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お向かいの神社さんの桜は華麗に咲いているウチの庭の山桜は今年もあまり花を付けない見上げるように大きく成長したのに独語「なんだかうちの教会みたいだな」「そんなこと言わないでくださいね!」しまった隣に信徒さんがいらした
2008年03月31日
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狩野川の河川敷で、会社のお花見会があると信徒さんが言っていた。晴天の元で、涼しげに流れる川のそば花盛りの木の下でお弁当を広げて。春風が頬を撫でる。明日は日曜日友と一緒に神の御前で春の喜びを歌います。
2008年03月29日
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キリスト様の復活の場面では、マグダラのマリアが登場する。ヨハネ福音書での主との再会の場面は、悲しみの中で主を認めることが出来ず、名前を呼ばれて主と気づく、厳かで、さわやかで、ドキドキもする場面だ。主の御言葉イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」ヨハネ20:17残酷な十字架刑を目の当たりにし、涙に明け暮れていたマリア、主の復活に触れて、主にすがりつこうとした気持ち、よくわかる。「イエス・キリストは復活ののち、彼の傷あとにしか触れることを許さなかったように、私には思える。<わたしにさわるな>われわれは彼の苦難にしか結びついてはならない。」(パスカル『パンセ』(554)中公文庫版)もう師と弟子のような関係ではない。仰ぐべき神と、神のしもべとしての関係となる。そう元もとそうだったのだけれど。それはマリアにとっては、この上もない輝かしい喜びだったはずだ。主の御傷あとに触れてボクたちにも、マグダラのマリアのような心で主を仰ぐことが許されている。
2008年03月28日
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総会で教団委員の選挙がありました。前回ボクは次点でした。今回も次点だったのですが今回はボクの親友が入ってくださいました。自分のことより嬉しかったです。委員に入ったら帰りが遅くなるなと思っていましたが普通に帰ることができこれも嬉しかったです。委員でなくても大丈夫委員のお仕事のお手伝いをしています。
2008年03月27日
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教団総会から帰りました。信仰の友との交わりは・・・・聖別会のあとあちこちで出来る祈りの輪最後の食事を終えて外に出ると後ろのほうからボクの名を呼ぶ人がいた振り返ると笑顔で手を振っていた。
2008年03月26日
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ハーヴェストタイムの中川健一先生が「人生は喪失にある」と書いておられた。健康な人が病気になる。健康の喪失、年を重ねて若さの喪失、愛する人を失い、支えの喪失。私たちが今手にしている良いもの、価値あるもの、楽しみ、これらを一つ一つ無くして行くのボクたちの人生。「ちりとてちん」(NHK朝ドラ)。もう今週で終わり。これも喪失しなければならないなぁ。ところで、ちりとてちんは、落語の一門、師と弟子たちの物語。弟子たちは、尊敬して止まなかった師匠を病気で失い、途方にくれるが、力を合わせて立ち上がり、一門をもり立てていく。このドラマが大好きな人たちがたくさんいて、作者はクリスチャンに違いないと言い張る人もいる。この師匠と門下生は、イエス様と弟子たちと似ているところもアルな。喪失もものかは。死んだ師匠の大きな写真がそばにいつも置いてあって、弟子たちは時々は話しかけ、またその写真からは、昔の場面が写し出される。弟子たちは、それによって力を得て辛い事に負けないで前進する。「草若師匠」がイエス様だったら、あの門下生たちはボクたち。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」(38)復活された主は、こんなふうに弟子たちにお声をかける。主を失い喪失感の中に生きる気力を失っていた弟子たちを励まされる。主はお弟子たちの心に寄り添い、何とか彼らの心を落ち着かせようとなさっておられる。安心するようにとお語りになる(36)。手や足をお見せになったり、触らせる(38-39)。魚を食べてみせる(42)。そしてご自分の復活の預言を旧約聖書から解きほぐされる(46)。「ほんとうに主は復活された」。弟子たちは復活なさった主とふれあいながら、信仰を学び、新しい歩みのために整えられていく。「あなたがたはこれらのことの証人となる」復活の主のお交わりの中で、主は弟子たちに新しい使命を託される。主の復活の証人となりなさいと。「使命に生きる人生なんて・・・・」、ボクは気まま大好き人間だけど、気が付いてみると、弱くはあったけれど、やはり主からいただいた使命に生かされてきたんだな。気ままに生きたくても、生きているつもりでも、ボクたちの人生は、神様からちゃんと重荷を負わされている。重荷を負わなければ生きていけないように出来ている。