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哀願しても懇願しても地団駄を踏んでも取引をしようとしてもその時が来たら猶予はないだから今日すべきことがある
2008年02月29日
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若い頃のつらい思い出がフラッシュバックする時もある。その過去の出来事にスポットが当たると周囲が暗くなり見えなくなる。スポットライトは移動しシオンの丘へ。そこには古びた十字架が立っていた。今は主によってあがなわれ赦されていると知る。一つの御言葉が心に浮かび神様ありがとう、とつぶやいた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」ヨハネによる福音書8章11節
2008年02月27日
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父は三男坊で自由奔放な人だった若い頃から無宗教で「宗教は嫌いだ」とよく言っていただから死期も近い頃「お父さん、キリスト様を信じましょうね」と妻に勧めれて 深くうなずいた時新鮮な感動にあふれたと思う
2008年02月26日
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ピンポ~ン「元気かぁ~~」老牧師さんがお訪ね下さった「病院の予約時間に間があってな日だまりの中を少し歩こうと思っていたらなキミのところの看板が電柱に貼ってあってなふらふらと導かれてお邪魔してしまったよ~」戦い終えた兵(つわもの)の武勇談を聞く ほろ苦くもあり「聖徒きたれば 兵どもが 夢のあと」
2008年02月25日
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キリスト様は通りがかりに、レビにお声をかけられた。「わたしに従いなさい」彼はすぐにペンをそこに置いて立ち上がり従った。それからキリスト様はレビの家に入って食事をなさった。ところが周りの人々は、すっかりつまずいてしまった。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」レビはこの町の関所に勤めていた。町に入る人々から、通行税を取っていたのだ。当時のイスラエルは、ローマに支配されていたローマの属国。レビは敵の国に雇われて、自国の人々から税金を取り立てている。肩身の狭い思いで生きていた。時々は、事務所に石を投げられたり、生卵が飛んできたりした。徴税人は概してお金持ちであり、ねたみの対象でもあった。また不正蓄財の噂も絶えなかった。つまり、当時のつまはじき者だった。キリスト様はそんな徴税人に声をかけるばかりか、家にまで行って食事をなさった。非難の言葉を耳にされたキリスト様は言われた「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである。」レビは、この機会を逃したら、二度と無いかも知れないと思い主に従った。人生には決断の時がある。レビは、税金の合計を書き付けていたペンを置いた。この仕事は、一度その仕事を捨てたら、戻る機会は二度と与えられない。それでもいい。主と一緒にいる喜び、主のための御用をする生き甲斐に比べたら、罪深い満足を求めたり、役得でもうけたいなんて、もう絶対に思わない。レビはペンを置いて主に従ったが、この世のためのペンを置いた彼に、主はもう一度ペンを取るように言われた。主の御生涯を記す福音の記録者として、主はレビのペンを必要とされたのだ。「わたしに従いなさい」ボクたちが、その尊い御声を聞いたのはいつだったか。ボクたちも、レビのように個人的に主に呼ばれて、主にお従いした祝福された一人一人と信じる。何と素晴らしい恵みをいただいたのだろう! これからは、主の弟子としてまっすぐに主に仕え、従うように。主の弟子として備えられた輝く道。その道は天国に登る階段でもある。マルコによる福音書(9) 2章13~17節
2008年02月24日
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3月の第一日曜日の聖餐式に一緒にあずかれるように明日の礼拝の後、臨時役員会を招集して洗礼式を行うことを決議し聖餐式の前に洗礼式をしようしきりに、そんなふうに考えていたが未明,かすかに電話の呼び鈴を聴いたような気がして妻の頭を足でかすりながら起き立ったやはり空(そら)だったのかそれからまた電話の音を聞いた電話の向こうは泣き声だったすぐに車を走らせた間に合わなかった昨晩は車の中で何度もお礼を言われた十分にお世話できないと言ってもそんなことはありませんからと神様がついているから大丈夫と別れたばかりだったのに突然にも地上の絆は断ち切られ病気の重いからだから天への羽が生え瞬く間にいとまごいもそこそこに愛する主の御元へ昇っていった
2008年02月23日
