石造りでしたが、大部分が角材の合掌造りであったため、明治32年に照明用カンテラ失火により焼失崩壊し、一時廃道となりました。現在の赤煉瓦トンネル(通称)は静岡口を直線に手直ししたため、長さ203mとなり明治37年に竣工した。静岡口のトンネル二人で記念写真明治のトンネルの静岡口側の斜面に咲く「寒緋桜」トンネルの手前には駐車場・トイレもあるズームアップ10:53明治のトンネルから下り、旧東海道の宇津ノ谷峠道へ。人通りの少ない、宇津ノ谷集落を見下ろす10:54旧東海道のぼり口。国指定史跡『東海道宇津の谷峠越え」東海道宇津ノ谷峠道の御案内:展望広場下。現在地からの距離。岡部町側登り口まで、960m明治のトンネルまで、140m峠の地蔵堂跡まで、330m10:55峠道の路傍に立つ地蔵10:56竹林の中を登るがこの辺りは緩やかだ11:03宇津ノ谷は丸子、岡部両宿の間に位置する間宿です。行交う旅人が宇津ノ谷名物「十団子」を求めたり、無事に峠を越えてほっと息をついたところです。ここからの眺めは昔も今も変わらず、山間の集落の景観は、当時を彷彿とさせてくれますと11:04登坂の途中、大阪からの男性と出会いしばし立ち話し。前日は藤枝に宿泊して、朝から日本橋へ向かっていると11:05雁山(ガンザン)の墓の石碑と説明板俳人雁山は、山口素堂に俳諧を学び、甲府と駿河に庵を結んで自らの俳諧の地盤を固めた。享保12年(1727)頃旅に出て音信不通となったため、駿河の文人たちが、旅先で没したものと思いこの墓碑を建てたと伝えられている。しかし、雁山はその後『有渡日記』や『駿河百韻』等を著し、明和4年(1767)、82才で甲府に没した。もとは今より山側にあった東海道の傍らに建てられていたが、山崩れで流れ、この位置に移されたこの辺りは、明治43年8月に起きた集中豪雨による山崩れのため、地形が大きく変わってしまったところです。階段は整備に伴い便宜的に設けたもので、江戸時代には今より山側上方を、幅2間(約3.6m)の道が通っていた11:07旧東海道を登っていくと「峠の地蔵堂跡の石垣」この石垣は、江戸時代中(十八世紀末)ごろ、宇津ノ谷峠の傾斜地に地蔵堂(石垣上)を構える際、平らな土地を確保するために積まれたものです。石垣は二段構えで総高約7m、最大幅約12m。石材は、すべての箇所で横幅が縦幅より長い「平置き」の積み方を施している。根石はやや大きい寸法の石材を用い、天端石はやや小さい石材を用いているようですと・・・・・・・・・・・・・峠の地蔵堂跡の石垣を右下に見ながら登る上から見下ろすこの奥の空地は、もと延命地蔵堂のあったところで、礎石が散乱し、わずかに往時を偲ばせている。江戸時代末期の歌舞伎脚本作家 河竹黙阿弥の作で、丸子宿と宇津ノ谷峠を舞台にした「蔦紅葉宇都谷峠」というお芝居がある。・・・・・・・・・延命地蔵尊は、現在宇津ノ谷の慶龍寺に祀られており、縁日は、毎年8月23、24日宇津ノ谷峠の地蔵堂。「峠の地蔵堂跡」は、平成12年度に実施された発掘調査の成果に基づいて整備された。発掘調査によって、この平地には地蔵を祀っていた建物跡と考えられる痕跡が2箇所検出された。・・・・・・峠の地蔵堂。東海道を往来する人々が道中の安全を祈り、また「道しるべ」の役割を果たしていた東海道宇津ノ谷峠道の御案内:峠の地蔵堂跡辺り登ってきた「宇津ノ谷峠道」天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原征伐のため開いたといわれる道を、江戸時代に整備し東海道とした。峠道にある地蔵堂跡は歌舞伎『蔦紅葉宇都谷峠』の文弥殺しの舞台。今でも鬱蒼とした杉木立が殺しの舞台を彷彿とさせる11:10宇津ノ谷峠へ到着。旧東海道のぼり口から約15分で到着。難所と聞いていたが今までの坂と比較すると楽であった。自宅からの歩行数は、13,800歩11:12峠を下り始める12:13明治のトンネルがこの下を通過している東海道宇津ノ谷峠道のご案内:峠を下り静岡市の市境を過ぎ藤枝市へ入るこの付近は、宇津ノ谷トンネルの管理道ができたことにより、道の様子が大きく変わっている。旧道は写真(?色)に示す形状になっていた11:14下ってきた旧東海道を振り返る(石垣の上から)11:17旧東海道を下り東海道宇津ノ谷峠道のご案内:明治のトンネル入り口11:18振り返る、左方向へ下ると「明治トンネルの岡部入口」方面岡部側の旧街道は道幅が広い11:20髭題目碑(ヒゲダイモクヒ)碑の正面に「南無妙法蓮華経」の題目が筆端を髭のようにはねて書く書体で刻まれている。側面には「為人馬安全」「天下太平五穀成就」と刻まれており、旅人の安全と世の平和・豊作を願って建立されたことがわかる。裏面には建立年月の「天保6年霜月再興」とこのような髭題目碑は日蓮宗の信仰が盛んな県東部にはごく普通に見受けられるが、中部のこの辺りでは非常に珍しいものである備前国(岡山県)木綿屋門平をはじめ、???から島田市辺りまでの建立者達の名前が刻まれている11:23林の中に「蘿径記碑跡」の杭が立つこの碑は文政13年(1830)、有名な儒学者でもあった駿府代官の羽倉外記(簡堂)が、蔦の細道の消滅をおそれ、末長く残すために建立した石碑です。「蘿」は蔦を、「径」は小路を意味します。今は坂下地蔵堂の裏にあります11:24夢舞台東海道道標「参勤交代の道」岡部宿 宿境まで十八町(2km)。丸子宿 宿境まで十八町(2km)11:26つたの細道公園11:26旧東海道(別名 大名街道)。正面の坂が、宇津ノ谷峠方面。この道は、駿河国の安倍郡と志太郡のさかいにある宇津の山の一番低くなった鞍部にある峠道で、二つの峠越しがあった。一つは、源頼朝以後に開発された東海道本筋の通っている宇津の谷峠で、もう一つは、それ以前の蔦の細道の峠である。鎌倉幕府は部隊の行進ができない旧道を廃し、新道を開いたのが宇津の谷峠道である徳川家康が五街道を設け、交通の便を図ってからこの街道は人や物資の往来がひんぱんとなり、殊に参勤交代の大名行列は豪華絢爛たるもので、20万石以上の大名は武将が20騎、足軽が120~300人もあり、1万石の大名でも5、60人の供揃えで、その行列はこの峠をうめつくしたことであろう。この道も明治9年(1876)トンネルの開通によって閉ざされたが、明治初期までは上り下りする旅人の難所であった 丸子宿から藤枝宿ー続く
2019.05.11
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丸子宿の長源寺から、岡部宿へ向かう。3/20(水) 10:03旧東海道(国道一号線)沿いを歩き、赤目ケ谷中交差点にある「丸子赤目ヶ谷」歩道橋を渡り旧東海道へ。この辺りは日本橋から188.7km地点。ここまで自宅から8,700歩10:05丸子赤目ヶ谷歩道橋の上から振り返る同場所から岡部宿方面(京)歩道橋を渡り旧東海道へ、大きな阿弥陀如来像?10:10旧東海道(県道208号線)沿いにあった昔の取引先の工場10:16再度、国道一号線に合流旧東海道の道路端に10:21再度、国道一号線の宇津ノ谷(逆川)歩道橋を渡り旧東海道へ歩道橋の上から「道の駅 宇津ノ谷峠」10:24道の駅の手前に交通安全とあるが「宇津ノ谷一里塚」この先の左側に道の駅「宇津ノ谷峠」(静岡側下り)10:25旧東海道は、国道一号線から分かれて県道208号線へ道の駅辺りは日本橋から190kmソメイヨシノが咲き始め10:28道の駅にあった「丸子路広域マップ」所在地:静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷82道の駅では、天ぷらそば、とろろ定食や静岡おでんがおすすめだと、豚汁もグッド宇津ノ谷峠周辺ガイドこの辺りには、明治時代のトンネル、昭和初期のトンネル、昭和中期のトンネル、平成時代のトンネルと4本ある。今日は峠越えの旧東海道を歩くことに道の駅の窓ガラスに10:31この辺りで左に迂回して国道一号線を横切り(県道208号線)を歩き宇津ノ谷峠へ菜の花と桜が咲き東海道の難所「宇津の谷峠」国史跡指定。蔦の細道(平安の道)、峠の伝説「十団子 慶龍寺」、秀吉からの陣羽織「御羽屋」峠越えの古い東海道、一つの峠に4本のトンネルがある10:33竹藪があるがまだタケノコは・・・・・手打ち「蕎麦処 きしがみ」 営業は11時から14時、御羽織屋裏で営業先程の道の駅「宇津ノ谷峠」(静岡側下り)を望む10:33国道一号線の宇津ノ谷トンネル手前が平成時代のトンネル(下り)、奥が昭和中期のトンネル(上り)10:35国道一号線を越え、宇津ノ谷集落へ10:36ミツマタも咲き静岡市上下水道局「宇津ノ谷ポンプ場」10:37旧東海道(県道208号線)を振り返るハクモクレンもきれいに咲き10:38旧東海道(県道208号線)を歩き、宇津ノ谷集落入り口へようこそ、宇津ノ谷へ左側が集落経由「明治トンネル」へ明治トンネルの案内、0.5km(15分)夢舞台東海道道標「宇津ノ谷」岡部宿 宿境まで二十九町(3.2km)、丸子宿 宿境まで七町(0.8km)。4月7日の選挙用看板も立ち並び10:39交通の難所「宇津の谷峠宇津ノ谷集落の案内丸子川に架かる村中橋を渡り集落へ10:40宇津ノ谷集落は登り坂10:41宇津ノ谷の集落は、宿場ではなく間宿としての雰囲気が色濃く残っている10:42お羽織屋(オハオリヤ)所在地:静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷拝観中止の貼り紙天正18年(1590)小田原征伐に東海道を下った豊臣秀吉が立場茶屋だった石川家に立ち寄った際、馬わらじを自分の馬のものと取り替えたい所望した。主人が三脚分しか出さないので、秀吉が訳を訪ねると「四は縁起が悪いので一脚を残し、勝利を祈願するつもりだ」と答えた。秀吉は、縁起が良いと大いに喜んで気分よく出発。戦いに勝って帰りに立ち寄り、褒美として和紙と絹でできた自分の陣羽織を与えた。以来「お羽織屋」と呼ばれ、多くの大名がこの羽織を見るために訪れた10:43集落の民家の軒下には屋号の「角屋?」観光客も少なく、住民とも会わず煉瓦敷きの旧街道を登る観光客の女性から「イノシシがいるようで怖いので一緒に明治のトンネルへ行きたい」と話しかけられる一緒に明治のトンネルへ向かう。きれいに咲き10:44トンネルへの途中、宇津ノ谷集落を振り返る 丸子宿から藤枝宿ー続く
2019.05.10
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昔の丸子宿には名物「とろろ汁」の茶店が何軒もあった。すり下ろした自然薯と出汁を合わせ麦飯にかけて食べる。3/20(水) 9:23旧東海道(県道208号線)を振り返る。丁子屋(チョウジヤ)の駐車場。営業時間帯には多くの観光バス、乗用車が駐車。お江戸の雰囲気で愉しめる「とろろ寄席?」が開催されているのか?ここまでの歩行数は、自宅から 5,900歩丁子屋の横にはいろんな石碑があった丁子屋の横にある「芭蕉の句碑」はかり知れない恩義を極め偉大な名声と数多くのすぐれた詩文は、未来永劫まで称えられ大空のように広大無辺で果てしなく誰にもその神髄を知ることはできない十返舎一九「東海道中 膝栗毛の碑」。膝栗毛では茶店に寄った弥次さん喜多さんがとろろ汁を注文したが、店の夫婦の喧嘩が始まり、亭主がすり鉢を投げたのであたりはとろろ汁だらけになり、この騒ぎで二人は名物を味わうことができず、仕方がなく一句。「けんくわする夫婦は口をとがらして鳶とろろにすべりこそすれ」辰 石。徳川家康公は駿府城築城にあたり、その石垣は丸子など近在より集めたと伝えられる。この石もその一つで、丸子舟川より運び出されたが、370余年間目前の旧東海道の下で眠っていたが、去る丙辰(1976)正月電話ケーブル埋設工事の際掘り出されたもので辰年にちなみ龍が爪あと(くさび割りあと)を残して天に昇ったと岡本かの子 著「東海道五十三次」より。午前の陽は流石に眩しく美しかった。老婢が「とろろ汁が出来ました」と運んで来た。別に變つた作り方でもなかったが、炊き立ての麦飯の香ばしい湯気に神仙の土のやうな匂ひのする自然薯は落ち付いたおいしさがあった。私は香りを消さぬ・・・・・・千寿の前。戦乱の世、源平時代には数々の美しくも悲しい物語が残されている。私達の郷土にも「千寿の前」の物語が伝えられている。千寿は静岡市手越の長者の娘として生まれ「白拍子」と呼ばれる舞姫であった。白拍子は麗しい美人が多かったようですが、中でも千寿は源頼朝が天下の美女、十二人を集めた時、その第一に千寿をあげている程だった。・・・・・・・・・・清酒「千寿白拍子」はこの千寿の前にちなんで醸されたもので、ふくいくとした優雅な香り、新鮮でまろやかな旨味を含んだお酒で「まりこ」のとろろ汁と共に東海道の名物として永く世人の愛飲を頂いておりますと9:25店の前に「鞠子宿 丁子屋(チョウジヤ)」の石碑。現在もとろろ汁屋を商う慶長元年(1596)創業の老舗。今日は残念ながら臨時休業日。所在地:静岡県静岡市駿河区丸子7-10-10 tel:054-258-1066営業時間は、11:00 ~ 19:00 定休日は、?丸子宿のとろろ汁の茶店江戸時代の丸子宿夢舞台東海道道標「丸子宿」。岡部宿の宿境まで一里十七町(5.8km)。府中宿の宿境まで一里四町(4.4km)この道筋は江戸時代の東海道です。丸子宿の西の見付と高札場があった。分岐する道を川沿いに西北へ進むと、諸大名や幕府役人、文人等が東海道の往来の際に立ち寄った名所、連歌師宗長ゆかりの吐月峯紫屋寺(トゲッポウサイオクジ)があります。道沿いには、明和元年(1764)に建立された道標があるが、元は別の場所に建てられていたものと考えられると旧東海道案内案内板(泉ケ谷地区の史跡)細川幽斎公歌碑。幽斎(1534~1610)は、室町末期・安土桃山時代の文武両道に卓越した大名であり歌人でもあった。細川元常の養子となって、足利十二代将軍義晴、十三代義輝に仕えて信長に懇願して義昭を十五代将軍に推挙した。秀吉、家康にも重臣として格別信頼され、日本三景で有名な、丹後国の宮津十二万石城主となった・・・・・・・・・。石碑は「丸子川の石碑」丸子川に架かる橋から「丁子屋」を振り返る9:28丸子川を渡ると丸子元宿高札緑地にある「高札場跡」。高札場には、複製した三枚の高札とともに、そこに書かれた内容を紹介している高札場は、幕府や諸藩が定めた法度や掟書を木の板札に書き、人目を引くように高く掲げておく場所のことです。丸子宿の高札場は現在地にから丸子川を渡った東側に設けられていたと言われている定(忠孝奨励諸法度)一 忠義や孝行を奨励し、夫婦兄弟諸親類は睦まじく召使いの者(手代・使用人)にも 情愛を加える事。もし不忠義や不幸する者には重い罪とする。一 何事にも贅沢してはいけない。。住家・衣服・飲食等まで倹約を守る事。一 悪心をもっていつはり、又は無理な言いがかり、又は自分の欲のために人の害に なる事はするな。すべて家業のために励む事。一 ・・・・・・・・定(宿駅諸法度)一 御朱印御伝馬人数は御書付の外多く出さない事。一 伝馬並びに駄賃の荷物は、一駄について四十貫目、人足の荷物は一人にいて五貫 目に限る事。一 丸子より府中(静岡)までの駄賃銭は一駄について四十七文。乗懸け荷は人と共に 前と同じ、荷物なくして乗るらば三十一文。人足賃は一人にて二十四文。・・・ ・・・・・。條々(毒薬にせ金等禁制)一 毒薬並びににせ薬の売買は堅く禁制なり、若し商売する者には罪科とする。たと へ同類といえども訴え出る輩者にはきっと護褒美をくだされる事。一 にせ金銀の売買は一切停止すべし、 自然持ち来るは両替屋において打ちつぶして其の主に返すべきなり。並びに外し の金銀、にせの金銀は金座銀座で改めるべき事。 附(ツケタリ) にせ物するべからず事。一 寛永の新銭は金子一両につき四貫目。勿論一歩には一貫目、御料・私領共に年貢 収納等にも御定の員数とする事。一 ・・・・・・9:29高札場、丸子川の向こうに丁子屋を望む9:30東海道 ~ 丸子宿喫茶去 夢想菴所在地:静岡県静岡市駿河区丸子5163-19:37旧東海道(県道208号線)から、国道一号線を遠望ズームアップすると9:39旧東海道(県道208号線)の丸子川沿いを歩き「観音堂」観音堂で、国道一号線と合流この道筋は江戸時代の東海道です。国道一号の拡幅によって、かつての面影は全く残っていませんが、西へ向かえば東海道の難所宇津ノ谷峠、東へ向えば丸子宿です。赤目ケ谷の起木神社には、源頼朝上洛の折の梅ノ木にまつわる伝承があり、神社の山手には、幕臣で近代茶業の振興に貢献した多田元吉の墓所があります。また長源寺には国学者野沢昌樹の墓所もあります9:41この辺りから国道一号線(右側)からそれて旧東海道へ9:42後方は、国道一号線の二軒家交差点上の写真をズームアップすると「吐月峰柴屋寺(トゲッポウサイオクジ)」への標識。吐月峰柴屋寺。二軒家交差点から1kmあるので立ち寄れなかったが、永正元年(1504)今川氏親に仕えた連歌師・宗長が宇津山の麓に庵を結んで柴屋軒と称したのが始まり。宗長の死後、寺に改め宗長寺ともいった。この柴屋寺は当時の丸子城の一部だった。本堂正面(南)の丸子富士、庭の西方に天柱山、東に吐月峰を借景にした枯山水庭園は国の名勝に指定されている。宗長が植えた竹を使った竹細工は当時から名物で、煙草の灰落とし(灰吹)に「吐月峰」と書いて「はいふき」と読ませた9:43国道一号線の赤目ケ谷交差点、日本橋から188kmのキロポストも立つ赤目ケ谷交差点に立つ案内板、「起木天満宮」。建久6年(1195)源頼朝公が上洛のとき、一本の紅梅の大樹が倒れて通行の妨げになっていた。ところが頼朝公がお通りになる前夜に、この梅樹が一夜にして起き上がった。これを聞いた頼朝は「これぞ天神の霊木なり」起木天神と命名されたと言う。赤い花咲く梅の木だったことから、此処の部落を赤梅谷が赤目ケ谷となったと伝えられている9:46旧東海道沿いに「日本の紅茶発祥の地 丸子紅茶」丸子紅茶所在地:静岡県静岡市駿河区丸子67759:52臨済宗妙心寺派 長源寺、起樹(オキギ)天満宮所在地:静岡県静岡市駿河区丸子6850堂の前に庚申塔霊泉山 長源寺宝台院の末寺として、寛保元年(1741)慈悲と心の安らぎの観音様を祭ったお寺長源寺 本堂長源寺境内起樹天満宮の鳥居丸子は紅茶発祥の地。丸子に茶園を開いた多田元吉は明治9年政府からインドに派遣され紅茶製造技術を持ち帰り全国に広めた。伝統の紅茶作りは現在も続いている起樹天満宮の本殿本殿に掲げられた、左:名馬 磨墨(スルスミ) 右:名馬 女唼10:01丸子路観光案内図「長源寺・起木神社」遥か千余年の歴史をつづるロマンの里10:01振り返ると、右は旧東海道(県道208号線) 丸子宿から藤枝宿ー続く
2019.05.09
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延べ14回目の旧東海道の道中記は、青春18きっぷを利用しての二回目です。今回も旅友Kさんとの弥次喜多で、日本橋から20番目の宿場町「丸子宿(マリコジュク)」、岡部宿、藤枝宿の道中記を10回にわたってのアップとなります。'19/3/20(水) 6:03早朝の茅ヶ崎駅北口、旅友Kさんは一番電車で既に電車の中だととのメール既に朝陽は出て?青春18きっぷの二回目で、乗り降り放題8:32静岡駅で浜松行きの電車に乗り換えて先頭車両に乗車私は撮り鉄ではありませんが、先頭車両から進行方向を撮影8:33今日も天気が良く富士川に静岡駅を出て数分で安倍川へ8:34東海道新幹線との交差JR安倍川駅が見えてくる8:35JR安倍川駅へ到着、新しい駅舎JR安倍川駅で下車改札を出て8:38新しいJR安倍川駅の北側、Kさんは駅舎を撮影8:49駅前から旧東海道へ向けて歩く8:52丸子宿へ8:57旧東海道の松並木旧東海道沿いの「丸子交番」所在地:静岡県静岡市駿河区丸子3-2-28:57お馴染みの夢舞台東海道道標「丸子宿」。岡部宿の宿境まで二里(7.5km)。戻ると府中宿の宿境まで二十一町(2.8km)9:04旧東海道(県道208号線)の交差点に「ようこそ丸子路へ」の看板直進は国道一号線だが、旧街道はここで左折この先は旧東海道(県道208号線)。丸子名物「とろろ汁・丸子紅茶」。国指定名勝史跡庭園「吐月峰柴屋寺」の看板が立つ交差点隅東木戸まで約230m9:06旧東海道(県道208号線)沿いに「一里塚跡」の石碑9:09此処が「江戸方見附跡でこれから丸子宿」の看板東海道53次のうち丸子宿は日本橋から四十六里、数えて二十番目の宿でした。宿場は街道に沿って三百五十間・規模は小さいが正式な宿場だった。宿場の入口(江戸方)、出口(京方)に見付という場所があり、街道の見張場の役目をしていた9:11旧街道沿いの「丸子下宿」にある水神社この道筋は、江戸時代の東海道。ここ丸子宿は文治5年(1189)、源頼朝が奥州平定の功績により、手越平太家継という駿河の武士に丸子一帯を与えて、駅家を設けたのが起源といわれている。今の元宿といわれる辺りで、戦国時代には今川家に仕えた連歌師宗長も「丸子という里、家五、六十軒、京鎌倉の旅宿なるべし」と記している水神社裏の土手から丸子川上流側に桜が満開ズームアップして9:13ここは東の見付を通り丸子宿に入ってきた所です。見付は、宿場の出入り口にあり、往来を監視する機能をもっていた。現在、宿通りと呼ばれるこの通りに、往時を偲ばせるような建物は残っていませんが、本陣跡、脇本陣跡の碑や、格子戸の残る家、間口が狭く奥行の深い家並みなどから、丸子宿のようすを思い起こすことができる 丸子宿年表江戸時代の丸子宿。東海道「丸子宿」駿府町奉行所支配所の規模9:15店先には屋号も下げて。丸子宿は「鞠子(マリコ)」とも書いた。宇津ノ谷峠を控えていたため、東海道制定時に宿場に指定された。町並みは丸子川に沿って東西7町(740m)しかなく、人口も約800人の山間にある小さな宿場だった9:18明治天皇御小休所跡(丸子宿脇本陣跡)9:19丸子宿には、お七里屋(シチリヤ)と呼ばれる紀州藩御用を務める機関もあった史跡「丸子宿 横田本陣跡」の石碑所在地:静岡県静岡市駿河区丸子7-9この辺りのたいていの家には、屋号がかかげてあり、鈴木姓が多い9:20丸子宿 塚屋明治天皇御小休所跡(丸子宿脇本陣藤波家跡)9:21旧東海道(県道208号線)沿いの民家の軒先でみかんを販売9:22とろろ汁の丁子屋(チョウジヤ)が見えてくる。この辺りには、名物「とろろ汁」を売る茶店が何軒もあった 丸子宿から藤枝宿ー続く
