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コミュニケーションは難しい。とくに、自分はそういうつもりではなかったのに、相手は違う風に受けとめてしまった、という時は。本書は分類するとすればおそらくビジネスマナー関連だろうが、子育てや教育にも応用が利く。人間関係はその時々なので、この本にあることを丸暗記すればすべてうまくいく、というものではない。それはAI的発想である。一番の感想は、思いやりと保身は紙一重ということ。人間漢検を良好に保つうえで言葉遣いが大切なことは分かるが、それにしてもここまで気を遣わなければならないものか、とも思う。おそらくこれは、日本がいまだに近代化されたムラ社会であることと、無関係ではないだろう。それでも、確かに次のことは真理だと思う。「他人は、自分とは違う人間である」保身にしろ思いやりにしろ、他人と接するときは、それだけは肝に銘じておいた方がよさそうだ。よけいなひと言を好かれるセリフに変える言いかえ図鑑 [ 大野萌子 ]
2022.02.15
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先に紹介した本と違って、本書は難しい漢字にふり仮名がふってある。やはり中高生を意識したものだろうか。頁を見開くと右側に名言の当事者の似顔絵付きの漫画があり、左側にはそれとは違う人の生き方が、コラム形式で書かれてある。更に左側下部の方には、関連する別の人の名言が2、3掲載されてあり、結構な数になる。イチローやビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブス、レディー・ガガなど、存命の人の名言が多いのも特徴だ。勿論ある程度有名でなければならないが、名言とは誰が言ったかではない、何を言ったかである、とあらためて思った。いくつかのエピソードを紹介しよう。ある記者が、伝説的なテニスの選手、ロジャー・フェデラーに尋ねた。「日本では、どうして世界的に通用するテニス選手が出てこないのでしょう?」ロジャーはこう返した。「国枝慎吾がいるじゃないか」日本人はパラスポーツをいまだスポーツだと認めていなかったのだ。今でも実はそうなのではないか。デービッド・リビングストン。探検家として有名だが、シュバイツアーのように医学を学び、宣教師となってアフリカの奥地で奉仕活動に務め、奴隷商人の手から黒人たちを守った。晩年は骸骨のようにやせ細っていたという…マザーテレサがノーベル平和賞を受賞した後、乞食のような身なりをした老人が、わずかなお金をもってきた。「これは、寺院の前に座って、人からもらったお金です」。彼は不幸な人間だろうか? それとも幸せな人間だろうか?マンガでわかる!10代に伝えたい名言集 [ 定政敬子 ]【新品】輝くアスリートの感動物語 東京オリンピック・パラリンピック2020 5 自分らしさをつらぬく 道下美里、鈴木孝幸、梶原大暉、国枝慎吾、杉浦佳子ほか 大野益弘/監修
2022.02.08
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あまり聞かない出版社である。表紙は炭治郎の市松模様で、いかにも本体の人気にあやかりました、という感じだ。手元にある本は、古本屋で買ったものだが、18刷とある。悪くない売れ行きだ。鬼滅の刃ファンの人ならば、「名言」のネームが出る場面を思い浮かべ、ソフトな語り口のコラムを読みながらうんうんと頷くかもしれない。不具はもともと、学校の図書館に寄付するために手に入れた。中には「名場面」と結びつけなければ名言の体をなさないものもあったが、大部分はそれだけで鑑賞に値するものだったと思う。悩み多き人生を送っている人ほど、救われるかもしれない。個人的には、解説の文になるが、「間違った選択をして失敗しても、行動に移す時間が早ければ早いほど、リカバリーする時間も生まれる」という一文がこころにしみた。間違った行動や結果を恐れるあまり、いつまでも行動に移せないでいたからだと思う。名言集の効用はかくの如きものだ。読んで、励まされ、自らの意思で、何らかの形で行動に移す。考え方を変える。それをしないなら、手に取って見る価値はない。「鬼滅の刃」の折れない心をつくる言葉 [ 藤寺郁光 ]「鬼滅の刃」の折れない心をつくる言葉【電子書籍】[ 藤寺郁光 ]【中古】【最大10倍!2/18限定】「鬼滅の刃」の折れない心をつくる言葉 / 藤寺郁光
2022.02.07
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書店で立ち読み。値段の割に大活字なので、個人的には立ち読みか図書館での利用をお勧めしたい。内容的には「文学論」というより、『星の王子さま』というテキストを寓話に見立て、そこから「生きる指針」「生きる意味」を見出そうとするものだから、まあ、このカテゴリーでよかろうと判断した。「愛」「責任」「初恋」「友情」「孤独」「道徳」。著者がこの本で扱っている事柄は多岐にわたる。一種の哲学書ではあるが、敷居はそんなに高くない。近代から20世紀にかけての哲学書の方が余程難解だ。興味深かったのは、王子さまとバラの破局を「初恋」ゆえの悲劇と捉えたくだりや、キツネが王子さまに「愛情」を求めたこと、しかしそれが叶わなかったので「友情」で我慢したというくだり、「バラ」は王子さまを失って悲嘆にくれて死んだとは限らないという解釈、星巡りで出会った男たちの本質的な孤独、などである。キツネの愛情の話などは一瞬違和感を感じたのだが、それは無意識に「彼」と思っているからだ。実際のところ、キツネはキツネであって、人間の男性ではないのである。同じことはバラにも言える。王子さまとのやりとりからして、バラは女性だろう。しかし、それに「待つ女」「ヒステリックな女」のステレオタイプをそのまま当てはめていいものか。もっと別の解釈はないのか。人によっては、この本を読んで、古きよき「星の王子さま」像を壊されて憤慨するかもしれない。けれども、それは筋違いだ。「責任」の話などは昔から指摘されてきたことだし、何より名作は懐が深い。時代によって解釈が違い、受けとめ方が違っても、それを受け入れる度量の深さをもっている。『星の王子さま』ファンと現代の悩める子羊たちに、是非ご一読していただきたいと思う。【新品】星の王子さまの気づき 周保松/著 西村英希/訳 渡部恒介/訳星の王子さまの気づき【電子書籍】[ 周 保松 ]
2021.07.04
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ブータンは国民の「生産」ではなく、国民の「幸福」の量を測ることで有名な小国だ。小国。そう、首都の人口が10万人余り、あとは、決して広くない国土のあちこちに、人口が散らばっている。強大な中国と隣接しているが故のスローガンでもあろうが、そのことはとりあえず置いておく。都会っ子ウゲンはおばあちゃんと二人暮らし。教職課程を経て大学を卒業し、将来はオーストラリアで歌手になるつもりでいる。韓国に兵役があるように、ブータンには教職の義務があるらしい。それも5年。公務員になるつもりのないウゲンは、そのうちの4年を怠惰に過ごしてきた。ほとほと手を焼いた教育委員会が最後に彼に行くように命じたのが、国の中でも最も、おそらくは世界で最も辺境の地にある小学校だった。この手の映画のストーリーはだいたい決まっている。つまり、はじめはやる気のなかった主人公が、現地の人と触れ合ううちにだんだん行動が変容していく、という黄金パターンだ。だから筋書きを知るだけならば、この後ほとんど映像を見る必要はない。だが、映画とは本来映像で語り掛けるものだ。そしてその映像が素晴らしいのである。ここに見せられないのが残念だが、首都で10万だった人口がカザで200分の1になり、村に行く途中でさらにその150分の1になり、村に着くと200分の1の150分の1から20倍になる。それらすべての場所で起こるすべての事象が美しい。監督は、この映画をメロドラマにしたくなかったのだろう、村の娘と主人公が一緒になって村に残る、というありがちな結末にはしなかった。冬が来る前にウゲンは山を下り、標高19メートルのオーストリアへ渡る。なんて低い土地だろう、そしてなんと人口の多い街だろう! ウゲンは最初英語の歌をギターで弾き語りしていた。それが突如沈黙する。客は最初ブーイングし、戸惑ったように沈黙する。奇妙な静寂を破ったとき、ウゲンが再び歌い出したのは、山の娘に教わったヤクの歌だった…最後に、印象的だった言葉を書き残しておく。「先生は、未来に触れる職業です」「この国は国民の幸福を謳っているのに、先生のように未来を担う人材が、海外に行ってしまうんですね」「先生は、思いやりの心を教えてくれました。(寒さ除けの)窓の紙を破って私たちにくれたことを、決して忘れません」「いい教師かどうかは、子どもたちが決めるのです」ブータン映画/ ブータン 山の教室 (DVD) 台湾盤 Lunana:A Yak in the Classroom 不丹是教室
2021.05.29
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『世界の果ての通学路』のフランス人監督による、ドキュメンタリー映画。今度の舞台はケニア、主人公はGOGO、94歳の小学生だ。ゴゴというのは本名ではない。現地の言葉で、おばあちゃん、という意味らしい。本名はプリシラ。職業は助産師。ベテランである。昔は、学校なんて女の子が通うところじゃなかった。今だって、結婚を機に学校を辞めてしまう女子がいる。早婚なのだが、それだけの問題ではない。自分のひ孫(女の子)が小学校に行っていないことに愕然としたプリシラは、一念発起して小学校を卒業する!と決めた。はじめは断られたのだけれど、ある小学校の校長先生が快く受け入れてくれた。そこへ、ひ孫と一緒に通うことになったのだ。観ていて最初に思ったこと。うわ、密!だけど映画のラスト近くになってわかった。スクリーンの中の世界は、まだ、2019年なのである。密はともかく、いろいろなことが分かった。ケニアの風景。だいたい、日本の昭和20年代の風景がたちならんでいると思えばいい。もっともあんなに密ではなく、陰気でもなく、不潔でもない。確かに建物は長屋かバラックのようで、学校さえもトタン屋根だが、子どもたちの顔はあかるい。靴やサンダルや靴下が穴だらけでも明るい。教師の顔も。若い国だ。これからの国なのだな、と思う。通学路にはライオンがいる。象の群れも見える。勿論バス通学だ。サバンナとはこういうものなのか、と思った。子どもたちは、学校で算数を習う。算数の授業は、英語である。現地語やスワヒリ語ではなく、英語を公用語として学び、それで授業を受ける子どもたち。かつて英国の植民地だった名残りだろうか。勿論、現地語では少し複雑な概念になると表すのが難しい、というのもあるのかもしれない。日本は幸せだと思う。日本の公用語は英語でも中国語でもない、日本語なのだから。英語は、英語の授業でしか習わないのだから。小学生たちは、制服である。先生たちも、フォーマルな格好だが、女性の方がカラフルである。子どもたちは、みんなGOGOが好きだ。GOGOの昔からの女友達も、GOGOのようになりたいと思っている。昔、学校に行けなかったから。ケニアの小学校にも、水道はある。でも、寄宿舎はなかった。GOGOが要望して、寄宿舎ができた。みんな、GOGOが大好きだ。彼女には、周りを変える力がある。彼女がいるだけで、みんな朗らかになる。けれども彼女には、悩みがあった。寄る年波で、目がよく見えないのだ。小学校を卒業するなんて簡単じゃん、と思っていた。心配なのは94歳という年齢だけだ。演技でもない話だけど、卒業式の前にお迎えが来てしまうかもしれない。心配事はそれだけだ、と。ところがそうじゃなかったんだ。ケニアの小学校には、卒業試験があるんだ。それを受かった者だけが、中学校に通える。入試とは違って、資格試験のようなものらしいのだけれど、受からないことには卒業できない。GOGOはダメだった。目がよく見えないことも原因のひとつだったのだろう。あんなに好きだった学校を、ひ孫と一緒に修学旅行に行った学校を、辞めると言い出したのだ。校長先生が御どいて引き留めに来た。目のことは何とかするから、と。ありがたい話である。映画は、白内障の手術を受けて目が見えるようになったと喜んでいるプリシラの姿、それから明けて2019年、プリシラの幼友達が小学校に入学し、ひ孫のようなクラスメートに紹介されるシーンで終わる。心打たれる映画である。ぜひ多くの人に見ていただきたいと思う。参考↓世界の果ての通学路 [DVD]