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「これ、これかしら」「それ、それだよ」
2008年02月22日
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そのメッセージは教会の皆さんに普段お話していることとそんなに変わりがないと感じたただ違うのはもっと熱く真実で、ていねいにやさしく、力強く聴衆への思いにあふれ揺るぎない構造でそのお顔を見ているだけで安心するステキなことをお話下さるに決まっていると
2008年02月21日
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箱根での集いに来ています。 400人程の人々が集まり 賛美を歌ったり、みことばに聴き入っています。 前のほうに、Aさんの後姿を見つけました。 苦労を通って、今は横浜の教会で元気に働いています。 ここで3人の同窓会をすれば Aさんとボクとボクの妻です。
2008年02月20日
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ボクの信仰にサジェスチョンを与えたのは大学KGKの聖研時代の仲間たちでした。この仲間がいなかったら、ボクの信仰はデフォルメされたままだったでしょう。「ボクの教会に来て下さい」お誘いしたら「ボクはね、改革派だから ホーリネスの教会には行かないよ」その時、ボクも改革派になりたいと思いました。それでもボクは生まれ育った教会から離れずウェスレアン・ホーリネス教団に属する牧師になりました。若い頃、色んな教派がごっちゃに集まっていた人々の中で育てられたことを幸いに思います。だから思うのです。どの教派でも関係がない。ひとすじに主・キリスト様を愛しその教えに生きることさえあれば。
2008年02月19日
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ボクたちの信仰にアドヴァイスを与えたウェスレー師。イギリスの国教会の牧師だった。彼には膨大な日記が残されている。始めの方は、自分の覚えのように「速記の符号」で書かれていたという。所でウェスレーの反対側の人のこんな風な意味の言葉を読んだことがあった。「栄光は神にお返しし、 自分は無くなることがふさわしい、 日記を書いて公開することは、 自分に栄光を求めるような行為だ。」ウェスレー師は、神様からお預かりした時間と体の管理者としてあかしをするために記していた。ウェスレーの日記には、日々の行動のほとんどが、赤裸々に綴られている。ボクの日記を読んで下さる方には、こんな柔弱な者さえ神様は救い、面倒を見て下さるのだと、わかって下されば、うれしい。
2008年02月18日
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キリスト様が家に帰られたと聞くと人々が押し寄せて来た。神の国の福音をお語りになり、病気の人たちを癒された。そこに病気で動けない人がベッドごと主のもとに運ばれてきた。すでに人が一杯で入れなかった。このまま帰るわけにはいかない。それで彼らは病人を屋上に運び上げて、屋根をこわして、上からベッドごと病人を主のもとに吊り降ろした。2000年前のイスラエルの家。天井には梁となる2本の材木をクロスさせて、あとは泥を塗り固めて作る。イエス様のお宅も、こんな風に出来ていた。主がお話をなさっている最中に、ドスン、バキバキ~上から乾いた泥がぱらぱらと落ちてくる。家の人たちが端の方に避難する。空が見えた! 人が顔を出した。「イエス様、かわいそうな友だちをどうぞいやしてやってください」病人がベッドごと吊されてきた。病める友は、緊張した顔つきで、震える手を一生懸命に合わせ拝もうとしている。周りの人々は、「なんて無茶苦茶なことを!」と思ったか。キリスト様は彼らの信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。病気やケガで苦しむ人がいれば、その人が癒されるようにお祈りをする。主はその人たちの信仰をご覧になって、罪の赦しを宣言される。世の中には「祈祷師」というのがあるそうで、色々な医者に掛かってうまく行かない時に行って拝んでもらうらしい。キリスト様はそんな祈祷師とは違う。人間が生まれながらに背負ってくる「罪」という、すべての苦しみの根本原因を取り除くために、来られた。その赦しのために十字架をかついで主はゴルゴタの丘に登られる。罪とは、アダムとエバが蛇から誘惑された時に、神様から「食べてはいけない」と言われた木の実を食べたところから始まっていると、聖書は説明している。その結果、人類は楽園を追放されて、神様から離れた生活をしなければならなかった。神様に背いたままの人のあり方を「罪人」(つみびと)と呼ぶ。そんな罪人状態のままでどんなにがんばっても、うまくいかない。去年の秋、世界陸上大会競歩男子、山崎勇喜選手が、競技役員の誘導ミスで1周早く競技場へ入ってしまった。途中棄権という結果にされてしまった。