2019.05.08
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府中宿の駿府銀座発祥の地から安倍川を越えて、丸子宿の入口にあるJR安倍川駅へ。3/15(金) 16:04旧東海道(県道208号線)を丸子宿へ16:07駐車場の上にある「津島神社」所在地:静岡県静岡市葵区梅屋町4-1二階が神社で、おみくじも自動販売機でユニークなシステム新通りの旧東海道16:15ここの神社も二階にある「秋葉神社」所在地:静岡県静岡市葵区新通1-8-1516:19県道208号線沿いにある、「府中の一里塚」所在地:静岡県静岡市葵区本通8-4-7一里塚の説明板だが判読できず。残っている一里塚は少ないと。市内長沼、本通八丁目、丸子、??、四?か所に設置されたが、いずれも現形をとどめていない。本通りの一里塚はその位置を変え、ここに移動してきたものであると県道208号線から振り返る16:25県道208号線から旧東海道の新通りへ戻る。たい焼きが美味しそうだったが16:28旧東海道の新通りを直進して、この交差点を右折16:29この先の安倍川橋手前で、旧東海道の新通りと県道208号線が合流する16:30県道208号線の弥勒(ミロク)交差点正面は「川根本町」方面、右は県道208号線県道208号線の弥勒交差点で安倍川橋方向16:31葵区弥勒、安倍川橋近くにある弥勒緑地にある安倍川架橋の碑この石碑は、宮崎総五氏が社会事業のためにと、明治7年に多額の私財を投じて建設した安倍川橋の架橋の顛末を、後世の人に伝えるために、明治41年に建てられた由比正雪公之墓趾夢舞台東海道道標「弥勒(MIROKU)」道標には丸子宿 宿境まで十六里(1.8km)府中宿 宿境まで二町(0.2km)弥勒歩みの跡(案内図)弥勒の町には、近世以降の歴史の中で「由比正雪墓趾碑」、昭和初めの小学校4年の教科書に載った「安倍川の義夫の碑」、溺死や剣難者のための「慰霊碑」・・・・・をはじめ、近世以降の弥勒を語る多くの歴史の跡が残されている江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で『正保年間に開かれ、江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗して安倍川の河原で餅を売るようになった。この餅を”安倍川餅”という。これが「弥勒町」の名の由来となった』と記されている16:36弥勒緑地から旧東海道の新通りを振り返る県道208号線沿いに「駿府キリシタン殉教之碑」慶長17年(1612)3月、徳川幕府はキリシタン禁教令を発して原主水、おたあジュリアン直臣のキリシタン武士や侍女を駿府から追放し、当時二つあった駿府の教会を破壊した。禁教は次第に強化拡大され、慶長19年3月には町人キリシタンの中心として、八名が逮捕牢送りとなり、棄教を迫られた。・・・・・・・・・・・16:37元祖 安倍川餅「石部屋(セキベヤ)」休みであったが、安倍川餅は当初は餅に黄粉をまぶしただけだったが、貴重品の砂糖を使ってから評判になり、慶長年代には名物になっていた。家康が近くの金山に巡視に行ったときも、この餅が献上されたという。茶店では一個五文で十個を皿に盛り、客に出した石部屋の駐車場もあり、この横に「安倍川の義父の碑」がある安倍川の義父の碑所在地:静岡県静岡市葵区弥勒2-5この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。元文3年(1738)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金百五十両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の一人(川原町彦右衛門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津の谷峠で引返してくる旅人に出会って財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが「拾ったものを落とし主に返すのは当たり前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。昭和4年(1929)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々の募金によって、安倍川の近くのこの地に碑が建てられた。昭和初めの小学校4年の教科書に載った「安倍川の義夫の碑」16:38安倍川橋の手前で、県道208号線を振り返る。この先の右方向は、旧東海道の新通り16:39安倍川橋橋の架かる安倍川は、静岡県と山梨県の境にある大谷嶺・八紘嶺・安倍峠に源を発する。源流の大谷嶺(標高2000m)の斜面は「大谷崩れ」と呼ばれ、長野県の稗田山崩れ富山県の鳶山崩れとともに日本三大崩とされている。一級水系安倍川の本流で、清流としても有名でその伏流水は静岡市の水道水にも使われている。大河川でありながら本流・支流にひとつもダムがない珍しい川であるネットがかけられているが塗装中?この橋は、静岡県内の4大河川(富士川・安倍川・大井川・天竜川)に架かる最初の橋として完成した。橋の建設には、失業した川越人夫を助ける雇用対策の側面もあったようです95年前の安倍川橋の工事風景大正11年3月に工事が着工され大正12年7月に安倍川橋が架けられた。この時の総工費は上記から当時の金額で、594,000円であった。工事期間は1年4か月と、今では考えられない工期である!大正から現在へと受け継がれる95才の安倍川橋。安倍川橋の歴史。1,明治4年(1871)6月、安倍川の川越人足が廃止になることに伴い、渡し船を配置する ことになったが、秋冬(10~2月)は川の水量が少ないため、この期間に使用するため の木製の仮橋を架設した。2,明治7年(1874)3月24日、本設の木橋が完成し「安水橋」と命名。全長509m。総工 費は当時の金額で7,000円。通行料は一人につき4厘。3,明治29年(1896)10月、県に移管され、通行量が無料となる。4,明治36年(1903)4月、架け替え(木橋)、総工費は当時の金額で14,900円。5,大正12年(1923)7月23日、鉄橋(トラス橋)に架け替え。「安倍川橋」に改称、総工 費は当時の金額で594,000円。6,昭和43年(1968)4月、歩道橋を新たに設置。7,平成2年(1990)3月、右岸側一部(2径間分)架け替え。富士川、大井川と同じような鋲止め大正12年に完成した現在の安倍川橋は、橋の長さ・桁の数で日本有数のボーストリングトラスト橋である一週間前(3/8)に渡った、富士川橋も同じような構造であった16:45安倍川橋から下流の新幹線3月の初め頃は水がなく渇水状態であったと。安倍川にはダムが一つもない為水量の変化が激しいのだと、このブログ作成時に知る16:47安倍川橋西、ここまでの歩行数は37,100歩16:51橋を越えたあたりは「千手の里 手越」史跡案内があったが、歩行数が4万歩近くなり時間も遅くなったので、JR安倍川駅へ向かうことに。ネットで調べると、1335年の南北朝時代に、足利尊氏と新田義貞が争った「手越河原の戦い」が起きた場所である16:52旧東海道(県道208号線)17:01国道一号線「手越原東交差点」の丸子宿方面同交差点から国道一号線の駿府方面。この交差点を渡り、JR安倍川駅へ向かう17:12東海道新幹線の「横井架道橋」を通って南側へ。東京駅から171km94m地点の標示17:13左はJR東海道本線、右側は東海道新幹線17:17ひたすら歩き、JR安倍川駅へ17:19ようやく安倍川駅に到着17:20JR安倍川駅に到着17:21改札は、一日乗り放題の「青春18きっぷ」で入場改札を入いりビールを買いたかったが、売店もなくあきらめてホームへ下りる藤枝方面、次回はこの方向から帰ってくるのだ!17:28発の熱海行きが入線今日はひたすらJR興津駅からJR安倍川駅まで歩いた。今日一日の歩行数は43,300歩約9時間の道中でした。帰りの乗車券は青春18きっぷを利用して、17:28発の熱海行きで帰路に着いた。 興津宿から丸子宿手前ーEND
2019.05.05
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人通りの多い府中宿を散策しながら駿府銀座へ。府中宿は駿河で最大の宿場で、幕府老中直轄の駿府町奉公が支配した。町並みは南北28町(約3km)もあり、家数は東海道の宿場でもっとも多く、宿内人口は大津宿に次ぎ二位、問屋場には貫目改所が併設された。幕府公認の遊郭があったのは府中宿だけ。3/15(金) 15:36上伝馬本陣 脇本陣跡駿府貫目改所跡この辺りにいろんな跡が集中している。駿府貫目改所、問屋場駿府城廻りの町割り図幕末頃の駿府伝馬町鳥瞰図夢舞台東海道道標「府中宿」道標には丸子宿 宿境まで一里三里(4.3km)江尻宿 宿境まで二里二十二町(10.2km)15:37道標は「上下伝馬町」二軒の本陣と脇本陣、問屋場・貫目改所の宿場の機能が設けられ、数十軒の旅籠屋などが軒を連ねていた。町内には江戸時代に朝鮮通信使が来日した際、従者の休憩所にあてられた法伝寺や、新光明寺があります。また、東征軍参謀の西郷隆盛と勝海舟の命を受けた山岡鉄太郎(鉄舟)とが江戸城の無血開城を決めた会見の場が静岡市の史跡に指定されている。明治2年に静岡宿と改められたが、大正4年には再び伝馬町になった15:38この辺りは、静岡鉄道の新静岡駅もあり人通りが多い伝馬町の歴史は、慶長14年(1609)に家康公が駿府を町割りして、東海道53次の宿と定めたことに始まる。宿には本陣、脇本陣、問屋などが置かれ旅館や商家が軒を連ね街道を往来する大名行列や旅人により賑わいを呈した。明治以後も静岡宿と行ったが、明治22年市制が布かれ、静岡市伝馬町の誕生となった街角に陶器のモニュメント15:39静岡東急スクエア所在地:静岡県静岡市葵区伝馬町6-115:40静岡市指定史跡「西郷・山岡会見碑」所在地:静岡県静岡市葵区御幸町現在は再開発により石碑と説明文しか残っていないが、この地で江戸城無血開城等の下詰めの話し合いがされた場所西郷・山岡会見の地慶応4年(1868)3月9日、旧幕府方を平定しようと駿府まで軍を進めた官軍参謀・西郷隆盛のもとへ、勝海舟からの手紙を携え山岡鉄舟が乗り込んだ旅籠・松崎屋源兵衛跡。この会見は勝と西郷の江戸城無血開城談判の予備会談で、山岡は徳川慶喜の身柄の善処を西郷に約束させた道標は「新谷町(シンガイチョウ)」新谷町名の由来については、江戸時代の地誌『駿河紀』に、「新谷氏の居宅ありし故に名づく」と記されている。昭和20年、伝馬町と御幸町へ改編され、新谷町の町名はなくなった15:42交差点の角の歩廊に石が置かれ駿府城石垣の刻印入りの石。1)大御所家康が天下普請で築かせた駿府城。 家康が将軍職を引退して駿府城へ移り住むことになり、全国の大名に普請(土木 工事)を命令する『天下普請』によるものであった。2)駿府城の石垣に使われた石 石垣普請に参加した大名が、藁科川沿いの富厚里周辺や長尾川沿いの地域(いず れも静岡市葵区)や、大崩海岸(静岡市駿河区石部から焼津市浜当目)などから運 ばせた3)石に刻まれた印 石垣に使われた石の中には『刻印』と呼ばれるさまざまな文字や記号が彫られ ているものがある。刻印は、石垣普請を命じられた大名、工事責任者、石の所 有権などを示す目印などの諸説があり、その役割は今も研究されていると15:44道標は「江川町」江川町(エガワチョウ)は、江戸時代から昭和20年までの町名で、伊豆国韮山の代官を勤めた江川家の先祖が、天正年間にこの地に住まいしたことに由来するといわれている15:44御幸通りの石碑15:49府中宿には駿河国の国府が置かれ、政治の中心地ゆえ「府中」と呼ばれ、また駿河の府中なので「駿府」ともいった。慶長12年(1607)将軍職を譲った家康は、駿府城を改築して江戸からこの地に隠居した。2年後の駿府城焼失による天下普請で、城の再建とともに安倍川の流路の変更や薩摩堤の築堤、さらに城下町の整備が進められた。基盤の目のように整然とした区割りの中につづら折りのように東海道が整備され、宿外れには二丁町遊郭が設けられた。この町割りが現在の静岡の原型である駿府城慶長10年(1605)将軍職を秀忠に譲った徳川家康は、駿府城を改築。慶長12年(1607)7月、大御所として移り住んだがその年の12月、失火により本丸御殿や天守が焼失。家康は天下普請を命じ、主に西国大名を動員して大規模な平城をわずか10ヶ月で完成させた。城下全体の人口は十万人とも十二万人ともいわれた。日本の首都のようなにぎわいだったという。家康は元和2年(1616)七十五歳で死ぬまでの約10年を駿府城で過ごした。寛永9年(1632)以降は城主を置かず、城代の時代が明治維新まで続いた静岡御用邸跡当地には明治33年から昭和5年まで、皇室の御宿泊所である静岡御用邸が置かれていた。明治天皇は西上の帰途などに度々、静岡御用邸の御宿泊され、御二階から富士山を眺められたと伝えられている。昭和天皇は昭和5年の行幸の際に御一泊され、浅間神社など市内各所を巡幸された。和風木造二階建ての重厚な建物は、惜しくも昭和20年の大空襲により焼失してしまいその後、静岡駅から当地に至る道路は「御幸通り」として往時を偲ばせている15:50静岡市役所静岡庁舎15:513基のガス燈所在地:静岡県静岡市葵区追手町5-5静岡でガス事業が開始されたのは明治43年です。静岡駅前や七間町など市内6か所にガス燈が点され、文明開化を告げる光として市民に親しまれた。この3基のガス燈は静岡市市制施行100周年と市庁舎本館改修工事落成を祝して静岡ガスが寄贈したもの15:52駿府城下町に清流を運んだ『御用水』と『町方用水』。徳川家康公による駿府のまちづくり静岡の由来 & 駿府町奉行所跡 碑静岡の由来明治2年(1869)廃藩置県を前にして、駿府または府中といわれていた地名の改称が、藩庁で協議された。一旦は他の名に決まったが、時世を思い土地柄を考えて静ヶ丘即ち「静岡」がよいと提案され衆議たちまち一決、同年6月20日「駿州府中静岡と唱え替えせしめられ候」と町触れが達せられたと駿府町奉行は老中直属の組織で、町政全般の掌握から訴えなどの裁き、城下の警備や府中宿の管理などまで、駿府の町民生活に直接関わる広範な業務を担っていた。寛永9年(1632)に大手組町奉行として駿府城大手御門前のこの地に設置され、明治元年(1868)までに旗本を主に六十三人が町奉行に任命された。町奉行の配下には、与力八人と同心六十人がいてその職務にあたっていた15:54旧東海道沿いに「里程元標址の碑文」15:55札之辻址の石柱と、札之辻町の道標15:56札之辻町(フダノツジチョウ)この町名は、江戸時代ここに高札場があったことに由来する旧東海道を進む15:59駿府銀座発祥の地の石柱所在地:静岡県静岡市葵区両替町1丁目慶長17年(1612)駿府の銀座は江戸に移された。今日の東京銀座のルーツは静岡にあると16:00旧東海道の「両替町通り」を丸子宿方面へ16:01遍界山 不去来庵(フキョライアン)不去来庵は「伊伝」の屋号で知られる渡邊家の先祖が、光格天皇の御念持仏であった「阿弥陀如来尊像」を祀るために三代にわたって築いた由緒あるお堂です16:02旧東海道の「両替町通り」沿いに「十辺舎一九生家跡伝承地」十辺舎一九生家跡伝承地上る木碑『膝栗毛』で名高い江戸の戯作者、十辺舎一九は駿府町奉行同心 重田興八郎の長男として明和2年(1765)両替町一丁目のこの地で生まれた。享和2年(1802)38歳で『東海道中膝栗毛』を刊行し、一九の文名は大いに揚がり以来文筆一本で生計を立てた我が国最初の職業作家と称された 興津宿から丸子宿手前ー続く
2019.05.04
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静岡縣護国神社から府中宿へ向かう。3/15(金) 14:59旧東海道は国道一号線の「柚木交差点」を横切り南へ15:02JR東海道本線の地下道をくぐり南側へ15:04夢舞台東海道道標「曲金(マガリカネ)」道標には府中宿 宿境まで八町(0.9m)江尻宿 宿境まで二里五町(8.3km)街道沿いにはスイセンがきれいに咲いていた15:06曹洞宗 法蔵寺所在地:静岡県静岡市駿河区曲金2-7-33山門をズームアップ15:10旧東海道(池田街道)を歩き前方に東海道新幹線の高架が見える15:12東海道新幹線の高架下、東海道本線の下を通り15:14国道一号線の「春日一丁目交差点」15:15府中宿東見附静岡鉄道の列車、国道一号線沿いにある西見附まで3600m国道一号線を横切り、斜め右の伝馬町通りへ15:17下横田町平安時代に編まれた「延喜式(エンギシキ)」には東海道の駅の一つに「横田」の名が記されている。古代の「横田」の位置に関してはいくつかの説があるが、この記録から横田周辺が古来より東西を結ぶ要衝であったことがわかる。・・・・・・・・旧東海道の伝馬町通りの道標「下横田」民家のような「延命地蔵尊」15:18歩道のタイル「市の木 ハナミズキ」「市の花 たちあおい」「市の鳥 カワセミ」15:20道標は「猿屋町」猿屋町の由来は、猿引きの住む町であったことに由来します。猿引きとは、正月などに家々を回り、猿に舞わせて一年の安泰を祈る芸能のことで、猿廻しとも呼ばれる15:21歩道にはこんなタイルも「府中の宿散歩道」旧東海道の伝馬町通りを進むこのお寺は「???」15:26横田町西交差点15:27道標は「鋳物師町(イモジチョウ)」東海道府中宿の一画に位置し、町名は江戸時代の初めに、鋳物師が住んでいたことに由来します。「鋳物師町」の名は今はなく、現在は伝馬町・横田一丁目・日出町に分かれている西見附まで、約2.8km。東見附まで、約0.7km府中宿は江戸から約44里(約176km)品川宿から19番目の宿場です。東見附は横田町西見附は川越町にあり、天保14年(1843)には、本陣2軒、脇本陣が2軒、旅籠は43軒家数は3673軒、人口は14,071人の東海道最大規模の宿場でした。伝馬町には、馬の手配や荷物の受け継ぎなど宿場の重要な業務を行う問屋場、大名や公家など身分の高い人が泊る本陣・脇本陣、東海道には3か所しか設置されていなかった公用荷物の運賃を定める貫目改所などがあり、大変な賑わいであった当時の町割り町割りの説明この途中で、カラフルなマンホール蓋を発見。 静岡市の花「タチアオイ」を描いたカラーマンホール蓋。デザインは旧市のものと同じで、中央の市章を新市章に変えたものであると → 弥次さん情報 漫画家の故さくらももこ氏が寄贈した「ちびまる子」デザインのカラーマンホール蓋。 富士山と駿河湾と魚を背景に、ピンク色でコーディネートしたよそ行き風の「ちびまる子」が微笑んでいる。空には「静岡市」の文字も → 弥次さん情報15:28伝馬町通りを進む、左下に石碑がズームアップすると「久能山 東照宮道」の石碑15:29石碑は「花陽院門前町」華陽院(ケヨウイン)門前町町は伝馬町と鋳物師町に挟まれ東海道に面し府中宿の一画を構成している。町名の由来となった玉桂山華陽院は元来智源院と呼ばれ、松平竹千代、後の徳川家康公が今川氏の人質時代に勉学に通った寺として知られている。駿府での竹千代の養育にあたった外祖母源応尼(家康公の生母お大の方の母)の法名に因み、華陽院に名を改めた。華陽院には、源応尼の墓と並んで家康公の五女市姫の墓がある伝馬町通りにある「華陽院バス停」15:31伝馬町東交差点15:32府中宿は、駿河国の国府が置かれ、政治の中心地ゆえ「府中」と呼ばれ、また駿河の府中なので「駿府」ともいった。慶長12年(1607)将軍職を譲った家康は、駿府城を改築して江戸からこの地に隠居した本陣 脇本陣跡府中宿(伝馬町)界隈伝馬町界隈の歴史的な場所として徳川家康公の外祖母が眠る華陽院や、朝鮮通信使の休憩場所となった・・・・・・15:33この行列は「パン屋」、人気があるのか多くの人が列をなしていた15:34伝馬町交差点15:35市街地の消火栓用マンホール2007年「大御所家康公駿府城入城四百年祭」 興津宿から丸子宿手前ー続く
2019.05.03
