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昨日のBar・Old Bridgeの話で、書き忘れたことがあったので、続きです。 ラスト・ウイークに来てくれた御礼でしょうか、帰り際、M店長が自家製のCDをお土産にくれました。お店でよくかけていたMさんお気に入りのブルースの名曲12曲を集めたコンピレーションCDです。 マディー・ウォーターズ、B・Bキング、ロバート・ジョンソン、Tボーン・ウォーカーなど素晴らしいブルースが詰まっています。嬉しいですね。ほんと大感激です。 中を見たら、CDとともに新しく5月末にオープンするお店の割引チケットも入っていました。こういう心遣いもニクいですね。オープンの日が待ち遠しいです。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/03/27
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今月いっぱいで閉店することになった大阪・鶴橋のお気に入りBar、オールド・ブリッジ(Old Bridge)の「ラスト・ウイーク」にお邪魔してきました。 31日(土)までは、なんとバック・バーのボトルはすべて、3000円で飲み放題!という太っ腹なサービスも展開中です!(こんな採算度外視のサービスをするのは、大阪のBarぐらいでしょうねぇ…)。 早速 本日友人と2人で美味しいモルトをたくさん堪能してまいりました(何と計10種類も!)。店長のMさんほんとに、ほんとに有難う! 5年間ご苦労様でした!(飲んだボトルはまた改めて紹介いたしまーす)。 Mさんは5月末に、鶴橋からすぐ近くの上本町6丁目、通称「上六(うえろく=大阪ローカルな地名ですみません!)」という場所で独立し、新たなBarをスタートさせます。どんな素敵な店になるのか、今から楽しみです。オープンしたら、またお邪魔しますので、Mさん、よろしくお願いしまーす!
2012/03/26
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ある懇意なバーのマスターが、「業界の仕事とか、あるいは個人的な旅行とかで、**(地名)へ行く」という内容を、事前にだけでなく、場合によっては事後にもWEB上では書きにくいと話しておられた。 とくに、「バー(経営者)の知り合いが多くいる都市へ行く場合が困るんです」と言う。限られた時間(日帰りか1泊しかできない場合が多い)の中では、すべての知り合いのバーには顔を出せない。 Aさんの店へ顔を出して、BさんやCさんの店にはお邪魔できないことも多いので、どこそこのバーへお邪魔した(あるいはお邪魔する)とも書きにくいと言う。義理を欠いたと言われるのも、本意ではない。過去には、「**に来たんだったら、なんでウチの店に寄ってくれなかったの!」と嫌味を言われたこともあったという。 マスターのそんな悩みは、私にはとてもよく分かる。以前、このブログに「東京へ出張して**というバーにお邪魔した」という話を書いたら、その近くにあるバー(ここにはその時は寄らなかった)のマスターから、後で「なんで顔見せてくれなかったのー」と言われたことがある。 東京には個人的に知っているバーが数多くあり、懇意のマスターも多いが、時間や財布を考えると一晩で回れるのは多くても3~4軒。また、東京は23区内と言ってもとても広いので、移動時間も考えると一晩で回れる店は限られてくる。 例えば、銀座周辺から新宿、池袋辺りへ移動しようと思えば、30~45分はかかかってしまう。大阪なら神戸へ京都へも行ける時間だ。ほぼ1カ所にバーが固まっている地方都市より、東京のバー巡りはとても難しい。 私はそれゆえ、最近はいろんな都市へ出張した際バー巡りをしても、ブログ等ではなかなか訪問直後には書きにくいし、すぐには書かない。忘れた頃にさりげなく書くか、初めてお邪魔した店に限って、いつ訪問したとは触れずに紹介することが多い。残念だけれど、それも仕方ないかなと思っている。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/03/25
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メリル・ストリープが主演し、米アカデミー主演女優賞を獲ったことでも話題となっている映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」を観てきました。 メリル・ストリープは、40代から80代まで(それまでの若い時代は別の女優さんが担当)、サッチャーの話し方や仕草、着こなしだけでなく、認知症になりかけた晩年の姿もみごとに演じ切っていて、改めて凄い女優だと感心しました。とくに、米国人であるストリープ本人が「必死で訓練した」と言う「ブリティッシュ・イングリッシュ」は、日本人の僕にも完璧だと思いました。 サッチャーは食料品店の娘として生まれ、苦学してオックスフォード大学に進学。20代で早くも政治を志し、大学卒業の4年後の1950年、下院議員選に立候補するも、落選の挫折を味わいます。翌年結婚した夫のデニスは、「家で皿を洗うだけの主婦で終わりたくない」という妻の夢を、献身的に支えます。 そして、1959年に下院議員に当選。