どんなにがんばっても、ルールを外しては徒労となる。ボクたちが罪人(つみびと)のままでは、人生をどんなにがんばっても、肝心の時に間に合わない。だから天のお父様との和解が出来ていないことが、病気の心配より、もっとはるかに心配なこと。「天国、永遠の命」というゴールを聖書によって教えられているね? だれかが通せんぼうをして「こっちこっち」と誘導しようとしても、聖書という道しるべを手に、正しいゴールへのトラックをまっすぐに進もう。あれれ、主のお宅の屋根を直している人たちがいるよ!1,2,3,4,5・・・5人も来ている。どこかでみた顔だなぁ。<数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。>マルコによる福音書2章1~5節 聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation (c)日本聖書協会Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
2008年02月17日
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今朝はクライマックスでしたね主人公の師匠が亡くなるところですこの朝のドラマは からっとしていて押しつけがましくないのがいいですそれでも今日は涙を抑えられなかったこのドラマは「落語」そのものだと気づいたそう思うと大仰な演技も受け入れられる
2008年02月16日
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一週間無為に過ごしてしまったと思った。このブログを開いたら一週間分の日記がたまっていた。
2008年02月16日
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「先生」や「教師」と呼ばれても「お父さん」と呼ばれてもキリスト様の御心にかなわない。敬愛されたり尊ばれたり慕わしく思われたりすることそんなことを願うことはキリスト様の御心にかなわない。ただ「仕える」小さな一人として無心に生きることそれが御心にかなう生き方今日与えられた歩みを今日与えられた奉仕を今日与えられた人と一緒に虫のように地を這って生きるようにと。「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」マタイによる福音書23章5~11 聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation (c)日本聖書協会Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
2008年02月15日
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祈りはスカイプ以上だ祈るなら地球の向こう側の娘がすぐそばに来る娘もきっと同じだ
2008年02月14日
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幸せで満たされているより一つ不幸せなことがある方が本当の幸せに近い気がします。「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。」マタイによる福音書5章3~4節
2008年02月13日
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おとうさんへボクの子供たちがそれぞれの所で生きています。おとうさんボクが子供たちを愛し心配しているようにおとうさんあなたもボクたちを愛し心配していてくださいます。
2008年02月12日
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快晴のようで何かモヤが掛かっているような春の海を見てきました。向こうの半島を見てきました。突端は「大瀬(おせ)岬」ちょうど日が掛かってまぶしく輝いていました。遠い町の工場の煙も見えました。富士市の製紙工場です。波打ち際を犬と走りました。ヨーイ ドン犬ははるか向こうに行きこちらを振り返りました。
2008年02月11日