2021.02.24
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そのうちに書きます。
2020.03.27
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実はこの映画を観たことをほとんど忘れていた。チケットの半券をたどって、やっと思い出した次第。だが今から思い出すとなると…名門校のベテラン教師が、ふと漏らした一言から、郊外の学校に赴任することに。そこは人種のるつぼ、貧困の吹き溜まり、学力の低い生徒の集団だった。生徒に迎合する教師もいた。でもフランソワ先生は毅然とした態度を貫いた。筋を通した。先生たちに対しても。厳しかったが、徐々に生徒たちの気持ちをつかんでいった。問題を起こす生徒は排除する方が楽だ。けれどもそれは教育者としての敗北である。死である。先生には信念があった。柔軟性があった。いや、「問題児」とともに成長していったのかもしれない。どうやら思い出したようだ。12か月の未来図 【DVD】
2019.08.28
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哲学入門の類の本はいろいろ、読んできていて、その中でも比較的面白いと思ったものを覚書も兼ねてここに紹介してきたのだけれど、これは徹頭徹尾実用書、それもリベラルな本である。副題を「人生を生き抜くための哲学・思想のキー・コンセプト」と言う。つまり、著者から見て人生に役に立たないと思われる思想概念はばっさりと切り捨ててあるのだ。紹介されているのは哲学者ばかりではない。心理学者、社会学者、さらには数学者など、その道の第一線の人々の思想・ものの考え方をコンパクトにまとめ、現代に生きる私たちの処方箋として有用であるかどうかを検証しつつ、提示しているのだ。全体は「人」「組織」「社会」「思考」と四部構成になっており、重きが置かれているのは「WHAT」ではなく「HOW」である。つまり私たちはどうしたら「よく」生きることができるか、「正しく」考えることができるか、という話なのだ。仏教においては「八正道」が大事な概念だが、具体的にどうすればこの複雑怪奇な社会の中で「正しく」在ることができるのか、簡単なようで実は難しい問題である。とくに、俗と煩悩にまみれた凡夫には。そういう意味でこの本は有用である。ただあくまでも入門書にすぎない。たとえばボーヴォワールの『第二の性』は有名だが、生物学的に確固とした脳の違いが男女差にあることには触れられていない。哲学という学問はすべての学問の成果を踏まえた総合的な学問であるという趣旨のことを言っているにもかかわらず。そういう意味で聖書も含めてすべての本は批判的に「も」読まれるべきであり、そして哲学の歴史というものはすべてそうした思想の博物館であり、著者もこの点は異存ないと思う。世界は決して公正とは言えない、などと見もふたもない話もあるけれども、著者はちっとも虚無的ではない。じゃあどうしよう、という自分なりの意見を必ず持ち出してくる。それに対して読者がどの引き出しでどう応じるかは、その個人個人の手に委ねられているのだ。人生の参考書とは畢竟そういうものである。【中古】単行本(実用) ≪西洋哲学≫ 武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50 【中古】afb
2019.01.17
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「うんこ漢字ドリル」の出版社が、こんなお堅い本を出しているとは知らなかった。もちろん、それゆえに手に取ったわけではない。正直に言おう。この本を読みながら、ゲラゲラ笑ってしまった。話が極端なのである。シェリー先生は妥協しない。シェリー先生は諦めない。どこまでも「死」を哲学しようとする。読むと分かるが、哲学は文系の学問ではない。と言うと語弊があるかもしれないが、論理と推論の学問である。数学でいう「証明」に近いものだ。我々が「常識」で間に合わせるところに、シェリー先生はメスを入れる。とはいえ、結論だけ見ると必ずしも奇抜な答えではない。たとえば「不死」について。たとえば「自殺」について。たとえば人は「いつ死ぬ」のかということについて。至極もっともな意見だし、どこかで聞いたような見解だ。結論だけ見れば。実際のところ、哲学は結果よりもプロセスが大切だ。推論のプロセスに妥当性があれば、導き出される結果も妥当なものだろう。逆に言えば、導き出される結論ありきのプロセスであってはならない。それが「知を愛する」ということなのだ。ただしそれは左脳優位の世界観である。どこまで行っても言葉、言葉、言葉なのだ。公案を出す禅の高僧なら「喝」を入れたくもなろう。シェリー先生みずから「創世記」の子だという。だが哲学者ならソクラテスの弟子であるべきではないか?インドがヒンズーに毒されたようにシェリー先生もキリスト教的価値観に毒されているのではないか?究極においてはそうかもしれない。だが少なくとも表面的にはそうではない。何故ならシェリー先生、「人間はPerson機能を持った機械にすぎない」と言っているからだ。これまだ先生の独創ではない。しかし本書は「日本縮約版」で、あいにくそういう結論に至ったプロセスは省かれている。そこでちょっと哲学してみよう。キリスト教徒は魂は人間だけのものだという。ひと先ずそれを正しいとしよう。「人間だけが魂を持っている」では「魂」とは何か。「心」とどう違うのか。「心」ならば、イヌでもネコでも持っている。だがイヌやネコには「魂」がない。これは妥当な考えなのだろうか。イヌやネコにも喜怒哀楽がある。それは「魂」ではないのか。違う、という声が聞こえる。「それは感情だ。魂ではない」では「魂」にあってイヌやネコの感情にないものは何か?「知性だ」では感情だけでなく知性があることが魂の必要条件であるか?「然り」では、生まれたばかりの赤ん坊に知性はあるか?「ない」では、生まれたばかりの赤ん坊には「感情」はあっても「知性」はないと?「然り」では、生まれたばかりの赤ん坊は、魂の必要条件を満たしていないから、「魂」を持たないことになる。「そんなことはない!」要するに言いたいのはこういうことだ。生まれたばかりの赤ん坊は動物に近い。幼児もある意味ではそうだ。そして動物に魂がないのに、動物の知能とさして変わらない赤ん坊の脳に魂があると考えるのは妥当だろうか?「妥当だとも! 人間は万物の霊長だ! 魂の種はある。それが芽吹いて人間になるんだ」芽吹くとはどういうことか。進化する、ということか。それならば、今日、創造説よりも進化論の方が妥当であることは科学者も認めている。人間は進化の過程で高度な認知機能を獲得したのであって、神がこしらえた粘土細工に霊気(=魂?)を吹きかけられて人間になったのでないことは明らかである。哲学と神学は相容れない。神学はたとえどのようにもっともらしい理屈をつけても、畢竟疑似哲学にすぎない。なぜなら、結論ありき(「神は存在する」)の言語体系だから。不具が本書を読んでゲラゲラ笑ったように、本ブログの読者の皆さんも、不具の論考を読んでゲラゲラ笑っていただければ幸いだ。ただ、本人はシェリー先生同様至極大真面目である。【店内全品5倍】「死」とは何か? イェール大学で23年連続の人気講義/シェリー・ケーガン/柴田裕之【3000円以上送料無料】なお、本書は『サピエンス全史』と同じ人が翻訳している。もちろん、それゆえに手に取ったわけではない。
2018.12.31
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作家の五木寛之と司祭の本田哲郎の対談集。行間からひしひしと伝わってくるのは、お二人の自分の行状や所業や活動に関する深い反省と洞察、それに誠実さである。両者とも、「上から目線」を徹底的に嫌う。以下、いろいろ細かい点において異論はあるかもしれないけれど、対談集の中で気になった個所を、箇条書きにしておく。とりあえず判断は保留したい。・イエスは父親も誰だかわからない、底辺層の出身である・イエスは大工ではなく石工、石切り(テクトーン)である・「心貧しき人」は単に「貧しき人」(ルカ伝)である・キリスト教はローマの国教になって、貧しき人を排除した・「小さきものたち」ではなく「小さくされたものたち」である・浄土真宗は一種の一神教(阿弥陀如来教)である・善人とは、自分が悪人という自覚のない者である・生き残った人間は悪人である・無差別爆撃は、ゲルニカより前に満州事変の「錦州爆撃」があった・日中戦争の時、南京や重慶にも爆弾や焼夷弾を落としている・キリスト教は先住民や黒人に「天国」をちらつかせて彼らを奴隷化した・復活は蘇生ではなく開眼であり、生き直しである・ラスコーリニコフは、もともとロシア正教の弾圧を逃れた分離派の名前だった・イエスは治療(イアオマイ)でしたのではなく手当て(テラペウオ⇒セラピー)したのだった・「転向」は「視座の転換」の結果である。・「隠れキリシタン」だけでなく「隠れ念仏」(九州)「隠し念仏」(東北)もあった・「私」が語るものより、人々によって語られたものの中に真実がある・親鸞は景教を通してキリスト教を知っていたかもしれない・興行はもともと仏教用語だった・法然は「生まれたての人間のように愚かになって念仏を唱えよ」と説いた ・ブラジルやアルゼンチンへの移民は浄土真宗の門徒が多かった・蓮如が子ども好きだったため、信徒の間で間引きがはやらなかったためである・韓国は両班文化と大衆文化の乖離が激しい・仏教でもキリスト教でも、古の集会所は、城市のはずれにあった・お預かりしたものを返すという思想が「清貧」である・社会福祉のために名誉欲を有効活用しよう・「あるがままに認めよ」という近代の親鸞主義者は「日本のお国柄」を重視した・親鸞自身は反体制的な生き方を貫いた人だった・ナショナリズムは差別主義である聖書と歎異抄 これまで語られなかった真実 / 五木寛之 【本】
2018.12.16
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洋画で「教室」ものの秀作は多い。『いまを生きる』、『陽のあたる教室』、『奇蹟の教室』、『トリュフォーの思春期』など。翻って日本はどうか。学園ものはいっぱいあるのだが、10年、20年の歳月を越えて、しみじみと心に訴えかけてくるものが少ない。パッと思い浮かぶのは『二十四の瞳』と山田洋次監督の『学校』シリーズくらいで、あとは青春もの、SF、ミステリーの範疇にあるようなものが多い。『学校』シリーズも、勿論素晴らしいのだが、どちらかと言えばニッチ的であり、「王道」ではないように思う。だが、日本にも心ゆさぶるこの分野の傑作があった。アカ狩り全盛期のアメリカ映画界なら、目をむくような作品だ。なんとなく学生運動に参加していた大学生が、連帯する労働者仲間の子どもたちの勉強をみてやることになり、そこから日本のさまざまな教育問題が見えてくるという仕掛けである。ストーリーはここに詳しいが、結末までは書いていない。此処に書いてもいいのだが、ぜひどこかで映像を見てほしいので、やめることにする。ただ保証する。この映画は感動的だ。ドラマティックで、先に挙げたどの欧米の名画にもひけをとらない。現代日本においてもこのような作品があれば喜んで観るのだが、どうだろうか。まだ観ていないが、『鈴木先生』は少々路線が違うような気がするのだが…[DVD] 独立プロ名画特選 どぶ川学級
2018.03.04
