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ボクたちの群が分かれた悲しみの時代があった。今朝はその人たちと出合う夢を見ていた。夏の聖会をする時、同じ時、同じ場所にぶつかった。皆さんと鉢合わせ。「どうせなら、一緒にやりましょう」懐かしい顔、顔、顔目覚めてから寝付けなくなった。無性に天国の主に会いたくなり、思わず枕が濡れた。イアホンを付けて日曜日の礼拝の録音を聞いていたら、いつの間にか寝ていた。
2008年09月30日
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聖書の初めの書は「創世記」で、天地の創造から、族長ヨセフまでが書かれています。前史から族長たちの死についての記述を追ってみました。はじめはエノクです。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」創世記5:24生と死の境界がわからぬほど、エノクは神様と親しんでいたようです。ノアです。 「ノアは、洪水の後三百五十年生きた。ノアは九百五十歳になって、死んだ。」9:28-29気が遠くなるほどの生涯でした。生きるの飽き飽きしなかったのでしょうか?アブラハムの妻サラ「サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ。」23:2-3悲しみは束の間、すぐに新しい生活へと招かれるアブラハムでした。アブラハム 「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」25:8イスラエルの理想の生、そして理想の死。その子イサクも同様です。苦難の人ヤコブ 「ヤコブは、息子たちに命じ終えると、寝床の上に足をそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた。」49:33従容とした死。かっこいいです。こんな風に死にたいと思います。「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。」詩編116:15 聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation (c)日本聖書協会Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
2008年09月29日
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NHK朝ドラ『瞳』最終回を見ました。始まった当初は、「つまらない、不作」という烙印を。それでも習慣的に見ているうちにこのドラマの良さが見えてきた。静かな日常の一コマで終わる最終回も作者の意図が良く伝わってきた。夢と現実を調和させてひたむきに生きるヒロインの誠実さに共感。ありがとう。ご苦労様!
2008年09月27日
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「人が私に執着するのは、たとい喜んで心からしたにしても、不当なことである。私は、そういう願いを起こした人々を、裏切ることになるであろう。なぜなら、私は何びとの目的でもなく、彼らを満足させる何ものをも持たないからである。私はやがて死ぬべきものではないか。そうしたら、彼らの執着の対象も死んでしまうのだ。だから、虚像を信じさせるということは(中略)、罪であるように、自分を愛させるのは罪である。(中略)彼らにも私に執着してはならないと、忠告すべきである。彼らは神を喜ばすため、または神を求めるために、その生涯と考慮を費やすべきものだからである。」 (パスカル『パンセ』471・中公文庫版)主よ、人がわれに執着することに喜びを感じている自分に恥じさせてください。そんな時、わたしは魂をあなたの元に導く牧者ではなくいやしむべきファイサイ人です。
2008年09月26日
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父祖ヤコブは兄の手から逃避する旅路で荒れ野で野宿をしたとき、そこで夢を見ます。天からそこまで階段が伸びて天使が行き来している夢です。その場所で、教徒たちに愛誦されている聖句の一つがヤコブの口から出ます。ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」創世記28:16いつでも神様の所へ行けるし、いつでも神様が来て下さる。人間存在の孤独は、こうして解放されるのです。去年なくなった信徒さんは死の宣告を乗り越えておられました。神様が人間に与える「耐え忍ぶ力」は奇跡に近いもの。崩れていく肉体の中で精神は輝きを増す。苦悶にあふれている肉体を遠くから眺めているだけではわかりません。近づいて、耳を傾ければ聞くことが出来る言葉がありました。「ありがとう」ボクたちがそこで知ったこと。人は最後までつながりを絶やさず、愛する者を求め続ける。愛は最後まであふれ続けること。もう一つの確かなこと。自分にもまた、そのように生きる喜びが準備されていること。