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キリスト様がおられると聞いて「重い皮膚病」にかかった人が、人の目を気にしながら町に出てきた。どんな勇気が要ったことだろう!-------------------旦那 おめえ様が癒してやつてくれべいとせえ思やあわしの病気やすぐ癒りまさあ旦那 なほしておくんなせい拝むから 旦那癒してやつておくんなせい 旦那基督は悲しいお顔をなさつたそしてその男のからだへさはつてよし,さあ潔くなれとお言ひになると見てゐるまに癩病が癒つた------(八木重吉)----自分の病を癒す力のある方がおられる。その強く深い確信。ご自分の前に出てきたこの人をご覧になったキリスト様。こんなにもご自分に信頼を置く人がいる。だれも決して触れなかったであろうその人に、主は御手を述べておふれになって言われた。「よろしい。清くなれ」この物語の中で、ボクたちはどこにいるのだろう。「重い皮膚病」を患う人は、ボクたちの姿を暗示していることに気づこう。アダムとエバの子であるボクたちは、みな「罪人」。全世界の最も重い「重い皮膚病」よりもっと重い心の病だ。その「心の病」は、例外なく万人のもの。だれもそれを癒したり、救うことは出来ない。この地上を歩かれた者の中にただお一人、ボクたちの救い主、イエス・キリスト様だけが、その病を完全に癒しきよめることがおできになる。理屈ではなく、主はそのお力をお持ちなのだ。主にはその力がおありなのだ。「わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」ヘブライ10:21~22そうだ、主のみもとに寄ったこの人は、ボクたちの模範だ。罪・汚れに心が魂が染みのように染まっていたとしても、真心から神に近づく人ならだれでも、神様は癒して下さることを教えているのだ。キリスト様の元で、生まれながらの罪人は永遠の命によみがえり、神様の赦しと癒しの恵みに生きる。主に癒されたたくさんの人々。ボクもその中の一人だ。<さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。>マルコによる福音書1章40~45節 聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation (c)日本聖書協会Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
2008年02月10日
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公立学校の校長先生をしていたかたが公職を退いて、ボクがお勤めする教会に帰ってこられた。教会ではだれもが「兄弟姉妹」と呼び合う。だからボクもそのかたを「兄弟」と呼び続けた。そのかたは体を弱くしてやがて亡くなった。先日、テレビを見ていたら、「ご老人の寂しさを癒す一つの方法は 現役だった頃の職名で、その人を呼ぶこと」そんなお話がされていた。そのかたのお顔が浮かんだ。何と足りない牧師だったのだろう。「先生」と呼べば良かったのに。
2008年02月09日
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人の心の中の自分自分が知らなかった姿が映っていた。見えなかったこと隠されていたものが見えるようになる。
2008年02月09日
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好かれている人の前では好かれている人のようになり嫌われている人の前では嫌われている人のようになる
2008年02月08日
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『まぶねの片えに』のベースを練習した時、「これは<通奏低音>と言って、バッハのどの音楽にもあるものです」という説明があった。ボクたちのクリスチャン生活にも「喜び」や「平和」という通奏低音があると思った。
2008年02月07日
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「信念」と「信仰」似て非なるものと思います。「信念」とは、岩のようなもの「信仰」は、柔らかい真綿のようなもの信仰それは暖かい日の光湖面のさざ波熱いまなざし稲光にもなり深い穴の底にもなるそれは七色の虹に似ている
2008年02月06日
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「坂道に強き 御手を差し伸べ試みの時は 恵みを給う弱きわが魂の 渇く折りしも目の前の岩は 裂けて水わく」 新聖歌340の2節(聖歌590)愛唱さんびかの一つ10代の頃から休みなく歌い続けて今に至るも古びず。「弱きわがたまの」という所で万感をこめて歌うことあり
2008年02月05日
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礼拝順序 朝10時45分~正午招 詞 イザヤ書54章2~3節 着席賛 美 新聖歌11「ほめたたえよ」 起立主の祈 起立交読文 詩100 着席祈 り 着席賛 美 「小羊イエスよ」他 着席聖 書 マルコ福音書1章35~39節使徒信条 起立間 奏 着席福音の言葉(説教) 「キリストの働き~祈り」賛 美 新聖歌100「御国をも御座をも」起立聖餐式献 金 着席感謝と応答の祈り 着席頌 栄 新聖歌62「天つ御民も」 起立祝 祷 牧師 起立報 告 着席上記はきのうの礼拝のプログラムです。神様がボクたちのためにお開き下さるものとして持たれます。神様からの招きの言葉「招詞」から、礼拝は始まります。