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高校で歴史・地理・美術を教えるアンヌ・ゲゲン先生は教員生活20年のベテラン。学校には29の民族・人種の生徒たちがいるが、ゲゲン先生のクラスは白人、黒人、アジア系、アラブ系、ほぼマイノリティばかりで構成されていて、喧嘩が絶えない。どうやらゲゲン先生、いつも問題児クラスばかりを担当させられてるらしい。生徒が先生に一目置きだしたのは、たぶん美術と歴史の時間だ。地獄に落ちるマホメット、と説明されてイスラムの生徒が怒りだす。先生は冷静に言う。「当時キリスト教徒は誰と戦っていましたか?」「アラブ人」生徒。「アラブ人は敵でした。では敵が死んでから行くのは?」「地獄」「そのとおりです。いいですかみなさん、絵にはそれぞれ描いた人の意図があります。これはプロパガンダです」ゲゲン先生の授業では比較的おとなしくなったが、他の授業では問題行動が多発。PTAや職員会議でも取り上げられる始末。ゲゲン先生は穏やかに、事実を述べて生徒たちを擁護する。ある日、先生は生徒たちに提案する。「歴史コンクールに出てみない?」それから先の展開は、やはり実話に基づく『あの瞬間(とき)、ぼくらは宇宙に一番近かった』に近い。生徒たちはアウシュビッツという重いテーマに戸惑いながらも、次第に引き込まれていく。場面緘黙のテオが「難しいと思います」と意見表明したのさえ前進だった! 喧嘩をしていたのがグループになり、協力し、ひとつになる。先生を助ける。自分たちで決め、まとめる。私生活にも変化が訪れていた。「薄汚いユダヤ人」と落書きされたゲゲン先生ではない先生の靴箱を、気付かれないようにそっと消していく。「あんな生徒たちに何をやっても無駄ですよ」と言っていた先生たちも何も言わなくなる。正確に言えば、スクリーンから消える。映画の後半は、ほぼ問題児クラスの生徒たちとゲゲン先生の独壇場である。痛快!奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ【動画配信】【中古】◎奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ/VPBU-2550【中古DVDレンタル専用】【中古】 あの瞬間、ぼくらは宇宙に一番近かった /マイクカージェス(著者),ジョーライデン(著者),武者圭子(訳者) 【中古】afb
2017.05.20
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これから漢検を受検しようと思う小学生のための入門書。本文を読んで大人がへえ、と思うのは・京都に「漢検 漢字博物館・図書館」(漢字ミュージアム)がある。・漢検は漢検CTB会場で都合の良い日にコンピュータを使って受験することができる(2級まで)くらいかな。どちらかというと「まめちしき」の方が面白い。・4つの目を持つ「蒼頡」という人が象形文字を作ったという伝説がある。・「日中韓共同常用808漢字」がある。・中国語で手紙はトイレットペーパー。日本語の手紙は信書の信。・中国語で汽車と言えば自動車を指す。・電車は電動客車の略語である。・定期的にあるものは回、不定期のものは度。詳しくは漢字ペディアをどうぞ。Wii 財団法人日本漢字能力検定協会公式ソフト 250万人の漢検Wiiでとことん漢字脳
2017.04.13
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借りたときはドキュメンタリーだとは思わなかった。観終わった今も半分信じられない。それくらい子どもたちの動きが自然だ。だがそれは演技ではなく、ロペス先生と13人の児童たちの日常の風景なのだ。ロペス先生はフランス山中の小さな小学校に勤めている。先生はひとりだけで、教室も一つだ。13人の児童は低学年から高学年まで幅広い。中には明らかにアジア系のフランス人もいる。名前はマリー。当たり前のことだがフランス語が流暢で、ちょっと違和感を持ってしまった。雰囲気的には『みんなの学校』に通じるものがある。実際、似たような場面もある。どこの国でも子どもは子どもなんだな、観ていてそう信じられる映画でもある。信じられるからこそ、ロペス先生も20年間、この学校にいたのだろう。…【中古】afb_【DVD】ぼくの好きな先生 レンタル落ち
2017.02.25
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これも<子どものためのライフ・スタイル>シリーズの一冊。これを読めば、西洋における子どもの歴史と現在(と言っても1980年代までだけれど)について大体のことがつかめる。ここに書かれてあることは対岸の火事ではない。現代社会に生きる日本の子どもたちにも当てはまることがたくさんある。日本には児童福祉法はじめ子どもを守るための法律がいろいろあるけれど、もとは西洋で生まれたもの。西洋では昔、子どもがいなかった。もっと正確に言うと、幼児からいきなり大人になることが求められた。農業と手工業が国の根幹だったから。そのうち、イエズス会の人たちが子どもには教育が必要だ、と言い出した。ただし労働者階級までそれが浸透するにはずいぶん時間がかかった。とくに、産業革命後、工場において児童は虐待的なまでにこき使われていた。それでも、日本でも西洋でも、19世紀末から20世紀初頭にかけて子どもに対する教育の必要性はかなり浸透していった。子どもは働かなくていい。その代わり教育を受ける。(この本には書かれていないけれど、そのために「知的障碍児」になった子どももたくさんいる。生まれてくるのがあと100年か200年早かったらねえ、という軽度知的障碍児のなんと多いことか。社会が複雑になるのも考えものだ。アーミッシュのような生き方はしかし日本では許されないだろう)言い換えれば、子どもには教育を受ける権利があるということだ。権利は法律によって保障されている。けれどもその権利は大人と同等ではない。なぜなら、子どもは保護されなければならない存在だから。保護されるということは、権利が制限されるということだ。このあたりのロジックは、いかにもアメリカ人らしい。では、なぜ子どもは保護されなければならないか、というより権利が制限されなければならないか。簡単に言えばそれは親心だ。わが子がまっとうに育つように、将来立派な社会人になれるように、暴力や虐待や育児放棄のような悪い影響から遠ざけなければならない。だから映画にはR指定があるし、お金の管理や仕事をして報酬を得るのも制限がかかる。教育を受けて一人前になってからいっぱしの口をきけ! というわけだ。もちろん子どもには自己を主張する権利がある。だから最終章は「コミュニケーション」となっている。言葉は口調や身振り手振りや表情によって、いかようにも意味が変わるからそれをまず学びなさい、云々。そのうえでTPOを弁えたコミュニケーション力を身につけ、大人に対して堂々と自己を主張しなさい、合衆国政府はそんなみなさんを応援しますよ、というところでこの本は終わる。【中古】 自立する子どもになろう /マリリン・バーンズ(著者),永田美喜(訳者) 【中古】afb
2016.03.03
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以下本の内容の私的な要約。アリストテレスの『二コマコス倫理学』は「幸福」を哲学にした古典的な書物。人はどうすれば幸せになれるか。キーワード:中庸。儒教の「中庸」や仏教の「中道」と共通する面もあるけれど、違うのは物質的な(外的な)幸福を否定していないこと。清貧を推奨していないこと。「行き過ぎは不幸だ。中庸が一番」こう説くからと言って日和見主義者ではない。「無謀」「臆病」いずれも悪徳と考え、中庸なる「勇気」を称賛する。幸福とは何か。自らを知り、自らを生かし、結果として世の中に資することである。やるときはやる。怒るときは怒る。立ち上がるときは立ち上がる。これがアリストテレスの「積極的中庸主義」である。…別に、安倍さんを擁護しているわけではないからね。 アリストテレスの人生相談/小林正弥【後払いOK】【1000円以上送料無料】
2016.02.20
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<子どものためのライフ・スタイル>シリーズの一冊。一読して、多湖輝さんの「頭の体操」シリーズを連想した。勿論本書はあれとは異なる。もっと親切だ。固い頭を柔らかくし、垂直的思考から水平的思考へと読者を誘う。できれば友達や家族と一緒に熟読してひとりきりトレーニングをしたあと、「頭の体操」にトライするといいかもしれない。クイズやなぞなぞをいくら覚えても頭はクリエイティブにならない。クイズやジョークを作るアタマこそ創造的である。そのための基礎となるのは、一にも二にも、まず観察。問題解決能力は、そのあとからついてくる。【中古】 考える練習をしよう 子どものためのライフ・スタイル/マリリンバーンズ【著】,左京久代【訳】 【中古】afb頭の体操 第1集 知恵の森文庫 / 多湖輝 【文庫】【はじめての方限定!一冊無料クーポンもれなくプレゼント】五〇歳からの頭の体操【電子書籍】[ 多湖 輝 ]
2016.01.26
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フランス人監督によるドキュメンタリー。冒頭。私たち日本人の目からは到底清潔とは言いがたい湧き水を汲み、ごくごく飲んだり制服を洗ったりするケニアの少年。11歳。明日から学校に通う妹と一緒に、毎日15キロの通学路を、2時間かけて学校まで小走りに進む。父いわく、「象に追いかけられたら全速力で逃げろ」。糸を紡ぐおばあちゃんに本を読んで聞かせるモロッコの少女。12歳。おばあちゃんいわく、「勉強して、賢くなって、人生を切り開け。私のような大人にはなるな」。月曜日、彼女は22キロの山道を、4時間かけて学校へと向かう。少女に神の祝福あれ。妹に象の群れの位置を教える兄。通り道で学友ふたりと一緒になる少女。父親と一緒に飼っている山羊を解体するアルゼンチンの少年。11歳。ケニアやモロッコの子どもたちに比べるとより文明的な家だ。それでも学校は遠く、毎朝妹を乗せて18キロの通学路を、1時間半かけて馬とともに行かねばならない。汚いポリタンクを水筒代わりに、サバンナを急ぐ兄。妹に「急げ!」妹を乗せた馬が急な斜面に差し掛かる。なんて危険な通学路だろう。馬が水を飲んで小休止。学友が足を痛めたのか、少し遅れてついてくる。「疲れてるのは同じなのに」兄妹はキリンの群れと遭遇。「速足で行くぞ。この辺は危険だ」お守りの赤いリボンを馬にかける少年。やがて祠にたどり着き、リボンを結んで祈る兄と妹。ギャロップ、ギャロップ。海岸で沖を見詰めるインドの少年。13歳。母親がやってきた。ここではじめて少年が車椅子だと気がつく。母親はリハビリに必死だが効果は薄い。少年は兄弟に車椅子を押してもらって、毎朝4キロの通学路を行く。所要時間1時間15分。学友の足首をマッサージする少女。そこへ行商人が通りかかるが、忙しいからと見向きもしない。マッサージの効果があって再び歩けるようになった学友は、少女たちとともに学校へ向かう。象の群れに出くわす兄妹。全速力で逃げる。妹が転び、貴重な水がこぼれてしまった。でこぼこ路は車椅子にはつらい。押すほうも、押されるほうも。牛に襲われたこともあった。妹にサボテンの実を採ってやる兄。歌を歌いながら通い路を行く。車椅子が舗装した道路に出た。牛が通い、川では少年たちが泳いでいる。うらやましそうに眺めながら学校へと急ぐ。ヒッチハイクを試みるも、断られる少女たち。やっと家畜を運ぶトラックの荷台に乗せてもらう。車椅子はまた未舗装の道へ。行く手を阻むトラック。パンクしたらしい。大人がふたりがかりで車椅子を抱えて向こう側まで運ぶ。疲れた脚に鞭打って山道を急ぐ少年たち。「国旗係だから」車椅子が川に嵌ってしまった。近道しようとして失敗したらしい。力を合わせて何とか渡りきる。馬が止まった。蹄鉄に石が挟まっていたのだ。「お兄ちゃん、前に乗せて」「ママには言うなよ」嬉しそうな笑顔。やがて学友と一緒になる。運転手がアラーに祈りを捧げている間、荷台でじっと待つ少女たち。車椅子のタイヤがとうとう外れてしまった。さっき無理をしたのがいけなかったらしい。修理してもらって先を急ぐ。持ってきた鶏を市場でお菓子と交換する少女。寄宿舎に到着。教室へと急ぐ。学校が見えた! 走り出す兄妹。全校生徒の見守る前で、厳かに国旗を掲揚する兄。学校に着いた! 妹を馬から下ろし、校舎へと向かう。国旗を掲揚する妹。皆厳かに国家を斉唱。学校に着いた! 学友お出迎えで車椅子で運ばれる少年。国歌斉唱が終わり、バラックのような校舎へ駆け出す黒い少年たち。民族衣装がまばゆい。「次は数学の時間よ」「友達に会えて嬉しい」「もう月曜日ね」車椅子を停め、少年を抱えて教室に連れて行く学友たち。搾乳システムについて学ぶ南米高地の少年。欠席者がいなかったことを神に感謝して授業を始める黒い教師。「立派な教育を受けたい。一生懸命勉強して学校を卒業すればいい仕事に就ける。そしたら自立できるし家族の力にもなれる。将来の夢はパイロットになって大空を飛ぶことだ」「夢は医者よ。病気の人を治して助けてあげたいの。貧しい人の力になりたい。それから遠い村々に住む女の子たちが、勉強を続ける手助けをしたい」「大人になっても地元にいたい。先祖代々の土地に住みたいんだ。将来の夢は獣医になること」兄。「私は、学校の先生になりたいわ」妹。兄はやがて全寮制の学校へ行く。「立派な大人になりたい。普通僕のような子供は学校に行かせてもらえない。僕の友達の女の子は障害もなく頭もよかったのに退学させられた。お金持ちだったのにね。僕の家は貧乏だけれど学校に行かせてくれる。だから頑張らなきゃ。人は何ももたずに生まれ、何ももたずに死んでいく。将来は医者になり、僕のような子どもを歩けるようにしたい」…みんな、まるで明治時代の日本人みたいだった。【送料無料】世界の果ての通学路映画プレスブックーです(注:DVDではありません)[映画プレスブック [世界の果ての通学路]ドキュメンタリー映画、ケニア、アルゼンチン :チラシ2枚つき