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この辺りの旧東海道は、JRの東海道本線と東海道新幹線で分断されており、長い地下道を通って線路の北側へ移動、府中宿を目指して歩く。3/15(金) 13:35所在地:静岡県静岡市駿河区栗原この辺りは旧東海道が通っていたが、旧国鉄の拡幅工事のために分断されたそのため、旧東海道は地下道をくぐる東海道は昔この辺りを通り、西は古庄へ東は国吉田へと通じていた。国道一号線(静清国道)が整備されたことから交通量も減り、旧東海道と呼ばれるようになった。昭和37年国鉄操車場の建設により、栗原の西側が分断され、更に静清土地区画整備事による、新しい街づくりが行われたことから、栗原地内の旧東海道もその姿を消したJR東海道本線の地下道、途中ですれ違い用に広いスペースを設置東京から163k160m地点の標識海側から山側へ13:38道路面に旧東海道のマーク東海道本線の北側を西側(東静岡駅)へ向けて歩く13:40この道を斜め右に入り府中宿へ向かう13:41大谷川に架かる「後久橋(ゴキュウハシ)」後久橋を渡り、東海道本線、県総合運動場方面を望む13:42旧東海道の「夢舞台東海道道標」夢舞台東海道道標「古庄(フルショウ)」道標には府中宿 宿境まで三十里(3.6km)江尻宿 宿境まで一里十九町(6.1km)13:46国道一号線の古庄交差点、ここで合流13:47旧東海道(国道1号線)を歩き府中宿へ国道一号線の古庄交差点古庄交差点に「兎餅」跡地13:50JR東静岡駅手前の旧東海道(国道1号線)の「長沼交差点」この交差点を右に入り旧東海道へ13:54曹洞宗 久應院所在地:静岡県静岡市葵区長沼2-1-12本 堂境内に六地蔵13:58長沼一里塚跡14:00静岡鉄道「長沼駅踏切」14:02ここまでの歩数は、自宅から26,000歩。12時もとっくに過ぎお腹も空き「営業中」の札が目に付く。ランチの食べられる魚屋さん「魚進(UOSHIN)」所在地:静岡県静岡市葵区長沼631 TEL:054-261-8626営業時間:10:00~18:30 ランチ:11:00~14:00 定休日:木、日、祝日ランチ:日替り定食、刺身定食、フライ定食、海鮮丼などしらす、干し物などを地方発送もしてくれる店内に入り昼食をとることに、刺身もあり一杯やりたくなるランチタイム14時を過ぎていたが、「鯵と豚玉定食」900円をオーダー。食べ終えて店のおばさんたちと記念写真14:33食事を終えて、店の前から振り返り「静鉄長沼駅」静岡鉄道の列車14:39静岡縣護国神社所在地:静岡県静岡市葵区柚木366平和の道標ここは平和の杜です。このお社は護国神社といい、日本の平和と美しい山河や家族を護るために戦争で亡くなられた静岡県出身の約76,000人の方々を、神様としてお祀りあります。私達が豊かな生活ができるのは護国神社の神様のおかげですと広い境内を進む神紋は「丸に桜」で、明治維新から大東亜戦争に至る静岡県出身の戦没者・殉死者を祀る。社務所の二階は遺品館になっており、戦没者の遺品約4千点が展示されている桜の開花はまだ早かったがその時期は最高では神宮祭主 池田厚子様「お手植えの高野槙」 平成18年11月9日池田厚子様は、昭和天皇の第四皇女で平成天皇の姉。旧岡山藩主、池田家第16代当主池田隆政の夫人である境内配置図境内は約99,000㎡を誇る二の鳥居と拝殿拝殿の前は広大な広場拓魂碑満洲国の崩壊により難民と化し、非命に斃れた(たおれた)人々を偲ふ(しのふ)民族の悲劇に散った、満州開拓の霊やすかれと祈りをこめて護国の英霊を祀る神域に拓魂の碑を立つノモンハン事件慰霊碑この碑は、ノモンハン事件に従軍して、散華した戦友の慰霊のために建立したものである。ノモンハン事件は昭和14年5月中旬、旧満州国興安北省ハイラル南方ノモンハンにおけるソ蒙軍の越境に端を発し、紛争が拡大して平原の砂丘を血に染め、日満・ソ蒙両軍が激しい砲火を交えた日本戦史に特筆される事件である。・・・・・・・・・14:49静岡縣護国神社の鳥居、拝殿工學士 市川紀元二銅像。 明治期の陸軍中尉 日露戦争で戦死した最初の学徒出身兵。この像は当初、東京大学の校内に抜刀姿の銅像で建てられたが、第二次世界大戦後静岡護国神社境内に移されたのだと14:54静岡縣護国神社を後にする 興津宿から丸子宿手前ー続く
2019.05.02
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今日から新元号の『令和』。昨日は一日NHKで『平成』からの譲位の放送。昨夜は、『平成』の時代のことを反省しながら最後の夜を一人宴会。新元号も平和で平穏であることを願います!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・江尻宿を後にし、府中宿へ向かう。3/15(金) 12:21旧東海道を歩き、久能寺観音道標。前方左に、以下いろんな説明板があったこの道標は、安永7年(1778)に妙音寺村の若者の寄進により造立されたものである。ここに書かれている久能寺観音道は、この平川地から有東坂・今泉・船越・矢部・妙音寺・鉄舟寺(久能寺)に至る有度山麓を通る道のことである。久能寺は、もと久能山にあったが、甲斐の武田信玄が駿河の国の攻略の根拠地として久能城を築城、そのため天正3年(1575)現在の位置に移築されたものである。明治維新となり廃寺、その後、明治16年(1883)山岡鉄舟が再興、久能寺を鉄舟寺と改め現在に至っているとこの辺りの案内図東海道という言葉は崇神天皇10年9月、四道将軍として武淳川別を東海に派遣した日本書記の記事に始まる。ヤマトタケルが、東征の道に草薙剣の物語を残し、古代大和朝廷確立と律令国家の為の重要路として、防人達が遠く九州に下り、調を積んだ荷駄が大和に向けて通ったことであろう。中世には、いざ鎌倉の為に整備され徳川時代になり、東海道に松並木を植え一里塚を築き整備された。慶長12年(1607)徳川家康公の命により、当時の東海道は今の北街道を通っていたものを七日市場の巴川に七橋(現在の稚児橋)を架け追分上原を通り駿府横田迄駅路(正規の道)となった上原堤「宗丹池(ソウタンイケ)」宗丹池は農業用水の溜め池として、また狐ヶ崎遊園地のボート遊びの場として利用されてきたが、今は釣りや堤廻りの散歩等で、地域の人々の憩いの場として親しまれている。因みに全国に知られている民謡の「ちゃっきり節」はこの遊園地の開園を記念して作られた静岡鉄道のコマーシャルソングであったと12:23割烹「芳川」、お手頃うなぎ料理店所在地:静岡県静岡市清水区上原1-2-20創業180年余り、旧東海道沿いにたたずむいている本店は、西郷隆盛や清水次郎長も訪れたという逸話も残る静岡市内では数少ない日本庭園を持つ老舗の割烹料理屋12:25上原子安地蔵堂(ウワハラコヤスジゾウドウ)所在地:静岡県静岡市清水区上原1-5-30創建は鎌倉時代とされる。長寿・安産・子育・安全の守護として近隣の人々の信仰を集めてきた。武田信玄が駿府の今川氏真を攻めた永禄11年(1568)、武将山県昌景がこの地蔵堂のある上原の地に宿営布陣した記録があるというまた天正10年(1582)家康が武田勝頼を攻めるとき、江尻城の武田方城主・穴山梅雪とこの地蔵堂で会見した。穴山は家康側につき、武田軍は敗退した。お堂は本尊とともに、明治24年(1891)に一度焼失し、現在のお堂は昭和7年(1932)の再建である境内にある保存樹木(まき)樹齢:約230年、樹高:10.7m、枝張り:東西4m、南北7m周囲(目通り):2.2m小さな地蔵堂であるが歴史を語る場所である12:30上原鎮守十七夜宮伝説の碑12:30千手寺所在地:静岡県静岡市清水区上原2-4-52ここまでの歩数は、18,100歩門前左に、句碑の案内上田五千石(1933~1997):長野県出身、・・・・・・・石碑には「柚子湯出て 慈母観音の 如く立つ」 上田五千石の作品千手寺本堂門前で休憩をして府中宿へ向かう(12:40) 12:47静岡市立清水有度第一小学校14:48県道407号線と合流交差点脇に、夢舞台東海道道標「有度(ウド)」道標には府中宿 宿境まで一里二十六里(6.8km)江尻宿 宿境まで二十四町(2.6km)12:49史跡 東海道草薙一里塚狸八相縁起身 丈:10尺(3.3m)、重 量:500kg と大きい狸13:00旧東海道(県道407号線)の先に草薙神社の大鳥居が見えてきた草薙神社の大鳥居所在地:静岡県静岡市清水区草薙1-19草薙神社は大鳥居から離れているので素通り(すみませんでした)13:04JR草薙、静鉄草薙駅辺りの、高層マンションと静岡銀行ビルJR草薙、静鉄草薙駅方向13:05旧東海道はこの地下道(県道407号線下)をくぐり南側へ進み右折する13:17谷田山 東光寺所在地:静岡県静岡市清水区谷田9-15小さいお寺だが落ち着いたきれいなお寺で、早朝坐禅会をやっていると門前に立つ「葦葉(ロヨウ)達磨大師像」葦葉達磨大師像について菩薩達磨大師(ダルマさま)は、今から約1500年前、インドの香至国の王子としてお生れになられました。60歳で中国に渡り、少林寺で壁に向って九年間坐禅を続けました。実践を通したダルマ様の布教によって「禅」の教えは中国に広まった。その教えが後に日本に伝わり、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗となった13:18旧東海道を府中宿方面に向かう先に、東名高速道路の高架橋が見えてくる13:21東名高速道路の高架橋下を通る耐震補強された橋脚東名高速道路の東京方面カラーの消火栓マンホール。カワセミ(翡翠。静岡市の市鳥)が消防士の姿で、消火ホース、AED、救助ネットを持って急いで走っている姿が描かれたユニークなデザイン(弥次さんから)13:25秋葉山への石の除夜燈13:28静岡県総合運動場の「硬式野球場の照明塔」13:31静岡鉄道「県総合運動場駅」ここまでの歩行数は、23,000歩旧東海道は、踏切の手前を左折13:32道路の歩道に埋められたタイル、近くに総合運動場があるだけにブロンズ像「はばたき」作者は???13:35JR東海道本線の線路脇にある「旧東海道記念碑」 興津宿から丸子宿手前ー続く
2019.05.01
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今日は平成最後の日です。今回の「令和」への元号変更で経済効果が5兆円あるとか。新年号の時代も平和で災害が少ないことを。旧東海道を歩き江尻宿(現在の静岡市清水区)の稚児橋から府中宿へ向かう。3/15(金) 11:20魚町稲荷神社。所在地:静岡県静岡市清水区江尻町14-9境内には巨大なサッカーボールの石碑がある永禄11年(1568)12月、駿河に攻め入った武田信玄は翌年、江尻城を築いた。その後天正6年(1578)当時の城主・穴山信君(梅雪)は城を大改築し、城を鎮護する神として稲荷社を造営した。江尻城は関ヶ原の合戦後に廃城となった鳥居と本殿本殿横に巨大なサッカーボールの石碑日本少年サッカー発祥の碑。清水エスパルスの選手が、シーズン前に必勝祈願に訪れることで有名昭和30年代、日本のサッカーは、いわゆる御三家と呼ばれた広島、藤枝、浦和を中心に展開していた。その頃清水は、どこにでも見られるごく平凡な地域の一つであった。昭和31年、ここ魚町稲荷神社に隣接する江尻小学校にサッカー好きの新任教師(堀田)が赴任した。その日から先生は子供達と毎日運動場でボールをけった。ところが当時江尻小学校には ”ボールを、足で蹴ってはいけない” という校則があった。しかしサッカーの魅力にとりつかれた子供達の様子を見て、校長先生も許可をした。これが「日本で初めての少年サッカーチーム」を生むきっかけになった・・・・・・11:23江尻城跡昔この江尻小学校および中部電力清水営業所の敷地周辺に江尻城(小芝城)があった11:29旧東海道に戻り。スイーツの「河童の屁」の店舗11:30巴川に架かる稚児橋旧東海道の「江尻宿木戸跡の碑」方向巴川の下流方向、欄干には河童。巴川に架かるこの橋は、家康の命により慶長12年(1607)に架橋された。渡り初めをしようとした際に、川の中から河童の稚児が現れたという伝説から橋の名前が江尻橋から稚児橋になった。ここから沼津行きの船が出ていた橋の四隅に立つ河童男の子の河童女の子の河童11:36入江二丁目交差点、旧東海道はここを右斜めに入る11:37旧東海道を府中宿方面へ歩く、左側に旧東海道の道標「法岸寺」入り口旧東海道の道標「法岸寺(ホウガンジ)」入り口浄土宗 法岸寺所在地:静岡県静岡市清水区入江南町3-3311:39白壁の家は「?餅」11:39旧東海道沿いにある「慈雲禅寺」臨済宗妙心寺派 慈雲禅寺所在地:静岡県静岡市清水区入江2-2-30慈雲禅寺は今からおよそ四百数十年前(十六世紀末)一安禅師によって、聖観世音菩薩を本尊として開創された臨済宗妙心寺派の禅寺である。臨済宗は、お釈迦様の正法をを受けつぎ、初祖達磨大師、宗祖臨済禅師、白隠禅師に及ぶ禅宗で、自心佛であることを信じて坐禅に励み、本当の自分にめざめ脚下を照顧めて生きることを信条にしている長泉智牛和尚之墓所長泉智牛和尚は、豊後国(大分県)に生まれ、白隠禅師に師事した高僧、常に農業の振興につとめ、当時やせ地に悩む三保の農民を救うため、遠く九州からサツマイモの苗を取り寄せ農民にすすめた。サツマイモは砂地でも良く育ち、たちまち三保全土に広がった。そして、慈雲寺の芋和尚と親しまれ、長い間初穂七俵を贈る船が出されたという。入江小学校発祥之地。明治5年(1872)学制発布に基づき、翌6年本堂に入江小学校の前身である入江学舎が創立されたが、その運営は困難を極めた。その中で、時の住職端道和尚は、読み書きを学ばせ、体操の代わりに縄をなわせ、女子には子守をさせながら、畑の桑をつませて養蚕を行い、機織りをし、その利益で筆や紙を買い学校を続けたという八ッ石慈雲禅寺の本堂本堂の扁額は「慈雲寺」境内にあった摩尼車(マニグルマ)。摩尼(マニ)とは、インドの古い言葉で、無垢・離苦如意を意味し、宝珠の総称です。宝珠には、不幸・災難を除き、濁水を清水にする不思議な力があるとされている。心静かに、念じながら、回してくださいと山門からの本堂11:44江尻宿木戸跡の石柱11:45旧東海道の店頭に「祝 静岡市民栄誉賞受賞 さくらももこさん」の貼り紙が。そう言えばこの辺りに生家があるのでは?11:47「江尻宿」案内板入江3丁目交差点11:48旧東海道は、県道197号線「入江富士見線」を横切る。三保・日本平方面で、静鉄「桜橋駅」へ11:51清水銀行追分支店手前の交差点から、国道1号線方向清水銀行追分支店旧東海道を振り返る、江尻宿方面旧東海道の前方に「追分羊かん 本店」の看板12時になりお腹も・・・・・11:55追分羊かん 本店所在地:静岡県静岡市清水区追分2-13-21ここまでの歩数は、自宅から16,700歩この地方に伝わる羊かんの由来は、江戸初期までさかのぼる。ある砂糖商人が箱根の山中で旅に病める明(中国)の僧に出会い、手厚く介抱した。やがて病が癒えた僧は深く感謝し、小豆のあつものづくりの秘技をねんごろに伝授して旅立っていったという。街道沿いの追分付近にある追分羊かん本店のほか、市内各所で購入可能最中を一個食べながら、美味しいお茶を頂いた。奥には団体客用の部屋も12:01店内でお土産も購入可能追分羊かん 本店前にある道路案内12:04遠州都田の吉兵衛の供養塔春まだ浅き文久元年(1861)、正月15日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討った。その是非は論ずべくも無いが吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐み、里人が供養塔を最期の地に建立して俠客の霊を慰さむ。此處を訪れる諸士は彼のために、一掬の涙をそそぎ香華を供養されるならば、黄泉の都鳥もその温情に感泣するであろうと12:06夢舞台東海道道標「元追分」道標には府中宿 宿境まで二里七里(8.8km)江尻宿 宿境まで七町(0.8km)12:07金谷橋昔からこの辺りは、東海道と清水湊への道「志ミづ道」の分岐点であることから「追分」と呼ばれていた追分と金谷橋の今昔周囲には数軒の家が並び街道の両際は松並木が続き、その両側には田んぼが広がり遠くには富士山が望めた。往来の旅人は土橋であった金谷橋を渡ったが、重い荷物を運搬する牛馬は橋横の土手を下り渡川して土手に上り街道に合流した。古来、牛道と言われた名残りを今にとどめている東海道の史跡であると12:12静岡鉄道のちびまる子電車踏切手前に「追分」道標JR東海道本線の興津行き電車12:14JR東海道本線と静岡鉄道の追分踏切を渡り府中宿へ 興津宿から丸子宿手前ー続く
2019.04.30
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西園寺公望公の別荘「坐漁荘」を見学後、一部解りずらい旧東海道を歩きひたすら江尻宿を目指す。3/15(金) 10:12国道一号線と合流する場所にある「延命地蔵堂」所在地:静岡県静岡市清水区横砂東町24横砂の延命地蔵菩薩と常夜燈横砂・延命地蔵尊とは『病は治せるが寿命は延ばせない』との無理な願いを叶えてくれるのが、横砂の 延命地蔵 さんです。その昔は獅子舞の縁起もあって、地域・家庭の安全・健康と五穀豊穣を祈ったと伝えられています10:15旧東海道(国道1号線)の「横砂自治館前交差点」10:18臨済宗妙心寺派「東光寺」の山門と本堂所在地:静岡県静岡市清水区横砂本町20-31境内にある不動尊旧街道線沿いの「臨済宗妙心寺派 東光寺」の石柱10:21旧東海道(国道1号線)、横砂交差点10:26 旧東海道(国道1号線)を歩き、興津宿方面を振り返る庵原川に架かる橋から、上流に東海道新幹線の陸橋。ふと見ると川に赤い水が流れ込んでいた!水質に問題はないのか餡子のような赤い水? 現役時代の仕事から気になるどこの工場からの排水なのか?10:29日本橋からのキロポスト、距離は168km。ここの南側の方向に合同酒精があり、若いとき設備を納入しよく訪問したものです。まさかこの年になり、ここまで歩いてくるとは感慨深いものです!庭先の辛夷が満開10:32袖師ふるさとの路「延命地蔵」10:34旧東海道(国道1号線)の袖師交差点袖師(ソデシ)交差点の歩道橋へ10:36袖師交差点の歩道橋上から清水港方面、JR東海道本線との地下道10:38夢舞台東海道道標「袖師ヶ浦」道標には江尻宿 宿境まで六町(0.7km)興津宿 宿境まで二十三町(2.5km)10:43日本橋からのキロポスト、距離は169km。先程のキロポストから、1kmに14分を要した169kmのキロポストから前方に「辻町交差点」。旧東海道を歩いていると、時々神社&お寺には必需品の「畳店」を見かける袖師ふるさとの路、松原観音堂、津嶋神社津島神社10:45旧東海道(国道1号線)の辻町交差点。旧東海道はここから国道一号線からそれ、右側に入り江尻宿へ。所在地:静岡県静岡市清水区辻3-7辻町交差点にある「細井の松原無縁さんの碑」。辻村の東辺りから西久保にかけて、細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和19年、松根油採取のため伐採されたが、この折多量の人骨が出土した。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されたが、町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に記念碑を建て霊を慰めた。平成13年、東海道400周年を記念しこの石碑を建立細井の松原の沿革。夢舞台東海道道標「細井野松原」もあったが撮影を忘れました旧東海道へ入り、辻交差点を振り返る10:58旧東海道「江尻宿」。江尻は巴川の尻、即ち下流という意味の地名で、巴川が作る砂州上にできた清水湊の近くにある宿場。江戸から18番目の宿場である。戦国時代の今川氏支配の頃は三日市が立ち栄えた。その後、武田信玄が今川氏に代わり支配し江尻宿を築くと、城下町となり職人の町として発展したその後、家康が支配し東海道設定時に江尻宿の道筋を現在の銀座通りに変えて、慶長12年(1607)には巴川に稚児橋を架橋し、町並み長さ13町(約1.5km)の宿場町となり、人口約6,500人は駿河では府中宿に次ぐ大きな宿場だった10:59前方に国道一号線の「江尻東交差点」江尻東交差点から南側にある「JR清水駅」を望む。現役時代にはよく来たものです11:01江尻東交差点を横切り旧東海道へ。町名の由来「鍛冶町」。永禄12年(1569)武田信玄が江尻城を築き江尻は城下町として発展した。その後天正19年(1591)城下町から出火して周囲の民家を焼き尽くし、この火事が原因で鍛冶職とか鋳物職のような火を扱う家屋を海岸近くの現在の地に移したといわれている江尻宿には二十七戸の鍛冶職があり、その大部分が鍛冶町にあったといわれる。初めは江尻城の御用鍛冶として刀剣類を作り、その後刃物鍛冶鍬や鎌を作る農鍛冶となった。このように鍛冶職人が多く住んだので鍛冶町と名づけられた。城や宿場のあった町に数多く鍛冶町の名が残されている11:03旧東海道沿いに、串焼専門店「東海一の木内もつ焼き」11:09旧東海道を歩きこの先を右折。正面に巴川に架かるJR東海道本線の架橋が見える右折して巴川に沿って北上清水にはよく来ているがこの通りは初めて歩く、夜の飲み屋が少ないのか?11:10夢舞台東海道道標「江尻宿」道標には府中宿 宿境まで二里二十三里(10.3km)興津宿 宿境まで一里四町(4.4km)11:12通りにモニュメント「蒼空へ」 1998.3 松永 勉 作ペットショップ「小松屋」犬の美容室の看板11:14歩いてきた道を振り返る大きな捕鯨のモニュメント11:16江尻宿寺尾本陣跡、明治天皇行在所跡11:17東海道「江尻宿(18番目)」宿には、人馬や物資の移動を管理する問屋場を中心に、大名の宿泊する本陣三軒、それに準ずる脇本陣三軒と、一般の旅籠屋が五十軒程たち並び、人びとの往来で栄えていた、江尻宿の昔の姿であった。清水湊は江戸や上方との中継港であり、また背後の駿府へ物資を供給する重要な湊で大型船が出入りした。また駿府城の天守下から巴川を通って清水湊まで水路が開削されていた。明治時代はお茶の輸出港として栄え、現在は国の特定重要港湾、国際貿易となっている「江尻宿」案内板11:18旧東海道「魚町交差点」。直進すると江尻城跡があるが、旧東海道は左折して稚児橋へ交差点脇に道路標識 興津宿から丸子宿手前ー続く
2019.04.29