それならば、託された人生の重荷を、「なんで自分だけこんな割の合わない・・・」といわずに、どんなことでも、どんなものでも、ボクたち私たちを愛しておられる神様からのプレゼントとして、担っていくことは、どうだろう? クリスチャンとして生きることは、そういう人生を神様とご一緒に受け入れることだろうと思う。どうせついて回るなら、進んで受け入れるほうが、私たちの人生の重荷は、もっと負いやすく、もっと自由に担えるようになる。キリストは復活された? そうだ、そんな人生をボクたちと一緒に、ある時は静かに、ある時は力強く、生きて下さるために、主はよみがえられた。草若師匠の写真の前でお話するのではない。生きておられる主と共に生きる! 主はほんとうによみがえられて、ボクたちと一緒におられます。ルカによる福音書24章36~49節
2008年03月24日
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「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」エフェソ5:14
2008年03月23日
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「よみに降り」と使徒信条で告白します。今日はキリスト様が十字架の上から降ろされ死んで墓の中にとどめられた一日。「よみ」という言葉はむずかしいです。「陰府」「黄泉」とか書きます。気持ちの悪い単語です。日本的に言えば「草葉の陰」ぶるぶる!詩編には「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。」139:8主が陰府にくだられたことを預言しているのだろうか?主が行かれた陰府は、もう暗いところではないのだろうか?以前、信仰を持たずに亡くなった家族の方の葬儀をした時、慰める言葉も見つからず「キリストは陰府にお下りになったのだから この方は、そこできっと主にお会いしていると思います。 そこで改めて主のお導きを受けられるのです」そんなふうに皆さんにお話したことがあった。終わってから一人の信徒さんが来て「そんなふうには考えていません」と静かに言われたことがある。「信仰を持たずに逝った人は、地獄に行くに決まっている」そんなふうに考えておられたから。天国に行けばわかることはあまり考えないことにする。生きている人を愛するのがいい。明日はイースター生きている人たちに祝福を祈る朝がくる!
2008年03月22日
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きのうはちょっと強めの春の風が吹く中隣町の教会の献堂式に列席しました。献堂のための礼拝は祝福にあふれました。その教会の若い牧師が司式をしその教団の理事長が説教をなさいました。「心楽しく家に帰っていった」列王記下にあるその聖句が選ばれだれもが、教会から帰る時にそうでありたいこと、教会に毎週集うことの出来る喜び、そこでは、神様のご臨在に触れる喜び、教会には、神様を中心とした互いの愛がある、ここに来れば「本物」に出合うことが出来るだから「心楽しく帰る」ことができる、と。それからその教会を創立された老牧師がお立ちになった。若き日から70歳有余まで生涯を一人身で、主と、たった一つの教会にお仕えした女性牧師今は老人ホームに入られてちょっと見た所よぼよぼのように見えたが講壇に立たれると、とたんに輝きだしてこぼれるような笑顔と若々しい音声「苦労があっても 教会には神様がおられますので どんなことがあっても守られます」そのお言葉一つ一つが珠のようだった。
2008年03月21日
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「十字架の上の7つの御言葉」礼拝で一つ、礼拝の後の記念会で2つ、きのう祈り会で残りを読み合った。「成し遂げられた」息を引き取る直前に語られた御言葉であることがわかる。キリスト様は、ご自分の生涯を一つの使命として捉えておられた。「成し遂げられた」それはキリスト様の父であるおかたへの告白であり十字架の周りの人々や、ボクたちへの宣言でもありうる。ギリシャ語ではただの一単語であるこの言葉の意味は、計り知れない。「成し遂げられた」それはただ十字架だけではない。奇しきお誕生から、大工としてのお仕事公生涯でのお言葉、御業、弟子たちや他の人々とのお食事、祈り、御生涯のすべてを、使命として生きぬかれたお言葉と思う。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。ヨハネによる福音書19章30節
2008年03月20日
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老人ホームに入居された女性がある人に讃美歌を贈るように言われた。裏表紙には、この聖句を書いて下さいと。「ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声が聞こえる。いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。恋人よ、美しいひとよさあ、立って出ておいで。岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ姿を見せ、声を聞かせておくれ。お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。」雅歌より 聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation (c)日本聖書協会Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