2015.10.09
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今日 魂に出会った。小さくもろい魂。驚くべき魂。ある日、ラルネイ聖母学院に目が見えず、耳も不自由な少女マリーがやってきた。生まれて以来14年間、しつけも教育も一切受けずまるで野生動物のように獰猛なマリーが放つ、強い魂の輝きに惹かれた修道女マルグリットは、自ら彼女の教育係となる。そしてふたりのむき出しの魂がぶつかり合う「戦い」とも呼ぶべき教育が始まった。素晴らしい進歩。言葉がほとばしる、まるで奇跡のようだ。マリーがやってきて8か月目、ついに奇跡が起こる。ふとしたことから、ようやくマリーは、物には名前があることを理解したのだ。最初の1語こそ苦労したものの、その後は次々と言葉を精力的に会得していくマリー。学ぶことの喜びを知り、日に日に成長するマリーと、母親のように惜しみなく愛情を注ぎ、教育を続けるマルグリット。ふたりの絆はより強いものとなった。もともと体が弱く不治の病を患っていたマルグリットだったが、静養を進める医者の反対を押し切って、マリーとともに生きることを誓う。彼女は私の喜び。私の魂の娘。私の人生の光だ。しかし、ふたりの別れの時間は刻々と迫っていた――。ヘレン・ケラーの物語は有名ですが、映画は観たことがありません。『ガラスの仮面』の「奇跡の人」はその昔愛読していました。予告編を観て、へえ、フランスにもそういう実話があったんだ、と思って映画館に足を運びました。不具の陳腐な感想など蛇足でしょう。公式ホームページはこちらです。どうぞ。[DVD] 奇跡のひと マリーとマルグリット
2015.09.14
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大阪市住吉区にある大空小学校の2013年度1年間の記録。「不登校も特別支援学級もない 同じ教室で一緒に学ぶ ふつうの公立小学校の みんなが笑顔になる挑戦」「すべての子供に居場所がある学校を作りたい。」「学校が変われば、地域が変わる。そして、社会が変わっていく。」以上、パンフレットの謳い文句です。観る前は、正直言って、なんぼのもんじゃい、と思いました。特別支援学校に勤める一教師として、構える気持ちがあったことを認めます。しかし――。観てよかったと思いました。勿論、これは小学校だからできること、という言い方はできるでしょう。もっと言えば、あの学校経営者(校長先生)だからできること、という言い方も。確かに、初等教育と違って、中等以上の教育では、将来の進路に向かって、生徒の「選別化」が進められるという現実があります。確かに、あの校長先生でなかったら、大空小学校はあんな風ではなかった、かもしれません。それでも。あの校長先生も、初めからあんな風ではなかったのでした。映像に出てこない校長先生の話(標準語に翻訳)。「新設校の本校に赴任した春、ものすごく多動の子どもがいたんですね。正直言って、この子さえいなければ、この新しい学校はすばらしい学校になるのに、と思いました。案の定、その子は学校が始まってからも教室にじっとしておられず、逃げ回ってばかりでした。ある雨の日のことです。その日も、その子は教室を逃げて、担任の先生がそれを追いかけました。でも、追いつきません。焦った先生は、急ごうとして、すってんころりんしてしまいました。チャンスですよね。大チャンス。今なら校門の外に逃げられる。教室の児童も周りの先生たちも、みんながそう思っていました。けれどもその子は、倒れた先生のところに戻って、『痛いね痛いね』したのです。ずっと。みんな、一言もしゃべりませんでした。微動だに、しませんでした。あくる日から、その子は、教室から逃亡しなくなりました。ゼロです。その子が変わったから、ではありません。周りの人の、その子を見る目が変わったからです」校長先生はこうもおっしゃっていました。「ゼロの子が1になるのと、100の子が100のままなのは違います。能力だけを見て、100の子だけを評価するのは違うと思います」意地の悪い人はこういうかもしれません。「ふん、そんな吹き溜まりみたいな学校、どうせ学力底辺校だろう」、と。ところが、さにあらず。監督へのインタビューを見ると…——映画にすることで、全国に大空小学校のことを伝えることが可能となりました。それについて、何か思う事はありますか。真鍋 大空小学校では、「この学校に障害という言葉はありません、みんながそれぞれ困っている事があるだけです」と言われます。障害という言葉は、「セイちゃんは落ち着いて座っていられないことを今悩んでいる」というふうに置き換えられていくんです。そうすると「この子の障害、何やったっけ?」といった見方に意味が無いことが分かってくる。あとは、どうすべきがいいのかを考えるだけになるので、その結果、大空小学校はいろんな人が行きやすい学校になっていますよね。セイちゃんやユヅキは前の学校には全然行けなかったのに、彼らは今、毎日機嫌良く学校に来ている。毎日機嫌良くいられる場所があることが、どれだけ大変で大事なことか。そういう場所を地域や社会が支えていくものだ、という事も含めて、社会に向かって問いたいんです映画には、大空の成績がいいという話は出しませんでしたが、それには理由があります。なんで成績がいいのかがはっきりしないこともありますが、成績を高めるためという理由で、大空の教育を他が真似することを避けてもらうためです。それではうまくいかない気がするのです。そもそも英語を小学校1年生からやらせるとか、今教育改革で話し合われている方向が、果たして良い社会をつくることに貢献するのか。それよりも、こんな学校が増えることの方がよっぽどハッピーじゃないのでしょうかって、問いたいんです。少なくとも僕にとってはハッピーだと信じられる出会いでした。大空小学校のやり方は、そのハッピーに加えて、なんでかよくわからないけど成績もいいんだって!って、そのくらいこっちが言っておいて、あとは自分で考えてねって感じです。筆を擱くに当たって、一言だけ。ドキュメンタリー映画には、いわゆる主人公がいません。しいて言えば、一人ひとりが主人公です。「みんなでつくる みんなの学校 大空小学校」のように。「みんなの学校」が教えてくれたこと 学び合いと育ち合いを見届けた3290日 / 木村泰子 【単行本】
2015.07.19
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『わがルバン島の30年戦争』で有名な、そして先ごろ亡くなられた小野田さんの著書のひとつ。全体は三部構成にわかれ、第一部が投降から小野田自然塾を開くまでの簡単な経緯、第二部が小野田自然塾の実際、第三部が己が幼少年期を振り返りながらの教育エッセイ、になっている。「社会に生存競争があるように、国際間にも生存競争があり、最悪の場合、戦争になってしまうということは、子どもたちにはっきりと教えるべきだと思います」「自然は現在生きている人間の占有物ではないのです。永劫に生き続けることを願うのなら、むしろ子孫のものと考えるのが正しいと思います」「人類が道具を作り始めた時からその基をなした刃物は、また発展・進歩の能力を養う道具であったはずです。それを危険だからといって、発育期の子どもから簡単に排除してしまうのは間違いではないでしょうか」「相手が子どもだからと見くびった言動は、自分の子であれ他人の子であれ慎むべきだと思っています」「目の前に、寒くて震えている子がいる。その子は上着もシャツも着ていない。可哀想だと思った君は、自分の上着を脱いで着せてあげられるか。そう出来たら君は本当に優しい子なんだ」 【2500円以上送料無料】君たち、どうする?/小野田寛郎
2014.04.17
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学校の図書室から借りてきました。キリスト教に縁のない、普通の日本人が読むのに最適の入門書だと思います。すべてを語ることはできませんが、要点をいくつか。・ローマはGHQであり、ピラトはマッカーサーだった・民衆はイエスに政治的指導者として期待を寄せていた・悪魔の誘惑はヨハネ教団からの誘いの象徴的表現だった・パンの奇跡と山上の垂訓は同じ日の同じ出来事を指すものであり、人々はイエスに失望した・イエスは愛を説きながら、孤独だった・弟子さえも彼を理解できなかった・ユダのみならず、弟子たちはみなイエスを「裏切る」ことで保身を図った・そんな弟子たちをイエスは許した・弟子たちはイエスの死に臨んで、初めて師の言葉の意味を理解した・「愛」の教義の意味を理解した、その「蘇り」こそが「復活」である・愛の行為そのものが奇跡である・孤独を癒されるだけで人は救われる・キリスト教徒=イエスの教えに忠実とは限らない・「神も仏もないものか」というところから宗教は始まる・人生は聖書に似ている(解答のついていない問題集のようなものである)【中古】 私のイエス 日本人のための聖書入門 ノン・ポシェット/遠藤周作【著】 【中古】afb
2014.04.07
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【古本】悪人だって救われる 仏教ならこう考える/ひろさちや【中古】 afb日本は大乗仏教の国です。神仏習合の国です。葬式仏教が神道の儀式を代行している、という指摘はそのとおりかもしれません。道徳は強者(支配者)の弱者(庶民)への押し付けである、と喝破するくだりも痛快です。ただ小乗仏教、あるいは上座部仏教の立場からは異論がある内容だと思います。簡単に言えば、自分のなかの仏を知り、自己の完成に向けて修養を重ねるのが上座部仏教。一方、人間は結局のところ「仏」のように完全な存在にはなれないのだから、仏の慈悲に従って生きなさい、というのが大乗仏教です。「悪人」の立場から言えば、「善人」は自ら「悪人」であることに気がつかない「偽善者」だと言います。そういわれると不具も救われます。不具もまた「自閉症」という属性を背負った「悪人」であり、悩みつつもそこから抜け出せないでいるのですから。しかし、とひろさんの声が聞こえてくるようです。それは仏の慈悲だ。仏の慈悲は深遠なもので、凡夫などにはうかがい知れないものだ。治そうとするな。あるがままに生きよ。ただしよく生きようと努力せよ。苦しみから逃れようとするな。所詮、どうあがいてもこの世は苦である。仏教を幸福の科学、ととらえる団体もあります。間違っているとは言えませんが、仏教でいう幸福は精神的なものを含め、欲望とは無縁なものです。むしろ諦念と祈りの内に存すると考えた方が、救われるでしょう。
2013.08.26
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古本屋で買ったきり、長らく埃がかぶったままになっていた本書を手にする。古めかしい本である。「読書遍歴」は全体の約三分の一程度を占める文章だが、そこで紹介される書物は大正時代の教養主義にはともかく、現代人の読者には縁遠いものがほとんどだ。また、言論統制の時代に書かれただけに、マルクス主義等をほのめかすものは周到に省かれている。一方、「哲学はどう学んでゆくか」「哲学はやさしくできないか」「如何に読書すべきか」などは今日読んでも興味深いと思う。ただ「読書」に関して云えば内容はオーソドックスであるし、巻末の解説に要点が記してあるので一読後はそれに目を通せば事足りる。「西田先生のことども」は、師匠に対する門弟の敬意が書かれている点で興味をそそるが、「消息一通」の書簡は何のことだかよくわからなかった。