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清見寺の参拝後、江尻宿へ向かう。3/15(金) 9:02仏殿の左奥にある「聖観世音菩薩銅像」その奥に五百羅漢五百羅漢石像釈迦如来の御弟子で仏典の編集護持に功績のあった方々です。江戸時代中期(天明年間)の彫造にして作者不詳形相悉く神異非凡の作であります。此の羅漢尊者の群像は島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面になっている昔の同僚に似ている・・・・・この難しい表情は、誰かに・・・・・五百羅漢の横に土筆が仏殿横から山門を仏殿の扁額臥龍梅(ガリュウバイ)大方丈の前庭にある臥龍梅は、昔を懐かしんだ家康が訪れた際に接木したもの臥龍梅の咲き残り梵 鐘正和三年(1314)鋳造されたもので、謡曲「三井寺」に出づ、又、天正十八年(1590)豊臣秀吉が韮山城攻伐の際、陣鐘に用いた。総 高:140.2cm、鐘身高:113cm、口 径:80.7cm韮山城攻伐の際、この梵鐘を陣鐘に用いたとのことだが、現地へ移動するのが大変であったのではと思うが寺から眺める清見潟は絶景をうたわれたが、東海道線の開通で境内は分断され、戦後は清水港の拡張や海岸の埋め立て、道路の建設などで景観は失われたと弥次さんが御朱印を頂きに「書院」へ駿府静岡市「歩いて歴史探訪」(由比・蒲原エリア)の案内咸臨丸 殉難碑石碑の文字は「榎本武揚 書」仏殿、大方丈石塔は「山梨治重 顕徳塔」9:21清見寺の山門を出て東海道本線の陸橋、清水港のクレーン、後方に日本平9:23清見寺の西側にある「瑞雲院」臨済宗妙心寺派「瑞雲院」寒さくら 清見の寺に 唯た一枝 忍ぶむかしに ある如く咲く 与謝野晶子薄寒桜(ウスカンザクラ)、左側の木オオシマザクラとヒザクラとの雑種といわれている。毎年開花の時期は早く、1月中旬ごろに、ピンク色のきれいな花を咲かせる。この樹は、大正元年(1912)ワシントンのポトマック河畔に尾崎行雄東京市長が桜の苗木を寄贈するため、興津果樹試験場にそれの育成を懇請された際、熊谷八十三技師が担当し、東京荒川堤から収集した五十九種の苗木の一種である。この薄寒桜は育成本数が少ないため、アメリカ行きの選からもれたものを興津試験場に定植することになった。その内の一本は当山にも分興された。尚、現在の薄寒桜は、更にその孫にあたる清見寺を分断する東海道本線山門を見ながら旧東海道(国道1号線)へ9:29旧東海道(国道1号線)とJR東海道本線の間に建つ総門海への道は旧東海道からの「大正天皇在東宮海水浴御成道」9:31旧東海道(国道1号線)樗牛は清見潟の風景をこよなく愛し・・・・・・の石柱9:32旧東海道沿いにある老舗の魚屋「魚格出口魚店」所 在 地:静岡県静岡市清水区興津清見寺町97 tel:054-369-0336 営業時間:9:00 ~ 18:00 定休日:土曜日ネットで調べると、【1日〇〇枚売れる!? 人気の魚屋さん】と。揚げはんぺん(1個/100円)が週末になると多くて500枚ぐらいは売れる大人気の商品骨ごとすったキスとハモのすり身を混ぜ合わせて作ったはんぺん9:33旧東海道(国道1号線)を歩き、前方に興津坐漁荘(オキツザギョソウ)の標識が興津坐漁荘(オキツザギョソウ)の標識9:3510時からのオープンであったが早めに入れて頂く。入館料は無料。坐漁荘は、明治・大正・昭和にわたる大政治家で最後の元老・西園寺公望が晩年を過ごした旧宅。大正9年(1920)に建てられ、亡くなるまでの22年間を過ごした庭からの別邸。当時の建物は明治村に移築保存されているが、この地にある現在の建物は平成16年に復元し公開されたものです(パンフレットより)居間の前にある広縁からの庭。敷地約380坪(1250㎡)、二階建て140坪(460㎡)。前庭は清見潟を望む景勝地だった邸宅内には西園寺公の写真が飾られ暖炉もある応接間二階にある「鴬張り廊下」、歩くと・・・・・・埋め立てられる以前の坐漁荘の前浜の景色薩埵峠 芳盛 作実際にはこのようには見えないが!江尻 三保遠望興津駅上りホームにて列車を待つ、西園寺公望公 昭和10年頃女中頭 お綾さん大正13年、西園寺家小間使いとして入り、昭和3年から女中頭。老公の身辺を世話し、外出に付き添い、昭和15年の最後を見取る9:52ボランティアの方の説明を聞く。いろんな資料が展示されていた10:00清見潟のバス停10:03ここを左折して「井上馨の像」へ、高架は静清バイパス10:03井上馨候之像桜が咲けば最高であったが、まだ硬い蕾であった「碑文のよみかた」の説明板があるが読みずらい。井上馨の別荘が先で、その後大磯に別荘があった西園寺公望がこちらに来たと井上馨候之像日本の武士(長州藩士)で、政治家、実業家。鹿鳴館時代を作り大臣を歴任しながら首相になれなかった男。伊藤博文、山縣有朋と並び「長州三尊」と称された10:09歩いてきた道を振り返る。旧東海道は国道一号線から民家の路地へ入る、案内が明確でないのでわかりずらい同場所から江尻宿方面を望むが、旧東海道はわかりずらい。弥次さんのiPhoneの道案内で歩けたが・・・・・・10:11JR東海道本線「横砂踏切」旧東海道はこの踏切を横切って国道一号線へ合流する 興津宿から丸子宿手前ー続く
2019.04.28
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今回は延べ13回目の旧東海道道中記です。JRでの交通費が近距離きっぷ範囲を越えたので、昨日14日に購入した「青春18きっぷ」を利用して、3/15(金)その一回目の弥次さんとの道中記です。普通電車を一日乗り放題できる「青春18きっぷ」。有効期間が4月10日までのため計画的に利用する必要がある3/15(金) 6:01朝は寒かったのでダウンをはおり、駐輪場に自転車を預けて茅ヶ崎駅北口へ向かう6:05 日の出前の茅ヶ崎駅北口8:16 三島駅で乗り換えてJR興津駅へ到着、今日も晴天だ!旧東海道(国道1号線)へ向かう8:31旧東海道(国道1号線)沿いの、昔からの老舗「米屋 高山仙吉商店」きれいな瓦の歴史を感じる旧家で、室内には昔からの道具や日用品が展示されておりお米と暮らしの小さな博物館になっている8:32日蓮宗 理源寺所在地:静岡県静岡市清水区興津中町193本 堂境内には「稲荷堂」目の神様『意眼さん』若狭の国宮津城主(京都)の子。盲人、身延山日朝上人の許に参詣の折この地にて死す。廿九歳、短い一生であったが、目の不自由な人々のために尽くす。『日朝さん』『意眼さん』として尊敬される。お墓に元禄十年三月七日とあり、毎月七日におまつりが行われている境内の奥に咲き始めた、カンヒザクラ(寒緋桜)8:37現在も営業している、東海道興津宿、割烹旅館「岡屋」8:38興津宿興津は薩埵山、清見寺山が駿河湾に迫り交通の難所だったので、坂東(関東)から北の備えとして中世には関所(清見関)が置かれた宿駅であった。また身延山へ向かう身延道との追分があり、交通の要衝でもあったので慶長6年(1601)東海道の宿場となった「興津宿」案内図明治元年十二月興津宿宿割地屋号。宿の町並みは、東は身延道標あたりから西へ10町55間(1.2km)の長さだった興津宿の由来東海道53次のうち17番目の宿場として栄えた興津は、興津郷と称されていた。地名のいわれは「宗像神社」の興津宮を当地に勧請したことに由来するこのあたりの海岸一帯では製塩業が盛んだったので、身延道は日蓮宗総本山の久遠寺への参詣ばかりでなく、甲府や信州への塩の道でもあった。江戸中期には興津川流域で和紙の生産がはじまり、駿河和紙として興津はその集散地として栄えた。名物は興津の海で獲れる甘鯛。興津鯛と呼ばれ、家康の大好物であった。また興津川の鮎の塩焼きも有名。清見寺門前の東海道筋にあった「藤の丸膏薬」の万能膏薬は美少年が着飾って並んで売り、男色の相手もしたので人気があった興津町役場跡昭和56年6月29日「清水市合併 二十周年記念」石碑夢舞台東海道道標「興津宿」道標には江尻宿 宿境まで一里(3.9km)由比宿 宿境まで二里十一町(9.0km)8:42日蓮宗 耀海寺(ヨウカイジ)興津宿の東本陣・西本陣の菩提寺。JR東海道本線の北側にあるので参拝はやめる8:43興津宿東本陣跡の石柱8:45旧東海道(国道1号線)の江尻宿方面脇本陣水口屋跡所在地:静岡県静岡市清水区興津本町36江戸時代には興津宿の脇本陣として旅籠を営み、明治以降は皇族、政治家、財界人、小説家、画家など各界著名人の別荘旅館として有名になった。現在は「水口屋ギャラリー」として当時の資料を展示している振り返り由比宿方面8:47商店街のシャッターにイチロー選手、うまいもんだ!8:47興津宿西本陣跡の石柱8:52日本橋から166kmの道標8:53旧東海道(国道1号線)沿いの山の手に「清見寺」8:54清見寺前にある「東海道 興津宿」の説明板興津の歴史、東海道についておきつの街の観光案内図清見ヶ関跡坂東(関東)から北の備えとして中世には関所(清見関)が置かれた場所上記案内板「清見ヶ関跡」、英語、韓国語で表示旧東海道(国道1号線)から海への、大正天皇在東宮海水浴御成道の石柱清見寺総門所在地:静岡県静岡市清水区興津清見寺町418総門の向こう側を東海道本線が横切るという珍しいお寺(従って境内に踏切がある)JR東海道本線の静岡方面JR東海道本線の陸橋からの「清見寺山門」白鳳年間に清見関が設けられたとき、その守護として仏堂が建立されたのが始まりといわれる。本尊は観音菩薩。江戸時代は東海道筋の名刹として知られた。徳川家康は今川氏の人質として駿府にいた幼少時、この寺の住職太原和尚(第一世)より教育を受けたため「家康公手習之間」がある山門前に六道地蔵尊六道地蔵尊は、人はこの世を終わって後、冥途の長旅をして六道の辻に出ると云う、而して生前の行いに因って、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上動)の内何れかを自から選ぶと云うのです。地蔵尊は常に此の辻に立って冥途の人の心のささえとなられている山門の横に、「田中清左衛門逆修塔」鐘楼&書院臨済宗妙心寺派 清見興国禅寺の仏殿大方丈の大玄関9:01この地蔵尊は薄幸な夭児の霊と世の交通災害の為、尊い生命を失った児童の霊をなぐさめようと発願して建立されたもの 興津宿から丸子宿手前ー続く
2019.04.27
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薩埵峠は古来より東の箱根峠、西の鈴鹿峠の間にあって東海道の三大難所として知られている。海岸に沿った僅かな平坦地に国道1号線、東名高速道路、JR東海道本線という東西を結ぶ重要な交通網が通っている。薩埵峠に登れば富士山、駿河湾、伊豆半島が一望でき浮世絵師歌川広重によって描かれた往時と同じ絶景が広がる。3/8(金) 16:30中腹に雲がかかる富士山早咲きの桜が咲いていたが16:34名残惜しいが、またいつか撮影に訪れたい場所薩埵山の合戦薩埵峠の歴史16:36夢舞台東海道道標「薩埵峠」富士山がかすかに見える、露出オーバー16:37興津宿に向って坂を下る16:39薩埵峠からの坂道を下り終えるJR興津駅まで3.3km(60分)、薩埵峠まで0.9km(28分)16:42往還坂16:46旧東海道から「白髭神社」白髭神社(シラヒゲジンジャ)所在地:静岡県静岡市清水区興津東町1504小高い山の上にある小さな神社であった16:53農地の間の旧東海道を歩き、興津宿へ下る興津の街並み16:58土地改良之碑薩埵峠からは右側の道から下ってきた、峠まで2.3km(65分)17:00川越遺跡江戸時代の川幅は25間(45m)あまり。興津川は徒渡し(カチワタシ)だったが、水かさが減る冬場の10月下旬から3月5日までは仮の橋が架けられ、無賃で渡れた。両岸に川会所があり、旅人は川札を買って、人足の肩車や蓮台に乗り川を越えた。川札はその日の水深により値段が異なり、水深4尺五寸(約1.4m)を越えると川留となった。広重の保永堂版「東海道五十三次 興津」は興津川の徒渡しの様子を描いている東海道難所 薩埵峠之絵図17:02JR東海道本線のガード17:03ここを右折してJR興津駅へ1.6km(30分)17:05興津川に架かる「浦安橋」、ビルの向こうは日本平左の橋は国道一号線、高層ビルは「駿河健康ランド」17:06JR東海道本線の貨物列車は上り方向へ17:10左の高架は国道一号線道路標識は、直進は国道1号線の浜松・藤枝、左折して国道52号線で甲府・身延17:12興津中町東交差点17:1417:18旧東海道(国道1号線)の興津中町西交差点この交差点の角にある「身延道起点の道標」。江戸時代、駿河と甲斐を結ぶ身延道との追分に石塔寺があった。明治時代になって廃寺になり、この身延道標と髭題目碑が残った。このあたりから興津宿の入り口となる17:20旧東海道(国道1号線)を、JR興津駅へ向かう17:22一里塚跡(興津):江戸から41番目の一里塚17:24興津駅前交差点JR興津駅へ17:26JR興津駅へ到着。ここまでの歩数は40,039歩駅前の「興津宿」案内17:28JR興津駅改札口近距離きっぷ運賃表の上り東海道線の最先端は「大磯駅」で、1,660円だ!そろそろ運賃が高くなるので「青春18きっぷ」を購入する必要がある17:31反対側のホームに下り電車が来る来週は電車でここまで来る予定だが、静岡方向17:56車窓からの富士山、車内が写っていますが。富士がきれいに見えていた今回の道中記は始めてから延べ回数12回目で、JR富士駅からJR興津駅経由自宅までは42,047歩の32.12kmでした。薩埵峠の登りはきつかった。歩き始めた時は天気が良く、富士川からの富士が綺麗に見えたので、薩埵峠からの富士を期待したが、午後3時頃になると一部に雲が発生し全体が見れなくなった。しばらく待機したが雲は取れずあきらめて興津宿へ下った。いつかパンフレットのような富士を見てみたいものです! JR富士駅から興津宿ーEND
2019.04.21
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雲が出ていたので富士山が気になるが、薩埵峠へ。3/8(金) 14:57薩埵峠は右側の坂を登る。左へ下ると駿河湾、国道1号線が近い。薩埵峠までは、2.3km、55分と標示ビワの木に黄色い袋白い袋も。花を摘果して、黄色・白色の袋を掛けていたがどう違うのか?15:02江戸時代にタイムトリップした感覚に陥る「間の宿 西倉沢村」軒下に杉玉がぶら下がり15:06石段の上にお寺があるがこれからが大変な坂になるので、下から見上げるだけに15:07西倉沢村は薩埵峠の東坂登り口を控えており、由比宿と興津宿の間の宿と呼ばれていた。当時は茶屋が十軒ほど並び、茶屋本陣・脇本陣があった川島家は代々西倉沢村の名主を務め、慶長から天保の時代の230年間茶屋本陣を務めた明治天皇ご小休「柏屋」江戸時代から間の宿にあって、柏屋と称して茶屋を営んでいた。明治元年(1868)及び11年(1878)、明治天皇ご東幸のみぎりは、ご小休に当てられた。明治15年(1882)頃、静岡県令大迫貞清が療養のため柏屋に逗留された際、倉沢の気候風土が郷里の九州に似ているところから、田中びわの種子をとりよせ栽培をすすめ、当地に田中びわが普及するところとなったと。先程のびわはその流れか?15:09一里塚(由比・西倉沢)薩埵峠まで1.3km(26分)、JR由比駅まで2km(40分)江戸から数えて四十番目の一里塚で、江戸からおよそ160kmの距離になる。ちなみに由比駅~東京駅間は158.4kmです。この一里塚は薩埵峠東登り口に位置し、塚には榎が植えられていた夢舞台東海道道標「倉沢」興津宿 宿境まで一里十四町由比宿 宿境まで三十一町 駿河湾がすぐそこに藤屋望嶽亭(フジヤボウガクテイ)所在地:静岡県静岡市清水区由比西倉澤84-1 tel:054-375-3486不定休で入館無料だが、個人宅のため公開時間は不定(要事前連絡)、Pは無富士山の眺めが良かったので望嶽亭とも呼ばれた茶店。幕末の戊辰戦争にまつわる話が伝わっている。慶応4年(1868)、幕府の密命を帯びた山岡鉄舟は、府中まで攻めてきた官軍参謀・西郷隆盛との江戸城無血開城交渉に赴いた。道中の薩埵峠で官軍に追われた山岡は、望嶽亭にかくまってもらう。主人の藤屋七郎兵衛は山岡を漁師に変装させ、清水次郎長宅へ。次郎長は山岡を府中へ案内し、府中宿伝馬町の旅籠・松崎屋で西郷と会談することができたという → 次回(3/15)訪れた15:11坂を登り始めるが振り返ると、駿河湾、由比宿が、富士は頂きだけが見える15:13坂の途中で立ち止まり富士を望む15:17坂の下は東名高速道路、国道一号線、JR東海道線同場所から振り返ると、富士の頂きが15:21息を切らせながら坂を登る、遠く三保松原が見える15:22東海道薩埵峠周辺絵図15:25薩埵峠へようやく到着、自宅から 33,280歩夢舞台東海道道標「薩埵峠」興津宿 宿境まで一里三町(4.2km)、由比宿 宿境まで一里六町(4.4km)駿河湾と遠方に伊豆半島が見える残念ながら、富士の頂きは見えるが中腹には雲がかかり坂道を上っているときは暑かったが、薩埵峠は標高が244mあり日陰でもあったので寒くなる駐車場があったが平日にもかかわらず満車。土日祝日は待機状態になると係員薩埵峠はもともと岩城山と呼ばれていたが、倉沢の海から漁師に引上げられた地蔵菩薩を祀ったことからこの名がついた。広重の保永堂版『東海道五十三次 由比』はこの薩埵峠からの風景を描いている。薩埵峠は海に突き出した山なので、初期の東海道は山と海岸の間のわずかな平地を、波間を縫って通り抜けなければならない難所だった。明暦元年(1655)薩埵山の中腹に、天和2年(1682)にはさらにその上に道が付けられた薩埵山合戦場古来、ここでは二度の大合戦があった。まず観応2年(1351)室町幕府を開いた足利尊氏と鎌倉に本拠を構えた弟の直義が不仲になり、ここ薩埵峠から峯つづきの桜野にかけて山岳戦を展開し、やがて直義軍が敗退した。ニ度目は永禄11年(1568)から翌年にかけてで、武田信玄が駿河に侵攻したので今川氏真が清見寺に本陣を置き薩埵峠に先鋒を構えたが敗退した。そこで小田原の北条氏が今川に加勢して出陣し、今度は、武田が敗れて一旦甲州へ引き上げたが、永禄12年12月に三たび侵攻し、このとき蒲原城を攻略した東海自然歩道バイパスコースJR興津駅:4.3km(90分)、JR由比駅:3.4km(63分)薩埵峠山之神遺跡眼下に東名高速道路駿河湾の先に富士市内と愛鷹連山。今朝出発の富士市の製紙会社煙突16:05しばらく待つが雲がなくならないので、あきらめて興津宿へ下ることに16:08薩埵峠から数百メートル下り、まだ工事中の展望台へ。まだ市の検査前で立入禁止!展望台下に富士山ライブカメラがあり、よくTVで見る光景この展望台にある道標しばらく待機して雲がなくなるのを待つが16:17興津宿へ向かう薩埵峠は、東海道53次の中では由比宿と興津宿の間に位置する峠。山が海へと突き出した急峻な地形である事から、古来より東海道の難所の一つに挙げられ、北陸道の親不知と並び称される程でしたが、嘉永7年(1854)に起こった安政東海地震により峠直下の海岸が隆起し、安易に通行できるようになったため、東海道(国道1号線)は現在の海岸線を通るルートに改められている16:19東海道「薩埵峠」興津宿 ← 薩埵峠 → 由比宿薩埵峠薩埵峠には上道、中道、下道の三道があった。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり中道は、明暦元年(1655)に開かれた山腹を経て外洞へ至る道です。また、上道は、峠を下るところより内洞へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です風光明媚な絶景の地貼られていた絶景の写真16:23午房坂、桜の木も植えられているが午房坂16:26狭い旧東海道沿いに桜の木が桜の新種か「おきつ薄寒桜」。植樹は昨年平成30年1月と JR富士駅から興津宿ー続く
2019.04.20
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由比宿を出て、いよいよJR由比駅経由薩埵(サッタ)峠へ向かう。3/8(金) 14:04旧東海道(県道370号線)の由比西木戸から由比宿方面を振り返る14:05旧東海道に架かる由比川橋埋立記念碑橋の右側に立つ石碑は、昭和36年新幹線蒲原トンネル掘鑿に当たり、其の土を利用し由比川左岸窪地埋立を計画・・・由比川橋から、東海道線、東名高速道路、前方の山は薩埵山橋の欄干に飾られた東海道53次の絵14:08橋を渡り右側に「料理茶屋 民宿玉鉾」所在地:静岡県静岡市清水区由比450-1桜えびかきあげ、生しらすが食べれる料理茶屋由比川橋を振り返る旧東海道(県道370号線)の消火栓マンホール静岡県はサッカーの県旧東海道沿いの民家の軒先にぶら下がるアルミ缶の風車。店の中には切り絵がたくさんあり、近所のおばさん、先生と呼ばれる人としばし雑談したが撮影は遠慮した旧東海道(県道370号線)は「由比桜えび通り」と呼ばれている14:15桜えび・しらすを製造販売。現在は桜えびやしらす干が名産だが、桜えび漁は明治中期以降に始まった下り懸魚(ゲギョ)の稲葉家。平軒桁の両端が風雨による腐食を防ぐための装置で、雲版型の板に若葉、花鳥などを掘り込み装飾も兼ねている稲葉家は、この下り懸魚が施されている建物ですとせがい造り軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁とし棰を置いたもの。民家建築に美観を添えたもので、由比の町並みに特に多く見られる由比桜えび通りを歩き前方にJR由比駅14:30振り返ると富士の頂上が見える夢舞台東海道道標「今宿」道標には興津宿 宿境まで一里三十二町(7.4km)由比宿 宿境まで十三町(1.4km)由比桜えび通りの上には大きな桜えびが「素足ー少女」 大城章二作JR由比駅前の案内板「東海自然歩道(バイパスコース)」由比駅 → 薩埵峠 3:30 薩埵峠 → 興津駅 0:50 の案内由比駅前の由比桜えび通りから、富士の頂上部分が見える14:34JR由比駅構内、茅ヶ崎まで「近距離きっぷ運賃表」の最大範囲で、1660円ここまでで、朝から28,500歩14:41JR由比駅を後にして、薩埵峠へ向かう14:43旧東海道(県道370号線)と県道369号線が合流右方向が、旧東海道(県道370号線)で由比宿へ、富士山が僅かに見える薩埵峠の道路標識が14:46薩埵峠入口、直進すると国道一号線へ振り返ると富士に雲がかかっていた14:47薩埵峠への旧東海道へ入り道標薩埵峠まで2.9km、40分ぐらいか?坂を登ると「地すべり管理センター」寺尾(昔の海道をみる)ここ寺尾には昔、南方寺という真言寺があり地名の起源となったと伝えられている。昔の家並みは海沿いにあったが、たびたび津波の被害をうけ、そのため天和3年(1682)高台に新道を改さくし東海道とした。現在の街道は当時のままの道幅所々に格子戸、蔀戸の古い家を見ることができる14:49高台に新道を改さくし東海道とした街道からの駿河湾、伊豆半島旧東海道を薩埵峠へ向かう14:52軒先にぶら下がっているのは、道幅が狭いので車が軒先にぶつからないように14:53名主の館 小池邸所在地:静岡県静岡市清水区由比寺尾464-9平成10年に国登録有形文化財となった。入館は無料で、月曜日(祝日の場合除く)が休み 9:30~16:00or16:30小池家は江戸時代、代々小池文右衛門を襲名して寺尾村の名主を代々務めた。名主は年貢の取立・管理、戸籍業務、他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、村役人の中でももっとも重要な役割を担っていた。この建物は明治時代の建立ですが、大戸・くぐり戸、ナマコ壁、石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残している由比宿東海道あかりの博物館所在地:静岡県静岡市清水区由比寺尾473-8入館は大人500円、小人200円(中学生以下父母同伴は無料) 不定休、土日祝 9:00~16:30 平日 10:00~15:00江戸・明治・大正時代までの、あかり(灯具)及び資料を展示している。それぞれの灯具がその時代を語ってくれると思います。昔のあかりの中でくつろぎ、そしてやすらぎを感じていただければ幸いです 館長番匠師格子戸、蔀戸等、昔の面影を残した建物を建築して昔の街並みを保存している14:57薩埵峠は右の坂へ。タクシー、乗用車とすれ違う JR富士駅から興津宿ー続く