2008年03月19日
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二人での歩みにも四季がある今朝は春らしい温和さからスタート春の気候は変わりやすいから注意しようまさか季節外れの台風はないだろう
2008年03月18日
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スタートであり、行程であり、ゴールがここにある。信仰も、神学も、ここに至らなければ意味がない。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」テサロニケの信徒への手紙1 5章16~18
2008年03月17日
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<受難週の始まりに寄せて>さすがのキリスト様でも、十字架に釘づけられながら、長いお説教はなさらなかった。十字架の上からは、御言葉が途切れ途切れに響いただけ。マタイによる福音書にも、その御言葉が記されている。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 マタイによる福音書27章46節エリヤが死者を迎えに来るという風説があったらしく、「エリヤを呼んでいるな」と、人々は思った。しかし主は詩編22編を読もうとなさった。たしかにこの詩編には、十字架の主が預言されているように思える。詩編22編は、悲痛な叫びから始まる。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」断じて罪を犯して刑に服されるのはない。ボクたちの罪を担っておられるのだ。きよらかな神の命にあふれるキリスト様が、罪人のかしらのようになられて、神様の恐ろしい裁きの前に立って下さっている。ボクたちのために、地獄の苦しみを、恥かしめを、味わっておられる場所、それがゴルゴタの丘だ。この詩編を読み進もう。苦しみの叫びで始まるけれど、すぐに神への信頼の調べに代わる。読み進むと神への信頼を歌う詩編であることがわかる。御子は、愛される父の御子として、どんなに激しくつらく、痛みに貫かれる中にも、父への信頼を高らかに歌おうとなさっていた。
2008年03月16日
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「父よ彼らをお赦し下さい」主は十字架の上で祈られた。「主よ弱い心をお赦し下さい。」ボクは自分の弱い心のために祈らなければならない。「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。」ヘブル人への手紙12章1節(口語訳聖書)
2008年03月16日
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冬に慣れると春が来る春に慣れると夏が来る夏に慣れると秋が来る秋に慣れると冬が来る冬に慣れると・・・・
2008年03月15日
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今日はヤケに暖かい。やはり厳寒の方がましだ。
2008年03月15日
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「今日はお祈りしようね」昼間からそう言われていた。金曜日の夜は妻とお祈りする週課。先週は出来なかった。「夜に信者さんをお訪ねするよ」そう伝えると心配顔になり、お祈りの時間には帰ってという。妻との祈りは無事に終えた。
2008年03月14日
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良いとか悪いとか評価が先に立つ、評価社会の申し子。無評価の交わりを理想としても、「存在の重み」に耐え難きこともあり。
2008年03月14日
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牧師室の隣で婦人会をやっていた。元気一杯な会話が聞こえてくる。集いが終わるとお茶には呼ばれる。話は続く。「色々あるけど今が一番いい」みんなが口を揃えて言う。マイッタナ昔が良かったと思うのはボクだけか。
2008年03月13日
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水曜日の祈り会の前に用事で息子に電話「なに、父さん、どうしたの?」いたいた!やはり今日は休みだったちょっと憂いがちな朝弾んだ声を聞けて元気が出た明るい声って大切なんだなさぁ明るい声で皆さんの前で話そう。
2008年03月12日