次の「賛美」は、ボクたちから神様へのプレゼントです。「お招きにあずかり参りました。感謝します」と喜びにあふれて、賛美の歌をささげるのです。「福音の言葉(説教)」では、神様のボクたちへの救いの言葉を解き明かしますが、その前に「聖書」が読まれ、その内容に沿って解き明かされます。「聖書」を読むだけで涙ぐむ司会者もいらっしゃいます。「説教」でも、涙ながらのお話になることもあるので、話すも涙、聴くも涙となることも、まれにはあります。それは、キリスト様のご事績とそのお言葉が、ボクたちにとって、あまりも「もったいなく、そして素晴らしい」から。そのお方が、今も生きてボクたちの礼拝の主(あるじ)となっていて下さるなんて!涙を流さずにはおられません。お説教の後の「賛美」神様のボクたちへの愛とそのご配慮が解き明かされたので「いよいよ熱くあなたにお仕えしたいと思います」とそんな思いがこめられる歌を選びます。「祝祷」で締めくくられます。礼拝に集った信徒さんたちの一週間が、お守りの中に生き、神様の子供たちとして神様の素晴らしさを顕しながら生きることが出来るようにと、派遣する祈りです。全身全霊をこめて祈ります。
2008年02月04日
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キリスト様が行かれる所には、たくさんの人々が押し寄せた。主は早朝まだ暗い内に、お祈りをしておられた。主がお祈りをなさっているお姿には、何かエリを正される。感動を与えられる。わが子が小さかった頃、こっちが新聞を読んでいる時など、お構いなく背中によじ登ってきた。お祈りをしている時だけ、よじ登ってこなかった。きのう、ボクがお茶が飲みたくなって上がっていくと、妻が聖書と祈りの栞をテーブルの上に開いて、静かにお祈りをしている。ボクはあの時の子どものように、音を立てないように部屋から出て行ったんだ。祈る人には侵しがたい力がある。いつも祈られたキリスト様は、祈りの大切さをお教えになった。主は祈るご自身の姿を通しても、教えておられる。「君たちもこうして祈るんだよ」「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」マタイ18:19こんな主のお約束によって、ボクたちは祈りに駆り立てられる。まだ暗い早朝、お祈り中の主を見つけ、弟子たちはみ元に行き、「みんなが探しています」などと、主をせかせるのだ。そんな弟子たちを叱りもせず、御用のために「さぁ!」と立ち上がられる。主の御用は、人々に福音を語り、病をいやし、悪霊を追い出し、最後の十字架の岡までまっすぐに前進すること。ヘブライ5:7「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」激しい叫び声、涙、このような御言葉は、天の父と静かにお交わりするという雰囲気ではない。キリスト様が人と成られたと言うことは、また、ひとすじに生きることの困難さを、知られているということ。先日は介護につかれて、親を殺し自分も死んだというニュースがあった。大切なこととはいえ、いつ終わるとも知れない煩いと困難に満ちた生活。最後までなし終えることが出来るのだろうか?この過酷な仕事を、継続できるか? この人の妻として、夫として、人生の終わりまで添い遂げることができるのだろうか? 障害を持つ子の親として、最後まで支え続けることが出来るのか?まっすぐに生きようと願うほど、人生は時として激しい叫び、涙の祈りが無くてはできない。「天のお父様、どんなことがあっても、十字架の岡まで、御用を全うさせて下さい」主が祈られるお姿から、心に聞こえてくる。だからボクたちも、主のお姿を心に刻み、祈ろう。主は朝早く暗いウチにお祈りになられた。2月になれば、もう光が早くなってくる。寒さをがんばって克服して起き、祈らなければ、主のように「朝早くまだ暗いウチ」にはならない。さぁ、祈ろう。明日から! 主のように祈るために、目覚まし時計を手に取るんだよ。さぁ、やまひで!「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。」マルコによる福音書1章35~39(新共同訳聖書) 聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation (c)日本聖書協会Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
2008年02月03日
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どん底真っ暗どこを見回しても望みがないそんな中に光を信じることは可能だろうか
2008年02月02日
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光が輝きはじめる月戸外では光が妖精のようにロンドを躍る2月
2008年02月01日
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