2008年09月24日
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音楽は空気のように手で触れられません。ボクたちの人生は音楽に似て、束の間の生です。ボクたちの時間は音楽のように流れていく。喜びの時間(とき)も悲しみの時間(とき)も川のように流れます。ボクたちが作ったものはそこに残ってもボクたちはもう残ってはいないのです。思い出の中には、もうボクたちはそこにいません。幻影があるだけです。ボクたちの生は、音楽のように鳴り響きそして、音楽のように消え去ります。けれども、キミとボクがいれば、二重奏の楽しみ。もう一人呼んで三重奏。合わせるのは苦労だけど、練習も要るけれども、束の間の生をこうして楽しむ。
2008年09月23日
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雨模様の午後はネットサーフィン。クラシック音楽の作品論や、作曲家の生涯などを読みあさりました。色々読みながら感じたことは、人は皆、孤独な存在だと。「孤独」を作品に昇華できた人々これらの真実の芸術家が、後の時代に生きる私たちの心を慰めます。孤独を打ち消すように打ち込んだ芸術家の心が、現代人の孤独に、作品を媒介に共振します。さて、キリスト教徒も同じように、孤独から免れえない存在です。経験上、「神様を信じている、愛している」という気持ちだけでは、「存在の孤独」から抜け出すことはむずかしいと感じます。だから、お祈りをしたり、聖書を読んだりすることが必要でそうして神様と関わりを持つとき、孤独は癒されるでしょう。同信の友と祈り合ったり、聖書を読み合ったり交流を持つことも癒しの時となります。しかし教会の交わりは注意しないと、時として破れ孤独感が増幅されることもあります。教会の交わりは、互いに1歩ずつ退き合い、互いへの配慮がなければ、危険なものとなります。ネットサーフィンしながら、そんなふうに思い巡らしていたら、空が晴れてきていました。
2008年09月22日
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キミ自身が(そしてボク自身も)「オンリーワン」なんだぜ「オンリーワン」にならなくてももうちゃんと「オンリーワン」なんだあのかたがボクたちの造者だ!「オンリーワン」なんて理屈ではわかっているけれどどうしてつい人と比較しようとするのかな目が変だ変な色眼鏡が目にくっついている「塗り込められている」ものがある気がする剥がさなくてはお~い へらをとってくれ!
2008年09月20日
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天の父なる神様今日も一人のキリスト者がこの世につかわされようとしています。そこが職場であれ、学校であれ、家庭であれ、集いであれ、どうぞ、主に愛され、ゆるされ、自由にされた者らしく、水を得た魚のようにうごめくことができますように。一人一人の上に、昔の「聖画」のような「天使の輪」が輝いてありますように。主の御名によって祈ります!
2008年09月19日
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今すぐに死にたいと思ってもちょっと待ってたしかに死はすぐそこにあるあと一歩先にあるけれど安心して自然にそこに導かれるから、安心して当たり前にその時が来るからもう少し待ってみて!森に行って木に触れてごらん?それからでも死ねる海に行き足をぬらしてごらん?次に川に行き水をすくってごらん?山の端を目で追ってごらん?それから犬の所へ行きそっと手を出してごらん?虫の声を聞いてごらん?友だちをさがしてごらん?電話をしてメールをして他愛ない話をしてみて?それがボクたちの人生なんだそんな人生をもう少しもう少し続けてみたら?
2008年09月17日
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昔の傘おちょこになっても元に戻る最近の安い傘おちょこになってはいそれまでよ
2008年09月16日
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年に一度は夕礼拝に応援に来て下さる牧師さん昨日来てお話下さった。「もう30年にもなりますよ」いつの間にか2人で来るようになった。結婚なさったのだ。周囲がうらやむ夫婦になった。彼は開拓伝道ひとすじで、人が来たり来なかったりせっかく受洗にこぎ着けたかたがあっても他に転出されたり彼の教会にある日曜日から一人の女性が礼拝に来るようになり2人だけの礼拝がずっと続いた。2人とも独身だったので、知り合いの近所の牧師が結婚を勧めたのだ。狭い部屋で、若い男女が2人で礼拝を守りつづけてもいわゆる男女の関係にはならなかった。清らかな牧師と清らかな信徒さん。もう結婚して数年が過ぎるが彼らは今でも清らかな雰囲気を醸し出す。これをおしどり夫婦と言うのだろう!