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きのうは4人での小さな委員会を持った。都心のファミレスのような店で書類を広げちょっと決まり悪かった。午前中でお客が少ないからよかった。ボクたちの群のありかたを一人が切々と語り出した。その一言一言にボクの胸が突き刺されるようだった。自分は今日まで何をやってきたのだろう。そして今何をしているのだろう。伝えてくださってありがとう。
2008年03月11日
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踏切の手前でアイドリングストップをした。エンジンがかからなくなった。バッテリが上がったわ。
2008年03月10日
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キリスト様はこの度は、「安息日にしてはならないことをしている」という批判を受けた。「安息日」の始まりは、天地創造の始まりにさかのぼる。おお、気が遠くなる。神様は、6日間かかって天地万物をお造りになり、7日目にすべてを完成されて、お休みになった。休まれたこの7番目の日を聖別され、この日を「聖なる日」になさった。これが「安息日」。この日には、神様が休まれたように、ボクたちもまた神様とご一緒に休むようにと、求められている。モーセの十戒の第4番目「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出20:8~11) 「いかなる仕事をしてはならない」(出20:10)という命令は厳しく重んじられた。民数記では、安息日に薪をひろいに行った人が見つかって死刑になった記録があるよ。週の中の6日間は、たとえ神様のことを忘れることもあっても一生懸命に働きなさい。しかし安息日は一切の仕事を休みなさい。農民は畑を耕す鍬を納屋にしまいなさい。工員は機械のスイッチを切りなさい。商店も、レストランも戸を閉め、ウインドーの電気を消しなさい。週に一度あるこの「安息日」のすごさは、口で言い表すことは出来ない。子どもの頃、浅草にほど近いところに住んでいたので、子供同士でよく遊びに行った。賑やかな仲見世。お正月、祖母に浅草に連れて行ってもらったことがあった。お店が軒並み閉まっていて驚いた。イスラエルの安息日は、日本の昔のお正月が毎週来るようなものなのだ。イスラエルでは今に至るまで、安息日が守られている。礼拝に行く以外は車を動かしてはいけない。交通信号も消える。主婦は台所に立ってお料理を作ってはいけない。電気器具を使ってはいけないので、電気のスイッチに触ってはいけない。旅行も、買い物にも行ってはいけない。だからその日が始まるまでに、買い物をし、食事を作り、お掃除をし、大忙しをして安息日を迎える。安息日は、金曜日の夕方から始まる。安息日を照らすろうそくに火を付け、安息日の開始の祈りをする。父さんは会堂に出かけ礼拝を守る。家族は食事の支度をして父親の帰りを待つ。父さんは礼拝が済むとまっすぐに家に帰って、家族と一緒に賛美を歌い、聖書を読み、祈りをささげ、食事をし、灯火の下で家族の団らんを楽しく過ごす。これが現代に至るまで受け継がれてきたイスラエルの安息日である。安息日を守ってきたからこそ、イスラエルの現在の国力と繁栄をもたらしたと、ユダヤ人たちは信じている。キリスト様たちは麦畑のそばを通られて、麦の穂を摘んだ。それは安息日ではいけない行為とされた。そしてキリスト様を非難した。この時代の人々は、安息日が形だけ守られ、安息日がどうして大切なのか、何のためにあるのかをすっかり忘れて、ただ規則通りに生きることだけを考えていた。そして律法を盾に人を裁いた。いつのまにか、尊い律法が自分たちを正当化するだけの規則になっていることを、キリスト様は知っておられた。ボクたちは新約の民。律法の真精神は「神様を愛すること、隣人を愛すること」と知っている。すべての律法の言葉は、この2つの教えに付いている。 クリスマスの主を愛します。 十字架の主を愛します。 復活の主を愛します! ボクたちはボクたちの安息日、「主の日」に教会に集まる。この日には、神様と離れがちだった6日間を反省し、神様に悔い改めと献身の祈りをささげる日。神様と共に休息する日、神様を信じる人々と交わり、祈り合い、慰め合う日、そして家族との絆を深める日。主に愛されるボクたちは、たとえ安息日を守れなかったからと言って、旧約聖書の時代のように死刑になることはない。「ボクたちの安息日」を守れない時には、イスラエルの人々が彼らの安息日にしているように、一人や、家庭での礼拝を持ち、イエス様がいつも一緒に歩んでくださることを感謝しながら、「安息日の主」であられるイエス様を心にお迎えしたい。<ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 (中略) イエスは言われた。(中略) 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」> マルコによる福音2章23~27 聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation (c)日本聖書協会Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
2008年03月09日