2013.04.22
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ブックオフで105円で購入。出版社を見て、よくあるビジネスマンの自己啓発本と思ってはいけない。まあそういう読み方も可能ではあるのだけれど、これは哲学の本である。「働くこと」を著者なりに徹底的に哲学する。生き方が下手な人の、生き方が下手な人による、生き方が下手な人のための本と言い換えてもいいだろう。キーワードは「理不尽」だ。哲学的にカッコよく言えば「不条理」である。才能や能力は平等に与えられていない。人格者が社会的に成功するとは限らないし、逆に、社会的に成功しないから人格者というわけでも、悪人というわけでもない。人格者ばかりではない。美人、ブス、真面目、不真面目、才能がある人、ない人、エトセトラ。簡単に言えば、引きこもりや生き方が下手な人たちはこういう社会の不規則性、一貫性のなさ、混沌、偶然に耐えられない人たちなのだ。彼らは真実を求める。頼れる指針を求める。けれどそれは得られない。得られないというところから出発するしかない。見もふたもない現実から一歩踏み出すしかない。働くことだってそうだ。働くことは必ずしも生きがいに結びつかない。けれど仕事とは、それだけだろうか? 生き方が下手でも、人生が失敗に終わっても、自分なりに「よく生きる」ことを指向して、哲学することではないのか、それが本当の「人生の仕事」ではないだろうか。その人生の仕事を追い求め続ける、そのために普通に働きつづける、そういう生き方だってありなんじゃないか、とこういうのである。もっと言おう。著者は一言も述べていないし、こんなことをここで書くと語弊があるかもしれないが、これは発達障害者のための本である。それも自閉圏の人向きの書だ。定型発達の人はこの世の理不尽さに耐えられる。適応できる。むしろそれが当然だと思う。混沌さに耐えられないのは自閉症の人たちである。だからこういう独特の理屈を考えつくし、むしろそれを指針とする。あるいはこの不具のように共感する。自己愛というより、他者への心からの共感の欠如からくる孤独癖。本書を読むと、著者の父親にもその気があったようである。「幸福になるために」ではなく「真実から目をそらさないために」生きる。なるほど哲学者らしい題目である。けれども著者は忘れている。それが傍からどんなに苦しく見えようとも、「真実から目をそらさない」ために生きることこそその人にとっての幸福なのだと。他の道を選べばその人はもっと不幸になるのだと。どのみち人は自分にとっての幸せを追及するように生きているのだと。何せ哲学の本だ。日本経済新聞社から出たにしてはこれは珍本、奇書の類である。だが特別支援学校の教師が自閉症の専門書を読むように、会社の管理職が気になる部下の掌握のために目を通すのも、また一興かもしれない。【中古】 働くことがイヤな人のための本仕事とは何 / 中島義道
2012.12.05
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宮本延春(みやもとまさはる)1969年、愛知県生まれ。小学校の時、いじめで学校嫌いになる。中学1年の成績表はオール1。18歳で両親と死別、天涯孤独の身となる。23歳のときに偶然見たアインシュタインのビデオに衝撃を受け、小学生の勉強からやり直し、24歳で私立豊川高校定時制部に入学。恩師や周囲の支えもあり、27歳で名古屋大学理学部に入学、物理学を学ぶ。研究者の道を考えていたが、自分だからこそできることは、落ちこぼれの子どもの気持ちがわかる教師ではないかと思い直し、母校の高校教師になる。現在は妻と息子二人の温かい家庭を持ち、生徒からも厚い信頼を寄せられる教師として日々を過ごしている。全国のいじめられっ子のみなさんへ。もしあなたが自殺を考えているなら、そのまえにこの本を手にとって、読んでみてください。むずかしい漢字にはぜんぶ、ふりがながついています。ついでにいうと、18歳で両親に死にわかれた、とありますが、その両親は生みの親ではなかったのだそうです。本当の親がだれなのか、それはもうこの先生にとっては、どうでもいいことなのかもしれません。【送料無料】未来のきみが待つ場所へ [ 宮本延春 ]
2012.09.03
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以前『ソフィーの世界』を読んだとき、「中世は、必ずしも暗黒ではなかった。キリスト教がギリシャ哲学と折り合いをつける大事な期間だった」と書いたが、書いた自分自身、何のことかよくわからなかっていなかった。それが本書を読んで、腑に落ちた。要は、イデア≒神の国ということであり、プラトンもキリスト教あるいはその母体となったユダヤ教も、目に見えない理想を追い求めているという共通点があるのだ。「神のものは神に、カサエルのものはカサエルに」ゆえにローマ帝国が何を目指そうともキリスト教はキリスト教の道をゆくことができた。西ローマ帝国が滅び政治の力が衰えると教会が徐々に世俗的力を持つようになる。そのときにはプラトンの行き過ぎた数学的イデア主義を修正したアリストテレスの生物学的形而上学(「種子があって芽が出る」≒「教会があって信者が育つ」)をもってくる。かようにして教会の権力が増し、腐敗し、宗教改革にいたるのだが…プラトンにとってイデアだったものがデカルトにとっては神であった。『方法序説』を読んだときそこまでは見当がついたが、コギト・エルゴ・スムの理性が「神の絶対的理性」とまでは思い至らなかった。なるほど言われてみればデカルトは哲学者であるのみならず数学者でもあり、「自分の中の神の理性」の存在証明として解析幾何学を生み出したのかもしれない。デカルトの説く「神の理性」を「人間の理性」にまで敷衍したのはカントの功績であった。さらにその「人間の理性」を向上させる手段として「正」「反」「合」という一種の「対話」(弁証法)によって哲学を社会科学に応用する道を拓いたのがヘーゲル。それを受けたのがマルクス(「正」=資本主義、「反」=資本主義批判、「合」=共産主義)である、とそこまではっきりと著者は書いていないが、おそらくそういうことだろうと思う。サンジャヤ・ベーラッティプッタ(ブッダの十大弟子であるモッガラーナとサーリップッタの元師匠)のような皮肉屋で懐疑主義者だったソクラテスのモットーは「知ることを愛する産婆術」だった。美青年好きで知られるソクラテスは結局、若者に悪影響を与えた扇動者として処刑されたのだが、それが弟子のプラトンによって政治的に修正せられ(『国家』)、以後ヘーゲルにいたるまで、いわゆる「哲学」は天然自然の物質世界と対峙する「絶対的存在」(神、理性、精神)の確からしさを追及する学問に変化してしまった。『ソフィーの世界』の感想にも書いたように、根底にあるのは「神」をどうとらえるか、考えるかということ。これがいわゆる西洋独特の「哲学」の流れであり、「反哲学入門」とはつまりヘーゲル以後、もっと具体的に言えば「神は死んだ」と宣言したニーチェ以降の哲学(反哲学)の考え方への誘い、ということであったのかと、本の中ほどまで読んで納得する。不具は国語の先生なので、和歌の歴史に喩えれば、これは「反短歌入門」、つまり古今集~新古今集までの和歌の歴史を豊かだが特異なものとして位置づけ、現代人にとっては正岡子規以降の短歌こそが手本とすべき短歌である、と言うようなものであろうか。ニーチェが説くのは「神」「理想」「精神」「真理」に対峙する「人間」「物質」「肉体」「芸術」の復権である。言われてみればそうかもしれぬ。彼がここまでキリスト教から離れられたのは梅毒のせいか、それとも著者が推測するように秘められたインセスト願望の昇華せられたるものかはわからない。ただ個人的にニーチェを読むとなぜか三島由紀夫を連想する。最終章はハイデガー。著者によると二十世紀最大の哲学者だそうだが、長きにわたる弟子のハンナ・アレントとの不倫関係はともかく、(ニーチェ哲学の影響にせよ)ナチズムに協力したり、私利私欲のためにうまく立ち回ったりと、あまり好ましくないお人柄のようだ。ただ木田先生の「反哲学」の発想はこのハイデガーに追うところが大きいそうだから死人に鞭打つのはやめにしよう。それに言われてみれば、神によって「つくられた」哲学の世界観よりも、自然によって「なるがままになった」世界の反哲学の思想の方が、日本人にとっても親しいはずではないか。皮肉なことに、日本は近代化の過程で、人工「国家」になってしまったのだけれど。【送料無料】反哲学入門
2012.07.16
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これも大学生の頃買ったもの。ついでにいうとサルトルの著作で読み通した唯一の本でもある。映画にもあったが、実存主義とは要するに「実存は本質に先立つ」ということだ。しからば実存主義とは何か。対立する概念としてこの本には出てこないが「本質主義」を考えればよろしい。これは「人間の生きる意味や目的はあらかじめ決まっているものだ」とするものである。代表的なものはキリスト教や共産主義だ。一方サルトルは「遺憾千万にも、神は死んだ」と説く無神論者である。あるいは神が存在してもしなくても状況に変りはないと説く。また今となっては当たり前のことだが、共産主義者が説くような社会参加の方法がすべてではない。人は自分の選択と行動によって自分自身を規定するのであり、しかもそのことに全責任を負わなければならない。しかも自分自身に対してのみならず、全世界に対して。何となれば個人は砂粒の個人ではなく他者や社会とつながっているものであり、自分の生き方を他人に示すことである生き方のモデルとその正当性を図る存在だから。いいかえれば、サルトルの説く実存主義とは消極的引きこもりの個人主義ではなく、積極的引きこもりを含む「自分の選んだ行動には自分自身と社会に対して責任を持つ」人間のダイナミックな宣言であり、一神教に縁なき日本人にもわかりやすい哲学だと言えよう。実存主義とは何か/J.P.サルトル/伊吹武彦
2012.07.12
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黒柳さんという方はどうも苦手である。もちろんお会いしたことはないのだが、いささか自閉的な傾向のある不具は、あの方の前に出るとおそらく耳をふさぎたくなるだろうと思う。そんな失礼なことはできないから、いっそお会いしないに限る。意味はいささか違うが、君子危うきに近寄らず、である。そういうわけで、一種の偏見から本書には長いこと近寄らなかった。だが読んでみて驚いた。泣いた。笑った。思わず感情移入していた。不具は昔からエキセントリックだった。けれども自分ではそれを普通だと思っていた。その点著者と全く同じである。それに、考えてみれば不具が通った肢体不自由の養護学校も、トットちゃんが通ったトモエ学園と似たようなところがあった。みな、行くところがなくてそこに来たのだ。内容について、いつものようにここで語ることはしない。すでに読んでしまった人にとっては言わずもがなだろうし、まだ読んでない人に余計な先入観をもってほしくないからでもある。百聞は一見にしかず。だが、トモエ学園! 戦前戦中に、こんな自由な小学校があったなんて!【送料無料】窓ぎわのトットちゃん
2012.04.19
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宗教は方便であり、善く生きるための指針だというのが不具の立場だけれど、そもそも「善く」生きる必要なんかないんだ、という価値相対主義を高らかに掲げ、本能を抑圧せずに解放して人間らしく生きよう、と著者は説く。もとはカッパブックス、1965年刊である。そのせいか、BG(現在のOL)などという死語も散見され、やや60年代がかっていることは否めない。はっきり言って純潔主義はすでに遠く、高度資本主義社会のもと、澁澤氏の孤高の貴族主義も性のユートピアも、水割りされてすでに日本中に浸透してしまった。要点。宗教的アヘンと諦念的幸福論の否定―人間の本性(動物的)に還れ東洋的快楽主義―隠棲者・禁欲的―自然主義―精神文化的西洋的快楽主義―リベルタン的―反自然主義―物質文明的快楽主義の巨人たち。エピクロス、ディオゲネス、ボードレール、ジャン・コクトー、李白、ランボー、ホイットマン、中原中也、オスカー・ワイルド、マルキ・ド・サド、カサノヴァ、太宰治、アレティノ(暴露的毒舌家)、ゲーテ、アンドレ・ジイド、D・H・ロレンス、ヘンリー・ミラー、サヴァラン(美食家)、アルフレッド・ジャリ、深沢七郎、ダリ、岡本太郎。処方箋。「誘惑」「一匹狼」「誤解」を恐れず、本能に忠実に生き、労働のための労働をするな。精神の貴族たれ。今日的感想。リストを見ると、発達障害者の文士・詩人・画家が多いような。要は快楽主義者の巨人たちも、「そのようにしか生きられなかった人たち」ということで。もっともこの点に関しては不具も同様。なお緒言は三島由紀夫、解説は浅羽通明氏である。処分本No.213。【送料無料】快楽主義の哲学