2008年09月15日
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少年の頃はひ弱な体だった。窓から冷気が入ってくるもう少し秋が深まる頃、あわてて窓を閉めた。冷たい風が肌を撫でるとさぁっと気管支が詰まってくるのがわかる。ぜんそくの発作は、そのように始まった。呼吸の苦しさに寝ていられず、夜中でも、ふすまに寄りかかって、発作が通り過ぎるのを待つ。大体1時間を過ごすと判で押したように呼吸が楽になってくる。やがて背中のある部分を指圧すると、呼吸が楽になることを覚え、母に押してもらった。「この発作さえ無ければ、ぼくはもうそれだけで幸せだ」発作の最中は決まってこんなことを考えた。結婚後数年たって、発作は遠のいた。そこから完全に解放された今でも、苦しかったこの季節に思い出す。「発作さえ無ければ、それだけで幸せだ」と考えた少年の頃。
2008年09月13日
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今日は「ウェスレー学習会」がありました。「あらゆることの中で最もすばらしいことは、 神が私たちと共におられることです。」上記は臨終に際してのウェスレーの言葉です。ボクたちの先輩、尊敬する本間先生が、会のスーパーバイザーのような存在で、月に一度、いつも適切な指導を受けてきました。楽しいのです。始めてから、もう5年になります。ウェスレーの53の「標準説教」に取り組み、小冊子『キリスト者の完全』を学び、次には、膨大な「日記」に取り組もうとしています。翻訳ものですが一応「原典」にあたる喜びは尽きるものがありません。メソジストの端くれに生きる実感があります。
2008年09月11日
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「十字架」~イエスは中国におられる~DVD全4巻ある所で鑑賞し、ボクのお仕えする教会の信徒さんにも見せたいと願い、ネットで注文した所、すぐに送ってきました。水曜祈り会のあと、特別編「カナン賛歌」を、何人かのかたと鑑賞しました。「カナン賛歌」とは、貧しさの上、病苦のため中学校を中退せざるを得なかった少女が作詞作曲した賛美歌を総称して呼びます。楽譜も読めず、詩才もない少女が、神様の霊が乗り移ったように、賛美歌を作り始めました。すでに900曲以上も作られて、政府未公認の「家の教会」も、公認の「三自教会」も、区別なく信徒さんたちが熱心に歌っているとのこと。どれも中国の民謡調の旋律で、歌詞も格調の高さよりも、心の琴線に触れるようなものが多いと思いました。中国のキリスト教の苦難の歴史の上に咲いた小さな花。神様が咲かせた花は、何と自然な、そして可憐なものでしょう。
2008年09月10日
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馬喰町の地下駅から上がると 青空の下だった。 神田川にかかる 浅草橋を渡る。 行き交う人々を眺め 女性たちのファッションが ひときわ輝く季節が来たと思った。
2008年09月09日
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今日は家族を一人連れて御殿場にある「駒門風穴」に行きました。富士山の周囲には、「風穴」が幾つかあります。面白いことに、静岡県側にあるものを「かざあな」と読み、山梨県側にあるものを「ふうけつ」と呼ぶようです。「風穴」は、富士山の噴火によって作られた洞窟です。駒門駐屯地近くにあるこの風穴は、山梨県側のように観光地化されていないのが特徴でしょうか。それでも広大な穴に近づくと、冷気が上がっているのがわかります。鍾乳洞ではないので、鍾乳石のような「奇岩」は無いのですが、足元に溶岩流のあとがくっきりと出ています。辺りの森では、「みんみん蝉」や「ツクツク法師」が鳴いていました。そう、箱根に登れば、今頃、「ヒグラシ」が鳴いているでしょう。
2008年09月08日
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蝉の声はいつまで聞けるのだろう
2008年09月07日
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「批判する心」は抑えるより捨て去ることの方がラクチンだと思う
2008年09月06日
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山道で道を尋ねたら、「この先、左へ曲がった所の山肌から水が出ていて、 うまいよ」確かに水場があったので、ボクたちはペットボトルや手のひらで水を飲んだ。特別おいしくも冷たくもなかった。一通り水を飲み終わると、別の地元の人が通りかかった。「あぅ、この上に墓地があってね、 この水は飲めないよ。 大腸菌が一杯なんだよ」その夜、下痢をした人はいなかった小さな幸い。
2008年09月04日
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会い別れまた会いまた別れ 会い別れまた会いまた別れ また会いまた別れまたまた会いまたまた別れまた会う
2008年09月02日
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