その後その巧みな弁舌で保守党内で頭角を現し、とうとう党首にまで登りつめ、それまで男社会だった英政界で女性の地位を大きく切り開きます。1979年、総選挙で保守党が大勝したため、サッチャーは英国政治史上初の女性首相に就任します(写真は映画の1シーン=(C)20世紀フォックス/ギャガ)。 首相として彼女は、社会保障や経済政策で「自助努力・自己責任」という考え方を押し進め、財政破たん寸前だった英国経済を復活に導きました。1982年のフォークランド紛争では、アルゼンチン相手に一切の妥協を排して、軍事的強行手段を貫き、勝利をおさめました。 さまざまな問題に直面しても、あくまで自分が正しいと信じる道を貫いたという意味では、とても頑固な「信念の人」で、立派だとは思いましたが、サッチャー政権の経済政策の結果、国内では失業者が増大し、富裕層優遇の医療制度改革で社会保障から切り捨てられた一般庶民から反感を買い、英国では必ずしも彼女を評価する人ばかりではないようです。 また、この映画でも描かれていたように、サッチャーは他の閣僚や側近など他人の意見にあまり耳を貸さない一面もあったようです(この辺りや伝記や側近らの証言に基づいているでしょうからおそらく事実でしょう)。晩年、彼女が閣内で孤立し、辞任に追い込まれたのは、自業自得という面もあったのかもしれません。 いずれにしても、11年半も首相の座を守ったサッチャーが、稀有な力量を持った政治家であったことは疑いありません。ただし、母や妻としてはサッチャー本人も認めるように、決して完璧ではなく、悔い(とくに夫デニスへの愛について)が数多く残った人生だったようです。86歳の今も健在だけれども認知症が進み、この映画のこともおそらくは理解できない彼女のことを思うと、少し切ない気持になりました。PS.【評価】★4つ半(5つで満点) とてもよく出来た映画だと思いましたが、大学で化学を専攻し、卒業後、化学会社に就職し研究者の道を歩んでいたサッチャーが、なぜ畑違いの政治の世界を志すようになったのか、その辺りがほとんど描かれていません。それが唯一の不満として残りました。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/03/24
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私がよくお世話になっている大阪キタのBar・KのスタッフT君が、先般、ロンドンのカクテルBAR「Montgomery Place」で約2年の修業(労働ビザをもらっての正式の勤務です)を終えて、帰ってまいりました。 彼が持ち帰ってきた、そのBARの興味深いメニューのコピーを以前もらいました。約70種類のカクテルが載っていますが、その約7割はクラシック&スタンダード、残り約3割がお店のオリジナルです。2010年代のロンドンでどういうカクテルが飲まれているのか、T君の話を聞くととても刺激的です。面白いことに、ロンドンでは今なぜか、1900~1940年代に誕生したクラシック・カクテルが再評価され、人気なのだそうです。 メニューに登場しているカクテルには、それぞれ簡単な英文(当たり前か!)の説明が付いていますが、それがまた興味深いので、うらんかんろは自分で翻訳した日本語版の「Montogomery Place」のメニューもつくりました(機会があればそのうちに日記でもご紹介します)。 そういう訳で最近は、復帰したBARへ行くたびに、ひと回り大きく成長したT君に、「Montogomery Place」直伝のクラシック・カクテルをよくつくってもらっています。なかには、日本では手に入りにくい材料もありますが、T君は一番味わいが近い代替品を使うなど工夫してくれています。 それではロンドンで、今いちばん旬(しゅん)なクラシック・カクテルを、上下2回に分けて計20種類をご紹介したいと思います(写真は、(上段左から下段右へ) Martinez Cocktail、Pisco Sour、Pegu Club、Aviation、Presidente、Bebbo Cocktail、El Diablo、Sazerac、Mary Pickford、Dark & Stormy)。 以上、すべてBar・Kで【Bar K】大阪市北区曽根崎新地1-3-3 好陽ビルB1F 電話06-6343-1167 午後6時~午前2時 日休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/03/23
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先日お邪魔したとあるBarで、「カクテルコンクールの**大会、観に行かれなかったんですか?」とマスターから聞かれました。3月初めに開催されたことは知っていました。 うらんかんろは、6、7年くらい前までは業界のコンクールを毎年のように観に行っていました。しかしここ5年ほどは、まったく顔を出していません。理由はいくつかあります。まず、懇意なマスターが相次いでコンクールの現役選手から引退して出場しなくなり、応援する選手がほとんどいなくなったこと。 次に、ステージ上で延々と繰り返される同じようなカクテルづくりのパフォーマンスを観るのが、だんだん退屈になってきたこと。