2011.11.28
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教養、とはなんでしょうか。浅羽氏は書いていませんが、かつては一般常識と同じようなものでした。江戸時代なら落語、歌舞伎、戦前なら講談、文学でいえば漱石とか龍之介とか。けれどそれらが、日本人が共有する「教養」たりえたのは、他にメディアがなかったせい。現代は、テレビ、ラジオ、インターネット、映画、携帯電話、CDなどなど、個人の趣味や嗜好に応じて、いくらでも細分化された「オタク」的知の世界があります。著者が憂うのは、そうした現実が「趣味」の世界のみならず、「思想」「哲学」「政治」の分野にまで浸潤している点です。主義主張というのは、本来抜き差しならぬもの。政治家だって、選挙民を背負っているのですから、国民の代表として行動すべきはずです。しかし実際は、下々のことは棚に上げて、永田町の論理で事が進んでいきます。内輪の都合、内向きの姿勢ですね。政治だけではありません。論壇も、ジャーナリズムも、マスコミも、内輪の「つきあい」の方が大事であって、本当に私たちの方を向いているかというと、頗る怪しいものがあります。学者の世界なども、それぞれ趣味として商売としてやっているので、民族主義者の准教授がマルクス経済学の教授にペコペコするなどという風景も実は日常茶飯事。それを批判するのは世間を知らない「青臭い」輩だということになってしまいます。もちろん、そこに臥薪嘗胆的な思惑などがあればまた別の話でしょう。ですが実際のところ、知識人や文化人と呼ばれる人たちの多くは、研究の対象がアニメか文学か政治か歴史かというだけで、趣味嗜好の域を全然出ていないのではないでしょうか。現実世界と接点のないところで、一国一城の主を気取っているだけなのではないでしょうか。著者の問題提起はだいたい以上の通りです。教養というのは自分の生き方と直結するものでなければならないはずだ、という意見には共感します。けだし、自分の信念よりも処世術の方を優先させることに何の疑念ももたないという精神を、自閉症スペクトラムの不具は理解できないからであります。とはいえ、著者の筆先は教員に厳しいです。教師こそ、現実世界から逃避して「教えなければならないこと」をトップダウン式に生徒に伝える、文化人になれなかった人間のなれの果てだそうですから。いわれてみると思い当たることがあります。自閉症の教育にしても、構造化ということがよくいわれます。学校生活におけるその有効性はよくわかるのですが、いざ社会に出たらどうか。一部の理解ある企業はともかく、大多数の会社は、そんな面倒な手だてが必要な障害を持つ人を雇ってはくれません。しかもこの不況。構造化を否定しているのではありません。構造化はバリアフリーだと不具も思います。問題は、かつて盲学校と聾学校が一緒くたにされていた時代と同じような状況に、今、自閉症者が置かれているということなのです。だから…特に幼い自閉症児に、世界を認識する手段の獲得としての構造化の有効性を認めつつも、できることなら少しずつ外させていく努力と、それでもなお構造化を外せないけれどもピンポイントで能力の高い自閉症児が就職できる道筋を考えていくことでしょう。盲学校や聾学校が、少しずつ職場開拓を広げていったように。内輪で「構造化は正しい」というだけでは、世間はついてきてくれないのです。外部に向かって「啓蒙」するには、戦略と実践が必要です。もちろん別の考え方もあります。なぜそんなにあくせく働かなければならないのか。それは高度資本主義社会への過剰適応ではないか。もっと福祉的な作業所や授産施設でのんびり生きた方が本人の生きがいになるのではないかと。話がそれましたが、何が正しくて何が間違っているかの判断は、実は大変難しい。昨今のTPPにしたって、農協と産業界とでは、意見が真っ二つに割れています。しかしその中で、日本としてはどうするのか、決断を下していかなければなりません。その決定のプロセスが民主主義的であることが望ましいように、教養のあり方もまた民主主義的であることが望ましい、とこの通りではありませんが著者は説きます。すなわち、内向きの論理、タコツボ的世界観から脱して「書を捨てよ、街に出でよ」というわけです。個人の趣味嗜好、「オタク」的知の構築を目指すのではなく、自らを知り、真にこの世界のありようを鳥瞰し、自分と世界をそれに絡めて自らの思想を開拓し、外部に向かって発言し行動し実践する。言うは易し、行うは難しです。そんなことができる人がどれほどいるだろう、と思いながら自然に思い浮かんだのが小林よしのりでした。浅羽氏は「論法鋭く他の哲学、思想をばったばったと斬り捨てて、自らの唯我独尊的正しさを誇示していく」ものとして「最近の小林よしのり」を挙げています。この本が出版されたのが2000年ですから、『戦争論』が上梓されたあとの話なのでしょう。小林よしのりが言論界にデビューした時、そこは「ムラ」でした。まさに浅羽氏説くところの、内輪の論理となれ合いと処世術が跋扈するところの、大げさに言えば魑魅魍魎、百鬼夜行の世界でした。そこに何のしがらみもなくペン一本で切り込んでいった小林さんを、浅羽氏は応援していました。対談などもしています。何より小林さんはギャグ漫画家出身ですから、大衆への語り口を心得ていました。どうすれば相手の琴線に響く表現ができるか、知悉していました。この人は内輪の言葉ではしゃべらない、と評価したのでしょう。しかし、小林さんは浅羽氏の予想のはるか先を行きました。『戦争論』シリーズ、『天皇論』シリーズ、『沖縄論』、そして最近では『国防論』。人は彼を右翼漫画家と呼ぶかもしれません。浅羽氏もそうではないかと思います。しかし事はそう単純ではありません。現に『戦争論』は今も版を重ね続けています。ということは、需要があるということです。説得力がなければ、ロングセラーにはなりません。最近では、『戦争論』を読んで自衛隊員になったという人も少なくないようです。世間の評価は正直です。小林さんは言論界のしがらみにとらわれず、右の意見も左の意見も俎上に載せながら、ビートたけしよりもさらに踏み込んで世間に対して提言しています。実は「幻影の城主」たる浅羽氏がなろうと思ってできなかった姿を体現しているのですが、決してそのことを本人はお認めにはならないでしょう。本当のことですし、自分の城の中にいる方が安全ですから。一読の価値はありましたが、処分本No.211。 教養論ノート (リーダーズノート新書) (単行本・ムック) / 浅羽通明/著
2011.11.26
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【期間限定!エントリーで9/20(火)9:59までポイント10倍以上】【中古】文庫 歎異抄 【10P12Sep11】【画】一部に誤解があるようですが、『歎異抄』は親鸞が書いたものではありません。弟子の唯円が、念仏往生の教えについて、真実とは異なる誤解が世間に流布しているのを歎いて綴った抄録なのです。語弊を恐れずに言えば、プラトンの対話篇のような感じでしょうか。あれもソクラテスが書いたものではありませんでした。原始仏教はもともと自分で自分を救う、自力本願を旨とします。タイやスリランカの南伝仏教は現在でもそうです。一方、中国経由の北伝仏教たる日本仏教の中でも、浄土真宗は他力本願を宗旨とします。不具の家も浄土真宗です。「善人なおもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」はあまりに有名です。ここでいう善人とは、仏の教えに従って、自分で自分を救うことができる強い人を指します。一方、悪人とは煩悩のあまりなかなか仏の教えを実践できない弱い人のことです。遠藤周作の『沈黙』で言えば、善人は踏絵の試練に転ばなかった殉教者、悪人は転んでしまったキチジローとなるでしょうか。心の弱さゆえに 他の宗派の教えについてゆけず地獄行きは必定、と諦めている者よただひたすらに仏の御名を唱えなさい、阿弥陀仏の大慈悲は 必ずやそなたを救ってくれよう。煩悩と宿業の深さに絶望し 自分は到底助からぬ 地獄落ちだと諦めている者よただひたすらに仏の御名を唱えなさい、阿弥陀仏の大慈悲は 必ずやそなたを救ってくれよう。たとえ 念仏を唱えて極楽浄土に行けなかったとしても他宗では地獄落ちは必定と言われてきたそなただ、その時は諦めがつこうというものではないか。業の深き悪人たちよ 念仏は自力にあらず 他力の道なり ただひたすらに仏の御名を唱えなさい、阿弥陀仏の大慈悲は 必ずやそなたを救ってくれよう。へたくそなソネットに要約すれば、浄土真宗の教えというのは畢竟以上のようなものであり、難しくありません。また煩悩を原罪という言葉に置き換えれば、何やらキリスト教にも似ています。なぜならキリストが本当に神の子であったならば、「イエスは決してユダを地獄には送らなかった」でしょうから。
2011.09.16
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【送料無料】田辺聖子の古典まんだら(上)【送料無料】田辺聖子の古典まんだら(下)上下巻で二冊。高校生から大学教養程度の日本古典文学に関する入門書です。紹介されている作品の内訳は、古事記、万葉集、土佐日記、王朝女流歌人の和歌、蜻蛉日記、落窪物語、枕草子(原文ママ、厳密には「枕冊子」)、大鏡、堤中納言物語、今昔物語集、とりかへばや物語(ここまで上巻)、平家物語、方丈記、宇治拾遺物語、百人一首、とはずがたり、徒然草、西鶴の浮世草子、近松の浄瑠璃、江戸時代の俳句・川柳・狂歌・戯作(下巻)。講演内容をもとにまとめたもので、女性ならではの視点から楽しめます。とくに上巻はお奨めで、日本版「シンデレラ」たる落窪物語の粗筋を、かように魅力的にまとめた本を浅学にして不具は知りません。忙しい受験生も、受験勉強の合間合間にぜひ上巻だけでも読んでほしいと思います。章立てにはありませんが、源氏物語も「枕草子」との比較関連などで出てきます。ということで、本ブログでは古典ではなく教育のカテゴリーに分類しました。
2011.09.14
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著者の主張については、長い副題がすべてを物語っている。問題はそこに至るプロセスである。読者対象を大学受験生とその親に設定しているので非常にとっつきやすい本なのだが、要は、・日本の大学は、ここ60年、つねに改革し続けてきた。・しかしそれは、法制度改革であって、資源(お金)面からの改革には乏しかった。・入試改革は、入りやすく出やすい大学になっただけである。・全入時代というが、学力があっても経済的に進学できない子供も増えている。・欧米諸国の多くでは、授業料はタダに近く、大学新入生の平均年齢も20代~40代である。・教育は個人の利益のみならず、社会全体の利益に資するものである。・18歳主義・卒業主義・親負担主義から脱却し、開かれた大学を目指そうではないかということである。著者のいわんとする「日本的大衆大学」と就職の問題については、たとえばこういう本にも言葉を換えて載っていることなので割愛する。日本の戦後の新制大学の成り立ちと歴史について興味がある人は精読し、忙しい受験生諸君は表紙と目次と中のイラスト及び図表に目を通しておくだけで十分だと思う。失業率が高くなって進学率が高くなった平成ニッポンの大学事情だが、「学ぶ習慣」を身につけておくことは、一生の財産になるはずである。「教育とは、学校で習ったすべてのことを忘れてしまった後に、自分の中に残るものをいう。そして、その力を社会が直面する諸問題の解決に役立たせるべく、自ら考え行動できる人間をつくること、それが教育の目的といえよう」アルバート・アインシュタイン【送料無料選択可!】「習慣病」になったニッポンの大学 18歳主義・卒業主義・親負担主義からの解放 どう考える?ニッポンの教育問題 (単行本・ムック) / 矢野眞和/著