2019.04.19
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蒲原宿の西木戸から、江戸から16番目の宿「由比宿」へ向かう。3/8(金) 13:02夢舞台東海道道標「西木戸・茄子屋の辻」県道396号線沿いに建つ道標13:03和歌宮神社鳥居神社本殿をズームアップ13:10旧東海道(県道396号線)を由比宿に向けて歩く13:21一乗院所在地:静岡県静岡市清水区蒲原中369-1北向不動尊 一乗院13:25JR蒲原駅前広場13:27旧東海道(県道396号線)を由比宿に向けてひたすら歩く。名物の桜えびの店旧東海道を振り返る13:32前方に東名高速道路の高架橋13:34東名高速道路の高架橋下13:37右は県道396号線、ここを左方向に直進して由比宿へ窓に映える我が姿13:38小川を越え、お馴染みの夢舞台東海道道標。高架橋は東名高速道路ですぐ海になる夢舞台東海道道標「由 比」。由比宿の宿境まで三町(0.3km)蒲原宿の宿境まで二十六町(2.8km)13:40神沢川酒造場の煙突、「清酒正雪」を生産販売13:42由比一里塚注意しないと見落とすようなところに説明板が由比の新町の一里塚は、江戸から39番目で松が植えられていたが、寛文年間(1661~1673)山側の松が枯れたので、良用軒清心という僧がここに十王堂を建立し、延命寺堺外堂とした。十王堂は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、祀られていた閻魔像は延命寺本堂に移されている13:44由比宿東桝型跡宿場の出入り口は桝形(かぎの手)に折れ曲がり、木戸が作られ万一の攻撃を防ぐなどの治安維持とともに、宿の出入り口の道標にもなっていた。ここを通り過ぎると町並みが始まり、本陣、脇本陣、問屋、旅籠、茶屋などが置かれていた。由比宿も東西の出入り口は桝型に折れており、現在も面影が残されている由比宿東桝型跡を振り返るこの建物は?由比は現在も小さな町で古い家が残り、宿場の面影を残した静かな落ち着いた街並みである御七里役所之跡紀州徳川家の飛脚の中継所跡である。同家は江戸~和歌山間(584km)の約七里(28km)ごとに中継役所を置き、五人一組の飛脚を配置し、その中継所を御七里役所と呼んだ。普通便は毎月三回、江戸は5の日、和歌山は10の日に出発、道中8日を要した白塀に上記「御七里役所之跡」プレート13:48由比本陣公園・静岡市東海道広重美術館所在地:静岡県静岡市清水区由比297-1由比宿鎌倉時代からの宿場で、源頼朝から恩賞として由比地方を与えられた大宅光延の子孫が由比氏を名乗り支配した。山と海に挟まれた街道沿いの村で、漁業と製塩業を生業とした。由比から東金沢の海岸では、女が塩を汲んで塩竃へ移したり、海女が貝を採ったりする風景が見られた。宿の町並み長さは5町半(約600m)と短く、人口も700人ほどで、東海道にある宿場の中でも小さな宿場だった。現在は桜えびやシラス干しが名産だが、桜えび漁は明治中期以降に始まった由比本陣公園の表門由比本陣かっての由比本陣内には、現在と同じ敷地の中に大名等の宿泊に使用された母屋や明治天皇がご小休された離れ館、徳川家康公お手植えの松といった由緒ある史跡があった。現在の本陣内では、表門や木塀、馬の水吞み場等のほか、記念館「御幸亭」において、先の離れ館の内部を再現している本陣の表門と芝生広場、奥に物見塔由比本陣公園の全体案内図静岡市東海道広重美術館由比本陣公園内の東海道由比宿交流館馬の水吞場この横の長い水路状の濠(幅1m、東西20m)は、馬の水吞場といって、むかし大名行列の馬に水を呑ませたり、身体を洗ったりしたところ水深ももとは60㎝もあった。屋数の前の道路にこのような施設があるのは、他の宿場の本陣にはあまり類例を見ない珍しいもの馬の水吞場には亀が本陣前に、正雪紺屋(ショウセツコウヤ)この紺屋(染物屋)は、江戸時代初期より続くといわれ、屋内には土間に埋められた藍瓶等の染物用具や、天井に吊られた用心籠は火事等の時に貴重品を運び出すもので、昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれといわれているところから、正雪紺屋の屋号がつけられている脇本陣温飩屋(ワキホンジンウンドンヤ)由比宿には脇本陣をつとめた家が三軒あった。そのうち江戸時代後期から幕末にいたるまでつとめたのが、この温飩屋明治の郵便局舎(平野氏宅)由比本陣公園と物見塔加宿問屋場跡ここは江戸時代に加宿十一カ村(北田、町屋原、今宿など)が共同で問屋場を設営した所。問屋場とは、幕府の命令で街道通行者のために人足と駄馬(百人・百匹)を用意した役所で、由比宿の場合は本宿と加宿が一ヵ月交代でこの負担を勤めた14:00旧東海道沿いにある、日蓮宗 正法寺日蓮宗 正法寺本堂おもしろ宿場館おもしろ宿場館前で弥次さんがポーズ旧東海道由比罐詰所寄宿舎第三寮「由比宿」案内板江戸後期 由比宿宿割地屋号由比宿西木戸西の木戸(通行人の出入口)が、この先の桝型(曲がり角)の所あたりだったと。旧東海道その桝型を左折して坂道を下って由比川の河原へ出ると、仮の板橋が架けられていて、それを渡りました。雨が降って水量が増すと、この仮板橋は取り外された。このように由比川は徒歩で渡ったので、歩行渡りといっている14:04JR由比駅に向かって歩く JR富士駅から興津宿ー続く
2019.04.18
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木屋の土蔵で昔の富士川の流れ、蒲原宿の話を聞きながら休憩。蒲原宿は江戸から15番目の宿。蒲原は古くから交通の要衝で、駿河の国に設置された六駅のひとつで中世には、既に宿があった。戦国時代には北条氏の蒲原城があったが、武田信玄に攻め落とされた。天正3年(1575)長篠の戦いで武田軍を破った家康は、その勢いで蒲原城を落とした。武田が滅ぶと駿河は家康の領土となった3/8(金) 11:50臨済宗妙心寺派 岩戸山龍雲寺所在地:静岡県静岡市清水区蒲原2-12-10本堂聖観世音菩薩を御本尊とする寺院本堂の前に境内にある涅槃像11:56旧東海道へ戻り、道標。蒲原宿は、富士川の川留の際は賑わい、甲州・信州方面の年貢米や塩の輸送基地としても栄えた。諏訪神社の門前に常夜燈があり、ここが東木戸跡。西木戸まで蒲原宿の町並み長さは14町33間半(約1.6km)。蒲原は江戸後期の土蔵造りの町屋、連子格子の旅籠や、明治・大正時代の建物も保存され、宿場の雰囲気を感じる11:57民家のブロック塀に「馬頭観音」この付近に昭和の初め頃まで馬小屋があり、馬頭観音が祀られていたと伝えられていたが、平成10年11月に通りの北側の駐車場整備の際、半分土に埋もれたこの馬頭観音供養石塔が発見された「馬頭観音」供養石塔の由来かって馬が、貨客の運搬、農作業など、生活の重要な役割を担っていた時代「馬頭観音」は馬の守り神として、人々の信仰を集めていた。また、路傍に立てられたその石像や供養塔は往還(街道)の道しるべとしても親しまれた11:58日蓮宗東漸寺(トウゼンジ)所在地:静岡県静岡市清水区蒲原2-13-7東漸寺山門今月の聖語鐘楼と蕾が固い桜渡邊利左衛起立の法界塔木屋の渡邊家の、17・18代が起立したもの東漸寺本堂東漸寺沿革当山は日蓮聖人直弟日興上人の弟子中老僧日目上人の開創といわれ、北条重時の嫡男石川式部入道勝重の発願により、元弘元年(1331)の創立された。・・・・・・・12:02なまこ壁と「塗り家造り」の家(佐藤家)当家は、元「佐野屋」という商家でした。壁は塗壁で、町家に多く見られる造りですが、このような町家を「塗り家造り」というと。「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果が大きく昔から贅沢普請ともいわれている。もともとは城郭などに用いられた技術・・・・・・佐藤家の向かい側にある、商家の面影を残す「塗り家造り」(吉田家)。当家は、昭和まで続いた「僊菓堂(センカドウ)」という屋号で和菓子を作る商家であった12:04問屋場跡幕府の荷物の取り継ぎ、大名の参勤交代の折の馬や人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の運搬の手配をした所で、宿のほぼ中央にあたるこの場所に設置されていた旧東海道の町並み矢張り電柱・電線が邪魔な光景だ!12:06「蒲原夜之雪」記念碑へ記念碑と広重の絵がプレートで。この記念碑は、昭和35年(1960)この絵が国際文通週間の切手に採用されたのを機に建てられた歌川(安藤)広重の「蒲原夜之雪」この絵は、歌川(安藤)広重が、天保3年(1832)4月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京へ上った折、この地で描いたもので、東海道53次シリーズの中でも最高傑作といわれている12:09善福寺入口12:09旅籠「和泉屋」(鈴木家)当家は、江戸時代「和泉屋」という上旅籠でした。天保年間(1830~1844)の建物で安政の大地震でも倒壊を免れた今に残る二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠を見ることができる本陣跡西本陣(平岡本陣)の跡で、かってはここより百m程東に東本陣(多芸本陣)もあった12:11旧東海道、地方選挙を控え掲示板が蒲原宿の案内板旧東海道沿いの建築物を表示木屋の土蔵で紹介された「食事処 よし川」の看板。昼を過ぎそろそろ昼食を!12:13県道396号線の「善福寺入口」交差点旧東海道方面蒲原宿案内板12:15県道396号線沿いの「食事処 よし川」へ到着。ここまでの歩数は、自宅を出て19,310歩矢張りこの辺りは桜えびだ!桜えびランチ(税込み1,000円)。店内は予約客でいっぱい、カウンターで食べたが美味しかった。年配のおかみさんと会話、富士駅から歩いてと聞いてびっくり、興津まで気をつけて頑張ってと12:47県道396号線沿いの「食事処 よし川」、江戸方面12:50御殿道跡かって、この辺りに「蒲原御殿」があった。はじめは武田氏を攻めて帰る織田信長を、慰労するために徳川家康が建てた小規模のものであったが、二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来するたびに拡張、整備され、規模も大きくなった。背後の山を「御殿山」、ここから下る道を「御殿道」と呼んでいる。ちなみに、寛永11年(1634)の家光上洛以降「蒲原御殿」は使用されなくなった高札場跡12:51旧東海道を振り返る、江戸方面大正時代の洋館「旧五十嵐歯科医院」所在地:静岡県静岡市清水区蒲原3-23-312:52蔀戸(シトミド)のある家、国登録文化財「志田家住宅主屋」。志田家は「ヤマロク」という屋号で、味噌や醤油の醸造を営む商家であった蔀戸とは、日光や風雨などをさえぎる戸のこと。上下二枚に分かれていて上半分を長押しから吊り、下半分は懸金で柱に打った寄せにとめ、全部開放する時は下のものは取り外せる。昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下ろして戸締りの役を果たした12:53東海道57次、中山道67次交流館12:55美しい格子戸の家(増田家)、道路左側の家かっては街道沿いに格子戸の家並みが続き、毎日主婦によって磨き込まれた美しい木目が、この町独特の情緒ある風景でしたと12:56旧東海道沿いに「長榮寺石碑」。お寺へはこの路地を入いり右に折れる浄土真宗 長榮寺所在地:静岡県静岡市清水区蒲原3-21-22鐘楼と大師像、桜はまだ硬い蕾長榮寺本堂本堂前には大きな蘇鉄が13:01西木戸・茄子屋の辻旧東海道から県道396号線へ合流蒲原宿の西の入り口には木戸があり「西木戸」と呼ばれていた。この近くに青木の茶屋(茄子屋)があり「茄子屋の辻」で乱闘が起こった。承応2年(1653)、高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり、茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、七十人近くを倒した。しかし、最後に追っ手に見つかり殺された。当時の竜雲寺住職が墓地に葬り、供養した。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として保存されている JR富士駅から興津宿ー続く
2019.04.17
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3/8(金) 10:20お馴染みの夢舞台東海道道標「中之郷(ナカノコウ)」。小休息して蒲原宿へ向かうが宿境まで二十三町(2.5km)戻ると吉原宿の宿境まで一里三十町(7.2km)10:21東名高速道路の高架下をくぐり抜けて左折10:27宇多利神社参道所在地:静岡県富士市中之郷旧街道から奥に入るので行かなかったが、立派な鳥居をくぐり、急な石段を上って行くと、木造瓦葺の雰囲気のある、手入れの行き届いた社殿があると10:30左側の坂を下り、新幹線の下をくぐり蒲原方面へ10:34富士がきれいに見えるが宝永山あたりから雲が飛ぶ10:40坂を登り東名高速道路の脇道へ富士がきれいに見える左下は東名高速道路。この辺りの旧東海道は高台を歩いている10:43東名高速道路の高架橋から京都方面同場所から富士を望む。富士川サービスエリアまで、3km地点富士市の消火栓ハクモクレンも満開10:47旧東海道は下り坂で蒲原宿へ桜エビの天日干し:富士川河口河川敷(西側)、パンフレットから10:50坂道を下ると、光蓮寺裏の墓地に咲く寒緋桜クリスマスローズ境内入り口に所在地:静岡静岡市清水区蒲原1-10-11 光蓮寺の山門浄土宗 海前院光蓮寺本堂先日のテレビで、クリスマスローズがきれいと放映されたため来たというご夫婦境内にはたくさんのクリスマスローズが鉢植えでクリスマスローズのお寺で知られている桜は早かったがクリスマスローズは満開10:57立派な戦死者の墓石、珍しく写真入りの石碑が10:58旧東海道に立てられた案内板案内板を確認して蒲原宿方面へ歩く旅友。気温も上がり上着を脱ぎ11:00水道管のマンホール11:01民家の間に「蒲原一里塚」江戸から38番目の一里塚であるが、民家に挟まれ都市計画をもう少し・・・・・!案内板には、最初の一里塚は、元禄12年(1699)の大津波で流失して、宿の移転にともなってここに移されたが、当時の面影はないと先程の一里塚を振り返る。民家の間の狭い場所に存在する11:01北条新三郎の碑(墓)入口所在地:静岡県静岡市清水区蒲原1-14旧東海道から山へ登る。「岩戸山」の石碑細い登り坂を昇る11:04北条新三郎の墓。永禄12年(1569)12月6日、蒲原城は武田軍の攻撃に遭い落城した。城主北条新三郎は城から抜け出し常楽寺まで逃れたが、寺に火を付け自害したと。その後供養のために、ここに碑をつくったと。碑には戒名が記されている11:10諏訪神社所在地:静岡県静岡市清水区蒲原1-7-25見にくい案内板御神木のシイノキ幹周(胸高)は2.9m、根回り8.4m。古い幹が、地上数mの所で切断されているのは、大きな傾きによる倒木の防止を図ったためか。樹齢は不詳11:12境内から蒲原の街を、日本軽金属の工場11:13旧東海道「蒲原宿東木戸」お馴染みの夢舞台東海道道標「蒲原宿 東木戸」。由比宿の宿境まで三十九町(4.2km)戻ると富士川の宿境まで七町(0.8km)東木戸・常夜燈蒲原宿の入り口には木戸が設置されており、東の入り口のことを「東木戸」と呼んでいた。なお木戸と木戸との間のことを「木戸内」という。東木戸は、わずかであるが桝型になっている。また東木戸には「常夜燈」が残されている。常夜燈とは、今でいう街灯にあたるもので各所に設置し、暗い夜道を明るく照らし続けていた。東木戸にある常夜燈には「宿内安全」という文字が刻まれており、宿の入り口を照らしていた。文政13年(1831)のものと考えられている諏訪神社の下にある「東木戸」11:15「蒲原宿」案内板この辺りは山の手から下って来て、海岸が近くなる日本軽金属発電所への導水管JR東海道線の下をくぐり発電所へ河津桜?が満開、逆光で11:18歴史国道とは。歴史上重要な幹線道路として利用され、歴史的・文化的価値を有する道路として国土交通省(建設省)が選定した道路。全国で24カ所選定されており、東海道では下記の4カ所が選ばれている。 ①関宿(三重県亀山市) ②藤川宿(愛知県岡崎市) ③岩淵間宿~蒲原宿~由比宿(静岡県富士市、静岡市) ④落合宿、馬籠宿、妻籠宿(長野県、愛知県) ← 東海道ではないのでは?11:20木屋の土蔵、市指定文化財「渡邊家土蔵(三階文庫)」土蔵内の見学は無料で、所有者からボランティアで説明していただける。我々も運良く奥さまに30分程説明を受けることができた。天保の飢饉では蒲原宿の住民を施金や施米で救い、三島宿の再建にも尽くした旧家。この土蔵は飢饉で疲弊した農民を建設工事に雇い、183両と3年をかけて建築した。安政の東海大地震で建物の大半は全壊したが、この土蔵だけが無傷で耐えた渡邊家は、江戸時代末期に問屋職を代々務めた旧家です。また、材木を商っていたことから「木屋」という屋号で呼ばれていた。この土蔵の中には、江戸時代の貴重な資料が多く保管されているパンフレットから土蔵内は撮影禁止であったが、間宮林蔵以前に日本地図を書いた「長久保 赤水」なる人物を知った建物の構造に特徴があり、24本の通し柱が各階で一寸(約3cm)ずつ内側に傾いている。渡邊家土蔵(三階文庫)は、四隅の柱が上にいくにつれて少しずつ狭まる「四方具」という耐震性に優れた技法で建築されている。三階建ての土蔵はあまり例がなく、棟札から天保9年(1838)2月21日に上棟したことがわかり、市内最古の土蔵であると木屋稲荷木屋稲荷は渡邊金璙が天保9年(1838)2月に当家稲荷として石御祠を造った11:48木屋稲荷由来 JR富士駅から興津宿ー続く
2019.04.16