創作部門のオリジナル・カクテルならまだしも、マティーニなどの課題部門はほとんど同じ所作の繰り返しですから、素人が見るにはすごい忍耐力が必要で、つらいものがあります(30~40人見続けることもありました)。 そして、業界団体主催なので、当然さまざまなBarのマスターが会場に来ていますが、なかには顔は知っているマスターでも、最近は疎遠になっている方もいます(疎遠の理由はいろいろあります)。なかには"絶縁"している店のマスターもいます。そういう方と顔を合わせたくない気持ちもあります。 最後の理由は、そもそもカクテル・コンクール、とくに地区大会や全国大会に出場する高いレベルの選手(バーテンダー)に、順位付けすることにどれほど意味があるのか、と疑問を感じ始めたことです(バーテンダーに求められる資質は、当たり前ですが、技術だけではありません)。 今はだいぶ改善されましたが、昔は、年配(70歳以上)の審査員で疑問の多い審査をする人も少なくありませんでした。味覚審査でも、なんでこれが旨いの?(後のパーティーで観戦者も実際に飲めます)というような、だだ甘いカクテルが上位になったり、疑問だらけでした。 そういうオリジナル・カクテルはコンクールでは評価されても、結局10年後、20年後には忘れ去られてしまうものが多いのです。約100年近く前に生まれた名カクテル、例えばサイド・カーなどが今日でも、世界中で愛されている事実を改めてよく考えてほしいと思います。 そんなこんなで、コンクールの会場にはお邪魔しなくなりました。うらんかんろはコンクール会場よりも、やはりBarの空間の方が大好きです。 こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/03/16
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明後日3月11日は、あの東日本大震災から1年です。被災地の復興は遅々として進まず、いまだ避難されている方も多い現実を前にして、改めて「政治家よ、国会よもっとしっかりしろー!」と大声で言いたいです。 さて、東北の現地まで支援に行くのは叶わないうらんかんろですが、せめてもの復興支援にとその後も引き続き、日本酒を頼む時は、「東北のお酒置いてますか?」と尋ねて、できるだけ岩手、宮城、福島、それに風評被害で苦しんでいるその周辺地域の酒を飲んでいます。 最近呑んだ被災地&周辺の酒のなかから、素晴らしい逸品8本を以下に紹介したいと思います。福島が6本、残り3本は岩手、山形、秋田です。メーカーなど詳しいデータはお手数ですが、グーグルかヤフーでお調べください。すみません。 被災3県の一日も早い復興と、被災・避難した皆さんが一日も早く故郷へ帰れることを、心から祈っています。 以上、すべてBarCluricaun(クルラホン)で【Bar Cluricaun】大阪市北区曽根崎新地2-2-5 第3シンコービル4F 電話06-6344-8879 午後7時~午前3時 日休(連休の場合は最終日のみ休)【ご参考】過去に復興支援のため飲んだ東北の酒は、こちらで紹介。こちらにも、まだこちらにも。ここがはじまり。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/03/09
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最近とても気に入っているBarがあります。昨年7月にオープンしてまだ1年も経っていません。カウンターだけ8席ほどの小さな店です。 1人で営んでおられるマスターは53歳。業界歴は30年近いのですが、「独立して店を持つ」という意味では遅咲きです。独立されるまではBarチェーンの店長が長かったとのことです。うらんかんろは昨年末から何度かお邪魔しています。 なぜ気に入ったのか、理由は4つ。(1)マスターのとても素朴で、謙虚で、誠実な人柄、(2)リーズナブルなお値段(一杯の値段が元々とても良心的なのに、加えて今どき珍しいノー・チャージです)、(3)とても丁寧な仕事(安いお値段でも氷一つにも手抜きしません)、(4)そして店の落ち着いた雰囲気--です。 ハイボール一つでもとても丁寧につくってくれます。ウイスキーはきちんと冷凍庫に入れたのを使って、グラスは薄張りガラス、氷の削り方やソーダの銘柄にもきちんとこだわっています(こういう店で飲むと、バカ高い法外なチャージやサービス料をとるバーで飲むのがアホらしくなります)。 奇遇だったというか、とても驚いたのは、マスターは昔神戸で仕事をされていて、その時、あの伝説のバー「コウベハイボール」にも何度か訪れていて、その雰囲気や白札のハイボールをとても気に入っていたということ(今はこの店で再現したものが飲めます)。 当時、今はなき「ルル」など三宮や元町の老舗バーを巡った思い出話をあれこれしてくれました(「ルル」Nマスターの伝説の「氷切り」も実際に見たそうです)。その後、昔の神戸のバーがたくさん紹介されている、切り絵作家・成田一徹氏の本を見て、さらに古き良き時代のバーに思いが募ったと言います。 マスターは今、自分のバーであの白札ハイボールだけではなく、「コウベハイボール」で定番のお通しだったあのカレー風味のピクルスを再現しようと必死で努力しています。何度も試行錯誤を繰り返し、その都度、「コウベハイボール」に数えきれないくらい通った僕に試食させてくれて、「こんな感じだったでしょうか?」と確認を求めてきました。 僕も100%自信はありませんが、記憶の範囲でアドバイスはしました。完成が楽しみです。店の名前は今はまだ出しません。そのうち紹介するつもりですが、こういう誠実な仕事をしてくれる店は、個人的にもずっと応援していきたいと思っています。今は無名でも、きっとファンが1人、また1人と増えていくでしょう。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/03/09