2011.08.30
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ともすれば忘れそうになるが、不具の本職は国語の先生である。それも高校国語の教師である。特別支援学校における知的障害児への教育が嫌なわけではないが、ときどきこういうのを読まないと国語脳が錆びついてしまう。小西さんのいいところは、「言葉」に対して誠実なことだ。古典文法や古語の意味を説明するのに英語を用いる教師がどれくらいいるか。そういったことはまあ措くとしても、講義を聴くようなわかりやすい文体で語りかけてくるその口調は、たいへん親切で、親しみやすい。不具のようにすれてくると、英語も古文も近代日本文学も、現代日本語じゃないんだし、大意がつかめて楽しく読めればそれでいいじゃないか、と読書生活における姿勢は頗るいいかげんなのだが、受験生の立場に立って、論理的に明快に古文の魅力を説く氏の語り口にはいろいろ学ぶことも多かった。夏は受験の天王山、あるいは夏の陣である。基礎ができている受験生は本書を熟読すべし。点を取る技術でなく、古文の世界そのものについて、具体的な理解が得られると思う。また、古文を教える側にとっても本書は有益である。何となれば、「何を」教えるかということもさることながら、「いかに」教えるかということが、すべからく教師には求められるからである。 【中古】文庫 古文の読解【10P02Aug11】【画】
2011.08.12
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これはファンタジーだろうか、SFだろうか? それとも児童文学だろうか?それともそういうものを全部ひっくるめた哲学の入門書だろうか?そうでもあり、そうでないともいえる。頁を開くとソフィーという主人公がいて、彼女を軸に物語が展開する。ところがいつの間にかヒルデという女の子が出てきて、そのお父さんが書いた物語が、われらがソフィーの出てくる『ソフィーの世界』。ではその本は「現実に存在する」本書と同じかというと、途中までは同じだけれどもその後が違う。ヒルデが読む『ソフィーの世界』にヒルデは存在しないからだ。こうした手法は、SFの愛読者にはフレドリック・ブラウンの『火星人ゴーホーム』やハミルトンの「フェッセンデンの宇宙」でお馴染みのものだ。では作者はなぜこんな手の込んだことをしたのだろうか?ひとつの答えは、「神」についてどう考えるか、という問いを立てるためだ。西洋哲学史の入門書として、本書は分厚いけれどもわかりやすい本だ。ちょっと気の利いた高校生程度の教養があれば、なんなくついてこれるだろう。ところで、西洋哲学の大きな転換点は、やはりイエスだった。それまでのヨーロッパは、ヒンズー教に代表されるインド=ヨーロッパ語的な汎神論の世界にいた。ギリシャ・ローマ神話然り、北欧神話然り。それがユダヤ教、キリスト教、イスラム教という西洋三大宗教によってそれまでの偶像が破壊または追放され、見えざるものを「聞く」文化に変容してしまったという。中世は、必ずしも暗黒ではなかった。キリスト教がギリシャ哲学と折り合いをつける大事な期間だった。であればこそ、ルネッサンスが勃興して、哲学が花開いたのだ。哲学の大きな潮流として、プラトン=ソクラテス→デカルトの合理主義と、アリストテレス→ロック→ヒュームの経験主義の流れがあるけれど、根底にあるのは「神」をどうとらえるか、考えるかということ。哲学書にはあまりなじみのないダーウィンやマルクスやフロイトに各一章を割いているのも、本書の大きな特徴だ。ついでに言うと、仏陀についての言及もある。と同時に、古今東西のファンタジーの登場人物がここかしこに顔を出す。くまのプーさん、不思議の国のアリス、赤ずきん、はだかの王様、マッチ売りの少女、クリスマス・キャロルのスクルージ、アダムとイブ、ノア、メアリー・ポピンズにシャーロック・ホームズの面々まで。これも要するに創造物と被造物の問題なのだ。そしてソフィーはもちろん、「知恵」の暗喩。ところでひとつ気になったくだりがある。引用しよう。「昔は多くの子どもが育たなかった。いろんな病気に耐えられなかったからだ。生きのびるほうが少なかったぐらいだ。近代医学はこの自然選択にある程度ストップをかけた。しかし個体が危険な峠を越す手助けをすると、長い目で見ると、人類全体の抵抗力が弱ってしまう。つまり、長い時間のあいだには、深刻な病気に打ち勝つ遺伝的な条件が低下してしまうのだ。(中略)本物の哲学者なら、これが真実だと信じたら目をそらさずに指摘しなければならない。そこからどんな結論を出すのかは、また別の問題だ」むきになることはない、と思う。いつかきっと、遺伝子工学の進歩がこの問題に片をつけてくれるだろう。 【中古】単行本(小説・エッセイ) ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙【画】
2011.01.08
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1985年刊。つまり今から四半世紀前に出た本である。プラザ合意から、さあバブルになりますよというギリギリの時期にあたるが、バブル崩壊後の今日の「大学冬の時代」を冷酷に予言していたようで、手垢がつくほど何度も読み返しながら、いまだに手放せないでいる。本書で唯一外れたのは「お医者さんが余る時代がくる」というくだりくらいで、それだけ急ピッチで日本が少子高齢化社会に突入したということなのだろう。
2010.04.03
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5歳から16歳までの子供にしか使えないのが欠点といえば欠点だが、学齢期の児童生徒向けの心理検査としてはぴか一だと思う。これに比べるとビネー式知能検査はただの数値でしかない。IQは全IQと言語性IQ、動作性IQに分けられる。ただし第4版では言語性IQも動作性IQもない。日本で訳されているのは(標準化されているのは)第3版までなので、今のところどちらの指数も出さなければならないが、児童生徒のプロフィール分析に際して本当に役立つのは群指数と下位検査項目の解析である。もちろんその道のプロではない学校の先生が模範どおりの検査を行うことは難しいが、ひとつ有利な点がある。普段からその生徒と接触していて予備知識がある、ということだ。多少の誤差はやむをえないとして、あとは日常の経験で補正すればいいだろう。ただしそのためには、3つのIQの指数を出して、それで満足してしまわないことが肝要である。-------------実をいうと、この本の著者の一人は不具の昔の先生であって、しかも不具はあまりいい学生ではなかったので、必要に迫られて恐る恐る紐解いてみたものの、本書を十分に理解したとはいいがたい。それでも生徒の様子を思い浮かべながら、p27~p32、およびp46~p47の表をたよりに解析してみると、かなり確かなプロフィールが浮かび上がった。群指数、恐るべしである。WISCー3アセスメント事例集
2010.02.13
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一国語教師として、不具はほぼ全面的に著者の主張に賛成です。国語の本は日本人としてのアイデンティティと日本語への愛着を高めるものでなければなりません。「学年別漢字配当表」より総ルビを。歴史的仮名遣いを見直せ。まったくそのとおりだと思います。さて、この『読本』は、低学年用と高学年用に分かれています。どちらも古事記、日本書紀、平家物語、太平記などに典をとって小学生向きにやさしく書き直したもの、また民話や説話の類いも多く収録されています。『注文の多い料理店』『蜘蛛の糸』『杜子春』『走れメロス』『高瀬舟』などの近代文学や、人情ものの落語「芝浜」、狂言「附子」などもあって笑いを誘います。高学年用では『方丈記』『徒然草』『枕草子』『奥の細道』の冒頭なども紹介されていて、まるで中学の教科書のようですが、副読本としてなら、不具は別に早すぎるとは思いません。低学年用で個人的に印象に残ったのは「光明皇后」「仙崖和尚」「勝海舟」「埴輪の起こり」「幼きものに」(島崎藤村)、高学年用では「柿」(夏目漱石)と「教育勅語」です。最後のを見て、また著者が防衛大学校出身であるのを知って、中には眉をひそめる向きもあるかもしれません。けれども先入観を捨てて読めば、教育勅語もまた善きものだと思います。なお、不具は決して民族主義者ではありませんが、愛国心は大事にしたいと思っております。あしからず。日本人を育む小学国語読本(低学年用)日本人を育む小学国語読本(高学年用)
2010.01.11
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名著『知的生活』からおよそ10年後に著された姉妹編。書いてあることは常識的というか温厚というかさほど目新しいことは書いてないけれども、古臭くもなっていない。文は人なりという格言があるが、内容よりも文体のほうに人柄が表れており、翻訳を通してもそれを感じることができる。知的生活を志す者にとっては永遠の友であろうと個人的には思う。19世紀末という時代を反映してか、宗教と科学に関する章が多い(12章、13章、14章、15章)。またイギリス人の特異性や島国根性についての記述などは、まるで日本人について書いてあるかのようである(16章、17章)。愛国者に特有の無知(19章)についてはついに「4」まで出た『嫌韓論』を思い出す。あのヒステリックな論調にはついていけなくなって、「2」以降とうとう読んでいない。小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』の方がまだエンターテイメントとして楽しめるし、作者にも余裕がある。そんなことを連想してしまった。匿名の手紙の功罪、とくに罪の方について(25章)は、「不幸の手紙」や被差別部落への陰湿な嫌がらせを思い出すだけで十分だろう。不具はむしろ時代を超えたハマトンの普遍性に感心してしまった。しかし何といっても高尚なボヘミアニズムについての文章(21章)がすばらしい。ヒッピーを先取りしたと言うわけではない。読んでいて、知的放浪者・隠者の生き方として、わが第二の人生の理想としたいくらいありがたいと思ったからである。…
2009.05.08
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本書はいわゆる読書論ではない。実際的な読書技術を読書人に伝達するために書かれた本である。いわゆる読書には三種類ある。楽しみ読み、調べ読み、考え読みだ。著者が説くのは最初のものを除くあとの二つ、就中後者を念頭に置いたものである。要約と所感。レベル1:初等読書。日本でいえば、教育漢字を習得して新聞が読める程度。最近日本の大学生の学力低下を嘆く本が多く出版されているが、戦前のアメリカですでにそのような問題が起こっていたというのに驚いた。レベル2:点検読書。定め読みというか、本の品定めの技術が説かれる。本の表題、目次、索引の活用法について。自分にとって不必要な本を排除し、内容のあらましを知る技術が説かれている。レベル3:分析読書。ここでは著者を師匠として本に食らいついていく姿勢が求められている。まず読み通すこと。注釈は通読したあとで目を通すこと。批評は論理的に行うこと。著者とけんか腰にならないこと。言い換えれば、本と対話できるように、自らを高めることが語られる。辞書や百科事典はコンピュータにすぎないこと。小説は体験に学ぶものであって、教養書とはまた違うこと。レベル4:シントピカル読書。比べ読み、と言えばいいのだろうか、複数の関連する書物を比較検討して自分なりの判断を纏め上げることが肝要であると著者は説く。要するに知的生産技術の基礎のことなのだが、ここまで必要なのは学士以上に限られると思う。結論。本書は小説ではない。教養書でもない。実用書である。以上。本を読む本
2009.03.29