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陽射しを受けて、温かくなった。会話して、心も温かくなった。
2008年03月08日
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「こりこり」メザシだって慣れればうまい「しゃかしゃか しゃかしゃか」納豆は毎日のように食べているけれどべたべたしたのがいやになる時もある
2008年03月08日
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ボクたちの群れには神学校があり今日は卒業式でした。やさしい先生方のご薫陶を受けて2人の神学生が巣立ちました。今日までは、「学校」という保護の中で過ごしましたが明日からは、「神の働き場」に遣わされます。世は危険な場所でありサタンは働き人を狙い厳しく又やさしく誘惑してくるでしょう。失意の底に沈ませるために。キリスト様にしっかりと目を注ぎご保護に身を任せて進むならキリスト様の光を受け反射しながら戦えるでしょうか。そうだこんなボクも先輩の一人だったんだ。
2008年03月07日
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涙雨は止んで穏やかな春日となる妻が犬の散歩に出ている間布団を干したすると雲がわいた
2008年03月06日
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モーツアルトのオペラ2組の熱々の恋人同士がありましたしかし変な哲学者に入れ知恵され男性たちが変装してお互いの相手を誘惑することにつまり、荒唐無稽の筋書き「わが恋人の貞操は、微動だにせぬ」という目論見が潰(つい)える物語モーツアルト死後200年たってようやく、このオペラの真価がわかられているという?でもベートーベンが怒ったというのはきっとこのオペラのことだろう囚われの夫を救う「フィデリオ」とは違うよなぁ全2幕で、全体が約3時間大団円に終わるまでの長いことよ「いつどんなツラして3時間も見ていたの?」アホと哲学が同居しているやはりモーツアルト的なのだ夜中に近くなってビデオの字幕を走り書き「ばかなことはやめなさい」「もう人をだますのはやめた」「静かに平和に過ごそうよ」そうなんだね! ホッ!それにしても相手が口説き落とされる場面の音楽の快いことよ!
2008年03月05日
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突然雨模様になった諍いをしたからかも知れない
2008年03月04日
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当時、ユダヤには年に2回決められた断食の日がありました。キリスト様の弟子たちは断食をしていないという批評を受けました。キリスト様は答えられました「結婚式の披露宴に招かれても断食をするだろうか?」キリスト様が一緒に居られる所には祝福があふれていて、断食よりも楽しいお食事、主イエス様のお名前によって祝福し合うのです。この断食問答に一つのたとえが付いています。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」「新しいぶどう酒」とは、ボクたちとボクたちの生活を新しくする力をお持ちになるキリスト様ご自身を指すというのが一番ふさわしいでしょう。「新しい革袋」とは、主をお迎えするボクたちの生活態度です。新しい命を与えられて生きるようになっても、ボクたちが壊れやすい「土の器」であることは変わりありません。それを忘れたら、大きな落とし穴に陥るでしょう。だから、このすばらしい福音の恵みを守り、それを大きく育てるために、キリスト様に依り頼み、新しい習慣を身につけるのです。「新しい革袋」とは、キリスト様を信じたボクたちが、主を愛し、教会生活を忠実に励む人々と一緒に生きる生活を指していると思います。共に祈り合い、信仰によって励み合うなら、道に迷っても少しで引き返すことが容易ですね。どうかこの人々と一緒に、最後まで主の道を謙虚に進み続けようと言う願いを持ちましょう。 「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」 マルコによる福音書2章18~22節 聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation (c)日本聖書協会Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
2008年03月03日
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ボクたち一人一人が神様の手作りで生まれていると書いてある。だからボクたちが輝いて生きること、それがボクたちをお造りになった神様を輝かせること。「あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。」 詩編139:13
2008年03月01日
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