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旧東海道の蒲原宿はこの辺りから山寄りの街道へ。3/8(金) 9:24富士川の「渡船場跡」山寄りの旧東海道へ。蒲原宿の設立当時は、JR東海道線の南(海側)にあった。駿河湾に面し、富士川の河口に近かったこともあり、元禄12年(1699)の大津波で宿場は壊滅し、2年後に山寄りの現在地へ所替えした9:26民家の間から富士川を望む9:27急な石段の上に、日蓮宗 光栄寺所在地:静岡県富士市岩渕1135-1日蓮宗光栄寺本堂本堂前から富士川がきれいに見える、枝垂桜は開花前本堂前からの富士山もきれい9:29光栄寺から降りて旧東海道へ戻る9:31道路のカーブミラーに移る富士山富士山と宝永山。宝永山は宝永4年(1707)の宝永大噴火で誕生した山。富士山最大の側火山で、標高は2,693m。宝永4年の噴火時にはここの境内から多くの人が見たのであろうか9:32道路標識、一里塚へ向かう道路面に埋め込まれた、岩渕「東海道ルネッサンス」常夜燈高台からの富士川同場所から、伊豆半島を望む清源院手前からの先程の、日蓮宗光栄寺本堂9:35高台の曹洞宗 清源院境内へ所在地:静岡県富士市岩渕553曹洞宗 清源院本堂清源院の隣にある「天満天神宮鳥居」高台にあり富士山がきれいに見える。六地蔵も赤い帽子をかぶり境内に咲くハクモクレン9:41旧街道に戻り、振り返る庭先の花がきれいなオープンガーデンの民家(富士市)9:42旧街道を蒲原宿へ前方右に「小休本陣常盤邸」の庭にそびえる犬槙の大木この辺りの町並み小休本陣常盤邸。国登録有形文化財に指定されているが、この日は休みなのか見学できず横から覗き見るが歴史街道『間宿岩淵』案内図。岩淵のブチは「淵」or「渕」どちらが正解?岩淵村は富士川渡船を控え、準備をする一時休憩でにぎわった間の宿だった。当初は富士川沿いの旧東海道にあったが、度々の水害と宝永4年(1707)の大地震と富士山噴火を機に、東海道の付替えとともに現在の高台へ移転した。小休本陣常盤邸は岩淵村の名主と渡船名主で、地元では西本陣と呼ばれた9:48旧東海道の常盤邸横を入ると奥に鳥居が、その奥に東名高速道路の高架ズームアップすると「八坂神社の鳥居」9:50曹洞宗 新豊院参道所在地:静岡県富士市岩淵328創建時は真言宗だったが、途中曹洞宗に改宗された。毎年3月の「大観音大祭」には、日本一大きな観音様が御開帳される曹洞宗 光福山新豊院参道沿いに槙の木が植えられている9:53前方に大木がそびえる岩渕の一里塚。この先を右へ曲がり蒲原宿へ東海自然歩道バイパスコース(富士川コース)案内板史跡「岩渕の一里塚」この一里塚は、起点である江戸日本橋から三十七里目にあたる。この前の本市場一里塚は35里目なので本来なら36里目だが、富士川の渡しに36里目を仮定して、岩渕一里塚は37里目と調整している。この地は、岩渕村と中之郷村の村境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が立ち並んでいたお馴染みの夢舞台東海道道標、富士川「間宿 岩淵」。蒲原宿の宿境まで三十二町、戻ると吉原宿の宿境まで一里二十一町左側の塚の榎は虫害のため昭和42年枯死してしまった。そこで昭和45年3月、二代目を植えたものであると一里塚の榎、富士山が小さく見える9:57左側(西)の榎は江戸期からのものと推定、右側(東)の榎は二代目10:04旧街道を蒲原宿へ向かうが、左側に「秋葉山」の石塔10:06民家の庭先にミモザが咲き2月に行ったポルトガルでもたくさん咲いていた10:08歴史国道「間宿・岩淵」の名残が薫る『四季の和菓子』。「岩淵に 名物有りと 菓子摘む」旧東海道(県道188号線)から富士川駅前交差点(県道396号線)、手前を右折10:09お馴染みの夢舞台東海道道標、富士川「中之郷」前方に東名高速道路が走る蒲原宿の宿境まで二十三町(2.5km)戻ると吉原宿の宿境まで一里三十町(7.2km)夢舞台東海道道標「中之郷」からの富士山午前中は富士がきれいに見える10:15野田山健康緑地公園案内図 JR富士駅から興津宿ー続く
2019.04.15
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朝から天気が快晴、富士山がきれいに見れて最高の景色、薩捶峠経由興津宿へ行くが富士がどこまできれいに見れるか心配。3/8(金) 8:37雁堤(カリガネツツミ)下にある「橋下公会堂」所在地:静岡県富士市松岡1580-2この石段を上がり雁堤上へ石段の途中にある「護所神社」護所神社の由来。古来から繰り返す富士川の洪水で、しばしば欠潰流失の惨害を蒙るため、衆人は人柱の説をとり千人目の旅人を生きながら護岸の人柱とすることに決めた。千人目に当った旅僧はこれを快諾し、従容として人柱とかした。以来三百余年の今日まで遂に堤防の欠潰を見ず、住民はその徳を慕い「護所神社」としてその霊を祭った護所神社越えに富士山加島新田開発古郡(フルゴオリ)重高・重政・重年 築堤の石碑雁 堤全長2.7kmに及び、上から見た堤の形が、雁が連なって飛ぶ様子に似ていることから雁堤と呼ばれている。江戸時代初期の富士川の河口部はたびたび洪水を起こしていた。駿河代官・古郡重高・重政・重年の親子三代が、50年の歳月を要して広大な遊水地を持つ堤を築いた。以来400年あまり一度も決壊せず、下流域は洪水から救われ五千石の新田が開発された雁堤の上流側、橋は新東名高速道路西側の富士川方向雁堤、雁堤の守護神築堤工事の想像図桜の木はまだ硬い蕾堤内の「雁公園」雲一つなくあまりにもきれいでカメラを覗く東名高速道路の富士川サービスエリア近くにある「道の駅 富士川楽座」のゴンドラ8:45雁堤を降りる8:49旧街道に戻り、梅の花は満開8:50この交差点を右折して旧東海道(県道396号線)民家の庭先にアルミ缶の風車?8:56旧東海道を富士川へ向かってこの石碑は?この辺りには「松岡陣屋跡」があったはずだが?水神社の杜9:00この先は富士川橋少々読みずらい「水神ノ森と富士川渡船場」の案内板。渡船場跡は、慶長7年(1602)東海道で富士川渡船が開始された。東岸には川沿い20町(約2.1km)の間に上船居・中船居・下船居の三ヶ所に渡船場が置かれ、川瀬の状況で使い分けられた富士川渡船場跡の石碑水神社案内図所在地:静岡県富士市松岡手水舎と水神社社殿9:07旧東海道(県道396号線)の富士川橋水神社を振り返る富士川橋の東側。富士川は、長野県・山梨県及び静岡県を流れる河川。一級水系富士川の本流であり日本三大急流の一つに数えられている。甲斐と駿河を結ぶ水運としての要路であり、古くから人々の暮らしに密着してきた富士川は水の量が多い感富士川橋は鋲留め富士川の名の付いた同名の橋は複数ある。この橋は静岡県富士市から静岡市清水区に至る県道396号富士由比線(旧国道1号)に架かる道路橋梁。大正13年(1924)完成の鉄橋(トラス橋6連)、橋長399m、対面通行9:09ここから見る富士山と景色は最高と。いつもは東海道新幹線 or 東海道線から見る光景だが今日は歩いて渡る富士川を渡りながら帽子を気にしながら撮影富士には雲一つなく、赤い橋は東名高速道路手前から東名高速道路、富士の麓に新東名高速道路が走る水神社の後方に、愛鷹連峰9:16富士川を渡り、静岡ではお馴染みの夢舞台東海道道標に出会う。富士川「間宿 岩淵」。蒲原宿の宿境まで五町、戻ると吉原宿の宿境まで???富士川沿いに上流へ富士川橋9:19船型の植樹桝江戸時代、ここに富士川渡船や甲州との水運の基地としての岩渕河岸があった。渡船には、定渡船(長さ10.3m、巾1.57m)6艘、高瀬舟(長さ13.2m、巾1.8m)18艘があり、一方甲州三河岸との通船には高瀬舟(笹船または小廻船とも呼ばれた)300艘(明治時代には800艘)があり、これら多数の船が出入りしていた角倉了以翁の紀功碑京都の豪商、角倉了以(1554~1614)・素庵の父子は、慶長12年(1607)、同19年両度にわたり、幕府から富士川の開さくを命じられた。その水路は岩渕河岸から鰍沢河岸の間約18里(71km)で、大変な難工事の末、完成した。これにより、富士川水運は明治44年中央線が開通するまでの約300年間、甲信地方と東海道を結ぶ交通の大動脈としての役割を果たした渡船「上り場」常夜燈旅友は花粉症で完全装備を9:22旧東海道はこの辺りから山寄りの街道へ JR富士駅から興津宿ー続く
2019.04.14
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今年1/28(月)に原宿からJR富士駅まで歩いていたが、2月はポルトガル旅行があったため、旧東海道の弥次喜多道中は1か月間休みました。再度、3/8(金)に旅友のKさんと、JR富士駅から興津宿まで再開した。3/8(金) 6:01日の出前の茅ヶ崎駅北口。朝は寒いのでダウンを着て駅へ東の空を7:26沼津駅前の車窓から富士山を望む。今日は天気が良く富士山がいろんなところで期待できる7:49沼津駅で乗り換え、JR吉原駅から出ている岳南鉄道。岳南線(ガクナンセン)は富士市内の吉原駅と岳南江尾駅とを結ぶ岳南電車の鉄道路線。路線距離は9.2kmで、工場夜景撮影で有名な路線、以前は2日/月運転していたが岳南鉄道のローカルな電車と富士山。乗降客が年々減っているようで経営は厳しいのでは?車窓から富士を撮影沼川を渡る7:50潤井川からの富士山電線が邪魔になる7:53JR富士駅に到着、1/28(月)以来の訪問駅北口の2階通路から西方面、雲一つない好天だ!駅北口商店街へ、駅を振り返る8:01富士駅北口前商店街、早朝で店はまだ開店前8:04富士本町通り(県道175号線)を北方向へ歩き。この交差点を左折して旧東海道へ、前回は右方向から来た(本市場一里塚跡)富士をズームアップ、左折して蒲原宿へ向かう後方正面は、本市場一里塚跡方面蒲原宿方面へ歩き始める電柱の下に「道祖神」の石碑8:08富士大橋通りの交差点にある、曹洞宗「不二山 金正寺」所在地:静岡県富士市平垣本町10-47民話「金正寺の猫」ゆかりの寺院で、境内には猫の像もあったらしいが。明治元年の明治天皇行幸では休息御座所となったと境内裏の墓地からの富士山富士をズームアップいつも電線が気になる光景である8:13小川の横に「札の辻跡」「札の辻」いわれ実相寺は約八百余年の昔、久安元年鳥羽法皇勅願の寺で西に比叡山、東に実相寺とまでうたわれた関東の名刹である。四十九院五百の僧坊が甍を並べて常に数百の学僧が寮生活をして?学に精進した霊場である。昔の岩本山実相寺は方一里と称せられ南は今の平垣札之辻まで及んでいたという路地の片隅にきれいな小川に鴨が8:18???神社民家の庭のハクモレンと黄色のミモザ8:24県道396号線に合流道標の上に貼られた「渡船場案内」足元に咲く花、春の訪れを感じる旧東海道(県道396号線)8:25天白神社所在地:静岡県富士市柚木村社天白神社本 殿神社の側面にずらーと並ぶ赤いバケツが印象的。火事への備えが万全!8:27旧東海道(県道396号線)8:28JR身延線の高架昔は踏切で道路も渋滞したであろうJR身延線「柚木駅」8:29旧東海道(県道396号線)、この先を右折すると富士宮へ8:32旧東海道(県道396号線)の橋下交差点、上空には電線が張りめぐされて旧東海道は右方向へ進み富士川へ8:34道標と除夜燈。ここを右方向へ行き「雁堤(カリガネツツミ)」へ石道標をズームアップ8:37雁堤下へ到着 JR富士駅から興津宿ー続く
2019.04.13
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旧東海道(県道171号線)の吉原本町通りから左折して歩くが、旧東海道は曲がりくねっていて複雑。弥次さんのIphoneを見ながら今日の目的地JR富士駅へ向けて歩く。1/28(月) 14:04正面は「隠れ河原 かりん糖専門店和田屋」所在地:静岡県富士市中央町2-2-3-20 営業:9:00~19:00ネットで調べると、全試食できる店で御茶もだしてくれる。ここを右折して正面方向に歩く曹洞宗 芙蓉山立安寺(リュウアンジ) (14:06)所在地:静岡県富士市中央町2-4-31当寺の由緒書きによると、保泉寺の第二世護峰吟守和尚は、寛永の頃ささやかな隠居所を作って住んでいた。たまたま江戸深川の材木商 高須屋善助(兄)と伊藤善二郎(弟)が、伊勢参宮の帰り道に寺のある吉原宿に泊まったところ、夜中に夢の中で悪龍に悩まされたので、その龍霊を供養しようと考え、近くの庵居に住んでいた吟守和尚と協力し、一寺を建立して、山寺号を芙蓉山龍安寺としたのが、立安寺の始まり立安寺本堂以前、この寺の境内には、太子堂と観音堂とがあったが、今では古くなったため取り払われ、そこにお祀りしてあった聖徳太子像と石造の聖観音像は、現在本堂に移されて安置されている浄土宗 稱念寺 (14:12)所在地:静岡県富士市中央町3-2-11正面は、庚申山門で鉄筋コンクリート製の2層建築で、下層は仁王門、上層は法隆寺夢殿風の八角円堂となり、「庚申山門」の扁額を掛けている稱念寺本堂本尊:阿弥陀如来で本堂は昭和8年に再建された14:15稱念寺の前を流れる小潤井川に架かる錦橋から、富士山の頂上には雲がかかり青葉通り (14:16)錦町交差点 (14:19)この国道139号線を北上すると東名高速道路の富士インタへ14:20錦町交差点を横切り、(新)吉原宿・西木戸跡。本来の西木戸跡はもう少し北側にある。青葉通りのここを左折して旧東海道を直進 道路脇にこの界隈の案内図「ここは市役所南東」旧東海道沿いに漫画の説明板を発見 (14:25)土地の人の英雄?を漫画的に紹介して、子供たちに残しているのか?青嶋八幡宮神社所在地:静岡県富士市青島町77青嶋八幡宮神社中興の碑延宝8年(1680)、中吉原にあった宿場町は大津波で破壊的被害を被っていた。そんな折、幕府は検地を強行。名主・川口市郎兵衛が拒否すると、幕府は彼を磔(ハリツケ)にした。村民は悲しんだが、公には幕府の罪人であるため、密かに川口家の屋敷神である八幡社に祀った。82年後の十代将軍・家治の頃に赦免され、村民は八幡社を磔八幡と呼び、手厚く祀った旧東海道沿いの民家の塀際にある「道祖神」から北(江戸)方向 (14:28)旧東海道(県道396号線)を京方面へ歩く (14:34)JR富士駅までは後、3km地点旧東海道はここを右に入り旧東海道の道案内 (14:36)道路の上にあるのでつい見落とす標識、車の運転手にはカーブミラーがあるので良いが、歩行者にはチョット不親切だ!旧東海道の潤井川に架かる「富安橋」 (14:37)富安橋から潤井川の上流を望む旧東海道の左手にある石柱。刻まれた内容は判読不能 (14:39)旧東海道沿いの「袂の塞神(タモトノサイノカミ)」 (14:43)塞神とは集落を守るため村の入口に祀られる道祖神のこと。笏を持つ像だが年号などの刻銘はなく、江戸後期のものと思われる。ここまでの歩行数は、33,600歩富士見大通り (14:46)右の北方向は東名高速道富士インタ、左に南下すると新幹線の新富士駅県道181号線「総合庁舎北」交差点を横断 (14:51)静岡県総合庁舎の敷地内にある「間の宿 本市場」 (14:54)所在地:静岡県富士市本市場この地は吉原宿と蒲原宿の間にあって、間の宿として東の柏原と共に多くの茶屋が建ち並び旅人たちで賑わった。左方向、よしわら宿本市場村は富士川を控えていたので、茶屋が建ち並び、ここから富士登山大宮口に至る道があった。ここの名物は白酒、葱雑炊、肥後ずいきなどで知られていた広重が描いた、白酒売りの茶屋で憩う旅人右方向は、かんばら宿民家の一角に「鶴芝の碑」 (14:56)ここから眺める雪の富士山は美しく、山腹の雪の形が一羽の鶴が舞っているように見えたことから、鶴芝と呼ばれていた文政3年(1820)、この奇景を京都の画家・蘆州が絵に描き、これに江戸の学者・亀田鵬斎(ボウサイ)が詩文を添えて鶴の茶屋前に碑を建てた【間宿 本市場】界隈の図旧東海道順路 (14:58)横断歩道がないので北側へ少し迂回道路の中央分離帯の中に「旧東海道跡地」 (14:59)派手な建物の前が旧東海道で江戸方面浄土宗 法源寺(ホウゲンジ) (15:00)所在地:静岡県富士市本市場町1040右側の石碑は「天保14年の名号塔」山門から境内・本堂を望む、和順観音像本尊:阿弥陀如来伝承によると、鎌倉光明寺第八世祐崇が開創した法源寺境内日蓮宗 蓮寿山常諦寺(ジョウネンジ) (15:05)所在地:静岡県富士市本市場町84山門から境内に入りここの境内からも富士が見えるのだが旧東海道の道案内杭 (15:10)正面は県道396号線 (15:11)県道396号線を横断して、旧東海道へ上記道案内杭の上にある図だが疲れ気味旧東海道本市場一里塚 (15:14)日本橋から35番目、花壇の奥に「旧東海道一里塚」と刻まれた石碑がある一里塚横にあるバス停一里塚から川沿いに西の方向へ歩く、ここまで 36,000歩 (15:15)富士駅前からのアーケードが見える (15:18)今回は少々時間が早いがここまでとし、JR富士駅北口へ向かう (15:19)今日は月曜日で休日なのか、商店街のシャッターが閉まり昼を食べていないので何か食べたいが (15:23)JR富士駅北口へ到着 (15:25)JR富士駅2階コンコース (15:29)何か暖かいものを食べたかったがどこもオープン前立ち食いそばでもと探すが、これも見つからずあきらめて駅のホームへ (15:35)JR富士駅ホームから熱海行き(15:59)の電車に乗り帰路に着く熱海で乗り換えて、湯河原あたりの車窓 (16:50)18時前には自宅にたどり着くが、今日一日の歩行数は 38,510歩でした。今日は昼過ぎまで富士山がきれいに見え最高、足も痛くなくどうにか無事に歩けた。次回は、JR富士駅から蒲原 or 由比宿か? 原宿から吉原宿-END
2019.03.12
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引き続き、旧東海道(県道171号線)を吉原宿へ向かう。1/28(月) 13:16交差点に「左 富士碑」。東海道を江戸から京都へ旅する際、いつも右手に見える富士山を、左側に仰ぐことができる場所が、吉原の沼川を過ぎたあたり。これは道が大きく北へ向かって曲がっているためで「左富士」と呼ばれた工場棟の上に頂上部分が見える左富士名勝 左富士東海道を東から西に進むと、富士山は右手に姿を見せるが、この辺りは松並木の間から左手に見えることから「左富士」と呼ばれたと吉原 左富士 碑江戸時代の歌川広重の保永堂版『東海道五十三次吉原』の「吉原左富士」で有名になり名勝となった。碑には、その絵が刻まれている右方に見える黒い山は愛鷹山である。左に富士山を眺めながら馬に乗った旅人が行く。前方の馬は背の両脇に荷物を入れたつづらを付け(37.5kgずつ)、その上にふとんを敷いて旅人を乗せている。この方法はのりじりといい賃銭がかかった。手前は馬の鞍の左右にこたつ、のやぐらのようなきくみを取り付け、それに三人の旅人が乗っている。これを「三宝荒神」といっていた久しぶりに、静岡ではお馴染みの夢舞台東海道道標に出会う。吉原宿「左富士」、戻ると原宿まで二里九町(9km)バス停の中には「富士山は見ています」のポスター。きれいな町、素敵な町、我が心の町 → ごみは、家に持ち帰りましょう!道路脇には「名勝 東海道左富士」の道標 (13:19) 道路左側に富士が見えるのだが、工場棟がジャマだ!!!電線もあり都市計画が駄目ですね旧東海道(県道171号線)沿いに建つ「馬頭観音菩薩」 (13:23)平家越の碑 (13:25)橋は「平家越え橋」平家越の碑所在地:静岡県富士市新橋町11地先治承4年(1180)源平の富士川の合戦の際、近くの沼にいた水鳥が一斉に飛び立った。その羽音を源氏の夜襲と勘違いした平家軍は逃走したというこの戦いには挙兵した甲斐源氏の武田信義が参戦している。またこの戦いの翌日には奥州からかけつけた源義経と頼朝の対面が実現している。八幡神社内にある対面石:静岡県駿東郡清水町八幡39平家越え橋から傘雲の富士山 (13:27)川を泳ぐ鴨大日本製紙㈱の正門からの富士 (13:33)宝くじ売り場当店から、2013年のサマージャンボで一等 5億円の当たりくじが出ましたと依田原山神社の鳥居 (13:36)所在地:静岡県富士市依田原家下118拝殿:祭神は大山祗の命(オオヤマズノミコト)と、手水舎昔から津波や大火、暴風などで被害を受けてきたが、昭和52年に現在の拝殿が新築された。拝殿左手前に、狛犬 阿吽一対 がある神社裏の住宅街にある、依田原山神社の標識灯 (13:38)東木戸跡 13:40ここが吉原宿の東端になる、民家の間から富士が見える吉原宿「八坂神社」八坂神社は須佐之男命をお祀りする神社。この神様は、大変暴れ者で神様の国を追われたが、人間界では怪物八俣の大蛇を退治して英雄となった。また、助け出した美しい姫と結ばれて、幸せな家庭を築いた。そのため、厄除け、縁結びの神として、人々に信仰されている付近の道案内東木戸跡から200m先に岳南鉄道の踏切がある岳南鉄道のレトロな電車旧東海道(県道171号線)の岳南鉄道踏切 (13:42)この鉄道の発足は、日産重工業(現日産自動車)の専用鉄道で、戦後に岳南鉄道になったらしい。この先は吉原宿の商店街岳南商店街西端にある東海道案内図今まで歩いてきた商店街であったが・・・・・赤がえるの岳南鉄道「吉原本町駅」レトロな電車が走っており、JR吉原駅から岳南江尾駅まで9.2kmの単線電化線。「紙の町」富士市らしく、切符は紙製の硬券。10駅すべてのホームに「富士山ビューポイント」の表示があり富士山とのコラボ写真が撮れる。また、「日本夜景遺産」に認定された鉄道夜景などで知られている岳南鉄道「吉原本町駅」に隣接した「陽徳寺」 (13:43)所在地:静岡県富士市吉原1-4-30本尊の地蔵菩薩が「身代わり地蔵尊」むかし、寺町【今の東本通り付近】に悪性の眼病がはやった時、町の人々がこのお地蔵さんに願をかけると、眼病はたちまち潮がひくように治った。その時お地蔵さんの目にいっぱい目やにがついていたので『身代わり地蔵』というようになった。その後も、はしか、おでき等身体の弱い子に・・・・・陽徳寺の境内万延元年(1860)の火災で旧記を失い、開基・開山を含め沿革は詳らかでない。本尊の地蔵菩薩は元々は駿東郡青野村にあった光明庵でまつられていた。それがある年の大洪水で元吉原宿付近まで流されてきたのを、宿場の人が救い上げ陽徳寺の本尊としたそうですと陽徳寺の鐘楼の右手に富士が見える見よう歩こう富士市の東海道 (13:45)休日なのか静かな吉原本通り商店街(吉原宿) (13:47)吉原本通り商店街から天神社参道へ鳥居には「天満宮」と (13:48)所在地:静岡県富士市吉原3-1-10吉原祇園祭「天神社」毎年六月第二週頃の二日間、吉原の六つの神社の氏子町内が合同で行う祭りである。「吉原のお天王さん」と呼んで、夏の邪鬼祓いをしている。各神社の天王神輿は二日間に担ぎ出され、山車は二日間曳き回され、お囃子が演奏される。山車同士のすれ違いでは競り合いとなり、お囃子の腕比べが祭を盛り上げる。〈吉原祇園祭の六社〉①天神社 ②木之元神社 ③山神社 ④八坂神社 ⑤八幡宮 ⑥和田八幡宮天神社社殿境内に咲く紅梅朱があざやかな社殿吉原地区最古の神社で、寛永4年(1627)に菅原道真を含め合祀している。社殿左前に菅原道真像がある吉原天神社当社は往昔吉原宿見附産土神総社にして、天の香久山(香久山浅間宮)の高処(み)にあったが、度々砂を押し上げられ、所を迫られ鎮座なり難く元吉原今井・鈴川の地に引き移った・・・・・・社記には、建久4年(1193)源頼朝が富士の巻狩りのおりに、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原攻めの余路に参拝したと伝えている天和2年(1682)現在の地に祀りて、以来当地の鎮守「天神さん」として崇敬を集め、年々歳々社頭は賑わい殊に学問の神の御神徳により、数多くの受験生が参詣に訪れる手水舎鳥居をくぐると両側に黒い牛が寝そべったすがたで迎える色付きの「ふじしおすいマンホール」 (13:52)江戸から14番目も宿場「吉原宿」 (13:58)原から吉原まで東西13km、南北2kmの広大な沼地があったので「葦の茂った原」から吉原と名付けたと伝わる。吉原宿は開設から約80年の間に、度重なる津波や高潮の被害に遭い、二度所替えをした。そのため東海道は大きく北へ迂回することになり、右手に見えていた富士山が、左手に見えるようになり「左富士」と呼ばれる景勝地となった。移転後の吉原宿の町並み長さは東西1町10間(約1.3km)文化3年(1806) 道中奉行所(編)『東海道分間延絵図(13巻之内3)』上記『東海道分間延絵図』より主要施設名を抽出。吉原の町並みは近代化され昔の面影は残っていない次郎長、鉄舟も常宿した「旅籠 鯛屋」吉原宿の面影は残っていないが、商店街のアーケード街に江戸時代から営業している「鯛屋旅館」がたった一軒残っている。旅館前に、梅風呂の湯、素泊まり 3,450円から。隣は、一麺入魂 本手打うどん・そばバス停も「鯛屋旅館」これまでの宿場は史跡を示す何らかの標識があったが、この宿場は西木戸跡と東木戸跡以外何もない。それと月曜日で休日だったのか、半分以上の商店がシャッターを下ろしていて、なんとも寂しい限りであった吉原宿 道案内 (14:00)当時の旅の案内所に「名は同じけれど江戸の吉原とは雲泥の違いにて、女の風もいとひなめきたり」と吉原宿のひなびた様子を書いている。この交差点を左折して、蒲原宿(三里:12km)、京都(九十里:354km)。直進すると、本宮(富士宮)三里:12kmここの通り沿いに「長さん小路」がある。いかりや長介(本名・碇矢長一)さんは1931年、東京隅田区に生まれ、1944年小学校卒業と同時に富士市に疎開。その後、工場の仲間とバンド活動を始め、吉原のダンスホールなどで演奏。青春時代の16年間を富士市で過ごした。1959年、28歳で上京し、ミュージシャンからザ・ドリフターズのリーダーとして活躍した。 原宿から吉原宿-続く