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副題は「子どもへの指導方略を見つける方程式」。表題から受ける印象ほど難しい中身の本ではありません。図書館にいろいろある特別支援教育関係の書物の中で、現場の教師にとってもっとも実践的に役に立つ本だと思いました。もうすでにいっぱいコピーさせていただきましたが、正式に採用が決まったら購入するつもりでここにメモを残しておく、今日はそれだけの日記です。
2007.12.21
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やっと遠方の図書館から待望の本が届いた。開いてみると前半三分の一は新潮文庫の『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』と同じ内容だ。それもそのはずで、手にとるまで知らなかったのだけれども、この本は『わたしの生涯』と『濁流を乗りきって』の合本だったのだ。ちなみに訳者の故・岩橋武夫氏は中途失明者だという。嗚呼。新しく読んだ部分を見るところでは、ヘレンは生涯純潔だったらしい。だがそんな彼女にも青春のロマンスはあったようだ。残念なことに周囲の反対にあって芽が出る前に頓挫してしまうのだけれど。相手の青年がどんな人であったかは、他の資料に当たらなければなるまい。そもそもヘレンに結婚を勧めたのは電話の発明者グラハム・ベルであった。元を正せば彼との出会いによってアニー・サリバンがケラー家に派遣されることになったのだから、女史にとってベル氏は恩人である。氏はまた聴覚障害者教育の父でもあった。もっとも手話を排し口話法を強調しすぎたきらいがあって、個人的にはあまり好きになれないのだけれど、善意の人であったのは間違いないと思う。アニー・サリバン。ヘレンはサリバン先生を著書の中で『こころ』の話者のようにつねに「先生」と呼んでいる。女史が不自由ながらも「ものが言える」ようになったのは、もちろん彼女の超人的な努力の賜物であるけれども、アニーの献身的な教育的奉仕あってのことだった。本書を閉じるにあたって、この偉大なる奇跡の人はまるまる一章を先生のために捧げている。それだけ二人が一心同体、二人三脚で濁流の中を泳いできたという証左なのだろう。ヘレンの交友関係は幅広い。喜劇王チャップリンや同じ聴覚障害者エジソンとのやりとりも面白いが、戦前アジア人でただ一人ノーベル文学賞を受賞したインドの詩人タゴールはヘレンにこう語ったという。「西欧諸国は無理矢理にシナに阿片を飲ませようとして、いやだといえばその国を奪い取らんとしているのです。アジアはこれに対し、軍備を整えてヨーロッパの心臓部をつかんとしているかと思えば、イギリスはハゲタカのようなその戦艦のために、太平洋岸に営々として巣を造っているのです。極東の日本はすでに目覚めて立ち上がりました。シナとてもやがては盗賊どもがその城門を破って押し入ってきたら目を覚ますでありましょう……」読んでいてもっとも心温まるのは、マーク・トウェインとの交流のくだりである。トウェインはヘレンに言う。「大地という書物は実に驚くべき書物です。それを読む時間がほしいと思います。若い時分から始めていたら、今ごろ第一章くらいは読了していたでしょう。ですがもう手遅れです」。目が見えないから、耳が聞こえないから人がわからない、自然がわからないということはない。すべては教育次第なのだということを、ヘレンの本は教えてくれているように思う。ごく少数の人を除けば、ヘレンは人間である前に「奇跡の障害者」として世間に遇されていたようだ。けれども、その著書を読む者は、書き手が盲聾者であることをしばし忘れてしまうだろう。それくらい、人や自然に対する彼女の表現は的確で玄妙である。なるほどそれらの大部分は書物によって得た知識やサリバン先生の通訳によって涵養せられたものであるかもしれない。だが一体、晴眼者や健聴者のうちで想像力という眼鏡や補聴器をかけずに世界を見る者がどこにあるだろう。それにしてもヘレンの描くアメリカの盲聾者の多種多彩なこと! あえてそういう人たちばかり選んでいるのかもしれないが、日本の盲聾者はもっと暗いだろうな、と偏見の目をもって眺めたくなってしまう。そうだ、忘れてならないのは、ヘレンもまた全身でこの世界を享受し、観察し、評価していたということだ。世間の人は彼女が自分自身のことを語る限り、健常者の感覚にはない珍しいものを鑑賞するようにおおいにこれを歓迎した。だがひとたび彼女がこの世界のことについて自分の意見を語り出すや、「女のくせに」「盲聾のくせに」という反応が、あからさまにとは言わぬまでも伝わってきたらしい。世間知らずは黙っとれ、というわけだ。ひとつには女史がアメリカ人でありながら社会主義者に「転向」したことも関係しているのかもしれないが、それにしても侮蔑的だと感じずにはいられない。ハーバードを卒業した後も、ヘレンに就職先はなかった。彼女はもっぱら著述と講演でかせぎ、それでも足りない分はカーネギー財団の「年金」に頼り、時には映画に出たり寄席芸人になったりもした。少女時代お転婆だった女史は、年金生活より芸人であることをおおいに楽しんだようである。ヘレンが単に盲者か聾者であったなら、仕事は他にもいろいろあっただろう。事実、フォードは当時から大勢の盲人を雇っていたそうである。ひるがえって日本のトヨタはどうだろうか?『わが指のオーケストラ』の読者なら知っているだろうけれども、だからヘレンは決して裕福ではなかった。著書の中で自ら語っているように、貧乏といって悪ければ質素な暮らしぶりであった。にもかかわらず彼女は社会福祉事業に対して「ケチ」だと、一部の人たちから陰口をたたかれたこともあったという。だからこの奇跡の人はしばしば弁明しなければならなかった。「わたしはしないのではありません。したくてもできないのです。生きていかなければなりませんから」。最後にもうひとつ、ヘレンの言葉を引用してこのつたない読書感想文のしめくくりとしたい。「私たちは、分相応の仕事を与えてくださいと祈るのではなく、私たちの仕事に相応し、大きな望みに燃え、遥かなる目的に向って雄々しく進みうる力を与えてください、と祈るのでなければなりません」。
2007.12.18
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アメリカの高校の先生は大変だ。人種、民族、家庭環境、さまざまな生徒たちを相手に日夜格闘しなければならない。中にはクスリをやっていたり、暴力沙汰の絶えなかったり、大きなお腹を抱えて学校に来たりする子どもたちもいる。それでも海兵隊あがりの度胸と確かな実践力で一癖も二癖もある生徒たちの心をつかんでいく。つくづく教育の基本は愛なのだなあと再認識させられた。ところでこのノンフィクション、カエル面の美人女優ミシェル・ファイファー主演で映画化されたそうだ。そう、ルアン先生は○ッシー先生なのでした。
2007.11.28
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障害者のくせにこの歳になるまでヘレン・ケラーの『わたしの生涯』を読まずに生きてきました。ひとつには彼女が盲なのに字を書くことができ、聾なのに話すことができた、という「特殊性」にあります。もちろんそれはサリバン先生との二人三脚で成し遂げられたわけですが、しかしヘレンを三重苦と呼ぶのは、肢体(四体)不自由の乙武クンを五体不満足と呼ぶのと同じくらい、個人的に違和感を覚えます。二人とも脳は無傷だったのですから。もちろんそういう本が健常者及び障害者に与える影響と価値については否定しませんけれども。第二に、回想記にはどうしても時間の靄がかかります。その点本書はその時その時のサリバン先生の記録ですから、一次史料としてより信頼できます。前置きが長くなりましたが、これはなかなか有益な本でした。以前映画『奇跡の人』を観たことがありましたけれども、映画では最後のクライマックスシーンのためにヘレンの野生児ぶりがかなり誇張されています。サリバン先生の記録によると、ヘレンとの出会いから「ウォーター」の奇跡までわずか一ヶ月。しかも離れから戻ってきた後のアニーとヘレンの関係、およびケラー夫妻との関係は映画よりずっと友好的です。ということで『奇跡の人』は事実をもとにしたフィクションだということがわかりました。ところで、ヘレンの自発性を尊重するサリバン女史の独創的な自然教授法は、誰でも真似できるものではないかもしれませんが、確かにひとつの理想の教師像ではあります。この次は『わたしの生涯』でも読んでみましょうか。案外『五体不満足』と同じように楽しめるかもしれません。
2007.11.19
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親の仕事の都合で外国に子供を連れていくのはいいが、気をつけないとその子はどこの社会にも適応できなくなってしまいますよ、という本。著者自身海外帰国子女のはしりだったこともあって、なかなか説得力のあるルポルタージュである。話すのは苦手だそうだが、父親に鍛えられたという日本語文章の骨格はしっかりしている。お話は適応に疲れたある海外帰国子女の自殺から始まる。その後の展開はルポルタージュというより良質の私小説を読んでいるかのような感もあり、なかなか興味深い。不具は海外帰国子女ではないが、中学まで通っていた養護学校とその後の普通高校とのギャップに苦労したことを思い出した。…不具は今でもある意味では異邦人である。処分本NO.148.
2007.11.05
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京都大学の数学のセンセイによる中学生のための人生論。お説教クサクナイ好著ではあるけれど、自分にはもう必要ない本なので処分本NO147に認定。
2007.10.31
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有名なインドのアマラとカマラに関する唯一の本。暗闇で目が光った等生理学的に信じがたい話もあるが、全体として真実味に満ちている。彼女達を自閉症だったという人もいるが、自閉症者は人にさわられるのを嫌うことが多い。また社会性も育ちにくい。二人の野性児の場合はどうも違うようである。今回どうしようか迷ったが、処分は見送ることにした。
2007.10.30
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読んでいただければわかるのですが、決して悪い本ではありません。就中日本の近現代の教育史の論考についてはよくまとまっています。しかしそれにもかかわらず、処分本NO140に認定します。問題のひとつは表題にあります。「入門」などという看板が掲げてあると、たいていの人は公正中立な書物だと思うでしょう。しかし実際はどんな本であっても著者の主観や世界観に貫かれているものです。この本の場合、哲学はふたつあります。ルソーの自然主義とマルクスの共産主義です。要するに(岩波自体が良心的左派出版社なのですが)左翼系の教育観に彩られていまして、日教組なら大喜びする内容でしょう。ルソーの自然主義は結構です。しかし母性を絶対視する彼の哲学は、フェミニストにとっては「敵」です。そこまでいかなくても、男女共同参画社会を目指す日本の将来像にそぐわないことは確かなのですが、先生はそういうことを一切口にしません。またマルクスの思想にもとづく民衆の教育権、学習権という発想自体は評価できますが、では究極の学習権として障害児教育の話がでてくるかというと、これも一言もありません。どうしてでしょうね。まさか「働かざるもの食うべからず」というわけでもないでしょうに。また確かに日本の近現代の教育のあり方にはいろいろ問題があったかもしれません。しかし日本は戦前の弱肉強食の時代のなかで列強の植民地になるよりも植民地をもつ列強になる道を選択しました。列強か植民地か。その中で苦渋の選択を迫られた明治人への思いやりが、もう少し行間にあってもいいと思うのですが。いささか辛辣なものの言い方をしましたが、はじめに申し上げましたように、決して悪い本ではありません。というより、聖書も含めて、すべての本は読みようです。完全な書物などありません。にもかかわらずこういった本が岩波というだけで信用されて、一方では小林よしのりさんの本が「過激」だというイメージが先行して敬遠されます。ああ馬鹿らしい、と自分なぞは思うのですが、しょせんごまめの歯ぎしりなのでしょう。
2007.10.18
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