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元ビートルズのジョージ・ハリスン(2001年11月29日に58歳で死去)の生涯を、家族や生前親交のあった友人(主にミュージシャン)の証言で紹介したドキュメンタリー映画「リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」を友人から借りたDVDで観た。 この映画は、あのマーチン・スコセッシが監督したということでも話題となり、映画館でも(短い期間でしたが)公開されたので観に行った友人もいたが、上映時間が3時間28分という長尺もので、かつほとんどがインタビューで構成された作品とあって、その友人は「途中で睡魔におそわれ、寝てしまった」という(笑)。 ビートルズのメンバーでは、クールなジョージが一番好きだった。しかし、「最後まで観るのに根気と覚悟が必要」と聞いていたので、結局映画館へは足を運ばず、DVD観賞となった次第。見終わっての僕の感想は以下の通り。 インドの宗教的なものにのめり込んだことや、妻のパティを親友のエリック・クラプトンに譲った有名なエピソード、バングラデシュ救援コンサート実現の舞台裏、それに晩年のがん闘病の様子などさまざまな出来事を、最後の妻オリビア、息子のダニー(若き日のジョージに顔そっくり!)をはじめ、クラプトン、ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、オノ・ヨーコ、ジョージ・マーチン、パティらたくさんの関係者が語っていく。 この映画での僕の最大の関心は、ジョージがビートルズの中でどういう存在だったのか、そして、なぜ解散後ポールやジョンらとの不和が続いたのかという疑問への答えが聞けるのかということだった(ようやく和解して再び一緒に曲をつくったのは1990年代に入ってからだった=「Free As A Bird」「Real Love」の2曲だけだったが)。 見終わって、生前のジョージのインタビューや没後の友人らの話から、そうした疑問への回答はなんとなく見えてきた。ジョンとポールから誘われ、ビートルズのメンバーとなったジョージは、4人のなかでは一番年下だった。結成時からビートルズのオリジナル楽曲は、主にジョンとポールがつくっていたこともあって、解散するまでの間、バンドの演奏やレコード制作の主導権はずっとジョンとポールがとっていた。 途中から自分でも曲づくりを始めたジョージは、内心、自分の曲ももっとアルバムに入れてほしいと思っていた。だが、たくさん作曲しても結局、いつも1、2曲しか採用されなかった。アルバム録音での演奏でも、ポールはギターソロのリフまでジョージにこまかく注文したという(映画「レット・イット・ビー」でも有名な口論する場面があったが、まさにそうだったと彼は生前語っていた)。 「作曲した人間に従うのが一番丸くおさまる」と考えたジョージは、結局ビートルズでいる間は、(自分が作曲した曲以外は)年上のジョンやポールの言うとおりに演奏した。しかし、内心ではそれがずっとストレスであり、自分の曲が冷遇されることもあって、ずっともやもやを抱えていたのだという。 解散と同時に、ジョージは自ら抑えていた感情を爆発させるかのように、次々とソロ・アルバムを発表した。ソロになってからもジョージは素敵な曲を何曲も発表した(ビジネス的には、ポールのソロ・アルバムほど成功はおさめなかったが…)。 1991年、ジョージはクラプトンのバンドと一緒に来日。そして生前最後になったコンサート・ツアーをした(なんと12公演も!)。ジョージがなぜ久々のコンサートの舞台に日本を選んだのかは、今も謎だ。僕の脳裏には、大阪城ホールでギターを弾き、歌うジョージの姿が今もしっかりと焼き付いている。コンサート自体も、僕がこれまでの人生で観た中でベスト5に入るような素晴らしいものだった。 ジョージはその後、97年にがんが発病した。闘病中も、死を予期しながらも、ジョージは最後まで曲づくりに励んだ。晩年はポールやリンゴとも時々会っていたようだ。亡くなる2週間前、ポールと一緒にスイスの病院に見舞いに訪れたリンゴが、涙で語る「最後の別れ」の様子が切ない。ポールもリンゴもいろいろあったが、2人とも最後まで年下のジョージがとても好きだった。 60代のジョージがどういう音楽をやりたかったのか、もう少し観て、聴いてみたかった。没後10年余が過ぎるが、僕の喪失感はなお大きい。(※画像はTower Record HPから引用・転載しました。感謝いたします)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/03/07
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