2019.03.11
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旧東海道から離れて「富士と港の見える公園」へ向かう。1/28(月) 12:06木之元神社裏の高台からの富士日蓮宗 大乗教会 (12:07)所在地:静岡県富士市鈴川中町2-25宗派?妙法寺 (12:15)所在地:静岡県富士市鈴川町12-14山門だが扁額がなく・・・・・境内も芝を焼いて・・・・・阿字神社奥宮 (12:19)見付宿石碑・井戸、案内板鎌倉時代のはじめころ、このあたりに見付が構えられ、東海道を往来する旅人を改め、吉原湊から対岸の前田まで舟渡しをしていた見付と(元)吉原宿その後、南北朝から戦国時代になると、吉原湊が、軍事的、商業的に重要視され、この見付には、道者商人問屋も置かれ、宿場、港町としての機能を合わせ持つようになった。しかし、この地は湊からの高浪や、砂丘からの漂砂の害がひどく、天文年間(1532~1554)に、今の鈴川、今井地区へ所替えし、まもなく吉原と改名され、東西への旅人で繁栄した。慶長6年(1606)に至り、徳川家康によって東海道駅伝制が敷かれ、吉原宿として指定された。しかし、この地も寛永16年(1639)に度重なる漂砂や高波の被害で、依田橋村西方に所替えした仏舎利塔仏舎利塔阿字神社 奥宮石水門の石碑石碑の表面に「石水門」の絵を描写明治16年伊達文三らによって第二次石水門の築造が計画され、内務省雇蘭人モルテルの助言や、石工小島佐左エ門父子の優れた技術などによって明治18年見事に竣工した。昭和42年、近代的な田子の浦港築造に伴って撤去されるまで、実に80余年の間使命を果たしてきた沼川石水門を、永久に記念してここに建碑したものであると。昭和44年11月石碑の裏面に「石水門」の説明。この河口は、吉原湊(小須湊)といって鎌倉時代から交通に、或いは商港として大いに利用されてきた。しかし、江戸時代の中頃になると湊は次第に浅くなり高浪が押しよせると湊口は惣ち土砂で閉塞され、海水はその土砂を乗り越えて耕地内に逆流し、関係34ヵ村、2千余町歩におよぶ田畑に毎年大損害を与えた。慶応2年野村一郎らは、湊口に堅牢な防潮堤を築いたが、明治2年の大暴風雨で破壊され、続いて明治3年渡辺佐一郎らが、第一次石水門の築造を始めたが、工事半ばで流出してしまった。その後、明治16年伊達文三らによって・・・・・(上段へ)展望台に登り田子の浦港越えに富士山がきれいに仏舎利塔南アルプス方向ズームアップ対岸の左に「ふじのくに田子の浦みなと公園」ズームアップして対岸の展望台田子の浦港に停泊するタンカー富士と港の見える公園案内図所在地:静岡県富士市鈴川字砂山621-6公園下にある「富士と港の見える公園」の石碑阿字神社 里宮阿字神社里宮鳥居 (12:36)このあと、海岸線を歩いてJR吉原駅へ向かうJR吉原駅南側に設置されている「歩く健康つくり一万歩」 (12:46)松と潮騒コース起点:JR吉原駅、全長:6.1km、所要時間:約2時間JR吉原駅南口から跨線橋を渡り北口へ、ここまでの歩行数は 24,500歩跨線橋の上から、京都、富士方面JR吉原駅改札口 (12:49)JR吉原駅北口に降り、旧東海道(左:県道169、右:170号線)の吉原駅北口交差点へJR吉原駅北口駐輪場、毘沙門天大祭の垂れ幕が毘沙門天大祭に伴う交通規制図大祭期間中の3日間は、数十万の人々で賑わうので電車・バス等の公共交通機関をご利用くださいと!旧東海道を歩き、河合橋交差点 (12:53)沼川に架かる河合橋から、河口方向の製紙会社。江戸時代の吉原は駿河半紙の産地だった。明治23年、冨士製紙工場が設立され、近代製紙業の町へと変わった上流側に停泊するボート上流側、この辺りは製紙会社が多く、昔田子の浦港を汚染し社会問題となった旧東海道(県道171号線) 河合橋・(元)吉原宿跡 (12:56)元吉原宿跡東海道が制定された当初、吉原宿は妙法寺(毘沙門天)からその先のJR踏切を桝形状に渡るあたりにあった。ここを元吉原と呼ぶ。寛永16年(1639)大津波で宿場が破壊され2km先にあった依田一里塚(34里目)の先に移転し、中吉原と呼ばれた。しかし、中吉原も41年後の延宝8年(1680)の大津波で破滅的被害を受け、翌年の元和元年(1681)さらにその先にある現在の吉原本町に移転した。当時は新吉原と呼ばれた河合橋西江戸時代、この辺り一帯は立派な松並木が整備されていた。現在はここを含め、数本の松がかってを偲ばせている。また、ここから江戸方面へ150mほど行くと、沼川に河合橋が架けられている。かっては高欄付きの板橋で、河合橋からの富士山の景色が明治期の古写真に数多く残されている旧東海道(県道171号線)を歩き、国道一号線、新幹線の高架 (13:01)新幹線の高架下にある依田橋西交差点からの富士山旧東海道(県道171号線)を歩いて左富士神社へ向かう (13:04)旧東海道(県道171号線)、この辺りから右にカーブして左富士に(民家の屋根上に)左富士神社 (13:08)所在地:静岡県富士市依田橋町10近郊の案内図漢文で???依田橋村の一里塚一里塚の場所は、現在民有地になっているため、左富士神社の境内に、一里塚跡の石碑を建立した江戸から34番目の一里塚。度重なる水害等により、吉原宿と共に、この一里塚は三度所替えしている東海道分間延絵図 文化3年(1806)の依田橋村雲がかかってきた富士山 (13:15)桜が咲く時期の左富士(掲示されていた写真から) 原宿から吉原宿-続く
2019.03.10
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まだ富士山がきれいに見えているので、早く左富士へ行きたいが。1/28(月) 10:48引き続き旧東海道(県道380号線)を京へ向けて歩く愛鷹神社所在地:静岡県富士市檜新田石鳥居や瓦葺木造の枯れた本殿の佇まい、生い茂る大木・・・と、結構の整った雰囲気のある神社である旧東海道(県道380号線)沿いの電柱の傍に「庚申魂」 (10:53)富士に雲がかかってきたので天気はくだりざかか? → 傘雲に?県道380号線の檜(ヒノキ)交差点 (10:55)旧東海道はここを左へ曲がり県道170号線(旧東海道)へ直進は県道380号線で、国道一号線に突き当たる檜交差点にある「旧東海道順路」道路標識東 間宿 柏原少々疲れ気味の標識 (10:57)県道170号線(旧東海道)へ入り、檜交差点を振り返る旧東海道(県道170号線)沿いの、小さな庚申堂 (11:02)天気が悪くなるのか、雲が富士の頂上に近ずく庚申堂所在地:静岡県富士市大野新田 ここまでの道中の住所は「・・・新田」が続く旧東海道沿いの「高橋勇吉と天文堀」の碑 (11:06)石碑三新田(大野・檜・田中)の80haに及ぶ水田を幾多の水害から守るために、排水用の堀を天保7年(1836)から14年の歳月をかけて完成させた人物。勇吉は天文の知識や土木技術に優れていたので、村民はこの堀を「天文堀」と呼んだ。いま、三新田の耕地は土地改良や道路などで開発が進み、勇吉の天文堀は、その跡を見ることはできない旧東海道の南側に小高い丘が、富士が見えるのではと登ることに (11:12)三位稲荷神社の鳥居鳥居をくぐると工場の向こうに素晴らしい富士が見える。ここで、今朝購入したおにぎりを食べながら休憩、ここまでの歩行数は16,700歩西側の製紙工場鳥居の前に出て撮影旧東海道「元吉原小入口」バス停がある鳥居の間から富士を前景を入れて撮影保存樹木所在地:稲荷神社樹 種:エノキ(ニレ科)、クスノキ(クスノキ科)富士の撮影に熱中して、稲荷神社の社殿の撮影を忘れる旧東海道(県道170号線)の「元吉原小入口」バス停 (11:25)ここのバス停は吉原中央駅方面で、次は「毘沙門天」妙法寺(毘沙門天)前の門前の宿「旅館 立場」 (11:30)妙法寺(毘沙門天)の鳥居所在地:静岡県富士市今井2-7-1石段を登り本殿へ妙法寺(毘沙門天)開創は寛永4年(1627)の日蓮宗のお寺。延宝8年(1680)の台風の高潮で宿場とともに流されたが、元禄10年(1697)この地に再建された。家康側室・お玉の方(水戸藩祖頼房の母)や紀州藩祖の頼宜も信仰したという。江戸時代中期から始まったとされる旧暦正月7~9日に行われる毘沙門天大祭の「だるま市」は、高崎、深大寺とともに日本三大だるま市として知られる毘沙門天全景お身拭い 毘沙門天あなたの身体の痛むところと、この像と同じところ(例えば腰・足・ひざなど)を御布でよくさすって下さい。毘沙門天王が代わって、その痛みをとり去って下さいますと厄除線香を購入して、竜神洞、毘沙門堂、右は客殿ネパールにあるような建物毘沙門堂の前にごま木「清水エスパルス応援!!」のごま木。一緒に応援して下さる方は、応援メッセージを書いてご奉納してください。無料ですと。私も名前を書いて置く毘沙門天大祭のポスター開催日:2019年2月11日(祝) ~ 13日(水)札場受付でパンフレットを頂く大祭の期間中は数十万の人々で賑わうと札場受付からの毘沙門堂、客殿弥次さんが御朱印を頂く(平成31年1月28日付き)文言は「福聚海無量(フクジュカイムリョウ)」と書かれている。「福寿海無量」は本来経典の中では「福聚海無量」となっており観世音菩薩の功徳は「福を聚めた大きな海のように量に限りが無い」という意味である(ネットより)境内では2週間前だが、毘沙門天大祭の準備中一万歩元吉原松と潮騒コースの看板。毘沙門天からの距離を表示。江戸方面「高橋勇吉の碑」0.7km、京方面「葉隠塚」0.3km旧東海道(県道170号線)の門前の宿「旅館 立場」今でも営業しているのか? (11:45)毘沙門堂の西側に隣接する、妙法寺本堂と鐘楼妙法寺本堂旧東海道沿いで咲くロウバイ銅板敷きの屋根の民家海老坂薬師 (11:53)木之元神社 (12:02)所在地:静岡県富士市鈴川東町1木之元神社鳥居、本殿は修復中なのかテント囲い富士市指定天然記念物の、木之元神社の御神木「ムクロジ」樹高:11.6m、目通り:1.8m樹勢は良く、稀に見る巨木であり市内にあっては珍木として貴重な存在である小高い丘の上にある、木之元神社境内赤い鳥居は、伏見稲荷大明神左下に、一万歩元吉原松と潮騒コースの看板 (12:04)木之元神社からの距離を表示。木之元神社のムクロジの木標 原宿から吉原宿-続く
2019.03.09
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JR東海道線植田踏切を渡り、吉原宿を目指して旧東海道(県道163→380号線)を歩く。1/28(月) 9:47富士市との境界線がこの先に富士市との境界手前にある「八幡神社」所在地:静岡県沼津市植田48八幡宮鳥居八幡神社本殿八幡神社の境内富士市に入り、JR東海道線「柏原踏切」東京駅から136k894m地点 (9:54)富士山がきれいに見えている。ここまでで、10,000歩踏切を渡って「山之神古墳」へ、JR東田子の浦駅が見える線路脇を歩き「山の神古墳」へ山の神古墳所在地:静岡県富士市東柏原新田135古墳は前方後円墳で、庚申塚古墳の東方150m、標高5m程の砂丘に位置し、6世紀末~7世紀初頭に造られたもので、当時のスルガのクニの王墓と考えられ前方部は古くから畑となり、墳丘南側は鉄道線路のため、全体の1/3が削り取られている。墳丘前面に浜石による葺石が施され、昭和54年の調査では周溝が確認され、埴輪も出土したJR東海道線の上り貨物列車庚申塚古墳へ (9:59)古墳の形状は双方中央墳で、浮島沼に接する砂丘上の海抜5mに位置し、およそ1500年前につくられ、当時この一帯を支配していた古代豪族の墳墓と推定される形状は「双方中央墳」といい、図のように全国的にも非常に珍しい例です富士市の消火栓マンホールふじし「おすいマンホール」旧東海道(県道380号線)にもどり「東田子の浦駅」入口 (10:08)六王子神社(ロクオウジジンジャ)鳥居東田子の浦駅前にある神社で、「三股の伝説」というのがある六王子神社所在地:静岡県富士市中柏原新田172伝説「三股の伝説」昔、沼川と和田川と潤井川とが合流し深い渕になっている所を「三股」と呼んでいた。この渕には龍が住んでいて、毎年お祭りをし、少女をいけにえとして捧げるしきたりがあった今から400年程前、関東の巫女七人が京都へ向かう途中、このいけにえのクジを引き、一番若い「おあじ」が引き当ててしまった。仲間の六人は国元へ引き返す途中、柏原あたりにきたとき、悲しみのあまり世をはかなんで浮島沼へ身をなげてしまった。村人が六人のなきがらを一カ所に弔ったのがこの六王子神社だといわれているJR東田子の浦駅 (10:12)所在地:静岡県富士市中柏原新田171 駅番号:CA06 東京から137.4km旧東海道(県道380号線)南側にある「延命地蔵尊」松林の向こうは駿河湾の防波堤がある旧東海道(県道380号線)をはさんで北側に六王子神社の鳥居大六天神社 (10:17)旧東海道(県道380号線)沿いにある神社境内に保存樹木の看板樹木:エノキ(ニレ科)、ムクノキ(ニレ科)樹木は光合成により炭酸ガスを吸収し、酸素を出すなど人間生活に重要な役割りをはたしている ← 昔、学校で教わった間宿 柏原・本陣跡 (10:23)この辺りは「東原宿」柏原には大きな立場があり間の宿と呼ばれた。名物は浮島沼で獲れる鰻。現在は茶屋本陣跡の碑があるのみ。私も蒲焼が欲しい!!!望嶽(ボウガク)の碑。東:間宿 柏原望嶽の碑:富士市に入ってこのような説明版が目立つ。文化5年(1808)尾張藩の藩医柴田景浩が、西柏原・立圓寺境内に建立したもの。ここから眺める富士山のすばらしさを称賛している日蓮宗立圓寺(リュウエンジ)と富士山 (10:24)所在地:静岡県富士市西柏原新田72万治3年(1660)に京都立本寺20世霊鷲院日審によって開創された。明治初期および昭和7年(1932)11月14日大火で類焼し、堂宇、古文書など焼失した宗祖700遠忌報恩事業として総欅造りの本堂を完成、楼上に鐘楼をそなえた仁王門を建立、台座とも九尺五寸の釈尊座像(ブロンズ製総金箔押)を奉納した仁王門今日は富士山がくっきりと見え、江戸時代に眺めた富士山のすばらしさを感じた境内の望嶽碑、ゲラテック号遭難誌ゲラテック号遭難誌清水港から救援米を運ぶ途中、昭和54年(1979)10月19日台風20号に遭遇し、強風と高波により船体は立圓寺南方の柏原海岸に打ち上げられ救助を求める二人の船員の遵い生命も奪われた船体は直立のまま海岸線と防潮堤の中間の陸地に打ち上げられ、新聞・テレビのマスコミにも登場し日曜・祝日には、五万人の人出を数え売店十数軒出店するなど近郊は勿論のこと、東京・愛知・山梨より見物人が押しかけた。船体は六ヶ月を要して解体処理された左は尾張藩の藩医柴田景浩が建立した「望嶽碑」と、ゲラテック号2名の「慰霊の碑」望嶽碑の背面には、下記の内容が漢文で記されている旧東海道(県道380号線)を西に歩き、昭和放水路「広沼橋」 (10:35)広沼橋上から駿河湾への昭和放水路橋の上から富士を望む増田平四郎の像浮島沼の干拓に生涯を捧げ「スイホシ」と呼ばれる排水路の大工事を行った人。現在はその跡に「昭和放水路」ができている。又、この付近に江戸から33里(129.69km)の、一里塚があったという増田平四郎とスイホシの説明。天保7年(1836)の大飢饉や度重なる水害から村民を救済するため、原宿の増田平四郎(1807~1892)が浮島沼の大干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に大排水路を完成させたのは明治2年(1869)の春で、全長505m、巾7mの水干(スイホシ)といわれる放水路で人々は「スイホシ」と呼んだ旧東海道(県道380号線)の江戸方面この場所から「西(元)吉原宿」に入る玉ねぎに水を与える主婦 (10:41)旧東海道(県道380号線)沿いの、春耕道しるべ第一号石碑 (10:43)米之宮神社 (10:44)所在地:静岡県富士市田中新田米之宮神社本殿米之宮神社入口にある「淡嶋神社」 原宿から吉原宿ー続く
2019.03.08
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旅友の弥次さんから1月28日(月)は天気が良いとのことで、東海道53次の「原宿から吉原宿・富士市のJR冨士駅」を目指して歩いた。茅ヶ崎駅からの日の出前 (6:29)乗車前にコンビニでおにぎりを購入、電車賃はまだ1,320円と手ごろである。6:44発の沼津行き電車に乗車沼津駅で浜松行きの電車に乗り替え、原駅前の車中からの富士山 (8:19)今日は弥次喜多道中しながら富士が見えるようだ、吉原での左富士も期待大!JR原駅前からの富士 (8:21)原宿は江戸から13番目の宿。原宿の「原」の地名は、この地の山側にあった浮島沼を中心とした広大な湿地帯だった浮島ヶ原に由来する。その浮島ヶ原と海岸に挟まれた一本道にある宿場。高波の被害で慶長14年(1609)に現在の地に移転。原は特に産業もなく、住民は浮島ヶ原から海へ放水路を開削し新田開発に努めた。植田新田、助兵衛(スケベエ)新田、一本松新田なその名が残る。天保9年(1838)、と天保13年の大火で脇本陣・旅籠の多くが焼失。以後再建されなかった原駅近郊の案内板。原は臨済宗中興の祖といわれた白隠禅師が生まれ没した地なので「駿河には過ぎたるものが二つある。富士のお山と原の白隠」と謳われた。雄大な富士山が眺められる地としても人気があった原駅前からの富士山江戸時代の名物は浮島沼で獲れる鰻の蒲焼。特に原と吉原の間にあった「間の宿 柏原」の鰻はよく知られていたズームアップするが雪が少ない秋葉大権現 (8:31)旧東海道から海側の路地にある民家に隣接した小さな神社旧東海道(県道163号線)から海側にある、浅間神社へ (8:36)所在地:静岡県沼津市原560浅間神社、第一鳥居第一鳥居 由来記JR東海道線三島行き電車 (8:38)本殿前の鳥居浅間神社本殿県道380号線沿いにある、沼津市立原中学校校門? (8:43)駿河湾の護岸へ (8:46)伊豆半島護岸からの富士山ズームアップ田子の浦、富士方面台風津波対策で高い護岸となっている (8:49)県道380号線沿いの松林の中にある「いぼ神様」 (8:53)古来より、このお社のうしろにあった巨松の盤根の間にくぼみがあり、つねに水がたまっていた。「いぼ」のできた人が、この水をいぼにぬり祈願すると、いぼがよく落ちるので、いぼ神様といわれ広く(原町誌より)信仰されている東海道原宿 一里塚 (9:00)江戸時代に築かれた日本橋から32里目の説明街道をはさんで両側にあったと思われるが、現在は宅地化されてその面影はない一本松史跡 町あるきマップ 所要時間1~2時間ぬまづ げすいマンホール浅間神社 (9:12)所在地:静岡県沼津市一本松561慶安3年(1650)創建、明治8年2月村社に列せられる。境内西側の末社には、三扉の神があり、櫛摩知命、大己貴命、少名彦名命が祭られている。又、境内入り口東側には天王社(素戔鳴男命)が祭られている一本松浅間神社曹洞宗海岸山 大通寺 (9:18)所在地:静岡県沼津市一本松62紹外舜隆和尚(シュウガイシュンリュウオショウ)を招いて開山した寺。幕末に徳川の藩士が開いた寺小屋は、明治6年に初学舎と命名。スルガ銀行初代頭取、岡野喜太郎氏も学び、境内には碑が建てられている大通寺山門大通寺本堂鐘楼と忠霊塔寺小屋があった場所なので境内にはありがたいお言葉がたくさんあると境内から鐘楼、山門境内の隅に五百羅漢囲碁の盤を前に考える像浅間愛鷹神社 (9:28)所在地:静岡県沼津市桃里508浅間愛鷹神社延享2年(1745)の創建で、元和元年(1615)に鈴木助兵衛父子により当地の開拓が始まってから、130年後である。神社の建造物は何回も改築されている。今のは昭和44年に建てられたものである境内社としては、山神社と天王社とがある。当地区内には、別に桜地蔵尊と稲荷神社とがある旧東海道(県道163号線)からの富士山 (9:36)JR東海道線の南側に「桃里の桜地蔵尊」 (9:38)踏切は70m後戻りして右折してくださいと桃里の桜地蔵尊:これより弊社敷地につき、通行できません。お近くの踏切を・・と沼津市花いっぱいコンクールで「市長賞(モデル花壇)」受賞JR東海道線の下り電車旧東海道(県道163号線)の植田踏切を渡り (9:43) 原宿から富士-続く
2019.03.07
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既に東海道53次で歩いている箱根路で、探すことができず立ち寄ることのできなかったところへ1/21(月)に車で訪れた。1/21(月) 8:48国道134号線を箱根へ向かっていたら富士が見えたので、茅ヶ崎漁港へ立ち寄る。ショベルカーの間から雲に隠れた富士が見えるサザンビーチ海岸の向こうに江の島9:34旧東海道(国道一号線)を走り酒匂川へ、富士の頂上部分が見えるズームアップして酒匂川の下流側を望む、橋は「西湘バイパス」9:55小田原用水(早川上水)取入口小田原用水(早川上水)はこの地で早川の川水を取り入れ、板橋村は旧東海道の人家の北側を通水し、板橋見付から旧東海道を東に流水して古新宿を通り、江戸口見附門外蓮池に流れ出たもので、途中の所々で分水されて小田原城下領民の飲料水に供されていたものであるこの古水道は小田原北條氏時代に施設されたものと思考され、我が国の水道施設の中では初期の頃の水道と思われる。江戸時代になっても利用され、城下17町の飲料水として利用されていた。その後上水道から下水道へと姿をかえ、昭和31年市内電車の軌道撤去による国道の大改修によって面目を新たにした。なお、近年道路工事中に、江戸時代のものと思われる分水木管が発見され、その一部が市立郷土文化館に保管されている早川の上流側旧東海道(国道一号線)沿いの、小田原用水(早川上水)取入口10:08長興山紹太寺(ショウタイジ)所在地:神奈川県小田原市入生田470長興山の扁額境内で咲く紅梅ミツマタ10:17駒ノ爪橋跡天保年間に書かれた『新編相模国風土記稿』の入生田村(小田原市)の項には、「駒留橋 東海道中湯本村界の清水に架す。石橋なり、長3尺(90cm)、幅2間(3.6m)、両村の持。橋上に頼朝郷馬蹄の跡と伝あり。旅人此橋に足痛の立願す」と載っているこれには、往時源頼朝が富士の巻き狩りから帰る際、この橋まで来ると馬が暴れてしまい、その際に橋の上に馬のひずめの跡が残ってしまったという逸話が残っている駒ノ爪橋跡近くにある、「日本初の有料道路」の説明板箱根登山鉄道10:28箱根新道の途中に車を止めて畑宿辺りを望む同場所から、二子山?10:43箱根町港海賊船と左奥に富士ズームアップ東京箱根間往復大学駅伝競走 復路スタート地点10:52国道一号線の「富士見橋」からの旧街道箱根峠方面10:56箱根峠へ向かう国道一号線の展望台から芦ノ湖を望む11:00国道一号線の道の駅「箱根峠」電気自動車に対する、「EV QUICK」道の駅の駐車場の隅にある「箱根峠の境木」11:05箱根峠へ到着バス停「箱根峠」にある「脚気地蔵(カッケジゾウ)」前回見つけることができなかった『脚気地蔵(別名:親しらず地蔵)』大阪の呉服問屋・十郎兵衛は、家出した一人息子の喜六を探しに旅立つが、突然持病の脚気に襲われ倒れてしまう。そこへ通りかかった喜六は、お金欲しさのあまりもだえ苦しんでいる老人(十郎兵衛)を刺し殺してしまう。奪った財布の中の名札で、自分の父親であることを知った喜六は、宗閑寺で自らの命を絶ったうっそうとした中に脚気地蔵がある11:11日本橋から103kmの道路標識11:13箱根旧街道「茨ヶ平(バラガダイラ)」道路標識には、箱根関所跡 3km、三島宿 11km石柱には「是より江戸二十五里」箱根竹のトンネルを下る右は、箱根路西坂箱根峠ごえ道中(箱根・西坂ゾーン)案内板トンネルの先は「芦の湖カントリークラブ」11:23国道一号線の下り線側にある「接待茶屋」石碑と、屋根下に「親子像」接待茶屋から国道一号線を望む親子像は、明治になってからも親子がこの接待茶屋を再興守り続けた11:45日本百名城「山中城址」富士山が見えたので山中城へ再度立ち寄る障子堀越えに富士山富士をズームアップ、今年は雪が少ない箱井戸跡に12:22旧東海道(国道一号線)のバス停「山中城跡」現在はバイパスが完成しているので交通量が減っている12:28訪れた日は月曜日で休業。前回食べなかった、この時期名物の「寒ざらしだんご」を食べるつもりであったが茶屋の裏の旧東海道の石畳12:51茶屋の裏にある、静岡ではお馴染みの夢舞台東海道道標「山中新田」12:57国道一号線沿いの「食堂 富士見平」本来なら旧東海道はここへ下ってくる 富士見平横にある、東海道道標「富士見平 山中新田」野良猫が13:08再度帰りに、国道一号線の上り線側の「山中一里塚」へ江戸より二十六里にある東海道一里塚国道一号線沿いにある一里塚箱根路の西坂へ13:27熱海駅へ行く途中に十国峠からの富士山。旅友が熱海界隈を散策しているとのことで迎えに!13:30左折して熱海方面へ下る14:13熱海駅前のコンビニで旅友を待つ END
2019.02.25
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JR片浜駅辺りで左の腰が痛くなり、原宿の白隠の里松蔭寺からJR東海道線の原駅へ。「原」の地名は、この地の山側にあった浮島沼を中心とした広大な湿地帯だった浮島ヶ原に由来する。その浮島ヶ原と海岸に挟まれた一本道にある宿で、日本橋から13番目の宿場である。1/16(水)15:13大本山松蔭寺白隠(ハクイン)の里案内図白隠生誕地として、白隠に由来する寺が建ち並び街中が整備されている臨済宗白隠派 大本山松蔭寺 所在地:静岡県沼津市原128弘安2年(1279)鎌倉円覚寺無学祖元の流れを汲む天祥西堂が開山したと言われている。享保2年(1717)白隠禅師(ハクインゼンジ)が住職となり、臨済宗を中興したことで全国に知れ渡った。15歳で剃髪し「慧鶴(エカク)」となったのち、各地で修業して32歳で松蔭寺に戻った。大正期以降、門弟中島元奘の代に松蔭寺は妙心寺派から独立し、単立(タンリツ)として白隠宗と称した。現在の住職は宮本圓明。単立とは、包括宗教団体に属さない独立した宗教団体(寺院・神社など)のことである松蔭寺本堂白隠の名声が高まるにつれ松蔭寺に門弟が集い、数百人に及ぶ大集団がを形成した。明和5年(1768)白隠が当寺で病没すると、門弟の遂翁元盧がこれを継いだ鐘 楼白隠禅師塔所白隠禅師の遺体は死後分骨され、原の松蔭寺、三島の龍澤寺、富士比奈の無量寺に埋葬され塔所が建てられた境内にあるこの墓は県指定史跡である、一番左が、白隠の墓所白隠禅師墓明和5年(1768)12月11日、84歳で示寂。翌、明和6年に後桜町天皇より神機獨妙禅師の諡号を、明治17年(1884)に明治天皇より正宗国師の諡号を贈られている。後に五百年に一人の名僧といわれ、臨済禅中興の祖と仰がれている松蔭寺の南側を走るJR東海道線松蔭寺を後にする。山門左に、二代目すり鉢の松がある15:27松蔭寺の隣に位置する、原の天神さん「西念寺」宗派:時宗、宗祖:証誠大師(一遍上人)、本尊:阿弥陀仏西念寺本堂このお寺は弘安年中(鎌倉時代)に宗祖一遍上人のお弟子の素現和尚により開祖された。以前は山門、観音堂等があり、望海景勝のお寺であった。また、浮島原に常休庵や休心坊などの末寺もあったが、延宝年中火災により堂宇等が焼失し、明治26年鉄道火災によって本堂等類焼した。現在の本堂は大正15年に建立された西念寺天満宮山門を入って左手に学問の神様菅原道真公がお祀りされている天満宮のお堂がある。西念寺門前に生家のあった白隠禅師は幼少の頃、母から自宅に隣接するこの天満天神が一切の苦を救うと教えられ、日々参拝した。後年にも「南無天満自在天神」の文字絵や、お多福などの人物の衣に梅鉢紋を描いていることなどから、天神に対する特別な思いがあったようですと15:28旧街道沿いに「白隠禅師誕生地」の石碑”駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠”と歌われ、臨済宗中興の祖と仰がれる白隠禅師は、1685年12月25日長澤宗彝(ソウイ)を父、妙隼(ミョウジュン)を母として三男二女の末子として生まれた。15才の時松蔭寺の単嶺祖伝和尚を師として自ら望んで出家し仏門に入る。19才から32才まで修行行脚で全国を巡り33才で松蔭寺住職となり84才で亡くなるまで松蔭寺を中心に全国各地で真の禅宗の教えを広めた。毛筆の書画に秀でて達磨図や観音菩薩絵は特に有名である新築整備された広場にある白隠禅師の石碑禅師が生まれた時使用した「産湯の井戸」がいまなお清水を湛えている15:30興国寺城(コウコクジジョウ)通り旧東海道から北方向に約1.5kmの所にある「興国寺城跡」。北條早雲の旗揚げの城。層雲は長享2年(1488)頃、今川氏親より富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となった。その後、戦国大名の争いの中で、、今川氏、北条氏、武田氏、豊臣氏、徳川氏の属城となる。慶長6年(1601)徳川家家臣の天野三郎兵衛康景が一万石を領し城主となるが、罪を犯した家臣の引き渡しを拒み小田原西念寺に蟄居したため、慶長12年(1607)廃城になった。今回は、旧街道から離れすぎているため行かなかったので後日訪れたいものです旧東海道(県道163号線)の「原交番東交差点」15:31原浅間神社所在地:静岡県沼津市原899御由来甲斐武田氏に仕えし植松平次右衛門出雲守源季重なる者天正10年(1582)3月武田勝頼陣没するや去って原町に至り住居す季重敬神の念篤く、慶長14年(1609)8月当浅間神社を創建氏神として崇敬し季重の弟宗吾掃部初代の神職となる。季重の子孫は、連綿として当宮の前に居住する、植松本家なり。明治8年村社に列せらる高札場跡原宿の高札場は、この浅間神社前にあった。江戸時代、幕府・大名が法令や禁令を、板札に墨書した高札を掲示した所を、高札場という。規模は、高さ一丈、巾一間、長さ二間五尺あったと言われている原宿と浮島マップ15:33原浅間神社前に建つ「沼津市原宿」静岡ではお馴染みの夢舞台東海道道標吉原宿:宿境まで二里三十二町、沼津宿:宿境まで一里十二町15:34工事中の帯笑園(タイショウエン)帯笑園 沼津市原字御殿場帯笑園は、原の素封家植松家が江戸時代後期から昭和初期まで代々伝えた庭園である。帯笑園という名前は、寛政3年(1791)海保青陵(儒学者 1755~1817)によってつけられ、高島秋帆(高島流砲術の創始者 1798~1866)筆の木額が残っている15:35日蓮宗 龍守山昌原寺所在地:静岡県沼津市原216昌原寺本堂大成弁阿闍梨昭(本山玉沢妙法華寺開山)の法孫日達の弟子、大仙院日耀の開山である。開基は、徳川家康の側室、お万の方(養珠院日心大姉)である。元和元年(1615)春、東海道原宿の渡辺本陣にお万の方が宿泊されたとき、南無妙法蓮華経のお題目が、聞こえてきた。ただちに本陣渡辺八郎左衛門ともない庵に入り、読経を聴聞されたのち、庵主、地主庄司七左衛門を呼び、この地に一山を構えるように要請した・・・・・。そして元和8年(1623)に念願が成就し、寺院を建立して現在に至っている七面大明神の由来15:39旧街道、原浅間神社、昌原寺15:41東海道原宿「問屋場跡」各宿場には問屋があり、宿役人がいて宿駅の業務を行った。宿役人には問屋、年寄、問屋代、帳付、馬指などの役人がいた。そして、道中奉行の監督の下で人馬輸送の業務に携った。原宿には問屋のあった場所が西町東町に各一箇所づつあって、交代で勤めたと思われる15:41前方に原浅間神社、原交番15:46旧街道沿いの道標右へ、JR原駅まで0.6km、後方に国道一号線0.3km、興国寺城跡2.0km15:50渡辺本陣跡を探すがわからず、弥次さんのiPhoneではこの場所に石碑があるのだが渡辺本陣跡の碑がここにあったようだが、何故かない!15:55臨済宗妙心寺派 安泰山徳源禅寺所在地:静岡県沼津市原297旧街道から参道を入り山門へ徳源寺本堂建久4年(1193)源頼朝が行った富士の巻狩りの際、陣屋が置かれた、その後「今津寺」という律宗の寺院を経て、鎌倉円覚寺開祖仏光国師(無学祖元禅師)の弟子帰化僧賢宗が、北条時宗の帰依を受けて弘安元年(1278)に徳源寺として創建。賢宗は、円覚寺建立に尽くした徳源寺の境内地は、源頼朝が巻狩りで当地を訪れた際に陣屋を置いたとされ、御殿場という地名を残している境内にマニ車摩尼車「一転一誦」16:01明徳稲荷時は戦国時代の安土桃山時代、本能寺の変の翌年天正11年(1583)この地に柳池神の社(稲荷大明神)を建立するその後、江戸時代の寛政10年(1798)1月15日京都伏見稲荷より「明徳」の名を授かり柳池神の社が御遷宮されて明徳稲荷となり鎮守された。当時の原宿は旅籠数が僅か25軒と東海道でも規模の小さな宿場であった16:02駅前公園此の地(原町原321-1)は明治20年7月7日、原尋常小学校として明治24年4月26日に新校舎、明治26年4月30日に駿東郡原町立原尋常高等小学校となり、以後増改築を経、昭和7年11月14日の大暴風雨校舎倒壊の為、昭和9年12月28日に現在地に新校舎が落成移転するまで47年間、原地区の教育の場であっ原尋常高等小学校跡 碑その石積となっていた間知石を名称サインに使用し、駅前公園の完成を記念し碑を設ける16:03JR東海道線原駅へ到着JR三島駅からの歩行数は8時間、37,500歩でした茅ヶ崎駅は、まだ近距離きっぷ運賃表(1,320円)に載っている範囲沼津、熱海方面16:12発の熱海行きに乗車熱海駅で東京行きに乗り換え帰宅。約30,000歩歩いたJR片浜駅辺りで左腰が痛くなり、原駅の階段では辛かったが明日の朝はどうなるか心配。 三島→原宿(8/9)へ 三島→原宿END 三島宿から原宿END
2019.02.24
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旧東海道(県道163号線)を歩き、白隠の里原宿の松蔭寺へ。1/16(水) 14:19日蓮宗 光法山蓮窓寺(レンソウジ)所在地:静岡県沼津市松長137蓮窓寺山門本 堂14:23蓮窓寺の北側にある「神明塚古墳」へ、近くに「松長陣屋跡」もあるのだが見つけることができず神明宮(シンメイグウ)創紀は元和2年(1616)3月と伝えられ、3~4世紀に築造された古墳の頂きにある。以来380年鎮守社として氏子、地域住民の崇敬を集めてきた。その間幾多の風雪にあうも区民一帯で保存に努めてきた明和9年(1772)老朽化により再建、大正8年1月隣境失火により類焼、灰燼となり直ちに再建に着手、同10月現在の社屋が落成した。以来、維持補修に努力し今日に至っている神明宮御祭神:天照皇大神、例祭日:10月17日古墳 神明塚の石碑神明塚古墳この古墳の発見は戦後間もなくのことで、昭和23年(1948)には前方後円墳であることが確認された。その際、後円部頂に神明社が鎮座することから、神明塚古墳と呼ばれるようになったこの古墳の全長は約53m、後円部径約37mであることが判明し、また後円部と比べて前方部が短い形をした、古墳時代の中でも比較的古いと考えられる墳丘形態をもつことがわかった14:31旧東海道(県道163号線)に戻り、片浜駅入口旧街道から少し北側へ入り、JR東海道線片浜駅街道沿いの民家に春と冬に咲く、霜月桜(シモツキザクラ)14:36臨済宗 妙心寺派祥雲寺薬師如来の「お薬師さま」、鳥枢沙摩明王(便所の神様)「東司の神様」所在地:静岡県沼津市今沢307祥雲寺山門前は広い駐車場祥雲寺の由来永禄元年(1558)、正親町(オオギマチ)天皇の御代、久松和泉守が、鎌倉建長寺より秀江禅師を迎え、今沢の地に菩提寺として祥雲寺を建立された。近隣の信仰を集めていたが慈覚大師作の今沢薬師如来を本尊とする薬師堂を移し以来篤い信仰を集めている祥雲寺山門祥雲寺境内東司と書かれた、女子手洗い、男子手洗い薬師堂、本堂本尊は、釈迦牟尼如来おそうじ小僧境内の隅に井戸14:41祥雲寺の隣にある「三島神社」三島神社推定樹齢450年の、御神木「緑マキ」、幹廻り約4m14:52JR東海道線「原踏切」旧街道の原宿、京方面14:56旧東海道沿いにある小さな神社「神明宮」鳥居の下に愛らしいお地蔵様がある15:00秋葉神社所在地:静岡県沼津市大塚15:03臨済宗 妙心寺派清梵寺駿河一国地蔵尊第93番の「原のお地蔵さん」臨済宗 妙心寺派清梵寺境 内15:07臨済宗妙心寺派 海上山長興寺所在地:静岡県沼津市大塚299長興寺山門駿河のこんぴらさん、海上山長興寺山門右手前へ石柱「白隠禅師の旧宿坊」当寺は、江戸中期 松蔭時に全国から参集した修行者たちの宿坊でした。両寺の間の小径は白隠道と称された長興寺本堂「海上山」6月2日(日)に、第27回 駿河の金ぴらさん『奉納泣き相撲大会』赤ちゃん募集!対象は、6ヶ月から1才半まで、人数200名で、参加費5000円とのこと15:10路面の標識、白隠の里長興寺山門、なかみちは工事中15:12松蔭寺(ショウインジ)の鐘楼、すり鉢の松15:13臨済宗系の寺院 大本山松蔭寺所在地:静岡県沼津市原128 三島→原宿(7/9)へ 三島→原宿続く
2019.02.23
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旧東海道(県道163号線)を歩き、13番目の宿場町「原宿」へ向かった。1/16(水) 12:46浄土宗 千本山乗運寺(センボンザンジョウウンジ)山門所在地:静岡県沼津市本字出口町335山門を入り「乗運寺本堂」戦国時代の天文6年(1537)増誉上人(長円)が開基となり創建された。増誉(ゾウヨ)上人は知恩院で修業、その後、諸国行脚で沼津に来た際、塩害で作物の生育が悪く農民が困窮しているのを見て、念仏を唱えながら海岸に砂防林の松を植えた。農民が上人に感謝して建てた庵が、寺のはじまりである千本松原をこよなく愛した歌人、若山牧水の墓。側に牧水の妻・喜志子、長男・旅人の墓もある乗運寺は昭和20年(1945)の戦災により焼失したが、昭和40年(1965)に客式本堂、昭和48年(1973)に集会堂・庫裏が完成し現在に至る。緑の豊かな境内には小石を用いた庭園・枯山水も整っている境内ではロウバイも咲き梅の花も蕾が大きくなりミツマタ鐘 楼12:52旧東海道(県道163号線)沿いの果物屋さんに珍しいスイカ13:04是より南一町半「六代松」の石碑があり、旧東海道から海側の路地に入いる平家物語ゆかりの地「六代松碑」所在地:静岡県沼津市本六代松碑六代とは平家六代目を継ぐ御曹司のことで、三位中将・平維盛の息子にあたる。源頼朝の家来・北条時政により捕らえられ、千本松原で処刑される際、文覚上人の命乞いにより赦免となったが、、その後文覚上人の謀叛に連なり処刑された。この処刑で平家の血筋は途絶えた。従者が六代の首を千本松原の松の根元に埋め、弔ったと伝えられるこの松を「六代松」と称したが枯死したので、天保12年(1841)枯れた松の傍らに記念碑が建てられた六代松の碑13:11法華宗 妙傳寺所在地:静岡県沼津市東間門3-4-4妙傳寺境内街道沿いの山門からの本堂旧東海道(県道163号線)沿いの塀13:14新中川の下流、松林の向こうは駿河湾新中川に架かる「間門橋(マカドバシ)」旧東海道(県道163号線)に架かる「間門橋」を振り返る、江戸方面13:15間 門昔、この地南の浜で閻魔大王像の首が網に掛かり、首の後ろに「天竺摩伽陀国」と彫られていた。村人は、堂を建て胴体手足を造り像にして安置し、お祀りしたとの言い伝えから地名が付けられたといわれる。また、アイヌ語では「マカ」とは開く「ト」とは湖水を意味するが、間門(マカド)の地名は、往古の地形なり、土地の役割に由来しているのではないかという説もある13:17西間門交差点左方向:千本街道、右前方:旧東海道(県道163号線)原宿が近くなると、高嶋酒造が蔵元の「原の地酒”白隠正宗”」の大きな看板13:24沼津藩領境榜示(サカイボウジ)13:24八幡宮13:26旧東海道(県道163号線)を原宿方面へ13:26原宿まで二十八町(3km)静岡ではお馴染みの夢舞台東海道道標だが読みずらい13:32諏訪宮13:37臨済宗普門山 正覚寺(ショウカクジ)所在地:静岡県沼津市小諏訪518-1正覚寺は、今から約300年前の元禄2年(1689)、原の徳源寺第9世方室玄策禅師を開山に迎え、小諏訪の旧東海道沿いに徳源寺の末寺「自覚庵」として創建された。昭和46年本堂再建に伴い、先住福田州弘和尚により「普門寺 正覚寺」と寺号を改めた境内にある「白衣観世音」13:44高野山真言宗 清玄寺境内で弥次さん持参のリンゴを一個頂きながら休息する所在地:静岡県沼津市大諏訪16014:00旧街道沿いに小さな「八幡宮」旧街道沿いにこんな看板が14:02日蓮宗 妙秀山榮昌寺所在地:静岡県沼津市大諏訪222榮昌寺山門本 堂本堂前の立派な蘇鉄境内の隅に手汲みポンプ注意!! この井戸の水は飲めません㈱川本製作所 製のポンプ昨年行ったウズベキスタンでは、手製のポンプがあったがこれは立派なもの14:07吉祥院天満宮本門法華宗 承光山吉祥院(ショウコウザンキチジョウイン)所在地:静岡県沼津市大諏訪212-1鐘楼と本堂当院は、寛文5年(1665)正月に、沼津市岡宮の大本山広長寺の末寺として本山第25世日淳聖人が創建された。本堂左側の堂本堂前から旧街道14:12松長一里塚跡碑日本橋から数えて31番目の一里塚。現在は碑が建っているのみだが、側面に当時の一里塚の画が刻まれている。東海道をはさんで北側松長、南側大諏訪に一里塚が築かれた。所在地:静岡県沼津市大諏訪 三島→原宿(6/9)へ 三島→原宿続く(8/9)
2019.02.22
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